伯  耆  河  岡  妙  本  寺

伯耆河岡妙本寺/伯耆具足山妙本寺

伯耆河岡妙本寺概要

2017/07/25追加:
○そもそも河岡具足山妙本寺の存在を意識したのは次のKG氏からもたらされた情報であった。
 日蓮宗宗務院2016年10月11日認証で下記寺院が単立より日蓮宗に所属する。
  鳥取県米子市河岡605−1
   具足山妙本寺:大覚大僧正創建で、現住職が40世(尼僧)
上記の情報を含め、Web上には一切情報がなく、山号といい、大覚大僧正創建といい、既知の情報では理解できない寺院と思われるので、問い合わせたところ、寺歴については「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 を参照すべし、との教示を頂く。
なお、2016年に日蓮宗に所属したのは、昭和30年代に日蓮宗を離脱し、つい最近、日蓮宗に復帰したということであるとの説明であった。
○伯耆具足山妙本寺に関する一般書は下記に記す「妙本寺誌」であるが、大著でかつ少々難解であり、論点が多岐に渡る。
「妙本寺誌」に従えば、おおよその概略は以下の通りであろう。
 開山は日像菩薩、開基は大覚大僧正、開山・開基の詳細な年紀の根拠は不明。
伯耆河岡妙本寺の創建の地にあった草庵は大覚大僧正の隠棲の地でかつ終焉の地という。
 承応3年(1654)伯耆妙本寺寶珠坊日應、妙顕寺僧堂に在りし時、妙顕寺像門僧徒で教義差異論争あり。所謂、不受不施と云われる教義主張で対立する。寶珠坊日應僧衆と共に、師であり妙顕寺16世日豊に不受不施古来からの祖義と抗し、僧堂退出、伯耆妙本寺に下向し、日豊邪義曲解非道と論攻する。
 日豊は山号寺號停止、門弟絶縁(住職追放、僧衣剥奪、門弟破門)で対抗する。かくして、伯耆具足山妙本寺は川上山妙春寺と改号する。
寛文5年(1665)不受不施、幕令禁札となる。
元禄4年(1691)悲田宗、幕令禁札となる。
妙春寺は表向き存続するも、不受僧は潜伏し、伯耆国内外に「18ヶ所の草庵」を構えるという。
その各地の草庵を支えたのは内心を続けた幾多の信徒で、供養田と称する田畑がその経済的基盤であったという。
明治16年妙顕寺52世日耀、旧称寺號復称聖跡認証す。かくして、具足山妙本寺と復称、大覚大僧正聖跡と認証さる。

2017/07/25追加:
○「角川日本地名大辞典 鳥取県」角川書店、出版年1978〜1990 より
近世:河岡村の項
河岡村の寺院には法華宗川上山妙春寺があり、元は京都妙顕寺の末寺であったが、明応4年(1495)米子感應寺の末寺となったといわれ、本尊は釈迦如来。
とある。
 ※しかし、米子常住山感應寺の創建はたかだか慶長5年(1600)と伝える。それなのに、明応4年(1495)に米子感應寺の末寺となるとはありえないこと であろう。
 → 米子感應寺参照


2017/07/25追加:
「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より

◆由来
開山:日像上人
開基:大覚大僧正
大覚大僧正の晩年在住僧坊であり、終焉の地が往古草庵の当山である。(いつ京洛妙顕寺を退居されたか、資料はない。)
大覚大僧正は貞治3年(1364)<正平19年(1364)>寿63歳で示寂。妙顕寺歴代譜では世寿68歳といい、相違する。
 創立:正慶2年(1332)
 創建:建武元年(1334)
   ※創立・創建の年紀の根拠は良く分からない。
但し、寺伝とは物語である。要するに全て虚構である。もっといえば、統治者の領国支配と民衆収拾の思惑と寺院の自己保身の思惑とが一致したところに成立し得るものなのである。
 ※大覚大僧正の終焉の地であり、開基も大覚大僧正と云う。
  ○「第650遠忌記念 大覚大僧正」 では次に様に云う。
 貞治3年(1364)4月3日、68歳で化を他界に遷された。
 同時代の「師守記」の貞治3年4月3日の条に「今暁四条大宮法華堂長老入滅<年68>云々。」とあり、
 「常楽記」の貞治3年4月条には「大宮法華堂坊主頓滅。<大飲沈酔云々。>とある。
 「龍華歴代師承伝」では「吉祥にして逝す」と記すのみであるため、後世様々な伝承を生むと思われる。
 その日の朝まで備中に弘教し、同日中に帰洛して遷化、あるいは神仙の通力によって天に昇る、あるいは白馬に跨り渚を遠くに行く、
 あるいは西山の「うしくぼ」に廟所がある、あるいは山口本圀寺より帰洛の途中備中軽部で遷化、
 あるいは河内龍泉寺の尊性法親王の石塔が大覚大僧正の墓であるなどといわれる。
 しかし、大覚大僧正の遺骸は日像上人と同様に深草で荼毘に付され、同所に埋葬されたものと思われる。
 墓塔は深草宝塔寺の歴代墓所に建立されている。
  ○「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮、昭和49年 では
 「康安元年8月23日、沙弥一妙に授与の御本尊を最後に示寂までの四ヶ年間の足跡記録は、何れの参考本を調べても見当たらない。
 御入滅の場所並びに日時は確定的な記事もないが、伝えられるところによると、貞治3年の春、後醍醐天皇の御陵に参拝の途中
 河内龍泉寺にて4月3日急病のため示寂し給ふと記録されてある。68歳也と。」

◆明応年間離脱
 往昔、明応4年(1394)京都妙顕寺を離脱したと書にある。
角川「日本史記」、「伯耆誌」、「民談記」にも同様な年紀が記されている。
しかし、妙顕寺より当山が離脱したのは享保20年(1627)と思われる。但し、享保20年という年紀の確証はなく、あくまで仮説である。
年号不詳の妙顕寺智堅院書状がある。これには「(当山18世)宝琳院(日應)心得違いの事」とある。
 ※日應は万治3年(1660)の寂である。
いずれにせよ、明応年中の離末の誌は公史にあっても没とする。
 ※なぜ離脱が享保20年と思うのかの根拠は示されず、よって享保20年の根拠は不明である。

◆寺跡地の情況
創建より移転は5度を数える。
 ※妙本寺寺跡地関係図:国土地理院地図 上に、青字で、妙本寺移転個所に関係する地名を示したものである。

1)創建地は、現在岸本町内に属する日野川左岸の高岳山地である。
 14世円妙坊日運(慶長8年/1608遷化)書文中に「大寺南8丁ノ地、覺師開創寂跡地也、岩盤台岳ノ山腹ヲ登ル小路平地ガ在リ是草堂跡、覺師六代大徳碑東方向並ブ段丘ニ現存。」供養五輪塔は当山に移転する。
大正期には廃村屋敷跡が並ぶ。金廻草庵が昭和2年まで存在していた地である。
 ※「高岳山地」とは現地不案内に付不明であるが、「大寺南8丁」の地が創建の地と知れる。
 ※金廻(地名があり)草庵が昭和2年まで残るとは、近世、不受不施が禁制となったとき、地下に潜ったあるいは偽装した組織の拠点として、この草庵は機能していた可能性がある のかも知れない。
坂長廃寺(※坂中廃寺)跡大殿村より日野川上流直線に旧道小野・小町に行く街道がある。雑木竹林に覆われて、平地は屋敷跡だが、田畠となる。
「開創大覚大徳之草庵遷化跡日運立慶長二丁酉四月三日」、標柱石ではなく街道崖岩に彫刻があった。昭和45、6年の日野川流水に崖崩れ落ち行方不明。(以降探索するも発見できず、再建に至らず。)
寛永9年に台岳に用水路掘削難工事、・・・・。
 ※妙本寺の移転したこの地には古代寺院跡が2個所知られる。
 伯耆大寺廃寺伯耆坂中廃寺である。いずれも塔心礎を残し、この地が古代から先進地域であったことを示す。

2)移転は尾高岳台地、石田地区から岡成地区に登る旧道台地である。尾高城跡に属する。
・・・傾斜地段々田畠地となり・・・痕跡は一切見当たらない。

3)移転は岸本町久古山岳、西北に要害跡、岸本城砦跡西鬼門の台地が寺跡である。
山頂標高73m崖下40m、断崖上は平坦地で要害砦跡と云う。
この要害は播磨三木別所氏の砦とも云う。
しかし西伯耆戦乱期守備砦があったとすれば、要害を陣営にしたのは在地武士地頭の黒正(こくしょう)氏である。
旧前の砦跡を修復砦陣にしたと思うこの台地西南に、如何なる僧坊があったあったのかは推測をし難い。
砦城の鬼門方除と防護とを兼備えさせたのであろうか。
かくして、僧坊は戦塵を避けて村落に移るという訳で、河岡台岳山森地に移転する。

4)移転は河岡台岳山森地である。
坊は戦塵を避けて村落に移る。山岳にあった近隣の寺院も、一応に村里にこの頃より移転する。
河岡台岳山森地と附文があるが、この地は前方後円墳が築かれていた年劫で森林となり、河岡山と称されていた。
慶長4年(1599)14代円妙坊日運、自然石で題目塔を建立。旧参道、通称墓道、頭部まで流砂に埋まる。重機を持ち込み掘り出す。年紀は慶長4年、題目下に日運と刻む。前部地中台石部に一石五輪塔が埋まっていた。年紀は慶長2年、各輪に妙法蓮華経と一字毎に彫り込み、妙泉と刻する。・・・場所は河岡JA店前と聞く。この地四角四方積が当山旧寺跡、地区檀徒の境外墓地となる。
 ◆檀信徒
 河岡台地に移転した山主は11代妙春院日眼である。壇越は天王寺屋木下氏である。

5)移転は河岡城主館上屋敷現在地である。
「寛永12年(1635)8月大洪水、寺地上方に佐陀川転流。流砂地を洗い草庵倒る水深7、8尺」
河岡台山森地から現在地への移転は上述のように佐陀川の氾濫であった。

◆当山開檀史誌
 史誌(「民談記」「伯耆誌」か)曰ク、
「川上山妙春寺 法華 米子感應寺末
旧京都妙顕寺の末寺なりしが檀頭船越九郎右衛門(九郎右衛門ではなく九郎左衛門であろう)、議を発し、5代宝琳院日應の時、感應寺の客末となりしと云えり。」
5代宝琳院日應とは寺歴18代寶琳坊日應である。これで見ると前歴代13代は除歴である、5代前は寺歴14代圓妙坊日運である。開山に推定されそうな筆録であるが、なぜか開山上人と年紀は伏せてある。
 さて、別に船越九郎左衛門日賀という人物がいて、九郎左衛門日賀に授与された本尊がある。「承応2年(1653)、妙顕寺16代日豊・花押、真寶院宗琳日賀信士、本尊一幅、(以下略)」とある。
船越家系譜を調べると、当然、九郎左衛門日賀は船越家の同族なのである。
九郎左衛門日賀は妙顕寺僧堂に入り、修学徒から入道居士となり、門弟僧となった人物であり、師僧は妙顕寺16代日豊である。日豊から授与された本尊の戒名「真院宗日賀信士」の茶色の字を抜き取ると寶琳院となる。この者は日賀を廃して日應と改号したとも思える。だとすれば、この者が寛永12年流倒後を再興した当山中興18代日應なのである。要するに檀頭と住職は同じ家筋の人物であり、いわば妙本寺は同族経営であったのである。

◆開檀なるべし
 承応3年(1654)寶珠坊日應 妙顕寺像門僧徒で教義差異論争あり、妙顕寺日豊僧堂に「教義一致、国守の施物は国情治政に生ずる。信なくとも摂受すべき法治制度である」と布告。
「国守たりとも信なき施物は法務で受け取るべきではなく、信なき国守に誘かれても行くべきではなく、法を施すべきではない。」俗に、不受不施と称される教義主張で対立した。
 日應は僧衆と共に不受不施古来からの祖義と日豊に抗し、僧堂退出。伯耆妙本寺に下向し、日豊邪義曲解非道と論攻する。この時に山号寺號停止、門弟絶縁(住職追放、僧衣剥奪、門弟破門)を妙顕寺日豊は僧徒の寺々に発布する。僧衆は議し、寺號返上、寺號を改名して妙顕寺日豊に対抗する。
この対抗処置は、寛文年中以降は法度となるが、承応年中では可能であり、この時の寺號改名が「川上山妙春寺」である。
 同族で寛永12年流水転地寺地買取り本願の天王寺屋、再建本願の稲葉氏・周山氏は異を唱え、天王寺屋は尾高に妙源院を、稲葉氏は淀江に本妙寺を、周山氏は八幡に要玄寺を建て宗義を離れる。
 ※要玄寺・本妙寺とも現存が確認できず。なお、八幡には臨済宗要玄寺が現存するが、この臨済宗寺院であるのかどうかも不明。
 ※妙源寺は天王寺屋木下氏の分族が寺跡名号を持って、寛永期に備前へ移転している。
 現在尾高にある一心庵跡があるが、この庵跡が妙源院(妙源寺)の跡地と推定される。そして一心庵(跡地)は現在部落中にある
 一心堂という堂宇のある地点という。ここには一心堂とその付属施設と思われ施設がある。
本願船越九郎左衛門と九郎左衛門家筋出身の日應は本寺妙顕寺とは別の道を選んだのである。
 前項、「明応年間離脱」の項で、「年号不詳の妙顕寺智堅院書状がある。」と述べる。これには「九郎左衛門心得違いの事」と誌す。これには正保2年(1645)と記す。
 移転寺地は天王寺屋木下四郎左衛門正道が寄進する。旧河岡城主館跡の現在地である。
明暦元年(1655)妙顕寺日豊は幕命で顕山17世を隆源院日延に譲り、池上本門寺19世に転出する。
 寺號復称認可は明治16年妙顕寺52代福田日耀下向し、旧古復称と本末復帰の書状を誌し残す。
寛文元年(1661)日豊は不受不施対策を江戸より幕府に出訴する。当山の長い隠れ信仰の歳月すべて是より発する。

◆近世沿革
26代朝宣院日英:幕禁不受不施僧と備後(備中?)頓原にて追補、隠岐に流罪、宝暦7年(1757)寂、当山出寺無宿。
27代領直(真)院日近:同義で江戸送り八丈島流罪、船待ち牢中で安永6年(1777)断食寂、当山出寺無宿。
30代是春院日聞:像佛堕獄、造立邪義主張、異義僧と追補日向流罪、享和元年(1801)寂、当山出寺無宿。
33代唯圓院日遵:同異義僧、追補日向流罪、天保2年(1831)示寂。出寺無宿。

◆伯耆誌 安政六年編纂
 御崎大明神(現御崎神社、現妙本寺北側に存在する)は当山の鎮守である。
鎮守社祭神は法華守護鬼子母神十羅刹女、七面大明神、三十番神の尊儀である。神仏分離による引き渡しで講中が妙本寺本堂右壇に移転する。

◆山号で知る寺縁起の原点
鎮守社神体の背裏と台座に墨書銘が残る。
七面大明神尊儀の台座誌文
「伯州会見郡河岡村川上山妙春寺鎮守社
  寺檀安全 令法久住而巳
 開眼導師 慈廣山八世 観行院日教・花押」
ここにある「慈廣山」という山号は何か、それは米子感應寺の開山以来呼称していた山号なのである。
勿論現在は常在山と呼称しているが、山号は改号されていたのである。
感應寺16世智寂院日真、宝暦4年(1754)示寂、が慈廣山を改め常住山と公示制定している。
京都松崎檀林正東檀林と両檀林の化主であった。
 妙本寺が妙顕寺日豊と再度対決し、造仏堕獄造立邪義で義絶、背後指導は感應寺日真と思える。檀林学閥が法縁住寺僧の原点、寺主は学長と学徒の関係で結ばれる。
 妙本寺が実質的に米子感應寺と客末という関係を成立させ、公史にこの時代から文筆に残る。

◆妙顕寺最後の書状
 「御開山縁故元弘二年壬申(1332)日像菩薩、大覚師終焉聖跡也。
 承応三甲牛(1654)異義義絶申状被者任御指図事、寺號停止之儀門流衣鉢分限不相應之事、明暦二丙申役者日應豊師門人心得違反也
 元弘三癸未三月五日、護良親王竜華上納令旨深甚嘉納、紫衣免許折紙附書別封云々
      伯耆国 具足山 ■■■■
          四海唱導廿世日耀・花押
 元禄四辛酉(1691)四月十五日」
       触書
 元禄三牛正月七日  日耀・花押

 日像菩薩三百五拾遠忌四月十日より七日間妙顕寺遺戒により修す。上洛檀信徒協議して登山する事、近年五畿内末寺で遠国不参である。評議音信なかったら過料に付す。云々
 これは、像門末寺異義僧への踏み絵であり、法義確認の調査と門流統制を兼ねたものであろう。
過料に付すとは寺社奉行扱いにする意であり、寺社奉行は藩庁行政武家が下す判決で、当然に刑罰を伴う。(現代の罰金の意とは相違する。)
過料状を受け取る僧は、無宿となり、出寺して、行方跡を晦ます。ただ、過料とは本山が僧に与える慈悲で、内容は一国所払いであるが、逃亡せよが本意である。

◆禁教 不受不施
 18代寶琳坊日應は、承応3年(1654)「大本山四海唱導像門流は、不受不施法義が宗祖門流の法門」と唱え、妙顕寺日豊と教義の勝劣を争い、異差離脱で、檀林学僧10人中6人、像門流の門末寺280ヶ寺中110ヶ寺と義絶する。当山は論議首謀と寺號停止、日應は日豊に門弟義絶さる。
 義絶寺院主は像門正統を呼称し、同盟約を結び、檀信徒に登山参拝堕獄、本山無間の攻撃をする。幕命で池上本門寺に転じた日豊は、身延と結合し、公儀に訴え、「異義門不受不施」は公儀の害毒と攻撃する。
「信なき施は受けず、施さず」というのが宗義であり、それは一般信徒はもとより、王侯と雖も例外ではなく、特に国主との軋轢が増すにつれ、それは強調された。
かくして、不受不施は、身分社会制定する幕政と対立しその障害となり、天下の政道に異端となる。
寛文5年(1665)幕令禁札となる。(公儀御法度 禁教 不受不施宗と公示される。)

◆禁教 悲田不受不施
 一般信徒は不受不施を厳守するが、王侯・公武は、施は政道御威光の慈悲の施しである。慈悲を説く教義の外護供養である施物としてではなく、供養として受け取ると論説を立てる。
 幕府・領主に、寺領・寺禄の給付を行政施物とせず、供養施物として受け取りの手形を差し出した。
これは書き物をした不受不施と云われる。宗義では供養悲田と称した。
元禄4年(1691)幕令禁札となる。(公儀御法度 禁教 悲田宗と公示される。)

◆論議と抗争
論告:大地草木流水含宙一切これ幕府の所領にして公儀下知給する領分の施物である。
対答:住地飲水草木一切これ天与の施物なり。教主法界唯一人我が有と示す。
 主義相違が政治問題化され、内部抗争となり、宗教一揆団結を危惧する幕政とも抗争する。
為政者は、まず異質な価値観の排除が必要であった。
 ※まずは為政者から介入があり、その介入を契機に、宗義の対立が先鋭化する。
 現実主義か理想主義かとの観点からみれば、現実主義者は為政者に法裁による処断を求める。
現実主義者は政治的僧侶と化したのである。
 異物排除を・・統治者に求めることは、教義で惨敗した劣勢を、統治者の権力で糊塗し、統治者の権力と一体化することで、自らが禁圧する側となったことを意味する。もはや僧侶ではない。封建権力の一部と化したのである。

◆現代で眺めた解釈
 禁断の対象であった切支丹と共に、不受不施信仰が邪宗門として禁圧された理由は、幕府を奉ぜね寺院であったことによる。法華信仰を持たない者に対して、その供養も受けないし、法も授けないということである。

◆幕府公儀法度布告禁令大成令
     寛文5年7月
 曰、流水 山野 田畠 道路 挙手 置足 一飲一食悉くこれ公儀の施物である。受取手形を書いて差し出せ。
 今度御朱印頂戴仕候儀 御供養と奉存候、不受不施の心得とは各別にて御座候 其の外 飲水 行路 挙足 下足 天の三光に身をあたため地の五穀に神(み)を養う等の義(ことわり)も御供養と奉存候
上の手形書「供養」の二字によって、それを国守の慈悲による悲田供養であると解して手形を書き、御朱印を請ける。
1)これを悲田宗と呼ぶ。
 今度御朱印頂戴仕候儀有難御慈悲にて候、地子寺領等悉く御供養と奉存候
上の手形に「慈悲」の二字を入れれば悲田供養となるから差し支えないとの芋惨の解釈を下し、手形を書き御朱印を請ける。
2)これを不受悲田と呼ぶ
 手形を拒否し、書状提出を一切しない。
3)これを不受不施と呼ぶ。

◆不受不施 悲田新義停止令
 元禄4年4月 悲田宗は幕令禁制となる。
結果は僧俗とも自身の在り方を決定しなければならないこととなる。
不受僧の大勢は
所信を貫き、出寺し潜伏流浪して不受精神を鼓吹し、あるいは官に不当を訴えて刑せられ、もしくは自害して身を清くする・・方法を採る。
信徒の大勢は
受不施あるいは他宗に転じながら、内心にはあくまで不受を信ずる道を選択する。内信者、同信などと呼ばれ、禁制の教団を維持する源泉となる。
 当山では同信講中と称し、同族檀家氏寺化させ檀家街の内信者を「つとめ檀家」と称して今に継続している。
禁教令は強化され弾圧が加わり、悲墳して自害するもの続出してきた。
例として備前領内1044ヶ寺、僧侶1957人の内、不受不施寺院313ヶ寺を破却、僧侶585人を追放、牢獄に投じた。備前法華の顛末である。大勢は京都本覚寺門末と四条妙顕寺門末の寺院であった。

◆禁教
宝暦2年(1688)河岡村庄屋山崎儀左衛門、帖消し人別無宿となり、法義上訴荒尾(米子)城代に提訴強要、無宿の輩不届千万と米子勝田刑場で処刑さる。

◆禁教後の当山
○草庵
 各地に「18ヶ所の草庵」があった。追放されたあるいは捕縛を逃れた僧侶たちが旧知の信徒を頼って開いた道場ではないだろか。特に備前から潜伏した僧たちがいたとも推測される。
また、治外法権のような信仰集団は各本山制と同じように草庵(末寺)を遠く伯耆国外まで支配した。その基盤は信徒組織による潜在的な経済力であったのである。
その内の一つであろう明治5年一村一社令で廃寺となった尾高一心庵の再置設立の届出由来縁起書がある。
一心庵境内(土地の人は一心堂と呼ぶ)には豪壮な木下氏墓碑が並ぶ。本堂・庫裡、一間幅の参道2ヶ所、堀井戸などが残る。おそらく「天王寺屋尾高に妙源寺を創す」とあるように、今はなき妙源寺の跡地と推定される。
妙源寺は天王寺屋木下氏の分族が寺跡名号を持って、寛永記に備前へ移転している。
 ※尾高一心庵(跡地)の位置は尾高集落中に一心堂という堂があり、この一心堂が一心庵の跡地と思われる。

○嘆願書提出 調べ書上帳控
 明暦2年身延山久遠寺塔中、山本坊住僧一心坊日達、祖師木像を背に当地に来たり錫を留め、豪農木下四郎左衛門帰依し草庵を結ぶ。寛文13年遷化。尊像は中老日法(岡宮光長寺開山)の先と云ふ。木下四郎左衛門は元禄8年没。
・・・
 田 四段二畝六歩 宛口 四石六斗
 畑 八畝二十八保 宛口 五斗
 宅地 199坪
 山林 二反六畝二十奈々歩
  ※身延山山本坊とは確かに身延山に存在し、現存する塔頭である。
○上進書
 御維新の際、明治5年一村一社以外の祠及辻堂悉く廃止命令に接し、一心草庵もその際廢堂と相成、(略)
明治12年説経処と相成候
明治36年妙法結社に改め許可、従来の如く月々集合仕り題目修行改し候
 (中略)
支配本寺 河岡村妙春寺
 (後略)
○各村講中阿毘縁山(解脱寺、今は山号を法要山という。)
 阿毘縁山の旧本堂は当山講中(「妙日講」)が成し、楼門・石垣は尾高船越氏が、妙見・七面両堂は尾高木下氏、鬼子母神堂は河岡常盤氏が成し、当山奥日野の別院の感である。
ここは、禁制不受不施悲田で追われた信徒の潜伏地であった。この地奥日野は作州、備前、備中、出雲、他方面領外に脱出の利点があった。
 ※阿毘縁山解脱寺は現存する。但し公式HPに掲載の縁起は不受不施との関係には一切触れることはない。

◆中世の聖筆
 応仁の乱(1467-77)に京都の諸本山は地方寺院に寺宝聖筆を分散した。如何にして後世に残すかという観点からである。
当山は宗祖、大徳、綸旨、令旨を護持してきて、慶長、元禄、明治に京都大本山妙顕寺に上納し、今に保管されている。
慶長4年14代圓妙坊日運妙顕寺に納ム
 日像菩薩贈位綸旨 後光厳帝勅賜 延文13年(1358)
元禄4年日像菩薩350遠忌の砧、妙顕寺日耀に納む
 護良親王令旨 正慶3年(1334)
 日像菩薩本尊 授与之正心 暦応3年(1340)
明治14年4月10日宗祖600遠忌に上洛、末寺復旧届と共に上納する。
 大覚大僧正本尊 延文14年(1359)4月10日
  ※延文は6年までで、14年はない。延文4年(1359)の誤りであろう。月日は4月13日の誤りであろう。
  いずれも上納した明治14年4月10日と交錯したものと思われる。
  ※「第650遠忌記念 大覚大僧正」口絵35 より転載
   大覚大僧正曼荼羅本尊:四条妙顕寺蔵、延文14年4月13日、授与之右衛門尉
    まず、伯耆妙本寺(妙春寺)より妙顕寺に上納された延文4年「大覚大僧正本尊」に間違いないであろう。

衰滅した霊跡
 本像寺:京都府北桑田郡美山町知見村落
永仁2年(1294)日像上人は若狭から知坂を越え、丹波知見庄に入る。この地にて日像上人は本像寺を開山する。後には妙顕寺5世、6世がこの寺から薫座する。
しかし、今は寺名も消滅する。
ただ、日像花押大黒天(歴応2年/1338)、永代紫衣免許状(元禄11年/1698)、日像霊跡認定書(天保7年/1836)を蔵してその証とする。
昭和35年地区内の顕本法華宗本妙寺と統合、知見山正法寺を創建する。この時両寺とも解散する。
そして本像寺焼失跡地に草堂を建て知見山正法寺を創建する。平成7年正法寺山門が倒破する。そして山門は再建される。
文久2年鷹峯檀林化主日東(米子妙善寺日寿弟子)が不受悲田を講じた咎で本像寺に左遷される。そして本像寺にて遷化する。
 ※正法寺:京都府南丹市美山町知見小字家ノ上。山号は知見山。本寺は四条妙顕寺
 延喜9年(909)天台宗の寺院として創建される。
 永仁元年(1293)住僧多宝院日大良仁が日像菩薩と法論して日蓮宗に改宗、寺号も長栄山本像寺と改称する。
 昭和35年顕本法華宗本妙寺から檀信徒を吸収し、現在の寺号(正法寺)に改称する。

寺跡移転と設立認可
◇一村一社令で取り潰された草庵跡を教会設立で認証、復活させた。
西伯郡 大高村尾高一心教会:一心堂として存続と思われる。
 同  幡郷村阪長信友教会:詳細不詳、消息不明。
西伯郡 境港 渡村妙法教会:詳細不詳、消息不明。
◇寺跡移転
○吉祥院:
明治29年、京都大本山本圀寺塔頭役者、役宅坊である吉祥院を淀江信徒講中堂に移籍。
     撰與状
族籍 (略)
法籍 ・・・河岡村妙春寺 大東日要(妙春寺36代) 附弟 瀧 恵詮
御山末平素跡、本寺妙春寺客末 鳥取県伯耆国西伯郡淀江町吉祥院住職ニ付、前標之者ヲ妙春寺門弟貫名日清ノ副導ト致宗協議候、(以下略)
       本寺 妙春寺 住職 大東日要 印
   →六条本圀寺塔頭:吉祥院の項
○妙玄院:
明治10年、京都大本山妙顕寺塔頭 役者 役宅である妙玄院の寺號を備中刑部草庵に移籍。
撰與状に、法籍 ・・・河岡村妙春寺 大東日要(妙春寺36代) 附弟 菊野智道 とある。
 ※元治元年(1864)刊「花洛羽津根」、明治3年「日蓮宗本末一覧」及びその他の入手資料中に塔頭妙玄院の名称が存在せず、妙玄院とは不詳である。
 ※妙玄院は岡山県新見市大佐小阪部1796 に現存する。
   →四条妙顕寺参照
○慈運院:
明治13年、京都本山頂妙寺塔頭・役者・役宅 慈運院の寺號を伯耆国東伯郡南谷村安歩 題目講に移転す。
住職に当山附弟 瀧本慈精
 ※倉吉市関金町安歩627に現存する。
 ※慈運寺現況:GoogleMap より
  伯耆安歩慈運院1     伯耆安歩慈運院2     伯耆安歩慈運院3
   →京都頂妙寺
○清浄院:
明治25年、京都本山立本寺塔頭・役者・役宅 清浄院 寺號跡を西伯郡御来屋砂町 法華堂に移転す。
住職に当山附弟 中山大雲
 ※鳥取県西伯郡大山町御来屋485 に現存する。(堂宇が現存か?)
   →京都立本寺

◆寺地出土品と埋没地
 境内は旧土井屋敷で、居館中世の構である。
平成9年本堂と客殿の中庭の石組を整理したら、軟岩石で角柱の半割れ寸断の石材が組石土台に利用されていた。
保存に前裁に石傘を被せて、庭石上に建てる。
 妙春寺寺號標柱石
慶安4年(1651)の年紀がある。
僧坊流倒は寛永12年(1635)であり、承応2年(1653)には妙顕寺日豊と義絶し、寺號停止僧衣剥奪追放となる。
寺號停止の時期と少々齟齬があるが、この間の事情を物語る柱石であろう。


2017/08/05追加:
「妙本寺意外之誌」宮原日鷲、本山妙本寺、平成12年 より

◆独白
大正期から昭和戦後の過渡期まで当山は政治闘争の中心地であった。
 ※折に触れ前著でも本著でも度々論及されるも、具体的にどのような政治闘争であったのかは論及がない。
 ※別の章では「明治制度に反乱し一揆をなす」、「大正デモクラシーで地域騒乱の戦場にする」とある。
 ※さらに別の章では「大正・昭和に当地区で勃発した共産イデオロギーで云々」とある。
明治6年には隠し供養田寺禄は没収され、戦後の農地解放で寺財産は失われる。
 ※折に触れ前著でも本著でも度々論及される。
当山教義は幕政期より明治まで禁教の不受不施で悲田派寺院として唯一残り得た。

◆意外の誌
当地の郷史はとかく皇国史観か社会主義史観の両極端にある。
 ※船上山が当地の東方にあり、皇国史観はこれに起因するのであろうか、当地の政治闘争は自由主義、社会主義思想に基ずくものなのであろう、そしておそらくは反皇国主義の潮流であったものとも思われる。

◆概略の記
 イ)開基と当山由来
江戸期になって称号した川上山の山号は河岡の豊富な湧水のあるこの地に由来すると思える。だが、川上山は船上山の当て字と郷土史家は譲らない。
さて、寺地の移転である。
精進川の隣台岳が当山第2回移転の寺跡である。山岳台地集落が岡成、横が尾高城跡、下手が尾高集落の支村、石田村である。
石州府の台岳の谷を超すと岸本要害と呼ぶ砦城跡である。この南岳が第3回目の移転寺跡である。
岸本集落の前面日野川を超すと台岳に中世以前からの集落小野・小町がある。小野の隣岳金廻が当山創建の地である。しかし昭和初期に廃村、住居跡が残されていたが、近年全て消滅・埋没する。
大覚師下向巡錫の当時は何事も霞、実態が掴みにくいが、寺縁の開基としては黒正氏であろう。
天文年中、河岡山台地に誘致するのが河岡氏である。(第4回目の移転である。)
そして、当山が現在地に移転(第5回目)したが、年紀は不明である。附書には「寛永流水倒堂」とある。
「辛卯四」の寺號剥片が庭より出土、慶安4年(辛卯四年、1651)には草堂が建立されていたと推測される。
 ※「妙本寺誌」の◆寺跡地の情況の項を参照
 ※前掲の「妙本寺寺跡地関係図」を参照
 ※「辛卯四」の寺號剥片は前掲「妙春寺寺號標柱石」を参照
 ロ)山号由来
当山に付属した山号は 具足山 経王山 川上山の三称号である。
具足山は開山日像上人が撰すると伝える。
「開山日像聖人が附弟大覚大僧正に法筵の意義ある地で建立の寺に掲示せよ」云々、具足山妙本寺の寺號由来である。
川上山(妙春寺)へ改号した事情は「妙本寺誌」の「◆開檀なるべし」の項に述べられた通りである。
物証は貞享元年に建てられた法界題目塔である。川上山、第九世と彫る。当山20代日専造立で当山持庵高祖堂第九世の堂主だった歴代称である。旧寺跡に「堂」と呼ばれる建物が今も建っている。
 貞享元年題目法界碑
当山に安永、天明の頃に山号を「経王山」と呼称する軸物・版木を残す。日蓮(法華経)信仰の浸透に便乗したのであろうか、誇大妄想の住職が主張したのであろう。藩庁郡代寺社奉行が罷り出て、僭越なりと住職非器量と蟄居引退を申し付く。

◆河岡の寺跡
 河岡の旧寺地は寛永12年(1635)流水により堂宇流倒、現在地(大庄屋天王寺屋木下弥五郎と天王寺屋木下正道が寺地を寄進して)、河岡上屋敷に移転する。
時の住職は18代日應である。日應代に四条妙顕寺日豊と教義で対立し、日豊から義絶、川上山妙春寺と改号する。
移転後の旧寺跡に建立された堂の由来は次の通りである。
寛文元年(1661)天王寺屋木下六左衛門河岡邑の旧寺跡に高祖堂一間四面の一宇を修す、発心妙春尼の託宣に基ずく。「河岡城の合戦に祖族あまた討死する、寺移転し荒神となり祟り災い毒する再びに堂を建て供養せよ」六左衛門託宣に従い堂を再修す。
 寺地跡は檀徒墓地となり堂と呼ばれ今に継続するが名はない。庵主妙春尼は享保3年(1718)没す。現地に供養碑が建ち、残る。
 イ)庵主 僧尼
河岡旧寺趾に建つ高祖堂の境内は一面全般に墓地である。この寺地墓地に享保(1684)、元禄(1688)、宝永(1704)、正徳(1711)、享保(1716)と彫られた碑は風化する。参道は墓道と呼ばれ、ここに慶長4年(1599)の題目碑が殆ど流砂に埋まっていた。
 明治3年「真言宗・禅曹洞宗・日蓮宗・浄土宗 本末一派寺院明細帳」 では
  日蓮宗一致派 鳥取県管轄伯耆国会見郡尾高邑
小本山 妙春寺末(現妙本寺)庵堂  法華堂
    寛文年申干支月 創建不詳
    住僧 恵貞 壬申 50歳
(前略)天保14年伯耆国久米郡倉吉宿学仙寺於得度明治2年入庵す。留守居坊守で入庵、明治3年堂主願い許可。

 高祖堂は庵主代々の墓碑もない、表参道に巨大な貞享年中の法界碑(次の項で取り上げる)が流水痕の坂道の端に建っているのみである。
なお、当山住職に付随している僧と尼は当山に18ヶ寺の草庵支院が存在した(故に多くの僧尼がいただろう。)
発心尼や発心入道、追放不受僧たちであったであろう。
 ※高祖堂は現存すると思われるも、その位置については現在掌握できない。
 ロ)題目法界碑
高さは5尺。正面:南無妙法蓮華経、側面1:貞享元年甲子五月廿日、側面2:川上山妙春寺第九世
 貞享元年題目法界碑:上に掲載
この碑文中の「妙春寺第九世」とは昔から議論がなされてきた経過をもつ。
公式には妙春寺第九世は一陽院日賞で天文4年(1535)に寂する。貞享元年(1684)に法界碑を建てた当山住職は在世年代から廿世日専であり、不可解な話となる。
 (中略する。)
なお、高祖堂は天王寺屋木下氏が発願して、先祖寄進の旧寺跡に堂を再興し、妙春尼が庵主となった訳(◆河岡の寺跡)であるが、その後木下氏は没落し、直裔は大阪に出、大阪市南区(中区?)妙徳寺を再興する。
 ハ)発心者の年限りと寺跡
明治まで残された膨大な数量の供養田畑、山林の伝承は「昔祖先が法華信心だった、窪の田や畑を供養と納めた」云々。集計21町四畝2歩、寺有地1町2畝と合計すると22町6畝2歩となる。これが明治3年の取調確認であった。
 ※1町=3000坪であるから、22町は66、000坪(217.800平方メートル)となる。甲子園球場の総面積は公称38,500平方メートルであるから、甲子園球場5.7個分となる。

◆古仏
伯耆大寺は・・・塔礎石も民家の台所隅にあったと聞く。増築民家庭に基壇の瓦列が列をなすを土台工事掘り起こしに見る。
内密に庭や土中から当時の什物が出る、古物商に流れたこともしばしば耳にする。

旧古、上淀(旧寺内村)に古代阿弥陀堂があり江戸期まで存続する。文化11年(1814)淀江阿弥陀堂什物と彫る妙鉢(鐃鉢)、河岡村堂常備品で今は当山に什物で保管され使用される。 (伯耆上淀廃寺
旧寺内村の法華堂は当山の支院だったが、明治の一村一社令で廃寺取潰の災厄に遭った。

◆当山教義不受不施の作法
◎不受不施日題派
昭和58年1月14日毎日新聞が特報「ひそかに三百年、幻の信徒、日蓮宗の一派 日題派」を報じる。
<岡山県史編纂室中務克己主幹の調査による。>
日題派は寛文11年(1671)教義を巡って不受不施派本流と対立、日題上人(寛永10年/1633〜正徳4年/1714)が率いて分裂する。分裂後は表にでることなく、備前・備中・備後を中心に信仰活動を続け、最後の上人・日養が天保9年(1838)に捕らえられて牢死してからは、各グループの長老が導師役を務め、「しきたり」を守り続けてきた。
今回存在が分かったのは大窪地区(岡山市北区、備前に属するも備中との境界付近である、備前西辛川の北に位置する。)の9世帯約40人。
9世帯に11枚の曼荼羅が残されていて、文禄3年(1594)から天保7年(1836)のものである。この曼荼羅を本尊にして月1回の「月並み」、年3回の「お日待ち」と呼ぶ法要を各家庭持ち回りで行い、みんなで法華経と題目を唱える。
また不受不施の教義を守るため、信徒の葬儀に他の僧侶は招かず、墓石にも戒名を刻まず、本名だけを刻む。
大窪地区の人が他地区に転出した場合、女性は嫁ぎ先の宗教に従い、男性は死ねば遺体を大窪に持ち帰り実家で日題派の儀式にのっとり葬儀を行うしきたりが今も続いている。
 →不受不施白川門流日題派
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金川祖山妙覚寺釈日学は伯耆妙覚寺日鷲に入派来寺を求め妙顕寺にも来訪する。


2006年以前作成:2017/08/05更新:ホームページ日本の塔婆