仏  性  院  日  奥  上  人

佛性院日奥上人/紫竹常徳寺

仏性院日奥上人:2013/01/17加筆・修正:2013/02/01加筆:

永禄8年(1565) - 寛永7年(1630)
永禄8年(1565)京都の町衆辻氏の生まれと云う。<京都の富商、辻藤兵衛の子息>
 ※山城嵯峨常寂光寺多宝塔棟札には大檀越辻藤兵衛尉直信の名があり、この辻氏は日奥上人の実家と云う。
天正2年(1574)10歳にして京都妙覚寺日典上人の門に投ずる。
 日典は日奥の習性を愛し、精魂を傾けて養育し、日奥は日典を通して日蓮を見たと云われる。
  ※實成院日典:備前現野々口村に生れる。
   直江兼継の帰依により佐渡塚原根本寺を再興、 永禄6年(1563)下総藻原妙光寺13世、
   池上本門寺を経て永禄9年妙覚寺18世となる。
   天正20年(1592)遷化。壽72。・・天正20年は文禄と改元。

文禄元年(1592)日典上人の事蹟を引継ぎ、日奥上人が19世住持となる。
 日奥28歳であった。教蔵院日生らの先輩を抜き、師の日典に推挙される。
 これは日典が日重の学師日bらが天台学に編重し諸宗に寛容なことに反発するところがあることを示す。
 即ち、日典は日蓮の精神に忠実であることによって日蓮宗義の顕現を日奥に期待したところがあったのであろうと云う。
文禄4年(1595)豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕をめぐり、不受不施の宗制護持を強く主張する。
文禄5年9月25日(この日は京都諸寺が秀吉方広寺大仏供養会に出仕した日である)夜半妙覚寺を退去する。
つまり、不受不施の宗制護持を身をもって貫くことを示すということであろう。
退去の後、「公儀に背く曲者」として滞在先をその都度追われ、嵯峨、栂尾の空房、栂尾門前小屋、鶏冠井を転々とし、最後には丹波小泉に隠棲する。
  2013/01/15追加:「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和41年 より
   丹波小泉好賢寺:好賢寺番神堂:日奥が隠棲す、右に八重桜がある。【好堅寺:亀岡市東別院町大泉大道60】
  ※文禄4年及び5年の大仏殿千僧供養会をめぐる動きについての詳細は
   正之氏サイト:日蓮宗 不受不施派>3、豊臣秀吉の千僧供養 の項、及び
           下に掲載の「大仏殿千僧供養会を廻る評価」 の項を参照。
  2013/01/26追加:「京都府の歴史散歩 下」山川出版社、2011 より
   好堅寺:日奥上人開基、小泉山と号する。
慶長3年(1598)3月豊臣秀吉薨去。
慶長4年(1599)11月13日日奥と京都諸寺との和融を斡旋する動きは多々あったが、成就せず、
 京都諸寺は日奥弾劾の訴状を内大臣家康に提出する。
同年同月20日家康は日奥・ 日モニ妙顕寺日紹らを大阪城内に召し、対論を成さしむ。
 ※大坂城対論に関する詳細は正之氏サイト>不受不施派『大阪城対論』にある。
 事は受派(京都諸寺)と不受派との対決というより、家康と日奥との対決と云ってよい状況に変質する。
 要するに日奥は権力側の硬柔織り交ぜた懐柔・恫喝に屈しなかったということである。
大坂城対論後、日奥は再び丹波に逼塞させられたが、12月には「守護正義論」を著す。
翌慶長5年5月30日対馬に流罪の通告を受け、小泉を出、同月30日対馬に着く。
 ※慶長17年の赦免まで11年半ほどを対馬で過ごす。
慶長17年(1612)正月4日家康、京都所司代板倉勝重に命じて日奥の赦免を下命する。
同4月対馬を出発、博多・備前牛窓(本蓮寺か)・有馬の湯に立ち寄り、6月4日入洛する。
妙覚寺住職不在のため、困惑との赦免理由であったが、寺内の謗法態度が払拭されないことを見て、勝重の斡旋にも関わらず、本坊破損を理由に日奥は本坊に環住せず、妙覚寺円蔵院に入る。
元和2年3月妙覚寺本坊に移る。これは勝重の勧めによる。
この時、妙覚寺全山の寺家衆は本堂にて不受不施の宗制を守ることを誓う。
 ※既に秀吉は逝去、元和元年には豊臣氏も滅亡し、従って文禄年中の受・不受をめぐる争論の直接原因である大仏供養会は消滅していたのである。
元和7年〜9年、日奥は妙覚寺本坊・客殿を造営、同年には板倉勝重書名在判の「不受不施公許」(不受不施義は日蓮以来の伝統であること)を得る。
 ※この時日奥の日蓮に倣った不受不施遵守の諫暁の精神および行動は報われたというべきで、この時がいわば「至福」の時であったのかも知れない。しかしこの時は暗転する。
受派の動きは以下である。
 
天正7年の安土宗論の当事者でもあった仏心院日b(堺妙国寺)は中山法華経寺住持となる。
 (以降、中山は堺妙国寺、京都頂妙寺、京都本法寺の輪番管理される。日bの関東への進出の象徴であろう。)
 慶長4年、日bの弟子日重は飯高檀林に招請されるも、日重弟子日遠を遣わしめる。
 慶長7年、日重は身延山住持に招請されるも、これも日重弟子日乾を遣わしめる。
 慶長8年、日乾は退位、身延山は日遠が継ぐ。
 元和元年(1615)日奥と三浦為春(養珠院お万の方の実兄、のち紀州徳川家 附家老家祖、紀伊貴志領1万5,000石)とが接触。
 日奥は書簡などで身延山日乾の摂受の態度を批判、この批判は日奥→為春→お万→日乾に伝わる。
 その結果、日乾は日遠と議し「破奥記」と呼ばれる一巻を作り、日奥批判を加える。
 これをいわば契機として再び受派と不受派の対立が激化する。
 関東では、寺院で云えば、身延と池上との対立となって顕現する。
 (受派身延日暹らは不受派池上日樹を度々上意背反として寺社奉行に訴状を提出する。)
寛永7年(1630)身池対論が画策され、不受側の負けとされる。
 日奥は首謀者とされ、日奥は既に遷化していた為、遺骨が再び対馬に流される。
 ※「身池対論」についての詳細は正之氏サイト>不受不施派『身池対論』にある。

 ※参考:正之氏サイト>佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて

参考文献:
「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収)
「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年
「日蓮とその弟子」宮崎英修、平楽寺書店、平成9年

2013/01/17追加:
大仏殿千僧供養会を廻る評価
京都本國寺16世・嵯峨常寂光寺開山日ワ辮lについて以下のような評価がある。
 ※この評価は「山城嵯峨常寂光寺」のページで示したところである。
即ち
山城嵯峨常寂光寺のサイトでは以下のように云う。
文禄四年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。
さらに
○常寂光寺発行ルーフレットでは以下のように述べる。
「日ワ辮lは不受不施の宗制を守って出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て、この地に隠棲」

 ※日ワ辮lが宗制(不受不施)を貫徹したという評価は必ずしも他の文献ではなされていないのが実情であろうと思われる。
 つまり、一般的には日奥上人一人が千僧供への出仕に宗制に背くとして反対し、その志を貫くとされる。
一方
日ワ辮lの評価については、日奥上人と並ぶ関西の急先鋒という評価がある反面、その正反対の本満寺日重上人などと同志であるとの評価もあり、さらには、慶長4年(1599)大阪城対論では、日ワ辮lは潮時と判断し出仕を約束したとも云 う。
以下、諸文献における「千僧供養会を廻る評価」を見ることとする。
まず
○「日蓮宗教団史概説」影山尭雄、昭和34年 では以下のように云う。
 文禄4年(1595)大仏千僧供養会の出仕に関して「京中諸寺僧は本國寺に集合・・・出仕と決したが、日奥一人反対した。・・・本満寺日重をはじめ諸寺はついに出仕した。」
 慶長4年(1599)家康は大阪城中に日奥を召し、京都妙顕寺日紹と対論をせしめ、結果日奥は公儀背反の罪により対馬に遠島となる。この後受・不受の対立は次第に先鋭化し、「本國寺日メE池上日惺は不受側の東西両雄であり・・・・本満寺日重やその弟子日乾・日遠・・・は受派の中心人物となった。」
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年では、文禄4年9月22日の宗門会議について以下のように記述する。
 文禄4年(1595)9月12日、秀吉の千僧供養会の布達が奉行前田玄以より京都16本山に届く。
22日京都本圀寺にて宗門会議が開かれる。
その結果、会議の決定は宗門護持が肝要で、一度は宗制(不受不施)を枉げるのも止む無しと云うものであった。
日奥は「少しく遅参」したが、宗門会議の決定に対し、宗制があっての宗門であって、宗制を枉げて権力に屈するのは単なる妥協論でしかなく、あくまで宗制を護持しその結果が宗門の瓦解であってもその道を選ぶべきものと強く主張する。
これに対し、本圀寺日モヘ日奥の所論にほぼ賛同の気色があったが、その他の衆僧は沈思黙考し、本満寺日重のみ罵倒すると云う。
 「日蓮とその弟子」では本国寺日メA妙顕寺日紹、日重弟子日乾は日奥に賛意を表す。
  日奥及び3人は再度言葉を励まし不出仕を主張するも、大勢は一度出仕することに決する。
  かく決した以上、日メE日紹・日乾も出寺を決意して帰寺したのである。
  しかし、日紹・日乾は日重の説得に屈し出仕することになり、日モヘ本国寺を出て嵯峨小倉山に隠棲する。
再度の議論の結果、妙顕寺、本法寺、本能寺、立本寺、妙蓮寺、本満寺、本國寺、要法寺、頂妙寺、妙伝寺、妙満寺、本禅寺、など14本寺が一度出仕することに賛意を示す。  
文禄4年9月25日、日奥を除く京都諸本山の諸師は京都方広寺大仏開眼供養に出仕する。
日奥はその日の夜半、妙覚寺を出寺し、最終的には丹波小泉(好賢寺・好堅寺)に潜伏する。
◎「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収)では以下のように詳述する。
 文禄4年9月10日「千僧供養会」の招請上が発せられ、12日に法華宗諸寺に届く。
京都諸寺では貫主・住持、僧侶、太檀越の間で議論を重ねる。
9月22日本國寺日メA立本寺日抽、頂妙寺日暁、本法寺日通、本國寺学道求法院講主日乾等が本國寺に会合する。
この席で長老的な存在であった本満寺日重は、出仕は宗制を破ることになるが、出仕を断れば国主の怒りをかい、宗門がどのような災難を蒙るかは図り難く、よって宗門護持の観点から、一日だけ出仕して、翌日から出仕御面を願う行動に出ると云うことで会議を纏めようとする。
 日奥は遅参するつもりであったが、会議が出仕する方向に傾斜するのを察した妙覚寺太檀越志水右甫の知らせで、日奥は会議に駆けつける。日重から出仕の方向に決すると告げられるも、日奥は出仕は祖師以来の伝統を破ることになると強く異を唱え、諸師に反意を促す。
 確かに日奥の論は正論であり、本国寺日メA妙顕寺日紹、求法院講主日乾らは一応日奥に賛意を表する。しかし日重の訴えは宗門の置かれている困難な立場を訴えるものであり、結局は一日だけは出仕することに決する。
(しかし一日だけ出仕し翌日からは宗制を訴えるということは実行されず、秀吉の没するまで出仕は毎年続けられることとなる。)
日奥のほか、日メA日紹、日乾らはなをも反対するも、日奥以外は翌日の説得で出仕することを確認したと云う。
 日奥は妙覚寺に帰り、不出仕を説くも、妙覚寺の多くの僧俗は弾圧を恐れ、出仕を主張し、日奥に対する不満が充満したと云う。
太檀越後藤光乗・徳乗父子は来りて、日奥に反意するように忠告があったと云う。
同日夜半、日奥は「法華宗諌状」を書上げ、翌25日には伏見城に赴き呈上するつもりであったが、檀越らの強い制止に遭う。
翌25日衆徒大衆は妙覚寺に禍をもたらすから、霊宝等を携え退去するように要求する。日奥は先師日典より譲られた霊符・財宝などを後藤徳乗に預け、その夜妙覚寺に決別する。
日奥が処々を転々とし最終的には丹波小泉に隠棲したことは上述のとおりであるが、これは丹波小泉の領主前田玄以の好意であった。玄以は日奥の高潔な行動に心を動かされたことと玄以と親しい豪商辻氏、後藤氏、清水氏などの斡旋があったものと推測される。
 翌25日からの千僧供養会には最初反対した日乾は師である日重に意見され出仕し、妙顕寺日紹へ出仕を勧誘することとなる。本国寺日モヘ秀吉と親しい小出秀正と相談しつつ不 出仕を貫き、翌文禄5年4月本國寺を日桓に譲り、嵯峨に隠棲(後の常寂光寺)し、日奥とともに出仕者を攻撃したのである。
 なお日尊門流要法寺21世日性は自らは本國寺の会合には参加せず、日賙(にちしゅう)を以って不出仕を主張させ、自身は一度も出仕しなかったが、要法寺としては出仕したらしいと云う。


紫竹常徳寺

当寺は知足院(園城寺別院、関白藤原忠実が別邸とする)の寺跡を継ぐと云うも、詳細は不詳。
知足山と号する。
寛永5年(1628)日奥上人を開基とし、常徳寺が開山される。
寛永7年(1630)身池対論、日奥は死後流罪とされ、おそらく常徳寺もその余波で衰微すると思われる。
その後、日猷上人(詳細不詳)、金工後藤氏の帰依を受け、中興す。
2016/02/10追加:
明治3年「日蓮宗本末一覧」より
紫竹常徳寺末寺
 本要寺(本法寺前町)
備前大安寺Webサイト:この当時の記録がある。 本サイトの 「資料集」には多くの情報がある。
○「梅花鶯囀記」(日念上人):
・・・・その後身延山日筵この悲田の悪儀を公儀へ申し上げて悲田派を滅亡せり。
この時日明、日禅、日純等或いは身延山の下になり、或いは天台宗になり。
備前蓮昌寺の先住日精聖人、京都紫竹常徳寺住持日猷聖人、上鳥羽実相寺住持了性院日性等皆悲田におちおわんぬ。・・・・
 ※日明は小湊誕生寺、日禅は碑文谷法華寺、日純は谷中感応寺
 ※上鳥羽実相寺は大覚大僧正開基寺院中にあり
○「説黙日課」(日講上人)元禄3年(1690)〜元禄4年:
・・・・誕生の一寺ただ身延の末寺と称せず、一本寺と為さんと欲する趣き愁訴す。住持は身延の支配なり。云云 また京大坂公儀より触状の写し到来す。その中小湊等の三寺身延の末寺と成る文言有り。かつ京都の紫竹常徳寺及び鶏冠井石塔寺妙顕寺の末寺と成る。紫竹兼ねて無住の由を称す。・・・・
 ※元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁止する。
 ※以上の記録から、日奥以降の常徳寺・日猷上人は悲田派に転じた様子であり、しかしそれも叶わず悲田派は禁教となり、京都受派妙顕寺に摂取された様子が分かる。以降妙顕寺末のままと思われる。
 ※以上の経緯があるためと思われるが、現在、日奥上人などの旧跡であることは一般にはほとんど知られない。
 ※悲田宗については、谷中感応寺小湊誕生寺 などを参照。
2012/04/03追加:昭和51年朝日新聞記事 より
 日奥上人坐像:紫竹常徳寺にて:近世不受不施派の始祖と云われる日奥上人
2010/02/25撮影:
現在、山門、本堂、書院、庫裏、鬼子母神などの堂宇を有し、後藤氏一族の墓がある。
 紫竹常徳寺山門     紫竹常徳寺本堂
2016/05/26撮影:
 紫竹常徳寺山門2     門前題目碑側面:大覚大僧正作日蓮像があると思われるも不詳。
 旧山号寺号碑:旧寺号碑と推定。
 紫竹常徳寺本堂2     紫竹常徳寺本堂3     紫竹常徳寺客殿     常徳寺妙法大二神
 後藤家墓碑?
後藤長乗ほか、演乗、達乗、真乗、実乗、玄乗、可乗、東乗、源乗など歴代(1代-6代を除く)、後藤一族の墓があるという。


2010/03/06作成:2016/06/18更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系