仏  性  院  日  奥  上  人

佛性院日奥上人/紫竹常徳寺

仏性院日奥上人:2013/01/17加筆・修正:2013/02/01加筆:

日奥は日蓮宗不受不施の祖である。
 詳細は「備前法華の系譜」の関係個所()を参照。

永禄8年(1565) - 寛永7年(1630)
永禄8年(1565)京都の町衆辻氏の生まれと云う。<京都の富商、辻藤兵衛の子息という。>
 ※山城嵯峨常寂光寺多宝塔棟札には大檀越辻藤兵衛尉直信の名があり、この辻氏は日奥の実家と云う。
天正2年(1574)10歳にして京都妙覚寺日典の門に投ずる。
日典は日奥の習性を愛し、精魂を傾けて養育し、日奥は日典を通して日蓮を見たと云われる。
  日典:實成院日典:下に掲載
天正10年(1582)薙髪(ちはつ)し英教又は智雄と字し佛性院と号する。
 この年織田信長が本能寺に斃れ、織田信忠が妙覚寺に斃れる。(「金川町史」2018/10/30)
文禄元年(1592)日典の事蹟を引継ぎ、日奥が19世妙覚寺住持となる。
 日奥28歳であった。教蔵院日生らの先輩を抜き、師の日典に推挙される。
 これは日典が日重の学師日bらが天台学に編重し諸宗に寛容なことに反発するところがあることを示す。
 即ち、日典は日蓮の精神に忠実であることによって日蓮宗義の顕現を日奥に期待したところがあったのであろうと云う。
文禄4年(1595)豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕をめぐり、不受不施の宗制護持を強く主張する。
文禄5年9月25日(この日は京都諸寺が秀吉方広寺大仏供養会に出仕した日である)夜半妙覚寺を退去する。
つまり、不受不施の宗制護持を身をもって貫くことを示すということであろう。
退去の後、「公儀に背く曲者」として滞在先をその都度追われ、嵯峨、栂尾の空房、栂尾門前小屋、鶏冠井を転々とし、最後には丹波小泉に隠棲する。
  2013/01/15追加:「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和41年 より
   丹波小泉好賢寺好堅寺番神堂  : 日奥が隠棲す、右に八重桜がある。【好堅寺:亀岡市東別院町大泉大道60】
  ※文禄4年及び5年の大仏殿千僧供養会をめぐる動きについての詳細は
   正之氏サイト:日蓮宗 不受不施派>3、豊臣秀吉の千僧供養 の項、及び
           下に掲載の「大仏殿千僧供養会を廻る評価」 の項を参照。
  2013/01/26追加:「京都府の歴史散歩 下」山川出版社、2011 より
   好堅寺:日奥上人開基、小泉山と号する。
  2018/11/15追加:
   丹波小泉は前田玄以の領地であり、玄以は日奧に同情的であったと云われる。
慶長3年(1598)3月豊臣秀吉薨去。
慶長4年(1599)11月13日日奥と京都諸寺との和融を斡旋する動きは多々あったが、成就せず、
 京都諸寺は日奥弾劾の訴状を内大臣家康に提出する。
同年同月20日家康は日奥・ 日モニ妙顕寺日紹らを大阪城内に召し、対論を成さしむ。
 ※大坂城対論に関する詳細は正之氏サイト>不受不施派『大阪城対論』にある。
 事は受派(京都諸寺)と不受派との対決というより、家康と日奥との対決と云ってよい状況に変質する。
 要するに日奥は権力側の硬柔織り交ぜた懐柔・恫喝に屈しなかったということである。
大坂城対論後、日奥は再び丹波に逼塞させられたが、12月には「守護正義論」を著す。
翌慶長5年5月30日対馬に流罪の通告を受け、小泉を出、同月30日対馬に着く。
 ※慶長17年の赦免まで11年半ほどを対馬で過ごす。
 2018/11/15追加:「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
 ※蓮昌寺日韵(蓮昌寺21世、妙善寺8世)、日魏(蓮昌寺22世、妙善寺9世)は渡航して慰問する。
 ※当時、宇喜多氏の家臣に楢村監物宗理及び角南恕慶法印あり、深く日奧を渇仰し、
 文禄4年から慶長17年に至る18年の間、小泉の蟄居を訪い、或は対馬の配所に音物(いんもつ)を送り、
 又京関の間に奔走して日奧の帰洛の計をなす等の尽力をなす。

慶長17年(1612)正月4日家康、京都所司代板倉勝重に命じて日奥の赦免を下命する。
同4月対馬を出発、博多・備前牛窓(本蓮寺か)・有馬の湯に立ち寄り、6月4日入洛する。
 途中博多の勝立寺唯心院日忠は日奧を歓待する。日忠は日奧と同学で、備前出身である。(「金川町史」2018/10/30)
妙覚寺住職不在のため、困惑との赦免理由であったが、寺内の謗法態度が払拭されないことを見て、勝重の斡旋にも関わらず、本坊破損を理由に日奥は本坊に環住せず、妙覚寺円蔵院に入る。
元和2年3月妙覚寺本坊に移る。これは勝重の勧めによる。
この時、妙覚寺全山の寺家衆は本堂にて不受不施の宗制を守ることを誓う。
 ※既に秀吉は逝去、元和元年には豊臣氏も滅亡し、従って文禄年中の受・不受をめぐる争論の直接原因である大仏供養会は消滅していたのである。
元和5年(1619)日奥、備前金川に巡錫する。(「金川町史」)「備前法華」は当時、ほぼ不受不施一色であった。
 (平凡社「「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より)
 同年、和気益原を巡錫し、法泉寺を改宗という。(「和気郡誌」)
 しかし天神山城主浦上宗景の時代にすでに法泉寺は日蓮宗であったといい、宗景も当寺を菩提寺とするという。
 また、法泉寺は大覚大僧正の改宗とも伝える。
 ※益原法泉寺が日奥の改宗というのは無理としても、元和の頃、日奥が益原で説法したともいうのは確かと思われる。
 2018/11/15追加:「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
  日奥の備前行脚は前後3度を数える。
  最初は慶長4年8月で岡山蓮昌寺の開堂供養に招請されて下向する。
  つぎは慶長17年で、赦免になって対馬から京に帰る時、牛窓に寄港、蓮昌寺日韵、日魏及び角南恕慶などが
  出向き、ねぎらう。
  三度目は元和5年の巡教で、各寺院に高祖本尊の型木を授与する。
  「御土産曼荼羅」といわれるもので、二日市妙勝寺、津高郡今保宗善寺に寺宝として伝えられる。
元和7年〜9年、日奥は妙覚寺本坊・客殿を造営、
同年には板倉勝重書名在判の「不受不施公許」(不受不施義は日蓮以来の伝統であること)を得る。
 ※この時日奥の日蓮に倣った不受不施遵守の諫暁の精神および行動は報われたというべきで、「この時」がいわば「至福」の時であったのかも知れない。しかし「この時」は暗転する。
受派の動きは以下である。
 
天正7年の安土宗論の当事者でもあった仏心院日b(堺妙国寺)は中山法華経寺住持となる。
 (以降、中山は堺妙国寺、京都頂妙寺、京都本法寺の輪番管理される。日bの関東への進出の象徴であろう。)
 慶長4年、日bの弟子日重は飯高檀林に招請されるも、日重弟子日遠を遣わしめる。
 慶長7年、日重は身延山住持に招請されるも、これも日重弟子日乾を遣わしめる。
 慶長8年、日乾は退位、身延山は日遠が継ぐ。
 元和元年(1615)日奥と三浦為春(養珠院お万の方の実兄、のち紀州徳川家附家老家祖、紀伊貴志領1万5,000石)とが接触。
 日奥は書簡などで身延山日乾の摂受の態度を批判、この批判は日奥→為春→お万→日乾に伝わる。
 その結果、日乾は日遠と議し「破奥記」と呼ばれる一巻を作り、日奥批判を加える。
 これをいわば契機として再び受派と不受派の対立が激化する。
 関東では、寺院で云えば、身延と池上との対立となって顕現する。
 (受派身延日暹らは不受派池上日樹を度々上意背反として寺社奉行に訴状を提出する。)
寛永7年(1630)身池対論が画策され、不受側の負けとされる。
 日奥は首謀者とされ、日奥は既に遷化していた為、遺骨が再び対馬に流される。
 ※不受不施派の系譜については備前法華の系譜に記述する。
 ※「身池対論」についての詳細は正之氏サイト>不受不施派『身池対論』にある。
 ※参考:正之氏サイト>佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
 丹波小泉は当時京都所司代であった板倉勝重の領地であった。ここに落ち着いたのはあるいは板倉勝重の好意であったのかも知れない。
好堅寺日奧の庵の横に日奧碑が建つ。道を隔て少し山道になった所に日蓮・日奧合祀の供養塔が作られている。
 慶長5年(1600)6月26日日奥、流人船にて対馬厳原に着船、厳原久田の竜女院(今廃寺・日奧の石碑あり)という寺院に入る。
「波の音が耳につき眠れぬ」という理由で藩主宗家に転居を要求したという。100日ほどで長田掃部の家に移り、約1年を過ごす。
その後、厳原の北方の宮谷の藩主の父の隠居所に移り、対馬讁居の生活は大部分ここで過ごすという。
 厳原に国昌寺がある。開基は日奧。題目石塔・日蓮大菩薩石塔・日奧大上人石塔の3基がある。また日奧開眼の紺紙金泥の曼荼羅本尊が残る。
 日奥の遺骨の所在は今も不明である。
死の直後、再度対馬への流罪が下されるが、遺骸が対馬まで運ばれたのかどうかは明らかでない。
国昌寺でも、明治9年不受不施派が公許されてから、必死で探したようである。国昌寺過去帳の欄外には「奧師御真骨京都紫竹常徳寺に埋葬、当寺は墓印のみ、但し御歯骨三個安置す。」とある。この過去帳は明治の中頃整備されたようである。
紫竹常徳寺には日奧像はあるが、墓は発見されていない。
---「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---
   ※ →日奥上人供養塔・祖山妙覚寺歴世墓碑(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)
   ※ →丹波小泉好堅寺日奥上人供養塔
   ※ →紫竹常徳寺(下に掲載)

備忘:後日を期す。
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日奥とその思想
1)給仕と行法
 給仕と行法と学問は像門の三訓であり、13年間日奧は師日典に対して、毎朝手水を給仕することを怠らなかったといわれる。
日奧の思想は、ひとえにその師日典の影響による。
日奧は日典を通して祖師を見た。
日奥は師日典の暖かい温籠を満身に受けつつ、心静かな給仕と行法の18年を送り迎えて、28歳、日典の死に遭い、遺志によって師の山(妙覚寺)を嗣ぐ。
2)日奥の謗施否定論
 日奧の思想は一言にしていえば、他宗の供養を受けずまた他宗に施さないことを「宗義肝心の制法」とするのであり、またこれが日奥の「宗門相続の根本概念」であった。
日奥のこの考えは、末法の世においては、折伏を第一とする祖師の行跡に従うものであるが、その折伏の手段として謗法の施を否定する理論的根拠を祖師の「立正安国論」引くところの「涅槃経」にこれを求めここに祖師の本懐があるとしたのによる。
 その根拠とした涅槃経の数句の要約(大意)は次の通りである。
一闡提(いつせんだん・極悪人)を除いて、その他一切に施すならば皆賛嘆してよい。一闡提とは麤悪(そあく)の言を以って正法を罵り、永く改悔の心を持たぬものを云う。
  以下、略、後日を俟つ。
不受派(日奥)と受派(日乾)との差はなんだろうか。迷いの衆生を仏椽に結びつけるのが宗教の一つの役目ならば、その手段は折伏を主とするか摂受を主とするかということになる。
  以下、略、後日を俟つ。
3)日奥の本尊論
  略、後日を俟つ。
4)日奥の国土感
  略、後日を俟つ。

参考文献:
「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収)
「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年
「日蓮とその弟子」宮崎英修、平楽寺書店、平成9年

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實成院日典:備前現野々口村に生れる。

 日典を出した大村氏は松田氏の重臣で、松田氏が滅んだ後、野々口に土着する。(日典は備前宇垣村の出という。)
直江山城守兼継の帰依により佐渡塚原根本寺を再興、 永禄6年(1563)下総藻原妙光寺13世、池上本門寺を住職を経て永禄9年京都妙覚寺18世となる。
天正20年(1592)遷化。壽72。・・天正20年は文禄と改元。

備前には時折巡錫し、曼荼羅にそのように記される。
野々口には御典師様と称する小宇があり、日典上人が祀られる。

2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より

 日典は備前の人、14歳で妙覚寺で得度、17歳で関東に下向、池上の日現・平賀の日隆について宗学を修むる。
36歳で茂原妙光寺貫主、次いで39歳で妙覚寺に登り第18世を継ぐ。
故に日典の教学は旧関東系で、それを受けた日奧の教学も旧関東系であったと云える。
 これに対し、日奧と対立した本満寺日重の学風は教学中心というより天台学中心の立場に立つ堺妙国寺日bの学風を継承したものであった。この日bの学風はややもすれば偏狭になりがちな伝統宗学への批判であり、かつ日蓮主義に対する当時の他宗門からの攻撃を避けるには都合の良いものであったとも言える。
従って、この日bの学風はやがて関東関西を風靡するに至る。
 ここにおいても、宗学の復興を説く日典日奧と台学中心の日b日重の系統が激しく対立する構図となる。
日典の時代、受と不受の対立は顕在化しなかったけれども、日典は将来その対立を見通していたのであろうか
弟子日奧に対して、種々の敵が現れるであろう、しか強固な意志を持て排撃すべしと励ますという。
  (「仏教学より見たる奧師の思想」坂本幸雄(「日蓮宗不受不施派の研究」所収) より)
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
  實成院日典
享禄元年(1528)吉尾村小坂に生まれる。
   ※本著に吉尾の題目石の写真があり、天正廿壬辰年(1592)との記載がある。
9歳で野々口駒井山實成寺に入門、24再で得度、日典と名乗る。
天文13年(1544)17歳で関東で修行、池上の佛壽院日現に師事する。
永禄6年(1563)36歳にて下総藻原妙光寺13世貫主、
永禄9年には39歳にて京都妙覚寺貫主となる。妙覚寺の復興に務め七堂伽藍を整備する。
天正14年(1586)焼失していた駒井山實成寺を再興、天正18年佐渡塚原根本寺を復興、8世となる。
天正19年紀伊宇治村法性山本光寺(紀伊日蓮宗諸寺中、現・吸上本光寺)を創建、
再興及び創建した寺院は10余ヶ寺に及ぶという。
  (備前西河原大林寺開山 → 備前御野郡竹田村・西河原村中)
天正20年(1592)妙覚寺で遷化、65歳。
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2013/01/17追加:
大仏殿千僧供養会を廻る評価
京都本國寺16世・嵯峨常寂光寺開山日ワ辮lについて以下のような評価がある。
 ※この評価は「山城嵯峨常寂光寺」のページで示したところである。
即ち
山城嵯峨常寂光寺のサイトでは以下のように云う。
文禄四年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。
さらに
○常寂光寺発行リーフレットでは以下のように述べる。
「日ワ辮lは不受不施の宗制を守って出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て、この地に隠棲」

 ※日ワ辮lが宗制(不受不施)を貫徹したという評価は必ずしも他の文献ではなされていないのが実情であろうと思われる。
 つまり、一般的には日奥上人一人が千僧供への出仕に宗制に背くとして反対し、その志を貫くとされる。
一方
日ワ辮lの評価については、日奥上人と並ぶ関西の急先鋒という評価がある反面、その正反対の本満寺日重上人などと同志であるとの評価もあり、さらには、慶長4年(1599)大阪城対論では、日ワ辮lは潮時と判断し出仕を約束したとも云 う。
以下、諸文献における「千僧供養会を廻る評価」を見ることとする。
まず
○「日蓮宗教団史概説」影山尭雄、昭和34年 では以下のように云う。
 文禄4年(1595)大仏千僧供養会の出仕に関して「京中諸寺僧は本國寺に集合・・・出仕と決したが、日奥一人反対した。・・・本満寺日重をはじめ諸寺はついに出仕した。」
 慶長4年(1599)家康は大阪城中に日奥を召し、京都妙顕寺日紹と対論をせしめ、結果日奥は公儀背反の罪により対馬に遠島となる。この後受・不受の対立は次第に先鋭化し、「本國寺日メE池上日惺は不受側の東西両雄であり・・・・本満寺日重やその弟子日乾・日遠・・・は受派の中心人物となった。」
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年では、文禄4年9月22日の宗門会議について以下のように記述する。
 文禄4年(1595)9月12日、秀吉の千僧供養会の布達が奉行前田玄以より京都16本山に届く。
22日京都本圀寺にて宗門会議が開かれる。
その結果、会議の決定は宗門護持が肝要で、一度は宗制(不受不施)を枉げるのも止む無しと云うものであった。
日奥は「少しく遅参」したが、宗門会議の決定に対し、宗制があっての宗門であって、宗制を枉げて権力に屈するのは単なる妥協論でしかなく、あくまで宗制を護持しその結果が宗門の瓦解であってもその道を選ぶべきものと強く主張する。
これに対し、本圀寺日モヘ日奥の所論にほぼ賛同の気色があったが、その他の衆僧は沈思黙考し、本満寺日重のみ罵倒すると云う。
 「日蓮とその弟子」では本国寺日メA妙顕寺日紹、日重弟子日乾は日奥に賛意を表す。
  日奥及び3人は再度言葉を励まし不出仕を主張するも、大勢は一度出仕することに決する。
  かく決した以上、日メE日紹・日乾も出寺を決意して帰寺したのである。
  しかし、日紹・日乾は日重の説得に屈し出仕することになり、日モヘ本国寺を出て嵯峨小倉山に隠棲する。
再度の議論の結果、妙顕寺、本法寺、本能寺、立本寺、妙蓮寺、本満寺、本國寺、要法寺、頂妙寺、妙伝寺、妙満寺、本禅寺、など14本寺が一度出仕することに賛意を示す。  
文禄4年9月25日、日奥を除く京都諸本山の諸師は京都方広寺大仏開眼供養に出仕する。
日奥はその日の夜半、妙覚寺を出寺し、最終的には丹波小泉(好賢寺・好堅寺)に潜伏する。
◎「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収)では以下のように詳述する。
 文禄4年9月10日「千僧供養会」の招請上が発せられ、12日に法華宗諸寺に届く。
京都諸寺では貫主・住持、僧侶、太檀越の間で議論を重ねる。
9月22日本國寺日メA立本寺日抽、頂妙寺日暁、本法寺日通、本國寺学道求法院講主日乾等が本國寺に会合する。
この席で長老的な存在であった本満寺日重は、出仕は宗制を破ることになるが、出仕を断れば国主の怒りをかい、宗門がどのような災難を蒙るかは図り難く、よって宗門護持の観点から、一日だけ出仕して、翌日から出仕御面を願う行動に出ると云うことで会議を纏めようとする。
 日奥は遅参するつもりであったが、会議が出仕する方向に傾斜するのを察した妙覚寺太檀越志水右甫の知らせで、日奥は会議に駆けつける。日重から出仕の方向に決すると告げられるも、日奥は出仕は祖師以来の伝統を破ることになると強く異を唱え、諸師に反意を促す。
 確かに日奥の論は正論であり、本国寺日メA妙顕寺日紹、求法院講主日乾らは一応日奥に賛意を表する。しかし日重の訴えは宗門の置かれている困難な立場を訴えるものであり、結局は一日だけは出仕することに決する。
(しかし一日だけ出仕し翌日からは宗制を訴えるということは実行されず、秀吉の没するまで出仕は毎年続けられることとなる。)
日奥のほか、日メA日紹、日乾らは、なをも反対するも、日奥以外は翌日の説得で出仕することを確認したと云う。
 日奥は妙覚寺に帰り、不出仕を説くも、妙覚寺の多くの僧俗は弾圧を恐れ、出仕を主張し、日奥に対する不満が充満したと云う。
太檀越後藤光乗・徳乗父子は来りて、日奥に反意するように忠告があったと云う。
同日夜半、日奥は「法華宗諌状」を書上げ、翌25日には伏見城に赴き呈上するつもりであったが、檀越らの強い制止に遭う。
翌25日衆徒大衆は妙覚寺に禍をもたらすから、霊宝等を携え退去するように要求する。日奥は先師日典より譲られた霊符・財宝などを後藤徳乗に預け、その夜妙覚寺に決別する。
日奥が処々を転々とし最終的には丹波小泉に隠棲したことは上述のとおりであるが、これは丹波小泉の領主前田玄以の好意であった。玄以は日奥の高潔な行動に心を動かされたことと玄以と親しい豪商辻氏、後藤氏、清水氏などの斡旋があったものと推測される。
 翌25日からの千僧供養会には最初反対した日乾は師である日重に意見され出仕し、妙顕寺日紹へ出仕を勧誘することとなる。本国寺日モヘ秀吉と親しい小出秀正と相談しつつ不 出仕を貫き、翌文禄5年4月本國寺を日桓に譲り、嵯峨に隠棲(後の常寂光寺)し、日奥とともに出仕者を攻撃したのである。
 なお日尊門流要法寺21世日性は自らは本國寺の会合には参加せず、日賙(にちしゅう)を以って不出仕を主張させ、自身は一度も出仕しなかったが、要法寺としては出仕したらしいと云う。


紫竹常徳寺

当寺は知足院(園城寺別院、関白藤原忠実が別邸とする)の寺跡を継ぐと云うも、詳細は不詳。
知足山と号する。
寛永5年(1628)日奥上人を開基とし、常徳寺が開山される。
寛永7年(1630)身池対論、日奥は死後流罪とされ、おそらく常徳寺もその余波で衰微すると思われる。
その後、観性院日猷(延宝2年(1674)寂)、金工後藤氏の帰依を受け、中興す。
 ※観性院日猷:下掲の「梅花鶯囀記」では不受不施僧で後に悲田派に転ずる。悲田派禁制の後の消息は不明。
2016/02/10追加:
明治3年「日蓮宗本末一覧」より
紫竹常徳寺末寺
 本要寺(本法寺前町)
備前大安寺Webサイト:この当時の記録がある。 本サイトの 「資料集」には多くの情報がある。
○「梅花鶯囀記」(日念上人):
・・・・その後身延山日筵この悲田の悪儀を公儀へ申し上げて悲田派を滅亡せり。
この時日明、日禅、日純等或いは身延山の下になり、或いは天台宗になり。
備前蓮昌寺の先住日精聖人、京都紫竹常徳寺住持日猷聖人、上鳥羽実相寺住持了性院日性等皆悲田におちおわんぬ。・・・・
 ※日明は小湊誕生寺、日禅は碑文谷法華寺、日純は谷中感応寺
 ※上鳥羽実相寺は大覚大僧正開基寺院中にあり
○「説黙日課」(日講上人)元禄3年(1690)〜元禄4年:
・・・・誕生の一寺ただ身延の末寺と称せず、一本寺と為さんと欲する趣き愁訴す。住持は身延の支配なり。云云 また京大坂公儀より触状の写し到来す。その中小湊等の三寺身延の末寺と成る文言有り。かつ京都の紫竹常徳寺及び鶏冠井石塔寺妙顕寺の末寺と成る。紫竹兼ねて無住の由を称す。・・・・
 ※元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁止する。
 ※以上の記録から、日奥以降の常徳寺・日猷上人は悲田派に転じた様子であり、しかしそれも叶わず悲田派は禁教となり、京都受派妙顕寺に摂取された様子が分かる。以降四条妙顕寺末のままと思われる。
 ※以上の経緯があるためと思われるが、現在、日奥上人などの旧跡であることは一般にはほとんど知られない。
 ※悲田宗については、谷中感応寺小湊誕生寺 などを参照。
2012/04/03追加:昭和51年朝日新聞記事 より
 日奥上人坐像:紫竹常徳寺にて:近世不受不施派の始祖と云われる日奥上人
2010/02/25撮影:
現在、山門、本堂、書院、庫裏、鬼子母神などの堂宇を有し、後藤氏一族の墓がある。
 紫竹常徳寺山門     紫竹常徳寺本堂
2016/05/26撮影:
 紫竹常徳寺山門2     門前題目碑側面:大覚大僧正作日蓮像があると思われるも不詳。
 旧山号寺号碑:旧寺号碑と推定。
 紫竹常徳寺本堂2     紫竹常徳寺本堂3     紫竹常徳寺客殿     常徳寺妙法大二神
 後藤家墓碑?
後藤長乗ほか、演乗、達乗、真乗、実乗、玄乗、可乗、東乗、源乗など歴代(1代-6代を除く)、後藤一族の墓があるという。

2019/09/19追加:
◆紫竹常徳寺末寺
 ※判明分
下総佐倉昌柏寺 →下総佐倉昌柏寺


2010/03/06作成:2019/09/19更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系