紀 伊 の 日 蓮 宗 諸 寺

紀伊の日蓮宗諸寺

風吹峠道法華題目碑

2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
風吹峠道に2基の法華題目碑が残る。
おそらくは泉州から紀州への通行路として、賑わったことの証であろうか。

1)風吹峠北山麓題目碑・・・未見
泉州との国境より紀伊國の入り口にあたる岩出押川にある風吹峠の北山麓に題目塔がある。
「南無妙法蓮華経 僧正日解」とあり、本国寺日解の筆であり、「宝暦9年(1759)天巳卯8月吉日」とある。
高さ3尺、1尺角で、台座はなし。

2)風吹峠道・根来大門への分岐題目碑
風吹峠を南下し、根来寺大門への分岐の所に題目碑がある。
板碑式で巾1尺98寸、丈5尺余、厚さ約6寸、下部は破損。
右横には「西坂本村天下辻村 ・・・」、左横には「宝永6歳(1709)・・・」とある。
2015/03/17撮影:
 法華題目碑:誠證寺から根来寺大門に至る道路脇にある。宝永6年(1709)年紀、西坂本村云々の刻銘がある。
南側に蓮経寺(直下に掲載)が近接する。

紀伊岩出蓮経寺(岩出市根来)

観妙山と号する。紀伊養珠寺末。
蓮経寺については、まったく情報がないが、唯一の情報として、和歌山寳珠山遍照寺のサイトに以下の文面の掲載がある。
「安政4年(1857)、那賀郡岩出町(現:岩出市根来)蓮経寺を本寺養珠寺より永代預かりとなり兼職する 。
弟子・恵光院日量に該寺を経営せしむ。」
以上によれば、養珠寺末寺であったこと及び和歌山寳珠山遍照寺(下に掲載)の永代預りであったことが知れる。
2015/03/17撮影:
 蓮経寺本堂庫裡1     蓮経寺本堂庫裡2
北側に誠證寺が接する。

紀伊岩出誠証寺(岩出市根来)

2015/03/17撮影:
智光山と号する。甲斐大野本遠寺末。
寺歴など不詳。根来西坂本にある。
 誠證寺山門     誠證寺題目碑
 誠證寺本堂     誠證寺庫裡玄関     誠證寺鐘楼

紀伊直川本恵寺

2015/11/09追加:
○「紀伊國名所圖繪 巻3」 より
大福山本恵寺
身延門流新宮本廣寺に属す。
本堂千手観音(・・役行者の作)、開山堂(役行者の自作の尊像を安置)、経堂(開山堂の傍らにある)、六所権現(本堂の後にあり)、鐘楼 (本堂の前巽にあり)、僧坊(古は本坊二区、脇坊十区ありしも■■上人中興の後・・今は四区存在せり)、仁王門(南面する)、辨天社(本堂の後西の山手にあり)、薬師堂(本堂の後西小1町にあり)、妙見堂(本堂のうしろ西小2町にあり)。
 抑々当山は役優婆塞の開基、真言秘密の道場にして葛城四十九院の其の一なり。
・・・草創の地は是より山に入る事五十余町にて辨天の窟といへる處なり、山を大福と称し、寺を千手と號せり。・・・
其の後、由良の興国寺の開祖法燈国師感得の霊夢によって法弟龍実上人に附命して正安元年今の地に移して禅宗の■刹となし・・・
天和年中日蓮宗の高僧日忠上人を請して中興の開祖とし寺號を改めて本恵寺となし・・・身延門の法華宗となれり。
 直川本恵寺
○本寺の草創は古代に遡るといい、開基は役行者小角であり、真言密教の道場であり、葛城二十八宿葛城四十九院の一つであったという。
 ※葛城四十九院とは良く分からない。
 ※葛城二十八宿とは役行者(小角)が法華経八巻二十八品を埋納した経塚を云う。
 著名なところでは、2品譬喩品/紀伊本恵寺の前身であるという大福山辨天、14品安楽品/河内光滝寺、10品法師品/牛滝山大威徳寺
 15品従地湧出品/天台若王寺末岩湧寺などがある。

本堂に安置された千手観音は大宝2年(702)役行者の造作と伝える。
正安元年(1299)由良興国寺開祖法燈国師の霊夢によって、龍実が山中の弁天の窟から現在地へ移し、禅宗となる。
天正の兵火にあって焼失、慶長年間(1596〜1615)平塚越中守久賀により再興され、諸堂を建立する。
天和3年(1683)新宮城主水野源重、日蓮宗に改宗し、新宮本廣寺開祖正孝院日忠上人を請じ、現山寺号に改める。よって正孝院日忠上人を中興の祖とする。
2015/12/13撮影:
身延山末寺と云う。(本恵寺談)
現在は仁王門、本堂、祖師堂、納骨堂、本坊(客殿・庫裡)、いくばくかの小宇からなる。
「紀伊國名所圖繪」に描かれる開山堂、経堂、鐘楼、辨天、薬師、妙見社(妙見宮道?の石碑だけが現存する)、本坊下などにあったと思わfれる僧坊などは退転し、既にその姿をみることはできない。
 本恵寺門前題目碑1     本恵寺門前題目碑2
 本恵寺仁王門1     本恵寺仁王門2     本恵寺仁王門3     本恵寺仁王門4     本恵寺仁王門5    本恵寺仁王門6
 本恵寺仁王像1     本恵寺仁王像2     本恵寺参道題目碑:元禄3年(1690)年紀
 本恵寺本堂1     本恵寺本堂2     本恵寺本堂3     本恵寺本堂4     本恵寺本堂5:扁額
 本恵寺祖師堂1     本恵寺祖師堂2
 本恵寺本坊1     本恵寺本坊2     本恵寺本坊3     本恵寺境内題目碑     本恵寺納骨堂
 本恵寺妙見宮碑:妙見社は裏山山中約2町のところにあったが、退転(本恵寺談)という。 この碑は現在納骨堂脇にある。従って碑文は妙見宮ではなく「妙見宮道」?とあるのかも知れない。あるいは妙見宮が退転し、この石碑は山中から現在地に移されたのかも知れない。
 本恵寺歴代墓所

紀伊北島妙瑞寺

2015/12/13撮影:
山号、開基、開山、本寺など一切の履歴が不明(情報なし)。
 妙瑞寺正面     妙瑞寺南側     妙瑞寺北側
2019/01/09追加:
K.G氏情報:栄昌山と号する。昭和34年に寺号公称した新しい寺院。


昭和8年和歌山市
 ※昭和8年和歌山市とは
明治22年に発足した和歌山市(名草郡・海部郡中の和歌山城下)に雑賀村・宮村(昭和2年編入)及び和歌浦町・鳴神村・中ノ島村・岡町村・四箇郷村・雑賀崎村・宮前村(昭和8年編入)を加えた地域である。
昭和15年編入の湊村・野崎村・三田村、昭和17年編入の松江村・木ノ本村・貴志村・楠見村は入っていない。勿論、戦後に編入された加太町なども入っていない。
 ※本ページ中の印は 「和歌山史要」増補3版、和歌山市役所、昭和14年 からの転載であることを示す。
 ※昭和8年和歌山市の佛教の状況は次の通りである。
天正8年織田信長本願寺を攻め、顕如上人逃れて当地に来たり、鷺ノ森に真宗の本山を構える。
近世初頭、桑山氏・浅野幸長相つぎて安堵の策を採り、仏教の隆盛に努める。以って近郷よりここに移転して来る寺院が多し。
また元和5年徳川頼宣入國するに及び、旧封駿河遠江の僧侶その徳を慕い随従して草創するもの、移すもの少なからず、現在の寺院概ねこの時に備わる。
日蓮宗に関していえば、徳川頼宣生母養珠院、加藤清正娘・徳川頼宣夫人揺林院などは同宗無二の行者なりしものであった。
しかし、宝暦7年(1757)紀州六代宗直「挫日蓮」を著わし、諸公子、公女をして日蓮宗信仰を禁ぜしむ。(※「挫日蓮」を著したのは六代宗直ではなく、7代宗将であろう。)
明治維新にて神社別當神宮寺を廃寺とし、明治40年寺院整理を実施する。
その結果、天台6、真言19、浄土35、臨在6、曹洞12、真宗51、日蓮17、本門1、法華1、時宗1、黄檗1、合計150ヶ寺となる。

新町宣経寺

毛皮屋町。寛永5年陽成院妙義の建立、鷲仙院日養の開基なり。(一に日養建立、蓮心院第3世日格開基す。)
妙義山と号する。玉澤妙法華寺孫末(妙法華寺末蓮心寺末)。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より
吹上蓮心寺に属する。
当院は日招上人の開基なり。・・・・
2015/10/08撮影:
 和歌山宣経寺全容     和歌山宣経寺題目碑     和歌山宣経寺本堂内部
 和歌山宣経寺納骨堂     和歌山宣経寺浄行菩薩

新町本覚寺

数寄屋町。元駿河にあり、元和5年日因上人頼宣に扈従してこの地に移り、地を車坂に賜ひて当寺を建立す。後ここに移転す。
法輪山と号する。2016/12/12追加:重須本門寺直末。
2015/10/08撮影:
 和歌山本覚寺全容     和歌山本覚寺題目碑     和歌山本覚寺本堂

新町久成寺

吹屋町。開山を白僚と云う。元和9年車坂の辺に創建し、正保3年この地を賜ひて移る。
陣門流。昭和20年7月の空襲にて一切を焼失、再建本堂は華奢ではあるがRC造という。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より
越後國本成寺に属する。
当山は日禄上人の開基にして、天正より寛永の頃まで吹上車坂の辺にありしを正保3年今の地に移れり。・・・
 挿絵:庚申堂/般若院/久成寺/多門院
2015/10/08撮影:
 和歌山久成寺本堂     和歌山久成寺題目碑     久成寺本堂/庫裡     和歌山久成寺納骨堂

中之島安楽寺

紀伊報恩寺末、妙道創建開基、もと天台宗にて河北栄谷にあり。寛保2年(1743)この地に移り、天明2年(1782)禅宗に改め、弘化2年(1845)また日蓮宗に改む。
安楽寺サイトでは次のように云う。
安楽寺は元々、天台宗寺院と称して松島村に存在していたが、かなり荒廃する(年不詳)。
享保11年(1726)長束長兵衛丈好という者が、先祖供養のために、栄谷村に移転再建し、山号を長束山とする。
寛保2年(1743)さらに当地に移転し、天明3年(1783)禅宗に改宗する。
弘化2年(1845)に妙道院日行が有馬山から妙見堂を移築して日蓮宗に改宗する。
2015/10/08撮影:
 和歌山安楽寺全容     和歌山安楽寺題目碑     和歌山安楽寺本堂     和歌山安楽寺妙見堂(推定)
 和歌山安楽寺最上稲荷     和歌山安楽寺秋山自雲     和歌山安楽寺石造宝塔
 開山/開基墓碑:向かって右が開山妙道院日行上人墓碑(推定)、左が開基泰観院日典上人 (不詳)墓碑と推定される。

吹上正住寺

東長町2丁目。もと真言宗なりしが、文明年中妙覚寺13世真如院日住上人再興、法華寺とせり。初め湊魚の店にあり。慶長年中元寺町に移り、寛永年中復たこの地に移る。
詔賢山と号する。京都妙覚寺末。
2015/10/08撮影:
 和歌山正住寺全容:山門及び石階は現在造替中      和歌山正住寺題目碑
 和歌山正住寺本堂      和歌山正住寺鐘楼      和歌山正住寺毘沙門天     和歌山正住寺庫裡:推定
 和歌山正住寺客殿:推定、「橋本市池永家離れ座敷の和歌山市正住寺への移築保存について」2013 という論文<未見>があるので、おそらくこの推定客殿が橋本市池永邸より移建された離れ座敷と思われる。

吹上報恩寺:日蓮宗本山

この地もと要行寺あり。
寛文6年(1666)瑶林院東武に掩粧ありて、遺骨をこの所に納めしが、同10年二代光貞、母追善の為、台許を得て要行寺を廃し、その地を収めて新たに当寺を創建、菩提所とし、白雲山と号し、法華特立の一本寺たらしめ、日順上人(光貞舎弟)を開祖として寺領250石、山林一所を附す。
明治12年圓如寺を合併す。
 ※吹上圓如寺
  報恩寺の北となりにありしという。この地はもと徳川頼宣の母真如院の住邸あり、禅尼法華を信じ、一宇建立の志ありしが、
  果たさずして損館(ママ)ありしかば、六代宗直其の志を追成し、享保20年那賀郡曽屋村の廃寺観音寺をこの地に移して圓如寺と改め、
  日従上人を開山とし、寺領30石及び若干の祠堂金を寄付す。
  維新後寺産を失い、廃頽して明治12年報恩寺に合併せられる。
○「日蓮宗の本山めぐり」より
明治維新の廃仏毀釈によって一旦は諸堂破壊の難に遭遇するも、明治11年4月本山に列し、復旧漸く旧観を偲ぶに至る。
昭和20年7月米軍の大空襲に遭って諸堂が全焼する。爾来苦節20年漸くにして今日の伽藍がなる。
境内20000坪、本堂・書院・総門を有する。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より

 報恩寺・本光寺・妙法寺など:全図
 報恩寺・本光寺・妙法寺など:部分図:左図拡大図
法華宗無本寺。本堂(・・・瑶林院殿尊牌)、御霊屋、位牌堂、鎮守三十番神祠、鐘楼堂(以上本堂の西南にあり)、
祖廟并歴祖廟(ともに本堂南にあり)、瑶林院殿御廟(中門の正面にあり)、御成御門(是即ち表門なり・・・)・・・
2015/12/22追加:
○「和歌山と和歌浦」内村義城 (養浩居主人)、木国史談会、明治42年 より
当時、寺地は東西132間余、南北181間余、本堂は表行13間半、奥行8間半あり、瑶林院の位牌を祀る。本堂東には紀州家姫方局方の位牌堂、天真院(光貞正室)、寛徳院(吉宗正室)の霊牌堂、台嶺院(光貞息女・一条兼輝正室)・瑶林院・天真院・寛徳院等の宝塔、三十番神堂などがあった。
なお近頃和歌浦養珠寺から養珠院の位牌を移し、本堂に安置という。
2015/12/22追加:
○「写真にみるあのころの和歌山-本町編-」和歌山市立博物館、平成21年 より
 報恩寺全景:正門を通り抜けたところで昭和初期頃の撮影であろうとの解説が付く。
 ※「紀伊国名所圖繪 巻之1」の挿絵と照合すれば、正門を通り抜け、北方を撮影したもので、左手前は鐘楼、その奥は本堂、本堂右に写るのは玄関・客殿などであろう。

◆末寺として以下がある。
養心山法紹寺(和歌山市神前)
○長束山安楽寺(和歌山市中之島) →上に掲載(中之島安楽寺)
○妹背山海禅院(和歌山市和歌浦中):元は紀伊養珠寺末であったが、明治になり紀州徳川侯爵家の意向で、報恩寺末に転ずるという。
多聞山正福寺(岩出市曽屋)
2015/10/08撮影:
 本山報恩寺山門     本山報恩寺山門内     本山報恩寺題目碑
 本山報恩寺御成門/本堂     本山報恩寺御成門     本山報恩寺本堂1:昭和40年再建      本山報恩寺本堂2
 本山報恩寺本堂後堂     本山報恩寺客殿/庫裡:昭和40年再建
本堂客殿庫裏の裏山に徳川家廟所がある。
 報恩寺徳川家廟所参道     報恩寺徳川家廟所正面     瑶林院尊前石■一對1     瑶林院尊前石■一對2
 徳川家廟所土塀
 歴代藩主正室墓碑1:向かって左から初代頼宣室瑶林院、2代光貞室天真院、5代吉宗室寛徳院 の墓碑であり、南面する。
 歴代藩主正室墓碑2:同上
報恩寺徳川家廟所瑶林院墓碑:砂岩製、高さ4.4mという。 瑶林院は加藤清正娘、慶長6年(1601)出生、元和3年(1617)当時駿河遠江藩主であった徳川頼宣に輿入れし、元和5年に頼宣の紀州入国に伴って和歌山に移住する。寛文6年(1666)没。
 報恩寺瑶林院墓碑1     報恩寺瑶林院墓碑2     報恩寺瑶林院墓碑3
 報恩寺瑶林院墓碑4:「爲瑶林院 浄秀日芳 菩提建焉」と刻む。
報恩寺徳川家廟所天真院墓碑:
 報恩寺天真院墓碑1:向かって右は寛徳院墓碑      報恩寺天真院墓碑2     報恩寺天真院墓碑3
報恩寺徳川家廟所寛徳院墓碑
 報恩寺寛徳院墓碑1     報恩寺寛徳院墓碑2
2代藩主光貞側室息女墓碑
 2代藩主光貞側室息女墓碑:4基が並 び、西面する。側室墓碑より小型である。
向かって左端の墓碑は刻銘が読み取れず被葬者は不明、左から2基目は光貞側室瑞應院墓碑、左から3基目は光貞側室真如院墓碑、右端は光貞長女台嶺院墓碑である。
 ※瑞應院:光貞側室、3代藩主徳川綱教生母。
 ※真如院:光貞側室、4代藩主徳川頼職生母。
 ※台嶺院:光貞長女、光姫、従一位関白一乗冬経正室。
 なお、台嶺院の事績の一つは山科檀林(山科護国寺)に見られる。
 即ち、サイト「山科護国寺」では以下のように述べる。
  「総門と旧学寮は、創建時に建立される。
  開山の日勇に帰依した紀州徳川家2代藩主・徳川光貞、その室天真院殿(安宮照子)の寄進による。
  総門はその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主になる。学寮は明治5年に喪失す。総門は現存し欅造りになる。」
  「総門:紀州徳川家からの寄進:
  護国寺で唯一開創当時から残る欅造りの門である。開山の日勇聖人に深く帰依していた紀州徳川二代藩主である
  徳川光貞とその妻安宮照子(天真院殿)が願主となって建立される。
  またその娘の台嶺院殿、伏見家の高厳院殿が施主として名前を連ねている。」
 また、台嶺院の菩提を願って寄進した梵鐘が報恩寺に残る<未見>とも云う。
報恩寺徳川家廟所その他の墓碑:いずれも刻銘が摩耗し判読が出来ず、何人の墓碑かは不明。
 報恩寺その他の墓碑1     報恩寺その他の墓碑2

吹上本光寺

寺町。天正19年妙覚寺日典草創す。元宇治郷にあり、後にここに移すという。
法性山と号する。京都妙覚寺末。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より
廣徳山妙法寺
祖師堂。当寺は元名草郡和佐の荘にありしが、元和3年日栄上人ここに移し中興の開山とす。
本光寺は 報恩寺・本光寺・妙法寺など:部分図 の寺町北側に描かれる。ここに描かれる山門は元禄14年建立という山門であろう。
そして東に描かれるの堂宇の何れかが祖師堂であろう。
2015/10/08撮影:
山門は赤門と通称され、元禄14年(1702)建立で、今次大戦の戦火を唯一逃れるという。
 和歌山本光寺全容     和歌山本光寺山門1     和歌山本光寺山門2     和歌山本光寺本堂     和歌山本光寺庫裡

吹上妙法寺

寺町。草創年時考ふる所なし。日栄を中興開山とす。
宏徳山と号する。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より
法性山本光寺
法華宗妙顕寺に属す。鎮守三十番神祠。
妙法寺は 報恩寺・本光寺・妙法寺など:部分図 の寺町北側西端に描かれる。
2015/10/08撮影:
 和歌山妙法寺山門     和歌山妙法寺題目碑     和歌山妙法寺本堂
2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
元和5年(1619)徳川頼宣が紀州及び伊勢松坂の封に就く。頼宣は和歌山城下の改造を行い、吹上一帯を開拓し、武家屋敷と寺町を形成する。
妙法寺は吹上寺町の草分で、元和3年名草郡和佐荘から移転したと推察される。

吹上蓮心寺

小松原通五丁目。頼宣未だ駿府に在りし時、生母養珠夫人豆州玉澤妙法華寺日産上人に帰依し、慶長14年駿州府中に当寺を造立して上人を開山とす。
元和2年頼宣の命により此所に移り、寺名善曜山蓮心寺は夫人法諡蓮花院と夫人祖父法諡善久光曜に採るという。
塔頭7院ありしが明治5年合併す。当寺に日蓮上人真蹟数通あり。
善曜山と號する。豆州玉澤経王山末。
末寺
新町宣経寺(上に掲載)、廣瀬遍照寺(下に掲載)などがある。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より

 蓮心寺
 蓮心寺(文字入れ):左図拡大図

本堂、祖師堂(本堂の西にあり)、鎮守開運座三十番神祠(本堂の西にあり)、拝殿、釈迦堂、鐘楼堂(裏門のほとり)、位牌堂、黒書院、
子院七区(大立院、本成院、瑞雲院、大圓坊、法雲坊、玉泉坊、玉林坊)
2015/12/22追加:
「和歌山と和歌の浦」 より
本堂は11間×7間半の規模であった。
 

2015/10/08撮影:
本堂・妙見堂などは平成18年(株)鳥羽瀬社寺建築によって改修される。
 和歌山蓮心寺本堂     和歌山蓮心寺妙見堂     和歌山蓮心寺庫裡
2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
元和5年の藩祖国替えの折、供奉り、当地へ引き移るという。
開山良應院日産は養珠院の俗縁に当たり、その外護は厚く、後に玉澤妙法華寺の貫首に晋山する。

吹上感應寺

静岡及び米子にも常住山感應寺が在り、本寺を合わせ日本法華三感應寺と呼ばれる。
常住山と号する。身延山末。
島崎町。往古は駿州富士山麓下方村にありて瀧泉寺と称し、真言の大伽藍にして大衆常に一百余僧あり、日蓮上人身延山にあ りて
化導の時、大いに真言を破斥せしかば、大衆怒りて上人と対論し、遂に感伏せしめらるるに及び法華に改宗す。
明応年中岩越刑部大輔この地を領するや、亡父の為にその廃蹟を興し、亡父の院号を採って寺を感應寺と改め、一國の僧録となす。
元和6年住職日陽、頼宣の命に応じて当國に移り、新町に住せしが、同7年頼宣生母養珠夫人、この地に限界を定め、本堂坊舎を建立して、
駿府感應寺と双立せしめ、寺産10石を賜ふ。塔頭はもと7院あり、明治5年これを整理し、現今2院を存するのみ。
 ※存する2院とは一乗院及び本行院の2院である。
 ※日陽上人は圓覺院日長上人弟子、日長上人は駿河感應寺11世、米子感應寺3世(実質開山)。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より
常住山感應寺:
・・・本堂、鎮守七面大明神祠(本堂の南にあり)、三十番神祠(東の山にあり、南龍公の母堂建立・・)、鐘楼(西の山にあり・・)、経蔵、千佛閣、
本地院殿寝廟(たまや/※本地院は松平頼雄であり、紀州藩支藩の伊予西条藩の世子)、位牌堂、
子院九区(正善院、養林院、本行院、観行院、是心院、一乗院、正壽坊、久成坊、学妙坊)

 感應寺・禅林寺・・・など(全図)
 感應寺(部分図):左図拡大図
本堂南に七面社、東に番神があることが確認できる。
 ※七面社については「七面堂は頼宣室瑶林院が武運長久を願って建てたもので、昔のままの姿をとどめる。
 明治41年(1908)に本堂を再建したとき、日蓮宗の学校だった[矢坂檀林]の講堂を譲り受ける。
」との情報がある。
上記の情報について次の2点が未確認である。
1)七面社は瑶林院の建立で、当時の姿を留めるという。但し、現在は本堂南にはなく、番神社のあった東に移動していると推測される。<現地で見落としており、はっきりとは分からない。>
2)本堂は明治41年再建され、それは[矢坂檀林]の講堂であったという。但し[矢坂檀林]とは不明であり、またその後この本堂が現在まで存続するのかどうかも不明であり、よくわからない。

2015/10/08撮影:
 和歌山感應寺山門     和歌山感應寺本堂1     和歌山感應寺本堂2:現在耐震補強工事が進行中で、かなり大がかりな補強が行われる模様である。
 和歌山感應寺玄関     和歌山感應寺庫裡
感應寺寺中一乗院;詳細不詳
2015/10/08撮影:
 寺中一乗院入口     寺中一乗院玄関・庫裡     寺中一乗院本堂     寺中一乗院納骨堂?
感應寺寺中本行院;詳細不詳
2015/10/08撮影:
 寺中本行院山門     寺中本行院本堂     寺中本行院庫裡
末寺:
 本法山隆昌寺(紀の川市貴志川町長山)
 萬部山本久寺(和歌山市毛見)

萬部山本久寺:<未見>

○慶長年中(1596-1615)本覚院日玄が広瀬川のほとりに草堂を結んだのが草創という。
(開山は日玄で、法華経一万部読誦の願を立て、寂年までに11,800部を読誦する。)
これを伝聞した瑶林院は宗祖の像を寄進する。  
正保年間(1644-48)二世日方は島崎町の地に土地を求め、堂宇を建立する。よって日方を中興開山とする。 
平成10年和歌山市都市計画により現在地(和歌山市毛見)に移転する。 
現在、山門、本堂、妙見堂を具備する。
○「紀伊国名所圖繪 巻之1」 より
 感應寺(部分図)  では感応寺東下に本久寺が描かれる。
感應寺に属する。

廣瀬遍照寺

吹上蓮心寺末、屋形町4丁目。文化8年(1811)智貞尼創立開基、もと湊今福にあり、明治33年この地に移転す。
日蓮宗寶珠山遍照寺のサイトでは次のような「沿革」の記載がある。
初祖貞壽院日實上人が、寛政元年(1789)に法華経の精舎として今福の地に玉林坊を創立。
 京都峯山妙経寺十五世普明院日照上人の弟子貞苗院日普上人を開基に仰ぐ。
 日実上人は、丹波篠山の富商福田家の子女で、初め紀州藩に仕えたが開基の門に入る。
天保15年(1844)に藩奉行所の允許を得、寺号を譲り受け現称に改める。
 ※遍照寺とは日高和田浦(現:美浜町和田)にあり、宝永4年(1707)10月4日の宝永大地震による津波で流失した真言宗遍照寺か
 ※紀伊和田浦(紀ノ湊)にあり、明応7年(1498)8月25日の大地震による大津波により流失した寺院か
安政4年(1857)那賀郡岩出町(現:岩出市根来)蓮経寺を本寺養珠寺より永代預かりとなり兼職する。弟子・恵光院日量に該寺を経営せしむ。
 ※紀伊岩出蓮経寺は上に掲載
明治33年第七世恵順院日覺法尼の時に現地に土地を求め移転する。
昭和20年7月9日の和歌山市大空襲で烏有に帰すも、第九世一心行院日唱上人の代に復興する。昭和27年本堂・庫裡再建。
2015/10/08撮影:
 和歌山遍照寺全容     和歌山遍照寺本堂     和歌山遍照寺題目碑     和歌山遍照寺庫裡

雑賀浄心寺:未見

報恩寺末。字須打越坪。元和年中頼宣病み、甲州本遠寺日遠上人弟子忠桂の加持によりて平癒したるを以って、同9年当寺を創建、寺領25石を付し、忠桂を住職とし、 日遠を開祖とす。明治維新まで本遠寺の末寺なりき。

須本妙宣寺

養珠寺末。字須本宮坪。もと那賀郡粉河にあり、寛文年中粉河の東、陽山に移り、正徳2年養珠寺日禅この地に移して中興す。
もとは那賀郡粉河町の地にあり、寛永年間(1624-44)の創立と伝えられるも、記録が散逸し開基などは不明である。
寛文7年(1667)徳川頼宣の命により蓮心寺日宣が陽山に移転し、養珠寺末とする。しかし、のちに衰微する。
これを嘆いた養珠寺六世称智院日禅が、正徳2年(1712)現在地に再興する。日禅は京都深草の元政に学び『艸山集』には行首の名で呼ばれる。 本堂は再興時正徳年中のもので昭和42年解体修理する。
2015/10/08撮影:
 和歌山妙宣寺本堂     和歌山妙宣寺庫裡     妙宣寺妙見堂     妙宣寺妙見堂内部

和歌ノ浦養珠寺

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約及び転載菅原正明略歴

万治3年(1660)徳川頼宣、母養珠院の没後、養珠院の菩提寺として創建する。
さらに、廟所妹背山多宝塔守護として、当寺南山上に妙見堂(本尊:日護上人作妙見菩薩)も創建される。
開山は日遠上人、第2世は日護上人。

2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より(解説:額田雅裕、彩色:柴田浩子)

「紀伊國名所圖繪」に彩色を施す。
 養珠寺 妙見堂:西村中和/画:左図拡大図

2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より
「和歌山城下屋敷大絵図」宝永6年(1709)〜正徳4年(1714):和歌山県立図書館蔵 より
 和歌山城下屋敷大絵図:(部分)養珠寺付近
本図には多宝塔が描かれる。(養珠寺多宝塔?もしくは養珠寺妙見宮多宝塔?)
養珠寺より山上妙見堂に至るつづら折れの坂路の途中に多宝塔が描かれる。この絵図の描かれた18世紀初頭には妙見宮参道途中に多宝塔が存在したのであろうか。 しかし、幕末頃の「紀伊國名所圖繪」などには多宝塔はなく、はやくに退転したのであろうか。
但し、この多宝塔については情報皆無であり、よく分からない。

◆「紀伊國名所圖繪 巻之二」 より

 養珠寺/妙見堂:左図拡大図:2015/10/30画像入替
本堂、一切経蔵、持仏堂、書院、林泉などを具備する。
2015/12/22追加:
○「写真にみるあのころの和歌山-本町編-」和歌山市立博物館、平成21年 より
 和歌の浦養珠寺妙見堂
写真右は妙見堂で万治3年(1660)の建立。明治末年頃の姿を写すとの解説が付く。
 ※紀伊國名所圖繪の挿絵との整合が採れないが、名所圖繪のどの部分を撮影したものであろうか。それとも、明治維新の時大いに荒廃したということであるので、繪圖の時代からみて、姿を全く変えていたのであろうか。宝形堂に向拝を付設した堂宇が繪圖に無く、繪圖と写真の結び付けが良く分からない。

甲州久遠寺末。永應3年藩祖頼宣、真母養珠夫人の霊牌所として創建、身延2世日護上人を開基とし、寺領200石を寄付す。
当時僧坊荘厳を極め・・・廃藩後大いに衰微せり。境内仏堂妙見堂あり。万治3年の創建にして、本尊は日護上人公命を奉じて彫刻・・・せし霊像と云う。
明治20年比演光寺を合併せり。
◆養珠寺末寺
○紀伊岩出観妙山蓮経寺 → 上掲。
○紀伊和歌山須本妙宣寺 → 上掲。
○紀伊和歌の浦海禪寺 → 紀伊海禅院  但し、明治維新後は紀伊報恩寺末に転ずる。
○養珠寺現況:詳細は未掌握
◆2007/03/28撮影:
残念ながら、明治維新後あるいは戦後急速に衰微したものと思われる。
 養珠寺俯瞰:妙見堂登り口より撮影
かっての寺地の南半分は公園(写真)・交番・消防署などになり、北半分に諸堂(近年の手になると思われる本堂・庫裏ほか)、墓地が残る。
写真手前(南西)の残る苑池はかっての養珠寺苑池と思われる。
 養珠寺本堂・諸堂:宝形堂が釈迦堂(本堂)、左書院?、奥庫裏、右堂宇、さらに右は墓地。
 旧養珠寺苑池:公園奥に残された旧養珠寺苑池
 妙見堂拝殿:奥に宝形造の妙見堂が付設する。建築はおそらく近年の ものと思われる。
◆2015/10/08撮影
 養珠寺題目碑:山門も無く、ブロック塀の切れ目を以って入口としその入口に題目碑が建つのが現状である。
 養珠寺伽藍     養珠寺本堂     養珠寺釈迦堂     養珠寺書院:向かって右の建物が庫裡と思われる。
 養珠寺園池趾
 養珠寺弁天堂:入口に鳥居が建ち、傍らに は紀州葵の紋を刻む石造宝塔がある。この宝塔は「受光院月鏡日浄大姉」の墓碑であろう。
 またこの辨天は妹背山から遷座したと云われる。
 園池と妙見山登口     妙見山妙見大菩薩     妙見山妙見大菩薩拝殿

養珠院略歴

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約菅原正明略歴

文禄2年(1593)「お万の方」(萬、養珠院)は17歳で家康に仕える。
 ※三浦為春(紀伊徳川家附家老家祖、紀伊貴志領1万5,000石)は実兄である。
慶長3年(1599)養父母を喪ない、身延日遠上人に帰依し、深く法華経信仰の道に入る。
慶長7年(紀伊)頼宣を、慶長8年(水戸)頼房を出産。
慶長13年常楽日経上人と浄土宗との安土宗論に対して、幕府裁断に異を訴えた日遠上人は磔刑を命ぜられる。
お万の方は日遠上人の法難に殉ずる決意を家康に伝える。家康は信心の固さに驚き、日遠上人を赦免する。
寛永19年日遠上人は池上本門寺で遷化。養珠院は遺骨を奉じて、大野(本遠寺)に葬る。
その前後、養珠院は日蓮宗の大壇越として、松野(三松・貞松)蓮永寺を駿府に再興、駿河蓮長寺を創建、身延 山・池上本門寺・和歌山感応寺などの 主要寺院に堂塔伽藍を寄進する。
元和5年(1619)頼宣が母養珠院とともに和歌山に移封。感応寺を創建。駿河より和歌山に蓮心寺を移転。
元和9年頼宣病気平癒を祝い、養珠山浄心寺を創建。
元和5年、寛永17年、慶安3年身延七面山に家康追善のため女人で初めて登山する。
慶安3年(1650)頼宣・頼房に命じ、大野本遠寺に大伽藍を寄進し、菩提寺とする。
 同 年、摂津一乗寺の伽藍寄進も行う。
承応2年(1653)逝去・享年77歳。大野山本遠寺に埋葬される。墓所には石製宝篋印塔が建てられる。
 → 甲斐大野本遠寺
     ○養珠院墓所
     承応2年(1653)養珠院没。遺言により大野本遠寺に埋葬される。翌年紀州頼宣、本墓所を造営。
     養珠院墓:宝篋印塔(花崗岩・高さ4.55m)
     玉垣(花崗岩)、平唐門(石門・花崗岩)石燈籠、手水盥、紀州徳川家供養塔3基、石燈籠16基、石段、石垣からなる。
      本遠寺養珠院墓所1     本遠寺養珠院墓所2     本遠寺養珠院墓所3
      本遠寺養珠院墓所4     本遠寺養珠院墓所5     本遠寺養珠院墓所6
      本遠寺養珠院墓所略図
 (身延山に供養塔あり) →甲斐身延山の身延山諸堂の項を参照、
                 身延山篤信廟:右奥養珠院、右手前久昌院、手前中央寿光院、左端浄光院の各供養塔
                 身延山養珠院供養塔
 2011/02/27追加:
 (池上本門寺紀伊徳川家墓所に養珠院宝塔あり)
   →池上本門寺の紀伊徳川家墓所(池上本門寺紀伊徳川家墓所)の項を参照
    ○養珠院宝塔:承応2年(1653)銘
     養珠院宝塔1     養珠院宝塔2     養珠院宝塔3(2011/02/19撮影)

没後、頼宣は和歌山に養珠寺、頼房は太田に蓮華寺を建立し、菩提を弔う。
 →太田蓮華寺は常陸久昌寺を参照
また身延24世日遠上人は池上16世であったことにより、池上本門寺に石製宝塔が建立される。

中正院日護上人

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約菅原正明略歴

丹波与謝郡に生まれる。下総飯高壇林に学ぶ。三宝寺開山。
正保4年(1647)頼宣の再三の招聘を受け、和歌山に来住。多くの仏像を刻む。
養珠院と邂逅し、養珠院の法華経石奉納には上人の勧めなどがあったものと推測される。

和歌ノ浦海禅院 →紀伊海禅院・紀伊養珠寺


多田妙臺寺:現海南市多田

2015/11/10追加:
「紀伊國名所圖繪 巻六」 より
南照山妙臺寺
(同村<多田村>にあり。法華宗洛妙覚寺末・・。)
祖師堂(高祖日蓮大菩薩の尊像を安置、大覚大僧正の作なり。・・・)
三寶堂(本堂の傍にあり)、七面堂(同処南にあり)、三十番神祠(同処に隣る)、手洗舎、鐘楼堂・・・
 妙 臺 寺
当寺草創の妙体上人の俗姓をくわしうするに、伊賀国山田郡平田城主、平田の冠者貞継とて、・・・平氏と流れを同じうせり。
(源平の合戦に出陣するも、平氏は西海の沈淪し、・・・終に紀伊國多田郡に隠遁し、庵を結び日夜法華を誦し、その庵は何時しか妙体寺と呼び名せり・・・。
妙体の枝族の大橋通貞は召し取られ、鎌倉の土牢に繋がれるも、通貞が一子貞能は父を救うため、必死に神仏に祈願し、遂に頼朝の耳に達せり。頼朝は通貞を赦し、その後父子は誦経に生涯を捧げる。)
貞能が嫡子貞昭は父の志を継ぐとて、当時鎌倉比企谷の日朗上人の高名なるを聞き、文永2年(1265)鎌倉に出向き上人に師事する。修行成就ののち、法諱を日長と賜り、紀伊國に帰り、妙体寺を修造し、妙臺寺と号せり。
観応2年(1351)大覚大僧正当寺に来臨し、当寺を中興し、高祖の尊像を刻み、当寺に付属せしめる。
次いで永享10年(1438)京妙覚寺9世大聖院日延上人、大いに修補を加え、この時より法灯は妙覚寺に属せり。
2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
◇大覚大僧正の南紀周遊
大覚大僧正は、獅子ヶ瀬経王塚の碑文中に「延文丁酉之夏、大覚大僧正、周遊寺此地」とあり、また養源寺縁起中にも「延文年中ニ大覚大僧正紀伊國経回の砌」などとあり、南紀の日像上人流難の地を巡拝の目的で周遊したと考えられる。
大覚大僧正はこの周遊の折に、荒廃していた多田妙台寺を再興する。妙台寺蔵「大覚師御本尊」には「延文2年酉、増長守護与之」とあるのはその証左である。
◇大聖院日延と妙台寺再建
「紀伊続風土記」では大聖院日延を妙台寺開山とする。また、京都妙覚寺との本末関係も日延が妙台寺より後年妙覚寺に晋んだことによると論ずる。
かつて大橋貞昭の旧地を大覚妙実が妙台寺として再興したが、再度中絶する。その後永享の頃日延が再興したことにより、「紀伊続風土記」は日延を開山とするのであろう。
なお、日延上人は大橋家の出であり、それ故に妙台寺を再興したのであろう。

広養源寺:和歌山県有田郡広川町広1465

2017/03/10追加:
K.G氏情報:長流山と号する。洛妙覚寺末。
2017/03/08追加:
○養源寺の概要は次のとおりである。
獅子ヶ瀬峠の圓善上人の旧蹟に、大覚大僧正が法華堂を結び、弟子朗妙をこの地に留めたことが当寺の起源という。
後に、法華堂は広に移され、鹿ヶ瀬山法華寺と号する。
正徳元年(1711)徳川頼宣の御殿跡地を寄進され、長流山養源寺と改号する。
大黒天を祀るという。

2017/03/08追加:
養源寺の草創については次のように云われる。
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
三黜三赦(さんちつさんしや)の法難に関して、
「日像門下分散由来記」の「像師御留罪ノ地ノ事」として
 一、四国のトサノハタ当寺の末寺アリ、一、紀ノ國師子の背、一、備後ノヲノミチ
とあるという。
なお、紀ノ國師子の背とは現在の日高町鹿瀬(ししがせ)であり、熊野街道沿いの山中にある古城跡亦法華壇というところである。
 ※三黜三赦について
サイト:備陽史探訪の会>備前法華に安芸門徒の源流(日蓮宗の備後での布教)2003/10/11 では次のように云う。
徳治2年(1307)5月、日像は院宣により土佐に追放される途次、京都府乙訓郡鶏冠井真言寺の僧實賢(水呑重顕寺日行の兄弟子)と宗論を行い、日像に敗れた賞賢は改宗して寺を日蓮宗寺院とした。 また当時水呑重顕寺は真言宗寺院であったが、住僧の日行は檀家の同意を得て兄弟子賓賢に随従して寺を真言宗から日蓮宗に改めた。(→鶏冠井眞経寺
日像の伝記類はこの宗論を、三度目<二度目であろう>の延慶3年(1310)3月の紀州追放の時としている。
三度目の追放は元亨元年(1321)10月25日、後醍醐天皇から勅勘の院宣が出され日像は備後尾道へ配流の身となった。ところが13日後の11月8日に、早くも勅免「法華宗日像洛中経廻の事、御奏間の処、勅免有るの由、日野大納言殿、御奉行候ところなり」の院宣が出された。
 ※三黜三赦については次のような異説もある。
「日蓮教団史概説」影山尭雄、1959 では
土佐配流は延慶元年(1308)、紀伊流罪は延慶3年(1310)、洛内追放は元亨元年(1321)という。
 ※何れにせよ、紀伊における最初の足跡は延慶3年の日像上人の紀伊流罪ということであろう。

 ところで、「紀州日蓮宗風土記」では獅子ヶ瀬峠には相当大きな日蓮宗寺院があったのではないかとの指摘をする。
その相当大きな寺院とは、暗に草創期の養源寺を指すのであろう。
 獅子ヶ瀬の養源寺は釋圓善の逸話を絡めて、草創譚を語る。
即ち、この釋圓善について、「紀伊國鹿背山法華塚釋圓善上人旧跡縁起」ではおよそ次のように云う。
 天暦元年(947)比叡山東塔院の圓善上人は熊野参詣の途中の、獅子ヶ瀬峠で遷化する。後年壱叡上人が獅子ヶ瀬峠で宿をとった時、夜中に読経が聞こえてくるも、何も見えない。夜明けに足元をみると、苔むした骨人があり、舌だけが赤く生きているように蠢めいていた。壱叡は驚き、どうして此処で読経しているのかと聞けば、骨人は生涯に法華経六万部を読むと誓いながらこの地で倒れてしまったため、成就するまで往生できないと答える。
そして1年後、壱叡がその場所に戻ってみれば、既に六万部を読み切った骨人の読経は止んでいた。
壱叡は圓善の苦行を偲び、骨人のあった木の下に法華壇を築き供養する。
 (以上「紀伊国鹿背山法華塚釋圓善旧跡縁起」)
更に後年、日像上人の旧跡を巡行する大覚大僧正が、獅子ヶ瀬峠でその史実を知り、圓善の旧地に法華堂を結び、弟子朗妙をこの地に留める。
この大覚大僧正が結んだ法華堂が養源寺の起源と云う。

 もう一つの見方として、現在、獅子ヶ瀬南麓に8基の題目板碑があり、これらの板碑に注目すれば、次のように考察ができる。
即ち、これらの板碑は永享年中(1429-41)3基、嘉吉2年(1442)1基、寛正2年(1461)1基、破損にて年紀不明のもの3基(合計8基)を並べている。しかし、これらの板碑は最初からここにあったのではなく、ここより数町南の熊野九十九王子沓掛王子の側に寺院があり、何時の頃か荒廃し、明治の初期には堂一宇となる。この堂は広養源寺の管理となり、 いよいよ堂が腐朽し、敷地が畑となった時に、板碑はこの寺院から現在地に移転されたのである。
 考えるに、この熊野九十九王子沓掛王子の側の寺院こそ、日像上人流罪地と大覚大僧正の教廻の目的地・法華堂建立の地ではなかろうか。つまり、この地こそが養源寺の発祥の地ではなかろうか。
板碑にある年紀の永享、嘉吉、寛正の頃は養源寺の前身寺院は寺観が整っていたものと推測されるのである。

田辺本正寺

2017/03/10追加:
K.G氏情報:安立山と号する。洛妙覚寺末。
2017/03/08追加:
○「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収) より
日像の筆法たる「波題目」を刻した五輪塔が2基ある。(年紀は摩耗、判読不可)大覚妙実はおそらく獅子ヶ瀬より熊野道を南下し、大覚妙実も筆法を模すのであるが、 この五輪塔は大覚妙実が田辺の地に残したものであろうと推測する。


2015/10/24作成:2017/07/31更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系