最近訪問した塔婆・ご提供画像(2011/09/24〜2012/06/21)

過去の訪問塔婆履歴

2012/06/21 萬壽寺、東福寺塔頭勝林寺石製宝塔 萬壽寺
東福寺塔頭勝林寺
2012/06/07 河内開元寺礎石 交野市立教育文化会館保存礎石:初代及び岩倉開元寺礎石 →河内岩倉開元寺跡
2012/05/20 筑前東照寺 再訪 →筑前東長寺五重塔九州諸国擬製塔婆
筑前大圓寺五重塔1
筑前大圓寺五重塔2
筑前大圓寺五重塔3
筑前大圓寺五重塔4
筑前大圓寺五重塔5
筑前大圓寺五重塔6
筑前大圓寺五重塔7
筑前大圓寺五重塔8
筑前大圓寺五重塔9
平成7年(1995)建立、塔身26.5m、総高38.4m、和様を用いる木造塔である。
(「塔をゆく」:塔総高は28.2m、地上3階のRC造を加えると総高は38.2m)
但し心柱・四天柱は「亜鉛鍍金鉄円柱」と思われる。地上3階地下1階の屋内墓所(RC造 ・納骨堂・昭和54年竣工)と称するビル建築の上に塔は建つ。
塔は二重基檀、組物三手先、二軒繁垂木、屋根銅板葺。鹿島建設設計施工、木工作は金剛組。
なお、現在相輪の上部が欠損しているが、竣工後の写真を見ると全存しているので、竣工後の欠損であろう。
なお、昭和45年大阪万博古川パビリオン七重塔の払下げ(3500万円)も検討するも断念と云う。
 康平3年(1060)大圓寺、西入部(早良区西入部)に鎮守府将軍源頼信により創建(天台宗)。
文永8年頃(1271)聖福寺第三祖大応国師が臨済禅寺として中興、現在その跡地である西入部には三千坪の土地に観音堂と大円寺池を残す。
慶長12年頃(1607)黒田如水夫人の援助により荒戸山(荒津山)山麓(現在の西公園・大圓寺北東約500m付近)に浄土宗として再建される。
慶安2年(1649)荒戸山に東照宮を造営のため、現在地(荒戸後浜→大圓寺町→唐人町)に移転。
 ※荒戸山東照宮:三代藩主黒田光之の代、荒戸山に東照宮及び別当高照山松源院福祥寺(300石・寺中3坊)を建立。さらに寛文8年(1668)焼失した薬院の源光院(徳川家光を祀る)を荒戸山の谷町に移転。
明治維新後、東照宮・松源院・御霊屋別当源光院は配され、東照大権現坐像は警固神社に遷座。仏像などは古賀市清瀧寺に遷座。
明治42年、かっては城内に祀られていた権現社(祭神は黒田孝高<龍光院殿・如水>、黒田長政<興雲院殿>)が東照宮跡地に移される。
 荒戸山東照宮図:「筑前名所図会 巻一」 より:東照宮西側に松源院、東側に源光院を配す。
筑前城の原廃寺 筑前城の原廃寺
肥前千栗八幡 千栗八幡縁起が伝えられ、三重塔が描かれる。
 千栗八幡縁起:絹本着色、178×128cm、室町末期(境内図の建物景観の考証から、1589年から1595年までの間と推定できる。)
2幅あり、1幅は神功皇后の三韓出兵と応神天皇の出生までのいわゆる八幡縁起、もう1幅には千栗八幡宮の境内図と壬生春成の草創縁起である。伽藍図には東及び西法華三昧堂、常行三昧堂、宝塔(三重塔)、弥勒寺など多くの伽藍が描かれる。
◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 肥前千栗八幡縁起:j本殿に至る急な石階の上部左手入るに三重塔がある。
千栗八幡の略歴(なお千栗は「ちりく」と訓む。)は以下の通り。
神亀元年(724)肥前国養父郡郡司壬生春成が創建したと伝える。
以来当宮は宇佐八幡五所別宮の一とされる。
中世以降は肥前国一宮と呼ばれる。(但し、肥前一宮は、近世以降、河上社(與止日女)↑とその地位を争う。)
慶長14年(1609)後陽成天皇より「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」 の勅額を賜わる。
なお、千栗山妙覚院などのサイトによれば、
千栗八幡宮神宮寺は千栗山弥勒寺妙覚院と称し、近世は鍋島家の勅願所となり、寺領327石を受けると云う。
かっての境内は千栗・山中・北尾におよび、和泉院・玉泉院・常楽院などの社坊もあったと云う。
妙覚院本尊は弥勒菩薩、昭和44年全焼、その後再建と云う。
 参考:宇佐八幡五所別宮;
筑前大分宮(福岡県飯塚市大分)・肥前千栗宮(佐賀県三養基郡みやき町)・肥後藤崎宮(熊本県熊本市井川淵町)・薩摩新田宮(鹿児島県川内市宮内町)・大隅正八幡(現在は鹿児島神宮などと云う、鹿児島県霧島市隼人町内)
○2012/04/22追加:「千栗八幡 - 本地垂迹資料便覧」では
「肥前古跡縁起」:「・・・・・春成急ぎ都に上り八幡の御霊験一々奏聞す、聖武天皇御感坐て、即勅願霊場の宣旨を下さる、春成綸旨を戴き国に下り、彼の鳩の付ける所を八幡の御宝殿と定め、東西の廻廊より本地弥勒の金堂一切経蔵法華経三昧の道場、山王の社、三重宝塔六十六部の巡礼の経塚、薬師道場、賀茂の宮、和泉寺を始め、数の堂場いらかを双べ、荘厳を尽し造立し給」と云う。
○2012/05/20撮影:
現状、以下の写真以外には、見るべきものは殆どない。八幡宮縁起は当八幡所蔵と思われる。
但し、神宮寺(妙覚院)はすぐ背後に存在するも、今般参詣を失念する。
三重塔跡はその形跡を全く残さない。上掲載の肥前千栗八幡縁起から推測すれば、現在の社務所の建っている位置付近に三重塔があったものと思われる。現在の地形から見て、この場所以外に塔の建立されたような平坦地は見当たらないのである。
※塔跡については、神職は「そんなものは無い」の一言を発するのみ。現社務所は本殿のある石垣に沿って建てられ、1階は石垣下に位置し、2階は本殿の平坦地と同一レベルにあり、その2階に玄関を構える。
 千栗八幡宮推定塔跡地1     千栗八幡宮推定塔跡地2
 千栗八幡一の鳥居:慶長15年鍋島直茂の寄進(銘)
正面石階の下部の左右に次の祠跡がある。いつしか本殿東に移動し現存する。
 千栗八幡武雄社跡     鳩森稲荷社(保食神)跡
久留米霑妙寺宝塔1
久留米霑妙寺宝塔2
久留米霑妙寺宝塔3
久留米霑妙寺宝塔4
久留米霑妙寺宝塔5
久留米霑妙寺宝塔6

久留米霑妙寺三層堂1
久留米霑妙寺三層堂2
◆八角宝塔:建立時期、塔の名称(機能)、諸元など不詳。
身舎は平面が八角でしかもRC造(台輪もRC)であるが、組物・軒は木造で造作する。即ちRC造台輪上には木造の簡素な組物があり、軒は二重扇垂木を用い、屋根 は銅板葺。屋根上には宝塔・多宝塔風の相輪を架す。
平面は八角で一般的な宝塔で見られる円形ではないが、八角は圓と見做し、宝塔に分類する。
◆六角三層塔:宝塔に並んで建つ。平面は六角、RC造三層建物、屋根は球面に造り、その上に九輪を架す。三層塔風建物と云うしかないであろう。但し塔建築として評価できる代物ではない。
霊堂との扁額があるので、納骨堂であろう。
○霑妙寺は久留米市京町255。明治12年大石寺55世法主によって開基される。(日蓮正宗、広布山と号する。)
 久留米霑妙寺三門     久留米霑妙寺本堂
高良山明静院本堂遺構

高良山明静院の項(現安武八幡社拝殿)

筑後国分寺跡 筑後国分寺跡・現存筑後国分寺
筑後清水寺三重塔11
筑後清水寺三重塔12
筑後清水寺三重塔13
筑後清水寺三重塔14
筑後清水寺三重塔15
筑後清水寺三重塔16
筑後清水寺三重塔17
筑後清水寺三重塔18
筑後清水寺三重塔19
筑後清水寺三重塔20
筑後清水寺三重塔21
筑後清水寺三重塔22
筑後清水寺三重塔23
筑後清水寺三重塔24
筑後清水寺三重塔25
天保7年(1836)頃竣工。九州最古の塔。 一辺6.7m、総高26.9m。
三重塔は近隣の信者の寄進により、大阪四天王寺五重塔を手本に文政5年(1822)に着工する。棟梁宗吉兵衛は途中逝去するも、五重塔を三重塔に変更し、天保7年頃竣工と云う。天保15年落慶法要。
また、塔の前身と伝える九輪塔があったという。これは単層堂に九輪(青銅製)を架したもので、単層の塔上に青銅の九輪を備えた形式であった。この九輪塔は安永8年(1779)瀬高の遊女たちの寄進で建立されると云う。
山号は本吉山、大同元年(806)最澄によって創建されると伝える。
柳川藩(田中氏)により54石余が知行される。延享2年(1745)柳川藩復帰立花氏により山門が建立される。
2012/04/28追加:
 清水寺本堂・三重塔:絵葉書、年代不詳、現本堂と三重塔三重が写る。現本堂は昭和5年再建であり、右書であるので、昭和5年以降の戦前のものであろう。
2012/05/20撮影:
 筑前清水寺仁王門:延享3年(1746)建立
 筑前清水寺山門1    筑前清水寺山門2    筑前清水寺山門3    筑前清水寺山門4
 筑前清水寺本堂
 筑前清水寺稱名庵     筑前清水寺本坊
筑後東照寺多宝塔11
筑後東照寺多宝塔12
筑後東照寺多宝塔13
筑後東照寺多宝塔14
筑後東照寺多宝塔15
筑後東照寺多宝塔16
筑後東照寺多宝塔17
筑後東照寺多宝塔18
筑後東照寺多宝塔19
筑後東照寺多宝塔20
筑後東照寺多宝塔21
筑後東照寺多宝塔22
筑後東照寺多宝塔23

平成10年落慶。伝統様式の木造塔婆。一辺4.6m、高さ約15m。
 おそらくは近江石山寺多宝塔をモデルとしたものと推測される。大浦社寺建築社の設計施工。
東照寺は応永年中(1394-)、宮園城主今村氏の菩提寺として、宮園城の一画に創建される。(当時は臨済宗であったと云う。)天正年中、龍造寺隆信の兵火にかかり廃寺となる。
昭和23年中山身語正宗の今福観海僧正により、現在地(宮園城本丸・ニノ丸跡)に再興される。
 中山身語正宗大本山は佐賀瀧光徳寺(533)である。
境内伝之授社には宮園城主今村大隅の五輪塔、二代から五代の逆修碑が残ると云う。

2012/05/20撮影:
 筑後東照寺仁王門     筑後東照寺本堂
その他霊宝殿、八角円堂、庫裏、客殿や名称が不明の数棟堂宇があり何れもRC造の大型堂宇である。

筑後浄泉寺三重塔1
筑後浄泉寺三重塔2
筑後浄泉寺三重塔3
筑後浄泉寺三重塔4
筑後浄泉寺三重塔5
筑後浄泉寺三重塔6
筑後浄泉寺三重塔7
筑後浄泉寺三重塔8
昭和56年(1981)建立。一応は三重塔の形式を採るもRC製の粗略な塔である。
基壇は設けず、その代わりにRC造のおそらくは納骨堂と思われる基礎の上に建つ。この堂と塔初重の椽の一辺は同じ寸法である。さらにこの堂の正面には切妻屋根の妻入の向拝・入口を設ける。

浄泉寺:慶長3年(1598)僧正仙(徹門と号す)によって創建される。正仙の俗名は尾張国住古賀尾張介房光と称し、豊臣秀吉の直参であった。朝鮮征伐において立花宗茂の旗下に加わるも、名護屋城にて秀吉の死を知り、出家、一寺を建立し、立花氏より300石を知遇される。真宗大谷派。
2012/05/19 豊前求菩提山護国寺 豊前求菩提山護国寺
豊前宇佐法鏡寺跡1
豊前宇佐法鏡寺跡2
豊前宇佐法鏡寺跡3
宇佐八幡宮に連なる辛島氏の氏寺と推定される。7世紀後半 (白鳳期)の創建とされ、伽藍配置は法隆寺式であったと推定される。古代では中央の大寺と肩を並べ官寺に指定される。
以前は宅地・田畑であったが、現在は公有化されたものと思われる。遺構の整備計画があるようであるが、現状は一面の叢で全く何も分からずかつ地上には何も見るべきものはない。
現在、確認されている遺構は金堂跡および講堂跡と考えられ、塔遺構は未確認であるが、金堂・講堂の配置から法隆寺式の配置であろうと云われる。しかし金堂・講堂を含めて実態は不明と思われる。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
 豊前法鏡寺伽藍配置図
豊前虚空蔵寺跡塔土壇1
豊前虚空蔵寺跡塔土壇2
豊前虚空蔵寺跡塔土壇3
豊前虚空蔵寺跡心礎1
豊前虚空蔵寺跡心礎2
豊前虚空蔵寺跡心礎3
豊前虚空蔵寺跡心礎4
豊前虚空蔵寺跡心礎5
豊前虚空蔵寺跡礎石1
豊前虚空蔵寺塔礎石2
豊前虚空蔵寺塔礎石3
豊前虚空蔵寺塔礎石4
宇佐八幡宮大宮司大神氏の氏寺で、開基は法相僧の法蓮(「八幡宇佐宮御託宣集」)と伝える。
7世紀後半 (白鳳期)の創建とされ、伽藍配置は法隆寺式と確認される 。
現状塔跡は良く保存され、土壇・心礎・四天柱礎全部・側柱礎11個が残存する。
土壇は10m×11mの大きさで基壇化粧は瓦積と確認される。初重一辺は約5.3mと復原できる。
塔の東側の民家の敷地内には金堂のものと推定される花崗岩製礎石が残る<未見>と云う。表面には径73cmの柱座を造出し、一方には幅26cmの地覆座を有する。講堂は基壇の南端が確認され、凝灰岩製切石の地覆石が発見され、壇正積基壇を採用したと推測される。土壇には今も布目瓦の散乱を見る。
○「日本の木造塔跡」:心礎は1.76×1.6mで、径60×15cmの円穴を穿ち、穴底に環状排水溝を造る。さらに巾約9cm深さは穴の底に達する放射排水溝(1本)を穿ち、穴底の環状排水溝に繋がる。
○各種「図書」類から(出典は失念)
 豊前虚空蔵寺塔土壇   豊前虚空蔵寺塔心礎1   豊前虚空蔵寺塔心礎2
 虚空蔵寺塔跡:瓦積基壇面が 発掘される。
○2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
 虚空蔵寺伽藍配置図
○2008/09/07追加:「仏教考古学講座 第2巻 寺院」雄山閣、1984
 虚空蔵寺塔跡実測図:1954、1971に発掘調査、 その結果方400尺の寺域と法隆寺式伽藍配置が想定されるに至る。
  塔一辺は17.5尺(中央間6.5尺、両脇間5.5尺)と推定される。
○2012/05/14追加:「大分県文化財調査報告第26輯」大分県教委、1973 より
 虚空蔵寺塔跡実測図     虚空蔵寺心礎四天柱礎実測図
豊前宇佐八幡宮 豊前宇佐神宮寺
2012/05/06 備前與慶寺 再訪 →備前與慶寺
2012/05/01 石清水八幡宮 再訪 →清水八幡宮/西谷阿弥陀堂遺構石清水八幡宮・補足/志水正法寺
山城椏本八幡宮 再訪 →山城久世郡・綴喜郡の神仏分離/椏本八幡宮
2012/04/24 祇園感神院西門 再訪 →祇園感神院西門
北野天神旧鐘楼 再訪 →北野天神旧鐘楼
2012/04/08 備前西大寺 再訪 →備前西大寺
2012/03/22 山城法観寺五重塔 再訪 →山城法観寺
2012/03/09
「O」氏撮影画像
武蔵成田山
川越別院三重小塔1
川越別院三重小塔2
川越別院三重小塔3
川越別院三重小塔4
川越別院三重小塔5
川越別院三重小塔6
三重小塔由緒(小塔付設の板書):
 平成11年完成、設計施工は清野家七代目清四郎、練馬豊島山道場寺三重塔雛形とす。
但し、「道場寺三重塔雛形とす」とは意味が良く分からない。道場寺三重塔は昭和49年落慶であり、この小塔の完成年から雛形では有り得ないであろうからである。それとも道場寺三重塔を手本にしたと云う意味であろうか。
 特異なことは、各重とも、軒反の始末が一風変っていることである。それは垂木の部分には全く軒反が見られず、あたかも著名な播磨浄土寺浄土堂の軒の垂木 及び屋根の始末を思わせる。その一方屋根には浄土寺浄土堂と違って、軒反を見せることである。即ち、茅負の垂木側つまり下面は直線に造り、屋根側つまり上面には反りを入れ て造ることで、屋根の軒反を実現しているように見える。
このような特異な軒反(垂木は直線、屋根のみ軒を反らす)は古建築では見られないものである。
屋根銅板葺。
なお、三重小塔は内仏殿(本尊大日如来)の三階に安置されるようである。
○成田山川越別院は嘉永6年(
1853)石川照温が廃寺になっていた川越久保町(川越喜多院のすぐ北に位置する)本行院を復興する。
明治10年、成田山川越別院本行院となる。
1994/11/20
「O」氏撮影画像
陸奥勝常寺薬師堂1
陸奥勝常寺薬師堂2
陸奥勝常寺薬師堂3
陸奥勝常寺薬師堂4
陸奥勝常寺薬師堂5
陸奥勝常寺薬師堂6
陸奥勝常寺薬師堂7
弘仁年中(810-)<あるいは大同2年(807)>、徳一の創建(空海との説もある)と伝える。
創建時には東大寺式に似た(中門及び回廊の外・南大門の内に東西塔を配置)伽藍配置を採ると云う。(典拠・根拠不詳)
 ※上記の創建時伽藍配置の根拠は不明であるが、福島県湯川村公式サイトでは以下のように述べる。
「創建時の主要建物の位置は伝承、焼土、道路等に依り大体は想像できる。講堂を起点として南に向って大体等間隔に金堂・中門・南大門の位置が一直線上に立ち並んでいたことが想定出来るし、三重の塔跡は中門のそと東側にある。講堂の近くにあったはずの経蔵・鐘楼・僧坊等の位置は明瞭でない。」
 陸奥勝常寺予想伽藍配置図:湯川村公式サイトより
鎌倉後期、京都仁和寺玄海僧都が再興、以来、仁和寺末(丸剤は豊山派)となる。
応永5年(1398)火災焼失、室町初期には講堂(現薬師堂)が再建され、この堂が現存する。
薬師堂(重文):桁行5間、梁間5間、寄棟造、屋根銅板葺(もと茅葺)。室町期の様式を色濃く示す唐様が眼に付く。
本尊木造薬師如来及び両脇侍像(国宝):薬師堂安置、平安初期。
その他以下の仏像(何れも平安初期・重文)を残す。
木造四天王立像4躯、木造十一面観音菩薩立像、木造聖観音菩薩立像、木造地蔵菩薩立像(延命地蔵)、木造地蔵菩薩立像(雨降地蔵)、木造天部立像(伝虚空蔵菩薩像)
◆参考項目:以下「O」氏ご教示。(「置き千木棟」)
薬師堂大棟の納め方は「置き千木棟」と称する様式で、西会津地方の特有の形であるようである。
その参考として、「大内宿」(重要伝統的建造物群保存地区)の建物群がある。
1994/11/21「O]氏撮影画像:
 大内宿遠望     大内宿「置き千木棟」1     大内宿「置き千木棟」2
2012/03/29 吉野山金峯山寺 再訪 →吉野山金峯山寺
      旧紀伊野上八幡宮(東南院)多宝塔
      如意輪寺多宝塔
      金峯山寺南朝妙法殿
      金峯山寺仏舎利宝殿
大和比曽寺跡 再訪 →大和比曽寺跡
2012/03/10 備前恩徳寺

備前恩徳寺

2012/03/17
「X」氏撮影
箱根天聖院七重小塔1
箱根天聖院七重小塔2
建立年代、高さなどの法量、材質など詳細は全く不明。写真で判断する限り、金属製で金メッキを施すものと思われる。裳階附設。
天聖院は神仏金剛宗・箱根大天狗神社の別院と称し、一般人は天聖院に立入不可である模様である。
2012/03/15 大和菩提山正暦寺 再訪 →大和菩提山正暦寺
大和大安寺 再訪 →大和大安寺東塔跡・西塔跡
2012/03/03 備前禅光寺多宝塔 再訪 →備前禅光寺多宝塔
2012/02/26 大和古市廃寺 再訪 →大和の塔跡      古市廃寺・横井廃寺位置図
大和横井廃寺跡 旧添上郡東市村横井字ドドコロにある。(奈良市藤原にあるように見えるが、廃寺のある場所は藤原にある横井の飛び地である。)
明治28年推定金堂址から金銅観音菩薩像、山雲双鳳鏡(重文)、古銭などを出土。
○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作:西向きの四天王寺式伽藍配置と推定される。創建は飛鳥期と推定される。
推定講堂跡には礎石1ヶが畦道に残存する。推定金堂跡にも1個残存する。推定塔跡には2個の礎石が田中に埋もれている。それらは礎石であるという積極的特徴はないが、大きさから礎石と思われ、またいずれも原位置から移動しているとも思われる。
なお推定金堂跡からは金銅仏・鏡・古銭・銅椀・刀剣破片が出土し、これは地鎮のためのものと推定される。
 横井廃寺実測図:なお通称「カネツキアト」には大正末〜昭和初頭には土饅頭があったという。
 横井廃寺現状
○「横井廃寺の軒瓦について」原田憲二郎・島軒満(「奈良市埋蔵文化財調査センター紀要」奈良市境域委員会、平成8年(1996) 所収) より
廃寺の名称は「中臣寺(法光寺)」、「藤原村廃寺」、「横井千坊廃寺」、「横井廃寺」と呼称される。
辺りには、俗称「ヤケモン」、「カネツキアト」、「センボー」等の地名が残ると云う。
かっての研究には以下の例などが知られる。
 明治28年、当時の東市村住民が本廃寺を開墾中に金銅製観世音菩薩立像1体、蓬莱山双鸞鏡1面、銅碗1個、和同開珍、萬年通寳、隆平永寳、刀装具などを発見したという。そのことについて、明治39年高橋健自氏が「中臣氏の氏寺及びその遺址」と題して報告する。
 昭和2年、榧本亀次郎氏は「大和添上郡発見の金銅佛等について」と題して、高橋氏が報告した金銅製観世音菩薩立像をはじめとする出土遺物について詳細な報告を行う。しかし不思議なことに、これらの出土遺物は「添上郡帯解村大字山村字ドドコロに於て土取作業中に一農夫によって偶然発見されたものであるといふ」と記し、本文註を付して「遺物を収めた箱書及荻田氏(当時奈良県添上郡東市村字横井の荻田元平氏)談による。」と記す。
さらに「岸熊吉氏が車輪形石造品の発見から端緒をえて、そのドドコロを発掘されて多くの遺物を獲られたが如きは、これらの遺物の発見地の傳へに一の確実性を與へるかに感ぜられて興味の深いものがある。」と記す。この報告から金銅製観世音菩薩立像等は、本稿で扱う寺院遺跡からではなく、山村廃寺から出土したものということになる。このことは寺跡の評価の上で注意を要する。
 大和横井廃寺俯瞰
○「奈良市 横井廃寺 第2次発掘調査概報」奈良県立橿原考古学研究所、 2000 より
 大和横井廃寺地形図:伽藍推定は石田茂作「飛鳥時代寺院址の研究」による。
2012/02/26撮影:
伽藍は西面する。西に向かって開けた谷筋の忘れられたような奥に3面の田圃(今も稲作が行われる)として、塔・金堂・講堂跡が残る。何の表示もなく、また地上には何の遺構・遺物もなく、ここが古代伽藍跡とは思えないような現況である。
 大和横井廃寺塔跡1:北から撮影      大和横井廃寺塔跡2:東から撮影
 大和横井廃寺塔跡3:西から撮影
 横井廃寺金堂・塔跡:東から撮影 、上方に写る田圃が塔跡
 横井廃寺講堂・金堂跡:東から撮影 、手前が講堂跡、奥が金堂跡
大和塔の宮廃寺 再訪 →大和の塔跡
大和山村廃寺 大和山村廃寺
大和菩提山正暦寺 再訪 →大和菩提山正暦寺
奈良県ビルマの塔1
奈良県ビルマの塔2
昭和56年建立。ストゥーパ。RC造。歩兵第153連隊有志並びに篤志家が建立。奈良市古市町国家神道奈良護国神社社前にある。護国神社は古市古墳群の中に作られ、戦国期の油山城址にある。
第153連隊は昭和16年朝鮮・京城で編成、ビルマ方面を転戦と云う。
大和白毫寺多宝塔跡 再訪 →大和白毫寺
大和新薬師寺遠望
新薬師寺南門1
新薬師寺南門2
新薬師寺本堂1
新薬師寺本堂2
鎮守社本殿1
鎮守社本殿2
新薬師寺の創建については諸説があり、不明であるが、奈良期の創建であることは確かとされる。
創建当時の伽藍は東西両塔を備える大寺であったとされる。
宝亀11年(780)西塔の一角に落雷・焼失。(「続日本紀」)応和2年(962)台風で金堂以下諸堂が倒壊。 (「日本紀略」「東大寺要録」)塔は早くから退転と推定される。
現在以下の建築を有する。
本堂:国宝、奈良期、入母屋造、本瓦葺。5×3間の身舎に1間の廂を廻らす。従って外観は7間×5間。
南門:重文、鎌倉期、東門:重文、鎌倉期、鐘楼:重文、鎌倉期、弘安2年(1279)建立。地蔵堂:重文、鎌倉期、方1間の小建築である。
新薬師寺鎮守・鏡明神:本殿(一間社春日造)は興福寺春日権現第三殿を移築と記録される。享保13年(1728)春日権現の造替で建立され、延享3年(1746)の造替で移築と記録される。 本建築には「三ノ御殿」の墨書銘がある。
大和東大寺 東大寺東塔跡・西塔跡、東大寺東塔心礎残欠、東大寺相輪塔、東大寺転害門、東大寺大仏殿
再訪 →大和東大寺
大和中川寺跡 大和中川寺跡
2012/02/18 大和豐山長谷寺 再訪 →大和豐山長谷寺
大和良因寺薬師堂
大和良因寺薬師堂内部
大和良因寺薬師堂懸仏
再訪 →大和の塔跡の良因寺跡参照
大和内山永久寺跡
 附;石上布留社
再訪 →内山永久寺跡
山城井堤寺跡 山城井堤寺跡
2012/02/05
2012/02/04
備中国分寺 再訪 →備中国分寺
2012/02/04 備中惣持院南ノ坊全容
備中惣持院南ノ坊山門
備中惣持院南ノ坊本堂
備中惣持院南ノ坊庫裏
備中清水聖天

備中惣持院萬福寺本堂
惣持院萬福寺薬師堂
萬福寺薬師堂内部
2012/02/15追加:「総社市史 考古資料編」総社市史編さん委員会、1987 より
惣持院旧跡:伽藍地は清水の地であった。
当寺「旧記」では、北朝年号・貞治年中(1362-1367)讃岐與田虚空蔵寺増吽僧正が三重塔・金堂・経堂・山門・僧坊を造立する と云う。
 ※中世には三重塔があったと想定されるも、現状では塔遺構など望むべくもない。
また萬勝寺、戒光寺、南坊、観音坊、萬福寺など8坊(山号は何れも日照山と号す)を擁すると云う。
「総社御造営帳」正長元年(1428)には惣持院は総社造営の社僧であり、増忍僧正が導師を務めると記録が残ると云う。
中世末に2度焼亡するも、天正年中清水山惣持院として再興され、備中高松城主清水氏の菩提寺となり、清水氏により護持される。しかし 、漸次衰微したのであろうか、今は田圃化し、往時の伽藍を偲ぶべくもないが、伽藍のあったと思われる付近には、僅かに南ノ坊、萬福寺および南の丘の戒光寺(未見) などの堂宇を残す。
 ※清水山惣持院万勝寺増鉄は領主蒔田氏などの援助で享保年中(1716-)備中国分寺本堂・客殿・鐘楼などを整備すると云う。
 ※山号日照山は備中国分寺の山号と同一である。上記8坊を備中国分寺塔頭と云う見解もあるが、むしろその逆で近世では国分寺が惣持院の寺中もしくは末寺であったのではないだろうか。(未確認)
 ※日照山萬福寺:本堂(本尊地藏菩薩)、薬師堂、鎮守堂、清水家墓所がある。また「惣持院萬勝寺」銘の大般若経を蔵し、薬師堂薬師如来は明治初年萬勝寺から遷されたものと伝える。
 ※清水聖天は南ノ坊背後(北)にあるが、惣持院との関係は情報がなく不明。(無関係かも知れない。)
備中吉備津神社 再訪 →備中吉備津神社
2012/02/01 旧藤田男爵邸 再訪 →大阪旧藤田男爵邸東大寺礎石(現太閤園伝東大寺礎石、現藤田美術館伝東大寺礎石)
旧藤田男爵邸 再訪 →旧高野山光台院多宝塔(現藤田美術館多宝塔)
2012/01/28 奈良依水園  →奈良依水園伝東大寺西塔心礎
大和東大寺東塔心礎残欠 再訪 →推定大和東大寺東塔残欠
大和興福寺五重塔 再訪 →大和興福寺五重塔
2012/01/21
「X」氏撮影
奈良依水園  →奈良依水園伝東大寺西塔心礎
2012/01/26 山城清水寺 再訪 →山城清水寺
2012/01/08 遠江敷地口燈明台
      奥燈明台心礎
 →遠江口燈明台心礎・奥燈明台心礎
遠江頭陀寺  →遠江頭陀寺三重塔
遠江木舟薬師堂
遠江木船廃寺礎石11
遠江木船廃寺礎石12
遠江木船廃寺礎石13
遠江木船廃寺礎石14
遠江木船廃寺礎石15
遠江木船廃寺礎石16
遠江木船廃寺礎石17
木船廃寺跡木船神社
現地に1個の礎石が残り、その形状からこの礎石は塔心礎の可能性を秘める。
しかし、木船廃寺の伽藍配置は全く不明であり、従って塔の存在自体が不明である。さらに塔に関する遺物などの存在も知られず、この礎石が心礎はどうかは分からない。
◆2011/12/23追加:
○「木船廃寺跡」2010年現地説明会資料、浜松市 より
昭和29年の区画整理で白鳳期に属すると推定される古瓦が大量に出土し、寺院跡と認識される。
更に、正確な出土年は不明であるが、排水路の工事中に礎石が発見され、この礎石は木船薬師堂前に移され現存する。
平成22年(2010)保育園の建替で大量に廃棄された古瓦が出土する。これらは西側の微高地から東側の低地に捨てられていた状況から、この地点は伽藍の東端と推定される。また奈良後期の瓦も今回は出土し、寺院はこの頃まで存続していたものと推定される。
◆2012/01/13追加:
○「図説ふるさとの歴史シリーズ1 浜松・浜名湖周辺 上巻」郷土出版社、1992 より
木舟神社の北80mに薬師堂があり、80cm四方で高さ50cmの礎石があ り、この礎石は木舟神社北西100mほどの小川の縁にあったのを移したものと云う。
 木船廃寺礎石01
○「木船廃寺跡2次」浜松市教育委員会、2011.3 より
 木船遺跡付近地形図:A及びaの地点が木舟神社(実態は小宇)、k地点が木舟薬師堂及び礎石がある位置である。
 木船廃寺礎石02:木舟薬師堂境内手水鉢(礎石)とある。付近は人家が建て混み、急速に住宅化しているようである。 礎石は本写真のような状況にはない。
○2012/01/08撮影: 
礎石実測値:大きさは差渡し約70〜75cm、高さ36cm(見える高さであるがほぼ全高と思われる)を測る。礎石表面は平に削平され、その中央に径33cm深さ約3cmほどの円孔を穿つ。排水溝のようなものが一条あるが、乱雑なものでおそらく後世に乱暴に破壊されたものであろう。
心礎かどうかの確証はないが、心礎とすればごく小型であり、形状からは小型塔の心礎である可能性を秘めるものと思われる。
なお、木舟薬師の本尊は小さな石仏のようであり、特別な「歴史」を誇るものではないと思われる。
2011/12/25 遠江方広寺三重塔11
遠江方広寺三重塔12
遠江方広寺三重塔13
遠江方広寺三重塔14
遠江方広寺三重塔15
遠江方広寺三重塔16
遠江方広寺三重塔17
遠江方広寺三重塔18
遠江方広寺三重塔19
遠江方広寺三重塔20
遠江方広寺三重塔21
現塔婆は大正12年建立。山口玄洞氏の寄付で 再興。
一辺3.3m。小型であるが、純和様の木造塔である。
第一次世界大戦後の不況を堅実に凌いだ「山口商店」に因み「倒産よけの塔」とも呼ばれると云う。
寺伝では永禄年中(1558-)塔着工するも、中断、宝暦年中(1751-)に竣工。明治14年方広寺大火の時に焼失。
方広寺は臨済宗方広寺派大本山(末寺170ヶ寺)。明治14年の大火で全山ほぼ焼失、建物はほぼ全てその後の再建になる。広大な境内に60数棟の堂宇を備える。
開山は建徳2年(1371)、開山上人は無文元選禅師(後醍醐天皇皇子)、鎮守は奥山半僧坊大権現、鎌倉建長寺半僧坊大権現はここから勧請されると云う。半僧坊は「飯僧」の転訛と云われる。
 遠江方広寺黒門     遠江方広寺山門
 方広寺半僧坊大権現1     方広寺半僧坊大権現2     遠江方広寺本堂
 遠江方広寺大書院     遠江方広寺鐘楼
 遠江方広寺勅使門   遠江方広寺開山堂1   遠江方広寺開山堂2   遠江方広寺開山堂3
遠江岩室廃寺  →遠江岩室廃寺
  ※口燈明台心礎及び奥燈明台心礎は発見できず。
遠江宗安寺三重塔11
遠江宗安寺三重塔12
遠江宗安寺三重塔13
遠江宗安寺三重塔14
遠江宗安寺三重塔15
遠江宗安寺三重塔16
遠江宗安寺三重塔17
遠江宗安寺三重塔18
遠江宗安寺三重塔19
遠江宗安寺三重塔20
遠江宗安寺三重塔21
遠江宗安寺三重塔22
平成11年建立。法量は不詳。純和様の伝統的木造(檜造)建築と推定される。
但しスタイリングは底部に対し軸部がやや高い印象を受ける。屋根銅板葺。当本尊は聖観音と云う。
浜松の株式会社杉浦建築店施工。檀家鈴木六郎氏の寄贈と云う。
 万松山と号す。曹洞宗。創建は不詳であるが、永禄元年(1558)創建とも云われるようである。
江戸初頭にはこの地の代官市野氏の菩提寺であったとされる。
図1  図2  図3:2004/02/08「X」氏撮影

遠江宗安寺境内:本堂と三重塔
遠江宗安寺遠望;三重塔と本堂屋根が写る。

2011/12/24 美濃真禅院
及び南宮山金山彦神社
再訪 →美濃南宮山(金山彦神社)・真禅院三重塔遠江方広寺三重塔11
真禅院三重塔・本地堂など、南宮社三重塔跡など
美濃宮処寺跡 再訪 →美濃宮処寺跡
美濃宮代廃寺心礎1
美濃宮代廃寺心礎2
美濃宮代廃寺心礎3
美濃宮代廃寺心礎4
美濃宮代廃寺心礎5
再訪
尾張曽野作石心礎1
尾張曽野作石心礎2
尾張曽野作石心礎3
尾張曽野作石心礎4
尾張曽野作石心礎5
尾張曽野作石心礎6
尾張曽野作石心礎7
尾張曽野作石心礎8
瀬戸市曽野町作石:「作石の寺塔の礎石」もしくは「作石の礎石」と通称されると思われる。(何々廃寺等の名称は無い。)
心礎としては珍しく精美に方形に加工され、一見石製露盤を裏返しにして置いているかと思われる外形を持つ。
心礎は一段円穴式で、201×167cmのほぼ四角形に加工され、中央に径57.5cm(「X」氏計測)の穴を彫る。白鳳期 のものとされると云う(根拠不明)。法量から判断するとかなり大型の長方形の心礎と思われる。
 (計測の結果は長方形でありまた円穴は貫通してはいないため、塔の石製露盤ではない。)
2004/02/29「X」氏撮影ご提供
 尾張曽野(作石)心礎1       同         2       同         3
2011/12/23追加:
「ある郷土誌?」(「瀬戸市史」であろうか)では「塔の礎石と寺院」の項で、「瀬戸地方でも、曽野町の作石から、塔の柱の下に置く大きな石が見つかった。この石は上が平らで、四辺がそれぞれ中央部でいくらか外へ張り出されており三味線胴と呼ばれる7世紀後半(白鳳時代)のものといわれている。これは五重の塔の中心となる柱の下に使われる石と考えられる。 」と云う。
2011/12/24撮影:
心礎の大きさは190×180×55cm(見える高さ)、径57×深さ5/7cmの円穴を穿つ。
地元民の談(1名):「この石は神社の何かの台石と云われている。付近から礎石や瓦やその他の遺物出たとは聞いた事がない。この集落(作石)の字はこの石に由来するのではないか。」
この石の見た印象は心礎であることを強く示すが、付近に寺院があったことを示唆するものは皆無であり、またその伝承も無いようでもあり、断定は憚られる。仮にこの地に寺院が営まれていたとして、心礎は田圃の中の山際に接するようにあり、動かされているものと思われる。
 尾張曽野作石田圃1:ほぼ北やや東寄の作石集落から撮影
 尾張曽野作石田圃2:ほぼ東北方向から撮影、伽藍はこの田圃付近にあったが耕作で削平されたのであろうか。
 曽野作石心礎位置図1:西から 曽野町に入り、曽野稲荷社(かなり著名である)の鳥居などに至り、そこから更に東に入り作石の集落に至る。
 曽野作石心礎位置図2:作石の集落の下の田圃の畔に心礎はある。
三河池鯉鮒大明神 再訪
 →三河池鯉鮒大明神
三河随念寺三重塔21
三河随念寺三重塔22
三河随念寺三重塔23
三河随念寺三重塔24
三河随念寺三重塔25
三河随念寺三重塔26
三河随念寺三重塔27
三河随念寺三重塔28
三河随念寺三重塔29
三河随念寺三重塔30
三河随念寺三重塔31
三河随念寺三重塔32
三河随念寺三重塔33
三河随念寺三重塔34
三河随念寺三重塔35
三河随念寺三重塔36
三河随念寺三重塔37
三河随念寺三重塔38
三河随念寺三重塔39
三河随念寺三重塔40
三河随念寺三重塔41
三河随念寺三重塔42
三河随念寺三重塔43
三河随念寺三重塔44
三河随念寺三重塔45
三河随念寺三重塔46
2011年完工予定。総檜造、純和様を用いる。総高16.7m、一辺5.4mの基壇(写真ではコンクリートと思われる)上に建つ。初重屋根一辺は約7m。
工費2億5000万円、大工は豊田市在住の宮大工。平成16年着工、平成22年にほぼ外装が完成、内装等は平成23年完了予定。(以上報道発表)なお屋根は銅板葺(人工緑青銅板)。
随念寺:岡崎市門前町、浄土宗、仏現山と号する。永禄5年(1562)徳川家康(松平三河第9代)が創建する。
松平三河第7代世良田次郎三郎源清康(松平清康)の荼毘所・墓所である。
元和年中(1615-1624)徳川秀忠、山門・本堂を大改修する。
11  12  13> :画像11〜13; 「X」氏2010/09/26撮影画像

三河随念寺山門
三河随念寺楼門
三河随念寺玄関庫裏
三河随念寺本堂
鍛冶金大師鋳造五重塔1
鍛冶金大師鋳造五重塔2
鍛冶金大師鋳造五重塔3

古都鮨鋳造五重塔

鋳造(成形)五重塔がある。三河岡崎随念寺参道の西側(少し離れた位置)にある。
サイト:日本すきま漫遊記の「鍛冶金大師堂」のページでは、鋳造五重塔のほか、鋳造多宝塔、重層堂(大師堂か)、宝塔と推定される未完金属加工物などがあると云うも、気づかず未見。
さらに、「どうやらこの大師堂は、鍛冶金という鍛冶屋さんの先代が、個人で建てたものらしい。」
「ちなみに中京地方では弘法大師の日に、辻堂や個人の家で接待をするという風習があり、一部ではいまも残っている。」「先代の存命中は、弘法さんの日には盛大に摂待などが行われた」と云う。
因みに、鍛冶屋はこの地で今も営業が続けられているようである。
五重塔2の写真左に写る三重塔は岡崎随念寺である。
なお、寿司屋「古都鮨」は鍛冶屋の近く(南)にある。ガラス越で画像は悪い。
 →成形層塔
三河一畑薬師寺宝塔1
三河一畑薬師寺宝塔2
三河一畑薬師寺宝塔3
三河一畑薬師寺宝塔4
三河一畑薬師寺宝塔5
三河一畑薬師寺宝塔6
一畑薬師寺本堂宝塔
宝塔本尊水子地蔵尊
建立時期不詳。法量も不詳であるが大型塔である。RC造。
塔身は八角形、上層は方形で二手先を用いる。以上の意味で異形の宝塔である。
本尊は水子地蔵菩薩を祀り、玩具類が奉納され、水子供養の塔である。
当地の一畑薬師の詳しい寺暦は不明であるが、昭和後半に出雲一畑寺(一畑薬師)の別院として建立されたようである。
図1  図2  図3>:図1〜3:2003/11/16「X」氏撮影画像
2011/12/24撮影:
臨済宗妙心寺派に属する寺院(宗教法人)であるが、実態はご利益・祈祷を商品とする商業施設のようなものであろう。多くのお客を集め、潤沢な利益が上るようで、大型の堂宇を構える。現に瑠璃光殿と称する大型の堂宇の竣工が真近のようである。    
2011/12/11 備後寺町廃寺  →備後寺町廃寺
備後寺戸廃寺推定心礎1
備後寺戸廃寺推定心礎2
備後寺戸廃寺推定心礎3
備後寺戸廃寺推定心礎4
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさは121×121×60cm、径30×6cmの円孔、白鳳、後世円孔に扇面を彫る。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
大師堂周辺が寺跡と推定され、大師堂近くに塔心礎と推定される手水鉢がある。昭和44-45年に発掘調査されるも、明確な主要伽藍遺構の出土がなく、伽藍配置ははっきりとはしない。
○2011/12/11撮影:
心礎と推定される手水鉢の大きさは心礎であるならば超小型であり、さらに表面が扇形に彫られ、心礎であるならば通常は彫られるであろう円孔などの有無が確認できない。そもそも当廃寺に塔の遺構が確認された訳ではなく、以上の意味でこの手水鉢を心礎とするには躊躇せざるを得ない。
「幻の塔を求めて西東」で云う「径30×6cmの円孔」とは単なる推定であろう。(円孔の形跡がある訳ではない。)
現地には大師堂と庫裏があるのみで、一心寺なる扁額を掲げるも「庵室」の雰囲気である。表面を扇形に加工した手水鉢は大師堂の前に置かれる。
 備後寺戸廃寺大師堂前:南から撮影
 備後寺戸廃寺景観:手水鉢は大師堂と庫裏のやや庫裏寄に写る。
 備後寺戸廃寺大師堂
備中寺戸廃寺
 (備中後月寺)
 →備中寺戸廃寺
備中関戸廃寺心礎1
備中関戸廃寺心礎2
備中関戸廃寺心礎3
備中関戸廃寺心礎4
備中関戸廃寺心礎5
備中関戸廃寺心礎6
備中関戸廃寺心礎7
備中関戸廃寺心礎8
関戸唐臼にある。塔心礎が昭和37年の調査で発掘される。心礎は花崗岩の自然石で、大きさは1.8×2.6m、高さ60cmで、中央に径30×13cmの枘孔を穿ち、その外の東半分を半径0.5cmばかり僅かに彫り窪める。(柱孔と枘穴を穿孔する。)
塔基壇は一辺11mとされる。白鳳末か天平前期のものと推定される。
2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
瓦のほか相輪残欠、風招、瓦塔などの出土を見る。
 関戸廃寺伽藍配置・心礎図
寺域は一辺約130mの方形であるが、南東部は丘陵が迫り出し欠落する。伽藍配置は塔金堂が南北に並ぶと思われるも、講堂など不明。
2007/04/25追加:「岡山の建築」から
 関戸廃寺心礎    関戸廃寺塔基壇平面図
2011/12/11撮影:
大きさ:230×190cm、高さは計測不能。半分に満たない柱座と思われる浅い掘り込みがある。その径は凡そ95cmを測る。中央には径30cm×12cmの円形孔を穿つ。(実測)
 関戸廃寺全景:東から撮影、中央 に写るカイズカイブキの向かって左が塔跡、右は金堂跡、手前は講堂跡(想定)。
 関戸廃寺塔跡1     関戸廃寺塔跡2     関戸廃寺塔基壇: 塔基壇北辺、現地案内板より
礎石2個以上が残る。何れも後世に割られている。
 関戸廃寺礎石1:周囲と表面は著しく破壊される。柱座は欠き取られたと思われ、微かな円形柱座と思われる痕跡(輪郭)を残す。その痕跡は径凡そ60cmほどであろうか。中央には径18cmの小孔を穿つ。
 関戸廃寺礎石2:半裁され、さらに周囲・表面が破壊される。彫りくぼめられた半円は円形柱座であろうか。
2011/12/10 安芸
竹原立正寺三重塔11
竹原立正寺三重塔12
竹原立正寺三重塔13
竹原立正寺三重塔14
竹原立正寺三重塔15
竹原立正寺三重塔16
竹原立正寺本堂
立正寺は法華宗本門流、竹原市竹原町
2011/08/31「X」氏情報:建立は昭和50年代か(寺院側では、記憶上でははっきりした年代は不明と云う)
2011/12/10撮影:
早朝に付き、本堂横の柵門、境内横の駐車場、三重塔裏の柵門全て施錠され、三重塔近くに立入ることが出来ず。従って、遠方より撮影。
一応平面三間等間の正規の塔建築であろう。おそらく木造塔と思われるも未確認。一辺・高さなど不明。屋根銅板葺。軒は二軒平行垂木、組物は二手先と思われる。
塔および寺歴など不詳。
安芸
楽音寺仁王門1
楽音寺仁王門2
楽音寺本堂1
楽音寺本堂2
楽音寺推定塔跡
楽音寺鐘楼
稲荷大明神・大師堂
○歓喜山と号する。真言宗。楽音寺縁起絵巻では、天慶年中(938-947)藤原純友追討のため安芸の国に下行し、追討を薬師如来に祈願した と云う藤原倫実の創建という。往時は2院18坊を有する。
また、「楽音寺伽藍絵図」(江戸期)を蔵し、ここには多宝塔(宝塔)と思われる塔婆が描かれる。
 楽音寺伽藍絵図:「社寺境内図資料集成」より:2011/12/17画像入替
本堂(戦国期の建築とされる)、仁王門はこの図に描かれたものが現存するとされる。 鐘楼もこの図のものが残ると思われる。本堂東の稲荷・大師両堂も今もこの「伽藍図」のままである。
2011/12/10撮影:
○現在伽藍は本堂・仁王門のみを残し、その他、正一位稲荷大明神、大師堂、鐘楼、庫裏がある。
本堂・仁王門の配置から今も大寺の雰囲気を残し、付近には坊舎跡に相応しい地形も見られる。
現在、宝塔およびその痕跡などは地上に残らない。 本堂西に護摩を焚く場があり、その付近(写真)かあるいは本堂西南の一段下付近が「伽藍絵図」から塔跡と推定される。
なお理由は不明ながら、境内の撮影は不可とする。(本堂掲示及び住職談)
安芸横見廃寺

史蹟。三原市本郷町下北方(本郷中学校の東隣)に所在する。
発掘調査で,講堂,塔,築地などの遺構が検出される。寺域は東西約100m、南北約80mと推定される。
講堂跡は寺域の東寄りにあり、西面し、南に廻廊が取り付く。基壇は南北28.8m、東西19.2mの規模を持つ。基壇は平瓦を立てた状態の化粧であった。
講堂西北に塔(もしくは北金堂?)の遺構が検出され、西向の特異な伽藍配置の寺院とされる。
 ※但し、塔の遺構とする根拠は良く分からない。
なお付近(南西)に楽音寺がある。
2011/12/10撮影:
各基壇跡は埋め戻され、更地で保存される。
 安芸横見廃寺石標:よこみ寺址とある。
 安芸横見廃寺全貌:東から撮影、手前は東方基壇跡、中央右手の檀は北方基壇跡、中央やや右の植栽が西方基壇跡
 安芸横見廃寺発掘図
 横見廃寺西方基壇跡1: 塔跡か、南から撮影     横見廃寺西方基壇跡2:植栽で基壇を示す
 横見廃寺北方基壇跡:手前が北方基壇跡、奥は東方基壇跡     
 横見廃寺東方基壇跡:東から撮影

沼田本郷天然水感謝塔1
沼田本郷天然水感謝塔2
沼田本郷天然水感謝塔3
沼田本郷天然水感謝塔4
沼田本郷天然水感謝塔5
沼田本郷天然水感謝塔6
沼田本郷新高山城跡
沼田本郷天然水感謝の塔(三重小塔)
平成23年3月天然水の地権者森崎氏寄贈。沼田本郷天然水供与開始10周年を紀念して寄贈される。宮大工による本格的な塔建築ではなく、地元の大工の造作である。(以上基壇に嵌めこみの銘による)
広島県旧本郷町南方にある。急峻な新高山城(小早川隆景居城)跡東麓下と沼田川の間にある。
法量は目測で高さ5m前後であろうか。木造塔であるが、木割(設計)は杜撰であり、使用材料も高級材ではなく一般材を使用し、一部新建材も使用される。整った塔の造作とは程遠いものである。この意味でわざわざ時間を割いて見学するほど建築としての価値があるものではない。
各重平面2間に造るのは納得し難い、屋根銅板葺、二手先もどきの斗栱を用いる、などなど随所にいい加減さが目につく造作である。ペイント系塗料で彩色する。
備後観音院見上げ
備後観音院山門
備後観音院二重小塔1
備後観音院二重小塔2
備後観音院二重小塔3
備後観音院二重小塔4
備後観音院二重小塔5
備後観音院二重小塔6
観音院と称する庵室に多宝塔を思わせる二重小塔がある。
建立年代不明。高さは目測で基壇込みで2m強であろうか。おそらく素材はモルタルであろうと思われるが、モルタルとしては精巧すぎる造作と思われる ので、あるいは木造であるのかも分からない。(詳細な確認を怠る)ただし一重正面扉は木製。彩色はペイント系塗料を塗ったものと思われる。本塔には「三原新西国第39番」の札が懸かる。
観音院は「白滝の観音」と称する。山号は白滝山、曹洞宗。本尊聖観音菩薩は享保年中の草建で、「白糸の瀧」(現在は涸れる)の巌上にあったと云う。天保年中に瀧の上を離れ、南方に草庵を建て、堂守を置く。明治20年西方の現在地に観音堂を建立移転する。明治25年山陽鉄道が眼下に開通する。
備後上之坊二重塔1
備後上之坊二重塔2
備後上之坊二重塔3
備後上之坊二重塔4
備後上之坊二重塔5
備後上之坊二重塔6
備後上之坊二重塔7
備後上之坊二重塔8
備後上之坊二重塔9
備後上之坊二重塔相輪
備後上之坊伽藍
平成12年末現在、未完。本体工事はほぼ終了するも、建物廻り及び地下納骨施設(推定)内装などが未着工である。法量は不明。
所在地は広島県福山市大門町
福山市蔵王町(有)大森工務店施工、構造は鉄骨造、外装内装は完全に木造(檜)で造作する。
以下「大門東谷「別所山阿釈迦院西光寺上之坊」 より
上之坊は「別所山阿釈迦院西光寺上之坊」と号する。
草戸明王院末寺、別名瑠璃堂。天文3年(1534)岡志摩守が建立と云う。別説に坪生正学院末寺であり、慶長2年(1597)城主神原氏が建立とも云う。<end>
備後本郷平廃寺  →備後本郷平廃寺
2011/12/04
「X」氏ご提供画像
神戸岡本霊法会多宝塔 屋根本瓦葺、相輪は層塔風なものを用いる。塔身には豪奢な装飾が施される。
神戸岡本霊法会多宝塔:遠望、撮影場所は霊法会西側の十文字山(妙法寺神戸仏舎利塔境内隣接地点)からと云う。
2011/11/25 山城永観堂 遠望 山城永観堂
山城黒谷金戒光明寺 再訪 黒谷金戒光明寺
2011/11/03
「X」氏ご提供画像
富田林願昭寺五重塔1
富田林願昭寺五重塔2
2011年竣工予定。高さ37.27m。一辺は不明。
木造で、様式には和様を用いる。伝統工法による建立と思われる。その他の詳細は不明。
屋根本瓦葺。相輪は青銅製鋳造、金箔貼。施工は大成建設。
願昭寺は淨心山と号し、真言宗系の八宗兼学真修教大本山と称する。本尊木造目白不動。
2011/10/30 鎌倉松葉谷長勝寺多宝小塔2基 本堂安置多宝小塔・本師堂安置多宝小塔の2基を有する。
 →相模松葉谷長勝寺
鎌倉材木座妙長寺相輪塔  →相模材木座妙長寺相輪塔
鎌倉鶴岡八幡宮
     /25坊跡
 →相模鶴岡八幡宮・25坊跡
寸松堂塔風建築1
寸松堂塔風建築2
寸松堂塔風建築3
寸松堂塔風建築4
昭和11年建築。鎌倉市笹目町5-1。
鎌倉彫り彫師佐藤宗岳氏の店舗兼住宅として建立、現在も営業。
店舗兼住宅の一部は三層塔に擬せて造られる。三層頂に相輪を載せる。
二・三重の軒は二軒繁垂木、三重の組物は出組を用い、中央には蟇股を置く。
屋根は銅板桟葺き、壁は漆喰か。
鎌倉建長寺華厳塔跡
建長寺華厳小塔
     (五重小塔)
建長寺震災供養塔
 →鎌倉建長寺
鎌倉長寿寺 訪問日は法要、寺内拝見停止、大和忍辱山多宝塔残欠は見ること能わず。後日を期す。
片瀬龍口寺五重塔
片瀬龍口寺仏舎利塔
片瀬本蓮寺多宝塔
再訪
 →片瀬龍口寺・輪番八ヶ寺
茅ヶ崎松籟庵三重小塔1
茅ヶ崎松籟庵三重小塔2
茅ヶ崎松籟庵三重小塔3
茅ヶ崎松籟庵三重小塔4
茅ヶ崎松籟庵三重小塔5
建築年代不明、神奈川県茅ヶ崎市東海岸北一丁目
大和薬師寺塔を模す。スケール1/10。
岩田孝八(SM長崎屋創業者、茅ヶ崎在住)の寄附により松籟庵は建設される。日本庭園は旧原別荘(松籟荘)の庭園を引継いだものである。
伊東佛現寺宝塔  →伊東佛現寺・輪番八ヶ寺
2011/10/29 武蔵西新井大師三匝堂  →武蔵西新井大師(総持寺)三匝堂
武蔵善立寺宝塔1
武蔵善立寺宝塔2
武蔵善立寺宝塔3
武蔵善立寺宝塔4
武蔵善立寺宝塔5
武蔵善立寺宝塔6
武蔵善立寺宝塔7
武蔵善立寺宝塔8
武蔵善立寺本堂
宝塔は仏子の塔と称し、永代供養墓の機能を持つようである。
建立年代(ごく近年であろう)、法量、縁起などは不詳、ただし、規模は小型に属する。
おそらくRC造で、下重は御影石製に擬するが、上重の組物は木造とも思われる。屋根は銅板棒葺。
善立寺は大光山と号する。身延山久遠寺末、近世には身延山江戸三大触頭の一つであった。
 ※谷中谷中瑞輪寺、谷中瑞輪寺、宗延寺宗延寺(現杉並区)と当寺が身延山江戸三大触頭の地位にあった。
縁起についてはサイト:猫の足跡:善立寺に掲載があるので、そのまま転載する
甲斐国巨摩郡身延久遠寺末 下谷不唱小名 大光山善立寺 境内古跡拝領地5694坪
天正19年、起立ニ御座候。
由緒左之通。
 旧跡三州岡崎善立儀は、御先祖西忠様之御代、安城之御城より岡崎之御城へ御移候刻、善立寺も御供仕岡崎ヘ罷移候。依之、西忠様より為御褒美、寺領27石3斗5升目之御朱印頂戴仕、夫相続き 道閻様 道忠様 道甫様 道軒様 権現様迠之御朱印頂戴仕候。善立寺往持代々何れも御譜代衆之子孫ニ而候故、権現様三州ニ被為成御座候御時、毎年菅生川ニ而御川狩之刻、御昼弁当御小休ニ何時も善立寺ヘ斗被為 入候。(以下中略)
一宗門両派一致勝劣触頭7組15ヶ寺有之中ニ身延触頭は瑞林寺善立寺宗延寺筆頭ニ而候。諸国之本山30ヶ寺末寺共ニ支配致候。触頭相定之儀、数度類焼ニ付焼失仕、古記無之候得共三ヶ寺共 御入国ニ付起立之寺故、身延久遠寺之末頭ニ相成、其後寛文年中宗門御改等厳重ニ相成候節、触頭相定候而御条目抔相渡り候様ニ被存候。
開基寿仙院日得上人、元和5年4月29日卒、
塔頭十軒
真如院 開祖林松院日仙、卒年月不知
法性院 開祖法泉院日如、天正19年岡崎罷来候。寛永4年11月9日卒
善行坊 開祖寿仙院日得
本寿坊 開祖守玄院日諦、三州ヘ帰と云々
恵林坊 開祖円明院日讃、三州ヘ帰と云々
東陽坊 開祖法輪院日正、延宝5年正月2日卒
円修坊、法輪坊、円通坊、十行坊、右、此内4軒当時畳置。

善立寺サイトでは以下のように述べる。
応仁2年の草創で、三河安城から岡崎へ移転、さらに天正19年江戸内幸町へ移転する。その後江戸下谷へ移転、昭和25年当地へ移転。
 ※昭和25年移転後も広大な寺地を占め、巨大なRC造の本堂などが建つ。






武蔵蓮華寺太子堂11
武蔵蓮華寺太子堂12
武蔵蓮華寺太子堂13
武蔵蓮華寺太子堂14
武蔵蓮華寺太子堂15
武蔵蓮華寺太子堂16
武蔵蓮華寺太子堂17
武蔵蓮華寺太子堂18
武蔵蓮華寺太子堂19
武蔵蓮華寺太子堂20
太子堂聖徳太子立像




武蔵蓮華寺仏塔1
武蔵蓮華寺仏塔2
武蔵蓮華寺仏塔3
武蔵蓮華寺仏塔4
武蔵蓮華寺仏塔5

武蔵蓮華寺仏舎利塔
  →武蔵蓮華寺(寺島大師)
◆寺島大師:清瀧山と号す。現在は真言宗智山派。寺島大師と云われる。
弘安3年(1280)北条頼助(北条時頼甥・北条経時息)が鎌倉に建立、同年時頼が当地へ遷したと伝える。本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝え、川崎大師 (平間寺)西新井大師(総持寺)とともに江戸三大師と称される。
◆蓮華寺太子堂:
○2006/01/14追加:太子堂については以下の知見がある。
「重要文化財法隆寺羅漢堂(旧富貴寺)復原工事報告書」東京/安田工務店、1973 より
大和富貴寺羅漢堂再興にあたり、画期的な樹脂加工による保存再用が図られた結果、多くの旧材の再用が可能となる。その結果、部材の傷み具合から相当の部材の廃棄が予想され、そのため予め準備していた新材の斗栱類は不要とな る。
幸いにもこの不要となった斗栱類は寺島大師(蓮華寺・東京向島)の太子堂の再建工事に充当される。昭和48年蓮華寺太子堂落慶。
 蓮華寺太子堂:羅漢堂の新生児というべきものであろうか。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影
「江戸名所圖會 巻之7」に詳述あり。
太子堂は本堂の右にあり、本尊聖徳太子像は16歳の真影にして、・・北条経時の念持仏にて、・・・
・・以下縷々上に示した縁起が語られる。
 江戸名所圖會・蓮華寺:本堂手前東に太子堂が描かれる。山門や本堂の位置が現在の位置と同じならば、再興された現太子堂位置も当時のままであると思われる。
○現太子堂は組物は当然ながら富貴寺塔残欠と瓜二つである。ただし正面は3間に造り、その他の面は2間に造るのは不自然であろう。さらに各辺の中間柱上に大枓が載らないのも違和感があろう。
◆蓮華寺仏塔:昭和60年竣工。RC造。
印度佛陀伽耶の大塔を擬す。弘法大師1150年御遠忌紀念として建立。
中央には最初説法の釈迦像を安置し、四方には十三仏を配する。塔内には写経を納めると云う。
◆蓮華寺仏舎利塔
弘法大師1100年御遠忌の建立とあるから、昭和9年頃の建立であろう。
ただし、仏舎利塔と称するも、形態はRC造の単なる六角円堂である。堂名称の由来は内部に仏舎利塔を奉安するなどの為であろうか。
下総国分寺跡  →下総国分寺跡
草の舎(一畳敷) 久能山東照大権現五重塔椽板遺物、三島大明神三重塔扉遺物など
 →草の舎(一畳敷)及び関連ページ
谷中天王寺五重小塔11
谷中天王寺五重小塔12
谷中天王寺五重小塔13
谷中天王寺五重小塔14
谷中天王寺五重小塔15
谷中天王寺五重小塔16
谷中天王寺五重小塔17
天王寺五重小塔初重
天王寺五重小塔二重
天王寺五重小塔三重
天王寺五重小塔四重
天王寺五重小塔五重
天王寺五重小塔相輪
天王寺五重小塔組物1
天王寺五重小塔組物2
天王寺五重小塔組物3
○深大寺蔵谷中五重小塔;
 福田吉一氏製作五重小塔     福田吉一氏製作五重小塔細部
スケールは約10/1。欅素木造。
昭和37年完成。工期約25年。
製作者;湯河原宮ノ下大工 松本好正氏、設計施工 世田谷 福田吉一氏(大工)
本格的な屋内建築でほぼ谷中五重塔を写すものと思われる。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
現在、武蔵深大寺旧庫裏の土間に安置される。但し、旧庫裏土間への立入は禁止である。
屋内塔とはいえ、3mを越える堂々たる正式の建築である。
塔の前には世田谷用賀・金子貞吉氏寄贈との表示がある。
塔の所有者であった福田吉一氏の歿後、友人である金子貞吉氏(建具師と思われる)が預かるも、何分大作であり、氏は檀那寺である深大寺に寄贈したということである。
完成時期及び工期と天王寺五重塔の焼失時期(昭和32年)との関係から、製作時期の大部は天王寺五重塔が健在であった時期と重なり合う。大筋では谷中天王寺塔を写すものと考えられる。
相輪は当初なく、深大寺にて後保したものと聞く。
 武蔵深大寺旧庫裏
天平5年(733)法相宗満功上人が開創と伝える。貞観元年(859)天台宗に改宗と云う。
現在は山門、本堂、元三大師堂、新釈迦堂、深沙大生堂、鐘楼、開山堂などの堂宇を備える。
また、銅造釈迦如来倚像(白鳳期、重文、明治42年元三大師堂の檀したから発見と云う)を有する。
 銅造釈迦如来倚像1     銅造釈迦如来倚像2     銅造釈迦如来倚像3
武蔵護国寺多宝塔 再訪 →武蔵護国寺
旧安芸竹林寺三重塔
 現椿山荘三重塔
再訪 →旧安芸竹林寺三重塔・現椿山荘三重塔
武蔵永泉寺パゴダ1
武蔵永泉寺パゴダ2
曹洞宗。RC造本堂の上にパゴタを載せる。詳細は不詳。
山崎富栄(昭和23年玉川上水で入水心中)が当寺の山崎家代々の墓所に眠ると云う。
2011/09/25
「X」氏撮影画像
霊法会宇和島講堂二重塔1
霊法会宇和島講堂二重塔2
法会宇和島講堂仏舎利塔と称し、平成16年の建立と思われる。
一重二重とも平面方3間の二重塔と推測され、一重には裳階を付設する。
写真で見る限り、おそらく木造正規の塔建築であろう。
宇和島市三間町是能(旧三間町)、霊法会関係者以外は敷地内立入禁止と推定される。
2011/09/24
「X」氏撮影画像
伊予法雲寺多宝塔1
伊予法雲寺多宝塔2
昭和55年建立(「X」氏情報)、一辺約2.9mの小型塔である。小型塔ではあるが、以下の細目を除けば、木造(おそらく檜)正規の多宝塔建築と思われる。無礙光殿の扁額を掲げる。屋根銅板葺。
初重の床は土間、四天柱は省略、羅漢像を安置。初重中央間は扉などの装置はなく、吹き放ちである。相輪は層塔風のものを用いる。
法雲寺は真言宗、金亀山と号する、本尊は阿弥陀如来とあり、これが多宝塔を無礙光殿と称することに関係するのであろうか。
松山市古三津1-26-48

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