山  城  石  清  水  八  幡  宮  ・  補  足

山城石清水八幡宮・補足
(護国寺跡現地説明会資料、石清水八幡宮境内範囲確認調査現地説明会資料、多宝塔(琴塔)跡旧概要図:旧記載内容、
琴塔・木琴、新発見「僧形八幡神像絵」、『曼荼羅「篝火御影」』、御幸道跡出土、山城海住山寺宝珠台、徳迎山正法寺、八幡本妙寺)

石清水八幡宮本体→ 石清水八幡宮八幡宮

2010/12/14追加:
「石清水八幡宮護国寺跡 現地説明会資料」八幡市教育委員会、2010/12/04 より
  図版:1)、3)、5)、8)は上記資料から転載

◆別當護国寺略歴
 (2023/07/22;一部文言修正)
貞観元年(859)大安寺行教が宇佐八幡宮よりこの地に勧請、岩清水八幡宮が創建される。
翌貞観2年八幡宮社殿と別當護国寺が整備される。
護国寺に関しては、遷座以前には石清水寺があり、東面の堂宇を南面に改めて護国寺としたとも云う。
この場合、本尊薬師如来は石清水寺の本尊であったことも想定される。
護国寺は別當として石清水全山を明治維新まで支配する。
康和5年(1103)大宰府長官(大宰府権師)大江匡房が十二神将を寄進。
嘉暦元年(1326)護国寺類焼、直ちに再建に着手、建武元年(1334)落慶、後醍醐天皇行幸、導師は東寺長老道意と伝える。
明応3年(1494)護国寺焼失、長く再建されず。
延宝7年(1679)漸く放生会の再興とともに仮御堂(薬師堂6間×4間)が再建。
文化元年(1804)から幕府の寄進によって、本殿、大塔、宝塔院など多くの社・堂宇が修理され、文化13年(1816)護国寺も再興される。
明治元年神仏判然令で護国寺は破却、部材は720両で売却という。

◆中世の薬師堂
石清水八幡宮御指図(鎌倉期)では東西8間南北7間(東に1間半の建出あり)の本堂に礼堂を付設した大堂であった。
以下に掲載する1)「石清水八幡宮社頭図」、2)「石清水八幡宮曼荼羅」、3)石清水八幡宮御指図、4)「大宮末社以下堂舎屋指図」などでその姿を窺うことが出来る。

1)石清水八幡宮社頭図:貞和2年(1346):部分図

2)「石清水八幡宮曼荼羅」(推定室町初期、根津美術館蔵):
    「石清水八幡宮曼荼羅・宝塔院及び護国寺付近部分図」 :拙石清水八幡宮八幡宮のページより転載

石清水八幡宮曼荼羅」
 :宝塔院及び護国寺付近部分図:
  左図(護国寺)を含む周辺図:
  護国寺は右下に描かれる。
   ※2007/07/06画像入換

この「石清水八幡宮曼荼羅」は
「貞和の感得図」の模写
もしくは「貞和の感得図」を種本とする
ものと思われる。

3)「石清水八幡宮御指図」(鎌倉期) では
堂は南面し、東西8間・南北7間(東には1間半の建出付設)の本堂と礼堂からなる。本堂中央には須弥壇があり、薬師如来と八幡大菩薩を祀り、前面に十二神将を配置する。本堂は土間で、礼堂は板張り とある。
 石清水八幡宮御指図:「石清水歴史探訪選『石清水八幡宮堂塔4』田中君於、講演資料より転載 とある。
 (2023/07/22画像入替)

2008/09/13追加:拙石清水八幡宮八幡宮のページより転載
「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007 より
中世の石清水八幡宮の様子を有る程度窺うことが出来ると思われる。
4)大宮末社以下堂舎屋指図:全図(石清水八幡宮蔵)、 この図は地形や距離は無視するが・方位はほぼ合致する。
製作時期は江戸前期と推定されるも、その堂舎屋の一部は江戸前期には既に存在しないものも描かれ、中世の状況を復古的に描いたものととも推定される。
   同       護国寺:部分図、図の上部中央が護国寺、
  桁行10間梁間9間の本堂に椽を四方に廻らす、前面に桁行10間梁間4間の礼堂を付設する。

◆近世の薬師堂
延宝7年(1679)再興堂(仮御堂)は江戸期の多くの絵図に描かれる。
文化13年(1816)再興薬師堂は以下の絵図類<5)、6)、7)>で窺うことが出来る。

5)慶応2年(1866)長浜家絵図
 慶長2年長浜家絵図:部分図:八幡市教育委員会

「石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)・(図版編)」八幡市教育委員会・石清水八幡宮、2007
                                               :拙石清水八幡宮八幡宮のページより転載
 6)城州八幡山案内絵図:木版墨摺、慶応3年(1867)、個人蔵 ・・・・・上記5)と同一の図であろう。全図

「八幡山名所案内記:長濱尚次、慶応2年の付属案内絵図:拙石清水八幡宮八幡宮のページより転載
2009/12/04追加
 7)城州八幡山案内會圖・現物撮影:2009/11/29撮影

6)の原本と思われる。

城州八幡山案内會圖・現物:左図拡大図、現物図を撮影したもの。

  同 護国寺・琴塔付近図

◆発掘調査成果:

調査区の中央北側に、江戸後期の列をなす大型礎石抜取穴6個と西端南に1個を発掘、これは文化13年再興の薬師堂本堂の北辺と西辺の柱列礎石跡と推定される。
上記礎石列の南3mには江戸前期の土抗(礎石抜取穴と推定)5個を検出。これは延宝7年建立薬師堂の礎石列と推定される。
さらに江戸後期本堂柱列の内側には、小抗の底部に「輪宝」を置き、その中央方形小穴に「独鈷杵」を突き立て埋納した遺構6基が、現時点で確認される。これは本堂須彌壇を中心に して八方に8個配置されたものと推定される。
またこれは江戸後期の整地層に置かれることなどから、文化再興薬師堂本堂の再興時に埋納されたと推定される。
この輪宝を下に橛(ケツ、杭)を突き立てる修法は天台の修法で、真言の修法(橛を先に置き輪宝を上から突き立てる)とは違うものである。
なお、輪宝は直径約18cm、独鈷杵は長さ約17cm、小抗の深さは約20〜25cmと云う。
 8)護国寺跡略測平面図
   輪宝及び独鈷杵1     輪宝及び独鈷杵2     輪宝及び独鈷杵3:左記3点は何れも新聞報道写真

2007/03/06追加:
「男山考古録 巻第七」嘉永元年(1848)
◇護国寺
・・・御堂南面、惣体赤塗、檜皮葺也、東西柱間8所、南北8所也、北より3間、西より3間を経て檀を構ふ、其間東西3間也、内1間に御帳を掛けて、西に大菩薩、東に薬師坐する旨記せり、三方御帳にて四隅に四天王を安置して、前に十二将神を居て、・・・・・・・・・・
東堂外1間半の建出しあり、・・斯間東西にあり、乾は護摩所と云う、東隣は経所なり・・・・
宮寺堂塔建立次第記曰、護国寺造立之願主草創不知之、大菩薩御遷座以前之堂なり、行教和尚尚奉崇之、・・・・・・・・・・・・
縁事抄曰、嘉暦元年(1326)9月、・・当寺炎上、・・・再建は同11月斧始、・・・・、明徳3年(1392)北谷塔坊より出火にて、萩坊鐘楼当寺等炎上、何れの時にも本尊は出し奉る也、明徳3年炎上後、御堂造立し事未詳、是より170余年を経て延宝7年(1679)上棟にて、仮御堂を再興也、・・・・旧の如く薬師如来安置在りて、左右に十二神将を安置・・・かくて再興の事を、宝暦年中より一所の沙汰にて相催し、遂に文化13年(1816)に全く落成せり、・・・・宮工司尚次奉りぬ、(古堂は・・御文庫造立に用)
 2007/06/06追加:
  参考:護国寺平面図(「石清水八幡宮御指図」写し) :「八幡宮の建築 」より

2023/07/22追加:
護国寺堂宇の変遷
○「石清水八幡宮境内調査報告書」八幡市教育委員会、2011 より
上述のように、護国寺は平安初期〜嘉暦元年(1326)までの第1次堂宇、「貞和感得図」で代表される第2次堂宇、そして近世の江戸前期の「仮御堂」及び江戸後期の「再建本堂」が知られる。
 しかし、第1次・第2次の堂宇についての基壇などは、近世の護国寺再興で、大きく岩盤ごと削平されとと思われ、その遺構は残存しない。
そこで、この変遷を概念図として表したのが次の「護国寺跡の地形と本堂建設過程概念図」である。
 護国寺跡の地形と本堂建設過程概念図
中世以前の第1次・第2次護国寺は大堂(東西7間・南北8間・舞台附属)であった。この時は尾根部分は大きくは削平されず、建物は尾根筋に北辺部分を懸け、南方斜面に懸け造りで張り出していたものと推定される。現在の参道部分やさらに南方の崖面に張り出して建てられていたものと思われる。
南の斜面には礎石として使用されていたと思われる石材が散布している。
江戸前期の仮御堂建立の時には、尾根頂部は削平され狭い平坦地が造成され、その平坦地に建物は載り、更に江戸後期の本堂建立の時には、新たに仮御堂部分も含めて削平され、平坦面を北面及び東面に拡張し、再建本堂は懸け造りを用いず、ほぼ全面が平坦地に載って建立されたものと思われる。

  → 石清水八幡宮護国寺本尊(淡路東山寺薬師如来)


2010/11/09追加
「石清水八幡宮境内 範囲確認調査 現地説明会資料」八幡市教委、2010/11/06 より
瀧本坊跡発掘調査

瀧本坊跡発掘調査図:左図拡大図

瀧本坊閑雲軒想像復原図:八幡市教育委員会作成

瀧本坊南区:北西より撮影
瀧本坊北区1:南西より撮影
瀧本坊北区2:南より撮影
瀧本坊北区池跡:南西より撮影
瀧本坊帯状テラス4:南西より撮影
瀧本坊帯状テラス2の南末端:北西より撮影
瀧本坊閑雲軒礎石群:西より撮影
瀧本坊書院礎石群:西より撮影

2010/05/11撮影・・・・上に掲載済
 瀧本坊堂舎跡:礎石が残存する。
 瀧本坊堂舎跡礎石列
 瀧本坊堂舎跡礎石
以上何れも南区(北西より撮影)の堂舎跡である。(2010/11/09)

 

◎瀧本坊(「文化燦燦 第2号」など)
寛正6年(1465)御殿司職に補任(「御殿司職記」)とある。
寛永4年(1627)松花堂昭乗、瀧本坊住職となる。寛永14年昭乗、松花堂と称する庵を建て隠退する。
この間に瀧本坊に閑雲軒を建立。
安永6年(1773)栗本坊とともに焼失、後再建。
明治の神仏分離で棄却。

2020/04/01追加:
●石清水八幡宮瀧本坊閑雲軒を絵図で確認
<報道発表>
2021年3月14日京都新聞 記事 より
○江戸時代の空中茶室、絵図で初確認 石清水八幡宮
瀧本坊閑雲軒と思われる建物が描かれる繪圖を発見
 「八幡山分見繪圖」天明3年(1783)書写、122×110cm、おそらく京都所司代か淀城主に上納した原本の写と思われる。
この繪圖は北東から境内を俯瞰した構図で、閑雲軒と思われる建物が初めて確認できる繪圖であり、2021年1月八幡宮は京都の古書店から購入する。
閑雲軒は松花堂昭乗(天正10年(1582)〜寛永16年(1639))が小堀遠州(天正7年(1579)〜正保4年(1647))とともに造立する。
安永2年(1778)に焼失、以降再建はされずという。
 八幡山分見繪圖     八幡山分見繪圖・瀧本坊:指さしている先が閑雲軒と思われる建物。
○「空中茶室VR制作記念WEBイベント」特設サイト
期間限定3月31日まで公開。「空中茶室VR制作記念WEBイベント」特設サイトがオープン
 閑雲軒イメージ図
空中茶室「閑雲軒」とは より
 瀧本坊跡写真
「空中茶室」シンポジウム より
 瀧本坊発掘調査平面図     瀧本坊茶会記録並数寄屋図
昭乗は10代半ばで石清水八幡宮の社僧となり、瀧本坊の阿闍梨実乗を師として、真言密教を極め、後に僧として最高の位である阿闍梨となり、師の跡を継ぎ、瀧本坊の住職となる。
寛永14年(1637)瀧本坊を弟子に譲り、泉坊に「松花堂」と名付けた方丈を建て、侘び住いの境地に入り、寛永16年(1639年)寂する。
 石清水八幡宮泉坊跡:発掘図


石清水八幡宮多宝塔(琴塔)跡旧概要図:旧記載内容
2009/12/22に新「宝塔院宝塔遺構実測図」作成までの間、掲載していた旧「多宝塔(琴塔)跡概要図)である。

  2009/12/22追加:-----------------------------------------------------------------------------
  以下の塔跡概要図はメモ及び記憶を図示したもので、礎石配置の正確性を欠く。
  (従って、概要図及び記述に不正確なところがある。)
   →最新の塔跡概要及び概要図は「宝塔院(琴塔)遺構」を参照。


琴塔跡は、無慚にも西半分を新設された参道で
斜めに割られ、その部分は破壊される。
しかし、土壇は明瞭に残る(特に東半分)。

石清水八幡宮琴塔礎石1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5

土壇上には、約10個程度礎石と思われる石が残る。
但し、ほとんどが動かされていると思われる。
その中で東側の3個の礎石は一列に並び、
それゆえ動いていないと推定される。
この3個の石が動いていない礎石とすれば、
塔一辺は約12m強であろうと推定される。
前述の「山城綴喜郡誌」などの記録に見える
一辺約10.2mより大きな数値になり、
辻褄は合わない。
いずれにしろ、多少の不明確な点はあるにせよ、
土壇の大きさから見て、大型の多宝塔であったことは
間違いの無いことと思われる。
 
2009/12/22追加:
塔一辺を約12mと計算したのは、塔初重平面を
方3間であり、東側脇柱礎3個が原位置であると
したことによる。
(上に掲載の遺構図から宝塔一辺は芯芯間で
約11m20cmと復元できる。)

 

2001/9/24撮影画像: 推定塔婆跡     推定礎石1     推定礎石2


石清水八幡宮琴塔・木琴(きごと)・・・・・:2007/06/03追加

2007/05/18「石清水八幡宮旧蔵琴塔木琴(きごと)が発見」が報じられる。
各報道の内容の大意は以下の通り。

男山八幡宮宝塔院(琴塔)木琴(きごと)

「京都井伊美術館によって発見・京都新聞等報道関係に発表。
琴は木製で桃山時代のころの製造とみられる。
長さ1.4m、幅は20cm、厚さは4−6cm(長さ約137cm、巾約20cm、厚さ約5cm)。
弦は張られていないが、厚みの部分4ヶ所に金具がついていて、水平に吊り下げたものと思われる。
木琴の裏側には穴が2箇所開いており、そこから内部を刳り抜き、中を空洞にしたような構造となっている。
ここを空気が通り音が鳴ったと考えられると云う。
一部の色が剥がれているが全体は朱色に塗られている。
石清水八幡宮研究所の田中君於研究員によると、八幡宮の宮工が記した江戸時代の文献「男山考古録」嘉永元年(1848)に、八幡宮境内で琴塔と呼ばれた二重塔には「四尺五寸ばかり(136cm)の琴がつり下げられている」という内容の記述がある。
研究所は「文献と見つかった琴の大きさが完全に一致しており、断言はできないが、石清水八幡宮の琴とみられる」と説明した。
今回見つかった木琴は「琴塔」取壊しの際、篤志家が手に入れ、その後持ち主が転々とした。
今年4月、オークションに出品され、京都井伊美術館の井伊達夫館長が京都市内の収集家の代理で落札した。
今は別の京都市内の収集家の所有になっている。」
 ※「琴塔」取壊し→篤志家、転々とした持主などは不明、京都市内の収集家も不明。

男山八幡宮宝塔院(琴塔)木琴・裏面

裏面と思われる。「木琴の裏側には穴が2箇所開いており」とあり、「そこから内部を刳り抜き、中を空洞にした」とある。・・・裏面の穴2ヶ所と内部の空洞が見て取れる。
また
「厚みの部分4ヶ所に金具がついていて」とあり、吊り下げるための「金具」(特に手前)があった。

上の写真と合せ、「弦は張られていなく」、全体は朱色に塗られている。

男山八幡宮宝塔院(琴塔)木琴3:写真は不明瞭

「八幡山名所案内記」慶応2年(1866)に見る「琴塔」「琴」
◇東谷
・琴塔:宝塔院と云。南面胎蔵大日秘仏、後一条天皇万寿年中、十ニヶ寺領を寄進、御鎮坐巳前之造立、建久3年、七輪を九輪となす(皇代記)。上下四隅垣に箏(こと)を釣、因て常に琴塔と云。 槐記曰、八幡宮へ御参詣云々。還御、琴堂へ出御の時、軒に琴を釣るハ漢(から)にてハ椒坊(しやうボう・皇后の座所・皇后)に有事也。日本にても琴の音に峯の松風通ふらむと読むるも是也云々。翌日参候の時、竹菴外記を御覧なされ歴々としてあり云々。又 揚升菴集曰、古人殿閣旦(のき)稜間風琴風筝有り、皆風に因る、動(やや)音成るハ自ら宮啇(テキ)諧(やわら)ぐ、又 元廟ニあり。風吹きて琴の緒(いと)にふれて音をなす。因って此軒に釣て其音を以て神慮としらしめ奉る。北面毘沙門天を安す。
 ※男山八幡宮東谷琴塔の軒には木琴を吊り、風で瀟洒な音がなる仕掛であった。

「男山考古録 巻第八」宮工司長長濱尚次纂稿、嘉永元年(1848)
◇宝塔院琴塔
上記の「八幡山名所案内記」とほぼ同一の記述(正確には「八幡山名所案内記」が「男山考古録」を引用と思われる。)に加えて、さらに中国(唐など)の文献を挙げて、「風琴」、「風筝」の例証をしている。
記述の最後に「今当堂に掛かるもの、長4尺5寸許、猶此事、尚次か匠家聚材に委くいふ、見るへし、」とある。
 ※長濱尚次は石清水八幡宮の宮大工で、「男山考古録 全15巻」の記事は膨大な資料に裏付けられている。原本は昭和22年焼失。
  今琴塔に掛かるものは「長4尺5寸許」と記録されている。

2007/07/06追加:
「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」中安真理、(「美術史研究」第42冊、2004年12月、早稲田大学美術史学会 所収) より
・宝塔院塔四隅の「木琴」の長は4尺5寸で、一般の琴の長さは6尺であるから、一般品より短めである。
・「箋注倭名類聚抄」(江戸後期)では調度部仏塔具の「箜篌(くご)」の項に、「今石清水八幡宮に琴塔有り、塔隅に小筝を懸ける、是其類」と記す。
・本来「琴(きん)」と「筝(そう)」は別の楽器とするも、古来日本では玄楽器を「琴」と総称し、平安期に本来の「琴」が絶えた後、近世では「琴」とは「筝」を指すことになる。さて 「箋注倭名類聚抄」「仏塔具」の項では、項目「塔」「舎利」「檫」「層」「露盤」「火珠」「宝鐸」「箜篌(くご)」が挙げられ「箜篌」が仏塔の荘厳具であったことが知られる。ところで「箜篌」とは「琴」や「筝」と同じ構造 ・原理の玄楽器で、「箜篌」は平安期に廃絶するが、荘厳具としての「箜篌」は「筝」に変えられて近世まで存続したのであろうと推測される。日本に於いても、8世紀以降多くの仏塔・仏堂の荘厳として「弦楽器」が使用されたことが知られる。( 法隆寺五重塔にその例があると云う。)
・宝塔院(琴塔)は以上のような荘厳具として「筝」が使用された最後の稀有の例であったと思われる。
※上掲の図
  細見男山放生会図録・宝塔院:部分図:「琴」の吊り懸 が明瞭に見える。
  石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風:宝塔院部分
   石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風:軒下琴:軒下荘厳「琴」拡大図

2007/07/06追加:
大和竜蓋寺(岡寺)平成再興塔(三重塔)の各重軒下は「琴」(青銅製)で荘厳される。
 大和竜蓋寺(岡寺)三重塔
2007/08/02追加:
「参詣曼荼羅図」(推定室町期)に描く、「淡路成相寺大塔(多宝塔)」上重に「琴」と思われる荘厳がある。
 淡路成相寺多宝塔


2010/02/02追加
新発見「僧形八幡神像絵」

2010年1月京都新聞など各新報道:【「僧形八幡神像絵図」(石清水八幡宮蔵)が発見・公開】
 ◇僧形八幡神像絵図:石清水八幡宮蔵 :石清水八幡宮報道発表資料(パブリック)
この神像は石清水八幡宮「平成の大修理」に伴う調査で、2007年8月若宮社厨子から発見された。
製作時期は江戸前期と推定、軸装・彩色、法量125×44cm。
なお八幡宮旧蔵として「僧形八幡神像絵図」(松花堂昭乗筆・旧国宝)があったが昭和22年の火災で焼失。
参考:
国学院大学 > 研究開発推進機構 > 学術資料館(神道資料館) > 神道資料館の収蔵資料紹介 > 僧形八幡神像 より
僧形八幡神は各寺院に多くの木像・画像が残るが、画像では現存する最古のものとして山城神護寺の鎌倉期の画像があり、
国学院大学学術資料館(神道資料館)の館蔵品である「僧形八幡神像」絵図<サイトに画像あり>も神護寺像を忠実に写したものと推定される。
画上の讃は「得道来不動法性、自八正道垂権迹、皆得解脱苦衆生、故号八幡大菩薩」とある。

 ※この館蔵品の伝来情報の掲載はない。
 ※この館蔵品は享保3年(1718)の補修記録があり、かつ作風などから江戸初期の製作と推定されると云う。
◎今般の石清水八幡宮「僧形八幡神像絵図」の讃は上記と全く同一であり、かつ画像も近似する。
故に、以上を踏まえると、(山城神護寺像は未見ながら)今般の神像も神護寺像系列であり忠実に模写したものと推定される。

2010/05/14追加
新しく公開された『曼荼羅「篝火御影」』

2010/05月京都新聞など各紙報道:【石清水八幡宮 曼荼羅「篝火御影」を公開】
 ◇八幡曼荼羅・篝火御影1
 ◇八幡曼荼羅・篝火御影2:何れも、:石清水八幡宮蔵:石清水八幡宮報道発表資料(パブリック)
 2010/09/27追加:
 ◆八幡曼荼羅・篝火御影3:八幡市立松花堂美術館ルーフレッから転載
当図は軸装、法量は縦84cm、横46cmで、中心に僧侶姿で右手に剣を持った「僧形八幡神」が極彩色で描かれ、その下に篝火と、8体の神が配置される。
この曼荼羅「篝火御影」は元寇時に、西大寺の僧・叡尊が社殿に掲げ、敵の降伏を祈願した曼荼羅の可能性が高いと推測される。
 ※「男山考古録」では「石清水坊<宮本坊・行教院>、行教御自筆の篝火御影の壱軸等什宝とせり、此神影一軸は敵国降伏祈祷の時に
 懸奉ると云」と云う。 
 また弘安4年には亀山上皇と西大寺叡尊などにより異国降伏祈祷が行われた記録が残る。
 (「異国襲来祈祷注録」(重文・南北朝期):亀山上皇と西大寺叡尊などによる異国降伏祈祷記録、
  「八幡愚童記」(重文・鎌倉末期か):主に蒙古襲来に関する八幡大菩薩の霊験を説く。)
裏には墨書があり、それは「奉寄進 八幡御神躰一補 永享3年(1431)辛亥三月三日 教恵/石清水八幡宮大乗院常住」と記す。
 ※石清水八幡宮大乗院に寄進されたものとされる。作者は不明。軸装の様式は鎌倉期のものであり、鎌倉期の作と判断される。
この曼荼羅図は上述の「僧形八幡神像」と同時に若宮社厨子から発見される。
「前から厨子中の存在は分っていたが、畏れ多くて開きみりことは出来なかった。」(神職談)
 山下の神應寺には宮本坊の原本を複写したと云う「篝火御影」(江戸期)が伝わるが、これは本図と全く同じであり、神應寺本は当図を複写したものである可能性もある と云う。


2021/11/05追加:
御幸道遺構の出土

2021/09/24
○京都府埋蔵文化財調査研究センター:プレス発表
 石清水八幡宮”御幸道”(参道)側溝出土
調査は御幸橋橋脚の修復に伴うもので、御幸橋北詰の河川敷の地点である。
この地点で南北に走る2本の溝(幅0.5〜1.0m深さ0.5〜0.7m)が出土する。これは道路(推定幅4.5m)の側溝と推定される。
センターでは、この道路は一の鳥居から淀川堤防沿いの京街道に繋がる参道(御幸道)と推定する。
この御幸道は江戸期の「八幡山山上山下惣繪圖」に描かれている。
 出土”御幸道”とその側溝

○「木津川河床遺蹟 第37次調査」PDF文書 より
今回の調査では、古墳前期の竪穴建物1基、飛鳥期の竪穴建物2基、平安末〜鎌倉初期の木組み井戸1基と、江戸期の道路の側溝と思われる溝2条と護岸を施した水路が発見される。
調査地周辺は、明治2年木津川付け替え以前は、暮らしに適して安定した土地であったと考えられる。
特に、江戸期の道路側溝と水路は”御幸道”と放生川から北に延びる水路と推定される。
 今回の調査地点     明治2年以前の木津川流路
現在の木津川は八幡宮と調査地点の間を流れているが、明治2年以前は約2km東を流れ、八幡宮と調査地点は陸続きであった。
発見された水路は放生川から北へ水を流すものだったと考えられる。
 調査区平面図     江戸期の道路側溝と水路     御幸道とは     八幡山上山下惣繪圖:部分


2022/03/30追加:
山城海住山寺宝珠台
 本「宝珠台」の一面は山上に石清水八幡宮の社殿を配し、全体で男山の様子をかたどっているもので、鎌倉期の石清水の景観を表すものである。
 → 山城石清水八幡宮の「宝珠台」の項を参照。
○「貞慶上人と石清水八幡宮の丈六阿弥陀像」杉崎貴英(帝塚山大学教授)、年月不明
次のように論及する。
 <なお海住山寺に伝わる「宝珠台」(南北朝時代)の表面には、石清水八幡宮の社頭図が描かれている。制作の前提状況について、叡尊(1201〜90)が八幡宮で宝珠法をおこなったことが挙げられているが、貞慶上人と石清水との脈絡に関しても暗示的に思える。>


2010/05/11撮影
志水正法寺:石清水八幡宮社家志水家菩提寺:徳迎山と号する。

概要:
建久2年(1191)高田蔵人忠国(駿河國清水在住)の開創、当初は天台宗であった。
高田忠国は鎌倉幕府御家人・源頼朝の幣礼使として八幡に赴き、この地に居住する。新清水と称し石清水八幡宮社家となる。
3代宗久は石清水の「清」を避け、志水氏と名乗る。
室町期に浄土宗(鎮西派)に転宗し、天文15年(1546)後奈良天皇の勅願寺となる。唐門には勅額「徳迎山」を掲げる。
文禄3年(1594)志水宗清娘(亀女・号相応院・尾張義直生母)、徳川家康の寵愛を受く。
その後、相応院の菩提寺となり、尾張徳川家の庇護を受け、500石の寺領を給う。
 ※相応院実父志水宗清は尾張藩家老に取立られ、社務職は止めるという。(「新撰京都名所圖繪」)
現在、寛永7年(1630)相応院寄進による本堂・唐門・大方丈(以上重文)・小方丈・書院・鐘楼などを残す。

◆志水正法寺伽藍
※2010/05/11は公開日ではなく、写真撮影は不完全にしかできない。
 正法寺山門を望む:左の堂宇は地蔵堂       正法寺伽藍を望む1:左唐門、中央本堂、右は 近年の法雲殿(RC)
 正法寺本堂遠望
 正法寺唐門・大方丈:唐門背後が大方丈と思われる。       正法寺唐門
 正法寺伽藍を望む2:左は庫裏、右は鐘楼            正法寺庫裏: 庫裏と思われる。
2012/05/11追加:写真は2012/05/01撮影:公開日ではない。
 都名所圖會/正法寺
 正法寺山門前:都名所圖會では左右に寺中が描かれる。      正法寺山門・門番:東面する。
 正法寺地蔵堂:山門入ってすぐ右にある。都名所圖會では現在の法雲殿のある場所奥に描かれる。
 正法寺山門内:右に法雲殿(平成20年新造)、その奥は本堂、正面は唐門、左には都名所圖會では寺中が描かれる。
 正法寺唐門:重文、寛永6年(1639)頃建立、東面する。
 正法寺庫裏前門:東面する。そのほか、庫裏前門の向い側に寺中の門と思われる小門と南に南門(RC)がある。
 正法寺庫裏     正法寺玄関・方丈門・本堂門     正法寺方丈門・本堂門
 正法寺鐘楼1     正法寺鐘楼2
 正法寺本堂1     正法寺本堂2     正法寺本堂3:重文、寛永6年(1639)頃建立、南面する。
 正法寺大方丈:重文、寛永6年(1639)頃建立、東面する。大方丈の右に棟の一部が写るが、これが小方丈と思われる。
2022/04/01撮影:公開日ではない。
 都名所圖繪・正法寺
 正法寺境内     唐門・大方丈・本堂     唐門・大方丈
 正法寺唐門3     正法寺唐門4     正法寺唐門5
 正法寺本堂4     正法寺本堂5     正法寺本堂6     正法寺本堂7     正法寺本堂8
 正法寺大方丈2     正法寺方丈門
 正法寺玄関・庫裏2     正法寺鐘楼3     正法寺鐘楼4:元和7年(1621)建立、【府文】
 正法寺法雲殿        正法寺地蔵堂2
2022/11/19撮影:
本日正法寺公開日
 志水正法寺唐門6     志水正法寺唐門7     志水正法寺唐門8
 志水正法寺本堂9      志水正法寺本堂10     志水正法寺本堂11     志水正法寺本堂12
 志水正法寺本堂13     志水正法寺本堂14     志水正法寺本堂15     志水正法寺本堂16
  本堂:重文、寛永6年(1629)建立、相応院発願による。桁行5間梁間7間入母屋造、本瓦葺き。
  正法寺本堂逆輪(さかわ):正法寺の逆輪は木製品で、木箱に金箔を張り、垂木先に嵌め込む。
  木製金箔張は本寺だけのものであるという。700本の垂木先に嵌められる。
 志水正法寺大方丈1     志水正法寺大方丈2     志水正法寺小方丈
 土蔵造の東照権現堂が本堂脇にある。情報なし。おそらく相応院の寄進であろうか。
 正法寺東照権現堂1     正法寺東照権現堂2
2023/02/03追加:
○「徳迎山正法寺」志水正法寺パンフレット、発行年不明 より
 絹本着色石清水曼荼羅図:重文、上段は僧形八幡大菩薩、下段は八幡若宮・比賣神・竹内宿禰か。

◆西谷阿弥陀堂本尊阿弥陀如来坐像
 丈六阿弥陀如来坐像(重文・鎌倉・本地佛)
明治初年西谷阿弥陀堂並びに本尊丈六阿弥陀如来坐像は八角院に遷される。
平成5年京都国立博物館平常展示館における特別陳列「石清水八幡宮と神仏分離」を機に京博に寄託される。
平成20年正法寺法雲殿(収蔵庫)が落慶し、法雲殿に遷座する。
像高2.83m、台座、光背を入れると5.8m。
2012/05/11追加:
 八幡散策>八幡をぶらりゆく>八幡市の登録文化財 のページより
  木造阿弥陀如来坐像2
 志水正法寺発行リーフレット より
  木造阿弥陀如来坐像3
2022/03/20追加:
○「男山四十八坊跡 観光案内」京都府八幡市、2020.01 より
 本地阿弥陀如来坐像
2022/04/01撮影:現地説明板
 八角堂本尊阿弥陀如来坐像
2023/02/03追加:
○「徳迎山正法寺」志水正法寺パンフレット、発行年不明 より
 八角堂本尊阿弥陀如来坐像

2022/03/30追加:
○「貞慶上人と石清水八幡宮の丈六阿弥陀像」杉崎貴英(帝塚山大学教授)、年月不明
次のように論及する。
 <「海住山寺縁起」ではこれとほぼ同じ一文のあとに続いて、名声を伝える具体的エピソードが綴られているのである。
建暦二年三月三日、八幡検校祐清、丈六ノ阿弥陀佛ヲ作テ光ニ千佛ヲ付テ、解脱上人ニ供養ヲサセ申ケル。イツヨリモ説法殊ニ目出度テ皆涙ヲ流ス。>
 <これによれば、石清水八幡宮の第32代別当をつとめた祐清(1166〜1221)が千仏光背をともなう丈六阿弥陀像を造立、建暦2年(1212)の開眼供養では、貞慶上人が招かれて供養導師をつとめ、参集した人々は上人の優れた説法に感嘆したのだという。>
 <祐清が造立した阿弥陀像のその後について記しておこう。これを本尊として安置する「丈六堂」=「西谷八角堂」はその後、祐清を第二代とする善法寺家の私的仏堂として継承され存続してゆく。
 男山山上を追われた丈六阿弥陀像は、堂宇ごと山下に移され、正法寺(浄土宗)の境外仏堂「八角院」の本尊となっていたが、1993年、京都国立博物館平常展示館における特別陳列「石清水八幡宮と神仏分離」を機に寄託され、明るい照明のもとにその全容をあらわした。
 木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財、像高283.0cm)。展示公開を機に、その優れた造形性も再評価されるに至り、現在では仏師快慶(?〜1227)の作風を示す像としての理解がほぼ定着をみている。快慶といえば、貞慶上人との関わりも少なくない。ここでは詳述を控えるが、貞慶上人と祐清との間をとりもったのは快慶であった可能性が高いと筆者は考えている。
最近、正法寺境内に文化財収蔵施設「法雲殿」が完成、八幡の地に還った阿弥陀像は、その本尊として安住の場を得た。金色の輝きも千仏光背も失われているが、丈六の偉容には圧倒されるばかりである。かつて男山山上に展開された神仏習合の盛観を髣髴とさせるこの巨像は、貞慶上人最晩年の晴れ舞台を偲ぶよすがとしても仰ぐことができよう。>

  ※西谷阿弥陀堂(八角堂)についての詳細は
     → 石清水八幡宮>西谷阿弥陀堂(八角堂)/旧八角院 を参照。

◆その他
2010/09/27追加:
 徳川家康画像:正法寺蔵、詳細が不明。
2023/02/03追加:
○「徳迎山正法寺」志水正法寺パンフレット、発行年不明 より
徳川家康画像
徳川義直直筆と伝える、寛永14年(1637)相応院から正法寺に寄進と云う。123.8×58.0cm。
 紙本着色徳川家康像


参考:山城八幡本妙寺

石清水八幡宮東谷下に法華宗本妙寺がある。(但し、石清水八幡宮との関係は認められない。)

 →山城八幡本妙寺京都本隆寺


2010/12/14作成:2024/03/27更新:ホームページ日本の塔婆石清水八幡宮八幡宮2004年石清水八幡宮再興放生会