河内交野(河内中山観音寺跡、河内岩倉開元寺跡、河内小松廃寺)

河内交野(河内中山観音寺跡、河内岩倉開元寺跡、河内小松廃寺)

河内中山観音寺跡

標高約45mの丘上に立地し、現枚方観音山公園がその地という。創建は白鳳・奈良期とされ(その期の瓦を出土)、 平安期に最盛期を迎え室町期頃まで存続していたとされる。付近には三法院、奥の坊、阿闍梨坊などの地名があると云う。
 (河内金剛寺蔵「胎蔵界大灌頂次第」奥書に「交野郡観音寺」との記録があると云い、これは当寺を指すとされる。)
公園南隣接地の発掘調査により版築の基壇二基や礎石などを検出し、各種土器類、軒瓦、鴟尾などの瓦類、青銅製観音像懸仏などが出土する。戦前には経筒の出土があったと伝える。
版築の基壇は塔跡とされ、発掘礎石は心礎と推定された。現在、公園中央南に「心礎とも思われる石」が放置される。
しかし、その「石」がはたして心礎なのか否かはよく分からないが、以下の資料などで判断すると、おそらく発掘された推定心礎が放置されているものと思われる。
●推定心礎の概要(実測)は次の通り。
推定心礎は花崗岩製で、大きさは約150cm×125cm×75cm、上面を平らに削平し、そのほぼ中央に上面の径約6.5cm深さ約5cmの孔を穿つ。塔心礎だとすると、この孔は極端に小さい。 敢えて類似を求めるとすると、特殊な塔の遺構であるが近江瀬田廃寺の塔礎石に類似する。
 中山観音寺推定心礎1     中山観音寺推定心礎2     中山観音寺推定心礎3     中山観音寺推定心礎4

□2003/11/15:「枚方市史 2巻」枚方市史編纂委員会、昭和47年 より
茄子作の金竜寺境内の石段は当寺の石材を運び出したものという。
寺院は丘陵上から南面する傾斜を階段状に造成し、伽藍を建立したとされる。
  中山観音寺伽藍跡見取図  地表遺物として牛石、石の手水鉢、5、6体の石仏、花崗岩などがある。

□2003/11/15:「枚方の遺跡と文化」枚方市教育委員会、1985 より
昭和49年公園南の隣接地を発掘調査。版築の基壇が東西に並んで検出。西側基壇は東西約10m(南北は不明)で礎石及び礎石抜取穴から間口5間の建物と推定、別に塔心礎と推定される礎石も埋没していた。この心礎と思われる礎石は公園内に置かれる。
  中山観音寺跡塔心礎写真が不鮮明で、かつ大きさの記載 も無いが、現在公園に放置される上記の「推定心礎」」に形状は似る。)
なお調査地は破壊されたようである。
ついでながら、以上とは何の関係もないが、公園東端には牛石(牽牛)と呼ばれる石があり、この石は七夕の日に倉治機物神社(実在)の織姫と天野川(実在)を渡って逢うと 云い伝えられている石である。

□2008/10/14追加:「枚方市史 12巻」昭和61年 より
上項の「枚方の遺跡と文化」と同一内容の記載がある。但し以下は傾聴すべき記述である。
西側基壇の下から、塔心礎が埋没した状態で出土したが、この基壇が設けられる以前の創建時の塔心礎と考えられる。基壇構築時期は出土土器から上限は8世紀と考えられる。また出土瓦には白鳳期を考えられる瓦もあり、創建期のものと思われる。
  中山観音寺塔心礎2:上記と同一写真 (上掲載よりは多少鮮明)

河内岩倉開元寺跡

◆岩倉開元寺
 岩倉開元寺は交野山(標高344m)の山頂付近の南斜面にあり、東西約300m南北30mの範囲に堂宇跡と推定される約20箇所の平坦地があるとされる。(但しかなりの急斜面もあり良く確認はできない。)
その中の一つに多宝塔があったらしく、多宝塔跡の石碑が建つ。但し、何を根拠に多宝塔跡と断定するのかは不明。
 昭和29年、3箇所で小規模の発掘がなされ、その結果創建は出土瓦から鎌倉期と推定された。
堆積層として、二層の焼土があり、下層は鎌倉・室町期、上層は戦国期末頃と考えられると云う。
天台系の寺院であったとされるが、室町期には南都興福寺末であった。(嘉吉元年<1441>再改定「興福寺官務牒疏」に交野郡開元寺とある。)
 →但し「興福寺官務牒疏」は椿井政隆による「偽書」(「椿井文書」)である。
あるいは山麓の開元寺が鎌倉期に現地に移され、中世末織田勢(筒井勢)によって焼かれたとも云われる。(交野町史)
 河内岩倉開元寺跡石碑    同    多宝塔跡    同   多宝塔跡石碑
2012/06/22追加:
岩倉開元寺の山中平坦地の一つを多宝塔跡とする根拠を「交野市史」は以下のように述べると云う。(未見)
 「礎石は正方形に配置され、入口は四方柱間の中央に開かれている。更に地山を利用した亀腹が中央部にあること、出土した瓦の中、下り棟の端に使用したと考えられる“隅木の蓋”があることから、この台地の建造物は“多宝塔”あるいは“層塔”であったと推定される 。」
そして礎石配置の平面図の掲載があるが、これを見る限り、平面5間の礎石配置(心礎は勿論四天柱礎の配置もない)である。これは「大塔」ということも考えられるが、大塔とする積極的な根拠は皆無であろう。また椽の束石とも考えられるが、それにしては脇柱・四天柱礎が一切無いのは理解ができない。何れにしろ、礎石配列からは多宝塔跡である可能性はほぼ皆無であろう。
 なお「交野町史」には「岩倉開元寺略図」の掲載があると云う。この略図は「佛教藝術 235」1997 に転載されたものであろう。

 山麓の神宮寺(地名)から山頂に至る参道は石仏の道と名づけられ4体の石仏がある。
麓から弥勒菩薩(と推定、推定鎌倉初期、総高1.8m)、阿弥陀三尊磨崖石仏(文明11年<1475>の銘、岩は3.4m×3.7m、阿弥陀の種子の梵字キリークを刻印)、阿弥陀如来立像石仏(推定室町期、総高約1m)、阿弥陀三尊磨崖石仏(推定室町期、岩は2.5m×2.1m)がある。
   同    石仏 :左から弥勒菩薩、阿弥陀三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏
 交野山山頂は岩山で巨大な磐座があり、360度の眺望がきく。
  交野山  山容    交野山山頂眺望:北方を眺望、左奥は山城愛宕山、左手前は天王山、その前は淀川、右手前は男山

◆初代開元寺(天平開元寺・創建開元寺)
 山麓の神宮寺に初代開元寺跡(天平開元寺)があり、昭和29年の発掘で礎石が発掘され、この寺跡は奈良期の創建とされる。
現状は畑地で石碑が建つのみである。発掘礎石は教育文化会館(倉治)の前庭に保存と云う。
  初代開元寺跡石碑

◆河内開元寺礎石
2012/06/22追加:2012/06/07撮影:
交野市立教育文化会館前庭に開元寺の礎石が保存・展示される。
 初代及び岩倉開元寺礎石1
 初代及び岩倉開元寺礎石2: 何れも手前の礎石が初代開元寺、奥の礎石が岩倉開元寺の礎石
※手前の礎石が初代開元寺、奥の礎石が岩倉開元寺の礎石と云う根拠はWebページ:「広報かたの 平成20年9月1日号」 の解説に基ずく。
但し教育文化会館などに照会した訳ではないので真偽の程は不明。
 河内岩倉開元寺塔礎石
※Webページ「岩倉開元寺 塔礎石」では塔礎石と して紹介される。
※本礎石が岩倉開元寺(塔)礎石であることは、「教育文化会館職員に照会済」とのことである。

河内小松廃寺

※下記に記す記録などにより、古には小松寺という寺院が存在し、ここには「宝塔」(三重塔)があったと推定される。
しかし、現状、想定跡地はゴルフ場などと云う遊興施設として開発され、往時を偲ぶものは殆ど無い状態であり、確認のすべがないのが現実のようである。

「河内国小松寺縁起」:・・・(続群書類従に収録・・・未見。)
 「和銅5年(712)田原郷住人宇紀八の子若石丸(13歳)、宗次郎の子熊王丸(11歳)、中四郎の子松若丸(17最)の三童がこの山に遊び、方5尺の草堂を造り、これを開山とし、荒山寺と称する。」
その後、幾多の天変地異・災害があり、この草堂は再建を繰り返す。
「延長3年(925)小松寺と称する。秦の姉子なる人が、亡夫小松景光供養のために、 七間四面の堂一宇を建てた。そのために荒山寺改まって、以後、小松寺と称する。あるいは御堂前の自生小松で長谷寺観世音を刻みそれ故に小松寺と号すとも云う。」
「供養願文云紀納言作」:延長8年(930):
 「昔号荒山寺、今改小松寺・・・・」
 「承平元年(931)願主生馬郷藤井清光建立2間4面金堂、奉安置弥勒像、天慶2年(939)講堂1宇、願主秦郷紀行将建立、安和元年(968)食堂造11間、寛和年中(985〜)講堂地震倒壊、長和2年(1012)講堂再興供養、承暦4年(1080)毘沙門堂造立。
限東32丁、限南29丁、限西14丁、限北23丁、内に大谷7小谷19大道3小道5がある。堂舎僧坊根本草堂(本尊観世音菩薩)金堂(本尊弥勒菩薩)講堂、宝塔、鐘楼経蔵、大門(西ニ重瓦葺)小門、北東大谷宝蔵、南大谷御堂、西谷食堂、北谷閼伽井・・・
辰巳角湯屋、金堂前蓮池、講堂矢土(土を施す?)、食堂前井、閼伽井上毘沙門堂、坊舎67宇、僧衆120人・・・・」
 右小松寺縁起東寺観智院縁起応永古写本也、文政2年閏4月於本院写3了、従小松椙邨徴古録中抜書
  (※根本草堂十一面観音<櫻材一本造り、立像、143cm>は星田・星田寺観音堂に現存するという。)
また
「星田名所記」:「昔平重盛公七塔迦(ママ)藍を建立して小松と号す・・・」ともあり、地元では小松重盛の再建により小松寺と号するという説が流布したと云う。
その後の沿革として、以下の記録が伝わる。
永長元年(1096)地震、河内小松寺毘沙門堂倒壊。
康和元年(1099)地震、河内小松寺講堂倒壊。
出土瓦は、平安から鎌倉期のものが主であるという。戦国期には、山城化し小松城とされる。
現状は大部が四条畷GCになり、古の景観を偲ぶのは困難とされる。唯一尾根筋に近世まで存続した北の大門跡(礎石・石組)が残ると云う。
「河州交野郡小松寺塔供養記」:
 「・・・長禄4年(1460)・・小松寺塔(三層)供養、(導師は)東寺観智院々主宗果・・・・、」(宗果が下向、宿坊は東福坊)
「・・・・・・・大法師触寿紀」
幾多の写本を重ね、最終的には万治2年(1659)来迎院月峰が西堂にて写本したものと伝わる。
上記「塔供養記」中に以下の絵図があり、これは小松寺の残存する唯一の堂塔絵図と云う。
 ○河内小松寺塔供養記絵図:長禄4年 三重塔供養。(「星田懐古誌」より転載)
 


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