現存する多宝塔の概要(江戸後期・享保以降)

現存多宝塔(江戸後期・享保以降)

名称・場所 国指定 画像 備  考
668 紀伊広八幡宮
(安芸三滝寺)
重文 紀伊広八幡宮・紀伊法蔵寺・安芸三瀧寺多宝塔
669 丹波穴太寺

建立時期ははっきりしないが、凡そ享保年間(1716-35)建立とされる。
一辺4.48m。高さ約13m。細部についてはかなり唐様が強い。
西国21番札所。
鎌倉後期には一遍上人が逗留したとされる。
 一遍上人絵伝:但し塔は相輪のみ描かれる。
2023/03/14追加:
天台宗、菩提山と号す、西国33所21番札所。
宝徳2年(1450)の「縁起」では文武天皇の慶雲年中(704-708)大伴古麻呂大臣が薬師如来を祀り開創したという。
「本朝法華霊験記」(1040~44)「扶桑略記」(平安後期)「今昔物語」(平安後期)では応和2年(962)丹波桑田郡の宇治宮成が金色の観音像を造立したと云う。「縁起」では観音像は寛弘7年(1010)の造立という。
鎌倉期には一遍上人も当寺に参詣し逗留する。
室町期には山門西塔の末寺となり足利将軍家の庇護を受けるも、天正年中には兵火で荒廃する。
享保13年(1731)本堂の再建がはじまり、元文2年(1732)には再建が終わる。
多宝塔・鎮守・仁王門・鐘楼・念仏堂・方丈・庫裏は府登録文化財である。
方丈・庫裏は圓應院と号し、本坊である。
 本尊聖観世音菩薩は昭和43年に盗難に遭い行方不明と云われ、現在も発見されてはいない。
現在、本堂に安置されている聖観世音菩薩は模刻ということで重文であった。
2000/08/12撮影:
 画穴太寺多宝塔
2005/12/28撮影:
 穴太寺多宝塔1    穴太寺多宝塔2    穴太寺多宝塔3    穴太寺多宝塔4
 穴太寺多宝塔5    穴太寺多宝塔6    穴太寺多宝塔7
2022/12/11撮影:
 穴太寺多宝塔11    穴太寺多宝塔12    穴太寺多宝塔13    穴太寺多宝塔14    穴太寺多宝塔15
 穴太寺多宝塔16    穴太寺多宝塔17    穴太寺多宝塔18    穴太寺多宝塔19    穴太寺多宝塔20
 穴太寺多宝塔21    穴太寺多宝塔22    穴太寺多宝塔23    穴太寺多宝塔24    穴太寺多宝塔25
 穴太寺多宝塔26    穴太寺多宝塔27    穴太寺多宝塔28    穴太寺多宝塔29    穴太寺多宝塔30
 穴太寺多宝塔31    穴太寺多宝塔相輪
 穴太寺仁王門1     穴太寺仁王門2     穴太寺仁王門3
 穴太寺本堂1    穴太寺本堂2    穴太寺本堂3    穴太寺本堂4    穴太寺本堂5    穴太寺本堂6
 本坊圓應院1    本坊圓應院2:方丈
 穴太寺念仏堂    穴太寺観音堂1    穴太寺観音堂2    穴太寺地蔵堂    穴太寺鐘楼
 穴太寺鎮守1     穴太寺鎮守2     穴太寺鎮守3     穴太寺長屋門     穴太寺北門
670 佐渡長谷寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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延亨2年(1745)建立。一辺6.1mの大型塔。
下重内部構造:8本の柱を建て、頭貫・台輪を円形に組み、須彌壇を八角とする。これは下重3間とする多宝塔形式で、大塔形式と思われる構造を持ち込んだ唯一の違例です。但し、この構造を採用した意図は不明。
 寺伝では、観音堂安置の弥陀・釈迦・大日・薬師・宝生の五智仏を正保年中(1644-)に五智堂を造って移し、更に延享2年に多宝塔を建立して安置と云う。
2003/5/10:吉田初三郎(佐渡島)
2007/03/27:
「明細帳」 天平年中行基開基、大同年中弘法大師来りて豊山長谷寺と改称す。往古は寺領300貫、坊舎120宇、天正の戦乱で壊滅、慶長以降復興。
堂宇 本堂、玄関、廊下2、鐘楼、仁王門、中門、宝蔵、土蔵2、納屋、護摩堂 境内 1650坪
 ※五智堂(多宝塔)の記述がない理由は不明。
「佐渡志」 大和国小池坊末寺
「子山佐渡志」 蓮華峯寺と同じく・・上杉景勝の国たりし程に越後国吉祥寺属下となる
「寺記歴代」 元禄11年大和国小池坊末改
寺家 5ヶ寺(慶蔵坊、宝蔵坊、東光坊、遍照坊、泉蔵坊)、末寺 4ヶ寺 門徒 7ヶ寺
属下 丸山村西立寺、松ヶ崎村長松寺、同 松前坊、丸山村平泉寺、目黒町村西光寺、多田村弘勒院、岩首村万福院、同 地蔵院、鵜島村泉福寺、柿ノ浦村西楽寺、尾戸村東福寺
2007/04/13追加:
平安初頭山奥の瑞籬平にあった天台宗養禅寺・長楽寺などが現地に移り、長谷寺となったと伝える。
多宝塔のほかに、観音堂、不動堂、十王堂、弘法堂、仁王門などと本坊、遍照院、泉蔵院が現存する。
十一面観音3躯(本尊・重文・平安期)を有する。
佐渡長谷寺仁王門:左の堂宇は遍照院
  同    観音堂:仁王門から直線の石段上正面は観音堂、右は不動堂、聖天堂、鐘堂(下から)
671 播磨蓮華寺 . 図1
図2
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図7
図8
図9
以前は三重塔であったと伝える。塔は延亨4年(1747)の再興。初層は一手先、中央蟇股、脇間は蓑束。上層は四手先(扇垂木)。桟瓦葺き。印象的には無骨な印象 を受ける。一応補修が終わって化粧はされているが、まだ不十分な様子と思われる。
大化元年(645)法道上人の開基とする。また空海がこの地で修行ともいう。中世には、18院33坊を有すると伝える、天正7年の羽柴秀吉による三木城攻略の戦火を受け、焼失。その後江戸時代に再建され、今は堂々とした密教本堂、多宝塔、鐘楼、仁王門、鎮守、本坊、坊舎跡などが広い境内に ある。鐘楼の梵鐘は貞和2年(1346)の銘を持つ。
多宝塔 蟇股 同 床下 同 相輪 本 堂 仁王門
672 備前禅光寺(安住院) . 多宝塔は寛延4年(1751)建立(棟札)。多宝塔は一辺5.68m、高さ19m。(あるいは総高20mとも云う)本尊:金剛界大日如来座像。
 → 備前禅光寺
673 丹後圓隆寺

宝暦5年(1755)再建。再建前は三重塔であったと云う。三重塔は享保17年(1732)焼失し、宝暦5年再建とされる。
 一辺3m、高さ15.3m。
相輪は異様に長 く、層塔の名残りとも云われる。また饅頭が漆喰ではなく、鱗状(瓦葺)になる。
下重内部には多宝塔としては珍しく(明治以前では唯一の遺例)心柱が通る。現在須弥檀上には何も安置仏はないと云う。
円隆寺は高野山真言宗、長徳年間(995-8)に皇慶上人の創建とされる。現在も本堂・仁王門その他幾多の堂塔を有す。また阿弥陀如来坐像をはじめ5体の重文指定の仏像を残す。
2009/07/18追加:
◆サイト:「丹後の地名・資料編」に以下の資料の掲載がある。(転載)
「丹後国加佐郡寺社町在旧起」
 (「丹後国加佐郡寺社町在旧起」なのか「丹後国加佐郡寺社町在旧記」なのか今のところ不明、著作者不明、享保16年・1731)
慈恵山円隆寺は真言宗 皇慶上人 一条院御宇長徳年中
本堂五間四面 本尊阿弥陀 釈迦 薬師不動 毘沙門 行基の作
三重の塔 本尊大日 作者知らず 鐘楼 護摩堂これあり
 愛宕山大権現惣門より山上まで九町有り本社五間四方 太郎坊二間四方なり
開発因縁は円隆寺塔頭西谷坊今は理性院と云ふそのころの住持当寺において石の地蔵を掘出し愛宕山権現柴の菴を結び山上に勧請す
 貴賎参詣夥しく女布村の山城に森脇宗坡これを聞き西谷坊謀を以て諸人を集める事甚しその科トガ軽からず屹度女布の館え来るべしとて使いを立てる 住持違背に及ばず罷出る矢田峠まで往ける所に森脇居宅出火したりければ正しく愛宕の咎 トガならんと住持途中にて火消の加治すべし 愛宕取立の事赦免のむね使立て西谷坊愛宕へ火除を祈れば忽ち消ゆ その後段々造立して今の愛宕山これなり
本坊智恩院 塔頭理性院 成就院 吉祥院 古へ惣門二王門ありと雖も焼失す
「丹後国加佐郡旧語集」
 (年代、著作者不詳)
真言宗  円隆寺 慈慧山 智恩院 無本寺
   寺領地方三十五石  内引土村高之内二拾六石、大野辺分之内九石
 開基人王六十六代一条院御宇長徳年中 皇慶法印
理性院伝来記
 文禄四乙丑年八月十日大雨崩什物縁記等失ス
 本堂 五間四面 住持良弁代以自力本堂寺院破損修理訖
 本尊 阿弥陀 薬師釈迦 不動毘沙門 不知作行基トモ云
 鰐口 丹後国田辺比丘尼恵阿  暦応二己卯年八月十五日 彫付有由
 八幡大神宮 三間ニ二間 類焼迄は一丈五尺 今は五尺
 塔     二間四方三重 本尊 大日如来
 薬師堂 行基作 二間四方 理性院持、観音堂 不知作 二間四面、鐘楼  二間四面
 客殿  五間ニ三間半、庫裏  東西四間南北九間、四間ニ三間ノ廊下有
 護摩堂 三間半ニ弐間、聖天堂
  塔頭三ヶ所  理性院   西谷坊  成就院   二王坊   吉祥院   池ノ坊
      類焼後未建立無之
 門前町家 二十軒 但南北三十五間五尺
 惣境内  四千二百九拾六坪 但門前町家トモ其外山林有
 惣門 三間ニ二間 多門天 持国天 増長天 広目天 四天ヲ内外ニ勧請ス
 末寺五ヶ所
  万願寺村不動院万願寺、女布村法光院菩提寺、観音寺村花蔵院観音寺、別所村安養院真久山、丹波梅迫威徳院
 愛宕山権現社 本社五間四方 客殿三尺四方 円隆寺持元来理性院持也 後円隆寺江移 五月壱ヶ月斗理性院持也
 麓ヨリ八丁惣門ヨリ九丁山上ニ有テ中程ニ休堂有本堂棟札モ無之縁記モなし 飛騨内匠連タル由云伝なり
 峠より下西ノ方福井村江下ル道モあり
  六月廿三日祭也夜祭御家中札多翌朝愛宕ノ宵祭也 翌廿四日参詣多し
  太郎坊社 二間四方 宮殿 六尺、拝殿 九間三間    右愛宕ハ京極飛騨守高直侯御再興
 昔女布村に山脇宗把卜云武士住居此節本堂も塔も建之由伝説不慥 二王門或時焼失二王を除安久村 後に至てみれハ吉原町より下也 北の浜に置夫ヨリ其辺を二王崎と云由 其後類焼難除焼失其以後門無しと云先御代門と用水の所被仰付堂の西の方本尊の後堂のはめ板に放駒の絵有巨勢金岡筆の由 此馬夜々出て田畑を荒し東ノ方若狭道白鳥峠ヨリ東土橋迄行て帰ると依之此橋後の世迄も駒返の橋と云伝 其後是を繋駒とす夫ヨリは不出此絵六十年斗
以前迄薄く見へたりし次第に消て見へかたし其頃の理性院住持秀円と云し僧絵を好右之図をよく覚へ脇に書たるよし
・・・以下略・・・
「丹哥府志」
 (宮津藩の儒者小林玄章・之保<玄章子>・之原<玄章孫>の著、宝暦13年・1763-天保12年・1841)
【慈恵山円隆寺】(引土町、朝代の次、真言宗、寺領卅五石、塔頭三院末寺五ケ寺)
 慈恵山円隆寺は長徳年中皇慶上人の開基なり、後の世に田辺小太夫といふものあり上人の徳を慕ひ伽藍を再建して諸堂尽く備はれり。文禄四年八月十日山崩れに逢ふて堂宇傾頽す、幸に京極侯の荷担あるによって伽藍を再建す、万治二年四月七日又火ありて一切烏有となる、今の堂宇は牧野侯の再建なり、昔に比すれば十分の一なりといへども、本堂の傍に護摩堂あり薬師堂あり、観音堂あり、鐘楼あり、山門あり、山門の上に四天王を安置す、其門の傍に又多宝塔あり、三重の塔なり、塔の傍に客殿庫裡軒を並べ、塔頭三院相連る(成就院、理正院、吉祥院)、其仏像は蓋皆古の存する所なりといふ。
【八幡宮】(円隆寺境内)、【愛宕権現】(円隆寺境内に華表あり、是より山に登る。
2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第2集」京都府教育委員会、昭和59年 より
現在の伽藍は享保17年(1732)の火災後に再建されたものである。
棟札によれば、鎮守の再建から始まり、多宝塔・総門・鐘楼・本堂の順に造営される。
本堂:5間×5間、一重、入母屋造、独立した拝所として桁行1間・梁間1間、向唐破風造が付属する。天明6年(1786)建立。
多宝塔:宝暦元年(1751)の建立で、初重屋根上の亀腹を蓮弁瓦で葺く。初重内部は四面に四仏を墨書した八角形の心柱を中心に四天柱を建てるが、頭貫を花頭形にする。
鐘楼:宝暦10年(1760)の建立、袴腰を平瓦葺きとする。
鎮守:元文2年(1737)の建立で、一間社流造、屋根桟瓦葺き。
総門:宝暦3年(1753)の建立、前後の両脇間に四天王像を安置する。
○2013/07/13追加:
 舞鶴圓隆寺本堂及多寳塔:絵葉書、戦前のものと推定される。
○000/01/07撮影:
 丹後円隆寺多宝塔
○2001/08/12撮影:
 丹後円隆寺多宝塔1     丹後円隆寺多宝塔2     丹後円隆寺多宝塔3
○2005/02/11:「N」氏撮影
 丹後円隆寺多宝塔N1:雪景
 丹後円隆寺多宝塔N2:上重に鳥居を構える。これは、意味不明であるが、神仏習合の表れと解釈するむきもある。
○2010/04/06撮影:
 丹後円隆寺多宝塔11    丹後円隆寺多宝塔12    丹後円隆寺多宝塔13    丹後円隆寺多宝塔14
 丹後円隆寺多宝塔15    丹後円隆寺多宝塔16    丹後円隆寺多宝塔17    丹後円隆寺多宝塔18
 丹後円隆寺多宝塔19    丹後円隆寺多宝塔20    丹後円隆寺多宝塔21    丹後円隆寺多宝塔22
 丹後円隆寺多宝塔23    丹後円隆寺多宝塔24
 丹後円隆寺多宝塔25:初重心柱     丹後円隆寺多宝塔26:同左
 以下は何れも江戸中期の建築
 丹後円隆寺惣門     丹後円隆寺本堂1    丹後円隆寺本堂2
 丹後円隆寺鐘楼1    丹後円隆寺鐘楼2    丹後円隆寺鎮守    丹後円隆寺本坊
なお、当寺は次の五躯の仏像(いずれも重文)を有する。
木造阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像・釈迦如来坐像(何れ平安期)、木造不動明王立像(平安期)・毘沙門天立像(鎌倉期)
○2017/12/23撮影:
 圓隆寺多宝塔全容11     圓隆寺多宝塔全容12     圓隆寺多宝塔全容13     圓隆寺多宝塔全容14
 圓隆寺多宝塔全容15     圓隆寺多宝塔全容16     圓隆寺多宝塔全容17     圓隆寺多宝塔全容18
 圓隆寺多宝塔全容19     圓隆寺多宝塔全容20     圓隆寺多宝塔全容21
 圓隆寺多宝塔下重11     圓隆寺多宝塔下重12     圓隆寺多宝塔下重13     圓隆寺多宝塔下重14
 圓隆寺多宝塔下重15     圓隆寺多宝塔下重16     圓隆寺多宝塔下重17
 圓隆寺多宝塔上重11     圓隆寺多宝塔上重12     圓隆寺多宝塔上重13     圓隆寺多宝塔上重14
 圓隆寺多宝塔上重15     圓隆寺多宝塔心柱:下重   圓隆寺多宝塔相輪

 圓隆寺惣門2     圓隆寺惣門3
 圓隆寺参道:本堂の段より惣門を望む、石階下、向かって左に入れば大師堂がある。     圓隆寺大師堂
 圓隆寺本堂3     圓隆寺本堂4     圓隆寺本堂5     圓隆寺本堂6     圓隆寺本堂7
 圓隆寺鐘楼3     圓隆寺鐘楼4     圓隆寺鐘楼5     圓隆寺鐘楼6     圓隆寺鐘楼7     圓隆寺鐘楼8
 圓隆寺薬師堂     薬師堂内部:中央は本尊薬師如来坐像
 聖徳太子堂・観音堂     聖徳太子堂     太子堂内部・厨子     圓隆寺観音堂     観音堂内部
 圓隆寺鎮守2     圓隆寺鎮守3     圓隆寺鎮守4     圓隆寺鎮守5
 八幡宮扁額:写真のように鎮守社側面に置かれるが、本来は側面に掲額していたものであろう。
 留め金の片方が折れ、吊っていた針金が切れ、今は側面に置く。
 上に掲載の「丹後国加佐郡寺社町在旧起」では八幡大神宮:三間ニ二間:類焼とあり、
 かなり大きな社に八幡神が祀られていたものと思われる。扁額はその当時のものなのであろうか。
 圓隆寺粟嶋堂     圓隆寺位牌堂
 圓隆寺本坊石階     圓隆寺本坊御成門     圓隆寺本坊1     圓隆寺本坊2     圓隆寺本坊3
 圓隆寺護摩堂:本坊境内
674 安房那古寺 . 図1
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宝暦11年(1761)住僧憲長が伊勢屋甚右衛門(那古の商人)らと万人講を組織、勧進して建立と伝える。合計398両余の資金を集めたと記録される。宝暦6年、江戸回向院に於いて、本尊千手観音の再興費用調達のための出開帳を行う。一辺3.94m。屋根銅板葺き。
心柱墨書銘では、願主は伊勢屋甚右衛門、大工は府中上野庄右衛門、那古加藤清兵衛などの記録があると云う。
初重両脇間腰長押上には獅子を彫刻した板壁(8面)を嵌め込む。
初重は二手先で、先端に象鼻を付け、上重は四手先、先端の尾垂木には龍鼻を付ける。蟇股には動植物の彫刻を施す。また支輪には 菱格子の彫刻を施し、台輪下には切目文様の板を嵌める。
以上のように江戸坂東風の装飾で飾られ、かなり華やかな塔であろう。
 那古寺多宝塔(明治初頭);現在ではこの場所からの多宝塔撮影は、近年植えられたと思われる桜が邪魔をして、無理となる。多宝塔全体撮影は正面の一地点のみ可能。(現在本堂解体修理中)
心柱は初重の梁上から建てる。内部は四天柱の前2本は無く、後2本の柱に火燈窓をつけた来迎壁を設け、須弥檀を置き、壇上には木造宝塔を安置する。宝塔は方形板葺き、軸部は球形で四面を火燈形に刳り抜き、内部に大日如来を安置すると云う。
 那古寺多宝塔安置宝塔:南房総データベースより転載
 補陀洛山と号する。養老元年(717)行基開基と伝える。本尊十一面観音(那古観音)。現在は真言宗智山派。源頼朝がこのご本尊に帰依して七堂伽藍を建立。
中世には里見一族との関係を深め、寺勢を伸張した。近世初頭には鶴谷八幡宮(平安期初頭、安房国総社として、国府の地に創建、鎌倉期に八幡宮となり現在の場所に移座と云われる)の別当を兼ねる。(僧形八幡大画像を有するという。)
元禄16年(1703)大震災により堂塔全壊、幕府は岡本兵衛を奉行とし、宝暦9年(1759)現在地に移して再建する。
2012/07/20追加:絵葉書:作成時期不明
 安房名所那古観音全景    房州那古ノ観音     那古観音多宝塔
2013/12/23追加:
○「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測)
 安房那古寺多宝塔21    安房那古寺多宝塔22    安房那古寺多宝塔23
 安房那古寺多宝塔24    安房那古寺多宝塔25    安房那古寺多宝塔26
 安房那古寺多宝塔27
675 攝津蓮華寺 . 図1
図2
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(明和2年(1765)再建、作事は鴻池組。)
※棟札によると、文化9年(1812)上棟、鴻池組の作事である。
江戸の後期の再建ではあるが、均整のとれた美しい姿を見せる。近年桧皮が葺き替えられたようで、屋根の線も流麗さを増す。修理前は上重檜皮葺、下重は桟瓦葺であった。
塔正面中央間は浅唐戸、両脇間は花頭窓、側面中央間は引違い戸、両脇間は板張りとする。
正面三間及び側面と背面の中央間は蟇股を置き、側面と背面の両脇間には間斗束を置く。
軒は下重が平行垂木、上重が扇垂木を用いる。
堂内は四天柱は無く奥壁に須弥壇が設置されると云う。
・法道上人開基とされる。1970年代の台風で多宝塔下の平地にあった本堂は倒壊し、塔のみ山の中腹に独立して建つ。かっては源満仲の崇敬を受け、幾多の坊舎があり相当繁栄したと伝える。荒木村重の兵火で焼亡、豊臣秀頼 により再興するも、宝暦の失火で仁王門を除き堂塔を焼失。
2003/9/2追加:
 摂津蓮華寺多宝塔建地割図(板絵、文化9年)、摂津蓮華寺多宝塔上重見上図(板絵、文化9年)
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
2枚の板図を残す。1枚は塔正面図、もう1枚は裏表に上重と下重の見上図を描く。1/10の縮尺。
当図での塔の規模;下重総間13.55尺、上重経7.4尺。高さ総高53.35尺、塔身高36.1尺、相輪長17.25尺。下重軒高13.5尺、上重軒高27.2尺。
 摂津蓮華寺多宝塔建地割図2(板絵・文化9年・・上掲高精細図)
 摂津蓮華寺多宝塔上重見上図2(板絵・文化9年・・上掲高精細図)
 摂津蓮華寺多宝塔下重見上図(板絵、文化9年)
677 但馬城崎温泉寺 . 明和5年(1768)再興塔。一辺4.25m、屋根桟瓦葺。
但馬城崎温泉寺
678 阿波熊谷寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
安永3年(1774)建立。剛意上人が建立したとされる。一辺5.99m、総高約18m。 初重組門は唐様を用い、軒も扇垂木とする。ニ重は板垂木を用い、昭和56年の修理によって、文様の彩色が復元される。饅頭は銅板貼と思われる。全体的に江戸期関東風の装飾を施す。
2013/08/09追加:
相輪の先端に真鍮製角棒銘が打ち込まれていると云う。
銘は「奉建立多宝塔一基熊谷寺現住剛意安永三年申牛十二月二十三日 大工棟梁 美馬官左ェ門藤原安英 大阪南区瓦屋町 鋳物師 大谷兵助」とあると云う。
○四国霊場第8番札所。
寺伝では、弘仁6年(815)霊場開設のため、弘法大師がこの地を訪れ修行中に、熊野権現が出現し、一寸八分の金の観音菩薩像を大師に授けたとされる。そこで弘法大師は、自ら等身大の千手観音を刻み、胎内に金の観音菩薩を納め、堂塔を建立したという。ただしこの本尊は昭和2年本堂とともに焼失。現本堂は昭和47年の再建。
阿波熊谷寺多宝塔1    同        2    同        3    同        4
  同        5    同        6    同        7    同        8
  同        9    同       10    同       11    同       12
  同       13    同       14    同       15    同       16
  同       17
阿波熊谷寺仁王門:山門、貞享4年(1687)建立、桁行9m・梁間5m・高さ13m。和様と唐様とを混用する大型建築で、かつかなりの装飾を施す。
○2008/05/08追加:「阿波郡土成村絵図」江戸期より
 土成村熊谷寺:絵図熊谷寺部分図
2013/08/09追加:
○「四国遍路道中雑誌」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」1975 所収)
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」よりでは、「四国遍路道中雑誌」弘化元年(1844)上梓、天保7年(1836)武四郎19歳の頃に四国を巡ると思われる。
 熊谷寺山内之圖:多宝塔の位置に三重塔が描かれるも、三重塔とは不審である。天保年中では多宝塔の存在は肯定できるが、多宝塔を三重塔と誤認あるいは誤記あるいは誤描したのであろうか。
なを、阿波鶴林寺三重塔について同じ「四国遍路道中雑誌」の中で松浦武四郎は多宝塔としているので、野帳の整理などで、鶴林寺三重塔と取り違えたのであろうか。
 記事:第8番普明山熊谷寺:・・・「仁王門」入て「大日堂」向て「真光院」本坊なり。并て「五輪堂」上に「稲荷社」并て「青面金剛」上に「末社」・・石階の上「化城庵」・・并て「十六羅漢堂」并て「六地蔵」向て「茶所」向て「三重塔」石階を上りて「鐘楼」「休所」「本堂」少し石階を上り「大師堂」右の方山上高き処に「鎮守社」・・・
679 紀伊野上八幡宮
(大和東南院)
. 紀伊野上八幡宮・大和東南院多宝塔
680 讃岐三谷寺 . . 天明7年(1787)建立。一辺4.96m。高さ約16m。上重 銅板瓦葺、下重 本瓦葺。
内部は四天柱は後2本があり、その前には須弥壇があり、五智如来像を安置する。
2016/10/08撮影:
 讃岐三谷寺多宝塔11   讃岐三谷寺多宝塔12   讃岐三谷寺多宝塔13
 讃岐三谷寺多宝塔14   讃岐三谷寺多宝塔15   讃岐三谷寺多宝塔16
 讃岐三谷寺多宝塔17   讃岐三谷寺多宝塔18:西面    讃岐三谷寺多宝塔19:西面
 讃岐三谷寺多宝塔20   讃岐三谷寺多宝塔21   讃岐三谷寺多宝塔22
 讃岐三谷寺多宝塔23   讃岐三谷寺多宝塔24   讃岐三谷寺多宝塔相輪
〇「讃岐名所圖會」:世尊院(三谷寺)
図中には多宝塔が描かれるも、記事中には全く多宝塔の記事はなし。
 三谷寺伽藍図
〇三谷寺略歴天平2年(730)行基菩薩が開基。
聖武天皇の勅願によって施無畏時と号する。後、弘法大師が再興し、八葉山弥勒院と号した。
後宇多天皇の御代には、その勅願所となり、宝珠山三谷寺と改められた。
天正7年(1579)長曽我部の兵火に罹るも、生駒一正、松平頼重などの帰依を受け、再建・整備されて現在に至る。
地蔵堂は嘉永2年(1849)建立、仁王門寛永4年(1627)建立。
2016/10/08撮影:
 讃岐三谷寺仁王門   讃岐三谷寺中門   本堂より中門を望む   讃岐三谷寺鐘楼
 讃岐三谷寺十王堂   三谷寺十王堂内部   讃岐三谷寺経蔵
 讃岐三谷寺本堂1   讃岐三谷寺本堂2   讃岐三谷寺大師堂
 讃岐三谷寺地蔵堂1   讃岐三谷寺地蔵堂2   讃岐三谷寺地蔵堂3
 讃岐三谷寺地蔵堂4   讃岐三谷寺地蔵堂5   讃岐三谷寺地蔵堂6
 讃岐三谷寺納骨堂   讃岐三谷寺護摩堂   讃岐三谷寺鎮守堂
 三谷寺本坊通用門   三谷寺本坊庫裡等   三谷寺本坊玄関   三谷寺本坊庫裡
 三谷寺本坊客殿1   三谷寺本坊客殿2   三谷寺口付近から飯野山を望む
681 山城本法寺 . 山城本法寺:寛政年中(1789-1801)再建塔
682 淡路蓮華寺 . 図1
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仁王門
文化2年(1805)の建立。一辺約2.2m(7尺)の大変な小型塔(平面が最小の遺例)であるが、正規の建築である。地面から背伸びをすれば初層の組物手が届く。欅材を用いる。相当傷んでいたと思われるが、近年腐朽部の材料は入替、屋根は葺き替えられる。初重は本瓦葺き・二軒繁垂木、上重は銅板葺き・ニ軒扇垂木。初重には擬宝珠高欄のある縁をめぐらす。正面中央間は桟唐戸・脇間は連子窓とするも、残りの三面は全て板壁とする。中備はありふれた蟇股を置く。本尊は金剛界大日如来という。
当寺は高野山真言宗を奉じ、五百羅漢像で有名という。(実見せず。)仁王門正面に本堂がある。羅漢堂に五百羅漢を安置する。羅漢は中興・実怒和尚の発願で天明4年(1784)釈迦如来と十六羅漢を造仏し、その後、実静、実賢、実栄の三代の住職が、66年の歳月をかけて嘉永3年(1850)に五百羅漢を完成させたという。当日は多宝塔の西に接する堂(羅漢堂?)の取壊し中であった。
683 陸奥文知摺観音
(安洞院)
. 11
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文化9年(1812)安洞院八世光隆和尚が建立。銅板葺き。
高さ15m、一辺約3.2m。江戸風な過剰な装飾を持つ。明治17年板葺から銅板葺に改める。
正面に唐破風を付設、基本的に禅宗様を用いる。下重組物は三手先。軒は上下重とも雲文を彫刻した板軒とする。棟梁は地元山口村藤原右源次と伝えられる。
 ※「N」氏情報によると”気仙沼・三陸一帯には「気仙大工」という出稼ぎ大工集団があり、近世から今に至るまで、江戸の災害の度に 馳せ参じたとされる。一方、故郷では自宅・菩提寺の普請に従事し、それ故に今に江戸の建築技法を伝える建築が残されている”とのことである。この”多宝塔も気仙大工の造作”であるとすれば、さもあらんと思われる。
内部は禅宗様須彌壇を置き、金剛界五智如来を安置する。
 多宝塔本尊五智如来:文知摺観音発行リーフレットより
なお、文知摺とは信夫文字摺のことと云われる。この地方は「信夫」の里であり、信夫文字摺とは岩の表面に絹を置き、その上から忍草(しのぶぐさ)を摺りつけて岩の凹凸をを利用して染色する技法を云うようである。当寺にはそれに因んだ伝説が伝えられる。堂塔は安洞院の管理にある。
観音堂は宝永9年(1709)再建。
 文知摺観音観音堂
安洞院は香澤山と号する。曹洞宗。戦国期の開山とする。・・・雨中に付き未訪問。
○1972年「N」氏撮影:
 昭和47年文知摺観音多宝塔
○2010/04/25追加:
 昭和31年文知摺観音塔:毎日新聞掲載
○2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 文知摺観音多宝塔:絵葉書、昭和8年〜昭和19年頃(「Y」氏推定)
○2017/01/11追加:s_minaga蔵
 文知摺観音多宝塔2:通信欄の罫線が3分の1:明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのもの、かつ「きかは便郵」とあるので、明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までのもの、即ち明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
684 紀伊高山寺 . 画1
画2

図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
本堂
文化13年(1816)建立。一辺4.6m。
西国三十三所名所圖會:巻之2
南面山高山寺:(田辺の町より5丁ばかり山上にあり。・・往古6坊あり。今僧坊1宇なり。)
多宝塔(本堂の前にあり。聖徳太子を安ず。上宮閣の額を掲ぐ。)
685 大和朝護孫子寺 . 大和信貴山
686
(欠)
摂津忉利天上寺
(焼失
. 天保2年(1831)建立塔。昭和51年(1976)伽藍を全焼し塔婆も延焼。
攝津摩耶山天上寺多宝塔跡
687 高野山
  金輪塔
. 紀伊高野山
688 尾張長谷院 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
天保5年(1834)建立。総高約11m、一辺約3m。高い川原石積の基壇上に立つ。
初重は大斗肘木で上層は4手先。初重軒は一軒吹寄せ垂木、上層も一軒扇木垂木を用いる。
基本的に唐様で、簡素な造作です。本尊は愛染明王。
堀江観音と称する。大和長谷寺と同木という巨大な観音を本尊とする。今次大戦等たびたび被災し、現在境内は少々荒廃している。
尾張名所図会 後編巻之3より
記事:「浄土宗。名古屋阿弥陀寺に属す。・・・本尊十一面観音は大和国長谷寺本尊と同木同作なり。・・・」  多宝塔の記事はなし。
 尾張長谷院全図
2001/1/13撮影 : 図1  図2  図3
689 備前瑜伽山蓮台寺 . 画像

図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
客殿
門前町

瑜伽山。天保14年(1843)建立。一辺6m、高さ21mの大型塔婆である。本尊は五智如来。
行基の開基で、坂上田村麻呂の再興、あるいは報恩大師開基ともいう。寺院と神社は分離したとはいえ、現在も明治維新前の神仏混交の伽藍をほぼ完全に残す。 ここでは今も社殿と仏堂とが渾然一体となって宥和していたさまを見ることが出来る。
○瑜伽山境内絵図(木版画):本人s_minaga蔵、江戸期と思われる。
かっては五重塔も存在(寛文の頃倒壊)したと云う。
 五  重 塔(部分図)、多  宝 塔(部分図)
○「中国名所圖會」巻之2:瑜伽山
記事:「多宝塔(東の山の上にあり。この山は祇園山といふ。二重にして方3間。九輪まで高さ12間3尺5寸)本尊大日如来。」
その外、仏堂として仁王門・鐘楼・護摩堂・本堂・大師堂・御影堂・本坊蓮台寺・乗蔵院・最勝院等が存在したと云う。
 瑜伽山全図・・ ・現存塔婆
○「金毘羅参詣名所圖會」:瑜伽山蓮台寺
記事:「金堂(未再建調)、多宝塔・・・」
「往昔は本社の山上に五重の大塔ならびに堂舎これに列なり、本堂の後に金堂・・・巍々たりしが、後年廃して欠くる所多し・・・」
 瑜伽山多宝塔部分図・・・現存塔婆
 瑜伽山五重塔部分図・・・上記記事のように 既に廃絶していた塔婆を描く。
690 近江朽木大宮大権現(近江瓊々杵神社)

天保13年(1844)再興。塔は貞観元年(859)神宮寺とともに創建されたと伝える。
その後荒廃・破損したため 、文化14年(1817)から諸国勧進を行い、天保13年に再興される。
一辺 3.86m。あるいは一辺一辺3.65m、高さ約14mともいう。(「塔をゆく 第3巻」)
屋根のもとの葺き方は不明であるが、戦前写真や近年の写真では桟瓦葺きであり、近年銅板葺きに変更されたようである。
 塔内には木造釈迦如来像(鎌倉期のものか)と23体の薬師如来像を安置すると現地案内板にある。 → 大宮大権現多宝塔内部
(本尊は鎌倉初期の木造釈迦如来坐像。「朽木神宮寺」の胎内銘を残す。ほか、木造二十三体薬師如来立像、木造役行者坐像、木造地蔵菩薩立像、木造大黒天半跏像を所蔵する。)

 当社は朽木村宮前坊にある。
境内は木立に囲まれ、おそらく里人以外には殆ど知られずに存在する。
貞観元年、天台僧相応和尚が葛川明王院(本稿の下に掲載)を建立したとき、当社を勧進し、朽木大宮大権現と称したと伝える。 推測するに、叡山が葛川や朽木谷筋に勢力を伸ばしたということで、この地宮前や坊に日吉山王権現が勧請されたということであろう。特に本殿には十禅師を祀り、十禅師と称される。
※現在の日吉山王権現十禅師社は樹下神社などと気味の悪いものに改号している。
 しかし長い歴史を持つ大宮大権現(十禅師)は、明治8年明治維新の廃仏の余波で、境内社である河内社(こうちしゃ)を主殿として河内神社と改号する。さらに、その後にもとの主殿である十禅師をニニギなどという悪逆なものに取り替え、主殿を元に復し、瓊々杵(邇々杵)神社と改称するという。
 東を正面とする鳥居の奥正面に本殿等の一画があり、鳥居すぐ左(本殿の東)の低い石組の上にバラックのような神宮寺の廃屋があり、その奥に粗末な不動堂、更にその斜め左奥(本殿の左) に多宝塔が建つ。神宮寺はほとんど倒壊寸前(多宝塔のみは美しく維持されている)と云えども、今なおかっての神仏習合の様子を彷彿とさせる情景を残す。この姿が明治維新前の多くの神社の姿であった。
2022/12/17追加:
 貞観元年(859)相応和尚が葛川明王院(本稿の下に掲載)を創立した時、この地に十禅師を勧請(朽木大宮権現と称する)し、神宮寺を祀ったのが起源と云う。(「神宮寺縁起」)
 ※この起源を隠蔽し、国家神道に従属させたのが、明治の神仏分離である。この意味で、正しい由来が伝わるのは喜ばしことである。
明治8年、佐々木氏の祖神を祀ることから、河内社と改号する。
 ※朽木を領した朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族である。佐々木氏は宇多天皇の後裔で、源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりと云う。
 ※佐々木氏が高島郡を領し、朽木を領した一族が朽木氏を名乗る過程で、朽木大宮権現の主殿・河内社は佐々木氏の祖神(宇多天皇、敦実親王/宇多天皇の第八皇子/宇多源氏の祖)を祀ることとなったと思われる。付近の新旭町井ノ口の大荒比古神社も佐々木氏の祖神を祀るという。
 ※明治8年の改号の背景は不明であるが、神仏分離の処置に迎合する復古神道家などが、権現号を廃し、河内社と改号したのは自明であろう。
その後、境内社十禅師社(瓊々杵)を主殿として、今の社号・瓊々杵社に再び改号、河内神社を境内社とする。
 ※佐々木氏祖神に祭神を取り替えても、復古神道家は不十分と見たのか、さらに、気持ち悪い国家神道の祭神(瓊々杵)に変更し、社号も変更したものと思われる。
現在、朽木大宮権現には主殿が2棟並び、左側が当社本殿で、一間社流造、銅板葺・寛文4年(1664)の再建、右側が河内神社本殿で三間社流造、銅板葺である。また、拝殿は入母屋、銅板葺、桁行3間、梁間2間。
○図1〜8は2001/09/27撮影、図7は神宮寺、図8は天台宗神宮寺石碑。
 朽木大宮大権現多宝塔1   朽木大宮大権現多宝塔2   朽木大宮大権現多宝塔3
 朽木大宮大権現多宝塔4   朽木大宮大権現多宝塔5
 朽木大宮大権現社殿      朽木大宮大権現神宮寺     天台宗神宮寺石碑
2010/01/10追加:
○「朽木の名勝」発行所:淡紅、時期不詳(戦前)
 神宮寺多宝塔
2015/06/28撮影;
○「塔をゆく 第3巻」では「社殿の東隣に天台宗神宮寺があり、天台僧相応を開山とするが30年ほど前に焼失して今はない。 」という。著者が現地を訪れたのは平成13年(2001)であるから、2001年頃には当然神宮寺は焼失してないはずである。図7の写真も2001年撮影であるから、写っている建物は神宮寺ではないということになるが、どうであろうか。
 一方「「日本の塔総観」では「塔の手前には不動堂があり、その横の民家のような建物は神宮寺の名を残している。」とある。著者は昭和43年(1968)に現地を訪れているが、2001年から見て33年前である。この時には神宮寺は残っていたとも判断できるのであるが、どうであろうか。勿論、2015年では図7の位置には何の建物も存在しないのである。
 

 大宮大権現多宝塔11:上図拡大図   大宮大権現多宝塔12   大宮大権現多宝塔13
 大宮大権現多宝塔14   大宮大権現多宝塔15   大宮大権現多宝塔16   大宮大権現多宝塔17
 大宮大権現多宝塔18   大宮大権現多宝塔19   大宮大権現多宝塔20   大宮大権現多宝塔21
 大宮大権現多宝塔22   大宮大権現多宝塔23
 大宮大権現多宝塔内部      朽木大宮大権現不動堂
 朽木大宮大権現社殿:向かって左手前は本殿(十禅師、一間社流造、寛文4年再建)、奥は河内社(三間流造)
 朽木大宮大権現拝殿

葛川明王院
 息障明王院、葛川寺などともいう。山号・寺号は阿都山葛川寺(かっせんじ)、院号は息障明王院。
開基は相応和尚。創建は貞観元年(859)、相応は天台座主円仁(慈覚大師)の弟子、はじめ比叡山東塔無動寺谷に住するが、静寂の地を求めて当地に移ったという。
なお、相応は比叡山回峰行の祖である。また、中世、明王院は青蓮院門跡と比叡山東塔無動寺の支配する所であった。
明王院伽藍は次の通り。
安曇川支流である明王谷の南には鎮守・地主神社があり、北岸に明王院が位置する。来岸参道の左側には政所の一画があり、右側には護摩堂、庵室、弁財天社などが建つ。護摩堂脇の石段を上った先、一段高く整地された場所に本堂が建つ。
本堂:正徳5年(1715)建立。桁行3間、梁行5間、入母屋造、鉄板葺。さらに左記の正堂の前に3間×2間の礼堂を付設する。堂は南面するが、正面には出入口がなく、西面にある。近年の保存修理で、前身堂の部材が一部転用されていること確認される。それらは年輪年代測定の結果、西暦1100年頃に伐採されたものと判明する。
護摩堂:宝暦5年(1755)建立。桁行3間、梁行3間、宝形造、鉄板葺き。
庵室:天保5年(1834)建立。入母屋造、鉄板葺き。
地主神社:祭神は葛川の地主神である志古淵明神、明王院と同じく、貞観元年相応の創建という。三間社春日造りの本殿とー聞社唐破風造の幣殿が建つ。現在の社殿は文亀2年(l502)の建立。
以上の本堂(附:厨子、旧厨子)、護摩堂(附:厨子)、庵室及び政所表門の建物と鎮守地主明神社殿、石垣・石塀・石段を含む境内地も合わせて重文指定される。
 葛川明王院略図
2022/08/03撮影:某氏撮影・ご提供
 葛川明王院本堂1    葛川明王院本堂2    明王院護摩堂・本堂    明王院護摩堂・石階
 葛川明王院政所表門    葛川明王院弁財天1   葛川明王院弁財天2   鎮守地主神社社頭
○「葛川明王院と三の滝」滋賀県PDF文書 より
 葛川明王院本堂3    葛川明王院庵室    葛川明王院地主神社
仏像:
 千手観音・不動明王・毘沙門天立像:本堂安置(本尊)・何れも重文
その他絵画・文書類では以下の重文を有す。
葛川明王院御正体、紙本著色光明真言功徳絵詞、絹本著色不動明王二童子像、葛川明王院文書(4,336通)、葛川与伊香立庄相論絵図、葛川明王院参籠札(501枚)
691 常陸楽法寺 . 図1
図2
図3
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図6
図7
仁王門1
同2
本堂
同2
雨引山と号す(雨引観音)。真言言宗豊山派。
建長6年(1254)鎌倉将軍宗尊親王が三重塔を建立寄進。その後大破。
第14世堯長が再興を目指し着工するも、堯長は途中で逝去、二重まで造立するも未完に終る。
嘉永6年(1853)第15世堯宗が多宝塔として再興。一辺6.4m。屋根銅板葺き。
下重に三手先を用いる。(これは層塔の名残であろうか)
雨引山絵図(天保12年1841)・・多宝塔建立前で三重塔が描かれ る。
○雨引山楽法寺は用明天皇2年(588)梁の法輪独守居士によって開山される。本尊は延命観世音菩薩(平安中期、重文)とする。
弘仁12年 (821)夏の大旱魃で、嵯峨天皇は写経を当山に奉納し、降雨を祈願す、そのため国中に大雨があったという伝説による。(雨引山の由縁)
本堂(桃山期)、仁王門(江戸期)、東照山王杜殿(江戸初期)などの建物を有する。
仁王門は江戸関東風装飾を持つ。また本堂も江戸関東風装飾の典型を示す。
 雨引山より見る筑波山:左図を含め2004/04/24撮影 画像
○2013/02/17「O」氏撮影画像:
 雨引山遠望1     雨引山遠望2     雨引山遠望3
 雨引山多宝塔11   雨引山多宝塔12   雨引山多宝塔13   雨引山多宝塔14
 雨引山多宝塔15   雨引山多宝塔16   雨引山多宝塔17   雨引山多宝塔18
 雨引山多宝塔19   雨引山多宝塔20   雨引山多宝塔21   雨引山多宝塔22
 雨引山多宝塔23   雨引山多宝塔24   雨引山多宝塔25   雨引山多宝塔26
 雨引山多宝塔27   雨引山多宝塔28   雨引山多宝塔29   雨引山多宝塔30
 雨引山多宝塔31   雨引山多宝塔32
692 相模最乗寺 . 図1
図2
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図9
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大雄山と号する。道了尊。曹洞宗。
多宝塔は文久3年(1863)建立、江戸音羽住・高橋清五郎の奉献、本尊多宝如来、一辺約5m、高さ19.6mで大型塔に属する。 一辺2間4尺(4.8m)7坪半。
※「日本の塔総観」では文化2年(1805)の建立とする。
開山:了庵慧明。了庵慧明は相模国大住郡糟谷の庄の出身、当地の地頭であった。おそらく無常感から、建長寺にて出家、さらに能登総持寺の峨山禅師に師事する。丹波永沢寺通幻禅師の法弟となる。その後 、通幻禅師の後席として、永沢寺、近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺の住持、さらに大本山總持寺に住す。
その後、出身地に帰り、応永元年(1394)山中に大雄山最乗寺を建立する。
道了とは、修験者であり、大和金峰山、大峰山、熊野三山にて修行、三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創の折に、了庵の基に参じ、土木の業に力量を発揮、大伽藍の建設に尽力す。 いずれにしろ、道了とは、全く時代は違うが、役小角のような不思議な法力を持つ半ば伝説上の人物と思われる。
寺院は、関東大震災で堂宇の大部を失うも、現在では、基本的には禅宗様を用いる数多くの大堂・諸堂宇が再興され、山中に大伽藍を擁する。その盛んな様は、関東新義真言の流行仏とはまた違った雰囲気の流行仏の様相を呈する。
2012/07/20追加:絵葉書:作成時期不明
 道了尊多宝塔1     道了尊多宝塔2     道了尊多宝塔3
何れの写真も相輪部分の請花より上の部品を欠き、心柱のみの状態である。相輪の修理情報は皆無であり、詳細は不明。
693 阿波太竜寺 . 阿波太竜寺・伊予興願寺三重塔、附:阿波太竜寺多宝塔
文久3年(1863)の落慶と云う。
このページは江戸後期の多宝塔です。
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