木片勧進・草の舎(一畳敷) 松浦武四郎

廃絶した塔婆部材の消息

「木片勧進」松浦武四郎には、今日では失われた下記の塔婆の部材が小建築「一畳敷」の部材として使用され残存することが、記される。
蓋し、部材と云えども、今日では失われた塔婆部材の残存は奇跡的なこと、稀有のことと思われる。
一方「木材勧進」が書かれた頃(明治20年)には確かにあった部材ではあるが、時代とともに失われ現在には伝わらない部材も見受けられる。
しかし、今は部材が失われていようとも、消息が記録されていること自体も稀有のことと思われる。

播磨書写山円教寺宝塔組物升形【17番】 ・・・・・・・・・・・・※【番号】は「木片勧進」の番号に照応し、さらに下の一覧表の番号にも照応する。
 永延年中(987-)のもの。廂柱(に一)下受石の代に用ゆ。

大和吉野山蹴抜塔升形【37番】
 但し明治初年廃仏の時に毀てり。神供臺に用ゆ。

駿河久能山大権現五重塔縁板【49番】
 五重塔椽板 欅。書棚中棚板に用ゆ。

伊豆三島神社三重塔扉【53番】
 三島神社三重塔扉。長7尺8寸。巾3尺。
 常憲公(徳川家綱)御造営の由。明治元廃仏の時神官波多野氏家にその一枚を蔵められしを此度贈り呉らる。 
  (和歌は省略)
 二つに切南窓の扉其外処々に用ゆ。

周防松崎神社(防府天満宮)古三重塔彫物【63番】
 古三重塔彫物、毛利家建築に係る。

大和大安寺五重塔土壇【91番】
 廃大安寺五重塔土壇。・・・始め熊凝精舎・・百済寺ト云・・移高市・・大官大寺・・此地に移る・・天平元年大安寺と改む。
其旧跡今村の内に一つの茅舎となるのミ。塔跡は村東今瓦やの土取場に成る也。近比此両人(生田福太郎、田中猶次郎)其地を探得て堀出されしもの也。

□参考文献:
「木片勧進」松浦武四郎、明治20年刊、大きさ15.8×10.3cm、本文22丁の小型本、配り物と云われる自家版。
 ※活字本には「松浦武四郎紀行集 中」吉田武三編、富山房、1975 がある。
2011/06/15追加:
「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」INAX出版、2010
2011/10/04追加:
「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」ヘンリー・スミス、国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館、1993
 (「Taizanso and the One-Mat Room」Henry D.Smith U1993)



一畳敷の変遷

明治19年(1886)松浦武四郎、東京神田五軒町(自宅)に一畳敷をつくる。翌年「木片歓進」(木片の寄進目録)を出版。
明治21年(1888)松浦武四郎逝去。
明治41年(1908)一畳敷は解体、麻布区飯倉町徳川頼倫邸(紀州家当主)に移築される。南葵文庫の裏庭に武四郎関係の資料を展示する記念館とともに再建される。南葵文庫は私立図書館の魁として知られる。
大正13年(1624)代々木字上原の徳川頼倫邸へ解体せず移建される。翌年母屋「高風居」が造られる。
 (大正12年の関東大震災で被災した東京帝大の図書館に南葵文庫を寄進、一畳敷は移転した上原の頼倫邸に再び移転)
昭和11年一畳敷は三鷹の「泰山荘」に売却・移建される。「泰山荘」は日産財閥番頭山田敬亮が造った別荘である。
昭和15年山田敬亮、中島知久平(中島飛行機会社社長)に泰山荘を売却。
昭和25年泰山荘を含む旧中島三鷹研究所跡地の大部が新設された国際基督教大学に売却される。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
 泰山荘一畳敷1:写真中央の草葺の1間の建築が「一畳敷」である。
 泰山荘一畳敷2     泰山荘一畳敷3     泰山荘一畳敷4     泰山荘一畳敷5

※泰山荘(一畳敷)は毎年国際基督教大学学園祭で一般公開される。

木 片 勧 進 要 約
                                                                                                       


草 の 舎(一 畳 敷)用 材 勧 進 元 と そ の 使 途

参照文献:「松浦武四郎<一畳敷>書斎 用材一覧」(松浦武四郎記念館)、「木片勧進」活字本

番号

出    処

使  用  場  所

寄  進  者 備    考

摂津四天王寺元和兵火西門燼材 廊下側入口の掲載額 市河万菴(書道家) .

南都興福寺書院板 北小窓左右枠 蜷川式胤 .

紀伊熊野本宮誠證殿扉1枚 天井板 宮司音無新太郎 雲龍の絵
書棚四番 .

安芸厳島海中大鳥居根 楠 書棚の下の戸 禰宜村田良穂(国学者) 現存せず
烟(草)盆

安芸厳島本殿御壁代2枚 南窓下ノ脚絆(はばき)板 禰宜村田良穂(国学者) .

山城嵐山渡月橋々桁 松 柱ろ一 山中信夫翁(文人・宮家家令) .

山城建仁寺開山堂丸柱 書棚上の鴨居無目(むめ) 山城高台寺住職梧菴長老 赤松

山城高台寺 土椽(たるき)軒桁 山城高台寺住職梧菴長老 明治18年焼失燼残 檜

淡路国所産の絞竹 10番とともに軒先に使用か? 六田橘外(阿波) .

10

大隈大河平(おおこうびら)竹 南廂屋根瓦にかへ 江夏干城(薩摩) .

11

肥前広沢寺庭中利休竹 火吹き竹 吉継拝山(大宰府の画家) 名古屋古城跡広沢寺

12

肥後熊本城瓦釘 火箸 吉継拝山(大宰府の画家) 現存せず
※「松浦武四郎記念館」館蔵品に「銅製火箸」がある。これは熊本城瓦釘であるという。
但し、この館蔵品は草の舎で使用されたものではなくて、別途寄贈されたものと思われる。
  熊本城瓦釘「銅製火箸」:館蔵品:「松浦武四郎記念館図録」松浦武四郎記念館、平成8年所収
木片勧進挿絵4中の(タ)が熊本城瓦釘(火箸)

13

「草舎」二字刻水瓶蓋 南廂にかくる 朝生充懐 細井広沢書、現存せず

14

和泉槙尾山施福寺(和泉の塔跡 書棚上下敷居 施福寺寺務所 明治15年焼失の燼材

15

大和高円山白毫寺 脇床下小棚板 田中庄兵衛(南都) 天文年中建築之古材

16

筑前大宰府水城出土 床の間釣柱後ろ横木 三好崇(筑前福岡) .

17

播磨書写山圓教寺宝塔組物升形 永延年中(987-)のもの。
廂柱(に一)下受石の代に用ゆ。
永田伴正(姫路市会議長) 取替え|永延年中之物
2011/06/15修正:
 ※「永延年中(987-)のもの」と云う。
  永延元年開山性空聖人が堂塔を建立し、塔は多宝塔と伝える。
  一方、五重塔は後嵯峨院御願、九条禅定殿下為藻壁門院御菩提御建立也、・・建長2年(1250)供養とある。
  従って、宝塔とは五重塔ではなく、多宝塔を指すものであろう。
  その後、多宝塔(五重塔も)は中世に数回焼失・再興を繰り返す。しかし中世末期の焼失の後、再興に至らず。
  即ち、塔創建の時である永延年中の部材が伝わるとは俄かには信じ難いが、焼け残りなどの部材が什宝として伝来した可能性を
  全く排除は出来ないであろう。
    →播磨書写山圓教寺
 ※「廂柱(に一)下受石の代に用ゆ」と云う。
  木片勧進東面図中の(エ)が書写山圓教寺宝塔組物升である。
  柱(に一)は「大和春日社朱玉垣格子地覆」:に■(「一」か)柱并東口敷居下蹴込脚絆に用ゆ。
    木片勧進平面図:柱(に一)は【47番】
 ※屋外で使用(廂柱下受石の代に用ゆ)されたため、おそらく腐朽・取替されたと推定され、現存せずと思われる。
   ●松浦武四郎記念館資料では「取替え」と注記がある。
○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 ここで云う「宝塔」とはどの建物を指すのか判断が難しい。多宝塔は嘉禎元年(1235)建立され、嘉元元年(1303)に壊されると伝える.
五重塔は延文(北朝)5年(1360)に建立され、文明11年(147)に焼失、そして両塔とも再興されずと云う。
 ※播磨書写山圓教寺で見るように、中世には両塔とも退転したのは確かのようで、何れの宝塔なのかは不明であろう。
そして「受石の代用」とされた宝塔組物枡形は現存しない。
当初は上掲の木片勧進東面図中の(エ)・・・・拡大図「木片17番」のように用いられる。
大正2年(1913)の写真「南葵文庫時代の一畳敷東面」に写り、
また明治43年(1910)の「南葵文庫の見取図」(イ二)にも示され、麻布の南葵文庫時代には現存したのは確かであろう。
 現在、柱の根元には別の木材が継がれると云う。(現存せず)
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
 廂柱(に一)下受石の代1     廂柱(に一)下受石の代2
既に「書写山圓教寺宝塔組物升形」は存在せず、柱には別の木材が継がれるのが見て取れる。

18

紀伊熊野新宮誠證殿 神棚化粧柱 熊野新宮祀官楠畝女 明治14年炎上之燼材
紀州南龍院殿建立
神棚上の欄間無目

19

近江矢橋(走)鞭崎八幡宮 書棚天井板 鈴木定吉(東京) .
脇床小柱

20

摂津莵原郡羽生山田千年家 書棚椽の下(外部)の風入 箱木家当主 現存せず
21 伊勢外宮東宝殿桁 檜 部屋と廂の間の母屋桁 東 貞吉(伊勢山田) .
22 近江石山寺本堂内陣曼荼羅掛 北窓下敷居 石山寺住職菅原円照 建久年中古材
23  同 天文頃浴室湯船之古材 杉 東口戸袋妻板 ..
24 比叡山横川釈迦堂扉框 檜 南窓竹庇(支持の)桁 近江園城寺龍泉院樫原慶曜 ..
25 山城宇治平等院壁代 檜 床脇地袋板 明治18年修理で切取り
26 近江園城寺三尾明神拝殿縁板 (用途不明) 暦応年中造替之材
27 近江園城寺日御子神社正面虹梁 床おとし垣 大永前建築
28 近江園城寺新羅明神柱 南窓敷居・鴨居 天文年中造替之材
29 近江園城寺護法堂枕肱 杉 廊下、窓敷居、鴨居 .
30 駿河興津駅清見関蹟掘出 書棚第四枚目の受け木 清見寺浄見蓉嶺 .
31 周防広隆寺(氷上山古塗板) 火鉢の寄セ木 近藤清石(郷土史家) .
32 長門豊浦(下関)忌宮神社逆松 (廊下と部屋の間)中仕切胴板(下の)無目 .
33 長門下関住吉神社(一の宮) (用途不明) 神殿扉材 杉 応安3年
34 相模鶴岡八幡宮舞台象鼻の彫物 (南側)竹庇の腕木 福田敬業(東京府役人) .
35 出雲大社本殿床板 檜 神棚板 宮司千家 寛文造営の御物
36 大和吉野山子守社玉垣欄間 中仕切鴨居上欄間 吉野喜蔵院宮城晋一 秀頼公造営
※「松浦武四郎記念館」館蔵品に「欄間飾り」がある。これは松浦家より寄贈されたもので、吉野山子守社玉垣欄間であるという。草の舎に使用された子守社玉垣欄間 と対になっていたものであろうとされる。(それ故、草の舎余材であるとされる。)
  吉野子守社(欄間飾り):館蔵品:「松浦武四郎記念館図録」松浦武四郎記念館、平成8年所収
木片勧進挿絵4中の(ノ)が子守社玉垣欄間
37 大和吉野山蹴抜塔升形 但し明治初年廃仏の時に毀てり。神供臺に用ゆ。 吉野喜蔵院宮城晋一 明治初年廃仏の時毀てり
 ※「但し明治初年廃仏の時に毀てり。」と云う。
   →大和吉野山蹴抜塔
 ※「神供臺に用ゆ。」と云う。
  神棚の中あるいはその近辺にあると推測するも、手持ち資料では全く手掛かりなし。あるいは既に失われたのであろうか。
   2011/06/14追加:「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」 より
    ◆一畳敷北面その1:北面には右に床の間、左下に床脇地袋棚・左上に神棚がある。・・・神棚扉は閉扉 (神供臺は見当たらず)
    ◆一畳敷北面その2:その1と同じ構図であるが、左上の神棚は開扉している。 (神供臺は見当たらず)
      何れにしろ、手持ち資料では、「神供臺」の有無の確認は取れない。
○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 武四郎が用いたものは鎌倉期建立のものであるが、この塔は明治39年(1906)に焼失する。
この木片は現存しないが、木片勧進東面図の脇棚中段・・・・・脇棚中段の枡形拡大図・・・・・に供物用台として置かれている。
ただし升を上下逆にして使ったようである。
38 大和吉野山吉水院上段前地板 一畳廻り額縁板 吉野喜蔵院宮城晋一 .
39 後醍醐天皇陵(如意輪寺・塔尾陵)鳥居古材
  ※大和吉野山
柱イ四 吉野竹林院古沢龍敬 .
柱い四
柱に二
柱は二
柱は四
廊下天井廻り周り縁
南竹庇道具廻り
40 駿河有度郡八幡宮こぶし鼻 南窓扉受持おくり 望月治三郎(好古家) 養和年中物
41 日蓮上人七色桜の枯木 脇床下子棚の足 所在を知らず
42 駿河久能寺高欄男柱 床の間釣柱 (鉄舟寺)
43 駿河久能寺虎の彫物のそんじ 書棚下の壁留 そん(損)じ、檜、是欄間なりし物か
柱い一の持送り
44
45 駿河久能寺細工物 檜2本 柱い一、い二間壁留 望月治三郎(好古家) .
柱ろ一、ろ二間壁留
廊下通口無目
垂木二本
46 駿河臨済寺勅使門神組御建築扉并地廻り2本 扉板東軒天井板 .
地廻り其外敷居中
地廻り其外敷居東
は二、に二はばき
押入れ鴨居
(縁入口の下の束)
47 大和春日社朱玉垣格子地覆 柱(に一) 臼井雅祇(奈良) 治承2年建築之古材
宝庫に在しもの
東口鴨居下蹴込脚絆
48 駿河久能山大山咋神社縁板 檜  南窓扉、上下受枠 久能山祀官出島竹斎 神組御造営
※山王社は現存せず。これはおそらく明治維新の時、本地堂を日枝神社に転用したが、この時神座も移座し、その結果、山王社は毀棄されたものと思われる。
※大山咋神とは山王権現(日吉権現)の廃止令により、山王権現を適当に言い換えたものであろう。
49 駿河久能山五重塔縁板 檜 五重塔椽板 欅。書棚中棚板に用ゆ。 久能山祀官出島竹斎 台徳公造営
この塔椽板は現存する。
2006/11/28:「Y」氏ご提供画像
現存する
  久能山五重塔縁板

「一畳敷」書棚棚板
     :左図拡大図

「木片勧進」内観図
    :左図拡大図

東面内部にある書棚を南西から見た図。
着色部分が久能山五重塔縁板(書棚中棚板)である。

 


2011/06/14追加:
 ○木片勧進東面図:この図の左側に
「此内書棚 天井十九 棚板三枚八十五 同鴨居第七 四枚目板第三 中板七十 戸第四 棚うけ三十 戸棚敷鴨居十四」とある。
この東面書棚の棚板上3枚は85番(大和法隆寺蔵斑竹茶棚の板3枚)であり、
四枚目(一番下の棚板)は第3番(紀伊熊野本宮誠證殿扉1枚 )と云う記述であり、久能山五重塔椽板とは記載されていない。
しかしながら、上記の「Y」氏も「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」もこの板を久能山五重塔椽板と云う。
確かに「木片勧進」49番では「書棚中棚板に用ゆ。」とあるも、上記の「四枚目板第三」との矛盾はどのように解釈したら良いのだろうか。
   注:「一畳敷」楠瀬日年(「書斎第3号」大正15年 所収)では『[書棚中棚]駿州久能山五重塔の椽板』とある。
   つまり、ここでは根拠は明示されないが、中棚=五重塔椽板との認識が示される。

 ○木片勧進平面図:東面の右(南)が「書棚」の位置と明示される。
 ○木片勧進南面図「木片勧進」内観図と同一図である。
この図では4枚の棚板を持つ書物が置かれた書棚が描かれるも、棚板に関する説明は無し。

●久能山五重塔椽板部材

2011/06/14追加:「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」 より

「一畳敷」書棚中棚板:左図拡大図 :久能山五重塔椽板
写真中央が書棚である。
棚板の上3枚は大和法隆寺由来のものであり、
その下の4枚目の中棚板は久能山五重塔椽板と云う。

「一畳敷」書棚中棚板2:久能山五重塔椽板

 

 →駿河久能山東照権現

○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 現在の一畳敷戸棚: 「49」番が久能山五重塔椽板である。



○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
久能山五重塔椽板1
久能山五重塔椽板2
久能山五重塔椽板3
久能山五重塔椽板4:左図拡大図
50 駿河久能山稲荷社朱塗柱 柱い一 久能山祀官出島竹斎 台徳公造営
※明治17年9月暴風雨のため倒壊とされ、倒壊した部材の1部が勧進されたものと推定される。
51 大和鷲尾山世尊寺 檜
  ※大和吉野山世尊寺
神棚天井 平井賣花 須彌壇蹴込板2枚
脇板中棚
52 大和吉野山西行庵 西行谷苔水庵西行上人板絵(下注1) 伝加納永納筆、現存せず
53 伊豆三島神社三重塔扉(下注2) 南窓扉 三島神社宮司秋山光條 二つに切南窓の扉其の外処々に用ゆ。
廊下北端鴨居
三島神社三重塔扉。長7尺8寸。巾3尺。
常憲公(徳川家綱)御造営の由。明治元廃仏の時神官波多野氏家にその一枚を蔵められしを此度贈り呉らる。 
  (和歌は省略)
二つに切南窓の扉其外処々に用ゆ。
2011/06/14追加:「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」 より

●三島大明神三重塔扉部材

 木片勧進東面図:左端に「コ」とあり、 「コ」は「コ 五十三」とある。

 「一畳敷」南窓扉:左図拡大図 :三島社三重塔扉
写真左の南窓扉が三島社三重塔扉である。
伊豆三島社三重塔は嘉永7年(1854・・安政元年)安政の地震で倒壊と伝える。

 「一畳敷」南窓扉2:三島社三重塔扉


 「一畳敷」廊下北端鴨居:三島大明神三重塔扉と云う。
但し、「木片勧進」ではその根拠は見出せない。
(辛うじて「二つに切南窓の扉其外処々に用ゆ。」とあることだけである。)
従って、現在その根拠は不明とせざるを得ない。

○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 現在の一畳敷南側外: 「53A」が三島大明神三重塔扉である。
 現在の一畳敷脇棚: 「53B」が三島大明神三重塔扉で廊下の鴨居に使用される。
なお寄進者の秋山光條は幕府御家人であったが神祇官の官吏となり、相模寒川神社、出雲大社(杵築大社)、三島社、八坂神社(山城祇園社)など高名な神社の宮司を務める。国学者であり、相川景見、矢野玄道、師岡正胤、権田直助、角田忠行、本居豊頴、井上頼國、久保季玆、青柳高鞆、落合直亮と交流す。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
三島大明神三重塔扉部材1:左図拡大図
三島大明神三重塔扉部材2
三島大明神三重塔扉部材3
三島大明神三重塔扉部材4
三島大明神三重塔扉部材5

●「一畳敷」廊下北端鴨居として使用
三島大明神三重塔扉部材6:左端に写る手前の鴨居が三重塔扉部材
三島大明神三重塔扉部材7

54 伊豆君澤郡大瀬崎神社白栢枯木 北小窓の鴨居 三島神社宮司秋山光條 .
55 駿河阿弥陀仏像余材 . 柳下知之(三島、医師) .
56
57 山城東福寺仏殿燼材 檜 柱い二 東福寺 明治15年焼失の余材
柱ろ四
柱は四
天井廻り
廊下からの入口鴨居
床天井廻り廻り縁
58 播磨明石人丸神社額面 欅 (現存せず) 河野俊蔵 .
59 駿河徳音院葵紋合天井板 用途不定 常木清七 ※久能山東照大権現別当
60 日向鵜殿神社宝殿古扉板 神棚後ろ羽目板 鵜殿神社宮司大島正武、大和田伝造
61 尾張大高村火上姉子神社古扉板 神棚両扉板 大森仙左衛門(尾張熱田) .
62 周防松崎神社神殿古材 土椽ひさし下壁受平柱 松崎神社宮司御手洗等 (防府天満宮)
63 周防松崎神社古三重塔彫物 用途不定 毛利家建築に係る

古三重塔彫物、毛利家建築に係る。
 ※「毛利家建築に係る古三重塔彫物」と云う。
  但し、「一畳敷」のどの部材に転用したのかは「木片勧進」に記載がなく、「用途不明」とする外はない。
  ところで、この古三重塔は「毛利家建築に係る 」とあるが、三重塔に拘れば、中世の大内家建立塔婆の存在が知られるが、
  その大内家建立塔で大永6年(1526)焼失三重塔の部材が残りこれが用いられたと解釈できるであろう。
  それとも毛利家建築に拘れば、毛利家建立の五重塔初重が未完として現存するので、五重塔の部材が用いられたとも解釈できる。
   どちらとも決め難いが、何れにしても、松崎天神塔婆の部材が転用されたことには変りはない。
     →周防松崎天神
2011/10/04追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
この用材の用途は分からない。
三重塔は毛利重成(1725-89)の造営によるもので、通矢堂として知られていた。(「管公と防府天満宮」吉武彰、1928)
いつ取壊されたのかは不明であるが、明治の神仏分離で取壊された可能性が高い。

64 筑前宗像神社 用途不定 宗像神社宮司江藤正澄 .
65 遠江磐田府八幡宮喜連格子 床の間、天井板 柴田敬斎(医師) 境松八幡宮
66 飛騨高山素玄寺廃金森座敷柱 柱に三 佐藤泰卿(飛騨古川・豪農) .
67 美濃長瀧寺伝教大師手植千年杉 廊下南の方脚絆 明治14年大風倒木
68 筑前大宰府天満宮 床脇地袋妻板無目 宮司西高辻 神庫の納め在りし古材
69 摂津須磨簾 東口敷居下蹴込 綱敷天満宮宮守貴答作左衛門
 →摂津綱敷天満宮
現存せず
70 三河豊橋吉田神社障子2枚 書棚下(戸棚)中段棚 長尾華陽(豊橋、神官、画家)
鈴木五平(二川)
現存せず
親骨天井目板 .
神棚羽目 .
71 伊勢外宮壁代2枚 柱イ五 松本家(伊勢山田) 文化御遷宮御材
柱ろ五
柱は五
柱へ五
添柱戸袋屋根
72 伊豆熱海和田村掘出楠根株 石に似せた書棚下礎 世古直道(三島の有力者) 現存せず、明治12年掘出
73 駿河富士郡下稲子村掘出木材 柱ろ二 五十嵐重平 明治17年掘出
廊下天井
74 山城大徳寺或塔頭床板 廊下と部屋との間胴板 曹渓牧宗(大徳寺住職) .
廊下入口上の欄間
75 越中立山鉞目の松板 茶盆 石束栄員 現存せず
76 山城吉祥院天満宮 南庇の上の下見板 吉祥院天満宮祀官石塚清造 十万八千神社板
77 聚楽第門扉 床板 金森弥助(金工家) .
78 伊豆韮山江川家天井板 神棚の欄間に代えて 米山弥四郎(伊豆三島) .
79 陸奥国分寺薬師堂喜連格子 廊下窓木格子 宮部功臣 現存せず
80 駿河庵原郡立花村掘出木材 障子の大骨 望月治三郎(江尻・好古家) .
81 播磨曽根天神神宮寺門扉 欅1枚 用途不定 天神祀官曽根稲彦 .
82 甲斐御岳山金桜神社土鈴 神棚の横に掛けた土鈴 渡部 信(甲斐市川) 現存せず
83 山城北野天神古材1本 書棚天井廻り板 北野天神祀官田中尚房 .
土椽庇の二本
84 紀伊新宮弁慶楠の古板 用途不定 飯田耕梅(紀伊新宮) .
85 大和法隆寺蔵斑竹茶棚の板3枚 書棚一、二、三の棚板 田中猶次郎(大阪天王寺) .
96 元和板天満宮神影 現存せず 十二古物楼主人(古物商) .
87 (藤村庸軒の詩)1幅 現存せず 畑 柳坪(京都) 短冊?
88 撰集抄(光悦版下・嵯峨本)1部 現存せず 稲垣真郎(東京) .
89 西行(山家集)1部 現存せず 須原鐡坊(東京の出版家) .
90 時代机1脚 現存せず 西尾播吉(大阪) .
91 大和大安寺五重塔土壇(下注3) 東口沓脱石 生田福太郎(俳人)、田中猶次郎(85番)‖取替え
※「廃大安寺五重塔土壇」と云うも、塔土壇から搬出した礎石もしくは基壇化粧石材と思われる。
 そしてこの礎石もしくは石材が沓脱石に転用されたと思われる。
木片勧進東面図:この絵を見ると、切石というより、削平もしくは周囲が割られた自然石のように見える。
 大安寺の基壇化粧石材は精美な切石が使われるため、この沓脱石は大安寺塔の礎石である可能性が高いと思われる。
 また、はっきりと「其地(塔阯)を探得て堀出されしもの也。」と記するので、これも塔の礎石などの遺物であることを示す。
※しかしながら「草の舎」は解体・移転を繰り返し、そのため屋外の大石が移転出来ず、元地に残されたことは有り得ると推測される。
 であるならば、今沓脱石があるとすれば、後に補充された可能性が高いが、何れにせよ、手持ち資料では情報が皆無であり、
 また実見していない為、この大安寺<塔礎石>が現存か亡失かは良く分からない。
   →大和大安寺
○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 現在この礎石は失われている。
大正2年(1913)の写真で見る限り、当時既に普通のそれもおそらくコンクリート製の石に替えられていたようである。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
 「一畳敷」沓脱石1     「一畳敷」沓脱石2
写真で見るように、大和大安寺「五重塔土壇(礎石)」は失われ、沓脱石は一般的な汎用品が置かれる。
注1) 抑当庵(西行庵)建立は高野山西南院前官賢雄法子安禅寺宝塔院阿闍梨勢興并吉野山公永同忍べし。万治2年建立。元禄元年大風にて吹倒さる。今の物は再三建立の物なり。・・・
注2) 三島神社三重塔扉。長7尺8寸。幅3尺。常憲公御造営の由。
明治元廃仏の時神官波多野氏家に其一枚を蔵められしを此度贈り呉らる。
注3) 廃大安寺五重塔土壇。・・・始め熊凝精舎・・百済寺ト云・・移高市・・大官大寺・・此地に移る・・天平元年大安寺と改む。
其旧跡今村の内に一つの茅舎となるのミ。塔跡は村東今瓦やの土取場に成る也。近比此両人(生田福太郎、田中猶次郎)其地を探得て堀出されしもの也。



「草の舎起し絵」及び「木片勧進」挿絵

草の舎起し絵

 草の舎(一畳敷)起し絵1 :左図拡大図
  
平面図及び立面図

□ 草の舎(一畳敷)起し絵2 □

  :稚拙な出来であるが、草の舎の起し絵である。

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「木片勧進」挿絵

木片勧進東面図:(東から見た東面外部及び内部の模様)

木片勧進平面図:(平面図)

木片勧進南面図:(南西から見た南面外部及び東面書棚の模様)

木片勧進挿絵4:(北東から南西を望む?)

「草の舎」(一畳敷)及び「松浦武四郎」概要
 ※Webで多くの情報が公開される。

北海道探探検などで知られる松浦武四郎が最晩年に「草の舎」(一畳敷の書斎)を建立する。
そして、この「一畳敷」の書斎(草の舎)は現存する。

松浦武四郎は、この書斎の建立にあたり、諸国の友人知人に由緒ある寺社・旧家の廃材や断片材を勧進し、その勧進した材を建築・内装部材として各所に用いて、 この書斎(草の舎)を建立する。
この書斎(草の舎)は数度の移転を繰り返すも、今次大戦などの戦火を逃れ、今は国際基督教大学構内に現存する。
さらに、松浦武四郎は諸国から寄進された記録を書き留め、「木片勧進」という著作を著す。
この著作によって、用材の寄進者・品目および書斎(草の舎)のスケッチなどが後世に伝わる。

勧進された木片の時代は、真偽は不明であるが古くは奈良期のものもあり、鎌倉期と伝えるものも目につき、江戸初期の部材も多い。
勧進点数は91点、入手先は、諸国に及ぶ。

文政元年(1818)伊勢国一志郡須川村にて生誕。
明治19年、自宅・東京神田五軒町 (現千代田区外神田)に「一畳敷」を建立。70歳。
明治20年、「木片勧進」を出版。
明治21年、松浦武四郎逝去。「一畳敷」の焼却の遺言。しかし子息は保存する。
明治41年、紀州徳川頼倫、保存のため、自邸(麻布区飯倉町 (現港区麻布台))に解体・移築。
 南葵文庫(私立図書館)の裏庭に記念館とともに再建される。
大正12年、関東大震災によって東京帝大図書館被災、頼倫は南葵文庫を寄贈。
 一畳敷は、代々幡町代々木字上原 (現渋谷区上原)の徳川邸内(震災前麻生から移転)に移築。
昭和9年、山田敬亮(日産財閥重役)が三鷹に泰山荘と称する別荘を建てる、一畳敷も移転。
昭和15年、中島知久平(中島飛行機社長)に泰山荘を売却。
昭和25年、泰山荘を含む、旧中島三鷹研究所跡地の大部は、国際基督教大学(新設)に売却。現在に至る。


2006年以前作成:2011/11/06更新:ホームページ日本の塔婆