現存する多宝塔の概要:室町〜桃山期

現存多宝塔(室町〜桃山期)

名称・場所 国指定 画像 備  考
621 尾張密蔵院 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
多宝塔は室町初期建立と推定される。 軸部・組物に唐様を用いる。但し垂木は上下層とも2重並行垂木を用いる。屋根杮葺きで近年修復されたようである。亀腹は板張りで防腐剤を塗る。
野田本坊と称し、延暦寺末の巨刹であった。 平安期大山正福寺が焼失後、嘉暦3年(1328)慈妙上人が尾張天台の中心として開基したと伝える。往時は全国に末寺が及んだという。戦国期に衰退するも、江戸初期には伽藍が再興され る。
現在尾張名所図絵に見られる本堂、灌頂堂、経蔵、鐘楼などは退転し跡のみ残す、坊舎も全て廃絶し辛うじて跡地の推定が出来るのみである。但し開山堂、観音堂、元三大師堂、山王権現などは健在である。
◎「尾張名所図会 後編巻之4」より:記事:「 天台宗。山城国延暦寺末。
塔頭(むかしは36坊ありしが、・・今わずかに5院を存す。吉祥坊・常林坊・善明坊・常泉坊・福泉坊なり)」    
 蜜蔵院全図
◎2007/03/05「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
 蜜蔵院多宝塔断面図:軸部・組物に唐様を用いる本塔では側柱上組物と四天柱は海老虹梁で繋ぐ。
622 山城寶塔寺 重文

山城宝塔寺 室町初期建立と推定。
623 旧播磨掎鹿寺
(狭山山不動寺)
. 播磨掎鹿寺多宝塔 永享7年(1435)竣工。
624 紀伊護国院
(紀三井寺)
重文

図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10 11

室町文安6年(1449)再建。重文。本尊五智如来。一辺4.9m、高さ15.43m。
嘉吉元年(1441)塔倒壊と云う。
木立が多く写真の撮り難い塔である。
宝亀元年(770)唐僧為光上人によって開基、その後も広く朝野の信仰を集める。
西国33ヶ所第2番札所。 名草山山麓から中腹にかけて、西面して伽藍が展開する。
なお、海を隔て、和歌の浦が遠望でき、就中海禅院多宝塔が印象的な光景である。
楼門(重文・永正6年1509建立)、鐘楼(重文・天正16年1588建立)を残す。
本堂は宝暦9年(1759)建立。鎮守は白山妙理権現、熊野三所権現、金剛最王権現、二重の塔の隣り。
辨才天は鎮守社横からさらに山中に入る。弁財天・弘法大師・金比羅を祀る。但し紀三井寺の由緒ある堂宇ある堂宇にもかかわらず、険しい山中のためか、今は荒れている。
2001/01/05撮影:
 紀三井寺多宝塔1     紀三井寺多宝塔2     紀三井寺多宝塔3
2003/01/05撮影:
 図1〜11
2007/03/28撮影:
 紀三井寺多宝塔絵(本堂掲額)
2009/11/07追加:
○「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
 和歌浦図:江戸前期と推定
 和歌浦図・全図:左に東照宮・雲蓋院 等六坊、中央に養珠寺・妙見宮・妹背山・海禪寺、右紀三井寺
 和歌浦図・部分
2017/07/31追加:
○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 より(解説:額田雅裕、彩色:柴田浩子)
 紀三井寺/着色
仁王門の左右には寺中がならび三井戸のうち、清浄水と楊柳水がある。楊柳水の下の「志やか堂」は臨済宗正眼寺で日前宮神官紀國造が隠居所とする。現在は浄土宗遍照院が建つ。
2015/11/09追加:
○「紀伊國名所圖繪 巻5」 より:
 紀三井寺
仁王門下にこくや、左に平等院、多門院跡、松樹院、寶性院、■■院と上に続き、仁王門右に普門院、瀧の坊、寳藏院、■■院と上に続く。
2017/04/13追加:
○和歌山県立博物館展示:複製、南北朝期:2017/03/02撮影
 紀三井寺参詣曼荼羅      紀三井寺参詣曼荼羅文字入
紀三井寺多宝塔(現存)が描かれ、さらに右上に地蔵峰寺があり、多宝塔が描かれる。
地蔵峰寺は藤白王子社を登ったところにあるので、現海南市の地蔵峰寺であろう。
藤代王子より熊野古道を登った峠にあり、「峠の地蔵さん」と呼ばれ、大きな本尊石造地蔵菩薩がある。現在は藤白山延命院地蔵峰寺と称し天台宗に属し和歌浦雲蓋院末である。
 2017/07/31追加:
 ○「和歌浦の風景 カラーでよむ『紀伊国名所図会』」2012 では
 右上の多宝塔は地蔵峰寺ではなく、弁財天の多宝塔とする。確かに寺蔵峰寺では距離がありすぎ、
 弁財天であれば、方向や距離的にも合理的であろう。
 但し、地蔵峰寺や弁才天附近に多宝塔があったかは不明である。 
2007/05/09追加:
JIT(日本画像行脚)様より:
 <053-「遠い風景」所収>「遠い風景」大橋乙羽写真抄 中の「残山剰水」: 紀伊紀三井寺
○「和歌山県絵はがき集 写真帖」より:
 紀三井寺全景・絵はがき:正面に多宝塔、昭和初年頃の撮影と云う、
  手前は紀勢西線(現紀勢本線)と思われる。※紀勢西線開業は大正13年と云う。
   参考:紀三井寺遠望:同一のアンクルではないが、2003/01/05撮影画像
2017/01/13追加:
○s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 紀三井山多宝塔絵葉書
○「紀州経済史文化史研究所所蔵」戦前絵葉書 より:紀三井山多寶塔
2015/10/08撮影:
 紀三井寺遠望1     紀三井寺遠望2     紀三井寺遠望3
 紀三井寺多宝塔11   紀三井寺多宝塔12   紀三井寺多宝塔13   紀三井寺多宝塔14
 紀三井寺多宝塔15   紀三井寺多宝塔16   紀三井寺多宝塔17   紀三井寺多宝塔18
 紀三井寺多宝塔19   紀三井寺多宝塔20   紀三井寺多宝塔21   紀三井寺多宝塔22
 紀三井寺多宝塔23   紀三井寺多宝塔24   紀三井寺多宝塔25   紀三井寺多宝塔26
 紀三井寺多宝塔27
 紀三井寺仁王門1    紀三井寺仁王門2    紀三井寺仁王門3    紀三井寺仁王門4
 紀三井寺仁王門5    紀三井寺仁王門6    紀三井寺仁王門7    紀三井寺仁王門8
 紀三井寺六角堂
 紀三井寺鐘楼1    紀三井寺鐘楼2    紀三井寺鐘楼3    紀三井寺鐘楼4
 紀三井寺鐘楼5    紀三井寺鐘楼6     紀三井寺大師堂1     紀三井寺大師堂2
 紀三井寺本堂1     紀三井寺本堂2     紀三井寺本堂3
 紀三井寺鎮守1     紀三井寺鎮守2
 紀三井寺開山堂1    紀三井寺開山堂2    紀三井寺開山堂3
 紀三井寺辨才天1    紀三井寺辨才天2    紀三井寺辨才天3    紀三井寺辨才天4
 紀三井寺辨才天5    辨才天堂舎
○紀三井寺寺中:
穀屋:仁王門南にある(名所圖繪では平等院とある、穀屋は平等院下にある)
 穀屋寺1    穀屋寺2    穀屋寺3    穀屋寺4
普門院:仁王門北にある
 普門院1    普門院2    普門院3
瀧本院(瀧の坊):普門院の上にある
 瀧本院1    瀧本院2    瀧本院3    瀧本院4
松樹院:穀屋(平等院)の2段上にあり。1段上の多門院跡は良く分からない
 松樹院1    松樹院2    松樹院3
宝蔵院:瀧本院の上にあり
 宝蔵院1    宝蔵院2    宝蔵院3    宝蔵院4
宝性院跡:松樹院の上にあり
 宝性院跡:写真右手石垣の上が宝性院跡と推定される。
善壽院:本坊下にあり
 善壽院1    善壽院2
625 丹波大福光寺 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
様式等から室町中期建立と推定される。(明確な資料を欠くと云う。)
一辺3.9m、高さ13.27m。屋根檜皮葺。和泉慈眼院多宝塔の初重に似て、若干平面に比べ立面が高い印象を受ける。宝暦8年(1758)修理、この時相輪が改鋳される。(伏鉢銘) 塔本尊は大日如来坐像。
大正7年解体修理、昭和30年屋根檜皮葺に造替、蟇股彩色、平成9年屋根葺き替え。
なお中備えの蟇股には見事な彫刻が施される。但し内4枚は貞享元年(1684)の補充と云う。
2001/08/25撮影:
 多宝塔蟇股1   多宝塔蟇股2   多宝塔蟇股3   多宝塔蟇股4   多宝塔蟇股5   多宝塔蟇股6
○延暦年中、鞍馬寺中興・法印釈法延が北東約2kmの空山上に創建したと伝える。嘉歴2年(1327)足利尊氏が山上から現在地に移し、本堂はそのときの建立( 鎌倉末期、桁行5間梁間5間・重文)と伝える。
天正年間の兵火で多くの堂宇を焼失し、現在は本堂と塔と鐘楼のみが残る。伽藍は、丹波の散村の中にひっそりと佇み、本坊は約100m許の北方にあるが、良く保存・維持される。真言宗御室派。
左図は2001/08/25撮影、図6・図7は本堂である。
2012/07/22撮影:現在本堂は屋根修営工事中(平成24年竣予定)。
 大福光寺多宝塔11    大福光寺多宝塔12    大福光寺多宝塔13    大福光寺多宝塔14
 大福光寺多宝塔15    大福光寺多宝塔16    大福光寺多宝塔17    大福光寺多宝塔18
 大福光寺多宝塔19    大福光寺多宝塔20    大福光寺多宝塔21    大福光寺多宝塔22
 大福光寺多宝塔23    大福光寺多宝塔24    大福光寺多宝塔25    大福光寺多宝塔相輪
蟇股写真11は正面向かって左脇間であり、そこから反時計回りに撮影、22で終る。
 多宝塔蟇股11      多宝塔蟇股12      多宝塔蟇股13
 多宝塔蟇股14      多宝塔蟇股15      多宝塔蟇股16
 多宝塔蟇股17      多宝塔蟇股18      多宝塔蟇股19
 多宝塔蟇股20      多宝塔蟇股21      多宝塔蟇股22
 大福光寺鐘楼       大福光寺本坊
なお、最古の写本(原本は既にない)と云われる「紙本墨書方丈記」(重文)を有する。
626 大和吉田寺 重文
室町期寛正4年(1463)建立・・・心柱墨書銘による。
龍田本宮塔・大和吉田寺多宝塔
627 摂津徳光院 重文 図1
図2
図3
図4
室町期文明10年(1478)建立。元垂水名谷の明王寺塔で明治33年に川崎家の所有になり、昭和13年徳光院に寄進・移建。寺自体は明治38年に川崎家の菩提寺として創建された禅寺(臨済宗)のようです。本尊として薬師如来が安置されている。有名な布引の滝がすぐ近くにあります。
なお鐘楼は三木伽耶院(寛永8年)の鐘楼で、明治40年当院に移築したという。
--------2002/12/23再訪----------------------------------
多宝塔1   同   2  同   3  同   4  同   5  同   6
628 丹後智恩寺 重文 丹後天橋立丹後智恩寺・丹後成相寺五重塔・丹後国分寺跡  明応9年(1500)建立。
629 尾張性海寺 重文 尾張性海寺  室町中期建立。
630 尾張万徳寺 重文 図1
図2
図3
図4

画1
画2
画3
画4
画5
画6
画7
画8
画9
10
11
12
13
14

室町中後期建立。尾張性海寺塔婆をモデルにしたと推定されている。
一辺3.63m。
2001/01/13撮影:図1〜図4
2008/06/06撮影:画1〜14
2022/12/28追加:
 尾張萬徳寺多宝塔15:柴田常恵社写真資料集 より:「雑(六)、栄徳寺 夛重塔 一一六」とあるが、栄徳寺とは不明、萬徳寺多宝塔と思われる。大正から昭和初頭の撮影か。
◇萬徳寺は寺伝では奈良期創建という。
建長6年(1254)後深草天皇の勅願で常円上人が中興。以来尾張真言宗の中心として繁栄する。
多宝塔横に鎮守社(室町・重文)がある。
 尾張万徳寺鎮守社1    同    鎮守社2    同    鎮守社3    同    鎮守社4
◇尾張名所図会 後編巻之1より
記事:「真言宗。醍醐報恩院の流派。宝塔(稽文会の作の大日如来の像を安置す。これ常円上人の異人より授かりし霊仏なり)」  尾張萬徳寺(全図)

◇附録:尾張大国霊社
万徳寺西約1kmにある。
明治の神仏分離まで威徳院(元尾張国分寺の一坊・恩徳寺)および大日坊(儺追堂・本尊本地大日如来)が境内にあり管理に与る。明治の神仏分離で両院は廃寺・還俗、岩田氏を名乗り、什宝は萬徳寺に移されると云う。
拝殿(江戸初期、切妻造・妻入り、重文)及び楼門(室町初頭の建立と推定、正保3年<1646>の大修理で上部を改造、重文)を残す。
尾張大国霊社拝殿1     同     拝殿2     同     楼門1     同     楼門2
631
(欠)
旧白豪寺多宝塔
(摂津井植山荘)
.
 
2002年3月19日から20日の山火事で類焼し完全に焼け落ちる。
旧白豪寺多宝塔・井植山荘多宝塔
売却直前の多宝塔の姿(大正2年・川船水棹作)、白豪寺に残る多宝塔跡、3月23日焼失現場の様子、江戸後期の姿、再興相輪などの情報
632 三河
池鯉鮒大明神
(知立神社)
重文 図1
図2
図3
図4
図5
永正6年(1509)重原城主山岡中左衛門が再建。塔は嘉祥3年(850)神宮寺創建の時、慈覚大師によって創建されたと伝える。 一辺4.12m。
明治の神仏分離の際、堂内の愛染明王を総持寺に移し、相輪をはずし瓦葺きにし、「知立文庫」(扁額は今も懸けられている)として棄却を免れた塔と伝える。
大正10年に修理、元の形に復元される。
東海道53次の池鯉鮒の宿にあり、社殿は造替され、また社頭を自動車道が横切るも、境内は江戸期の雰囲気を残す。
○「東海道名所圖會・巻の三」より。
 池鯉鮒大明神多宝塔(部分図)
記事:「多宝塔:社頭にあり。「伝」にいわく、「嘉祥三年(850)これを建つ」云々。九輪の台に山岡忠左衛門とあり、これ再建の願主という。」
○2003/07/21追加:
 知立神社建物見取図(明治):多宝塔は 「文庫」として改造された様子が分かる。
 知立神社之図(明治34年):多宝塔は改造 (相輪欠、上層は瓦葺入母屋造)されたままの状態である。
 知立神社境内図(大正12年):大正9年の解体修理で相輪・屋根を復元 する。
2011/12/24撮影:
多宝塔以外に特に見るべきものはない。
 池鯉鮒大明神多宝塔11     池鯉鮒大明神多宝塔12     池鯉鮒大明神多宝塔13
 池鯉鮒大明神多宝塔14     池鯉鮒大明神多宝塔15     池鯉鮒大明神多宝塔16
 池鯉鮒大明神多宝塔17     池鯉鮒大明神多宝塔18     池鯉鮒大明神多宝塔19
 池鯉鮒大明神多宝塔20     池鯉鮒大明神多宝塔21     池鯉鮒大明神多宝塔22
 池鯉鮒大明神多宝塔23     池鯉鮒大明神多宝塔24     池鯉鮒大明神多宝塔25
 池鯉鮒大明神多宝塔26     池鯉鮒大明神多宝塔27
 大日本五道中図屏風:部分図 :大日本五道中図屏風(三井記念美術館蔵):慶安元年(1648)頃作成
 池鯉鮒大明神多宝塔が描かれる。池鯉鮒宿中案内板より転載
633 安芸厳島神社 重文 詳細は「安芸厳島五重塔・多宝塔」のページを参照 。
634 周防花岡八幡宮【重文】
(閼伽井坊多宝塔)

多宝塔:
室町後期建立と推定される。今も花岡八幡宮の社頭に建ち、神仏分離前の姿を伝える。
塔は花岡八幡の楼門から本殿の参道右にあり、坊舎で唯一残った閼伽井坊の管理(所有)と云う。
また元禄13年(1700)、享保8年(1723)、延享元年(1744)、宝暦7年(1757)、安永6年(1777)に修理が行われ、その時の修理棟札が残る。
花岡八幡宮:
社伝によると和銅2年(709)宇佐八幡を勧進したと伝える。
慶長4年(1599)には地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊の9坊が確認されている。
江戸末期には地蔵院・閼伽井坊の2坊に減じ、地蔵院は明治2年に住僧の還俗により廃院となり、現在は閼伽井坊のみが現存。
つまり、近世では地蔵院と閼伽井坊の2坊のみが残り、大宮司村上家と三者で八幡宮の行事を執行したという。
 ※地蔵院は下に掲載の「花岡八幡宮例祭巡行絵馬」に描かれ、その位置などが分かる。
坊舎:閼伽井坊の1社坊のみ現存する。

2001年9月撮影X氏ご提供画像
 花岡八幡宮多宝塔01
2002/08/16撮影:
 花岡八幡宮多宝塔11    花岡八幡宮多宝塔12    花岡八幡宮多宝塔13    花岡八幡宮多宝塔14
 花岡八幡宮多宝塔15    花岡八幡宮多宝塔16    花岡八幡宮多宝塔17    花岡八幡宮多宝塔18
 花岡八幡宮多宝塔19    花岡八幡宮多宝塔20    花岡八幡宮多宝塔21
 花岡八幡宮多宝塔鐘楼    花岡八幡宮閼伽井坊
2022/11/24撮影:
 塔一辺は3.94m、高さ13.7m。
多宝塔内部:四天柱が建ち、来迎壁を設け、その間の須弥壇上に宮殿があり、塔本尊として金剛界大日如来(像高30cm)を安置する。また四天柱には天井長押を打ち、天井は鑑天井である。
 花岡八幡宮祭神は誉田別(応神天皇)、姫大神(市杵島姫、田心姫、湍津姫)息長足姫(神功皇后)の三座五柱で、和銅二年(709年)豊前国宇佐より八幡宮の御分霊が勧請されたいう。
花岡八幡宮多宝塔31
花岡八幡宮多宝塔32:左図拡大図
花岡八幡宮多宝塔33
花岡八幡宮多宝塔34
花岡八幡宮多宝塔35
花岡八幡宮多宝塔36
花岡八幡宮多宝塔37
花岡八幡宮多宝塔38
花岡八幡宮多宝塔39
花岡八幡宮多宝塔40
花岡八幡宮多宝塔41
花岡八幡宮多宝塔42
花岡八幡宮多宝塔43
花岡八幡宮多宝塔44
花岡八幡宮多宝塔45
花岡八幡宮多宝塔46
花岡八幡宮多宝塔47
花岡八幡宮多宝塔48
花岡八幡宮多宝塔49
花岡八幡宮多宝塔50

閼伽井坊山門
閼伽井坊本堂1
閼伽井坊本堂2
閼伽井坊大師堂
閼伽井坊鐘楼
閼伽井坊三天堂
三天堂内部:厨子は3室に分かれ、中央は辨財天、左は毘沙門天、右には仏龕と二佛があるが、これは良くわからない。
そのほか、厨子の外に文殊菩薩と寿老人(?)が置かれている。
花岡天満宮1
花岡天満宮2
花岡天満宮3

花岡八幡宮随身門1
花岡八幡宮随身門2
花岡八幡宮随身門3
花岡八幡宮随身門4
花岡八幡宮拝殿
花岡八幡宮本殿
花岡八幡宮鐘楼

2023/02/10追加:
○「重要文化財閼伽井坊塔婆保存修理工事報告書」下松市教育委員会、昭和40年
主要寸法
一辺(側柱芯々)3.95m、総高(石口より宝珠天迄)13.7m。
下層内部は正面に仏壇を置き大日如来像を祀る。鏡天井、素木造。
今回の工事での現状変更
1)下層の四方に切目椽を廻らす。無椽の状態を復原。
2)屋根を杮葺に変更。銅板葺からの復原。
3)下層屋根の勾配を緩くする。修理前は屋根が亀腹を覆い隠す状態であった。
4)上下層の風鐸を復原。
5)相輪の水煙を復原。
 多宝塔立面図     多宝塔断面図     昭和3年修理前多宝塔
 多宝塔北側蟇股     多宝塔西側蟇股

2003/7/6追加:2023/02/07修正・画像入替
○「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、2001 より
 花岡八幡宮例祭巡幸絵馬:画像容量・1.49MB
寛政9年(1797)、花岡八幡宮蔵。
横幅3.6m超の絵馬である。右から左下へ通る街道とクロスして参道が通り、石階を登り八幡宮がある。
本殿手前の鳥居の前に多宝塔が建ち、石階の途中向かって右に地蔵院、下の左手に閼伽井坊がある。
街道の右手には毛利藩の御番所やお茶屋がある。
 ※さらに高精細の画像は下に掲載する。
2023/02/10追加:
○下松市 郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ>山陽道の門前宿場町 花岡>文化財 絵馬 より
1)花岡八幡宮例祭巡幸絵馬
花岡八幡宮蔵、寛政9年(1797)徳山毛利藩の絵師、南陵朝倉光世の作。墨絵の南陵の下絵をもとに南陵のほか門弟4名によって描かれたと記録され、現在の絵馬は原図破損につき大正12年樅木に復元される。大きさ縦183cm、横384cm。
 花岡八幡宮例祭巡幸絵馬・全図     花岡八幡宮例祭巡幸絵馬・全図(大):画像容量2.58MB
 花岡八幡宮例祭巡幸絵馬・多宝塔      花岡八幡宮例祭巡幸絵馬・地蔵院閼伽井坊    
 花岡八幡宮例祭巡幸絵馬・文字入れ
2)「御国廻御行程記/花岡」平成元年書写
原本は「:御国廻御行程記」寛保2年(1742)、山口県文書館蔵
 御国廻御行程記・花岡部分
 御国廻御行程記・花岡八幡部分:八幡・多宝塔・阿弥陀・真言宗地蔵院・真言宗閼伽井坊が描かれる。
  ※花岡八幡本地は阿弥陀如来(「本地垂迹資料便覧」)と云う。
上掲「花岡八幡宮例祭巡幸絵馬・地蔵院閼伽井坊」などには地蔵院上方に御本地堂が描かれる。おそらくこの御本地堂に安置されていたものと推定される。

○「下松市史 通史編」下松市史編纂委員会、1989 より
閼伽井坊 花岡八幡宮社坊 地蔵院 香禅寺 長福寺 楊林坊 常福坊 千手院 惣持坊 関善坊 の項
◇閼伽井坊:
 真言宗、華岳山と号す。本尊虚空蔵菩薩。
 『寺社由来』では「当寺代々真言宗ニて御座候、何頃建立相成候哉存たる者無御座候、且又開山等も相知不申候故、万治年中以来之住持左ニ書付差上ケ申候事」という。
 『風土注進案』では「建立之由来不詳、中古焼失仕、元文年中ノ住職良長法印より当代迄拾一世血脈相続仕候、其已前の儀は不分明ニ候得とも、慶長四年(1599)之御書付ニ有之八幡宮社坊九ケ寺之内一ケ寺ニて御座候」という。
 『花岡八幡宮由来記』では「周防国都濃郡末武荘花岡八幡宮ハ、かけまくもかしこき皇国の御代の守りと鎮ります大神にして、祭所宇佐におなし伝へいふそのかみ和銅二年(七〇九)己酉の歳弥生の比、三奈木某といふわらはに託り給ひ、朕は筑紫の宇佐の嶋に天降りし姫大神なり、こゝにすまむことを思ふ、願くは汝いつきまつれ、さるしるしには一夜のほとに山を桜となし、また岩清水をわかしめんとのたまへり、みさとしのことく、千百との桜あしたの雲となひき、霞める空にかぐはしくわきいつる水またすかすかし、つひにこの事おほやけにきこえて、瑞の御舎をつくり千木たかしりてかしこみ祭り、いまにかうかうし………岩清水を赤井といひて、この水をくみてのむ人は、もろもろのやまいをまぬかる」と云う。
 『寺社由来』に「右清水、八幡宮神水ニ相備候事、往古より閼伽井坊社役之参掛り御座候」という。
現在では閼伽井坊が花岡八幡宮社坊九ヶ寺内唯一残存するものであり、廃寺になった分国寺(禅定寺)の昆沙門天王・愛染明王像、並びに地蔵院の本尊地蔵尊及び本門は、閼伽井坊に伝わる。
 ※分国寺(禅定寺)は花岡八幡宮の社坊ではないが、廃寺の際、遺佛は閼伽井坊に遷されるということか。
また、多宝塔も現在は閼伽井坊が引き継ぐ。
多宝塔内には大日如来像が安置され、『風土注進案』では、「右当祠建立、天智元壬戌(662)年天智天皇之御宇大職冠御建立、竹田番匠之作ト申伝也」と記される。
 ※但し、藤原鎌足の建立とは、本八幡宮と大職冠との関係性が全く分からずこの意味で、不思議な縁起である。
また、上述のように、塔内に次の棟札が保存される。元禄十三年(1700)、享保八年(1723)、延享元年(1744)、宝暦七年(1757)、安永六年(1777)、天保四年(1833)、文久三年(1863)。
さらに地蔵院文書には、寛永八年(1931)、承応四年(1655)修理の棟札写が載せられる。
例えば、寛永8年の棟札写しは次の通りである。
   寛永八年(1631)御奉行益田玄蕃頭   代官 豊嶋弥左衛門   大工  和泉守
  奉再興八幡宮多宝塔一宇事
   大檀主大江朝臣秀就建立之敬白  霜月吉日普請奉行石津太郎左衛門御取次
                     社務地蔵院宥朝
 多宝塔棟札     宝暦7年棟札銘文
さらに、巷間に伝えるところでは、明治の初年頃多宝塔の破損が甚だしく、取壊しの説さえ出たとき、花岡上原勝平氏が自費にて修理されたと伝えている。
花岡八幡宮社坊 については、『地蔵院文書』では次のように伝える。
○防州都濃郡末武花岡八幡宮寺社領目録案書
  一 三十二石六斗二升三合
     右年中三十三度之御祭方也
  一 五石
     右諸営方之分
  一 十石
     右九月十五日御祭礼被成入目、地蔵院調之
  一 三十石二斗八升八合
     地蔵院領
  一 七石六斗六升
     楊林坊分
  一 八石
     常福坊分
  一 五石四斗三升八合
     千手院分
  一 四石五斗
     閼伽井坊分
  一 三斗八升二合
     香禅寺分
  一 二石九斗
     惣持坊分
  一 二石九斗八升九合
     長福寺分
  一 三石一斗一升三合
     関善坊分
    已上六十七石九斗一升五合  坊領分
  一 二十石六斗八升一合
     諸社官給
    幷而百三十六石六斗二升三合
   右は国備山吉兵衛以御究之前、附立所申如件
       慶長四年(一五九九)二月十日    地蔵院
 ※以上により花岡八幡宮社坊九ヶ寺とは地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊であることが分かる。
なお、廃寺の内、現在、廃寺跡と認められるものは高(香)禅寺・地蔵院・長福寺がある。他の五社坊については、寺跡等も一切不明である。
◇地蔵院:
 真言宗、八幡宮別當、金生山と号す。本尊は延命地蔵菩薩。明治2年廃寺、寺跡は元の花岡小学校である。
 『寺社由来』では「当寺往古何之年号之頃建立相成候哉、開山等も存たる者無御座候」とある。
地蔵院には多数の「地蔵院文書」が残り、これは現在「花岡八幡宮」に蔵される。
明治2年11月地蔵院住職都濃正記が還俗、廃寺となる。地蔵院の本尊及び門は閼伽井坊に移され、古文書類は花岡八幡宮に収まることとなる。
◇香禅寺:
 花岡上地に、小字名として高禅寺があって、昔の香禅寺の寺跡と伝えられる。
◇長福寺:
 古老の伝えるところによると、長福寺は上地の御宿にあったといわれる。寺跡と伝えられているところには、寺の墓が残る。

上述のように、楊林坊、常福坊、千手院、惣持坊、関善坊は江戸期に廃寺となる。
これらの廃寺については、寺跡もないが、分明している点は以下である。
 楊林坊:現在地蔵院の墓があるところを「ゆうりん坊」と土地の人はいう。
なお、検地帳(地蔵院文書)には「寺職四畝代二百匁 楊林坊」とある。
 常福坊:地名に上福寺・下福寺とあり、この地名は常福坊との関係があるかも知れない。
 千手院:地蔵院の文書にその名が見える(省略)。
 惣持坊:同上
 関善坊:「花岡八幡宮寺社領目録」と「検地打渡坪付帳」に記される。坪付帳の前後の関係から見ると、宮ノ下にあったように思われる。
◇地蔵院のこと
 地蔵院文書の中に、天文十二年(1543)十一月五日付の証判がある。これは陶隆房(晴賢)が地蔵院住持職を権大僧都祐教に安堵したことを証するものである。
これは、父興房の証判の旨により、同時に寺領の安堵も認めたものと思われる。
さらに地蔵院文書には、多数の毛利元就・隆元・輝元の奉書御判物があり、その後、陶氏を滅ぼした毛利家と地蔵院とのは密接な関係があったことが分かる。
先に掲載した慶長四年(1599)の「防州都濃郡末武花岡八幡宮寺社領目録案書」もその一つである。
即ち、一三六石六斗二升三合が打渡され、又社坊九ケ寺の名も確認される。
 毛利氏「八箇国時代」の都濃郡内給領主一覧によると打渡しは、一三六石とされ、これと符合するほか同時代近郷では、下松の妙見社も九〇石の社領を有している。
これは遠石八幡宮二〇五石、長穂竜文寺二八九石、富田建咲院一二六石、鹿野漢陽寺三一石と並ぶ厚い優遇である。
・地蔵院屋敷:
 『寺社由来』(寛延2年/1749)は、当寺屋敷内に、「寺本間四間半梁五間半、三方壱間の外、間数八畳三間、六畳三間、くり弐間半ニ四間半御座候事」とある。
 『防長風土注進案』(江戸末期)は同寺について次の如く記す。
  本堂 桁行七間梁行七間惣茅葺之事
  庫裏 桁行四間梁行四間茅葺之事
  本門 薬醫門壱丈壱尺ニ壱丈壱尺惣屋禰本瓦葺、両袖小門五尺宛之事
  中門 七尺ニ七尺惣屋禰本瓦葺之事
  土蔵 弐ケ所
     内壱ケ所桁行三間梁行弐間惣屋禰勝手瓦葺、霊寶物并八幡宮神事諸道具入、壱ケ所ハ桁行六間梁行三間勝手瓦葺之事
  長屋 壱ケ所桁行四間半梁行弐間半惣屋禰わら葺之事
・明治2年別當地蔵院住持の還俗
『社寺改正録』によると明治二年(1869)十月八幡宮別当地蔵院から、次の如き願書が、庄屋を経由して勘場(萩藩<本藩>役所)に提出される。
    御願申上候事
  今般従朝廷神仏混淆之儀御改、別当社僧還俗、神主社人等之称号ニ転職候様
  被仰出候ニ付奉得其旨候、身柄還俗仕、以神道致奉仕度奉存候、
  就ては拙僧事都野正記と改名仕度奉存候間、此段宜敷被成御沙汰可被下候、以上。
                  都濃郡華丘八幡宮別当職
    已ノ十月
     御庄屋佐藤七之進殿            地蔵院
○ページ「古地図を片手にまちを歩こう」では次のように云う。
 地蔵院跡
真言宗、金生山と号す。本尊延命地蔵菩薩。明治2年廃寺となり山門・本堂が移築されるまで、学校の校舎(花岡小学校の前身)として使用される。現在は花岡児童公園となる。
 ※学校の校舎とは当時は「集成舎」と称し、廃寺地蔵院を校舎にあて(明治5年であろうか)たということか。
 花岡八幡別當地蔵院跡:地蔵院跡地の写真は撮影せず、故にGoogleMap より転載する。
左手が閼伽井坊、右手が地蔵院跡(現・花岡児童公園)、石階は地蔵院石段
○ページ「閼伽井坊(下松市)」では、次にように云う。
 寺宝:本尊虚空蔵菩薩、木座像御丈五寸。地蔵菩薩、木立像御丈一尺、元地蔵院の本尊であった。
寺号は吉敷郡名田島村に移転した。
 ※吉敷郡名田島村に移転とは名田島村岩屋山地蔵院のことであろうが、この地蔵院は周防国分寺寺中の寺号が移転したはずであるがので、誤謬か。
本堂、庫裡、山門:元地蔵院の境内にあったが、同寺が廃寺となった時に、当寺に移転した。
 ※山門も本堂・庫裏も一度は小学校に転用され、その後、本堂・庫裏も移転されたということであろうか。
境内は二百九十七坪。境外飛地、四十五坪。この中(飛び地のことか?)に多宝塔がある。
多宝塔は明治三十二年特別保護建造物に指定される。
 総高(宝珠頂上まで)  四十五尺二寸(13.70m)
 初層軒高、十尺二寸八分
 上層軒高、二十一尺四寸二分
 露盤下高、二十九尺一寸二分
 底方、十三尺二分(3.945m)  此坪 四坪七合余
635 三河東観音寺 重文 図1
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古境内図
大永8年(1528)建立。 一辺3.33m高さ12.15m。田原城主戸田家家老藤田定光の寄進という。
数少ないほぼ唐様からなる多宝塔である。下重柱に円柱を用い、粽を付す。また貫を表に出し、木鼻・繰形など唐様の典型を示す。匂欄には逆蓮華を用い、下重上重とも扇垂木 とする。饅頭は板張りと思われる。
当寺は行基の開山と伝え、古くは真言宗であったが、中世に臨済宗(妙心寺派)に改宗したと伝える。
木造阿弥陀如来坐像(平安−鎌倉)、金銅馬頭観音御正体(鎌倉)の重文を有する。
元、寺は海岸近くにあったが、宝永4年(1707)津波で伽藍は全壊し、今の場所に移転したという。塔もこの時大幅な改造があったといわれる。例えば中備えの蟇股はこの改造時のもの とされ、唐様とは相反する意匠であり、唐様の徹底を欠く結果になる。
東観音寺古境内図(紙本着色)は寺蔵、宝永以前の旧伽藍図とされる。
2006/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正末期から昭和初期の撮影
 三河東観音寺多宝塔
2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 東観音寺古境内図:東観音寺蔵、紙本着色、116×145cm。左の古境内図と同一のもの。
2014/07/25追加:
「渥美郡史. 付録」愛知県渥美郡、大正12年 より
 大正12年頃東観音寺多宝塔
636 武蔵金鑽神社 重文 天文3年(1534)建立、「金鑽神社多宝塔」を参照。
637 三河大樹寺 重文 図1
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室町天文4年(1535)建立。松平清康の再興になる。一辺4.35m、桧皮葺き。
当寺は松平親忠が菩提寺として建立。江戸期は徳川家先祖の菩提寺として厚遇された。
現在も浄土宗特有の大建築の三門・本堂・大方丈等を備える。(山門:寛永18年建立、本堂・大方丈:安政4年建立、総門:寛永15年建立)
2008/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正末期から昭和初期の撮影
 三河大樹寺多宝塔
明治6年境内に大樹寺小学校が開校、この地にあった塔頭回向院、善揚院、忍阿院が移転、西光寺、真如寺、慈光寺(全て大樹寺近辺のある)をあわせ山内寺院を構成する。
2009/01/16撮影:
三河大樹寺多宝塔1     同        2     同        3     同        4
  同        5     同        6     同        7     同    南側面8
  同  正面中央間     同      相輪
内部には唐様の須彌壇を置き、本尊多宝如来を安置する。
  同    三門       同    総門       同   塔頭土塀
総門の中に写る門は三門である。
塔頭(善揚院、開花院)土塀:大樹寺小学校裏門の両脇に土塀の一部が修復されて残る。かっては三門から小学校南の総門まで土塀が続いたと云う。
638 尾張荒子観音寺 重文 図1
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○室町天文5年(1536)常住院賢俊承認によって建立。一辺3.5m・高さ11.5m。
近年修理がなされ、面目を一新する。そのため、新材が目につき、今は多少違和感がある。屋根は新しく桧皮葺きに変更される。(修理前は銅板葺きであった。) 上重軸部・組物・軒は唐様を用いる。
 天平元年(729)白山開基泰澄の草創と伝え、天平13年自性が開山する。永禄年中智音院全運により再興。 天正4年(1576)荒子城主後の前田利家が本堂を再興。後後尾張藩主の庇護を受ける。明暦年中に火災焼失、現在地の北約1kmの所から、享保12年(1728)現在地へ移転。文化年中にも火災焼失。現在では門前の地割に12坊などの配置が推測できるも、遺跡は何も残らない。
本堂は近年再興、しかし、例によって他の尾張観音霊場の本堂と同一の醜悪なき形式をとる。なお当寺には円空佛1200体が伝えられていることでも知られる。
○尾張名所図会 巻之5より
記事:「(荒子村にあり。天台宗、野田村密蔵院末)天平元年越の大徳泰澄和尚の開基、同十三年開山、僧自性建立、永禄年中法印全運の中興・・元禄年中僧円空当寺に来寓せし時、数千の仏像を彫刻せり。・・・・
多宝塔(多宝・愛染・釈迦の三尊を安置す。中尊愛染明王はすなわち円空の作なり。貞享年中に僧円盛修造せり。寛政年中に僧全覚再び重修を加ふ)」
荒子観音と俗称する。
 尾張名所図絵(全図)
○2007/06/22追加:明治期の撮影:「写真に見る明治の名古屋」 より
 荒子観音多宝塔
○2010/10/26追加:「重要文化財観音寺多宝塔保存修理工事報告書」平成13年
屋根葺替:宝永7年(1710)、享保16年(1731)、文政13年(1830)、明治10年(1877)
部分修理:正保3年(1646)、寛政6年(1794)、嘉永7年(1850)、明治22年、昭和25年、昭和35年
平成11〜13年解体修理:改変部は全体の形が整った正保年間の姿に復原。
屋根を杮葺・相輪を青銅製(老化した鋳鉄製相輪は保存)に、そのほか縁や柱間装置などを復旧整備する。腐朽材は程度により繕いと取替を行う。来迎柱、天井格縁などの漆塗を塗替、彩色塗は判明した箇所を新規に塗装する。
 荒子観音竣工内部
639 安房石堂寺 重文 図1
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本堂1
本堂2
本堂3
薬師堂1
薬師堂2
山王社
天文14年(1545)建立。元禄9年(1696)に朱塗り、安政4年(1775)欄間取り付け。1990年修理で左記を元に戻し、屋根もこけら葺きに戻す。一辺4.17m。基本的に和様を用いる。
内部には四天柱があり、須弥壇上に木造千手観音坐像(重文)を安置する。
修理前は両脇間の腰長押の上下に彫刻欄間(16面・寛政3年頃作)が嵌められていたと云うが、現在は外され(客殿安置とされる)板を嵌める。また屋根銅板葺きが檜皮葺きに改められ る。
和同元年(708)大和の僧恵命・東照が阿育王塔を護持して、この地に草庵を結ぶ。
神亀3年(726)行基が堂宇を整備する。近江阿育王山石塔寺、上野白雲山石塔寺(妙義大権現)とともに三石塔寺と称する。
仁寿元年(851)慈覚大師円仁が来錫、伽藍を造営、以来天台宗を奉じる。
文明18年(1486)全山を焼失、順次再興に務め、現在の姿になる。
2013/12/23追加:
○「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測)
 安房石堂寺多宝塔21     安房石堂寺多宝塔22

本堂(重文):厨子銘の永正10年(1513)建立と云われる、3間×4間の寄棟造銅板葺き一間向拝付き、妻入り、ほぼ唐様を用いる。本堂厨子(重文):永正10年(1513)建立、唐様・天竺様折衷という。
薬師堂(重文):天正3年(1575)建立、全山焼失後の仮本堂と伝える。昭和46年に石堂寺の境内に移築。元は境外仏堂として、約800m北方にあった と云う。3×3間、寄棟造茅葺き、ほぼ唐様を用いる。
※解体工事の折発見された墨書により天正3年(1575)に石堂寺の境外仏堂として、石堂原に建立されたことが判明したと云う。
山王堂:室町末〜桃山期の建立と推定、現在は覆屋の中にある。
その他鐘楼・仁王門などを有する。
なお旧尾形家住居(重文・享保13年<1728>))が境内に移設される。
640 和泉大威徳寺 重文 図1
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内部板壁の墨書により永正18年(1513)建立とされる。寛政6年(1794)の葺替(棟札)・元治2年(1865)の総修理(棟札)あり。昭和49・50年の修理で一新され る。一辺 3.1m。高さは13mという。
本堂は山側が正面であり、現在の参道・山門には背を向けているが、牛滝川の瀧に対面する形であり、その意味で多宝塔は本堂の同一平面上で背後に建立されている。おそらく古は瀧に向かって参道があり、瀧から本堂に参詣するルート が正式であったのであろうと推測されている。
 大威徳寺は寺伝では役行者の草創、弘法大師・恵亮和尚の経歴するところとし、坊舎40と伝える。本坊(真言)と穀屋坊(天台)の開基論争もあったが、明治45年本坊も天台宗に改宗する。
現在、参道脇に幾多の坊舎の石垣を残すも現在は僅かに本坊1坊のみで維持する。
なお近年、近くにおそらく行政によりつまらない施設が建設されたと思われる。行場であったであろう瀧等修験の雰囲気が壊されないことを願う。(おそらく紅葉の頃は人で溢れるものと思われる。)
 図7:本堂正面にある一の瀧。
なお当寺も葛城山修験の霊地とされ、法華経28品の経塚(葛城二十八宿)である10品法師品経塚は牛滝山山門脇の大岩(梵字)であるとされる。
 ※葛城二十八宿とは役行者(小角)が法華経八巻二十八品を埋納した経塚を云う。
 著名なところでは、2品譬喩品/紀伊本恵寺<紀伊の日蓮宗寺院中)の前身であるという大福山辨天、
 14品安楽品/河内光滝寺、15品従地湧出品/天台若王寺末岩湧寺などがある。

和泉名所圖會より:
 大威徳寺伽藍図(部分図)・多宝塔(部分図)、記事:「多宝塔(金剛界大日を安ず。弘法の作)」
2009/02/18追加:
 牛瀧山大威徳寺図1:大阪歴史博物館蔵:本堂・多宝塔などと多くの坊舎が描かれる。
 牛瀧山大威徳寺図2:上図の主要伽藍部分図
 牛瀧山大威徳寺絵図:大威徳寺蔵:簡略化された表現ながら、多くの坊舎が犇く様が覗われる。
2017/01/11追加:
s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。 またこの葉書は使用済で菊切手が貼付され(消印は不鮮明で判読不能)ているので、おそらく明治期に投函されたものであろう。
 牛瀧山多宝塔絵葉書
641 常陸来迎院 重文 図1
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室町後期。 <弘治2年(1556)江戸崎城主・土岐治英によって建立と云われていたが、近年の修復で、柱の墨書や宝輪、飾り金具の刻印などに、弘治2年塔を修理した旨の銘が発見され、建立されたのは弘治2年以前と推測されるに至る。>
一辺4,15m、高さ19.7m。 初重四面中央間は桟唐戸、脇間は正面のみ連子窓、他の三方は板壁、周囲に縁を廻らせる。組物は初重が挙鼻附出組、二重は四手先、いずれも唐様を用いる、 軒は上下とも二重繁垂木。屋根杮葺(今般の修復で赤塗り銅板葺を変更)。1998〜2001年修復工事 。
中央より見れば地方の小寺院と思われるも、ここに室町期に遡る多宝塔が今日まで伝えられたのは奇跡的とも思われる。

天台宗。箱根山宝塔寺と号する。本尊阿弥陀如来。寺伝では、永正14年(1517)、逢善寺末寺として創建されたと云う。今般の銘発見で、多宝塔は創建当時の建立とも推測される。2006年重文指定。
来迎院仁王門本堂:伽藍は南面する、仁王門から本堂を望む、仁王門手前は墓地で、
            仁王門右手に多宝塔が建つ。
来迎院本堂:本堂は近年のRCC製と思われるも、屋根は銅板葺(丸の瓦棒)。

 ○来迎院多宝塔1  ○来迎院多宝塔2「X」氏ご提供画像。

642 播磨東光寺 . 図1
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本堂1
本2
本3
室町時代建立とされるも、細部は江戸期風な箇所もあり、江戸期に大改造されたと云われる。
一辺4m、高さ約13m。
大正初期の大修理で下層の一部・柱・縁廻りを補修、上層の屋根を鉄板で仮葺きする。軸部・ 斗栱部・相輪及び建具・須弥壇は創建当時の遺構とされる。塔は本堂右裏手の丘の中腹に建つ。
当寺は行基菩薩の開山とされ、真言宗。かっては東西12町、南北11町の寺域に地蔵院をはじめ7院・多聞坊をはじめ12坊があり、門前村を有した。現在は地蔵院のみが残り現本坊である。
なお本堂(室町・重文)は桁行5間・梁間5間の一重・寄棟造・本瓦葺の和様を主体とした折衷様の貴重な遺構とされる。
○図1〜本3は2003/10/18撮影
○2001/11/3撮影:
 播磨東光寺多宝塔1      同      2      同      3       同      4
   同     本堂1       同      2
643 紀伊慈尊院 .

画1
画2
画3
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画5
画6
画7
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画9
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現在の塔は室町期の建立で、江戸期に大改造されたとされる。
もともと弘法大師の建立と伝え、炎上後再建されるも、再建塔は天文の洪水で流失し、その後今の地に再建されたのが現在の塔婆という。
以上は寺伝といい、中西亨の諸著作では以上のように云う。
 一方、「塔をゆく 第3巻 多宝塔」では次のように云う。
京都東寺の衆徒に慈尊院が焼かれた後、文明10年(1478)信州の妙音尼が私財を投じ多宝塔の再建に着手する。ところが初重の完成した頃、明応3年(1494)丹生都比売明神が焼失し、宮大工は皆神社の再建にかかり、塔は未完のままであった。その後天文9年(1540)の紀ノ川洪水の時には未完の塔は今の位置に移され、その後工事が再開され、漸く寛永年中(1624-43)に完成するという。
 一辺4.65m、総高16mの中型塔。本尊は胎蔵界五仏。
現在は補修が十分でないようで、いささか荒廃する。相輪も少々傾斜し、銅板葺きの屋根は錆が浮く。相輪から四方の宝珠に下がる宝鎖は全部切れる。
 慈尊院は九度山にあり、弘法大師の御母堂を祀る。本堂(弥勒堂)は鎌倉期の建築で重文。本尊弥勒菩薩は国宝。中世は下政所として大きな権力を有する。当院から大門を経て壇上伽藍に至る大門口は空海によって開かれた最初の表参道で、180の町石がある。この宝塔の背後左の石段途中に起点となる町石がある。なおこの表参道を数十町進んだ天野の丹生四所明神(天野社)にも多宝塔があり、明治維新の神仏分離で棄却されたと伝える。
○紀伊国名所図会 三編巻之4より:
記事:「二重塔(拝堂の西にあり。本尊大日如来。この塔弘仁年中大師創造なり。後炎上して田所某再建す。また天文の洪水に流亡し、また再造せり)」・・・現存塔婆
 慈尊院全図:2017/09/02画像入替
2001/07/21撮影:
 紀伊慈尊院多宝塔1     紀伊慈尊院多宝塔      紀伊慈尊院多宝塔
 紀伊慈尊院多宝塔4
 紀伊慈尊院多宝塔本堂
2003/01/12撮影:
 左の欄、画1〜11である(平成24年の解体修理前である。)
  ※なお、高野山のページに慈尊院の絵図など数点あり。
2015/12/18追加:
平成24年(2012)多宝塔解体修理竣工。
(株)西澤工務店>慈尊院多宝塔保存修理工事のページを 拙サイトに転載する。
 転載:慈尊院多宝塔保存修理工事
2019/02/14撮影:
 下重は中央に四天柱を立て須弥壇を置き、四面とも中央間は桟唐戸、両脇間は板壁と連子窓とし、四周に擬宝珠高欄付きの縁を設ける。
従来、古記録に寛永元年(1624)に塔が完成したと記されていたため、下重は木柄が非常に太く木鼻等の彫刻類は室町後期の様式を示すのに対し、上重は木柄が細く時代は少し降降るため、約百年を要して竣工したと考えられていた。
しかし、平成24年(2012)解体修理調査において、次のような事実が判明する。
即ち、室町後期には、尾垂木入りの三手先組物とする三重塔として初重が組み上がったが、中断し仮屋根をかけた建掛塔の状態で存続させてきた。
寛永元年にこの初重部を多宝塔の下重部分として出組という構造に改造し、上層を新たな多宝塔として新築したのがこの多宝塔であると判明した。
つまり、本多宝塔は室町後期の三重塔から江戸前期に多宝塔に造り替えられたという稀有な履歴を持つということである。
 ※詳細や具体的事象は、「保存修理報告書」などの文献などを手にしていないので、未詳である。
 ※上述の「塔をゆく 第3巻 多宝塔」での記述は、修理工事調査で判明した新しい事実に、
 一面では沿うものであろう。
 慈尊院多宝塔11     慈尊院多宝塔12     慈尊院多宝塔13     慈尊院多宝塔14
 慈尊院多宝塔15     慈尊院多宝塔16     慈尊院多宝塔17     慈尊院多宝塔18
 慈尊院多宝塔19     慈尊院多宝塔20     慈尊院多宝塔21     慈尊院多宝塔22
 慈尊院多宝塔23     慈尊院多宝塔24     慈尊院多宝塔25     慈尊院多宝塔26
 慈尊院多宝塔27     慈尊院多宝塔28     慈尊院多宝塔29     慈尊院多宝塔30
 慈尊院多宝塔31
慈尊院築地塀
天文9年(1540)の紀ノ川洪水による旧慈尊院境内流失時には、既に建てられていたようである。(「紀伊続風土記、高野春秋)
塀は現在三方延長116m、棟高2.9mと非常に大規模なものである。
北門も頭貫木鼻や蟇股の形状から築地塀と同時期の建立と思われる。
 慈尊院北門1     慈尊院北門2     慈尊院築地塀     慈尊院弘法大師堂
 慈尊院鬼子母神堂
弥勒堂:重文、鎌倉後期。
 慈尊院弥勒堂拝所1     慈尊院弥勒堂拝所2     慈尊院弥勒堂1     慈尊院弥勒堂2
 慈尊院鐘楼           慈尊院客殿等

参考
◆神通寺七社明神:丹生官省符神社
 弘仁7年(816)空海によって慈尊院とともに丹生高野明神社として紀ノ川河畔に創建されたという。(社伝)
また、この社には神通寺及び七社を祀るが、七社のうち丹生・高野の両神は弘仁年間に空海が勧請し、十二王子と百二十番神の2社が同時に勧請され、気比・厳島の2神は文明年間に勧請されたという。これらの社は天文年間の洪水によって境内が流失し、現在地に移転するという。(紀伊続風土記)
 空海が真言密教の根本道場を求めて、大和国宇智郡に入ったとき、狩場明神(高野御子大神)に高野山の存在を教えられ、狩場明神はその使いである白・黒二匹の犬に空海を高野山まで導かせる。この縁により、空海は高野山の地主神狩場明神とその母である丹生都比売大神を高野山の入り口である当地に祀ることとしたという。(社伝)
昭和21年附近の諸社を合祀し、丹生官省符神社と改号する。
主祭神は丹生都比売大神、高野御子大神(狩場明神)、大食都比売大神、市杵島比売大神の四神であり、太神宮(アマテラス)、八幡宮(八幡大菩薩)、春日明神(天児屋根大神)の三社を祀り、神宮寺の神通寺をあわせ神通寺七社明神と呼ばれていた。
 →神通寺七社明神の絵図などは天野社(丹生都比賣神社)を参照。
現在、本殿には以下の諸神を祀るという。
第一殿
丹生明神:アマテラスの妹、高野明神:丹生都比売の子、アマテラス
第二殿
気比明神(大食都比売)、八幡大菩薩、春日明神(天児屋根)
第三殿
嚴島明神(市杵島比売)、その他
2019/02/14撮影:
 神通寺七社明神参道・鳥居:中央は慈尊院北門
 神通寺七社明神本殿:明治の神仏分離で多くの堂舎・社殿が配され、その結果現在の3殿となる。
本殿は向かって右から第1殿・第2殿・第3殿である。何れも一間社春日造で屋根檜皮葺であり、社殿規模は3殿とも同一である。第1殿・第2殿は永正14年(1517)の再建で旧社地から移され(墨書)、第3殿は天文10年(1541)の再建である(棟札)と判明している。何れも重文指定。
 神通寺七社明神第1殿1    神通寺七社明神第1殿2
 神通寺七社明神第2殿1    神通寺七社明神第2殿2    神通寺七社明神第2殿3
 神通寺七社明神第2殿4
 神通寺七社明神第3殿1    神通寺七社明神第3殿2    神通寺七社明神第3殿3
参考
◆紀伊勝利寺
弘仁6年(815)弘法大師42最の時、十一面観音を奉納という。
仁王門は安永2年(1773)の建立という。神通寺七社明神の裏手にある。
 勝利寺門前石階     勝利寺仁王門     勝利寺本堂     勝利寺地蔵堂
現在は無住であり、客殿などは改装されている。
 勝利寺旧長屋門・旧客殿:庫裡は長屋門の陰で写らない。     勝利寺旧客殿玄関
644 播磨無量寿院(東京よみうりランド) . 播磨無量 寿院・よみうりランド多宝塔
645 旧紀伊光台院
(藤田美術館)
. 桃山期の建立。大正5年移建。元高野山光台院の塔。
高野山光台院・藤田美術館多宝塔
646 摂津勝鬘院 重文

図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
金堂

慶長2年(1597)年建立。 <元和4年(1618)説もあり。>
 ※相輪銅板銘文には文禄3年(1594)再興とある。心柱(?)継手には元和6年(1620)片桐主膳正奉行とあるという。
一辺6.43m、高さ22.44m。現存の古塔の中では下野鑁阿寺多宝塔、備後浄土寺多宝塔と並ぶ大きさの規模といわれる。
昭和20年の空襲に焼失を免れる。寺町の南端、上町台地上に立地する。
四天王寺別院の一つで、本堂には愛染明王を祀る。
○2013/08/04追加:
豊臣秀吉・秀頼による慶長2年建立説に対して、元和4年(1618)説がある。
◆「四天王寺の慶長再建について」木村 展子(「美術史論集 (9)」2009-02 所収) より
 勝鬘院は四天王寺の子院であるが、勝鬘院多宝塔の銅板銘に「慶長二丁酉歳春午日再工/総棟梁金剛匠/冶工大谷三郎正次以下/二十一人相輪組立」とあるいう ことから、慶長2年建立とされる。しかし、秀吉・秀頼による再建であるという一次資料はなく、心柱継手からは「元和四年庚申九月十日/御奉行片桐主勝正」という墨書が発見されている。
 ※銅板は多宝塔に雷除けとして附属するようであるが、その位置は不明。
勝鬘院多宝塔の建築様式は、三間四方で初重は円柱、組物は出組、中備は暮股、二重目は、組物は四手先、本瓦茸、内部は四天柱に来迎壁を設けその前に仏壇を置く。天井には折上小組格天井を張り、内部全面に十二天像や装飾文様を描く。全国でも最大規模の多宝塔であり、暮股に十二支を入れるのが特徴的である。また、二重目の組物を肘木・尾垂木などほぼすべてを禅宗様とし、初重脇間の柱間装置を花灯窓とするなど禅宗様色が強い。
 ところで、十二支の彫刻を入れた暮股は近世初期以降に見られ、本多宝塔が慶長2年の建立であるとすれば勝鬘院多宝塔はそのもっとも早い例である。その後の十二支の彫刻を入れた建築は、圧倒的に徳川氏の造営になるものが多い。十七世紀の建築に限っても、
・陸奥瑞巌寺五大堂<慶長9年(1604)伊達政宗建立>、
池上本門寺五重塔<慶長13年(1608)徳川秀忠建立/正心院日幸尼(秀忠乳母)建立>、
日光山新宮権現本殿<二荒山神社本殿、元和5年(1649)徳川秀忠建立> ・・この詳細は不詳、
・鎌倉英勝寺仏殿<寛永13年 (1636)徳川家康側室英勝院建立>、
・徳川家菩提寺東叡山寛永寺五重塔<寛永16年(1639)土井利勝建立>、
美農南宮山高舞殿<寛永19年(1642)徳川家光建立>、
武蔵西福寺三重塔<元禄6年(1693)徳川家光長女千代姫建立> が知られる。
さらに、昭和20年焼失塔であるが、浅草寺慶安再興五重塔<慶安元年(1648)徳川家光の再建>がある。
 一方、豊臣秀頼造営の寺社の中には十二支の彫刻をもつものは一棟もない。これらを考えると、勝鬘院多宝塔は心柱墨書にある元和4年(1618)に徳川氏によって再建されたものであると考えるのが妥当だと思われる。
 ※参考:18世紀以降の初重各間に十二支の彫刻を施した蟇股を置く塔婆は以下が知られる。
 下野高勝寺三重塔:寛延4年(1751)江戸神田の講中が建立。
 日光山本宮権現三重塔:四本竜寺、正徳3年(1713)再興。
 日光東照大権現五重塔:文政元年(1818)酒井忠進による再興。
 谷中感應寺五重塔:寛政3年(1791)再建。昭和32年焼失。
 芝増上寺五重:文化年中酒井氏による再興。昭和20年焼失。
また平成21再興身延山五重塔は初重各部の蟇股に十二支をあしらい、その原画は「この塔を建てた御大工鈴木近江守長次の系譜をたどり」作成したものと云う。
○「摂津名所圖會」より:多宝塔(部分図)
記事:「多宝塔(院中にあり。二層塔なり。大聖金剛を安置す。)」
○2000/10/09撮影:
 攝津勝鬘院 1  攝津勝鬘院 2   勝鬘院本堂・多宝塔
2003/09/28撮影:
 図1〜図8、金堂写真
○2008/12/12撮影:
 勝鬘院多宝塔11   勝鬘院多宝塔12   勝鬘院多宝塔13   勝鬘院多宝塔14
 勝鬘院多宝塔15   勝鬘院多宝塔16   勝鬘院多宝塔17   勝鬘院金堂
647 播磨朝光寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
図10
慶長6年(1601)建立。宝永7年(1710)改造とされる。 一辺5.12m、高さ約15m。露盤銘に慶長6年再興とあると云い、池田輝政の造営と伝える。
山門の正面が本堂で右奥に鐘楼、塔は山門の右に建つ。新材が目立つとはいえ、圧倒的な本堂の存在感の前でこの中型塔は、残念ながら、損な役回りと思われる。なんとなく凡庸とした印象 しか残らない。
鹿野山と号する。高野山真言宗。現在は吉祥院・総持院で維持される。白雉2年(651)法道上人が開創すると伝える。文治5年(1189)現在地に後の権現山から移転したとされる。
図1〜10は2001/11/03撮影画像。
図6−8:本堂(国宝)は室町期(内陣厨子は応永20年の銘がある)の桁行7間梁間7間単層寄棟造本瓦葺の大堂である。和様に唐様を取り入れた折衷様の密教本堂の典型として貴重な遺構とされる。(正面向拝は文政12年の後補)。
図9:鐘楼は鎌倉後期の様式を残すとされ重文指定。
図10:「ツクバネの滝」、山門前に位置し、ほぼ平地にある瀧であり、珍しいものである。
2010/11/07撮影:
播磨朝光寺多宝塔11    播磨朝光寺多宝塔12    播磨朝光寺多宝塔13
播磨朝光寺多宝塔14    播磨朝光寺多宝塔15    播磨朝光寺多宝塔16
播磨朝光寺多宝塔17    播磨朝光寺多宝塔18    播磨朝光寺多宝塔19
播磨朝光寺多宝塔20    播磨朝光寺多宝塔21    播磨朝光寺本堂11
播磨朝光寺本堂12    播磨朝光寺本堂13    播磨朝光寺本堂14    播磨朝光寺本堂15
播磨朝光寺鐘楼11    播磨朝光寺鐘楼12    播磨朝光寺鐘楼13    播磨朝光寺鐘楼14
播磨朝光寺仁王門     播磨朝光寺吉祥院     播磨朝光寺総持院
○2014/12/13追加:
「加東郡誌」加東郡教育会、大正12年(1923)
 播磨朝光寺多宝塔
白雉2年法道仙人開基。朱印寺領40石。本堂・庫裡・多宝塔を有する。
塔中:古は47軒あり。
総持院:本堂・庫裡     吉祥院:本堂・庫裡
648 山城安楽寿院 . 山城安楽寿院
649 備中遍照寺 重文 図1

01

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08
慶長11年(1606)建立。一辺4m弱、高さ約15m。
現在亀腹は本瓦葺であるが、かつては漆喰であったものを、明治の修理のとき改変したと云う。
内部の天井・壁・柱などには装飾文様・絵画が極彩色で描かれる。
 遍照寺は市街地再開発のため、駅南の埋立地に移転するも、塔のみ現在も旧市街(寺町)の旧地に残る。国指定の重文で現状変更がままならぬ為と云う。
遍照寺は行基の開基と伝える。真言宗。移転前までは広大な伽藍地を有し、参道があり、吉祥院、南昌院、観照院などの子院があったと云う。
○ページ:「光明山遍照寺 門前町笠岡の中核寺」では以下のように云う。
遍照寺の移転(by駅前区画整理事業)
 遍照寺のかつての寺中、末寺は次のとおり。
光明山西明院、同吉祥院、同南昌院、同観照院、同地福寺(以上寺中)、
末寺は仏性山海蔵寺=大仙院(下に写真掲載)、西明院末寺月性庵、阿弥陀山正福院(園井)、伝証山長寿院高称寺(吉田)、鳥羽山長法寺(大井)、神島山安養院(神島)、青島山自性院(同)、月照山日光寺(同)、教海山開竜寺(白石)、福厳寺(北木)、円福寺(真鍋)、三部山霊山寺(里庄)、不動院(同)、小田原山教積院(有田)、三宝院(篠坂)、西楽寺(坪生)、正堂院(同)、蓮乗院(八尋)、大覚寺末西光寺(稲木)、明星寺(大江)以上25 ヶ寺
 笠岡市は仁王堂の敷地2,883平方mを買収。延べ1,325平方mの建屋は移転、報償費4.6億。代替西の浜造成用地は5,118平方m(1.5千坪)大師堂・仁王門・鐘楼は移転、本堂と庫裏は新築とする。ただし、多宝塔と銀杏の木は当面現状のまま保存となる。
○サイト:「笠岡新旧ものがたり」>「光明山遍照寺」 より転載
 昭和30年代遍照寺:正面が遍照寺、左が寺中西明院、右が寺中南昌院、その奥の同吉祥院は写らず。
○「笠岡市史 巻3」より転載:
 明治5年笠岡村寺院配置
○ 2014/03/10追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/10/15撮影/ご提供:
 備中遍照寺多宝塔48     備中遍照寺多宝塔49
○図1は2000/12/25撮影、01〜08は2002/08/17撮影
○2013/02/03撮影:
 備中遍照寺多宝塔11     備中遍照寺多宝塔12     備中遍照寺多宝塔13
 備中遍照寺多宝塔14     備中遍照寺多宝塔15     備中遍照寺多宝塔16
 遍照寺多宝塔俯瞰17     遍照寺多宝塔俯瞰18     遍照寺多宝塔俯瞰19
 遍照寺多宝塔俯瞰20     遍照寺多宝塔俯瞰21     遍照寺多宝塔俯瞰22
 遍照寺多宝塔俯瞰23     遍照寺多宝塔俯瞰24     遍照寺多宝塔俯瞰25
 遍照寺多宝塔俯瞰26     遍照寺多宝塔俯瞰27     遍照寺多宝塔俯瞰28
 遍照寺多宝塔俯瞰29     遍照寺多宝塔俯瞰30     遍照寺多宝塔俯瞰31
 遍照寺多宝塔俯瞰32
 遍照寺多宝塔下重33     遍照寺多宝塔下重34     遍照寺多宝塔下重35
 遍照寺多宝塔下重36     遍照寺多宝塔下重37     遍照寺多宝塔下重38
 遍照寺多宝塔上重39     遍照寺多宝塔上重40     遍照寺多宝塔上重41
 遍照寺多宝塔上重42
 遍照寺多宝塔相輪
 遍照寺多宝塔脇石碑:落慶供養のため法華経を読誦したことを記すと云う。
 遍照寺寺中観照院:本寺遍照寺及寺中西明院、吉祥院、南明院は近隣に移転する。寺中観照院のみ元地に残る
大仙院は佛性山海蔵寺と号する。元禄元年(1688)政範上人が伯耆大山より智明大権現(本地は地蔵菩薩)を勧請して開基する。宝永年間(1704-)火災焼失、元文2年(1737)堂宇を再建す。遍照寺末である。
 備中大仙院山門     備中大仙院本堂
○2018/04/08撮影:
多宝塔全景
 遍照寺多宝塔全景11     遍照寺多宝塔全景12     遍照寺多宝塔全景13
 遍照寺多宝塔全景14     遍照寺多宝塔全景15     遍照寺多宝塔全景16
 遍照寺多宝塔全景17     遍照寺多宝塔全景18     遍照寺多宝塔全景19
 遍照寺多宝塔全景20     遍照寺多宝塔全景21     遍照寺多宝塔全景22
 遍照寺多宝塔全景23
多宝塔下重
 遍照寺多宝塔下重24     遍照寺多宝塔下重25     遍照寺多宝塔下重26
 遍照寺多宝塔下重27     遍照寺多宝塔下重28     遍照寺多宝塔下重29
 遍照寺多宝塔下重30     遍照寺多宝塔下重31     遍照寺多宝塔下重32
多宝塔上重
 遍照寺多宝塔上重33     遍照寺多宝塔上重34     遍照寺多宝塔上重35
 遍照寺多宝塔上重36     遍照寺多宝塔上重37     遍照寺多宝塔上重38
 遍照寺多宝塔上重39     遍照寺多宝塔上重40     遍照寺多宝塔上重41
 遍照寺多宝塔上重42
多宝塔相輪
 遍照寺多宝塔相輪43     遍照寺多宝塔相輪44
650 摂津長遠寺 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10

本堂本2本3
慶長12年(1607)建立。 本瓦葺き。一辺3.95m、高さ15.4m。基本的に和様の意匠であるが一部唐様を混用する。桃山様の蟇股を各中央間中備に用いる。
市場巽(旧境内地・現東町)に正面を西にして建立、元和3年(1617)尼崎城築城にともない現在地に移転、移築時に正面が東に変更される。(これは阪神淡路大震災後の保存修理の解体によって判明と云う。)
内部は 来迎柱・来迎壁・須彌壇があり、須弥檀上に釈迦如来を安置、その両側には千躰の仏像が祀られる。また須彌壇には天女の図、南側扉内部には如来像、北側扉内部には愛染明王像・不動明王像が描かれる。
2000/10/09撮影:摂津長遠寺多宝塔
2003/09/21撮影:図1〜本3画像
2012/10/30撮影:
 尼崎長遠寺多宝塔31   尼崎長遠寺多宝塔32   尼崎長遠寺多宝塔33   尼崎長遠寺多宝塔34
 尼崎長遠寺多宝塔35   尼崎長遠寺多宝塔36   尼崎長遠寺多宝塔37   尼崎長遠寺多宝塔38
 尼崎長遠寺多宝塔39   尼崎長遠寺多宝塔40   尼崎長遠寺多宝塔41   尼崎長遠寺多宝塔42
 尼崎長遠寺多宝塔43   尼崎長遠寺多宝塔44   尼崎長遠寺多宝塔45   尼崎長遠寺多宝塔46
 尼崎長遠寺多宝塔47   尼崎長遠寺多宝塔48   尼崎長遠寺多宝塔49   尼崎長遠寺多宝塔50
 尼崎長遠寺多宝塔51   尼崎長遠寺多宝塔52
○大堯山長遠寺: 日蓮宗大堯山と号する。感応元年(1350)日恩上人開基、寺地は七ツ松という。往時は16坊を有する。
その後、巽(辰巳・現在の東本町)に再興され、法花寺と称するが、元和3年(1617)戸田氏の尼崎城築城に伴い現在地である寺町に移転。なお元亀3年(1572)織田信長「禁制」には「摂州尼崎内市場巽長遠寺」とあると云う。
 ※現存堂宇の年代から判断すると、多宝塔・客殿は巽から移建、本堂は移転時の建築、庫裏はその後の建築であろう。
六条本圀寺末、六条門流三長の一寺。塔頭として中正院がある。
元禄5年(1692)には5坊を有す、現在は中正院1坊だけが残るも、未見(本堂西側と推定されるも未確認)。
○「摂津名所圖會」に見る尼崎寺町・長遠寺多宝塔(部分図)
寺町:西から如来院・長遠寺・大覚寺・法園寺・甘露寺・広徳寺・本興寺・全昌寺と続く様が描かれる。挿絵中に長遠寺多宝塔が見える。
○2014/09/02追加:「大阪春秋 58号」大阪春秋社、平成元年 より
 尼崎城下風景図;<文化文政期>部分図、向かって左半分は尼崎城及びその城下が描かれるが、この左半分は省略して掲載。
描かれる初島神宮の石燈篭は文化12年(1815)寄進といい、本興寺多宝塔は文政5年(1822)焼失というから、文化12年から文政5年の間の描写であろうと推定される。大きさは横243cm、縦72cm。尼崎市蔵。
 ※但し、初島神宮の石燈篭とは図中のどれかはよく分からない、そもそも当時の初島神宮の所在が良く分からない。
本図には尼崎本興寺伽藍(多宝塔)が描かれ、その西に寺町の景観が描かれる。本興寺西の表通りには東から廣徳寺、甘露寺、法園寺、大覚寺と続き、その西隣が長遠寺で多宝塔が描かれる。
2012/10/24追加:
 寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
  「明治29年、寺中本妙院移転、覚智山本妙院として兵庫県神戸市中央区野崎通4−1−18に現存。」
○本堂:重文、5間×6間、入母屋造本瓦葺、正面一間に 向拝を付設、慶長3年(1598)と元和9年(1623)の棟札があるが、昭和56〜58年の修理で元和9年の建築であると確認される。
鐘楼は寛永14年(1627)建立、客殿は慶長16年(1611)建立、桁行七間半、梁間五間半、入母屋造、平入り、本瓦葺、庫裏は寛文8年(1668)建立、桁行七間、梁間六間、切妻造、本瓦葺。
2012/10/30撮影
 尼崎長遠寺本堂21   尼崎長遠寺本堂22   尼崎長遠寺本堂23   尼崎長遠寺本堂24
○鐘楼:3間×2間、袴腰付、入母屋造り、屋根本瓦葺、棟札から寛永14年(1627)建立、寛延3年(1750)屋根葺替と判明する。
 尼崎長遠寺鐘楼1    尼崎長遠寺鐘楼2    尼崎長遠寺鐘楼3    ○客殿:7間半×5間半、平入入母屋造、屋根本瓦葺。棟札によって慶長16年(1611)建立、宝永4年(1707)の大地震で倒壊する。多くの改造を受けるも、桃山期の特徴を引継ぐ。
 尼崎長遠寺客殿
○庫裏:7間×6間、切妻造、屋根本瓦葺、妻正面に大戸口を開け、8畳3室、6畳3室、12畳1室と台所、土間で構成される。平成5年の修理で寛文8年(1668)の墨書 が発見される。
 尼崎長遠寺庫裏
○その他:
 尼崎長遠寺妙見社1   尼崎長遠寺妙見社2    尼崎長遠寺七面大天女
651 摂津永福寺
(狭山山不動寺)
. 摂津永福寺(畑山神社)多宝塔
以上室町〜桃山期の多宝塔
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