現存する五重塔の概要:明治以降

現存五重塔の概要:明治以降

名称・場所 国指定 画像 備  考
523 讃岐善通寺 . 讃岐善通寺
524 出羽善宝寺(鶴岡) . 図1
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明治26年(1893)建立。 魚鱗一切供養塔として信仰される。一辺5.4m、総高38m。軸部は和様で組物は唐様を基調とする。本尊は五智如来。
高橋兼吉の建築と云う。心柱は懸垂工法を採る。
天慶年中(938-)妙達上人開基とする。今は曹洞宗の大禅刹。三河豊川妙厳寺大雄山最乗寺と並ぶ曹洞宗の三大祈祷所と云う。近世には能登総持寺直末であった。現在、幕末から明治の建立になる大本堂、竜王殿、総門、三門、弥勒堂、五百羅漢堂などの伽藍を備える。
※懸垂工法:寛政3年(1791)谷中五重塔(焼失)、文政元年(1818)日光山五重塔
明治修理・中山法華経寺五重塔、明治35年讃岐善通寺五重塔などに見られる。
2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 善宝寺山門・五重塔:絵葉書、昭和10年6月28日の記念印と云う(「Y」氏)
2012/07/02撮影:絵葉書:何れも撮影時期不詳。
 下川善宝寺五重塔遠望     庄内善宝寺五重塔     大山善宝寺五重塔
525 相模龍口寺 . 片瀬龍口寺・本蓮寺
526 讃岐本山寺 . 図1
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本尊
塔堂1
同2
本堂1
同2
同3
仁王門
明治43年再建塔。塔創建は大同年間に遡るという。本尊は五智如来(中央は大日如来)。
一辺4.26mで極端に塔身の細い塔である。
当寺は大同2年(807)弘法大師の創建とされ、四国88ヶ所第70番札所。今なお多くの堂宇を有する巨刹である。
本堂(鎌倉期・桁行5間、梁間5間、寄棟造本瓦葺・国宝)と仁王門(八脚門・鎌倉期・桁行3間、梁間2間、切妻・重文)を有する。
なお塔脇に「金毘羅参詣名所圖會」に描かれていた「塔堂」が(おそらくそのまま)残されている。これは再建前の塔の廃材で建立された堂のようです。
「金毘羅参詣名所圖會」:本山宝持院長福寺(本山寺、持宝院が正)
大塔の跡(本堂の右の傍にあり。小堂を建つる)
大同年間、弘法大師建立の伽藍。天正の兵火で悉く焼失。しかれども本堂は恙無く存する。
伽藍図(部分図)
527 大和長谷寺 . 大和長谷寺
528 備後耕三寺 . 昭和31年竣工。 瀬戸田耕三寺五重塔・多宝塔
529 奥多摩愛宕山 . 図1
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昭和31年建立。一辺約3m。愛宕神社に隣接するが、神社の塔ではなく、地元民が建てた戦没者慰霊の五重塔である。RC造、粗雑な造作で特に論ずるに足らない。
 ※旧氷川町が戦没者178人を合祀して成立すると云う。(ミニ靖国神社であり国家神道の亡霊であろう。)
この愛宕山山頂には、「戦没者奉 祠靖国の塔」との塔婆名称を持つRC造の仏塔、愛宕権現ではなく愛宕「神社」と称するRC造の社、大正2年山形有朋元帥書の「忠魂碑」、「題目碑」(もっとも昭和30年日本山妙法寺の建立であるが、この地に建立すると国家主義と結合した題目と錯覚する)が揃う。醜悪そのものの雰囲気である。
530 摂津四天王寺 . 昭和34年再建塔。 攝津四天王寺
531 富士吉田新倉山 . 図1
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昭和38年(1963)建立、高19.5m。RC造。今次侵略戦争犠牲者の慰霊塔である。 軍服・大元帥・明治大帝銅像などがある。国家神道の極みのような施設に仏塔はそぐわない。
新倉山は富士山北口に対峙し、途中に新倉浅間社(何時の時代の建立か良く分からない)があるので、元々は富士浅間権現の関係地であるのかも知れない。
甲斐新倉浅間権現社
(あいにく曇天・小雨模様で)富士山の眺望は全くないのが残念であるが、それでも富士吉田市街地が一望される。
富士吉田市街地遠望
なお、ここから程遠くないところに北口富士浅間権現がある。
532 沼津香貫山 . 図1
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昭和40年1965建。戦没者慰霊。高17m、鉄筋コンクリート製。
香貫山中腹の岡上にあり、どこからでも良く見えます。全体の形は優れていますが、残念ながら細部は省略され簡単な造りです。戦没者慰霊塔として建立される。
533 佐賀瀧光徳寺 . 11
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昭和40年(1965)建立、高22m、鉄筋コンクリート。佐藤篤二郎(九州電力社長)の寄進と云う。
RCではあるが、造作は丁寧で、和様の意匠を忠実に表現する。塔に至る階段途中に拝殿を設ける。
 大本山瀧光徳寺発行「参拝のしおり」より:瀧光徳寺五重塔
瀧光徳寺は大正10年建立、中山身語正宗大本山、中山ニノ瀧と称する。山中の広大な境内に大建築が並び、おそらく数十棟の堂宇や数ヶ院の塔頭が並び、現在も新しい堂宇が建立されている 様子である。
一筋の尾根を越えた東に本福寺がある。画像は2011/04/12撮影。

 佐賀瀧光徳寺伽藍
 佐賀瀧光徳寺本堂1     佐賀瀧光徳寺本堂2     佐賀瀧光徳寺本堂3
 佐賀瀧光徳寺本堂4     佐賀瀧光徳寺本堂5

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宮崎真栄寺 . . 昭和46年1971建立、総高29M。鉄筋コンクリート。
535 武蔵浅草寺 . 昭和48年再建。 浅草浅草寺
536 東京御殿山日本閣 . 図1
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日本閣八王子御殿山店五重塔、御殿山ウェディングパレス日本閣。
昭和49年(1974)建立。(八王子市)
高さ約14m、 一辺1.82m、銅板葺。小型塔で極めて近世風なプロポーションを持つ。
基本的には和様を用いた木造建築と思われます。内部には心柱が通ると云う。
洋風を基本にしたウエディングパレルですが、和風庭園と神殿?を持ち、和風庭園には瀧を配し、急な崖上に塔を建立する。塔に関する「謂れ」は特に無いとのことですから、単に庭園の風景として五重塔を建立したものと思われます。立地する御殿山という地名も特に「謂れ」は無いとのことです。
537 讃岐志度寺 . 図1
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本堂
1975年建立。一辺4.36m、総高33m、木造総檜製。本尊は胎蔵界大日如来。備後明王院をモデルとしたようです。そのため復古調の本格塔婆です。
棟梁は摂津鏑射寺三重塔の造作で急遽棟梁を務めた人見立一氏という。摂津鏑射寺三重塔の項を参照。
四国88ヶ所第86番札所。本堂(寛文10年1670、重文)、仁王門(寛文10年1670、重文)、木造十一面観音菩薩立像(重文)、絹本着色十一面観音像(重文)、絹本着色志度寺縁起絵図(重文)などの什宝を有する。
2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
志度寺縁起絵図之一部:絵葉書、三重塔が描かれています。
絹本着色「志度寺縁起絵図六巻」は重文。
538 和歌山白浜金閣寺 . . 1976年建立、総高23m、鉄筋コンクリート。写真で見る限り醜悪な建築と思われる。
539 武蔵雲竜寺 . 図1
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昭和52年完成、高さ約40m。唐門の上に塔は建つ。主構造は鉄板で、細部はプラスチックで造作すると云う。初重には達磨大師坐像(坐高6m)、二重には口径5尺胴張6尺の大磬(だいけい)、三重には四天王像、四重には十大弟子、五重には仏舎利1粒を祀る(安置)と云う。五重まで昇降可能と思われる。
雲龍寺は天正8年(1580)八王子宿本郷村に創建される。明治31年足利正山住職により再興され、昭和38年現在地に移転。南大門、唐門、北大門、本堂・・・などの堂宇を有する。曹洞宗。天海山と号する。
五重塔を初めとする建築や境内や堂宇には塔初重の達磨大師を初めとする雑多なゲテモノが目に付くが、何を意味するのかは全く分からない。当寺は数多くの保育所、診療所、老人ホーム、墓苑などを営むと云われ、境内は正気の沙汰とは思えないが、案外計算高いか正気であるのかも知れない。
図1〜図2は「x」氏ご提供画像
2011/02/20撮影:
 武蔵雲龍寺五重塔1     武蔵雲龍寺五重塔2     武蔵雲龍寺五重塔3
 武蔵雲龍寺五重塔4     武蔵雲龍寺五重塔5     武蔵雲龍寺五重塔6
540 熊本蓮華院誕生寺奥の院 , 塔1
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塔5
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塔7
塔8
昭和53年(1978)建立高51.5m、RC造。
塔そのものが堂の積み重ねである。1重は本堂(本尊を祀る)、2重は写経道場、3重は護摩道場、4重は座禅道場、5重は望龍閣で皇円と開山上人の足跡を絵で示すと云う。そのため広い平面を持つ。
蓮華院誕生寺は真言律宗別格本山と称する。奥之院は昭和53年開創される。
 誕生寺奥之院仁王門    誕生寺奥之院鐘楼    誕生寺奥之院護摩堂
 誕生寺奥之院阿閦堂    誕生寺奥之院弥勒堂
541 武蔵金剛寺
 (高幡不動)
. . 昭和54年(1979)建立。鉄筋コンクリート 製。塔高39.8m、総高45m、復古調の和様を擬す、屋根銅瓦葺。地下は寺宝館で、五重小塔2基も安置と云う。
真言宗智山派2別格大本山の一つ。高幡山金剛寺と号す。
平安初期、慈覚大師円仁が、山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したと伝える。
 ※不動明王二童子像(重文、平安後期、康永元年修理)を残す。
建武2年(1335)大風により背後山中の堂宇が倒壊、康永元年(1342)山麓に移転する。
 ※紀伊根来寺学頭頼瑜の弟子頼縁は頼瑜の自筆本からの写本を持って鎌倉へ下向し、密教の拠点である鎌倉佐々目に居住する。武蔵高幡不動尊虚空蔵院儀海は頼縁が下向し流布した新義教学を学び、頼瑜の聖経を精力的に写本する。これが高幡不動に伝わる。
儀海は若年の時上京し、その後武蔵に帰り、武蔵由井横川慈眼寺で写本をする。慈眼寺は談義所であり、本山から離れた場所で人々を教化する場所であった。さらに儀海は高野山に登り、奥州を巡り修学し、根来寺中性院に止宿し、頼瑜の自筆本の写本を行う。頼瑜の聖教は信頼され、急速に地方に伝播する。
安永8年(1779)大日堂等多くの堂宇を焼失。
2008/10/31追加:「O」氏ご提供画像
 高幡不動五重塔1   高幡不動五重塔2   高幡不動五重塔3   高幡不動五重塔4
2009/10/07追加:「O」氏ご提供画像、2008/01/04撮影
 武蔵金剛寺五重塔11     同      12     同      13     同      14
   同        15     同      16     同      17     同      18
   同        19     同      20
 武蔵金剛寺五重小塔:2基あり、写真不鮮明、写真両端が五重小塔。小塔の詳細は不明。
 ・舎利塔:元文5年(1740)か?
 武蔵金剛寺舎利塔1    同        2    同        3
 ・不動堂(重文、建武2年倒壊、康永元年(1361)山中より移建・建立と云う)
 武蔵金剛寺不動堂1    同        2    同        3
 ・仁王門(重文、室町、昭和34年解体復原の折、単層から楼門に変更・屋根銅板葺に変更)
 武蔵金剛寺仁王門1    同        2    同        3
2011/02/20撮影:
 武蔵金剛寺五重塔51    武蔵金剛寺五重塔52    武蔵金剛寺五重塔53
 武蔵金剛寺五重塔54    武蔵金剛寺五重塔55    武蔵金剛寺五重塔56
 武蔵金剛寺五重塔57    武蔵金剛寺五重塔58    武蔵金剛寺五重塔59
 武蔵金剛寺五重塔60    武蔵金剛寺五重塔61    武蔵金剛寺五重塔62
 武蔵金剛寺五重塔63    武蔵金剛寺五重塔64    武蔵金剛寺五重塔65
 武蔵金剛寺五重塔66    武蔵金剛寺五重塔67    武蔵金剛寺不動堂21
 武蔵金剛寺不動堂22    武蔵金剛寺不動堂23
2013/02/15追加:「O」氏提供情報
2011年東日本大震災被害;宝珠と竜車一体の部品が落下(銚子円福寺と同じ)
 
直後にクレーン車で落下部の現状調査、クレーン車での作業だけでは無理と判断したのであろう、2011/ 6月末より足場を掛け、相輪及び塔全体を修理、同年10月中旬修理工事竣工。
ブログ:「ちびたの気まぐれ日記」>2011年07月21日 に工事中外観の以下の写真掲載がある。
 五重塔修復工事立看板     五重塔修復工事外観1     五重塔修復工事外観2
なお、設計と総監督・指揮は渡邊保忠(早稲田大学名誉教授)。外観の組物・垂木などにはプレキャストコンクリートが多用されると云う。内部は螺旋階段が五重まで設置されると云う。
 2011/03/11東日本大震災塔婆破損情報(「O」氏提供情報)
     :江戸浅草寺銚子円福寺、武蔵高幡不動金剛寺、下総仁王尊観音教寺
542 土佐竹林寺 . 土佐竹林寺三重塔跡・五重塔
543 甲斐定林寺 . 図1
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昭和56年(1981)落慶。高さ17m。構造は鉄骨・外装は木造仕上 と云う。但し組物など正規の仕様ではない。屋根銅板葺。
階段付で最上階に上れる構造(各階には床を張る)で、五重に本尊を安置と云う。工事予算4000万円。
日蓮宗、慧光山と号する。甲斐休息立正寺、甲斐石和遠妙寺などと同じく、文永年中(1264-)日蓮上人の来錫があり、日蓮上人の草創と伝える。日蓮上人の霊跡「二子塚」 (鬼子母神)がある。
近世は徳川田安家の祈願所となる。
山門・本堂・祖師堂・鐘楼・庫裏・二子堂その他を備える。
八代定林寺二子堂:鬼子母神を祀る。     八代定林寺本堂
544 陸奥定義如来西方寺 . 01
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○工期:5年3ヶ月(昭和61<1982>年10月落慶)○様式:純和様木造五重塔○高さ:約29メートル
○一辺は初重:15尺3寸6分、ニ重:13尺9寸2分、三重:12尺4寸6分、四重:11尺4分、五重:9尺6分 本尊阿弥陀如来坐像
○構造塔身:総青森ひば白木造、屋根:青森ひば・こけら葺き、相輪:青銅製。
五重塔は「西方寺の開祖」とも言うべき平貞能公(後に定義と改名)の菩提を弔い、御報謝の意を捧げ、未来永劫の人類の平和を祈念するシンボルの塔」(「定義如来」サイトから転載)として建立される。
定義如来五重塔:「定義如来西方寺」様ご提供。
定義如来五重塔1     定義如来五重塔2「x」氏ご提供画像
○資料館「定義玉手箱」(平成2年開設)に五重塔1/10模型がある。(阿部建設<株>)・・・・・見学を失念し未見。
○浄土宗、極楽山西方寺と号する。
本尊は蓮糸曼荼羅一軸の阿弥陀如来画像(立像)で、安元年間(1175-77)に宋の育生山径山寺仏照徳元禅師から平重盛に送られたものと伝える。この像は治承2年(1178)平重盛 重篤の時、老臣の平貞能に与えらる。
平貞能、平氏滅亡後、従臣とともにこの尊像を奉り、この地に逃れ、建久9年(1198)没す。
従臣たちはこの地に堂宇を建立し阿弥陀如来像を奉祀したのが始まりと伝える。その後従臣の末裔早坂源兵衛が発心し、宝永3年(1706年)「観蓮社良念」と称し、「極楽山西方寺」を創立 する。
なお「貞能」の音「さだよし」は「定義」とも書くことが出来る。
 現在、定義山は都会から離れた地にあるも、この地方における殷賑な「流行仏」と見受けられる。但し、この流行の理由は全く分からない。
545 豊前大建寺 . 塔11
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宇佐市鳥越(宇佐郡安心院町):深見五重塔と称する。
昭和58年(1983)竣工、高27m(88尺、基壇面より)、一辺4.68m、鉄骨補強/木造、山城醍醐寺塔をモデルとする。松井建設(株)設計・施工。
会社経営者(安心院出身・糸永貞樹氏)が私財を投入して建立。
糸永氏は大正10年ユフ精器を設立し、後に財をなす。
大建寺は古代(平安期)に創建され、中世(鎌倉期)まで現在地付近に存在し、その後廃寺となると云う。しかし、如何なる文献や遺構・遺物に基ずくものか資料がなく、その真偽は不明とするしかない。
 大建寺五重塔:定樹山大建寺リーフレット より
2013/10/28撮影:
 豊前大建寺山門     豊前大建寺鐘楼     豊前大建寺持仏堂
なお、少し離れてはいるが付近に「仙の岩」と称する名勝がある。「仙の岩」は剣ヶ岳と云う大柱、100mと云う大絶壁や正面の平岩・大中小の屏風岩・大巌寺岩窟などがある。名前の由来は法道仙人の修行したので、 「仙の岩」と云う。当時から山岳佛教の修行地であったと云う。
大巌寺の本尊は仁聞作と云う千手観音であり、その脇仏には奥の仙から下した十数体の古木仏像(鎌倉期)などが安置されている云う。但し、大巌寺堂宇は途中で引き返したため、未見。
 「仙の岩」景観1     「仙の岩」景観2     「仙の岩」景観3     「仙の岩」景観4
 「仙の岩」大巌寺石門
546 夢の家北原 . 昭和60年(1965)落慶、夢の家北原五重塔
547 益田墓地公園 . 11
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昭和60年(1985)建立、総高20.3m、RC造。
食肉となった家畜供養のための塔。畜魂五重塔と称する。
(有)大久保養鶏場社長大久保束氏が発起人となり、広く浄財を集め、約1億円の費用で建立と云う。

本塔は山城醍醐寺と大分大建寺深見五重塔と近似するとの解説がある。
設計施工業者は不明なるも、大分大建寺との類似ということから松井建設(株)の建造とも推測される。
548 相模香林寺 . 図1
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画1
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昭和62年(1987) 完成、一辺4.5m、総高30.3m、屋根高20.7m、相輪9.6m
躯体RC造、化粧総木曽檜造で、様式はほぼ唐様を用いる。
塔本尊は印度で製作した石像「釈迦初転法輪像」、脱乾漆の四天王像、ニ重〜五重には木造の16羅漢像を安置。横浜天野工務店施工<創業天保五年(1834)>。
五重塔建立の碑には凡そ以下の文面が刻んであります。中世以来、昭和の戦後まで畑山地区は山村もしくは農村であった。昭和30年代の高度成長から宅地化の浪が押し寄せた。当地区は秩序ある開発(土地造成)を望み、地権者・開発業者と計画的な土地区画事業を行った。そしてこの事業の完成を機に、この地に生きた先祖および山川草木の霊の供養、そして当地区の繁栄を願い、また一切の人々に功徳の及ばんことを願って、香林寺に塔を寄進する。
(土地権者の内30人が昔からの共有地の売却代金を充当、香林寺に寄進。建造費は10億円)
香林寺は臨済宗建長寺派南嶺山と号す。
図1〜2は訪問時は夕刻で、しかも俄かに暗雲が空を覆い、訪問を断念、そのため写真は遠望のみ。
549 福井清大寺 . 図1
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「x」氏ご提供画像
昭和62年(1987)完工。高さ75m。鉄筋コンクリート。エレベータ付き。
当地出身の実業家多田清(相互タクシ創業者)が功をなした報恩のため、私財を投じて大仏殿とともに建立したと云う。総工費は385億円。
2007/06/14追加:前管理会社が税滞納・五重塔公売という報道がなされる。管理会社「相互不動産」が約10年前から固定資産税など滞納、勝山市が2002.2004年に五重塔などを差押。2007年1月同社が廃業、五重塔が今秋公売となる。五重塔評価額は47億円と云う。
2007/11/29追加:11月16日から公売開始、最低価格35億円、固定資産税年5000万円(格安)、五重塔・講堂・宅地・山林など延べ約3万4000平方mを公売、大仏は臨済宗?が引継ぎ。
この初回の公売には応札は皆無との報道があり。
550 横須賀聖徳寺 . 図1
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聖徳久里浜霊園と称する霊園の山頂近くに五重塔が建つ。
昭和63年(1988)建立。鉄骨および新建材(GRC・ガラス繊維強化セメント)製。 総高18m。
平賀本土寺・陸奥観音寺・土佐角茂谷五重塔・肥前本福寺と同工法。
モデルは山城海住山寺五重塔と云う。
霊園は浄土真宗東本願寺派聖徳寺管理(事業主体)と云うも、詳細は不明。
551 西宮善導会 . 図1
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苦楽園の小高い丘の上の狭い境内地に建つ。昭和63年(1989) 建立。高い切石基壇の上に建ち、モデルは大和室生寺と云う。基本的に木造・彩色と思われるも、鉄筋補強をしているとう云う。松井建設社寺建築部発注・宮大工匠弘堂の設計施工 と云う。
善導会の実態及び教義は不明、如意輪山と号し、日蓮新宗派と思われる。会長の北村嘉男が、この地に道場とこの塔婆(本尊如意輪観音)を建立する。五重塔 以外には、特筆すべきものはない。訪問時は正面の門は閉まり、脇の門も施錠され、無人のようで敷地内には立ち入り不能であった。
552 常陸法鷲院 . 図1
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平成元年落慶。設計施工は岩上政雄棟梁および高木栄歳棟梁。復古調の大型本格塔婆である。(但し構造はSCR木造塔。)おそらく醍醐寺塔がモデルと思われ る。
高さ108尺33m。総工費13億円。
先々住・先住住職の熱意および檀信徒の寄進で完工する。塔本尊は厄除弘法大師と云う。
創建は大同2年(807)、応永元年(1394)大和長谷寺宥応上人の再興と云う。
旧奥州談林。真言宗豊山派。
553 甲斐長禅寺 . 甲斐長禅寺五重塔・三重塔

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陸奥福泉寺 . 図1
図2
平成2年(1990)落慶。宮大工菊池恭二氏作の本格的木造塔婆である。 但しおそらく建築基準法上の問題等で構造躯体は鉄筋コンクリートとも云われる。総高25m。初重一辺4.0m。屋根銅板葺。
なお昭和57年多宝塔も建立。遠野市。真言宗豊山派。法門山と号す。大正元年、当寺の開山宥尊師は寺籍簿に寺名のみを残す江差市福泉寺を現在地に移し、開創する。宥尊師の大願は明治維新 の神仏分離で廃絶した早池峰山妙泉寺(現早池峰神社)を再興することにあったとされる。現在伽藍は山門、仁王門、本堂、護摩堂、鐘楼があり、さらに山上に観音堂、多宝塔、五重塔を備える。寺域6万坪という。
図1、2:「x」氏ご提供画像
2009/07/25追加:「昭和の木造五重塔(七)」吉田実(「史迹と美術 65(2)」所収) より
 福泉寺五重塔立面図    福泉寺五重塔断面図
・福泉寺概要:
明治の神仏分離で、附馬牛小出妙泉寺は廃寺、早池峰神社が捏造される。当時の妙泉寺檀家総代は佐々木紋右衛氏であった。紋右衛は妙泉寺再興の願を強く抱いていたと伝えられる。
明治24年、早池峰山4合目で、真言行者前川慶喜師(島根出身・42歳)と、佐々木紋右衛孫・佐々木源吉(後の宥尊)が邂逅する。これが契機で、佐々木源吉は廃仏のこと仏門のことに開眼する。
明治36年、佐々木源吉は職を捨て、妻を離縁し文字通り出家する。(花巻石鳥谷五大堂光勝寺・赤塚宥天を師とし、6年間修行する。)その後、大和豐山長谷寺に入寺修行、下山に際し江刺郡人首に名跡のみが残る法門山福泉寺の住職となる。
光勝寺への帰山途中、荒廃した福泉寺を実見するも、福泉寺の再興を心に刻むと云う。
宥尊は光勝寺から遠野へ帰還、早池峰を仰ぎ見る駒木の地に妙泉寺再興を決意する。
しかしこの時代新寺建設の認可は30数回に及ぶ出願・出頭を要し、さらに他宗派・地域からの迫害中傷が続き、加えて建立途中の堂宇は2度にわたり台風により倒壊する災難があった。
その困難の中、大正元年堂宇は完成、大正6年寺院再興が認可される。
法門山福泉寺第二世尻石宥然は、境内を6万坪に拡張、新西国33ヶ所霊場、山門、仁王門、多宝塔などの堂塔を整える。
第三世尻石正全は五重塔を建立する。棟梁は菊池恭二(社寺工舎、遠野出身、西岡常一弟子)
・人首福泉寺概要:
慶長11年(1606)沼辺玄蕃重仲(伊達家家臣・伊達郡沼辺村の領主)は伊達政宗の命により江刺郡人首村(重仲以来10代沼辺氏の知行地となる)への転封となる。それに従い、福泉寺・自徳寺(曹洞宗・現存)は人首に移る。人首での福泉寺開基は宥海と云う。明治維新に至り、沼辺氏の庇護を失い、檀家などのない福泉寺は明治初頭に荒廃したものと思われる。境内150坪、1間四面の堂と云う。(奥州市江刺区米里字馬場)
昭和11年遠野福泉寺から小山宥孝師が晋山、福泉寺別院として再興を企図するも、徴兵され戦死、再建はならずと伝える。
・早池峰の概要(Webの諸情報を総合):
早池峰(1917m)への登山口は4ヵ所ある。
東は下閉伊都川井村の江繋口、南は遠野市附馬牛の大出口、西は稗貫郡大迫町(現花巻市)の岳口、北は下閉伊郡川井村の門馬口である。各登山口には早池峰を修行の場とする寺院が営まれていた。中世末期から修験が坊舎を営み、それぞれ独自の伝承を伝え山伏活動を行う。
東:江繋口には新山堂(本地十一面観音)があり、修験善行院が護持していた。
南:大出口には新山堂と持福院妙泉寺があった。
 近世には岳と大出の両妙泉寺は90年にわたり本坊争いを行うと云う。
大出口では以下の創建譚が語られる。
大同元年(807)猟師藤蔵(後に始閣宮本と名乗る)が早池峰山頂に於て本地十一面観音・早池峰権現垂迹の霊容を拝して発心、山道を拓いて山頂に七尺有余の本宮を創建する。
承和14年(847)藤蔵薙髪して普賢坊となり、その長子長円坊が本宮の傍に新たに若宮を建立。
嘉祥年中、慈覚大師この地に至り妙泉寺を創建、坊を大黒坊(本尊は不動三尊・大黒天か)と称する。さらに三間四面の堂を建立し新山堂(本尊は早池峯大権現・脇士薬師・虚空蔵菩薩)と号する。
また高弟持福院を妙泉寺住職とし新山堂別当には長円坊を任ずる と。
その後、寛治年中(1087-)妙泉寺は天台宗から真言宗に転宗、文治五年(1189)灰燼に帰す。
中世から近世にかけて、遠野阿曽沼氏より120石、南部直栄より65石の寄進を受ける。
明治の神仏分離で、いかにも復古神道の陰謀らしく、妙泉寺は廃寺、新山堂は早池峯神社と改竄され現在に至る。
現社殿は享保3年(1718)の建築(東西43尺1寸、南北33尺7寸)で新山堂の遺構と思われる。その他神楽殿、仁王門(文化年中の建立・現神門)、黒門、社務所(旧坊舎か)などが現存すると云う。
西:岳口には新山宮と池上院妙泉寺があった。
 ※近世には岳と大出の両妙泉寺は90年にわたり本坊争いを行うと云う。
近世の岳の山容は早池峰権現をまつる新山宮と別当妙泉寺、修験相模坊、因幡坊、大和坊、民部坊、日向坊、和泉坊および四軒の禰宜、一軒の神子があったと云う。
岳妙泉寺も大同2年(807)猟師が東子岳(早池峰)の山頂に堂を建立したのがが始まりと伝える。
鎌倉期、遊行僧快賢が河原の坊に仮堂を建て、山頂にも新たに堂を建立し十一面観音を安置。
宝治元年(1247)河原の坊の堂は洪水で流失。
正安2年(1300)越後の円性阿闍梨が河原の坊遺構を再興し、新山堂を建立、十一面観音を本地とする早池峰大権現祀り、さらに別当妙泉寺を建立、自ら「早池峯山大権現別当妙泉寺円性」と称したと云う。また山頂の両宮も再建と云う。
戦国期には焼失と伝える。慶長年中、盛岡藩主南部利直により、新山堂が造営される。(棟札:慶長15年から17年の造営、5間×5間、軒廻りは平三斗、入母屋造、屋根銅板葺)
以後、享保3年(1718)、延享4年(1747)に修復。※この新山堂は現在拝殿とされる。
明治の神仏分離で、当地妙泉寺も廃寺、新山堂は早池峯神社と改竄され現在に至る。
なお岳妙泉寺の遺品として以下が伝わる、
四天王立像(江戸中期)、延命地蔵尊半跏像(地蔵堂本尊、銘によれば、貞享元年<1684>宇治平等院の二階で求められ尊像と云う)、新山堂早池峰三尊像(中央十一面観音・・文禄3年<1594>銘、脇に薬王菩薩と阿弥陀如来を配する)
北:門馬口には新山堂(本地十一面観音)があり、修験妙泉院が護持していた。
555 下総平賀本土寺 . 平賀本土寺
556 但馬長楽寺 . 図1
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大仏殿
平成4年1992建立、総高68m(あるいは70m)、鉄筋コンクリート。
天平年中行基の開基という。天文9年堂塔・六坊を山津波により流失。その後再興。
寛文10年・明治45年に焼失。昭和61年から相互不動産・多田清により大仏殿建立に着手。
(村岡)多田清の妻方の菩提寺とも云う。
557 安芸萬願寺 . 図1
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平成4年竣工。RC造。総高24m。但しかなり簡略化された塔である。
満願寺は山塊が海に落ちる狭い接点の丘陵地に入口を設け、入口を入ると急斜面の山塊に入る。境内は集斜面を無理に拓き、諸堂塔は山塊に貼り付くように展開する。
五重塔は多宝塔のさらに上に建つ。
満願寺境内:五重塔の場所から境内を望む、眼下は呉軍港。
558 安達ケ原ふるさと村(二本松) . 塔1
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三本松市安達ケ原ふるさと村。
平成5年(1993)建立。RC造。高さ31m。初重には母子像(銅造、元日展理事長・彫刻家・橋本堅太郎2013年製作、像高213cm)を安置する。総工費2億4720萬円。
ふるさと村のシンボルとして建立という。 建設趣意書では「イメージPR用タワーとして建立する。黒塚の既存施設と当該施設との調和と整合性を考慮」して建立という。黒塚との調和と整合性とはよく分からないが、宗教性は皆無のようである。
 安達ケ原黒塚1     安達ケ原黒塚2     安達ケ原観世寺
559 播磨圓満寺 . 図1
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平成5(1993)年5月、舎利宝塔・納骨堂として完成。一辺12.5m高さ42m。
RC造。屋根は銅板葺き。外観は法隆寺を模す。初重裳階付き。内部は4階までエレベータ付き、冷暖房完備。外部に非常用の階段が付設される。
高野山真言宗。当寺は天長年間、弘法大師の開基とする無量寿院の隠居寺と云う。
この塔婆を含め本堂・仁王門など境内全体が「商売」といった趣であり、個人的には好感を持つことはできない。ただし平野部に建ち、山陽線の車窓からあるいは遠くからでも良く目につく塔である。
○2004/10/15:第3節「お寺とお宮」藤原年春(播磨中学校長)著 より
「岩光(播磨町野添土地区画整理事業完工誌)」播磨町野添土地区画整理組合・40、昭和59年 より
旧境内地は野添古谷(無量寿院の南東)と伝える。現在地への移転は檀家を求めてのことと云い、元禄年中から享保年中のこととされる。
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)1964/03月撮影・ご提供:
「A」氏のサイト(岡山模型店DAN)→別府鉄道喜瀬川橋梁の写真の左に寺院らしき建物が写るが、それは圓満寺であると云う。半世紀前の風景ですから、当然五重塔などは写ってい ない。
 別府鉄道・圓満寺:上記ページからの転載 →鉄道風景のページにも同一写真を掲載。
560 高知角茂谷吉永家 . 11
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相輪
1993年建立、総高17m、GRC(ガラス繊維強化セメント)造・外装木造。
「吉永家累代之霊域」(「大豊堂ヶ峯園」と云うようである)にあり、吉永家(と云うより吉永氏個人)の造立になる。吉永浩三氏母堂の菩提のためとも云うので、仏教の考えに基ずく塔婆なのであろう。
GRCとは旭化成と三菱商事との共同開発で作られたセメント製品と云い、横須賀聖徳寺・平賀本土寺・陸奥観音寺・肥前本福寺と同工法と云う。
なお本塔は、細部は良く分からないが、山城海住山寺五重塔に相似し、この塔をモデルにしたのであろう。

○2013/06/29「某氏」撮影・ご提供画像:
 各茂谷吉永家五重塔

2014/10/05撮影:11〜相輪
吉永氏尊父は神道、母堂は真言宗という。写真には神殿と仏殿が写るが、それは左の理由であるという。
 角茂谷吉永家円堂
561 肥前本福寺 . 11
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平成6年(1994)建立。GRC(ガラス繊維強化セメント)造。高さ33m。中山身語正宗。 屋根銅板葺。
RC造ではあるが、古風な和様の様式を忠実に再現した造作となる。
横須賀聖徳寺・平賀本土寺・陸奥観音寺・土佐角茂谷五重塔と同工法。
なお五重塔前には礼堂(大堂である)を設ける。
光明念佛身語聖宗総本山、中山一ノ瀧と称する。山中に多くの堂宇が並ぶ。
一筋の尾根を越えた西に瀧光徳寺がある。画像は2011/04/12撮影。

 佐賀本福寺境内     佐賀本福寺本堂
562 陸奥観音寺 . 図1
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画1
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平成7年(1995)建立。横須賀聖徳寺・平賀本土寺・土佐角茂谷五重塔・肥前本福寺と同工法。
GRC(ガラス繊維強化セメント)造。 高さ約23m。基壇内部は宝物館。
天安2年(858)道叡の創建と伝える。近世は天台宗東叡山直末であった。本堂(寛永18年再建)、大悲堂(白瀧観音堂・元文2年1737再建、古来の本尊であった聖観音を安置)などを有する。
 陸奥観音寺大悲堂

図1・図2:「X 」氏ご提供

563 武蔵光徳院(中野) . 図1
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平成7年落慶。心柱はステンレスと云う。木造素木 総檜、屋根本瓦葺。高さ約15mの小型塔。伝統様の本格的建築。 興教大師覚鑁850年遠忌記念事業として住職が塔建立を発願。総工費2億円余りで、大和室生寺塔を理想としたのであろうと云われる。浄財は住職の長年の蓄財と云う。
七星山光徳院息災寺と号する。元々は半蔵門にあったが、江戸城構築に際し、牛込市ヶ谷田町に転じ、さらに牛込柳町に移り、明治43年現地に移転する。観音堂安置の木造千手観世音菩薩は右大臣菅原道真が筑紫にて自刻した像と伝え,この像は 長く筑紫千手坊にあった。寛永13年越前松平忠直の嫡子仙菊丸の守護本尊とされ福井城中に遷座、寛永16年中野宝仙寺の14世秀雄法印に預けられる。秀雄法印は中野宝仙寺より、光徳院に転住となり 、この像は光徳院にて護持されるようになったと云う。(寺紋は梅鉢のようです。)真言宗豊山派。中野区上高田5-18-3
564 筑前大圓寺 . 塔1
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平成7年(1995)建立、塔身26.5m、総高38.4m、和様を用いる木造塔である 。但し心柱・四天柱は「亜鉛鍍金鉄円柱」と思われる。地上3階地下1階の屋内墓所(RC造 ・納骨堂・昭和54年竣工)と称するビル建築の上に塔は建つ。
塔は二重基檀、組物三手先、二軒繁垂木、屋根銅板葺。鹿島建設設計施工、木工作は金剛組。
なお、現在相輪の上部が欠損しているが、竣工後の写真を見ると全存しているので、竣工後の欠損であろう。
なお、昭和45年大阪万博古川パビリオン七重塔の払下げ(3500万円)も検討するも断念と云う。
 康平3年(1060)大圓寺、西入部(早良区西入部)に鎮守府将軍源頼信により創建(天台宗)。
文永8年頃(1271)聖福寺第三祖大応国師が臨済禅寺として中興、現在その跡地である西入部には三千坪の土地に観音堂と大円寺池を残す。
慶長12年頃(1607)黒田如水夫人の援助により荒戸山(荒津山)山麓(現在の西公園・大圓寺北東約500m付近)に浄土宗として再建される。
慶安2年(1649)荒戸山に東照宮を造営のため、現在地(荒戸後浜→大圓寺町→唐人町)に移転。
 ※荒戸山東照宮:三代藩主黒田光之の代、荒戸山に東照宮及び別当高照山松源院福祥寺(300石・寺中3坊)を建立。さらに寛文8年(1668)焼失した薬院の源光院(徳川家光を祀る)を荒戸山の谷町に移転。
明治維新後、東照宮・松源院・御霊屋別当源光院は廃され、東照大権現坐像は警固神社に遷座。仏像などは古賀市清瀧寺に遷座。
明治42年、かっては城内に祀られていた権現社(祭神は黒田孝高<龍光院殿・如水>、黒田長政<興雲院殿>)が東照宮跡地に移される。
 荒戸山東照宮図:「筑前名所図会 巻一」 より:東照宮西側に松源院、東側に源光院を配す。
565 青森青龍寺 . 図1
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1996年建立、純和様による木造塔。一辺7.28m(4間)、総高39.3m。棟梁は大室勝四郎、青森産ヒバ材を用い る、工期は1992年から1996年。心柱は5重及び3重で吊る構造と云う。屋根銅板瓦葺。
真言宗。全仏山と号する、昭和大仏。
「X氏」情報:青龍寺(昭和大仏)に問い合わせ;以前は市街地の青森市茶屋町 (昭和23年創建の青森別院)にあったが、境内地が狭かったため郊外の桑原に移転したとのこと。高野山青森別院と称する。
なお「昭和大仏」サイトでは、青龍寺は昭和57年創建。東京四ツ谷真成院(高野山真言宗)を中核として高野山青森別院、青龍寺大阪道場、名古屋道場を拠点として布教活動とある。
 ※東京四ツ谷真成院は武蔵真成院擬宝塔(参考事項の当該項目)に掲載あり。
青森青龍寺五重小塔1    同         2:1/30の雛形模型と思われる。
青森青龍寺金堂:8間×8間の大堂、伝統様の木造建築。
青森青龍寺開山堂:平成17年建立。
566 熊本蓮華院誕生寺本院 . 11
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平成9年(1997)落慶。再興塔と称する。
現在の本堂南東部に五重塔の遺構とされる約10m四方の基礎部分が出土し、その部分に再興 したという(誕生寺の話と云う)も、真偽は分からない。
総高33.3m、一辺5.8m、基壇一辺9.3m。本格木造(ひば材)建築。山城醍醐寺塔婆に範を採ると云う。大浦社寺建築社の設計施工。
○「塔をゆく 巻1」では以下のように述べる。
平重盛が(この地)に蓮華院浄光寺と五輪塔2基を建立し、四方に築地を設け、南に大門を開き、常住念仏の道場とする。(「肥後国誌」)
一方この地は法然の師・皇円上人生誕の地のいわれがあると云う。皇円上人は祖先関白藤原道兼菩提のため五輪塔を建立する。嘉禄元年(1225)皇円の法孫恵空は蓮華院浄光寺をこの地に建立する。しかしこれ等の伽藍は天正10年(1582)戦国の兵乱で焼失すると云う。
昭和4年荒地であるこの地に来た川原是信大僧正が皇円上人より霊告を受け、この地に五輪塔の再興を目指し蓮華院誕生寺を再興する。(蓮華院誕生寺の寺伝 ・昭和5年とも云う)
また現地の西南部からは大きな建物跡を発掘するとも云う。(熊大教授北野隆の文化財報告書)
なお皇円上人は「扶桑略記」30巻を編述する。(篇者は諸説あり)
 
誕生寺本院伽藍     誕生寺本院南大門1    誕生寺本院南大門2    誕生寺本院中門
 誕生寺本院本堂     誕生寺本院鐘楼       誕生寺本院曼荼羅堂
567 丹後成相寺 . 丹後天橋立丹後智恩寺・丹後成相寺五重塔・丹後国分寺跡
568 名古屋日泰寺 . 図1
図2
平成9年3月(1998)竣工。木造・素木の流麗な塔婆である。
周防瑠璃光寺塔婆がモデルと云う。
 日泰寺は覚王山と号し、明治33年(1900)タイ(泰・シャム)国王より贈呈された仏舎利と金銅仏を安置(本尊)とするため明治34年(1904)に建立される。
※明治31年釈迦の遺骨(仏舎利)が英国によって発掘発見され、同32年英国よりシャムに譲渡される。この仏舎利が明治33年シャムより日本に贈呈されると云う。明治37年仏舎利・金銅仏の奉安のため覚王山日暹寺として創建される。
なお、仏教各派の輪番制を採る超宗派寺院であり、境内5万坪弱を有する。

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常陸鳳台院 . 図1
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平成10年落慶。本格木造塔(カナダ産檜造)と思われる。曹洞宗寺院の故か、唐様を基調とする。一辺2.7m、高さ19.5m(但し基壇下から)。屋根:銅板葺き。軸部は完全に唐様。初重は基壇上に直接立ち、縁は用いない。中備:初重中央間は蟇股、脇間彩色間斗束、ニ・三重中央間のみ彩色間斗束、四・五重は中備なし。初重窓:花頭窓。但しどういう訳か垂木はニ軒平行垂木を用いる。設計:白石設計事務所、施行:藤枝建設。仏法興隆門葉繁栄檀信帰崇を願うものとして建立される。曹洞宗。
●2013/03/21「O」氏撮影画像:
 鳳台院五重塔21    鳳台院五重塔22    鳳台院五重塔23    鳳台院五重塔24
 鳳台院五重塔25    鳳台院五重塔26    鳳台院五重塔27    鳳台院五重塔28
 鳳台院五重塔29    鳳台院五重塔30    鳳台院五重塔31    鳳台院五重塔32
 鳳台院五重塔33    鳳台院五重塔34    鳳台院五重塔35    鳳台院五重塔36
 鳳台院五重塔37    鳳台院五重塔38    鳳台院五重塔39    鳳台院五重塔40
 鳳台院五重塔41    鳳台院五重塔42    鳳台院五重塔43
◇五重塔相輪:左図の図1〜図8は2004/04/25撮影であるが、この時の塔のまともな写真がなく判然とはしないが、この時すでに若干水煙部より上が傾いているようにも見えるが、どうであろうか。
「O」氏の写真及び言より判断すると、相輪は2011年の大震災で傾いたようである。「本塔は小ぶりな塔」であり、「相輪内に避雷針を通す事が出来ず、宝珠と竜車の間に撚り銅線を固定し外側に露出させている。この撚り銅線が幸か不幸か、風鐸から上の部材の落下を防い」だものと判断される。「但し最初の上下振動で持ち上がった部材が元に戻る時、斜めに落ちてそのまま傾いたまま固定」したように思われる。
水煙部は一種の入子構造でなっているようなので、比較的簡単に修復は可能と思われるも、未だ修復はなされず。
 鳳台院相輪1     鳳台院相輪2     鳳台院相輪3     鳳台院相輪4     鳳台院相輪5
 鳳台院伽藍1     鳳台院伽藍2     鳳台院伽藍3     鳳台院伽藍4     鳳台院伽藍5
◇五重塔屋根切先:「O」氏より以下の指摘がある。
 「本塔では屋根切先平面が四隅に行くにしたがって外側に増幅する造作になっている。つまり、本来は屋根切先平面は「正方形」であるべきであろうが、 本塔では「正方形の四辺の中央が弓なりに内側に撓む」ような屋根切先平面となっている」と。
 鳳台院屋根切先
 ※上に掲載の鳳台院五重塔30鳳台院五重塔31なども本塔の屋根切先を見ることができる。
 但し、この「屋根切先」の形状は屋根四隅の「反り」をことさら強調する意図で設計されたものである可能性は排除できない。
 なお、本塔の屋根切先の特性は例えば「武蔵三学院三重塔」のページ中に掲載の
同じ「O」氏撮影画像(2013/04/01撮影)三重塔屋根切先1三重塔屋根切先2三重塔屋根切先3
三重塔屋根切先4三重塔屋根切先5三重塔屋根切先6などとの比較を乞う。

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上野柳澤寺 . 画1
画2

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仁王門
本堂
赤門
客殿
平成12年(2000)3月落慶。総高21.5m、構造は鉄骨であるが、木造塔(檜)と云う。地下は納骨堂。初重には裳階を付設。屋根銅板葺。本尊釈迦如来。総工費約7億円。
画1柳澤寺ご提供:2000/12/09画像使用許諾
船尾山と号する。天台宗比叡山延暦寺に属する。本尊は千手観音。近世、山子田村に30石の寺領を有する。
現在、本堂(観音堂)・客殿・鐘楼・仁王門・表門・山王堂・書院・阿弥陀堂・五重塔等を配する。
寺伝では弘仁年間(810-824)最澄が東国布教の際、群馬太輔満行の協力を得て、船尾山麓に楊澤寺を建立したのが始まりと伝える。千葉常将の兵乱で焼失もあったが、中世には談義所も置かれ、この地方の天台宗の中では枢要な寺院であった。
近世に入っても叡山の直末として栄え、天明6年(1786)の末寺書上では末寺15ヶ寺を数える。
(平凡社刊「日本歴史地名体系10・群馬県の地名」から要約。)
画2:2004/8/5「X」氏撮影。
赤門:客殿の前にある。「開かずの門」、宝暦年中の建立。
客殿:寄棟瓦棒葺、延宝年中の建立。
仁王門前には旧参道と推定される道があり、その左右には坊舎があったものと推定される構えが残る。

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伊勢津観音寺 . 図1
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2000年2月地鎮祭。2001年5月落慶。海住山寺五重塔をモデルとすると云う。高さ21m。本瓦葺。本尊は大日如来、薬師如来など4尊 、脱乾漆造と云う。総事業費は4億6000万円。
永享2年(1430)足利義教が三重塔寄進、この塔は明応7年(1498)の地震で水没したと伝える。
伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる
五  重 塔     平  面 図

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越中氷見永明院 . 図1
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平成14年完成。高さ23m。永明院五重塔と称するも、寺院の塔婆ではなく、個人邸にある。おそらく縁故者の(故人の)供養のために建立したのではないかと推測される。
設計施工は富山県砺波市白井大工。伝統工法による木造塔婆と思われる。外見は山城海住山寺塔婆に似るも、和様ではなくて基本的に唐様を用いると思われる。
2008/12/31追加:(株)白井大工のサイトより
 永明院五重塔立面図      永明院五重塔断面図
※(株)白井大工施工塔婆は越中氷見永明院五重塔、越中高岡山藤三重塔加賀心蓮社多宝塔がある。

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陸奥孝勝寺 . 平成15年落慶、陸奥孝勝寺
574 武蔵伝乗寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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木造、2005年3月完成、高さ約15mとの情報あり。名古屋中村建設施工。
松高山法生院伝乗寺と号する。文禄年間(1592−96)の創建と云う。浄土宗。
塔の構造は不明であるが、おそらく伝統工法(和様)による純木造塔(白木・総檜)と思われる。
全体の姿はやや近世風の印象を受ける。
世田谷区尾山台2丁目
.575 摂津七寳寺
 (金属製)
. 攝津七寳寺 平成18年(2006)年五重塔竣工。
576 播磨金剛寺
 (金属製)
. 図1
図2
図3
2008年4月落慶。総高22m(塔身17m)、一辺2.6m。
金属製、柱鉄骨、屋根・相輪は青銅鋳造、垂木・天井はステンレス、総重量約60トン。相輪金箔張、屋根緑青、勾欄朱色と云う。総工費1億2千万円。
摂津七寳寺五重塔と同型と云う。
印象は、金属製であること、また絵図がモデルであることを割り引いても、重厚さに欠ける嫌いがある。また細部(特に斗栱)ももう少し丁重な造作をして欲しいと云う印象である。
(株)平安美術<仏像・仏具製造会社>施工。兵庫県三木市大村
金剛寺は白雉2年(651)法道仙人開基と伝える。天長4年(825)空海が来錫。如意山と号する。
天正の兵乱で焼失、寛文5年(1665)に現本堂建立。
・廃大和内山永久寺密教両部大経感得図」(善無畏金粟王塔下感得図及び龍猛南天塔相承図)
(国宝・保延2年<1136>・藤原宗弘筆・藤田美術館蔵)に描かれた塔をモデルとするという。
 ※両部とは大日経及び金剛頂経を云い、善無畏が北天竺乾陀国金粟王塔の下で、「大日経」を書写し、龍猛(龍樹)が南天竺の鉄塔中の「金剛頂経」を暗唱・書写したと云う伝承を描く。
・なお直接の関係は無いが、大和龍蓋寺(岡寺)にも「両部大経感得図屏風」(江戸期、屏風絵)が伝わり、この絵は岡寺三重塔の内部荘厳や軒下の荘厳・琴の参考にされたと云う。
図1〜3:2008/05/16「X」氏撮影
2010/11/07撮影:
 播磨金剛寺五重塔11     播磨金剛寺五重塔12     播磨金剛寺五重塔13
 播磨金剛寺五重塔14     播磨金剛寺五重塔15     播磨金剛寺五重塔16
 播磨金剛寺五重塔17     播磨金剛寺五重塔18
2019/06/03撮影:
○三村威左男個展「京都国宝建造物・近畿新築五重塔」2019/5/20〜6/21、NTT西日本・三条コラボレーションプラザ より
 播磨金剛寺五重塔ペン画
なお、三村氏には「日本の五重塔総覧」文芸社、2005 の著作がある。
577 身延山久遠寺 . 身延山 2008/11/05竣工式
578 念仏宗無量壽寺 . . 初重一辺5.45m、高さ32.7m、総木造。和様を基調として唐様を混用する。垂木は全て扇垂木を用いる。相輪長は10m。
塔本尊は釈迦涅槃像(中国の中国人作家の彫刻)。
彩色は朝鮮の朝鮮人作家による朝鮮古来の丹青塗。 ※丹青の例:海外の塔婆-陵寺再現五重塔
無量壽寺は念仏宗総本山と称する。伽藍は平成20年落慶、五重塔も同時に落慶と推定される。
2010/11/07撮影:
○五重塔全景
 兵庫無量壽寺五重塔11   兵庫無量壽寺五重塔12   兵庫無量壽寺五重塔13
 兵庫無量壽寺五重塔14   兵庫無量壽寺五重塔15   兵庫無量壽寺五重塔16
 兵庫無量壽寺五重塔17
○五重塔遠望
 兵庫無量壽寺五重塔18   兵庫無量壽寺五重塔19   兵庫無量壽寺五重塔20
 兵庫無量壽寺五重塔21   兵庫無量壽寺五重塔22   兵庫無量壽寺五重塔23
 兵庫無量壽寺五重塔24   兵庫無量壽寺五重塔25   兵庫無量壽寺五重塔26
 兵庫無量壽寺五重塔27   兵庫無量壽寺五重塔28   兵庫無量壽寺五重塔29
 兵庫無量壽寺五重塔30   兵庫無量壽寺五重塔31   兵庫無量壽寺五重塔32
 兵庫無量壽寺五重塔33   兵庫無量壽寺五重塔34   兵庫無量壽寺五重塔35
○五重塔詳細
 兵庫無量壽寺五重塔36   兵庫無量壽寺五重塔37   兵庫無量壽寺五重塔38
 兵庫無量壽寺五重塔39   兵庫無量壽寺五重塔40   兵庫無量壽寺五重塔41
 兵庫無量壽寺五重塔42   兵庫無量壽寺五重塔43   兵庫無量壽寺五重塔44
○本堂、山門
 兵庫無量壽寺山門:木造二層門、屋根入母屋造本瓦葺。高さ35.6m桁行34.5m梁間13.8m。上段斗栱は六手先総詰組、下段斗栱は四手先総詰組を用いる。
 兵庫無量壽寺本堂:木造二層堂、屋根入母屋造本瓦葺。高さ51.5m桁行67.9m梁間58.2m上段は斗栱は六手先総詰組、下段斗栱は四手先総詰組。
総敷地面積45万坪に本堂・山門・五重塔のほか総門、手水舎、地蔵堂、聖徳太子殿、北鐘楼・南鐘楼鐘楼、釈迦堂、観音堂、経蔵、廻向堂、開山堂、講堂などの大建築から成る。
2019/06/03撮影:
○三村威左男個展「京都国宝建造物・近畿新築五重塔」2019/5/20〜6/21、NTT西日本・三条コラボレーションプラザ より
 無量壽寺五重塔ペン画
なお、三村氏には「日本の五重塔総覧」文芸社、2005 の著作がある。
579 下総円福寺 . 下総円福寺 平成21年5月竣工(2009)
580 讃岐法然寺 . 讃岐仏生山法然寺五重塔 2011年竣工。
581 筑前東長寺 . 11
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2011年5月落慶。純木造五重塔、総檜造、高さ25.9m、初重一辺4.33m、総工費7億5000万円。山城醍醐寺五重塔をモデルとする。 松井建設の設計・施工。
仏舎利は伏鉢に安置する。
 東長寺は大同元年(806)空海が帰朝した折に建立すると伝える。南岳山と号する。
近世には黒田家の菩提寺の一つとなる。二代忠之、三代光之、八代治高の巨大な五輪塔墓が並ぶ。
巨大な本堂、大仏殿などの伽藍があるが、六角堂を除いて古建築はない。
2010/12/25「x」氏撮影筑前東長寺五重塔
図11〜22は2011/04/12撮影。
2012/05/20撮影:
 筑前東長寺五重塔31    筑前東長寺五重塔32    筑前東長寺五重塔33
 筑前東長寺五重塔34    筑前東長寺五重塔35    筑前東長寺五重塔36
 筑前東長寺五重塔37    筑前東長寺五重塔38
 黒田忠之五輪塔墓
多宝塔形式(上重は八角円堂)納骨堂を有する。
 → 九州諸国の塔婆形式納骨堂
582 富田林願昭寺 . 11
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相輪
2011年竣工、2012年5月落慶。高さ37.27m。一辺は不明。
木造彩色、和様を用いる。伝統工法による建立と思われる。その他の詳細は不明。
屋根本瓦葺。相輪は青銅製鋳造、金箔貼。施工は大成建設。
確かに近年の作では稀に見る大型の本格的な木造塔婆である。
願昭寺は淨心山と号し、真言宗系の八宗兼学真修教大本山と称する。本尊木造目白不動。
Webでは信者の手作りという紹介もあるが、意味するところは不明。
○2011/11/03「X」氏撮影画像:
 富田林願成寺五重塔1     富田林願成寺五重塔2

○2012/12/23撮影:その他伽藍
 富田林願成寺本堂     富田林願成寺鐘楼1     富田林願成寺鐘楼2
 富田林願成寺堂宇     富田林願成寺開山堂

○サイト」:協同組合ウッディ 四万十 より転載
「木材納入、木工事一式 松原木材株式会社」、「野物材を含む構造材製材 株式会社大方官材」とある。
 願昭寺五重塔心柱
 心柱五重屋根裏以上:五重目の屋根裏以上の心柱と推定する。
 願昭寺五重塔五重軸組     願昭寺五重塔五重斗栱
2019/06/03撮影:
○三村威左男個展「京都国宝建造物・近畿新築五重塔」2019/5/20〜6/21、NTT西日本・三条コラボレーションプラザ より
なお、三村氏には「日本の五重塔総覧」文芸社、2005 の著作がある。
 願昭寺五重塔ペン画1     願昭寺五重塔ペン画2
583 摂津中山寺 . 摂津中山寺大塔/五重塔 2016年竣工、2017年落慶予定
584 陸奥天童常安寺 . . 平成29年(2017)着工、2019年8月竣工予定。
高さは32.7mの計画、天然青森ヒバ材を使用した純和様の木造建築という。
永代供養塔の機能を持つという。
常安寺は天正10年(1582)浄土宗名越派総本山(善道寺)良実が巡教で天童市を訪れ、念仏道場を開いたのが始まりという。
 常安寺五重塔完成予想図
2020/09/03追加:
○五重塔仕様:現地掲示版によれば次の通り。
2019年落慶、純和様木造五重塔(総青森ヒバ造)、一辺4.62m(210mm×22支)、高さ32.7m(108尺)、初重軒先一辺10.98m。屋根銅板葺。
心柱は初重天井梁上より立ち、天然青森ヒバの3本継。
初重内部は永代供養塔(天明年中の五輪塔を安置)。(安置状況は下に掲載の立面図を参照)
監修:東京大学生産技術研究所教授・腰原幹雄、設計監修:関 清、施工:(株)モトタテ(酒田市)
○常安寺は情報が殆どない。
天童市大字久野本1−7−25、本久山と号する、浄土宗。
○「常安寺五重塔〜構想から建立まで〜」 山形県建築士会・原田江美子 より
本五重塔は莫大な建設費用(金額非公開)を檀家の寄付を募ることなく自費で賄っているという。 常安寺松岡住職は2001年の住職就任時から五重塔の建立を検討し、当時から日本全国の五重塔を見て周り、2005年から約10年かけ住職自ら2800石の青森ヒバを買付したという。
「なぜ五重塔なのか?」 本久山常安寺 第二十二世住職 松岡
【設計主旨】 関設計 代表 関 清
参考としたのは「醍醐寺の五重塔」である。通常のタルキより一回り大きくし、タルキ間も広く取、醍醐寺の持つ様々な手法を取り入れ、他の五重塔とは一線を画す、大胆でシンプルな塔を目指したのである。
構造設計については、東京大学腰原幹雄教授の研究室を中心に「五重塔研究会」が発足し、数か月間熱心に議論を重ねてきた。
木割については、その手法が見直される。宮大工の間で常識とされている木割りは、一層上がる毎に三本タルキが少なくなる三枝落という支割りが用いられてきた。しかし、常安寺五重塔は二枝落の支割りが使われる。二枝落で建てられた五重塔は、大和法隆寺、大和室生寺、山城醍醐寺だけなのである。
2020/07/22「X」氏撮影画像:
 五重塔立断面図     五重塔初重平面図
  ※諸Webページから転載
   初重中央間安置五輪塔1     初重中央間安置五輪塔2
 天童常安寺五重塔11     天童常安寺五重塔12     天童常安寺五重塔13
 天童常安寺五重塔14     天童常安寺五重塔15     天童常安寺五重塔16
 天童常安寺五重塔17     天童常安寺五重塔18     天童常安寺五重塔19
 天童常安寺五重塔20     天童常安寺五重塔21     天童常安寺五重塔22
 天童常安寺五重塔23     天童常安寺五重塔24     天童常安寺五重塔25
 天童常安寺五重塔相輪
  ※諸Webページから転載
   常安寺五重塔遠望     常安寺五重塔斗栱1     常安寺五重塔斗栱2
   常安寺五重塔相輪
585 武蔵拝島大師 . . 2019/05入仏供養を予定。
木造、和様を用いる、屋根瓦葺と思われるも、詳細は不明。
ただ、スタイルとしては極端に細長く、相輪は短く、ほぼ死語であるが「栄養失調症」「うらなり瓢箪」を連想するが、言い過ぎであろうか。
なお、拝島大師には多宝塔も存在する。<現存多宝塔・明治以降746を参照>
○2019/05/26追加:
サイト:拝島大師 本覚院 より転載:
 武蔵拝島大師五重塔1     武蔵拝島大師五重塔2     武蔵拝島大師五重塔3
○2019/06/02追加:
「X」氏2019/05/25撮影画像
 武蔵拝島大師五重塔4     武蔵拝島大師五重塔5

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