備 後 山 田 常 国 寺

備後山田常国寺

備後山田常国寺概要

2016/05/ 追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 を閲覧する。
本ページには、ページ「福山市熊野町」からの転載、ページ「福山市熊野町の昔風景」からの転載及び写真が多くあるが、この2ページの記述及び写真は上記「福山市熊野町史」からの転載と判明する。
よって、そのことを冒頭に示す。(文中にては特に必要がある場合以外は「福山市熊野町史」からの転載とは個々には記載しないので、この2ページの元々の原典は「福山市熊野町史」であると認識をして頂きたい。)

○山号は広昌山。山城本法寺末。
文明18年(1486)当時沼隈半島一帯を領有し山田一乗山城主であった渡邊兼(山田渡邊氏)によって建立される。
開山は日親上人。
渡邊兼は、若年の頃、京で日親上人の説法を聞き、上人に帰依する。後年、備後沼隈に戻った時、沼隈で辻説法をする老僧のことを聞き及び、この老僧とは日親上人であると知り、兼は上人を居館へ招き、上人に寺院建立を申しでる。これが常国寺であり、開山は日親上人とする。
当時この地方は、山南光照寺の勢力が強大で多くの真宗寺院が存在していたが、渡邊氏は自己の領内(山田荘)の寺院・民衆に対しことごとく法華の受法を強制した。そのため、山田荘内の多くの寺院が荘外に逃れたといわれ、鞆町にはこの時、山田より移ったといわれる真宗寺院がある。
○山田渡邊氏:
山田渡邊氏は嵯峨源氏源融の8代後の渡辺綱の後裔と伝える武家である。
渡邊持の代、足利尊氏に従って戦功があり、備後山田荘の地頭職となる。
嘉吉の乱、応仁の乱を経て、戦国の世に突入するも、渡邊氏は幾多の戦乱を切り抜け家名を守り通す。
渡邊越中守兼の代には一乗山城を築き、常国寺を建立するなど山田荘に確固たる地歩を築く。
 (兼以下の系譜は房・高・元・景と継承される。)
元亀4年(1573)織田信長は15代将軍足利義昭を京都から追放、義昭は各地を転々とした後、毛利元就を頼り、備後鞆に幕府を開く。この時、渡邊元は鞆幕府で義昭に近侍し、重用される。
慶長5年(1600)渡邊景は、関ヶ原の戦いで西軍に加担する。その結果は、西軍の敗北であり、領地は没収され一乗山城を立ち退き、 ここに戦国武将としての山田渡邊氏は終焉する。
渡邊景のその後であるが、渡邊景は正式には渡邊四郎左衛門景といい、関ヶ原の後仏門に入り、各地を点々とするも、最後は福山藩主水野勝成の要請を 受け入れ、備後福山に帰り、城下に通安寺の寺地を賜り、通安寺を実質的に開山しここに住する。
なを、四郎左衛門の備後帰国の前に四郎左衛門の4人の子息は水野家に召し抱えられ、明治維新まで家系は続くという。
 ☆備後福山通安寺は常国寺末 → 通安寺及び渡邊四郎左衛門に関しては備後の日蓮宗諸寺中にあり。

○ページ「福山市熊野町」より抽出
広昌山定親院常国寺:
明細帳には、本山山城國愛宕郡小川頭本法寺末、文明年中(1469-87)渡邊越中守兼菩提所創立、本堂5×5間半、庫裡4間×10間、客殿6間角、土蔵2間×3間、長屋2間×5間、納屋3間角、鐘楼1間半角、鼓楼1間角、表門1間×1間半、仁王門2間×4間(明治15年再建許可)、境内堂宇として三光堂、喜正堂、最上位経王堂、開山堂があるとする。 境内官有地1557坪。
山内に六ヶ坊(山本坊、中之坊、竹之坊、松之坊、谷之坊、岸之坊)、村内に2ヶ寺(寿量寺、法縁寺)、末寺8ヶ寺(鞆顕政寺、福山城下通安寺など)を有したが、山内6坊は大正15年常国寺に合併する。

2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」 より
現在、本堂は5間×5間半本瓦葺、本堂に並んで開山堂が建ち、本堂と廊下でつながる。開山堂は3間×5間銅板葺、日親上人像及び渡邊氏累代坐像7躯もある。
開山堂東に御旅所(籠堂)が」あり、四本柱2間角銅板葺の建物で、門八幡宮・仁志天満宮の神輿が渡御する。
鼓楼は御旅所の前に建ち、その東の岡の上に喜正堂、三光堂、番神堂、鐘楼が建つ。
本堂敷地の一段下西側に銅板葺の客殿と瓦葺の庫裡がある。本堂正面に山門(将軍門)、土蔵、東南に物置長屋、六角形の宝物館(昭和43年新築)がある。山門の石段を下ったところに仁王門が建つ。4×2間の規模で、仁王像は明治13年深安郡深津村薬師寺が廃寺となり、売に出された仁王像を購入するという。
 喜正堂:「寺社明細帳」では常国寺鎮守、本尊は喜正菩薩、由緒不明、堂は3間×2間。
現在、本堂は1間×1間半トタン葺春日造、板敷の1間の相ノ間を置き拝殿がある、拝殿は3間×2間瓦葺。日感上人建立という。
 三光堂:「寺社明細帳」では常国寺鎮守、本尊は三光大王、由緒不詳、堂は2間×1間。
現在、堂は1間角で2尺の回椽付き、トタン葺入母屋造、堂内に神輿が一基置かれる。堂前の説明は「日月明星天子勧請」と書いてある。日感上人建立と伝える。堂前に妙見大菩薩(年紀は文政7年/1824)と刻む常夜燈一対がある。あるいは古くは妙見堂であったのであろうか、明治の神仏判然令で三光堂としたのであろうか。
 番神堂:「寺社明細帳」では常国寺鎮守として明治14年編入される。本尊は最上位経王菩薩。堂は1間×1間半。
現在は、1間半×2間銅板葺で中に番神社々殿が置かれる。本尊は番神社内に安置される。
 七面堂:「寺社明細帳」では日蓮宗、本尊功徳天、堂は1間×2間、拝殿は1間×1間半、境内地64坪定光寺持。
現在、本殿は8尺×10尺、2尺の椽が付設、銅板葺入母屋造、拝殿は瓦葺、3間×2間で、拝殿と本殿は3尺×2間の瓦葺廊下で続く。明細帳の本殿拝殿は大正8年焼失し、同13年再建す。
本尊功徳天は七面大天女で、渡邊越中守兼が一乗山城を築いた時、城の鎮守として勧請したという。一方渡邊家文書は常国寺12世日遼上人代の宝永7年(1710)公儀に社殿建立を願い出、正徳2年(1712)に竣工し、同家は堂と一乗山を常国寺に寄進するという。

○「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年沼隈郡誌
佛閣:
初め光照山と号する。本法寺末にして二子院六房十八末寺あり、文明の末一乗山城主渡邊越中守兼、久遠成院日親上人を招じて開基し、以って自家の菩提寺とし且城中の七面大菩薩を当寺の鎮守とし、三山田(上山田村、中山田村、下山田村)全戸を悉く当寺檀家として改宗せしめ、同時に三村の神社仏閣をいずれも末寺末社と改めたり。故に他宗にして改宗を肯ぜざる寺院並びに其檀徒は悉く鞆又は田尻その他へ移転したり。

○「備陽六郡志内外篇」(安政2年/1855序文成立か)(「備後叢書 巻1」得能正通編、備後郷土史会、昭和3〜10年 所収)
上山田村:
一、法花宗 常国寺 除地 境内ニ反三畝二歩 山林二町四反 藪七畝二十一歩
 一、常国寺隠居所 通天院 除地 境内三畝五歩 畑一反一畝十二歩   ※谷之坊?
一、常国寺寺下、顯壽院 同 境内一畝一歩 藪二畝二十四歩  ※竹之坊?
一、同 中道坊(朱字:本化院共) 同 境内一畝二十四歩 藪一畝六歩   ※谷之坊?
一、同 実相坊 同 境内一畝二十二歩 藪二畝八歩  ※松之坊
一、同 真如坊 同 境内一畝二十一歩 藪二畝十八歩
一、同 圓成坊 同 境内二畝十歩 藪二畝十七歩   ※中之坊
一、同 覺林坊 同 境内二畝十一歩
一、同(朱字:末寺) 壽量寺 同 境内四畝十歩 畑二反九畝十歩 藪一畝十歩 山林六町
  ※隠居所として通天院が挙げられるも、由緒は不明
  ※寺下として顯壽院が挙げられるも、由緒は不明、また旧山田村に顯壽寺及び円定寺が存在するという情報もあるが、
  現在のところ存在を確認できない。この顯壽寺と顯壽院とは関係があるとは思われるも不明。

○「備陽六郡志内外篇」(安政2年/1855序文成立か)(「備後叢書 巻2」得能正通編、備後郷土史会、昭和3〜10年 所収)
法華宗 光照山常国寺 開山 日親上人
 本堂六間五間 本堂より祖師堂までの廊下七間 祖師堂二間四間 祖師堂の内に渡邊氏の像六體あり・・・
 鼓楼一間四面 鐘楼・・・
  塔中六坊
 山本坊 開基 常蔵院日應  竹之坊 仝 玉蔵院日演  松之坊 仝 常隆院日養  中之坊 仝 正善院日實
 岸之坊 開基 常住院日正  谷之坊 仝 通天院日感

○ページ「福山市熊野町」より抽出
 山本坊:
仁王門を入り、向かって右にあった。
明細帳では、「天正7年(1579)渡邊出雲守創立にして一時無住の為、明治6年中廃寺の処分を受け明治21年再興、境内131坪」という。付箋には「昭和4年島根県八束郡森山村大字森山へ移転し常妙寺と改称す」とあるともいう。しかしこれは寺の名跡を移したもの。
明治21年再興され細行院とも称するも大正15年常国寺へ合併される。開基は常蔵院日應と伝えるが、年代が合わない。
現在山本坊跡に常国寺下寺(本光寺)がある。
※八束郡森山村(現松江市美保関町森山)常妙寺とは不明である。
※常國寺下寺(本光寺)とは不明である。
 竹之坊:
仁王門を入り、向かって左にあった。
明細帳では由来不詳とするも、天正年中(1573-92)常国寺宿坊として玉蔵院日演を開基として顯壽院と称して建立と伝える。境内地147坪という。
寛政年中(1789-1801)に本堂・庫裡などを再建。
大正15年常国寺へ合併され、現在、跡地には無縁墓の塔が建つのみという。
 松之坊:
仁王門に向かって左前にあった。
明細帳では由来不詳とするも、常陸院日養を開基として建立され、実相坊と称したという。但し建立年代は不明。境内286坪。
大正15年常国寺へ合併される。建物は残り、一時水月という旅館になるも、現在は建物も失綯われる。
 中之坊:
仁王門に向かって右側にあった。
明細帳には「寛永8年(1631)日正を開基として創立」とあるが、永禄8年(1565)渡邊民部少輔元が常国寺5世日秀と図り、正善院日實を開基として創建し円城坊と称したとも伝える。 境内220坪。
明治6年廃寺となり、明治22年再興するも、大正15年常国寺に合併する。現在は畠である。
 谷之坊:
常国寺西の山腹にあった。
明細帳には由来不詳とするも、水野家が通天院日感を開基として創建し、本化院あるいは通天院と称したという。境内269坪。
現在、跡地は畠となり、「谷之坊跡」の石碑が建つ。
 岸之坊:
常国寺北西の対岸にあった。
明細帳には「元和9年(1615)渡邊民部少輔元が常国寺5世日秀と図り、日實を開基として建立する」というが、開基は常住院日正ともいう。 境内195坪。
何時しか無住となり明治6年廃寺、明治22年再興許可を得るという。
大正15年常国寺へ合併。跡地には光照山常国寺と刻む題目碑が建つ。

山田常国寺伽藍

1)大正11年以前と推定される常国寺
○ページ「福山市熊野町の昔風景」 より転載
なお、本写真の多部を大正11年以前と推定する根拠は「旧論田池」や水没した論田川などの写る写真があり、また大正15年に常国寺に合併したという六坊の建物が写っているためである。
 論田池は承応元年(1652)に築かれた云われ、此の論田池の地に福山市の水源として、大正3年に水源池(現熊野ダム)建設が着手され、大正11年に水源池の起工式があり、大正14年に水源池(現熊野ダム)竣工というからである。
これらの写真は、おそらく、大正11年の起工式以前の写真であろうと推定されるからである。

 大正14年常国寺:左図拡大図
池の水位が高いので、大正14年竣工後の水源池(熊野ダム)が写った写真であろう。従って、写真の解説(大正14年)にあるように、本写真は大正14年頃の常国寺であろう。
 常国寺本堂
 旧岸之坊
 旧谷之坊
 旧論田池・常国寺参道・旧松之坊:松之坊の位置が水面よりかなり高い位置にあり、写真に写る池は現在の水源池(現熊野ダム)では有り得ない。 (写真の原典は「福山市熊野町史」であるが、「福山市熊野町史」への引用は「熊野の今昔」からという。)

2)昭和11年以前の常国寺
○「日本史蹟大系 第8巻」熊田葦城、平凡社、昭和11年 より転載

写真はいずれも、図書の発行年から判断して、昭和初頭の写真であろうと思われる。
 常国寺全景:左図拡大図
 常国寺全景・文字入:上図と同一写真
 常国寺正門
 常国寺本堂
いずれにせよ、上記の「大正14年常国寺」写真と合わせ、昭和初期には六坊の坊舎の建物は残存していたと推測できる。

3)常国寺現況
○GoogleMapなどである程度の現況を知ることができる。(現地は未訪門):ストリート・ビューは2013/10
以下GoogleMapなどの現況を転載する。
 常国寺伽藍配置:旧寺中(六坊)の位置及び仁王門・七面社の位置を示す。:YahooMap
 岸之坊跡     岸之坊歴代墓所     中之坊跡     竹之坊跡     松之坊跡

山田常国寺末寺

四大山法縁寺(福山市熊野町乙) →備後の日蓮宗諸寺
薬王山寿量寺(福山市熊野町)  →備後の日蓮宗諸寺
桃林山通安寺(福山市西桜町)  →備後の日蓮宗諸寺
寿福山顕政寺(福山市鞆町後地)
城本山本照寺(尾道市御調町市)
立本山常行寺(観音寺市八幡町)


2016/01/31作成:2016/05/11更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系