備 中 庭 瀬 大 坊 不 変 院

備中庭瀬大坊不変院

備中庭瀬大坊不変院:(付録:庭瀬藩)

廣榮山長國寺と号し、古は八幡宮別当であった、
もとは天台宗で開基は不詳、八幡山にありしが、秀吉の臣岡豊前今の地に移す。(「備中誌」)
 ※備中川入八幡宮西側に不変院・大乗院が天台宗としてあったが、天正14年(1586)不変院が庭瀬に移転、その後大乗院も庭瀬不変院寺中に移転と云う。
庭瀬に入府した戸川逵安により、日蓮宗に改宗。日蓮宗開基は城国院日鳳上人。不変院は逵安の法名である。
墓所には戸川家累代の墓がある。(「戸川家系図」)
 ※但し、逵安の墓碑は池上本門寺永寿院備中妹尾盛隆寺にあり、3代藩主戸川安宣は盛隆寺、4代藩主戸川安風は武蔵中目黒永隆寺にあると云う。
開山日鳳上人は洛中妙覚寺日典上人高弟で妹尾盛隆寺の住職でもあった。それ故日鳳は両山兼帯となり、これは明治維新まで存続と云う。
 ※日鳳は越中富山の人で、初めは禅宗の僧であったが、
 能登妙成寺で学問し、京都松ヶ崎檀林を経て、妙覚寺日典の弟子となる。
 ※寛文5年(1666)不受不施が禁宗となり、洛中妙覚寺に身延日乾が入山すると、妹尾盛隆寺は妙覚寺から離脱し、無本寺となる。天和2年(1682)小湊誕生寺末となる。
 2019/07/08追加:
 ○「わたくしたちの福田村」わたくしたちの福田村編纂委員会、昭和58年 より
 寛文5年京都、本山妙覚寺が接収され、妙覚寺へ受派身延山から日乾が入山、庭瀬・妹尾の信徒は怒り、
 本山から離脱、無本寺となる。
 この時、庭瀬4代安風が9歳で早世、戸川家は断絶、下総板宿より久世氏が入部する。
 この久世氏の斡旋で庭瀬・妹尾の両山は小湊誕生寺末に列することとなる。
不変院は大坊と通称される。塔頭には本了院、中正院、正善院、大乗院があり、7末寺を有する。
 なお、境内南に八幡大菩薩を祀る鎮守殿がある。八幡大菩薩は不変院の鎮守であり、不変院が八幡山にあった証であろう。
鎮守殿は本殿、幣殿、拝殿、鳥居、唐獅子、手水鉢、灯籠などを備え、神体は木造座像であり正面の厨子に納められ、別に上段に三體揃った同寸法の木像座像を安置すると云う。
2015/06/23追加:
○「備中領主戸川の時代」戸川時代研究会、2002年 より
延元年中(1336-39)播磨の赤松円心、川入八幡山の麓に天台宗広栄山長国寺を建立。
その後、保護者を失い、長国寺は衰微する。
高松城水攻めの後、宇喜多家重臣岡利勝が庭瀬城に入る。岡利勝は熱心な日蓮宗信者であったので、長国寺をこの地に遷し、日蓮宗に改宗する。
関ヶ原の戦いの後、戸川逵安が初代庭瀬藩主として入部、逵安も熱心な日蓮宗信者であったので、長国寺を整備、京洛妙覚寺日興上人高弟日鳳上人を招じ開基とし、戸川家の菩提寺となす。
2代戸川正安の時、逵安の法名「不変院殿覺如日真大居士」に因み、不変院と改号す。
逵安は境内に4塔頭を整備する。そのうち本了院は隠居寺とし、正善院・中正院・大乗院はそれぞれ延友・川入(川入三十番神堂の地が故地と云う)・八幡山から移す。
また戸川氏統治の間に、不変院を首座(大坊)とし、寺中4院、末寺7ヶ寺(庭瀬信城寺、東花尻妙伝寺、東花尻立成寺、西花尻正法寺、平野了性寺、日畑浄安寺、山地受法寺)が整い、幕末まで続く。
不変院の建物:山門は北にあり、山門をくぐると左手に庫裡、その東奥に客殿がある。その南に本堂があり、さらに南には八幡大菩薩の鳥居・拝殿・本殿がある。この八幡大菩薩は初め三十番神社として建てられたが、不変院上人が代々八幡山大菩薩の別當を兼ねていたこともあり、八幡大菩薩が勧請されたという。三十番神も八幡大菩薩も不変院と地域住民を守護する役割であった。
 北から見た不変院屋敷の図:中正院は正善院と大乗院との間にあったことが判明する。
 不変院屋敷見取図:本了院は現在の本了院墓地の地にあったことが確定する。寺中は東から、本了院、正善院、中正院、大乗院が接して建っていたことが判明する。
2015/09/11追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
廣榮山長國寺
庭瀬川入に在り。八幡宮別當にして八幡宮千佛堂の側に在り。往古天台宗にして八幡山千佛堂の舊址たり。
天正14年宇喜多秀家の臣岡豊前守之を新開地庭瀬に移し慶長中庭瀬藩主戸川土佐守正安日蓮宗の帰依に依りて改宗せしめ、
父肥後守逵安の法名を取りて廣榮山不変院と称す。
寺中の一に大乗院あり、舊名を長國山松山寺と云ひ長國寺と相並んで八幡宮社僧たり。松山寺址に日親上人様とて一基の豊島石製の石塔など建つ。
石柱長3尺1寸、幅9寸、厚6寸5分、別に笠石を置く、石柱刻文に「妙法華 一萬部御供養」と刻む。
2018/12/11追加:
末寺:
○題號山妙傳寺(岡山市北区東花尻)・・・本ページ中にあり。
○福壽山立成寺(岡山市北区東花尻)・・・同 上
○淨泉山正法寺(岡山市北区西花尻)・・・同 上
○覺如山妙法華寺(岡山市北区西花尻)元塔頭本了院・・・同 上
○了性寺(岡山市北区平野)妙見堂・・・同 上
○妙法山淨泉寺(岡山市南区山田)・・・同 上
○妙信山受法寺(倉敷市山地)・・・同 上
○鷲林山淨安寺(倉敷市日畑)・・・同 上
2013/12/31撮影:
 不変院題目碑     不変院山門・石橋1     不変院山門・石橋2     不変院山門
 不変院本堂1      不変院本堂2      不変院日蓮上人碑
 不変院八幡大菩薩鳥居:八幡大菩薩の扁額
 不変院八幡大菩薩拝殿     不変院八幡大菩薩本殿1     不変院八幡大菩薩本殿2
2014/06/29撮影:
 不変院山門石橋3     不変院山門石橋4     不変院本堂3     不変院本堂4
2019/03/16撮影:
 不変院門前題目碑2:明和六己丑(1769)歳五月二十六日の年紀     不変院門前景観
 不変院本堂5      日蓮大菩薩450遠忌:享保16年(1731)      日蓮大菩薩600遠忌:明治14年
 戸川家墓地:戸川家累代の墓などの背後にある2基の五輪塔は、文字は風化し判読できないが、
  郷土史家宇垣武治氏は研究誌「きびのさと」で位牌との関係から戸川令久(とおひさ)・その子戸川延令(とも)と
  推定している。(「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」)
   ※但し、戸川令久・その子戸川延令とは不詳
  戸川家累代の墓の左右の戒名は不明であるが、撫川最後の領主戸川逵敏・その子戸川真逵の墓という。
   (「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」)
 開山日鳳・歴代供養碑
 不変院八幡大菩薩本殿3     不変院四明神:四明神の名称は不詳

備中庭瀬不変院塔頭本了院
       → 備中庭瀬妙法華寺
本了院開基は、不変院と同じく城国院日鳳上人。
昭和60年大坊不変院の地を離れ、西花尻の地に移転、妙法華寺として寺観を一新する。
現在、不変院西、正善院東に一空区画があり、その区画は新しいと思われる墓地となる。この墓地は「本了院霊園」とあり、以上から判断して、この位置に本了院はあったものと推定される。
2013/12/31撮影:
 本了院霊園銘
 塔頭本了院推定跡地:墓石が並ぶ所が本了院霊園と思われ、ここが塔頭本了院の旧地であろう。背後の堂宇は不変院
2014/06/29撮影:
 本了院推定跡地2     本了院推定跡地3:向かって左は塔頭正善院、右の大屋根は不変院
2015/06/23追加:
不変院の寺中であった時代の本了院位置は推定の通り、上掲載の北から見た不変院屋敷の図及び不変院屋敷見取図にて、正善院の東にあったことが分かる。
備中庭瀬妙法華寺:旧不変院塔頭本了院
覚如山本了院妙法華寺の「中興開山之記」 がWebサイトにあり、以下のように記す。
  2014/06/29撮影:中興開山之記
 「当山は寛永六年(1629)不変院の別院として建立された。開基は城国院日鳳聖人。往昔は覚如山本了院妙法華寺と称した。
大檀越庭瀬藩主戸川氏撫川移封に伴い、板倉藩国家老光岡氏が当山の大檀越となり基礎が確立された。
当山に歓請し奉る大摩利支天王は、天保五年(1834)森岡喜多右衛門武従公の帰依を得て日照聖人が宮殿を建立祭祀された戸川氏懐中木尊との伝があり、尊容比類を見ない神像である。
昭和六十年日蓮大聖人七百遠忌を記念して、西花尻の新浄地に十間四面(雨垂落)創建当時の室町期寺院建築様式に習い、大本堂を建立岡山市庭瀬旧跡より御木尊一塔両尊四士・祖師像・大摩利支天王の尊像を遷座移転した。
平成七年大摩利支天王祭祀以来亥年を算当三十一回この嘉辰を継紹して尊天の宮殿拝殿等を建立往昔の神殿様式を整え記念大開帳を奉行せり。
更に平成十四年日蓮大聖人開宗七百五十年を迎え、その記念事業として鐘楼・銅像建立を発願、余当山中興の祖に任じ信縁大衆の結集を計り聖業を推進するものなり。      平成八年十月堂宇落慶の日当山二十八世妙法華院日鑑」
2014/06/29撮影:
 妙法華寺山門     妙法華寺本堂     妙法華寺本堂内部     妙法華寺鐘楼
 摩利支天王拝殿     摩利支天王本殿     妙法華寺庫裡

備中不変院塔頭正善院
不変院西に位置する。開基は泉蔵院日榮上人、もとは天台宗で延友(備前・備中の境目川の辺、庭瀬の東南方向)にありと云う。天正14年(1586)庭瀬藩の寺町整備で現在地に移転され、日蓮宗に改宗する。寛文年間、中興泉蔵院日英上人を開基として以来、照山正善院と称す。
日朝上人子守鬼子母神および日朝上人像(眼目守護)を祀る。
2013/12/31撮影:
 塔頭正善院1     塔頭正善院2     塔頭正善院3
2014/06/29撮影:
 塔頭正善院/大乗院:向かって左が大乗院、右は正善院       塔頭正善院4     塔頭正善院5
2019/03/16撮影:
 塔頭正善院6     塔頭正善院堂舎     正善院日蓮大菩薩700遠忌報恩塔

備中不変院塔頭中正院
了性山と号する。
寛永19年(1642)5月、僧侶中正院日学上人により創立される。最初、庭瀬町川入(西花尻の西付近・現在三十番神堂がある場所が中正院のあった場所と伝える)にありしが、戸川 逵安により不変院塔頭として移転される。
明治維新前には被災し、一切を焼失と云う。
明治39年、現在地(栄町、不変院北方100m付近)へ新築移転される。
 ※明治39年移転前は当然不変院の周囲にあったものと思われるも、位置は未確認。
 ※川入三十番神堂は現在も地域の守護神として健在である。・・・上述の「備中川入三十番神堂」を参照
2015/06/23追加:
不変院の寺中であった時代の中正院位置は不明であったが、上掲載の北から見た不変院屋敷の図及び不変院屋敷見取図にて、判明する。
 塔頭中正院跡:2014/06/29撮影:正善院(右手建物)と大乗院(左手建物)との間の、現在は墓地となっている区画が中正院跡である。
備中庭瀬中正院:旧不変院塔頭
2014/06/29撮影:
 塔頭中正院山門     塔頭中正院題目碑     塔頭中正院本堂
2014/11/23撮影:
 中正院本堂内部

備中不変院塔頭大乗院
正善院西に位置する。「岡山・備前地域の寺」では長國山と号するとする。(長國とは不変院の寺号である。)
しかし本堂扁額には「八幡山」と掲げる。
なお、久遠成院日親上人像を守護神とする。
不変院住職談:現在は無住、正善院住職兼帯と云う。不変院より遅れ、八幡宮から当地に移転する。山号「八幡山」は庭瀬八幡宮から移転に因むものである。
「岡山・備前地域の寺」:八幡山千手堂の側にあり長國山松山寺と号す。不変院庭瀬に移り、天正14年(1586)不変院の側に移し寺中となる。戸川氏により改宗、大乗院と号す。
2013/12/31撮影:
 塔頭大乗院1
 塔頭大乗院2:2015/06/23追加:上掲載の不変院屋敷見取図からこの堂宇は日親堂と知れる。
久遠成院日親(鍋かぶり日親)を守護神とするというので、日親堂に上人像を安置するのであろう。上に掲載のように、備中川入題目碑群に備中川入日親上人碑(年紀は不明 )があり、日親上人はこの地にも来錫したのであろうか。
2014/06/29撮影:
 塔頭正善院/大乗院:向かって左が大乗院、右は正善院      塔頭大乗院3:手前の小宇が日親堂である。
2019/03/16撮影:
 塔頭大乗院4     大乗院日親堂


参考:
庭瀬藩:慶長7年(1602)関ヶ原の合戦で東軍に組した戸川逵安が庭瀬に29200石で入府し、庭瀬城に陣屋を構える。
これによって庭瀬藩が成立する。
 逵安は備宇喜多直家の時代数々の戦功をあげ、備前宇喜多家の家老(25600石)に登り、直家没後秀家の後見を勤めるも、次第に主君宇喜多秀家と対立する こととなる。 対立の背景には主君秀家派の重臣との間の権力闘争があり、さらに秀家とその妻豪姫とが切支丹に肩入れし、大部が日蓮宗の宇喜多家中に分裂が生じたことといわれる。
 慶長5年宇喜多家中でお家騒動が発生(いわゆる宇喜多騒動)し、家康の調停もあり、逵安は宇喜多家中を去り、家康の家来となる。その後は冒頭で述べたように、庭瀬藩の藩祖となる。
寛永4年(1625)戸川正安が襲封、襲封にあたり、三弟安尤(やすもと)に3400石を分知(早島戸川氏)、四弟安利に3300石を分知(帯江戸川氏)する。
寛文9年(1669)3代安宣が継ぐ。襲封にあたり、弟安成に1500石を分知(妹尾戸川氏)する。
延宝2年(1674)4代安風が襲封、弟の達富に1000石を分与、20000石を襲封。
延宝7年(1679)安風夭折し、無嗣断絶となる。しかし名跡は達富が継ぎ、新しく4000石を加増され、5000石で撫川に陣屋を構える(撫川戸川氏)。
元禄15年(1702)早島戸川家2代安明は、六男安通に中庄中島400石を与え分家させる。(中島戸川氏)
 →上掲の備中庭瀬大坊不変院、下掲の備中妹尾盛隆寺、備中早島妙法寺、備中羽島妙忍寺(帯江)を参照。
2019/08/25追加:
〇「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」戸川時代研究会、平成14年(2002) など より
撫川戸川氏
 菩提寺は江戸三田小山の大乗寺である。
麻布山大乗寺は元和4年(1618)大乗院日達の開山。京都妙覚寺に属する。
元禄11年(1698)住職日衷は遠流となるう。おそらく大乗寺は悲田派であったのであろう。
寺は天台宗日光門主上野寛永寺お預けとなる。(つまり天台宗に改宗されたということである。)
天保5年(1834)三等山永隆寺と寺号変更となる。
明治35年三田小山町より目黒区中目黒5-7-21へ移転する。
初代逵富、3代逵恒、4代逵邦、5代逵壽、6代逵義、7代逵寛は大乗寺に葬られる。
2代逵索(のり)は妹尾盛隆寺に葬られる。8代逵敏(とし)は讃岐松平氏からの養子であり、明治27年宮脇村西方寺に葬られるも、明治40年庭瀬不変院に改葬される。
2017/04/17追加:
 戸川家系図
2013/12/31撮影:
 備中撫川城跡1     備中撫川城跡2     備中撫川城跡3     備中撫川城跡4     備中撫川城跡5
2019/03/16撮影:
 備中撫川城跡撫川知行所総門     備中撫川城跡土塁:東南隅
 備中撫川城跡南石垣     備中撫川城跡西石垣1     備中撫川城跡西石垣2
その後、宗家撫川、早島、帯江、妹尾の4家とも明治維新まで存続する。
庭瀬藩は戸川氏廃絶の後、久世氏、松平氏と交替し、元禄12年(1699)板倉氏が20000石で入府、明治維新まで知行する。
 備中庭瀬城跡1     備中庭瀬城跡2     備中庭瀬城跡3     備中庭瀬城跡4     備中庭瀬城跡5


2022/10/05作成:2022/10/05更新:ホームページ日本の塔婆