播 磨 ・ 淡 路 の 日 蓮 宗 諸 寺

播磨・淡路の日蓮宗諸寺

播磨の諸寺

明石本松寺
慶長元年(1596)豊臣秀吉家臣藤井新右衛門(与次兵衛)勝介を檀越とし、明石川河口の西南にある船上(ふなげ)城下に創立される。開山は審理院日甫上人。
当初は「本正寺」と号する。慶安4年(1651)の松平忠国(明石藩主)の黒印状には「本正寺」とあるといい、貞享3年(1686)の松平直明の寄進状には「本松寺」とあるというので、この頃寺名が変わったようである。
元和3年(1617)小笠原忠真は明石に封じられ、明石川河口の東に明石城を築城、船上城を廃し城下町を建設する。
元禄4年(1691)明石城下の興隆を見て、檀越斎藤甚左衛門利政(島左近の末裔、宝永6年逝去)、美濃部九郎三郎等の盡力により、旧東長寺跡である現在の地に移転する。
鎮守として妙見大菩薩を祀る。この妙見大菩薩は島左近の崇拝した尊像であるといい、後年、明石藩に仕え本松寺檀徒となった島家の末裔により奉納されたという。
また、宮本武蔵が作庭したと云われる枯山水の庭を有する。
 ※明石善楽寺円珠院(→播磨善楽寺)及び如意寺寺中福聚律院 (→播磨如意寺中)にも武蔵作庭と云われる庭が残る。
平成七年の阪神淡路大震災により、甚大な被害を受け、本堂庫裏はほぼ全壊するも、近年漸く復興もなり、寺観も整ったようである。
2016/04/26K.G氏情報:
法栄山と号する。六条本圀寺末、法縁:奠統会(奠師法縁)
2016/04/09撮影:
 山門前題目碑   明石本松寺   明石本松寺山門1   明石本松寺山門2
 明石本松寺本堂1   明石本松寺本堂2   明石本松寺庫裡
 歴代石造宝塔:平成19年旧墓碑を統合して宝塔を建立する。    歴代旧墓碑1
 歴代旧墓碑2:開山審理院日甫上人、第七世中興浩岸院日芳上人等の墓碑が写る。
  日芳上人代に船上村から明石の現地に遷る。
本松寺妙見は谷の妙見と云われるようである。(本立寺妙見は浜の妙見と云われる。)
 本松寺妙見大菩薩1   本松寺妙見大菩薩2   妙見大菩薩庭園1   妙見大菩薩庭園2
  妙見大菩薩拝殿     妙見大菩薩開運殿1   妙見大菩薩開運殿2   妙見大菩薩本殿

明石大聖寺
以下はサイト「明石 大聖寺聖徒団」のページを要約。
文安3年(1446)10月揖保郡室津にて創建される。開基は大覚妙実上人(大覚大僧正)、開山は大要院日恵上人。
文安3年室津に寄港した大覚大僧正は海難被害者の慰霊と祈願のために「法華堂」を建立し、それが基盤となり備中大覚寺より来山した日恵上人が寺院として創立する。
寺号の由来は、開山の師範である京都妙覚寺九世大聖院日延上人の院号にちなみ「大聖寺」と称する。
 ※大覚大僧正開基という。しかし、下に掲載している室津大聖寺の諸記録には大覚大僧正開基の寺歴はなく、
 どのような記録によって大覚大僧正開基とするのかは不明である。
明治維新後、室津の港は衰頽し、それに伴って大聖寺も衰退を始める。
明治40年明石在住の資産家三國茂三郎(大聖寺檀家)の発願により、兵庫県に室津大聖寺「移轉寺御願」が提出される。
 移轉寺御願
      京都市上京區本山妙覺寺末
      兵庫縣揖保郡室津村
            日蓮宗 大聖寺
 右大聖寺ハ少檀無財産ニシテ漸ク維持シ来候然ルニ近来時勢ノ變遷ニ伴ヒ檀信徒ノ多クハ明神地方ニ移住シ目下當地在住ノ檀徒ハ僅ニ五戸ニシテ愈ク維持困難ヲ極メ且ツ永年無住職ニ付同縣下飾磨郡御着村法華寺大澤日妙ニ於テ百般寺務取扱来候得共到底永續ノ見込難相立苦慮罷在候■(ママ)幸ニ乙地信徒中三國茂三郎ハ前代ヨリ篤信者ニシテ今回自分所有ノ地所竝ニ建物等別紙寄付契約公正證書ノ通リ同縣同國明石郡明石町ノ内大明石村字上ノ丸三百八拾三番地ノ三宅地弐百弐拾四坪ヲ境内敷地トシ現在建家五拾八坪六合五夕ヲ一時假本堂兼庫裡ニ充當シ別紙弐号書ノ如ク
             ・・・以下省略・・・
    明治四拾年十月二十日
         右寺無住ニ付寺務扱人
    兵庫縣飾磨郡御着村法華寺住職
          僧都 大澤 日妙 印
         右寺甲地檀家総代
    同縣揖保郡室津村・・・番地
             吉村 叶次 印
              :
同時に、同じ末寺である岡山県久米南条郡原田東村(現久米郡美咲町原田)の學永寺(覺永寺)と合併させ、日宣上人を二十世住職に迎え、明石への移転が実現する。
新寺には三國茂三郎から多額の寄付があり、「三國山大聖寺」と改号し、明石で再出発する。
しかし、太平洋戦争の敗戦で三國氏は没落し、大聖寺も衰退する。
昭和31年21世日成上人代日蓮宗から離脱、「三国寺」と改号する。日成上人寂後、無住となる。
昭和47年身延山勤務・甲斐源立寺住職日康上人が、二十二世となり晋山、日蓮宗に復し、再び「三國山大聖寺」と改号する。
昭和49年十一面観音像を安置した慰霊塔を建立。
平成7年阪神淡路大震災で半壊となるも、翌年驚異的な速さで復興する。
三國山と号する、京都妙覚寺末、法縁:奠統会(奠師法縁)
2016/04/09撮影:
 明石大聖寺山門   山門前石碑:台石には三國寺と刻み、「三國寺」と改号していた時のものであろう。
 山内題目碑     明石大聖寺本堂     大聖寺本堂・慰霊塔     本堂上日蓮上人像     明石大聖寺慰霊塔
○旧本堂と庫裡の写真が大聖寺のFacebookに掲載があるので転載する。
2014年に現本堂竣工、旧本堂・庫裡は2013年に取り壊し。
 2013/04大聖寺旧本堂1:本堂前の題目碑などは既に撤去されている。     2013/07大聖寺旧本堂2:解体工事2日目
 2013/07大聖寺旧本堂・庫裡    2013/07大聖寺旧庫裡:右端に山門・慰霊塔が写るが、この2宇は現存する。

明石本立寺
○本立寺は小笠原氏の移封及び移転の都度、小笠原氏と行動を共にする。
信濃松本に創建されるが、小笠原氏の明石転封で明石に移転、さらに豊前小倉に移封され、小倉に移転、最後は幕末の第ニ次長州征討で小笠原氏は小倉を失地、藩庁を豊前豊津に移転、それに伴い本立寺も豊津に移転し現在は豊津に現存する。
○信濃松本本立寺
究意院日ワ辮l(六条本圀寺16世、嵯峨常寂光寺開山)信濃松本に本源寺を開山。
開基は延寿院(小笠原秀政の生母、小笠原忠真の祖母)と伝える。
以上が本立寺の前身である。
 ※松本時代の本立寺には複雑な履歴がある様子であるが、煩雑なので割愛する。
 詳細は「城下町探訪44 2010/2/4 本立寺跡と伊織霊水」(PDF文書)を参照。
○播磨明石本立寺
元和3年(1617)小笠原忠真信濃松本より播磨明石に転封、本源寺も共に移転し、本立寺と称する。
寛永9年(1632)小笠原忠真明石より豊前小倉に転封、本立寺も小倉に移転する。
 ※以上で明石本立寺は一度消滅する。
寛永10年松平康直信濃松本より明石に入部、翌11年淡路刈屋浦の本妙院日種上人旧本立寺の跡地を拝領し妙圓院を建立。
後、妙圓院は本立寺と改号する。
 ※寛永11年の圓妙院建立が現明石本立寺の直接の基ということになる。
昭和20年戦災にて焼失し、平成15年漸く戦災復興の浄願を成す。
2016/04/26K.G氏情報:成道山と号する。六条本圀寺末、法縁:奠統会(奠師法縁)
2016/04/09撮影:
 明石本立寺山門   山門前題目碑   山門内日蓮碑   明石本立寺本堂   明石本立寺庫裡
 明石本立寺妙見堂:浜の妙見さんと呼ばれる。
○京洛本蔵寺(一道院)の合流
昭和20年山城本蔵寺(勅願所一道院)戦時の強制疎開の措置で全建物破毀されるも、再興の目途が立たず、本立寺に本蔵寺本尊及び什宝を遷す。
ここに寺屋敷の再興を断念した京都本蔵寺は実質廃寺といって良く、本尊及び什宝は明石本立寺が引き継ぎ、本蔵寺は本立寺へ合併すると云って良いだろう。
「拾遺都名所圖繪」では
一道院 〔堀川通五条坊門にあり、法華宗本圀寺に属す。開基は吉祥院日喜上人、中興は一道院日法上人、本蔵寺と号す〕
日蓮上人像 〔和泉阿闍梨日法上人の開眼なり。霊元法皇の勅願所として、経王祈祷所の額を賜ふ〕
とある。
○山城堀川本蔵寺
東堀川佛光寺、六条本圀寺末、開山吉祥院日喜上人。
本蔵寺6世一道院日法上人<万治2年(1659)-享保4年(1719)/享保5年(1720)>は「大験者」として名高く、霊元法皇の病気快癒を祈祷、霊験が現れ、上人は「一道院日法上人」の称号を賜る。
昭和20年戦時の強制疎開で、寺敷は強制買い上げ、堂宇は破却、檀家もなく、再興の方途がたたず、再興は断念し、明石本立寺に本尊・什宝を格護することになる。
ところで、山城嵯峨常寂光寺は究意院日ワ辮lの開基であり、つまり、松本本立寺開基上人が同一であり、加えて一道院日法上人は常寂光寺に遷化(迁化)の記録がある。つまり上人は常寂光寺歴世たることを知る。しかしながら、常寂光寺への転住の経緯詳らかならず、加えてその墓所の何処たるを知らずという。
常寂光寺年表では、正徳5年(1715)一道院日法が入山、当山で遷化という。
要するに、嵯峨常寂光寺、堀川本蔵寺、松本及び明石本立寺は縁で結ばれている関係である。
以上の縁であろう、平成16年(2004)明石本立寺野口僧正と夫人により常寂光寺に開山堂が建立され、新たに発見された日ワ辮l坐像が安置される。同年、日法上人墓も開山堂傍らに建立される。
 → 山城嵯峨常寂光寺
○豊前小倉本立寺
寛永9年小笠原忠真明石より豊前小倉に転封、それに伴い本立寺も小倉に移転する。
 ※小倉本立寺に関する情報はWeb上皆無である。
慶応元年(1865)第二次長州征討において、小倉藩は幕府軍の先鋒として長州軍と戦うも、結果として敗北、小倉城も自ら焼き、小倉を失地する。
慶応3年藩庁を香春に移転し(香春藩)、さらに明治2年京都郡豊津に藩庁を移し、豊津藩となる。これに従い、小倉本立寺も豊津に遷り、現存する。 (京都郡みやこ町豊津722)

播磨東条久遠成寺
2017/02/18追加:
真如山と号する。京都小川本法寺末。
「加東郡誌」加東郡教育会、大正12年(1923) より
加東郡上東条村椅鹿谷。大正9年創立、開基久保寛厚、建造物:日親堂。
「日親と日蓮信仰」(週間朝日百科 仏教を歩く bQ4」2004)
<東条法難の地>とだけある。

播磨御着法華寺
大乗山と号する。京都六条本圀寺末。
「播磨御着」御着史跡保存会 リーフレット より
永享年中(1426-40)当地に法華堂一宇が建立され京都本圀寺に属した。
文明9年(1477)日登上人代、山号寺号を公許される。日登上人は本圀寺15世中道院日栖上人弟子で、諸国を弘教、当地にて法華寺を開山する。文明16年(1484)法華寺を弟子日真上人に譲り、山陰を巡化、石見の浜田にて遷化という。
なお、姫路法華寺<下に掲載>は山号を大乗山といい、「もと三木郡にありしも天正年中高照院日登が御着村に移す。さらに慶長年中真如院日如が現地に移す。」という。これによれば、御着法華寺は もと三木郡にあり、それを天正年中日登上人が御着に移し、さらに慶長年中御着から姫路に移され姫路法華寺となるという。このことについては、上記リーフレットは一切言及がない。
2016/06/02撮影:
 御着法華寺門前題目碑:宝永7年(1710)年紀    御着法華寺山門
 御着法華寺山内題目碑1:大正4年年紀        御着法華寺山内題目碑2:安永10年(1781)年紀
 御着法華寺本堂     御着法華寺玄関     御着法華寺庫裡     御着法華寺鐘楼
 御着法華寺三十番神堂     三十番神堂内部
●参考:御着には御着城跡、大歳社、小寺大明神、黒田家廟所、天台宗延命寺など多くの旧跡がある。
◇黒田家廟所:黒田孝高(如水)の祖父重高と母(明石氏)の廟所である。黒田氏は御着城主小寺家の家老で姫路城に住した。
現在の廟所は亨和2年(1802)筑前黒田藩によって資財を筑前から運び造営される。
 御着黒田家廟所1     御着黒田家廟所2     御着黒田家廟所3
◇御着庚申堂:村の辻堂の様相を呈する庚申堂が残る。現在祭神は自然石に猿田彦と刻んだものが置かれているが、本来は青面金剛あるいは帝釈天を祀ったものであったと思われる。おそらく明治の神仏分離の処置で本尊の青面金剛が廃され、猿田彦などというものが祀られたのであろうと推測する。
 御着庚申堂     御着庚申堂猿田彦

播磨林田宝塔寺:詳細は不詳、以下が辛うじて分かる。
おそらく四条妙顕寺末であろうと推測する。その根拠は以下の通り。
 龍野真浄山常照寺の由緒は以下のように云う。
 7世慈雲院日瑞上人の代、宝永4年(1707)に藩主脇坂安照の側室円光院の帰依をうける。(塔頭一山浄心院の建立)
 宝永6年(1709)大本山妙顕寺25世日啓上人より、曼荼羅本尊を日瑞上人に授与。
 正徳元年(1711)祖師日蓮聖人像が開眼、同4年祖師堂建立。翌5年庫裡建立。
 元文3年(1738)林田に林田庵(のち宝塔寺)が建立、日瑞上人の隠居所となす。
宝塔寺は高照山と号す。歴山譜では開山は慈雲院日瑞上人(常照寺7世、寛保3年/1743遷化)とする。
2013/12/22撮影:
 林田宝塔寺山門     林田宝塔寺題目碑     林田宝塔寺本堂庫裏?
 林田宝塔寺三十番神堂1     林田宝塔寺三十番神堂2     林田宝塔寺鐘楼

姫路日蓮宗諸寺(五軒邸上寺町及び坂田町下寺町):2014/01/09撮影:

姫路五軒邸<ごけんやしき>左側(上寺町)に8ケ寺が南北に現存するが、天台宗正明寺を除きすべて日蓮宗・法華宗の寺院である。しかし、なぜ、日蓮系統の寺院が集中するのかは不明である。なお、五軒邸は基本的に多くの侍屋敷があった町であったと云う。
さらに五軒邸南の坂田町の東(下寺町)側にも寺院が並び、6ケ寺の内2ケ寺が法華宗である。
なお、坂田町とは左に寺院が並ぶ左片町の転化と云う。
現状は以上であるが、
現在の上寺町・下寺町は、慶長の池田輝政の築城による町割で五軒邸西側、坂田町東側に寺院が集められ、成立と云う。(「日本歴史地名大系 巻次29−2 兵庫県U」)

姫路五軒邸上寺町
妙立寺:顕本法華宗:慶運山と号する。
慶長9年日圓(遠江吉美郷より招聘する)の開基。昭和20年の空襲で山門以外の堂宇を焼失する。
2014/01/09撮影:
 五軒邸妙立寺山門     五軒邸妙立寺山門・宝蔵?     五軒邸妙立寺題目碑     五軒邸妙立寺本堂
 五軒邸妙立寺宝蔵?

妙善寺:顕本法華宗:勢立山と号する。
慶長年中日善の開基。
2014/01/09撮影:
 五軒邸妙善寺山門     五軒邸妙善寺本堂・庫裏

圓光寺:日蓮宗;長明山と号する。
飾西郡坪田村にあり、慶長年中現地に移る。圓観院日善の開山。
2014/01/09撮影:
 五軒邸円光寺山門     五軒邸円光寺本堂・鐘楼
2016/04/26K.G氏情報:長明山と号する。六条本圀寺末、法縁:親師法縁、中本寺
 中本寺に付き、次の末寺を有する。
 妙法山園林寺 兵庫県篠山市追入149-1
 一妙山圓融寺 兵庫県加西市北条町338
 一乗山圓林寺 兵庫県加西市和泉町815
 帰命山日啓寺 兵庫県神崎郡神河町上岩195

本領寺:日蓮宗:光栄山と号する。
元和9年(1623)坂田町に創建され、本領院日賢(下総中山法華経寺の寺僧か)の開基。寛永16年(1639)法華口に移り、万治3年(1660)現地に移る。
2016/04/26K.G氏情報:光栄山と号する。六条本圀寺末、法縁:繁珠会(達師法縁)
2014/01/09撮影:
 五軒邸本領寺本堂

法華寺:日蓮宗;大乗山と号する。
もと三木郡にありしも天正年中高照院日登が御着村に移す。さらに慶長年中真如院日如が現地に移す。 (慶長5年池田輝政の築城、町割で現在地に移転。)法華宗播磨国触頭の地位であった。京都六条本圀寺末。
 ※御着(御着村)には上述のように大乗山法華寺が現存する。御着法華寺は日登上人代山号寺号の公称を許されるという。
享保年中に堂宇を再建、この堂宇は明治初期の失火で焼失。城内千姫堂を移して本堂する。これも昭和20年空襲で焼失、後に千姫堂は復元される。
2016/04/26K.G氏情報:大乗山と号する。六条本圀寺末、法縁:親師法縁
2014/01/09撮影:
 五軒邸法華寺山門     五軒邸法華寺全容     五軒邸法華寺本堂     五軒邸法華寺玄関庫裏

妙國寺:日蓮宗:×妙光山と号する。→妙光山は誤、常在山と号する。
天文20年(1551)置塩城下に本講院日受が開山、開基は置塩城主赤松則房。のち河間町に移転、慶長年中に現地へ移る。
なお、置塩古城下には永禄年中等の碑銘が残り、今も妙國寺屋敷と呼ばれるという。
2016/04/26K.G氏情報:常在山と号する。四条妙顕寺末、法縁:繁珠会(達師法縁)
2014/01/09撮影:
 五軒邸妙国寺山門     五軒邸妙国寺本堂

永寿寺跡
※松平大和守家の転封とともに移転を8回程度繰り返した日蓮宗永寿寺は姫路時代五軒邸妙国寺付近にあったという。
 →永寿寺は上野前橋永寿寺<関東の諸寺中>を参照。

大法寺:日蓮宗
永禄年中(1558-)一心院日就の開基。慶長6年池田輝政の命で現地に移る。
昭和20年の空襲で灰燼に帰す。平成元年本堂・庫裡・客殿が再建される。
2016/04/26K.G氏情報:妙光山と号する。四条妙顕寺末。
2014/01/09撮影:
 五軒邸大法寺山門     五軒邸大法寺本堂     五軒邸大法寺境内

姫路坂田町下寺町
妙行寺:法華宗真門流:圓修山と号する。
慶長6年(1601)池田輝政夫妻の発願で建立される。本覚院日正上人の開山。
山門は享保7年/1722建立、昭和20年7月の姫路空襲で山門以外を焼失、現在は山門の他、本堂・庫裡・檀信徒会館・書院を有する。戦災復興で北側土地約300坪を道路に供用する。現在境内は約1000坪。
なお、日露戦争時、ロシア兵捕虜収容所であったと云う。
2014/01/09撮影:
 坂田町妙行寺山門     坂田町妙行寺本堂1     坂田町妙行寺本堂2     坂田町妙行寺庫裏
 坂田町妙行寺北門・本堂・庫裏

妙圓寺:法華宗陣門流、相模小田原喜見坊の開山で、池田輝政の城下町地割の時招聘され、慶長18年建立される。
開山は日能。
 未見。

姫路白国
蓮長寺:日蓮宗:顕正山と号する。
白国にある。情報皆無で詳細不詳。
2014/01/09撮影:
 白国蓮長寺:向かって右が本堂、中央右に日蓮上人像、左は庫裏などであろうか。
2014/05/06追加:K.G氏情報:
白国蓮長寺は昭和35年創建の新寺である。

2013/12/22撮影:
播磨龍野本行寺:法華宗真門流本隆寺末寺
遠壽山と号する。開創は:正平7年(1352)と云い、:大永8年(1528)改宗、開山は要法院日順上人(元亀元年(1570)寂)
なお、讃岐丸亀本行寺は万治元年(1658)竜野より移されると云う。これは同年竜野城主京極高和が竜野6万石から丸亀6万石余に移封されたことによるものである。
現在山門、本堂、鐘楼、庫裡を有する。
 竜野本行寺山門     竜野本行寺本堂     竜野本行寺鐘楼     本行寺歴代墓所

室津大聖寺・・・未見
○「日本歴史地名大系 兵庫県の地名U」1999 では
室津:・・・寺院は・・・日蓮宗大聖寺がある。
とあり、室津に大聖寺は現存すると思われる。
 ※室津大聖寺は明治末期、明石に移転するも、その後も屋敷・堂舎はそのまま現地に残り、現在も健在であると思われる。
○「播州室津追考記」寂静寺蔵、文化十年(癸酉)(1813) では
第十 恵光山大聖寺:・・昔は・・・繁栄なりしかいつとなく大破に及びて檀家なとも纔に残りし処に自正院日巡明暦年中(1655-)に再興せられし也。その時本寺なくてハとて則洛陽本圀寺の末寺となる。その後寛文のはじめ・・・京都妙覚寺の日充聖人末寺改めに西国に下向あり、その折からこの大聖寺も古より末寺なるよし古帳を持ち来たりて僉議遂げられ・・・・妙覚寺の末寺と成し也・・・・・
○「室津明細手控帳」明和7年(1770)見習・安永6年(1777)本役(「御津町史W」所収) では
一、恵光山大聖寺 北向 東西4間半南北9間 法華宗京具足山妙覚寺末
本尊 ・・・ 庫裡 3間ニ4間 地蔵堂 1間2尺ニ1間
境内 東西13間南北9間半 什物畠三十四枚・・・
慶長年中大穹院日恵中興 明暦年中自正院日巡本圀寺の末と成る 寛文年中公儀より御吟味にて妙覚寺日弁上人自往古末寺帳に有之由申立又妙覚寺末となる。
 ※以上の諸記録には大聖寺が大覚大僧正の開基であることは触れられていないが、以下の様に明石大聖寺の寺伝では大覚大僧正開基という。
○サイト「明石 大聖寺聖徒団」では以下の様に云う。(要旨)
文安3年(1446)10月揖保郡室津にて創建される。開基は大覚妙実上人(大覚大僧正)、開山は大要院日恵上人。
明治維新後、室津大聖寺は衰微し、
明治40年明石在住の資産家三國茂三郎の発願により、室津大聖寺「移轉寺御願」が出され、明石に移転する。
 ※上述のように明石に移転するも、室津の屋敷・堂宇はそのまま残されたものと思われる。
 また、明石大聖寺の寺伝では大覚大僧正開基というも、近世の記録には記されず、不確実であろう。


淡路の諸寺

淡路大聖山妙京寺

淡路三立山妙勝寺


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