御 流 儀/芳 賀 顕 本 寺

御流儀/芳賀顕本寺

御流儀

「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 及び「備前顕本寺」のサイト では以下のように述べる。
 (情報の一部は富士大石寺の若干のサイトから情報を得る。)

●概要
近世の寺院に住む僧侶ほど宗教者として醜いものはなかった。
即ち僧侶たちは封建権力の手先となり民衆の思想統制に協力し、そのかわりに寺請制度によって保護されていた。彼らは飢えた民衆には眼もくれず、檀家から徴収する志納金によって豊かな暮らしをしていた。要するに腐敗堕落していたということで、儒家や国学者の批判する所以であった。
18世紀には日蓮教団の中からも批判集団が出現する。御流儀や仏立講と称する改革運動である。
ここで御流儀とは日蓮の流儀を正しく継承するという意味であるが、当然、体制の一部となった教団からは異端として迫害を受ける。
明和の頃(1764-)堅樹日好を盟主とする7人の僧侶が門流と教学を超えて提唱したものである。
当時の寺院が権力と妥協し、宗旨の眼目である折伏を放棄している以上、そこには仏道はないと主張するものである。
●堅樹院日好
明和8年(1772)堅樹日好は日朗門流から富士大石寺に転じ、富士大石寺教学を奉ずる。
大石寺に転ずるも、まもなく大石寺批判を繰り広げる。そのため、日好は幕府の禁ずる「異端儀」として捕縛され、流罪となり、初めは三宅島後には利島に流され、在島38を数え、文化9年(1812)に74歳で寂する。
日好の同志には悦可日巧、日達、日浄等がいたという。また、日好の門下として、菩提日寛、唱題日悟、臨導日報等が知られ、中でも臨導日報は日好教学の大成者といわれるようである。
●悦可院日巧(悦可坊)
日好の同志である悦可日巧は三備地方に大きな影響を与え、その教学は不受不施に富士教学を折衷したものであったという。
日巧は備前生まれ、大坂曾根崎法清寺住持であったが、明和3年(1767)折伏主義を唱えて本寺である本満寺を攻撃、入牢となる。
出獄後、河内丹北鯛(田井)城を本拠とし弘教する。寛政7年(1765)逝去する。
●大導坊日唱
日巧の教義は備前・備中・備後に波及する。即ち、この地方は福山妙献寺出寺僧日唱(備中神島出身)が布教したという。
この時代は近世封建制が行詰り、百姓が困窮の度合いを深めた時代であった。このような閉塞を打破する息吹であったといえるのであろう。
 ※福山妙献寺の情報はなく、不明。
 ※大導坊日唱上人:「備中神島に生誕、玉島黒崎仏乗寺真善院日明(野山妙本寺第26世)のもと剃髪得度、30歳頃より日蓮の本意は折伏立行にありと四箇格言を唱え備後・備中で教線を張る。 「40歳頃よりしばしば弟子と共に京都・摂津・浪速・河内に赴き悦可坊日巧と親交を持つ。寺に住せず 無宿僧となり、土豪・豪農・豪商の庇護のもと備前・備中・備後に御流儀の化を布き給う。」という。
●完器講
日好門下の臨導日報の影響のもと、伊勢亀山藩の後藤増十郎とその妻つき(妙聴)は、江戸に「完器講」を組織し、堅樹流を弘教する。
結果、後藤増十郎も異端として捕縛され、三宅島に遠島に処せられ、明治3年放免されるも、間もなく逝去する。完器講はその妻・妙聴を中心として東京で流布する。
明治6年日報逝去、その後完器講は徐々に大石寺に回復され、明治中期には消滅するという。

2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
御流儀は江戸期弾圧をうけたが、明治15年大石寺末寺の僧籍を得た「日深」により顯本寺が建立される。
信徒の分布は岡山市西北部、御津町南部、備中神島、福山、府中で約500軒(御津町57軒)。

芳賀顕本寺

●芳賀顕本寺
明治14年、市川日深(明治維新の後大石寺末寺の僧籍を得る)は備前芳賀に顕本寺(大導山と号する)を創建し、御流儀の本寺とする。
「当所芳賀の市川元六、現状を憂い、堂宇を建立し、一寺となし御流儀の本山を 創設せんと意を決し、家族を捨て 仏門に身を投ず。縁者信本日諦の仲介で本門宗讃岐法華寺日弘上人のもと剃髪得度、本地阿闍梨日深と名乗り 富士北山本門寺の傘下に入り、明治14年顕本寺創立、その基となす。」
さらに、備中神島出身の小見山三學によって、教義の整備が行われる。
信徒は御津郡南部、津高町、備中神島、備後福山・府中方面に分布という。
 ※顕本寺は現在は日蓮宗に属する。御流儀の教義からは解せない話ではあるが、顕本寺創建時、北山(重須)本門寺の傘下に入」るというから、重須に属するということなのであろう。
 2016/12/12追加:重須本門寺直末という。
2014/08/14岡山「A」氏撮影;
 岡山芳賀顕本寺山門
「岡山の宗教」より転載
 岡山芳賀顕本寺山門2     岡山芳賀顕本寺本堂
●報恩大師生誕地
顕本寺境内に「報恩大師産湯の井戸」が残る。というより、顕本寺のある地は報恩大師(摩訶上人)の生誕地であり、その伝承の地に明治になって顕本寺が創建されたということであろう。
 →報恩大師開基・備前四十八ヵ寺
報恩は備前国津高郡波珂(今の芳賀)に生まれ、15歳の時応永山法華経寺(今の日応寺)に入り、快賢芳賀坊と称する。三十歳で大和吉野山へ分け入り修行する と伝えられる。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大導山と号する。北山本門寺末。
開基本地阿闍梨日深(明治25年寂、63歳)。三派合同以前は本門宗。
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
当山は御流儀派と呼ばれ、大導日唱、悦可日巧を先師と仰ぐ。
日唱は備中神島中村の小見山家の生まれで、備後府中法音寺に住し、折伏主義を唱導し、箱田の宝珠庵を根拠にして三備に布教する。
日巧は浪速に生まれ、大坂曽根崎法清寺住職となるが、明和3年(1766)折伏を唱えて本寺本満寺を攻撃したため、追院される。
日唱と日巧は相携え、四個格言折伏唱題して度々法難に遭う。
明治3年芳賀の市川元六は信仰の故に投獄されるも、御流儀信仰の者には法要を行わないという諸寺の盟約があり、困っていた信徒たちと一寺建立を発願し、明治15年讃岐法華寺の末寺として認可される。
元六は日深と号し、開基となり、当山を建立する。
2019/11/07撮影:
 芳賀顯本寺山門1     賀顯本寺山門2
 芳賀顯本寺境内その1     芳賀顯本寺境内その2     芳賀顯本寺境内その3
 芳賀顯本寺本堂1     芳賀顯本寺本堂2     芳賀顯本寺本堂3     芳賀顯本寺扁額
 芳賀顯本寺玄関客殿     芳賀顯本寺客殿その他
 芳賀顯本寺堂宇1     芳賀顯本寺堂宇2:祖師堂あるいは開山堂の類であろう。
 芳賀顯本寺鐘楼1     芳賀顯本寺鐘楼2     題目石(日蓮花押)
 開基日深墓碑     顯本寺歴代墓碑1     顯本寺歴代墓碑2
 報恩大師産湯井1     報恩大師産湯井2
 スアノヲ神社石階:スサノヲ神社は疫神社といい、牛頭天王が改称されたようではないので、未見。


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