備 中 妹 尾 盛 隆 寺

備中妹尾盛隆寺

★備中妹尾盛隆寺
「妹尾千軒皆法華」と称される妹尾の中心寺院である。大寺と通称される。
啓運山と号する。戸川逵安母堂妙承尼は達保の妹・真了院殿妙園(宇喜多忠家室)の菩提を弔うために創建する。庭瀬不変院城國院日鳳上人を招じて開基する。以降幕末まで、不変院と兼帯であった。
(元は真言宗であったが妹尾戸川氏により改宗されるという。)(「戸川家系図」)
 ※日鳳上人は京都妙覚寺日典上人弟子、日奥上人の兄弟子という。
寛文年中まで京都妙覚寺末、 日奥上人が寛文の法難(不受不施禁制)で対馬に流罪、妙覚寺が身延に接収され身延支配となったため、妙覚寺を離れるも、本末改めのため、止むなく小湊誕生寺末となる。
 2019/07/08追加:
 ○「わたくしたちの福田村」わたくしたちの福田村編纂委員会、昭和58年 より
 寛文5年京都、本山妙覚寺が接収され、妙覚寺へ受派身延山から日乾が入山、庭瀬・妹尾の信徒は怒り、
 本山から離脱、無本寺となる。
 この時、庭瀬4代安風が9歳で早世、戸川家は断絶、下総板宿より久世氏が入部する。
 この久世氏の斡旋で庭瀬・妹尾の両山は小湊誕生寺末に列することとなる。
境内は3000余坪。仁王門・本堂・鐘楼・三十番神堂・観音堂・七面堂・稲荷堂・客殿・庫裏などを具備する。
智応院・浄園院・善立院・安祥院・観行院(俗に西之寺という、境内外の西にある)の5寺中がある。
境内の妹尾戸川家墓所には佐渡流罪となった日庭上人の供養塔がある。
  →日庭上人、青山自證寺(長遠院)日庭、不受不施派後六聖人
○2014/03/10追加:

「A」氏(岡山模型店DAN)2008/10/22撮影/ご提供:
 妹尾盛隆寺参道
 妹尾盛隆寺本堂1
 妹尾盛隆寺本堂2:左図拡大図
無印は2014/06/29撮影、◇印は2018/12/27撮影:
仁王門:宝暦12年(1762)
 盛隆寺仁王門1     盛隆寺仁王門2     盛隆寺仁王門3     ◇盛隆寺仁王門4
 盛隆寺参道2
 本堂前題目石
 2019/08/25追加:
 〇「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」戸川時代研究会、平成14年(2002) より
 盛隆寺宝塔:高さ525cm、横幅90cm、台石220cm、地上より745cmを測る。
 裏面には安政3年の年紀と両山16世日真と刻む。
 盛隆寺題目碑1     盛隆寺題目碑2     ◇盛隆寺題目碑3:本堂前
 ◇本堂前法華経塔:妙法蓮華経如来寿量品第十六塔、施主片島妙任寺観要院日達、文化7年(1810)年紀、但し享和3年(1803)の年紀もあるが文意が不明。観要院日達は妙任寺9世文化7年寂。
本堂:天明2年(1782)、八間四面
 盛隆寺本堂11      盛隆寺本堂12     盛隆寺本堂13     盛隆寺本堂14     盛隆寺本堂15
 ◇盛隆寺本堂16    ◇盛隆寺本堂17    ◇盛隆寺本堂18    ◇盛隆寺本堂19
 盛隆寺本堂扁額     盛隆寺本堂向拝     盛隆寺本堂組物1     盛隆寺本堂組物2
 盛隆寺本堂内部1    盛隆寺本堂内部2    盛隆寺本堂右脇檀
 盛隆寺本堂宮殿組物1     盛隆寺本堂宮殿組物2     盛隆寺本堂宮殿組物3
 盛隆寺本堂天井絵1     盛隆寺本堂天井絵2     盛隆寺本堂天井絵3     盛隆寺本堂天井絵4
 盛隆寺本堂天井絵5
 盛隆寺鐘楼:嘉永7年(1854)移築    ◇盛隆寺鐘楼2
客殿:宝永7年(1710)以前、観音堂:天保5年(1834)、
 盛隆寺玄関     盛隆寺客殿1     盛隆寺客殿2    ◇盛隆寺客殿3
 盛隆寺番神堂・観音堂     盛隆寺番神堂     盛隆寺観音堂1     盛隆寺観音堂2
 盛隆寺勝尾稲荷     盛隆寺七面社
 ※位牌堂(安政6年1859)が存在するようであるが不明。
盛隆寺戸川家墓所(2019/08/25追加・修正)
2019/08/25追加::2023/04/23加筆修正:
〇「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」戸川時代研究会、平成14年(2002) より
 戸川逵安の戒名は不変院覺如日真大居士、墓は池上本門寺永寿院と庭瀬不変院に建てられ、不変院の墓は後に妹尾盛隆寺に移される。
◆戸川逵安の側室
 戸川逵安の正室は岡豊前守元忠の娘で戒名は妙如日覚大姉とい、墓は初め不変院に建てられるが、後に盛隆寺に移される。
戸川逵安には妙慶と称する側室がいた。
博多日蓮宗香正寺過去帳に「朝鮮人日延上人の姉は備中庭瀬藩主戸川逵安公の室となり、萬治元年(1656)卒す。戒名本樹院妙慶日法大姉」とある。
つまり、朝鮮人である可観院日延の姉と伝える。
「きびのさと」宇垣武治著では次のように云う。
 文禄の役の時、加藤清正は李朝の李昭大王の王子順和居と弟の臨海君琤(くんそう)の2王子と弟王子の3名を捕虜にして帰国する。
2王子はその後、朝鮮に送り返すが、弟王子の子の2男子は清正が育て、仏門にいれ、博多の法性寺(久遠成院日親開山)で修行し、兄の本行院日遥は肥後熊本本妙寺第3世となり、弟の可観院日延は博多に香正寺と妙案寺を開く。
この兄弟の姉が妙慶で戸川逵安の室となる。
 ※日延に関する上記の文章はやや意味が不明であるがそのまま掲載。
 ※本行院日遥及び可観院日延の経歴については諸説ある。
 しかし日遥が朝鮮国王の皇子であるとか、日遥と日延は兄弟であるとかの諸説は現在ではほぼ否定されている。
◆日延上人
 →博多香正寺
●戸川家墓所現況
 ◇戸川氏墓所入口題目碑
 盛隆寺戸川氏墓所:日庭上人の供養塔については不詳・明確には確認できず。
 盛隆寺戸川氏墓碑1:正面に黒っぽい五輪塔があり、その向かって右が逵安、左の無縫塔を飛ばして、
  その左が正安、さらに左が安宜の墓碑である。
 盛隆寺戸川氏墓碑2:右端から逵安、五輪塔、無縫塔、正安、安宜の墓碑
 盛隆寺戸川氏墓碑3:左端から五輪塔、逵安墓碑     盛隆寺戸川氏墓碑4
 ◇戸川氏墓碑5:左端から正安、無縫塔、五輪塔、逵安の墓碑        ◇戸川氏墓碑6
 ◇推定日庭上人供養塔1
 ◇推定日庭上人供養塔2:明瞭に判別できないが、中央向かって左に「日庭」とあるように見える。
    →日庭上人
2019/08/25追加:
 逵安・正安・安宜墓碑:向かって右端は逵安、左端から安宜・正安墓碑
 ◇戸川逵安墓碑:不変院覺如日真大居士と刻する。
 ◇戸川正安墓碑:従五位下正安と刻する。
 戸川安宜墓碑:清性院殿覺庭圓意靈と刻する。
●寺中
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
浄園院:元岡山大供にあり浄林坊と称する不受不施派寺院であった。
 寛文5年<寛文6年か>浄林坊は寛文の法難で棄却、妹尾村上寺に浄林院日能が上院と称する寺院を建立、
 後に戸川氏の帰依により現在地に移転、明和年中に寺号を改号する。
  ※但し「備前岡山藩寛文年諸郡廃寺」の大供村に浄林坊は見えず、浄林坊とは不明である。
  ※盛隆寺北西方向に上寺公園があるが、おそらくここが上院のあった場所であろう。
 寺中浄園院1     寺中浄園院2     寺中浄園院3     寺中浄園院4     寺中浄園院5
 ◇寺中浄園院6    ◇寺中浄園院7    ◇寺中浄園院8    ◇寺中浄園院9
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
智應院:寛永年中、善明院日忍の開山。
 寺中智應院1     寺中智應院2     寺中智應院3:大屋根は浄園院
 ◇寺中智應院4    ◇寺中智應院5    ◇寺中智應院5
 ◇寺中智應院7:日親大聖人とあるように見えるが、久遠成院日親であろうか。
 だとすればどのような繋がりがあるのであろうか。
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
安祥院:寛永年中の創建、開山は安詳院日継、檀越帯江加須山尾崎伝右衛門重宗の室妙善。
  ※尾崎伝右衛門重宗は尾崎庄左衛門盛則の兄であり、その姉が忍(妙忍)である。
 寺中安祥院1     寺中安祥院2     寺中安祥院3:手前入母屋造唐破風の堂は善立院
 ◇寺中安祥院4    ◇寺中安祥院5    ◇寺中安祥院6
2015/10/05追加:「日蓮宗寺院大鑑」 より
善立院:元和3年(1617)、正行院日性の開基、檀越戸川逵安、真言宗善正寺を改宗、寛文年中春辺山より移転。
 寺中善立院1     寺中善立院2     寺中善立院3     寺中善立院4
 ◇寺中善立院5    ◇寺中善立院5
観行院:寛永8年(1631)日照上人の開山、もと山田村にあったという。鬼子母神堂は明和2年(1765)建立。
 寺中観行院1     寺中観行院2     寺中観行院3:鬼子母神堂
2018/12/11追加:
末寺:
○本覚山妙泉寺(岡山市南区古新田) →備中古新田妙泉寺
嘉永山妙玄院(新見市大佐小阪部)


2022/010/05作成:2023/04/23更新:ホームページ日本の塔婆