備 前 ・ 備 中 ・ 備 後 大 覚 山 一 乗 寺

備前・備中・備後大覚山一乗寺

備前・備中・備後の大覚山一乗寺

2020/03/01記事訂正:
2020/02/28龍王山一乗寺(最上稲荷奥之院)を参詣。
参詣の折、ご住職に種々お教え頂いたが、その中で一つの事実誤認を指摘される。
 即ち
備中高松村稲荷の一乗寺中興開山である教順院日照が稲荷山妙教寺(世にいう最上稲荷)20世というのは誤認である。
妙教寺20世は智b院日勝である。日勝は最上稲荷奥之院中興開山で、後に妙教寺20世となる上人である、と。
 ※昨年末に、奥之院ご住職に電話にて、一乗寺の寺号公称についてお尋ねしましたが、そのなかで妙教寺20世日勝(にちしょう)のお話があり、小生が日勝(にちしょう)を、音が同じであるため、教順院日照(にちしょう)と短絡的に受け取り、教順院日照を妙教寺20世としたことに起因するものである。
 それ故に、教順院日照を最上稲荷妙教寺20世とした部分は削除する。

備後箱山一乗寺(神辺)・・・・・未見、現在は退転と推定する。

○「日蓮宗大観」西村慈b 編、大正7年(p.381) より
四条妙顯寺末、平、27 深安郡湯田村箱山
由緒沿革:大覺山と号す。開山大覺大僧正、延享2年7月創立。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年(p.902) より
一乗寺(山号:大覚山)深安郡神辺町字箱田甲155
京都妙顕寺末
沿革:(大観には開山大覚妙實。延享2年(1745)7月15日、妙弘院日恵が備中小田郡より寺号移転。明和年中に焼失、再建とある。)
○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年(p.1100) より
日蓮宗寺院大鑑」と同様の記載である。(写真あり)
 備後大覚山一乗寺:写真に写るように昭和52年頃までは堂宇が存在したのであろう。しかし、住職は代務住職となっていて、この頃までには無住となっていたと思われる。写真で見るように、堂は相当荒廃し、その後手入れがなされていないとすれば、老朽化で取り壊し、または倒壊したものと思われる。
○「第六百五十遠忌記念 大覺大僧正」京都像門本山会、2013年(p.151) より
大覚山一乗寺;福山市神辺町字箱田甲155
開山大覚大僧正。延享2年(1745)妙弘院日恵が備中小田郡より寺号移転という。

※箱山一乗寺(神辺)は要害山の北麓に位置すると思われる。
※現在、Webで検索するも、箱山一乗寺の存在している確たる情報は得られず、既に退転していると推測される。
要害山北麓の一乗寺の所在地と思われる附近をGoogleMapで検索すると、StreetViewで次の画像が得られる。
 推定箱山一乗寺門前:GoogleMap より:中央の石階を上ったところ附近に寺があったのであろう。石階左右に石塔様のものが写るが、題目石の類であろうか。
※現在は退転すると推定、少なくとも昭和62年までは堂宇は存在し寺院は存続すると思われるが、下に述べるように、江戸末期か明治の初め頃、寺号は備中高松村稲荷に移されたものと推定される。

備中高松村稲荷一乗寺・・・・・廃寺
*明治初頭に荒廃・廃寺というも、残存する墓石から昭和の初めまでは存続していたと思われる。
*昭和17年大覺山一乗寺の寺号を稲荷山奥之院に移し、稲荷山奥之院は龍王山一乗寺と公称するという。
*地元(大谷)での聞取りでは、昭和25年附近一帯は焼失、その時一乗寺も焼失した。つまりは残っていた一乗寺の堂宇もこの時、消滅という。

2019/11/07撮影:
備前・備中大覚山一乗寺跡
 この地点は備前・備中の国境である。この地点は大窪越えの三光山南の鞍部であり、この鞍部の北側に寺(堂宇)があったといい、南側には題目石、9基の墓碑、祠跡と思われる高い石積基壇、推定土塀跡などの遺物を残す。
 後述するように、ここに残る題目石の刻文には山号(大覺山)、寺号(一乗寺)、開山上人、中興開山上人などがある。これらから、本廃寺は大覺山一乗寺跡であることが判明する。
 なお、本寺跡は国境に位置するため、備前に属するのかそれとも備中に属するのかは、情報もなく、どちらかといえば備中とも思われるが、判然とはしない。判然とはしない故に、当面備前・備中という扱いで掲載する。
 ※大覺山一乗寺は大覺大僧正の開基といい、備後箱田(神辺)・備中小田郡・備中高松奥之院(現龍王山一乗寺)などにその伝承を残すが、その伝承の関係性の有無などが良く分からない。仍って、後日、整理した上で改めて掲載する予定である。
 →本ページが整理した結果である。

2020/01/07追加:
○「日蓮宗大観」西村慈b 編、大正7年(p.362) より
備中高松一乗寺
四条妙顯寺末、平、等外 吉備郡高松村稲荷
由緒沿革 大覚山と号する。開山不變院日達上人、創立元和元年(1615)8月。
なお
「日蓮宗寺院大鑑」及び「日蓮宗大図鑑」には記載がない。
 ※以上のように、大正7年の「日蓮宗大観」では所在が「高松村稲荷」とある。
すなわち、高松村稲荷の一乗寺とは下に述べるように、「大窪越え」峠の西側に寺跡を残し、また遺物として「大覺山 一乗寺」と刻む題目石(日蓮大士)などを残す「大覺山一乗寺」であることははっきりしたと云える。
 ※従って、備前・備中の国境である「大窪越え」峠の一乗寺は備前・備中の何れに属するかは、決めかねていたが、「日蓮宗大観」の記載から、「備中」として取り扱うこととする。
 ※下に述べるように、江戸末期か明治の初め頃、教順院日照(備後箱山一乗寺13世であろう)によって、備後箱山一乗寺(神辺)の寺号が移され、中興される。この中興が実質的には備中高松村稲荷一乗寺の創建であろう。
 ※また昭和56年の「日蓮宗寺院大鑑」に記載がないということは、大正7年以降、少なくとも昭和56年までには退転し廃寺となったものと思われる。

2019/11/07撮影:
跡地には多くの遺物が残り、特に題目石(日蓮大士)や幾つかの墓碑の銘により、廃寺の山号寺号や凡その経歴が推定できる。
 大覚山一乗寺寺跡1     大覚山一乗寺寺跡2     大覚山一乗寺寺跡3
 大覚山一乗寺寺跡4:現在は竹薮と化すも、平坦地であり、ここに堂舎があったといわれる場所である。

◇備中一乗寺跡題目石(日蓮大士):

  題目石(日蓮大士)1
題目石(日蓮大士)2
題目石(日蓮大士)3
題目石(日蓮大士)4:左図拡大図
題目石(日蓮大士)5:左図の文字入れ
題目石(日蓮大士)6
  題目碑(日蓮大士)刻銘:
            元和三丁巳年(1617) 大覺山
                  開山不變院日■上人
   南 無 妙 法 蓮 華 経  日蓮大士
            中奥開山 十三世 教順院日照聖人
                          一乗寺
    ※開山不變院日■上人は不變院日達であろう。
    ※中奥開山とは意味不明であるが、中興開山という
    こととも思われるも、不審である。

以上の題目石の刻銘から次のように解釈される。
ここにあった寺院は「大覺山一乗寺」と称する。
開山は不變院日達で、元和3年は日達の没年であるが、江戸初頭に大覺山一乗寺が開山される。
中奥が中興だとすれば、中興は一乗寺13世教順院日照であり、下に記すように、日照は明治33年寂であるから、江戸末期もしくは明治になって、衰微していた一乗寺の寺観が整えられたということと思われる。

残存する石積基壇:(玉垣で囲われていたような区画)
 小祠があったと思われるが、どのような神仏が祀られていたのかは不明、一般的にいえば、妙見大菩薩や三十番神が考えられるが、特別に念入りに作られた基壇であり、重要な神仏が祀られていたのであろう。
 玉垣付石積基壇跡1     玉垣付石積基壇跡2     玉垣付石積基壇跡3     玉垣付石積基壇跡4
 玉垣付石積基壇跡5     玉垣付石積基壇跡6     石積基壇玉垣痕跡石材
 玉垣付石積基壇跡石標:違い矢羽家紋と天保七丙申(1836)年と刻む。
推定土塁跡:
 築地とも考えられるが、瓦片がなく、また石造基礎の露出も見られないので土塁であろう。
また、この土塁は尾根筋を走り、この尾根筋が備前・備中の国境である可能性は高いと思われる。だとすれば、一乗寺の寺域は備中にあることになるが、確証はない。
 推定土塁跡1     推定土塁跡2     推定土塁跡3     推定土塁跡4     推定土塁跡5
僧侶等の墓碑:
 僧侶等墓碑1:合計9基の墓碑が並ぶ。
 僧侶等墓碑2:常照院日導/信教院日廣、教順院日照、随達日周、信徒墓碑、信徒と思われる墓碑(未調査)が並ぶ。
 僧侶等墓碑3:孝厚院日通、不明墓碑2基、信徒の墓碑が並ぶ。
 常照院日導/信教院日廣墓碑:正面:當山三世 常照院智覺日導上人/當山四世 信教院智眼日廣大徳、
  右側面:大正13年11月27日去、左側面:未確認
 教順院日照墓碑:正面:教順院日照聖人、左側面:明治33年12月18日亡、右側面:行年82歳
 随達日周墓碑:正面:随達日周法師、左側面:文久二戌星閏8月12日(1862)、右側面:當庵二世 行年57歳
 孝厚院日通墓碑:正面:妙法 孝厚院妙釋宗■日通法師之墓、左側面:昭和20年6月21日寂、右側面:俗名山本偵功 行年72歳
以上の墓碑から、
 教順院日照は上記の題目石(日蓮大士)の銘にあるように、開山不變院日達から数えて一乗寺13世、一乗寺中興開山で明治33年寂、おそらく江戸末期もしくは明治前期に一乗寺を中興開山したものと推定される。
 随達日周は當庵2世(?)とあり、中興後2世とも思われるが、文久2年の寂とは日照との没年と齟齬するので、良く分からない。
 常照院日導は當山3世(中興3世)であろうが、没年が未確認である。
 信教院日廣は当山4世とあり、大正13年寂と思われるので、おそらく中興後4世であろう。
 孝厚院日通は昭和20年寂とあり、おそらく中興後5世とも思われるが、確証はない。そしておそらく孝厚院日通が最後の住職で、その後無住となり、やがてこの地の堂宇は退転したものと推定される。
このことは、「備前・備中大窪越え」に掲載の大正元年地図では「大窪越え」鞍部に寺院記号(卍)があるが、昭和41年地図では(卍)記号が消えていることと照合する。
以下は推測であるが、
教順院日照によって、備中高松村に寺庵が創建され、その頃衰微していた備後箱山一乗寺(神辺)の寺号が移され、大覚山一乗寺と号するようになったのではないかと思われる。
つまり、大覺山一乗寺は備後箱山一乗寺から備中高松村に移転再興されたものと思われる。
そして、教順院日照は中興開山一乗寺13世となる。
2020/04/03蒐集情報:
●備中高松稲荷一乗寺堂宇の焼失
大谷日蓮堂での大覚大僧正祭の大谷講中で、稲荷大窪越え一乗寺の消息を訊ねたところ、
「一乗寺は昭和25年まで堂宇は存続した。昭和25年山火事で附近一帯は焼失、その時一乗寺も焼失した。なお最上稲荷の仁王門が焼失したのもこの山火事である。」
との返答を得る。
稲荷大窪越え一乗寺は昭和25年の山火事で類焼し、その堂宇は消滅したということである。
2020/04/03撮影:
 大覚山一乗寺堂舎跡1     大覚山一乗寺堂舎跡2:写真中央横一線が写るが、そこが平坦地である。
 堂舎下の大窪越道:瓦片が散乱する、おそらく昭和25年の山火事で堂舎が焼失した時、瓦は下の大窪越道に落下したのであろう。
 備中から見た大窪越頂上:向かって左が堂舎跡、右は題目石・墓碑・祠跡石垣などがある。


備中龍王山一乗寺・・・・・最上稲荷奥之院である。

昭和17年大覺山一乗寺の寺号を稲荷山奥之院に移し、稲荷山奥之院は龍王山一乗寺と公称する。

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年(p.857) より
龍王山と号する。岡山市長野495
四条妙顯寺末、寺は親師法縁、住職は潮師法縁。
沿革 延暦年中(782-805)報恩大師の建立。
もとは天台宗で最上位経王菩薩、八大竜王などを祀り、稲荷山奥之院と称する。
慶長6年(1601)妙智院日圓により妙教寺とともに日蓮宗に改宗。
 ※羽柴秀吉の中国進攻で焼亡するも、この地の領主である花房職之が関東より日圓聖人を招聘、「稲荷山妙教寺」として再興するという。
 このとき、妙教寺及び奥之院(現一乗寺)は天台宗から日蓮宗へ改宗する。
奥之院は再興以来、寺号が無かったが、昭和17年もと広島県にあった大覚山一乗寺の寺号を移転し公称する。
因みに、大覚山一乗寺は大覚大僧正の創立。中興不変院日達(元和3年/1617寂)、中興年・年月は元和元年8月である。

○「日蓮宗大図鑑」昭和62年(p.1050)
  「日蓮宗寺院大鑑」とほぼ同一の記事が記載される。

→最上稲荷奥之院(備中龍王山一乗寺)の現況については、ページの最後「龍王山一乗寺の現況」の項を参照。

備中小田郡大戸村法華堂及び題目石

以下の情報は【旧金浦町坂東三十三所観音霊場 画像集.11(25-30番)】 より 得る。
 ※法華堂及び題目石は岡山県笠岡市東大戸745(緯度経度:34.536722, 133.497028)に所在する。
 ※旧国名でいえば、備中小田郡大戸村(東大戸村)である。
法華堂:
辻公会堂の東の丁字路にある。
棟札「奉納 法華堂再建 願主 辻組 維持昭和三十二(1957)丁酉 五月十三日」とある。
 東大戸法華堂
お題目塔;
 ※法華堂には「お題目塔」(題目石)を祀る。
「南無妙法蓮華経 大覺山 一乘寺」
「願主 不變院見理日◯」「地主 杢兵衛」
大覚山一乗寺(開基は大覚大僧正)はかつて神島にあったと云われている。
 ※神島は備中小田郡に属する。
 大戸題目石

※本法華堂及び題目石は未見。
※法華堂に安置する題目石は年紀は不明であるが、「大覺山/一乗寺」の銘があり、「願主 不變院見理日◯」(日達であろう)とも刻し、これをどのように解釈するかであるが、常識的には、この地が小田郡の大覺山一乗寺の故地とも思われる。
しかし、由緒・伝承などが一切不明であり、後日を俟つしかない。。


三備大覚山一乗寺沿革(仮説を含む)

◇元弘3年(1333)以降
大覺大僧正が大覚山一乗寺を備中小田郡に開山する。
 ※大覺大僧正の開山という物証があるわけではない。あくまで、寺伝として伝えられるという意味である。
 ※大覺大僧正は三備各地に弘教し、その手段として法華堂を建てたといわれるので、あるいは備中小田郡に建てた法華堂が後世一乗寺として発展した可能性はあるだろう。
 ※一乗寺が備中小田郡の何処に所在したなのかは詳らかではない。
小田郡大戸村に法華堂及び題目石が現存するという。そして、この題目石には「大覺山/一乗寺」と「不變院日○」(日達)の刻銘があり、想像を逞しくすれば、大戸村(東大戸村)の法華堂・題目石の地が大覺山一乗寺の故地であるのかも知れない。
 また、上述の【旧金浦町坂東三十三所観音霊場 画像集.11(25-30番)】では、典拠は示されていないが「大覚山一乗寺(開基は大覚大僧正)はかつて神島にあったと云われている」という。
現在は本土と地続きとなっているが神島も小田郡であり、この島に創建されたことも十分考えられるであろう。なお、この島には大覺大僧正の開山と伝える法華寺が現存する。
また、
◇元和元年(1615)8月
大覚山一乗寺が創立される。開山は不變院日達(元和3年寂)。
 ※上記は備中高松村一乗寺跡題目石(日蓮大士)の刻銘による。
 ※大覚山一乗寺が創立されたのは備中小田郡であろう。
 大覺大僧正の開基した備中小田郡法華堂は元和元年不變院日達によって大覚山一乗寺として開山される。
 ※不變院日達開山の一乗寺は備中小田郡にあったというも、その所在は良く分からない。
 小田郡神島あるいは小田郡大戸村に法華堂及び題目石があり、その題目石には「大覺山/一乗寺」と「不變院日○」と刻むので、
 この大戸村(東大戸村)であった可能性はあるとも思われる。

◇延享2年(1745)7月15日
備後箱山一乗寺(神辺)が創立される。妙弘院日恵が備中小田郡より寺号移転という。

◇明和年中(1764-72)
備後箱山一乗寺(神辺)が焼失、再建される。

◇江戸末期もしくは明治初期
備中高松村稲荷一乗寺、一乗寺13世教順院日照によって中興開山される。
(実質は、備後箱山一乗寺を備中の稲荷に移転、再興したのであろう。)

◇昭和17年
稲荷山奥之院(現龍王山一乗寺)、広島県大覚山一乗寺(開基大覚妙実)より寺号を移転、龍王山一乗寺と改号する。
 ※稲荷山奥之院に一乗寺の寺号を移したのは、広島県の一乗寺ではなく、備中高松村稲荷の一乗寺からとも思われるが、如何であろうか。
 ※2020/01/06:稲荷山奥之院(現龍王山一乗寺)住職に電話にて問い合わせ、次のような回答を得る。
  1.一乗寺の寺号は広島(備後福山)の一乗寺から直接に移されたのではなく、
  一度福山から備中高松村稲荷の一乗寺に移され、その後、備中稲荷一乗寺から寺号を稲荷山奥之院へ移されたと聞いている。
  2.ただし、上記の福山とは備中福山という説もある。
   ※備中福山とは報恩大師開基福山寺跡で、中世には福山城が築かれる。備中福山北麓には備中三因妙蓮寺(三因法華寺)があり、
   南西麓には安養寺がある。しかし、これは無理であり、やはり広島というから備後福山であろう。
  3.備中高松村稲荷一乗寺は明治初頭には荒廃する。その当時檀家は僅か5軒といい、維持ができずという。
   当時、最上稲荷奥之院には寺号がなく、大覚山一乗寺から寺号を移転し、最上稲荷奥之院は龍王山一乗寺と寺号を公称する。


龍王山一乗寺の現況(最上稲荷奥之院)

2020/02/28撮影:
当日住職にお話しをうかがう。
最上稲荷・奥之院・備中一乗寺・東京成子常圓寺都守基一上人の業績などについてお教えをいただく。
また基一上人が纏められたと思われる備前法華に関する資料の一部について、コピーを頂戴する。
 一乗寺一の鳥居:一乗寺入口で、総門あるいは大門などに該当する、向かって左の常夜燈は竜泉寺への入口である。
 一乗寺二の鳥居への参道
 一乗寺二の鳥居:龍王山の扁額を掲げる、仁王門などに該当する。
 一乗寺三の鳥居:中門などに該当する。
 一乗寺客殿1     一乗寺客椽2
 客殿前からの眺望1:中央左は岡山中心市街、その上方は児島湾、中央の山塊は八坂山、その右には白い岡山ドーム(北長瀬)が見える。
 客殿前からの眺望2:中央右は岡山中心市街、その上方は児島湾、中央左の住宅地は佐山・芳賀の住宅地
 一乗寺本堂1     一乗寺本堂2     一乗寺本堂3     一乗寺本堂扁額
 一乗寺鐘楼1     一乗寺鐘楼2     一乗寺奥之院受付     一乗寺廟所:報恩大師廟なのか日圓廟なのかは未確認
 一乗寺歴代墓碑     智b院日勝供養塔:一乗寺中興開山上人である。後に妙教寺20世に晋む。
 信月院日善法尼供養塔:日善法尼とは不詳
 奥之院空撮:一乗寺蔵、昭和34、5年頃の写真という。本堂と鐘楼との間に一宇が写るが、旧本堂で今はない。(住職談)
お宝塔:稲荷山では題目石は「お宝塔」と呼ぶという。企業や個人の守護神などを祀るようである。
ちなみに奥之院境内にはお宝塔は160基(住職談)を数えるという。
一の鳥居からニの鳥居間のお宝塔
 一乗寺お宝塔11     一乗寺お宝塔12     一乗寺お宝塔13
二の鳥居から三の鳥居までのお宝塔
 一乗寺お宝塔14     一乗寺お宝塔15     一乗寺お宝塔16     一乗寺お宝塔17     一乗寺お宝塔18
 一乗寺お宝塔19     一乗寺お宝塔20     一乗寺お宝塔21     一乗寺お宝塔22     一乗寺お宝塔23
 一乗寺お宝塔24     一乗寺お宝塔25     一乗寺お宝塔26     一乗寺お宝塔27     一乗寺お宝塔28
 一乗寺お宝塔29     一乗寺お宝塔30     一乗寺お宝塔31     一乗寺お宝塔32     一乗寺お宝塔33
 一乗寺お宝塔34     一乗寺お宝塔35     一乗寺お宝塔36     一乗寺お宝塔37     一乗寺お宝塔38
 一乗寺お宝塔39     一乗寺お宝塔40     一乗寺お宝塔41     一乗寺お宝塔42     一乗寺お宝塔43
 一乗寺お宝塔44     一乗寺お宝塔45     一乗寺お宝塔46     一乗寺お宝塔47     一乗寺お宝塔48
 一乗寺お宝塔49     一乗寺お宝塔50     一乗寺お宝塔51     一乗寺お宝塔52     一乗寺お宝塔53
 一乗寺お宝塔54     一乗寺お宝塔55     一乗寺お宝塔56     一乗寺お宝塔57     一乗寺お宝塔58
 一乗寺お宝塔59     一乗寺お宝塔60     一乗寺お宝塔61     一乗寺お宝塔62     一乗寺お宝塔63
 一乗寺お宝塔64     一乗寺お宝塔65     一乗寺お宝塔66     一乗寺お宝塔67     一乗寺お宝塔68
 一乗寺お宝塔69
三の鳥居から奥之院伽藍までのお宝塔
 一乗寺お宝塔70     一乗寺お宝塔71     一乗寺お宝塔72     一乗寺お宝塔73     一乗寺お宝塔74
 一乗寺お宝塔75     一乗寺お宝塔76     一乗寺お宝塔77     一乗寺お宝塔78     一乗寺お宝塔79
奥之院伽藍のお宝塔
 一乗寺お宝塔80     一乗寺お宝塔81     一乗寺お宝塔82     一乗寺お宝塔83     一乗寺お宝塔84
 一乗寺お宝塔85     一乗寺お宝塔86     一乗寺お宝塔87     一乗寺お宝塔88     一乗寺お宝塔89
 一乗寺お宝塔90:日蓮浮彫付
 一乗寺お宝塔91     一乗寺お宝塔92     一乗寺お宝塔93     一乗寺お宝塔94     一乗寺お宝塔95
 一乗寺お宝塔96     一乗寺お宝塔97     一乗寺お宝塔98     一乗寺お宝塔99     一乗寺お宝塔100
 一乗寺お宝塔101    一乗寺お宝塔102    一乗寺お宝塔103    一乗寺お宝塔104    一乗寺お宝塔105
 一乗寺お宝塔106    一乗寺お宝塔107    一乗寺お宝塔108    一乗寺お宝塔109    一乗寺お宝塔110
 一乗寺お宝塔111    一乗寺お宝塔112    一乗寺お宝塔113    一乗寺お宝塔114    一乗寺お宝塔115
 一乗寺お宝塔116    一乗寺お宝塔117    一乗寺お宝塔118    一乗寺お宝塔119    一乗寺お宝塔120
 一乗寺お宝塔121    一乗寺お宝塔122    一乗寺お宝塔123


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