★因幡の諸寺
◇鳥取芳心寺 大宝山と号す。京都四条妙顕寺末。寺は達師法縁、住職は筵師法縁。
天文13年(1544)創立、開山慈雲院日徳、開基京都妙顕寺10世日日広。 ※大観では開山日像で寛永9年(1632)創立という。
元備前庭瀬口にあり正福寺と称し、池田氏の祈願所であった。 ※備前岡山庭瀬口には正福寺は現存した。
しかし、今次大戦で焼失、戦後の区画整理で宗善寺と合併し、現在地(上中野)に移転する。 寛永9年(1632)池田光仲の鳥取に移封に際し、現在地に移転する。
正徳3年(1713)寺号を光仲の夫人芳心院に因み、芳心寺と改号する。
※芳心院は紀州藩祖徳川頼宣の第一女(二女?)。鳥取藩祖池田光仲に嫁す。
寛永8年(1631)生まれ、母は加藤氏(瑶林院・清正孫)。生母は側室中川氏(理真院)である。
慶長年中、身延22世日遠、養珠院(お萬)に日蓮御真骨の一部を分与、それをお萬は孫である芳心院に授与、それを当山に奉納する。当山を山陰身延と称する由縁である。
明治の廃仏毀釈で疲弊する。 現在塔頭として、下に掲載の本慈院、完竜院がある。 2021/06/07撮影:
鳥取芳心寺門前 鳥取芳心寺山門 鳥取芳心寺題目石 鳥取芳心寺伽藍1 鳥取芳心寺伽藍2
鳥取芳心寺本堂1 鳥取芳心寺本堂2 鳥取芳心寺本堂3 芳心寺御真骨堂1 芳心寺御真骨堂2
鳥取芳心寺玄関 鳥取芳心寺庫裡 鳥取芳心寺鐘楼 芳心寺芳心院供養塔
◇鳥取本慈院
妙見山と号す。芳心寺末。達師法縁。 大永3年(1523)創立、開山圓華坊日春、開基本妙院日宥。
開山日春は鳥取柿ヶ谷に能勢妙見を勧請、草庵を結び、妙見山本妙庵を設立。 寛永9年(1632)開基日宥が芳心寺塔頭として本慈院と改称。
なお、妙見堂の付近に、清正公、秋山白雲霊神を祀る祠があるというも、未見。
2021/06/07撮影:
鳥取本慈院石標 鳥取本慈院妙見堂1 鳥取本慈院妙見堂2 鳥取本慈院妙見堂扁額
鳥取本慈院本堂1 鳥取本慈院本堂2 鳥取本慈院堂宇:名称不明
◇鳥取完龍院
福壽山と号す。芳心寺末。達師法縁。
天文年中(1532-55)の創立、開山京都妙顕寺10世日日広。圓乗坊と称し柿ヶ谷山麓に建立。
寛永年中に正福寺塔頭南正坊と改称。その後荒廃、焼失。 元禄15年復興し、福聚院と改称、正徳3年には完竜院と改称。
なお、清正公像を有するという。
2021/06/07撮影:
鳥取完竜院石標 鳥取完竜院本堂庫裡1 鳥取完竜院本堂庫裡2
鳥取完竜院本堂1 鳥取完竜院本堂2
◇鳥取日香寺
駿河上條大石寺末。
鳥取藩初代池田満仲が生母芳春院殿妙囿日香大姉の33回忌に際し、その供養のため寺院建立を発願する。
寛文6年(1666)妙囿山日香寺が建立される。 芳春院正墓は大石寺にあり、位牌を当寺に祀る。
明治3年鳥取藩の命で日蓮宗芳心寺に合併する。 明治15年日蓮宗興門派(本門宗)寺院として再興される。 2021/06/07撮影:
鳥取日香寺入口 鳥取日香寺山内 鳥取日香寺本堂 鳥取日香寺納骨堂 鳥取日香寺庫裡
◇鳥取法泉寺 富中山と号する。顕本法華宗(妙満寺末)
元来、法泉寺は備前岡山に在りしが、寛永9年(1632)藩主池田満仲が因幡・伯耆両国の藩主として国替になった折、藩主と共に鳥取に移転する。その当時の住職が日渡である。
その後、当寺は藩主はじめ奥方や側室等婦人方の帰依篤く、家臣団の菩提寺として栄る。
2021/06/07撮影:
法泉寺入口題目石 法泉寺本堂1 法泉寺本堂2 法泉寺玄関客殿 法泉寺庫裡
◇鳥取妙要寺 正栄山と号す。法華宗(陣門流)/越後本成寺末。
慶長18年(1613)家老鵜殿長次の発願により、その菩提所として姫路に開山、建立される。
その後、藩主池田氏の国替と共に備前岡山に移り、さらに寛永9年(1632)藩主池田満仲(光仲)が因幡・伯耆両国の藩主として国替になった折、藩主と共に鳥取に移転する。その時の住職は二世遠寿院日樹であった。 2021/06/07撮影:
妙要寺門前題目石 妙要寺赤門 妙要寺境内題目石
妙要寺本堂1 妙要寺本堂2 妙要寺客殿庫裏1 妙要寺客殿庫裏2 妙要寺十三重石塔
◇鳥取本浄寺 清光山と号する。京都本圀寺末。寺は達師法縁、住職は奠師法縁。
慶長6年(1601)創立、開基真如院日如、開基檀越加藤丹水。岡山池田家重臣加藤丹水が岡山に創建。
寛永9年(1632)池田光仲の国替により、鳥取に移転、上町王寺谷に建立。 慶安元年王寺谷に東照宮が創建され、處替により現在地に移転。
近世、近代、現代に種々の災禍で寺運は衰える。 士族寺ゆえ、明治維新で経営困難となり、寺域を縮小。
昭和18年鳥取大震災で全壊、昭和27年鳥取大火で類焼、都市計画で墓地を郊外に移転し、納骨堂を建立。
昭和33年本堂再建、45年本堂増築、庫裡再建。 2021/06/07撮影:
本浄寺門前 本浄寺題目石 本浄寺山門
本浄寺本堂・庫裡 本浄寺本堂 本浄寺庫裡 本浄寺納骨堂 本浄寺歴代墓碑
◇鳥取官能寺 法華宗(本門流)、康改山と号する。尼崎本興寺・京都本能寺末。
開山は大造院日覚、開基は菅 権之佐道之。 慶長20年(1615)備前岡山にて菅
道之の長兄若狭道政が祖父康政院と父菅能院の菩提を弔うため創建され、康政山菅能寺と号す。 ※備前岡山に管能寺は現存する。<備前旧岡山市内の諸寺中>
寛永9年(1632)池田光仲の国替により、家老菅道之が開基となり鳥取に移建する。 宝暦3年(1753)綿谷火災で堂宇焼失。
明治維新までは丸山に末寺東光院を有する。 昭和43)年再興。 2021/06/07撮影:
官能寺山門 官能寺本堂1 官能寺本堂2 官能寺本堂扁額 官能寺玄関庫裡
題目石3基
中央題目石:寛政12年(1800)年紀 右端題目石:判読できず 日蓮・日隆石碑:文化9年(1812)年紀
◇鳥取妙教会
昭和38年創立。開基常経院妙紅日淵尼(昭和47年寂)。住職は達師法縁。 2021/06/07撮影:
鳥取妙教会1 鳥取妙教会2 鳥取妙教会3
◇鳥取学成寺 光照山と号する。京洛妙覚寺末、奠師法縁。
天正7年(1579)創立、開山成就院日賢、邑美郡馬場町柿ヶ谷に堂宇を建立、当時は不受不施派岡山蓮昌寺末で、例年東照宮祭礼の時は藩主の宿坊となる。
大観では、天正17年(1589)創立、開山日實、開基成就院日賢とある。
池田光仲岡山より国替の節、芳春院(光仲母堂)、本高院(光仲の弟)の位牌を納め、明暦元年その追孝のため、末寺林乗坊を山門右に建立。
寛文4年(1664)本寺末寺失火により焼失。当時不受不施禁制により、京都妙覚寺末に転ずる。 寛文8年(1669)現在地に替地を得て、現在地に移転再建。
昭和18年鳥取大震災で全壊。その後再興。 2021/06/07撮影:
学成寺山門 学成寺本堂 学成寺題目石:一字一石塔
学成寺玄関・庫裡 学成寺歴代墓碑 開祖成就院日賢墓碑
◇鳥取長栄寺 久遠山と号する。京洛妙覚寺末、奠師法縁。
寛永9年(1632)創立、開山尊秀院日妙。 大観では寛永9年(1632)創立、開山日實、慶安年中現在地に移転とある。
池田光仲、備前より国替の際、備前正福寺2世日徳弟子日妙が宗門弘通帰依僧として随伴。家老荒尾但馬守の祈願所として自ら開山となる。
寛文9年(1670)京都妙覚寺末となる。(おそらく、不受不施禁制の影響かと思われるも情報はなし。) 2021/06/07撮影:
長栄寺入口 長栄寺本堂1 長栄寺本堂2 長栄寺玄関・庫裡
長栄寺歴代墓碑 開山尊秀院日妙墓碑
◇鳥取常忍寺
鷲峯山と号す。中山法華経寺末。達師法縁。
寛保2年(1742)創立、開山志玄院日潤(芳心院菩提寺芳心寺住職)、日常(富木常忍)の誕生地として、養珠院(お萬・家康室)の発願で、日潤が建立する。
当時は新寺建立が厳しく制限され新寺建立は困難であった。
承応2年(1653)養珠院逝去、意志を継いだ孫である芳心院(池田光仲正室)が創建に尽力するも、宝永6年(1709)死去、漸く寛保2年と鳥取藩の認可を受け、芳心寺寺領であった品治村に建立される。
延享4年(1747)中山法華寺の客席寺院となる。
寺宝である普賢菩薩十羅刹女像(重文・鎌倉期・絹本着色)は普賢菩薩を中心に先導には多聞天、持国天、白象の左右には羅刹女10人、行列後方には薬王菩薩、勇施菩薩が描かれる。
常忍寺本堂は伝承によると紀伊藩徳川家の尽力により文政元年(18181)の再建という。但しその記録はないともいう。 入母屋造、桟瓦葺、平入、桁行5間、梁間5間、正面1間向拝付である。 2021/06/07撮影:
常忍寺山門・門前 常忍寺山門前題目石 常忍寺鐘楼1 常忍寺鐘楼2
常忍寺本堂1 常忍寺本堂2 常忍寺本堂扁額 常忍寺日常立像
常忍寺常師堂1 常忍寺常師堂2 常忍寺常師堂扁額 常師堂前題目石:日常上人
常忍寺玄関 常忍寺玄関・客殿 常忍寺歴代墓碑
◇鳥取妙玄寺 法華宗(陣門流)/越後本成寺末。
全く情報がなく、詳細は不明。 2021/06/07撮影:
妙玄寺入口 妙玄寺本堂1 妙玄寺本堂2 妙玄寺庫裡 妙玄寺客殿?
★伯耆の諸寺
米子:2012/12/21追加・2012/12/02撮影:
(但し、本項は米子寺町の紹介を兼ねるため、日蓮宗4ケ寺以外の諸宗の寺院も掲載する。)
伯耆米子寺町の成立
慶長5年(1600)関ヶ原の後、幼少の中村一忠が18万石で米子入部。
そのとき幕府より横田内膳村栓が一忠の後見役に任命される。内膳は米子の町割りを行い、各地より寺院を移転させ、寺町が成立する。
寺町の総間数は230間半(約415m)、西から1.真宗大谷派専念山万福寺、2.浄土宗見龍山常照院心光寺、3.曹洞宗寛龍山法蔵寺、4.日蓮宗久遠山実成寺、5.日蓮宗普平山妙興寺、6.日蓮宗本栄山妙善寺、7.曹洞宗万福山安国寺、8.曹洞宗久坂山瑞仙寺、9.曹洞宗正覚山福厳院の九ヶ寺が直線に並ぶ。
さらに寺町西の灘町には10.真言宗吉祥院、寺町南の岩倉町には11.日連宗本教寺、12.浄土宗珠慶山凉善寺がある。
米子寺町航空写真
◆米子寺町日蓮宗寺院
◇4.日蓮宗久遠山実成寺(実城寺):四条妙顕寺末。
久米郡倉吉・田中にあった實成寺が、町ぐるみで米子に移住させられ、寺院は現在地に移される。
倉吉城下からの移住民の菩提寺であったと推定される。
2012/12/02撮影:
米子實成寺山門 米子實成寺題目碑 米子實成寺本堂
◇5.日蓮宗普平山妙興寺:堺妙国寺末。
永禄7年(1564)瑞應院日逞上人(阿波国三好氏出身・堺妙國寺日b上人の叔父)が今の場所に草庵を結んだことが草創と云う。
本寺は内膳の菩提寺であり、内膳の墓がある。内膳は三好氏家臣であり、その当時に堺妙国寺日b上人に帰依したといわれる。
2012/12/02撮影:
米子妙興寺山門 米子妙興寺本堂
◇6.日蓮宗本栄山妙善寺:四条妙顕寺末。
元和2年(1619)あるいは慶長元年(1596)日受上人の開山と云う。
本堂前に、道笑町の免地屋が天保二年(1831)に建立した一字一石法華供養塔がある。
妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。
明治6年知新小学校(女子)が妙善寺に設置される。
2012/12/02撮影:
米子妙善寺山門 米子妙善寺本堂 米子妙善寺妙見 米子妙善寺法華供養塔
◇11.日連宗本教寺:岩倉町に所在
もと浄昌寺と称し天正年中(1573-92)の末、古引(古曳)吉種が、母の追善供養のために城内に建立すると云う。古引(古曳)吉種は吉川広家の命で米子城の築城奉行を勤めた人物である。しかし吉種は朝鮮出兵中朝鮮で戦死する。
そののち吉川広家により、灘町北東の高砂山に移建され、その頃に本教寺と称すると云う。さらに中村氏による城下整備により現在地の岩倉町に移ると云う。
2012/12/02撮影:
米子本教寺山門 米子本教寺題目碑 米子本教寺本堂
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◆参考;米子寺町その他諸宗の寺院
◆伯耆安国寺
7.曹洞宗万福山安国寺
暦応年間(1338-42)足利尊氏が臨済宗安国寺として大寺(現在岸本町)に建立すると伝える。
本堂は12間四方で数十の塔頭をもつ大伽藍であり、寺領は3000石という。
※大寺には、白鳳期、大寺廃寺が創建される。
東向きの法起寺式伽藍配置を取り、金堂の瓦積基壇と三段舎利孔を持つ塔心礎が残存する。
またこの付近の長者原台地上には坂中廃寺があり、塔心礎が残る。
奈良末から平安初期の瓦が散布、伽藍配置等不明。
また、大寺には、南北朝期に安国寺が置かれると云う。
(この安国寺は古代大寺廃寺の転用なのかあるいは新に建立されたのかははっきりしない。)
いずれにせよ、ここは要衝の地であり名和氏などの南朝勢力を抑える目的があったと云う。
往時は42坊を数えるも、永禄8年(1565)杉原盛重に焼き討ちされる。なお坂中の普門寺は、安国寺奥の院と伝える。
応仁2年(1468)、火災をまぬがれた本尊を、博労町南の田中で発見した久米郡和田村定光寺(現倉吉市)瑞翁玄鋭によって一宇が建立され、曹洞宗寺院として再興される。
永禄年間(1558-70)には尾高城主杉原盛重の軍に焼かれたと伝える。
慶長年中に寺町に移されると云う。
現在薬師堂に安置する薬師如来像が大寺にあった時代の本尊であると伝える。
明治6年義方小学校(男子)が瑞仙寺と安国寺に設置される。
伯耆安国寺山門 伯耆安国寺本堂 伯耆安国寺薬師堂
◆その他寺院
1.土真宗大谷派専念山万福寺
石見邇摩郡(石見銀山)勝応寺浄誓上人が、文禄3年(1595)門徒とともに米子城下五十人町に移り、中村氏入部後寺号を万福寺に改め(第二世西賢代)現在地に移転を命じられたという。
米子萬福寺山門
2.浄土宗見龍山心光寺
天正年間(1573-91)会見郡尾高村尾高城下にあった京都知恩院末源光寺が、慶長7年(1602)に現在地に移る。
米子心光寺山門 米子心光寺本堂:RC造本堂には相輪を置く。
3.曹洞宗寛龍山法蔵寺
開基は中村伯耆守一忠、米子瑞仙寺八世陽山祖全の開山、町割りに際して建立される。
米子法蔵寺山門
8.曹洞宗久坂山瑞仙寺
応永2年(1395)山名氏により米子・日下で開創され、慶長年間(1600頃)米子城主加藤貞泰の帰依により、現在地に一寺を建立し、これが米子瑞仙寺となる。
しかし日下にも瑞仙寺は残り、本末関係や寺領の争いを繰り返すと云う。
境内の金比羅大権現は、伯耆守護山名氏の陣中守護本尊が寄進されたものと伝える。
明治6年義方小学校(男子)が瑞仙寺と安国寺に設置される。
米子瑞仙寺山門
9.曹洞宗正覚山福厳院
延宝2年(1674)日野町裏より現在地に移転と云う。
米子福厳寺山門
10.真言宗吉祥院:灘町に所在
真言宗御室派。鳥取藩米子荒尾氏の祈願所。勝田(かんだ)神社別当であった。寛延2年(1749)火災焼失。
米子吉祥院山門
12.浄土宗珠慶山凉善寺:岩倉町に所在
凉善寺はもと久米郡岩倉にあり法界山大蓮寺と号するも、米子城主鳥取藩家老横田内膳村詮により岩倉城下の住民とともに米子に移されたという。その後山号と寺号を改めると云う。
<写真なし>
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◇米子常住山感應寺
常住山と号する。身延山末。
2017/07/
関ヶ原の戦後、中村一忠が伯耆国へ入部し、慶長5年(1600)伯耆国米子城を完成させた頃、執政家老の横田村詮により中村家(米子城主)の菩提寺として建立されたと伝える。寺領は300石。
横田村詮は中村家が駿河国府中(駿府)を治めていた頃より静岡感應寺十一世日長と昵懇であったといい、感應寺を建立するにあたっては城主の菩提寺とすることで寺格を高めた上、日長を懇請招聘する。
横田村詮の招聘を受けた日長は開祖に六長老の一人である佐渡阿闍梨日向を、二祖に静岡感應寺再興の師である日朝を、自らを三世とし、感應寺の寺格を
さらに高め、寺観を整えると云う。
※日長は駿河感応寺11世、圓覺院と号する。
慶長14年(1609)米子城主の中村一忠が二十歳で急逝すると垂井勘解由延正、服部若狭邦友の小姓二名も殉死し、共に当寺埋葬される。
中村一忠の墓碑が建立されている場所にはかつて御影堂が建ち、三名の木像が祀られていたとされるが、御影堂は朽ち、中村一忠の350回忌に合わせて五輪塔が建てられ
、木像は本堂に遷座するという。
常住山感應寺は米子の他に駿河府中、紀伊和歌山にもあり、三寺は日本法華三感應寺と呼ばれる。 →駿河府中感應寺 →紀伊和歌山感應寺
末寺:
米子感應寺末:日浄山吉祥寺(鳥取市細見)
米子感應寺末:龍感山浄蓮寺(米子市大崎)
米子感應寺末:妙覚山法輪寺(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)
米子感應寺末:長隆山正法寺(鳥取県日野郡日野町黒坂)
2017/07/25追加:
○「妙本寺誌」宮原日鷲、河岡妙本寺、平成10年 より
◆慶長期の特異な内規
「(伯耆妙本寺)14代圓妙坊日運ノ同座、圓覺坊日長ハ甲州巨摩小室産、慈雲日新門弟、京洛法華寺住、甲州小室徳栄山(小室妙法寺)17代、駿州感應寺11代、伯耆米子感應寺開檀、雲州啓雲山開山。(※雲州啓雲山は不詳)
中村式部大輔嫡子一忠公、伯耆太守封サレ尾高ニ入ル老臣横田内膳、米子府縄張ニ兵法才智ノ上人併道、当山住ス内膳慶長8年誅殺入封3年、裏砦台ニ葬ス日長九年出雲ニ出国ス同12年当山ニ養老、同16年示寂、寿90余。徳栄山に葬ス。
感應寺伝とはいささかに相異する。龍巌院日長上人と感應寺は誌す。感應寺日長は伯耆に入国して、当山に滞在1年、米子に2年、内膳亡き後に出雲に出国、伯耆に再入国は4年後で、老病体で来訪、5年後に当山で示寂。とある。
◇河岡具足山妙本寺
創建時は具足山妙本寺と号する。しかし、近世に不受不施及び不受悲田が禁制となる過程で、対抗処置として川上山妙春寺と改号する。
近年、創建時の具足山妙本寺に復号する。また、昭和30年代に日蓮宗を離脱、2016年日蓮宗に復帰という。
→ 伯耆河岡妙本寺
★出雲の諸寺
◆出雲平田
2012/10/19追加:2012/09/29撮影
◇出雲平田本妙寺:京都要法寺末
出雲四個大坊の一つ平田大坊と云う。常住山と号する。創建は延慶2年(1309)日尊上人を開基とする。
出雲平田開所である小村・杉原一族の発願と云う。
※小村氏は、正和年中(1312-1316)、近江国から平田に移住し、杉原氏は、やや遅れて、文宝年間(1320-)にいずれからか移住し、未開の沼地であったこの地を開拓、平田の基礎を築くと伝える。
そのときから小村氏と杉原氏は協力関係にあり、本妙寺も2氏が共同して建立すると伝える。また、当地にある熊野権現(明治5年宇美神社と改号、神宮寺と分離)も
応永元年(1394)、2氏が紀伊熊野権現を勧請すると伝える。
出雲平田本妙寺山門 出雲平田本妙寺本堂 出雲平田本妙寺鬼子母神 出雲平田本妙寺鐘楼
◇平田法恩寺:2012/12/21追加:2012/12/01撮影
妙光山と号す。身延山末寺。永禄元年(1558)本迹院日祇の草創なりと云う。京洛妙覚寺末。
日祇上人は、京都本山妙覚寺の弟子であったが、天文法難で堺に移り、その後地方の広宣布教の旅に出たと推測されている。出雲では、今市連紹寺、大森妙正寺を草創し、妙正寺で遷化と伝える。
創建については、異説もあり、開基小村家の文書には永禄10年(1657)と記録される。
開基檀越小村家は、正和年中(1312-16)に近江からこの地に移住し、未開の地を開拓し、平田の基礎を築く。
小村家の先祖は、法華宗本妙寺を建立し、小村家14代市良衛門は、本迹院日祇上人に深く帰依し、境内外三反歩を寄進し、法恩寺を建立し、菩提寺とすると云う。なお享保と平成の2度全焼する。
平田法恩寺本堂 平田法恩寺堂宇:名称不明
なお、東面して山門があるが写真はなし。
◇平田古平田寺:2012/12/21追加:2012/12/01撮影
宗信山と号す。京都要法寺の旧末寺であり、現在は日蓮宗興統法縁会に属する。
寛文4年(1671)<寛文11年とも云う>本妙寺15世詮量阿日増上人を開基とし久円禅定を開山とす。
当時「古平田薬師堂」と称するも、3世宗信坊日求上人代、本山要法寺より末寺帳に登載され「古平田山薬師寺」と公称する。
昭和56年山号を「宗信山古平田寺」と改称する。
なお、寺院紹介では
出雲風土記に「新造院」と記され同註に「平田村薬師堂也」と記されており、千三百年の明確なる史実は伴わないが、
ここに、「古平田」の起源が存する。(中略)
当地最古の新造院の仏像が当山の薬師如来であることは肯定せざるを得ない。古平田薬師の仏像は仏の面形横二寸五分、無手無足、縦三寸五分、長さ二尺と記されて仏体の破損は甚だしく耳のみが明らかであり、他は全く仏像の姿ではなく、古色蒼然たるものである。開扉は一月八日、七月七日を恒例とし、この仏像にまつわる仏説、逸話は数多く存する。
とある。
以上によれば、新造院のものと称する甚だしく破損した古仏薬師如来が古平田寺に伝わるようであり、また古平田寺はその新造院を継承する寺院と称するように解釈される。
(※しかし、その真偽のほどを判断する材料は持ち合わせていないので、上記の真偽の判断は保留する。)
古平田寺前景 古平田寺本堂 古平田寺背景:本堂斜め裏の堂宇跡(名称は不明)から撮影
○なお、当寺の南隣に天台宗王山瑞雲寺と号する「平田薬師」が存在する。
瑞雲寺縁起によると本尊薬師如来像は行基菩薩の作と伝える。
当初は泉光院と号し一時修験でもあったが、戦国期に荒廃する。享保17年平田村神宮寺の寂湛が中興し、薬王山瑞雲寺と改号すると云う。
とうことから見て、現在の平田薬師は出雲風土記の云う「新造院」や「平田村薬師堂」とはほぼ関係がないと云えるであろう。
参考:平田薬師参道仁王門 平田薬師仁王門 平田薬師旧鐘楼か 平田薬師本堂庫裏
平田薬師鐘楼 平田薬師本堂
参考:
平田の付近は楯縫郡に属する。その楯縫郡は4つの郷からなる。
佐香郷:現在の出雲市小境町、鹿園寺町、園町、坂浦町、美野町付近。
楯縫郷:現在の出雲市多久町、多久谷町、小伊津町、三津町、上岡田町、岡田町付近。
玖潭郷:忽美郷から神亀3年(726)に改名。現在の出雲市久多見町、東福町、東郷町付近。
沼田郷:努多郷から神亀3年(726)に改名。現在の出雲市本庄町、万田町、西郷町、西平田町の一部、平田町の一部、口宇賀町の一部付近。
2010年以前作成:2021/07/24更新:ホームページ、日本の塔婆
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