諸 国 の 牛 頭 天 王

尾張津島天王社、山城祇園社広峰牛頭天王社備後江熊天王社蘇民将来護符一覧 等

概説

○「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」長井博、文芸社、2011 より
牛頭天王は、最初に、「備後國風土記」逸文にある「疫隈の國の社」に来臨、その後、明石を経て播磨國の廣峰に垂迹した。
「疫隈の國の社」とは備後戸出の牛頭天王(現素戔嗚神社)である。
そして、貞観11年(869)平安京に疫病が流行し大勢の人々が亡くなった。
貞観18年(876)牛頭天王を廣峰から京に勧請したというのが通説になっている。
但し、津島へは対馬から直接到来したのである。
参考:
現代の牛頭天王の神社数→祭神種類ランク:今なおbVに位置する。
神社数は色々な数え方(母数をどの範疇とするか<どこまでの神社を対象とするか>、摂社末社は含むのか、祭神の読替をどこまで徹底するかなど)があるが、牛頭天王社であったと判断される神社数は、現在でも、約2300社あるいは約6000社(氷川系228社以上を含む)を数える。


尾張津島牛頭天王社

尾張名所圖繪


津島牛頭天王社:上記拡大図

佛教施設は僅かである。
摂社弥五郎殿社北側に神宮寺(本地堂)、(楼門)、本社の北東に鐘楼、社僧である宝寿院・實相院・明星院がある。
本社西側の末社に経塚社、辨天社(弁財天)、千手社(千手観音?)、一切経社、星宮(虚空蔵菩薩?)などがあるが、実態は不明である。

●「尾張名所図会 巻之七」 より
◇津島渡(ツシマノワタリ):
 いにしへ伊勢より当国(尾張)に渡る船路なり。・・・伊勢より尾張へ行くは、桑名より北に津島の渡といふ所あり。
◇正一位津島牛頭天王社:
 ・・・当社は人皇七代孝霊天皇45年、スサノヲの和魂(にぎみたま)、韓郷(からくに)の島(「書紀集解」に韓郷の島は新羅國をいふと見えたり)より帰朝・・、西海対馬に留まり、・・その後欣明天皇己未年、この神島に光臨し賜ふ・・。
始めは居森の地に鎮座・・・・、村上天皇の天暦二戌申年、勅使ありて、柏森の地に社を建て・・、後村上院の建徳元庚戌年正月、正一位の神階を授け・・。・・・
永禄・天正の頃、織田信長公殊に当社を尊信・・、神領いくばくを付し、宮殿を造営・・・。本社・末社及び神門・銅瓦に至るまで、丹塗りにして・・驚かせり。
もとより、尊神は文武兼備の始祖神にして・・・、疫癘(えきれい)を除き、痘疹を守り賜ふ・・。
 本社
スサノヲを祭る・・・・。古を考ふるに、おそらくは「式」の神名帳に見えたる國玉神社ならんか。・・・瑞垣・祭供殿・拝殿・御供所・楼門・南門・神厩・文庫・絵馬所・神庫・篝臺・鳥居・御井館・手水館等あり。
 末社
居森社・・・・・、一王子社(クシイナダヒメを祀る・・・)、八王子社(・・・)・・、蛇毒神社(八岐大蛇の霊を祀る)・・・、蘇民社(蘇民将来を祀る・・)、・・・・・、弁才天社、・・、経塚社、一切経社、毘沙門天社、・・・神宮寺(弥五郎殿社の北にあり、慈覚大師作の薬師及び十二神将を安ず)、鐘楼(本社の東北にあり、銘に曰く、「尾張國海東郡津島牛頭天王鐘。応永十年・・・」と見えたり)
 例祭
・・・省略・・・
 神領
千二百九十三石余、其の外神主・祠官等の領知甚だ多し。・・・
 神主氷室氏
後醍醐天皇の皇孫尹良(ユキヨシ)親王の御子正二位大納言良王(ヨシタカ)、乱を避けて津島に来たり、居住し給ふ。
その令子良新(ヨシワカ)(あるいは尹良親王の二男ともいふ)始めて神職となり玉ふ。
しかれども、嗣子なき故に小田井大学定常<大橋貞元が子なり>神主となり、その頃中島郡氷室村を領せしかば、氏を氷室と称し今に至りて連綿たり。・・・・・
 社僧
實相院
明星院
寶壽院
観音坊:小沼(オズマ)にあり。・・・元は三輿村にありて、・・・慶長13年この地に移し、社僧の列に加わりしよし寺伝にいへり。本尊不動明王・・・。鎮守白山社。
社僧は4坊とも五王山神宮寺と号し、真言宗にて、今府下大須真福寺末なり。往古は10坊ありしが、中世以降荒廃して今の如くなれり。
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津島牛頭天王社概要

◇印は「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」長井博、文芸社、2011 より
△印は「牛頭天王と蘇民将来伝説」川村湊、作品社、2007 より
▽印は「津島町史」愛知県海部郡津島町、昭和13年 より

●津島牛頭天王社
◇牛頭天王は備後疫隈國社に先ず来臨し、次いで播磨明石浦に上陸して廣峰山に鎮座するという。そして最終的には貞観18年(876)廣峰から京に勧請され、最後には祇園感神院(祇園社)に鎮座という。
津島牛頭天王については、以上のルートとは別に、対馬から直接、津島に来臨し垂迹すると伝えられる。
だとすれば、日本海の対馬から太平洋側の津島へ渡来する問題のないルートがあったのであろうと想定される。
即ち、古来より、対馬を発した船は外海を支配する<宗像>の神の外護を受け、内海に入り、そして、ここでは内海を支配する<住吉>の神の外護を受け、瀬戸内から紀伊半島を回り熊野灘を通過し、伊勢湾に入るルートが確立をしていたのである。
さらに、伊勢湾から東へは陸のルートではなく、津島に至る水のルートがあったのである。
 古来より、津島は湊町であった。
対馬湊に至る水のルートは伊勢湾より、揖斐川から木曽川に通ずる支流を通り次いで、海部氏本貫の地域を通っている木曽川支流の佐屋川から天王川を渡し舟で通って津島湊に着くというルートであった。
但し、現在ではこれらの支流は土砂の堆積や河川改修で廃川となる。そのため、往時を偲ぶのは多少の想像力が必要である。
 ※参考:
  「中世津島の景観とその変遷」山村亜希(「愛知県立大学文学部論集. 日本文化学科編 53」2005-03-31 所収) より転載
   津島周辺の旧河道と街道:国土地理院/明治24年測量図「津島町」・「稲沢町」をベースにして、中世の河川を重ねたものである。
  中世の津島及びその周辺の河川の流路が分かる。
   津島の地形と町名:道路・水路・河道は明治17年津島村・向島村地籍図による。
  町名・地名は「尾張國海西郡津島之圖」延享5年(1748)による。
  近世の津島の地形はほぼ現在の地形と比して、大差は認められない。従って、近世には現在の骨格が成立していたのであろう。
△対馬ルート(備後、播磨、山城ルートとは別のルート)による渡来は津島天王社や地元の記録からではなく、むしろ対馬の側の記録によって裏付けられ、補強されるようである。対馬を津島と表記することは珍しいことではなかったようである。
牛頭天王が対馬に足を留めた時、まだ「牛頭天王」という名前を獲得していなかったと思われる。それは武塔神に近いものであり北方から南方への旅の途中で、「津の島」停泊したのである。であるから、対馬では牛頭天王の名を残すはずはないのである。
◇津島牛頭天王社は中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」もしくは「津島天王社」と称する。
社伝では29代欣明天皇元年(540)に鎮座、嵯峨天皇代弘仁元年(810)に正一位などの位階を受ける。また正暦年中(990-95)に天王社の号を受けるという。しかし「延喜式」にその名は見ず、歴史にもその名は出てこない。
「尾張國国内神名帳」では海部郡の筆頭に「正一位上津島牛頭天王」と記載され、実際に創建されたのは12世紀(平安後期)との先学の考察がある。
  ※尾張國国内神名帳:平安末期の編集という。
      尾張国内神名帳:海部郡の部:第一位に津島牛頭天王社が挙がっている。
近世、織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を図り、社殿の造営などを行う。(織田氏家紋の木瓜紋は津島社神紋と同じであるのはその傍証か。)
豊臣氏一門も社領を寄進し楼門・南門の修造寄進を行い、厚く保護する。
徳川氏も清洲城主松平忠吉(家康4男)室政子(清泉院)が本殿を寄進し、さらに正保4年(1647)尾張藩主徳川義直は1293石余の神領を寄進し、後に幕府公認の朱印地となり、明治維新まで続く。
▽吉野朝時代においては、・・・津島では大橋定省や堀田正泰等が官軍に属したようである。元来大橋氏は平氏の出で、鎌倉時代よりこの地に居り、堀田氏は中島郡堀田村に居ったのが、後に津島に移ったと伝え、供に土地の豪族である。
浪合記によるに、四家(大橋など)七黨(堀田など)尹良親王の子良王を扶けて奮戦するとある・・・
津島神社の由来
祭神はスサノヲでオオナムチを配祀する。然るに古来祭神を牛頭天王とす。元来スサノヲと牛頭天王は同一神である。
社伝ではスサノヲは韓國に渡りし時、その荒霊は尚出雲國に鎮まり日御碕の神となり、和霊はいったん對馬州に鎮まり、欣明天皇元年にこの地津島湊居森の地に移り、天平元年北方柏森(今の柏樹社)に移し、さらに弘仁元年今の地に移るという。
但し、これは信じ難い説である。
二十二社註式に牛頭天王は初め播州明石浦に垂迹し、廣峰北白河東光寺に移り、その後祇園感神院に移るとあって、その時期は貞観・元慶の頃であるから、順次西から東へ遷座して津島に鎮座したとみるべきであろう。その場合、津島鎮座はおそらく平安中期のことと推定される。
祠官(社司):
▽神主は古来氷室氏であって明治維新に至る。氷室氏は紀姓である。
▽神官の第一は堀田右馬太夫で應永年中の之定が先祖で紀姓である。他4名の神官が居る。

無印は2014/03/11撮影:◇印は2018/04/21撮影
●社殿
 津島天王社参詣道碑     ◇津島天王社道碑2:本蓮寺山門前
南門
◇慶長3年(1598)秀頼の寄進。
 津島天王社南門1     津島天王社南門2
本殿(重文):
◇慶長10年(1605)松平忠吉室政子の寄進、本殿の周りには拝殿、祭文殿、回廊などが立ち並び、本殿は屋根の一部を拝するばかりである。
明治の神仏分離の処置で、祭神を改竄する。(牛頭天王を廃し、建速須佐之男を主祭神とし、大穴牟遅(大国主)を相殿に祀る。)
▽流造、檜材、屋根檜皮葺き、縦5間1尺7寸横5間1尺7寸。
 ◇津島天王社本殿1     ◇津島天王社本殿2     ◇津島天王社本殿3     ◇津島天王社本殿4
 ◇津島天王社本殿5     ◇津島天王社本殿6     ◇津島天王社本殿
釣殿:本殿南
祭文殿:釣殿南
 津島天王社本社1     津島天王社本社2     津島天王社本社3     津島天王社本社4
回廊:本殿・釣殿・祭文殿の東・南・西を廻る。
 津島天王社回廊1     津島天王社回廊2
瑞垣:本殿の北・西を廻る。
 津島天王社瑞垣     ◇天王社本殿瑞垣1
拝殿:回廊の南
 津島天王社拝殿1     津島天王社拝殿2
その他本殿群に上御供所、御供所渡、下御供所、井戸屋形がある。
寶庫:本殿の北西
 津島天王社宝庫
透塀:拝殿の南
 津島天王社透塀
楼門(重文):
◇東鳥居の内にある。天正19年(1591)秀吉の寄進。三間一戸、入母屋造、屋根檜皮葺。神仏分離以前はこの門から神輿渡御が行われたという。
▽正面4間3尺、妻2間4尺
 津島天王社東鳥居
 津島天王社楼門1     津島天王社楼門2     津島天王社楼門3     津島天王社楼門4
 津島天王社楼門5     津島天王社楼門6     津島天王社楼門7
 ◇津島天王社楼門9     ◇津島天王社楼門8
●摂社・末社
摂社居森社:宝暦9年(1759)造立
◇社伝でいう欣明天皇元年(540)に牛頭天王を最初に祀った地という。それ故、上宮と呼ぶ。居森とは、牛頭天王の神船を津島湊に迎えた時、蘇民将来の後裔という老婆が霊鳩のお告げとして、湊の森の中に据えた奉ったことに由来するという。今はスサノヲの幸御霊(さきみたま)を祭神とする。
居森社左は末社疹社(はしかのやしろ/祭神はスサノヲの和御霊)、右は末社大日孁社(おおひるめのやしろ/祭神は大日孁貴<おおひるめ>)
△牛頭天王を最初に祀ったところと伝承する場所であるので、本来なら第一の聖地とすべきところであるが、スサノヲのサキミタマ(幸御霊)を祭神にして、境内の片隅に存在しているだけの境遇である。牛頭天王を消し去る意図であろうと思われる。
▽もとは第一別宮と称する。
 摂社居森社1:向かって左は末社大日孁社、右は末社疹社     摂社居森社2     末社疹社     末社大日孁社
摂社柏樹社:宝暦10年(1760)造立
◇牛頭天王を居森社で祀った後、聖武天皇代天平元年(729)神託により北方の柏森に移し、その後弘仁元年(810)に今の地に移すという。元は柏宮・柏社と称するも、今は下宮という。祭神はスサノヲの奇御霊(くしみたま)という。
▽もとは第二別宮と称する。天平元年神託によって居森の森より、ここに移す。
 摂社柏樹社
摂社弥五郎殿社(国玉社):寛文13年(1673)造立
◇柏樹社に次いで牛頭天王は現在地の弥五郎殿社に鎮座という。現在の祭神はオオナムチ(大国主)と竹内宿禰である。
弥五郎とは堀田弥五郎正泰であり、津島牛頭天王社の神官の家柄であり、堀田氏所伝では竹内宿禰が姓祖という。
▽創建年代不詳、南朝忠臣堀田弥五郎正泰の正平元年夢想によって復興せるもので、願主の名によって、この名を構えるという。
△上記のように、社伝では堀田弥五郎正泰の名を採るということであるが、その逆で、社殿の「弥五郎」が先にあり、堀田正泰を「弥五郎」にしたのではないだろうか。
津田正生(まさなり)は「弥広矛(やひろほこ)」→「弥五郎」としている。
即ち、津田正生は延喜式の國玉神社を津島天王社に比定し、祭神「弥広矛」の訛化が「弥五郎」としている。
 摂社弥五郎殿社1     摂社弥五郎殿社2     摂社弥五郎殿社3     摂社弥五郎殿社4     摂社弥五郎殿社5

△明治の神仏分離の狂気は、例外なく津島天王社にも及び、佛教的な部分は天王山寶壽院(唯一社僧が還俗せず法灯を守るという)として分離し、牛頭天王・蘇民将来・婆梨菜姫・八王子などの仏教的「異神」をスサノヲ・クシナダヒメ・オオナムチといった記紀神話の登場人物に変換を強制する所業となる。その結果が今の「津島神社」なのである。
要するに、牛頭天王、蘇民将来、八王子などの存在を、極力記紀神話という神統譜の中に組み込んでしまうという国家神道や復古神道の意図や意思が神社そのものの構造の中に窺えるのである。
例えば、摂社・末社の中で次のことが見て取れる。
摂社和御魂(にぎみたま)社:宝暦10年(1760)造立
△これは、もとは蘇民将来を祀る蘇民社であったという。津島天王社の神域であった姥が森(現在は愛西市町方町、姥が森神社の地と思われる)から遷座し、スサノヲのニギミヤマ(和御霊)として祀り、和御霊社と称するという。紛れもなく「蘇民社」を消し去る意図があったのであろう。
▽もとは蘇民社と称し、蘇民将来を祀り、昔は本社より北5町の「お姥が森」にあったという。
 (※つまりは蘇民社であったのである。)
 摂社和御魂社
摂社荒御魂(アラミタマ)社:宝暦9年(1759)造立
△スサノヲのアラミタマ(荒御霊)を祀るという。社伝ではもともとは八岐大蛇の霊を祀る「蛇毒社」と称されていたということであるから、本来は牛頭天王の八王子の八番目の「蛇毒気神」が祀られていたのであろうと思われる。八岐大蛇とは「蛇毒」の名から牽強付会したものであろう。これも牛頭天王の八王子を消す意図があるものと思われる。
 摂社荒御魂社1     摂社荒御魂社2
摂社八柱社:寛文12年(1672)造営
△スサノヲの五男三女の御子神を祀るというも、元来は牛頭天王の八王子を祀ったものであろう。タギリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメの宗像三神はまだしも五男神などは数合わせにすぎないといわざるを得ない。
要するに、これも八王子を消す操作なのであろう。
▽もとは八王子社といい、第四別宮と称する。(※つまりは牛頭天王の八王子社を抹殺したのである。)
 摂社八柱社
末社龍田社
▽もとはここに一切経蔵があった。
末社久斯社
▽もとはここに千手堂があった。
末社熊野社
▽もとはここに弁財天堂があった。
●神宮寺
 ◇津島天王社神宮寺跡:神宮寺は弥五郎殿社の北側にあったといい、写真中央附近にあったものと思われる。向かって左は弥五郎殿社。
 ◇津島天王社鐘楼跡:鐘楼は本殿北東にあったといい、写真中央木立附近にあったものと思われる。更に写真の奥は宝寿院境内である。
●津島牛頭天王社僧(あるいは神宮寺)
 ※津島天王社社僧として明星院・実相院・宝寿院・観音坊が知られるが、宝寿院のみ明治の神仏分離の処置である還俗・廃寺を拒否し
 現存する。
  尾張國海西郡津島之圖・社僧:本図は向かって左が北。中央下(津島天王社北東に明星院・実相院・宝寿院があり、
                中央上に観音坊(観音院)がある。
寶壽院
▽牛頭山と号する。大須寶生院末寺。
天王社境内に西から寶壽院・實相院・明星院と連なってあった。寶壽院は最西部にあった故に西寺と俗称した。
實相院・明星院は明治の神仏分離の処置で還俗し、廃寺となる。本尊をはじめ仏像・仏具・什宝など多くは寶壽院に移される。
次は宝物の一例である。
涅槃図:重文
 旧津島牛頭天王社宝篋印塔:貞和3年10月日の銘あり。重文。写真は「津島町史」から転載。
 旧津島牛頭天王宝篋印塔
  ※宝篋印塔は津島牛頭天王社にあったが明治の神仏分離の処置で宝寿院に移されたという。
  昭和42年この石塔は所有者が変わり、名古屋市内の個人邸内に移築される。
  平成20年所有者(東京在住)の事情により比叡山坂本南善坊前に移築される。
  硬質砂岩製(鵜沼石)。塔身には、金剛界四仏の梵字を彫り出す。円相中に薬研彫りで梵字を表してあり,蓮台が添えられる。
  笠の隅飾りには輪郭があり,内側に円相が彫られ、円相中には梵字があり。基礎は三段で側面に格狭間が彫られる。
  相輪は後補。
 宝寿院本堂      宝寿院境内      宝寿院地蔵堂      宝寿院大師堂      宝寿院庫裡
観音坊
▽牛王山と号す。大須寶生院末寺。元は見越村にあり、慶長13年現地に移し津島牛頭天王の社僧の列に加わり、他の社僧とともに牛王山神宮寺と呼ぶ。
 ◇社僧観音坊1     ◇社僧観音坊2:稲荷吒枳尼天も祀る。     ◇社僧観音坊本堂:牛玉山の扁額を掲げる。
 ◇観音坊本堂内部:中央厨子は本尊不動明王、向かって右は弘法大師
・社家:氷室作太夫家遺構:母屋・長屋・門からなり、門塀が付属する。幕末には社家は30家を数えるも、現存する唯一の社家である。嘉永2年(1849)の建築。棟札2枚と古図2枚を残す。
 ◇社家氷室作太夫家遺構1     ◇社家氷室作太夫家遺構2     ◇社家氷室作太夫家遺構3
・津島天王祭
 ◇天王祭巻藁舟模型1     ◇天王祭巻藁舟模型2     ◇天王祭巻藁舟模型3:巻藁舟:まきわらふね
 ◇天王祭車楽船模型1     ◇天王祭車楽船模型2:車楽船:だんじりふね
 ◇天王祭大太鼓

天王川は、今は廃川となり、僅かに池となる。
 残存天王川1     残存天王川2     残存天王川3     残存天王川4     残存天王川5     残存天王川6
 ◇津島天王橋跡     ◇残存天王川7     ◇残存天王川8     ◇津島湊跡
津島興善寺
寶珠山と号す。曹洞宗。本尊薬師如来。応永3年(1396)創建で、天正の大地震で倒壊、此の地に移る。
津島天王社筆頭社家堀田右馬太夫家の菩提寺である。
明治の神仏分離の処置で津島牛頭天王社から牛頭天王像(木造・椅像/三面十二臀で牛頭を頂く)が移され、現存する。
 津島興善寺山門     津島興善寺本堂     津島興善寺庫裡
Webで検索すれば、3例ほど津島牛頭天王像写真が検索できる。本3例の画像を転載する。
 津島牛頭天王像1     津島牛頭天王像2     津島牛頭天王像3



東国の牛頭天王

常陸の牛頭天王

 →筑波山麓:北条牛頭天王

駿河の牛頭天王

興津牛頭天王社
現地説明板には次のようにいう。
 津島神社
主神:タケハヤスサノヲ、相殿;オオナムヂ(オオクニヌシ)
江戸期には関東地方に悪疫・災厄が流行した時にはお上に請うて「普天の下卒土(天下じゅう地の続く限り)の濱王土にあらざるなし、汝疫神速やかに立ち去るべし、若し去らざるに於いては津島牛頭天王に奏して処罰せしむべきもの也、何村疫神共之」との差紙を得て、これを村の入口等へ貼ることが行われた。当地でも以上のような謂れで牛頭天王を祀ってきた。
2020/03/06撮影:
説明板のように、この社は興津牛頭天王であったことが理論的に語られているので、何の解説も不要である。
 興津牛頭天王社

矢部牛頭天王
矢部能満寺東南に牛頭天王が祀られる。明治維新まで、能満寺が別當であった。
寛文年中、京都祇園社より勧請され、神殿と覆屋が造営される。明治元年太政官布告で八坂神社と改称される。祭神はスサノヲ、明治8年村社に落ちぶれる。<写真は撮影せず>
 →矢部能満寺:駿河清水附近の諸寺中にあり


越前の牛頭天王

越前応神寺牛頭天王
福井県丹生郡越前町天王18−24に牛頭天王が祀られる。
明治維新の神仏分離の処置で、現在は例の如く「八坂神社」と称する。

○サイト:織田文化歴史館>八坂神社 より 天王牛頭天王/応神寺の概要を要約する。

◇「応神寺東寺修修造料足奉加注進状」
 明治維新までは祇園天王宮と称する。
伝承では神功皇后が三韓出兵の帰途、当地に神祠を創建し牛頭天王を祀り、創始されるという。中世には、別當真言宗応神寺が支配する。
 文安2年(1445)8月7日付「越前国応神寺東寺修造料足奉加人数注進状」(「教王護国寺文書」)には、端裏書に「天王 小山々応神寺」、冒頭に「越前国丹生北郡田中庄」とある。
この奉加人数注進状によれば、37名の僧侶が5貫文を東寺に奉加しているが、応神寺は多くの坊舎を持つ大寺であったと推定される。
◇「応神天王宝前造営記」
 「応神天王宝前造営記」(八坂神社文書七号)では、当社は応神天皇の造営で、蛇谷山・宝栄山・愛宕山の三山に応神宮三社大権現を祀り、本地は祇園牛頭大日如来という。
その後、光仁天皇の天応元年(781)の造営、嵯峨天皇の弘仁13年(822)の修理、花山天皇の寛和2年(986)の造営があったという。(史実かどうかは不明)
大治5年(1130)美福門院(鳥羽天皇皇后)が奉加修理する。美福門院は、少なくとも永治元年(1141)以前から永暦元年(1160)まで越前は、美福門院の所領であった。
嘉応元年(1169)平重盛が奉加修理したとする。平重盛も仁安元年(1166)から治承3年(1179)まで越前国を知行する。
◇佐々木六角氏の造営
 室町期・応安5年(壬子/1372)4月、造営鐇立(はんだて)を行い、翌々年の7年2月に棟上げを挙行。
大檀越は「佐々木六角殿」(六角高詮)であったとする。
応神寺の寺僧は次のようであった。貫主・別当・学頭・大勧進・少勧進を勤める金剛院・円蔵坊・応ドウ(土+童)院・円禅坊・宝威坊であった。
◇その後の修理造営檀那
 応永11年(1404)「飛鳥井右衛門佐殿」屋根上葺。
永享7年(1435)別当法印守賢(大勝院法印守賢)の修理。なお、文安2年(1445)の「越前国応神寺東寺修造料足奉加人数注進状」では奉加人数は37名で一人「大勝院」が100疋を東寺へ奉加している。他坊のすべてが20疋であるので、大勝院は群を抜く奉加高であった。
天正12年(1584)11月下旬宝殿が大地震で破損、翌13年2月高橋良珍入道成重が修理。高橋良珍は社家の筆頭であったらしく、応神寺の諸坊は衰微と思われる。
天正16年大檀那「太田小源五一吉(丹羽長秀奉行人筆頭)」が拝殿造立。
慶長19年(1614)大檀那「大見彦三郎元貞」が奉加修理・棟上・遷宮を執行。
 ※この頃、応神寺7坊として、弘蔵坊・金剛院・円藏坊・王撞院・円禅坊・宝威坊・大勝院があったとも云う。
◇近世の天王宮
 中世末期の越前一向一摸の蜂起によって、国内の一向宗以外の他宗他派の諸寺院・諸神社は悉く焼亡する。「朝倉始末記」には越知山大谷寺の一揆襲撃が記されているから、天王宮応神寺も同時に焼亡したと考えられ、この結果、応神寺の諸院坊は衰退して、近世に入ると天王宮だけが残ったと思われる。
現在、種別の異なる「八坂神社古図」と称する絵図が伝来するが、これは当時残された資料や伝承を基にして、中古の姿に復元した絵図と思われる。
 応神寺の諸坊が廃退して天王宮のみが残る結果になり、慶長3年(1598)の太閤検地では「寺屋敷壱町・田五段」が神領として寄進され、「堂前之廻り」が除地として残されただけでの状態となる。
 明和元年(1764)に天王村は三河国西尾藩領となり西尾藩陣屋が置かれて、天王宮も西尾藩支配となる。社領や除地はそのままで西尾藩松平家の祈願所とる。
 社家の高橋家は、全国の神道を取り仕切る京都吉田家の支配下に入る。(高橋氏は姓「藤原」、「飛鳥井家進士大宮司」を称し、牛頭天王・白山権現・八幡宮の三社の祠官を兼ねる。)
◇近代の八坂神社
 明治の神仏分離令によって、明治2年阿麻伎美(あまきみ)神社と改号するも、後に八坂神社と改称し同8年に郷社となる。
祭神は素戔嗚・奇稲田姫・応神天皇の三体と改竄される。
境内地には八幡神社・市姫神社・愛宕神社・白山神社・辻神社・神明神社・天満神社・薬師神社・御塔神社の九社の境内末社が合祀されているが、これらは天王宮背後の蛇谷山の嶺谷に散在鎮座していた神仏を応安7年(1374)に移転したものという。大正10年朝日町馬場区の若八幡神社を合併する。
 ※辻神社とは不明、薬師神社とは薬師堂薬師如来を祀ったものか?、御塔神社も佛教関連か?。
また、境内地に鎮座する雨夜(あまや)神社(保食神)は、明治43年に移転したものである。
◆八坂神社の文化財
概要
 昭和38年神殿の祭壇床下より仏像などの片部材(矧ぎ面で離された大小数十片)が不規則に積み重ねられた状態で発見される。
これらの部材を組みたてたところ、阿弥陀如来坐像2躯、釈迦如来坐像1躯、菩薩(大日)坐像1躯など半丈六を超える大像4躯と、残欠像・光背・舞楽面残欠などが復原される。
いずれも平安期の制作と推定され、「八坂神社古図」によれば中世には14ヶ院坊を擁していたという別當応神寺関係の仏像などと推定される。
 ※これらの中、仏像4躯(いずれも半丈六)と光背1面が国指定重要文化財に指定される。
 ※諸仏像と光背は昭和49年より逐次京都美術院で修復され、昭和53年境内に収蔵殿が竣工し、修復を終えた仏像が収納される。
木造 阿弥陀如来坐像(重文)
 欅材、寄木造、彫眼、素地。像高140.0cm。
木造 阿弥陀如坐像1(重文)
 桂材、一木造、彫眼、素地。像高146.0cm。
木造 釈迦如来坐像2(重文)
 檜材、一木造、彫眼、現状素地。12世紀頃の造立とみられる。像高140.2cm。
木造 菩薩形坐像(重文)
 桂材、一木造、彫眼、錆下地一部残。残欠像であるが、像容、前膊の矧ぎ口の向き等からみて、智拳印を結ぶ金剛界の大日如来像でないかとみられる。像高124.0cm。
木造 光背(重文)
 杉材製、二重円相部のみを残し、正中線で2材を矧付ける。平安後期の様式を示す。半杖六像用の作創として貴重である。高さ155.2cm。
木造 十一面女神坐像(県文)
 当社の摂社御塔神社の祭神は、頭上の天冠台上に十一面観音同様の仏菩薩面を戴き、右袵(うじん)の衣を着け、大袖内に拱手し安坐する像で、頭部は仏像、体部は女神像という像容そのものが、神仏習合の姿をとる遺例の少ない、珍しい神像である。
檜材、一木造、彫眼、彩色。頭部は仏像、体部は神像として、神仏習合の姿に彫出されている、誠に珍しい像である。像高62.8p、膝張43.2p。
 ※本像は、牛頭天王社殿床下からではなく、境内摂社である御塔神社の小さな社殿内に祀られていたという。それ故、風雨に晒され像の損傷が激しいという。
舞楽面
 祭壇の下から発見されたものの中には、残欠ではあるが採桑老(さいそうろう)・陵王の舞楽面がある。
 ※その他、指定以外のものでは、地蔵菩薩・天部形2躯・不動明王像・狛犬1対・貴徳面・蘭陵王面・採桑老面・仁王像天衣(一部)・獅子頭2頭・反花がある。

○2022/10/20「朝日新聞(朝刊)」>「濱田青陵 記念シンポジウム:神仏習合 出会いは山の中」 より
 色々な論点があるが、一つだけ紹介する。
佛教大学教授・杉崎貴英:調査した越前町・八坂神社(牛頭天王)の十一面女神坐像(平安末鎌倉初期)は神仏集合を如実に表す彫刻である。従前、白山の女神とその本地・十一面観音を表すと説かれたきたが、主神の牛頭天王と共通性が認められ、その后・頗梨采女の像としてつくられたのではないか。
 応神寺牛頭天王十一面女神坐像



○「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」長井博、文芸社、2011 より
牛頭天王、京への垂迹ルート

貞観年中(859-877)京の都で疫病が流行した時、牛頭天王が広峰山より京に勧請される。
そのとき、牛頭天王の分霊は播磨・摂津・山城の各地に立ち寄り足跡を残す。
牛頭天王が京へ垂迹するにあたり、足跡を残した関係神社は以下という。
★播磨神出蘇民社:神戸市西区神出町田井
 祭神は蘇民将来、元は北方の天王山に鎮座する。
★摂津平野祇園社:神戸市兵庫区上祇園町
 廣峰山より京へ分霊を遷す途中、その神輿が一泊したと伝える。鎮座地には天王川が流れ、その地は天王谷という。
★摂津難波牛頭天王:現・難波八阪神社:大阪市浪速区元町2-9-19
 もとは佛寺である。
★摂津次田社:現・吹田泉殿宮:大阪府吹田市西の庄町
 廣峰山より京の祇園社に向かう牛頭天王がしばらく立ち寄るという。
★京壬生元祇園社:現・梛神社:四条
坊城通角
 牛頭天王を廣峰山より京へ勧請した時、神輿を四条坊城の梛の林中に入れ奉り祀ったことが創祀せある。後に神霊を祇園に遷した時、花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を送るという。これ即ち祇園会の起源という。
★東天王社/北白川東光寺:現・岡崎神社
 「二十二社註式」に記載あり。<神霊を祇園社に遷す前に東光寺に祀るという。>
 貞観11年(869)牛頭天王を迎え祀り、悪疫の治まりを祈願という。
★感神院新宮/粟田天王社、粟田八大王子社:現・粟田神社
 貞観18年(876)牛頭天王を祀るという。
★山城天王村牛頭天王社:現・朱智神社
 天王村牛頭天王を祇園感神院に遷すと伝える。それ故、元祇園と云う。



山城國牛頭天王社

山城紫野今宮社

○「都名所圖繪」
 宮の社は紫野にあり、疫(えやみ)の神なり。
一条院の御宇正暦五年(994)六月廿七日、船岡の山上にまつりけるを、告夢ありて長保二年(1000)五月九日此所にうつして、今宮とあがめらる。
今は牛頭天王を勧請して二座なり。
 後拾 白妙のとよみてくらをとりもちていはひぞ初むる紫の野に 藤原長能
弥生十日には夜須礼(やすらい)まつりとて、加茂上野の里人烏帽子素襖やうのものを着、太刀をかたげ、笛を吹き鉦鼓をならし、此社をめぐりてやすらひ花よと囃しける、一説に、春陽の節はかならず疫(えやみ)の神分散して人を悩すなれば、当社をなだめしづめてをどりを催すとなり。
又高雄の神護寺の法華会には、加茂今宮より祈念して悪気をなだめんとて、踊をなじけるより始るとかや、さるゆゑに高雄の法華会はやすらかにはてよとはやせしを、いつの頃よりかやすらひ花よあすなひ花よなんともいふ説あり。
御霊会は五月十五日なり、前の七日は御出とて船岡を山の東なる御旅所へうつし侍る。
 山城紫野今宮社
 ※本社の隣に天王社がある。牛頭天王を祀るものであろう。
○「新撰京都名所圖繪 3」竹村俊則、昭和36年 より
 祭神はオオクニヌシ(※スサノヲの6世あるいは7世の孫)、コトシロヌシ(※オオクニヌシの子)、イナダヒメ(※スサノヲの妻)及び傍らにスサノヲ(※アマテラスの弟)を祀る。
 ※祭神については支離滅裂・ご都合主義・迎合的云々といか言いようがなく、合理的に説明をして欲しいと思う。
 ※疫神を祀り、疫病退散を願ったということは首尾一貫している、この疫神が元来牛頭天王であったのか、後世の流行に便乗して牛頭天王と称したのかは不明であるが、古来から疫病退散を願いそしてそれが朝野の願いであったことだけは確かであろう。
「続日本紀」では宝亀元年(770)疫神を京師の四隅に祀らせし、当社もその一つで、「日本紀略」では正暦5年(994)疫神を船岡山に祀り御霊会を行うとある。
長保2年(1000)再び疫神が示現し、現在の地に神殿三宇を造営する。
本殿左には摂社疫神社があり、この社は本社遷座以前からの鎮座といい、スサノヲを祀る。
[四面石仏]:重文・藤原、社務所の北背後にある。約60cm角の水成岩で、四面に薬師・弥勒・弥陀・釋迦の坐像を線刻し、天治2年(1125)の銘を刻む。元当社多宝塔の本尊と云われ、大正年中に発見される。(現在は京博に寄託という。)
 ※今宮社多宝塔とは初見であるが、他の大きな社の例にみるように多宝塔があった可能性は十分にあるだろう。
 ※同じ系統である祇園社神泉苑には、中世は良く分からないが、近世には多宝塔があったことが知られ、このことも今宮社に塔が建立されていたことの傍証にはなるだろう。
○今宮神社Webサイト より
 当社地には平安建都以前より疫神を祀る社があったといわれている。


○蘇民将来御札
「蘇民将来」御札を入手したので、紹介する。
 30歳代を挟み10数年間は紫野に居住していたので、今宮社には何度も訪れていた。
しかし、一般的にいって神社は国家神道色が強く、由来など胡散臭く、当時は由来など関心は殆どなかった。
それを今頃になって、今宮社で蘇民将来御札を販売していると知り、なんだ今宮社って牛頭天王社だったのだと思い知る。
 蘇民将来御札:左図拡大図
 蘇民将来御札袋
袋には蘇民将来の神話が語られる。その内容は「備後風土記」の蘇民将来神話の引き写しである。
  →「備後風土記」の蘇民将来神話に関しては、備後江熊祇園牛頭天王社にある。

なお、桂昌院(徳川家光側室・5代将軍綱吉生母)は「お玉」といい、今宮社の氏子圏である西陣の八百屋に生まれたという。
桂昌院は京都の社寺の復興に多くの寄進をしたが、今宮社に対しても崇敬し、西陣に対しても愛郷の念が強かったという。

2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 紫野今宮社蘇民将来符:「やすらい人形」

北白川東光寺(東天王社)

 備後江熊祇園牛頭天王社の所で述べるように、「二十二社註式」では牛頭天王は「播磨国明石浦に垂迹、同国廣峯に遷り、その後北白川東光寺に遷り、元慶年中(877-85)に感神院に遷る」と云う。
この北白川東光寺は既に廃寺であり詳細は不詳であるが、東光寺とは東天王社の寺号と推定される。
そもそも、東天王社とは王城鎮護のため、延暦13年(794)大将軍が四方に祭祀された社であり、その後は以下のような変遷を辿る。
弘仁年中(810-24)社殿炎上、貞観11年(869)社殿が造営され、改めて播磨廣峰山から牛頭天王を迎え祀ったものと云う。
平家物語では東天王社(東光寺)を官幣41所の一つとする。
室町期には将軍足利義政等より修造があったと云う。
応仁元年(1467)応仁乱の兵火で灰燼に帰す。再興にあたり、東光寺は廃寺となり、東天王社のみが残ると云う。
しかし、東天王社も享禄4年(1531)の兵乱により岡崎一帯が焼亡し、廃絶する。
現在では、東天王に位置する岡崎神社が東天王社を引き継ぐものとされる。
一説(「新選京都名所図圖會」)では、東光寺は平安初期、清和天皇皇后藤原高子(二条太后)の御願で建立され、延喜5年(905)定額寺に列せられるという。しかし、応仁の乱で焼亡し、東天王社のみ残ると云う。
幕末慶応年中に東天王社から岡崎神社に改号、祭神を牛頭天王からスサノヲに変更すると云う。
2018/04/30追加:
○「新撰京都名所圖繪 第一巻」竹村俊則、白川書院、昭和33年 より
岡崎神社:
 この地は清和天皇皇后藤原高子(二条大后)の御願になる東光寺のあったところで、当社はその鎮守として創祀された。
東光寺は延喜5年(905)勅して定額寺となり延喜10年皇太后が薨ぜられるや、本寺において法会を修せられた。
その後応仁の乱によって寺は無くなったが当社のみが残ったものである。本殿には八坂神社(祇園感神院)と同じくスサノヲ・クシイナダヒメ・その子八柱を祀るところから古くは東天皇社と呼ばれた。これはスサノヲの本地が牛頭天王であるという信仰から、すべてスサノヲを祀る社を、昔はみな天王社といったもので、今の名に改めたのは慶応年中のことである。
○天明7年「遺拾・都名所圖會」 より
東天皇社:
 同所東の端にあり。祭神牛頭天王。華表の額正一位東天王と書す、いにしへは此地に東光寺といふあり、其伽藍神なり。
諸社根元記曰、祇園牛頭天王、初めは播磨國明石浦に垂迹し給ふ、又広峰にうつり、其後北白川東光寺にうつす。
 願成寺・東天皇
 ※天王は天皇とも表記される。特に深い意味はないと思われる。天王も天皇も万物を支配する高貴な佛・神の尊称であり、昔の人は特に区別する必要がなかったのであろう。「天皇/てんのう」に特別な意味を付与したのは国家神道であり、それは明治維新以降の話であろう。
昔の人は国家神道の洗礼をうけてはおらず、天王であっても天皇であってもどちらでも良かったのである。
 なを、上記の絵図にある願成寺は次のような事情で現存しない。
願成寺は現存せず、現在は岡崎中学校の敷地となる。また岡崎中学校は与謝野鉄幹(本名は与謝野寛)の生まれた地である。
「与謝野寛短歌全集」(昭和8年2月)には次のような記述がある。
「明治6年2月26日、京都市外岡崎村の西本願寺支院、願成寺に生る。寺は岡崎神社の前に在り。……(中略)……父母の親友太田垣連月尼また早くより神光院の茶所に僑居せしが,寛のために名付け親となる。」とある。
しかし、鉄幹が7歳のころ、与謝野一家は、負債のために願成寺を処分する。
(おそらく、願成寺は売却され、願成寺は廃寺となり、取り壊されたのであろうと推測する。)
なお、中学校の校門入ったところに楠木があるが、それは願成寺の名残であるという。
 ※東天王社とは大将軍社なのか牛頭天王社なのかははっきりせず、かつ東光寺と東天王社との関係もはっきりせず、東天王社と岡崎神社の関係もはっきりせず、北白川と岡崎との地理関係もこれまたはっきりせず、 虚実はよく分からない。
○2018/08/28撮影:
 東天王社及び東光寺の虚実は良く分からないが、話の本筋は次の通りであろう。
東光寺は平安初期、清和天皇皇后藤原高子(二条太后)の御願で建立され、延喜5年(905)定額寺に列せられるという。
 なお、藤原 高子は承和9年(842) - 延喜10年(910)の生涯である。
一方、疫病に取付かれ病んだ都に牛頭天王が勧請されるのは、「二十二社註式」の表現を借りれば、「牛頭天皇 初めて 播磨明石浦に於いて 垂迹し 廣峯に移る 其の後北白河東光寺に移り 其の後人皇五十七代陽成院元慶年中感神院に移る」という事象が時代及びルートとして「真」であろう。
 まず、牛頭天王は広峰から直接祇園感神院に移ったのではなく、東光寺に移り、それから祇園感神院に移ったというが真のルートであろう。
但し、なぜ直接祇園社に遷らず、東光寺に移ったのか、の明確な理由は分からない。強いていえば、東光寺も感神院も当時大きな力を持っていて、まずは東光寺に遷るも、何等かの障害が発生し、祇園感神に再度遷座したということなのかも知れない。
 東光寺には、感神院に牛頭天王が遷座した後にも牛頭天王は祀られ、それが「天王社」と称されたのであろう。
平安後期、美福門院によって東光寺の西の位置に歓喜光院が建立され、そこにもいつしか牛頭天王(天王社)が勧請され、それと区別する意味で東光寺牛頭天王は「東天王社」、歓喜光院牛頭天王は「西天王社」と称するようになったのであろう。
 応仁の乱にて東光寺及び東天王社は灰燼に帰し、再興にあたり寺は廃され、東天王社(牛頭天王)のみ再興され、明治維新まで「東天皇」として存在したことは近世の地誌の示すところである。
 時は幕末、復古神道が蟠踞し、最悪のことが発生する。慶応年中、牛頭天王は廃され、スサノヲに取り替えられ、東天王社の名称も捨てられ、岡崎神社なるものに改竄される事態となる。日本全国おそらく数千の牛頭天王が例外なく、捨てられ、記紀神話の祭神に取り替えられたのである。政治思想でもって、歴史を抹消、作り替えたのである。
 地名「天王町」:白川通りと丸太町通りの交差する所は「天王町」の名前が残る。この地岡崎に牛頭天王が祀られていたからである。
 東天王社本社1     東天王社本社2:牛頭天王が廃された醜悪な社殿があるだけで、祭神がスサノオヲであるということ以外、近世末期めで牛頭天王であった形跡は全くない。
 如意寺雨社1     如意寺雨社2:本殿の東にある。もともとは鹿ヶ谷山中にあった如意寺の鎮守で、元は如意ヶ嶽山中池の地蔵の近くにあったが、大正6年この地に移されるという。
近江園城寺別院如意寺については「如意寺」を参照、絵図については「園城寺別院如意寺」があり、雨神社は本図の「赤龍社」に該当する。

北白川西天王社・歓喜光院

2018/04/30追加:
○「新撰京都名所圖繪 第一巻」竹村俊則、白川書院、昭和33年 より
天王塚
 平安神宮蒼竜楼の東北隅にある。方墳で墳上に松樹を植える。この地はもと鳥羽天皇中宮美福門院藤原得子の御願になる歓喜光院のあったところと云われ、この塚は寺の鎮守としてスサノヲを祀った西天王社(今の須佐神社)の址とも云われ、明らかではない。現在陵墓参考地となっている。
2018/10/19追加:
天王塚がなぜ陵墓参考地であるのかの理由の情報は無いが、まさか、天王塚と云われるその一点で陵墓参考地となっているのではないだろうかと疑う。天王塚とは天皇塚と音が似ているが、天皇塚ではないし、○○天皇の塚という具体的な伝承があるわけでもないだろう。
天王塚とは牛頭天王の塚(西天王社の塚)つまり牛頭天王社の土壇ということだけの意味ではないのか。
そして、この土壇あるいは塚が方墳あるいは墳墓であることは証明済なのであろうか。
○2018/08/28撮影:
平安神宮神苑出口の係員に見学を依頼するも、係員は陵墓参考地の見学(立ち入り)をかたくなに拒否する。理由はこの陵墓参考地は宮内庁管理であるからとのことである。
そもそも、有りもしない架空の物語をさもあるように大真面目に祭り上げ神武天皇陵などを築き、そこは宮内庁管理であるから、主権者である国民の立ち入りは禁ずるという構図と全く同じものではないか。太平洋戦争の敗戦によって天皇教国家は瓦解したのに、それを認めない組織が未だに存在するとはどうしたことであろうか。
ところが、後日Webで再度情報収集をすると、天王塚には「社務所の許可」をとれば、立ち入りできるとのことであった。
 →天王塚陵墓参考地その1、→天王塚陵墓参考地その2
であるから、機会があれば、再訪を期す。
 平安神宮蒼竜楼     天王塚方向の写真     天王塚陵墓参考地:天王塚陵墓参考地その2 から転載
○天明7年「遺拾・都名所圖會」 より
 西天王社:同所(神楽岡)本社(吉田社)の下壇にあり、祭神牛頭天王、岡崎天王と一双の社なり。・・・
※牛頭天王を祀っていたと知れる。現在の祭神スサノヲは明治維新の神仏分離の処置による改竄である。
○2018/08/28撮影:
 Web情報には次のようなものがある。
永治元年(1141)美福門院、今は西天王塚と呼ぶ場所に歓喜光院を建立する。
翌康治元年(1142)(牛頭天王は)歓喜光院の鎮守として創建され、現在は平安神宮の蒼龍楼の北東にある西天王塚に祀られ、岡崎の東天王社に対する西天王社と呼ばれたという。
この歓喜光院およびその荘園は美福門院の死後、鳥羽天皇と美福門院の皇女である八条院が受け継ぐこととなる。
元弘年中(1331〜1333)歓喜光院は兵火にかかり焼失、南禅寺祖円が復興し、南禅寺末の臨済宗寺院となるものの応仁元年(1467)再び兵火に遇い廃寺となる。
一方、西天王社は、元弘2年(1332)戦火を避けて、真如堂の北側 吉田神楽岡に遷座する。
さらに、延元元年(1336)社殿を造営し、慶安元年(1648)吉田大元宮西下へ社殿を造営し遷座するとも云う。
情報には無いが、間違いなく明治幕末の神仏分離の処置で、祭神はスサノヲに取り替え、社号を須賀神社と改変したのであろう。
大正13年旧御旅所の地である現在地に社殿を造営して再び遷座する。
昭和39年スサノヲとクシイナダヒメと一緒に祀られていた5祭神の内、3祭神を分祀し、交通神社が建てられる。
交通神社とは、要するに、色々な意味で、ご都合主義と云わざるをえない処置であろう。
 いやしくも、歓喜光院西天王社(牛頭天王)であった社である。明治幕末の神仏分離の処置の結果とはいえ、ブライドはどこに行ったのであろうか。(多分、貴族化した宗教家などにプライドなどなく、宗教家ではなく処世家なのであろうか。)
 山城西天王社1     山城西天王社2     山城西天王社3     山城西天王社4


伊藤白歳筆牛頭天王画

 2022/02/13追加:
 →伊藤白歳筆牛頭天王画:裏寺町宝厳寺(誓願寺末寺)蔵

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山城祇園社/山城祇園感神院

 → 山城祇園社/山城祇園感神院

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南山城の牛頭天王

山城山崎牛頭天王(現・酒解神社)
 山崎天王山は古くは山崎山と呼ばれ、文献で天王山の名称が現れるのは室町期という。
山頂近くに牛頭天王を祀る天神八王子社があったからである。(現在は例の如く復古神道家の付会で酒解神社などという。)
  →山城山崎牛頭天王

山城椿井御霊社(椿井牛頭天王):現・椿井松尾社境内に所在する。

  ※明治維新までは椿井御霊社は牛頭天王像を安置し、椿井牛頭天王社であった。牛頭天王像は2躯あり、その内の1躯にある承応2年(1653)の修理銘では御霊天王とある。
明治13年国家神道の神社統制で、椿井御霊社は御霊山の鎮座地を離れ、椿井松尾神社本殿横に移転する。
おそらく、明治初頭の神仏分離の処置で牛頭天王は抹殺され、さらに明治初期の神社統合で、社そのものの移転を強制され、二重の意味で国家神道に抹殺されたといえよう。

2018/05/13追加:
明治初頭までは椿井御霊山に鎮座していた御霊社(牛頭天王社/下の宮)と松尾社(上の宮)は別の社であった。
然るに、明治13年国策(国家神道の神社統制)の神社整理によって、御霊社(牛頭天王社)は、松尾社境内に移される。
従って、現在は松尾社本殿の左に、牛頭天王本殿が並ぶ配置となる。
 ※鎮座していた椿井御霊山とは不詳であるが、松尾社南にJR奈良線で分断された「椿井御霊山古墳」が残るので、その付近もしくはその東の丘上附近であろうと推定される。
○「拾遺都名所圖繪」天明7年(1787) より
 ■上狛松尾社/御霊社:松尾社と御霊社は別の社であることが分かる。
 また、松尾社拝殿西側には神宮寺である角之坊と思われる堂宇が描かれる。
 なお、○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社、出版年1979〜2003 では次のように述べる。
  「拾遺名所圖繪」に「御霊社」の挿絵があり、西側石段の下に「大石手水鉢」、その南に「高麗寺旧塔」と記す十三重石塔2基が見える。
  この「大石手水鉢」および十三重石塔2基は明治になって上狛小学校へ移される。
  手水鉢は鎌倉期のものとされ、寺院の石風呂と推定されている。
  (手水鉢、石塔2基ともその所在確認が取れず、現在も上狛小学校に所在するのかどうかは不明。)
○「新撰京都名所圖繪 巻六」昭和40年 より
松尾神社:
祭神:月読命
社伝ではもと樺井神社または樺井ノ松尾ノ神といい、此の地にあった泰氏が狛の姓を賜い、長く当社の祭祀にあずかったという。
なお、当社は延喜式に見える樺井月神社とは関係がない。
 ※南方の木津川右岸にある高麗寺跡は狛氏の建立になる氏寺とされる。
松尾社本殿:重文、室町。
ニ殿並ぶ右(向かって左)の社殿が松尾社本殿である。永禄10年(1567)焼失後の再建である。一間社流造、屋根檜皮葺。
ニ殿並ぶ左の社殿は御霊山から移された御霊社の社殿である。
松尾社拝殿:重文、室町。
松尾社本殿に接して建つ。方一間、鳥居形の上に切妻造の屋根を架け、笠木と屋根との間の妻の部分に唐草を透かし彫した蟇股を置く。
○現地説明板
重文:松尾社本殿並びに拝殿、棟札2点
 この本殿は文化5年(1808)興福寺鎮守春日明神若宮本殿を移築したものであり、拝殿は慶長15年(1610)の再建である。
府重文:御霊社本殿並びに拝殿、松尾社表門
 御霊社本殿は文政6年(1823)興福寺鎮守春日明神三ノ宮を「下の宮」に移築したものであり、さらに明治13年「下の宮」を「上の宮」に統合し、再度移築されたものである。
表門は桃山期の造立である。
 明治維新までは、松尾社は、御霊社が「下の宮」と呼ばれたのに対し、「上の宮」と呼ばれたという。
松尾社の草創は天武天皇が吉野山より当国に向かう時、大山咋の化身である樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消した後に残された宝珠を此の地の後の鎮めとし、のち大宝元年(701)秦都理が霊夢によって、この宝珠を得て、これを神体として宮殿を創始したのが起源という通称は「樺井ノ社」といわれる。現在の祭神は月読(ツクヨミ)という。
 ※秦都理:秦忌寸都理(ハタノイミキトリ)は山城葛野郡松尾神社を造営するという。
なお、興福寺官務牒疏では「椿井松尾神社同郡同郷土産神神供僧五人神人七人文武帝大宝元年降臨秦部理勧請也」」とあるというも、いわゆる「椿井文書」であろう。偽書であり、決して史実ではないのである。
  →椿井文書
   ※椿井政高の偽創作といわれる「興福寺官務牒疏」 に「樺井松尾神」が記載される。
   ※「山城町史」では、初めて椿井文書に史料批判が加えられる。
   即ち「吐師川原到着状」、「仏河原到着状」、「狛左京亮殿古書」<椿井家古書目録166>などを仮作とする。
   「松尾神社縁起」については「当時のものと見るには筆致から問題がある」とする。
   さらに「北吉野山神童寺縁起」<椿井家古書目録18>は椿井文書と指摘する。
   加えて、椿井村は椿井政隆の住したところであり、以上などを以って、椿井松尾神の社伝などは、ほぼ偽作であることは明瞭であろう。
 御霊社(牛頭天王)は椿井郷南端の小高い御霊山に鎮座していたものを明治13年内務省の神社統廃合令により、現在地に移されたものである。(現在の)祭神はスサノヲ。本殿の春日明神からの拝受については「三の御殿山城狛村に遣わす、金物並に御道具添え金40両・・・云々」とあるという。
また彫像として、平安期の木造牛頭天王半跏像2躯、同じく女神坐像2躯の計4躯を伝える。
○その他
現存最古の土塀:
表門西側の土塀は国内に現存する最古の土塀と言われる。この土塀は鎌倉期に構築された残丘とされるが、それ以前の土塀を踏襲するとも云う。この土塀には、高麗寺跡や蟹満寺、平城宮跡から出土する古代瓦が埋め込まれ、また付近にはそれらの同笵瓦が出土する。
高麗寺跡:
現在の松尾社附近が高麗寺跡と推定されるが、正確な伽藍配置は判明していないという。
神宮寺:
神社西に松尾山角之坊伝興寺があったと伝える。
2018/05/23追加:
○「ふるさと椿井の歴史」山城町椿井区、平成7年(1995) より
長享2年(1488)の奥付がある縁起によると、・・・(以下上記の○現地説明板の項にある
松尾社の草創は天武天皇が吉野山より当国に向かう時、大山咋の化身である樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消した後に残された宝珠を此の地の後の鎮めとし、のち大宝元年(701)秦都理が霊夢によって、この宝珠を得て、これを神体として宮殿を創始したのが起源という。
と同一の記載がある。)
 ※長享2年の年紀といい、荒唐無稽の説話といい、「椿井文書」の存在が強く疑われる。
 御霊社は創建に関する資料は伝わらないが、平安期には椿井の地に御霊神(牛頭天王)が祀られていたと考えられる。元は御霊社の神体であった平安後期の牛頭天王像2躯が現存しているからである。
御霊社の存在は室町期にも確認でき(如何なる資料かは言及がない)その側には密教系の青龍寺があって、社僧を勤めていた。
なお、御霊社に伝わる2躯の木造女神像は12世紀の造立にある古像で、それぞれ牛頭天王像の脇に安置されていたと思われる。
2018/05/13追加:
○「南山城の神社と祈り 展示図録36」京都府立山城郷土資料館、2015 より
木造牛頭天王像(2躯):2躯とも四面二臂で忿怒相を表す。
挙げた手・下した足が左右対称になっているのはこれは社殿の東西に祀られたことによる。
(現在は、京都府立山城郷土資料館に寄託されているようである。)
なお、天王像1の台座底には修理銘がある。
 「山城國相楽郡上狛庄御霊天王 智恵徳毘沙門久敷被破損候 ・・・・・・・ 承応2年巳(1653)八月三日」
  ※智恵徳毘沙門とは不明であるが、甲冑を纏い、忿怒の相である牛頭天王を毘沙門と呼んでいたのかも知れない。
また、女神像2躯も伝わるが、その性格はよくわからない。
 木造牛頭天王像1:平安後期、総高59.4cm、牛頭天王像2よりやや古いと思われ、牛頭天王像の最古の遺例と思われる。
 木造牛頭天王像2:平安後期、表情が穏やかであり、天王像1より、やや時代が下ると思われる。
○2018/03/29撮影
椿井御霊社(牛頭天王)
 松尾社本殿拝殿及び御霊社本殿拝殿:向かって左が松尾社である。
 椿井御霊社本殿1     椿井御霊社本殿2     椿井御霊社本殿3     椿井御霊社本殿4     椿井御霊社本殿5
 椿井御霊社本殿6
椿井松尾社:松尾社本殿及び本殿前に付設する拝殿は重文である。
 山城椿井松尾社一鳥居     山城椿井松尾社二鳥居
 山城椿井松尾社表門1     山城椿井松尾社表門2:左右は日本最古という土塀とその覆屋である。     山城椿井松尾社拝殿
 椿井松尾社本殿1     椿井松尾社本殿2     椿井松尾社本殿3     椿井松尾社本殿4     椿井松尾社本殿5
 椿井松尾社本殿6
 椿井松尾社西土塀1:土塀覆屋     椿井松尾社西土塀2     椿井松尾社西土塀3     椿井松尾社西土塀4
 椿井松尾社東土塀:土塀覆屋

山城御牧牛頭天王

現在は大藤神社と称する。鳥居に刻まれていたと推定される「牛頭天王」の文字削平痕に僅かに古を偲ぶだけである。
 →山城御牧牛頭天王

山城野村牛頭天王

現在は常盤神社という。宮寺長福寺は明治の神仏判然令で廃寺となる。
 →山城野村牛頭天王

山城平川牛頭天王社

現在は平井神社と称し、祭神はスサノウに取り替えられている。宮寺蓮開寺などを残す。
 →山城平川牛頭天王社(山城久世郡・山城綴喜郡の神仏習合ならびに神仏分離のページ中)

山城上津屋牛頭天王

現在は上津屋石田神社などと改号させられる。薬師堂・本地薬師如来立像などを残す。
 →山城上津屋牛頭天王

山城井手八王子社

明治12年玉津岡神社と改号する。偽書「興福寺官務牒疏」の記述を「社史」とする。
現在、境内に「牛頭天王」銘のある石灯篭2基を残す。
 →山城井手八王子社

2011/03/09追加:
山城木津牛頭天王社(清水天王神社)

山城相楽郡木津清水(現木津川市)に牛頭天王がある。社伝では応永年中に祇園感神院から勧請されるという。
ここには「面白く有用な」説明板があるので、全文を掲載する。(現在洛中祇園社に掲示する嘘の社伝より数段優れたものである。)
 ※祇園感神院創建の諸説の中の有力な一説が述べられる。
 ※牛頭天王の本質(御霊)や効能、及び祇園会の本質が平易に語られている。
 (ただし文中の八坂神社とは明治の神仏分離の処置による国家神道による改号であり、近世以前に「精舎」がギオンと云われたことはあっても八坂神社と呼ばれたことはただの一度もない。)
 当社(天王神社)の創建は應永年中と伝えられ京都八坂神社を観(ママ)請して祭神は牛頭天王(スサノヲノミコト)なり。
一般にギオンと云われるのは貞観11年下河原に住む僧の円如が播磨国の広峯社から牛頭天王を観(ママ)請し祇園荒町に精舎を建て祇園天神堂と名づけ後ギオン八坂神社と云われるようになった。
神話では英雄の神、農業の神、山地の神、勇知にたけた神、悪病払いの神と伝えられる。
毎年7月の夏祭りには貞観11年都にはやった悪病払いのため宮中神泉苑で御霊会を行われたのが始りと云われ、この祭の形式が中世以降全国各地祇園会天王祭として流れ行き夏祭りの祇園祭には無病息災、平安祈願、家内安全を祈願のため当社天王神社も近郷より多数の参拝人があり振う。
 本社の建物は室町時代後期のものと推定される。    東大教授 藤嶋亥治郎氏に依る

明治初頭の神仏分離の処置で牛頭天王は抹殺され、祭神変更と社号変更(清水天王神社)が行われたものと思われる。
○2011/02/22撮影:
 木津牛頭天王社1     木津牛頭天王社2
社殿建物は室町後期と推定と云うも、棟札があるならばまだしも、外見を見る限り、明治以降それもそんなに古い時代の建物ではないであろうと思われる。室町後期や一歩譲って近世の後期のものとしても評価できるような建築ではなく、どちらかと云うと正規の社殿建築とは云い難い雰囲気である。しかしこのことがこの牛頭天王社の価値を下げるものでは全くない。
2017/11/12撮影:
木津牛頭天王社本殿は近年彩色が復元されたようである。細部の細工が稚拙なのは変りはないのであるが、社殿は華やかさを取り戻したようである。
 木津牛頭天王社3     木津牛頭天王社4     木津牛頭天王社5     木津牛頭天王社6
 木津牛頭天王社7     木津牛頭天王社8 
2022/01/14追加:
○「京都の文化財 第36集」京都府教育委員会、2019 より
 天王神社(木津牛頭天王)
創建については詳らかでないが、応永年中(1394-1428)と伝え、祇園社(感神院)から勧請した牛頭天王を祀る。
「大路村絵図」(個人蔵、宝暦13年/1763)では、「祇園社」と記載される。
 本殿の建立年代を直接示す資料などは見当たらないが、木鼻のリスの彫刻、渦から若葉が二枚出る絵模様、下端直線部が長い繋海老虹梁・蟇股の外形等の細部意匠が朱智牛頭天王本殿(慶長17年/1612)と酷似することや繋海老虹梁の造作技法まどから、17世紀初頭に朱智牛頭天王本殿と同じ大工により建立されたものと考えられる。
 ※朱智牛頭天王とは椿井政隆の偽書に基づくもので、天王村牛頭天王(直下に掲載)とすべきであろう。
その後の江戸期の修理は不詳だが、明治42年には屋根を杮葺から銅板葺に変更し、昭和45年には彩色をペンキに重ね塗りをする。
なお、朱智牛頭天王本殿は、棟札より慶長17年(1612)に「本大工普賢寺住人藤原信国与三兵衛 清右衛門/清助 庄左衛門/長蔵/宗次□□/宗久 伝左衛門/小工 藤原□吉」の地元大工によって建立されている。
祇園社は一間社春日造、銅板葺、平成28年(2016)屋根葺替、塗装を丹塗に戻し、部分修理が行われ、小屋から旧屋根葺板の残材や竹釘の残る野小舞が見つかり、少なくとも明治42年修理以前は杮葺であったことが判明する。
 木津牛頭天王本殿平面図     本殿平成28年度修理

山城天王村牛頭天王社:(現・朱智神社)京田辺市天王

近世は牛頭天王社と称した。本殿内には牛頭天王立像(藤原期)を今も祀る。
神宮寺があり、天王6坊があったと云うも、詳細は不明。神宮寺の廃絶年も不詳。
 ※神宮寺並びに六坊については、確認が取れないが、「椿井文書」に基づくものの可能性があり、真偽のほどは保留する。
明治初頭の神仏分離の処置で牛頭天王は抹殺され、国学者や復古神道家の輩によって、祭神変更と社号変更(朱智神社)が行われたものと思われる。社号の朱智については、江戸期の椿井政隆の壮大な疑文書作成の意図が見事に花開いたというべきであろうか。
011/02/22追加:
○2「神祇官再興に付朱智神社神主の依頼状(下書)」<慶応4年>が残存する。
これによると、先ず慶応4年3月28日、3月13日の神仏判然の神祇官布告を写し、さらに4月4日の社僧還俗の布告を写した上で
「右之通(神祇官布告のとおり)御請書奉差上候」とある。
牛頭天王社においても上記「請書」に見られるように、何らかの神仏分離・廃仏が行われたものと推測されるが、具体的な神仏分離の内容は史料がなく不明。
2008/06/02追加:
○「別冊太陽 日本の神 68」平凡社、平成2年 より
 天王村牛頭天王社牛頭天王像;藤原、像高1m余、一木造彩色。
2010/02/18追加:
○「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘(「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008) 所収)より
 椿井政隆は、並河誠所の「山城志」で所在不明とした朱智神社を天王村牛頭天王社に付会した。これはその宮寺である普賢寺と合わせ、彼が普賢寺郷の有力支配層の意向を受け、古代からの連綿たる正統性などを主張するためであった。
当然、現在の寺社の由緒や地域支配の正統性を証明する古文書などは通常は残存はしない。椿井は、まさにその残存しない事を利用して、由緒や系図(連綿たる正統性を証明するものとして)を創作することによって、古の虚偽の「史実」を作り上げることに成功した。
 2018/05/13追加:
 ※天王村牛頭天王を式内朱智神社と主張しはじめたのは椿井政隆である。
 まず間違いなくいえるのは「朱智」と云う文言が入った文書は「椿井文書」である。
 天王村牛頭天王を含む普賢寺郷には大量の「椿井文書」が流布している。
 そこには「朱智庄」「朱智長岡荘」などの荘園や「朱智氏」と云う一族も出現し、それが史実化しつつあるという悲観的現状であるが、
 これ等は全て、式内朱智神社を天王村牛頭天王に付会するために傍証史料として作成されたものである。
参考:
 →椿井文書、近世における天王村牛頭天王を式内朱智神社に付会したのは「椿井政隆」であり、その経緯は
 馬部隆弘に「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」に記載する。
2018/05/09追加:
○「新撰京都名所圖繪 巻六」昭和40年 より
 朱智神社
天王部落の西端、高ヶ峰の山麓に鎮座する。
社伝では仁徳天皇の時に創立、初め朱智天王社と号する。朱智とは加爾米雷王(カニメイカヅチのミコ/神功皇后の祖父)を一に朱智王といったことに因るもので、その子孫は代々朱智性を名乗る。
次いで、文武天皇大宝元年(701)スサノヲと天火明(饒早日)を三国嶽(高峰より西方300m)の山頂に祀って大宝天王社と号したが、延暦13年(793)朱智天王社に合祀し、それより朱智大宝天王社と称する。天王とはスサノヲの本地を牛頭天王と云うからで、天王信仰が主となり、これに因み村名も天王と呼ぶに至る。
 ※残念ながら、本著の認識は天王村牛頭天王社を式内朱智神社と付会した椿井文書や、近代に入って椿井文書を追認した国学者や復古神道の付会から一歩も出ない説であろう
 朱智神社本殿:桃山期
現在の本殿は慶長17年(1612)の再建、一間社流造、屋根檜皮葺。昇勾欄に嵌められた青銅製擬宝珠には慶長17年の銘が刻まれる。
本殿内には牛頭天皇立像(藤原)を安置という。高さ1m余。一木彫製で彩色、頭上に牛頭を頂き、顔は三面を持ち、唐装束を付け、右手を挙げ、左手には宝珠を持った忿怒鬼神の相をあらわにする。
 ■昭和38年朱智神社:竹村俊則画
○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
 朱智神社:
祭神は主神をカニメイカヅチ(迦爾米雷)とし、スサノヲとアマテルクニテルホアカリを配神する。
延喜式神名帳の朱智神社に比定される。九条家本、金剛本とも「スチ」と訓む。
嘉吉元年(1441)編(とされる)「興福寺官務牒疏」は社名を「朱智(スチ)天王神」とし、「筒城郷朱智長岡荘普賢寺」の「鎮守」、祭神は「カニメイカヅチ」、相殿「スサノヲ、号大宝天王、新宮天王、在多々良村」と記す。
日本書紀・古事記によれば、カニメイカヅチはオキナガタラシヒメ(神功皇后)の祖父という。
綴喜郡が古代に息長氏一族と関係深く・・・朱智神社はいわば息長氏の祖神を祀る社として創建されたのであろう。
 ※まさに、椿井政高の「思い描く筋書」に見事に嵌ったというべき記述である。地方史の現状の惨状である。
「綴喜郡史」所引の「社記」によれば、仁徳天皇69年に創建され、宣化天皇元年に天王号を付けて朱智天王と称したという。
大宝元年(701)にスサノヲの神託があり、山城・大和・河内境の山(三国嶽)の頂上に宮殿を建て、それを三国天王あるいは大宝天王と称する。
延暦12年(793)大宝天王を朱智天王と同殿で祀るようになり、その後弘法大師が来錫し、スサノヲを牛頭天王に配したので、以降牛頭天王と称するようになる。
貞観11年(869)大宝天王を愛宕郡八坂郷感神院側の荒町に遷座し、さらに同18年には感神院に遷座する。以降毎年6月の祇園祭には朱智社の榊を祇園社に移すようになり、これを「榊遷」と称した。(近年までこの行事は続けられたが、近年は中断しているという。)この神事に当たる家は古くは朱智(普賢寺家)、息長(下司家)、三国(長岡家)であったが、後には7家に拡大する。
康元元年(1256)に偏されたという「天王宝堅琉記」には、造営の様子、諸役の規定などが記されていると「綴喜郡史」には記すのみで、この古記の所在は不明である。
また、同郡史は応永の再建の作事奉行などは「應永之琉記」に記されているとするが、これも所在不明である。
大永元年(1521)にも造営がなされ、同郡史は郷内諸村の奉加料を記した「朱智大宝天王宝賢琉記の事」を紹介している。
現在の本殿は一間社流造屋根檜皮葺。本殿擬宝珠の四個には何れも「奉寄進 山城普賢寺牛頭天王 慶長17年9月吉日 藤原朝臣宗勝 敬白」の銘がある。
本殿への石階は3段あるが、第1段耳石に永正4年(1507)、第2段には天文10年(1541)の銘がある。
本殿内の牛頭天王神像は藤原期の神像である。
「山城名跡志」では天王村の項で「牛頭天王社」として「土人為産沙神」と記す。
「山城名跡巡行志」には「天ノ神社、在天王村ノ山上、今称牛頭天王・・・・」とある。
ついでながら、天王村の項を参照する。
天王村:
「京都府地誌」では、「旧名上山城、古時より綴喜郷朱智庄に属す。・・・」とある。村名は「天王祠(朱智社の旧名)アルニ依テ起ルト云」
 ※朱智庄とあり偽書「椿井文書」の見解である。朱智社の旧名は天王祠であり、朱智ではないことを自ら認めている。
文明15年(1483)「大乗院寺社雑事記」では「・・・天王之畑ニ陣取之、普賢寺ノ内ナリ」とある。
 ※椿井文書が偽作される前には、天王村に朱智などという地名は無縁である。
所伝を近世に図示したものと考えられる「山城國喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図」には「天王村 貢物高563石5斗9升、公事銭30貫200文、内大寺領、学頭坊料、下司料、公文料」とあり、附近に「六坊」「朱智天王」「大宝天王」等を載せる。
さらに「興福寺別院山城國綴喜郡観心山普賢教法寺四至内乃圖」には「山の中腹に「普賢寺惣鎮守天王宮」とその境内に観音堂や神宮寺、さらに村内に六坊が描かれる。」という。
 ※指摘の「興福寺別院山城國綴喜郡観心山普賢教法寺四至内乃圖」とは普賢教寺四至内之図-1と思われる。
 しかし、図の向かって左端にその情景が描かれているものと思われるも、不鮮明で、十分な確認ができないので、後日を待つ。
 普賢寺所蔵の明治33年複写の「普賢寺四至内之図1:全図」では向かって左が複写されていないので、不明である。
 ※しかしながら、両者いずれの絵図も「椿井文書」である。朱智庄、下司、公文など椿井文書にのみ現れる特有の単語が現れるのが
 その証拠である。
 ※少々の驚きがある。
 この高名なあるいは信頼の置けると思われる平凡社の「「日本歴史地名大系」まで、偽書に準拠して、地名の歴史を語るとは と。
○「日本の神々 第5巻」谷川健一編、白水社、1986 より
朱智神社(山路興造著)
延喜式神名帳の朱智(訓はスチノ)神社に比定されている。
現在もカニメイカヅチを主神とし、相殿にスサノヲとアマテルクニテルホアカリを祀り、嘉吉元年(1441)編の「興福寺官務牒疏」は社名を「朱智天王神」とする。記紀によれば、カニメイカヅチはオキナガタラシヒメ(神功皇后)の祖父にあたる。綴喜郡は古代息長氏と関係の深い土地で、・・・当社は息長氏の祖神を祀る社として創建されたものと思われる。
 ※以上は冒頭の部分であるが、この部分からも分かるように、冒頭の記述も、以降の記述もほとんど平凡社の「日本歴史地名大系 京都府の地名」の記述と同じで、どちらの論述が先で後なのかは不明であるが、いずれにしろ、「椿井文書」の呪縛から一歩も出ていないものと思われる。
○「式内社調査報告 第1巻」式内社研究会、皇學館大學出版部、1979 より
朱智神社
九条家本・金剛寺本は「スチノ」と訓む。
比定について:「大日本史神祇志」・「神祇志料」・「綴喜郡史」・「大日本地名辭書」・「特選神名牒」・「荘園志料」・「神社明細書」・「田邉町史」全て、現朱智神社を式内朱智神社に比定する。
しかし、伴信友「神名帳考證」・出口延経「神名帳考證」はその所在を示さない。
また水島永政「山城國式社考」では次のような異説を述べる。
 この社在所は未詳、水取村大富氏・・・曰く、水取村東南10町許に須々谷という地あり、その地に地蔵堂あり、・・・思ふに須々谷は朱智谷を訛りたるにあらんか。
即ち、水島は式内朱智神社の所在は未詳としつつ、須々谷地蔵堂の須々を朱智の訛りではないかとしている。但し、彼は現朱智神社を式内天神社に比定しており、その意味で、式内朱智神社を決定すべき対象を見失っていたのであろう。
 しかし、伴・出口・水島の説は決して故なしとはしない。現朱智神社は近世一環して牛頭天王社と呼称されていて、水島が天神社に比定した所以もここにあるのである。例えば寿量庵律師浄慧の「山城名跡巡行記」には天ノ神社として「在天王村ノ山上ニ、今称牛頭天王社(巽向)、鎮座記不詳」といい、牛頭天王社が式内朱智神社かどうかの言及はない。
ただ、現朱智神社の「地理的環境」と「たたずまい」が朱智長岡庄(「興福寺官務牒疏」)の守護神たるに相応しく、また天神社が松井の天神社に比定される以上、この牛頭天王社を式内朱智神社と比定することは異論のない所であろう。
 ※次いで「神社明細書」の由緒の項の引用があるが、これは省略する。
「山城綴喜郡史」が引く「社記」の中に次のような一説がある。
 清和天皇貞観11年、依詔大宝天王遷座洛東愛宕郡八坂郷感神院側荒町、同18年復遷座感神院之時、亦依例以朱智社之榊感神院(今祇園社也)、爾来毎年6月京都祇園祭為恒例、以當社榊遷祇園社、是称榊遷、・・・・
 ※貞観11年天王村牛頭天王が祇園荒町に遷座し、同18年さらに祇園感神院に遷座という。このことの痕跡として、近年まで、榊遷の儀が行事として行われていたという。即ち、天王村牛頭天王から榊が祇園感神院(祇園社)に遷され、このことによって祇園祭が始まるという。(近年は中断という。時期は不詳。)
 ※「山城綴喜郡史」が引く「社記」とは一体どのような史料なのか。上記のように「朱智」や引用中にはないが「息長」「下司」などの椿井文書特有の文言が出てきて、「社記」とはまず、確実に「椿井文書」であろうと判断される。従って、「社記」で云う天王村牛頭天王が祇園感神院に遷座したということは、椿井の創作である可能性も指摘しておく必要がある。
 ※ただ、牛頭天王が広峰から都の祇園に遷る過程で、天王村に立ち寄り、天王村牛頭天王が祭祀されたことを排除するものではない。
2018/07/31追加:
○「山城綴喜郡誌」初版明治41年 より
第5編 神社寺院 郷社 朱智神社 延喜式内
 綴喜郡普賢寺天王高ヶ峰にあり。旧朱智大宝天王と称せり。開化帝の皇子彦坐命の子、山代の大筒城真若王の子、迦爾米雷王を祀る、息長比賣命(神功皇后)の祖父なり。スサノオを配祠す。・・・
 社記曰、仁徳天皇69年大筒城真若王、迦爾米雷王二座相殿、その後宣化天皇元年、息長朱智廣足連、経奏聞、奉天王号云々。
 社記曰、文武天皇大宝元年、・・・自空中、一神・・降臨、郡司息長兼理、直攀山頭・・、我是スサノオ也、・・・・息長兼理蒙神告、建於峯頭宮殿、奉号三国天王亦号大宝天王、・・・・桓武天皇延暦12年、以大宝天王合祭朱智天皇同殿、其後弘法大師来当社、彫刻薬師佛日月二体、十二神将、四天王等建於社側神宮寺安置之、為本地矣、大師以スサノオ、配天竺國祇園牛頭神、更称牛頭天王、是以来スサノオ称牛頭天王始也、清和天皇貞観11年、依詔以大宝天王遷座洛東愛宕郡八坂郷感神院側荒町(一旧記金幣に写し、神輿とともに平安の京へ移し奉しともいへり)同18年復遷座感神院之時、亦依例以朱智社の榊移感神院(今祇園社也)、爾来毎年6月、京都祇園祭為恒例、以当社榊遷祇園社是称榊遷、其当職号榊殿得業生長者、惣大政所往古朱智(普賢寺家也)、息長(下司家也)、三国(長岡家也)、之三家以年番勤之、其の後普賢寺、下司、大西、菊原、長岡、中西、城之七家勤之為永例、・・・・・
 ※朱智天王、息長朱智廣足連、神職の三家、及び七家など、社記は椿井文書に間違いないであろう。
 ※弘法大師の巡錫、八坂郷感神院荒町への遷座、祇園社への榊遷など舞台装置が大掛かりであることには椿井の構想力というか大風呂敷に驚嘆すべきであろう。つまり弘法大師以下の「社記」は史実ではなく、椿井の創作である可能性が高いということであろう。あるいは、創作の匂が芬々とすると評価すべきであろう。
○現地説明板
京田辺市の建てたものである。
従って、以上で述べた「椿井政隆」が企図した「朱智神社」の「社伝」のとおり記述されている。
2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第36集」京都府教育委員会、2019 より
 ※下記は直上に掲載の木津牛頭天王の記事であるが、天王村牛頭天王の棟札の記載があり、関係部分を転載する。
 天王神社(木津牛頭天王)
(木津牛頭天王の)本殿の建立年代を直接示す資料などは見当たらないが、木鼻のリスの彫刻、渦から若葉が二枚出る絵模様、下端直線部が長い繋海老虹梁・蟇股の外形等の細部意匠が朱智牛頭天王本殿(慶長17年/1612)と酷似することや繋海老虹梁の造作技法まどから、17世紀初頭に朱智牛頭天王本殿と同じ大工により建立されたものと考えられる。
なお、朱智牛頭天王本殿は、棟札より慶長17年(1612)に「本大工普賢寺住人藤原信国与三兵衛 清右衛門/清助 庄左衛門/長蔵/宗次□□/宗久 伝左衛門/小工 藤原□吉」の地元大工によって建立されている。
2018/03/29撮影:
山城天王村牛頭天王社現況
 現・第一鳥居/石階:上に掲載の昭和38年朱智神社の絵図では、鳥居は描かれていないので、昭和38年以降の建立であろう。
 石碑前石燈籠:日露戦役の石碑ではない石碑の前に2基あり、いずれも明和9年(1772 )の年紀。
 現・第2鳥居/石階1     現・第2鳥居/石階2:石灯篭は鳥居下・石階途中・石階途中平場に2基づつ、石階上りに1基ある。
 第2鳥居下石灯篭:2基あり、年紀は宝暦5年(1755)。     石階途中石灯篭:2基あり、天明8年(1788)の年紀。
 石階途中平場石灯篭:2基あり、安政2年(1855)の年紀。
 拝殿跡などの平場1:本殿の平場から撮影、奥に石階上り石灯篭1基が写るが、年紀は未調査。その右は手水舎、その右は社務所?跡。
 拝殿跡などの平場2:拝殿・社務所?・土蔵・手水舎の平場、拝殿は上に掲載の昭和38年朱智神社の絵図では存在していたようである。
拝殿跡には円形に配列された礎石?が残るが、これは後世の造作であろうか。社務所?は礎石のみ残存、土蔵・手水舎は現存する。
 拝殿跡などの平場3:本殿の平場から撮影、石階上り石灯篭、手水舎が写る、中央は拝殿跡
 社務所?跡1     社務所?跡2
本殿の平場には多くの石灯篭が奉納され、その多くは「牛頭天王」と刻まれる。明治の神仏分離で「朱智神社」と処置するも、石灯篭の刻銘までは抹殺できなかったようである。
 拝所前石灯篭群
 宝永7年牛頭天王石灯篭2基     宝永7年(1710)年紀
 寛政9年牛頭天王石灯篭2基     寛政9年(1797)年紀
 年紀未確認牛頭天王石灯篭
寛永9年(1632)銘の石灯篭もあるとの情報もあるが、残念ながら、この年紀は未確認である。
 正徳元年牛頭天王石灯篭:本殿背後にある。     正徳元年(1752)年紀
 牛頭天王参向殿     牛頭天王拝所
 牛頭天王本殿11     牛頭天王本殿12     牛頭天王本殿13     牛頭天王本殿14     牛頭天王本殿15
 牛頭天王本殿16     牛頭天王本殿17     牛頭天王本殿18     牛頭天王本殿19     牛頭天王本殿20
 牛頭天王本殿21     牛頭天王本殿22     牛頭天王本殿23     牛頭天王本殿24     牛頭天王本殿25
 牛頭天王本殿26
2018/05/22追加:
○「竹取物語ゆかりの筒木について」小泉芳孝(「筒城 49輯」2004 所収)
 ※本稿を意訳すれば、次の通りである。
綴喜郡の京田辺市には(記紀神話で云う)継体天皇の「筒城宮」があった。なぜ、「筒城宮」はここにあるのか。それは、ここが継体の出身母体である息長氏の本拠地であったからである。
記紀神話の物語は、「椿井文書」である「山城國綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図」から推論が可能である。さらに、これも「椿井文書」である「下司古墳の図」からもさらなる補強が可能である。
 ※国家神道の信者は赫々たる記紀神話をともすれば史実としたがるのであろう。さらに国家神道の信者でかつ郷土史家はややもすれば記紀神話を郷土にひきつけ、郷土も赫々たる郷土であることを誇ることを潜在意識として持っているのであろう。
 「朱智神社々記」は次のように云うという。<「社記曰」>
人皇第17代仁徳天皇69年辛巳3年庚牛、大筒城眞若王、迦爾米雷命二座相殿、其後人皇
29代宣化天皇元年丙辰、息長朱智廣足連、経奏聞、奉天皇号云々
(中略)郡司息長兼理
(中略)息長兼理蒙神告、建於峯頭宮殿 (以下略)
 ※明らかに「椿井文書」である。息長、朱智廣足、息長兼理全て椿井政隆の創作である。
 ※現在、天王村牛頭天王の由緒由来として朱智神社のそれが語られるが、ご覧のように、それは偽書「椿井文書」によって創作された由緒・由来であることは明らかで、後世は復古神道家で郷土史家であった椿井政隆の思うがままの展開になったというべきであろう。
○「天王地区の地名と歴史について」小泉芳孝(「筒城 53輯」2008 所収)
 社伝では「仁徳天王の時、筒城長岡の西峰頂上高ヶ原に創建され、朱智天王社とした。そしてこの西方の三国嶽に大宝元年(701)スサノヲを祀り大宝天王社としたが、延暦12年(793)朱智天王社と合祀し朱智大宝天王社と称した。」とある。
 同様のことは「社記曰」にもある。(上述「竹取物語ゆかりの筒木について」中の<「社記曰」>を参照)
 また「社記」には「山城・河内・大和の三国境の山に白髪の老神が出現、スサノヲを名乗った」とある。
その後、現在の京都八坂神社(祇園社のこと)に遷して毎年「榊遷し」の行事を行っていた。
明治維新になり、神祇官に上奏し、天王社を式内の古名である朱智神社に復し、明治になって郷社となる。
祭神から分かる通り、朱智神社は息長氏の祖神を祀った氏神社であって、息長氏はこのあたりに住んでいた古代豪族で息長氏の本拠地であった。
 社伝によると、弘法大師がこの地に来て、朱智大宝天王社を改めて牛頭天王とする。その伝承はスサノヲがその粗暴な振る舞い故に高天原を追われ降り立ったのが、新羅の蘇尸茂梨(そしもり)というところという。朝鮮語で蘇は「牛」、尸は助詞の「の」、茂梨は「牛」という。つまり蘇尸茂梨とが「牛の頭」である。牛頭天王は疫病を防ぐ強い力があるとされ、その信仰は平安末から中世にかけて広まることとなる。
 朱智神社の本殿は慶長17年(1612)に再建されたものである。什宝は一本彫の牛頭天王立像である。
 本殿石段の一段目の耳石には永正4年(1507)、二段目の耳石には天文10年(1541)の銘が刻まれている。また本殿の石段を降り鳥居を少し下った右側には弘法大師が創建した神宮寺と六坊があった。そこには薬師如来や十二神将、四天王を安置し、境内に薬師院、普光坊、楽明坊、二階坊、谷之坊、楞迦坊と称する六坊を設けていた。
 朱智天王社古図:○に写とあるので、永正6年(1509)の年紀と称する「古図」を筆写したものであろう。但し、原図の所在などは不明。
  朱智天王・中世の年号・公文職・下司・息長などの単語が満載され、明らかに「椿井文書」(偽書)である。
 最近の本殿工事:2004〜2006年に屋根葺替工事と彩色復元など平成の大修理を行う。この工事中に慶長17年(1612)の銘を有する棟札と同年の銘が入った擬宝珠が発見される。調査の結果、同年の再建と判明する。同時に延宝4年(1676)から明治11年までの修理工事の棟札も発見される。
 享保3年(1718)の「普請御願」の文書がが残る。天王村不牛頭天王社から御奉行宛に提出したものである。
本社並びに弁財天社の屋根(檜皮葺)葺替、舞殿舞台の屋根補修と葺替、観音堂の屋根修理などの内容である。即ち、現在はない弁財天社、舞殿舞台、観音堂があったのである。
 享保3年「普請御願」:不鮮明で判読し難いが、観音堂・舞殿(2箇所あり)は判読可能、弁財天社は不明である。
○「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」長井博、文芸社、2011 より
 京の祇園社は廣峰山から牛頭天王を勧請している。そして山城天王村牛頭天王(現・朱智神社)も同じ平安期、御祭神を京の祇園社に遷したという。このことが「元祇園」と呼ばれる由縁である。京の祇園天王社は廣峰山、天王村両者社の牛頭天王の分霊を迎え入れたことになるのであろうか。
後に祇園祭が行われるようになった時、天王村の牛頭天王の氏子が奉じた榊を祇園天王社に届ける「榊遷し」という行事があり、その榊を受けてはじめて祇園祭の山鉾巡行が始まる、そうした時代が近年まで続いていたという。
 ところで、本著には牛頭天王と天皇家の関係性についての言及がある。
 牛頭天王は天皇家と極めて近い関係にありそうである。もし、そうでなければ、牛頭天王はスサノヲと習合していなかったのでは・・・・。牛頭天王がいかに利益を民草に与える災厄除去の疫神であったとしても、天皇家と何の関係も無かったならば、牛頭天王信仰は、果たして全国津々浦々に普及し受け入れられることになったであろうかと、思われるのである。
 ※しかしながら、牛頭天王と天皇家についての以上の見解は妥当であろうか。
 まず、明治の神仏分離の処置で、牛頭天王社が天皇神社に改称されている神社がある。
近江和邇牛頭天王社:平安中期、京都から祇園牛頭天王を奉還したと伝える。明治の神仏分離の処置で天皇神社となる。本殿は重文。
大和備前牛頭天王社:文永9年(1272)の創始と伝える。本殿は重文、薬師如来・大梵天・牛頭天王・天満天神の木造を奉安。現・天皇神社。
大和上総牛頭天王社:現・天皇神社、詳細は不詳。
伊予西条「牛頭天皇」石碑:牛頭天王ではなく牛頭天皇と刻される。この石碑は近世のものである。
 ※その他、牛頭天王を牛頭天皇と認識・表記する例は少なからず存在する。しかし、これを以って、牛頭天王と天皇家との間に何らかの繋がりがあったとする根拠にはできないであろう。天王と天皇との混同は、単なる表記の混同の問題、あるいは単なる表記の「揺れ」の問題にしか過ぎないと思われる。それとも、天皇家というより朝廷が牛頭天王を天皇に準ずるような扱いをした史実でもあれば別であるが、そういう事実はないであろう。
 次いで、著者は山城天王村牛頭天王社(現・朱智神社)の主神カニメイカヅチと配神牛頭天王とアマテルクニテルホノアカリとの時代の齟齬について疑問を呈し、その齟齬の原因を究明する。つまり、記紀の年代は「辛酉革命説」に基づき記紀の年代が改竄されたことに因るものであるとする。
 ※しかしながら、記紀の年代については「辛酉革命説」に基づき改竄されたというのは頷けるとしても、現・朱智神社に祀られる天皇家関係のカニメイカヅチやホノアカリの信憑性はあるのであろうか。
 奇しくも、本著では次のように述べる。
 即ち、朱智神社は延喜式に記載されている神社であるが、天王村牛頭天王は当初から牛頭天王を祭神とする天王社であった。それがいつしか主祭神にカニメイカヅチ、配神にホノアカリが祭祀されるようになる。それはいつ頃かと云えば、それは江戸後期か幕末頃という。
なぜか。それには「椿井文書」が関係する。
椿井文書」とは椿井政隆(椿井権之助)が創作した文書で、江戸後期に作成された文書であるが、その文書は中世の文書として流布した。それがなぜ流布したのかは、それがしばしば「興福寺官務家の資料の写」と称された上に、中世の資料が殆ど現存しない状況下において、それが偽書であっても検証のしようがないからである。
 そもそも、もともと天王社であった天王村天王社を式内・朱智神社と牽強付会させたのが椿井政隆であると指摘されている。
カニメイカヅチの子孫が朱智姓を名乗ったとか牛頭天王が朱智天王と号し、大宝天王と称したというのも、偽書(「椿井文書」)によるものなのである。
 現・朱智神社は創建以来、牛頭天王社なのである。

山城打田牛頭于天王(現・須賀神社):綴喜郡打田村

○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
須賀神社:京田辺市打田字宮本
祭神はスサノウ。摂社は春日明神と熊野権現、末社はアマノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの三社を祀る。
「綴喜郡神社明細帳」では「牛頭天皇」と称するも明治維新後に須賀神社となるという。
 ※須賀神社になると云う表現は随分能動的であるが、勿論、復古神道によって牛頭天王は廃され、スサノヲが祀られ、牛頭天王社も須賀神社と改号させられたということである。
「氏神牛頭天王造供神社御心牘之控」安永5年(1776)では天王村牛頭天王に遠いため、古くから打田村にも牛頭天王を造営したと記す。
東北に接する西明寺は打田牛頭天王の神宮寺であった。
○現地説明板 より
本殿は安永5年/1776(勾欄擬宝珠銘)の建立。一間社流造、屋根銅板葺。正面の木鼻はバクの彫り物、桁隠しは菊花彫り物とする。
2018/10/25撮影:
天王村牛頭天王を勧請したと伝える。
打田牛頭天王社は「牛頭天王」と刻する石灯篭を7基ほど残し、また付属して宮寺西明寺が現存し、牛頭天王社の面影を残す。
 打田牛頭天王鳥居参道宮寺:打田牛頭天王社頭及び宮寺西明寺
 打田牛頭天王社頭     打田牛頭天王舞殿1     打田牛頭天王舞殿2     打田牛頭天王拝殿
 本殿前石灯篭:一対あり、いずれも延享二乙丑(1745)の年紀を刻する。但し「牛頭天王」の刻はなし。
 打田牛頭天王本殿1     打田牛頭天王本殿2     打田牛頭天王本殿3     打田牛頭天王本殿4     打田牛頭天王本殿5
 打田牛頭天王本殿6     打田牛頭天王本殿7     打田牛頭天王本殿8     打田牛頭天王本殿9     打田牛頭天王本殿10
 打田牛頭天王本殿11
 本殿左石灯篭その1:2基とも「牛頭天王」と刻する。いずれも年紀は不明。
 本殿左石灯篭その2:1基は「牛頭天王」もう1基は「須賀神社」と刻する。いずれも年紀は不明であるが、「須賀神社」と刻する1基は明治維新後に補充されたものであろう。
 本殿右石灯篭その1:2基とも「牛頭天王」と刻する。しかし、いずれも年紀は不明。
 本殿左石灯篭その2:上掲の左石灯篭その2とは違って、2基とも「牛頭天王」と刻する(年紀は何れも不明)。これから判断すると、元来左石灯篭その2の2基とも「牛頭天王」として奉納されたものと推定されるが1基の「牛頭天王」銘が欠け、後にこれが補充されたのであろう。
2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第2集」京都府教育委員会、昭和59年 より
打田牛頭天王本殿:勾欄擬宝珠銘から、安永5年(1776)の建立と判明する。向拝頭貫木鼻はバクの彫物、桁隠しは大きな菊花彫物を用いる。

◎打田牛頭天王宮寺西明寺:
 無量山と号する。隣接する打田牛頭天王の宮寺であった。河内守口佐太来迎寺末で融通念仏宗であったが、明治初頭の政府方針で浄土宗に帰属する。境内にある五輪塔は南北朝期のものと推定される。地元の傳では前方の三上山の上にあったもので千草忠顕の供養塔という。
 宮寺西明寺1     宮寺西明寺2     宮寺西明寺3     西明寺五輪塔

山城東畑牛頭天王(現・東畑神社):相楽郡精華町東畑

創始は明らかでないが、境内の老檜の樹齢からは500〜600年以前の創始と思われる。
石灯篭の古いものは明和4年(1767)の年紀である。
境内地は1368坪を有するという。本厳は春日造で文政3年(1820)上棟されたものである。
しかし、この本殿は老朽化の為、造替されることになり、現在(2018/10月)本殿は建築中である。
旧本殿(安永5年/1776上棟)は取り壊し、廃棄処分済、新本殿への遷座は2018年11月3日(現場の宮大工談)とのことである。
 東畑牛頭天王旧本殿:トリップアドバイザー提供
なお、当社には懸仏及び本地佛が残存するようである。精華町のWebページでは懸仏及び本地佛について次のように云う。
 懸佛:本殿に奉安されていたと推定される。御神体をあらわすものとも想像されるが、本地仏としての神像は、十一面観音と菩薩形の
 各立像であるといい(共に像高26.8cm)、この懸仏とは、尊名や形姿が若干異なる。京都府教育庁文化財保護課の鑑定では室町期の
 制作という。<未見>  
2018/10/25撮影:
牛頭天王と刻んだ多くの石灯篭が残る。このため、明治維新前までは牛頭天王社であったことがはっきりとわかる社である。
 東畑牛頭天王/鳥居
 鳥居内/第一石灯篭一対:鳥居を潜ってすぐに一対の石灯篭があり、「牛頭天王」と刻する。年紀は天明四甲辰(1784)とある。
 社殿の段前/石灯篭一対:この一対の石灯篭にも「牛頭天王」と刻む。弘化3年(1846)の年紀。
 社殿の段前/石灯篭1     社殿の段前/石灯篭2
 東畑牛頭天王社殿     東畑牛頭天王舞殿1     東畑牛頭天王舞殿2     東畑牛頭天王本殿石階
東畑牛頭天王本殿:上記で述べるように撮影日は本殿は造替中であった。然るに、その後の新聞報道によれば、2018/11/03本殿造替は竣工し、遷座式が執行されたという。総工費は7500万円という。総檜造、屋根檜皮葺。
 東畑牛頭天王本殿1     東畑牛頭天王本殿2     東畑牛頭天王本殿3     東畑牛頭天王本殿4     東畑牛頭天王本殿5
 東畑牛頭天王本殿6
 東畑牛頭天王本殿部品1     東畑牛頭天王本殿部品2     東畑牛頭天王本殿部品3     東畑牛頭天王本殿部品4
 本殿左石灯篭:本殿の左前方に5基の石灯篭がある。手前から1番目、3番目、5番目は「牛頭天王」と刻する。
 1番目本殿左石灯篭     3番目本殿左石灯篭     5番目本殿左石灯篭:左記何れも「牛頭天王」石灯篭、但し年紀は何れも未確認。
 本殿左側面石灯篭:これはスサノヲと刻するので、明治の神仏判然令以降に建てられた石灯篭であろう。
 本殿右石灯篭:本殿右前方に4基の石灯篭がある。手前から1番目、2番目、4番目は「牛頭天王」と刻する。
 2番目本殿右石灯篭:「牛頭天王」と刻する。
 4番目本殿右石灯篭1:「牛頭天王」と刻する。     4番目本殿右石灯篭2:年紀は明和4年(1767)。

山城柘榴牛頭天王(現・東谷神社):相楽郡精華町大字柘榴小字垣内

Webの諸情報を総合すると次のようなことが分かる。
 由緒や創建年代は不明。
 祭神はスサノヲと天児屋根命。
 本殿や末社のある背後のブッシュの中に土塀の遺構が残る。
 少なくとも近世には神宮寺である見性寺があったが明治の神仏分離の処置で廃寺となる。
 この神社には宮守を筆頭とする宮座が今も残り、年中行事が今も続けられるという。
「宮座行事」は、享和2年(1802)の記録によれば見性寺の行事として、正月二日の牛玉札の配布、正月六日の勧請繩掛け、二月五日の御弓二月八日と八月八日の大般若経と、毎月の法華経読経などが行われていた。明治維新の神仏分離の処置で見性寺は廃寺となり、宮寺の年中行事は宮座行事に組入れられ、今も続くという。
 ※現地を見る限り、当社が牛頭天王であったことを示す石灯篭の刻銘などの直接的な遺物などは見当たらず、また由緒は不明といい、伝承などの確認もできない。しかし、祭神がスサノヲであることで、まず牛頭天王であったことは間違いないだろう。
それは、スサノヲを祀る社が近世以前に存在したことなど例がなく、スサノヲが祭神として登場するのは、例外なく明治維新の神仏判然令で牛頭天王が神仏混淆の代表例とされ、牛頭天王の抹殺が指令された直後に牛頭天王の代替として登場した祭神であるからである。
(もう一体の祭神天児屋根命は春日権現・春日明神であり、これも由緒が不明ということであれば、どういうことか判断できない。)
2018/10/25撮影:
現・東谷神社の社殿や鳥居は近年の造替のようで、古を偲ぶ何者もなく、社自体は無味乾燥と言わざるを得ない。
 柘榴牛頭天王社拝殿前:宮寺見性寺の位置は不明であるが、もし宮寺が社に付属しているとすれば、本写真の左右に多少の平坦地があるので、この付近にあったのかも知れない。
 東谷神社鳥居基礎1     東谷神社鳥居基礎2:上記写真の拝殿前鳥居の少し前に一対の鳥居基礎と思われる遺物が残る。これが何かは不明であるが、旧鳥居を廃棄して、鳥居を新しくしたということであろうか。
 本殿への石階:石階は近年の造替、途中に2対(4基)の石灯篭がある。
 本殿石階途中石灯篭1     本殿石階途中石灯篭2:途中の石灯篭の内の1対は天明五乙巳(1785)の年紀を刻する。当社に残る唯一の近世の遺物であろう。
 柘榴牛頭天王本殿:近年の造替である。天児屋根が祭神のためであろうか、春日造である。
神殿背後の土塀遺構:現地訪問の後に知ったのであるが、本殿などの背後には土塀遺構が廻るようである。次にその土塀写真を掲載する。
 神殿背後土塀遺構1     神殿背後土塀遺構2     神殿背後土塀遺構3     神殿背後土塀遺構4

山城菅井牛頭天王社:現・天王神社:精華町

○「新撰京都名所圖繪 巻六」昭和40年 より
スサノヲと阿知之岐高彦根(アチノキタカヒコネ)を祀る。
境内に菅ノ井と称する清泉がある。口碑によれば菅原道真がこの水を賞したのに因んで菅公の井といい、更にこれが村名になったと伝える。
因みに、神社の裏は稲荷山古墳という。(未見)
○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
上述「新撰京都名所圖繪 巻六」とほぼ同一の記述である。
○「精華町の寺社と美術 改訂版」精華町史編纂委員会、1995
寺伝(社伝?)によれば、当社の傍らに寺があり、長く僧侶の管理であったという。
明治の神仏分離の際、社殿中の弘法大師像、不動尊像は宝住寺に移されたが、宝住寺(大正13年焼失)の焼失によって今はない。
明治26年社殿再建時に慶長巳亥年(慶長4年/1599)銘の棟木が発見されたという。
 ※神宮寺(宮寺)の存在を伝えるも、寺名など一切が不明である。
○境内末社
熊野権現(伊邪那岐)、天満宮(菅原道真)、蛭子神社(事代主)、金毘羅大権現(大物主)、大国神社(大国主)、天照皇太神宮(天照)、祇園社(建速須佐之男)がある。
 ※わざわざ末社に祇園社(祇園神社)があるという事は、おそらくは、明治の神仏分離の処置で廃された牛頭天王を祀るための社として、明治維新後に作られた末社ではなかろうか。
○Web情報
牛頭天王神社御塚跡:<未見>
菅井集落の東の字古里に「牛頭天王神社御塚跡」と称する「遺跡」がある。(相楽郡精華町菅井古里)
そこは、現在、豊川稲荷社があるようで、朱の鳥居が連立する。稲荷本殿の手前にこの遺跡はあり、巨木の下に「牛頭天王神社御塚跡」と刻んだ石碑を建て、その印とする。
この正体は不明であるが、推測するに、次のようなことと思われる。
現在の天王神社は「もとは菅井集落東側の小字古里に在ったが、集落の移転と共に移転したようである」(資料1)とのことである。
(資料1) 「京都の歴史散策33 〜祝園を歩く〜」龍谷大学REC<2017.43.22 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成 ><未見>
 ※つまり、牛頭天王は古くは古里にあったが、いつしか現在地に移転したということであろう。
 即ち、「牛頭天王神社御塚跡」とは菅井牛頭天王が現在地に移転する前の鎮座地ということであろう。
○2018/04/05撮影:
明治維新の神仏判然令で、菅井牛頭天王の祭神牛頭天王はスサノヲに取り替えられ、社号は天王神社と改号、神宮寺(宮寺)は廃寺となったものと思われる。
 菅井牛頭天王社
 常夜燈若宮牛頭天王社中1     常夜燈若宮牛頭天王社中2     常夜燈若宮牛頭天王社中3:年紀は享保三戊戌年(1718)
当社が牛頭天王であったことを直接示す貴重な遺物である。若宮牛頭天王と刻する。
若宮とは「新たに勧請した神社。新宮。」(広辞苑第1版)、「新たに神霊を分けて祀った神社。」(例解古語辞典第3版)との義であり、これに従えば、上述(「牛頭天王神社御塚跡」)のように、菅井古里から移転するといい、だとすれば現在の牛頭天王は若宮ということになる。
年紀は享保三戊戌年(1718)であり、この年に移転あるいはこの年以前に移転したものと思われる。
 菅井牛頭天王社拝殿
 菅井牛頭天王社本殿1     菅井牛頭天王社本殿2     菅井牛頭天王社本殿3     菅井牛頭天王社本殿4
 末社祇園社
 菅井牛頭天王社菅ノ井
 宮寺跡地か:天王社の傍らに寺院があったと伝えるだけで、具体的情報はない。参道北側に社務所と思われる建物・平地があり、ここに宮寺があった可能性があるが、何の確証もない。
 西山浄土宗宝住寺:宮寺の仏像が遷座したという、大正13年焼失、現在は再興されている。
◎菅井牛頭天王御塚跡
2018/10/25撮影:
御塚跡が牛頭天王の旧鎮座地であるとして、その跡地には現在「豊川稲荷大明神」祠が勧請されている。
その祠の斜めやや前に「牛頭天王神社御塚跡」と刻した石柱が建てられている。その石柱にはおよそ次にような銘文が彫られている。
本石碑は製油肥料商を営む個人(個人名あり)が創業百周年記念として昭和59年に建立する と。
 菅井牛頭天王御塚跡1     菅井牛頭天王御塚跡2     菅井牛頭天王御塚跡3:向かって左奥に「豊川稲荷大明神」祠がある。
 菅井牛頭天王御塚跡4     菅井牛頭天王御塚跡5

山城植田牛頭天王社:現・稲植神社:相楽郡精華町植田

○現地説明板
稲植神社
祭神:タテハヤスサノヲ
5世紀頃建立されたと伝える。
口誦伝承では、元祇園と云われたという。
最初は牛頭天王社として祀られ、のちに祇園社として祀られたという記録も残る。
 ※この記録とは不詳である。
 また牛頭天王社と祇園社とは同義であると理解しているが、最初は牛頭天王、後に祇園社とはどういう意味であろうか。
中世焼失し衰微する。
末社;八幡、天満、熊野、八王子、四宮がある。
祭事:7月14日祇園祭
 ※祇園会の古くからの伝統を継承するのであろうか。あるいは単に祇園社の祭礼の名称だけを採ったものであろうか。
○現地神社改築工事記念碑
長禄年中(1457-60)に勧請したと伝えられ、中古衰微し、明治2年に再建。
その後社殿は老朽化するも、2003年、南稲八妻・植田の両氏子等の尽力により、全面改装をなす。
 ※神社は全面改築がなされ、境内地も社殿も新調され、山城の片田舎の社にしてには不釣合の「立派さ」である。
記念碑の刻文によれば、両地区の氏子一同で合計1億2千万円が寄付されている。この「立派さ」は豊富な資金のなせる技と「納得」できる。
これを推測するに、南稲八妻・植田は関西(京都)学研都市の東端に位置し、おそらくは以前は田畑・山林であった多くの土地が買収されたものと思われる。氏子にもその対象者が多くいたものと思われる。おそらくは、その土地の売却による収入の一部が寄付されたものと、思われる。
○「精華町の寺社と美術 改訂版」精華町史編纂委員会、1995
長禄年中の勧請という。土地の旧家大橋家の長顕が春日神社を勧請したという。中古衰微していたのを、明治2年再建した。
社は「元祇園」と呼ばれ、明治以前は神宮寺として東福寺があったという。
次の文化財を有する。
鼻高面:江戸期、木造檜一材製。彩色、法量は24×20.6×18.4(奥行)cm。老相・鼻高・開口の相。これを使用する祭事は現在は行っていない。
輿:文化8年(1811)の箱書がある。
○Web情報
・7月14日祇園祭の時、拝殿向拝の所には茅の輪が設置され、茅の輪くぐりが行われるようである。
・もともと「上田の社」と呼ばれていたという。上田村は植田村となる。
・近松門左衛門の最晩年の世話物である「心中宵庚申」は享保7年(1722)に大坂で実際に起きた心中事件を題材にしたものだが、この物語の一方の主人公であるお千代は山城国相楽郡上田村(現京都府相楽郡精華町植田)の大百姓島田平右衛門の二女であったと伝わる。父平右衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、菩提寺である来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。この墓は来迎寺に現存する。
 ※つまり、此の地は牛頭天王社であった時代、上田村であったのである。

 以上にみるように、必ずしも由来ははっきりとはしないが、以上の要約を総合すると以下のように推測される。
近世、植田村は上田村であり、現在の稲植神社は牛頭天王社であったことは確実であろう。
「元祇園」と云われていた(口誦伝承)こと、牛頭天王社(祇園社)として祀られたという記録(不詳)があるということ、夏に祇園祭(祇園会)が行われていること、祇園会には「茅の輪くぐり」(蘇民将来の伝承)が行われること、末社に現在も八王子社があること、現在の祭神がスサノヲであることなどがその根拠である。
なお、(長禄年中に)春日明神を勧請というのは以上の理由から有り得ず、何かの間違いであろう。
創建については、確たる史料を欠くので、推測するしかないが、長禄年中(1457-60)に勧請された(何に基づくのかは不詳)ということを尊重すれば、天王村牛頭天王(あるいは祇園社牛頭天王)を勧請し成立したということが一番現実的と思われる。
あるいはもっと古い時代の草創とすれば、牛頭天王が廣峰山から祇園感神院に遷座する過程で摂津から山城相楽郡上田村に立ち寄り、その後山城綴喜郡天王村に遷るということであったのかも知れない。この立ち寄り先に牛頭天王が祀られたということが上田村牛頭天王の草創であるかも知れない。
近世、上述のように近世の文化財も残り、神宮寺(東福寺)もあったというので、衰微したというものの、牛頭天王社として一定の体裁があったものと推測される。
ところが、明治維新の神仏判然令で、「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、・・・」、「中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、・・・」、「仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、・・・」など処置を命ぜられ、おそらく東福寺は復飾・廃寺、牛頭天王は破壊・廃止、スサノヲに祭神を採り替え、植田村(上田村)に南稲八妻も氏子に組み入れ、両村から一字づつを採って「稲植神社」と改号したものと思われる。この際、相当に腐朽していた社殿も造替(再建)したのであろう。
 国学者や復古神道家の思惑のとおり、牛頭天王の抹殺を果たし、記紀神話に基づく神社の創生に成功し、人民を地域神社の氏子に組み入れ思想統制する政治的目的を見事に果たしたというべきであろう。
○2018/04/05撮影:
社殿そのものは近年の造替であり、風情などはない。また、牛頭天王を偲ばせる遺物は八王子社を除き、特に無いようである。
 稲植神社拝殿:夏の祇園祭の時、本拝殿の向拝部分に茅の輪が設置され、茅の輪くぐりが行われるという。
或る意味牛頭天王の最も初原的な説話である「備後国風土記 逸文」(牛頭天王と蘇民将来の教説)の世界を彷彿とさせるが、明治の神仏分離の処置で牛頭天王は廃されたが、茅の輪くぐりは祇園祭とともに牛頭天王社時代の伝統を今に伝えているのであろう。
 稲植神社本殿:祭神はスサノヲ
 稲植神社小宮:右から八王子、熊野、天満、八幡が並ぶ。
 八王子神社祭神:スサノヲの5男3女を祀るというも、勿論神仏判然令後の捏造で、明治維新以前は牛頭天王八王子を祀っていた八王子社が今に残るということであろう。
 稲植神社四之宮:タケミカヅキ(常陸鹿島の神・藤原氏守護神)、フツヌシ(下総香取の神、藤原氏守護神)、アメノコヤネ(河内枚岡の神、藤原氏祖神)、同ヒメの4座を祀る。長禄年中に春日明神を勧請という伝は、おそらくは、この社殿を勧請ということを指すものと思われる。
 宮寺東福寺跡:石碑が建つ、裏面に昭和42年建立、稲植神社社務所と刻む。神社の東南にある。東福寺とは全く情報がなく、不明である。

山田牛頭天王(山田天王宮、山田植樹神社、現・新殿神社)、附:山田医王寺

○「新撰京都名所圖繪 巻六」昭和40年 より
俗に「山田の宮さん」と云われ、旧山田荘村の産土で、スサノヲ・アマノコヤネを祀る。
 ※アメノコヤネは藤原氏(中臣氏)祖神、春日権現の第3神を構成ずる。
 ※春日権現の本地は、不空羂索観音・薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音とされ、それぞれタケミカヅチ・経津主神・天児屋命・比売神が垂迹とされる。
本殿:一間社流造、天文16年(1547)大工藤原國次の名をしるした棟札がある。
十三重石塔:重文、室町、高さ約4m、花崗岩製、相輪は後補、初重軸部には四方佛を陽刻し、台座に延徳3年(1491)百万遍念仏供養のために造立した銘がある。
○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
 新殿神社:スサノヲ・アマノコヤネを祀る。
本殿は室町期の建造、本殿の前に十三重石塔(重文)があり、台座銘によれば延徳3年(1491)に造立されたことが知られる。
南隣には小堂と草葺の建物を残す医王寺の梵鐘(応永2年銘)は現在、柘榴の極楽寺に蔵される。
○「精華町の寺社と美術 改訂版」精華町史編纂委員会、1995
 古くは、植樹神社と称した。田辺町の朱智神社(天王村牛頭天王)から勧請されたというが、詳細は不明。
現本殿に天文16年(1547)の棟札が残されている。
十三重石塔:重文、覆鉢と宝珠は後補、それ以外は延徳3年(1491)建立当初のものである。
基礎にある銘文:
 西面、西念/延徳三年十一月十六日/真照。 南面:2名の人名。 東面:百万遍念仏/6名の人名。 北面:三界萬霊/7名の人名
薬師如来坐像(薬師堂本尊):木造、寄木造、金泥彩(肉身部)・漆箔(着衣部)、江戸期の作、医王寺本尊。
薬師堂内には他に、弘法大師坐像、観音像(厨子入り)が安置される、また付近に鐘楼跡がある。
○2018/04/05撮影:
かなり分かり易い牛頭天王である。
即ち、明治の神仏判然令で神宮寺(医王寺)は廃寺、祭神は牛頭天王を廃しスサノヲに変更、社号を新殿神社などと難解なものに変更するも、牛頭天王と刻んだ石灯篭が残り、十三重石塔も境内に屹立し、神宮寺趾には薬師堂・本尊薬師如来・鐘楼跡・石仏類などが残り、明治の神仏分離以前の姿を随所に見ることができる。
 山田牛頭天王入口:品性を欠く新しい巨大な社号碑が明治の神仏分離の理不尽を今に象徴するのであろうか。上は京奈和高速道。
 入口石灯篭2基:鳥居下・外の2基が明治以前のもので、2基とも牛頭天王と刻む。
 入口石灯篭右:分かりにくいが、牛頭天皇と刻む。
 入口石灯篭左1     入口石灯篭左2:牛頭天皇と刻む。(天王は天皇とも記す例もままある。)
 入口石灯篭左3:天保九戊戌年(1838)の年紀。
 十三重石塔1     十三重石塔2     十三重石塔3     十三重石塔4     十三重石塔5
 十三重石塔西面銘:中央に「延徳三年・・」と刻す。
 山田牛頭天王本社     山田牛頭天王舞殿:室町期の建築という。
 山田牛頭天王宮座その1     山田牛頭天王宮座その2
 山田牛頭天王拝殿:割拝殿である。拝殿下右に石灯篭2基、左に1基(茂の中)ある。
 拝殿下右石灯篭2基
 右石灯篭の左石灯篭:「牛頭天王御神前」と刻む。年紀は不明。何れにせよ、牛頭天王と刻むので明治維新前である。
 右石灯篭の右石灯篭:年紀は文化七庚午(1810)。
 拝殿下左石灯篭1基:未確認ながら、形状から上術の「牛頭天王御神前」と刻む石灯篭と対であろう。
 山田牛頭天王本殿1:向かって左は八王子社
 山田牛頭天王本殿2     山田牛頭天王本殿3:鎌倉から室町にかけての建築との評価がある。
  応長元年(1311)遷宮が行われ、また本殿には「天文16年(1547)11月13日…」の棟札があるという。
 2020/02/16追加:
  山田牛頭天王本殿と八王子社が2020年京都府指定文化財に指定される。
  本殿は天文16年の棟札(上述)を有する。一間社流造・屋根銅板葺。
  八王子社は江戸初期の建立とされ、屋根銅板葺き、一間社春日見世棚造で、春日造の発展を考える上で貴重と評価される。
  八王子については諸説があるが、元来本社が牛頭天王であるので、おそらく牛頭天王の8人の子を祀る社なのであろう。
   山田牛頭天王本殿4     山田牛頭天王本殿5     山田牛頭天王本殿6
   山田牛頭天王八王子社1     山田牛頭天王八王子社2
  ※見世棚造:流造や春日造の社殿の前面の階を省略して棚を付けた造作の社殿で、主に小型の社殿に使われる。
  見世棚造の社殿は各所に散見されるが、古例としてまた身近には大和西大寺石落社がある。
     西大寺石落社     西大寺石落社11:推定室町中期
2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第38集」京都府教育委員会、2021 より
新殿神社は山田村・乾谷村の産土神でスサノヲと天児屋根(春日大明神)を祀る。
本殿棟札や地区に残る文書では、牛頭天王を祀り、スサノヲは明治の神仏分離の処置で改竄されたものである。
創建沿革は詳らかでないが、応長元年(1311)綴喜郡普賢寺村より勧請遷宮されたと伝え、かつては「天王宮」あるいは「植樹神社」と呼ばれていた。
隣接して別當医王寺があり、応長2年(1312)銘のある梵鐘(府文)や石造十三重塔(延徳3年<1491>銘・重文)等を残す。さらに医王寺の境内区画には薬師堂・宝篋印塔が残る。
現社殿は棟札より天文16年(1547)の造営である。構造は一間社流造、銅板葺(昭和55年檜皮葺から変更)。
八王子社は牛頭天王の眷属である八王子を祀る。
創建については資料を欠くが、牛頭天王の創建と同時に創建されたものと考えられる。現八王子社の建立を示し資料は見当たらないが、建築手法から、現本殿と同一時期(16世紀中葉)の建造と思われる。一間社春日見世棚造、銅板葺。
 山田牛頭天王境内図     山田牛頭天王配置図     山田牛頭天王本殿平面図     山田牛頭天王本殿棟札
 山田牛頭天王八王子社平面図

医王寺:確かな情報はないが、おそらく医王寺が山田牛頭天王の別當であったのであろう。
そして、明治の神仏分離の処置で医王寺は廃寺となるも、完全には破壊されず、薬師堂・薬師如来坐像の遺物や鐘楼跡などの遺跡を残す。
 医王寺跡1:医王寺は牛頭天王の南に位置し、寺と社の間の土塀が残る。堂宇は薬師堂。
 医王寺跡2:中央の更地に本堂・庫裡などがあったものと思われる。     医王寺跡3:土塀と石仏群、背後の建物は宮座。
 医王寺薬師堂1     医王寺薬師堂2
 薬師堂内部:中央は本尊薬師如来坐像、向かって左の厨子内は弘法大師坐像、
  右の厨子内には観音像(厨子に「山城國十六番」と刻する)が安置されると思われる。
 医王寺鐘楼跡1     医光寺鐘楼跡2     医光寺鐘楼跡3:宝篋印塔が建つも、その時代などは不明。
 医王寺草堂部材か:上述の「日本歴史地名大系 京都府の地名」では小堂と草葺の建物を残すとある。
  草堂は退転し、その部材が残るのであろうかと推測する。
 西国十六番扁額:薬師堂に掲額される御詠歌である。
  「西国十六番京清水寺  松風や/音羽の瀧の/清水を/むすぶ心は/すずしかるらん」
  「加茂町史 第2巻」には次のようにある。
  山城西国三十三所(城南西国三十三所、南山城西国三十三所):
   天保12年(1841)1番札所木津西教寺の良海が発起。 明治初年頃、西国三十三所の各札所の本尊の写しを分配し開創される。
   16番札所は医光寺:千手千眼観音:現在廃寺
◎医王寺(伊王寺)梵鐘(柘榴極楽寺蔵)
2018/10/25撮影:
應長2年(1312)の刻銘がある。願主は僧の定意、鋳造は第九の藤原近行及び粟田未定と記す。
なを、刻銘中の山城國相示郡とは相楽郡であろうが、相示郡の用例を浅学にして知らず。伊王寺は医王寺。
医王寺は廃寺の後も建物の一部や仏像とともに梵鐘も残される。
しかし梵鐘は今次の侵略戦争で軍事供出されるも、溶解を免れ、戦後柘榴の極楽寺に引取られたという。
平成5年梵鐘が新造され、医王寺梵鐘は鐘楼から降ろされ、現在は本堂に祀られる。
 山田醫王寺梵鐘1     山田醫王寺梵鐘2     山田醫王寺梵鐘3     山田醫王寺梵鐘4     山田醫王寺梵鐘5
柘榴極楽寺の創建時期は不明、元禄16年(1703)及び享保17年(1732)の佛画があるので、江戸中期には創建されていたという。
 柘榴極楽寺     柘榴極楽寺本尊1     柘榴極楽寺本尊2:阿弥陀如来坐像:江戸期
 柘榴極楽寺鐘楼     柘榴極楽寺薬師堂
 薬師堂仏壇1:厨子に室町期という本尊薬師如来坐像を奉安と思われる。さらに不動明王立像を祀る。
 薬師堂仏壇2:地蔵菩薩立像2躯などもある。
2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第1集」京都府教育委員会、昭和58年 より
 旧医王寺梵鐘(極楽寺梵鐘)



大和の牛頭天王

東大寺鎮守八幡宮末社祇園社(牛頭天王):押上町八坂神社

奈良市押上町にある。(東大寺戒壇院西側にある。)
京都祇園社を勧請し、近世には祇園社と称され、現在の祭事がスサノヲ、クシイナダヒメ、ヤハシラノミコといい、現社号が八坂神社ということなどから、明治維新までは牛頭天王(祇園社)であったが、明治維新の神仏分離の処置で、祭神が牛頭天王及びその眷属がスサノヲ及びその眷属に取り替えられ、社号が変えられたというパターンで間違いない。
「寺院神社大辞典(大和・紀伊)」では次のように云うという。
建武5年(1338)六月五日に京都祇園社を勧請。東大寺鎮守八幡宮の末社としたという。(「東大寺雑集録」)
建武5年六月八日の影向の儀の支配状は勧請時の神事に関するもので、神子神入の酒肴を伊賀黒田壮をはじめ、東大寺領の九カ荘が負担している。当初は東大寺が鎮祭したが、のちには東大寺七郷(おおむね手掻・押上・中御門・今小路・水門・今在家・北御門)が中心となり、六月十四日の祭礼を祇園会または御霊会と称して、南の天神社(現奈良市高畑町)の小五月会に対抗して盛んであった。(永享11年<1436>の「東大寺執行所日記」<東大寺図書館蔵薬師院文書>)
京都の祇園祭と同じく山・舞車・笠鉾を出し、押上郷と中御門郷が舞車の順番でもめ、見物衆が巻き込まれて三人に負傷者も出たことや、各郷の山の順序の決め方などが記されている。(「大乗院寺社雑事記」文明11年<1479>六月十四日条)
押上と中御門の争いで舞車は近年久しく中絶していたが、決着のついたことを記し、翌十四日条に今日祇園会があって山は今少路(今小路)、次に押上、その次に中御門の順で渡ったとある。(「多聞院日記」永正2年<1505>六月十三日条)
永録10年(1567)十月十日夜、東大寺大仏殿に陣した三好三人衆に対して松永久秀が多聞城から攻寄せて当社も類焼、それまで中御門の北に神宮、南に神宮寺があったが、兵火後旧神宮寺の地に移座したのが現在の社地という。(奈良坊目拙解)
これを契機に祇園会は漸次衰微、祇園社も慶長11年(1606)・寛永19年(1642)・宝永元年(1704)の火事で焼け、宝5五年には春日若宮古殿を拝領したという。(奈良坊目拙解)
現社殿は新造で、祇園祭も近隣の数町により営まれるにすぎない。
2018/10/15撮影:
 八幡宮末社祇園社燈籠     八幡宮末社祇園社舞殿     八幡宮末社祇園社社殿
 八幡宮末社祇園社本殿1     八幡宮末社祇園社本殿2     末社弁財天

初瀬牛頭天王

本牛頭天王は大和長谷寺に隣接してあり、大和長谷寺の支配下にあったものと推測される。
 → 大和初瀬牛頭天王


河内の牛頭天王

河内一宮牛頭天王(現・河内片埜神社)
  社伝では次のように云う。
垂仁天皇代、出雲の野見宿禰命が当地方を拝領した折、建速須佐之男大神をこの地にお祀りして土師氏の鎮守としたのが草創である。
欽明天皇代「片野神社」の社号を賜って交野郡の産土社とり延喜式(927年)では式内小社に列され、天徳4年(960)に土師氏の出である菅原道真を併祀、平安時代後期には社名を「一宮」と改めた。と。
 ※出雲の野見宿禰といい、スサノウを祀るといい復古神道の臭いが芬々とする。
野見宿禰が当地を拝領したとはいかなる資料に依るのであろうか。
要するに、胡散臭さ満載であるが、上記の社伝は一宮天王社に延喜式内「片野神社」を付会する為、幕末か明治維新のころ復古神道が編み出した偽作であろう。
天徳4年に菅原道真を併祀とは、既に「片野神社」が衰微ということかも知れない。
平安後期に社名を「一宮」に改号とは、すでに「片野神社」が頽廃したということであろう。つまり、明治維新で「一宮天王社」を既に廃頽していた延喜式「片野神社」に付会したため、社伝に追加したものであろう。
 要するに、上記の社伝とは、以上のように、明治維新の復古神道による新作・偽作であり、古くからのものではありえない。
式内社「片野神社」は平安後期には退転する。
この地には、どのような勧請経緯か不明であるが、牛頭天王が祀られ、一宮天王社と称する。
(境内の祭神の説明板には主神スサノウを祇園八坂の大神と説明するので、祇園感神院からの勧請かも知れない。)
慶長年中、一宮牛頭天王社は豊臣家により再建される。
明治維新で復古神道により、一宮牛頭天王社は廃絶した延喜式内「片野神社」と付会される。
いみじくもいう、「明治時代に近隣諸社のご祭神を合祀申し上げ、社名をもとの「片埜神社」に復して現在に至る。」と。
 ※一宮とは河内一宮ではなく、交野郡一宮の意である。
2021/04/30撮影:
 一宮牛頭天王正門1     一宮牛頭天王正門2     一宮牛頭天王正門3
 一宮牛頭天王東門      一宮牛頭天王北門
 一宮牛頭天王練塀1     一宮牛頭天王練塀2     一宮牛頭天王練塀3     一宮牛頭天王練塀4
 一宮牛頭天王拝殿       一宮牛頭天王拝殿・本殿
 一宮牛頭天王本殿11    一宮牛頭天王本殿12    一宮牛頭天王本殿13    一宮牛頭天王本殿14
 一宮牛頭天王本殿15    一宮牛頭天王本殿16    一宮牛頭天王本殿17    一宮牛頭天王本殿18
 一宮牛頭天王本殿19    一宮牛頭天王本殿20    一宮牛頭天王本殿21    一宮牛頭天王本殿22
 一宮牛頭天王本殿23    一宮牛頭天王本殿24    一宮牛頭天王本殿25    一宮牛頭天王本殿26
 一宮牛頭天王本殿27    一宮牛頭天王本殿28    一宮牛頭天王本殿29    一宮牛頭天王本殿30
 一宮牛頭天王石灯篭1    一宮牛頭天王石灯篭2    一宮牛頭天王石灯篭3    一宮牛頭天王石灯篭4
 河内一宮御寶前鳥居残欠:別の残欠には寛政8年(1796)の年紀がある。
 河内一宮狛犬:台石には河内一宮と刻む。延喜式内「片野神社」など意識の外である。
◇正門(表門):府文
おそらく豊臣秀頼の造営であろう。慶長期、切妻造本瓦葺の四脚門で、総丹塗り。
◇東門:府文
室町期の棟門と推定される。本来は棟門であったであろうが、現在は四脚門に改められる。
 なお、棟門は左右に円柱を立て、その上に水平に冠木が通り、梁の上にのせた蟇股の中ほどまで円柱が延びてる。扉は桟唐戸を用いる。控柱を用いず築地塀に密着させて門柱をささえる構造である。
◇本殿・棟札:重文、桃山期
天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城築城に際して、当社を鬼門鎮護の社として定めたという。
現在の本殿は、慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に再建したもの。(棟札)
三間社流造、屋根檜皮葺。四面を飾る蟇股の彫刻は次の通りである。向拝中央には竹に虎、右は芙蓉にせきれい、左は椿にひよどり、本殿正面は中央・左右とも牡丹、背面は中央に椿、左にかきつばた、右に菊、東妻は太閤桐、西妻は栗である。
◇石灯篭1基:鎌倉期・府文
拝殿前に建つ。紀年銘等はなし。鎌倉期のものと推定、元々は当社神宮寺にあったものと思われる。
神宮寺は境内東側にあり。(「河内名所圖繪」を参照)
高さは約2m、宝珠下の請花は失う。火袋の四面には金剛界四佛の梵字を陰刻。

◇一宮牛頭天□刻銘:皇大神宮遥拝所に「一宮牛頭天□」と陰刻する石灯篭の残欠がある。
 一宮牛頭天□刻銘:写真は某サイトから転用。未見。

◇「河内名所圖繪 6巻」秋里籬島、享和元年(1801) より
交野神社
鍬靫延喜式出。渚の北坂村にあり。近邑八ヶ村の生土神なり。例祭九月六日。式には片埜神社と記す。
祭神牛頭天王 今土人一ノ宮と称す。本地を帝釈天として本地堂に安す。又四天王地蔵尊等を安す。鳥居より社まで馬場前の松原に町録あり。
  (略)
 河内名所圖繪・交野神社:「河内名所圖繪」後編下 六 に所収
中央の仏堂が本地堂であろう、境内北東に宮寺(社僧)がある。本地堂・宮寺は明治の神仏分離で取り壊されたと推測されるが、それ以外の雰囲気(南門・東門・練塀・本殿・拝殿)は本図のままである。

河内百濟王神社

牛頭天王を祭神(相殿)とする。少なくとも、江戸中期には牛頭天王を祭神とするも、牛頭天王の由緒は詳らかならず。
 →河内百濟王神社


但馬府中附近の牛頭天王

○次の1)項及び2)項は、「現代・神社の信仰分布」岡田莊司・加藤直弥、文部科学省21世紀COEプログラム國學院大學「神道と日本文化の国学的研究発信の拠点研究」、2007 より抜粋したものである。
 1)牛頭天王の都道府県別の分布は、多い順に兵庫203、千葉166、愛知135、岐阜131、福島124、静岡122、福岡119、茨城108・・・であり、しかも牛頭天王は全国に分布する。
 兵庫県は神社の総数が多いこともあり、そのため祭神別の神社数も多いことになるのであろうが、牛頭天王の数は兵庫が一番多いのである。
単純に考えれば、播磨白峯山に、牛頭天王の総本社的な位置を占めていた牛頭天王が鎮座し、その地元であることが影響したのかも知れないが、勿論未検証である。
 2)兵庫の牛頭天王203社の具体的な神社名の内訳は次の通りである。
八坂神社(66社)、須賀神社(49社)、八雲神社(4社)、津島神社(0社)、素戔嗚神社(30社)、八阪神社(30社)、八坂社(2社)、
津島社(0社)、須佐神社(0社)、須鵞神社(0社)、須佐之男神社(1社)、天王神社(0社)、祇園神社(9社)、素戔嗚神社(0社)、
武大神社(12社) である。
 勿論これは明治の神仏分離の処置で、牛頭天王は神仏混淆の象徴として「某権現或ハ牛頭天王之類」と名指しされ、全ての牛頭天王は抹消されたからである。即ち、佛體である牛頭天王はスサノウに取り替えられ、8人の御子八王子はスサノウの子ら、后である婆利采女はクシイナダヒメに取り替えられ、神としての牛頭天王は抹殺された。そして、社号も牛頭天王は廃され、八坂(弥栄・祇園)、須賀(須佐・須鵞・須佐之男・素戔嗚・八雲)神社あるいは産土とされた場合は地名を冠した社号に改号され、この面からも徹底して牛頭天王は抹殺された。
 3)兵庫県の一部である但馬の、それもまた一部である府中附近の牛頭天王を取り上げる。なぜ、但馬の国府近辺であるのかの理由はJRの駅で云えば、江原・国府・豊岡附近が公共交通期間で訪ね易いからでありまたこの時期この付近を訪れる計画があったからである。
 ※なお、兵庫県は但馬・播磨・淡路の全域と摂津・丹波の西半分とで成り立ち、但馬イコール兵庫ではないが、但馬にも多くの牛頭天王が存在したことには変わりないと思われる。(備前・美作のごくごく一部が兵庫に属するが、神社の数の分析には無視して影響はない。)

但馬高屋牛頭天王:豊岡市高屋字天王662

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノヲ、
由緒 創立年月不詳
 安永9年(1780)社殿を再建し明治15年9月村社に列せらる。
○現在は八坂神社と号する。
現社号が八坂神社で、祭神がスサノヲであり、加えて所在地の字が天王であるので、明治維新までは牛頭天王であった典型であろう。
2018/06/02撮影:
上記以外の情報は皆無である。
 高屋牛頭天王鳥居:参道坂道の途中にある。参道石階は波打ち荒れている。鳥居裏面に刻銘があるが、逆光及び荒れていて判読不能。
 高屋牛頭天王本社1:鞘堂及び本殿     高屋牛頭天王本社2:鞘堂には牛頭天王の扁額を掲げる。
 高屋牛頭天王扁額:牛頭天王の扁額であるが、時代は不詳、従って近年のものか明治維新前のものかは分からない。田村幸郡とは不明。
 高屋牛頭天王本殿1     高屋牛頭天王本殿2     高屋牛頭天王本殿3     高屋牛頭天王本殿4
 高屋牛頭天王本殿彫刻:由緒では安永9年(1780)の社殿再興という。この彫刻は中井権次一統の彫刻に酷似するので、中井権次一統の彫刻である可能性が高い。もしそうであれば、その年代から、4代言次君音か5代丈五郎橘正忠の作品であろう。
  →中井権次一統<丹波柏原八幡社三重塔中>
 堂舎名不明堂宇:神輿庫などと思われるも、堂舎名不明である。

但馬九日市牛頭天王:豊岡市九日市中町64-1(字権現)

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神:スサノヲ、由緒:無格社(兵庫県神社誌)
○現在は八坂神社(彌榮社の扁額を掲げる)と号する。
現地には入母屋造瓦葺の拝殿一宇と石灯篭1対及び狛犬1対が残るだけである。
扁額には「彌榮社」と掲げ、祭神はスサノヲというので、明治維新までは牛頭天王社であったことは確実である。
 現在残る一宇(拝殿)の背後は更地であり、おそらくこの更地に本殿があったが退転したのだろうと推測される。
石灯篭の年紀は大正9年であり、八坂神社と改竄されたのちのものである。
 近隣の人及び近隣の法華宗真門流妙經寺住職に由緒・祭神などを尋ねるも、まったく知らないとのことであった。
2018/06/02撮影:
 九日市牛頭天王現況:拝殿が写る。
 九日市牛頭天王扁額:明治の神仏判然の処置によって、牛頭天王を彌榮社と改竄、その時の新しい扁額が現在に残るものと推定される。
 九日市牛頭天王本殿跡:現在残る一宇の後は更地であり、間違いなく牛頭天王本殿があったものと推定される。

但馬今森牛頭天王:豊岡市今森81-4

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノヲ、由緒  無格社(兵庫県神社誌)
○現在は八坂神社と称する。
社号碑の側面に刻まれた「由緒」では次のように云う。
 社号:八坂神社、祭神:スサノオ
 元は八条村九日市上ノ町女代神社の裏山・今森谷に鎮座していた。元禄の頃火災に遭い、今森谷住人は新田庄に移住し、旧名に因み今森と称す。これに伴い神社も同地郡境に遷座し、三宝荒神と崇められる。
 ところが、昭和2年内務省直轄圓山川改修工事が実施され、河川敷として土地約25町歩(約75000坪)を収用され、村民60戸の内43戸とともに同地「ギオン」に再遷座する。
 超えて、昭和48年今度は建設省直轄による圓山川右岸堤防拡張工事が行われ、区民8戸が移転し神社は現在地に三度遷宮する。
 ※現社号碑側面の由緒には牛頭天王の事績はでてこない。
しかし、社号は「八坂」、祭神は「スサノヲ」であることは確かなので、明治維新前は牛頭天王であったことは確実であろう。
 ※元地は女代神社の裏山・今森谷ということであるが、今森谷とは不明、女代神社が移動していないとすれば、東向きに構える女代神社の裏山とは西方の山塊でしかありえず、であるならば、牛頭天王は圓山川左岸の山塊に鎮座していたものと推定される。
 ※元禄の頃、回禄に遭い、圓山川右岸新田荘に今森の集落及び牛頭天王は移転、郡境とは城崎郡と出石郡であろうがやや不自然で不明、三宝荒神と崇められたというのもやや不明であるが、三宝荒神とは基本的に仏神(佛教の守護神)であり、その像容は忿怒の形相であり、また不浄や災難を除去する神として信仰されるという側面から、牛頭天王と相似している。明治以降の国家神道に遠慮して、「由緒」では牛頭天王とは言わず「三宝荒神と崇められる」という表現にした気がしてならない。
 ※昭和2年同地「ギオン」に再遷座するという、「ギオン」とは祇園であるが、「ギオン」に遷座したとはもともと「ギオン」という地名があったかのように聞こえるが、実際は牛頭天王が遷座したから、その地は「ギオン」とよばれるようになったと解釈するのが分かり易いのではないか。
2018/06/02撮影:
 今森牛頭天王現況1     今森牛頭天王現況2:基本的に昭和48年の造営であり、境内に牛頭天王の痕跡はない。
 今森牛頭天王由緒:社号碑側面刻文
 今森牛頭天王鞘堂     今森牛頭天王本殿:鞘堂内に本殿がある、おそらく昭和2年の遷座の時造営された社殿を移転したのであろう。

但馬清冷寺村牛頭天王

三木嶋神社(豊岡市清冷寺1132-1・-2)境内に清冷寺村牛頭天王が祀られ、牛頭天王祠一宇がある。
牛頭天王祠には「祇園牛頭天王」扁額が掲げられ、牛頭天王の由来額、石造推定不動明王立像、線刻石造推定地蔵菩薩立像が置かれる。
 由来額には
もともとは清冷寺蔵角1827附近に鎮座し、牛頭天王を祀る。
昭和55年三木嶋神社境内に縮小移築される。
平成4年社殿の大改修で新たにこの地に祀る。
 と記される。
 ※清冷寺村牛頭天王はもともと清冷寺蔵角1827附近に鎮座していて、一定の規模を持っていたものと思われる。そして、事情は不明ながら、昭和55年規模を縮小して三木嶋神社境内に移築される。
さらに、平成4年(三木嶋神社の)社殿大改修で、現在地に祀られ、現在のような形になったのであろう。
 ※三木嶋神社の由緒などは不明、祭神はアマテラスミタマノカミ(天照御魂神)という。
 ※清冷寺(しょうれんじ)とは不明、なお、清冷寺地区には古刹東楽寺がある。
また、清冷寺村には廻国六十六部供養塔(江戸中期の石造宝篋印塔)があるという。<ブログ記事:清冷寺〜土地改良碑(宝篋印塔)より>
ブログ掲載の写真より、第1面と第4面の2面の刻文は次のように読める。
   (第1面)
 但─多郡
 清冷寺村
 願■■■
 享保十六閏
 辛亥七月■
   ※享保16年は1731年
 (第2面)
※写真なし
 (第3面)
※写真なし
  (第4面)
奉納大乗
妙經六十
六部廻國
一部一石
諸願成就
 敬白
2018/06/02撮影:
 清冷寺村牛頭天王現況1
 清冷寺村牛頭天王現況2:中央向かって左に写る小祠が牛頭天王祠である。
 清冷寺村牛頭天王現況3
祠内には上述のように、上に牛頭天王扁額、下には向かって左から、由来額、石造立像、線刻石造立像が置かれる。
 祇園牛頭天王扁額:左図拡大図
年紀などの記載はなく、いつの時代のものかは不明である。しかし明治以降の国家神道の支配下で「祇園牛頭天王」などの称号の扁額を作るとは考え難く、明治維新前の牛頭天王本殿に掲額されていた扁額である可能性は排除できない。だとすれば、明治の神仏判然の処置を潜り抜け伝えられている貴重な扁額であるのかも知れない。
 石造推定不動明王立像
この堂の中央に置かれるから牛頭天王とも思われるが、像容から一面六臂(?)の不動明王(右手に剣、左手には検索を持つと思われる)であろう。しかし、牛頭天王の像容は多様であり、牛頭天王像である可能性もあるとは思われる。
 線刻石造推定地蔵菩薩立像
やや稚拙であり、像容が明瞭ではない。おそらく地蔵菩薩立像とも思われるが、実際はどのような神仏なのかは良く分からない。

但馬土渕牛頭天王:豊岡市土渕字大谷3

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノヲ、配祀神 櫛稲田姫命【クシイナダヒメ】
由 緒 創立年月不詳、京都八坂神社の分霊と伝へ明治6年10月村社に列せらる。同41年1月15、6日頃社殿焼失しその後再建せり。
○現在は八坂神社と号する。
祭神はスサノヲ、クシイナダヒメであり、京都祇園感神院の分霊と伝え、現社号が八坂神社であるので、牛頭天王社である。
2018/06/02撮影:
 土渕牛頭天王鎮座地:この小丘の頂上やや下に社殿がある。小丘麓の向かって左に鳥居が微かに写る。
 土渕牛頭天王鳥居:この鳥居は昭和59年建立(本社内に「鳥居奉納 芳名録」の掲額があり、昭和59年年紀が記される。)
 土渕牛頭天王拝殿:一対の石灯篭は明治43年の年紀である。明治41年社殿焼失、其の後の再建とあるので、再建時の奉納であろう。
 土渕牛頭天王本社:拝殿及び本殿、向かって左奥に写る朱色の祠は稲荷大明神である。

但馬上石牛頭天王:豊岡市日高町上石2:上石は「あげし」と訓む。

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノヲ、配祀神 櫛稲田姫【クシイナダヒメ】
由 緒 創立年月不詳、祇園牛頭天王と称せしも明治3年八坂神社と改称し同6年10月村社に列せらる。
○現在は八坂神社と号する。
祭神はスサノヲ、クシイナダヒメであり、現社号は八坂であり、明治維新の前は祇園牛頭天と称すという。
2018/06/02撮影:
社殿は東殿(左殿)と西殿(右殿)の2棟がやや離れて並ぶ。それぞれの社殿の祭神は不明であるが、左殿にスサノヲ、右殿にクシイナダヒメを祀るのであろうか。
 上石牛頭天王社号碑・鳥居     上石牛頭天王社務所・鳥居
 上石牛頭天王社殿:左殿(東殿)前の石灯篭・狛犬は近年造替されたようである。右殿(西殿)の石灯篭の年紀は明治12年である。
 上石牛頭天王左殿鞘堂     上石牛頭天王左殿:祭神はスサノヲと推測するも不明。
 上石牛頭天王右殿鞘堂     上石牛頭天王右殿:祭神はクシイナダヒメと推測するも不明。

但馬南畑牛頭天王:豊岡市日高町東芝字南畑1

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノヲ
○現在は須賀神社と号する。
社号が須賀神社であり、かつ祭神がスサノヲであるので、明治の神仏判然令で牛頭天王が廃され、改竄されたことを示す。
2018/06/02撮影:
 南畑牛頭天王鳥居・社号碑     南畑牛頭天王社務所
 南畑牛頭天王本殿鞘堂     南畑牛頭天王鞘堂扁額:須賀神社     南畑牛頭天王本殿
境内には、牛頭天王社以外に境内社並に小宇・供養塔などがある。
 南畑牛頭天王境内:向かって左から、小宇、(供養塔など)、愛宕社、牛頭天王、不明祠、推定稲荷社、手水盤がある。
 南畑牛頭天王小宇:おそらく附近から集められたと思われる地蔵など石仏9躯を安置する。
 大乗妙典六十六部日本廻國供養塔:寛政12年(1800)年紀
 (大乗妙典六十六部日本)回廻國供養塔:享保二丁酉年(1717)     不明石碑(判読できず):そのほか供養塔の残欠などもあり。
 境内愛宕社鞘堂     境内愛宕社:鞘堂内に寄付芳名録があり、愛宕神社とあると思われる。
 境内不明祠鞘堂・推定稲荷社     境内不明祠     境内推定稲荷社     境内手水盤
なお、2003年9月のGoogleStreetViewでは、境内の境内社並に小宇などの配置が現在とは違うようである。
(近年これらが整備されたのであろうと思われる。)
 2003年南畑牛頭天王境内:鳥居・社務所・愛宕社・牛頭天王鞘堂は現在と同一の位置にあるが、
牛頭天王鞘堂の手前に並んである推定稲荷社および手水盤は牛頭天王鞘堂の東(向かて右手)に移設、
社務所の北には小宇及び不明祠が並ぶが、小宇は不明祠のあった位置に移建され、不明祠は牛頭天王鞘堂の東(右手)・推定稲荷社の西に移建されたようである。

但馬鶴岡牛頭天王:豊岡市日高町鶴岡927

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノオ、由 緒 無格社(兵庫県神社誌)
○現在は須賀神社と号する。
社号が須賀神社であり、かつ祭神がスサノヲであるので、明治の神仏判然令で牛頭天王が廃され祭神がスサノヲとされ、牛頭天王を須賀神社と改号したことを示す。
2018/06/02撮影:
現在は小区画の木立の中に牛頭天王小祠とその鞘堂の一宇のみあり、境内とか鳥居とかの施設も全く存在しない。
 鶴岡牛頭天王全景:写真の範囲がはぼ牛頭天王の敷地であり、境内と呼ぶような土地は所属しない。
 鶴岡牛頭天王本殿・鞘堂     鶴岡牛頭天王本殿:小祠である。祭神や社号を示唆するものは一切ない。
牛頭天王とは無関係と思われるが、牛頭天王社斜め前に六地蔵があり、さらに六地蔵の東に倉庫の一棟を隔てて仏堂一宇がある。
 鶴岡六地蔵:向かって右の木立中に牛頭天王がある。
 鶴岡六地蔵尊:右端の地蔵尊には伊福多田屋/享和元年(1801)と刻する。六地蔵があるのは圓山川左岸であるが、六地蔵の対岸(圓山川右岸)に伊福及び多田屋の集落があるようである。(この左岸と右岸との関係は不明である。)
 鶴岡仏堂(堂名不詳)鞘堂     鶴岡仏堂(堂名不詳):聖観音・阿弥陀如来石仏・中央に石仏を安置するも尊名不詳である。
 安置聖観音立像     安置石造阿弥陀如来立像

但馬水上牛頭天王:豊岡市日高町水上37-2(水上:みのかみ)

○兵庫県神社庁>神社紹介 より
主祭神 スサノヲ、配祀神 クシイナダヒメ
由 緒 創立年月不詳、
牛頭天王と称し寿永年間高田次郎当社を信仰す。
 ※高田次郎とは水上の西南にある祢布城主である高田次郎貞長という。
  高田次郎貞長は南北朝期の城主であり、山名氏によって滅ぼされるという。
  (だとすれば、平安末期である寿永年中という年代は不可思議である。)
寛文年間(1661〜1672)領主小出縫殿は国役前野仁左衛門を名代として幣物を捧げしめたり。
 ※寛文6年(1666)第4代出石城主小出吉英(5万石)の死後、その遺領を長男吉重が45000石で継ぎ、残る5000石を3人の弟に分封する。
  即ち二男英本に出石郡2000石(倉見小出家)、三男英信に養父郡2000石(大薮小出家)、四男英勝に気高郡1000石(山本小出家)を分封。
  いずれも、旗本小出三家が成立する。
  四男英勝は知行5ヶ村(山本・水上・八代中・西芝・祢布東組)を知行、山本に陣屋を構え、水上に代官所を置く。
寛政7年(1795)本殿を再建し、文化6年(1809)村の火災によりて古記録を焼失す。
安政5年(1858)領主長男小出辰太郎額一面を奉納し、明治6年10月村社に列せらる。
明治37年本殿を上棟し大正7年同殿の向拝を新築す。大正14年本殿を造営す。
○現在は八坂神社と号する。
社号が八坂神社であり、かつ祭神がスサノヲ・クシイナダヒメであるので、明治の神仏判然令で牛頭天王を八坂神社と改竄したのは明白である。
2018/06/02撮影:
 水上牛頭天王社号碑:八坂神社と刻む、神社に至る路の分岐する所に建つ。年紀は不明であるが、勿論神仏判然令の処置の後の建立で、国家神道が跋扈して天皇教が侵略戦争完遂のため国家総動員に突き進む趣旨を体した狂信者の建立であろう。大きさは軽く1丈(10尺)を超えるような大きさで、それ故不気味な社号碑である。
 水上牛頭天王鳥居:明治維新後、東京在住者の寄進である。(あるいは旗本関係の者であるのかも知れない。)
 水上牛頭天王手水舎     水上牛頭天王石階
 水上牛頭天王本殿1     水上牛頭天王本殿2     水上牛頭天王本殿3     水上牛頭天王本殿4     水上牛頭天王本殿5
 本殿祭神木札:牛頭天王を廃し、スサノヲ・クシナダヒメと取り替える。     本殿掲額社号額:牛頭天王を廃し、八坂神社と取り替える。
中井権次一統について:現本殿は上記の「由緒」によれば、大正14年の造営という。この本殿彫刻には「丹波國氷上郡柏原町居住 彫刻師 八代目 中井権次橘正胤 七十二翁作」という刻銘(未見)があるという。つまり本殿の彫刻は8代目中井権次の作である。
刻銘でいう七十二翁作とは72歳の時の作ということであろう。中井権次一統の8代目の生没念は安政元年(1854)〜昭和3年(1928)といい、従って75歳で没である。即ち、72歳の作ということは大正14年の作ということで、「由緒」のいう大正14年本殿造替と符合する。
 (上記の事実はつい先ほど知ったことで、写真撮影時には全く知識がなく、従って彫刻は殆ど撮影せず、その写真はない。
  →中井権次一統<丹波柏原八幡社三重塔中>)
次に、若干の8代目中井権次の作という本殿の彫刻写真を掲載する。
 本殿細目1     本殿細目2     本殿細目3    本殿細目4
本殿の他に次の建物がある。
 名称不明建物1:神輿庫とも思われるが不明。
 名称不明建物2:向拝部に大黒天及び三宝荒神の小祠を祀る。末社あるいは地区の小祠がここに遷座したのかも知れない。
 大黒天祠


2009/09/29撮影:
播磨廣峯社(廣峯牛頭天王)(廣峯山)

天平5年(733)帰朝した吉備真備が都への途中播磨明石浦で神威を感じ、天平6年白幣山(廣峯山奥)に異神(牛頭天王)を祀ると云う。
 →「峯相記」の廣峯社縁起は下に掲載の【播磨廣峯社「峯相記」縁起、播磨新羅訓の意味、峯相山鶏足寺「峯相記」縁起】を参照
天禄3年(972)現在の広峰山頂に遷座する。(「改暦雑事記」)
延喜式神名帳にはその名を見ない。
貞観11年(869)京都祇園観慶寺感神院(祇園社)に牛頭天王を分祠と云う。(「二十二社註式」「播磨鑑」など)
 <建保4年(1216)の御教書には「播磨國廣峯社者祇園本社」、貞応2年(1223)の文書には「祇園本社播磨国廣峯社」とあると云う。>
 <廣峯は祇園の本社と云う説は、中世、京の祇園社との間に多くの軋轢を生む。
  しかし南北朝期以降、次第に祇園社の支配に屈したようである。>
但し、祇園感神院の信仰は御霊信仰の側面が強いが、廣峯では農業(稲作の豊饒)信仰の側面が強いと云う。
 近世には天王山増福寺あるいは広嶺山増福寺と称し、江戸東叡山寛永寺末寺であった。
この頃社家は34家(「廣峯三十四坊」)を数えると云う。(寛文年中33家、安永年中25家)江戸後期には廣峯(大別当)・肥塚・魚住・小松原・椙山・谷・谷口・神崎・金田・竹田・柴田・内海・福原・粟野・大坪・芝・馬場などが知られる。また社家の下には半農の「手代」が50数家あり、社家の支配下にあった。
明治維新で社領72石などは上地、神職の世襲禁止などで、社家・手代の多くは下山、転職していった。戦後も産業構造の変化により、殆どの神社関係者は下山する、現在社殿の南、東、背後などに社家の跡地・石垣・石階・土塀・廃屋などを残す。(肥後家・魚住家の2家が辛うじて残ると云う。)
 ※なお、備後江熊(えのくま)祇園牛頭天王社(戸手天王社、戸手祇園社)の社伝では以下のように云う。
備後江熊(えのくま)祇園牛頭天王社は天武天皇治世の頃創建され、天平6年吉備真備が当社を播磨白幣山に勧請したのが現在の廣峯牛頭天王と云う。
なお当社別当は早苗山天竜院天王寺と称し、本地堂が現存する。 → 次項の「江熊祇園牛頭天王社」を参照
 廣峯山絵図:播州名所巡覧図絵
 廣峯牛頭天王拝殿本殿     拝殿本殿平面図
・本殿:は重文、文安元年(1444)の再興、桁行11間、梁間3間、正面1間通り庇付き、一重入母屋造、屋根桧皮葺の大建築である。
平面は内陣(内々陣)、外陣 (内陣)及び庇(外陣)からなる。内陣は桁行2間を一室として三社が並列する。
屋内にある三社の各社とも一間社流造見世棚付きの宮殿を置き、他の一間を仏間(納殿)とする。さらに三社を囲って横に仏座をつくり、外陣と庇を付け、脇に附属室(供物所、神饌所)及び詰所を付設した複雑な構造を持つ。
 昭和39-41年の本殿修理で地下の発掘調査も行われ、その結果掘立柱の跡が出土すると云う。
この遺構の性格につては三間社程度の小祠が想定されると云う見解と一間社が三棟建っていたという見解に分かれるようである。
このどちらであるのかは、部分調査でありはっきりしないが、仮に三間社としても、それは中央部と東端部ということであり、この場合も三棟の社であった可能性が高いと思われる。
 何れにせよ、いにしえは三棟であった廣峯山本殿は中世末期には大建築の一棟に統合されたということであり、
この意味では、但馬帝釈寺日光院妙見社本殿の先行形態であると評価できる。
なお、これは基本的には山城宇治上神社本殿三社(国宝・平安後期)を覆屋(国宝・鎌倉)で覆う形式を先行事例とする。
 廣峯牛頭天王本殿1       同        2       同        3
・拝殿:重文、長禄3年(1459)造営、寛永3年(1626)大破し、姫路城主本多忠政が修理。桁行10間、梁間4間、一重、入母屋造、屋根本瓦葺。 本殿に比して、東端を欠き桁行10間とする。
平面は8間の身舎の四方に庇をつけ、また正面には縋破風を付けて縁を取り込む。
 廣峯牛頭天王拝殿1       同        2
 廣峯牛頭天王神門:元禄10年(1697)建立
 廣峯牛頭天王社家跡       同     社家跡2

2014/01/22追加:
播磨廣峯社「峯相記」縁起、播磨新羅訓の意味、峯相山鶏足寺「峯相記」縁起

『14世紀播磨の寺社縁起にみる「新羅」』井上舞(「海港都市研究 4」神戸大学大学院人文学研究科海港都市研究センター、2009 所収)
 より
 本稿では14世紀(鎌倉末期/室町初期)播磨における「新羅」の問題を取り扱う。
前提としての時代認識は以下の通りである。即ち、9世紀の対外緊張の中で新羅排斥傾向は、文永(1274)・弘安(1281)の役をきっかけに再燃する。それは、各地の説話や寺社縁起において、「日本書紀」の神功皇后(息長帯比売)の「三韓遠征」伝承が再生産され喧伝されるようになるということである。
さらに播磨の地理的特性として、播磨は機内と西国との中間に位置する交通の要衝であることがあげられる。
【新羅に封じられた廣峯社】
1)廣峯社
 廣峯社の創建は不明であるが、「日本三大実録」の貞観8年(866)記事「播磨國无位速素戔嗚神、速風武雄神並授従五位下」の記事が広峰社を指すとすれば、これが初出であり、当時、廣峯社はスサノヲ(イザナギ・イザナミの第3子、アマテラス・ツクヨミの弟、オオクニヌシの父もしくは祖先)が祭神であったと云える。
また12世紀の「梁塵秘抄」の今様には「関より西なる軍神 一品中山、安芸なる厳島、備中なる吉備津宮、播磨に廣峯惣三所」とあり、ふるくはスサノヲ、軍神が祭神であったのであろう。
 (※一品中山は美作中山神社(美作一宮、中山神)と云うも、よく分からない。惣三所とは播磨総社射楯兵主神社か。)
ところが、14世紀成立(貞和4年/1348頃)の「峯相記」に残される廣峯社の縁起は以上とは様相が異なる。
即ち、「峯相記」縁起の内容は以下である。つまり、スサノヲや軍神ではないのである。
 天正天皇御宇、霊亀2年(716)、吉備大臣入唐、在唐18年、所学13道、殊陰陽ヲ極芸トセリ、聖武天皇御宇天平5年(733)帰朝、当山ノ麓ニ一宿シ給ヘリ、爰ニ夢ニモ非ス、現ニモ非ス、貴人出来シテ、我古丹ガ家ヲ追出サレ、蘇民カ為ニ助ラレテ、浪人ト成テヨリ以来、居所マタ定マラス、汝ト唐朝ニ契タリシヲ憑テ追来也ト云々、則当山ニ崇メ奉ル、牛頭天王是也、数年ヲ経テ後、平安京ヲ立テラレシ時、東方守護ノ為ニ、祇園荒町ニ勧請シ奉ルト云々、恐ハ当社ヲ以テ本社ト云フヘシト云々
 要するに、14世紀には祭神がスサノヲ/軍神から牛頭天王とされている。牛頭天王は元来厄神であったが、後に防厄神となる異国神である。牛頭天王は貴人となり、廣峯山麓に一宿したとき吉備真備のもとに顕現し、その牛頭天王を廣峯山に祀ったのが祭祀の始めと云う。牛頭天王は蘇民との邂逅があったこと、そしてのちには祇園に勧請されたことも語られる。
 ※蘇民将来伝承は祇園感神院の「牛頭天王縁起」「神道集」などにある。
また、13世紀の「続日本紀」に引く「備後風土記」では「武塔神」が蘇民に助けられたとし、後に武塔神は「吾はスサノヲの神そ」と名のることになる。「続日本紀」の著者卜部兼方は、既に、牛頭天王とスサノヲを結びつける言説を唱え、牛頭天王とスサノヲとが同一視される契機となる。
 廣峯社は14世紀成立の「峯相記」の廣峯社縁起で語られるように、少なくとも14世紀には防疫神としての牛頭天王を祭神として、自社の利益を図っていたものと考えられる。
   ◆関連項目 → 播磨廣峯社
2)新羅訓(しらくに)
 以上のように、12世紀頃まではスサノヲを祭神あるいは軍神と認識されていた廣峯社は少なくとも14世紀には牛頭天王を祭神に変更したと思われる。
ではなぜ、廣峯社は防疫神たる牛頭天王に転身したのであろうか。その背景には日本の防疫概念と廣峯社が鎮座する地域の特性があると推測される。
 日本の防疫概念とは奈良期から見られるもので、疫神とは「蛮國」つまりは新羅や渤海からやってくるものと云う認識があった。疫神が、内(畿内)に入るのを防止するために、多くの場所で疫神祭を行っていた事実がある。(「宮城四隅疫神祭」「畿内堺十所疫神祭」「京城四隅疫神祭」「蛮客送送堺神祭」など)
疫神は外(新羅や渤海)から侵入してくるものであり、畿内に入るのを防止するために、祭事が行われていたのである。
この疫神概念は後世まで残り、例えば、承久元年(1219)成立の「続古事談」では「もがさ(天然痘)と云病は新羅國よりおこりたり、・・・」とある。
 一方廣峯社が鎮座する山麓の地は「白国」と云う。この「白国」の由来は7世紀の「播磨國風土記」には次のように記される。
 枚野の里。新羅訓の村・筥村。右、枚野と称ふは、昔、小野たりき。故れ枚野と号く。新良訓と号くる所以は、昔、新羅の國の人、来朝ける時に、この村に宿りき。故れ、新羅訓と号く、山の名も亦同じ。
 つまり、廣峯社の鎮座する山麓(白国)は古くから新羅の人が居住した所で、播磨の中の新羅と認識されていたのである。
廣峯社の祭神がスサノヲあるいは軍神から牛頭天王に変更されたのは、単にスサノヲと牛頭天王が同一視されたからだけではあるまい。それは廣峯の地が播磨の中の新羅として認識されていて、しかも厄神は外地(新羅など)から侵入するという概念があり、畿内への侵入をどこかで防御しなければならない当時の時代的要請があったのである。その要請に応える意味で、播磨の中の新羅(白国)に鎮座する廣峯社がその役割を担ったのであろう。封じ込まれるべき疫神は、封じ込まれるべき最も相応しい場所、つまり「新羅訓」の廣峯社の中に封じこまれたのであろう。
   ◆関連項目 → 播磨白国
新羅王子が開いた峯相山鶏足寺
1)峯相山鶏足寺の縁起(新羅王子と神功皇后)
 峯相山については、ほとんど史料がなく、「峯相記」のみが唯一寺歴を伝えている。(「峯相記」より古いものは、天禄3年/972頃の「空也誄」に「揖保郡峯相寺」とあり、これが峯相山 を指すのかも知れない。)
その「峯相記」に記す縁起とは以下の通りである。
 神功皇后三韓ノ異国ヲ攻メ給ニシ時、新羅國ノ質子王子ヲ取リ帰給ヘリ、王子云ク、渡海間、風波ノ難ナク日域ニ付給ハ、一伽藍ヲ建立セント、皇后仏法ノ是非ヲ知給ハネハ、分明ノ勅答ナカリキ、筑紫ニテ皇子降誕ノ後、帰洛ノ時、尚西戎ヲ怖レ給フ故ニ副将軍男貴尊ヲ当國留置給シニ、被王子ヲ預ケ奉ラル、王子当山ニ挙登リ、草庵ヲ結テ、一心ニ千手陀羅尼ヲ誦シ給フ、数百年ヲ経給ヘリ、敏達天皇御宇十年、野斤沢構ヲ加ヘ、越斧潤飾ヲソヘテ、一堂ヲ建立シテ王子入滅畢、王子暗誦行法御願ノ法咒師是也、国衙ノ祈祷トシテ今ニ絶ヘス、
 其後十八年ノ中秋十八日、空中ノ側ッ鈴音ヲ聞テ、同二十三日、日中ニ長二丈五尺ノ幡、寺ノ庭ニ降下ル、錦繍金玉粧也、懸ル所ノ鈴音スマシク妙也、其銘云、温州金光明会所造云々

 一言で云えば、神功皇后の三韓征伐によって人質として新羅王子が連れてこられ、副将軍男貴尊に預けられた王子は、峯相山に登り、草庵を結び修行する。(数百年の後の)敏達天皇代に伽藍を建立し入滅すると云う「縁起」である。
なお、副将軍男貴尊とは播磨一宮伊和大明神の祭神オホナムチであり、同じく「峯相記」に収められる伊和大明神縁起にも、副将軍男貴尊は皇后に従ったことが記されている。
 ところで、この縁起に示される神功皇后の人物像には一般的なそれとは違う特異な点がある。一つは神功皇后と日本への仏教伝来を結びつけている点であり、もう一つは神功皇后が新羅の襲来を怖れていたと云う 評価である。
 前者については、仏教の日本への伝来は欽明天皇13年(552)とされ、新羅へはその少し前とされる。それ故、神功皇后との仏教伝来を結びつけるのは少々荒唐無稽な話であるが、峯相寺にしては、創建年代の古さに価値があるとし、峯相山こそが日本における仏教の始まりと主張する意図があったのかも知れない。
 後者については、日本書紀を始め中世の「八幡愚童訓」などに見られるように、古代から中世にかけての神功皇后は新羅に完勝し、朝貢を約束させた人物として描かれるのに比して、新羅を怖れるなどとはかなり特異な神功皇后として描かれる。つまり、「峯相記」の峯相山縁起は神功皇后 を中心としているではなく、新羅王子を中心にして記されていると云うこであろう。
2)新羅王子の形成
 ではなぜ「峯相記」は新羅王子を中心として峯相山の創建を語るのか。その意味するところは、峯相山の創建は、少なくとも国内の人物ではなく、王子であったかどうかは別にして、渡来系の氏族であったと云うことの表明なのであろう。それも新羅系の氏族の創建であったと云うことの表明なのであろうと考えらえるのである。
 ところで、その創建譚に登場する新羅王子はどのように形成されたのであろうか。
ここで筆者は、国内に伝承される二人の新羅王子(新羅王の子・徴叱己知波珍干岐とアメノヒボコ)と国外の「高僧列伝」に登場する「高僧」たちを新羅王子の原型として候補に挙げる。
 ※しかし著者の意図は理解できるとしても、その妥当性については、具体的な史料などを欠き、何れの候補も推測の域を出ないものであろう。
3)「外」から来た「新羅」
中世の日本は大陸・朝鮮半島とは正式な外交関係はなかったが、幕府や寺院などは積極的に宋や元と交易を行っていたことが知られる。そういった「外」との関係で播磨は「外」と「畿内」とを結ぶ交通の要衝であった ことは既に述べた通りである。その意味で、古代はもちろん中世にも、播磨には「外」の文化(典籍・仏教など)や物品などが豊富に入っていたことは十分考えられるで ある。中世の播磨においては、「新羅」は今の認識できる「現実」であったと思われるのである。
つまり、峯相山縁起に現れる「新羅」は神功皇后に「征伐」された「内」なる新羅ではなく、中世にもたらされた「外」からの刺激を受けた「外」なる「新羅」感であったのではないだろうか。
   ◆関連項目 → 播磨峯相山


備前國牛頭天王

 ※備前西部及び備中南部には多くの牛頭天王石碑(牛頭天王石・牛頭天王塔)が見かけられる。
しかし、本地地域において、小生は牛頭天王石碑を探しているのではない。本地域では題目石を探訪するのを目的としている。
つまり、その探訪の中で題目石の中に多くの牛頭天王石も見かけるということである。
即ち、出来るだけ、本地域では題目石を網羅したつもりではあるが、牛頭天王石は全容ではないと考えられる。
路傍にはまだまだ埋もれた牛頭天王石があるものと推測される。


備前平井四軒屋筋牛頭天王・地神
下方の倉安川畔から移転される。地神や多くの石塔残欠とともに並べられる。
 →備前上道郡網浜村・湊村・平井村

備前平井牛頭天王碑
街中の路傍に単独である。自然石に南無牛頭天王と彫る。
 → 同上

備前下平井土手町牛頭天王・地神
法華経五角柱地神と牛頭天王碑が並んで建つ。
 → 同上

備前北方法龍寺境内牛頭天王
法龍寺そのものは歴史が浅く、おそらく御野郡北方村祖師堂の石塔類が保存されているものと推定する。
 →備前御野郡北方村

備前中井題目石
推定中井祖師堂跡に題目石などと並んで建つ。
 → 同上

備前松尾祖師堂
牛頭天王石塔(「南無牛頭天王守攸」と彫る)がある。
 →備前津高郡松尾村・大窪村

備前上伊福村栄ヶ崎祖師堂:北区伊島町1丁目
文政7年(1724)年紀の題目石、大覚大僧正、地水両神、牛頭天王の石塔が建つ。
 →備前御野郡上伊福村

備前上伊福村本村題目碑
石塔類の中に牛頭天王石碑が祀られる。
 →備前御野郡上伊福村

備前大安寺狐崎祖師堂跡
石塔などの中に牛頭天王が祀られる。
 →備前御野郡大安寺村

備前北長瀬牛頭天王・地水両神
牛頭天王と地水両神の石碑が祀られる。
 →備前御野郡高柳・野田・北長瀬村・辻村

備前中仙道白髭宮
末社に牛頭天王社がある。但し祭神は保食神という。
 →御野郡今村・上中野村・下中野村・木村・中仙道村・辰巳村・西長瀬村・田中村・平吉村

備前野崎祖師堂跡(推定)
祖師堂跡に牛頭天王が祀られる。
 → 同上

備前木村祖師堂
祖師堂に題目石(牛頭天王)が祀られる。
 → 同上

備前平田祖師堂跡
祖師堂跡に四角柱の牛頭天王が祀られる。
 → 同上

備前新保妙見堂(祖師堂)
妙見堂に角柱(牛頭天王)を安置する。
 →御野郡富田村・新保村・泉田村・西市村・米倉村・万倍村・当新田村・京殿村

備前今保祖師堂跡(推定)
祖師堂跡に牛頭天王碑が祀られる。
 →備前津高郡白石・久米・今保村

備中國牛頭天王

備中庭瀬若宮八幡宮
若宮八幡本殿左に祇園牛頭天王社がある。京都祇園社より分霊を勧請し祀るという。
 →備中庭瀬

中撫川疫神社(撫川牛頭天王、現スサノヲ神社という)
京都祇園社より牛頭天王を勧請するという。

備前中撫川福富公民館題目碑
石塔類の中に牛頭天王石碑が祀られる。
 →備中中撫川

備中平野牛頭天王碑
備中平野に牛頭天王及び地神碑がある。牛頭天王は村からの疫病などの退散を願って建てられたものであろう。
 →備中平野

備中大福祇園社
○「わたしたちの福田」 > 「歩いてみよう ふる里の地」 より
大福祇園社(三社宮)
 大福祇園社(三社宮)は中大福の氏神である。
文化5年(1808)頃この地方に疫病(コレラ)が発生し、これを鎮めるため備後鞆祗園宮(現在は沼名前神社という)から分祀されたものである。
その後アマテラスと八幡大菩薩が合祀され、三社宮とも称される。社僧は妹尾盛隆寺である。
 ※明治の神仏分離の処置で祭神を牛頭天王からスサノオに取り替え、さらに八幡大菩薩を應神天皇に取り替え、国家神道の体裁にする。
2018/12/27撮影:
 大福祇園社神門     大福祇園社拝殿     大福祇園社本殿

備中稲荷中谷日蓮堂
堂前に題目石(牛頭天王)が祀られる。 →備中高松周辺の諸寺

備中原古才日蓮堂
堂内に牛頭天王石が祀られる。      →   同  上

備中浅原牛頭天王
 浅原山鎮守牛頭天王は明治の神仏分離の処置で、安養寺から分離しスサノヲ神社と改号し現存する。
2018/10/30追加:
○「備中誌 窪屋郡巻之五」江戸末期頃の編纂(推定) より
祇園牛頭天王
 本社 2間ニ3間 拝殿 2間半3間 前殿 4間ニ7間 石鳥居
 末社・・・・
 或云、清和定貞観年中天下疫癘の災有りし故に勧請すと云、この時浅原と西坂の間に幣振川と云川有、勧請の神輿を休め奉り幣帛を捧けし處にその幣帛飛びて、浅原山の尾に止まる其地を今幣田といふ。
   (源範頼・・頼朝公・・などの事績は省略)
 別當寺浅原山浅原寺備前仏法破却の有りし時、此の寺も廃せられ寺領若干ありしをも没収せられ、鎮守天王社修理料として高3石を附せられたり
   (以下 省略)
 ※牛頭天王は平安前期に疫癘の災が天下を被った時、此の地に勧請されたという。人々は疫病が流行った時、どうすることもできず、牛頭天王に縋るしかなかかったのである。都でも牛頭天王を勧請したように、地方各地でも、牛頭天王が勧請されたということであろう。
さて、牛頭天王の地位であるが、近世の認識では別當(浅原寺)の支配に属し、寺院(浅原寺)の鎮守という位置付けであったことが分かる。
しかし、寛文6年「備前仏法破却の有りし時」、浅原寺は廃寺となる。
岡山文庫188「倉敷福山と安養寺」前川満 では次のように云う。
 備前藩主池田光政は儒教の仁政を進めた名君と云われているが、寛文5年には一村一社の祭神統合、同6年には神社による宗門改めを強制し、仏教(特に不受不施派と旧仏教)を徹底的に弾圧した。備中の朝原寺は遂に廃寺となり、安養寺は難を逃れたものの西阿知遍照院の末寺に組み入れられた。
毘沙門堂の管理は光政の死後も続いたが、安永5年(1708)安養寺の熱心な陳情が実り、漸く寺へ戻った。
浅原牛頭天王の現状:
同じく、岡山文庫188「倉敷福山と安養寺」 では次のように云う。
 現在はスサノヲ神社という。神社は安養寺の西隣(東北隣が正)にある。
石鳥居をくぐり、新しい石階を上り、拝殿に至り、その奥に幣殿と本殿がつながる。山腹には12の末社が並ぶ。
境内の記念碑(昭和61年建立)には山陽自動車道用地として共有林を1900万円で売却、氏子の寄付を合わせ、拝殿・石階を改修したとある。
神々の場は賑やかだが、平時は人の気配は全くない。


備後國牛頭天王

2014/01追加:
備後江熊祇園牛頭天王社(江熊天王社、江熊祇園社 、戸手祇園社、戸手天王社):江熊<えのくまと訓む>

 江熊天王社は明治の神仏分離の処置で改号され、現在は素戔嗚神社と称する。
しかし、現在も地元では「天王さん」「祇園さん」と呼ばれ、鎮座地の地名も「天王」であり、素戔嗚神社と改号されても、牛頭天王は健在である。
 江熊天王社の社伝によれば、
「本社は天武天皇代(7世紀/679年か)の創建と云い、その後、吉備真備が唐から帰国し、都への途中、天平8年 (736)に備後から牛頭天王を播磨廣峯に勧請する。」と云う。
 さらに、江熊天王社は祇園信仰及び由緒について以下のような解説をなす。
「祇園信仰とは釈迦の修行の地・祇園精舎の守護神である牛頭天王と素戔嗚とを共に祀る信仰である。
仏教の中で最強の力を持つ牛頭天王と日本で最も荒々しい神であるスサノヲを一体化し、より強力な守護神として祇園神としたものである。
この神の絶対なる霊威を以ってすれば、いかなる疫害をも取り除くことができると考えられたのである。
各地の伝承や資料を総合すれば、祇園信仰発祥の地はここ戸手の「疫隈國社」(えのくまのくにつやしろ)であると考えられる。
祇園信仰はここ疫隈國社から播磨明石浦から播磨広峰山へ、広峰から北白川東光寺へ、そして祇園感神院へと伝播していったのは明らかである。」と。
 上の解説で云う各地の伝承や資料とは必ずしも明確ではないが、以下のものが知られる。
「備後国風土記 逸文」奈良期(「釈日本紀」巻7に引用される)にある「蘇民将来」説話に「疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)」とあるが、これが本社のことを指すと云う。
また「延喜式神名帳」にある「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」とは本社のことを指すと云う。
さらに
「二十二社註式」(室町期・文明年中/1469頃)では「牛頭天王、始め播磨国明石浦に垂迹、同国廣峯に遷り、その後北白川東光寺に遷り、元慶年中(877-85)に感神院に遷る」と云う。
  →二十二社註式/祇園社
 また、近世に入ると多くの地誌が作成され、備後の三祇園(鞆祇園社・江熊天王社・小童祇園社)こそ蘇民将来伝説に基づく最も古い祇園社であると主張されるようになる。例えば、1680年代成立の「あくた川のまき」はその早い例である。その他、江戸後期成立の「西備名区」や「福山志料」などではスサノヲと備後との結びつきが強調され、その主張には独善も多くあったにせよ、広く祇園社とスサノヲとの関係が流布するに至る。
 ※鞆祇園社:山城祇園社の本社とも云う。明治元年鞆祇園宮を素盞鳴神社と改称、明治4年さらに沼名前神社と改称。
 ※小童祇園社:備後國甲奴郡小童(ひち)に鎮座。現在は須佐神社と称する。近世には真言宗亀甲山感神院本願坊神宮密寺と号する神宮寺の存在が知られる。神宮寺は慶応2年火災焼失、明治の神仏分離の処置で廃寺となる。ただし、宮司宅は神宮寺の遺構と云う。
○2014/01/01撮影:
・江熊祇園社現況
 戸手牛頭天王随身門:門前に国家神道の石柱を今に残す。国家犯罪証明として後世に残すべきものであろう。
 戸手牛頭天王舞殿     戸手牛頭天王拝殿     戸手牛頭天王社殿1     戸手牛頭天王社殿2     戸手牛頭天王本殿
  ※本殿は入母屋造檜皮葺。備後福山藩初代藩主水野勝成の再建と伝える。
・江熊祇園社蘇民社:
備後の國の風土記(逸文)に曰く、「疫隈の國社。昔北海に坐します武塔神……南の海の神の女子(むすめ)によばい(求婚)に出てまししに日暮れぬ。その所に将来二人ありき。
兄の蘇民将来、甚く貧しく、弟の巨旦将来、富て屋倉一百ありき。ここに武塔神、宿りを借り玉ふに、惜しみて貸しまつらず、兄の蘇民将来は貸し奉りき。
 後に年経て、八柱の子(みこ)を率いて還り来て詔(の)りたまわく「我、将に之を奉りて報いせんとす……」
その夜、蘇民とその娘一人を置きて、殺し滅ぼしけり・・・
 即(そのとき)、詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまいき。
  →「備後風土記」逸文
 ※武塔神(牛頭天王/スサノヲ)に、貧すれど一夜の宿を提供した蘇民将来の一族には「茅の輪」を授けて疫病から守り、富んではいるが宿請いを拒絶した巨旦将来の一族は疫病に滅ぶという逸話である。要するに、本社は蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地であるとする。
なお、本社の敷地は疫病で滅んだ弟将来(巨旦将来)の屋敷跡とも伝承する。
 牛頭天王蘇民社・疱瘡神:向かって左の座が蘇民社である。
2018/04/12追加:
「牛頭天王と蘇民将来伝説の真相」 より
※牛頭天王縁起や祭文については多くのものが伝えられる。
登場人物については、蘇民将来を除いて、様々な「ゆれ」がある。
牛頭天王は牛頭天皇、巨旦将来は巨丹将来、小丹将来、古丹長者、小丹長者、古端長者 など
※「備後國風土記」になぜ突如スサノヲ(「吾は速須佐雄の神なり」)が出現するのか。
それは「釈日本紀」を編纂した卜部兼方が恣意的に付加したのではないかと推測される。(第1部、第1章、4、(3))
・江熊祇園社神宮寺:
成立した時期は不明であるが、本社には真言宗早苗山天竜院天王寺と号する神宮寺の存在が知られる。江熊牛頭天王の本地は薬師如来ではなく聖観音とされ、本地堂に脇侍不動明王・毘沙門天とともに祀られる。
本寺は明治維新まで存続するも、明治の神仏分離の処置で僧侶は還俗し神職となり、江熊祇園牛頭天王社早苗山天王寺は廃絶する。
ただし、本地堂は明治の神仏分離の時、須弥壇などを撤去し神坐を設け、天満宮として現存する。
 ※本地堂は延享5年(1748)の再建、平成10年屋根葺替。
 ※安置仏は周辺の真言寺院に散逸するも、本尊聖観世音菩薩は福山市内の某真言寺院に現存すると云う。
 戸手牛頭天王本地堂1     戸手牛頭天王本地堂2     戸手牛頭天王本地堂3
 戸手牛頭天王本地堂4     戸手牛頭天王本地堂5     戸手牛頭天王本地堂6
建築としては特に優れた仏堂ではないが、本地堂の遺構として賞賛すべき建造物である。
・相方城移築の城門 (北門)
相方城は戦国期の城で天王社の南西にある城山にあると云う。城門2棟と櫓が移築されたと云う。ただし、櫓は1970年代の火災で焼失する。
城門は現存する訳であるが、戦国期の山城の城門としては最古級と云う。
 東の北門1     東の北門2     東の北門3       西の北門1     西の北門2

備後鞆祇園社

 鞆祇園社は復古神道に弄ばれ、現在は悲惨な状態となる。
社号は沼名前神社と改称され、主祭神が大綿津見命(元来は末社渡守社祭神)で相殿にスサノウ(元来は鞆祇園社の祭神で牛頭天王)が祀られるといい、さらに沼名前神社では鞆祇園社の由緒は分からないなどと云うようである。これは「しらじらしい」を「地で行く」ということであろう。
 各種情報を総合すれば、鞆祇園社は次のような経緯を経たようである。

鞆祇園社は天長年中(824年-834)の創建とも、保元年中(1156年-1159)の勧請によるとも伝えられる。
元は鞆の関町にあったが、慶長4年(1599)火災焼失し、現在地に遷座したという。
 ※「備後国風土記」逸文にある「疫隅国社」であるという説も存在する。
 ※何れにせよ、牛頭天王が日本に渡来した時、最初の上陸地(鎮座地)がここ鞆祇園社の可能性もあり、あるいは、最初の鎮座地が戸手の「疫隈國社」(えのくまのくにつやしろ)<現在の備後江熊天王社>であったとしても、江熊天王社から牛頭天王が播磨廣峰山へそして最終的に山城祇園社に遷座していく過程の最初の遷座地が鞆祇園社であったのとも考えられるのである。
 さて、江戸期には境内社に渡守(わたす)社があったということであるが、社伝では渡守社は神功皇后が西国に下向の際、鞆に綿津見命を祀ったことが創始という。
 一方、「延喜式神名帳」では備後国沼隈郡に「沼名前神社」の記載があるも、例によって、その後この式内社は所在不明という。所在不明というより祭祀が絶え、廃絶したのであろう。
 そもそも、渡守社は猿田彦や船魂命(船玉命)を祭神としていたといい、元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれる。
詰まるところ、式内社「「沼名前神社」とは何の関係性もなということである。
伝えるところによれば、慶長年中(1596-1615)に鞆祇園社の境内社として現在地に遷座したという。そして明暦年中(1655-58)には、藩主水野勝貞によって社殿が再建されるという。
 さて、いよいよ復古神道が跋扈する出番である。
近世の国学や復古神道の考証では式内社「沼名前神社」は鞆祇園社末社・渡守社とされる。適当な神社が無いので、末社渡守社に目を付けたということであろう。そもそも、式内社「沼名前神社」が鞆にあるかかどうかも定かではないのである。
 幕末から近代初頭にはお決まりの強引な神社破壊が行われる。
それは次の通りである。
明治元年、鞆祇園社は「素盞鳴神社」と改称する。
明治4年、上記の素盞鳴神社をもって式内社とし、「沼名前神社」と改称、国家神道の国幣小社に列格される。
明治8年、渡守社をして式内社とする。
 ※これは牛頭天王一歩譲ってスサノオオでは国家神道の祭神には相応しくないということであろう。
明治9年、渡守社の祭神を本殿に奉斎、祇園神は相殿に改める。渡守社祭神の船玉命は、大綿津見命と改められる。
 ※要するに、牛頭天王に繫がるスサノオでは式内社に不釣合、船玉とは良く分からないがオオワタツミが式内社の祭神に相応しいということであろう。
 つまりは、国家神道の格付けもご都合主義ということである。復古神道の式内社の指定も無理やりということである。
はからずも、渡守社は「どこの馬の骨か分からない社」ということを露呈したということであろう。
能舞台:重文
桃山期。舞台の構造は桁行一間(5.45m)、梁間一間(5.33m)、一重、切妻造、妻入、柿葺。組立式の舞台である。
元は伏見城内にあった。福山藩初代藩主水野勝成が徳川秀忠から拝領し、福山城内に移設する。
万治年中(1658-60)水野勝貞が祇園社に寄進する。但し、現在舞台に付属する橋掛り・楽屋等は当時の建物ではないという。
2019/03/17撮影:
 鞆祇園社社頭:いまだに國弊小社と分かる社標が建つ。境内には牛頭天王を偲ぶものは皆無であるが、唯一社頭の店舗が「祇園堂」と称するのは「國弊小社沼名前神社」への「当てつけ」と思いたくもなるが、そのような事はないだろう。
 鞆祇園社神門     鞆祇園社拝殿     鞆祇園社本社     鞆祇園社社務所     鞆祇園社よりの展望
 鞆祇園社能舞台1     鞆祇園社能舞台2     鞆祇園社能舞台3


■■全国各地の蘇民将来符一覧

出典:「蘇民将来符−その信仰と伝承−」上田市立信濃国分寺資料館、第4版、平成27年
    その他、各種Webサイト情報

  寺社・場所 材質・形状 字・図柄 祭日、配布 備考
1 陸奥岩木山神社
青森県弘前市
柳の木、六角形/長さ3cm 径約6mm/紙 九九八十一蘇民将来子孫門☆/一十八九九 正月 柱状のものは中心に穴をあけ、紙よりを通し、その下端に五色の糸を垂らす。紙の札も出している。
  夏に「夏越しの大祓式」(茅輪くぐり)が行われ、「蘇民将来符」が配布される。
○「蘇民将来符」信濃国分寺資料館、昭和64年 では
柳材を使った末広がりの六角形で、長さ約3cm・径約6mmを測り、上部に赤と青で文様を描き、下部の各面に一字ずつ右回りで「蘇民将来子孫」と記している。柱状の中心に上下に穴をあけ、ここに紙よりを通し、その下端に五色の糸を垂らしている。
また、上記の木製柱状の護符のほかに、紙の札も出されている。「○蘇民将来子孫門☆」の版木で刷られた文字であるが、この文字の中央両サイドにそれぞれ「九九八十一」と逆に「九九八十一」の数字がやはり縦に刷られている。どのような意味があるのか不明である。
◇岩木山神社は青森県弘前市百沢岩木山の南東麓に所在する。
創建については諸説がある。
延暦19年(800)岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内に下居宮(麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされる。
寛治5年(1091)神宣により、下居宮を十腰内ら岩木山東南麓の百沢に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称す。また岩木山山頂に阿弥陀・薬師・観音の三堂が建立され、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称する。
天正17年(1589)岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼する。
慶長8年(1603)津軽為信により再建が始められ、その後も信牧・信義・信政らの寄進により再建が続けられる。本殿、奥門、それに続く瑞垣は、下居宮と称され、津軽藩の総鎮守とされる。
明治の神仏分離の措置により、百沢寺は廃寺、岩木山神社とされる。
楼門、拝殿、岩木山神社4棟(本殿、奥殿、瑞垣、中門)は重文指定である。

2 陸奥水沢黒石寺
岩手県水沢市黒石町山内
ヌルデの木/六角形三寸 蘇民将来子孫門戸☆ 旧暦1月7日1月8日 蘇民曳きともいう。蘇民将来の小さいこまぎを数多く袋に入れた蘇民袋を裸の若者が争奪。千年の伝統と伝える。
  寺のサイト>略縁起では
「行基菩薩開山、慈覚大師中興の古刹
天平元年(729)行基菩薩の開山で、東光山薬師寺と称するが、延暦年中の蝦夷征伐の戦火にあい寺は焼失する。
大同2年(807)飛騨の工匠が方七間の薬師堂を再建し、嘉祥2年(849)3代天台座主慈覚大師円仁が復興し妙見山黒石寺と改名する。
盛時には、伽藍48宇を数えたという。
弘長元年(1261)野火、天正18年(1590)兵火、天保11年(1840)祭火、明治14年(1881)と火災焼亡、現在の本堂と庫裏は、明治17年(1884)に再建されたものである。
本尊は、薬師如来坐像で、胎内に貞観四年(862)の造像銘がある。」
 ※もとは修験の寺であり、二宮明神(胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社に付会)の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。
「黒石寺蘇民祭」は、東北地方への蘇民信仰の伝播を伺わせる祭りで、古代の姿を今に伝える貴重な民族的遺産である。
蘇民祭は毎年旧暦正月7日から翌早暁に行われ、その中の一コマとして、蘇民袋争奪戦が行われる。
争奪戦はヌルデの木で作った長さ3センチ位の六角柱の小間木(こまぎ)[=蘇民将来護符]五升がぎっしりつまった蘇民袋を裸の若者たちが奪い合う。
開始後まもなく袋に刀が入れられ中の小間木がとび散るが、この小間木を持っている者は、厄災をまぬがれるといわれ、競って手に入れようとする。
黒石寺六角柱蘇民将来符
○「蘇民将来符」信濃国分寺資料館、昭和64年 では
「蘇民曳きともいう。蘇民将来の小さいこまぎを数多く袋に入れた蘇民袋を裸の若者が争奪。千年の伝統と伝える。」
「この護符は従来なかったものであるが、先代の信濃国分寺住職と黒石寺住職が師弟関係であったことから、昭和末年ころ信濃国分寺に倣って新たに作られたものである。」という。
なお、『備後風土記』の逸文でいう武塔神・須佐之男命・牛頭天王・薬師如来は同一神仏とする。
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 黒石寺六角柱蘇民将来符

3 毛越寺
岩手県平泉町
木/ 六角形 蘇民将来子孫門戸也 旧暦の1月20日 明治15年に黒石寺より伝わる
五穀の名を書いてある麻の袋に蘇民将来と書いてある。摩多羅神の祭という。
蘇民宿とよばれる頭屋からこの麻袋に入った蘇民将来を出す。
裸の若者が奪い合ったが、現在は行われていない。現在は作られていない.
4 長徳寺
岩手県東磐井郡藤沢町
木 六角形 大福長者蘇民将来子孫人也 1月20日  
5 四王神社
岩手県花巻市胡
木製板状の小木片/2.5cm×2cm 蘇民将来 1月2日 蘇民将来の小さい護符を袋に入れて、裸の若者が争奪する。護符の表に12支の名、裏に「蘇民将来」の文字が焼印ではいる。
6 陸奥国分寺薬師堂
宮城県仙台市国分寺木下
木山桐、八角形で頭を八角形に尖らせ頭と腰とを朱・黒・緑で彩色。/約一寸五分。 種字:アビラウンケン
仮名:ソミンソーライ
ソミンジョウライ*
ソミンシャウライオンヤト
1月7日 芯の通った木を用いて中心に穴があけられ、赤い総を下げてある。昔は薬師堂から受けて疱瘡前の小児らが肩の上に下げておいた。修正会に薬師堂から出され、七日堂とも言われている。
  七日堂・修正会
江戸期には、前年末日から続く修正会の最後の締めくくりとして、1月7日夜に一般に本尊を開帳した。これを「七日堂」と呼び、人出が多い盛んな祭りであった。
色々な行事・催事が行われるが、この日に蘇民将来の厄除け札を配られる。六角にした小さな木の塔の各面に、「大福」「長者」「蘇民」「将来」「子孫」「人也」と書いたものであったが、後には「ソミンソーライ」と書いた八角形の木の札に変わったという。
なお、現在では2月11日に七日堂修正会が開かれるという。
なお、次のような情報もある。
 「蘇民将来符は、昔は全国の寺院で頒布されていたが、明治以後廃れていく。
今日でも蘇民将来符を頒布している寺社がわずかながら残るが、西日本では「大福長者蘇民将来子孫之家」と書かれた紙札型が多く流布し、東日本では六角形または八角形の木柱型が多いという。
 陸奥國分寺の蘇民将来符は高さ一寸ばかりの八角柱状で、頭部の各面に一文字ずつ「ソミンソウライ」と書き付けられている。」
 →陸奥国分寺

7 箆岳観音堂
宮城県遠田郡涌谷町
木製五角形/ 高さ3cm 径1cm/軸の部分に紙のこよりを通す 梵字ソ民将来子孫門戸也   大正中期頃まで祭りの際に出された。疱瘡厄除けの護符として子供が腰に下げた。
8 笠島道祖神社
宮城県名取郡
木製八角形/長さ4.9cm 径2cm/赤・青で彩色 「ソミンショウライ」/1字ずつ左回りに書かれる。   中心に穴があけられて白いビニール状のヒモが通されている。以前は白木作り、円筒形、キャップ付きのもの。
9 秋田県仙北郡北浦の庄源太寺 蘇民将来子孫門戸   紙に押したものを「源太寺蘇民将来」と呼びながら修験者が配って歩く。これを戸外に貼る。
10 笹野観音堂
山形県米沢市笹野
柳の木、八角形で腰が三段に刻まれている。/五色の彩色がある。 蘇民将来之子孫也/頭頂に黒の線書きをした赤色の☆印 旧12月17日/現1月17日 頭は隅をとっただけであり、頭頂にヒモを通したような穴の跡を描いている。笹野彫の一つとして売り出されている。
11 妙音寺
群馬県高崎市
(梵字)蘇民将来之子孫門也    
11-1 田出宇賀神社
福島県南会津郡南会津町田島
木製板状/94×14.8cm 「蘇民将来子孫家門内」と記した左右に「七難九約即滅」「七福九徳即生」と記す。 正月 門口に掲げる。疫病災厄を免れる。
  南会津郡南会津町田島にある。
田手宇賀神社蘇民将来符
○「蘇民将来符」信濃国分寺資料館、昭和64年 では
板状で「蘇民将来子孫家門内」と記した左右に「七難九約即滅」「七福九徳即生」と呪句が記される。
 ※田島祇園祭で配布されるものと思われる。(推定)
田出宇賀大明神の創建時期は不明、一面の田圃の中に土盛があり、そこから泉が湧出、その泉から田ノ神が出現する。やがて、田ノ神と同神とされる「宇迦之御魂命」が祀られる。
南北朝時代に長沼氏がこの地を領有、長沼氏の守護神である牛頭天王を勧請合祀する。
その後も、歴代会津藩主から庇護を受ける。祭神が牛頭天王である故、京都祇園社に倣い、祇園祭(田島祇園祭)が行事として定着する。(毎年、7月22〜24日に実施)
なお、同一境内に熊野社が同居する。鳥居・拝殿は宇賀神社と兼用する(一棟の拝殿奥の2棟の本殿が並んで建つ)が、本殿・社務所は各々の建物を持つ。
熊野社はその名の通り、熊野権現が勧請されたもので、中世長沼氏により「宮本熊野本宮三社」として勧請されたものと思われる。
近世初頭、田島牛頭天王社に合祀と思われる。
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 田手宇賀神社蘇民将来符

  常陸大杉大明神
稲敷市阿波市
      ○「信濃国分寺資料館」展示説明板 では
「神護景雲元年(767)創建と伝える。
江戸期以降は疱瘡除けや水上交通の神として、関東一円や東北地方の太平洋岸に信仰が広まる。
この神社では紙製と木製八角柱の護符が配布される。」とある。
  ○神社のサイトでは確かに「蘇民将来御札」を販売している。
 社歴寺歴については、よく分からないが、同じく神社のサイトでは次のように云う。(要約)
稲敷市阿波の大杉神社は、全国に670社ほどある大杉神社の総本宮である。
 ※「現代・神社の信仰分布」2007 で「大杉神社」の神社数は37と集計、北関東メインで東北・北陸に分布する。
大杉神社の鎮座する場所は、『常陸風土記』に「安婆嶋」として登場する。
この一帯はかつて菟上之国(うなかみのくに)という霞ヶ浦東岸域と東総域を治めていた小国の一部であったと伝える。
菟上国は海上国とも表記されるように常総内湾の交易、産物を中心として成立した小国であったと思われるが、こうしたことからか常総内湾においてランドマークの役割をはたす大杉神社の巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、人々の交通標識の役割を十二分に発揮していたと考えられる。
後に内湾の西にあった茨城国に支配されるまでは菟上国のもっとも重要な神社であり、菟上国造の祀る神社のひとつであった。
その後北方の仲国から南下してきた一族が鹿嶋、香取の両神社を築き、東岸域を支配するとその交易権や、支配権は移譲されたものの、一般民衆の間では依然として海河守護の神様としての信仰は温存されつづけられてきた。
 神護景雲元年(767)大和国を旅立った勝道上人(※日光山開山)は、下野国二荒山をめざすが、途中大杉神社に着くと、そこには病苦にあえぐ民衆がおり、それを救うべく勝道上人は巨杉に祈念し、巨杉の梢に大和三輪明神が飛び移り、病魔を退散せしめたという。やがて「あんばさま」は、「大杉大明神」と呼称されるようになる。
 延暦24年(805)「あんばさま」の一角に安穏寺が開基され、以降大杉神社は安穏寺が別当を勤める。
 ※逆に安穏寺に大杉明神が勧請されたという見解もある。
江戸初頭には、天海(慈眼大師)は大杉大権現の勧請によって、旱魃に苦しむ関東一円に雨を降らせるという奇跡を起こすという。
天海は後に上野寛永寺や日光輪王寺の山主となり、安穏寺の住職も兼帯する。以降安穏寺は、上野寛永寺や日光輪王寺と同様に明治維新まで輪王寺宮の兼帯するところとなる。
家康の江戸入府以降、それまで東京湾に注いでいた利根川の河川改修により、銚子へと流路を替えた利根川は、水郷流域と江戸を結ぶ河川として流域は急激な発展を遂げる。
これにともない海河の守護神として、大杉大明神もまた急速な信仰域の拡大を遂げることとなる。
それまでの信仰圏であった常総内海域にとどまらず、鬼怒川、小貝川をはじめ、これらに注ぐ多くの川の流域や、各河岸に通じる街道周辺にも拡大していき、さらには、太平洋岸から日本海へと信仰が拡がり、また千葉、東京を経て静岡にいたる太平洋岸の地域など、かなり広範な地域に信仰がもたらされたといわれる。
明治の神仏分離で、安穏寺を廃して社務所とする。
明治11年安穏寺再興する。
 ※現在、牛頭天王に繋がるような祭神は境内社にも見当たらず、牛頭天王と大杉大明神との関係は不明である。
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 常陸大杉大明神蘇民将来符

12 下総円福寺(飯沼観音)
千葉県銚子市
板(槙、椎)/長さ19.9cm 厚さ6mm 蘇民将来子孫之門也 12月中 明治以前から行われ、12月中に「家内安全」などの札とともに檀家へ配布。家の入口の上に揚げ、正月悪疫神が入らないようにする。
  ○「蘇民将来符」信濃国分寺資料館、昭和64年 では
長さ19.9cm・幅3cm・厚さ6mmをもつもので、正面に縦に「(梵字)蘇民将来子孫之門也」と書かれている。
明治以前から行われ、12月中に「家内安全」などの札とともに檀家へ配布。家の入口の上に揚げ、正月悪疫神が入らないようにする。
下総円福寺蘇民将来符
 ※残念ながら、下総円福寺と牛頭天王との接点は、Webでも情報がなく、全く分からない。但し護符の授与は行われているようである。
2021年正月に蘇民将来符の授与を受けるとの記事の掲載があるので、配布していると思われる。
 →下総円福寺(飯沼観音)
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 下総円福寺蘇民将来符

13 醫王山薬寿院八王子(竹寺)
埼玉県飯能市
木(水木)/六角形/紙/25.5×3.2cm 蘇民将来子孫長久門戸祈処/蘇民将来子孫門戸也   薬師信仰の寺で、本堂に「牛頭天王」の扁額がかかげてある。参詣者に三種類の木製の護符を頒布している。明治以前の札を刷った版木を保存している。
14 武蔵国北多摩郡神代村   蘇民将来村内安全祈願    
15 多武峯神社
武蔵国比企郡平林
  蘇民将来之子孫也    
16 新潟県古志・三島蒲原地方 木 たろうの木/3cm四方位に切り、上下に糸を通す/紙 蘇民将来之子孫也/蘇民将来子孫也、門戸也 正月 男子は白、女子は五色の総を糸の下につける。上の糸は子供の衣の背縫の通りに縫いつけて着せる。門戸に貼る。
17 新潟県桑取村横畑 蘇民将来子孫也 正月7日 村人たちがお宮にこもって版木で刷る。七日の朝神前に供えて祝詞をあげ家々に持ち帰って門口に貼る。
18 極楽山安養寺
新潟県
紙 5×25.5cm 蘇民将来子孫之家也☆ 正月5、6日 寺より配布され門口の見えるところに貼る。
19 如意山西蔵院
新潟県
紙 5.5×31cm 蘇民将来子孫門戸也/梵字薬師如来の種子 正月5、6日 上記に同じ。
20 大悲山弘誓寺
新潟県
紙 5.5×23.5cm 蘇民将来子孫門戸也/梵字不動明王 正月5、6日 上記に同じ。
21 天満山竜徳寺
新潟県
紙 6×21cm 蘇民将来子孫門戸也/梵字不動明王 正月5・6日 寺より配布され門口の見えるところにはる。
22 最明寺
新潟県岩船町
(梵字)蘇民将来子孫也☆/七行並べて書く 正月3ヶ日 現在は五行に書かれているが、昔は七行同じように書かれていた。物資不足でけずったという。岩の船の話に蘇民将来伝説がある。
23 新潟県佐渡郡羽茂町大崎 蘇民将来子孫 春真言 初午 真言を繰る。記帳し百万遍になると大崎の宮本坊から来てもらい、祈祷してもらう。三・四年はかかる。マタ仏は堂に納め札は家に持ち帰って梁に打ち付けておく。
夢多難鬼 阿去尼鬼 半夏生 地蔵祭
阿去郡鬼 波羅尼鬼 二百十日 秋葉さん
阿毘夢鬼 波提利鬼 虫供養
24 山野神社
新潟県胎内市
紙/16.5×36.5cm/23×35cm (梵字)蘇民将来子孫也十二行並ぶ 正月7日 神官片野家、近郷の信者に配布する。ソデマモリと呼ぶところがある。そのまま貼る家と一枚ずつ切って月毎に貼る家がある。
25 山野神社
新潟県胎内市
(梵字)蘇民将来之子孫也☆   神官片野家に版木はあるが現在配布はしていない。
26 新潟県佐渡郡 紙 28×6.5cm 武荒木大神   信者の希望があれば出す。
27 牛尾神社
新潟県新穂村
  蘇民将来之子孫也    
28 常楽寺
新潟県両津市
紙24×4cm (梵字)蘇民将来子孫家也☆ 正月の札 12月31日までに入り口に貼り新年を迎える。文殊院と観音寺でも同様の札を配布している。
29 円明寺
新潟県三島郡出雲崎町
(梵字)蘇民将来子孫之家☆ 元旦 檀家が寺へ年始に行けばご祈祷した札が寺から出される。
30 新潟県佐渡郡赤泊村川茂       上古代の国防踊であった蘇民踊があり、おけさ踊の前身だという。
31 平等寺
新潟県津川岩谷
(梵字)蘇民将来之子孫也☆/左と同じもの十二行    
32 天王社
新潟県新発田
蘇民将来子孫也    
33 信濃国分寺
長野県上田市国分
柳の木六角形/上部と下部アミと称する図柄/柳の木六角形/七福神など。 大福、長者、蘇民、将来、子孫、人也を墨と朱で二字宛書き分ける上記の文字と七福神の絵柄 正月7、8日 ケシといわれる全長1cmほどの護符から高さ27cmのものまで現在9種類ある。寺で出す護符。
正月8日 八日の朝だけ頒布されている。在家で出す護符。
  信濃国分寺は天平13年国分寺建立の詔勅により、毎年8日に鎮護国家の金光明最勝王経の転読が行われることから八日堂と呼ばれるようになる。
歳の初めの1月8日の縁日は多くの参拝者が訪れ、参拝者には「蘇民将来符」が配布される。求められた「蘇民将来符」は除災招福を願って各家庭に飾られる。
 →信濃国分寺中の◆信濃国分寺・八日堂蘇民将来符を参照
34 佐久妙楽寺
長野県佐久市
板(檜・杉)/長さ16cm 厚さ5mm 蘇民将来子孫之門也☆ 正月8日 古くから板状の護符を出していた。本堂に並べ五穀豊穣を祈る行事がある。
  佐久市下塚原
○「蘇民将来符」信濃国分寺資料館、昭和64年 では
妙楽寺(長野県佐久市)で頒布しているものは、頭部が台形に切った板状護符で、長さ16cm・上幅2.5cm・下幅1.5cm・厚さ5mmを測るものである。文字は正面に縦字で「(梵字)蘇民将来子孫之門也☆」が書かれている。
佐久妙楽寺蘇民将来符
なお、次のようま情報もある。
妙楽寺の参道入り口の木柱に「佐久の蘇民寺」と書いてある。
しかも(毎年1月8日には蘇民将来を祈願する法要を千年以上執り行っている。)の記述には驚かされる。
また、妙楽寺は定額寺と称するようであるが、
「御代田町誌 歴史編 上」御代田町誌編纂委員会、1998 では次の評価をする。
「妙 楽 寺
『日本三代実録』の貞観8年(866)年の記事にはつぎのような記載がある。
「信濃国伊奈郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺をもって、ならびに定額寺に預からしむ」
・・・
定額寺となった佐久郡妙楽寺はどこに存在していたのだろうか。現在、佐久市塚原に妙楽寺という同名の寺が存在しているが、この寺の起源がどこまでたどれるのかは定かではない。
いっぼう、佐久市長上呂では布目瓦を出上した場所がある。また同長土呂の古田工業敷地からは七世紀末の川原寺式の瓦が出土した。
この瓦は軒丸瓦とよばれ、660年に創建された大和川原寺の様式をもつもので、「複弁八弁蓮華文」という花びら状のモチーフで飾られている。こうした古い瓦は、それを使用した占い寺院の存在を物語っており、この周辺に佐久郡妙楽寺が置かれたとみることもできる。」
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 佐久妙楽寺蘇民将来符

34-1 信濃新海大明神(新海三社神社)
長野県佐久市
板(サワラ) 蘇民将来之子孫也   社殿裏山のサワラの木を用いる。
  残念ながら、牛頭天王との関係性は情報が皆無で、不明。
ただ、六月末日(日):大祓式(茅の輪神事)とある。
「【夏越しの大祓】:お供えの日本酒や蘇民将来の護符が当たる籤引きがあったり・・」
「茅の輪は、【水無月の夏越しの祓えする人は 千歳の命 のぶというなりー】と唄を唱えてから、蘇民将来と言いながら、神主様の後に続いて左右左と3回茅の輪をくぐる。」
という。
「信濃国分寺資料館」の展示案内板には「社殿裏山のサワラの木を用いて制作され、「蘇民将来子孫門也」と記される。」とある。
 →信濃新海大明神
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 新海大明神蘇民将来符

35 洲崎牛頭天王(州崎神社)
愛知県名古屋市中区
檜材板状の長方形/その頭を三角形の板碑状に刻む/長さ21.2cm 厚さ1cm/幅5.8〜6.6cm 蘇民将来子孫繁栄/この文字の下方に「門」の字を大きくあしらう。 以前は節分の時に配布 江戸時代の文化年間に配布されている事が古文書に記されている。家の門口にお札を吊り、悪疫神が入らないようにした。
  明治維新前は「牛頭天王」あるいは「広井天王」と称されていた。
江戸期には洲崎の天王祭は東照宮時代祭と並ぶ2大祭であったという。
貞観年中(860年)の創建で、洲崎に鎮座、当時は広大な境内を構えるというも、堀川の掘削などもあり、現在は境内も縮小され、市中に埋もれるよういあいてある。
現在も蘇民将来符の授与が行われているようである。
○「蘇民将来符」信濃国分寺資料館、昭和64年 では
「長さ21.2cm・上幅6.6cm・下幅5.8cm・厚さ1cmの三角頭形式の護符が頒布されている。『蘇民将来子孫繁栄』と縦書きされ、この文字の下方に「門」の字を大きくあしらっている。また、文字の両サイドに赤色の線書きの装飾をわずかに施している。」
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 洲崎牛頭天王蘇民将来符

36 尾張津島のもの 蘇民将来子孫人也    
37 津島神社
愛知県津島市
木製六角形/高さ7.5cm 蘇民将来子孫人也   信濃国分寺の護符に良く似ているが、蘇民将来の文字が右回りで横一列に並んでいる。
38
三河の吉田領 蘇民将来子孫家門(または子孫門)   陰陽師などがこの札を持って来てくれたのがたまにある。門口に貼るか、神棚に置く。
39 加木牛頭天王(松下社)
三重県度会郡二見町松下
板/17×10cm 中央蘇民将来子孫家門/右に七福即生、左に七難即滅 12月16日頒布始祭 のれん注連の中央に付け一年を通じて門口に飾られている。悪疫退散、厄除開運、家内安全等の守護札とされる。
  創建の時期とか由来とかは不詳。
要するによく分からないが、牛頭天王社であったことだけが確かである。
因みに、現在の祭神は須佐之男命・菅原道真・不詳一座という。また、かっては加木牛頭天王と呼ばれたという。
さらに、この地では「蘇民将来子孫家門」の木札のついたしめ縄を1年中玄関に飾る風習があるともいう。
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 加木牛頭天王蘇民将来符:松下社

40 伊勢宇治山田市 板 平板/三角頭護符の形式板/20×10×2cm 蘇民将来子孫門戸
蘇民守鎮疫神の守
右に七福即生
中央は蘇民将来子孫家門
左に七難即滅
正月のしめ縄 ・宇治山田市、二見町、志摩全戸が、鳥羽市その他では商家だけというところが多い。
・しめ縄は一年を通じて張ってある。横側へ鋸目を入れ、糸でしめ縄にくくりつけ大戸口と神棚へかける。普通の家でかざるのは半分ぐらいである。上部に穴をあけて糸を通してつるす。家で作るか歳の市で購入する。昔は晴明森の天王社から出した。
41 志摩地方南勢町   蘇民将来子孫家門   蘇民札のことをシメの札という。片面には「久々めりん(九字)」と書き反面に☆を書く。
42 近江信楽の刺萩峰村
赤、白、黄、青の紙をこまかく裂いて垂らす。その軸は麻がらで上にヒモがついている。
麻がらの軸のところをソミショウライという 1月5日 チヤヤと呼ぶ。この日はオコナヒの日で寺僧の祈祷があり、ムラ人はこのチヤヤを持って行き祈祷してもらい、持ち帰って小児の守り袋のヒモにつける。
  山城紫野今宮社        
  元来は疫(えやみ)神という、正暦五年(994)六月廿七日、船岡の山上にまつりけるを、告夢ありて長保二年(1000)五月九日此所にうつして、今宮とあがめらる。
今は牛頭天王を勧請して二座なり。
という。
現在は牛頭天王をほかし、スサノヲも祭神とする。
現在も蘇民将来符を授与する。
細長の赤紙に「蘇民将来子孫也」と記した護符と「やすらい人形」(「信濃国分寺資料館」展示説明板)と呼ばれる、護符を人形形に設えた護符がある。
 →山城紫野今宮社

43 祇園社・祇園感神院
京都東山区八坂神社
木 八角形
長さ7.8cm 直径5cm
蘇民将来之子孫也   胴部は三角状の文様が施され、それが朱と緑に塗り分けられている。中心に穴がとおり、麻ヒモがとおしてあって、吊り下げるようになっている。
粽状
長さ35cm
蘇民将来之子孫也 「祗園祭の粽」と称される護符。長刀鉾〔山車)から投げられるため「長刀鉾の粽」ともよばれる。門口に吊るして厄難消除を祈る。
  祇園感神院「厄除け粽」:粽は祇園祭の際、各鉾の上から投げられる。
四条傘鉾「厄除け粽」:四条傘鉾は1987年117年振りに復活し、「厄除け粽」もつくられている。
 →祇園社・祇園感神院
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 祇園感神院「厄除け粽」:粽は祇園祭の際、各鉾の上から投げられる。
 四条傘鉾「厄除け粽」:四条傘鉾は1987年117年振りに復活し、「厄除け粽」もつくられている。

44 祗園神社
神戸市平野
6角柱/長さ8cm 径2.5cm 蘇民将来子孫人也家門繁栄   蘇民御守として頒布されている。信濃国分寺の護符と似ているが、頸部の切り込みの角度や頭部の尖がり具合が異なる
  ○平野祇園神社のサイト より(要約)
《祭神》:すさのお・櫛稲田姫 ※というから本来は牛頭天王と頗梨采女が祭神であろう。
《由来》:平安末期、都では疫病が流行り、災害が多発する。これらの原因は御霊の祟りと考えられていた。
そこで卜占の結果、広峰社の牛頭天王を都に勧請する。それが今の祇園感神院の前身・京都北白川の東光寺であり、貞観11年(869)、広峰山から都に向けて分霊を載せした神輿の行列が出発する。
祇園神社のありますこの平野の地には、当時広峰社と縁のある姫路の書写山円教寺で修行した徳城坊阿闍梨が住んでおり、その案内で牛頭天王は一泊する。これがこの地平野牛頭天王社の始まりである。
宮座:この神社では安土桃山時代の天正年間以来8軒の家が宮座を組み、2軒ずつが1年ごとに神主役を奉仕(御当番と呼ばれた)してきた。江戸期にはこの平野は、天領・片桐藩・畠山藩の3つの領地に別れるも、天領・私領を問わずその庄屋連中8軒が協力して奉仕してくる。
薬師堂:古絵図には、牛頭天王の本地仏とされる薬師如来をまつる薬師堂が境内に描かれている。
○Wikipedia より(要約)
縁起
869年(貞観11年)、京で鴨川が氾濫し疫病が蔓延したとき、行疫神として名高い素戔嗚尊を姫路の広峯神社より北白川瓜生山の東光寺に勧請することとなった。その時、広峯社の神輿が平野の地で一泊した地に社殿を建て、分霊を崇め奉ったところが祇園神社創建の由来とされている。素戔嗚尊は仏教で祇園精舎の守護神とされている牛頭天王と同一視されたため、祇園神社はまた天王社とも呼ばれた。広峯社から東光寺に勧請された牛頭天王の分霊は、のちに八坂の地に遷宮され「祇園感神院」(現在の八坂神社)となった。ただし現在、八坂神社は広峯社を祇園神の本社とする主張を否定している。
周囲には牛頭天王に起源を持つと思われる天王川、天王橋、天王谷、天王温泉などの地名が残る。
護符:
蘇民将来のこより守り
蘇民将来のちまき守り
蘇民将来の木製六角のこけし型守り が配布される。
○「信濃国分寺資料館」展示説明板:
六角柱であるが、信濃国分寺のものと比べて、頭が尖り切り込みも深い・
胴部の中ほどに2文字づつ「蘇民 将来 子孫 人也 家門 繁栄」と記される。
戦後、京都に祇園社との関係で、一般的な形をまねて、新たに作ったものである。
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 攝津平野天王社蘇民将来符:神戸市平野祇園神社

45 龍蔵寺
長崎県壱岐の島
木「タラノキ」 蘇民将来子孫繁昌 正月7日 タラノキを削ってショメンカキということをする。細い札のように切って男は左の肩に、女は右の肩につける。下の方を総のように割ったのを家の入口にも貼る。悪疫神はこの家に入ることができないという。
  室町時代の創建。元は真言宗であったが江戸期に曹洞宗に改宗とある。
詳細な情報はなく、不明。
蘇民将来符は紙製(「蘇民将来子孫繁昌」と記す)と木製(「蘇民将来牛馬息災祈攸<きゆう>」と記す)とがあると思われる。
2022/04/21「信濃国分寺資料館」展示を撮影:
 壱岐龍蔵寺蘇民将来符



2018/04/28作成:2022/10/28更新:ホームページ日本の塔婆