備中廃三因妙蓮寺/廃三因法華寺:(現・真言宗金剛寶座寺)

備中廃三因妙蓮寺/廃三因法華寺:(現・真言宗金剛寶座寺)

備中廃三因妙蓮寺/廃三因法華寺

 法華寺・妙蓮寺は日蓮宗の時代であり、現在は廃寺である。
 現在は廃法華寺・廃妙蓮寺の寺地を引き継ぎ、真言宗金剛寶座寺が寺基を構える。
 所在地:総社市清音三因1139。
 ※地図で示すと、西郡村に掲載の「西郡の史跡等位置図」で「法華寺」と示される所である。
  (地図中央やや南にC辛山城跡があるが、その西山麓に「法華寺」がある。三因古墳群の北側である。

2018/10/30追加:2022/09/24追加修正:2024/08/07追加修正:
諸情報を総合すれば、寺歴はおよそ次のようであろう。
0) 法華寺の前身寺坊
 古代・中世、この地には朝原千坊(実際は40数坊か)あるいは福山12坊の寺坊があったとの口碑(金剛寶座寺住職談)がある。
 (但し、福山12坊は山頂伽藍が荒廃し寺坊は山麓に下山したといい、現に三因にはいくつかの福山12坊を起源とする寺院が知られ、
 また朝原寺(備中朝原山朝原寺・安養寺)はさらに南の浅原峠を越えた場所にあったが多くの寺坊の存在が知られる。
 それ故、この地に福山寺または朝原寺の寺坊がい因まれた可能性は否定できないが、それを証するものもない。)
1) 日蓮宗法華寺の開創
 暦応5年(1342)大覚大僧正がこの地を巡化、辛山城主石川左衛門が帰依し、さらに一村が法華宗に改宗する。
石川左衛門は直ちに堂宇を建立し、開基を大覚大僧正として、妙高山法華寺を開創する。法華寺は石川氏の祈願所となる。
2) 日蓮宗法華寺の廃滅
 寛文6年(1666)妙高山法華寺、岡山藩主池田光政の寺院淘汰(寛文の惣滅)で廃寺となる。
 「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」471にある「窪屋郡小屋村妙高山法花寺」がそれである。
3) 法華寺位牌堂の建立
 その後、元禄年中信ずるものあり、小堂を建立して、大覚大僧正の遺品を集め、密かにそれを祭祀し、位牌堂といふ。
 (「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮、昭和49年 p.154)
 その後密かに小堂を建て、元法華寺位牌堂と称して檜扇・数珠・大黒天像など大覚大僧正の遺品を祀る。
 (「大覚大僧正」京都像門本山会、平成25」年 p.149)
4) 日蓮宗妙蓮寺の再興
 明治末年鵜飼妙宗尼が堂守となってから、信徒大いに増し終日太鼓の音に明け暮れる賑いを呈するに至り、妙宗尼は寺院再興を発願し、村内外を広く托鉢して喜捨を仰ぎ昭和8年本堂を落慶させる。
昭和初年頃大覚山妙蓮寺と号する。
 (「清音村誌」昭和54年)
昭和17年真庭郡川東村有経山妙蓮寺(京都妙覚寺末)を寺号移転し、現在地に再建される。
 (「大覚大僧正」京都像門本山会、平成25」年 p.149)
大覚山と号する、京都妙覚寺末。昭和17年鵜飼妙宗が真庭郡川東村より寺号を移転し、現在地に堂宇を建立。大宝塔あり。
 (「日蓮宗神大鑑」池上本門寺、昭和56年 p.877)
5) 日蓮宗妙蓮寺の廃滅
 妙宗尼の寂後寺院は再び衰微し、借日の面影を全く失う。
おそらく、妙蓮寺堂宇は荒れるに任せ、自然倒壊に近い状態であったと思われる。
ついに、荒れ果てた妙蓮寺堂宇などは真言宗金剛寶座寺の設立(平成2年頃)・工事によって、廃滅する。
 ◎廃妙蓮寺の堂宇:
   妙蓮寺高祖堂:「清音村誌」、向かって右が高祖堂、左が庫裏(玄関・客殿)であろう。
   小屋谷法華堂跡:「大覚大僧正」、庫裏(玄関・客殿)であろう。
   備中三因妙蓮寺:「大覚大僧正と三備開基寺院」、高祖堂(日蓮木像を安置)であろう。
   備中三因妙蓮寺2:「日蓮宗大図鑑」、全壊寸前の庫裏(玄関・客殿)であろう。
6) 真言宗金剛寶座寺の設立
 荒廃した妙蓮寺に難波氏(沙門誠眞・高野山真言宗僧侶)が入り、ほぼ独力で真言宗剛寶座寺を開創する。
金剛寶座寺梵鐘の銘(下に掲載)によれば、真言宗剛寶座寺の開創は平成2年(1990)頃と思われる。

2022/09/24追加:
◆法華寺の前身寺坊
 金剛寶寺現住職は次のように云う。
大覚大僧正開基の三因法華寺の前には朝原寺の寺坊があったと聞いている。
但し、その寺坊の名称は不詳である。と。
 ※確かに、三因法華寺は朝原1000坊といわれた朝原寺から北方に福山の山麓を廻り込んだ位置にあり、法華寺開創前に何等かの朝原寺の寺坊があった可能性は否定できないだろう。
しかし、手持ちの資料からは、三因法華寺のある小屋もしくは小屋谷に朝原寺の一坊があった確証は得られない。
なお、法華寺は福山寺12坊のあった福山の北山麓にあり、朝原寺よりは距離的に近くである。
その為、手持ち資料で福山寺の寺坊の可能性も有り得ると思い、手持ち資料を当たるも、確たる情報はないと思われる。
(→朝原寺のページに付記)
 要するに、法華寺開創前に朝原山朝原寺(もしくは福山福山寺)の一坊があった可能性は否定できないが、手持ち資料では確たる証拠もないこと事実である。
 ※手持ち資料:
 「浅原村神社佛閣名所手鑑調法記」、「吉備郡史 巻上」>第二十七章 報恩大師と山上伽監>福山福山寺・浅原寺

2018/10/30追加:
◆法華寺遺構
○「岡山県埋蔵文化財情報」 より
おかやま全県統合型GIS>埋蔵文化財>「法華寺」で検索し、法華寺が表示されれば、「地図表示」で地図を表示する。
表示される「地図」は次である。
 おかやま全県統合型GIS:法華寺
上図の通りであるが、
遺跡名:名称未定、遺物:石造物(宝篋印塔・五輪塔)、時代:室町・安土桃山、
遺構概要:法華寺(妙蓮寺)境内の下段西南隅に粉米石製宝篋印塔2基分、五輪塔1基分が集積。他に辛山城主石川左衛門之尉の墓もあり。
 とある。
室町・安土桃山期の遺蹟として法華寺が登録されている。位置は妙蓮寺の位置である。
 ※宝篋印塔2基分、五輪塔1基分、石川左衛門之尉の墓(これは未見)の法華寺時代と思われる遺物がある。
2022/09/24追加:
◆大覚大僧正筆蹟の題目石 →軽部大覚寺
「大覚大僧正 上巻」大正5年では
「備中國清音村軽部の宝塔は、法華寺廃滅の後、これを田圃の畔に移して徒に牛繋の用に倣せり、然れども、又拝信の信者、拝詣する者、四時絶ゆる時なかりき。」という。
さらに、「大覚大僧正と三備開基寺院」では「備中誌」(当該「誌」に発見できす、孫引きになるが)に
 ※法華寺とは大覺大僧正開基であり、法華寺廃滅とは寛文6年の池田光政の廃仏の所業をいう。
「大覚大僧正筆蹟の碑、軽部村山麓廃寺の蹟にあり。石塔の高さ8尺計にして、三方に南無妙法蓮華経を彫りつけてあり。この石塔を、近世愚昧の者等、参詣のたびに、砕き取る可惜事也」
 ※軽部村山麓廃寺とは正確にいえば小屋村(三因村)山麓廃寺ということ、つまり法華寺を指し、現在、大覚大僧正筆蹟の碑は軽部村大覚寺に安置されていることから、軽部村山麓廃寺の表現になっているものと思われる。
以上の文面から、現在輕部大覚寺安置の題目宝塔は、元は小屋の廃法華寺にあったものと推定される。
 あるいは、軽部村にも大覚大僧正の教化による法華堂があり、ここにあった石塔かも知れない。

2018/10/30追加:
◆法華寺の廃寺
○備前寺院淘汰関係資料(「岡山県通史 下巻」永山卯三郎、昭和5年 所収)
寛文6年廃寺(撮要録二十九、廢寺社之部抄録)
寛文6年に池田光政によって廃寺とされた備中都窪郡(岡山藩領であった備中都窪郡の村)の寺院は次の通りである。
 真壁村:常光寺中之坊、真言宗、住職還俗し神職となる、本尊薬師如来預山伏往来寺
 西部村:福山加良寺奥之坊、真言宗、住職還俗し神職となる
 岡 谷:東谷山惣持坊、真言宗、住職還俗、本尊毘沙門助左衛門屋敷へ
 岡 谷:大谷山観音寺、真言宗、住職還俗、本尊助左衛門屋敷毘沙門堂へ
 岡 谷:虎谷山高山寺、宗旨?、天正の頃退転、本尊毘沙門助左衛門屋敷へ
 宿  :清傳坊、真言宗、住職還俗
 軽部村:萬福寺、真言宗、住職立退、堂本尊阿弥陀如来共其儘
 柿 木:軽部山寶積院、真言宗、住職還俗、堂本尊地蔵塔本尊大日、二佛共可入屋敷へ、法積寺とも綴る
 柿 木:皆藏坊、真言宗、住職還俗
 三輪村:大願坊、真言宗、住職還俗し神職となる
 小 屋:福山山天神坊、真言宗、住職還俗
 小 屋:妙高山法花寺、日蓮宗、住職還俗、本尊釈迦・十羅刹・高祖彌兵衛屋敷へ
 2022/09/24追加:上記は抄録であるが原本では次の如くである。
 ○「撮要録二十九、廢寺社之部 郡中」
     ○小屋
  福山山天神坊 本寺同右(※本寺清水村惣持院)
    住僧還俗兵太夫
    跡株賜同人
  妙高山法花寺 本寺御野郡津倉妙林寺
    住僧還俗弥兵衛
    跡株賜同人
    本本尊釈迦・十羅刹・高祖同人屋敷内に方一奈之堂に安置

  ※日蓮宗では小屋(村)の妙高山法華寺が寛文6年池田光政によって廃寺とされたことが分かる。
  また法華寺の本寺は意外なことに津倉妙林寺末であり京都妙覚寺末ではなかったようである。
  おそらくは時代背景から京都妙覚寺に違背し、悲田派不受不施に当時転じていた妙林寺に属したと思われる。
  ※参考:
  「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」471にある「窪屋郡小屋村妙高山法花寺」がそれである。

2022/09/24追加:
◆三因村の成立
○小屋から三因村へ
明治8年、第2次府県統合により深津県から岡山県の管轄となる。
西組が西三須村に、三和村が三輪村にそれぞれ合併。
小屋・小屋村がそれぞれ分割し、各一部が合併して三因村となる。各残部が三輪村に合併。
◆小屋村
○「岡山県の地名」平凡社、687P より
北は三輪村、東は西郡村、北端を山陽道が通る。(西は軽部村)
寛永年中は「三和ノ内小屋村」、岡山藩領と旗本蒔田領の相給地。
正保年中は「小屋村」とあり、岡山藩領と旗本蒔田領の相給地のまま。
その後は、岡山藩領は三輪村の枝村となり、蒔田領分は小屋村となる。
明治8年小屋村、三輪村枝村小屋、三輪村飛地などが合併して三因村となる。

2022/09/24追加:
◆廃法華寺位牌堂
○「大覚大僧正 上巻」夙外生(下村宏之)、ゼニヤ号川上書房、大正5年 より
 備中國都窪郡清音村字小屋谷の地に法華寺と称して、堂塔壮麗を極めし、一小精舎在りしか、恁(こ)は備中石化鼻の城主石川左衛門佐和義、その子治部太夫宣義の菩提寺たりしなり。
 然るに寛文年中、岡山藩池田光政公のため、破却を受け、法灯爰に絶えしも、元禄元年、還俗僧元兵衛なるもの、法華寺当時の大僧正遺品を集めて、一小堂を建立して、竊(ひそ)かに之を祭祀し、位牌堂と称せり。
法華寺破却と同時に、其の檀信徒も、悉く他宗(真言宗)に転じ、法灯明滅、軒傾き、廂雨漏りと雖も、其の霊蹟旧所を拝心して、また参詣するもの少なからず。
 「彼の石川左衛門佐の遺言とも伝えて、元禄4年、小助なる者の手記せし記録に見れば、城主石川左衛門佐殿より、寄進の品々を掲げて、後年この霊蹟を保つに、供養の資に事を欠かざるば、我墓を拓いて充つべし云々との遺書に見るも、石川左衛門佐等の大僧正に如何に篤き尊信を払ひしかは、既に知る可きなり。」
大覚大僧正この地に正法を弘通し玉ひしその系統に於いては、あるいは野山の妙本寺よりこの地に錫を転じ玉ひしは、既に争うべからざる事実にして一点の疑いを容れさるも、又伊福の福輪寺より、元弘年中、この地の古族石川左衛門佐を教化し玉ひしこと、知ることを得べし。そは開基当時よりの本寺伊福の妙善寺云々の記録によるも、備前の富山城下より、備中に発軫せしを察せらる。
而もこの地には、屡々来往し玉ひ、又錫を停め玉ひしも、更に疑ふ能わず。
そは金金具の彫刻ある菊花御紋章の目釘を打てる中啓の如き(旭扇の事)遺品は実に大覚大僧正のその半面を語るのあり、しかのみならず、石川左衛門佐、足利直義と備中一宮の戦ひに敗れ、遂に唐河野に戦死するに至るや、御自作の大黒天の彫刻を半ばに打ち捨て置れたるか如き、ともかく急遽として、この地を発し玉ひしは、之を察することを得べし。
然るに当寺内に一基の宝塔を建立し玉ふ(軽部大覚堂安置の宝塔)、しかもこの石材を野山妙本寺より、運ばしめ玉ひしか如き、実に伊達の一族と、石川左衛門佐との連絡ありし、重きを知るべし。
 因みに当位牌堂(廃寺法華寺)の稿は後巻に編入すべきものなれば、ここには省略する事とせり。
  ※後巻は上梓されていないようであるが、その理由は分からない。
掲載されている写真を転載する。
 位牌堂大覚大僧正の遺品:この遺品は現存するのであろうか、現存するとすれば、どこにあるのだろうか。
 小屋谷法華堂跡:下に掲載の「備中三因妙蓮寺2」(「日蓮宗大図鑑」)であろう。
 ほぼ崩壊状態であるが、唐破風の形状が酷似しほぼ間違いなく小屋谷に再興された妙蓮寺の庫裏(玄関・客殿)であろう。
 元法華堂跡の小庵:元法華堂跡とあるが、これはおそらく軽部大覚寺の写真であろう。
 二棟の建物の配置・外観や二段造成された敷地など軽部大覚寺のそれに酷似する。
現在の建物(庫裏・客殿)との形状は多少違うが、それは現在の建物の建替が行われた為かも知れない。

2018/11/07追加:
◆廃法華寺位牌堂・妙蓮寺中興(法華寺の再興)
○「清音村誌」昭和54年 より
妙蓮寺
本寺は大覚大僧正の中備布教巡錫の霊蹟にして往古妙高山法華寺と号し、法塔(宝塔)が建てられている。
そもそも本寺は幸山城主石川氏の菩提寺であったと伝えられるが、寛文6年(1666)領主池田光政の廃仏政策で廃寺となる。
(廃寺の後密かに)
往時高祖堂には日蓮上人の木像を安置し、位牌堂には大覚大僧正の位牌を安置するも、天保初年妙高山法華寺の一寺に合併され、次第に衰微する。
 ※後段の文意が不明であるが、法華寺は寛文年中に廃寺となるも、その後密かに高祖堂・位牌堂が建立されたということであろう、また高祖堂・位牌堂は石川氏菩提寺法華寺とは別であったが、天保初年高祖堂・位牌堂は法華寺の一寺として?合併されたということなのであろうか。
 明治末年鵜飼妙宗尼が堂守となってから、信徒大いに増し終日太鼓の音に明け暮れる賑いを呈するに至り、妙宗尼は寺院再興を発願し、村内外を広く托鉢して喜捨を仰ぎ昭和8年本堂を落慶させる。
昭和初年頃大覚山妙蓮寺と号する。(昭和17年美作大庭妙蓮寺の寺号を移すに該当か。)
妙宗尼の没後寺院は再び衰微し、今は借日の面影は全くない。
妙宗尼は元治元年浅口郡西阿知村斎藤家に生まれ、本名は喜和といい、明治23年御津郡牧山村鵜飼氏と婚姻、明治42年この地に転籍、大正10年妙宗と改名、昭和28年歿する。享年89歳。
 なお本書に写真掲載があるので、転載する。
 妙蓮寺高祖堂:向かって右が高祖堂で、下に掲載の「備中三因妙蓮寺」(「大覚大僧正と三備開基寺院」)と同じ建物であろう、
 左が庫裏(玄関・客殿)で、これも下に掲載の「備中三因妙蓮寺2」(「日蓮宗大図鑑」)、
 あるいは「小屋谷法華堂跡」(「大覚大僧正 上巻」)であろうと推測できる。
 石川左衛門尉墓碑:未見     妙蓮寺宝塔

0000/00/00初期追加記事:2022/09/24追加修正:
◆妙蓮寺の中興と廃滅
○「大覚大僧正と三備開基寺院」昭和49年(1974) より
妙蓮寺:
 往時は法華寺と称し、大覚大僧正の開基という。
備中石ケ鼻の城主石川左衛門佐和義、その子治部大輔宣義の菩提寺なり。
寛文年中、岡山城主池田光政の為に破却を受け法灯絶えたり。
元禄年中信ずるものあり、小堂を建立して、大覚大僧正の遺品を集め、密かにそれを祭祀し、位牌堂といふ。
昭和30年頃妙蓮寺と改む。歴代は不明なり。
 備中三因妙蓮寺:2022/09/24追加:おそらく当時(昭和49年以前)の妙蓮寺本堂(高祖堂)であろう。
しかし、妙蓮寺は廃滅・退転し、この妙蓮寺本堂は当然存在しない。
何処にあったかは不明であるが、現在の金剛寶座寺本堂の前付近にあったものと推察される。
 ※「清音村誌」の「妙蓮寺高祖堂」の向かって右の堂であろう。
2017/11/06追加:2022/09/24追加修正:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年(1981) より
大覚山と号する、京都妙覚寺末。開山大覚妙實、開基檀越高山城主石川左衛門佐。奠師法縁。住職は親師法縁。
康永2年(1342)堂宇を建立、石川氏の祈願所となり妙高山法華寺と号する。
その後、藩主池田光政の弾圧で堂宇は壊滅、荒廃するも、昭和17年鵜飼妙宗が真庭郡川東村より寺号を移転し、現在地に堂宇を建立。大宝塔あり。
2017/11/06追加:2022/09/24追加修正:
〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年(1987) より
経歴は「日蓮宗寺院大鑑」と同一内容。
 備中三因妙蓮寺2:この写真によれば、堂宇・境内は荒れ、ほぼ竹林になりつつある状況である。このまま、妙蓮寺が放置されているとすれば、堂宇は腐朽し崩落、竹藪と化しているものと推定される。(現在は全く姿を消す。)
2022/09/24追加:おそらく当時(昭和62年以前)の妙蓮寺庫裏(玄関・客殿)であろう。
何処にあったかは不明であるが、現在の金剛寶座寺本堂の一段下の下段にあったものと思われる。
 ※「清音村誌」の「妙蓮寺高祖堂」の向かって左の堂、また「大覚大僧正 上巻」の「小屋谷法華堂跡」であろう。
0000/00/00初期追加記事:
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」平成25年(2013) より
もと法華寺といい軽部村の小屋谷(福山の山麓)に所在。
暦応5年(1342)5月大覚大僧正の巡化により一村が真言より改宗して建立されたという。
元亀年中、高山城(幸山城)主の石川左衛門尉の菩提寺となる。
寛文年中池田光政の廃仏により破却されたが、その後密かに小堂を建て、元法華寺位牌堂と称して檜扇・数珠・大黒天像など大覚大僧正の遺品を祀っていた。
昭和17年真庭郡川東村有経山妙蓮寺(京都妙覚寺末)を寺号移転し、現在地に再建される。
 ☆下村「大覚大僧正」p492、「児島高徳皇子論」p216、「日蓮宗寺院大鑑」p877
 ※幸山城(高山城):延慶年中(1308〜1311)前後に庄資房によって築城されるといわれる。庄氏は資政の時、猿掛城を築き猿掛城に移り、幸山城は備中守護細川氏の被官でありまた備中吉備津宮社務代でもある石川氏が城主となる。 永禄10年(1567)明禅寺合戦においては備前宇喜多氏が勝利し、備中三村の加勢した庄元祐は討死、石川久智も戦傷が元で他界する。

◆日蓮宗妙蓮寺の廃滅と真言宗金剛寶座寺の創建
 次の金剛寶座寺現住職談のように、日蓮宗妙蓮寺は廃滅、その跡に難波氏(沙門誠眞)が入り、ほぼ独力で真言宗剛寶座寺を開創する。
2022/09/22金剛寶座寺現住職談:
「今は金剛寶座寺と称する(※)。高野山真言宗。
沙門誠眞(※※)の開山、沙門(難波)誠はサラリーマンであったが定年後出家、平成2年(1990)頃に金剛寶座寺を開山。
 (※)土地の人は今も蓮華寺と呼ぶという。
 (※※)浅原安養寺談:誠眞は難波氏、現在はご子息が住職(誠眞は高野山真言宗浅原安養寺徹眞の弟子、
 徹眞は既に寂し安養寺先代となる。)
その後、金剛寶座寺開山誠眞は既に寂し、現在は子息(真言宗僧侶)が住職となる。
現在檀家は僅か3軒という。それと少数の協力者(信者)がいるとのこと。住職はほぼ一日読経をしているとのこと。
大覚大僧正開創の前は、朝原寺の一坊があったと聞いている。
また妙蓮寺は備中吉備津宮の一坊でもあったと聞いている。
 ※備中吉備津一宮の一坊ということは更に裏付けがないと思われる。

日蓮宗妙蓮寺は先代が寂し、その跡取りも寂し(?)無住となる。信徒も離散し、荒廃する。
先代の徹眞は荒れた妙蓮寺の堂宇を撤去、山林を切り開き、寺院を設営する。
建物の撤去・整地・新たな土地造成などは誠眞がほぼ独力で行う。
日蓮宗妙蓮寺の堂は現在の金剛寶座寺本堂の前の空地にあったが、更地となす。現在の金剛寶座寺本堂の場所は山林を切り開き、本堂を建築する。
なお、妙蓮寺庫裡は現在の金剛寶座寺本堂のある段の一段下の下段(妙蓮寺大宝塔や墓碑のある段)にあったがこれも撤去する。
敷地は福山の某氏の所有地、金剛寶座寺の建立に際し、妙蓮寺の本寺京都妙覚寺との協議?があったが、どうしようもない荒れ方でかつ信徒も皆無で「妙蓮寺はどうしようない状態」という認識で一致(?)する。
鉄パイプの足組は3月(旧暦では2月15日)の涅槃会では、釋迦涅槃図を掲げるという。」

2022/05/05撮影:
金剛寶座寺梵鐘の銘が新寺の経歴を物語るので、収録する。

  金剛寶座寺梵鐘銘

南無釋迦牟尼仏

雲中菩薩像(浮彫)

新鋳華鏡 遠報梵音

往古幸魂神山に祀る
天武天皇神々を招き
百射の山に天神鎮座す
百丈の頂に眞名井清く
星降り井泉は天地を明す
陰陽和して国家栄えよと
祈る日蓮上人報恩大師
法華福山九運の寺々
大覚大僧正妙高を開く
三因は尊き吉備の甘南備
今日誠眞再び敬す
      沙門徹眞識

南無大師遍照金剛

為天下泰平
 (以下、めでたい4文字熟語の羅列
  故に、無意味につき省略) 

興国元年 大覚大僧正 開創
妙高山法華寺再興
 発願 沙 門 誠眞
 奉賛 安養寺 徹眞
   信徒一同
 平成二年十一月吉祥日

   ※興国元年1340 ※平成2年(1990)
金剛寶座寺鐘楼3
 ※油圧ショベルが写るが、独力で整備を行っているということであろうか。

金剛寶座寺梵鐘1

金剛寶座寺梵鐘2

金剛寶座寺梵鐘3

金剛寶座寺梵鐘4

○金剛寶座寺現況
2016/06/26撮影:2022/09/24追加・修正:
 金剛寶座寺境内:向かって左は堂舎、中央には一段高い石階付きの平坦地がある。
 金剛寶座寺堂舎1     金剛寶座寺堂舎2:切妻造の堂舎であるが、屋根瓦は近年葺き替えが行われてのであろうか。生活実態がある雰囲気であり、本堂と庫裡を兼ねた堂舎なのであろうか。
 金剛寶座寺上の壇:(使用目的は不明であるが、
 金剛寶座寺鐘楼1     金剛寶座寺鐘楼2
 旧妙蓮寺石碑1     旧妙蓮寺石碑2     旧妙蓮寺石碑3:これらの石碑には題目や一天四海などの文言があり、旧妙蓮寺の石碑であろう。
なお、堂舎のある平坦地の一段下に別の平坦地があり、そこには大石塔(妙蓮寺の大宝塔??)があると思われるも、そこは多くの大型動物がいる気配があり、立ち入りが憚れるような雰囲気があり、その檀には立ち入りをせず。
2022/05/05撮影:
 釋迦涅槃画掲示ビケ足場
  金剛寶座寺涅槃画:2019/04GoogleMapの画像、旧暦2月の涅槃會の時、上記ビケ足場に掲示する。

 旧妙蓮寺宝篋印塔;1基は転倒しているが、上記の「岡山県埋蔵文化財情報」で云う中世の宝篋印塔2基であろう。
 旧妙蓮寺石垣・石階:妙蓮寺の時代の上下檀を繋ぐ石階である。
 大宝塔:蔓草に蔽われるも、「為先祖代々霊菩提」、「大正3年」の年紀などが読み取れる。大正3年建立か。
 旧妙蓮寺大宝塔1    旧妙蓮寺大宝塔2:瓦の集積は旧妙蓮寺庫裏のものであろう。    旧妙蓮寺大宝塔3
 智経院日妙墓塔:明治末年元法華寺位牌堂の堂守として入堂、大いに弘教し、
 遂に廃・法華寺を妙蓮寺として再興・開基した鵜飼妙宗尼(智経院日妙)の墓塔である。
  智経院日妙墓碑1:鵜飼妙宗尼墓碑      智経院日妙墓碑1:裏面:昭和28年5月10日(命日)
 旧妙蓮寺題目石:表面には「南無妙法蓮華経」と刻む。
 旧妙蓮寺墓碑1:妙法大法院日悟覺霊 と刻むも日悟とは不詳。
 旧妙蓮寺墓碑2:古い墓碑と思われるも、判読できず。     旧妙蓮寺墓碑:解読不能、その他にも墓碑はある。 


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