備 中 高 松 最 上 稲 荷 妙 教 寺

備中高松最上稲荷妙教寺

備中高松妙教寺概要

 天平勝宝4年(752)報恩大師が孝謙天皇の病気平癒の勅命を受け、山中の八畳岩で修法し、最上位経王大菩薩を感得する。
さらに延暦4年(785)桓武天皇の病気平癒祈願の功徳により、寺院建立の勅があり、報恩大師が寺地を定る時、最上位経王大菩薩より「備中龍王山麓に堂宇を定むるべし」との託宣があり、「龍王山神宮寺」が建立される。

 天正年中、龍王山神宮寺は羽柴秀吉の中国侵攻により、焼失・荒廃する。
慶長6年備中高松領主花房職之は関東より妙智院日円上人を招き、天台宗より日蓮宗に改宗の上、最上稲荷山妙教寺として再興する。
あるいは「日蓮宗の本山めぐり」の「妙教寺」の項では、日円上人は池上本門寺16世日樹上人弟子で、師命により当地を巡錫の折、荒廃した神宮寺の旧跡復興を思い立ち、花房氏の外護を得て、堂宇を再建したという。日円上人は元和2年(1616)寂す。

 時期は不詳ながら、稲荷社が妙教寺の鎮守として勧請されたと思われ、農業神として信仰される。
  ※寛永年中の「備中国絵図」では「稲荷村」とあるという。(すでに稲荷明神は隆盛であったのであろうか)
  ※寛永11 年(1633) の「寺院本末帳」には妙教寺の名は見えない。
  「吉備郡誌」(永山卯三郎)では「寛保2年(1742)其側の小堂を妙教寺と改め建立す」と記すと云う。
  天明6年(1786) の「寺院本末帳」には京都妙顕寺末寺「備中国賀夜郡高松妙教寺」とあるという。
妙教寺7世日道上人は、備前・備中の喜捨を募って社殿を改築する。その棟札は「正一位稲荷大明神」と記されるという。
この頃から備中高松稲荷信仰が盛んになり、特に幕末頃から急激に信仰圏が広がり、備中・備前はもとより近畿・四国・山陰へと教線を伸ばすという。

 明治3年神仏分離の処置で、「正一位稲荷大明神」を廃し「最上位稲荷経王大菩薩」とするも、稲荷社は僧侶が奉仕し寺院の付属であり、神社ではないと強く抗弁して、稲荷社の分離は免れるという。
つまり、最上稲荷は今も妙教寺と号する寺院であるが、大鳥居なども建ち、雑多な信仰が混ざり合う神仏分離以前の霊場の姿を今に残す。
なお、最上位経王大菩薩は祈祷本尊といい、最上位経とは法華経を意味し、その像容は荼枳尼天の像容の特徴に似るという。
 ※「岡山県の歴史散歩」昭和51年では「高松稲荷はもともと妙教寺の鎮守堂で茶枳尼天を稲荷権現として祀り、しだいに信者が増え・・」とある。文意は稲荷明神は妙教寺鎮守であった。しかし明治の神仏分離の処置で、稲荷明神を廃し、茶枳尼天を稲荷権現として祀るようになる云々と解釈すべきであろうか。

2020/03/01追加:
○「日蓮宗大観」西村慈b 編、大正7年(p.362) より
妙教寺
京妙顕寺末 緋、一
高松村稲荷 稲荷 日勝
稲荷山と号す。元龍王山と号し報恩大師の古跡たり。
天正10年(1580)豊公高町城を略するの日、三里の水堤を湛へて之を陥る。この時寺亦水災に罹りたり報恩大師親刻の吒枳尼天のみを存す。
開山智妙院日圓上人、この古蹟を惜しみ、真言の教法を以て同天を祭り、今の寺山号に改む。後我宗に属してより寺運益々隆盛し、享保の頃寶鏡寺宮より題字及若干帖を賜ひて祈願所となる。
 ※本縁起によれば、元来妙教寺は報恩大師親刻の吒枳尼天を祀る寺院であり、後に日蓮宗に属するという。
〇「参詣のしおり」日本三大稲荷・最上稲荷 より
最上稲荷略縁起(趣旨):
 天平勝寶4年(752)報恩大師が八畳岩で本尊最上位経王大菩薩(最上尊)を感得したことに始まる。爾来龍王山神宮寺として繁栄するも、豊臣秀吉の備中高松城水攻の際、戦火によって烏有に帰す。但し、本尊最上位経王大菩薩(最上尊)だけは八畳岩下の元宮に安置され、難を遁れる。
 慶長6年(1601)この地高松の領主となった花房職秀(職之)は池上本門寺日樹の高弟日圓を招じ、龍王山の古蹟を復興し「稲荷山妙教寺」とする。以降、本尊最上尊は多くの信仰を集め、伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷として発展を遂げる。
そして
「最上位経王大菩薩」については次のようにいう。
法華経の精神をこころに、お慈悲をもって我々の苦しみを和らげ安らぎを与える」仏である と。
 ※日本三大稲荷については諸説がある模様。
京都伏見稲荷・備中高松最上稲荷・豊川稲荷(妙厳寺)以外にも、佐賀祐徳稲荷・笠間稲荷・福山草戸稲荷・岩沼竹駒神社・岐阜県海津千代保稲荷などが三大稲荷の一つと数えられるあるいは主張する向きもある。
 ※本地垂迹説に立てば、吒枳尼天の垂迹は稲荷神ということであろう。
 Wikipediaの吒枳尼天の項では次のように云う。
 「習合:狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている。」
 「近世になると荼枳尼天は、伏見稲荷本願所(愛染寺)、豊川稲荷(曹洞宗妙厳寺)、最上稲荷(法華宗妙教寺)、王子稲荷(別当 金輪寺)のように、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として信仰される。」
「明治政府が成立すると神仏分離政策を受け、それまで全国の寺社に荼枳尼天を勧請していた愛染寺は廃寺となり、伏見稲荷で荼枳尼天を祭祀することは途絶えた。また荼枳尼天を祀っていた稲荷社も多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となった。」 とある。
 ※「最上位経王大菩薩」については次のようなことであろう。
 最上稲荷奥之院(龍王山一乗寺)ご住職のお話では
「最上位経王大菩薩」とは、最も単純にいってしまえば、法華経を擬人化した仏である」 と。
しかし、縁起では報恩大師親刻の吒枳尼天が本尊であるといい、このことと「法華経を擬人化した」つまり法華経の垂迹が稲荷であるということとの間には大きな隔たりがあり、良く理解できない。
2020/04/01追加:
○「岡山県の地名 日本歴史地名大系34」平凡社、1988 より
龍王山南麓に位置し、山上に奥之院(一乗寺)がある。
 最上稲荷妙教寺はもともと報恩大師の創建(寛保元年<1741>の「縁起」寺蔵)と伝え、天台宗龍王山神宮寺と号する。
天正10年(1582)羽柴秀吉の高松城水攻めの際、荒廃したと思われる。
その後この地の領主となった花房氏の日蓮宗信仰と強制の中、慶長6年(1601)日圓が日蓮宗稲荷山妙教寺として再興したという。
慶長8年池上14世日詔が日圓に授与した曼荼羅本尊(寺蔵)や推定寛永3年(1626)池上16世日樹が日圓に宛てた消息(寺蔵)はこの間の動きの一端を伝える。
  妙智院日圓宛池上16世日樹消息:妙教寺奥の院(一乗寺)住職ご提供画像の転載、
   日樹花押と妙智院の宛名が見える。
  →自證院日詔は「備中山田のお塚」に概要を掲載
  →長遠院日樹は「長遠院日樹」、「備前法華の系譜」などに概要を記載

 妙教寺鎮守である稲荷社は、寛永期に既に稲荷村が成立していることからも、早くから固有の信仰基盤を持っていたものと思われる。
妙教寺7世日道の代、寛保元年(1741)社殿を改築(正一位稲荷大明神と号す)、その他諸堂宇を整備拡充し、中興とされる。
一説には寛保年中、稲荷社をめぐって法土寺と争い、勝利して傘下に収めたともいう。(「備中誌」)
この時期以降、祈祷主体の稲荷社の信仰が広まったと思われる。現在残る境内の常夜燈・石階・玉垣は特に文化・文政以降の、備前・備中のみならず四国・大阪方面からの寄進を伝える。
 明治の神仏分離では「正一位稲荷大明神」の神号を廃し、「最上位経王大菩薩」の佛号を掲げて、その難を切り抜ける。
最上位とは正一位、経王とは法華経を指す。
 昭和29年最上稲荷教総本山を称し、日蓮宗から離脱する。

妙教寺現況

 昭和29年23世最妙院日宣は日蓮宗より独立し最上稲荷教を創出、最上稲荷教総本山を名乗り、各地に分院や別院を建立する。しかし、平成21年最上稲荷教の傘下寺院とともに日蓮宗(身延山)に復帰する。
旧本殿である霊応殿は寛保元年(1741)建立、前殿・拝殿・誦経堂・本殿の4棟が連なる構造である。
昭和49年新本殿建立の為、現在地(元中国稲荷山鋼索鉄道の山下駅跡)に曳家にて移建される。
 新本殿建立前本殿;「観光の岡山」岡山宣伝社、昭和10年 より転載、旧本殿が新本殿位置に遷る。
現本殿は昭和54年建立、本堂(根本大堂)は明治14年建立・平成18年現在地に曳家にて移転修復する。
仁王門:昭和25年旧仁王門が山火事で類焼、昭和33年現仁王門竣工、平成26年改修落慶
2020/05/20追加:
 最上稲荷妙教寺建物群:「最上稲荷妙教寺の近代和風建築」安川満 より
なお、上著には次のように云う。
妙教寺の歴史:
 寺伝によれば、天平勝宝4年(752)、報恩大師がこの地で最上位経王大菩薩を感得し、延暦4年(785) 病気平癒に功があったとして、桓武天皇の発願により 「竜王山神宮寺」 が創建されたことに始まるという。
備中高松城の水攻めの際に堂宇を失うといい、慶長6年(1601) 「稲荷山妙教寺」 として復興したという。
寛永年間の 「備中国絵図」 にはすでに 「稲荷村」 と記載されており、稲荷社があったことが推定されるが、「吉備郡誌」によると「寛保2年(1742)其側の小堂を妙教寺と改め建立す」とされており、寛永11年(1633)の 「寺院本末帳」 にはその名は見えない。
天明6年(1786)の「寺院本末帳」には四条妙顕寺の末寺として 「備中国賀夜郡高松妙教寺」 とあるから、18世紀半ば頃に寺院としての整備が大幅に進められたことが窺われる。
2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/12/22撮影・ご提供:
 妙教寺山門前     妙教寺山門     妙教寺山門・本堂
2014/12/21撮影:
 妙教寺仁王門1     妙教寺仁王門2     妙教寺仁王門3     妙教寺仁王門4
 妙教寺全景1     妙教寺全景2     妙教寺全景3
 妙教寺山門1     妙教寺山門2     妙教寺山門3:上方に写る建物は」最上図書館(私設図書館)
 妙教寺本堂1     妙教寺本堂2     妙教寺本堂3     妙教寺本堂4    妙教寺本堂5    妙教寺本堂6
 妙教寺客殿1     妙教寺客殿2     妙教寺客殿3
 妙教寺旧本殿1     妙教寺旧本殿2     妙教寺旧本殿3     妙教寺旧本殿4     妙教寺旧本殿5
 妙教寺旧本殿6     妙教寺旧本殿7     妙教寺旧本殿8     妙教寺旧本殿9     妙教寺旧本殿10
 妙教寺本殿1     妙教寺本殿2     妙教寺鐘楼
 旧本殿参詣道題目碑1     旧本殿参詣道題目碑2     題目碑3     題目碑4
 稲荷明神77末社1     稲荷明神77末社2     稲荷明神77末社3
 妙教寺妙見堂1     妙教寺妙見堂2     妙教寺妙見堂3     妙教寺登廊
2020/02/28撮影:
 最上稲荷鳥居:写真中央・鳥居の中央/奥の山腹に小さく写るのが下に掲載の石造宝塔である。
 最上稲荷石造宝塔:報恩大師廟塔とも思われるも、廟塔は別にあると思われる。(未見)
 最上稲荷仁王門     最上稲荷本殿
 妙教寺手水石      妙教寺俯瞰1      妙教寺俯瞰2
 妙教寺本堂1     妙教寺本堂2     妙教寺本堂3
 妙教寺客殿1     妙教寺客殿2     妙教寺客殿3
 最上稲荷旧本殿1     最上稲荷旧本殿2     最上稲荷旧本殿3     最上稲荷旧本殿4
 最上稲荷旧本殿5     最上稲荷旧本殿6     最上稲荷旧本殿7     最上稲荷旧本殿8
 最上稲荷鐘楼
 最上稲荷妙見堂:備中高松城の守護神として祀られた妙見大菩薩は、花房職之によって妙玄寺に遷され、その後本妙見堂に祀られるという。
 妙見堂扁額
七十七末社
 旧本殿(霊応殿)の廻りに77末社の建築が取り囲む。
77末社は最上稲荷に従属し、それぞれが厄除けや縁結びなどの役割を担って衆生救済の手助けをする神々という。
例えば、66番は三光天王社である。
そして、77社のうち、五社天王社、朝日天王社、日車天王社、荒熊天王社、秀義天王社、末廣天王社、信受・照両天王社、羽弥御崎天王社、大乗天王社、縁引天王社、妙正天王社、夜守天王社、三光天王社、六社天王社一富天王社、六社天王社大元鬼天王社、六社天王社白糸天王社、六社天王社福恵天王社、六社天王社福崎天王社、六社天王社夜守天王社は登録有形文化財に指定されている。
題目石(お宝塔)
 境内には多くの題目石が奉納・祀られるがこの題目石はお宝塔と呼ぶという。
江戸末期から現在に至るまで、個人や企業によって設けられるようである。
 最上稲荷お宝塔11     最上稲荷お宝塔12     最上稲荷お宝塔13     最上稲荷お宝塔14
 最上稲荷お宝塔15     最上稲荷お宝塔16     最上稲荷お宝塔17     最上稲荷お宝塔18
 最上稲荷お宝塔19     最上稲荷お宝塔20     最上稲荷お宝塔21     最上稲荷お宝塔22
 最上稲荷お宝塔23     最上稲荷お宝塔24     最上稲荷お宝塔25     最上稲荷お宝塔26
 最上稲荷お宝塔27     最上稲荷お宝塔28     最上稲荷お宝塔29     最上稲荷お宝塔30
 最上稲荷お宝塔31     最上稲荷お宝塔32     最上稲荷お宝塔33
 最上稲荷奥之院入口鳥居:奥之院入口に多鳥が建つ。
 最上稲荷奥之院道標:奥之院まで12丁
 奥之院入口鳥居扁額:本鳥居は大正2年の建立といい、扁額には荒瀧大権現と掲げ、これは明治の神仏判然令以前の権現号を用いる。大正13年頃の「お宝塔」(と推測)では荒瀧天王と呼称が変わる。(未見)
 最上稲荷お宝塔34     最上稲荷お宝塔35     最上稲荷お宝塔36     最上稲荷お宝塔37
 最上稲荷お宝塔38     最上稲荷お宝塔39     最上稲荷お宝塔40     最上稲荷お宝塔41
 最上稲荷お宝塔42     最上稲荷お宝塔43
 最上稲荷本滝誦経堂     最上稲荷本滝     最上稲荷本滝題目石(日宣)
 最上稲荷題目石・日蓮立像1    最上稲荷題目石・日蓮立像2    最上稲荷題目石    最上稲荷日蓮立像
 最上稲荷お宝塔44     最上稲荷お宝塔45     最上稲荷お宝塔46     最上稲荷お宝塔47
 最上稲荷お宝塔48     最上稲荷お宝塔49     最上稲荷お宝塔50     最上稲荷お宝塔51
 最上稲荷お宝塔52
厳開明王:報恩大師が修行中、端座した巌の一つが割れ、清水が湧きだすという。
 厳開明王清水     厳開明王祠
 開山報恩大師報恩塔
 報恩大師顕彰碑:完全に判読できないが、おそらく最上尊感得の記念碑と思われる。
八畳岩:天平勝寶4年(752)報恩大師孝謙天皇病気平癒のため八畳岩の岩窟に籠り祈願する。21日目の早暁に最上位経王大菩薩を感得するという。それ故、八畳岩は最上尊が顕現した聖域・根本道場という。
 八畳岩と岩窟     八畳岩題目     八畳岩上面     八畳岩からの眺望1     八畳岩からの眺望2
最上稲荷境内ラジヲ塔:
ラジオ普及のため戦前も全国に450基程建てられ、現存するのは20基ほどといわれる貴重なものである。
この地(ケーブルカーの奥之院駅前広場)のラジヲ塔は昭和15年に建てられ、ラジヲ体操や音楽落語などの番組が流され、ケーブルカーの利用者を楽しませたと思われる。
 奥之院駅前ラジヲ塔
2020/04/03撮影:
●妙教寺清正公堂:最上図書館への途中にある。宿坊顕妙閣前の道を入る。
明治42年建立、一間社入母屋造屋根銅板葺、正面に一間向拝を付設。建築面積1.5平方メートルの小建築である。
軒組物は龍彫刻を彫る尾垂木付三手先詰組、縁及び浜縁の腰組を四手先斗栱を用いるなど装飾過多の造作である。
 妙教寺清正公堂1     妙教寺清正公堂2     妙教寺清正公堂3     妙教寺清正公堂4
 妙教寺清正公堂5     妙教寺清正公堂6     妙教寺清正公堂7     妙教寺清正公堂8
 清正公堂手水石:明治42年の年紀を刻する。     清正公堂堂守その1     清正公堂堂守その2
●最上稲荷大鳥居:昭和47年建立
 最上稲荷大鳥居:日畑盾築遺跡より遠望

中国稲荷山鋼索鉄道
 昭和19年まで、備中高松駅-稲荷山間には中國鐡道稲荷山線が、また稲荷山下-妙教寺奥之院間には中國稲荷山鋼索鉄道(ケーブルカー)が運行されていた。
中國稲荷山鋼索鉄道の山下駅は現在の旧本殿の建っている場所であった。(山下駅跡に旧本殿が曳家で移転される。)
山中には2,3の遺構が残るようである。
 中国稲荷山鋼索鉄道:「岡山 備中 稲荷山ケーブルカー (Mt. Inariyama cable car in Okayama)」 より転載
2020/02/28撮影:
現地説明板 より
中國稲荷山鋼索鉄道(ケーブルカー)
昭和4年最上稲荷の山下駅(現・旧本殿附近)と奥之院を結ぶケーブルカーとして開通する。
総延長は390m、所要時間4分。今次侵略戦争の戦局悪化により昭和19年廃止され、レールは供出される。
近年発見された映像では、奥之院駅前広場にはシーソーやブランコなどの遊具と茶店があり、ラジヲ塔も設置され、賑わったことが分かる。
 中間点附近のケーブルカー:現地案内板より
 奥之院駅遺構1     奥之院駅遺構2     奥之院駅遺構3     奥之院駅遺構4

妙教寺奥之院(龍王山一乗寺)

 → 備前・備中・備後大覚山一乗寺>備中龍王山一乗寺に掲載


2014/03/02作成:2020/06/01更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系