クロニクル「ローマ帝国」-OUTLINE-

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ローマ帝国の衰亡

<OUTLINE(概説)>を通して読んで、流れを理解、またはチェックすするためのページだが、やはり地図を見ながら、流れを見るのが本線か!?
(2つの異なるページの文章の整合性を確認するのも手間がかかるので)

270年   ガリア帝国、パルミラの王女ゼノビアが独立割拠。
 皇帝ヴァレリアヌスがペルシアとの戦争で捕虜となる、というローマ帝国史上、前代未聞の事件が起きる。 北方蛮族の侵入が活発化し、弱体化したローマ帝国の中では、パルミラとガリア帝国という2つの勢力が独立割拠することとなる。3世紀、ローマ帝国は急速に衰退しはじめる。しかし、混乱の中で即位したアウレリアヌス帝はこれらの問題を一挙に解決した。
273年

  アウレリアヌス帝、帝国を再復し、ダキア属州を放棄し、防衛線を強化した。

 分裂していた帝国を再び統合したアウレリアヌス帝は、北方蛮族に対しても優勢に戦いを進めたが、勝った上で、165年前にトライアヌス帝が征服して領土を拡大したダキアを放棄することを決めた。 これは、防衛線を効率的に運用するための決断であった。

 衰退の兆しを見せていたローマ帝国を復活させた輝かしい業績を残したアウレリアヌス帝であったが、275年側近に殺害され。ローマ帝国または皇帝位の不安定さは続くことになる。

286年

  ディオレクレティアヌス帝、マクシミアヌス帝を副帝とし、帝国を東西で分割統治。

 286年、ディオクレティアヌスは皇帝即位の3年目に、副帝(カエサル)に盟友マクシミアヌスを任命し、帝国の西半分の統治に関して、自らと同等の権限を与え、二頭政を開始する。それぞれが北方蛮族に対して、防衛戦を展開する。
293年    ディオクレティアヌス帝の四分統治
 293年、東方を統治する正帝ディオクレティアヌスと西方を統治するマクシミアヌスは、それぞれの首都ニコメディアとミラノで帝国を四分統治することを公布。 各副帝は、それぞれの正帝の娘婿の関係を結んでいた。
305年 

  ディオクレティアヌス帝、マクシミアヌス帝とともに引退を宣言。第二次四頭政。

 305年、60歳になったディオクレティアヌス帝は、マクシミアヌス 帝とともに引退を宣言する。従来の副帝であるガレリウスとコンスタンティヌス・クロルスを正帝とし、第一次四頭政の四人と同じバルカン出身で軍人のセヴェルスとマクシミヌス・ダイアを副帝とした。
306年 

  西方正帝コンスタンティウス・クロルス帝ブリタニアで死去。子のコンスタンティヌスが即位。マクシミアヌスの息子マクセンティウスがローマで皇帝を僭称し、元老院の承認を受ける。

 306年、7月ブリタニアで北方蛮族征討戦中の西方正帝コンスタンティヌス・クロルスが病死。息子のコンスタンティヌスは兵士の推挙を受け、帝国西方の正帝に即位した。コンスタンティヌスは、父コンスタンティウス・クロルスがマクシミアヌス(前西方正帝)の娘と再婚する前の先妻の子で、父の副帝即位後はオリエントに送られていたが、そこで18歳から30歳までの大切な時期にディオクレティアヌス帝の元で軍務経験を積んだ。

コンスタンティヌス自らが帝位に就いたことで、ディオクレティアヌス帝がはじめた、一人の皇帝に統制された四頭政は崩壊した。

一方、マクシミアヌスの息子マクセンティウスは、皇帝の息子でありながら、帝位に就けないことを不服とし、ローマで皇帝即位を宣言し、四頭政に不満を持つ元老院、ローマ駐在の近衛兵に承認され、税制など不満を持つローマおよび周辺都市の市民に歓迎された。

308年 

  西方正帝セヴェルスが、マクセンティウスに敗死。リキニウスを西方正帝とする。

 307年、西方正帝セヴェルス、マクセンティウス征討のためローマへ進軍したが、配下の多くが元マクシミアヌス帝の部下であったため、捉えられ自死に追いやられた。ガレリウスもマクセンティウス征討に失敗し、308年、先帝ディオクレティアヌスはガレリウスとマクシミアヌスを招き、リキニウスを西方正帝とすることを決定した。マクシミアヌスはディオクレティアヌスに従ったが、息子マクセンティウスはまたしても無視された。また、副帝経験もないリキニウスが正帝になったことで、マクシミヌス・ダイアも不満を持った。
311年

  東方正帝ガレリウスが死去し、リキニウスが東西の正帝を兼務。

 308年、東方正帝ガレリウス、ディオクレティアヌス、マクシミアヌスと会談し、西方正帝にリキニウスを据えることで合意。コンスタンティヌス、マクシミアヌスの娘と結婚するが、マクシミアヌスは蛮族侵入に乗じて、コンスタンティヌスを倒そうとする。コンスタンティヌスは蛮族と和解し、マクシミアヌスを倒す。311年、ガレリウス死去すると、東方正帝はリキニウスが継ぎ、西方正帝は空席。コンスタンティヌスとリキニウスが同盟し、コンスタンティヌスによるマクセンティウス征討を承認。
313年 

  西方副帝コンスタンティヌスが、リキニウスと同盟を結び、マクセンティウスを征討。ローマを制圧し、西方正帝となる。両帝、「ミラノ勅令」によりキリスト教を公認。

 311年、リキニウスと盟約を結んだコンスタンティヌスは、ローマおよびイタリア北部、中部を支配しているマクセンティウス征討を行う。盟約を結んだとはいえ、背後にリキニウスを意識しながら、マクセンティウスを攻めるというリスクをかかえながらの征討だった。

一方、マクシミヌス・ダイアはコンスタンティヌスとリキニウスの同盟にあせり、前皇帝ガレリウスの妻であり、ディオレクレティアヌスの娘であるヴァレリアを妻に迎えようとするが拒否される。313年、リキニウス領内に攻め込んだが、リキニウス反撃に破れ、逃亡先で死去する。

315年 

  コンスタンティヌ覇権へ

315年、不祥事を起してリキニウスの許に逃げた親族の引渡しを求めたコンスタンティヌスに対し、リキニウスが拒絶したことが内戦の大義名分となった。

コンスタンティヌス帝率いるライン河防衛線を守るガリア兵とリキニウス帝率いるドナウ河防衛線を守るバルカン兵の精鋭同士の戦いとなった;キバラエの戦い。激戦の末、リキニウスは首都シルミウムにも立ち寄らずにトラキアへ逃げる。第二戦にも敗れたリキニウスは、妻でありコンスタンティヌスの異母妹のコンスタンティアを仲介に立て、和睦を図る。リキニウスの領土は小アジアから東に限定され、ローマ帝国最強のガリア防衛線軍団とドナウ防衛線軍団は、ともにコンスタンティヌス帝のものとなった。 

324年

  コンスタンティヌス帝、再度リキニウスを破り、引退させる。帝国再統一。

翌325年、ニケーア公会議でキリスト教の三位一体説を正統とする。

 315年にリキニウス帝に勝利し、圧倒的な力を持ったコンスタンティヌスだったが、北方蛮族の侵入とその対応もあり、すぐには、リキニウスを攻めなかった。

324年、コンスタンティヌス帝はリキニウスとの間に戦端を開いた。準備を整えていたリキニウスの軍勢は、歩兵15万、騎兵1万5千、350隻の三段層ガレー船、対するコンスタンティヌスの軍勢は、歩兵騎兵合わせて12万、200隻の三段層ガレー船。初戦ハドリアノポリス付近での戦いで敗れたリキニウスは、天然の要害ビザンティウムに逃げ込む。海戦でも敗れたリキニウスは小アジアに逃れ、再び妻コンスタンティアの仲介で、和睦し、引退勧告を受け入れた。リキニウスはこのとき60歳。

335年   コンスタンティヌス大帝末期の分割統治準備 
335年、コンスタンティヌス大帝は、3人の息子と2人の甥をカエサル(後継者)としており、それは大帝の死(337年)の2年前からスタートしており、そして大帝の後はこの5人によ り分割統治されることとなっていたのだが。
337年   コンスタンティヌス大帝後の三分割統治
337年に死去したコンスタンティヌス大帝の葬儀はコンスタンティノープルで行われたが、3人の息子のうち担当地域の距離から、長男コンスタンティヌス2世と三男コンスタンスは参加しなかった。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノープルにいる親族は粛清されることとなる。 粛清は次男コンスタンティウスによると思われる。コンスタンティヌス大帝の異母弟2人とその子ども(大帝の甥)のうちすでに分割統治をしているダルマティウスとハンニバリアヌスである。幼いガルスとユリアヌスは殺されなかった。 3人の息子は会談を行い、揃って皇帝(アウグストゥス)となり、殺したダルマティウスとハンニバリアヌス統治領の分割を決めた。
340年   コンスタンティヌス大帝後の覇権争い
 コンスタンティヌス大帝の息子により、三分割されたが、ダルマティウスとハンニバリアヌスの領土は次男コンスタンティウスと三男コンスタンスに分割された。 これは3人による会談の結果だが、後になってダルマティウスとハンニバリアヌス領土の分配がなかった長男コンスタンティヌス2世が三男コンスタンスに北アフリカの分割を要求してきた。末弟に拒否されたコンスタンティヌス2世はアルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。しかし、アクィレイア近くで行われた戦闘でコンスタンティヌス2世は捕らえられ、殺されてしまう。コンスタンティヌス2世が治めていたブリタニア、ガリア、ヒスパニアは、コンスタンスの担当地域に組み入れられた。帝国の3分の2が末弟で20歳のコンスタンスの統治領域となったが、ペルシア王への対処で手一杯だったコンスタンティウスは抗議して、問題を提起する余裕はなかった。
 350年  僭帝マグネンティウス 
 北方蛮族との戦いに明け暮れたコンスタンスは内政を省みなかった。 宦官が牛耳る政治で徴税が厳しくなり、民衆にも不満が募っていた。部将マグネンティウスは配下の将兵の不満をまとめてコンスタンスを殺した。マグネンティウスは蛮族出身だったため、ローマ市民のマルケリヌスを擁立しようとしたが、結局は自ら皇帝を宣言する。これにイリュリクムの軍団が反発し、ヴェラトニオを皇帝に擁立する。ヴェラトニオははじめマグネンティウスと結んだが、後にコンスタンティウスに臣従した。コンスタンティウスはヴェラトニオの命を助ける代わりにその軍団を支配下に入れた。これに焦ったマグネンティウスは、自らが副帝となる提案をコンスタンティウスにするが、拒否される。
351年   コンスタンティウスによる僭帝マグネンティウス討伐
 コンスタンティウスは、337年に親族の粛清を行ったが、その時、父コンスタンティヌスの腹違いの弟であるユリウス・コンスタンティウスを暗殺したが、その息子で従兄弟にあたるガルスとユリアヌスの兄弟は幼かったために生かしておいた。 その兄のガルスを軟禁状態から解放し、副帝に指名し、自らはマグネンティウス討伐に向かい、ムルサの戦いでマグネンティウスを破った。マグネンティウスはイタリアに逃げ帰り、そこから動かなくなった。
353年    コンスタンティウス帝による帝国再統一
 351年、コンスタンティウスとの戦いに敗れ、ガリアに撤退し、追い詰められたマグネンティウスは自殺する。353年コンスタンティウスの下に再びローマ帝国は統一された。
361年   ユリアヌス、反旗を翻す
 ユリアヌスは、監視を受けながらギリシアの学問にいそしむだけの生活をしていたが、ガリアに派遣されるや、ゲルマン諸族を次々に撃破する。 また、税制改革を行い、ガリアの政治の安定を図る。しかし、帝国東方でペルシア軍が進攻してくると、コンスタンティウスはユリアヌスに兵の供出を要求してきた。これに対し、ユリアヌス配下の兵が反対し、ついにはユリアヌスを皇帝へ推戴した。板ばさみとなったユリアヌスはついに皇帝になることを承諾する。
362年   背教者ユリアヌスによる統一とペルシア遠征
 ユリアヌスとコンスタンティウスが互いに決戦に向かおうとしていたが、コンスタンティウスが急死する。 しかも、後継者にはユリアヌスを指名した。これにより内戦は避けられ、ユリアヌスが帝国を治めることになった。帝位についた後、ユリアヌスはキリスト教優遇策を撤廃し、ギリシア・ローマ宗教の復興を図る。ペルシア征討に向かったが、補給と援軍がうまくいかずに攻めあぐねているときに戦闘の中で槍を腹部に受けて死亡する。槍は味方から投げられたとも言われている。

後を継いだ皇帝護衛隊長のヨウィアヌスはペルシアに大幅に譲歩し、撤退した。これにより北部メソポタミアとアルメニア王国への影響力を失った。

365年   ヴァレンティアヌスによる兄弟統治
 362年ユリアヌスの後を継いだヨウィアヌス帝が364年に死去すると、ゲルマン民族出身のヴァレンティアヌスが軍団に推挙され、弟とともに皇帝に即位する。ローマ帝国が衰退しつつある中、東方ではペルシアと和解し、アルメニア、メソポタミアを放棄するが、アレマンニ族がガリアへ、西ゴート族がダキアへ侵入し、プロコピウスがコンスタンティノープルで帝位を僭称し、カッパドキア軍団を率いて反乱を起こした。個々の侵寇、反乱をつぶす力はまだ残っていたが、ローマは安定を維持することができなくなりつつあった。
378年   ヴァレンス帝と甥二人による統治
 ローマ帝国西方は、ヴァレンティニアヌス1世が息子二人〜グラティアヌスとヴァレンティニアヌス2世に引き継ぎ、叔父であるヴァレンス帝が東方を支配した。ヨーロッパ東方からフン人が西進し、それに圧迫されてゲルマン民族大移動が始まった。ローマ帝国はそれを防ぐ力がなくなっていた。
379年    テオドシウス帝、帝国再統一を図る
ヴァレンス帝戦死後は東方副帝であったテオドシウスが、ローマ帝国東方を継ぎ、帝国の再統一を図った。しかし、はじまったゲルマン民族大移動への対処に追われることとなる。
387年    ブリタニア総督マクシムスの反乱
 テオドシウス1世が西方をグラティアヌス、ウァレンティアヌス2世に治めさせ、共治皇帝となり、帝国を再統一する。383年ブリタニア総督のマグヌス=マクシムスがブリタニア軍団に擁立され、皇帝を称して、大陸に進出。二人の皇帝を破り、テオドシウス帝も一時マクシムスを共治皇帝と認めざるをえなかったが、マクシムスを破り、帝国を掌握しなおした。
394年    テオドシウス帝による帝国再統一成る
 テオドシウス1世はブリタニア総督で皇帝を僭称していたマグヌス=マクシムスを破って処刑し、394年には、フランク人武将アルボガストに皇帝としてかつがれたエウゲニウスを破り、帝国再統一を成し遂げた。
395年    ローマ帝国の分裂 
 394年にローマ帝国の再統一を成し遂げたテオドシウス帝は395年に病没。帝国の弱体化とゲルマン民族などのヨーロッパ侵入により、もはや、帝国を一つに維持することはできず、東西に分割されることとなった
401年   西ゴート族の王アラリック、イタリア侵入
 394年にローマ帝国の再統一を成し遂げたテオドシウス帝は395年に病没。帝国の弱体化とゲルマン民族などのヨーロッパ侵入により、もはや、帝国を一つに維持することはできず、東西に分割されることとなった。
405年    東ゴート族がイタリアに侵入、フィレンツェを包囲
 四世紀末に始まったゲルマン民族の大移動、ローマ帝国は、東西に分割され、それぞれゲルマン諸部族への対応に追われることとなる。
409年    西ローマ帝国の防衛線が弱まり、ゲルマン民族大移動は西ヨーロッパへ
 西ローマ帝国の将軍スティリコは、402年に西ゴート族、405年に東ゴート族を撃退。しかし、406年にスティリコがローマに召還されると防衛線が脆弱となり、西ヨーロッパへのゲルマン民族大移動が始まる。さらに、408年スティリコは謀反の嫌疑をかけられ処刑されてしまい、西ローマ帝国は国内外で大きく揺らぐこととなる。
スエビ族、アラン族、ヴァンダル族の一部は、ガリア(フランス)からスペインに侵入する。
413年    ゲルマン諸部族の西ローマ帝国内への定着・建国
 西ゴート族の王アラリックは、西ローマ帝国の首都ローマを略奪しスペインに侵入する。一方で、西ローマ帝国領内に侵入してくるヴァンダル族やアラン族を撃退するなど、西ローマ帝国に協力し、アラリックを継いだ義弟のアタウルフは、西ローマ皇帝の妹と結婚するに至る。
同じくフン人に圧迫されたブルグンドは、ガリアに侵入し、西ローマ帝国の同盟者となるが、それを裏切り、ローマ領内を略奪したうえ、ウォルムを首都として建国する。
フランス北部ノルマンディー地方からは、アングル族、サクソン族、ジュート族が、僭帝コンスタンティヌスのガリア進攻によって空白となったイングランド南東部へ進出する。西ローマのホノリウス帝は、ブリタニアからの撤退を決断し、カエサルに始まったローマによるブリタニア支配は終わった。ブリトン人は、イングランド南西部を支配する。
430年    ゲルマン諸部族の侵入により西ローマ帝国は政情不安定化
 西ゴート族ではテオドリックが王となる。フン族はトラキアに侵入し、ヴァンダル族はアフリカへ渡りカルタゴ西方のヒッポを包囲した。
西ローマ帝国では皇帝を僭称する者が相次いだが、東ローマの進攻により駆逐され、ホノリウス帝の妹ガラ=ブラキディアの血筋の皇帝に戻される。
これにより西ローマは、イリュリクム(アドリア海東岸)を東ローマに割譲せざるをえなくなった。
447年    ゲルマン民族を圧迫していたフン族がローマ帝国領内へ
 西ゴート、ヴァンダル、ブルグンドなどは、西ローマ帝国に協力してフン族に対抗していくことで、自らの民族の王国を形作っていく。フン族ではアッティラが王となり、東ローマ帝国領内に侵攻していく。
454年    ゲルマン民族の王国建設
 西ローマ帝国は、西ゴート、フランクなどとの連合軍により、カタラウヌムの戦いでフン族を撃退した。さらに、ローマ教皇の説得もあり、フン族はローマ帝国領内から撤退していく。しかし、連合したゲルマン民族が、西ローマ帝国領内で次々に独立して国家を建設していく。
471年    ゲルマン民族が西ローマ帝国の皇帝存立にも影響力を持つ
 455年西ゴート王テオドリック2世は、ガリア貴族アウィトゥスを皇帝に擁立するが、スエビ族出身の将軍リキメルによって退位させられる。リキメルによる傀儡皇帝がつづくが、ゲルマン民族は西ローマ帝国内で権力を持ちながら、他のゲルマン民族の侵入に対して防衛戦を展開していた。
476年   ゲルマン人傭兵隊長オドアケルに簒奪され、ついに西ローマ帝国は滅亡 
 スエビ族出身で西ローマ帝国の将軍リキメルは456年にヴァンダル族の船団を撃滅し、東ローマ帝国からも信任を得ると、実権を掌握した。リキメルは、西ローマ帝国の皇帝を廃立するなど体制の不安定さが続いた。リキメル死後、実権を握ったオレステスは、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに倒され、オドアケルは西ローマ皇帝を名乗らず、イタリア王を名乗ったため、西ローマ帝国は滅亡した。
487年   オドアケルのイタリア半島支配、フランク、東ゴートの拡張
 西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸部族は、ガリアなどでそれぞれの領土を拡張した。特にフランク王国がガリアの大きな領域を占めることとなる。一方、西ローマを簒奪したオドアケルも北のルギイ族のノリクムを破って拡張した。また、東ゴートのテオドリックは東ローマからコンスルに任命されていたが、486年トラキアを掠奪した。
 501年   オドアケルを破った東ゴート王国がイタリアを支配
 西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルは、ビザンツ帝国と連携した東ゴート王テオドリックに攻められ殺される。テオドリックは、ブルグンド、西ゴート、ヴァンダルなどと婚姻外交を展開し、王国間の安定を図った。フランク王クローヴィスはカトリックに改宗し、これ以降長い間、フランク王はカトリックの守護者となっていく。
523年  ゲルマン民族王朝の抗争と同盟はじまる 
 フランクが西ゴートを破り、東ゴートがフランクから領土を奪い、フランクと東ゴートが同盟してブルグンドを侵略するなど、ゲルマン民族国家間での抗争と同盟がはじまり、以降ヨーロッパを特徴づける絶え間のない国家間での競争がはじまる。
538年   ブルグンド王国、ヴァンダル王国滅びる
 ジュネーヴ湖からロワール川に広がったブルグンド王国は、534年フランク王国に滅ぼされ、カルタゴに拠ったヴァンダル王国は、ビザンツユスティニアヌス1世に派遣され将軍ベリサリウスに滅ぼされた。フランク王国は、チューリンギア(現ドイツ東部)や西ゴートからアキテーヌ地方を奪い、領土を拡大した。
560年   ビザンツ帝国が東ゴート王国を滅ぼす
 ビザンツ帝国ではユスティニアヌス1世のもとで二人の将軍が活躍した。一人はベルサリウスで、イタリア半島の征服、帝国内の人民蜂起の鎮圧、ペルシアとの戦争、ヴァンダル王国の征討、ブルガール人の撃退、などを成し遂げた。また、もう一人の将軍ナルセスは、西ゴート王国からスペイン南部を奪い、イタリア半島の東ゴート王国を征服し、ラヴェンナ総督としてイタリア半島支配を実行した。


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資料 塩野七生 『ローマ人の物語XIV キリスト教の勝利』
石橋秀雄他 『世界史大年表』
サイモン・ジェンキンス 『ヨーロッパ全史』