Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe335年   

324年gya_l_bg.gif (1060 バイト) gya_r_bg.gif (1063 バイト)337年

コンスタンティヌス大帝末期の分割統治準備

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概略

コンスタンティヌス大帝は、3人の息子と2人の甥をカエサル(後継者)としており、それは大帝の死(337年)の2年前からスタートしており、そして大帝の後はこの5人によ り分割統治されることとなっていたのだが。


コンスタンティヌス大帝死後の統治者(;皇帝候補「 カエサル」)

コンスタンティウス・クロルス コンスタンティヌス大帝 コンスタンティヌス2世
    コンスタンティウス
    コンスタンス
       
  フラウヴィウス・ダルマティウス ダルマティウス
    ハンニバリアヌス
       
  ユリウス・コンスタンティウス ガルス
      ユリウス

 

コンスタンティヌス大帝末期の帝国分割統治準備
325年  リキニウス、蛮族と共謀し、反乱を企てた疑いで処刑される。
 ニケーア公会議;アリウス派を異端とし、父と子を同質とするアタナシウス派(三位一体説)を正統とするニケーア信条を採択
326年  コンスタンティヌス1世、長子クリスプスを義母ファウスタとの不義の罪で捕える。牢内で死去。ファウスタも謀殺される。
 コンスタンティヌス1世、バシリカ様式の典型サン=ピエトロ聖堂を奉献
327年  コンスタンティヌスの母ヘレナがエルサレムへ巡礼。貯水池に埋まっていたキリストの「真の十字架」の破片を発見、ノアの箱舟を作った手斧、イエスが奇跡を起こしたかごなどを持ち帰った。この偽の遺物は330年コンスタンティノポリスの落成にあたって役に立った。(*1)
328年  アタナシウス(ca.295〜373)、アレクサンドリアの司教となる
330年  コンスタンティヌス1世、コンスタンティノープルへ遷都;オリエント風宮廷儀礼の導入、及び軍隊の強化
331年  ゴート族、モエシアに侵入
332年  コンスタンティヌス1世、ゴート族を撃退し、同盟条約を締結
 コロヌスの土地緊縛令発布;逃亡したコロヌスを連れ戻す権利を地主に認める
333年  コンスタンス、副帝となる。
 シリアで飢饉
 334年  コンスタンティヌス1世、サルマタエ人に軍役の代償として帝国内移住を認める
335年  テュロス公会議;アリウス派を復権、アタナシウスをガリアへ追放
 この頃からコンスタンティヌス大帝の3人の息子と2人の甥による分担統治システムがはじまる。担当のエリアは以下のとおり。
コンスタンティヌス2世(長男) ガリア、ヒスパニア、ブリタニア
コンスタンティウス(次男) 小アジア、シリア、エジプト
コンスタンス(三男) イタリア、パンノニア、北アフリカ
ダルマティウス(甥) ダキア、トラキア、マケドニア、ギリシア
ハンニバリアヌス(甥) 北部メソポタミア、アルメニア王国
 アリウス没(ca250〜) 

資料   塩野七生『ローマ人の物語XIII 最後の努力』
 石橋秀雄他 『世界史大年表』
 『ヨーロッパ全史』(サイモン・ジェンキンス著)青土社