| コンスタンティヌス大帝末期の帝国分割統治準備 |
| 325年 |
リキニウス、蛮族と共謀し、反乱を企てた疑いで処刑される。 |
| ニケーア公会議;アリウス派を異端とし、父と子を同質とするアタナシウス派(三位一体説)を正統とするニケーア信条を採択 |
| 326年 |
コンスタンティヌス1世、長子クリスプスを義母ファウスタとの不義の罪で捕える。牢内で死去。ファウスタも謀殺される。 |
| コンスタンティヌス1世、バシリカ様式の典型サン=ピエトロ聖堂を奉献 |
| 327年 |
コンスタンティヌスの母ヘレナがエルサレムへ巡礼。貯水池に埋まっていたキリストの「真の十字架」の破片を発見、ノアの箱舟を作った手斧、イエスが奇跡を起こしたかごなどを持ち帰った。この偽の遺物は330年コンスタンティノポリスの落成にあたって役に立った。(*1) |
| 328年 |
アタナシウス(ca.295〜373)、アレクサンドリアの司教となる |
| 330年 |
コンスタンティヌス1世、コンスタンティノープルへ遷都;オリエント風宮廷儀礼の導入、及び軍隊の強化 |
| 331年 |
ゴート族、モエシアに侵入 |
| 332年 |
コンスタンティヌス1世、ゴート族を撃退し、同盟条約を締結 |
| コロヌスの土地緊縛令発布;逃亡したコロヌスを連れ戻す権利を地主に認める |
| 333年 |
コンスタンス、副帝となる。 |
| シリアで飢饉 |
| 334年 |
コンスタンティヌス1世、サルマタエ人に軍役の代償として帝国内移住を認める |
| 335年 |
テュロス公会議;アリウス派を復権、アタナシウスをガリアへ追放 |
| この頃からコンスタンティヌス大帝の3人の息子と2人の甥による分担統治システムがはじまる。担当のエリアは以下のとおり。 |
| コンスタンティヌス2世(長男) |
ガリア、ヒスパニア、ブリタニア |
| コンスタンティウス(次男) |
小アジア、シリア、エジプト |
| コンスタンス(三男) |
イタリア、パンノニア、北アフリカ |
| ダルマティウス(甥) |
ダキア、トラキア、マケドニア、ギリシア |
| ハンニバリアヌス(甥) |
北部メソポタミア、アルメニア王国 |
| アリウス没(ca250〜) |