Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe324年   

315年gya_l_bg.gif (1060 バイト)  gya_r_bg.gif (1063 バイト)335年

コンスタンティヌス、帝国再統一

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概略

315年にリキニウス帝に勝利し、圧倒的な力を持ったコンスタンティヌスだったが、北方蛮族の侵入とその対応もあり、すぐには、リキニウスを攻めなかった。

324年、コンスタンティヌス帝はリキニウスとの間に戦端を開いた。準備を整えていたリキニウスの軍勢は、歩兵15万、騎兵1万5千、350隻の三段層ガレー船、対するコンスタンティヌスの軍勢は、歩兵騎兵合わせて12万、200隻の三段層ガレー船。初戦ハドリアノポリス付近での戦いで敗れたリキニウスは、天然の要害ビザンティウムに逃げ込む。海戦でも敗れたリキニウスは小アジアに逃れ、再び妻コンスタンティアの仲介で、和睦し、引退勧告を受け入れた。リキニウスはこのとき60歳。


コンスタンティヌス、帝国再統一(分割統治終了)
315年  コンスタンティヌス、リキニウスとパンノニアのキバラエ付近で対戦し、破る。講和により、リキニウスの統治領を小アジア以東に制限。
316年  コンスタンティヌス1世、ミラノの公会議でドナトゥス派の主張を退ける。ドナトゥス派の抵抗続く
317年  クリスプス、コンスタンティヌス(後の2世)、リキニアヌスら3名、副帝となる。
 コンスタンティヌス、ドナウ河防衛線を担当、子のクリスプスがライン河防衛線を担当し、防衛を強化。
 北アフリカ出身のキリスト教護教家ラクタンティウス、クリスプスの家庭教師となる(主著『神の制度』)
320年  リキニウス、東方でキリスト教の迫害を再開
 アリウス(ca.260〜ca.336)、聖子従属説を説き始め、アレクサンドリア司教アレクサンドロスと対立し、教会から追放される
 聖パコミウス、エジプトに最初の修道院を創設
321年  コンスタンティヌス1世、ドナトゥス派寛容令を出す
322年  コンスタンティヌス1世、イリュリクムに侵寇したゴート族、サルマタエ人を撃退
 コンスタンティヌス、ドナウ河を渡り、北方蛮族を撃破し、講和。
323年  コンスタンティウス2世、副帝となる
324年  コンスタンティヌス1世、ハドリアノポリスとクリュソポリスでリキニウスを破り、テッサロニケに幽閉
 クリスプス、へレスポントスでリキニウス艦隊を破る
 コンスタンティヌス1世、帝国を再統一し、単独皇帝となる(〜337)
 コンスタンティヌス1世、ビザンティウムをコンスンティノープルと改名し、帝国首都とする
325年  リキニウス、蛮族と共謀し、反乱を企てた疑いで処刑される
 ニケーア公会議;アリウス派を異端とし、父と子を同質とするアタナシウス派(三位一体説)を正統とするニケーア信条を採択


資料   塩野七生『ローマ人の物語XIII 最後の努力』
 石橋秀雄他 『世界史大年表』
 『ヨーロッパ全史』(サイモン・ジェンキンス著)青土社