Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe337年   

335年gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト)340年

コンスタンティヌス大帝後の三分割統治

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概略

337年に死去したコンスタンティヌス大帝の葬儀はコンスタンティノープルで行われたが、3人の息子のうち担当地域の距離から、長男コンスタンティヌス2世と三男コンスタンスは参加しなかった。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノープルにいる親族は粛清されることとなる。 粛清は次男コンスタンティウスによると思われる。コンスタンティヌス大帝の異母弟2人とその子ども(大帝の甥)のうちすでに分割統治をしているダルマティウスとハンニバリアヌスである。幼いガルスとユリアヌスは殺されなかった。 3人の息子は会談を行い、揃って皇帝(アウグストゥス)となり、殺したダルマティウスとハンニバリアヌス統治領の分割を決めた。


377年コンスタンティウスによる粛清(;粛清された皇族)

コンスタンティウス・クロルス コンスタンティヌス大帝 コンスタンティヌス2世
    コンスタンティウス
    コンスタンス
       
  フラウヴィウス・ダルマティウス ダルマティウス
    ハンニバリアヌス
       
  ユリウス・コンスタンティウス ガルス
      ユリアヌス

コンスタンティヌス大帝死後の三分統治
335年  この頃からコンスタンティヌス大帝の3人の息子と2人の甥による分担統治システムがはじまる。担当のエリアは以下のとおり。
コンスタンティヌス2世(長男) ガリア、ヒスパニア、ブリタニア
コンスタンティウス(次男) 小アジア、シリア、エジプト
コンスタンス(三男) イタリア、パンノニア、北アフリカ
ダルマティウス(甥) ダキア、トラキア、マケドニア、ギリシア
ハンニバリアヌス(甥) 北部メソポタミア、アルメニア王国
337年  5月 コンスタンティヌス、ペルシアによる軍事行動に対抗するため、東方へ向かうが、ニコメディアで病死(64歳)。臨終の床で洗礼を受ける。
 7月 コンスタンティヌス大帝の葬儀後、次男コンスタンティウスによると思われる粛清。副帝のハンニバリアヌス・ダルマティウスを含むフラヴィウス家一族を虐殺させる。
 コンスタンティウス、コンスタンティヌス2世、コンスタンスの大帝の息子3人による分割統治。;コンスタンティヌス2世が西方皇帝(〜340)、コンスタンスがイタリア・イリュリクム・アフリカの皇帝(〜350)、コンスタンティウス2世が東方皇帝(〜361)になる
 ローマ司教ユリウス1世就任(〜352)

資料   塩野七生『ローマ人の物語XIV キリスト教の勝利
 石橋秀雄他 『世界史大年表』
 『ヨーロッパ全史』(サイモン・ジェンキンス著)青土社