306年、7月ブリタニアで北方蛮族征討戦中の西方正帝コンスタンティヌス・クロルスが病死。息子のコンスタンティヌスは兵士の推挙を受け、帝国西方の正帝に即位した。コンスタンティヌスは、父コンスタンティウス・クロルスがマクシミアヌス(前西方正帝)の娘と再婚する前の先妻の子で、父の副帝即位後はオリエントに送られていたが、そこで18歳から30歳までの大切な時期にディオクレティアヌス帝の元で軍務経験を積んだ。
コンスタンティヌス自らが帝位に就いたことで、ディオクレティアヌス帝がはじめた、一人の皇帝に統制された四頭政は崩壊した。
一方、マクシミアヌスの息子マクセンティウスは、皇帝の息子でありながら、帝位に就けないことを不服とし、ローマで皇帝即位を宣言し、四頭政に不満を持つ元老院、ローマ駐在の近衛兵に承認され、税制など不満を持つローマおよび周辺都市の市民に歓迎された。
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