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はしがき
2012年は、1972年の沖縄の日本への返還後40年の節目となり、沖縄振興体制が、主として沖縄側の働きかけによって変節を余儀なくされ、新たな統治の「仕組み」の元年となった。
戦後沖縄の統治構造は何度か大きな変化を経験している。1972年5月の施政権の日本返還までは、米軍による直接支配のもとに、限定的ではあるが自治の仕組みが作られ、沖縄の人々による人権と自治を求める闘争により、次第に自治権が強化されてきた。1945年8月29日に発足した沖縄諮詢会から、沖縄民政府、群島政府を経て、1952年には琉球政府が設立された。1952年から72年の琉球政府及び琉球立法院の仕組みは、比較的安定して20年継続した。米軍により任命された行政主席を首班とする琉球政府があり、すべての立法、行政についても、また司法についてまでも、米軍政府が事前にそして事後に統制していた。
米軍政府にとって沖縄統治の最優先事項は、米軍基地の自由な使用と安定的な維持であった。琉球政府といっても、軍政にとってはそのために作った制度である。沖縄の人々が求めた人権と自治は、そして平和な島への願いは、この軍政の目的に従属するものでしかなかった。1963年当時、米軍政トップのキャラウェイ高等弁務官は、「沖縄の自治は神話である」とした。また別の軍人は、軍政と沖縄の自治との関係を猫とねずみの関係にたとえ、猫の手のひらにいるねずみであると言い放った。
そもそも在沖米軍基地の多くは、宜野湾市の普天間飛行場のように、農地や集落、人々の生活空間であった土地を沖縄戦以来の軍事占領を継続したままか、または同市伊佐浜のようにいったん返還した後、銃剣とブルドーザーで集落と農地を不法につぶし、いわば強奪するような形で作ったような基地である。露骨な人権の侵害状況であり、それを認めることは自己の尊厳の否定につながる。だからこそ、その土地の返還、あるいは基地の撤去に強くこだわってきたのである。沖縄の施政権返還から40年たった今日、復帰運動を求める原動力となった人権、自治、平和な島への願いは、かなえられたのだろうか。
答えは、否である。施政権返還のそもそもの条件が、米軍の特権をそのまま保持することであり、基地の保全と自由使用であった。「日本復帰」とともに日本政府が押しつけたのは、地主の意思に関係なく米軍用地の強制使用を形式的に合法化する「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律(公用地暫定使用法)」(1971年12月31日公布・施行)であり、それこそが日本の沖縄統治の本質を表すものであった。
日本返還以前のあからさまな米軍の支配に対して、返還後の沖縄振興開発特別措置法を柱とする沖縄振興開発体制は、一見、その目的が、「沖縄振興開発」として掲げられたかのようにみえた。公用地暫定使用法がムチとすれば、いわばアメにあたる。遅れた経済や産業を発展させて、格差を是正し、「自立」を達成していくという文言が振興開発計画には掲げられていたからである。特定の地理的空間を所轄する総合的な領域担当省庁の設置、つまり、北海道開発庁及び北海道開発局をモデルとして、「格差是正」を名目とした新しい国土の遅れた社会資本の整備の機構である。そのための各専門省庁の予算計上を、沖縄開発庁を設置してそこに移し変えて一括計上する権限を与え、また総合的出先機関としての沖縄総合事務局をおいた。言うなれば、社会資本整備に関連する公共事業予算を最大化、最速化するために制度構築されたものである。
しかし、返還後の体制の看板、そもそもの表向きの「産業振興」や「経済開発」を通して格差を是正し自立経済を達成するという目的は、どれほど成功したと言えるのだろうか。結果を見れば一目瞭然であり、一定の社会資本の充実はあったものの、格差是正や経済自立にふさわしい十分な産業や経済の発展があるとは言えない。
復帰の際に制定された復帰特別措置法、沖縄振興開発特別措置法などの法律は、第3次沖縄振興開発計画(1992年4月~2002年3月)に至るまでは沖縄の基本的な統治体制を構成していた。その内実は、米軍基地から派生する問題や基地の整理縮小については、沖縄の総合計画として位置づけられているにもかかわらず、振興開発計画においていっさい取り上げないこと、この計画の策定及び推進主体である沖縄開発庁に基地から派生する問題を取り扱う部署や担当者一切置かないということであった。それは、基地問題については、公的にいっさい取り組まない、関与しない仕組みということができるが、結果として基地の存続に貢献するという仕組みである。
この仕組みは、沖縄の計画や予算の主目標を、基地問題の解決ではなく、公共事業の極大化を図り社会資本整備に特化していくことに「すり替え」ていくことに大きな力を発揮した。振興開発の中身は、産業振興や経済の自立発展よりも公共事業そのものの極大化となり、かえって財政依存的な体質が徹底していく40年であったといえよう。
さらに1990年代の大田昌秀県政後半以降、国のムチの部分、米軍基地の土地収用に反対する代理署名裁判が起こり、「国際都市形成構想」という、沖縄初の沖縄側からの総合的な計画が発表され実現が要求されると、新しい機関と補助の仕組みが作られ、基地と振興開発の直接的な「見返り」「リンク」が設定され始めた。政府や政党は、第3次沖縄振興開発計画まで、「格差是正」や「償いの心」を錦の御旗にして、基地への見返りであるとは決して公で主張することのなかった。しかし、いわゆる島田懇談会事業、北部振興事業、米軍基地再編交付金等、これまで基地政策協力への補償(見返り)を、公に主張し始め、また、再編交付金においては、国の政策への協力の態度が補助金提供の根拠と明示されることによって、この見返りは公然のものとなった。
これによって、世界各国の米軍基地の維持政策に関して、ケント・E・カルダー(Kent E Calder)が概念化した「補償型政治」の典型的な事例となる。1998年に登場する稲嶺恵一県政以降は、基地の維持存続あるいは強化再編と露骨にリンクした振興体制が次々と構築されていく。沖縄担当大臣の設置、沖縄開発庁から内閣府沖縄担当部局の変化など、1990年代後半に始まる変化は、まさしく基地の再編という軍事的目的のために沖縄統治の仕組み、振興の仕組みが形作られていることが、露骨に現れてきたものだと言える。沖縄振興開発特別措置法は、2002年に廃止され、それに代わって沖縄振興特別措置法が同年施行された。狭い意味では、この法律に基づく体制を示して「沖縄振興体制」ということができる。
なお、本論において詳細に説明するが、本書では沖縄振興開発特別措置法に基づき、「格差是正」を看板とし、基地への見返りを公にすることが不可能でありまた統治の仕組みとしても直接リンクする仕組みを設置することができなかった1972年から1998年の稲嶺知事の登場の前までを「沖縄振興開発体制」とし、基地への補償であることが政府や政党の幹部から公言されるようになり直接リンクする仕組みが整えられた稲嶺県政以降を「沖縄振興体制」として表現している。両体制は施政権返還後40年、本質的に米軍基地の安定存続と自由使用のため仕組みとして機能しており、また高率補助や一括計上等、同一の仕組みを備えているのと捉えているが、正確を記するために2つの体制を意味する場合「沖縄振興開発体制及び沖縄振興体制」と表現している。
2009年の政権交代により誕生した民主党は、これまでの沖縄統治の仕組みを全面的に否定する政権構想を描いていた。マニフェストの沖縄版として「沖縄ビジョン2008」を掲げ、普天間基地の県外移設はそこに明記してあった。しかしながら、鳩山由紀夫政権は、何もできずに結局、辺野古への普天間基地の移設という自民党時代の政策に後戻りしたのだ。
沖縄における返還前に等しい米軍の全土基地化及び自由使用の実態は、その詳細な検証を待つまでもなく明らかである。このことは沖縄の地に足を付ければ、数多の情況証拠によって沖縄のおかれた現状があきらかになる。いま、この瞬間にも沖縄の空には、安全を守るべき日本の航空法が適用除外された米軍用機が市街地の上を法定の安全基準を無視した低空で飛んでおり、騒音が人々の基本的権利や自治権を侵害しつづけている。さらに危険と言われる新型機オスプレーの普天間基地配備も、沖縄の民意を無視した形で着々と進められている。沖縄はいまもそこに暮らす人々の人権や自治権を侵害しながら、なおも米軍に自由に使用されつづけ、維持されつづけている。
くりかえしになるが、日本政府の沖縄統治、政府の進める沖縄振興にとっての暗黙の前提であり、かつ最大の目的は、在沖米軍基地の自由使用と安定維持と言ってもよい。日本政府が作った沖縄振興体制や振興策は、その目的に抵触しない範囲で可能となるか、その目的に従属するか、あるいは支えるようにしか存在し得ない。
このような大前提のもと構成されてきた沖縄振興体制がもたらしたのが、沖縄の「軍事的植民地化」である。アイロニカルに言えば、日本復帰は、「植民地ですらない、それ以下の米軍による軍事占領」から日米両国の軍事的な「植民地」に昇格したというだけの状況だと言うこともできる。
露骨な圧制から、人権や自治を大きな看板として島ぐるみでその追究を共有していた米軍支配の時代に比べ、公共事業を中心とする利益還元型政治を主な手段とする豊富な懐柔策に裏付けられた日本政治の仕組みは、還元される利益にまとわりつく「植民地エリート」を増長させた。さらに地域社会を徹底的に分断し、対立を激化させ、沖縄の人々の政治的主体性を著しく後退させ、沖縄の自治の破壊、ガバナンスの腐敗をもたらしてきた。1990年代の大田県政以降、投票率は劇的に低下し、2000年に地方自治法が改正されてもなお、自治能力の向上はほとんど見られなかった。むしろ基地に関連する新たな補助金に翻弄され、自治とは補助金を取ってくることだという風潮が蔓延するようになってきた。
他方で1998年の稲嶺保守県政登場以降、新たな状況も生まれた。沖縄振興予算の4700億円の総額から、約半分の2200億円までの減額である。大幅に縮小していく予算の中で国は、基地再編の交渉相手を県から市へ、市から区・字へと絞り込み、補助事業の対象をより小さな単位へとピンポイント化することによって、「見返り」性を強め、基地の維持存続や再編強化を図ろうとした。カルダーのいう基地と振興が見返りとしてリンクする「補償型政治」の浸透である。構造改革、財政再建により縮小する財政の中で、国策推進のより効果的な方法ということもできる。
しかし、還元される利益の縮小は、それに関与していた保守支持の勢力からも沖縄振興体制についての懐疑をもたらすものとなり、さらに民主党政権への政権交代は、沖縄の保守側と中央政府や与党議員との政治的ルートが途切れることを意味した。つまり、これは保守政党を介した利益還元政治の脆弱化をさす。
2009年の政権交代後、沖縄においては仲井真弘多県政を支える地元経済団体と自民党が普天間基地の県内移設を反対に転換する。同時に経済団体中心で新しい沖縄の自治構想が提案される。2010年の知事選挙において、自民党沖縄県連は、普天間基地の県外移設を打ち出し、辺野古への移設を事実上拒否すると同時に、保守県政が続く沖縄側から、この沖縄振興体制にとって代わる仕組みの導入が要求されるようになった。具体的には、再選された仲井真は、国の沖縄における直轄事業と補助事業からなる沖縄振興予算総額を3000億円、すべて自由に使える一括交付金として沖縄県に配分することを要求した。そのため国の出先機関である沖縄総合事務局の沖縄県への吸収までを提案したのである。さらにその仕組みを沖縄振興特別措置法の中に盛り込むよう振興体制の刷新を要求した。2012年4月には、同法は改正され部分的には仲井真の要求は実現したのである。
本書は、もともと多様な依頼先から、その時々の沖縄に関するその誌の問題関心等から依頼されたテーマについて別々に書いてきた多数の原稿を再編したものである。編集の際に注意したのは、いわゆる「沖縄問題」の本質がどこにあるのかについて、沖縄統治の「仕組み」がどのような政治的行為主体等によって、どのような意図で、またどのような理由づけや根拠によって構築され変遷してきたか、特に1990年代以降の政治的変容と制度改革に焦点をあて解明していくことによって、答えを得られるように試みた。しかし、書き下ろしと違い、一貫性の高い整理された書物となっているかはなはだ心許ない。また、非決定の権力や三次元的権力論、新制度論的なアプローチに影響されつつ、沖縄を取り巻く政治・行政の現状把握と解明が最優先されており、政治学や行政学における理論的貢献が十分でない。その点あらかじめ深くお詫び申し上げたい。
復帰40年の総括として、何がこれまでの沖縄振興体制という政治的な仕組みを作り上げたのか、それがどのような機能を果たし、なぜ、制度改革が行われたのか、そして沖縄の自治の発展にとっては、どこに制約や限界があったのかについて明らかにする試みである。特に焦点を、国政において「非争点化」されていた沖縄基地問題が、「争点化」され、それまでほぼ制度的変容がなかった沖縄の統治の仕組みや自治のあり方が変わっていく1990年代後半以降においている。そして2012年の改正沖縄振興特別措置法が、その限界を克服する改正となり得るのかという点について分析を行い、沖縄自治の再生、ガバナンス構築の展望が開ける仕組みとなっているのかについて論じていく。
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序 章 戦後日本政治の根源的病理と沖縄
Ⅰ 戦後日本政治の根源的病理
1 戦後憲法の不幸
1972年、沖縄の日本への施政権返還に伴い、日本政府は、沖縄振興開発特別措置法を中心にいくつかの特別法を用意し、一般に「沖縄振興開発体制」と呼ばれる統治の仕組みを作り出した。この仕組みは、2000年の省庁再編における沖縄開発庁の廃止と内閣府沖縄担当部局の新設、2002年の「振興開発」から「開発」を抜いた沖縄振興特別措置法の制定を経て、基地の補償という性格が顕在化した「沖縄振興体制」と呼ぶことができる。しかし、40年間の長きにわたりその本質は変更されることなく2012年3月まで継続してきた。
この体制が、2013年3月の同法の一部改正により終焉し、新たな仕組みに完全に移行したと言えるのかどうかについては、まだ明確な回答は出せない。施政権返還後40年間の沖縄統治の仕組みを「沖縄振興開発体制及び沖縄振興体制」と呼ぶことにすると、それは、安保体制、すなわち日米安全保障体制に密接に組み込まれたシステムだといえる。日本の政治の基本構造の中で沖縄に対する統治のあり方が規定され、国策が作られ、そして沖縄の自治がある種特殊な特徴を持つに至ったのである。
戦後、日本国憲法は非常に不幸な出発をした。建前としては、国民が定める主権国家の最高規範であり、基本的人権の保障、国民主権、あるいは平和主義という原理があった。この考え方は軍事占領下の沖縄にとっては衝撃であり、羨望であり、これをめざして復帰運動が起こったといわれる。しかし、戦後日本の現実というのは、占領期間中はもちろん、講和条約後さえも、「米軍の特権が上、憲法は下」であった。この事実をわれわれはきちんと見つめなければならない。さらには沖縄をアメリカ軍に差し出し、沖縄へ基地を集中させることによって、日本本土に憲法があたかも実現しているかのような状態を演出する、見せかけの主権国家というのが日本の戦後政治の基本的な構造である。これは根源的な病理といっても過言でない。さらにメディアや政治学者を含め、ほとんどの人々がそれを最も重要な問題だと認識すらしていないことがより深刻だ。
豊下楢彦は、それを『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』1)により明らかにした。すなわち、アメリカ駐留軍による戦後日本の支配を経て、1952年のサンフランシスコ講和条約で独立を回復したということになっているが、日米安全保障条約の締結と引き替えの独立講和であり、その核心は52年以前と同じような占領軍としての特権をアメリカ軍に与えたことである。これが安保条約の本質である。その外交過程の中で昭和天皇が非常に大きな役割を果たしたということが立証されており、日米安保体制は戦後日本の「国体」ということになってしまったという主張である。日本の主要なメディアや官僚、政治それを当然の前提とするようになった。
2 独立講和と日米安保
日本の独立講和は、明らかに対米従属的なものであったがゆえに、60年安保改正に臨んだ岸信介政権は、当初は「主権を回復する」という最重要な課題があった。ところが元来の目的がずらされ、すりかえられ、結局改正安保条約も表面的な改正にとどまり、米軍の特権保持については旧安保と変わらないようなものになってしまった。具体的には米軍の特権は行政協定から地位協定に引き継がれ、地位協定の中でさえ明示できない部分については「密約」により今日まで続いている。
近年の民主党政権の数少ない成果の一つとして、次々と米国との「密約」を明らかにしたということが挙げられるだろう。条約は国民代表機関たる国会の承認が必要であるが、それを回避するため行政的なとり決めという地位協定によって特権を認め、さらに国民に知られるとまずいことについては密約を行う。そのこと自体、国民主権の侵害であるが、たとえば米軍人・軍属に対する裁判権放棄の密約、沖縄の施政権返還に関連する密約等の存在が明らかになってきた。アメリカ軍の前には基本的人権の保障、主権在民もない。平和主義についても、「非核三原則」、「専守防衛」等が、密約でないがしろにされていることが判明した。立憲主義が放棄され、日本では憲法が国家の最高規範というのは現実でない。1955年に講和条約を結んで独立するドイツやイタリアではまったくあり得ない状況である。
それでも、日本国憲法が最高規範とされるべきこと、人権保障や平和主義を追求することは、政府にとっては大きな圧力であり、国民に対してたとえ見せかけでも日本国憲法の実現を追求している姿を見せる必要がある。そこで、1957年から58年頃、本土にあるアメリカ軍の基地、特に海兵隊の基地を、憲法が適用されない沖縄に、徹底的に集中させていく。それによって日本本土では、憲法が最高規範的な状況を実現していった。国民の大半はそこで満足して終わってしまった。
若泉敬2)がこの状態を「愚者の楽園」と呼んだが、安保が憲法を侵害している状態は未だに継続している。矛盾は密約で、そして基地を沖縄に集中することでごまかしこの問題を考えたくない国民は思考停止し、メディアはさらにそれを固定化している。という状況である。
3 復帰運動の「日本」と日本の実態
沖縄にとっては戦後憲法が復帰運動の最大の求心力、最大の力の源であった。復帰運動がめざしたものは「人権・自治・平和」であり、それを作っていく沖縄が自ら歴史創造の主体、政治的主体となっていくことをめざしたものと言われている。そのような内容が盛り込まれて新しい沖縄の自治の姿を描いた「屋良建議書」が琉球政府により作成され、1971年11月に日本政府に提出された。しかし、これは政府により完全に無視されただけではなく強行採決で、復帰後の沖縄の振興開発体制を構成する諸法が可決されてしまった。日米両政府にとって、沖縄返還の要諦は、沖縄において人権・自治・平和を実現するためでは当然なかった。端的にいえば、アメリカ軍にとって在沖基地の自由使用及び安定維持を図るためのものであった。その目的を在沖の米軍政府が担っていたところから日本政府がその役割を担う、統治主体の交代、それが沖縄返還の本質的な目的であった。そのため、沖縄の人々の土地を強奪して建設した米軍基地であるにもかかわらず、その基地の存在、あるいは米軍による沖縄の全土基地化、自由使用を無理にでも合法化する必要があり、様々な実質沖縄にしか適用されない特別立法が用意された。民間地主の意思にまったく関係なく米軍基地の土地使用を形式的に合法化する「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律(公用地暫定使用法)」(1971年12月31日公布・施行)は、このことを最も端的に示す法律である。
復帰特別措置として用意された多様な特別立法、特別措置の目的は、いわばムチといえる沖縄の人々の人権を侵害する米軍基地の維持と自由使用の保障にあり、アメといえる公共事業の極大化を図る沖縄振興開発に関わる仕組みは、むしろそれを支える存在であったと考える方がよい。
Ⅱ 日本政府による沖縄の統治
1 沖縄振興開発体制=基地問題の非争点化システム
沖縄の自治に関する琉球政府の要求として出された屋良建議書を無視し、拒絶して、代わりに作った沖縄振興開発体制は、新全国総合開発計画の時期(1969―77年)に作られたもので、全国総合開発計画の拠点開発方式を沖縄に導入したものである。「国土均衡発展」「格差是正」のための国土開発といえば聞こえはいいが、田中角栄に代表される「利益還元政治」と表裏一体であり、裏を返せば公共事業による利益還元政治そのものである。沖縄振興開発計画の特徴は、沖縄と本土の格差是正を特定の公共事業に投資が集中するようにしたものである。復帰運動の主要な主張、人権・自治・平和が最重要な目的から、格差是正、そしてそのための振興開発こそ最重要というように問題のすり替えが行われた。
これが功を奏する。沖縄のメディアも政党も、記事において、政治的課題として「振興開発」、「振興開発のあり方」を頻繁に取り上げるようになり、県民もまた「振興開発」が最重要というふうにいわば洗脳されてしまう。しかし、沖縄振興開発計画の策定及び実施の主体、責任と権限は、最初から国である。沖縄振興をどうするということが県民の間から主張されても結局は、国主体の計画とその実施に沖縄県民が取り込まれているという仕組みになっていたのである。
問題は、在沖米軍基地問題を国政のレベルにおいて争点化させない、政治的な議題とさせないシステムということができる。閣僚をトップにおき、総理府採用の職員と公共事業 関係省庁の職員及び大蔵省・自治省からなる混合組織が沖縄開発庁であり、外務省・防衛省からの出向者は不在であった。公共事業を中心とする沖縄振興開発に外務・防衛は、関係ないということで基地に絡む問題はいっさい取り扱わない、取り扱わせないという仕組みであった。
自民党田中派以来の利益還元政治は、高度成長期以降の日本政治の仕組みそのものといっても過言ではない。筆者は沖縄振興開発体制を別名、沖縄の利益還元政治マシンと名付けている。米軍支配による国政不参加で、中央と沖縄の利益還元の政治ルートと行政とのルートがともに弱かった。その両ルートの強力に補完したのが、山中貞則初代沖縄開発庁長官であった。山中は亡くなるまで沖縄利権を手放さなかった。沖縄の最重要課題が沖縄振興開発にすりかえられ、沖縄が振興開発に努力すれば努力するほど、戦後の日本政治の根源的な病理を回避して、アメリカ軍基地の固定化に取り込まれていく仕組みになっている。これが沖縄振興開発体制の本質であった。
2 「振興」に偏重させられる構造的な問題
沖縄振興開発体制の本質的な問題は、沖縄振興体制にも引き継がれた。振興に偏重させられた構造的な問題であり、振興開発の仕組み、つまり統治構造自体の是非への問いかけがもはや不能になってしまう。頑張ったら良くなるのではなく、頑張ればがんばるほど取り込まれる。この構造の根本的な問題を明らかにし、構造の刷新を唱える政治家やメディアは本土でも沖縄でもわずかな例外を除き長らく登場しなかった。
直近の知事選に至るまで、沖縄のメディアの報道は、「沖縄の次の振興をどうするか、沖縄振興のあり方が問われる」といったレベルで問題設定をしてしまい、振興そのものの仕組みをどうするかという問題設定ができなかった。そうなると、現在の振興体制がもたらす構造的なゆがみを正すことができなくなり、その枠の中で振興策の中身をどのようにするのかということになってしまう。経済振興、産業振興などに特化するゆがんだ問題設定をメディアを含め、沖縄の人々が自分たちでやってしまう。沖縄社会のニーズを顧みないゆがんだ振興策の固定化、公共事業偏重のゆがみの固定化を後押しすることになったわけである。
沖縄振興開発計画及び沖縄振興計画は、極めていびつである。米軍統治下、1972年以前は沖縄の大半の道路は満足にアスファルト舗装さえされていなかった。復帰直後の、第1次振興開発計画(1972年―81年)の時の振興開発予算に占める道路整備予算の割合は、34.2%であった。道路事情からすればこの高い比率も理解できる。しかし、全国並みに整備された2000年代に至り、沖縄振興計画の時代になった後も全予算に占める道路の比率は32%を超える。1970年代と2000年代では、沖縄の変化はすさまじい。にもかかわらず、何もなかったかのように、沖縄社会や経済の変化、社会的なニーズの大きな変化など無視され、公共事業の配分費は、完全に固定化されてきた3)。つまり、高率補助のために結局は、事業の優先順位を決める選択権を実質的に奪われていたということができる。
Ⅲ 日米安保の変容と分権改革
1「沖縄国際都市形成構想」の意味
1990年代中盤以降になると、沖縄振興開発体制は、大田昌秀県政の発起した国際都市形成構想によって大きく揺らぐ。防衛・外交問題を回避し「振興開発」だけを担当してきた沖縄開発庁を見限り、首相官邸、内閣府の力を利用することで、沖縄基地問題を国政の争点として浮かび上がらせ、さらにその争点解決が可能な新たな沖縄振興の仕組みを模索し、最終的には沖縄県主体の振興体制の構築を目指したのが、国際都市形成構想の眼目であった。
国際都市形成構想の重要な要素は、第一に基地返還アクションプログラムの提案による段階的な基地の撤去、第二に全島フリー・トレード・ゾーンと呼ばれる自由貿易の推進、第三に開発庁の廃止とその権限、財源、組織等の県への移譲があった。
この第三の開発庁の権限の県への移譲の点が非常に重要であり、日本政府は沖縄を統治する利益還元マシンを失う可能性があった。これが山中貞則のもつ沖縄利権と正面から鋭く衝突すると同時に、沖縄に対する統制手段を失うことは在沖米軍基地の存続を不可能にする。
そのため、急激な巻き返しが日本政府によって引き起こされていく。それが、国と県の協議機関、あるいは県をバイパスして国が直接市町村を取り込む新たな利権の仕組み、すなわち、いわゆる島田懇談会事業や北部振興策事業等を内包した沖縄振興体制の構築につながる。
ここまでいびつな補助事業の展開を図った背景には日米安保体制の変化がある。1996年の日米共同宣言以来、日本の有事、防衛に関連する国内法の整備が急激に進展する。周辺事態法、ガイドライン、国民保護法と、有事体制の整備が進む。ほぼ同時期に進展した分権改革の成果として、機関委任事務を廃止した2000年の地方分権一括法が高く評価されているが、沖縄では国の政策に対する抵抗権、拒否権として機能した機関委任事務(非契約地主の土地収用に関連する代理署名事務)を奪い取って、国の直轄事務にするという、分権改革の理念に逆行することが行われている。
防衛問題に関しては、自治体の権限を奪って中央に自治体を従属させる法律が次々と制定された。誰が「有事」と判断するのか。実質的には米国とならざるを得ず、また日本全国の自治体が米軍への軍事行動に対する協力を義務付けられる。「分権改革」の名のもとに日米軍事同盟強化の片棒を担いで米従属的な集権化に貢献したという見方もできる。特に沖縄ではより露骨に国策優先のため自治体の抵抗権の剥奪、沖縄の自治潰しといえる。
2 振興体制と新たな振興事業=軍事的植民地化
より露骨な国の自治介入の問題は、1997年から始まる沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(通称、島田懇談会事業)、北部振興事業による事業など、普天間移設問題移行、新たに増設された補助事業である。これは日本の国の補助金の中で極めて例外的な仕組みである。通常、その事業を必要とする地域ニーズがあり、それに対応する事業目的があり、国への補助事業の申請となる。その中で補助率のよい国の補助メニューの選択など、自治体はニーズ、事業目的、補助率等の条件を刷り合わせながら事業を組み立てていく。
しかし、島田懇談会事業や北部振興事業は、まさしく「つかみ金」であり、まず最初に各事業1000億円の総額が決定され、基地所在市町村、普天間の移設先の沖縄本島北部自治体と交付対象自治体が決定され、次に該当する市町村が、事業目的をどうにか短期間でニーズの把握も十分でないままに作り、下りてきた金の分捕り合いをした。自治体では身の丈に合わない事業、標準的自治体の施設ではない事業の導入を誘発した。実質10割補助という極端な高率補助で、極めて「筋の悪い」ハード・ハコモノを乱立させる。建設費は、全額補助で作ったとしても標準的な施設ではないので交付税交付金からの維持管理費に対する手当てもない。自治体の一般財源から持ち出しとならざるを得ない。
それゆえ、住民の意思やニーズと関係のない、したがって生活の向上に結びつかないアミューズメント施設や観光業的な施設を作ってしまうことになった。これらは、地域住民が利用できないものや、商業的に成功できず赤字となり一般財源からの補填でどうにか維持されている施設が大半である。住民にとっていずれもありがたみがない。基地とリンクした国の補助事業は、こうしてやればやるほど自治体の財政規律は破壊されていく。金は下りてきているはずなのに、住民の生活に無関係な施設の乱立するだけであり、生活の質もいっこうに向上しない。そして維持管理費によって自治体財政が圧迫され、経常経費が削減され、あるいは教育福祉等の予算が削られていくようになっている。
さらに悪質なのが、2007年から導入された米軍基地再編交付金であった。よりいっそう例外的な制度である。通常、日本の国庫支出金による国庫補助事業には事業目的がある。自治体にとって、地域住民にとって何かを改善する必要性が、補助事業は支出の根拠となっている。したがって、補助金を出す場合は、それが妥当であるかどうか、たとえ名目的であったとしても、なんらかの事業目的の看板を掲げている。しかし、この再編交付金には、それすらない。では、何を根拠に支出されるかといえば、米軍再編への自治体の協力態度を、防衛大臣が判断して、良ければ出す、というものである。態度が悪ければ、いかに生活に必要な、あるいは住民の生命の維持に直結するような事業を実施していたとしても打ち切られる。つまり、沖縄は日本の自治体とは異なる、軍事目的優先で国にコントロールされ限定的自治しかない軍事的植民地とみなしていると考えざるを得ない。
島田懇談会事業の導入以降、国の基地政策の「見返り」としての振興策がばら撒かれており、基地と振興策がリンクするという、いわゆる「リンク論」が当然の主張されるようになってくる。米軍基地の世界的な受け入れ国における状況を概念化したケント・E・カルダーは、このような見返りの政治を、「補償型政治」と名付けている4)。
Ⅳ 沖縄からの問いかけ
1 沖縄振興予算と基地関連収入
沖縄振興予算のピークは1998年の4430億円で、そこから2009年度には2160億円と2分の1以下まで減少した。ところが同時期に基地関連収入は拡大した。安保体制の強化と絡んでいる。大田昌秀県政の末期から稲嶺恵一県政にかけて、外交・防衛の出向者を受け入れて沖縄問題担当の中央政府組織を再編し、内閣府に沖縄担当大臣及び担当部署を設置した。稲嶺県政はグローバル化を拒否し、全島フリー・トレード・ゾーンを撤廃して、再び基地との見返り性を強化した利益還元型を推し進め、利権政治に回帰させた。
沖縄における米軍基地の再編・強化のための地元対策に乗り出したのは、防衛省である。旧沖縄開発庁は「庇を貸して母屋を取られる」ような形で、渡辺豪が『アメとムチの構図』において明らかにしたように防衛省主導のアメとムチに牽引されていく5)。同書において渡辺は、守屋武昌防衛事務次官、佐藤勉那覇防衛施設局長の地元工作について指摘している。守屋は、これまで沖縄側の利権要求に国策が翻弄され普天間基地の辺野古移設が遅れてきたとして、強引な地元工作を正当化している。しかし、日本政府と沖縄の間での権力の圧倒的な偏在、非対象の中で、沖縄がまるで日本政府を手玉にとって利権を拡大しているような話は説得力をもたない。
国は、基地移設の「地元」、あるいは受け入れての交渉相手、つまり補助金給付の相手を県から市町村へと限定していき、さらに字あるいは区へと小さくしていくと同時に、島田懇談会事業、北部振興事業、さらに再編交付金という基地移設と、より明白により直接的にリンクする仕組みを作っていった。基地と引き替えの保障型政治の進展である。宮本憲一は2010年に沖縄大学で行われた『沖縄論』(岩波書店、2010年)の出版シンポジウムにおいてこのような補助事業を国から市町村、地域への「賄賂」と呼んだが、それはモラルハザードを引き起こし、地域社会の破壊、財政規律の崩壊、沖縄の自立の破壊が誘発されている。
振興予算に加え、軍用地料、米軍人・軍属の沖縄における消費、それから軍雇用者の給料という基地経済といわれる部分は確かにある。しかし、先に返還された那覇や北谷の跡地と返還前の経済を比較すると、民間地としての地料、雇用者数などは数倍から数十倍にあがり、自治体にとってははるかに大きな財政力を生む。北谷町ハンビー飛行場跡地で税収は80倍増、美浜地区で20倍増である。長期的全体的にはどう見ても基地開放後の利益の方が大きい。
2 沖縄からの問いかけ
沖縄振興体制とはなんだったのか。沖縄の日本への施政権返還の最重要な条件が、在沖米軍基地の自由使用と安定維持であり、それこそ日本政府にとっての沖縄統治の要諦であったことはすでにくりかえし指摘してきた。つまり沖縄を軍事的植民地にする構造・手段であり、日本にとっては憲法形骸化、主権侵害の対米従属の戦後国体護持のための仕組みになっていた。
この根源的な戦後日本政治の病理の問題を、民主党政権の政権担当能力問題、鳩山由紀夫首相個人の能力の問題に矮小化しすり替えて、考えようとしない。あるいは、北朝鮮の不安や中国の台頭など国防や安全保障上、現在の在沖米軍の維持、さらなる強化がどうしても必要なのに、基地利権を沖縄が求めていてそれで国策がゆがむ、辺野古移設を納得しない沖縄が悪いということで、蓋をしてなんの問題意識も持たない、これが今の日本を覆う主要な発想となっている。
鳩山は、普天間基地の県外移設断念の際に説明に用いた「在沖海兵隊の『抑制力』は、方便であった6」」と首相退任後明らかにした。軍事的合理性を論拠とする在沖海兵隊基地の必要論は、もはや見あたらなくなってしまった。安全保障の具体的な中身も在沖米軍の具体的な中身もほとんど検討することもなく、米軍がとにかくいるだけでいいという前提のもとに沖縄の要求を利権要求、エゴと見なす姿勢である。しかし、現実には沖縄の経済界や保守政治にとってさえもはや利権としての魅力も低下している。
基地返還は、短期的には軍雇用者の失職、地主の軍用地料収入の喪失など部分的な不利益が存在するが、中長期的には明らかに民間地としての活用が格段の経済発展をもたらす。基地であることはその経済発展の可能性をわずかな基地関連収入と引き換えに失っていることを意味している。2009年の沖縄県知事選挙においては、これまで県内移設を唱えていた沖縄の自民党が大きな政策転換を行い、現職で再選をめざした仲井真弘多知事は、県内移設を否定し普天間基地の早急な返還を要求する公約を掲げることとなった。さらに当選後仲井真知事は、沖縄振興予算3000億円の、国直轄事業分を含めた全額一括交付金化の要求と沖縄総合事務局の県への統合を要求した。
それは、国の在沖米軍基地存続のための沖縄統治の仕組みである振興体制そのものの廃止を意味する。沖縄においてはもはや保守、地元経済界からも米軍基地の自由使用と安定維持のための仕組みである沖縄振興体制の廃止が要求されていると理解した方がよい。
仲井真県政は、そのことについて積極的には発言はしていない。ましてや一括交付金の目的を日本の政治構造の変革にあるという、主張を明示することはありそうにない。だが、一方沖縄のメディアは、基地の集中を「構造的差別」であるという論陣をはり、知事や那覇市長をはじめ沖縄の多くの保守政治家によってさえも「差別」や「不平等」との主張が目立つようになってきた。他方で、在沖米軍基地の整理縮小、撤去を許さない日本の「戦後国体」がまだ頑として存在している。自民党の改憲論は、個々人の基本的人権の保障のために、社会契約を行い、主権在民により権力機構を創出して、主権者が政府を統制下におくという憲法思想そのものからの脱却を目論んでいるように見える。森喜朗の「天皇が中心とする神の国」、安倍晋三の「戦後レジュームからの脱却」等々の言説が積み重ねられてきた。近代的な社会契約の憲法によって国を治めるという言説が積み重ねられてきた。近代的な社会契約の憲法によって国を治めるという規範を放棄し、米軍の特権を上から正当化する現実の状態に即した憲法―換言すればそれが日本における憲法の現実であろうが―に改正しようという動きと見ることができる。
このような動きに対して、沖縄からはどういう問いかけがなされているのか。近年の県民の動向をみると、県民の多数意思はこれをひっくり返そうと動いていることがわかる。つまり、憲法政治の実現を目指して、沖縄の民衆的な抵抗運動がずっと継続している。人権、自治、平和の追求、そして政治的主体性の回復が、今日でも沖縄の大きな課題として通底している。それをずっと日本全体に問いかけているのである。
しかし、沖縄以外で、主権国家の最高規範として主権在民で作った日本国憲法を実体化しようという切実な願いは感じられない。北朝鮮や中国に対するナショナリスティックな反応や「つくる会」の教科書の普及など、逆の方向にあるように思える。問われているのは沖縄ではなく、日本の戦後政治の病的なあり方であるといえよう。
Ⅴ 施政権返還後の沖縄統治の仕組み
1 北海道開発庁・北海道開発局モデルの導入
本章以下の節では、復帰から30年にわたってほぼ改革なく継続した沖縄振興開発体制についてその概要を押さえておきたい。これは北海道に関する国の特別な仕組みをモデルとしたものである。
1867年から1946年までの間、北海道は、府県制の採用されていた他地域(沖縄を除く、以下同じ)と異なり、太政官大臣としての開拓使長官あるいは内閣総理大臣(後年は主に内務大臣)直属の北海道庁長官が管轄する区域であった。したがって、当初衆議院議員の選出権も与えられず、北海道の一部ではあるが住民最初に総選挙に参加したのは、1902年の第7回総選挙であった。
その前年に、帝国議会は、『北海道会法』『北海道地方費』を議決し、地方団体としての北海道を成立させたが、「府県のような地域団体ではなく、公共事務を処理する権能も認められない、単なる費用負担団体であり、北海道法も、その費用を議決する機関の組織法たるに止まるものであった」8)。「北海道庁費」として一括計上されていた国庫予算は、1900年より北海道地方費と国費に分離され、新しい国費は「北海道地方費」と呼ばれることになった。
この拓殖費による開発事業を計画したのが、「北海道10年計画」であり、これ以後内務省が、帝国議会の協賛を経て北海道拓殖計画を樹立し、北海道に事業を実施させ、経理を担当させ、それを監督する体制ができあがった。
日本の未開発地であった北海道も、満州の獲得に成功し、次第に国土は拡張して行くと開発の重要性も次第に広大な海外領土に移ってきた。北海道に再び注目が注がれるのは、第二次世界大戦に敗れ、すべての海外領土と沖縄県を失って未曾有の食料危機に陥った戦後である。
戦時中から戦後にかけて、他地域においては、国政事務の直接執行のためブロック・レベルの国の出先機関が多数設置されるようになったが、北海道の場合は、ブロックの管区が同じであり、国の総合的出先機関でもある道庁が国政事務を処理していた。すなわち、他地域では掘り崩されていく戦前型の任命知事による府県制度と同様の「間接執行型」が完全に近い形で存在していたのである。
戦後、間接執行型の北海道の行政で国側にとって大きな問題となったのが、道庁の完全自治体化と知事の公選制である。間接執行型においては、その地域において国の専門省庁が直接的に指揮命令することのできる配下の執行機関を持たないゆえに、自省の指揮命令を貫徹させることが困難に思われた。国の拓殖費に基づいた行政も、選挙による知事の選出では、執行の過程で、中央各省の指揮よりも、地元の利益に左右されかねないと危惧された。社会党支持の知事が誕生し、このような危惧が極めて現実化してくると、中央各省は、国費による行政を北海道から分離し、出先機関の設置を目論む。内務省は、〈内務省-総合的出先機関〉という旧体制に近い形を望んだが、1947年には自省が解体の憂き目に会い、大蔵省と専門省庁との合意を中心に制度が整えられて行く。
現地出先機関である北海道開発局に関しては、道庁からの人員と予算の分離剥奪であり、北海道議会及び、知事は激しくこれに抵抗し、自治権の侵害を訴えGHQへの直接陳情等を行なったりしたが、阻止することはできなかった。
1951年5月、北海道は、開発局設置の問題に対し、意見書を提出しその再考を求めた。開発局の設置は、
①地方自治の確立を拒むものである
②行政能率の減退と行政費用の膨張を来す
③道、市町村の両自治体の協力関係を弱体化する
④長期開発計画の達成が困難となる
⑤地方行政調査委員会議の勧告並びに道関係者の意見聴取をまって処理すべきである
という点を強調した9)。
知事は政府に対し唯一の公式的発言の場である北海道開発審議会において意見を主張しようとしたが、開発庁内部の問題で法律上審議会に諮問すべき事項でないとされた。全国知事会、道民大会、新聞も政府のこの姿勢に批判的であったが、政府は、開発局設置を極めて迅速に取り運び、5月25日「北海道開発法の一部を改正する法律案」として第10国会に提案した。この国会において、様々な激論が交わされた。北海道の現地にのみ適用される法であることから、「憲法95条に規定する特別法として住民投票を要すると思うがどうか」という質問に対し、政府側は、「本改正案は、北海道の直轄事業の施行の仕方を府県並みにするということであるから、一つの地方団体のみに適用される特別法ではなく、従って住民投票を必要としない。又、北海道開発法自体は、住民投票を必要としなかったのであるから、その一部を改正する法律についても、同様に住民投票を必要としない。従って、憲法95条に抵触することはない」とした10)。
知事、議員をはじめとする北海道側の猛反発、自治権侵害の訴え、憲法95条が要請する特定地域の法律に関する側の住民投票の政府による無視等の住民及び自治体意向の軽視は、それから21年後の沖縄返還における琉球政府の沖縄県への縮小の過程と極めて類似している。沖縄返還の際には、政府側は北海道の過去において経験済みの自信を持ったモデルを有していたわけである。
開発局に対しては、農林省をはじめ、他の専門省庁も、自省の個別機能的な出先機関の設置の方がより望ましい仕組みと考えていたようで、閣議においても激論が交わされたという。結局、開発庁が予算の執行と管理にあたる実施の権限をもたず、開発計画の策定と予算の計上権のみを有する官庁として、設置され、実施は、各省へ移し代えを行って、その指揮監督のもとに開発局を通して行うという極めて変則的なシステムが登場した。
自治庁(解体後の旧内務省の中枢勢力)は、1950年代に直ちに北海道の分県と北海道開発庁の予算の執行管理権の獲得、すなわち実施官庁化(他省庁の開発局に対する実施監督権を排除する)、公共団体の北海道の分県、知事の官選制等をめざすが、抵抗が強く、実現はしなかった。
2 沖縄の復帰と自治
沖縄の統治機構に関しては、歴史的にも現状においても北海道との類似性が多々みられる。しかしながら歴史的背景として根本的に異なる点があるのも事実である。
まず戦前の歴史の根本的な相違についてである。北海道の編入は、一部を除き統一的統治機構をなんら備えていなかった先住民族を徹底的に掠奪し、内地の日本人を移住させ北海道住民の中心として進められた。これに対し、沖縄では、琉球列島のすみずみに及ぶ琉球王国の統治機構が存在しており、特に末端の行政においてはそれを活用する形で、元来住んでいた沖縄の人々を日本人化する方向で統治対象としたことである。日本本土からの移住は、農業等の移民としてではなく、商人、官僚を中心とするものであり、多くが県内の権力者ではあったが、北海道に比べ移住者の人口は極めて限定されていた。沖縄は自治制、国政参加に関しても北海道よりさらに長期にわたって制限されていた。
また、琉球王国時代に中国、特に福建省からの統治や技術に関する専門家を多く招き入れ、永住させて沖縄に同化させ、王国の高級官僚として重用していたゆえに、祖を中国にもつ人々が旧支配層に多く、福建省には、琉球館、琉球人墓等、琉球ゆかりの施設が存在していた。そのために、廃藩置県後も中国に亡命する琉球人が少なからず出現し、沖縄の独立を求めて清国政府に粘り強い支援獲得工作を行った。最終的に琉球の帰属が決着するのは日清戦争まで待たねばならない11)。
もう一つ重要な点は、日清戦争後も日本への完全な文化的同化のみが沖縄の進むべき道でないことを主張する知的指導者を輩出したことである。たとえば、伊波普猷は、沖縄の日本との同質性を認めながらも、上からの画一的な同化政策に異議を唱え、沖縄の文化の本質的な部分を独自性に求め、そこから沖縄の自立性と主体性の確立を求めた。伊波の最大の功績は、琉球語、琉球史、民俗等を高度な学術的対象として取り上げ、極めて抑圧されて価値を落としめられていた琉球・沖縄固有の伝統や文化に対する価値を再認知させたことにある。伊波の研究や沖縄に対する態度は、戦前戦後を通し多くの研究者に影響を与え、また今も与え続けている12)。
次に戦後史の違いも大きい。戦後北海道は、北海道会、北海道庁を母体に戦後改革によって1947年には民主的な統治構造が導入されたが、沖縄の場合は、戦争により県会及び県庁機構そのものが戦場において消滅し、まさしくゼロからの出発を余儀なくされた。また日本の独立と引き換えに沖縄の施政権をアメリカに委譲したため、戦後27年間ものアメリカ軍の直接的な支配により、沖縄の自治権が著しく制限されていた。したがって、この27年間に関しては、日本の施政権が原則としてまったく及ばない状態であり、戦後の日本の政党の発展、行政改革、地方自治制度の展開とは直接的には無関係に、沖縄では独自の政党の発展、自治制度、政治機構の発展がみられたのである。
北海道と比較的共通しているのは、中央政府の採用した両地域への政策の展開の仕方である。異なる歴史を有する沖縄社会や人々の特徴を「遅れ」、「民度の低さ」として、つまり、国民国家の統一的文化水準への統合の遅れ、近代的産業の発達への対応の遅れと捉らえて、時期を遅らせて日本の制度を適用するやり方である。いわゆる「内地」で採用された制度を、時期をおいて北海道で採用し、さらに時期をおいて沖縄に適用する方法である。長期にわたり他府県と同じレベルの自治権と国政参加権を認めず、北海道で原型を作り、成果を見とってから沖縄にも同様の特別な措置を適用するというやり方である。これは、戦後の北海道開発庁=北海道開発同体制の確立が、沖縄開発庁=沖縄総合事務局体制の原型となったことをみれば、日本政府の一貫した政策手法ではないかと思われる。
沖縄総合事務局の設置は、北海道と同様にやはり沖縄においても非常に大きな問題となった。この制度が沖縄側積極的に承認されるのは、保守県政の登場を待たねばならない。
それでは、沖縄では、自らの統治構造をどのように考えていたのか、時代を追って中心的であった主張をもとに今日までを9つの期間に分けてみた13)。
第1期(1945-1950年)=独立論
第2期(1950-1960年)=日本復帰論
第3期(1960-1968年)=祖国復帰論
第4期(1968-1972年)=反復帰論:特別自治制度論
第5期(1972-1978年)=開発庁自治阻害論
第6期(1978-1990年)=開発庁県協調論
第7期(1990-1998年)=振興開発体制見直し論(国際都市形成構想論)
第8期(1998-2009年)=基地と振興のリンク論(補償型政治論)
第9期(2009年-)=地域主権改革先導論
■第1期(1945―1950年)=独立論
第1期は、戦争終了後、米軍の任命による委員からなる沖縄諮旬会の設置により住民の自治組織の第1歩が踏み出された。そこで指導的な役割を果たした人々が共有していた思いは、沖縄に対する戦前の日本の統治の苛酷さと戦争中の日本軍の残虐性であった。終戦は沖縄にとって、アメリカ軍による抑圧から解放を意味し、アメリカの信託統治を経て独立することが最も望ましいという考えであった。1947年に戦後沖縄の初の政党である沖縄民主同盟と人民党が結成されるが、両者とも独立志向の政党として出発した。しかし、日本本土において次々となされた民主的な統治構造への改革も沖縄にはまったく適用されず、劣悪な米軍人官僚によって住民の人権を軽視する直接的抑圧的統治が続けられ、米軍人による殺人、婦女暴行等の凶悪犯罪は、野放し状態であり、住民の米軍支配に対する不満と怒りは蓄積されていった。
■第2期(1950―1960年)=日本復帰論
第2期は、沖縄の政党が復帰論を唱える時期である。民主的憲法を受入れて、新しく生まれ変わって、独立を世界に認められようとしている日本本土に沖縄も編入されることで、あまりにも惨めな状況を打破できるのではと考えた素朴な復帰論から出発する。最も重要なのは、沖縄の革新勢力の中心的な政党である沖縄社会大衆党(社大党)の結成が1950年に行われ、復帰運動の政治的な勢力が確立してくることである。
また1952年には琉球政府が整えられ、立法院において、社大党を中心とした復帰を最大の目標とする勢力が、アメリカ軍の干渉にもめげず常に一定の勢力を確保したことである。土地の強制収用への抵抗に端を発する島ぐるみ闘争が、抑圧されていたエネルギーを解放し復帰運動が完全に定着するようになる。これに対して、市長選挙の当選無効の命令や金融機関からの融資の中止命令、ゲリマンダー小選挙区の編成等、様々な干渉を行うが、革新勢力は常に住民の高い支持を得てきた。
■第3期(1960―1968年)=祖国復帰論
復帰論が中心的な主張であったのは、それに基づく反米闘争と米軍による弾圧鎮静化が相互にくりかえし起こる1950年代から60年代の長期にわたる。60年の沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の結成を境に二つに分けることができるだろう。復帰協は、復帰を願望する労働団体、住民運動の組織であり、その後自治権拡大及び復帰闘争の中心的な組織となっていく。この結成に前後して保守の側も、沖縄自由民主党を結成し、その総裁を行政主席として任命を勝ち取る。米軍基地の是非を対立軸として保革の2極対立が先鋭化し、いわゆる55年体制の沖縄的状況が出現する。1950年代は、住民自治に直接的に干渉し、露骨に弾圧する時代であり、1960年以降は、米軍が直接的な弾圧から次第に、基地経済の固定化、補助金のバラ撒き、親米派議員に極めて有利な小選挙区制区割りの操作、主席任命における政党の推薦制等によって、親米協調的な保守政党の育成を始めその他の様々な手段で懐柔を図った時代である。また日本政府、日本の自由民主党の影響力のもとに琉球政府と沖縄の保守政党をおき、日米共同管理体制を模索しはじめる時期でもある。
しかし、この復帰を願望した占領時代の思潮的背景は、一貫して人権と自治権を獲得するという沖縄住民の願いであり、それが粘り強い復帰運動を支えていた。アメリカ軍支配への対抗と復帰運動は、このような闘争を経て次第にその内実を問う方向へ深化していく。結局アメリカは、沖縄の直接的統治に見切りをつけ、基地機能の維持を条件に統治権を日本政府に返還することを約束する。
■第4期(1968―1972年)=反復帰論(特別自治制度論)
第4期は、日米両政府の間で沖縄返還が決定的なものとなり、返還に向けて日本政府の影響力が次第に強くなってくる時期である。日本政府が、アメリカ政府の望む沖縄基地の維持を最優先にし、基地の撤去を願う住民の望む形での復帰ではなく、その意思をほとんど顧みることなく頭ごなしにアメリカ政府と交渉を進め、明治の琉球処分や戦前の抑圧的な日本政府の姿を髣髴させる姿が住民の目にはっきりと輪郭を現わしてきた。この時期には復帰の内実が問われるようになる。その中で、「反復帰論」「連邦制論」等が登場する。
復帰直前の時期に出されたこれらは、反復帰論を除き、おおよそ復帰後の統治構造に関する論議であり、いかなる形で日本へ復帰すべきなのかが論じられたものである。長い闘争を経て多くの犠牲にして一つひとつ勝ち取ってきた琉球政府の権限を、日本の画一的地方自治法のもとに単なる中間団体の県として、縮小する方向での復帰体制がよいのか。県のレベルの権限しか、沖縄の地方自治体に与えないとしたなら、目下のところ琉球政府が実施しているが、日本の体制下では国政レベルとされている行政について、それを、どのような体制で実施するのか、というところが論点となった。
比嘉幹郎の沖縄「自治州」構想は、琉球政府の権限を残す形での復帰を追究すべきであるとの見解を表明したが、「本土並み」が優先される風潮において日本政府が進める普通地方公共団体への再編を押し留めることができなかった14)。
特に沖縄における国の出先である総合事務局の設置にあたっては、アメリカ軍事政府にとって代わる新たな沖縄の自治への抑圧者として現われるのではという危惧が強く表明された。
■第5期(1972―1978年)=開発庁自治阻害論
第5期は、基地の堅持、開発庁の総合事務局の体制など統治の仕組みにおいて復帰が望む形で実現されなかったことと、ドル・ショック、オイル・ショック、海洋博覧会関連の倒産、交通体系の変更という住民に過度の負担のかかる状況が相次いで起こされたため、復帰に対する失望が強かった時代である。屋良朝苗、平良幸一と続く革新県政は、国側とその是正を求めてたびたび対立し、開発庁=総合事務局に対する不信が強かった。
■第6期(1978―1990年)=開発庁県協調論
第6期は、保守県政の登場とともに始まる開発体制の発展である。中央に太いパイプを持つという点をアピールした西銘順治県政は、高度経済成長期に発展した利益還元政治を沖縄で20年遅れて、一挙に推進した。また積極的な日本への同化政策の展開がなされた。
1980年代に景気は、回復基調にあったことと合わせて、膨大な開発資金が沖縄に投入され、利益還元の装置としての沖縄開発庁=沖縄総合事務局が県民の利益を確保するものとして認知されるようになっていった。
しかし、この時期には、補助金に頼る外来的開発行政に対するアンチテーゼも沖縄に生まれてくる。特に重要なのが玉野井芳郎の「地域主義」であろう。玉野井は1970年代後半に沖縄国際大学に職を移し、現代的な政治経済のシステムがもたらす矛盾を地域的な共同体が克服していくものと考え、現実に最も可能性のある地域としての沖縄を考えたのである15)。この考えは、内発的発展論、もう一つの発展の理論に通じており、その後沖縄において開発行政を告発する人々の支えとなっていく。「公害言論」の宇井純も1980年代後半に沖縄大学に職を移しかえ、積極的に開発行政に対し問題提起をなすことになる。内発的発展、自然保護と並んでこの時期の後半には文化的な同化政策に対する異論も強まってくる。
■第7期(1990―1998年)=開発体制見直し論:国際都市形成構想論
第7期は、1980年代も大きな底流であったが革新系の知事が県政を奪回したこともあり便宜的に1990年をもって転換とした。次第に強くなってきた開発行政最優先の反省期になる。開発庁=総合事務局の開発体制は、中央政府の議員・官僚によっても、また沖縄の側によっても見直しを迫られるようになってきている。だが、両者の観点は完全に異なる。
中央側の見直しとは、日本への統合促進のための特別な利益還元体制の整理という点であり、これ以上沖縄に特別な手当をする必要はないという観点と16)、省庁の数を減らすことをもって行政改革の実績をアピールしようとする政党からの開発庁統廃合論であり、行政改革の議論の一環として出てきた。
沖縄側の見直しとは、1980年代後半から引き続いて起こってきたことであるが、まず第一に、国の費用に依拠した公共事業中心の開発行政がもたらした、負の側面に対する告発であり、開発行政の質的転換を求める要求である。この姿勢と深く関連することであるが、第二に、中央の文化あるいは日本文化の盲目ママ的な摂取に対する批判がはじまり、同時に沖縄の固有文化あるいは固有の価値観を肯定する思潮が主流となったことである。
以上1998年までの中心的な議論による区分である。開発体制見直しの議論は、第8期及び第9期の制度改革につながるものであるがゆえにさらに説明したい。1990年からの第7期以降、沖縄側からの見直しは、日本への同化がかなり進み、日本本土との交流が進んだからこそ、逆にそれでも容易には同化され得ない自己の固有性に目覚めるきっかけとなり生じたものといえる。復帰を境に制限されていた日本本土との人的、物的及び情報交流が一挙に増大した。戦後の沖縄の人口は、常に10万をくだらない米軍人及び軍属、米軍人を相手に商業を営むインド系やフィリピン系の外国人を抱えていた。現在では沖縄の歴史にかつてないほど最大数の本土出身者が県内に在住している。さらに、最近では南米の国籍を有する沖縄系2世3世の出稼ぎ及び定住者も増大している。この状況は、多元的エスニシティの混合的交差的状況であり、それぞれのアイデンティティが最も高揚する社会状況に該当するといえよう。
1990年頃から首里城の復元、琉球史の歴史ドラマ放映等をきっかけとするいわゆる沖縄ブームが到来し、沖縄の人々の間でも沖縄固有の文化言語、価値観、行動様式を、日本の基準と比較して、劣ったもの、遅れたもの、改善されるべきものという発想から、優れたもの、保護すべきもの、推奨すべきものという発想へと180度の転換がなされている。次に述べる調査は、それを具体的に証明したものといえる。
琉球大学の政治学系研究者を中心に行った1995年12月の沖縄県民意識調査では、沖縄の文化的な固有性について問う項目を設定した17)。それによると、「ウチナーグチ(琉球語)は伝え残されるべきだと思いますか」という質問に対して「そう思う」と回答するのが90%にのぼる。「どちらかと言えばそう思う」を含めると96.8%にもなった。現実には日常的にウチナーグチを使用している人口は減少の一途をたどっているものと思われ、もし伝え残す要求がこれほど高いのなら、公的な仕組みをしてウチナーグチを伝承する制度を検討する時期に来ているといえよう。
沖縄に住む有権者の「ウチナーンチュ(沖縄人)」というアイデンティティと「日本人」というアイデンティティの強弱を問う調査の結果において、衝撃的だったのは、5つの選択肢のうち、「私はウチナーンチュである」とする意識が42.6%もあることである。「どちらかと言えばウチナーンチュである」とする意識と合せると50%になる。「私はウチナーンチュであり、日本人である」とする意識は、31.2%もあり、ウチナーンチュ意識は日本人意識と比べ同等かそれ以上強いものが81.2%もあることになる。このような地域的な文化の保護と地域的な帰属意識は西欧各国の民族的な地域と比べても遜色ないほど強い。
このようなエスニックな意識が統合思想に対する態度にどのような影響をもたらすのかが重要である。次に現在の沖縄の住民の政治参加と統合構造についての質問を見てみよう。まず、沖縄開発庁長官の指名にあたって党派性と民族性のいずれを重視するのかの質問である。どの党であれ「沖縄出身の議員が沖縄開発庁長官になった方がよい」とする意見が、72.5%もある。権力への関与をめぐって全国的党派の準拠枠組みである階級制やイデオロギー性よりも、地域性あるいは地域的な民族性つまり、エスニシティによる関与を重視しているといえる。
「日本の政治は、地方の意見が届きやすい仕組みか」という問い掛けには、そう思わないが51%を超えて、どちらかというとそう思わないと重ねて、否定的な意見が71.8%にもなる。肯定的な意見は13.9%である。
沖縄の統治構造に関する質問では、「現状のままでよい」が17%しかないのに比べ、「沖縄県への予算と権限の大幅委譲」を要求する声が、現状肯定派の3倍を優に超える55%にのぼっている。政治の仕組みや統治構造に関する設問では、現状に対する不満の大きさと地域的な権限の委譲を求める声が強いことである。
さらに注目に値するのは、沖縄への帰属意識の高さと現状の政治体制に対する不満の高さであり、分権化の要求が非常に強いことである。そこに政党や候補者が着目すれば、沖縄県内における政党政治及び選挙の一つの新たな争点、対立軸として、沖縄における将来の統治構造が浮び上がる可能性がある。したがって、西欧型の地域主義政党と地域主義運動とが成立する潜在的可能性が高いと言える。
沖縄県が1992年、国の計画である第3次沖縄振興開発計画が沖縄の不満に充分答えていないという実感とともに、同時に取り組みはじめたのが「沖縄国際都市形成構想」である。それは以上のような文化的背景と政治的不満に対する沖縄側の一つの回答であった。同時にグローバル化が進む東アジアの中に沖縄を位置付けるという冷戦終了後の世界に対応していた。
沖縄の古くからの関心の特徴の1つは、文化や経済にわたるアジアとの結びつきの強化である。文化的には、沖縄の固有性が、実は、他のアジア諸国との共通性に通じていることから、アジアの中の沖縄という認識が高まっている。上述したように、たとえば、福建省を中心に中国との縁は特に深く、近年福建省と沖縄県の経済、文化を通した交流が強化されつつあり、また福建省と沖縄で祖先を同じくする人々が友好関係を深めたというようなニュースが見聞される。
中国を中心とするアジア諸国との関係は、特に経済的発展を展望する上で極めて重要になりつつある。1997年に香港が中国に返還され、そこを中継してなされていた台湾=中国間の貿易が不可能となる。そこで国の成り立ちの上で中国との直接貿易が不可能な台湾は新たな中継地を求めており、沖縄もその一つになれないか検討していた。沖縄の経済界のリーダーはこの状況を敏感に察知し、台湾・香港・シンガポール等を往来し、アジアの経済圏で何が求められているか、島嶼地域としてあるいは地理的な条件においてどのような経済発展が沖縄に可能かを模索していた。
沖縄の経済界での有力な見解は、日本のなかにありながら日本の関税制度を沖縄に適用しない、全県域完全免除地域への指定か、あるいは税関の権限を県が行使する一国二制度的な仕組みの導入を実現することである。たとえば、1988年の5月には、沖縄経済同友会で自由貿易地域の設置とその推進に関する提言を出しており、また沖縄経営者協会会長(1996年時点)の稲嶺恵一は、経済発展の問題は、自治権強化の問題と同じであると言明し、沖縄への特別な自治制度の導入を支持している19)。
つまり、沖縄県の国際都市形成構想は、革新知事の突飛な発想ではなく、地元経済界が描き続けてきた夢を県の構想として文書化した側面があるのである。
沖縄の経済界は当時、アジア諸国の経済発展の順調さゆえ、中国を含め東アジアの主要国においては、20年以内に、相対的に沖縄の労働者の賃金が最も安くなり、低賃金を求めて沖縄に企業進出する状況が述べている。そこに企業への課税基準を低く抑え、関税やビザを免除する体制を整えれば、充分に経済的に自立できるのではないかという展望も盛んを持つようになっていた20)。政府の厳格な統制に服しつつ公共事業に依存する経済による発展の展望が行き詰まってきたという認識である。
国際的な経済協調が地域の自立を展望させており、地域的な政治的な自律をもって、国際的な経済協調に積極的に参入していく足掛かりをする意欲が強くなりつつある。欧州連合のような国際的政治経済協力体制は、東アジアには存在しないものの、現に密接な経済関係がすでに成立している。またこれは、政治的、軍事的な対立がどうであれ、ますます進展していくことは疑いない。
1996年1月に沖縄県は、首相と関係閣僚及び県知事から構成される沖縄問題協議会に提出するため、軍事基地の縮小・撤去とその跡地利用に関する計画(基地返還アクションプログラム)を打ち出したが21)、上述した沖縄で主流となりつつある統合構造に対する経済界や住民の認識が反映されていると思われる。
「国際都市形成構想」の重要な柱のうちの一つは、2002年から10年の間に特別法制定によって沖縄に「特別県制」を導入し、「地域主権を確立」するというアイディアである。もう一つは、「東南・東アジア広域連合協議会」の設立に向けての拠点形成である。特別県の具体的な内容とアジア広域連合が何を意味するのかまだ詳細が明らかにされてはいないが、これは、まさしく、国際的な地域協力体制と国内の地域への分権化がセットになっている構想であり、西ヨーロッパにおける自治州の導入やリージョナリズムと極めて類似する状況が生じてきたと言うことができるであろう。
1996年以降、次々と沖縄に関する新たな仕組みづくりが行われ、1998年の稲嶺県政以降は、極めて明白な形となって現れる。次の第8期及び第9期の分析は、本書の中心的テーマである。詳細は、後述する本論を参照されたいが、ここでもその特徴を概略しておく。
■第8期(1998-2009年)=基地と振興のリンク論(補償型政治論)
本書の分析の中心は、施政権返還以来20数年間なんの変化もなかった沖縄振興開発体制が、1996年国際都市形成構想の発表以降、次々と新たな仕組みが構築された、その時期の分析に当てられている。普天間の移設を条件とする返還の合意の発表、代理署名訴訟、県民投票などを経て、大田昌秀県政晩期に着手され、1998年の稲嶺恵一県政に変わって加速的に整備が進み、2000年の省庁再編による沖縄開発庁及び開発庁長官の廃止、沖縄担当大臣と内閣府沖縄担当部局の創設、2002年にはこれまでの沖縄振興開発特別措置法に代わる沖縄振興特別措置法の制定など、めまぐるしい変化がもたらされた。
その原動力となったのは、基地と振興のリンク論であり、すなわち、「補償型政治」という呼ばれる仕組みである。基地と振興策の関係が次第に明白になり、最終的には、米軍再編交付金という、国の基地政策に対する協力態度で、防衛大臣の判断によって補助金が出る仕組みが創設された。それは、利益還元政治マシンの再編成であったが以前と異なるのは、格差是正を名目として基地に対する補償を公式的には全面的に否定していた沖縄振興開発体制と異なり、基地の存在や移設と明らかにリンクした「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(通称:島田懇談会事業)」のような仕組みが導入されたことが「補償」、つまり基地の見返り、という色に染められてしまう。今度は、沖縄基地問題を、人権侵害の問題ではなく、見返りが欲しい地元の要求への政府の振興策による対応、というレベルに矮小化し、それが沖縄問題の本質であるかのように全国に流布し、国政レベル全国レベルの政治の争点にはさせない「非争点化」の仕組みである。こうして沖縄の基地問題は地域振興の問題にすり替えられてしまった。
■第9期(2009年-)=地域主権改革先導論
2009年の政権交代は、沖縄に大きなインパクトを与えた。沖縄基地問題の非争点化に挑戦し争点化を図ったのは、野党時代の民主党であった。「沖縄ビジョン2002」から普天間基地の辺野古移設への反対を打ち出し、政権交代直前の「沖縄ビジョン2008」では、辺野古移設断念、県外移設を公約とした。民主党の政権公約では、「対等な日米関係」、「駐留無き安保」、「東アジア共同体」という、かなり大きなテーマで、しかもこれまでの対米従属一辺倒とは明らかに異なる、日本独自の外交を明示しており、普天間基地問題は、その中の最初の一歩としては、ごく小さなものに過ぎないかのように思われた。
自治改革に関しても、「地方分権改革」ではなく「地域主権改革」という文言を用いて、さらに民主党の改革の「一丁目一番地」とくりかえし言及することによって、より強力な自治改革をアピールしていた。沖縄については、普天間基地の県外移設とともに、この地域主権改革の先導的なモデルとするという公約が掲げられた。
沖縄の側から、この民主党の公約にそった形で、経済界や保守政治勢力を含めて、補償型政治の仕組みの抜本的改正が打ち出され、それにしたがって県知事及び県庁が新たな仕組みついて提案し沖縄振興法の改正をもたらす。
しかし、全国で根強い「非争点化」の圧倒的な力、補償型政治による沖縄への妥協要求と、沖縄における自民党や経済界を含むほぼすべての政治的勢力による補償型政治の拒否、妥協の拒否により、戦後40年目で、沖縄とそれ以外の日本との間の断絶は極めて深刻で不快なものとなっている。沖縄側からすれば、基地の受け入れ要求は、もはや構造的抑圧であり、それを当然とする、あるいは思考停止で黙認する日本社会や政治の仕組みを「構造的差別」と与野党を問わず公然と批判するようになっている。
3 沖縄開発庁と沖縄総合事務局
ここで、1972年に設立され、その後長く不変的な沖縄に対する統治の仕組みであった沖縄開発庁及びその現地出先機関である沖縄総合事務局について俯瞰しておきたい。
1993年に自民党単独政権が崩壊し、初の非自民連立政権が誕生する。その主要政策の一つに行政改革が上げられ、北海道開発庁と並んで沖縄開発庁の廃止もしくは統治の俎上にのせられた。廃止なり、統合なり、もっぱら沖縄のことを担当する専門省庁と大臣の消滅であることはまちがいない。開発庁の存在理由、すなわち行政目的はなくなったということであろう。沖縄開発庁の公式的な目的は、沖縄振興開発特別措置法と沖縄開発庁設置法に描かれている。「この法律は、沖縄の復帰に伴い、沖縄の特殊事情にかんがみ、総合的な振興開発計画を策定し、およびこれに基づく事業を推進する等の措置を講ずることにより、……住民の生活および職業の安定並びに福祉の向上に資することを目的とする」(措置法1章1条)のであり、その具体的な管理実施機関として「沖縄開発庁は、沖縄における経済の振興及び社会の開発を図るため、総合的な計画を作成し、並びにその実施に関する事務の総合調整及び推進に当たることを主たる任務とする」(設置法3条)とされている。
これらの法をさらによく見れば、振興開発計画に基づく振興開発事業とは、公共事業中心に限定されており、まさしく中央の資金による公共事業による開発振興が開発庁の本質である。このなかで特に注意しなければならないのは「沖縄の特殊事情にかんがみ」という文言であり、つまり、何をもって特殊事情とするかが不明なままそれを根拠として、具体的な手段としては大量の公共事業投入を図るということである。
「沖縄の特殊事情にかんがみ」とは、何を意味するのか。これについての認識が沖縄側と中央とでは必ずしも一致していたわけではない。特殊事情が消滅すれば、開発庁の存在意義もなくなる。表面的な文言からは、抽出できない目的とその背景を考えてみなければならない。開発庁の存在意義、行政目的に関する中央側の認識と、沖縄側の認識もしくは期待のズレが、復帰後20年の開発庁統廃合をめぐる議論の背景にある。
永田町や霞ヶ関における1980年代終わりから90年代初頭の開発庁統廃合論の台頭は、開発庁の存在意識と行政目的に対する重要性の認識が、中央でははるかに縮小してきたことを意味する22)。三期続いた保守県政によって、米軍基地の安定供給が継続して実現しており、目立った反対運動も起きなかった。米軍基地に関する強制的な土地使用や基地問題の解決に関してまったく権限を持たない開発庁の役割は、社会文化面及び行政にわたる格差是正、正確には「日本的システムへの統合」であったと思われる。日本への統合促進のための統合機構であり日本の考え方、文化、仕組みや制度を従順に受け入れてくれれば、その役割は終わる。沖縄が日本のシステムに従属し、異議申し立てを行う気配がなくなればである。
一方、沖縄の人々にとって、開発庁は、どのような役割を果たしてきたのだろうか。意識が開発庁設立経過においては、その目的と権限をめぐって様々な議論がなされたという。特に総合事務局の設置に関しては、当初沖縄の自治権に対する新たな抑圧者として強い反発が寄せられた。
しかし、実際に開発庁=総合事務局体制がうまく軌道にのりはじめると、沖縄側と開発庁及び開発関係省庁のポジティブ・サムの利益関係が強固になる。つまり、利益還元政治の強力なマシンとして機能しはじめたのである。これには若干の説明が必要と思う。
戦後の日本の国家発展の基本的戦略は、対外的には対米関係を最重視しつつ対外的な経済利益を確保することであり、国内では行財政の中央集権と経済の中央集中によって公的な資金を中央に集め、それを地方に補助金という形で再分配していくという図式であり、中央官僚機構への権限集中と公共事業及び補助金による地元への利益還元政治である。極めて大胆に単純化すればそれが統治に関する戦後日本のシステムといえる。
地方にとって、利益還元型政策の政治的決定への影響力行使には、三つのルートがある。第一に行政ルートとして、自治体関係者が、中央官僚機構に対して、いわゆる「お百度参り」の交渉を行って、地道に一つひとつ政策を詰めていくか、各省からの天下り官僚の地元自治体への大量受け入れを容認し、その引き換えにそれぞれの親元省庁に地元の事情を理解してもらうという公式的制度的な関係があげられる。
第二に政治ルートとして、年功(当選回数)序列重視の政権党人事システムのなかで長期にわたって再選を繰り返す(二世、三世の議員となれば親の世代からの長さ)地元選出の有力保守系議員を作りだし、その議員を通して地元への補助金・公共事業の獲得を行うものである。たとえば、田中角栄の新潟や竹下登の島根など農村型のいくつかの県では、特に第二の政治ルートを強化することによって、開発庁の存在する沖縄以上の膨大な公共投資を実現し続けてきたのである。
また第三に両ルート混合体として、地元出身もしくは縁のある高級官僚を自治体首長もしくは国会議員に据えることによって、中央への影響力を確保する手段に頼った。
日本全国の府県及び市町村は、多かれ少なかれこのような影響力を相互に競い合い予算の獲得を行ってきた。
しかし、沖縄においては、戦後日本政治における沖縄の国政参加の長期断絶のためにこの三つのルートのいずれもが決定的に強化不可能であった。この事情は同じような仕組みを持つ北海道開発庁と根本的決定的に異なる点である。このことが中央側ではあまり認識されていない。沖縄開発庁の存在は、沖縄関連の公共事業を担当する省庁と大臣を特別に設置することでこのようなルートの脆弱性に対する代替ないし補完の機能を果たすものといえる。
したがって、開発庁は、沖縄が日本型政治の中に取り込まれざるを得ない、または積極的に取り込まれていこうとするときに、その中での有利な利益還元・再分配を図るために有効な装置として認知されるようになっていったのである。
そしてこれまでは、このような装置とそれによる利益還元を、公然と言うことはできなかったが暗黙のうちに広大な沖縄の米軍基地の提供によって維持される安保体制とそれによる利益の沖縄への代償とみなす意識が出てくる。すなわち現在の体制から確保される国家的な利益に対して、基地を提供し犠牲を払っている分の「当然の配当」という考えである。
さらに開発庁への期待は、公共事業を中心とする利益還元だけに留まることなく、沖縄の人々にとって拡大傾向にあったといえよう。特に県出身、県選出議員による大臣が輩出した1990年代は、期待が大きくなったといえる。つまり、利益還元的色彩の強い公共事業のみならず、基地問題を含めた国レベルに関わる沖縄の問題全体に関わることへの期待である。
公式的な管轄権は公共事業を中心とする開発行政に限定されているが、にもかかわらず、開発庁が外務省、防衛庁、厚生省等の他の省庁の管轄分野に関与しはじめている。沖縄県、県内市町村、地元の政党、各種団体等の要望により、日本軍の軍命により発生した戦争マラリアに対する補償問題、軍用地転用法、復帰前の空白をいかに埋めるかという年金問題等、従来管轄外として取り合わなかった領域を無視することができなくなってきた。
このようにして沖縄では、次第に開発庁の公式的権限体系では解決しないし処理できない問題及び要望が増大した。中央とはまったく逆に、開発庁への期待が拡大してきたのである。
沖縄振興開発計画の策定は国の事務として位置付けられていた。県は独自の総合計画を策定することはできなかったが、国の計画への原案提出権があった。ただし、基地問題を始め戦後処理の問題等、県と国の意見が調整できない分野が残り、必ずしも県の原案がそのまま国の計画になるというものではない。
特に1990年代中盤の大田昌秀県政下においては、基地の縮小・撤去を沖縄の経済発展の不可欠の要素とみなす県側と管轄外として計画や予算へ位置づけを望まない開発庁の対立は、容易に溝を埋めることができない状況に陥っていた。
予算による総合化の最も重要な機能は、沖縄開発庁の一括計上権にある。これは、北海道開発庁と同様のシステムである。通常、予算編成は、各省出先より本省へと積み上げられ、本省より大蔵省への計上がなされ交渉が開始するが、各省の沖縄開発関係は、各省で積算を行うと同時に密接に関連を保ちながら開発庁内部の各省関連の局・課において予算編成作業を行う。対大蔵省への予算の計上とその後の折衝は、開発庁が行う。その際に開発庁長官は、開発庁の予算編成を指揮する権限を有しており、一定の総合化を行うことができる。
しかし、執行管理は、再び各省への予算の移しかえを行い、各省大臣が、開発庁の出先機関である総合事務局に対して、自らの出先機関として、指揮監督を行う。総合事務局の長も、執行に関しては、開発庁の指揮命令でなく、各省の指揮命令に従う構造である。
また、現地出先機関である総合事務局において、予算編成の端緒において、各専門官庁と関係の深い専門の各部・各課は、それぞれに必要な次年度予算の積算を重ね上げていくが、総合事務局長には、それに優勢順位を付けていくようなことはできない。そのような権限が公式的に認められておらず、そのため、予算における総合化も一部のものに留まっているといえる。
行政が中心となる予算編成作業から目を転ずれば、政策全般に関して民意を反映し、調整を行う仕組みとして、国会に沖縄及び北方問題に関する特別委員会が設けられている。沖縄出身の議員が多く所属しているが、日本の政策過程において、予算にせよ立法にせよ、政府提出段階までに実質的に決定しており、国会及び委員会での審議は、決定的な影響力を持つものとは言い難い。
人事による総合化については、沖縄総合事務局に関しては、歴史が浅いことと、復帰後の国家試験以降に、全国レベルの職員が入ってきたこと等によって他省庁からの出向が多く、総合事務局固有の職員の割合が北海道開発局に比べ低かった。また、開発庁内庁においても、固有のⅠ種・上級職職員が採用されたことはなく、すべて他省庁からの出向者で占められていた。この点は、固有のキャリア採用職員を有する北海道開発庁とは、根本的に異なっていた。
制度的には、開発庁=総合事務局の職員の人事権は、開発庁長官にあるが、開発庁=総合事務局を通して、上位管理職が他省庁出向者の持ち分のポストとして固定化している現状があり、人事による総合化がうまく機能しているとは言い難い。固有の職員の採用と上級管理職の固有職員による占有は、その組織の自律性、すなわち他省庁や政治的圧力に対して、自己の組織を維持強化する能力の高さに密接に関連している。沖縄開発庁は、北海道開発庁に比べ、それが低いといわざるを得ない。
いずれにせよ、沖縄開発庁=総合事務局は、国家機関である。そうである限り、中央政府の利益あるいは国家的利益の追求が優先される。沖縄の地域的な利害と国家的な利害がトレード・オフになるような正面から対立したときに、県議会、県知事及び県庁組織は、地域側の代表として国に対する異議申し立てを行い得るが、沖縄開発庁が、その異議申し立てを沖縄の立場にたって政府全体、国全体に訴えていくということは、望むべくもない。それよりも、異議申し立てを懐柔していく新たなる日本への統合策を提示し、推進することが主要な任務となる。
沖縄開発庁は、この任務に一定の成功を収めてきたようにみられる。しかしながら、1995年10月21日に沖縄では、全党派、経営者協会から労働団体を含む多くの組織と、組織化されていない多数の住民を合わせ、8万5000人(主催者側発表)の基地問題を日米両政府に抗議する集会が開催された。この異議申し立ては、日本型システムへの統合が上辺だけの成功であったという事実を知らしめるものとなった。
[註]
1) 豊下楢彦『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』(岩波書店、1996年)
2) 沖縄返還交渉時の、佐藤栄作首相の密使。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在を記した。
3) 宮本憲一「『沖縄政策』の評価と展望」宮本憲一他編著『沖縄論』(岩波書店、2010年)16頁の「表1-3 沖縄振興開発事業費の推移(補正後)参照。「賄賂」は、同著の出版記念シンポジウム2010年3月27日沖縄大学土曜講座における発言。
4) ケント・E・カルダー(武井揚一訳)『米軍再編の政治学―駐留米軍と海外基地のゆくえ』(日本経済新聞社、2008年)。[Kent E.Calder Embattled Garrisons:Comaprative Base Politics and American Globalism, Princeton University Press, 2007.]
5) 渡辺豪『アメとムチの構図』(沖縄タイムス社、2010年)。
6) 沖縄タイムス2011年2月13日。
7) 戦前の歴史に関しては、浅田英祺「地方分権と北海道開発」(日本計画行政学会北海道支部研究会指定課題報告、1995年4月10日)。北海道総務部総合開発企画本部『北海道開発行政機構の変遷』(発行年不詳)。
8) 浅田、前掲論文、20頁。
9) 北海道総務部総合企画開発室、前掲書、53-54頁。
10) 北海道総務部総合企画開発室、前掲書、62頁。
11) 西里喜行「琉球救国運動と日本・清」『沖縄文化研究』13号(1987年)参照。同「清国(洋務派)の対日外交と琉球問題―分島・均露条約の調印回避以後」『琉球大学教育学部紀要』45巻(1994年)31-78頁を参照。
12) 比屋根照夫『近代日本と伊波普猷』(三一書房、1981年)参照。
13) 筆者独自の分け方である。なお、戦後沖縄史については、主として中野好夫・新崎盛暉『戦後沖縄史』(岩波新書、1976年)を参照。
14) 比嘉幹郎「沖縄自治州構想」『中央公論』J86(16)、1971年12月、132-141頁。島袋邦「復帰準備期における沖縄の政治動向」『琉大法学』17号(1975年)37-63頁。
15) 玉野井芳郎『地域主義の思想』(農村文化協会、1979年)。
16) 沖縄タイムス1993年1月16日朝刊。93年度予算編成に開発庁長官として、有力政治家、大蔵省をはじめとする各省庁幹部との折衝にあたった伊江朝雄氏は、「編成作業を通して感じたのは、「沖縄はもういいんじゃないか」という空気だ」と述べている。
17) 平成7年度文部省特定研究「衆議院選挙にむけての県内有権者意識調査」。研究代表:江上能義。調査対象:沖縄本島全域。実施時期:平成7年度12月2-4日・9-11日。方法:無作為二層抽出法、市町村の有権者数に比例。有効回答数/サンプル数:570/1000。平成7年度より平成8年度にかけての調査であり、単純集計による主な調査結果は、沖縄タイムス1996年2月21日朝刊を参照せよ。
18) 沖縄タイムス1988年5月18日。
19) 琉球新報1996年1月1日、稲嶺恵一「中継貿易の現実と可能性」沖縄懇話会編『大前研一のユイマールビジョン』(ボーダーインク社、1993年)17-175頁。
20) たとえば、宮城弘岩『ポスト香港と沖縄』(ボーダーインク社、1991年)。吉川博也『21世紀沖縄の企業産業戦略』(サザンプレス、1993年)。嘉数啓「沸騰する東アジア経済圏」沖縄懇話会編、前掲書、140-169頁。
21) 沖縄タイムス1996年1月23日朝刊。
22) 朝日新聞1994年4月2日朝刊。朝日新聞が全国の主な企業100社の経営者に対して行ったアンケート調査によると、最も必要のない省庁として、北海道開発庁、沖縄開発庁がそれぞれ13人でトップであった。朝日新聞1994年4月5日。朝日新聞が、3月中旬から4月1日にかけて、中央省庁の課長級1218に人を対象に行ったアンケート調査では、北海道開発庁135人、沖縄開発庁116人であり、3位の食糧庁37人を大きく引き離して、1位と2位を占めた。
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第3章 基地問題の争点化と非争点化
Ⅰ 沖縄のガバナンスのゆくえ―国際都市構想から沖縄振興計画へ
(初出:山口二郎ほか編『グローバル化時代の地方ガバナンス』岩波書店2003年より)
はじめに
冷戦終結と旧共産主義諸国の市場経済化は、世界システムを大きく変容した。国家統制経済の領域は遙かに後退し、代わりに市場経済が世界を席巻した。敵対的な軍事戦略は排除され、軍事の場面においえても協調と情報共有のフレームワークが顕著な現象となり、名目的にせよ「基本的人権」は国際協調の主目的になってきた。
冷戦後の国際政治経済の状況を表す、「グローバリゼーション」は、日本の経済的なシステムに強い衝撃を与えたが、日本の政治システムもその衝撃を免れることができなかった。世界的な市場経済への適応のため、政府組織及び政府による統制システムさえ再構築せざるを得なかった。例えば、企業、NGO、市町村と都道府県などに対して中央政府は統制力を弱めていく一方で、極めて多くのこのような組織と外国や政府や企業、NGOが、より緻密で直接的な関係を結ぶようになってきている。日本においても政治と経済にわたる基本的な制度の改革の要求は、90年代を通して日増しに高まってきた。
「グローバリゼーション」は、地方財政自体をも世界経済の荒波に直接放り投げ、中央政府からの支援と補助の減少に継続的な圧力をもたらしてきた。同時に、国境の障壁と緊張が低下していく最中、資源と産物のやりとりを求めて地域(の自治体や企業・NGO等)が国境を越えて他国の地域へ直接関わることを通して、地域発展を行うという開発戦略への新しい期待が登場してきた。
日本の周辺地域の政治的リーダーは、1、中央の財政援助の量を減らさないように要求しつつ(財政資源の量的維持)、同時に、2、中央政府の管理してきた国境をまたぐ地域間の資源の移動と相互交流を、地域が主体的に地域活性化に活用する新開発戦略を検討し始め(貿易・通商に関する規制緩和)、3、このような資源を有効に活用するための力、より大きな地域権力の獲得を模索してきたと言える(自治権拡大・自治政府の構想)。
世界的に見れば、たとえば、英国、スコットランド議会と政府の設立のように、冷戦終了後の欧州連合における地域政策の強化と各国の地域政府の勃興は、明らかにこのようなこのような文脈に位置づけられる。日本においても、グローバリゼーションは、地域にとって、1、財政資源の量的維持、2、経済の自由化、つまり、資本・資源の移動・貿易に関する規制緩和、3、自治権拡大あるいは自治政府構想という三つの要求を浮かび上がらせてきたのである。地域的なガバナンスの変容はこうして生じる。ここでは、この3点から90年代以降の沖縄を取り上げ、沖縄のガバナンスがどのように変化してきたのかについて、一つの見方を提示したい。
1、財政援助--グローバリゼーションと沖縄振興策のフレームワーク
1990年に就任した沖縄県の大田知事もこのような地域リーダーの一人であった。沖縄の問題は、米軍基地のあまりにも大きな存在のゆえに、この3つの基本的な姿勢が、明確に見えてこないきらいがある。平和主義的な運動と捉えられたり、人権運動からの期待を背負って解釈されることが多いからである。しかし、人権を掲げ、あるいは、基地を取引材料としつつも、この3つの要求に関しては、沖縄も端的に当てはまる。大田氏は、冷戦終結後、沖縄における米軍基地の削減が不可避になると予測した。そこで、就任してまもなく、米軍基地の存在を前提としない、したがって基地に関連する特別な財政補助と基地経済を前提としない沖縄振興開発の戦略を正式に検討し始めた。
冷戦後の在沖米軍基地の存在と機能を維持ないしは強化を主張する95年のいわゆる「ナイ・レポート」は、大田氏に強い衝撃を与え、それが、96年11月に「沖縄国際都市形成構想-21世紀の沖縄のグランドデザイン-」国際都市形成構想をもたらしたと理解されているが、この構想の着手は、92年である(1992年「沖縄国際都市形成整備構想調査-沖縄本島中南部における都市基盤整備および 拠点形成のあり方の検討」沖縄県・(財)都市経済研究所http://www.ueri.org/okinawa/okinawa.html)。
これは、沖縄の日本への返還以来、沖縄県庁主導で編成したはじめての長期的な総合的計画(構想)である。
次の表は、沖縄振興の構想・計画・制度的枠組みを時系列的に並べたものである。カッコ内は、主として担当する公的組織を書き込んでいる。
1972年「沖縄振興開発計画」「沖縄振興開発特別措置法」(沖縄開発庁)
1982年「第二次沖縄振興開発計画」(沖縄開発庁)
大田県政期(1990年12月~):()
1992年「第三次沖縄振興開発計画」(沖縄開発庁)
1996年9月(沖縄政策協議会設置)
1996年11月「国際都市形成構想」(沖縄県)
1997年3月「第三次沖縄振興開発計画後期展望」
1997年5月「国際都市形成基本計画」(沖縄県)
1998年3月「沖縄振興中長期展望についての検討調査報告書」(NIRA) 1998年5月「沖縄産業創造アクション・プログラム」(沖縄県)
1998年7月「沖縄振興開発特別措置法改正」(沖縄開発庁)
稲嶺県政期(1998年12月~):
1999年6月「沖縄経済振興21世紀プラン中間報告書」(沖縄政策協議会)
2000年8月「沖縄経済振興21世紀プラン最終報告」(沖縄政策協議会)
2002年4月「沖縄振興特別措置法」施行(内閣府沖縄担当部局)
2002年5月「新沖縄振興計画県案」(沖縄県)
2002年7月「新沖縄振興計画」決定予定(内閣府沖縄担当部局)
沖縄返還時に日本政府は、沖縄の経済発展は日本政府の責任であるとし、沖縄開発のための特別な省庁とその地方支分部局(沖縄開発庁・沖縄総合事務局)を設置した。それ以来開発庁が沖縄の総合開発計画を策定する主管庁であり、沖縄県庁は、意見を提出することができたとはいえ、最終的にそれを採択するも拒否するもの開発庁に委ねられていた。
沖縄振興開発計画は、沖縄振興開発特別措置法に規定された財政的な優遇措置に基づいて、沖縄開発庁によって立案される中央政府の沖縄振興のための計画である。
財政的優遇措置を裏付ける大義名分は、27年に及び米軍支配から生じた遅れを取り戻すという「格差是正」であった。しかし、93年の予算編成期に伊江朝雄沖縄開発庁長官(当時)が、20年の期間が過ぎ、中央には「沖縄はもういいんじゃないか」という空気が流れ、この大義名分は次第に説得力を失いつつあった(沖縄タイムス1993年1月6日付け)。
91年初頭より、知事に就任したばかりの大田氏は、第3次振興開発計画の策定に関わる。沖縄県の素案が、開発庁に提示され、最終的には開発庁の手によって政府案が構築される。
基地に関して、冷戦終了の故の整理縮小を期待し、それを政府案になんとか盛り込ませようと大田県政と沖縄開発庁はするどく対立する。
国際都市形成構想が、翌年92年から県独自の案として着手され始めるのは、県独自の案が必ずしも採用されることのないという、沖縄振興開発計画の限界を克服する試みである。したがって、沖縄県が策定した国際都市形成構想は、「基地返還アクション・プログラム」を伴っており、米軍基地の大幅な整理縮小が「大前提」となっているのである。(政府は2015年までに沖縄の全米軍基地が段階的に削減され、最終的に全面撤去されるという、このアクション・プログラムの意味を、実現可能性のない政治的アドバルーンとみなした。)大田県政は、この沖縄県独自の構想・計画を実現する組織づくりを政府に要求した。それが、沖縄政策協議会である。
それは、「沖縄問題についての内閣総理大臣談話」(96年年9月10日 閣議決定)に基づき、米軍の施設・区域が沖縄県に集中し、住民の生活環境や地域振興に大きな影響を及ぼしている現状を踏まえ、地域経済としての自立、雇用の確保により、県民生活の向上に資するとともに、沖縄県が我が国経済社会の発展に寄与する地域として整備されるよう、沖縄に関連する基本施策に関し協議することを目的として、設置されたとする。
つまり、「沖縄政策協議会」とは、沖縄振興開発に関連する閣僚と沖縄県知事との沖縄振興に関する最終的な決定の場である。一種の閣僚会議と見ていいが、沖縄県知事が閣僚と肩を並べて着席する特異な形態の閣僚会議である。
しかし、沖縄政策協議会に臨む中央首脳は、大田県政が大前提とした基地返還アクション・プログラムを遠い将来的な課題として、国際都市形成構想の政府の直轄事業や、補助事業を中心とする部分に焦点を当てて、新たな沖縄振興策の枠組みとして持ち上げたのである。すなわち、1、「中央から沖縄への公的な資源の配分量を確保する役割」が国際都市形成構想の最優先課題と位置付けられ、他の要素、すなわち、「全島フリーゾーン」と「特別自治制度」の部分は後回しにされた。
全島フリーゾーン構想と特別自治制度の構想は、県内の合意形成が必要であり、時間が必要であったという理由もある。96年9月時点で、沖縄政策協議会が設置された時点で、基地の整理縮小、撤去、全島フリーゾーン、特別県制度に関してもすべて順次取り扱っていく大田県政の思惑と異なり、結局、この制度は、新たな公共事業、補助事業の政策パッケージを作り出す組織として以上の働きを獲得することができなかった。
その働きを始める前に、大田氏の普天間移設反対表明がなされた。98年12月に登場した稲嶺県政は、沖縄県のHPにおいて次のように掲載している。
「本県の産業施策や米軍基地問題などを政府と沖縄県がともに検討する第9回沖縄政策協議会が98年12月11日、国会内の大臣応接室で開催されました。
今回は、1年1カ月ぶりの開催を受け小淵首相も出席し、1999年度予算案で100億円の沖縄特別振興対策調整費を計上するとともに、この日成立した第3次補正予算案でも沖縄に手厚く措置した内容を表明しました。
同協議会は、平成8年(96年)9月10日の橋本首相と大田知事との会談で首相から提案され、同年10月に初会合が持たれて以来8回開かれていました。官房長官が出席し、首相と北海道開発長官を除く全閣僚と沖縄県知事で構成されていますが、今回は昨年(97年)10月以来9回目となります。」
95年9月 米兵による少女暴行事件
96年4月 普天間基地移設表明
96年9月 沖縄県民投票、代行応諾
97年中 全島フリーゾーン大論争
97年11月 吉元副知事不信任
97年12月 名護市民投票
98年2月 大田氏 辺野古沖移設反対表明
98年12月 稲嶺県政登場
「沖縄政策協議会」は、代行応諾を宣言する直前の9月10日に、沖縄側から設置要求された仕組みであり、当初その仕組みは、沖縄県と中央政府が対等に近い関係で、沖縄振興について議論する仕組みであったといえる。県首脳と与党首脳及び政府首脳は、その後、約、一年余りの蜜月時代を迎える。
沖縄の側から、国際都市形成構想及び基本計画という枠組みを提示し、中央各省庁に可能な振興策メニューを発案させ、さらにその中から沖縄が取捨選択を行うということが、政策協議会を通して進められた。「沖縄振興21世紀プラン」として結実することになっていた。沖縄側、特に「格差是正」以上の優遇振興策を正当化する論理を持たなかった経済界は、大田県政の快挙に大きな期待を寄せた。ただし、この中では、既存の中央―沖縄間の財政移転の方法に関しては、なんらの手を加えられなかったため、「沖縄振興21世紀プラン」振興策メニューは、すべて既存のシステム、すなわち、中央の直轄事業もしくは、県・市町村への補助事業を通して実施されるというシステムだった。
このシステムでは、沖縄と中央側双方にとって対立が生じない公共事業配分などの利益還元政治においては、沖縄側にとっても有効に機能する。しかし、基地問題のような、ゼロサム・ゲームでひとたび、対立が生じると、中央は補助金をカットするという、つまり、古典的な地方統制のための権力を露骨に行使することによって、中央に極端に有利に、県側に極端に不利に作用するシステムである。
中央は、この仕組みを逆手にとり、大田県政を窮地に追い詰めた。振興策具体的メニューを決定する沖縄政策協議会の開催拒否である。
97年11月、議会による信任を得られず吉元副知事という大田県政の舵取り役を失い、ほぼ同時に普天間移設への反対の立場を明らかにした大田県政は、「沖縄政策協議会」の開催拒否という中央の権力行使の憂き目に会い、県の経済界は、期待が大きく膨らんでいただけに、大田県政に対する失望は大きく、危機意識を持つようになった。
沖縄県のHPには、1年あまり開催されなかった理由を述べていないが、稲嶺県政に代わると同時に、政府は、沖縄政策協議会を再開し、県経済界の期待に応えたのである。
2、経済の自由化、一国二制度・全島フリーゾーン構想
第三次沖縄振興開発計画は、大田県政の一年目に準備され、沖縄県側は、その計画に沖縄の米軍基地の削減について掲載することを試みた。しかしながら開発庁はそれを認めなかった。その理由は、開発庁の所管は沖縄の地域的な振興開発事業についてであり、軍事基地や外交に関連するいかなる権限も有していないということであった。
確かに、 沖縄開発庁は、沖縄の問題すべてを解決するために設置された官庁ではない。しかしながら軍事基地が振興開発にとって無関係で存在することは不可能であり、むしろ、復帰後返還された都市近郊の少しばかりの基地の跡地利用が軌道にのりはじめ、新たな商業地と大きな富を生み出していることを目の当たりにしている沖縄の人々にとって、基地の縮小と経済的発展は直結している。
加速するグローバリゼーションの中で、沖縄の振興を考えていかざるを得ない大田県政にとって、開発庁は、沖縄振興開発をできうる限り極小化して考えていこうとする沖縄開発庁は、本質的に相容れない存在であった。グローバリゼーションへの視野の不在と基地問題に対する開発庁の消極的な姿勢は、沖縄側にとって極めて大きな不満となって蓄積していった。
沖縄国際都市形成構想の最も特徴的な部分の一つは、グローバリゼーションを明確に意識化し、しかもそれを先取りするあるいは、積極的に対応する形で沖縄の将来構想を描いている点である。その最も重要な推進の手段が、沖縄全県フリーゾーン構想である。さらには、アジアや太平洋諸国との連携、アセアンやAPECの重視をうたっている。
政治的な文脈でいえば、一国二制度的なきわめて分権的な自治制度の導入と、東アジアにおける国際協調の枠組み強化への貢献をうたっている。
その中での米軍事基地の役割縮小と段階的削減を打ち出している。1990年代の日本において人々の民主的な要求は、非常に大きくなった。人々は自治体が抱える大きな問題に関して住民投票を用いるようになった。1996年9月には、在沖米軍基地の縮小を問う沖縄県民投票が実施され、よく97年12月には普天間基地移設に関連する名護市民投票が実施された。反基地市民運動とその活動は、両方の住民投票において際だった働きを見せた。
大田氏は、受け入れを否定した名護市民投票の結果にしたがって、中央政府(以下中央と省略)の普天間基地移設提案を正式に拒否した。沖縄のガバナンスがより民主的な方向で新しく変化していく兆しを見せたまさにその時、中央は、この変化を決して認めず、従来型の古い権力の行使手段を用い、それどころか今まで以上にそれを強化した。「北部振興策」といわれるさらなる一連の中央政府補助の公共事業が基地受け入れを促進するアメのように用いられ始めた。
中央は、98年2月の大田氏の移設拒否表明後、沖縄県庁側とのすべての交渉を打ちきり、基地受け入れがない場合、振興策もないという姿勢を鮮明に打ち出した。長引く日本の経済不況のもと、沖縄では失業率が全国平均の2倍を越すなどいっそう厳しい状況にある。98年1月に新しい名護市長は、普天間基地の名護移設容認を表明した。
沖縄の産業界・経済界は、沖縄県側と中央との間の摩擦を重大な脅威として受け止めていた。公共事業に大きく依存しているからである。産業界・経済界は、沖縄の現代史において始めて自前の候補者を98年11月の知事選挙にむけて用意した。自前の候補者とは、沖縄経営者協会の会長であった稲嶺惠一琉球セメント会長(当時)である。
稲嶺氏は、選挙戦において、移設を推進するが、移設される海兵隊航空基地の使用期限を15年と限定し、その後は、完全な民間空港にするという公約を掲げた。いわゆる「15年使用期限」問題の発端である。反基地感情の強い沖縄において、稲嶺県政を誕生させる重要な看板となった。
稲嶺県政は、一方、県全域を経済的な特別区とする全県フリーゾーン構想を急速に縮小させ、沖縄本島のごく一部の地域のみを対象とすることになった。世界により開かれた市場が沖縄全域に適用された場合、既存の業種にもすべて過当な市場競争が起こることが予想され、それを危惧する経済界が全県フリーゾーンに反対したからである。
稲嶺勝利に終わった98年11月の沖縄県知事選挙は、政治的には、たとえば公明党から共産党までのいわゆる「革新」が統一候補を打ち立てて、選挙戦を戦うという30年続いた体制が完全に崩壊し、公明党が自民党との連携を確立したということや、自民党中央からの徹底的な選挙支援など数多くの要因が挙げられる。
大きな要因の一つは、当然ながら多くの論者が指摘するように、それまで、「国際都市形成」という新たな経済振興の理念を引き出してくれた大田県政に対する沖縄経済界の協力姿勢が、180度転換することにある。大田氏の普天間代替基地受け入れ拒否表明に反応として、日本政府は、振興策に関する大田県政との協議の全面的に停止した。それ以降、沖縄の経済界は、反大田色を強めた。実際には、それ以前の97年の全県フリーゾーン論争のときから、すでに政府依存型産業は、大田県政の経済政策に関する大きな不満と不信が渦巻いていた。
それは、大田県政の全県フリーゾーン構想は、グローバリゼーションを先取りし、中央に依存するのではなく、東アジア全体の経済発展と経済交流の飛躍的な増大の中に資源の調達を求めたのに対し(脱東京)、市場開放に伴うリスク負担を恐れ、経済開発の資源をこれまで以上に、中央に求める強力な巻き返し(入東京)が、全県フリーゾーン構想反対の核にあるが、大田氏の普天間移設受け入れ拒否に伴う振興策の停止は、その反対勢力の危機感を一気に現実のものとして具体的な政治勢力へと転化させたわけである。稲嶺県政下に全島フリーゾーン構想は一挙に大幅に縮小され、地域も内容も極めて限定的なものとなっている。
萎んでいく全県フリーゾーン構想に入れ替わるかのように脚光を浴びるのが、普天間基地移設受け入れにあたって名護市側が要求してきた「国際情報・金融特別区構想」、いわゆる「金融特区」構想である。対象となる職種・事業が異なるだけで、二つの特別区は、非常に似た目玉、つまり「特別性」を持っている。それは、法人税の控除の部分である。40%の所得税が、実質的に26%ほどになるということである。
香港返還を間近に控えていたこともあり、「一国二制度」というスローガンが、が大田県政の国際都市形成構想のころ、沖縄の政治経済の全般にわたる大幅な制度構築のために用いられ始めた。稲嶺県政においても、金融特区の構想においても、いまだにこのスローガンは、頻繁に用いられる。しかしながら、その意味内容は、年を追うにつれ極めて限定的なものとなっていった。今では、単なる特定業種に関する特定の免税措置に過ぎないようにみえる。
金融特別区も、きわめて限定的な自由化に過ぎないとの指摘もある。まず、第一に、従業員数の条件枠を設けたことは、地元の雇用確保につながる半面、企業誘致の足かせになる恐れがある。第二に、企業を呼び込むための目玉商品として地元名護市が実現を要望していたキャプティブ保険会社(親会社のリスクを引き受ける親会社専属の保険子会社)の導入も見送られた。第三に、金融特区は県内で一カ所だけしか指定できないことになっている。米軍普天間飛行場の代替施設建設の見返りという側面があるのは否定できない。金融特区自体が、基地建設との取引材料とされる手法は、制度の実現に大きな不確実要因を持ち込む。香港をモデルとしたはずだった一国二制度の構想は、ここまで後退している。
3、特別自治制度構想
大田県政がもたらした中央政府における沖縄に関する政策決定の仕組みは、「沖縄政策協議会」の設置に止まるものではなかった。96年当時、梶山官房長官は、開発庁長官ではなしえなかった基地問題を含めた沖縄問題の全政府的な取り組みに対応するため、沖縄担当大臣を新設し、自らその地位に付いた。以後、首相に次ぐ地位を占める内閣の要、官房長官が沖縄担当大臣を兼任し続ける。
2001年1月、沖縄開発庁は、橋本内閣が取り組んだ省庁再編の中で、「庁」という名称を失い、内閣府の中に統合されていくが、沖縄担当大臣が、旧開発庁長官の権限を吸収し、沖縄問題に関して政府施策の全般的な責任を持つことになった。旧開発庁は、名を失った代わりに、基地問題への対応を含めたより大きな権限をもつ官庁へと実質的に強化されたといえる。下はその機構図である。
沖縄振興開発行政の機構図(省略)出典:内閣府沖縄担当部局http://www2.cao.go.jp/1/1-1.htm
しかしながら、「沖縄政策協議会」への知事の参加資格以外、沖縄県は、いかなる目新しい権限も仕組みも獲得していない。中央政府機構の改革のみが先行し、沖縄県には、ほとんど新たな権限や独自の財源が付与されないできた。
したがって、振興開発予算と計画のイニシアチブを中央が握りつづけ、沖縄県は、中央に陳情し続けるという、旧沖縄開発庁と沖縄県の関係は、手付かずに残され、あるいはさらに強化されているとさえいえる。
沖縄振興開発行政の仕組み(省略)出典:内閣府沖縄担当部局http://www2.cao.go.jp/1/1-3.htm
右の図は、沖縄振興開発行政の仕組みを表す、内閣府沖縄担当部局の作成した図である。
振興開発事業の中心に沖縄担当部局(沖縄担当政策統括官及び沖縄振興局)があり、沖縄県(庁)は、市町村と同じような自治体としての位置づけしかない。沖縄担当部局自らが描いた図である点を割り引いても、これが制度の現実を映し出している点は否定できない。沖縄のフリーゾーン構想や様々な特別区の構想も沖縄担当部局が担っている。
大田県政が引き起こした中央政府への激しい攻勢が、中央政府の沖縄政策の仕組みの変化をもたらしたといえるが、沖縄県の側にはなんらの変化も生じていない。98年末に始まる稲嶺県政は、沖縄の自治制度改革になんら言及していない。
国際都市形成構想には、最後の大きな柱があった。全島フリーゾーンを実現・管理する能力を持つ自治政府の設立である。特別な自治能力を持つ、沖縄の自治政府の構想である。副知事の吉元氏は、96年から97年にかけて、自らの出身母体といえる自治労に沖縄についての特別な自治制度案の構築を呼びかけ、98年に自治労プロジェクト「琉球諸島自治政府構想」として成果が上がってくる。97年の県議会では、すでに新たな沖縄の自治について大田県政の基本的な考え方が、示されていた。以下の吉元氏のホームページ(沖縄21戦略フォーラムhttp://www.riseworld.co.jp/oki_21/2001-3.html)にその経緯が述べられているので直接引用する。
「九七年七月の沖縄県議会・本会議で『特別県制』、『21世紀の沖縄のグランドデザイン』について質問があり、副知事として答弁を求められました。『副知事は、かつて自治労の運動をし、八一年に特別県制構想をつくったが、今回の国際都市構想、全県自由貿易地域ができあがっていくときの受け皿となる行政は、県、あるいは国なのか』という趣旨の質問がありました。それに対し、『新たな県政の枠組みはどうあるべきかについて検討していく必要がある』、『全県フリーゾーンを実施する手段として構想を再検討したい』と答弁した。全ての権限を国から移譲してもらい沖縄県自らが行うのが分権であり自治であると明確に認識していたからです。その後、経済の自立的発展のためも特別措置の法的整備とその場合の『行政のあり方』など、特別県制についての議論が求められることとなった。
議会で議論していた九八年二月に、自治労本部と沖縄県本部が共同研究した『21世紀に向けた沖縄政策提言』を発表し、大田昌秀沖縄県知事に提出しました。これは八一年に自治労沖縄県本部が提起した『特別県制構想』を下敷きにし、『21世紀の沖縄のグランドデザイン』を実行するために行政、自治のあり方はどうあるべきかをまとめたものです。これまでの『特別県制構想』から、現時点での現実的な戦略として『琉球諸島特別自治制構想』をまとめ、枠組みとしては現在の鹿児島県奄美諸島も含めた構想です。」
吉元氏の文章には、新しい自治制度の必要性が、現在的な文脈の中で、具体的には分権の時代の先取り、経済的なグローバリゼーションの中での沖縄の自己管理能力の強化にある点が、極めて明白に書かれている。全県フリーゾーンの管理主体は、国からその権限を移譲された新たな沖縄県であると言明されている。換言すれば、沖縄担当部局の権限をすべて、その後は、沖縄県が引き継ぐという構想である。
「これまでの画一的な日本社会にたいして、地方の独自性と多様性が求められる時代に入った。全国にさきがけ自治・分権を求めるのは,沖縄こそ最も必要としているからです。第一に、地方分権の『先行システム』を受ける土壌がある。第二に、戦後日本本土とは別の道を歩いてきた沖縄という地方の独自性を発揮するためには、現行法制度の仕組みや県の権限だけでは不十分なので、独自性を発揮するための行政のあり方としての位置づけ。第三に、アジア太平洋という規模で国境を越える経済圏への参入です。」
沖縄の自治政府の具体的な仕組みとして、特定地域にのみ適用される法律に関する住民投票を定めた憲法95条に基づく、法律の制定を想定していた。吉元氏が構想していた「琉球諸島特別自治政府」の具体的な仕組みは、次のとおりである。
「『琉球諸島特別自治政府』は、法案要項作成の前提として①独立論はとっていませんが、将来的な展望としては持ちち続けたいとしている。②日本国憲法の枠内において構想され、第九五条に定める「一つの地方公共団体に適用される特別法は、住民投票で過半数の同意を得なければ制定されない」という規定が適用される。(沖縄県は九六年九月八日に県民投票の実績がある)③特別法の基本的性格は、沖縄の特殊性と分権制度一般の先行的性格の両面を持っていることです。」
「『琉球諸島特別自治政府』は基本枠組みとして、①県を中心とした自治政府を構想しており、立法・行政とも県レベルの権限が強調されている。かつて琉球政府・琉球立法院の権能をまず沖縄に確立することにあると考えているからです。②広範な立法を保障する「沖縄の立法」が国の立法に対抗するには、立法院的な法構成が必要、群島政府及び市町村は琉球立法院の制定した自治政府条例に基づいて事務を執行する。③中央政府との関係では、係争処理に関する委員会を設置するとしている。」(出典:沖縄21戦略フォーラム、http://www.riseworld.co.jp/oki_21/2001-3.htm)
これが実現していたらならば、沖縄のガバナンスは、「脱東京」を基調として、きわめて大きな変化を遂げていたであろう。
結びに代えて
地域的ガバナンスの変容は、1、財政資源の量的維持、2、資本・資源の移動・貿易に関する規制緩和、3、それを統括する自治権の拡大あるいは自治政府構想、という3点をめぐって行われると問題設定し、沖縄及び沖縄政策の仕組みにおける変化を分析してきた。
大田県政が発案した「国際都市形成構想」は、基地問題を梃子に沖縄から中央に要求していく構想であったといえる。しかしながら、特別措置法の改正が行われ、県知事と県土地収用委員会が基地維持政策の手続きから除外され、関与する、いわば、手続きを実質的に停止する権限を失ったときに、1の「財政的資源の量的維持」を中央が反故にして、県庁を締め上げ、公共事業減少の危機に加え、2の「経済の自由化」に危機意識を持つ経済グループを中心に県政の転換を図り、それに成功し誕生したのが稲嶺県政といえるだろう。したがって、3の「自治権拡大構想」は望むべくもない。つまり、2と3を限定的なものとし、1を至上命題とする県政といえるであろう。中央政府の沖縄政策の仕組みは、それに対応しており、強化された沖縄担当大臣は、中央からの財政資源の維持をやはり最も大きな課題として取り組んでいるといえる。
基地問題をめぐる立場の違い、哲学の違いが、沖縄の知事選においては大いなる対立軸として脚光を浴びる。確かにそれもきわめて重要な意味を持っている。しかし、実をいうと、地域政府の面(空間)を活用する権限に関する争いと再構成することも不可能ではない。大田県政は、基地を撤去することによって、県が経済発展に活用できる面(沖縄本島の約20%)の獲得を目指したということである。必然的に、グローバリゼーションの時代における、地域的なガバナンスの変容の中で考察されてしかるべきである。
実際に大田県政下で多くの政策開発を手がけ、対中央の交渉の最前線に立っていた吉元氏は、2002年9月現在、次期知事選挙(11月)の出馬を表明している。吉元氏は、出馬にあたって、大田県政期に積み残した課題をやり遂げるという理由を掲げている。普天間基地の県内移設反対のほかに、最も基本的な重要政策として、全県フリーゾーン構想と琉球諸島特別自治制度導入を掲げており、沖縄のガバナンスのゆくえが、沖縄県民に再び問われる。
参考文献:
宮本憲一・佐々木雅幸編『沖縄21世紀への』岩波書店、2000年。
島袋純『リージョナリズムの国際比較』敬文堂、1999年。
中野実編『リージョナリズムの国際政治経済学』学陽書房、2001年
都市経済研究所http://www.ueri.org/okinawa/okinawa.html
内閣府沖縄担当部局http://www2.cao.go.jp/
沖縄21戦略フォーラムhttp://www.riseworld.co.jp/oki_21/2001-3.htm
終章 沖縄の自治の挑戦
Ⅰ 基地問題の起源と本質
1 復帰運動の本質
戦後日本の政治の基本的な構造は、半世紀またはそれ以上のアメリカによる沖縄領有をしたためた1947年の天皇メッセージと、それに基づく52年の講和条約による日本からの分離により、沖縄を米軍に差し出すことによって成り立ったと言っても過言ではない。そのため、半永久的な米軍の支配が続いて不思議ではなかった。1972年のアメリカから日本への沖縄の施政権返還の原動力は、日本政府でもなければ、アメリカ政府でもない。沖縄の人々の基地反対運動、島ぐるみ闘争、復帰闘争である。それがなければ、「返還」もない。
沖縄の米軍基地は、旧日本軍の主要基地を接収した日本本土の米軍基地と大いに異なり、その大半が一般市民の民有地を米軍が不法に略奪し占拠したものである。沖縄戦において沖縄島民全員を収容所に収容し、その間に米軍は都合のいいように広大な土地を囲い込み、軍事基地として使いはじめた。
たとえば、現在問題となっている普天間基地も、沖縄戦開始時までは、字宜野湾、神山、中原、新城等の集落と農地、里山などからなる沖縄の人々の生活と生業の場であった。この地域は琉球王国時代から那覇首里から普天間及びその以北にいたる主要街道にあり宜野湾間切の中心であったが、明治以降宜野湾及び中頭部の行政の中心として村役場や郡役所が置かれていた。
交戦国が守るべき戦時国際法、敗戦国のみならず戦勝国さえも守らなければならないハーグ条約(または「ハーグ陸戦条約」)において、一般市民の人権は尊重されるべきであり、戦勝国といえども、市民の財産や土地を没収し、占領したまま返還しないなど、略奪としかいいようのない行為は禁止されている。戦時、つまり交戦中の作戦に必要なときなどわずかな例外を除いて、市民の土地を差し押さえ収用するなど、決して許されることではない(ハーグ条約46条及び47条)
しかし、沖縄の米軍基地の大半は太平洋戦争中に占拠されたままの土地であり、さらには、宜野湾市伊佐浜など、沖縄戦とまったく関係がない1950年代に、住民の生活していた土地を「銃剣とブルトーザー」で強奪し、住民を追い払い、家屋を田畑を焼き払い、つぶして造成された基地さえもある。いずれも住民は裁判所に訴えることすら許されない状況であり、また、米兵が引き起こした事件事故については、米軍の管轄であり、どのようなひどい犯罪や事故であったとして被害者の救済や人権保障はほぼないに等しい状況であった。1945年から1972年の沖縄に対する米軍の支配について、「アメリカの植民地」であったという表現を用いることが多いが、基本的人権を認めない米軍支配は、少なくとも植民地支配にさえほど遠い、「戦時下の軍事占領」であったというほうがはるかに妥当である。「植民地」ですらない、戦時扱いの不法な軍事占領地ということである1)。
法的な保障がまったくないまま、従来の生活と生業の場を米軍に強奪された住民は、爆音や環境汚染、事件事故等の基地被害にどんなに悩まされようが、旧来の集落にほど近い基地周辺部に移住するしかなく、極めて危険な状態が放置されたままとなりそれが現在に続いている。
そのような過酷な状況において1950年代に発生したのが、沖縄の島ぐるみ闘争、日本復帰闘争である。もちろん、自分の土地への移動及び居住の自由、つまり土地の権利の回復、自らの島を自ら統治する権利、を含めた人権の回復こそが最大の目標であった。そのための米軍支配の終焉、米軍基地撤去、そのための日本国憲法の沖縄への適用、そのための日本復帰であった。すなわち、復帰運動の本質は沖縄の人々の尊厳と権利の回復運動である。
2 沖縄の施政権返還の目的―基地問題の「非争点化」
1952年の日本の講和条約の際に、安保条約及び行政協定を条件として押しつけ、日本国内における全土基地化、無期限、自由使用の権利を獲得したはずの米軍は、砂川闘争、安保闘争など激しい反米闘争の結果、実質的に日本本土における基地使用の制約を余儀なくされた。そこで海兵隊の沖縄移転をはじめ在日米軍の沖縄への集中を推し進め、沖縄を米軍の制約のない自由使用の拠点としたのである2)。復帰運動の本質的な目標である沖縄の人々の基本的権利の回復を認めていては、それは不可能になる。
米軍支配の正当性は皆無に近く、反基地闘争的性格をもつ復帰運動が沈静化する可能性はなかった。米軍にとって沖縄返還の決定的な条件は、復帰前とまったく同じく米軍基地の維持あるいは強化、そして期限や制約のない自由使用である。沖縄の人々の人権回復を犠牲にしてアメリカから要求されたその条件をのみ、米軍政府にとって代わり、基地存続と自由使用を沖縄の人々に強制することが日本政府にとっての沖縄返還の最も重要な、核心となる沖縄統治の目的であった。
そのため日本政府は、1972年の沖縄返還に伴い、アメリカ軍の不法な占拠地域に対して、土地の返還を強く求める地主を想定して、1971年制定の「沖縄における公用地暫定使用法」をはじめ、「地籍明確化法」、さらには「駐留軍用地特別措置法」など、米軍基地が占領した民有地を継続使用するためかなり無理のある様々な特別法、特別措置法や制度を次々と構築して、形式的な合法化を図った。
その一方で、土地の賃貸契約よる国の借り上げが進められた。日本政府が地主から借り上げさらに米軍にまた貸しするということで土地の賃貸契約で「合法化」する手段である。日本政府は復帰後、土地代を高額に吊り上げ「契約」を一挙に進めようと試みたが、契約を拒絶する地主が数多く残った。
そもそも不法に強奪された土地であり、契約の拒否と返還は地主の当然の権利である。その土地が仮に自衛隊の基地だとすれば、戦後憲法のもとに、日本政府による軍事目的とする土地の強制収用を「公共の福祉」に合致するものとして可能とする法律はなく、土地収用法においても地主の拒否を覆すことができない。
しかし、日本政府は米軍に対しては、その土地の強制収用を土地収用法の特別法を制定することによって合法化を進めたのである。このムチの仕組みこそが、日本政府の沖縄統治の核心である。代理署名手続きは、この特別法に定められた手続きで、契約の前提となる土地の調書に対する地主が署名しない場合、その地主に代わって、市町村長が代理で署名する手続きである。不法占拠された土地に対して、その権利侵害を無視したまま、形式的に法制度を整え、その侵害を「公共の福祉」論で正当化するというあまりに乱暴で構造的な抑圧の仕組みである。
法形式的な制度が整えられた点でいえば、1972年の「復帰」はまったく沖縄の人々の人権が考慮されない戦時の軍事占領状態から、せいぜい軍事的植民地への昇格とでもいうべき実態であった。政府やメディアが大きく取り上げ、復帰後の沖縄統治の最も重要な仕組みと喧伝してきた「沖縄振興開発体制」は、名目的には沖縄戦と戦後の施政権分離及び米軍支配に対する「償いの心」によって1945年から72年までの空白の27年間により開いてしまった日本本土と沖縄の間を「格差是正」していくことが掲げられていた。
しかしながら、実質的には在沖米軍基地の維持存続と自由使用という最大の目的のために手段とならざるを得ず、沖縄の問題と沖縄からの要求の焦点を「振興開発」にずらしていく、すり替えることと、「振興開発」こそが最重要な課題であると刷り込むことによって、結果として沖縄返還及び日本政府による統治の本質的目的を隠蔽するものであった。沖縄における振興開発の権限を持つ沖縄開発庁が設置され、同庁が策定権限を持つ沖縄振興開発計画が10年ごとに策定された。在沖米軍基地の問題は一切取り扱わない官庁とされ、また同計画の中では、米軍基地の整理縮小どころか派生する問題の解決さえ、排除され掲載されない計画となったのである。
「償いの心」や沖縄に対する同情心は、前面に押し出され大々的に喧伝されたが、沖縄振興開発体制は、基地の縮小や基地から派生する事件事故・人権侵害等の問題にまったく向かうことがなく、その部分を決して取り上げることがない仕組みであった。そういう意味でいえば、基地の存続や再編強化に対する「見返り」、あるいはそれとの「リンク」は間接的であり、直接つながらないことによって、沖縄の人々の歓心を買い振興開発体制の正統性を獲得しつつ、米軍基地の維持・自由使用という目的を達成する仕組みであったということができる。
3 「リンク」論の登場と補償型政治
「償いの心」や「格差是正」を名目とする沖縄振興への「ずらし」や「すり替え」から、それを名目で用いることさえもつぶし、露骨な沖縄振興と米軍基地の存続あるいは再編強化との直接つながっており「見返り」(ケント・E・カルダーのいう補償)の関係にあるという、いわゆる「リンク論」が登場してきたのが、大田昌秀県政の末期である。
カルダーは、これを世界的に展開するアメリカ軍基地の維持に関する比較研究から「補償型政治」と名付けている。日本では、政府から地方への潤沢な補助金により、基地を受けいれる現地からの要望に金銭的な補償(つまり「見返り」)で答え、基地への反対感情を和らげることができたため、強制を伴わずに基地政治を処理できたと説明されている。
カルダーは、直接リンクする仕組みが回避されていた第三次振興開発計画の時代と、直接的見返り、補償が目に見える形で構築された1997年以降の政治システムの区別をしていないが、正確にいえば、いわゆる島田懇談会事業が導入され、その後次々と直接的にリンクする補助のシステムが導入された時期以降が、「補償型政治」というレッテルにふさわしいであろう。
代理署名に関する国と沖縄県の裁判や県民投票が行われた1996年、基地問題の解決の見通しがまったく示されていないにもかかわらず、沖縄県は代理署名応諾の条件として、県の進める「国際都市形成構想」に対する国による支援を要求した。国はその要求を認め国際都市形成構想の着手のためと称し沖縄特別振興対策調整費50億円が盛り込まれた。その後、北部振興事業や島田懇談会事業など新たな沖縄振興の仕組みが生み出される。結果として、全国的な世論において、沖縄の本音は米軍基地反対ではなく、その見返り(補償)のカネ(振興策)であるという受け止め方をされるようになってきた。基地問題に対する責任、あるいは後ろめたさに基づく「償いの心」も同情心もすべて失ってしまった。沖縄からの振興策の要求は、人権を侵害する過酷な状況の容認を含めた米軍基地に対する沖縄の受け入れとの取り引きを意味するものともっぱらみなされるようになってきた。
1998年以降、稲嶺恵一、仲井真弘多と続く保守県政の登場は、まさしく沖縄の側が「見返り」を要求した結果生まれたものと解釈され、そのような言説が強いものになってくる。沖縄への振興策は、米軍基地の「見返り」であり、基地存続や再編の手段であり直接「リンク」していると、政府高官や大臣、有力政治家から露骨な「失言」が当たり前に、頻繁に出るようになってきた。またメディアや世論もそのように主張するようになってしまった。防衛省や与党の幹部・大臣等からも沖縄をこれ以上甘やかすなという極めて厳しい態度が国政や霞ヶ関の基本的なスタンスに変わった4)。
米軍基地が生み出す人権侵害の状況は、「問題」として設定されることさえなく、沖縄の市民運動が人権回復の運動という側面を備える点も無視し、沖縄の支配的な勢力が振興策、金と引き替えに「基地問題」を甘受している、あるいは人権侵害を容認したとでも言わんばかりである。5)
「基地問題」とは、沖縄の人々を人間とさえ認めないような不法な土地の強奪により作り出された基地及びその自由使用から派生する、沖縄の人々の人権や環境、暮らしの侵害・破壊状況のことであり、振興策の拡大を訴え、中央とのパイプを訴える保守系の首長・議員でさえ、振興策のためには問題ある基地をそのまま認め共存せざるを得ないという言説を公にしたことはない。
それどころか、厳格な使用協定の締結と遵守、基地の運用を定める地位協定の全面的な改正など、保守系を含めすべての政治家が「基地問題」解決を訴え続けており、振興策によっては何も解決できない問題として認識しているといっても差し支えない。全市町村議会及び沖縄県議会において、何度も何度も、基地問題の解決に関する全会一致の議決(直近ではオスプレー配備に反対する全市町村議会及び県議会の議決)が採択されているのである。
この点を全国メディアも国政も、無視している。振興策を行えば、「基地問題」がなくなるかのごとく主張する。振興策を要求するならば基地を当然受け入れろと主張するのである6)。最大の問題を人権侵害から経済的困窮と経済振興にすり替え、さらに沖縄が要求する振興策は沖縄による基地の甘受とその見返り要求であるとするものである。
2009年に民主党政権が誕生した。2008年の民主党ビジョンでは、普天間の辺野古移設の見直しと普天間基地の閉鎖が言及され、政権交代をもたらした総選挙の一連の政権公約の一部とされ、それまでの辺野古移設に変わって普天間基地の県外・国外移設が打ち出されるようになった7)。県内での民主党政権の期待の高まりは、保守的な地盤で完全に安泰と思われていた第四区の有力な自民党、西銘恒三郎議員の落選、無名の民主党新人候補の当選をもたらし、自民党は沖縄において全議席を失うはじめての危機的状況に陥った。翌年の知事選に向けて民主党の躍進と野党の伸張に危機感を抱いた沖縄県政の与党及びその支持母体、つまり自民党沖縄県連や地元経済界は、その危機を打開するため大々的な公約の転換を行った。普天間基地の辺野古移設推進から、その断念、県内移設反対に大転換を図ったのである8)。
単に普天間の県外移設を打ち出した民主党躍進への対抗策ではあるが、その場しのぎの対応ではなく、その転換をもたらした構造的な背景があり、大きく三つの時代の流れ、重要な変化がある。
第一に急激な沖縄予算のパイの縮小である。「振興策」、「振興策」と、政権にもメディアも声高に主張している観があり、さも沖縄だけ特別に継続的に大幅な予算拡大があるかのように錯覚させられている。しかし、実際には、大田昌秀県政末期の1996~98年の約4500億円をピークに沖縄振興予算は、2008~2009年頃には2200億円を割り込んでおり、半分以下に縮小している。さらに、構造改革の最中2005年には、県庁の事業に入札していた県内土建業者に対して、談合の大々的な摘発があり、170社にのぼる業者が制裁を加えられ、また、国の直轄事業の入札に実質的に入れなくなっていた。
第二に、2009年の麻生政権までは国政及び県政の双方において、自民党が政権党であり、沖縄と中央を結ぶ政界官界業界の利益還流のパイプあるいは人的ネットワークが築かれていたが、政権交代により寸断されてしまったことである。
第三に、基地の存続や新規建設による経済利益が、沖縄経済全体でみればさほど大きな利益を生み出すものではなく、逆に経済発展の阻害要因になっているという認識が県内の新たな常識として確定してきたことである。
たとえば沖縄県の行った調査では、沖縄本島北部の山間地や離島の基地を含む沖縄の全米軍基地が閉鎖され返還された場合と存続した場合での機会費用、機会損失が打ち出されている。生産誘発額で2.2倍、所得誘発額で2.1倍、雇用誘発者数で2.7倍という数字が公表されている。換言すれば、年間2409億7700万円の所得があるはずなのに、現在は基地から派生する所得は1154億1000万円にすぎず、不当に経済発展を阻害されている、雇用者数も9万4435人あるはずなのに、3万4541人に不当に低く押さえ込まれているということである。また、沖縄国際大学教授の前泊博盛は、沖縄県内の土地生産性の平均は、1キロ平方メートルあたり訳16億円だが、基地は9億円程度にすぎず、年間の機会損失を1600億円程度と見積もっている9)。
さらに、経済的そして政治的にも大きな意味を持ったのは、小泉純一郎政権下2005年6月の県内土建業者170社を上回る県発注公共工事への大型談合摘発である。当然ながら、振興策は公共事業の中心であり、以来、県公共事業の入札率は急激な低下をもたらし、公共事業の受注条件と利益率が非常にきびしいものとなっている。2006年以来、企業の淘汰とともに基盤の弱い土建業の倒産は極めて増大しており、もはや振興策=公共事業が、地元経済に利益をもたらし基地維持の政治に貢献する度合いは急激に低下している。
もちろん、全県レベルでの振興予算を大幅に縮小しつつ基地関連市町村及び地域へピンポイント化された補償型政治、つまり見返りの政治的補助金配分で、名護市などの特定の市町村、特定の業者の中には、利益配分に関与でき利益の維持や拡大が見込まれ、それを生活のあてにしている地元零細土建業者や人々も存在する。しかし、県全体の観点で見ると、もはや「経済的振興」の問題に限ったところでさえ、これまでの「振興策」あるいは国から沖縄への特殊な財政移転のあり方は、効果が極めて薄い、アメとしてのメリットさえ感じられないものとなっている。
見返りの色彩が強い補助金について県全体では大幅に縮小しつつあり、さらに基地そのものが経済発展の阻害要因で、沖縄経済の潜在的な経済利益を基地の存在によって奪われている感覚が極めて強くなっている。仲井真県政を支える沖縄の自民党や経済界にも共通の感覚となってきており、2010年に沖縄県が広く県民から意見を聴取し作成した「沖縄21世紀ビジョン」においても、「沖縄における米軍基地の存在は、長期にわたり望ましい都市形成や交通体系の整備、産業基盤の整備など、地域の振興開発を図る上で大きな障害となってきたが、基地の返還は遅々として進まず、過重な負担が続いてきたことで、本来ならば得られるべき県民の生活上の利益を失い続けている」と指摘している10)。
基地を前提としたアメとしての利益還元は、実際には効果が極めて限定的、局所的で薄い。さらに振興策では、沖縄が考える「基地問題」の本質的な問題とっては何ら解決にならない。にもかかわらず、それを完全に無視した上で、「振興策でメリットは充分なはずであり、それで基地を受け入れ満足すべき」という日本の保守的なあるいは主要メディアの言説は、沖縄の保守県政をはじめ保守政治勢力や経済界においてもまったく受け入れることのできないものである。復帰40年を経て、この断絶は、最大化している。
Ⅱ 民主党政権と補償型政治の変容
1 民主党政権への期待と混迷
2009年の民主党政権の誕生は、沖縄の人々に大きな期待をもたらした。鳩山由紀夫首相は、「東アジア共同体」の構築や日米の「対等な関係」、米軍の「駐留無き安保」をより大きな民主党政権の目標とかかげ、その大きな枠組みの転換の中において普天間基地については「最低でも県外」への移設を実現すると発表し、代替案を模索しようとした。普天間基地の閉鎖または、国外への移設は、東アジアや日米の国際関係の新たな構築に比べれば、極めて小さな取り組みであり、政権が本格的に新たな国際関係を進めていくつもりであったならば、たかだかそれを進めていく第一歩にしか過ぎない。
しかし、民主党政権は、政権をとると同時に、閣内の不一致を露呈し、外務や防衛の官僚制機構を新たな国際関係を目標とする国外移設のために用いることが一切できずに、普天間移設の独自策は自滅していく。政権獲得後、すぐに迷走しはじめ、翌年5月には、辺野古移設案へ回帰していく。メディアは、実現不可能な普天間の県外移設、国外移設を無責任に主張し、日米同盟を危機に陥れた、鳩山個人の首相として資質の問題として、大々的な批判を展開した。
結局、鳩山首相は沖縄に海兵隊基地を置くことが「抑止力」にとって必要との見解を出し、辺野古移設のための新たな日米合意を進めつつ、責任を取る形で2010年5月には辞任せざるを得なくなったのである。辞任の直前に再び、そして長らく用いられることが無くなってきた軍事的な「抑止力」であるが、辞任後鳩山は、「抑止力は方便」であったと発言している。
1995年以降、沖縄の基地問題がクローズアップされて以来、沖縄の側が要求して来たのは、第一に、最も危険な普天間基地の撤去であり、次に沖縄の海兵隊基地の撤去である。海兵隊がどのような役割を果たすのか、「抑止力」になるのか、沖縄のメディアは、軍事的な合理性の点からもくりかえし、取材を重ね分析を重ねて発表しており、この論拠はもはや通じない。尖閣諸島の防衛に対してさえ、海兵隊がなんら役割を果たし得ないのはもはやよく知られており、米軍再編で進むグアムへの主要部隊の移駐計画は、その明白な証左である。このような「抑止力」についての詳細を議論する余地はない。
2012年6月に就任した森本敏防衛大臣は研究者としてのかねてからの持論において、海兵隊が「沖縄にいなければ抑止力を発揮しないという論理は破綻している」と述べており、就任会見においても「地元が受け入れ、訓練、戦略的要地として十分な場所があれば、沖縄でなくてもいい」との発言が報道されており11)、いずれにせよ海兵隊基地を沖縄に置く、地政学的優位性や抑止力の論拠は、もはや極めて説得力のないものとなっている。
にもかかわらず、基地から派生する人権の侵害、尊厳の破壊について痛みを分かち合おうとせず、せいぜい基地問題を振興策の要求の理屈づけに沖縄側が利用しているだけであり、その見返りを過度に要求して甘えている、というレッテルが沖縄に張りめぐらされている。この構図の中で、次に述べる一括交付金も捉えられている。
2 沖縄振興一括交付金の導入
そもそも沖縄振興一括交付金は、民主党政権誕生の際、マニフェスト及び沖縄ビジョンに明記されたものであり、①国庫補助負担金の廃止とその一括交付金化、②国の出先機関の廃止、③一国二制度的な改革を地域主権のパイロット・ケースとして先導的に沖縄県で取り組むこととなっていた。鳩山政権は、ことあるごとに地域主権改革を「改革の1丁目1番地」と唱えたことから、その論理から必然的に、①国庫補助負担金の一括交付金化、②出先機関(沖縄においては沖縄総合事務局)の廃止は、地域主権改革のモデルとして沖縄で率先して取り組むべき課題とならざるを得ない。沖縄への権限移譲を、基地とのリンク、見返りや補償ではなく、地域主権改革の先行モデルという論理づけを行っていたのである。
しかしながら、普天間移設問題が座礁して鳩山由紀夫が退陣すると、地域主権改革は大きく後退していき、この論理も雲散霧消となる。辺野古移設に回帰し、そのための手段という、いわゆる島田懇談会事業、米軍再編交付金事業と同じ論理が復活してくるのである。民主党沖縄ビジョンの1「沖縄を考える」で語られていた、27年の米軍支配、75%の米軍専用施設が集中する不条理の打開については、影を潜め、鳩山のあとを継いだ菅直人首相のもと、沖縄に引き続き基地の負担を担ってもらい、代わりにいっそうの沖縄振興策、というスタンスが明白になる。
一方沖縄では2009年1月には、名護市において移設反対派の候補が市長となり、また9月の市議会選挙では、市長支持派が圧勝し多数となった。振興策づけにされていた名護市がその転換に至った動向を受けて、仲井真弘多知事は、辺野古移設の反対を公約として明示し当選した。沖縄の政治状況において辺野古移設と振興策の抱き合わせが通じる状況にはもはやない。にもかかわらず、菅直人首相の2010年12月の知事選後の沖縄訪問においては、辺野古移設への協力依頼と同時に新たな沖縄振興の枠組み、一括交付金の導入と沖縄振興法の改正が提案された。その後、普天間基地問題解消のための沖縄への利益供与、すなわち一括交付金、それを当てにする沖縄という図式をどのように構築していくかが、民主党政権が最も腐心する沖縄対策の課題となった。
2011年になると、仲井真知事は、知事選の公約に基づき、普天間基地の県外移設の主張を継続しつつ、沖縄振興予算総額3000億全額の一括交付金化、その10年の保障を政府に要求する。
これに対して政府は、県知事との非公式の会談を何度も設定し、それを知事による基地容認との取り引きの密議としてイメージを演出するよう腐心した。メディアもそれを流し、沖縄振興一括交付金について、基地の代償、という認識が増幅されていった。予算折衝の大詰めとなる12月には、もはや地域主権改革の先導的モデルという位置付けは完全に消え去り「政治的決着」として3000億円の一括交付金が確定したとの報道されるようになった。政府に協力的なメディアの影響もあり、いまや全国的には、基地容認の対価として沖縄に特別に認められたものとしてしか認識されていない12)。
3 地域主権改革と新たな沖縄振興体制
沖縄県は、新たな振興と財政の仕組みを現在に至るまで地域主権改革の先導的モデルという看板で一貫して主張しており、国の基地政策容認の見返りあるいはそれとのリンクを認めたこともなく拒絶し続けている。
「一括交付金」が、地域主権改革の目玉とされたのは、国の厳格な用途指定と統制がある国庫補助負担金、いわゆるひも付き補助金のひもを断ち切ること、中央の自治体に対する統制力を縮小し自治体の裁量を拡大するからである。新たな沖縄振興策の目玉とされた「沖縄振興一括交付金」は、どのような仕組みか、そのような「ひも」(「補助要綱」による統制)が断ち切られた状態なのか、それとも防衛省の統制力が極めて強い周辺整備法や米軍再編交付金のように基地の維持強化に結びつけられた「ひも」が付いているのだろうか。
当然ながら沖縄県及び県内市町村は、ひもの断絶を要求した。具体的には、補助事業の採択の基準について、補助要綱を撤廃して一般財源化し国の関与をゼロにするか、極めて緩い基準にして国の関与を実質、最小限に押さえ込んでいくかである。3000億円の振興予算総額すべての一般財源化あるいは補助要綱の適用除外が、最大の目標であり県の当初の要求である。
しかし、それを地域主権改革の先導的モデルとして掲げるつもりであったにせよ、でも、肝心の全国的な地域主権改革の目標像が2011年にはもはや徹底的に後退しており、国の出先機関の直轄事業費まで含めた一般財源的な一括交付金を導入するという見通しがまったく立たなくなっていた。したがって、政権交代当初はともかく、2011年後半時点ですでに、全国のモデルとする論理にももはや厳しい状況となっていた。
一方、国の方にしても、米軍再編交付金のような、基地政策との露骨なリンク、見返りの仕組みを沖縄振興一括交付金に導入するわけにもいかない。国が決めたのは、まず、国の直轄事業予算とその予算を執行する国の出先機関の、沖縄県への移管要求を拒否したことである。沖縄に対して直接提供できる公共事業とその実施機関を喪失することは、完全に沖縄に対する国の統治の手足を喪失することを意味し、ひいては内閣府沖縄担当部局(旧沖縄開発庁)の仕事もほぼ消滅することを意味する。国にとっては絶対に認められない要求であっただろう。
次に、振興予算の総額をほぼ県の要求どおり、3000億とすることであった。予算縮小の時代、ましてや東日本大震災の年の予算編成において、異例の金額を提示することによって、沖縄県の最大の要求は、総額の獲得が(自治権の強化よりも)最優先というメッセージに代わってしまう効果があった。
最後に、総額3000億円を提示しつつ、国の直轄事業と県や市町村への補助事業を半々年、約1500億円の補助事業のうち、約700億円を従来の高率補助公共事業の一括化とし、残りの約800億円を「沖縄振興特別推進交付金」として、ソフト事業の一括交付金としたことである。県の主張する補助金適正化法の適用除外、補助要綱というひもを外す点については受け入れられなかった。極めて重要な点は、公共事業の一括交付金が、各公共事業省庁の策定した従来の補助要綱がそのまま適用され、それに基づく統制を受けるのに対して、新たなソフト一括交付金は、補助要綱を内閣府沖縄担当部局が策定することとなり、またその補助要綱に基づいた事業の採択可否の権限を獲得したことである。
つまり、800億円の内閣府沖縄担当部局の固有予算を純増させた。しかも、3000億円10年継続も認めておらず、800億円も制度的に補償された金額とはされなかった。状況によっては、総額もソフト交付金の徹底した削減が可能である。それによって県及び市町村に対する大きな統制力を確保したことにある。新たな仕組みの概括は図表終―1【略】によって示される。
これまで、沖縄開発庁本庁そして現在の内閣府沖縄担当部局は、2011年度予算まで一括計上した沖縄振興予算のほぼすべてを実施の段階では、各公共事業省庁、経済官庁への予算の移し替えなければならず、実施を通しての影響力はそう大きなものではなかった。しかし、この改革により、はじめて、800億という膨大な予算の実施に至る影響力を持つことになったといえる。これが、今後どのように使われるようになるのか、継続的にこの予算規模を確保できるのか、補助要綱がどれだけ厳格な統制手段となるのか、まだ予断を許さない。大田昌秀県政末期から稲嶺恵一県政、仲井真弘多県政を通して影響力を拡大してきた防衛省は、当然ながら基地政策との「リンク」を裏に表に出していくことを進めていくであろう。それも極めて大きな懸念材料である。現に2012年民間人起用によって就任した森本防衛大臣は、県が待望する那覇空港の第2滑走路の建設事業が基地にリンクする旨の発言を行い、明らかにその方向性を推進していた13)。
4 沖縄振興一括交付金への県の取り組み
「沖縄振興一括交付金」のアイディアは、2010年5月に仲井真弘多知事より提示され、その後内閣府との交渉が開始し、普天間基地の「県外移設」の政策転換とともに11月の知事選挙における公約の目玉になったものである。
図表終―2【略】は、沖縄政策協議会の一部として2010年10月新たに設置された沖縄振興部会で沖縄県が用いた資料である。
ソフト事業を含めた安定的な財源として、3000億円、10年間の確保が要求されていることがわかる。
2010年の年頭から民主党政権は、普天間基地移設問題でつまづき、結局は2010年5月には、沖縄県及び県民に対して陳謝とともに言葉とともに辺野古移設に回帰してしまう。
先述したように、2009年末には、自民党沖縄県連及び地元経済界が、普天間基地の辺野古移設の拒否、県外移設を明白打ち出すようになり、翌年1月には、辺野古移設反対派の稲嶺進が名護市長に当選した。仲井真弘多知事も県内移設は極めて厳しい、実現が困難と強調するようになる。
沖縄県知事から沖縄振興一括交付金が提案されたのは、まさにそのような時期であり、大田昌秀県政期に設置され実質的に有名無実化していた「沖縄政策協議会」が、政府側の「何らかの対話のメカニズム」をという思惑と政府の責任で思い切った政策の実施を現実化したい県側との合意で、一括交付金の設計を取り扱う場として再び持ち出された。
しかしながら、仲井真知事側は、知事選を控え県内与党や経済界のより強硬な辺野古の県内移設反対の圧力のもとにより、反対の立場を強め、9月県議会において、「実質困難」という言説から、明白に、「県外移設を求める」という政策の転換を表明した。10月26日の沖縄政策協議会第1回沖縄振興部会において、正式に県側から沖縄振興一括交付金の基本設計に関する要望書が提出されたのである。
この要望は、基地の移設受け入れを明白に拒絶した県側に対して、他に何もカードもなく、対話の糸口さえない国側の、ただ一つ残された頼みの綱、とりつくシマ、がこの一括交付金の実現への協力、ということができるだろう。14)
しかし、その後、政府に協力的な中央メディアの報道とそれを許してしまうような「密議」と批判された知事と政府中枢との非公式会合もあり、それが大々的に報道され、県の改革のモデルという主張とは相殺され、またしても沖縄振興一括交付金は「基地の見返り」というイメージが流布され再強化されてしまった15)。
沖縄側からすれば、総額3000億円の根拠は単に過去10年の平均値というものに過ぎず、その10年確保の要求も、補助金適正化法の適用除外の要求も認められない中で、基地に関連させて要求するほどの過大なものという認識はまったくない。さらに、大きな問題は、基地の根源的な問題は人間の尊厳への否定、人権侵害の問題であり、沖縄の根本的な要求はそこから生じる尊厳と権利の回復の要求であるという点に対して、まったくといっていいほど、中央メディアも政府も無視している点である。あるいは意図的に経済的な問題へすり替えること多々見受けられる。
2009年末以来、沖縄県内における全政治勢力及び経済界を含めた社会勢力が、普天間基地の県内移設反対を強固に打ち出し、これまでの基地とリンクした振興策を拒否する中で、本土側の主要な世論及び政府の認識と沖縄の認識の差は、「断絶」と言っても過言ではないほど乖離してしまっている。
Ⅲ 構造的差別の現実
1 オスプレーの普天間基地配備問題
2011年7月に日本政府は米海兵隊の新型輸送機、オスプレーの普天間基地の配備を発表し、12年10月1日岩国基地に一時駐留していた同機は、沖縄の全県的な反対運動を押し切って予定どおり、普天間基地へと強硬配備された。
オスプレー配備の問題は、墜落の可能性が極めて高い欠陥機と言われながら、沖縄の100万人あまりが居住する本島中南部の真ん中にある普天間飛行場に配備され、訓練空域として沖縄本島ほぼすべての市町村の上空を頻繁に通過することにある。安全のため住民の住む市街地としてはならないクリアゾーンをそもそも設けていない普天間基地は、日本の航空法では、そもそも飛行機を離発着してはならない、飛行場にさえ認定されないものであるが、さらに、ヘリコプターモードにおいて、エンジン停止時の不時着機能、いわゆるオートローテーション機能を有していない航空機を安全を確保できないものとして禁止している16)。にもかかわらず、航空法の適用除外、あるいは安保条約に基づく特別法として、普天間基地におけるオスプレー配備と自由使用は認められている。日本政府は形式的な「できる限り」民間地上空を避けて飛行という合意が得られたと発表したが、なんらの拘束力がなく、実際に米軍の思いどおり、沖縄の空をいつでも自由にどこでも自由に飛んでいる。
オスプレーの配備にあたっては、事前に岩国基地の配備もあり得たが、岩国市が反対を明言すると日本政府は即座に岩国配備はないと明言し約束した。沖縄で10万を超える反対集会があり、全自治体集会による反対決議があったとしても、強硬配備を進めることと極めて対照的である。ここにも、制約のある日本本土での基地使用と、沖縄の全土基地化・自由使用を認める基準が異なるということがわかる。
つまり、沖縄の人々の「人間の尊厳」は、日本本土の人々の「人間の尊厳」に比べたらはるかに劣る、ということである。一人ひとりの意識とは異なる次元で、この沖縄の人々の尊厳を認めない、尊厳の否定を強制する法律があり協定がありさらには密約がありさらにはメディアの基本的な報道姿勢がある。そしてそれを支える国民の無関心がある。これを沖縄では、翁長雄志那覇市長など保守系の有力政治家でさえ「構造的差別」として、激しく批判するようになっている。オスプレーの普天間基地配備は、復帰後はじめてというほど激しい反対運動をもたらし、普天間基地の3つのゲートを市民の車両の横付けと市民の座り込みで、同時に閉鎖するという状態が生じた。それが可能だったのは全県的な支持がその背景にある。
しかしながら、全国的には、2009年の中国漁船船長の逮捕以来、尖閣諸島の領有をめぐる日中間の衝突は、2012年8月の日本の同諸島の国有化以来さらに激化したため、日米同盟の重要性、そのためのアメリカが望む沖縄の海兵隊基地の存在は、沖縄の人々の尊厳や人権の問題以前に、より「日本」を守るために不可欠なものという言説がメディアを通して国内世論として強くなっている。沖縄の報道では、米軍再編や海兵隊の軍事的機能の変化、西太平洋における現実的展開の変容など、丹念で徹底した取材記事が充実しており、尖閣諸島または中国に対する「抑止力」として、第一に海軍と空軍の領域であり、西太平洋を数ヵ月ごとにローテーションで異動する在沖海兵隊がほとんど関係がないことが常識となっている。鳩山由紀夫は退任後、「抑止力は方便」としたがそれ以前に沖縄の常識となっている。
これまで沖縄側から県知事の要求や与野党全会一致の要求として、海兵隊以外の空軍嘉手納基地や海軍基地に関する閉鎖が言及されたことは皆無であった。しかし、オスプレーの配備を直前に控えた7月1日、森本敏防衛大臣の知事に対する受け入れ要請に対する回答して、仲井真弘多知事は、万が一のことが起これば「(県内の米軍の)全基地即時閉鎖という動きにいかざるを得なくなる」と述べた。17)元通産相のキャリアでかつ沖縄電力の社長という最も保守的といえるような経歴と支持基盤をもつ知事の公的な場での発言である。
これに対する森本大臣の対応が、先にのべた基地と振興策のリンク論の持ち出しである。特に県が観光や物流の発展に欠かせないとする那覇空港第2滑走路の建設を引き合いに出した。それは森本大臣の一人の持論というよりも、政権全体、政府全体の本音であり、主要メディアの認識でもある。なによりも沖縄にとって不幸なことは、新しい沖縄の自治の仕組みとされるべき一括交付金にしても、ほとんどその認識でしか見られておらず沖縄の自治の発展を支援する仕組みということでの国民的理解は十分ではない、ということである。
くりかえすが、この断絶は極めて大きい。米海兵隊の部隊構成も機能も分析しないまま、尖閣諸島の問題や中国の軍事的台頭に対する抑止力と断定する、中身のない、説得力のない軍事的な根拠をもとに、海兵隊の沖縄駐留の必然のものとして、見返りや振興策による沖縄の説得、あるいは沖縄の貢献に対する感謝とする論説が目立つ。
カルダーが基地の安定供給をもたらすという「補償型政治」の条件が、もはや沖縄において完全に崩壊している。にもかかわらず、それ以外、何も代替案がない。ひたすら日米同盟の維持のためには、沖縄に米軍が望むだけ、望むように、米軍基地を置き続ける以外に何もない。そしてひたすらその補償を沖縄にちらつかせるだけが民主党政権の対応であった。
2 第二次安倍政権による自民党の変質と国民統合の否定
2012年11月、3人目の民主党の野田佳彦首相は、突如として衆議院を解散し、12月には総選挙となった。自民党は、野党時代に明らかに大きな変質を遂げており、それを端的に表すものが、2012年4月に発表された自民党憲法改正案である。立憲主義の否定としかいいようがない憲法改正案であり、党の意思として公式に採択された改正案ということであれば、もはや立憲主義を守るという意味でのリベラルな土壌は自民党から消え去ったといっていい。安倍晋三政権の最大の目標は、戦後レジュームの根幹である憲法の改正といわれている。憲法の改正というよりも国民に国家権力を制限するためのものが憲法の本質だとすれば、それを否定する憲法の抹殺、立憲主義そのものの破壊、あるいは擬似憲法への転換ということになる。
現行憲法を否定するために、選挙公約において、1952年4月28日に発行したサンフランシスコ講和条約以前に日本に主権がない状態であったことを強調し、4月28日に主権回復したことを祝い、「自主憲法」制定への機運を高めるとしていた。
しかし、その回復は、平和条約第3条によって沖縄などが日本の主権下から分離され、米国の支配に委ねることと引き換えであった。平和条約発効の4月28日(以下4.28とする)を主権回復の日として式典を開催するというのは、山中貞則、梶山静六、小渕恵三、橋本龍太郎、野中広務等々が、政権の中枢と政党の中心にいた頃にはありえない18)。
なぜならば、第一に、沖縄の人々を日本人となんら変わらない同等の権利を持ち一体感を持つ日本民族の一員であるという認識があった。したがって、それを分断する米軍による分離統治の開始となった4.28を沖縄だけが許容できないのではなく、「日本民族」全体が許容できない、そういう共通認識を自民党の主流と沖縄が共有していた。
第二に、この分離には、日本政府や与党にも責任の一端があるという責任の自覚である。初代沖縄開発庁長官の山中貞則は、1971年の国会において沖縄関係法案の趣旨説明を、「日本国民と政府は、多年にわたる忍耐と苦難の歴史の中で生き抜いてこられた沖縄県民の心情に深く思いをいたし、『償いの心』を持ってあたる」と述べていた19)。
つまり、同じ日本人(民族)という第一の論点の共有が大前提で、それなのに救うことができず特別に苦難を負わせてしまった、だからそれに対して、第三の論点として日本政府及び日本国民はその責任のもとに「償う心」があるという論理である。
4.28を「主催回復の日」とみなすことができないのは、米国や日本政府との協調を重んずる保守党として1958年に結成された沖縄自由民主党の根幹の考え方でもあった。毎年というほど頻繁に琉球立法院は、施政権返還決議を行った。最も衝撃を与えたのは、1960年の国連植民地独立付与宣言を引用して決議文が作成された1962年のいわゆる2.1決議である。
起草委員会の代表は、沖縄自民党所属で、魂魄の塔を建立したことで知られている翁長助静であり、次の決議案を議場で読み上げ賛成決議を要求した。
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対日平和条約第三条によって沖縄を日本から分離することは、正義と平和の精神にもとり、将来に禍根を残し、日本の独立を侵し、国連憲章の規定に反する不当なものである。(中略)1960年12月第15回国連総会において「あらゆる形の植民地主義を速やかに、かつ、無条件に終止させることの必要を厳かに宣言する」旨の「植民地諸国、諸人民に対する独立許容に関する宣言」が採択された今日、日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていることに対し、国連加盟諸国が注意を喚起されることを要望し、沖縄に対する日本の主権が速やかに完全に回復されるよう尽力されんことを強く要請する。20)
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この決議は、立法院自らが、沖縄の現状を不当な植民地と捉え、日米の両政府のみならず、国連及び全世界の国連加盟国すべてに直接送付されたものである。
さらに、1964年、自治を弾圧したことで著名なキャラウェイ高等弁務官の施政下においても、施政権返還要求の発議者の代表として、4月27日決議案を読み上げ賛成を求めたのは沖縄自民党の中村晄兆議員であった。
日本国との平和条約が1952年4月28日に発行していから12年が経過した。(中略)ところが祖国復帰という沖縄住民を含めた日本国民の総意が無視されて、沖縄は平和条約三条によって祖国日本から分断され米国の統治が続けられている。このことは近代民主主義の基本原理に反するものであるが更に(中略)主権尊重、民族自決の国連憲章の精神にもとるものであるといわなければならない。(中略)よって、本院は、祖国日本が沖縄に対する主権回復を最高の国策として強力に推進してもらうよう強く要請する21)。
さらに、中村は、決議文朗読に続く趣旨説明の中で「イデオロギーを超越する一つの民族的な悲願であるということを条約を締結した各国々にも素直に認識していただきたい」という「民族の悲願」という言葉を用いて説明している22)。つまり4.28からの主権回復こそが沖縄を含む日本民族全体が共有する「民族の悲願」であるという意味である。日本の「主権」や「民族」の中に沖縄を位置付けることは、多くの沖縄の人々が持ち続けた希望であったが、それは沖縄自民党の根幹を支えた精神でもあった。4.28による沖縄の施政権の分離を「民族の悲劇」と捉え、施政権返還を「民族の悲願」と捉えるのは、沖縄の当時の革新政党や、祖国復帰協議会などの復帰運動の中心に限ったことではなく、自由民主党を含めた沖縄全体の捉え方ということができた。
第一に4.28を日本本土の「主権回復」の達成よりも、そのために沖縄の施政権を放棄するという犠牲を強いたこと、それにより同じ民族が分断された「民族の悲劇」とすること、第二にその犠牲と悲劇について、日本政府及び与党は責任の一端を負うこと、したがって第三に日本政府・与党及び国民は「償いの心」をもって沖縄に向き合うこと、この考えを沖縄と日本本土で共有することによって、沖縄の与野党の政治勢力、メディア、世論を含めて日本という国への統合が図られていた。つまり国民統合の論理とさえなっていたということができる。
第二次安倍政権は、沖縄からの強い不快感の表明にもかかわらず、4.28に「主権回復の日」の政府式典を開催したが、それが何を意味するのであろうか考えてみたい。
まず、日本政府が公式に4.28は日本が主権回復した記念すべき日であって、沖縄などの分離は、日本民族全体からすれば瑣末な問題に過ぎず「民族の悲劇」などに該当しないということである。さらに踏み込んで言えば、同じ「民族」としての悲劇を共有することの否定である。
第二に、沖縄などに対する主権の実質的放棄に対して日本政府は責任がないという論理である。沖縄を犠牲に自分たちだけ主権回復して悪いことをしたと、という思いがないからこそ4.28を「主催回復」の日として記念することができる。日本政府が責任を負うのは4.28に主権回復した日本本土であって沖縄などはそこに含まれないことになる。
第三に、分離に対する責任から導き出される沖縄に対する「償いの心」も必要がない、つまり「償いの心」破棄である。
つまり、4.28を「主権回復」の日として、記念するという明白な意思とその実現は、これまで、沖縄との間で共有されてきた国民統合の論理を公式に破棄し転換するという意味を持つものである。日本の「主権」と「民族」から、沖縄を除外する意味を持たざるを得ない。
いくら、「沖縄などの苦難を慮りつつ」などと配慮を取り繕ったとしても4.28に「主権回復」という看板を掲げて式典を行う限り意味はない。日本政府が「主権」「民族」について沖縄を「日本」の下か外かに放り投げるということになる。日本政府が同じ民族として悲劇を共有すること拒否しつつそれでも日本政府の配下に従属させておきたいというならば、それは沖縄に対する植民地化の意思表示である。
つまり、沖縄の人々は日本の主権のもとに、日本本土の人々とまったく同じ取り扱いを受け権利を等しく保障され得べき同じ民族ではなく、制限や抑圧があったとしても仕方がない人々であるというメッセージになる。政府の公式式典として皇室や47都道府県の代表を動員することによって、国全体の意思として天皇や全都道府県にそれに従うよう、また沖縄に対しても従うように求めたことになる。沖縄県の代表またはその代理が出席することはその受け入れを意味する。基地の移設や強化は容易になる。
沖縄の自民党が、抗議の議決や活動にも何も参加しないということは政府のメッセージに同調、少なくとも容認することを意味する。歴史を切り開いてきた先達の思想や取り組みを否定し根本的に転換することになる。つまり、沖縄を日本の植民地としてとらえる植民地主義政党に生まれ変わるという評価にならざるを得ない。
一方、自民党以外の沖縄の諸政党は、4.28を「屈辱の日」として反対集会を開催したが、これまでの国民統合の論理に支えられているといってよい。しかし、政府及び与党は明らかにこの国民統合の論理を否定する意思がある。式典に地方代表や皇室も動員され国家的な意思が公式に転換されてしまった。さらなる再転換は、非常に厳しい。今後は、「同じ日本人」「同じ日本民族」という論理で、同じ権利を認めるよう懇願しても非常に難しいであろう。ここまで政府によるあからさまな沖縄への差別が露呈しても、それでもなお沖縄からの要求や世論が、日本の「民族」や「主権」の中に、沖縄を差別せず入れて欲しいという願いであれば、その声がどんなに大きくても、沖縄に他に道はなく、いまだ旧来の国民統合を求めていると捉え、日本政府及び政権与党は安心するであろう。主権侵害のしわ寄せを沖縄に集中させるいわゆる戦後国体の構図に影響力を持たない。いずれにせよ政府の沖縄に対する露骨な差別的政策、軍事植民地的な政策の歯止めとなるようなものではない。
しかし、第三の道がある。日本政府が公式に日本の「主権」や「民族」から沖縄を外に放り出したことに対してそれを沖縄自らが受け取り、自らの基本的権利を守っていくため自分たちのものとして再構築していくことである。その出発点として沖縄の人々がそういう権利を有しているということを「権利の章典」として確立することである。
英国のスコットランドにおいて主権国家に近い強力な自治権を確立できた背景には、「主権」を自らのものとする「人々の集まり」として、権利の章典(Claim of Right for Scotland 1989)を行うことができたからである23)。4.28を機に沖縄の人々の総意として権利の章典を打ち出すことができれば、自らの未来を作っていく基盤になる。
1962年の立法院決議にせよ、1964年決議にせよ、人々の基本的人権の保障を権力に求める立憲主義的な解決の姿勢は共有されている。したがって、「民族」の概念、すなわち血筋や言語・文化・歴史の一体的共有に基づく集合体から、基本的人権を持つ一人ひとりから構成される意識的な集合的権利主体、「人民(People:人々)」へと転換することが必要であり、同時に「日本」から「沖縄」に移し替えていく方向が検討されてしかるべきであろう。沖縄から発する権利の章典には、主権を含めた自己決定権を沖縄の人々が持つこと、それによって立憲主義的な統治機構の創設を行うことを国内外に強く主張し共有してもらう必要がある。
さほど難しいことではない。上であげた1962年や64年の施政権返還決議の中身を、主権の主体を「日本民族」を当然の前提とするところから、Okinawan People(沖縄の人々)に変えていくことを基調に考えていけばいい。沖縄県議会決議でもインパクトがあるが、さらに、2013年1月28日に安倍首相に提出したオスプレー導入反対の建白書のように、県議会議員、市町村長、市町村議会議長、さらには、知事や沖縄選出国会議員の署名があれば権威ある沖縄の主権のあり方を根拠づける基本的文書となる。国連や全世界の諸国に向けてこの「権利の章典」を発信していく必要があろう。この意味の重要性が広く共有されなけらばならないであろう。
4.28政府式典の開催は、くりかえし述べるが、日本の国民統合の原理を根本的に、しかも正式に転換するものであり、戦後日本は、新たな時代へと突入した。沖縄はこのことを明白に捉えなければならない。差別を容認し軍事的植民地として利益を求める道、立憲主義的な人民の自己決定を沖縄において実現していく道、今後、どの道を選ぶのか、極めて重要な選択を日本政府によって投げかけられている。また沖縄も自分たちの道を自分たちで切り開いていく覚悟を求められている。
Ⅳ 沖縄の未来
2012年度から導入された沖縄振興一括交付金の仕組みは、極めて脆弱な基盤の上に立っている。まず、地域主権改革の先導的モデルという位置付けは、もはや沖縄側が主張する以外に聞かれなくなってしまったことである。それに代わって中心的なものとなるのは、基地政策のための見返り(補償)あるいは基地とリンクした特別な恩恵という認識である。主要政党、主要メディア、政府、省庁における支配的な認識である。
具体的な制度を見てみると、初年度においてこそ、対立と妥協の密議の中で3000億円の総額が確保されたが、法制度上、金額が固定されているわけではなく、1500億円という沖縄振興一括交付金の額も保障されているわけではない。沖縄振興特別措置法(2002年施行)の廃止ではなく、同法の補助金部分の一部改正によって実現している制度であり、極論を言えば、限りなくゼロに近づけることさえ不可能ではない。また、補助金適正化法の適用内にあり、その補助要綱については内閣府の裁量になっていることから、一括交付金による補助の採択不採択についても、内閣府は権限を拡大しており、沖縄県や市町村の裁量に委ねられているのではない。
改正された沖縄振興特別措置法も10年の時限立法であり、今後10年間にどれだけ沖縄の自治を拡充するものとなるのか、あるいは逆に沖縄統治の手段と化するのかについてはいまだ明白な予測は難しい。沖縄の側に補償型政治の手段となっていくことを阻止し、自治を再編していく意思と力がなければ、わずかな見返りのために、自治も経済も衰退していく可能性もある。
目下のところこの新しい制度を自治と地域経済の発展のために最大に生かしていくしかない。しかし、新たに制度改革を検討するとすればどのようなことが考えられるのか。二つの大きな枠組みを考えてみたい。
まず、「普通の県」になっていくという枠組みである。第一に、内閣府沖縄担当部局とそこが一括計上する沖縄振興予算の仕組みの廃止である。以前の新潟県や群馬県、島根県などのように、派閥の領袖を務めるような有力な保守政治家のいる県に比べれば、補償型政治の補償、すなわち換言される利益、あるいは見返りは、さほど大きいものではない。一人あたりの行政投資額は沖縄の場合全国都道府県のうち10位から20位前後である。中央政府に特別部局や予算の仕組みがあってもせいぜいこのようなものである。にもかかわらず、独自の看板を立てた特別な振興予算、振興の仕組みがあるがゆえに、大きな見返りをもらっていると喧伝される材料にされている。それを全面的に廃止して、他府県で用いている離島振興法や過疎法による特別措置で代替すればかなり補充が可能である。
第二に、その代わりに、在沖米軍基地の全国並みへの縮小を要求する。撤去された基地は、当然ながら原状回復、使えるようになるまで回復させるまで日本政府が費用を負担すること、さらに地主への引き渡しまで土地の資料料を支払い続けること、第三に、基地があるがゆえの機会損失は極めて大きい、その分を沖縄県及び市町村の一般財源として補填する。先述した2つの試算では、1250億から1600億円の毎年の損失がある。その損失分を充当することである。これは見返りではなく、元来あるべき収入である。
基地がある間は基地から派生する外部不経済に対処する費用は必要になるであろうが、基地の返還に伴って廃止していき、借地料も原状回復して地主に返還した後は、なくなる。基地を存続させるよりもなくしていくことの方が、日本政府にとっても沖縄にとっても財政的にも経済的にもプラスになる。しかし、この仕組みの問題は、第一にいくら沖縄側が、基地の存在による「機会損失」である点を主張しても、政府も全国メディアも、それを基地の補償とみなして喧伝する可能性が高い点である。それを信じる多数の国民もそういう意味でしか理解しないならば、基地の押しつけを正当化することになってしまう。
そこに第二の問題も関わっている。つまり、本土他府県と同じような府県制へ移行を要求するだけでは、国全体で進む立憲主義の否定に対して何ら抗する力を持たないとうことである。沖縄の人々の人権を制約するような、特定地域に差別的な政策に対する抵抗の論理を持たない。
そこで第二の枠組みとして考えられるのは、外交・防衛、通貨・関税を含めた沖縄の主権・自己決定権の回復である。補償型政治がもはや破綻し、補償すべき予算さえもなくなっている日本において、強権発動、物理的強制力の発動しか残された道がないとするならば、日本政府の沖縄統治は、完全に失敗し、基地の廃絶のために沖縄ではもはや独立論が強まっていくことが考えられないわけでもない。1968年の最初の主席公選の際に、自民党は日本復帰により米軍基地が撤去されれば、沖縄経済は破綻し、芋が主食となり裸足で生活するようになるという、いわゆる「いも・はだし論」という大キャンペーンを張り、それがかなり信憑性をもって沖縄で流布された。が、それでも沖縄の人々は、いもとはだしの生活を覚悟の上で復帰推進の候補を当選させた。尊厳の回復のために、残された道だと考えれば、沖縄の主権の獲得が大きな主張となっていく可能性はある。それを正当化する論理は、沖縄の人々が主権を獲得し得る主体であること、換言すれば国際法上の「人民の自己決定権」を有する存在であるとすることである。その自己認識とそれに対する国際的な同意と協働が鍵となるであろう。
二つの枠組みは、極論である。いずれも、沖縄の人々の人権と尊厳を回復し普天間基地をはじめとする米軍基地の県内移設を否定し米軍基地の撤去を求めるための議論である。しかし、沖縄からそう求めたとしても、沖縄に理屈を抜きに米軍基地のこれまでの全土基地化、無期限、自由使用の特権を保持することこそが日本の戦後国体の核心である。政府、政党、大手メディアがその護持のために必死で沖縄への攻勢を仕掛けてくる可能性は高い。それに乗る地元の政治家や勢力も出てくることもあり得る。だとすれば、現実は、その大きな圧力のもとで現在の制度を起点にどちらかに揺れ動くと思われる。
1952年の講和条約の際に、独立講和の条件として、在日米軍に対して日本の主権を侵害するといっても過言ではないに駐留軍としての特権をそのまま保持することを認め、さらには沖縄を日本の主権下から分離し長期にわたって米国支配に委ね米軍基地を集中させることによって、日本の戦後国政の基本構造が成り立ってきた。いわゆる「戦後国体」=安保体制であるが、その護持こそが、日本政府の表においても裏においても極めて強い政治の動力源・圧力源となり続けた。
講和に伴う沖縄の施政権の分離とその後の在日米軍基地の沖縄への移転と集中が行われたのみならず、1972年以降、施政権返還後の沖縄統治システムさえも、この大きな構造的圧力のもとに構築されてきたということができる。戦後日本政治の根源的病理である。
沖縄の祖国復帰運動は、沖縄を日本民族として認めてほしいとする民族主義的な側面を否定できない。しかし、そう主張することによって沖縄における人権と自治権の回復することを目的とする運動であったということができ、日本本土において日本国憲法が実現しているものと想定し、そのもとへの復帰という立憲主義的な運動であったということができる。
第二次安倍晋三政権による4.28主権回復の日記念式典は、戦後一貫して保持されてきた沖縄への国民統合の論理を覆すものであり、戦後政治の別の意味での、つまり沖縄が望んでいない、逆の方向での大きな転換をもたらすものであたった。4.28式典に先立ち、2013年1月28日に、沖縄県内全市町村長、全議会議長、及び県議会議長、県議会各派代表、県内市町村4団体代表、経済界及び労組代表等、100名に及ぶ署名が入った、普天間の閉鎖及び県内移設反対の建白書に対して、安倍政権は一言もない。完全に無視された形となっているどころか、その答えが4.28記念式典である。
日本政府及び日本全体の向かう方向と沖縄との間の断層はますます広がりまた深まって来ている。いずれにせよ沖縄において米軍基地を存続を容認する条件はますます厳しいものとなりつつある。戦後日本政治の根源的構造的な病理、つまり、日本の主権を上回る米軍の特権の保持と基地の沖縄への集中、国家主権の一部を放棄し国民の人権や尊厳を犠牲にするまでの対米従属、それを支える政党、政府、官僚制、メデイア、財界、研究者等、そのような要素から構成されより強化されていく構造的な抑圧、構造的な暴力に対して、沖縄は絶望することなく挑み続けるしかない。
〔註〕
1)ハーグ陸戦法規違反にあたる米軍の民有地不法占拠については、井端正幸「サンフランシスコ体制と沖縄―基地問題の原点を考える」『立命館法学』2010年5・6号が詳しく立証している。また、この問題と国際法違反の捉え方は、古くは加藤一郎「沖縄軍用地問題」『国際法外交雑誌』56巻4・5合併号(1958年)、143―144頁、日本弁護士連合会「沖縄報告書」『法律時報』1968年3月臨時増刊号「沖縄白書」200頁においても指摘され、さらに砂川恵伸・安次富哲雄・新垣進「土地法制の変遷」宮里政玄編『戦後沖縄の政治と法』(東京大学出版会、1975年)480―481頁においても指摘されている。
2)沖縄タイムス2012年8月1日「沖縄返還の日米交渉が本格化する1967年、米交換等が『(基地使用が)本土並みなら米側は沖縄を引き揚げる』と発言するなど、米側が沖縄の基地の自由使用に固執していたことが、外務省が31日公開した外交文書で明らかになった」「同年1月22日付の記録で、マーティンは『自由な基地使用が確保されるなら、いつでも(施政権)全面返還した方がいいと思っている』と発言している」。
3)ケント・E・カルダー〔武井暢一訳〕『米軍再編の政治学―駐留米軍と海外基地のゆくえ』(日本経済新聞社、2008年)247―262頁。[Kent E. Calder, Embattled Garrisons: Comparative Base Politics and American Globalism, Princeton University Press, 2007.]
4)沖縄タイムス2012年2月16日「当時の那覇防衛施設局長、佐藤勉氏は備忘録に以下の場面を書き記している。佐藤氏が局長赴任あいさつで長官室を訪れると、額賀氏は『従来は沖縄の意向を確認し、それを反映した施策を推進したが、この手法はとらない。頭越しにはやらないのが従来のスタンスだったが、今回は政府の責任で案をつくり地元の理解を求める』と告げたという。佐藤氏は『従来とは違うと強く認識した。沖縄を甘やかすことはしない、毅然としてやるんだという意思の表れ』だと感じた、と本紙の取材に答えている。」
5)大手メディアを含め、沖縄以外の全国的な沖縄に対する「同情心」を失った厳しい態度については、例示にいとまがない。たとえば、翁長雄志那覇市長の言葉「全国市長会でも基地問題を出したりすると、『まあまあ沖縄さん、基地はあなた方で預かってね。その代わり振興策をもらったらいいですよ、うらやましい』と言われますから」『世界』2012年11月号、46頁。
6)たとえば、読売新聞社説「沖縄復帰40年 経済と安保を両立させたい」2012年5月15日。補助金によって経済振興するので、基地の再編強化に応ぜよ、という明白な政治的意思をもった社説。
7)民主党沖縄ビジョン2008年。民主党サイトの以下を参照
(http://www.dpj.or.jp/news/files/okinawa(2).pdf )(2012年10月30日)。
8)沖縄タイムス2010年1月4日「自民県連「県外」に転換 普天間基地 県議会決議へ加速」、沖縄タイムス2009年12月8日「同友会が『県外』要求 県経済団体で初表明」。
9)経済分析は以下のサイトを参照。「米軍基地に関する各種経済波及効果」沖縄県サイト(http://www.pref.okinawa.jp/site/gikai/22642.html)(2012年10月8日)。NHK解説委員会サイト「視点・論点『沖縄からの声(2)沖縄振興と基地経済』前泊博盛」2012年10月23日
(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/136324.html)。
10)沖縄県「沖縄21世紀ビジョン」17頁。
11)「大臣臨時会見概要」平成24年6月4日防衛省記者会見室、防衛省の以下のサイトに掲載(http://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2012/06/04.pdf)(2012年10月30日)。
12)琉球新報2011年2月13日、毎日新聞2010年12月18日「首相が沖縄振興策を重視するのは、これを突破口にして普天間飛行場の辺野古移設に道を開きたいという思いがあるのだろう」、読売新聞2010年12月18日「首相は、そうした現実を沖縄側に率直に説明し、誠意を持って説得を続けることが大切だ。同時に沖縄振興や基地負担の軽減に最大限配慮することも必要となる」。
13)沖縄タイムス2012年9月29日「アセス手続き終了後に予定の公有水面埋め立て申請で仲井真弘多知事に許可を得るため『良い政治的、経済的環境をどうつくるかだ』と発言。那覇空港の第2滑走路整備を含めた振興策の重要性を強調し、基地負担と振興策のリンク論を展開した」。
14)沖縄タイムス2010年5月25日「別の政府関係者は『知事、北部、経済界の反応が激しすぎて、振興策の話などできなかった』。今後の焦点となってくる振興策の議論に前進がなかったと頭を抱えた。(中略)日米実務者協議の関係者は『沖縄と何らかの対話のメカニズムが必要だ』と指摘。休眠状態の沖縄政策協議会の復活などを念頭に地元対策を次のステージに進めたい考えだ」。
15)琉球新報12月23日「政府方針は20日夜、藤村修官房長官が仲井真弘多知事と都内で非公式に会談し伝えたが、これに先立ち知事は11日から21日まで何度も官房長官と“密会”を重ねたという。その結果、概算要求額に500億円が上積みされた。『官房長官と知事は一括交付金と普天間移設で取引をしたのではないか』。流れからすれば、こう疑われても仕方がない。メディアや政府内では、基地と振興策のリンクの観測が強まっている」。
16)「回転翼航空機は、全発動機が不作動である状態で、自動回転飛行により安全に進入し着陸することができるものでなければならない」と規定(航空法施行規則付属書第1、2―2―3―4)。
17)沖縄タイムス2012年7月2日。
18)沖縄タイムス2013年4月25日、琉球新報同日、本文列挙の人物の中で阿存命の野中広務へのインタビュー記事。
19)第67回臨時国会(昭和46年10月16日~12月28日)衆議院本会議会議録(11号昭和46年11月6日)。
20)沖縄県議会史第20巻資料編17立法院Ⅳ177頁。1962年の第19回立法院議会定例会開催日2月1日の議決。
21)沖縄県議会史20巻資料編17立法院Ⅳ618頁。1964年第25回立法院議会定例会4月27日付の議決。
22)沖縄県議会史20巻資料編17立法院Ⅳ623頁。1964年第25回立法院議会定例会4月27日付議事録。
23)詳細は、島袋純「スコットランドの分権改革―エジンバラからの報告」北海道町村会編『分権時代の自治体理論』(北海道町村会、1999年)を参照。
あとがき
先行研究である学位論文は、その後『リージョナリズムの国際比較』(敬文堂 1999年)として出版する機会を得たが、本書は主として2000年以降のその後の研究成果を中心に編纂されたものである。問題意識は、継続しており若干の説明を加えたい。
1980年代以降、民主化の進展するスペインを皮切りに、単一制国家の中央政府と府県の間、サブ・ナショナル・レベルに、立法権を伴う強い自治権を持つ「自治州」あるいは「地域政府」(Regional Government)が、フランス、イタリア、イギリス等で次々と出現してきた。「リージョナリズム」(Regionalism)とは、このような単一制国家の中において、サブ・ナショナルなレベルの地域において、その地域の利益を凝集し現実化する何かしら政治的行政的統治構造とそれを実現しようとする運動や思想のことを指している。
このような憲法改正に匹敵するあるいは実際に憲法改正を伴った制度改革は、どのような理由や原因によって引き起こされるのか、各国の背景を検討し、また実際に実現した制度を比較することによって、どのような根拠が新たな制度実現をもたらしているのかを探究した。
その根拠をマクロな経済システムの変化や歴史的社会的または文化論的アプローチという2つによって求めた。前者は資本主義世界システム論の中心周辺理論によって考察し、経済的グローバル化の中で世界史的な「中心」として復活を目指す欧州統合の進展と、その中で既存の主権国家の経済的主権の一部のEUへの移譲が進み、同時にEUの地域政策(広域自治体や州への支援策)が充実してきたと言及した。それにより、単一制主権国家における周辺の中心への経済的従属からの脱却の可能性が展望できるようになると同時に周辺化されていた独自の文化やアイデンティティの復興と両立した発展の可能性が大きくなり、準主権を要求し経済発展の基盤としていく、そのための単位として「州」または「地域」が表舞台に登場してくる点を明らかにした。
しかしながら、経済的利益の追求が、単に規模の経済性による広域行政区の設置をもたらしたわけではなく、歴史的、社会的、文化的な一体性を有する民族的な「地域」を単位として登場してくることに細心の注意を払わなければならず、「アイデンティティ追究の政治」であることにも着目しなければならないとした。
各国の国政の「制度」が、自治制度改革という政策の最大の要因とする制度論的な発想にも疑問を呈し、実際の欧州諸国における州または地域政府の制度化は、各主権国家の求心力や継続性を持ち、それぞれが独自の特徴をもつ各国の「制度」とその制度に挑戦的あるいは対立的な民族地域的な経済発展の展望とアイデンティティの政治の現実的な妥協という暫定的な政治的解答であると結論付けている。
つまり、経済的な根拠と歴史文化的な政治について、地域における政党や政治的な諸団体等が時には経済的利益を時には文化的アイデンティティを鼓舞して動員し、また個人的なレベルでも時と場合によって、経済的利益の追求と文化的なアイデンティティが相互に影響しながら選択していく可能性が高いとし、実際の州や地域レベルにおける政治過程の分析が、今後の研究課題となるとした。
したがって、先行研究はサブ・ナショナル・レベルに強い自治政府が構築される理由を明らかにしていくマクロ・レベルの政治行政学ということができ、本書は「沖縄」を中心的な素材とした、メゾ・レベルの政治行政学ということになる。折しも2000年以降、分権改革が進み、日本においても、中央政府と既存の府県の間に広域的な強い権限を持つ自治政府を作ろうという議論が盛んになった。いわゆる「道州制」議論である。スコットランドとの比較の中、グローバル化への対応と地域の自立を両立させて戦略というマクロ的な視座を先行研究から引き継ぎながら、沖縄をめぐる政治行政制度が、どのような行為者、どのような集団によって、どのような発言や意図によってどのように変わっていったかが分析の焦点になっている。
このような課題を年頭に取り組みはじめたここ10数年の沖縄研究であったが、筆者なりの成果は、沖縄の統治構造や政治行政制度を規定する最大の要因が判明したことにある。本書の中心的な主張である。最大の要因とは、米主導のグローバル経済でも、世界戦略でも、その一環として極東の地域的な安全保障でも、軍事的合理性でもない。また、地元経済界を中心とする経済振興緒の要求によるものでもなければかつて独立王国であった沖縄の独自の文化的アイデンティティの要求でもない。さらに、特別な地理的空間に対する特別な統治機構、いわゆる「領域」別の省庁が設置される根本的な理由が、新たな国土に対する集中的な開発や中央政府が責任を持つ総合的な振興開発にあったとするのは、沖縄に当てはめる場合あまりにも無邪気な解釈であり本質を見失う。また日本の国政レベルや沖縄における多元的な政治的行為主体間の合意形成プロセスの結果としてのみ生まれてくるものでもない。それぞれ無視し得ない重要な要因であろうが、最も重要な要因とはいえない。
最大の要因は、日本の戦後政治の基本的構造である「戦後国体」を護持するために制度が構築されているということであり、そのためには「沖縄問題」を国政レベルにおいて「非争点化」しなければならず、それこそが沖縄の統治の仕組みの本質だということである。
「戦後国体」とは豊下楢彦によると、1952年の講和条約の際に、独立講和の条件として、在日米軍に駐留軍としての特権(日本の主権を侵害する権利と言っても過言ではない)をそのまま保持することを認め、さらには沖縄を日本から分離し長期にわたって米国に施政権を委ね米軍をそこに集中させることによって成り立つ日本の戦後国政の基本構造のことである。駐留軍としての特権を独立講和後そのまま認めることが安保体制の本質であり、安保体制=戦後国体となり、その護持こそが日本政治の表にもおいても裏においても極めて強い政治の動力源となり続けた。
講和に伴う沖縄の施政権の分離とその後の在日米軍基地の沖縄への移転と集中が行われ、また、復帰後の沖縄統治システムが制度化されてきた。沖縄の日本への施政権返還の際に作り出された様々な仕組みは、日本の戦後政治の基本構造から「仕組み」込まれているということである。復帰運動は、沖縄を日本民族として認めてほしいとする民族主義的な側面を否定できない。しかし、そう主張することによって沖縄における人権と自治権が回復することを目的とする運動であったということができ、日本本土において日本国憲法が実現しているものと想定し、そのもとへの復帰という立憲主義的な運動であったということができる。
大田昌秀県政の国際都市形成構想についても様々な評価があろうが、グローバル化から影響を受け、またその中での発展を独自のアイデンティティを基盤として行うという構想であったが、同時にその出発点を屋良建議書とし、振興開発体制の廃止と独自の自治政府の構想を含み混んでいた。復帰運動から継続する人権と自治権の回復運動と捉えることができる。
いったんは、補償型政治の強化再編により再び沖縄基地問題を「非争点化」することに成功したかに見えた。国政あるいは沖縄以外の日本全国の政治においては、人権侵害という沖縄基地問題の本質は、振興問題、補償問題にすり替えられ、「非決定」の領域でさえなく、「争点」として政治に関わる人々の意識の上に浮かび上がらせることすらさせない。ほとんど全国紙、全国メディアが、それに荷担している。政権交代は政権交代の争点の1つとして、普天間基地の県外移設を掲げ、再び国政における争点となる気配を見せた。全国メディアは、それを日本の戦後政治構造の問題としてではなく、鳩山由紀夫首相の資質の問題にすり替え、鳩山は辺野古移設回帰の責任をとって辞任することで「争点化」は終了し、世論はそれを受け入れ今なお、国政や全国の政治において沖縄問題は「争点化」すらしていない。
戦後国体護持のために沖縄基地問題の本質を争点化させない仕組みは、沖縄にとって「構造的抑圧」あるいは「構造的暴力」そのものと言ってよく、米軍による軍事占領から今日に至るまで、日本政府及び国民多数による絶対的な価値剥奪の観があり、近年では「構造的差別」という文言が沖縄の保守政治家や地元経済界からも頻繁に言及されている。その絶対的な価値剥奪による社会的疲弊、主体性の喪失は非常に顕著な沖縄の社会現象であり、もはや日米の「軍事的植民地」と規定せざるを得ない状況になっている。
しかし、ここ10数年の沖縄の動きは、様々な揺れ戻しを経験しつつそれに対抗し、新たに変えていく可能性を秘めている。2012年4月から導入された沖縄振興一括交付金もその多様な流れの中で解釈されるべきである。単に日本の戦後政治の基本構造、あるいはそれに拘束される日本の政治過程から規定されているものでもなければ、また沖縄の政治過程によってのみ実現したものでもない。今の仕組みは、揺れ動きながら多様な要因と主体の政治的妥協の産物と今そこに現れているものと考えられる。したがって、沖縄の人々にとっては軍事的な植民地からの脱却を意識的に明白にして取り組んでいく必要がある。それは、日本の「戦後国体」の破壊を明白に視野に入れなければならないであろう。国政レベル全国レベルの政治における「争点化」について働きかけを行わなければならない。そうでなければ、新たな仕組みもまた、国体護持の目的のために変容され仕組み込まれていくことになる。
以上の研究は、本来沖縄現代政治史の把握が欠かせない。しかし筆者のこの分野の研究蓄積は心許ないものであり、十分でかつ詳細な先行研究に上に展開しているとは言い難い。新崎盛暉、宮里政玄、大田昌秀等の1960年代の著作では、ほぼ今日の日本(政府・メディア・研究者)対沖縄の構造的な抑圧、それを生み出す言説の構図をほぼすでに解明しているといっても言い過ぎではない。筆者の研究は、このような先達やその他多くの沖縄研究者の研究蓄積の山の上に、1つの石を上乗せしただけに過ぎない。名をあげられなかった方々とその著作、直接引用しなかったが非常に大きな示唆を受けた先行研究や著作があったことを感謝を込めて記しておきたい。
最後になるが、本書の実現には、法律文化社とその若き編集者である掛川直之さんに声をかけていただいたことがきっかけである。過去の自分のつたない論文を再び編集するという、つらくくじけそうになる作業に対して叱咤激励していただいたことが励みとなった。遅い仕事に我慢強くつきあっていただいたことに感謝申し上げたい。
また研究を支えてくれた家族、友人、研究仲間に深く感謝申し上げたい。1998年から2000年にスコットランド研修にいく機会を得、スコットランド分権(自治政府・議会の創出)に市民とともに活動し実現に尽力した多くの大学研究者に衝撃を受けた。それをきっかけに、帰沖後、市町村レベルと県レベルの自治基本条例及び自治基本法を研究し提案する市民研究グループ、沖縄自治研究会を発足させ、沖縄社会においていわゆる「地域デビュー」を果たした。以来、研究教育活動の上に実践的な自治刷新のための活動が加わり超多忙な毎日となったが、家族、友人、研究仲間の支えがあればこそ、それを楽しく過ごすと同時に拙いものではあるが成果を残すことができたと思う。深く感謝したい。
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2013年10月17日 一人娘琉美の3歳の誕生日に
島袋 純 |