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沖縄 本土復帰の幻想

吉原公一郎 編

目 次
Ⅰ 沖縄から透視される「祖国」 いれい・たかし
  討論 沖縄にとって「本土」とは何か
Ⅱ 復帰運動の新たな展開のために――ティーチ・イン―― 早大沖縄学生会
  復帰運動の歴史とその思想(田港朝尚)
  日本国憲法の崩壊要因と「沖縄」(滝沢信彦)
  沖縄返還運動に内在する問題点(新崎盛暉)
  討論 復帰運動におけるナショナリズムの正と負
Ⅲ 沖縄の思想 告発の原点 吉原公一郎
あとがき

あとがき

 1968年5月、『シカゴ・トリビューン』の東京支局長サミュエル・ジェームソン記者は、日米関係に関する連載記事の冒頭に、「米国は極東でもっとも重要だが、もっとも政治的色気のない同盟国・日本との防衛関係を強化するため、極秘裏に外交的大バクチを打ちはじめた」と書いたが、本土政府の「沖縄返還」についての「一体化構想」は、米軍の沖縄における軍事基地の機能の維持を第一義としてとらえる米国の外交ペースに乗ってすすめられてきたものであった。
 沖縄3大選挙に、米民政府、本土政府・自民党および財界、琉球商工会議所が総ぐるみになって、革新側に対する手段を選ばぬまきかえしをはかったのはそのためであった。3大選挙の前哨戦といわれた嘉手納村長選挙戦のさなかに、アンガー高等弁務官が、「万一、基地が大幅に縮小されるか撤廃されるようなことになれば、琉球の社会はふたたび『いもと漁』に依存した『はだし』の経済にもどってしまう」とのべたことも、自民党の臼井沖縄選挙対策本部長が「沖縄が本土に帰るという路線はきまっており、それを実行してきたのは自民党政府である」とのべている言葉も、その意図する基底において同質のものであった筈である。
 これらの発言は、過去の歴史的事実を無視することによってしかなし得ないものであったが、戦後23年間にわたる他民族支配のなかにあって、復帰を希求する現実の心情から受けいれられ易い一面をもつものであったことも否定し得ない。それは、本土革新側の戦後責任に帰着することでもあったが、事実上の「世替」を意味する筈の復帰解放運動の「壁」となるものであったこともたしかである。沖縄の復帰運動が「転機」にたたされておりその「壁」を破るために、「復帰理論の再検討」をいわれはじめてから久しいけれども、こうした「現実の問題」を乗りこえるために、復帰運動における「祖国」とは何か、「日本国民」とは一体何であったのかということについて、自分に問いつめてみる必要性を、日本の民衆の一人一人がいまほど求められている時期はないであろう。
 本書はそうした「人民の中の一人」である責任として己に問い、復帰理念の原点を探ろうとして生まれたものであり、多くの遺漏するところもあると思われるが、読者の批判を待ちたい。
 最後に、貴重な資料を貸して下さった多くの方々、ならびに本書の編集にあたって討論に参加し、また、執筆にあたって常に激励を惜しまれなかった三一書房編集部石田明さんの労に感謝したい。3ヵ月余にわたって、事実上沖縄問題に没頭して本書を編集された石田さんの努力がなかったならば、本書が陽の目を見ることはなかったであろう。
1968年11月3日
吉原公一郎

沖縄から透視される「祖国」

いれい・たかし

 

祖国というものは、やがてふたたびその無疵の姿が見られるという希望があるならば、侵略者の抑圧下にあるときほど美しいことはない。
―シモーヌ・ヴェーユ―

 Kさん、私たちが台風接近で雨の降りしきる沖縄本島の那覇港(といっても、港はアメリカ海軍が管理し、琉球政府にその一部の使用を認めているだけで、その日も原潜が入港するため、突如、ハーバー・マスターの指令により、貴方が乗った鹿児島―那覇定期船おとひめ丸は、一時問以上も出航が遅れました)で別れたのも、つい最近のことなのですが、世界はその短い間にさえ、私たちが一生かかっても究明できない問題をつぎつぎに投げかけてきました。
 チェコに対するソ連、東独、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア五ヵ国軍隊の侵入もその一つです。
 私は、五ヵ国軍の行動を、「侵入」と新聞の見出しの通り書きましたが、実はどう表現して良いのか迷っているところです。介入、占領など、いろいろな言葉が思い浮かぶのですが、いずれも適切でないように思えるのです。というのも、それが社会主義における国家主権と民族の原理と現実について、あまりにも根本的な問題を提起しているからにほかなりません。「大国主義の破綻」だと、ジャーナリズムの一致した論調のように決めてしまえばそれまでですが、いずれにしても、「ハンガリア・1956年」とオーバー・ラップして、当分この問題にとりつかれそうです。
 1965年の8月、クレムリン周辺を歩く機会があり、同行した全学連の学生が、「この広場にもう一度血が流れると、ロシアの革命もホンモノになるだろう」と私に語りました。あるいはロシア革命はもう一度革命が必要な程、スターリン主義によって歪曲されており、「西欧化」への振幅と危機をはらみながらも進められようとした東欧の「自由化」の波とは、第二次大戦後の赤軍による解放を止揚して、自ら革命主体を生きようとする動きなのかもしれません。が、率直に言って、私にはわかりません。そこには私たちの全存在に関わる重大な問題がある筈なのに、それが正確に透視できないというもどかしさをどうしようもありません。

 Kさん、あなたの沖縄滞在中、私たちが語り合ったことといえば、B52の沖縄常駐、全学連反日共系各派の闘争、パリの5月革命、それに今度の沖縄の三大選挙の意義といったことでした。そのことについて確認し合うための通信をはじめないうちに、チェコ問題が起きてしまったのです。
 小さな島・沖縄における諸現象と、世界の諸現象を結びつけ、その状況とダイナミズムを、トータルに、しかも主体的に把握することがますます必要になっているのですが、それは私などの手におえない困難な課題だと痛感せずにはおれません。
 ともあれ、約束どおり、沖縄からの便りを書き出しましょう。

 私たちが新宿の泡盛屋で初めて対面した時、あなたは多くを語らず、今年11月に実施される沖縄の三大選挙について、革新勢力が勝った場合、果たして沖縄の闘争はどう進展するのかという、Sさんたちと私との議論の、そこにだけ興味を示したようですが、それでも自らは多く語ろうとせず、もっぱら聞き役にまわっていました。そんなあなたから、「沖縄に対する理解も準備もなく、戦後に生まれたものとして、まったく白紙で行きますからよろしく」という手紙が届いたのでした。
 なるほど、あなたが戦後に生まれたという事実は、日本の罪悪極まる歴史に対してあなたが不在であったことを証明するわけだし、日本の多くの青年たちがそうであるように、沖縄に対しても、「おれたちに何の関係がある?」と開き直ることもできるわけです。しかし、四国の小さな漁村から東京に出たあなたが、羽田や成田に関わらずをえなかったように、戦後の歴史も、そして今私たちが向かい合っている日常も、私たちを傷つけずにはおかず、あなたは沖縄に目を向ける。だから、「全くの白紙」とは言っても、あなたが自らの意識と行動の結接点として、羽田-成田-沖縄を予感していただろうことはわかるし、私にそれへの異論があるわけではありません。しかし、それでも私は、あなたのそれを、沖縄に来る数多くの文化人や労働組合役員、革新政党の議員などと同様に、自らの沖縄への認識の欠落や出会いの遅れを、現地を訪ねることによって取戻そうとする、何らかの政治的・運動的必要に迫られた「沖縄への旅」ではないかとかんぐったりしたものです。
 もちろん、沖縄の戦後的風土に触れて沖縄を理解することも結構です。だが、時にその「理解」が、ひどく恩恵的で押しつけがましく思われるのは、私たち沖縄の人間のひがみのせいなのでしょうか。『ベトナムを遠く離れて』いても、ベトナムを自己のものとして痛み、怒り、アメリカ帝国主義とその同調者に対する憎悪を、ゲリラ戦士の毒槍やナイフ同様に自己の内部に視覚化し、それを武器として敵に叩きつけることができるのです。いまではもはや観光施設でしかないアウシュヴィッッの強制収容所を見ないほうが、ナチの大量殺戮を自己の内部につねに疑視することができるのです。わずか十日前後の滞在で、沖縄の何を見たから沖縄返還闘争にプラスし、また、自国の階級闘争を高めることがというのでしょうか。

 このことを、これまでアメリカ民政府が発給した旅券を提示して数回にわたって上京しながら、ついに広島と長崎には下車せず、列車の止まる短い時間を、苦痛な想いで目をつむってしまう私の依怙地さを正当化する論拠にしようとは思いません。ただ、ひとつの『河の裏切り』を、広島の繁栄のなかで目撃する苦痛を回避し、広島、長崎をいつまでも『原爆の図』のままにしておくことによってしか、戦争と戦後の関係を思惟できない、私の論理の貧しさは別として、現在の「沖縄交流」という行動形態のなかに、戦後日本の革新運動、労働運動の奇妙な組織論があるように思えてはならないと言う事は言っておきたいのです。
 今村昌平グループは、「西欧が東洋をその論理によって屈服できない問題」、「他人の不幸に赤飯を炊くという精神」を、「日本人全体の生活感情の基礎」とし、これを日本の底辺を支える部落共同体のなかで究明するため、日本列島弧を南へ南へと下り、奄美大島から沖之永良部島、与論島をへて、沖縄島をへて沖縄本島を越えた石垣島にたどり着き、そこで『パラジ』を撮ることにしましたが、ついに中止せざるをえませんでした。そして、それは気象条件のためというより、「基地としての『オキナワ』ではなく、広義の歴史を持ち、風土を持った『オキナワ』についての知識が不備であった」ことを痛感させたからだとのことですが、そのことはとりもなおさず、ベトナム参戦国家-基地沖縄を抱えた危機感の喚起という、それだけの沖縄認識にとどまり、沖縄の歴史と照応する思考的契機はつい大衆化していないということなのだ、と率直に語っています(『映画芸術』68年6月号)。
 たしかに、今村氏のレンズがとらえた基地沖縄、それは一つのポジ像であって、カメラの回転にブレーキをかけたネガの像は、人びとの網膜に照射されることなく、琉球弧の深海に、天皇制支配に対する呪詛にみちたまま沈潜しているにちがいありません。
 沖縄交流への旅、それは日本人の贖罪の旅であり、と同時に、原爆で灼き尽くされた挙句に迎えた敗戦でさえ、ついに破砕できなかった国家権力と対峠する旅になるでしょう。しかし、それは実際には、第二次大戦後の世界体制をブルジョア的処理、帝国主義体制の再編過程としてとらえることができず、従って、これに階級闘争のダイナミズムを対置することができず、その結果、戦後の日本革命を破産させてしまった日本の革新勢力が、若い労働者に変革の方向を指し示すことのできない代償行為に思える、と言えば言い過ぎでしょうか。すなわち、ソ連への交流、中国への交流、そして沖縄との交流は、自らの革命論や組織論を持たない日本の革新勢力が、せめて労働者をひき寄せるためのトラヴェル・サービス――と言って悪ければ、一種の行事のように思えてならないのです。
 もちろん、沖縄への渡航がアメリカによって制限され、また、いつでもそれを全面的に停止できる権限を、日本政府がアメリカに与えている現在、渡航の自由をかちとるという運動上の位置づけがあると言うのでしょうが、しかし、それも現在の労働運動が体制との間に瞞着的な均衡状態を維持しようとしているからこそ可能な現象であって、申請すれば役所が住民票を交付するように旅券を交付するという現在の制限緩和を、運動上の成果にしてはならないのです。アメリカの軍事権力者が必要だと判断すれば、いつでも全面的に停止することができ、それに対して日本政府はせいぜい遺憾の意を表する程度でしかないという、この基本的関係こそが問題なのであり、そして、このことは何も渡航に限ったことではありません。
 とにかく、あなたは、アメリカと日本政府合作の身分証明書を持ち、沖縄支配のパワー・オブ・バランスに影響を与えない人間の一人として、沖縄へ「入域」しました。いや、あなたに皮肉を言っているわけではありません。
 あなたも沖縄への旅にともなう何か割り切れぬものを感じたのか、あまりに外に出かけるのでもなく、小さな私の下宿の一室で黙しがちでした。そして、戸惑ったように、「沖縄の人びとの寛大さ」を私に語ったりしましたね。
 あなたより数ヵ月前、沖縄に「入域」した石田郁夫さんもそのことを話題にし、『沖縄・この現実』でも、「1956年頃、土地闘争を闘った世代が、本土から来る“問題意識を持った人”びとの案内人を買って出るという、つきあいのよさを発揮する点に、沖縄市民社会やジャーナリズムに安易に組み込まれていく質的な弱点と共通するものがある」と指摘しています。たしかに私たちにも「本土人」によりかかる心情的もろさが多分にあります。そのことが面映いからではありませんが、私はあなたの滞在中、嘉手納基地で、私たちの目の前僅か20㍍のところを、つぎつぎとベトナムに向けて飛び立つB52の巨大な姿に重苦しい圧迫感と歯ぎしりする感情を共有した以外、同時間を持ちませんでした。
 ところで私たちのなかにある「つきあいのよさ」とは、いったいどこからきたものなのでしょうか。

 ごらんになったとおり、また、私たちの祖先がいみじくも形象化しているように、唐がさし傘、大和が馬の蹄であるのに対して、沖縄は針の先ほどの小さな島です。
 この小さい島にも、首里王朝以来、薩摩藩、明治政府からの支配をへて、戦後のアメリカの統治(一般的に軍事的植民地支配とされています)にいたる歴史があり、しかもそれが、支配と抑圧、搾取にいろどられた負の座標ばかりで、いまもそれを押しつけられていながら、なぜ私たちは「つきあいのよさ」を発揮するのでしょうか。それは、本土の同じ歴史体験を持ってきた階級との連帯感であり「負」の座標を結合することによって、これを「正」に転化しようとする強い欲求があるからなのだと言えましょうか。
 支配と搾取の連続でしかない沖縄の歴史過程においても、とくにアメリカによる支配は、私たちに、自らの歴史を正しく止揚する方向について考えさせる痛苦にみちた時間を与えました。
 想像していただけるでしょうが、よく「沖縄は日本の縮図だ」と言われるものの、沖縄の戦後と日本のそれとには、多くの違いがあるように思います。
 まず、明治政府の「琉球処分」で「沖縄県」とはなったものの、その内実は薩摩の支配の継続であり、日本が第二次大戦に突入してゆく歴史過程で踏み台にされつづけたこと、よく指摘される差別の問題もそのなかにはありますですから、およそ四ヵ月にわたって吹き荒れた「鉄の暴風」の結果、8・15以前に敗戦を迎えた「沖縄県民」の意識は複雑だったように思います。
 戦争が終わった時、私は十歳でしたが、私のいた島には電気もなく、もちろんラジオもなかったので、「玉音放送」も聞かなかったし、それを聞いて号泣するといった光景もありませんでした。どこにもそんな光景はなかったのです。沖縄にとっては、戦争は天皇陛下が放送したから終わったのではなく、目の前で家が焼かれ、人間が殺され、アメリカの戦車がその上を轟々と驀進し、もう轢きつぶすものがなくなったから終わったのです。誰の説明も必要としなかったわけです。
 そして間もなく、アメリカ軍の強大な物量を見せつけられ、混迷と自失の錯綜のうちにも、物質文明に対する驚愕を覚えました。当時、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」る「大日本帝国」国体の偉大と誇りを母親の懐にあるときから叩き込まれ、「国民学校」で木銃を渡された時にはっきりと形をとった天皇の臣民としての自己を、誰が内省したでしょうか。
 本土の国民は、「玉音放送」で泣き、宮城前広場にぬかずいて、敗戦を天皇陛下への同情と涙による自己自身のカタルシスにかえたわけですが、内戦から終戦、占領、統治とつづいている沖縄において、日本の敗北は、明治以来の支配と搾取の歴史と二重写しになって甦ったため、複雑なものがありました。
 こうした背景から、アメリカ寄属論、琉球独立論、日本復帰論が、それぞれの歴史観や体験を反映して提起されたのだと言えましょう。これらは一種の途惑いでもあり、また、沖縄の歴史からしてそれぞれ確かな論拠もあるこのような論理は、いわば戦略物資の放出と民主主義の流行で人びとが方向感覚を失い、敗戦を迎えた「祖国」がはるか彼方に隠されてしまった時期の産物でもあったわけです。そして、その後かなりの幕間のあと、やがて隔絶されていたはずの「祖国」が透視され、祖国喪失論とともに「日本本土」があらわれてきます。
 1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、アジアに戦火が広がると、アメリカは急拠、日本政府との講和条約を準備し、51年9月に調印、翌52年の4月28日には、これを発効させる手際のよさを発揮しました。
 いま、沖縄問題が回顧されるなかで、当時の日本の国論は、全面講和か片面講和かに分かれて論議されただけで、沖縄の分断が問題にされなかったことが指摘されます。たしかにそのとおりであり、「沖縄県民」の「合衆国を唯一の施設権者とする信託統治制度の下におく」ことに反対した意志表示は、保守、革新の双方から完全に無視されました。
 「沖縄を差別し、犠牲を強要する伝統は、慶長以来、本土の伝統となって」(『世界』68年8月号「沖縄と本土―その断絶と連続」永積安明)いるので、ソ連や中国との講和を要求する声にかき消されたのも当然であろうし、日本共産党だって、沖縄の独立をめざした誤謬をかかえていたわけですから、50年代のはじめに沖縄が問題にされる必然性は、本土のどこにもほとんどなかったのではないでしょうか。
 朝鮮戦争を戦後再建の手がかりとした日本のブルジョア国家権力は、1951年のサンフランシスコ条約を、沖縄とひきかえに調印することによって主権を回復し、その後「自由世界の防衛力に十分寄与する」と約束をかわし、MSA協定を調印することによって、今日のベトナム参戦国となる論理的基盤をつくったわけです。これは、日本帝国主義が、「奉天付近の鉄道から爆撃機二機による広島と長崎爆撃に至るおそろしい道を貫いてきた」(マリノフスキー)歴史と、主人公が変わらないだけに、実に酷似しているように思われてなりません。
 祖国に「無疵の姿が見られるという希望がある」どころか、アメリカの庇護を受けて、資本主義圏、自由主義圏として位置づけられた日本の支配権力は、ベトナム戦争をきっかけに、ふたたびアジアの盟主として猖獗をきわめつつあります。
 こういう「祖国」に復帰しようとする「沖縄県民」の心情を、あなたにどう説明したらよいでしょうか。
 「国家というものは、人から愛されたりするはずのない冷酷なものだ。しかし、国家は人から愛されてもふしぎのないものをことごとく殺し、ほろぼしてしまう。こういうわけで、国家よりほかにないから、人は国家を愛さないわけにはいかなくなるのだ。これが現代人の受けている精神的拷問である」と、シモーヌ・ヴェーユは書いていますが、沖縄にとって、もはや「祖国」とは日本しかありえないということ、それ以上の精神的拷問がありましょうか。そのことを拷問として感受しつつ、なお「祖国復帰闘争」の必然性、その内実を究明しなければならない時点に、沖縄の私たちは立たされています。いま、70年安保改定期をひかえた本土のみなさんも、自らの戦後史を凝視すべき大事な時期にきているように思いますが、いかがでしょうか。

 1950年代の沖縄―。それは「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利」を、アメリカが掌握した直接統治のはじまりであり、同時に、そのことによって、日本国を今日的な姿にするために処分されることが確定した年代と言えます。中国革命政府が成立し、朝鮮戦争が継続される過程で、アメリカの戦略的基地として位置づけされた沖縄では、アメリカの基地拡張工事を日本の土建会社が請負い、安い「沖縄県民」の労働力をさらに安く買い叩いて、ドルの利益を東京の本社に蓄積する作業がはじまった年代でもあります。明治以来、いや、すでに薩摩藩の時代から、日本の権力者たちは、「沖縄県民」を搾取する術には長じていたので、それは実に徹底したものでした。
 低賃金と劣悪な労働条件で、コンセットの飯場におしこめられた労働者は、ろくにメシも与えられずに長時間労働を強いられ、しまいにはハンストにたちあがらざるをえませんでした。この労働者の闘争は、労働三法を制定させる方向に発展しました。
 極東最大の嘉手納飛行場、沖縄本島を縦断する一号線アメリカ軍用道路、その沿線に建ち並ぶ兵舎や倉庫群が、日本の建設会社の手で、沖縄の労働者を徹底的に搾取することによってつくられてきたことを忘れてはならないと思います。沖縄の労働者の低賃金構造を決定したのは、まぎれもなく日本の土建資本であったわけです。たまたま本土へ旅行すると、浅沼組、清水建設、大林組、銭高組、菅原建設など、「懐かしい看板」を見受けますが、それらの看板を苦い想いでみると同時に、これら本土の土建会社の技師や現場監督たちが沖縄に残していった「現地妻」が、子どもをかかえて、今も夜の街で働いていることを考えずにはおれないのです。
 一方、アメリカ軍はどうだったかと言えば、1953年に「土地収用法」を発し、各地で土地の強制接収をはじめ、軍雇用者に対しては、布令116号をもって労働基本権を完全に剥奪しました。さらに、1954年には本土から沖縄への渡航を、翌55年には沖縄から本土への渡航を、それぞれ大幅に制限する布令を公布、沖縄を目隠しにして、アメリカ軍による沖縄の長期的直接支配の基盤をつくりあげたのです。
 アメリカ軍は、「軍」政府を「民」政府と呼びかえて、那覇市のセンターに星条旗を掲げ、琉球大学には「財団」と称してCIC(諜報関係)要員を置き、沖縄支配の計画と教育への介入、学生への弾圧を準備してきたわけです。
 そして、1955年6月、土地接収に反対する「島ぐるみ闘争」によって、「沖縄県民」の強い抵抗にあうまでに、沖縄統治計画の大方は完了しています。すなわち、沖縄本島の総面積の16.3パーセントに当たる6278万平方メートルの土地の接収。金融、水道、電力、油脂をがっちりにぎり、それは58年の通貨のドル切替えで完成します。
 具体的な事実を列挙するまでもなく、1950年代の沖縄は、アメリカの政治、経済をとおしての沖縄支配が確率される過程であり、軍事的にはアメリカ軍が強制的に接収した土地の上に、日本の土建会社が、今日B52の常駐を必然化する基地を完成した年代として記憶されています。
 政治、経済の分野ばかりでなく、家庭の台所―電気・水道など―までアメリカ軍の支配機構に組みこまれた沖縄において、当然のこととはいえ、「解放軍」としてのアメリカのイメージは消え、それからの“脱却”が叫ばれるようになりました。
 とは言っても、50年代に、今日の「沖縄県祖国復帰協議会」のような大衆組織があったわけではありません。労働組合だって57年頃から結成されるのですから、アメリカ軍の直接支配に対する闘争と言えば、沖縄人民党を中心に、夜の闇を利用した集会で、生命・財産・人権に対するアメリカ軍の蛮行を糾弾することでした。
 直接支配の状況下で、人民党の瀬長委員長を中心とする「指導者」たちが、土地の強制接収、婦女暴行、人権侵害、財産破壊について糾弾する言葉の一つ一つが、いかに「沖縄県民」の心をとらえたことでしょう。そこには、今日の革新勢力のコミュニケーションのような、類型的で、情念が枯渇し、人びとの生活感情から遊離したコトバはなく、屈辱と憎悪をむきだしにした時間の共有と共鳴がありました。
 Kさん、もうすでに察知できたでしょう。こういう息切れするような支配形態のなかで、当初はほんとに生理的次元での怒りがあり、それが間もなく方向を与えられたわけです。
 その方向として透視されてきたのが“祖国”なのです。いや、もっと私たちの感情に即して言うならば、それは憲法があって、財産や生命、人権が守られる社会を痛切にのぞんだのであり、あるいはそれは「日本国」でなくてもよかったのかもしれません。今日、その形骸化が指摘される憲法も、沖縄側からみれば熱望のまとにされたのです。6歳の由美子ちゃんが、沖縄の海浜でハート軍曹に引き裂かれて死んだ。東京で同じ頃、ジラード軍曹が「日本人」を殺した。沖縄の私たちはなすすべがなく口を固く閉じ、涙しました。東京では犯人はすぐさま「日本人」の手で逮捕されました。
 Kさん、おわかりになるでしょう。このように「沖縄県民」は、「毎日真っ向うから侮辱され」ていたのです。
 50年代における屈辱のなかから私たちがもとめてきたのは、まぎれもなく薩摩の侵入以来、支配と搾取を重ねられつづけることによって、その近代化・帝国主義的発展をあがなってきた“祖国日本”だったわけです。
 「人から愛されてもふしぎのないものをことごとく殺し、ほろぼしてしま」った日本国を、“祖国”としてもとめてきたのです。アメリカ軍の支配権力があまりに強力であるため、それに対抗するためには、同じように「強い」国家権力を背後にすることが必要だったと言えましょうか。いずれにしろ「沖縄県民」にとって、これ以上の「精神的拷問」はほかにありません。
 1950年代の沖縄――。それは、最終的には通貨のドル切替えでアメリカの支配体制が確立され、吉田政府がギャンブルの抵当に出した沖縄から、日本国がドル外貨を吸いとる日米の共同の作業も完成し、一方、「沖縄県民」の「祖国復帰」という目標が固まるなかで、アメリカを中心とする戦後世界体制に一層深く組みこまれていくことになる時代でした。

 沖縄戦後史の年表をひもとくと、1960年4月28日に、「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」が結成されています。「50年代の緊張感」を反映して、結成の日の会場はピーンとはりつめていました。運動方針が審議される過程で、私もおそるおそる発言をもとめ、「復帰闘争の思想的位置づけをすべきだ」と問うてみると、「復帰運動は理屈じゃないんだ。それは民族の感情なんだ。だから組織的にも左右を問わず、あらゆる党派や個人にも入ってもらうんだ」という、むしろお叱りにちかい答弁をいただいたことを記憶しています。
 なるほど、沖縄教職員会を中心に、野党議員が琉球立法院議会において、「教育基本法」の条文に、日本国民としての教育をおこなうとの、「日本」の二字を獲得するために三年もかかり、日の丸を掲げられないために、インドネシア海域でまぐろ漁船が銃撃され死者を出す、相つぐ米人犯罪に対して拱手傍観しなければならない。こういう状況のもとでは、理屈より感情が優先することもありましょう。いや、大衆とともにたたかうには、大衆の生理や感情の襞にまで浸透する豊かな情念や感性が必要なことは言うまでもありません。だが、いったん喚起された感情も放置しておけば、それは間もなく日常の生活の次元にだけはりついたものになってゆくのです。

 ところで、60年代の沖縄はどうでしょうか。まず、日付の前後にこだわらず、特徴的な現象を列挙してみましょう。
 沖縄の「首都」那覇市の中心にアメリカ民政府があり、そこに長らく君臨し、ひるがえっていた星条旗は、そのなかの住人(高等弁務官)とともに、基地のなか、バリケードの彼方へ引越しました。
 有色人種を最も嫌悪しているアメリカが、彼らの憩いの場である夜のクラブを週に一度開放し、WELCOME OKINAWANになりました。
 夜の街で、シマー(島人、沖縄県民)を見向きもしなかった女たち(もちろん、彼女たちもまたシマーです)が、沖縄の男たちの袖を引くようになりました。
 基地の町は、それまでアメリカ軍とその家族のショッピングでほくほくでしたが、いまではアメリカ人向けの祭りまで催して、どうぞ買物にきてくれと陳情をつづけています。しかし、軍側は、「ドル防衛」のため、買物は基地のなかでせよと厳命しているとのことです。
 渡抗の制限がなくなり、申請すれば誰にも旅券がおりるようになりました。16回も拒否された人民党の瀬長委員長が最後の人で、「本土渡抗の自由」は100%実現です。4回拒否されてきた中野好夫さんにも68年夏にはおりたので、それだけ本土の方でも「緩和」のパーセントがあがりました。
 1953年に労働基本権をはく奪していたのに、こんど全軍労が全面スト(十割年休)を行使すると、それはストではないとして寬大に認めました。
 被選挙権をはく奪されていた人民党幹部も選挙権を回復しました。
 そして、過去に何度か流血をみながらも主席公選を要求する声を抑えつけ、任命主席に固執していたのに、知事(主席)公選をあっさり許しました。
 さて、こういう現象は何を意味するのでしょうか。私たちの闘争が前進したのでしょうか。アメリカの支配の論理が変化したのでしょうか。何か底のほうから大きく揺れはじめているにはちがいないが、それは私たちが押した分だけ相手が退いたのではなく、相手が不必要な分を自ら切り落としたことによる関係の空洞化のせいではあるまいか、私にはそう思えるのです。
 Kさん、世界情勢は60年代になって、いやそれも64年、65年以後、急激に変化していることは、私たちが沖縄で語り合ったとおりです。私たちアジアの人間にとって、共産主義封じ込めという名目で、アメリカが世界中にはりめぐらせた戦略体制が、ベトナム侵略戦争の政治的・軍事的敗北のなかで、資本主義アメリカにとって致命的とも言える経済的な面からも動揺しはじめ、いよいよ深化していることに注目しなければなりません。
 D・コンデは、「アメリカの『体制』(資本主義)は、戦争のときだけうまく作用するということの新しい、非の打ちどころがない証拠がある。そして、いっそう重要なことは、『防衛』予算を増加させても、もはや民間企業に『刺激』を与えることはなく、それによって民間企業がすべての雇用可能者を雇用することにはならないということを確認することである」と指摘し、コロンビア大学総長グレイソン・カーク博士の1964年度新入生向けの講演から、「わが国はその歴史のひとつの曲り角を曲った。その曲り角にみちびいた道は、もはやわれわれの祖先をみちびいた誰にもよくわかる道標によって、われわれを先の方にみちびくことではない。ある意味ではアメリカの夢は終わった」とする言葉を引用し、彼の論拠を補強しています。しかも、いまやアメリカの「体制」がもはや戦争によってさえ、「うまく作用」しない、むしろ戦争によって破綻をはやめつつあるということが、ドル危機によって全世界に告知されていたわけです。やっぱり、「アメリカの夢は終わ」ろうとしているのです。
 しかし、沖縄的状況に生きている私たちは、おのずから懐疑主義者になり、オプティミストにはなれません。星条旗がバリケードの彼方に隠れ、那覇市民の頭上をヘリコプターで民政府に「通勤」した高等弁務官が、新聞記事にもなかなか現れないからといって、主席選挙が実施され、瀬長さんに旅券が発給されたからといって、「祖国復帰」が近づいているわけでもないからです。むしろ、アメリカが「後退」し、代って日本が「進出」してきた背景の変化に注目しなければなりません。主席選挙は実施されても、制度上は「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利」をアメリカ軍が有していることには変わりないこと、さらに、場合によっては、衆参両院に国会議員も「国政参加」の名目で受けいれようとしていること、そこのところが問題だろうと思います。
 現在の世界情勢は、「歴史の大きな転換期」と表現されていますが、沖縄においても何かが変わろうとしていることは事実でしょう。
 たとえば「沖縄の日米共同管理」論もその一つです。それは主席選挙、国政参加実現で、沖縄を日米の共同管理の谷間において、本土との「一体化」を促進し、改良主義的「県政確立」の方向をめざすことによって、祖国復帰闘争を、いずれは国家権力による領土の併合に収斂していく構想です。もちろん、その時期は、アジアにおけるアメリカの対共産主義陣営に対する戦略的条件、日本軍事力に対するアメリカの信頼(ありえないでしょうが)、東南アジアにおける経済競争、中国の軍事力など、いわば沖縄をアメリカが支配し、巨大な戦略基地をつくらざるをえなかった戦後の歴史過程とその条件がすべて無意味になった場合だろうと予測されるのですが、そんな時点は果たしていつ訪れることでしょうか。しかし、いずれにしろ、沖縄をかかえていることが、日米支配権力にとって、今後とも双方ともに利益になるという保証はありません。沖縄は、やはり日米間の矛盾を激化させる根源になっていくでしょう。

 Kさん、あなたは、沖縄の「祖国復帰闘争」が、ここで新たな展開をせまられていねように思いませんでしたか。
 1950年代の闘争は、くどいようですが、閉されたなかで支配されているものが、生命・財産・人権というぎりぎりの次元で結集され、それが「祖国・憲法」をもとめてきた過程として理解されます。
 これに対して、60年代、とりわけその後半においては、かつていわば「祖国」として幻視された国家が、はっきり「沖縄県民」に対する加害者として透視される現在、さらに日本政府が明らかに支配権力の一部をアメリカに代って行使しようとする現在、権力による抑圧に抗することを原理としてきた闘争の純粋性からして、当然、三度「沖縄県民」の眼前に登場してきた、日本の国家権力に対する根本的な姿勢が問われなければならないのではならないかということです。
 Kさん、あなたはいま、沖縄の「祖国復帰」が、支配と搾取の歴史、戦後固有の歴史と切り離されたまま、私たちに単なる要件として、執拗な強制がつづけられていることをご存じでしょう。基地分離論、段階的返還論、核ぬき返還、本土並み基地付き返還、基地のない離島だけの返還等々と、日米の権力者たちがうたいあげるスラングがそれです。
 60年安保以後、自民党政府が、経済的には所得倍増、精神的には国家的民族主義を強調するようになり、アジアにおいてアメリカに代って大国たろうとするとき、自らの矛盾として顕在化してきた沖縄、この沖縄の処理に苦慮した結果提起される言動の一つ一つに関わりあってはいけません。このような官選の返還方式に関わるのではなく、いまは「祖国復帰闘争」の思想を自ら構築することが必要な段階にきているのです。
 もちろん、それは多くの人たちが提唱し、行動としても、晴海での「身分証明書」の焼却、沖縄への実力上陸、B52に対する抗議行動などのなかに示されてきています。そして、情勢の底揺れを敏感に察知している人たち個々の内部で問われている「復帰闘争」の思想化は日本を変える思想として全体化されるだろうと私は思います。
 そこで、私の考えていることを率直に申しあげれば、沖縄の「祖国復帰闘争」は、沖縄固有の歴史的背景を持ってはいるが、すでにそれは沖縄固有の問題を解決するという政治行政上の作業ではないということです。ですから、日米政府が双方の合意でもって、条約や交換公文をかわすことによって沖縄が返還されるようなことがあれば、それは帝国主義的領土の併合であり、まさにそれは「昭和の琉球処分」と言うことになります。
 たとえそういうことが現実となっても、私の「復帰闘争」は終焉することはないでしょう。私の考える沖縄の「復帰闘争」とは、歴史的に抑圧されてきた沖縄の日本国民が、自らの歴史主体を獲得する闘争の条件を切りひらくものであり、物理的に進展する歴史の連続性のなかで、闘争な出会いを結実し、闘争それ自体を止?していくだろうと言うことです。
 別の見方をすれば、闘争の局面は本土において開かれ、この闘争が沖縄の「祖国復帰闘争」を包摂していくものと予測され、あるいは天皇制支配権力の反革命により扼殺される運命をも共有していると考えます。
 それは、戦後の沖縄が、50年においてはアメリカの戦略体制の固定化のために蹂躙され、60年代においては、日本の国家権力のアジア支配にともなう国家的民族主義の内的問題として処理されようとしている今日、このような歴史の進行を阻止し、帝国主義的国家権力を廃滅する闘争は首都を串刺しにして展開されるものでなければならず、同時にそれは、アジア的規模での民族闘争に発展する連続性を内在するものでなければならないのです。それでこそ、はじめて、沖縄問題も在日朝鮮人問題も部落差別の問題も、日本の抑圧された階級の解放闘争と等質化し、それ自身の歴史を全うするだろうということです。70年安保闘争はどうたたかわれるのか。沖縄の「祖国復帰」闘争が、本土・沖縄における学生の闘争と同じように、全日本の解放闘争に先行して突出するようなことがあれば、それは中途で扼殺されることによって終わる要素もあるということです。
 Kさん、私は故意に深刻ぶった考えをするのではありません。できれば「サンバのリズムに乗って」と言いたいのですが、日本の国家権力は私たちが想像もつかないほど陰惨ですし、ヨミは深いほど傷つかずにすむと思ったからです。
 そこで11月の選挙のことですが、当然、私たちは、今日の転換期において、沖縄を舞台に日米政府が演出しようとしている合作芝居の中身を先取りし、それを70年安保闘争に結びつける繋辞とし、そのプロローグとしなければならないわけです。もちろん勝てばの話ですが、選挙に負けたら、日米合作の芝居はその虚構が破られるまでつづくでしょう。
 私の友人には、フランスの五月革命が総選挙でうまく収斂されたことに怒り、意識的な葉権をすべきだという意見を持つものもいますが、私としては、選挙そのものも日米支配権力の対沖縄政策の矛盾のあらわれであり、当然、私たちが追撃戦の形で展開すべきだろうと考えを持っています。
 革新統一候補が沖縄において「政権」を手にした場合、それは改良主義的施策から県政確立の方向に進み、戦後の諸闘争を包摂しながら日本的体制に組みこまれてしまうか、あるいは、日米支配権力の懐柔を排除して、「祖国復帰闘争」の原理を継承し、発展させるためのコミューンになっていくか、いまのところ予測はつきません。ご存じのように、選挙は当落が目的化される特殊な運動ですし、運動内部において、このような論議は回避されるからです。いずれにしろ、勝った場合、私は、沖縄の闘争が70年安保を当面の目標として連続するだろうという展望を信じていこうと考えます。人間はときに裏切られることも必要ですし、私たちはいまの支配体制下で、結局、無傷でいることもできないのですから。
 ではまた、あなたの意見もお聞かせください。

1968年9月8日
台風近い那覇にて



討論 沖縄にとって「本土」とは何か

伊礼  孝  元自治労県本部 教宣部長
川満 信一  沖縄タイムス記者
中里 友豪  沖縄高教組
真栄城啓介  元沖縄音楽協会
嶺井 政和  沖縄教職職員会 情宣副部長

50年代から60年代への転換

 ――70年を前にして、沖縄をめぐる論議がさかんに行なわれ、それは相当に深められてもきていると思うのですが、ここでは、沖縄の側からの、それも政党や祖国復帰協といった組織の、一応明らかな立場や見解というのではない、むしろある意味ではそれらと対立するのかもしれない「少数派」的発言も含めて、率直な討論をお願いしたい。1968年夏――というこの時点で、ですね。
 それで、報告とか質疑というような形式じゃなくて、てんでに話し合うなかで、いったい沖縄の本土復帰とは何か、四半世紀にわたる米軍統治下の沖縄戦後史をふまえて、70年代の変革――日米支配からの沖縄解放に向かう原理とか何か、を考えてゆく。「復帰運動の思想」というものを問いかえしてゆく。全然準備なしで、少し乱暴かもしれませんが、そういうことで、伊礼さんあたりから口火を切ってもらえますか。
 伊礼 どこから話し出せばよいか……。
 67年2月の教育二法阻止闘争を一つの契機として、今年に入ってからは、グァム島から嘉手納に「緊急移動」してきたあのB52の即時撤去を要求する闘いですね。沖縄ではじめての反基地流血デモもその一つです。それから4月の全軍労のスト、学生たちによる那覇港での自衛隊上陸阻止闘争というように、これまでになかったラディカル行動が表われてきています。これはたしかに闘争の新しい高?と言うべきだと思うし、戦後はじめて沖縄で原水禁大会が開催されたということも、68年夏の沖縄というものを端的に示していると言って差し支えないのではないですか。さらに、11月には、琉球政府主席・立法院議員・那覇市長選挙という、いわゆる三大選挙が行なわれます。
 これらをひっくるめて、沖縄闘争の高揚と発展、とこう言えばよいのだけれど、果たしてそうとだけ言い切れるのかどうか。一方には、従来の運動の枠を破ってゆくラディカルな考え方や行動の展開があり、一方には、いわゆる三大選挙に収歛されるいろんな動きというものがある。すべてを三大選挙の勝利――、つまり、革新共闘の勝利にという、すべてを選挙戦に収歛する、矮小化するという危惧を感じさせる動きがある。
 こういう状態のなかで、ぼくらはいま復帰運動というものに、やはり混迷を感じざるをえない。いったい運動がいかなる指導理念、ヘゲモニーのもとに動いているのかという意味では、ひどく混迷していると言わざるをえないわけです。これは、過去にぼくたちを含めて、復帰運動のなかで、運動の論理、運動の思想というものを回避してきた一つの必然的な帰結ではなかったかと思うのですね。復帰運動に理屈はいらないんだという、それだと思うのです。
 しかし、そういう言い方、言われ方、これはいつまでも続かない。続かせてはいけないんじゃないか。たしかに50年代には、「復帰運動は理屈じゃない、みんな集まればいいんだ」という言葉のなかには、たしかな手ごたえがあった。「日本復帰」ということに異常なまでに神経を尖らせ、弾圧してきたあの米軍の直接統治下では、ね。みんなが集まる。そこには思想や論理を必要としない、緊張関係のなかでの連帯というものがあった。これが60年代になると、こういう緊張関係も変質してくる。この50年代と60年代の違いということ、それを復帰運動の内部においてとらえ、そこから新しい課題とそれへの対応を生み出すこと。最初に発言するわけですが、それがいま必要なのではないかと考えるのです。
 川満 67年の6、7月頃以後、沖縄がジャーナリズムの上で大きく取り上げられ、「沖縄問題評論家」がいろいろと発言するのをぼくらは聞いてきたわけだ。しかし、それは政治情勢論というか、その時どきの表面的な動きについてではあっても、そういう政治的次元での諸事件、諸現象の裏にはりついている情念や思想の深みには、ほとんどふれられていないんじゃないかという印象が、ぼくなんかには非常に強いですね。状況に関わり、それをひらく「沖縄の思想」というものは、これはぼくらを含めた沖縄が創出しなければならないのだろうけれども、それはいままでの本土の議論のなかにないし、沖縄にもない。
 それで、最近のそういう沖縄論議にふれたりするなかで、とくにぶつかるのは、ぼくらの内部で「国家」という概念がいったいどういうものであるのかという。このことが問題にされなければならないのではないか。「復帰」といい、「返還」という言葉に表現されている発想や思考は、すべて「国家」を前提にした上で、そこへ帰る、あるいは返せというものとしてあるわけでしょう。ぼくは、沖縄での復帰運動や基地闘争での体験というものを考えて、この「国家」という概念を、ぼく自身がどうとらえてきていたのか、国家権力への洞察というものを欠いたままにきていたのではないか、ということに突き当たるのですね。
 伊礼 少なくとも、50年代のぼくの意識のなかに、「国家」は支配階級の権力のシステムであるという、そういうものとしてはなかったですね。これはあとでまたあらためてふれることになると思うけれども、ぼくらは「反米」という形でぼくらの沖縄に出会うのだから、「国家」は祖国意識としてあった、と言えるのではないか。川満さんがいま言った、そして、現在ぼくらが直面せざるをえない国家との乖離は、そこではなかったわけだ。
 実際、沖縄から日本に行くということ自体が、ひどく緊張したものだった。本土との分離支配というか、交流が全く遮断されており、そういう隔離された状態のなかで、……ここにいる者のなかで一番早く本土へ行ったのは真栄城さんじゃないか、真栄城さんが「歌ごえ」か何かで本土へ行くのを、ぼくらが那覇港に見送った。あの時のことをいまでもおぼえているけれど、まるで「理想の国」へ行くみたいな気負いのようなもの、憧憬のようなものが、行く者にも、見送る者にもあった。
 ところが、60年代にはいって、それまでの露骨な直接軍政から間接統治へという動きがすすみ、本土への渡航制限も緩和されてくる。両3年内に返還云々といった論議が、日本政府の沖縄への財政援助がアメリカのそれを追い抜いてゆく過程とオーバーラップして出てくる、「一体化」政策が打ち出されてくる。こういうなかで、これでは困る、というのが出てくるわけですね。ぼくらの内部で、いったい本土とは何か、つまり、「国家」とは何かという問いが、のっぴきならない形で強く押し出されてこざるをえない。この沖縄における50年代という問題は、結局、われわれが戦後史をどう把握するかという、非常に大きな問題のなかで、さらに論議せねばならないと思いますが、言ってみれば、ぼくらにおける「国家」の認識過程とも言うべきもののなかに、アメリカの沖縄統治の形態と、日本国家の再編成過程を見る感じがします。

 ――現在、本土と沖縄の「一体化」というのが佐藤政府と自民党の沖縄政策として進行中なんだけれど、まさにその当時にこそ、本当の「一体感」があったということ。
 川満 そう。たしかにあの時代、運動の内部にいて、その「一体感」は強く感じたですね。
 伊礼 直接的なアメリカ支配に対する敵意が、日本への接近という形でね。
 中里 閉鎖された状態のなかでの暗中模索、それをとおしての遙かなる本土への幻想があった……。
 真栄城 そう、幻想ですね。
 川満 民族感情、日本国家を認識する以前の……。
 伊礼 朝鮮戦争、レッド・パージ、下山、三鷹、松川事件……。日本自体に多分に沖縄的な対米緊張感があったでしょう。日本帝国主義の復活、自立はそのあとに確立されてゆく。もちろん、ぼくらがそれを認識するのは、もうワン・サイクルあとになってからなんだけど。
 川満 日本の戦後革命の決定的な敗北を見届けるのは、やはり50年代の後半から60年代前半にかけての経済的繁栄、高度成長ですか、60年安保を経過してあとのことだから、50年代には、まだ戦後の平和と民主主義の可能性もあったわけだ。そこでの「一体感」と言ってもよいのかもしれない。
 中里 しかし、そういう日本の戦後革命の展望というのですか、それの動向や可能性への共感が、沖縄から本土の戦争責任の追求をドロップさせたということはありますね。と同時に、沖縄自体での戦争責任の追求ということが、ほとんど頬かむりされたまま経過してきてしまっていることも見落としてはいけないと思うんです。たとえば1945年の敗戦直後、米軍によって沖縄諮詢委員会というものがつくられるのですが、そこに参加した人たちの多くが積極的な戦争の協力者です。県会議員だとか、教育関係者、警察関係者だったわけですね。もし、沖縄で本格的に戦争責任が問われ、追求されていたとしたら、当然、日本に対するそれも問題にのぼってきたと思うのですが……。
 ――それが行なわれなかった。本土の戦争責任の追求という契機がもし取り落とされていなかったら、本土への幻想はもっと早く打ち破りえていたかもしれないということですね。それと、この沖縄における戦争責任の追求の脱落が、戦後の沖縄の政治担当者、米軍統治の下請け指導者層を免罪にしたと同時に、復帰運動というもののなかにも投影してゆく。
 川満 いずれにせよ、ぼくらは「国家」という視点を欠落させたままにきたわけだけれども、「国家」の側、つまり日本の支配層は、決して沖縄を見落としてはいなかったと言えるのではないか。1952年の講和条約と安保条約の締結、58年の円からドルへの通貨切替え、60年の安保改定と、彼等は彼等にとって必要な時点、つまりブルジョア体制の確立強化の過程で、沖縄にまともに対処し、手を打ってきている。それに対して復帰運動の側――われわれはどう対応してきたか。
 ――たとえば1968年7月という時点における、国政参加要求の県民代表団の「請願」……。
 川満 本土政府の沖縄政策への期待ですね。96万県民は日本国民である。96万県民は1億同胞と一蓮託生の運命共同体を形づくっているのであるという、平面的な沖縄-本土認識で、「本土並み」国政参加を「請願」するといった、こういう行き方からは、おそらく復帰の新しい局面への回答は出てこないのではないか。沖縄を忘れ、欠落させてきた本土の議会に沖縄の代表を送って、沖縄を忘れるなと言う、それはいい。それはいいが、それだけではつねに的確な手を打ってきた、つまり、沖縄をアメリカに売り渡しつづけることで、高度成長と繁栄を追求してきた日本ブルジョアジーを根底から否定するという考え方とは鋭く対立せざるをえない。
 伊礼 50年代から60年代への移行は決定的にあったわけですが、問題は、それに対応するわれわれの側に、いま語られている「国家」意識の発見、認識という移行が行なわれたかどうか。運動の総体としてそれが出てきているのかどうか、ということですね。それをぼくは復帰運動の混迷という言葉で表現したわけです。

沖縄教職員会

 ――伊礼さんから提起された、アメリカの直接軍政支配の50年代から今日の日米「共同管理」支配への転換をもたらしたもの、という問題ですが、これは、ベトナム戦争という要因も非常に大きい。また、ベトナム戦争以後のアメリカ極東支配体制の再編成と、「大国」日本の戦後的完成としての沖縄返還という日本の潜在的・顕在的要求とのかねあい、つまり、返還に至る過程での日米支配層相互間の取引きということがあると思います。しかし、と同時に、やはり復帰協を中心とする復帰運動の成果という側面を……。
 川満 それを評価するのかどうか、だ。
 伊礼 権力の側が一つの支配の形態を緩めて、他の支配の形態に変更してくるという側面と、自分たちの抵抗によって主体的に獲得したものという側面とを混同してはならないと思うのです。
 過去10数回にわたって、本土への渡航を民政府によって拒否されつづけてきた人民党の瀬長亀次郎に、67年10月、旅券申請の許可がおりた。ぼくは、これを「60年代」の1つ象徴的な事柄と見るわけですが、その旅券が交付された時、琉球新報社のホールで祝賀会をやりました。そこで、戦後20余年にわたる沖縄県民の渡航の自由をかちとる、祖国復帰をかちとる闘いの成果である、という瀬長氏の演説を聞きながら、ぼくは、果たしてそう言ってよいものかどうかと思うのですね。沖縄から本土への渡航制限は、瀬長氏の申請が許可されたことでもって、ほぼ100%解除されたわけですが、そこには、沖縄-本土渡航制限の違憲訴訟の原告として出廷する彼を本土に行かせても、もはや大したことではないのだという、向こう側の判断がある。
 1952年のあの「琉球処分」のあと、米軍が琉球大学ででしたが、星条旗への宣誓を強制したとき、立法院議員のなかでただ一人、彼だけがそれを拒否した、彼だけがはっきりとアメリカに対して抵抗の意思を表明した。そのことがぼくらの出発だった。偶像と言ってもいい。ぼくは去年の秋、瀬長演説を聞きながら、それがあの当時、ぼくらが彼のアジ演説を追っかけまわした頃とくらべて、ほとんど寸分も変わらないことに、何かこう……ある痛々しさを感じざるをえない。
 中里「反米闘争は東へ東へ……」ですか。祖国へ祖国へ、で終わるんですね。それが一つのアピールとして、アジテーションとして有効であった時代は終わったのではないかということでしょう。
 さっきから言われている50年代から60年代への転換、それと対応する復帰運動の側の問題、伊礼さんが最初に指摘した復帰運動の論理の回避ですか、そういったことに関連して、ぼくがずっとそこにいてやってきた教職員会の役割というものを考えた場合、誤りを内包してそのまま進んできている部分の方が大きいのではないかという気がします。教職員会は人権擁護の闘いはもちろん、復帰運動の中心的な担い手として活動してきた、とよく言われます。たしかにある時期、教職員会が果たしてきた役割は大きいけれども、同時に、復帰運動のなかへそれが持ち込んだ誤りもまた大きいのではないかと思いますね。
 たとえば1966年ですか、森総務長官の教育権分離返還論というのが登場した時、教職員会の指導部は、施政権返還へのステップになるのであればということで、これを受け入れたわけです。米軍基地は極東の安全保障のためにどうしても必要であり、存続すべきである。日米安保体制もむろん変更すべきでない、森総務長官ははっきりそう言っている。こういう前提の上に出てきた教育権を施政権から切り離して返還するという森構想、それも本土での自民党政府の文教政策を見た場合、教育面での本土との「一体化」が、いったい何を意味するのかという大きな危惧があるにもかかわらず、これを受け入れた。教職員会の若い部分――ぼくらは強く反対したけれども、紛糾を重ねて深夜におよんだ激論のあとで、屋良会長のいわば「鶴の一声」で、結局、受け入れることになったわけです。のちに首相の公式諮問機関として設置された沖縄問題等懇談会の母胎になった沖縄問題懇談会というのはこの時期に発足したのでしょうが、その沖縄問題懇談会の大浜信泉が訪沖するのに間に合わせて、受け入れの態度決定を急いだのですね。
 この問題は、森構想自体が米側の意向に合わず、佐藤とアメリカとの「調整」で握りつぶされてしまい、また、この直後に教育二法が出てきて、われわれは大半のエネルギーをそれに集中せざるをえなかったということもあって、教育権分離返還論受け入れの責任追求は表面化せずに終わってしまったのですが、もし教育二法があの時期に出ていなければ、やはりそのままには終わらなかったのではないかと思います。
 それからまた、68年の4・28集会で感じたこと、これには高校生もずいぶん参加していたのですが、あれは知念高校だったかな……女子高校生が全員「日の丸」の鉢巻きをしめてきているのですね。昭和17年でしたか、シンガポールが陥落した時、ぼくら、もっと小さかったけれど、全島の学校児童が「日の丸」と万歳で祝賀行進をした。「日の丸」は何もそのシンガポール陥落の戦捷祝賀の記憶だけではありませんが、とにかくそういう情景が甦えりましてね。女子高校生全員「日の丸」の鉢巻きで、4・28の復帰集会に参加するということ、そうさせたのは教師の側に責任があるんじゃないか。これはぼく自身への責任ということも含めて、痛惑せずにおれませんでした。集会にどれだけたくさんの人間を集めることができるかという、量で運動の成果をはかるという考え方は、これは沖縄でもやっぱりありましてね。そういう発想ともこの「日の丸」動員は無関係ではないと思うのですが、とにかくこの「日の丸」が過去のそれとどう違うのか、非常に大きな危惧を感じます。
 教職員会のなかで、あるいは一人ひとりの教師の内部で、こうした問題が徹底して批判されないまま進んでゆくとすると、その運動は「祖国復帰」それ自体を自己目的化して、そこで終わってしまうものでしかなくなる。ここでわれわれが論議しようとしていること、どういう日本に復帰するかという本土像、国家像という問題は、そこでは到底議論されないで終わると思う。こういう教職員会の現在の体質を変えていかないかぎり、復帰運動に新しい展開を求めるラディカリズムは生まれないし、体制側と対決してゆくイニシアティブも出てこないのではないかと思いますね。教職員会は、復帰協を構成している諸組織・諸団体のなかでも、組織としては最もまとまっているし、運動全体に対する影響力も責任も大きいのですから、こうした弱点の克服は、やはり緊急な課題ですね。

 ――教育権の分離返還をめぐる論議の際に、それに強く反対した若い部分に、いま中里さんが指摘されたような体質を内在的に批判し、克服してゆく可能性がある、と見ていいのですか。教育二法阻止闘争を下から激しく突き上げていったのは、教職員会の若い人たち、それから学生でしたね。
 中里 それはありますね。森構想に対する反応では、30歳代以下、40歳以上と、教職員会では、世代の断層が真っ二つの形で示されました。さっき、ぼくは戦争責任ということを言ったのですが、そういうこともあって、ぼくなんか、50歳より上の世代はやはり信頼できないですね。世代論的なものだけで見てゆくのは、もちろん一面的な誤りを免れないでしょうけれども……。指さされ、批判されたことがない、同族的な共同体意識はとりわけ教職員会に強いのです。とにかく、森構想に対する教職員会の対応の仕方に示された弱さと、それを批判しようとした若い部分との対立というか論争が、三大選挙のあと、一層熾烈になってくることを期待するし、それを推進しなければならないと思います。
 三大選挙のことはあらためて議論されるでしょうが、革新共闘の勝敗の如何を問わず、問題はそのあとですね。屋良教職員会会長がかりに主席に当選するとして、教職員会には、ベッタリ展良党になる、教職員会はそれでいいのだという考え方が非常に強い。それでは絶対にいけないのです。屋良氏もまた、こうしたとくに教職員会内部の論争点、問題を、正面から引き受けてやってゆくべきでしょう。三大選挙を契機にして、教職員会以外の諸組織からも、組織と運動に内包されている問題が突き出され、明らかになってゆく可能性がありますし、また、明らかにされてゆくべきだと思うのです。
 ――共同体意識ということですが、たとえば教職員会は、それを払拭せずに、むしろ温存し、そこに依拠しているという面が強い、と。いわば負の側面を肥大化させているという……。
 中里 そうですね。やはり、古い部分を克服してゆく努力を欠いている。むしろ復帰運動の内部でそれを養っているのではないかという気がしますね。
 これはあまりにも私的な感想になるかもしれませんが、敗戦直前の慶良間の集団自殺ですね。石田郁夫さんが『沖縄・この現実』に書いている、あの赤松大尉の事件ですね。米軍が最初に上陸したのは、慶良間諸島のなかの渡嘉敷という島で、集団自殺はそこでのことなのですが……。ぼくは子どもの頃、慶良間のなかの前島という、いま無人島になっている小さな島、戦前は日本の資本が入って鉱山をやっていましたが、そこに3年間住んでいたこともあって、一層無関心ではおれないんですね。とにかく、そこで島の人たちが、老人も女も子どもも、329人ですか、これが日本軍の命令で「自決」を強要されて死ぬ。生き延びるために山のなかまで運び込んだ鉈や鎌や鍬や、そういう道具を、軍から渡された手榴弾なんかと同じ死ぬ道具に使って集団自殺する。
 ぼくは、これからも慶良間へ何度か行って、もっと考えつづけてみたいと思っているのですが、この慶良間の悲惨な事実にぼくが感じることは、強権に対する抵抗のなさというのでしょうか、部落・親族・血縁的な、運命共同体的な関係と心情の織り合わせですね。慶良間のそれは、戦争という状況のなかでの特異で残酷すぎるケースだという言い方もあるでしょうけれども、ぼくには、それが沖縄の戦争体験を、いわば煮つめ、凝縮させたようなものに思われてなりませんし、誤解されるのをおそれずに言えば、それの戦後的再生産というもの、断絶しないで持ち込まれているものを見つめてゆく必要があるのではないかということですね。
 地域的な、古い土壌のなかに根づいた共同体。復帰協を中心とする復帰運動の連帯が、多分にそういうものであるかもしれないこと、共同体的な連帯のマイナスの面を払拭してゆくことを怠っているというより、むしろそれを無意識のうちにも温存し、それによりかかり、かえってそれを強化してゆく要素の方が強いのではないかということですね。

「戦後」とは何か

 伊礼 いったいどういう本土への復帰なのかという問題に関わって、そこで川満さんが言った国家権力への洞察というか、把握ですね。それを欠いた形ではじまったぼくら自身の闘い、あるいは復帰運動のあり方、こういうものを現在の沖縄のなかでどうとらえ直してゆかねばならないかと考えていたのですが……。
 われわれは戦後史のとらえ方を根本的に間違っていたのではないか、というところへどうしても行きつかざるをえないのですね。これは本土でも60年安保以後の、既成の諸政党・諸組織と学生運動ないしは新しい戦闘的な左の部分との、いわば分裂と対立の原点だとも思うのですが、戦後史をわれわれがどうとらえそこねてきたのかと言うと、たとえば第二次大戦というのは、明らかに世界帝国主義諸国間における世界分割の戦争であったものを、われわれは、ファシズムに対する平和勢力の共同闘争というように「美化」してとらえてきたのではないか。日本帝国主義の中国侵略、大陸市場の経営の破綻のあとを引きついだのは誰か。アメリカは、日本の軍事的敗北のあとの大陸での利権をスターリンのソ連と取引きしながら掌握しようとする。これは1949年の新中国の政権樹立によって御破算になるのだけれども、それ以後の南朝鮮-台湾-日本-沖縄を結んだアメリカの中国敵視の極東戦略、政治的経済的軍事的政策というものを考えただけでも、第二次大戦の本質的性格というものは明らかなのではないか、とぼくは思うわけです。
 第二次大戦の終結とその後の展開を、戦後世界の帝国主義的再分割、帝国主義的支配の再編成の過程とは見ずに、平和と民主主義の、戦争とファシズムに対する勝利と規定して疑わなかったのですね。これが本土では、日本共産党のアメリカ占領軍=解放軍規定という決定的な誤りに端的に示されるのですが、こういう誤謬は何も日本共産党だけにとどまらない。平和運動という特異な戦後的運動がそこから出てきて、これが果たした非常に大きな役割にもかかわらず、根本的な戦後世界の政治的経済的構造の事実誤認のために、戦争の根源の絶滅という方向で平和が徹底的に考えぬかれるのではなくて、とにかく戦争のない状態を維持してゆこうという傾斜が非常に強い。よく言われることなのですが、それがマイ・ホーム主義ですか、小市民的な私生活への埋没という形へと行く部分によりかかっていた。
 ですから、アメリカの沖縄軍事基地化が強化され、日本が朝鮮戦争以後の極東戦略体制のなかに組み込まれてゆく過程で、平和として迎えた筈の日本の戦後の矛盾が明らかになってゆくにもかかわらず、なお依然として「戦後平和」への幻想というか、一面的な認識が払拭されない。戦争か平和かで、あれだけ国論を二分して論議された52年の講和条約の締結の際、その第三条で沖縄がアメリカに売り渡されたにもかかわらず、誰ひとりそれにふれた者がいなかったということも、こういう戦後認識の誤り、「戦後平和」の限定性と切り離しては考えることができないのではないか。
 戦後20余年、アメリカ帝国主義のアジア支配体制のかなめとして日本が利用されつづけ、そういう枠組みのなかで日本帝国主義の復活・再編成を許してきたのは、日本の「前衛」党、革新勢力が、ヒロシマを、8・15を、日本の再生―革命の起点とする視点をついに持ちえず、まして闘うことができなかったという、そのことにあると思うのです。そして、沖縄は、そういう戦後世界史の把握の決定的誤謬の堆積の集中点としてある。非常に大雑把な言い方だけれども、ぼくは問題として、あらためてこのことを強調しておきたいのです。と同時に、日本の戦後革命が8・15を起点としえなかったと同様に、ぼくらが沖縄においてこの視点を発見し、本土に向かってそれを突きつけてゆくという契機を把握しえなかったということですね。沖縄が歴史的に日本の近代史のなかで置かれてきた位置、あるいはそれ以前の薩摩からの支配と収奪という関係からして、敗戦→米軍軍政の開始という沖縄の戦後を、日本の戦後革命の起爆力として、強力な媒介環をなすものとして、本土に向かって機能させてゆかねばならなかった筈だった、と。
 この戦後史のとらえ方を、ぼくが問題にするのは、第二次大戦の終結の時点で本来は問題にされるべきであったものを見落としてきたということへの繰り言じゃむろんないわけで、70年を目前にして、戦後の23年を経過したいま、ベトナム戦後という新たな日米アジア戦略体制の再々編成の過程に、いままさに直面しているからです。
 川満 たしかに戦争終結の時点で、日本にせよ、沖縄にせよ、そういうパースペクティブにおいて敗戦―戦後の意味をはっきりとつかむことができなかった。その一つの表われが、沖縄に関して言えば、あれは1946年ですが、日本共産党の徳田球一が書いたという「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」ですね。そこでは、いま伊礼さんが言った、日本の封建的・「近代」国家的支配と収奪の下に隷従させられてきた沖縄を起爆力として日本の革命へ――という視点は全くない。解放軍規定と表裏の関係にあるものとして、世界的な民主主義革命の発展のなかで独立への道を歩み出した沖縄万歳という、今日から見れば実に素朴というか、めでたしめでたしみたいなもの。これは日本では、政治犯の釈放や財閥解体や農地改革など、占領軍司令部の一連の「上からの民主化」という目くらましがあったということと切り離せないが……
 中里 沖縄ではどうだったのか……

 川満 沖縄でわれわれが戦後の状況に直面した時、そこでぼくらが立ち向かわねばならなかった問題というのは、アメリカ軍による農婦の暴行殺人とか、土地取り上げとか、米軍と住民との間の――米軍による無法地帯的な日常の出来事だった。1950年の朝鮮戦争を契機とした急速な基地強化が、こういう状態のなかで進行してゆく。
 伊礼 朝鮮戦争が沖縄基地化の直接的契機かどうかということはあるんじゃないか?1947年には、もう「トルーマン・ドクトリン」が出て、ソ連封じ込めの反共政策の強化が打ち出されているし、沖縄の本格的な基地建設は、朝鮮戦争以前の49年くらいからだから、さっき言った中国革命ですね。
 川満 ぼくらは米軍から加えられる直接の危害に対して自己防衛せざるをえないという形で、日本よりは一足早くアメリカに対する目を開いたわけだが、日本だって、1947年には2・1ストのマッカーサーによる中止指令がある。体験と戦略規定との間のズレということですか。
 伊礼 40年代の終わりから50年代の初めにかけて、米ソの冷戦構造というのか、第二次大戦に勝利したアメリカの、戦後世界体制の新たな編成の時期がくる。嘉手納や読谷の基地は太平洋戦争の終わり頃、B29の本土爆撃の発進基地だったのが、こういう背景のもとで、従来までのB29の滑走路からジェット爆撃機の滑走路へと切替えられてゆく。基地の拡張ですね。そして、この戦略爆撃機基地の拡大と強化に伴って、補給・中継基地としての機能に不可欠な、道路・港湾その他の諸設備が整備されてゆく。たとえば嘉手納基地のずっと奥にあった軍用一号道路が、現在のように海岸近くまで寄せられ、広げられたのもこの頃です。こういう過程で、農民からの土地取り上げが表面化してくる。ぼくらの世代は、この土地闘争を契機に、沖縄自身が置かれている現実というものに出会い、そこで目覚めてゆくわけですね。
 とくに56年の伊佐浜での土地取り上げですね。この伊佐浜というところは、古い琉球民謡にも出てくる米どころだったのですが、その周辺一帯にまず米軍将校クラブがつくられる。この将校クラブの周囲に水田があったのでは蚊が発生して、衛生上よろしくないということでもって、浚渫船を持ってきて、巨大な鉄のパイプで、海から土砂をあっという間に水田に流し込んで埋め立ててしまった。泣き叫ぶ農民を銃剣で追い散らし、コザ近くの荒れた未墾の土地へと追い立てた。ぼくはそういう光景を目撃し、言うならばぼく自身の沖縄と出会わざるをえなかった……。この伊佐浜の埋め立て基地は、現にいま、ベトナム戦争で使われるヘリコプターの基地として、補給基地として、沖縄基地のなかでもとりわけ重要な役割を果たしています。こういう体験からの反米、ヤンキー・ゴー・ホームですね。
 川満 一方で再編強化されてゆく日本資本主義に対しては目が向かない。沖縄でのぼくらの闘いは、土地闘争から祖国復闘へと押しすすめられてきたわけだけれど、そこでは、再建され強化されたブルジョアジーによって支配されている日本、これとの対決という視点が一貫して欠落していた。そして、いまわれわれの目の前には、この対決の視点を欠落させたまま今日に至っている復帰運動というものが横たわっている。
 ――そういう一つのパターンとして、復帰すれば本土大企業の進出もある、全日本的経済圏の一環に組み込まれることによって運命を共にするのだと、こういう考え方が復帰運動の側にある。
 真栄城 基地を撤去したあとの経済の問題、アンガー高等弁務官が、基地を大幅に縮小するか、撤廃したら沖縄はどうするのか、裸足とイモの生活でいいのかときめつけてくる。それに対して、復帰協と言わなくても、われわれの側に、いったいどういう具体的な基地撤去後の構想があるのか。復帰運動の思想や論理以前に、現実的なヴィジョンがない。本土で参院選で社会党が惨敗する、政権担当能力がない。同じようなことが言えるんじゃないか。
 川満 いまより経済的によくなるとか何とか、教職員会や自治労や官公労の連中はいいかもしれないさ。復帰運動の主導権がこういう連中にあるから、本土資本の進出なんてホンネが出る。
 中里 だから、このまま復帰しちゃうと、沖縄は日本で一番遅れた県になるような気がしますね。事実、沖縄自民党というか、即時復帰に反対する連中は、いま復帰したら四等県にしかならないから、もっと力をたくわえてと言い、復帰運動の側では、つねに、本土のなかの一番貧しい県、沖縄類似県と言うのですか、せめてそれ並みに援助してくれと本土政府に頼むという考え方ですね。
 川満 目の前の現実である米軍への抵抗という、それが階級的視点の脱落したナショナリズムと癒着した形で復帰運動へとふくらんできた。ここに至って、ぼくらが問題にしなければならないものは明らかと言わねばならないので、これまで進められてきた復帰運動の質的転換、と言うよりはそれの止揚、戦後日本帝国主義国家との対決、これの変革を明確に打ち出すべきだ。

「沖縄独立」の志向

 ――「沖縄にとって本土とは何か」という、思想的にも実践的にもあらためて問われている課題と向かいあって、次に当然、平和憲法下への全面復帰という形で表現される、その「平和憲法」下の日本をより具体的に論議しなければならないと思うのですが、その前に、すこし逆戻りするかもしれないけれど、「国家」認識の論議に関連して、「本土復帰」が果して唯一、かつ自明だったのかどうかということに、やはりこだわりたいようなものがぼくなんかにはあるんです。「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」は、たしかに米軍の沖縄支配という現実のなかで、あまりにも早く破産せざるをえなかった。にもかかわらず、日本政府に戦争被害の賠償金支払いを要求しようという、沖縄人民党の初期の政策などに共感するものがある。これは、たとえば大城立裕氏が戦後の沖縄の一時期にふれて書いていた「日本からもアメリカからも精神的にある距離をおいた〝疑似独立国〟意識」の、ぼく流の読み方なのかもしれませんが、それが真正の自立意識形成への起点となりえたかもしれないのではないかという、そういう可能性について考えることは全く見当はずれでしょうか。
 それから、この沖縄の自立した思想というものを触発してゆくものとしての沖縄の歴史ですね。1609年の薩摩侵攻以来、あるいは明治の「琉球処分」以来でもいい、これがどうとらえられ、教えられ、うけとられてきたのか。
 伊礼 沖縄には、薩摩の侵略以来の搾取と収奪という歴史的な負い目があるのだから、そこでもう「日本はいやだ!」と本土からきっぱり切り離して考える。沖縄には沖縄自身のそういう自立的な姿勢があってもよいではないか、ということでしょう。それはそうなんです。しかし、そういう姿勢が容易に生まれるほど、明治・大正・昭和にかけての国民教育、皇民化教育は甘いものではなかったんじゃないか。明治以後の教育をはじめ、天皇制国家による皇民化政策とその体験は、なまやさしいものじゃない。恐しい力で沖縄県民の内部に刻印されたのだと言えるのではないか。
 嶺井 遅れてきてこれまで発言できなかったのですが……。なぜ日本復帰でなければならないのかという問題ですね。アメリカへの寄属、あるいは琉球独立といった気持が、たしかに戦後の一時期に語られたことがあり、それは屈折しながら現在にもやはり存在しているわけですが、いまはそれらが一定の主張をし、一定の影響を持っているわけではない。アメリカ寄属といった心理的な傾向は、現実的な利害を追求する経済人の間に、さまざまに形を変えて根強く残っているでしょうが、琉球独立の現実の政治的潮流は、1950年の群島政府の成立時点で終焉しています。現在はいろんな要素を含めてではあるが、日本復帰ということに集約されています。それで、なぜ日本復帰でなければならないのかということを、自分に問いかけてみるということなのですけれども、たしかに沖縄はずっと被支配と差別の歴史を負ってきている。しかし、あるいは飛躍した言い方かもしれませんが、アメリカで黒人が差別されている。が、黒人たちは差別されているからと言って、アメリカを放棄しはしないでしょう。
 さっきから出ているように、われわれ自身の沖縄との「出会い」は、米軍の軍用土地取り上げに対する農民たちの抵抗と闘争からでした。そこで私たちが対決したのは、巨大な富と権力を持ったアメリカでした。私たちは、それとの闘争のなかで日本と結びついていったわけですね。40年代後半から50年代初期に、われわれがどういう過程をとおってきたのかということは、まだまだ掘り下げられてもいないし、整理もされていませんが、ともかく、50年の4月に復帰促進期成会が生まれ、53年には第一回の祖国復帰総決起大会が開催されるという形で運動が発展してゆきます。日本からの差別と支配ということが、当然、歴史的にあるのですが、ここではそれは問題にならない。差別の意識を衝くということが問題にならなければいけないのですが、戦前の日本の沖縄支配と差別は、それはその問題として衝いてゆくべきであって、いまはとにかく、アメリカによる支配形態の不当から人間を回復してゆくものが復帰闘争ではないかと考えるわけです。
 中里 それはそれ、これはこれということではないとぼくは思いますね。
 川満 琉球独立論と言えるどうかかわからないが、明治以後の日本と沖縄という関係のなかで、本土へ出稼ぎに行って、そこでよく言われる「朝鮮人と琉球人お断わり」といった種類の差別を痛切に体験してこなければならなかった層にとっては、敗戦によって、その差別感から解放されるのだという実感は大きかった。
 真栄城 サイパンからの引揚船のなかで、復員する兵隊たちと一緒だったんだが、「日本人はそこへ並べえ!」と沖縄出身の兵隊がビンタをくれてるんだな。俺たちは差別されてきた、こんどはお前たちだというわけだ。
 川満 こういう差別観からの解放の意味も、戦後の荒廃と虚脱状態のなかでは、十分に論議されることなしに終わってしまったのだけれども、では本土復帰というのはどこから出てきたのかと言うと、これは、琉球独立論が論理的に否定されたという形で出てきたのではない。そうではなくて、いま言った層とは全く異なる層から提唱されてくる。
 真栄城 エリート層だな。
 川満 下層の出稼ぎ労働者として、直接に屈辱的な差別を体験しなければならなかった者たちとは違って、むしろ日本の沖縄統治下にあって巧みに保身をはかってきたそういう層、戦前日本帝国の行政機構に地歩を占めてきた部分。だから、彼らにとっては日本ナショナリズムというのは魅力がある。沖縄における現在の復帰運動のなかには、実にさまざまな要素が入りくんでいるわけだが、それの出発点が戦前において体制に密着していい目を見てきた連中によって提唱されたことは事実だ。
 ――しかし、戦前、1940年になって、はじめて沖縄人がようやく沖縄県庁の課長になったというような、差別の厚い壁のなかでは、行政機構の末端の地位をしか占めることができなかったわけでしょう。彼等なりの反発というのは……
 伊礼 彼等は戦前は天皇制支配と差別の体制の末端に寄生し、戦後はアメリカの庇護の下に何らかの利益に与ろうとする。敗戦の時点で、戦前の被支配の関係から自らを解き放つことなど、彼等に到底できるわけがない。
 嶺井 経済人はよく言うのですよ。沖縄経済の自立を、ね。施政権も基地も丸ごとアメリカに抱え込まれ、その庇護の下にある間に、自分たちがもっと太り、力をつけねばならない、と。そういう意味で、琉球独立論の今日の継承者は、復帰尚早を唱える沖縄経済人だということになりますね。
 川満 戦前、大きな問屋街、商店街、こういうところは、ほとんど鹿児島からの商人が押えていた。地元の沖縄の企業は、それらに比較するなら丁稚小僧的な力しか持たなかった。それが敗戦で本土商人がいなくなった。そこではじめて沖縄人の沖縄経済界というものが動き出したわけだが、まだまだ十分な経済力を持たないままに日本に復帰したら、またもう一度、本土資本の支配下におかねばならないという不安、これは強いですね。地元資本の蓄積を看板に、アメリカと日本との両方からの援助と庇護の下で、もっと儲けていたい。こういう感情を基盤にしてやってきたのが、沖縄の自民党であるわけですね。
 伊礼 琉球独立論と言えば、やはり森秀人の『甘蔗伐採期の思想』(1963年)にもふれねばならないでしょうが、あの琉球コンミューン論が、「平和国家」日本への幻想の尻っ尾を多分にまだ残存させながらいたぼくらの思想に、一つの衝撃を与えたことは事実です。国民といい、民族というものを、階級と資本というフィルターをもう一回とおしてとらえてゆく視点ですね。しかし、われわれが国家権力をはっきりと意識し、その再生に否応なく直面し、それが同時に、従来の復帰闘争を戦後史的な位置づけのなかにおこうとして、その論理と運動を問うてゆかねばならぬという考え方の起点になるのは、やはり、60年安保と6・15の樺美智子の死だったと思う。琉球独立論の継承者が経済人なのかどうかはともかく、ぼくらはやはり沖縄から本土を貫く闘争の視点を手離さないで、ぼくらの原点であるここで闘うということ。それが沖縄の自立した思想を生み出してゆくということなのでしょうね。

憲法体制下への復帰

 伊礼 何度かふれられているように、復帰運動にはいろんな要素が含み込まれています。ですから、本土復帰の内容も、そこでは雑多に混在しているわけなのですが、日本の憲法体制のなかに完全復帰するという言い方、これが一応の復帰協路線だと言ってよいと思います。ところで、ここで言われる「平和憲法下の本土への全面復帰」というものを考えた場合、ぼくらは、ここでもまた、ほかならぬその「平和憲法下の本土」で、戦後平和と民主主義、制度としての民主主義の体系が、いまや形骸化されてしまっているのではないかという問題に行き当たるのですね。「民主主義」は、形骸化とか空洞化というより、むしろ今日の支配者によって換骨奪胎され、支配のシステムのなかに組み込まれてしまっており、われわれにとって敵対すべき権力による秩序に変質してしまったのではないか。こうした体制的な、体制内的な民主主義が、たとえば学生運動などにみられる戦闘的部分から鋭く告発されつつあるという一つの状況を、ここで考えざるをえないわけです。
 しかし、それにもかかわらず、ぼくらがいま沖縄にいて、この「憲法体制下への復帰」に運動のなかで取組んでゆくということは、憲法をはじめとする「法制的保障」の限界性を明確に認識すると確認した上で、やはり実践的な課題だろうと思うのです。
 川満 本土ご自慢の憲法のもとに帰る、もはやその欺瞞が明白であり、まさに打倒すべき対象でしかないブルジョア支配の法体制下に復帰する。それでこの疎外された状態から救済され、ついでに社会福祉的恩恵にも与る。いままで恩恵から除外されていた分だけ、たっぷり償なってもらいたいというわけですか。
 伊礼 憲法体制下に帰ると言った場合、とくに40年代から50年代にかけて、あまりにも粗末にされてきた多くの生命のことを思うわけです。もし沖縄に憲法が適用されていれば、と。たくさんの女たちや、幼い子どもたちの生命までがなぶりものにされてきたのですが、憲法が適用されていれば……と思うと、国家というもの、憲法というもののどこからどこまでが幻想で、どこからどこまでがわれわれにとって実在かということが、そのへんから解明されそうな気がする……。
 たとえば、東京の銀座を歩く女性をベトナム帰りの海兵が見ても、そう簡単には手が出せない。その背後には国家があり、法がある。しかし、那覇の国際通りやコザのセンター通りを歩く女の子に対してならどうだろうか。ここに一つの国家主権で支えられている人間とそうでない人間を見、依然として軍事占領という法的状態におかれている、沖縄というものの姿をぼくは見るわけです。40年代後半から50年代にかけてのとりわけ夥しい人命や財産に対する暴行、人間の権利に対する侵害について苦痛な記憶を刻みつけられねばならなかったぼくらは、そこから日本国憲法、とくにその人権条項の沖縄への適用を痛切に意識します。復帰運動が軍用土地問題と人権問題のせっぱつまったからみ合いのなかから生まれ、いま、「平和憲法のもとに帰る」ということを強調する背景には、アメリカの軍事優先の基地行政下における、数知れぬ、深刻な人権侵害の苦渋な歴史が横たわっているわけですから。
 嶺井 アメリカ人の子どもがバスに向かって投石したり、空気銃を撃ったりするという「いたずら」は現在でも頻繁に起こっている。コザや普天間などの基地の街での米兵たちと住民間のトラブルは、現在でも日常的な状態です。しかし、沖縄の子どもたちが基地に向かって投石したり、車を走らせる米人家族に「いたずら」するといったことは全然ない。こういう関係が、どこから生じてくるのだろうかということですね。
 8月25日の嘉手納村の村長選挙で、革新共闘が1200票もの大差で敗れた。あのB52の強烈な騒音、それから米軍基地の貯蔵燃料による「燃える井戸水」、こういうものが直接に政治に反映しない。アメリカの軍権力的支配のなかで、人間的な権利が抑えつけられ、長年にわたってそのなかで醸成された意識が、正当な権利感覚・権利意識を麻痺させているのではないかということですね。そういう意味で、やはり憲法は不在なのです。恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利、そういう権利を呼びさますものとして、私は憲法を考えています。
 伊礼 そのためにわれわれは日本国憲法の即時適用という復帰運動に関わってゆく。しかし、そこでストップしてしまってはいけない。侵されている生活や人権を守るという、防衛的なそこからさらに問題を前進させなければならないと思うのです。
 日本国憲法の適用から疎外されている沖縄の人間のほうが、憲法下の本土の人間よりよほど深く日本国憲法の精神を理解していると言い、日本国憲法の理念そのものとしての復帰運動ということを言いますね。たとえば日高六郎さんとか……。いまは沖縄から憲法を取戻してゆくのが復帰運動だという言い方ですね。しかし、それに対しては、日本の戦後史過程のなかで憲法が空洞化されてゆかざるをえなかった政治的経済的社会的構造をやはり考えざるをえないので、そういう戦後史の経過のなかで、まさに建て前であるにすぎないまでに実質を抜き取られた憲法をもって、その精神や理念を、どうしても沖縄で実現するのだとは言いたくない。
 国民の一人ひとりが国家との関係において持つべき当然の諸権利、基本的人権、言いかえれば、近代国家というものは国民に対してそれくらいのことは保証するのだという、憲法というのはその程度のことですね。だから、われわれから言った場合、憲法の即時全面適用とは、今日までアメリカの支配下に置き去りにしてきた国民の一部に対する、日本国家の最低のそのまた最低限度の義務であろうという、そういうことなのであって、そこで終わるものでは全然ない。

 川満 憲法の全面適用が、同時に主権国家の全面支配と表裏のものであるという一面が、憲法のもとへの復帰の悲願みたいな言い方のなかからは出てこないんだな。いずれにしても国家幻想、憲法幻想を根本から切らなければ、祖国復帰はのりこえられないよ。
 伊礼 憲法自体がブルジョア法体制の表現であって、それがいわば擬制というか、支配の形態にすぎないということは自明でしょう。言うまでもないことですよ。ただ、ぼくは、沖縄の置かれている基地的状態のなかで、人権条項の適用ぐらいは有効だろうということで、最低の国家的義務を果たせと言うんです。
 嶺井 沖縄での闘争そのものが、権利の回復、人間解放という要求に根ざしているし、それをさらに発展させるものとして憲法を考えるべきでしょう。基地の金網から50メートルと離れていない嘉手納での選挙に示されたあの結果であるとか、那覇軍港や玉城村沿いの海岸の放射能汚染の問題に対する反応であるとかに、私は憲法感覚から疎外されてこざるをえなかったものの弱さということを考えるのです。当り前でない状態を当り前と考えてしまってはならないということですね。
 川満 原潜の一次冷却水の排水による放射能の海水汚染とか、「燃える井戸水」とかね。しかし、たとえば熊本の水俣病や、新潟県の阿賀野川の有機水銀中毒など、憲法体制下でのこの種の企業暴力をいったいどう考えるのか。水俣では15年間、廃人になったまま零細な漁民が放り出されている。企業の責任追求なんて全然やられてない。
 中里 しかし、恵庭はどうですか。恵庭裁判までは行きたい。
 川満 憲法の傘、それも破れた傘の下へさえ入れば、いまよりましになるだろうという錯覚が、繰返すようだが、現在の復帰運動のなかで、国家権力とか資本とか、こういうものが全く対自化されないままにネグレクトされてきていることと重なり合ったものとしてあることを指摘しているんだ。
 伊礼 八幡・富士の合併とか、旧王子製紙系三社の合併とかね。こういうものは何だ?ということでしょう。巨大企業による支配の構造が完成され、強化される一方、戦後の平和と民主主義を象徴した憲法の理念の崩壊、その幻想性は、ますます露呈してきているということでしょう。第9条と三次防と言うのかな、兵器の国産化とかね。きりがないですよ、空洞化の例は。
 川満 石炭合理化の過程で資本の論理は冷酷に貫徹する。工場廃液による殺人を昭和電工はどう補償したか。基地公害ということで、国家や資本を免罪にすることはできないと言いたいんだ。
 伊礼 しかし、それにもかかわらず、沖縄における憲法適用という、この問題の一定の有効性・具体性は見なければならない。見るべきですよ。限界性を明らかに認識した上で、と言ってるでしょう。川満さんみたいに、何でも原理に還元しちゃえば問題にならない。
 中里 憲法が既成事実によって骨抜きになってしまっている本土の状況をぬきにして、理念や精神というのは往々「美しい言葉」なのですね。ぼくも、それには抵抗を感じる。しかし、沖縄でも、せめて恵庭裁判までは持って行かせたいと思うのですよ。恵庭の場合、自衛隊法の第何条かによって起訴されたわけだけれども、そこでは憲法の原理が争点になったわけで、それが争点になりうるということが一つ、もう一つは憲法の原理をいつも争点にさせる姿勢ですね。嶺井さんの言う憲法感覚、権利意識、そういう意味だと思うのです。
 那覇にいるとあまりわからないのだけれど、ぼくは学校が中部の方だから、いやでも基地が目の前にある……。それで、基地の金網の先っちょがどっちに向けて曲がっているのかということですね。これはいつか本土から取材にきたカメラマンと話していてそんなことに気がついたんですが、少年院の金網は、むろん内側に向いて曲がっている、逃げ出せないようにね。基地の金網は、嘉手納でも、石川のビーチのようなところでも、これは全部外へ向かって曲げられている。「基地ニ侵入スルナ」という掲示と共に、ですね。これは当然のことなんですが、これを当然としておさまっていたくないとするものが、ぼくの内部に激しくある。
 戦後という言葉がある。沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり日本の戦後は終わらない……ですか、あの佐藤栄作の名文句は、ここにいる真栄城さんが、佐藤訪沖の半年位まえに沖縄にきた芥川也寸志さんに向かって言った言葉に発するらしいんだけれど(笑い)、その戦後ですね。戦後はもう終わったんだということが本土で言われはじめたのは50年の後半頃からですか、しかし、自分には実感として、終戦直後とでも言える一時期はあっても戦後はないんです。「戦争と戦争」がずーっとつづいているという感じですね。中部一帯が巨大な基地でしょう。教室の窓からはミサイルが見え、ぼくを威圧するわけだけれども、生徒たちはそれを日常の風景と見て怪しまない。慣れと言うのでしょうね。
 ぼくらが子どもの頃、ジープからアメリカ兵がチューインガムを撒いて、ぼくらがそれを争って拾うのを、彼等はカメラで撮った。そんなことは本土ではもう誰も忘れてしまっているだろうけれど、ここではそれが23年間、ずーっと続いてきているんですね。三軍記念日というのがありましてね。ぼくが中学校にいる頃でしたけれど、記念日に全校生徒を招待してくるわけです。反対したけれども、アメリカの子どもたちとの交歓のよい機会だから出席しろと校長は言う。実際に行ってみると、酔っぱらった軍人なんかがいっぱいいる前で、ぼくの連れて行った生徒たちがダンスをする、歌をうたわされる。ええ、2,3年前の話ですよ。こういう体験のなかで沖縄の子どもたちは、アメリカ人は自分らよりも上等の人間だと思い込んでゆく。ミサイルがあって当たり前の日常の風景と同じように、ごく自然に子どもたちの意識に場所を占めてゆく。慣れというのを、ぼくはそんなふうに思うんです。アメリカの翳というのはとても大きい、濃いのだが、それに気づかないくらい日常化しているという……。
 子どもたちばかりではない。小さな女の子がアメリカ兵に乱暴された上、殺された。そこの村では全員が怒りをもって抗議するというので、村長が直訴ですね、基地の司令官に抗議文を手渡したのですが、それを新聞でみると、にこやかに握手して渡しているのですね。怒りはてるということがない。こういう心情から自らを解き放つこと、それが川満さんの言うことに一歩近づくことになるのではないか。そう思いますね。
 伊礼 戦前の沖縄が置かれてきた状態も含めて、それをバネに戦後史過程のなかで後退をつづけてきた日本の全体的変革という課題を、ぼくらが沖縄から主体的に構想するということ。憲法がその闘争の環たりうるのかどうかということで意見は分かれると思うんだけれども、とにかく沖縄の現状の法的根拠になっている平和条約第3条をまず叩きつぶすために、その闘争の役に立つ武器は何でも手にとり、ぼくら自身がそれを鍛えてゆくのだ、ということです。

沖縄近代史の苦痛

 嶺井 憲法の問題にしてもそうですが、日本に復帰すればすべて問題は片づくのだというような考え方を、私たちはもちろん持っているわけじゃない。持っているわけではないが、現実の問題を考えた場合、やはり「差別」ということですね。これをとにかく本土と同じところへ行ってですね、問題はそれから考えようじゃないかという、沖縄の側にこういうものがあることはよくわかるんです。で、本土の側はどうかと言うと、そういう沖縄の現地感情というか、それに応えるのだと言って出されてくるものが「差別」なんですね。核つきであるとか、基地の自由使用であるとかといった施政権返還方式の論議、これはいったい幾通りあるのかわからないけれども、戦後のあの「琉球処分」――1952年の平和条約で住民に対しては全く無断で沖縄を本土から切り離した、その時と同じように、どう沖縄を都合よく処理するかといった観点からだけしか考えないという、これが非常に根強いのですね。ですから、こういう「差別」に対しては、ここにいる人間として、私はその一つ一つを見きわめてゆくことが絶対に必要だと思うわけです。
 戦前の沖縄が置かれてきた歴史的なあり方と戦後史との関連をどう整理し、とらえなおし、今後の日本をみてゆくかという問題と結びつけて言えば、明治このかた沖縄がどういう状態のもとに置かれてきたのかということを見直す作業ですね、これはこの数年、かなり進められてきたと言えるのではないでしょうか。沖縄がべったり本土にもたれかかり、祖国のふところに抱きとってほしいといった甘えた考え方や姿勢を洗って、沖縄自身のはっきりした主体を確立してゆくための、「差別」を衝いてゆくための一つの作業として、ですね。
 中里 国政参加がいま問題になっていますが、沖縄が明治国家の一県に編入されたのが明治12年ですね。国会が開かれ、選挙法ができたのは明治23年、沖縄でそれが施行されたのは明治45年ですか、宮古・八重山では大正9年とさらに差別されています。いまが戦後23年、明治の国政参加が本土から23年おくれてはじめて実現している。こういうことにも、ぼくは、沖縄の歴史の持っている苦痛を感じますね。
 それと、沖縄の歴史というものを考えてみると、血の系譜の証明、「日琉同祖論」ですね、これが明治末期から大正期にかけての「沖縄学」に共通したモチーフとして、ずーっとあるでしょう。それが1945年以後にもあって、復帰運動のなかで日本人であることが非常に強調されるというような……。いま、ぼくらが問題にしているのは、それだけでは駄目なんだということですね。いま、ぼくに、なぜ「復帰」に関わるのかと言われれば、それは、言ってみれば日本人であることの選択だと思うのです。いま自分に必要なのは……。そして、それはぼくだけじゃない。こういう発想というのは、日本人だから日本に帰るんだというのではなくして、日本人であろうとすること、どういう日本人であるかということ、それの選択として考えぬくべきだろうと思うのです。
 嶺井 とくに沖縄の近代史ですね。これはいままでほとんど教えられてこなかった。これはたしかに教職員も含めて、沖縄の歴史を勉強する者たちの1つの責任として追求されていいと思うのですが、それが体系的に整理されていなかったことが、子どもたちに語れなかったということの要因にもなっていると思います。沖縄の近代史というのは、やはり日本の近代史のなかからいつも除外されてきている。ですから、これを整理し、たしかなものをつかみ、教えるというのは、やはりわれわれの仕事でなければならない。こういったことが、ここ2、3年、非常に活発に議論されるようになり、それ以前にさかのぼる歴史を含めて、いちおう副読本というものはできているんです。歴史を勉強している若い人びとのなかで、沖縄の100年の歩みというものを、いわゆる苦難の歴史としてとらえかえしてゆくということですね。
 中里 そのことは、たとえば日本での朝鮮人学校のいわゆる民族教育の問題とも関わるのですね。たんに沖縄だけの歴史というのではなく、日本近代史における支配と被支配という……
 川満 それはこういうことなんだろう。自分たちの内部にある戦前天皇制支配の残存物に気がつかない、摘出できない。そこへもってきて、復帰運動を効果的に進める土壌をそこへ求めてゆくという安易さの相乗作用がある。「われわれは日本国民としての誇りを持つ」とか、「日本国民としての青少年教育」とか言ってさ、そういう理念で教職員会はグングンと指導してきたわけだ。だから、荒木文部大臣みたいな「大物」が沖縄へやってきた時に、教職員会は子どもたちを狩り出して、「日の丸」の旗を持たせて歓迎したりするわけだよ。
 嶺井 それは違う、違いますよ。
 川満 こういう教職員会の総体的な復帰運動のなかでの動き、役割に対して、内部のいわゆる少数派といわれる若い教師たちが、「国民教育」からそのままブルジョア的反動的民族主義へ直線的に結びつけられてゆく傾斜に対して、これは何とかしなくてはならないというので、沖縄の近代の歴史研究とかに主体的に取組みをはじめた、そう言っていい。そうじゃないのか。
 嶺井 それはたしかにそうだけど、ちょっと修正してもらいたいんだ。荒木文部大臣がきた時、教職員会は旗を持たせたりしていませんよ。あれはわれわれがやってるんじゃないからね。教職員会は、旗を持たせて生徒を出させるべきではないという見解をはっきりさせています。八重山地区の一部の教師たちの教職員会に対するあちらからの攻撃というのがあるわけでしょう。
 川満 復帰大会なんかではあれだけの動員力を持っているんだ。教職員会は「日の丸」の旗を持たせない、政府やそれのテコ入れする部分で生徒たちに持たせてきたと言うのなら、それを許さない、阻止する行動だって組めるじゃないか、とぼくは言ってるんだ。

 嶺井 教職員会を含めて、本来は克服されていなければならないという意味でのナショナリズムが復帰運動のなかに濃厚にあることは否定しない。それをいわば転撤してゆくものの一つとして、いまここで論議している、沖縄の近代史を主体的に見直さねばならぬという問題もあるわけですね。さっきから私は「差別」ということを言っているのですが、差別はいつも本土に厚く沖縄に薄いという形であるんじゃない。明治以前の沖縄が置かれてきた特殊な歴史的環境からして、廃藩置県もやっと明治12年になってからという、こういう差別のなかで、天皇を中心とする国家への忠誠、皇民化のための教育は、急速に、しかも徹底して進められる必要があった。ですから、明治このかた、教育については沖縄は他府県以上に国家からの「恩恵」を受けてきている、こういう形の「差別」ですね。
 伊礼 「兵田」としてね。
 嶺井 それが沖縄におけるナショナリズムのマイナス要素の濃厚さ、とりわけ、それが教育のなかに根強く残っていることの大きな原因だと言えると思いますね。
 中里 戦前の国家――天皇への忠誠の教育を受けた人びとの内部に、それが非常に強い意識として持続しているということと、それを教えた側の問題としても、ですね。
 「日の丸」のことにもう少しふれれば、沖縄では北部へ行くほど「日の丸」の数が多い。4・28の復帰行進歓迎なんか、戸毎に日の丸を掲げて、非常にうまくいっている。復帰協のほうでは、これを高く評価しますよね。ところが、選挙ではこの北部は保守の地盤です。「あがり正田わぬ美っちゃん」(笑い)、皇太子の成婚記念の写真なんか、ほとんどどの家にも飾ってある……。ということは、教職員会や復帰協が一生懸命に手を入れなくても、自然発生的な、素朴な「日の丸」意識が、北部にはとくにあるのだということでしょう。これにそのままよりかかったかたちで、年中行事化し、フェスティバルになってしまっている復帰行進と「日の丸」掲揚を、復帰協の幹部が高く評価しているということに、ぼくは抵抗を感じますね。
 伊礼 中里さんも言ってたシンガポール陥落の旗行列、あの時にぼくらが持たされた日の丸の旗と、いま4・28の復帰大会のパレードを迎えて子どもたちが振る旗。それを握っている子どもたちに働きかけるものは同じじゃない。しかし、同じ方向に持って行かれかねない危険性が多分にある。この危険性の認識を、どこまで運動の論理のなかで徹底させてゆかねばならないか、徹底させてゆくことができるのか、沖縄の近代史へのアプローチもその一つでしょう。と同時に、それを復帰運動を全的にとらえるなかで、つまり、教職員会だけではない、復帰運動を形成している他の部分も含めた、全体の思想なり、その組織の論理・路線の問題としても考えねばならない。言葉をかえて言えば、50年代の復帰運動路線が、そのまま今日なお内在的に批判され、克服されていないということ……
 中里 実際、沖縄の近代史を見直すということにしても、まだ緒についたばかりで、それをもって運動や思想の質的なとらえかえしをということまでは、ほとんど不可能でしょう。しかし、宮古の農民の農民運動とか、国頭の杣山処分――謝花昇のね、この杣山処分なんか、当時の奈良原知事が貧窮士族の救済を口実に、薩摩だの、尚家だのその他特権的な連中に払下げるのですが、これに対する農民の抵抗、これははっきりとあるわけですね。こうした闘争なり、評価なりを深い部分からとり出してくる。決して直接に結びつける、短絡させるのではなく、しかし、これを闘うエネルギーとしてゆくということですね。
 川満 いままでの話をひっくるめて言っても、現在の復帰運動が直面している段階というのは、これは従来の……
 中里 さらにつけくわえさせてもらえば、敗戦で沖縄が「アメリカ世」になって、戦前の沖縄とは決定的に切れたのだという、こういう錯覚を持ってい 人が多いのではないか。しかし、戦争が終わったということは、戦争を阻止するために国家権力に反抗して立ち上がった者の力が強くてそれを終わらせたということではないのですね。「鉄の暴風」ですか、まさに外からの物理的な力によって屈伏させられたわけでしょう。ですから、意識の構造は戦前からずーっと連続している。「アメリカ世」から、こんどは「大和の世」だということにね、抵抗なしにすべってゆくわけです。変わらない、沈黙している古い意識の構造の深みに、誰も鋭い銛を打ち込まなかったということですね。それが今日の状況のなかで、はっきりしてきていると思うのです、ですからぼくなんか、復帰運動の転換とか展開とかと言う場合、このあたりの問題に、どう鍬を入れ、耕やすのかということですね。

三大選挙以後

 ――教職員会の問題というのが中心になった形で、復帰運動の雑居性と言いますか、保守的部分を抱え込んできた結果としての限界、それの桎梏への転化ということを問題にしてきたわけですが、これがたとえば今度の三大選挙を1つの契機にして、これまでの矛盾を顕在化させ、復帰運動それ自身を分化させてゆくターニング・ポイントになるのではないか、そう言えるような気がするんです。こういう問題を少し突っ込んで……
 川満 分化するのではないか、とね。ぼくはこれを分化させなくちゃ意味ないんじゃないかと思いますね。分裂や対立を回避して、形式的な統一体を維持することを自己目的としていたら、運動のなかに本当の理論というものを打ち込んでゆくことはできないのではないか。ぼくらは運動体としての生命力を奪還してくるために、いまの復帰運動の形態、枠組みといったものを、いったんこわしてゆく必要がある……
 伊礼 結局、復帰闘争というものが曲がり角にきている。そこで全体的な総括が現実に要請させるというところへきていると思うのですが、その総括が、思想的・組織的な課題を明確にするという形では把握されないで、核つきか、本土並みかといった、例の返還方式論議といった形で出てくるところに一つの問題があるわけですね。われわれは、かつて一度も××方式といった形で問題を出したことはない。それは、アメリカの外交官だとか、日本政府の外務官僚だとか、あるいは早稲田大学の元総長だとかが言い出していることであって、どだいわれわれと何の関係もない。にもかかわらず、それにひっぱられる形で、基地つきだ、いやそうじゃないと、復帰運動のなかでの意見の違いがはっきり表われてくる。復帰運動の思想・論理の欠落という、最初に指摘した問題ですね。それがこういう現実の動きのなかで問われてきているわけです。さっきからここに出ている「日の丸」に象徴されるような国家意識から、琉大の学生たちや、労働者のなかでもたとえば川満さんのような考え方、問題への切り込み方まであるのだから、分化してゆくことは当然なので、その分化のありようが突っこんで考えられなければならないと思うのです。
 中里 さっきも話に出た嘉手納の村長選挙にしても、これはぼくの独断かもしれないけど、そういうところでシッペイ返しされているのではないか。那覇やコザを「都市」と見れば、国頭とか、離島とか、「地方」であるところも含めて、ぼくが「日の丸」に固執する、復帰運動における「日の丸」の効用とそのマイナスの意味、これを徹底的に考えることを繰返して言うのは、論理や思想はまあまあで抑えて、動員的な運動だけを考えて、復帰を自己目的化して終わるのか、それでよいのか、それともぶちこわしてゆくのかと……
 嶺井 それに反対じゃないけれどもね、しかし、その「日の丸」、「日の丸」と言ってさ、それをむつかしくね、それもおかしいんじゃないか。ちょっと異議がある、と言っても反対というんじゃないけどさ……
 川満 そうじゃないんだよ。ぼくはね、いずれ「日の丸」の旗を全部集めてきて、広場に積み上げて焼き棄てる。そういう行事をアピールして断固やるべきだ、と。やらなきゃいけないんだ。
 伊礼 人民裁判と同時に、な(笑い)。
 川満 いや、もっと前、いますぐにでも、だ。
 伊礼 三大選挙を契機にして、従来の復帰運動の矛盾が表面化してくるというか、新しい局面を迎えるということに話をすすめて、ぼくは、今度の主席選挙は、これは本質的にはベトナム危機を背景に、日本政府に経済的肩代わりをさせてゆくという、アメリカの支配形態の変化過程における新しい共同管理の一つの表現とみるわけです。その限りでは、擬制的な自治権の拡大であって、司法・立法・行政の権限は米民政府に掌握されたまま、その下での主席であり、立法院でしかない。こういうことを確認した上で、われわれは革新共闘の、具体的には屋良主席の実現を目指す。そして、それが実現したら、さらにその先へと追撃戦の形で、手をゆるめない。ゆるめてはならない。当然、そこには、反本土・反米の抵抗政府たらしめるというものがあるわけです。日米帝国主義の沖縄共同管理のプログラムとシステムに対抗する存在たらしめねばならないわけです。
 しかし、実際には、いま言った米民政府に施政権を握られた枠内での主席公選であり、ずっと論議してきたような本土認識が一貫して復帰運動のなかにあるということを考えた場合、ある意味では、どちらが当選しても、というより、ここでは屋良主席を実現させるということで話しているわけなんだけれども、後進県・四等県行政を何れがよりスムーズにやってゆくかという、言いかえれば、施政権の根幹にふれる問題を回避しながら、住民の社会福祉面のみの業績を競い合うといったものに限定されてしまう可能性が非常に強いのではないかということですね。悪くすれば、日米支配層の合意にもとづく沖縄処理――何々方式という形での返還のスケジュールを推進する、支えるものにさえなりかねないわけです。中里さんが指摘していた、教育権分離返還論の際の対応の仕方というのを、ぼくはその一端であるとみるのですが、いずれにせよ、選挙戦後の問題の真剣な討論というものが、現在、運動の内部でもほとんど行なわれていない。そこにも一つの大きな問題があるのではないか。

 川満 結局のところ、屋良県政をめざす、返還はこれは日本政府に「請願」して実現を促進させるという、それだけのことでしかない。そうであるとすれば、こんどの3大選挙に、とりわけ主席選挙に対するわれわれのとるべき姿勢とは何か。強烈なアンチ・テーゼが要求されているわけです。たとえば68年6月の本土における参議院選挙で、大江健三郎などが指摘している「意識された棄権」ということですね。ぼくは、この棄権という形での意思表示を、今度の選挙に向けての一つの運動として展開してゆくということを……。
 伊礼 棄権という行為、あるいはそれを組織する運動というようなことは、ぼくはとらない。投票することによって、主体的に関わってゆく。これは戦後の復帰運動の分岐点になる。追撃の姿勢をとる抵抗政府とさせてゆくために突き上げてゆくのか、一層広範囲な民族統一路線をということで、摩擦を起こさない、改良主義的なコースをとることになるのかという分岐点ですね。ぼくは、これを沖縄戦後史の一つの決算として、そしてこれを沖縄と本土との革新運動に新しい転機をもたらす一つの契機としてとらえたい。
 それで革新共闘が勝つとして、これが改良主義にいくとすれば、運動内部から批判の声があがるだろう、あげねばならない。ぼく個人としても、その場合には、これまでの行きがかり上、関係を持ちつづけてきた復帰協路線と訣別せざるをえないだろう。同時に、復帰闘争の多極化というか分化は避けられない。これまでの形式的な統一体は解体されてゆくだろうし、そこから、それとはっきり決裂することによって、より自立的な思想と論理と運動を追求してゆくという方向が、組織的にも個人的にも出てくると思う。
 嶺井 さっきから出されているとおり、52年の講和条約の際の沖縄処分につづく戦後第二の沖縄処分の問題として、現時点で、さまざまな沖縄処理方式が論議され、取引されようとしているわけですね。これに対して、われわれは主体的にどう判断するかということを、今度の選挙をとおしてはっきりと自分たちが意思を表明する。そういうものであるわけです。
 伊礼 川満さん、本土の参院選における棄権という選択と、沖縄の3大選挙における棄権、あるいは棄権運動の意味は同じですか。
 川満 ぼくらの前におかれたあれとこれとのどちらかを選ぶという、そういう与えられた選択ではなくして、現在ぼくらの前にある政治の情況に対して垂直に関わってゆこうとする姿勢を持つ。その時、はじめて意識された棄権、目前の情況に対する全的な拒否というもの、そこからの一つの運動の展開が開始される。そういう意味では、意識的棄権は本土でも沖縄でも同じですよ。

 ――一つは1968年11月の沖縄の位置ということ。一つは屋良さんなどがイニシアティブを持って今日まで推進してきた復帰運動の体質評価の問題ですね。これが川満さんの棄権運動の提唱のかなり大きな要因でしょう。それからもう一つは、伊礼さんの言う自立政府というか抵抗政府というか、そういう方向を保障する力、そこへ行かせる力は何かということ、これはアメリカ民政府の出方という問題も含めてですね。
 嶺井 選挙それ自体を否定する、議会主義の枠内での不毛な選択と見る、川満さんの考え方はそこから一歩も出ない。しかし、私は繰返しになるかもしれないが、いままでの復帰闘争の進め方、形態を、これを契機に変えてゆく、そういうものとして積極的な意味を強調したいと思います。
 たとえば67年11月の佐藤訪米に向けて、復帰協では一日ストという方針を出しながら、実質的には不発に終わっているというようなことですね。これは、島ぐるみの闘争とか、全県民闘争とかと言ってきた従来の復帰協の運動のあり方の一つの問題を示しているのではないかと私は考えるんです。県民ぐるみの闘いという従来の行き方で、つまり、経営者も労働者も県民じゃないかという、全部ひっくるめた闘いだということで、一日ストが果たして打てるのかどうか。たんなる立法院での超党派決議や、甲子園の興南高校への応援じゃない(笑い)。松岡主席まで含めた全県ぐるみのストという発想それ自体が問題なわけですね。きっぱりと対決点を明確にし、具体的な力に訴える大衆行動に出る、そういう復帰協の体質転換の契機をこの選挙に見出したいですね。
 その意味で復帰運動の闘いの進展は選挙後にあると思うし、そのための革新内部の討論や対話の必要は、伊礼さんの指摘のとおりだと思います。
 伊礼 沖縄の革新政党と言われている人民党とか社会党とかが、俺の党は復帰党だから本土復帰が実現すれば解消するのだという言い方をしている。一方で革新共闘とは言うものの、対立点を明確にするよりも、本土復帰という一点に関わる超党派・超階級の強調ですね。そこから、川満さんなんかが、不毛な選択にすぎぬ選挙に対する意識的棄権の運動をこそ組織すべきだと言う、それは非常によくわかるんだ。
 しかし、たとえば教育二法阻止を闘った若い教育労働者、学生、地域で下からつくり出されていった共闘組織、あるいは全軍労のストですね。ぼくは、こういうものが、自立政府への方向をとらせ、それを支える力になるのだと思う。
 それから、少し飛躍するかもしれないけれども、言ってしまえば、抵抗政府と言い、自立政府と言ったって、アメリカが直接介入してきたら、これはひとたまりもなく崩れますよ。沖縄はキューバとは違うんだから。米軍基地への依存度は48%か、60%かです。対日・対米貿易のストップというような事態以前に、電力・水道まで全部米軍からの供給を受けて成り立っているのですから、抵抗政府と言ったって、住民にメシを食わせていけなくなる。ですから、沖縄はこれまでも一貫して被害者的立場に置かれつづけてきたという、その「負」の伝統に徹底して、日本の眠っている国民を目覚めさせるための被害者たる立場を、自ら買って出てもよいではないかと、ぼくはそう思うんだな。沖縄の復帰闘争のなかにこめられている有効性、日本を変える起爆力というものは、案外その辺にあるのではないか、と。それが何らかの意味で日本を変えるための本土における行動、闘争に連続化させてゆくための衝撃力になるのではないか、と。共産党もそうだし、社会党や総評その他が完全に呪縛されている議会主義的・合法主義的幻想を、その深部において破壊するだろう、と。つまり、抵抗政府はずーっと維持してゆかなくてもいいんだ。
 川満 われわれの選挙という行為は失敗に帰するであろう。その失敗そのものが、日本の既成左翼のブルジョア的改良への幻想の破産を証明するであろう、伊礼氏はそういう意図でもって選挙にのぞもうというわけね。
 嶺井 そうじゃないさ。
 ――いや、そういうニュアンスもある(笑い)。
 伊礼 ないこともない(笑い)。
 川満 しかし、今度の選挙によって抵抗の拠点としての自立政府を樹立し、それを支える力を教職員会や全軍労やその他復帰運動の諸組織、革新主席の選出母胎の戦闘性に求めるというのは、これは幻想だよ。現実の行政機能を果たすべく規定された行政府の首長が、下部から突き上げられたら、当然、必ずこれの抑圧にまわる。
 ――と言うのだけれど、それはどうかな。自立的な運動部分を、体制の弾圧以前に組織内部において圧しつぶしてゆくという形に要約される状況一般ということなのですか。それとも、沖縄の復帰運動指導部のイニシアティブ、これはマイナスの方向では統制力として働くのだけれども、そういう具体的な評価なのですか。
 それと、現実の政治とか行政ということですが、現実ということで言えば、川満さんの言う行政府首長の機能原理は必ずしも貫徹しない。妥協的・改良的な方向への可能性というものが一方にあるからこそ、下部から突き上げてゆく力があるとして、これに対応する側としては、突き上げてくる力如何では考慮せざるをえない局面というものも必ずあるわけでしょう。

 川満 こういうことなんですよ。革新共闘によって実現した革新主席に対して、たとえば官公労はどういう立場に置かれるのか。官公労はもちろん復帰協の構成組織であり、かつ、これまでは琉球政府に対して賃上げ要求という、まあ経済要求だけれども、それを突きつけることによって、まがりなりに労働組合としての役割を果たしてきた。しかし、自分たちが選んだ革新首長に対してはどうするか。これは屋良に密着してね。与党意識ですよ。それをはみ出せば抑えてくるでしょう。統制力と言ったですか、強いですよ。事実、いままで公然と復帰運動指導者や路線に対する批判が語られているかどうか。語られていないですよ。沖縄が置かれている困難な立場への「理解」との相乗作用でですね。タブーでしょう。とすれば、この上からの抑制と下からの与党意識、自己規制とがみごとに照応して、これはもう全然……。
 嶺井 それはおかしいですよ。いまぼくらが話してるのは、沖縄のかかえている問題を、68年11月の沖縄の位置ですか、そういった全体のなかで具体的に考えてゆくということだと思うのですよ。早い話が、沖縄で米人の運転している車のナンバー・プレートには、Keystoneと書かれている。Keyston of the Pacific.と戦後20年以上にわたって、向こうはこの「太平洋のかなめ石」という明確な意識を持ち、それにもとづいて統治してきた。この統治形態の変化ということが出ているわけだけれども、沖縄での政治が、この米軍の統治の構造、極東軍事政策の拠点としての沖縄基地の維持・強化と、どういう意味ででも直接的に関係せざるをえないという、この鋭い緊張関係は本質的に変わっていないし、変わりませんよ。それからしても、本土と沖縄との置かれている政治的環境の違いははっきりしていると思うのです。美濃部都政が当面するいろんな課題というものとは較べものにならぬきびしさ、困難が考えられるわけでしょう。運動の質的転換がはかられるし、はかられねばならないということは、この困難さのなかでこそ問題になる筈だと思うのですよ。
 それから、たとえば全軍労のストですね。私なんかもあそこで徹夜の支援をしたわけですけれども、就労しようとする人たちを説得して職場を放棄させる。彼等が職場を放棄すれば、部隊のなかから兵隊を持ってきてあてねばならない。事実、どの部署にも米兵がいっぱい出ていた。こういう状態がつづけば基地の機能はどうなるか。このこと一つを取り上げても、結局、具体的な闘争を一つ一つ成功させてゆく、その条件をどうつくり出してゆくかということだと思うのです。
 伊礼 講和条約第三条で、沖縄の施政権を完全にアメリカが掌握しているという体制のなかで、これの枠内で妥協しつづければ、これは問題ない。しかし、たとえば渡航の制限などは琉球政府の出入国管理部がやっていたことだからというので、ここで渡航制限を全面的に撤廃するというように、次々と現在の枠をこえてゆくと、これは必ず米民政府権力との間に摩擦が生じてくる。
 ぼくは抵抗政府とか自立政府とか言ってるんだけれど、これは何も大げさなことではない。講和条約第三条の無効を宣言し、アメリカ軍基地の即時撤去を通告し、天皇だの皇位の継承だのというナンセンスな条文のない沖縄の憲法をつくる……。それができればいいですよ。しかし、そんな大きなことではなく、事実上、事務的手続きにすぎないところまできている渡航制限一つをでも、われわれの手で撤廃するという、こういう些少なことで、場合によってはアメリカの直接介入によって、沖縄の自立政府が扼殺されるかもしれない。だから、ぼくがさっき言ったことは、何か心情的なことなどではなくて、たとえ些少なものをさえ沖縄を賭けて闘うのであるという、そういうものとしての抵抗政府ですね。それでなければ、われわれがここで選挙について論じる意味はないということなのです。被支配の歴史を逆転させて、日本の国家権力にこの沖縄を突きつける。「負の歴史」の復讐と言ったらおかしいけれども、沖縄は天皇に貸しがあるというのはこういうことでもある。                     
 ぼくは、むしろこういう沖縄でありたいと考えているのですが、ここでもう少し具体的な問題について言えば、アメリカの予想されうる直接介入に対して、教育二法の際のような闘いができ、全軍労の労働者が立ち上がり、自治労・官公労あるいはバス・タクシーなど交通港湾労働者などの全組織があげてゼネストにはいる時、むろん、学生や市民や農民もこの闘いに参加してきますが、その時、これが本土にどう波及してゆくか。ぼくはそういった展望を志向したい。
 川満 変革の思想も闘争主体も流れ解散して体制内化した日本の既成左翼は、企業利益の分け前以外のものには何の関心も示さないし、沖縄からは何の衝撃も受けないだろうという、ぼくは、むしろもっと強く、その断絶をこそ前提すべきだと思うね。
 伊礼 沖縄にせよ本土にせよ、こうした形では動かなくて、現在の日本の政治体制下での四等県政、その枠内における改良にとどまるなら、これは思想的・組織的分極化は本格的に発生してくる筈だし、むしろそれを激化させねばならない。選挙の持つ意味、あるいは結果というものを、現在の時点で言えばこういうことなのだと思う。
 いずれにせよ、ここで繰返し出ていることは、憲法の問題にせよ、選挙の問題にせよ、それをそれ自体で完結させるのではなくて、沖縄の人間が持っている内部を止揚するバネとして闘われるのかどうかということだと思うのです。それでなければ、返還だって、かりに条約だか協定だかを締結して、日米首脳間の取引きで、ベトナムの連帯などをつぶす形で出てきた時、それでもいいということになりかねない。だから、こういう形での復帰というものは拒否する、帰らないという運動をやる、やることができる、そういう強靭さを持った「復帰」運動でなければならないというわけです。

沖縄闘争の課題

 ――ところで、施政権の返還は沖縄の作戦基地としての価値を失わせるものという、この一貫したアメリカの意志によって、今日まで沖縄は日本から分割され統治されてきた。それがここへきて、たとえばライシャワー前駐日大使などから、日米安保体制の円滑な継続をはかるためには沖縄問題の早期解決が必要であるという、核ぬき返還の合意を69年中にといった見解が出されてきている。
 核ぬきとか、本土並み→段階的縮小とか、このいろんな返還方式論議については、ここでもすでにはっきりと否定するという形で出ているのですが、かりに施政権を何らかの形で返還させるとして、戦力の配置や装備の変更や作戦行動などの事前協議制で自由使用の手を縛らなければよい、こういう形の返還の動きはかなり実際に進行している。事前協議制をとらない、ないしは骨抜きにする。それから日本政府による治安体制の強化ですね。これは絶対に「返還」と言えるようなものではない、われわれが要求するのは無条件全面返還であるということ、それをもう一歩踏み込んで討論してしめくくりたいと思うんです。つまり、アメリカが要求し、日本政府がそれを保証する、この「作戦基地の機能や価値」を失わせる情勢をつくり出す行動とは何かということですね。基地機能を麻痺させ、基地の維持を困難にさせるまでに追い込むという、反基地闘争の具体的な行動の形態までを含めて、さっきからの抵抗政府を支える力とは何かという論議とも関連して……。
 川満 沖縄問題等懇談会の大浜信泉は、68年中に返還のメドと言い、佐藤・ジョンソン会談以後の例の「両三年」。それから、沖縄本土の「一体化」政策。いまのライシャワー見解。佐藤と琉球政府との間で意思統一がはかられ、取引きが急がれ強められている背後には、明らかに70年を前にして、日米ブルジョアジー間に、何らかの形で沖縄返還の合意を成立させるある種の工作が進められていると見なければならないのじゃないか。
 嶺井 私は、その早期返還可能とかいうライシャワー見解などには、あまり意味を認めないな。
 川満 69年中に返還合意という、そういう彼の予測に、期間的なズレはもちろんあるだろう。しかし、ああいう形で彼の見解が打ち出されてくる一定の根拠、一定の基盤というものは確実にあるわけで、そこには日米支配層の取引き条件の成熱があると見なければならない。
 嶺井 ライシャワー見解が、アメリカ国務省の一部の対日・対アジア政策の一つの反映だとして、反面、国防省あたりでは、やはり沖縄基地の戦略的・軍事的価値を重視して、その意味からも施政権は手離さないという意見が強いわけでしょう。このへんの議論は、われわれは評論家じゃないからおくとしてですね、結局、われわれが判断してゆくのは公式に表明された見解や政策を見てでしょう。その意味から言えば、67年の佐藤・ジョンソン会談以後、返還方式にせよ、時期にせよ、沖縄問題は何ひとつ確認されていない。はっきりしていることは、ベトナム戦争への支持と協力であり、中国の脅威極東緊張に対する日米同盟であり、ドル防衛への協力です。ですから、アメリカに施政権返還の意思がこの時点であるとは考えることができないし、考えてはならないのではないか。
 統治形態の変化ということにしても、私は、やはり返還要求の高まりを何とか処理しなければならないという形でのアメリカの後退と見るし、この問題にしても、いろんな返還方式というものは、すべて現在のアメリカの極東戦略体制上、軍事上に支障がないというものを大前提とした、いろんな試案というか、観測気球の打ち上げなのだと思いますね。かりに沖縄返還が具体的な日程にのぼるにせよ、それは、基地に関しては他の干渉を許さない、基地機能を阻害しないということが大前提になっている。今度の選挙のなかでも、こういう形の返還に対する抵抗の姿勢は確認されています。無条件全面返還であり、基地撤去という要求ですね。このわれわれの要求と、日米政府側から出されてくるあれこれの返還方式とは、どうしたって噛み合うところがない。それ以上の論議というのは、より具体的な選択に迫られた時に、新たな問題としてぶつかればよいと思うのです。そこで、次にこの基地撤去の闘争ということですが……。
 伊礼 その前にちょっと……。アメリカは沖縄を軍事的な側面からだけで手離さないのかどうか。たしかに沖縄は、太平洋のかなめ石(キー・ストーン)だと言われる戦略的に非常に重要な位置を占めている。しかし、純粋に軍事的に見れば、ミサイル兵器の開発や発達で沖縄基地の価値は減少しているとか、ポラリス型原子力潜水艦への重点移行とか、防衛線はグァム島までとか、済州島基地がどうとか、いろいろあるし、かえって返還可能という見方だってできないわけじゃない。現にそういう論議もあるでしょう。
 しかし、帝国主義の軍事基地は、それも沖縄のように長期にわたって固定化されてきたところでは、これは必ず経済的利益の追求に転化してゆくと思うのです。沖縄に駐留することが政治的・軍事的に明らかに不利であるという状況判断があって、しかもなおかつそこに駐留しつづけるということがありうるのだということ、言いかえれば、アジア全域にわたるアメリカの経済的支配の構造という要因を、ぼくらはもっと重視すべきではないかということですね。日本帝国主義との、まだ現在は潜在的かもしれないけれども、やがて深まるだろう矛盾・敵対関係ということをも含めてですね。
 川満 核戦略地図の上での沖縄の位置は、同時にそのまま経済支配地図における沖縄の位置でもあるわけだ。ガルフ、エッソ・スタンダードその他の石油資本による巨額の投資、経済基地の建設も、中継的機能をそなえた対日・対東南アジア基地として理解すべきだろう。
 嶺井 この問題はさらに突っ込んだ議論が必要なのかもしれませんが、いずれにせよ、この施政権と基地という厚い壁とどう闘うのかということについて言えば、私たち沖縄側からは、日本の仲間たちへの要求として、ベトナム反戦の統一行動がやれても沖縄返還要求のストが打てないじゃないかと言ってきたわけですね。本土に向かって、沖縄返還要求のストを打て、と。しかし、ふりかえって、われわれが沖縄で復帰のための断固たるゼネストを打ったことがあるかと言えば、これはさっきも言ったような状態で、ないのです。この沖縄の闘いを、カンパニアやセレモニーではない断固たる闘争に鍛えること、私は、それが施政権と基地の厚い壁を破る力だと思うし、全軍労ストはそういう一歩だと思います。
 伊礼 組織労働者を中心に、教育二法阻止や全軍労ストにおいて示された実力行使の闘争形態を、いかに組んでゆくかということですね。基地に向けての直接行動ということが今後の大きな課題だし、それを妨げる国家権力と対決する「暴力」という原理は当然です。しかし、角材・ヘルメットといった部隊の形成や行動の形態が、沖縄で有効かどうかは具体的な状況によるでしょうね。「一体化」政策のなかで、はっきりと打ち出されている警察力の強化ということとも関わってくる問題だから。
 川満 B52撤去闘争では、基地内集会をというので、機動隊と衝突して重傷者を出している。那覇港では、二度にわたって自衛隊員の上陸を阻止するという行動にも出ている。琉球大学を中心とした学生たちですね。こういう既成の運動形態の枠を破る行動をも、現在の復帰協は表面的には包摂しているというか、本土でのような「挑発者」攻撃は一部にしか出ていないけれども、やはりこういう鋭い、上部組織の規制にとらわれない、戦闘的な直接行動という闘争の突出部分にも、分岐の契機がはらまれている。悪しき大衆路線の克服としてね。

 真栄城 さっきから嶺井氏や伊礼氏は全軍労の闘争を高く評価しているけれど、ぼくは63年に全沖労連を分裂させて県労協をつくって、いまその県労協に巣喰っている幹部たち、全軍労も含めたあのダラ幹どもに何も期待しないね。全軍労ストで言うなら、占領下の日本での東宝争議では米軍の戦車まで出たんじゃないの。20年前ですよ。沖縄のこういう状態のなかに23年間もいてさ、いままで何にもやらなかったことがおかしいんじゃないの。ほめられないね。
 川満 あれはストじゃないよ。布令116号に従って軍に休暇を申請してね、有給休暇ですよ。アメリカも労働者の当然の権利というので認めたでしょう。軍が労働者の権利をいかに尊重しているかというPRとしてもね。
 中里 そんな言い方はないでしょう。
 嶺井 ばかな……。
 伊礼 本土の労働運動の系列下というのかな、総評・同盟の系列指導が持ち込まれるという形で、県労協の国際自由労連加盟問題とか、沖縄の労働運動が日本型化しているということは事実ですよ。いまの組織労働者のヘゲモニーが、反共に近い幹部に握られていることや、官公労だとかの大きな組合と民間の中小組合のギャップや、問題はたくさんある。佐藤訪米の際の1日ストについて、さっき嶺井さんから、超党派的・超階級的「島ぐるみ」の発想が衝かれていたけれど、そのことは、戦列を形成すべき労働運動の部分の弱さの指摘でもあるわけです。労働組合が、いまや国家にとっても企業にとっても無害な取引きの相手として、彼等から席を与えられている。こういう本土の労働運動の退廃が、沖縄的な状況のなかでは、沖縄的に変形されながら再生産されているわけですよ。ぼくらはそれをここで繰返し指摘してきた。
 しかし、23年間やれなかった重圧を、ここに至って、たとえ有給休暇であろうと何だろうと闘ったということを見ないなら、運動の弱点を克服し、それを強めてゆく契機を何に求めるのか。ぼくは全軍労を手放しで評価などしていませんよ。これは特殊な雇用形態ということもあるし、全軍労だけの問題ではないけれども、組合の組織率だってまだまだ低い。幹部の問題だってある。しかし、そうであればこそ、まる1日、あの巨大な米軍基地の機能を半身不髄にさせた闘争の事実は大きい。
 それに、ぼくは、あれを沖縄における戦後意識の一つの転換としてもみるわけだ。戦後の自分にとって、アメリカとは何だったかということですよ。戦後の沖縄の人間にとって、アメリカは、物凄く大きい、重いものだったということですよ。
 川満 沖縄におけるアメリカの支配権力の巨大さを物神化し、不可侵のものと見て、これと闘ったから無条件に評価するというのは一面的ではないかと言っているんだ。権力の側はここまでの闘争ならやらせても差支えないと計算している、その枠内での年休闘争なのだということをはっきり見ておくべきだと言っているんですよ。
 真栄城 戦後23年間……。
 伊礼 時間は関係ない。
 真栄城 キャラウェイ軍政の苛酷さに較べれば、アンガーは寛大ですよ。懲戒処分だって出るまいという、……なぜキャラウェイの時にやれないのか、おとなしかったのか。遅いですよ。
 伊礼 遅くない。
 真栄城 遅い。時間は問題じゃないと言うが、その時間が問題じゃないか。君らだって、ここで沖縄の明治100年とか言ってるじゃないか。明治12年の廃藩置県このかたどうだとか。ぼくは沖縄の人間がもっとしっかりしていたら、もっと早く……ね、全軍労のストだって打てたですよ。
 嶺井 それは違うでしょう。それでは、みんながしっかりしていたら戦争は起こらなかった筈だという論法で、責任の所在をあいまいにしてゆくのと同じ……。
 中里 いや、そういう嶺井さんの言い方だけではまた困る……。
 川満 とにかく戦後かくも長期にわたってだな、異民族支配だ、巨大な米軍権力下だとか、受難の島だとかさ、自らは直接に基地に対する鋭い行動一つ提起せず、もっぱら被害者であることを本土同胞に向かって訴えつづけ、彼らの罪償意識を目覚めさせようとあえない努力を繰返してきた復帰運動なるものがあるわけですよ。それが、全軍労がやったと言えばだ、これまで何故やれなかったか、やろうとしなかったか、そういう問題は一切抜きで、手放しで評価する。真栄城さんの言おうとすることは本当なんだ。
 伊礼 改良的幹部のそういう指導、全軍労の場合だって、しかるべき賃上げの回答が出ればスト撤回、いや年休行使でもいいですよ、年休闘争の中止という、これは幹部にあった。しかし、米軍の許容する枠内だからとか、賃上げ要求だからとか、そういった面からだけ闘いをとらえれば、これは運動に対する全的な不信しかない。そんな言い方をすれば、懲戒処分するより賃金カットした方が、米軍にとってはドル防衛になるからだとか、そういう向きもあろうさ。権力の認める枠内なんて言い方をすれば、テロ以外のすべての行動は容認されているとだって言えるだろうさ。教育二法だって、全軍労だって、向こうの枠、こちらの幹部の描いた枠を下から突き破ってるんだ。

 川満 運動に対する全的不信、ぼくらはまさにそこに立たされているし、それを突きつけてゆく。そうでない限り……。
 中里 そこには基地内の権利闘争にとどまる弱さもあるし、軍労働それ自体という大きな矛盾も抱えていることはたしかですよ。しかし、スト権はもちろん、団交権も、いや、もっと日常的な労働条件ということでも、無権利な状態に彼等を置いてきた布令116号と向かいあって立つということ、これはそこからさらに踏み出す一歩だと思いますね。
 伊礼 牙を抜かれ、体制に吸収されてしまった組織や運動という本土の状況、沖縄における似たような状況、これに対する全体的な不信があって、そこから一直線に、全軍労のあの闘争を、やらないも同然だと言い切ってしまう。それは困ると思うんだ。全軍労は、遅かろうが早かろうが、沖縄のこの状況下で、1日スト、年休行使をやった。なのに、何故本土の全駐労はこれに呼応した半日ストさえ闘えなかったのか、代表「オルグ」を派遣して、それで支援したつもりかという問題を突っ込んでゆくのならわかるが……。
 問題は、現在の沖縄に、たとえば全軍労ストという具体的な闘争をとおして、行動形態までも含めた闘いの可能性を追求すること。闘いの主体的な条件・力量、闘いの担い手はどこにあるのかを追求することでしょう。全軍労のストに象徴されるこの闘争がより目的化された時に、沖縄における闘いの展望をひらきうるだろうということです。
 川満 評価してはまた裏切られるよ。よそうじゃないか、もう。
 伊礼 評価、評価って、文学作品を評価してるんじゃないんだ。
 中里 23年間やれなかったじゃないかと言う。だけど、一人の人間が考えを変え、しかも何かの行動に参加するということは簡単なことじゃない。個人だって、運動だって、権力の強制や懐柔につけいられる弱い部分をいっぱい抱え込んできているわけですよ。20年以上、アメリカの基地があるから働き、暮してきた。依存してきた。それがストまできた。ストに参加したのは、組合員以外でも数千人になるのでしょう。自分たちが依存してきた強大な軍権力に立ち向かって、焼酎をのみながらでも、軍歌をうたいながらでも、一歩出たわけですよ。
 さっきも話したけれど、基地に慣れる、慣らされるということが日常的に滲みわたっている。ぼくには一種の妄想癖というか、最も幸福な時間に最悪の不幸な情景を想像する悪い癖があって、泳ぎに行ってですね。岩の蔭に坐って海を眺めている時に、いまなら、もし核爆発があっても俺は生き残れるだろう、と。巨大な岩の蔭に体を寄せていてですね。だけど、こういう恐怖感は、やっぱり日常の人びとの生活の中で稀薄だし、実際、不感症にならねばどうにもならない。慣れてゆくことが慣らされてゆくことなのですね。ぼくは、だからこの慣れを破ったということで、全軍労の闘争を強調したいと思いますし、そこから展望というものを見たいと思いますね。
 伊礼 闘いの展望はひらけもするし、閉ざされもするでしょう。全軍労の闘争は、中里さんが言った「アメリカ世」では考えられなかったことだったのだから、この闘争に参加した労働者の一人ひとりの意識に関わって言えば、50年代とぼくが表現してきた一つの時代の終焉として、アメリカの時代は終わったというものとして、これが認識されてゆくだろうと思う。そして、この終焉は、同時に70年を前にした始まりでもある。沖縄が日本に復帰するということが、日米支配層の取引きの舞台の上での日程表にのぼり、日本の国家権力のさらに強化されてゆく過程のなかに収斂されるものであってはならない。そうではなくて、われわれがここで問題にしてきた、本土それ自身が変わる、そういう歴史のダイナミズムのなかでこそ沖縄が本土に自らの力で帰るのであるという、同時的・連続的な真の復帰の実現を闘いとる認識ですね。それの始まりでもある。始まりにしなければならない。そう思います。
 ――結びにしましょう。健闘を祈ります。

(三一書房1968年11月25日)

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