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沖縄の人びとの歩み ――戦世イクサユから占領下のくらしと抵抗 森宣雄・鳥山淳編著『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか−沖縄が目指す〈あま世ユー〉への道』(不二出版2013) 国場幸太郎 著者 国場幸太郎 略歴 1 世界大恐慌下のとある家族 2 軍国主義下の少年たち 3 敗戦のなかの高校生とその家族 4 占領下日本のなかの沖縄の人びと 5 アメリカ軍政下の沖縄へ |
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著者 国場幸太郎 略歴 1927年に那覇市で生まれる。戦後沖縄を代表する財界人の國場組創業者、國場幸太郎とは同じ門中の親戚。39年に沖縄県立第二中学校(現、那覇高校)に入学。44年に熊本の第五高等学校理科に入学。49年に東京大学経済学部に入学。沖縄の日本復帰運動にとりくみ琉球契約学生会長に就任。在学中の52年春に沖縄に一時帰省し沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長に出会い、帰京後、日本共産党に入党。53年に卒業し沖縄に帰郷、人民党に入党し中央委員となり、また地下組織の日本共産党沖縄県委員会の書記として実務責任者となる。 1954年の人民党弾圧事件で瀬長書記長が投獄され、人民党が機能停止になるなか、米軍の武力土地接収にたいする農民の抵抗運動を支える支援体制と、革新勢力の超党派の連携を隠密活動によってつくりあげ、米軍に知られることなく56年の「島ぐるみの土地闘争」を準備した。 1957年に瀬長書記長の那覇市長就任とともに那覇市の首里支所長に就任。59年に人民党内の路線対立で党から追放され、翌年に東京に転居。現代沖縄研究を開始し、「沖縄とアメリカ帝国主義」『経済評論』62年1月号、「沖縄の復帰運動と革新政党」『思想』62年2月号などを発表。戦後沖縄の政治経済研究に大きな影響をあたえる。73年に青少年むけ沖縄史概説書『沖縄の歩み』(牧書店)を公刊。 64年に宮崎県に転居し、県立高校で教員を87年の定年まで勤めあげ、その後、都城高専で常勤・非常勤の講師をつとめ、71歳で教職から引退した。 定年後の主な論著に「現代世界史の中の沖縄」『現代思想』2000年6月号、「沖縄の1950年代と現状」『情況』2000年8・9月合併号、共著『沖縄を深く知る事典』日外アソシエーツ、2003年、共編『戦後初期沖縄解放運動資料集』全3巻、不二出版、2004−05年。 2008年8月23日、都城市で死去。享年81。 |
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1 世界大恐慌下のとある家族 1927年(昭和2年)1月に、私は沖縄の那覇市で生まれた。昭和金融恐慌が勃発した年である。この年の3月、日本では銀行取り付け騒ぎが国中に広がって、銀行の休業や閉店が相次いだ。休業した銀行は45行に上り、倒産した銀行は34行に及んだという。 2年後の1929年には、アメリカ・ニューヨーク株式市場での株価大暴落に端を発した大恐慌が瞬く間に世界中に広がり、その影響下で日本の不況は一段と深刻になった。 この時期、沖縄では、第1次大戦(1914〜17年)後の一時的な好景気の下で投機ブームの波に乗って事業を拡大した砂糖商や銀行が、大不況の到来とともに軒並み経営破綻に陥り、砂糖の価格は大暴露した。そのため、砂糖きび栽培で現金収入を得ている農村は「ソテツ地獄」と呼ばれる窮迫状態に追い込まれた。農家の人たちは、米はもちろん、芋さえも主食としては口にすることができず、中毒で命を落とす危険を冒してソテツの実や幹を食べていたと伝えられている。そのように窮迫した農村から、男も女も群れをなして、ある者は南米や東南アジアへ海外移民として送り出され、ある者は関西と関東の工業地帯に低賃金の出稼ぎ労働者として流れて行った。 そういう恐慌下の沖縄で私は幼年時代を過ごした。もちろん、当時の幼い私にその意味が分かるわけはない。今になって考えると、鮮烈に蘇る幼い頃の思い出には昭和恐慌影がの色濃くつきまとっている。 雨の日とランドセル 1932年、5歳のとき、那覇尋常小学校に併設された幼稚園に入園して間もないある日のことである。昼前、午前だけしかない日課を終えて帰ろうとすると、外は土砂降りの雨になっていた。廊下の出入り口は雨具を持って迎えに来た人たちで混んでいて、園児たちはその人たちに連れ添われて次々と帰って行く。迎えがないのは私だけである。私は雨の中をずぶ濡れになり、泣きじゃくりながら帰った。その翌日から私は幼稚園に行かないことにした。今の言葉で言えば、登校拒否か不登校ということになろうか。 それから数日後、幼稚園の女性の先生が二人、私の家に訪ねて来た。外で遊びまわっていたのを呼ばれて母の側に座らされた私に、先生は優しく輸すように話した。 「幸太郎さん、幼稚園は字を教えないからいやだってね。お母さんから聞きましたよ。小学校に上がったら字を習うから、それから学校に来なさいね」 あの雨の日のできごとで、幼稚園は自分の行くところではない、と私は違和感を持つようになっていた。しかし、本音は誰にも言わなかった。今とちがって、当時の幼稚園は数も少なく、比較的裕福な家庭の子どもでなければ行かなかった。私の家には子どもを幼稚園に入れるほどの経済的余裕はなかったはずである。 物心ついてから知ったのだが、私が生まれる数年前まで、父は沖縄本島北部の中心都市名護一帯で雑貨の卸商を営んでいた。その傍ら、那覇と名護の間をゴムの車輪がついた乗合馬車で客を運ぶ運輸業にも手を広げていた。それが1923年、新垣バスというバス会社が設立され、那覇・名護間で沖縄最初のバス運行を始めたために、父の経営する乗合馬車は廃業に追い込まれた。父は大きな損失をこうむった。たまたま関東大震災のあった年のことで、1920年の株価暴落に始まる恐慌が進行しているさなかであった。資金繰りができなくなって、父は経営する商店もたたんで、失意の状態で生まれ故郷の那覇に舞い戻って来た。 その後、那覇で暮らすようになった私の一家は借家を転々と移り住んでいた。記憶しているだけでも、私が3歳の頃から小学校を卒業するまでのおよそ10年間に、那覇尋常高等小学校の校区である久米町と若狭町の二町内で、9回も引っ越しをしている。生活が如何に不安定であったかを示すものであろう。その間、私が小学校3年の頃まで父には定職がなく、行き当たりばったりに、臨時の仕事を探し回り、母ははた織りの内職などをして、暮らしの足しにしていた。そういう家庭の子である私が幼稚園に入園したのは、一番上の姉の気持ちを両親が思いやった結果ではないか、と私は推測している。 私が幼稚園に入園する前、一番上の姉は小学校5年生であった。母がその姉を質屋に使いにやったことがある。着物を質草に金を借りるためである。私も姉について行った。以前に何度も母の後について行き、その都度質屋の主人から水飴や菓子をもらうのが常だったから、そのときも喜んで姉の後について行った。 その帰りである。当時は那覇で唯一のデパートであった山形屋百貨店に立ち寄った。そこで姉は、私がねだったわけでもないのに、幼稚園生用の小さなランドセルを買ってくれた。本皮の製品だったからいい値がしたと思う。 家に帰って、姉は母にひどく叱られた。生計の足しにするために質屋から借りた金である。それを幼稚園に行かせるかどうかも決めてない弟の入園準備に使ったのだから、母が困惑したとしても無理はない。 しかし、両親も姉の弟に対する思いやりに心を動かされたのであろう。私を幼稚園に入れてくれた。その結末は先に見た通りである。この幼稚園の一件を姉はどう考えていたか、生前に聞く機会はなかった。姉は沖縄戦で戦死して、今は亡い。姉の戦死については、後に触れたいと思う。 肩をよせあう暮らし 話は変って、小学校一年生のとき、昼前に下校する私を母が迎えに来たことがある。 「今日や家に戻らんてい、公園かい行かやあ」 (今日は家に戻らないで、公園に行こうね) そう言う母に連れられて公園に行き、母が持参した手弁当で昼食をすませた。それからお宮参りをしたり、木陰に休んだりして適当に時間を過ごした後、家に帰った。成長してから分かったのだが、その日は家にある金目になるものが借金のかたに差し押さえられるとあって、母はその現場を幼い私に見せたくなかったのであろう。 その頃から3年ほどというもの、家計は苦しくなるばかりであった。父には今でいうアルバイトのような臨時の仕事さえなく、母が行商で病院の病棟を訪ねて回り、入院患者の家族に醤油などの食糧品を量り売りして得た金で一家が食いつないでいた。当時は、現在のように入院患者の食事まで面倒をみる完全看護の病院はほとんどなく、家族が病室に寝泊まりして病人の食事の世話をするのが普通であった。母はそういう病室を個別に訪ねて商いをしていたのである。 しかし、元手を差し引いて上がる小売りの利益は知れたもので、売り上げが少ないときは、家族の食費にも事欠くことさえあった。家に金が全く無くて、女学校に通う姉のバス代も無い朝など、夜明けとともに起こされた私は、醤油瓶などを入れた大きな四角い竹籠を頭に載せて小走りで急ぐ母の後について行き、一緒に病棟を回った。そして、売り上げの金がいくらか溜まったところで、それを持って飛んで帰り、バス代として姉に手渡したものである。 時には夕食をこしらえる金がなく、窮余の一策で、ふたつきのどんぶりに入った沖縄そばを家族の頭数だけ出前してもらったことがある。代金は掛けである。その翌日から数日間、そばを自転車で出前した頑丈そうな若い男が毎日のように私の家を訪れ、近所の家々にも聞こえよがしに大声を荒げて代金を請求していた。 食費さえ事欠きがちであったから、それ以外の生活費については、なおさらである。電気料は滞納して、送電を停止され、夜はガラス製の石油ランプの灯りが一家の唯一の明かりであった。翌日、すすけた火屋(ランプの灯を包むガラス製の筒)の内側を古新聞紙で拭き取る掃除は私の役目だった。また、炊事に欠かせない薪を買えないこともしばしばあって、そんな時は大工が材木を削って出すカンナくずを拾い集めてかまどで燃やしていた。水だけは、井戸を使っていたので、不自由しなかった。 生活が困っているのに父が昼間から家にくすぶっているのを見るのは、子ども心にも面白くなく、反発心を起こさせた。ある日、黙って刻み煙草をキセルでふかせている父を 「お母さんびけぇ働かち、どうや何むさん」 (お母さんだけ働かせて、自分は何もしない) となじって、激怒させたことがある。ぶん殴られそうなのを避けて、私は外へ跳び出し、薄暗くなってから家に帰った。 父の怒りは鎮まっていた。帰宅した母は父から話のいきさつを聞いていて、そんなことを言うものではない、と私をたしなめた。 一家の生活がその日暮らしからようやく脱け出したのは、私が小学校4年生の時、1936年の頃からである。父は弁護士の依頼を受けて、裁判所で法廷の記録を複写する仕事を始めた。当時はコピー機などというものはなく、裁判記録はごく薄の和紙とカーボン紙を交互に数枚重ねて、鉄製やガラス製の硬筆で複写したものである。幸いとでも言おうか、父は書画の才能に恵まれていて、字を書くのが上手で速かった。その才能を生かすことで食い扶持を得る道を見出したわけである。 それから1、2年するうちに、父は訴訟事務の知識を身につけて、後に代議士にもなった仲井間宗一弁護士の法律事務所の実務担当者に迎えられた。父が定収入を得ることになり、一家の生活はようやく安定に向かった。 と言っても、貧乏人の子宝で、私が小学校6年になる頃までには弟が3人生まれており、3人の姉と両親を合わせた9人家族の暮しは楽ではなかった。父は私に、小学校を卒業したら商業学校に進み、銀行にでも勤めるようにするといい、と言っていた。小学校5年までの私の成績は「並」であったので、私もそのつもりでいた。ところが6年生になって、少しは落ち着いて勉強するようになったせいか、急に成績が良くなりだした。国語は、それまでの蓄積がないため、それほどでもなかったが、算数(数学)の成績はトップに躍り出た。それでも私は商業学校に行くことしか考えていなかった。 そんな状況の下で進学の志望校を最終的に決める段階になったある日、学級担任の先生が前触れなしに私の家に訪れた。先生は宮良英副と言い、八重山の出身であったが、師範学校を卒業して数年にしかならない若い活発な人であった。向学心にも燃えていて、後に東京物理学校(現東京理科大学)に入学し、戦後は高校で数学の教師をしていた。その先生の来訪の目的は、私を中学校に進学させるように、両親を説得するためであった。 「中学校を出てから上級学校へ進学するか、就職するかは、そのとき考えればよいでしょう。仮に就職する場合、商業学校出より有利にならないにしても、不利になることもありません」 そういう先生の話に反対する理由はなかった。両親は、むしろ、私の成績が良くなったことを直接先生から聞いて、内心喜んだと思う。私は沖縄県立第二中学校(現那覇高校)に進むことになった。 昭和恐慌の大波をもろにかぶった幼年時代を振り返ってみると、よくまあ貧乏な暮しに打ちひしがれず、いじけもしなかったものだと思う。私の家庭と同じ境遇か、それに近い境遇の家庭が、周りに少なくなかったためであろうか。 2 軍国主義下の少年たち 私が中学に入学したのは1939年4月で、日中戦争が始まって2年近くたっていた。さかのぼってみると、1931年、中国北部(満州を武力占領する目的で、そこに駐留する日本軍(関東軍)が満州事変を引き起こし、中国に対する侵略戦争を始めている。ついで翌1932年、実質は日本の植民地である傀儡国家満州国が建国され、それに三井、三菱の大財閥が巨額の融資を始めている。このようにして日本の軍部と財閥が手を結んで始めた中国侵略は、1937年の廬溝橋事件を契機に、中国全土に広がった。日本の軍部と財閥は、昭和恐慌から脱け出す道を中国に対する侵略戦争に求めたのである。そして、天皇制フとァシズムの嵐が吹き荒れる中で、日本国内は日増しに軍国主義一色に染められていった。1938年には「国家総動員法」が公布され、国を挙げて戦争を遂行するために、国民生活はすみずみまで国家権力によって統制されることになった。 沖縄の軍国主義経験――グラー先生 そのさなかに中学校に入学した私たちの学年からは、制服がカーキー色の軍服のようなものになり、制帽もカーキー色の軍帽のようなものになった。その色は国防色と呼ばれ、布地はステーブルファイバー(スフ)というよれよれの化学繊維だった。 それまでの沖縄二中の制服は、夏は白、冬は黒の学生服だった。布地は厚地の木綿でしゃきっとしていた。足には夏冬通して白のゲートルを巻いていた。帽子は2本の白線を巻いた黒の学生帽で、夏には白の日除けをつけていた。海軍士官の服装と旧制高校の帽子を模した、言ってみればネービースタイルと旧制高校スタイルの混合というところか。 それが陸軍の軍服、軍帽スタイルになったのである。私たち新入生がそれを嫌ったのは言うまでもない。後に第二次大戦末期には、物資不足の折りから、各自の家にある古着や布地で白や黒の服を作っていいということになり、黒の学生帽も被ってよいことになった。これさいわいと、上級生になっていた私たちは我先に、夏は白、冬は黒の学生服を作り、帽子も黒の学生帽に取り替えた。当時の学友たちの写真を見ると、大半が黒の学生帽をかぶって写っている。 当時、中学以上の学校と大学では基本的な軍事訓練である教練の授業が正課として義務づけられていた。各学校、大学には現役の陸軍将校が配属され、その下に二人ないし三人の退役将校や退役下士官がいて、教練の授業を分担していた。沖縄二中の場合、配属将校はきまって本土出身者で、補助役の退役将校と退役下士官は、教練の授業を分担していた。沖縄二中の場合、配属将校はきまって本土出身者で補助役の退役将校と退役下士官は沖縄出身者だった。その中の一人に大城有先生という名物の退役将校がいた。1904・5年の日露戦争に日本兵士として出征し、沖縄から徴兵された兵士としては始めて外国との戦争に参加した経歴の持ち主の一人だった。 沖縄に徴兵令が適用されて、沖縄の若者が日本の軍隊に入隊するようになったのは、日本内地より遅れること25年、1898年からである。だから1984・5年の日清戦争に沖縄から徴兵の兵士として参戦した者はいない。 もっとも志願して日本の軍人になり、日清戦争に参加した例外はある。日清戦争より4年前の1890年、沖縄から10人ほどの若者が日本陸軍の下士官養成機関である「陸軍教導団」に志願入団して、職業軍人になった。その動機は、沖縄に対する差別扱いから脱け出し、日本国民として認められるには、軍人になることが早道と考えてのことであった。と言われている。その中の一人屋部憲通(1866〜1937)は日清・日露の両戦争に従軍し中尉にまで昇進して退役したが、私が子どもの頃も「屋部軍曹」の名でよく知られていた。 日清戦争当時の沖縄の人たちは、親日派の開化党と親清国派の頑固党とに分かれて対立し、抗争に明け暮れていたほどであるから、日本の軍隊に志願入隊した屋部憲通らは異端者あつかいされ、轟々たる非難を浴びせられたという。 そのような環境で育った屋部憲通の息子屋部憲伝は職業軍人である父に反発して、キリスト教に入信した。そして徴兵適齢の20歳のとき、神学研究各目でハワイへ出国し、徴兵を拒否した。その後アメリカ本国へ渡って、社会主義思想に近づき、後にゾルゲ事件に連座して獄死した沖縄出身の画家宮城与徳らと社会問題研究会を組織するなど、左翼の社会運動にたずさわっていた。息子の憲伝にとって父憲通りは反面教師であったのである。 さて、日清戦争で清国が敗れ、日本が勝利した結果、沖縄では清国派の影響力が弱くなり、日本政府の同化政策を進んで受け入れる風潮が強くなっていった。そこで日本政府は沖縄にも徴兵制度を施行し、沖縄の若者を兵士に採ることになったのである。 しかしここにいたっても、沖縄の若者すべてが進んで徴兵に応じたわけではない。中には徴兵を免れるために清国へ脱出を図って逮捕された若者たちもおれば、銃の引き金を引く指を自分で切り落として徴兵を忌避した若者たちもいる。多くは時勢に逆らえないものと諦めて徴兵に応じたと思われるが、日本の兵土なることに希望を託した若者も少数ながらいた。若い頃の大城先生はその数少ない若者の一人であったに違いない。 沖縄二中の教官になった大城先生の教練では、不動の姿勢と行進の歩調を最も大切な基本動作として、繰り返し繰り返し生徒たちに練習させ、自分でも、何度も何度も模範を示して見せた。それでも基本動作がうまくできない生徒がいると、その生徒の両頬から首のあたりを両手で挟むようにつかんで横に振り回し、地べたに腹ばいにさせた。もっともこの振り回しの体罰は、体が大きくなった上級生になってからはなかったが、下級生の頃、特に一年生の頃は生徒たちから恐れられていた。 そういう厳しい大城先生も、教練の合間には、口癖の「何ごともやればできる」という説教のついでに、自分の生い立ちや軍隊生活での体験を生徒たちに話して聞かせた。 先生は「グラー」とあだ名されていた。農家の五男として生まれ、五郎という幼名に由来すると言われていたが、真偽のほどは明らかでない。グラー少年は、他府県人から沖縄人といって馬鹿にされないためには、自分たちが先ずしっかりしなければならない、と日頃考えていた。 そんなある日の真昼間、友だちの一人が塀の隙間から一物を出して道行く人に悪ふざけをしていたので、グラー少年は「こんなことをするから、他府県人に馬鹿にされるんだ」と、その一物をピシャッと平手打ちにしてやったという。大城先生の得意な思い出話の一つだった。 長じて熊本の歩兵連隊に入隊したグラー青年は同僚たちの沖縄に対する偏見にも歯を食いしばって耐え抜き、人一倍軍務に励んだ。その甲斐あって、二等兵から一等兵、上等兵へと階級は順調に昇進し、3年間の兵役義務を終えた後も軍隊に残ることを希望して職業軍人になる道を選んだ。やがて下士官に昇進し、日露戦争のときには分隊長として出征した。戦場では、夜陰に乗じて敵陣を急襲し、大きな戦果を挙げたことなど、手柄話を大城先生は教練の時間によく話して聞かせたものである。 日露戦争に勝利して熊本に帰還して後も、グラー青年は軍務に精出し、ついには准尉に昇進して、将校の最下位ながら、士官の仲間入りをした。「わしに学歴があったら、もっと昇進できたんだがニイ」と、大城先生はいくらか無念そうに生徒たちに話していた。当時の陸軍の階級制度は学歴と結びついていて、小学校卒が昇進できるのは准尉までと決まっていた。少尉以上の士官になるには旧制中学校以上の学歴が必要であった。さらに佐官や将官となると、軍医や技術将校などを除いて、陸軍士官学校卒や陸軍大学校卒に限られていた。日本の軍隊内部は典型的な学歴社会であったと言える。 小学校卒にとって最高位である准尉にまで昇り詰めたグラー青年は、その間に結婚して家庭を持った。相手である夫人は他府県人である上官の娘である。生徒たちにその話をして聞かせるときの大城先生は、いつもの鋭い眼光を和らげ、伏し目がちになり、「それは嬉しかったニイ」と、若い頃の思い出をかみしめて懐かしむ風であった。 退役した大城准尉は家族と一緒に錦を飾って帰郷し、沖縄二中の教練教師に迎えられた。時はたまたま満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと戦火が拡大し、日本国内の軍国主義化が勢いをましている時代である。大城先生が生徒たちを忠君愛国の軍国少年に育て上げるのに情熱を燃やしたことは言うまでもない。 話はとぶが、沖縄戦のとき、大城先生は生徒たちと一緒に出陣して、戦死したという。しかし、その最後の模様はつまびらかでない。それはともあれ、大城先生の生涯は、差別と偏見から逃れたい一心で日本政府の皇民化教育を受け入れてきた近代沖縄の悲劇的な結末を象徴的に物語っている。 思いがけない「反抗の噴出」 話を元に戻して、戦局が逼迫してきた1943年、私たちが中学5年に進級した年、野球、排球(バレー)、籠球(バスケット)庭球(テニス)は敵性スポーツとして競技大会が禁止され、学校での部活動も廃止された。残されたのは陸上競技、国防競技、柔道、剣道、相撲、銃剣術という戦争遂行の国策に役立つ競技だけ。その残された競技会でも、リーダー旗を振っての応援は禁止され、応援団の結成も禁止された。それまでは、中学最上級の5年生になると、各人一枚ずつ応援リーダー旗を自前で作る習わしになっていた。しかし私たちの場合は、それを染め物店に注文してでき上がったところを学校側に差し押さえられ、卒業までは学校預かりにすると一方的、強権的に没収されてしまった。 こういう統制の強化は、人的資材も物的資材もすべて戦争のために動員するという国策から出たものである。これに対して、中学の最上級生になったばかりの私たちのあいだでは、やり場のない憤懣が鬱積していた。それが思いがけない時に、思いがけない形で噴き出したことが二度ある。 一度目は5月、那覇で最も大きな祭である波之上祭の宵祭の晩に、友人の一人が首里市にあった第一中学校の生徒に拳固をくらわせた、というちょっとしたいさかいがきっかけで起った。対抗意識のある中学生同士の些細な喧嘩に過ぎないのに、その友人は事実上の退学に等しい無期停学の処分を受けて、東京の中学校に転校しなければならなくなった。その他に、喧嘩の現場に一緒にいたというだけの理由で数人の友人が停学処分になった。それというのも、当時は生徒の校外での生活を全体主義的に統制する目的で全中学校の教師全員からなる教護連盟というのがあって、事件がこの教護連盟で問題にされるおそれがあったからだと言われていた。このような学校側の処分に対して、私たち5年生は猛反発した。 戦時下の学校では、沖縄二中にかぎらずどこでも毎朝、全校朝礼という生徒と教師全員の集会があった。その指揮は、二中では、教練と体育の教師が週番でとっていた。指揮台に立った週番の教師は、校長の型通りの訓示があった後、学校内外での生活上の規律について説教する習わしであった。波之上祭の宵祭の一件についても、校長や週番の教師が「戦時下の非常事態を心得ないあるまじき行為」などといった調子で説教を垂れたものである。 しかしこういう説教は、若いエネルギーの発散を全体主義・軍国主義の統制で抑圧された少年たちの反抗心をかき立てる効果しかなかった。朝礼がすみ、隊列を組んで真っ先に校舎に入った私たち5年生は、校庭に立っている教師の目から姿が見えなくなるや否や、指揮台に立っている週番の教師のあだ名を大声で叫びながら二階の教室に上がって行った。「グラー」とか、「アモー」とか、遠吠えのような怒鳴り声は教師たちの姿が校庭からすっかり消えるまで止まらない。それがひと月ほど続いたであろうか。生徒たちのあからさまな反抗に、教師たちはなす術がなかった。 さてこの頃、目を戦局に転じてみると、日本の敗色は日増しに濃くなり、アメリカ軍は太平洋の島々に陣取っている日本軍を次々と全滅(玉砕と言っていた)させながら進撃して、日本本土に迫りつつあった。そのアメリカ軍を迎え撃つために、沖縄本島ではこの年の秋から北(読谷)、中(嘉手納)、南(浦添)の三つの陸軍飛行場建設が始まった。そして私たち二中の5年生も3クラス約150名全員が数日間の泊まり込みで北飛行場の建設作業に動員された。二度目の事件はその建設作業最終日の晩に起きた。 私たちは、日中は軍人の監督下にモッコで重い土を運ぶ作業にこき使われ、夜は飛行場一角にある小学校校舎の教室に宿泊させられた。食事は戦争末期の食糧難を反映して粗末極まりなく、お汁はダシも実もない塩汁のようなものだった。この動員中に起った出来事について、50年後の1993年に刊行された同期会文集で、学友の一人大城判君は次のように書いている。 「モッコをかついで苦しい作業が続いた。勿論先生方も一緒だったが、食事は別だった。そんな或る日、先生方はヒージャー会(山洋料理の宴会)をやっているとの情報がはいり、僕達丙組の生徒全員が就寝時間になってもどんちゃん騒ぎをやらかした。(中略)翌日学校へ行ったら、朝の授業が始まる前、丙組全員が職員室に呼ばれ、校長先生からたっぷり油をしぼられた。」 騒ぎのあった最終日、たまたま私は炊事当番をしていて、事の成り行きを一部始終見ていた。炊事当番は、日替わりで各クラス2名ずつ出ていて、食前に賄いの婦人たちが炊いたご飯を四角い木製の食器によそい、お汁をこれも木製の椀に注いで配膳し、食後は食器を洗って片づけるのが仕事だった。それだけのことだが、予想以上に時間のかかる仕事だった。というのも炊事場に水道がなく、食器を洗うには、坂道を下って、涌き水の出る泉まで行かなくてはならなかったからである。最終日の夕食後、食器のかたづけが済んだ時は日がとっぷり暮れて、あたりは暗闇に包まれていた。 炊事場から生徒たちの宿舎である教室へ行く途中に先生たちの詰め所である職員室があった。明るいランプが灯っていて、先生たちが陸軍の関係者から酒肴のもてなしを受けている宴会の様子が窓のガラス越しに丸見えである。炊事当番の生徒たちはそれを横目で見ながら宿舎の教室に戻った。生徒たちは、教室の三方の壁に沿ってコの字型に急ごしらえした二段ベッドに横になって、日中の作業で疲れた体を休めていたが、まだ寝付いてはいなかった。そこへ帰ってきた炊事当番の生徒たちは今しがた目にした宴会の様子を話した。私も見たままをさりげなく話した。 予想もしなかったが、それが生徒たちの鬱憤を爆発させる火種になり、教室中が騒然となった。騒ぎは枯れ草に火が点いたように燃え広がった。 「けしからん、見に行こう」 「そうだ、夜襲をかけろ」 口々に叫びながら一部の生徒たちがベッドから跳ね起きて、外の暗闇に跳び出し、教師たちが宴会をしている職員室の窓のあたりに群がった。そして 「何をしているのだ!」 「出て来い!」 などと囃し立てている。教師たちはたまりかねて、みんな外に出てきた。すると生徒たちは素早く教室に引き揚げて、天上から釣り下げた石油ランプを消し、暗闇の中でコの字型の二段ベッドに立てこもった。教師たちが教室に入ってくるなり、その名前やあだ名を呼び捨てにして 「さあさあ、いらっしゃい、誰でもいらっしゃい!」 などと生徒たちは囃し立てている。 しばらく続いたこの騒ぎは、教師の一人がマッチを擦って石油ランプを灯したとき、生徒の一人が「なんだ代用か」を投げつけた言葉から状況が一変した。 「代用」とは文部省教員試験を受けて中学校教論の資格を取った人のことである。当時は、中学から高等師範学校または大学を経て中学校教師になるとは限らず、学費が公費で賄われる師範学校へ進んで小学校教師になった後、文部省の試験を受けて中学校教師の資格を取った人が少なくなかった。特に地方の裕福でない家庭の子弟にそういう人が多かった。私が小学校6年のときの担任であった宮良英副先生もその一人だった。そういう経歴の中学校教師には学究的な人材が多く、戦後は大学教授になった人も何人かいる。 それほどの人が「代用」呼ばわりされては、傷つけられたプライドが許さなかったであろう。 「代用と言ったのは誰だ。出て来い!」 石油ランプを灯し終えたばかりの、引率教師の中では比較的若い教師が怒鳴った。その勢いに押されて、生徒たちは水を打ったようにしゅんと静まり返った。ランプのほの明りに照らされた教室には10人近い引率の教師たちが立っている。 「みんな寝床から出て、ここに座れ」 と教師の命ずるまま、生徒たちはベッドから這い出して板の床に座った。 「さっき、代用と言ったのは誰か、立て」 と先程の教師から言われて、生徒の一人が首をうな垂れて立った。その教師は「正直に申し出たのはよろしい」と、この件についてはそれ以上追及せず、「戦局が厳しい非常時に、しかも陸軍の飛行場建設の現場で騒動するとは何事だ」と、生徒たちみんなを叱った。「こうだから沖縄人は非国民と言われるのだ」と言い、沖縄が差別され、偏見で見られてきたのも、沖縄人に日本国民としての自覚が足りないからだ、と常日頃よく聞かされている説教が長々と続いた。 最後に、その教師は「私は君たちのような生徒をこれ以上教える気になれない。私はこの学校を辞める」と熱っぽく話を締めくくった。アルコールが入っているせいもあったと思う。生徒の前に立っている年輩の教師2、3人からも「僕も辞める」、「私も辞める」という声が上がった。軍服に身を包んだグラー大城先生は沈うつそうに目を伏せ、口を固く結んで黙したままである。説教がすんで、その場はそれで収まった。 翌日、私たちは帰途につき、道々、昨夜のことに関して生徒の処分があるだろうか、先生たちは本当に辞めるだろうか、などとささやき合った。しかし、帰校して数日経っても何の音沙汰もない。クラスによっては、先に引用したように「校長先生からたっぷり油をしぼられた」という話もあるが、私のクラスではそんなこともなかった。学級担任によって対処の仕方が異なっていたようである。 うがった見方かも知れないが、生徒たちの「反乱」事件が表沙汰になっては学校側にとっても、陸軍関係者にとっても、都合が悪かったに違いない。軍国主義の統制下では、戦争遂行という国策上不利になる情報は「機密事項」としてひた隠しにするのが通例だった。そして、隠された事件の処理の仕方は陰湿になりがちだった。 暗い時代のなかのいたわり 生徒たちの二度にわたる自然発生的な「反抗」と「反乱」について、学校側は、廃止された野球部、籠球部、排球府、庭球部などの運動部員だった生徒仲間が中心になっている、とにらんでいた。庭球部員だった私はその中でも主謀格の一人と見られていたらしい。それには私が教師たちにそういう心証を抱かせた一面もある。というのは、こうである。 前に触れた5月の波之上祭の当日は、昼間、例祭の奉納行事として県下中学校対抗の相撲大会がお宮の外苑広場であった。那覇市周辺の中学校と商業、工業、水産、師範の各学校では、全校生徒が観戦して、応援する習わしになっていたが、前年までは、生徒が麦藁帽子のようなつばの広い経木の夏帽子に下駄履き姿で観戦しても容認されていた。ところが、私たちが五年生になった年には制服制帽にゲートルを巻いた靴履きで相撲大会を観戦するように、学校が指示した。私はそれを建前としてのことだろうと軽く考えて、ゲートルも巻かず、夏帽子に下駄履きで波之上の外苑広場に行って観戦した。 相撲は私たち二中が優勝し、大会終了後、全校生徒が広場に整列させられて、校長と生徒代表が選手たちの健闘と優勝をたたえる挨拶があった。前年までのように、五年生の主導で応援歌を歌うこともない。私は教師たち全員が並んでいる前に出て行き、生徒全員に向かって 「優勝したのだから、喜びを??????????????」 と提案し、みんなで歌った。とっさのことだったせいか、教師たちも私の提案を黙認して、私に対しては何のお叱りも注意もなかった。しかし、この一件は一部の教師、特に体育と教練の教師たちに、何かにつけて私が「扇動者」であると思い込ませる原因になったようである。そのことは、後に学級担任の先生の話で分かった。 中学5年のときの学級担任は、国語の世礼国男先生で、沖縄では詩人としても琉球音楽研究者としても、名が通った方だった。夏休みの家庭訪問の際、先生は、私の一般教科の成績はトップレベルだが、教練と体育の成績が悪くて気の毒だ。という意味のことを私の両親に話して下さったそうである。 もともと旧制中学の成績通知表は百点評価法で記載され、席次も何人中の何番と明記されていた。それがどういう国策上都合からか、私たちが五年のときに、通知票には各教科の成績が優、良、可、不可で記載され、席次も何人中の上、中、下と記されるようになった。それで教練と体育が何点とつけられているか分からないけれども、悪い点数を頂戴していたというわけである。 それより以前、私の教練と体育の成績は上位の方だった。3年生になってからは、学年での席次も上位を維持し、4年のときは副級長を仰せつかっていた。同じクラスの級長は故人になったが、東大仏文科を中退して文学座に入り、戦後日本の演劇界でよく知られるようになった早野寿郎君である。早野君は入学以来首席を保ち続けた秀才であったが、4年生になって間もなく、父親の転勤で関東の中学校に転校した。その結果、代わって私は級長になり、教師たちの覚えも悪くはなかった。それに私は入学以来庭球部員で、3年のときから選手として対外試合に出ていた。そういう事情が背景にあって、教練も体育も点数は高い方だった。 それが五年生になって、学年で最低レベルの点数をつけられる羽目になったのである。しかも理由は何も告げられなかった。教練と体育の教師に対する不信感は軍国主義教育と皇民化教育に対する反発と嫌悪を呼び起こし、これから自分たちの将来はどうなるだろうかという不安や疑念が胸の中で広がった。それを解きほぐしたい気持ちもあってのことだと思うが、私は日本と沖縄の歴史書を好んで読むようになった。それと同時に、石川啄木の短歌(三行詩)と若山牧水の短歌や紀行文に心の慰めを求めて、親しんだ。 余談になるが、啄木が1912年4月13日に息を引き取ったのは、親友金田一京助が席を外して帰宅した直後で病床の枕元で最後を看取ったのは牧水だけだったという。このことを、私は中学卒業後十数年たった頃に知った。そのとき、啄木と牧水とには内面で互いに共鳴し合うものがあったにちがいない、と考え、その想いが多感な少年の頃の思い出と綾を織り成して、一種不思議な感に打たれた記憶がある。 話を元に戻して、その頃は当初、進学も高等学校(旧制)の文科にしようかとひそかに考えていた。それを理科にしたのは、文化系学生の徴兵猶予がその年(1943年)9月からできなくなったからである。戦争末期で、いわゆる「学徒出陣」が始まったのである。理工学系の学生は、軍需工場の技術者など戦争逐行に必要な人材を養成、確保する必要から、軍隊への入営が延期できた。徴兵適齢も、この年12月、一年引き下げられて19歳になった。その適齢を目の前にして、軍隊に入りたくないと思っていた私は理科に進学することにしたのである。 中学5年生のそういう私を学級担任の世礼先生はそれとなく見守って下さっていたように思う。二学期半ばのある日、先生は授業中に私を呼び出し、日本育英会といって国の奨学制度ができたから、進学後の学資の貸与申請手続きをとるように勧めて下さった。そして、急ぐから授業を受けないで印鑑を持って来るようにとのことで、その日のうちに必要な書類を一緒に作成して下さった。先生は日本育英会の奨学生として学年全体の誰よりも真っ先に私を推薦して下さったのである。このことは、当時の私にとって、何にもまさる大きな励ましになった。私は学校の成績を気にかけずに、旧制高等学校の入学試験準備に全力を集中することにした。 翌1944年4月に私は熊本にある第五高等学校(五高)理科に入学したが、世礼先生のおかげで、入学当初から月50円の日本育英会奨学資金の貸与を受けることができた。授業料と寮費を払っても、半分は本代や小遣いに残る金額である。私は余裕のある学生生活をスタートさせることができた。しかしそれは、長くは続かなかった。戦火が身近に迫っていたのである。 3 敗戦のなかの高校生とその家族 ひめゆりと従軍した姉の死 五高に入学してまだ日も浅い頃、中学時代の友人で現在は弁護士の古波倉正偉君が寮生活をしている私を訪ねて来た。彼は、中学校卒業前に体調をこわし、高校受験も差し控えて、沖縄に残っていた。私に会うなり、挨拶もそこそこに「沖縄は大変なことになっているよ」と言う。彼の話によると「日本の軍隊が続々と沖縄に移動して来て、街は兵隊で溢れ、戦争前夜のようなあわただしさだ。体の丈夫な男子は防衛隊にとられ、老人、子ども、婦女子は九州などへ疎開することになっている。沖縄が戦場になるのは時間の問題だ。僕は妹と2人、家族に先駆けて、兄が五高生の頃下宿していたMさんを頼って疎開してきた」とのことである。 それから間もなく沖縄から九州各地への集団疎開が始まり、この年(1944年)7月、私の家族も宮崎県に疎開して来た。両親と姉2人、弟3人合わせて7人である。一番上の姉は、夫が軍隊に応召され、台湾の守備軍に配属されていたが、嫁ぎ先の義父が疎開に強く反対したために、婚家の家族と一緒に沖縄に残ることになった。それが姉の運命の分かれ目になった。 姉の嫁ぎ先の義父は比嘉秀伝といい、戦後は比嘉秀平行政主席の下で琉球政府官房長官を勤めた人である。官房長官の椅子を与えられたのは、アメリカ占領軍から初代琉球政府行政主席に任命された比嘉秀平と近い血縁関係にあったからで、それ以外に理由は考えられない。「てーふぁー(おどけた冗談のうまい人)」という評判のある人だっだが、官房を取り仕切るほどの政治的器量があったかどうか、疑わしい。沖縄に戦雲が垂れ込めて疎開が始まった1944年当時は小学校の教頭職にあったが、疎開を主張する私の父に対して、「疎開なんて臆病者のすることだ」と笑いとばし、「日本は神国だから最後は必ず勝つ」と言い張っていたという。小学校教師として皇民化教育と軍国主義教育の先頭に立ってきた経歴がそうさせたのであろう。 姉も一緒に疎開させて欲しいという私の両親の要請に対しては「疎開で九州に行くなら、離縁してからにしてくれ」と言われ、姉は沖縄に踏み止まることになった。 戦争が終って一年ほどたった頃、宮崎県に疎開している私の家族のもとに、姉が戦死した模様だ、と沖縄から知らせが届いた。その姉は洋裁店を営んでいたが、看護婦の資格を持っており、熊本陸軍病院に勤めた経歴もあって、ひめゆり部隊と一緒に従軍したという。 母は「離縁させてでも一緒に連れて来るのだった」と、何日も何日も思い出しては嘆き悲しんでいた。 トンボたちの群れ 姉の嫁ぎ先の義父とは対照的に、私の父は日本の戦争政策に批判的で、むしろ否定的であった。1941年12月に太平洋戦争が始まってしばらく、日本軍の華々しい戦果が毎日のように報道されていた頃、父はよくこんなことをつぶやいていた。 「アメリカぬ飛行機が蜻蛉ぬ如く群りちゅうねー、日本や如何んならんさ」(アメリカの飛行機がトンボのように群がって来たら、日本はどうすることもできないよ) これに対して、中学三年生だった私が「あん言いねー、非国民でいち、憲兵隊んかいかちみらりんどー」(そんなことを言うと、非国民だと言われて憲兵隊に捕まるよ)と言うと「いったー童が何分かいが」(お前たち子どもに何が分かるか)と相手にしなかった。 ちなみに、当時の会話は、家族の間ではもちろん、友だちの間でも、すべて方言であった。当時は「方言撲滅」を目指して「標準語励行」が国策として強制されていたが、家族や友だちの間で標準語を使うことは全くなかった。強いて使おうとすると、白けてしまって話にならなかった。 父たちの世代は、おおむね19世紀の末、1980年前後から20世紀の6、70年代にかけて、年号で言えば明治の後半から昭和の後半にかけて生きていた人たちである。この世代は、青年時代に第一次大戦(1914年〜17年)、ロシア革命(1917年)とそれに続く大正デモクラシーを経験し、壮年期に昭和大恐慌とそれに続く日中戦争、第二次世界大戦を経験している。言ってみれば、20世紀の戦争と革命の時代を青年期、壮年期に生きた世代である。この世代の人々が世界情勢の激動と世界史の進展から大きな知的刺激や思想的影響を受けたであろうことは、たやすく想像できる。 沖縄ではこの世代の中から、天皇制ファシズムに抗して革命運動に身を投じた人たちが少なからず生まれている。1922年に日本共産党が結成されたときの中心メンバーの一人で、戦後は同党の書記長であった徳田球一(1984年〜1953年)はその代表的存在と言える。もっとも同世代の大部分の人たち、特に一般知識層の大部分は、小さな沖縄におおいかぶさった強大な国家権力をどうすることもできないものと考え、皇民化教育と標準語教育を二本柱とする日本政府の同化政策を受け入れて、国の政策に協力的であった。 私の父はというと、そのどちらでもない、市井の日和見な一市民であったが、内外の情勢については客観的に見ていたようである。『改造』や『中央公論』などの月刊雑誌も読んでいた。世界一の工業力を持つようになったアメリカが、第一次大戦後はイギリスに代わって世界の覇権国になりつつある姿も、ありのまま見ていた。だから、そのアメリカと戦争したら日本は負ける、とはっきり見ていた。 そういう父の言動の影響もあって、中学5年生になった1943年には軍国主義下の学校教育で忠君愛国の精神を注ぎ込まれて育った私の目にも、日本の敗色がはっきり映るようになっていた。太平洋の島々から後退を余儀なくされた日本軍がアメリカ軍を沖縄で迎え撃つために飛行場建設を急ぎ、中学生がこの作業に動員されたことについては、前に書いた。その頃は、沖縄近海でアメリカ海軍の潜水艦が出没するという噂がしきりに流れており、事実、この年の5日には嘉善丸という客船が、12月には湘南丸という客船が相次いでアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。この種の遭難事件は、作戦上の「機密事項」として一切報道されなかったが、事件は関係者だけでなく、一般住民にも広く口づてに伝わっていた。 また、アメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃で大破した貨物船が那覇港の岸壁に横付けされ、東南アジアで積み込んだアルミニュームの原鉱ボーキサイトを一旦陸揚げして、また別の船に積み替える作業に私たち中学生が動員されたこともある。それは覆い隠しようもない公然たる「機密事項」だった。 こうした一連の事件から、日本が敗退しつつあることは、少年の私にも肌で感じられた。 年が明けて1944年の夏、熊本で学生生活を始めて間もない私は、沖縄から疎開してきた家族を鹿児島港に迎えに行ったが、一緒に乗船してきた集団疎開の人々は戦争に追われて故郷を捨ててきた難民の群れそのものだった。それからおよそ一月後の8月22日、集団学童疎開船「対馬丸」が奄美諸島近海でアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、学童800人を含む乗客1700人のうち1500人が死亡した。その頃は沖縄から九州へ疎開するのも危険な情勢になっていた。 それに追い打ちをかけて、10月10日には、アメリカ海軍の航空母艦を飛び立った艦載機が、それこそ「蜻蛉(トンボ)」のように群がって、沖縄を空襲し、那覇市は灰塵に帰した。同じ10月、北九州も中国基地から飛び立ったアメリカのB29爆撃機に空襲され、さらには11月には、マリアナ基地のB29爆撃機が大挙して東京を空襲した。太平洋戦争開始時に父がつぶやいていた言葉が現実のものになったのである。日本の敗戦は必至であった。 その頃、熊本市では、沖縄と北九州に空爆があったときに警報のサイレンが鳴り響いて、市民が防空壕に避難する騒ぎはあったものの、実際の空襲は未だなかった。比較的平穏な日々が続いていた。しかし、私個人は、家族の疎開以来、学校の勉強もおちおち手につかない毎日を送っていた。疎開先での父や姉たちの稼ぎは少なかったので、私は月々支給される50円の育英資金から、旧制中学校に通うために熊本に来ている弟の下宿代を支出しなければならなかった。五高入学当時の金銭的余裕もなくなり、私は物心両面で学生生活を楽しむ気分になれないでいた。 今ではよく知られていることだが、1945年2月14日、天皇の重臣の一人近衛文麿が、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と、戦争を終らせる必要があることを天皇に対して述べている。アメリカ軍が沖縄本島に上陸する一ヶ月半前のことである。この時点で戦争を終結させていたならば、沖縄を悲惨極まる地上戦の災禍から救うことができたし、広島、長崎の原爆被爆とソ連の対日参戦も避けることができた。 ところが天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、戦争の継続に期待をつないだ。その真意は、戦争を引き延ばす間に戦果を挙げて、天皇制の「国体護持」を連合国側との和平交渉で認めさせることであった。つまり、天皇制を存続させる有利な交渉条件をつくるには、アメリカ軍の攻撃目標になっている沖縄でアメリカ軍を迎え撃ち、そこで戦果を挙げる必要があると言うのである。 囲碁では、有利な局面をつくるために、わざと相手に取らせる石を打つ手法がある。その石を『捨て石』と言い、その石は死ぬ運命にある。沖縄戦はまさしくそのような「捨て石」作戦として戦われた。日本軍に勝ち目がないことは始めから分かっていた。作戦のねらいはただ一つ、連合国側との和平交渉で「国体護持」が容れられるまで、戦争を長引かせることであった。 長崎での原爆体験 戦争が終るとも知れないまま日本が破局へ向かって進んでいる情勢の中で、1945年4月、五高二年に進級したばかりの私たちは、各クラスとも半々に分けられて、長崎の造船所と熊本の飛行機工場との二ヶ所に学徒動員された。私は長崎組に入れられた。作業場所は三菱造船所の船体組み立て工場であった。当てがわれた仕事はベニア合板で造った体当たり用の魚雷艇を乗せる台を鉄骨で組み立てる作業であった。 沖縄では、アメリカ軍が4月1日に上陸して、激しい地上戦を展開していた。造船所で作っている木製の魚雷艇は、沖縄戦が終った後に押し寄せて来ると予想されるアメリカ軍を、日本本土の水際で迎え撃つためのものとされていた。 長崎の市街地では小銃の代わりに竹槍を担いだ兵隊の行進を見かけることがあった。民間でも各家庭で竹槍を準備しておくように、町内会を通じて命じられていた。上陸して来るアメリカ軍を竹槍で迎え撃つというのである。 こんなことで日本は勝てるだろうか、誰の胸にも疑念が湧いた。仕事を終えてバラック建ての寮に帰ると、10人前後の同室者の間で、戦局の先行きについて話し合う日が多くなった。日本はきっと負けると言う者に対して、日本は神国だから最後は必ず勝つと言い返す者もいた。そして、後者は前者を「敗戦カタル」とからかい半分で呼んでいた。言うまでもなく「肺尖カタル」をもじったものである。私は重症の「敗戦カタル」だった。 6月下旬、日本軍の壊滅で沖縄戦は終わった。そして8月6日、広島に原子爆弾が投下された。長崎では「広島に新型爆弾投下」と報じられた。三日後の8月9日、工場に出勤して間もなく空襲警報のサイレンが鳴り響いて、工場の全員が防空壕に避難した。しかし、空襲はなく、二時間ほどして空襲警報は解除になり、全員が工場に戻って作業に就いた。それから一時間くらい経った作業中の昼前、大きな稲光のような閃光が走った。光の来る方を振り向いてみると、橙色の雲がもくもくと上がっている。とっさに「新型爆弾」の恐怖が胸をよぎった。爆心地から4キロメートルほどの距離にある私たちの職場に爆風が来たのはその数秒後である。舞い上がったゴミで工場内は視界が数メートルの暗さになった。その中を無我夢中で通り抜けて全員が防空壕に避難した。数時間後、夕方になって壕から出てみると、港の対岸の市街地全域に巨大な火の柱が立っていて、上には厚い黒雲がかぶさっていた。 長崎の被爆の惨状については、広島の被爆の惨状と共に広く知られている。ここで私が書く必要はあるまい。被爆後一週間くらい、日本の敗戦から数日後まで、私たち学生は、爆心地付近の焼けて崩れ落ちた工場跡地の片付け作業に動員された。動員を解除されて帰宅したのは8月末頃であったように憶えている。 秋には学校が再開されて、私は熊本での学生生活に戻った。しかし、沖縄はアメリカに軍事占領され、家族は宮崎県に疎開し、長崎では原子爆弾と日本の敗戦に遭遇した。この現実の中で、私は理工系の学業を続ける意欲がなくなり、社会科学系のコースへ進路変更した方がよいのではないか、迷っていた。最終学年の一年は休学して考え、その挙句、高等学校理科は一応卒業して、大学は経済学部に進むことにした。 そのつもりで復学した1947年の末頃か1948年初め頃であったと思う、沖縄で米国留学制度ができて、沖縄現地だけなく、日本の大学、高等学校、専門学校に在学する沖縄出身者からも米国留学の希望者を募った。東京の沖縄県学徒援護会からその知らせがあって、私は同じ第五高等学校の文科に在学している友人の古波倉正偉君(現東京在住、弁護士)、新里恵二君(現沖縄在住、弁護士)と一緒に応募した。選考試験を東京駅前の丸ビルにあった沖縄県学徒援護会の一室で受けて、3人とも合格した。ところがその後、留学生派遣は沖縄現地在住者だけに限ることになり、私たち3人の米国留学は空しい期待に終った。もしアメリカに留学していたら、どういう人生を歩くことになったか、今とはかなり違う結果になっていたかも知れない。 占領軍との出会い 同じ頃のことで忘れられない出会いがある。沖縄二中で同期の友人N君の兄さんが五高に私を訪ねて来た。N君兄弟はアメリカ二世で、兄さんの話によると、友人のN君は沖縄現地で日本の軍隊に徴兵され、所属する部隊が輸送船で台湾に移動する海上でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死したという。日本にいた兄さんは、戦後はCIC勤務していて、熊本に配属されたという。 その頃の私はCICついて何も知らなかった。N君兄さんの説明によると、CICは連合軍総司令部の民間情報局に所属するコー(corps部隊)であるとのことであった。それで、CICはCivil Information Corpsの略語とばかり思い込んでいた。それが民間情報局所属であることには間違いないが、実はCounter Intelligence Corpsの略語で、米軍が占領した敵地で諜報活動をする陸軍部隊である、と知ったのは数年後のことである。 熊本駐留のCICは市内の豪華な料亭だった建物を接収して駐屯所に使用していた。N君の兄さんから招待されて、私は同郷の友人たちと一緒にCICの駐屯所で食事をご馳走になったことが二、三度ある。当時の日本は敗戦後の食糧難が続いていたこともあって、CICの食事の豪華さは私たちにとって驚くばかりだった。そういう付き合いをしている中で、N君の兄さんが 「五高の青年共産同盟に入って、その情報を提供してくれる者には学費と生活費を保証するから、誰か引き受けてくれないだろうか」 と相談を持ち掛けてきた。 私は、ここで初めて、CICが共産党とその関係団体に対してスパイ活動を行っていることを知った。私と同郷の友人たちはN君の兄さんの申し出を断り、以後一切の付き合いを止めることにした。しかし、そのときは、7年後の沖縄で私がCICとじかに向き合い、対決するようになろうとは夢想だにしなかった。このことに関しては後述する。 敗戦後の日本を占領管理していた連合軍総司令部(GHQ)には4つの部からなる参謀部(General Staff Section)があり、参謀二部(G2)が情報関係を担当していた。G2の民間情報局所属のCIC第441部隊約900人は県単位で日本全土に分散駐留していた。そして日本政府をはじめ日本各地の行政機関や警察に情報を提供させる一方、個人情報協力者の通報によって、住民の動向や重要人物についての情報収集と監視に当たった。占領当初、GHQが日本の非軍事化と民主化の政策を実行していた時期には、主として旧軍人や政財界、学術・教育機関、民間諸団体の旧指導者が情報収集と監視の対象とされた。しかし、冷戦の進行に伴って事情は変った。 1947年のトルーマン・ドクトリンで幕を開けた冷戦に対応するために、アメリカ政府は対ソ封じ込めの世界戦略を策定した。その一環として、1948年、GHQは日本の非軍事化と民主化の政策を打ち切り、日本資本主義経済の復活、旧支配層の復権を推進して、日本を反共の防壁にする「逆コース」の方向へ占領政策を転換していく。これに伴い、CICの情報収集と監視の対象は共産主義勢力、すなわち共産党とその関係団体、共産主義者とその同調者に変わっていった。熊本のCICに勤務していたN君の兄さんが青年共産同盟に対するスパイ工作に乗り出したのは、そのようなCICの方針転換によるものであったと思う。 私が旧制高校を終えて大学へ進んだのは、そのような時代の転換期であった。 4 占領下日本のなかの沖縄の人びと 荒廃の沖縄学生寮 私は五高理科を卒業して最初の東大受験は失敗し、一年間は家族が疎開している宮崎県の農村で中学教師をして、1949年4月に東大経済学部に入学した。 しかし入学後2年間は、生活費と学費を稼ぐためのアルバイトに追われて講義に出席することもままならなかった。日本育英会奨学金の賃与も、大学進学が一年遅れたために、中断されていた。もっとも、日本育英会奨学資金は、戦後の猛烈なインフレの進行に増額が追いつかず、生活費の一部を補う程度の額になっていた。物価が敗戦前の200倍以上に跳ね上がっているのに対して、育英会資金は35倍ほどの増額にとどまっていた。二食付きの下宿や間借りをしている学生の場合、学費を含む生活費は月平均9千円から1万円前後であったが、育英資金の最高額は月2100円にとどまっていた。 だから、親元から仕送りのない学生は、育英会資金の貸与があったとしても、困窮していた。郷土が日本から切り離された沖縄出身の学生は大部分がそうだった。そういう学生を援助して学業を続けさせるために、沖縄出身有志によって財団法人沖縄県学徒援護会が設立され、東京では、その管理下で南灯寮という学生寮が設立された。私は、大学に入学した49年の夏休み前に、その南灯寮に入寮した。 当時の南灯寮の印象について、私と同じ頃入寮した本永寛昭氏(弁護士沖縄在住)は南灯寮出身者の文集『南灯寮草創記』(東銀座出版社、1995年)に寄せたエッセーの中で次のように回想している。 |
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入寮してまずびっくりしたのは、寮の汚さであった。特に、私のいる部屋のすぐ側の玄関は、紙屑と埃と泥で「汚い」というより、呆れ返るばかりであった。私は、まず自分の周りから綺麗にしようと思って入寮の翌日から毎朝玄関の掃除を始めた。しかし、掃除した翌日は、私が入寮したときとちっとも変らないくらい汚されていた。それでも私は「きっとそのうち皆に分かって貰える」と思って、毎朝掃除を続けた。 しかし、その期待は見事に裏切られた。毎日掃除しても、翌日は元のように散らかり放題であった。よくもまあ、こんなに汚せるもんだと感心する程、見事に散らかされていた。人間は環境に順応するものかも知れない。私も以後、汚す方にまわることになった。 また、南灯寮が学生寮だということが、入寮したばかりの私には信じられないような出来事があった。メーデーだといって寮から参加した人達の中には、メーデーの帰りにどこかで飲んで気勢を挙げて、その勢いのまま寮でも飲んで暴れて、ときにはガラス窓を割るなどというのもいて、それで私は寮にいる頃「アカ」が嫌いだった。別に「反共」ではなかったし、米軍や占領軍も嫌いだが「反米」でもなかった。私は平穏な学生寮を望んだだけである。でも、私はGHQに勤めているし「アカ」が嫌いなので、あるいは「反動」と思われていたのかも知れない。まさか後年私がアメリカから「沖縄における共産党中央委員」というレッテルを貼られるとは、その当時の誰もが考えも及ばなかったに違いない。 |
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南灯寮は小田急線の喜多見駅から徒歩で2、3分の所にある。当時は木造二階建て二棟からなる建物で、旧軍需工場の寮を沖縄の公有財産を管理している沖縄財団が買い取って学生寮にしたものである。室数は37あり、一室2人または3人を収容して、70数人から多い時は100人前後の寮生がいた。 場所が成城の住宅地に近いこともあって、南灯寮の近くにはもともと文化人が多く住んでいた。また小田急沿線の祖師谷に東宝と新東宝映画撮影所があった関係から、映画関係者も多く住んでいた。共産党系の映画人もかなりいた。そのような人々の影響もあって共産党員になった寮生がかなりいて、ほどなく南灯寮には共産党の細胞(現在の支部)ができた。南灯寮細胞は寮内で活動するだけでなく、寮のある狛江村(現在は市)細胞と協力して狛江地域でも活動していた。 1948年4月から10月まで続いた東宝映画会社の労働争議の際は、武装警察だけでなく、アメリカ軍の騎兵師団と戦車まで出勤して労働組合を弾圧したが、南灯寮の寮生の多くが争議団の支援活動に参加した。そういう活動を通じて寮生の政治意識は高揚し、共産党の入党者も増えた。日本全体についても、共産党は49年1月の衆議院総選挙では35議席を獲得、前回47年4月総選と挙の4議席から大きく躍進した。それに勢いを得て、共産党は吉田内閣打倒を政治目標に揚げて進むことになる。南灯寮細胞も意気軒昂としていた。 それが49年夏以降になると、様相が変わった。寮生活は先に引用した本永氏の文章から伺えるように、荒廃した状態になった。南灯寮細胞のメンバーの中にも、酒を飲んで騒いだり、部屋のガラス割ったりする者もいた。それを止めさせようとすると、「反共」とか「反動」とか言葉を返して、始末に負えない。それには、GHQと吉田政府の激しい共産党弾圧によって生み出された社会情勢の変化が背景にあった。 敗戦直後、日本共産党はGHQの日本民主化政策を歓迎し、アメリカ占領軍を解放軍と考えて両者は親密な関係にあった。しかし、両者の蜜月時代は冷戦の進展に伴って、間もなく終わりを告げた。前の章で触れたように、1948年、アメリカの対日占領政策が逆コースへ転換して以後、吉田内閣とGHQは共産主義勢力に対する抑圧政策をととるようになった。1949年なると、GHQは、財政健全化のための行政整理を機会に、政府と公企業に勤務している共産党員とその同調者を解雇するレッド・パージを強行した。中にも10万人近い人員整理が言い渡された国鉄(JRの前身)では、それに反対する労働組合の激しい闘争が燃え上がった。そのさなかの7月から8月にかけては、国鉄に関係がある奇怪な事件が相次いで起った。7月6日には、下山国鉄総裁が常磐線北千住・綾瀬間線路上で轢死体になって発見された。7月15日には、中央線三鷹駅で無人電車が暴走して6人が死亡、8月17日には、東北線松川・金谷川間で列車が転覆して3人が死亡した。物情騒然たる世情の中で、吉田内閣とGHQは、これら原因不明の事件を共産党の策謀によるものと??、宣伝して国鉄労組の人員整理反対闘争を弾圧、労働運動における共産党の影響力は大きく後退させられた。こういう世情に対して、南灯寮細胞のメンバーの中には、党活動の方向を見失い、酒で鬱憤を晴らす者も出てきたのであろう。 このような状況にある南灯寮で、私が寮生活にも慣れた頃の10月に、寮の自治委員長選挙があった。寮の建物は沖縄財団の所有で、それを沖縄県学徒援護会が管理していたが、運営は寮生の自治に委ねられ、自治委員長は4月と10月の半年毎に寮生総会で選出されることになっていた。その委員長選挙の総会で、私は立候補したわけではなく、誰が推薦したかも覚えていないが、投票の結果は共産党員のY君と私とに同数の票が集まり、決戦投票になった。その時である。共産党員の一人が、総会に欠席している誰それから投票の委任を受けていたと申し出があり、続いて数人の共産党員が我もわれもと同じ趣旨の申し出をした。そして決選投票では欠席者数人分の代理投票が行われた。結果は、当然のことながら、Y君の票が私の票を代理投票分だけ上回った。私は黙って成り行きに任せていた。異義を唱えて、委員長になりたがっていると思われたくはなかった。 しかし、考えれば考えるほど?????、腹立たしい。 決戦投票になって事後に、委任があったかどうかも分らない欠席者の代理投票を総会が認めたのである。民主的な選挙のルールに反すること甚だしい。これでは寮の民主的な運営が破壊され、寮生活の荒廃は止まらない。Y君が委員長として不適任というのではない。民主的な自治生活のためには、先の決選投票を無効として、改めて委員長選挙のための総会を開催する必要がある。そう考えて私は、問題を討議する寮生総会の開催を要求する意見書を書き、廊下の壁に貼り出した。その際、委員長になりたくて総会の開催を要求するのでないことを示すために、再選挙になる場合、私は候補者になることを辞退する旨も付記しておいた。 そういう私を、党員の中には「反共」呼ばわりする者もおれば、酔っ払って私の部屋に怒鳴り込んできた者もいる。しかし、Y君はそういう党員たちをなだめて、私の意見に賛成し、自治委員長になることを辞退した。彼は再選挙にも立候補しなかった。寮生総会はそれを承認し、改めて委員長を選出し直した。 それから間もなく、年が明けて50年の新年早々、コミンフォルム批判をめぐって日本共産党は分裂、南灯寮の党員も主流派(所感派)と反主流派(国際派)に分かれた。それ以後、当然の結果として南灯寮細胞の活動は混迷と衰退に向かった。もともと私は、大学に入学する前から、マルクス主義に大きな関心を持ち、共産党にも期待を寄せていた。しかし、当時の共産党の分裂、混乱状態を目の当たりにしては、党活動を共にする気になれなかった。 その頃、私は、アルバイトをしながら、後述する沖縄学生会の副委員長をしていたが、南灯寮の破綻に瀕した財政の立て直しや、破損箇所の修理のために、沖縄県学徒援護会や沖縄財団等と交渉するのが精一杯で、それ以上の学生運動をする余裕もなかった。 当時沖縄には契約学生制度というのがあり、日本の大学に留学生を派遣して、卒業後は留学年数だけ琉球政府の指定する職に就くことを契約条件に学費と生活費を給与していた。その制度が発足したのは1949年度であるが、51年度からは沖縄からの派遣学生だけではなく、日本の大学に在学している学生からも契約学生希望者を募ることになり、私もそれに応募して採用された。それで51年4月以後は、大学に納入する学費のほかに月8千円の生活費を支給されるようになったので、南灯寮を出て、下宿することにした。しかし、翌52年の中頃から生活費の支給は6千円余に滅額され、下宿代を払うと小遣いが幾らも残らないので、もう一度南灯寮に戻って、53年に帰郷するまで寮生活を送った。 その頃の私について、沖縄財団理事長であった比嘉良篤氏(1892〜1975、三井信託銀行常務)は、新崎盛?氏(元沖縄大学学長)とのインタビューで、南灯寮修理の問題と関連して、次のように言及している(新崎盛?編『沖縄現代史への証言』沖縄タイムス社、1982年)。 |
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実はね、私が寮監になる2、3年前の事だがね、建物が破損して雨はもるし、畳は腐れるし一方寮生の中には2、3名の共産党の学生がいた。国場幸太郎とかね、弁護士している古波倉正偉、前原[宮原?―筆者注]というのもいた。宮良もいた。それからあれもおったよ、県人会の古堅(宗憲)も。この連中2、3人がね、町の党員といっしょになって、あそこへアジトを作っていろんなことをやるらしいんだよ。(中略) それから寮生の国場幸太郎という学生は純情で私の好きなタイプの好青年だった。修理問題が起きた初期の頃、彼も寮の修理希望者だったので、寮内での共産党運動を自粛するよう頼んだら、心よく承知してくれて、自分で廊下に張ってある赤旗新聞を洗い取ったり、庭先に散在している、メーデー用のプラカードを片付けたりしてくれた。 |
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インタビューは比嘉良篤氏が亡くなるおよそ半年前の1975年4月に行われている。高齢の上に20年近くも前のことであるから、比嘉氏の話に思い違いや記憶違いがあるのはやむを得ないかも知れない。1949年から50年にかけて私が南灯寮の修理や財政立て直しに精出していた頃は、比嘉氏の話とは異なり、私も古波倉正偉君も共産党員ではなく、2人が党員になったのは1952年中頃である。比嘉氏が南灯寮の寮監を買って出たのは1956年で、その3年前の53年に私は沖縄に帰ってきた。だから比嘉氏が私に「寮内での共産党運動を自粛するよう頼んだら心よく承知してくれて」云々というのは、学生時代を通しての私に対する印象が幾つも重なって20年という年月が経つうちに心象化されたものであろう。 沖縄における日本復帰運動の開始 私が契約学生になった1951年は対日講和条約が締結された年である。この年の1月、沖縄では大衆的な日本復帰運動が始まっていた。日本在住の沖縄出身者にとっても、沖縄の帰属問題は一大関心事であり、それにどう対処するかは、避けて通れない課題であった。沖縄出身の学生達は故郷がアメリカの軍事植民地になることに反対して、日本復帰運動に立ち上がった。と言っても、学生達は敗戦後の当初から日本復帰を主張していたわけではない。私も例外ではなかった。沖縄現地の住民と日本在住の沖縄出身者が日本復帰を主張するまでには、それなりの経緯を知っておく必要がある。それを先ず見ておこう。 戦後、日本から分断されたままアメリカの直接軍事占領支配下にあった琉球諸島は奄美、沖縄、宮古、八重山の4つの群島に分割され、住民は各群島毎に設けられた米軍政府の下で無権利の捕虜同様に管理されていた。そういう状況の中で1947年には各群島毎に政党が結成され、自治権を求めて政治活動が始まった。 沖縄本島では沖縄民主同盟、沖縄人民党、社会党(後の日本社会党系とは別)の三つの政党が相次いで結成され、三党三様の政治的主張していた。そして、それらの主張はいずれも沖縄を戦争の惨禍に陥れた天皇中心の国家主義と軍国主義を否定する立場に立ち、沖縄の日本からの分離と自立を前提にしていた。民主同盟は言論の自由等の民主的権利を強く要求していたが、対日講和条約の締結が日程にのぼる1950年には琉球独立を主張するようになる。人民党は人民自治政府の樹立、憲法議会の制定、日本政府に対する賠償要求を綱領に掲げ、自治共和政体の樹立を志向していた。社会党は指導者の個人的政党色が強かったが、将来沖縄の帰属について、アメリカを施政権者とする国連の信託統治を望んでいた。 凄惨な地上戦と敗戦を体験して虚脱状態にあった沖縄住民の間では、天皇中心の国家主義によって上から注入された「日本国民としての民族意識」が崩壊し、日本を祖国と考える国家観念が喪失していた。そういう歴史的現実を反映して、3つの政党は沖縄の日本からの分離を所与の条件と受け止め、日本のどの政党からも影響を受けることなく、独自の道を歩いていた。 このような沖縄の政情は1949年から50年にかけて一大転機を迎える。それは、アメリカ政府が沖縄に恒久的な軍事基地を築いて、琉球諸島を対日講和条約締結後もアメリカの統治下に置く方針を策定し、実行に着手したことによって訪れた。この方針は49年5月の国家安全保障会議NSC13/3(5)で確定し、それを受けて、49年7月に始まるアメリカ政府1950年度予算には沖縄軍事施設建設費として5千800万ドルが計上され、沖縄では大々的な基地建設工事が始まった。 それと併行して、アメリカ占領軍は琉球諸島の統治機構を整備し、住民の生活を戦前の水準に引き上げる経済政策を策定した。その一方、国務省は琉球に対するアメリカの統治が国際的に承認される統治方式を考慮することになる。 翌50年11月24日、アメリカ政府は「対日平和条約に関する7原則」を発表し、その中で領土については、「日本は(a)朝鮮の独立を承認し、(b)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し、(c)台湾、澎湖諸島、樺太および千島列島の地位に関する、英国、ソ連、カナダ、合衆国の将来の決定を受諾しなければならない」と明示した。 ここにいたって、沖縄の住民は、沖縄がアメリカの軍事基地として対日講和後も日本から分断されたままアメリカの信託統治下に置かれる事態を容認するかどうか、沖縄の帰属問題にどのように対処するか、あらためて問われることになった。ところが1947年に結成された三つの既成政党はいずれもこの政治課題に正しく応えることができなかった。 このような政治状況の中で、1950年9月の沖縄群島知事選挙は住民が帰属問題に決着をつける機会となった。この選挙は対日講和後もアメリカが琉球諸島を統治するための統治機構を整備する一環として行われた。当初、アメリカ占領軍が考えていた統治機構は、四つの群島毎に群島政府と群島議会を設け、その上に立法、司法、行政の三機関を持つ中央政府を置いて、四群島を統治するというものであった。それは連邦共和制を模したもので、群島政府知事と群島議会議員および中央政府である琉球政府の行政主席と立法院議員は住民の公選でえらばれる予定になっていた。 沖縄群島知事選挙にあたって、民主同盟と社会党はいちはやく親米派の巨頭と目されていた松岡政保氏を共同で候補に推し、一時は沖縄全島を独り舞台で席捲するほどの勢いを示した。その帰属問題についての主張は、沖縄がアメリカの信託統治になることを認めて、行く行くは独立を図る、というものであった。それに対して、人民党公認の瀬長亀次郎氏は党綱領の「人民自治政府の樹立、憲法議会の制定」を掲げて立候補したが、沖縄の帰属問題については態度を明確にしなかった。 その一方では、既成政党の状態に飽き足らないで日本復帰を志向する人々、特に若い知識層の間で新党を結成する動きが活発になっていた。そして、これらの人々は官公庁職員、学校教師、ジャーナリスト、弁護士等の一般知識層と合流し、農連会長平良辰雄氏を候補に擁立して知事選挙に臨んだ。 平良辰雄氏はその当時を振り返って次のように述べている。「もし知事になれば、自分のすべてをかけて、(日本)復帰問題一つと取り組もうと自覚していた。沖縄の問題は、すべてその帰属問題とひっかけて考えていた私にとっては、失礼な話、知事選挙をそのための手段として利用しようと念願していたのである」。ところが当時の米軍政下では「日本復帰を主張することは、一種タブーのようになっていた」。そこで平良辰雄候補は「表むきには復帰問題を掲げなかったとはいえ、選挙中の各地の懇談会では必ずといっていいほど、この問題をまっ先に持ち出すことにしていた」という(平良辰雄回想録『戦後の政界裏面史』南報社、1963年)。 選挙の結果は次のようになった。 候補者 得票数 平良 辰雄(一般知識層が擁立) 158、520 松岡 政保(民主同盟・社会党推薦) 69、595 瀬長亀次郎(人民党公認) 14、081 平良候補を推して圧倒的勝利をおさめた人々は、選挙直後の10月31日、平良氏を委員長として沖縄社会大衆党(社大党)を結成した。人民党の結党に参加した初代委員長浦崎康華氏、二代目委員長兼次佐一氏、『うるま新報』社長池宮城秀意氏ほか左翼社会民主主義者の多くも社大党に加わった。そこには、戦前・戦中からの沖縄社会の保守的指導層から左翼社会民主主義者まで、思想的にはさまざまな人々が広く参加していた。 その社大党は立党宣言で自らを「ヒューマニズムを基底とし、個々の利害にとらわれず、住民全体の調和と統合とを実現するための国民政党」と規定し、さらに「住民大衆の福祉を希望しつつ時代の要請する革新的政策を具現する政党」と規定している。この宣言から読み取れるように、社大党はナショナル(国民国家的)な視野から住民全体を統合する革新の「国民政党」として出発した。戦後の沖縄の政党が郷党的な性格と視野の狭さから脱け出してナショナルな視野を備えるようになった端緒はここで開かれたと言える。 年が明けて1951年に入ってから、社大党は「琉球諸島日本復帰期成会」の提唱団体になり、日本復帰運動の中心勢力の一つになったが、それは、結党のいきさつからして、当然の成り行きであった。 人民党は、知事選挙期間中から、民主同盟・社会党共同推薦の松岡候補に対抗したが、沖縄の帰属問題については、1951年1月28日の同党拡大中央委員会でも「琉球の帰属は琉球人民の意志によるべきであるとの基本的態度を決定」したに止まっていた。それが同年2月13日の拡大中央委員会では「帰属問題の具体的な態度として日本復帰を決定し」超党派でこの問題に取り組む方針を確立した。それは知事選挙以来の経緯から見て、社大党に代表される一般知識層に導かれた民衆の動向と世論から学び取ったものであろう。ここで沖縄人民党は日本復帰を目指す民族戦線の結成に積極的な左翼革新政党に質的転換を遂げ、中道革新政党の社大党と提携して、日本復帰の大衆運動を推し進めることになる。 51年4月29日に結成された日本復帰期成会には、社大・人民両党をはじめ、当時の大衆団体(教職員会、青年会、婦人会等)のほとんどが参加して、サンフランシスコ講和会議を前に歴史的な日本復帰の大衆署名運動が全沖縄で展開された。それを皮切りに復帰運動は沖縄と日本との再結合を求める民族運動として発展することになる。その過程で、日本の敗戦によって一旦は崩壊した沖縄民衆の「日本国民としての民族意識は」は、平和擁護と民主主義擁護の理念を伴う民族意識に構成し直されて、再生することになる。 一方、知事選挙で敗れた民主同盟と社会党は選挙直後に解党し、その中心メンバーは「琉球独立」の主張を掲げて50年10月に新しく共和党を結成したが、その共和党も民衆の支持が得られないまま衰退し、52年2月には消滅した。 日本在住沖縄出身者の動向 日本在住の沖縄出身者の場合はどうであったか。敗戦直後の日本には戦前からの移住者約10万人、戦時中の疎開者4万人余、海外からの引揚者、復員兵約5万人など、およそ20万人の沖縄出身者がいて、1946年2月には沖縄人連盟(48年に沖縄連盟と改称)という全国組織が生まれた。初代会長は「沖縄学の父」と仰がれている伊波普猷氏(1876〜1947)であったが、実質的には総本部長の永岡智太郎氏(社会運動家、1891〜1960)が組織全体を取り仕切っていた。結成当初の中心メンバーは革新的な人が多く、沖縄の帰属問題では日本共産党、日本社会党の見解に同調していた。 その見解を要約すると、「近世以降の日本で少数民族として抑圧されて来た沖縄は、第二次大戦の結果、連合軍によって天皇制帝国主義の支配から解放された。日本がポツダム宣言を受諾した国際関係から見て、沖縄がアメリカの戦略的信託統治になることは避けられない。そこで将来どうするか、何れの国と結合するかという帰属問題は、民族自決権により住民自身が自主的に決定しなければならない。その際、沖縄は民族的自治共和国にならなければならない」というものであった。そういう見解から、沖縄の日本復帰を主張するのはポツダム宣言違反であり、沖縄を再び天皇制国家主義の支配下に置くことになると批判されていた。 沖縄人連盟としては、沖縄現地の問題にはGHQによって一切の介入が禁止されているので、活動の主要な目標を、戦時中の沖縄からの疎開者、戦後の海外からの引揚者、復員兵等、生活が困窮している沖縄出身者の生活救済と、沖縄への帰還の促進および沖縄との通信連絡、往来の許可においた。沖縄の日本からの分離は所与の条件として容認していた。 学生はどうであったか。沖縄出身の学生は全国で4、5百人いたが、東京在住の学生は1946年1月に相互の親睦扶助を主な目的として「沖縄学生会」を組織した。学生会は翌47年2月に「沖縄学生同盟」と改称、同年5月にできた学生寮「南灯寮」を本拠として活動することになる。沖縄の帰属問題については、沖縄人連盟と同じ立場であった。48年10月施行の沖縄学生同盟規約は、目的として、沖縄出身学生の生活権確保、相互練磨による資質の向上、民主沖縄の建設を掲げるに止まり、帰属問題への言及はない。 もっとも、この頃、沖縄の日本復帰運動が全く無かったわけではない。ジャーナリストで首里市長であった仲吉良光氏(1887〜1974)を中心に、東京在住の高嶺明達氏(元商工省官僚、1898〜1966)、神山政良氏(元大蔵省官僚、1882〜1978)、漢那憲和氏(元海軍少将、1877〜1950)、伊江朝助氏(元貴族院議員、1881〜1957)ら在京の沖縄出身知名士12人からなる「沖縄諸島日本復帰期成会」が1946年10月に結成され、GHQや日米両政府など関係筋に陳情運動をしていた。その主張は、日本と琉球は同じ祖先から分かれたという日琉同祖論を拠り所にして、日本と沖縄との民族的・文化的同一性を説き、沖縄の日本国家への再結合、沖縄人の日本国民との再統合を求めるナショナリズム(民族主義)の考え方に基づくものであった。こういうナショナリズムはもともとが近代国民国家の形成・発展を目指す思想と運動である。初期の日本復帰運動が、既成の保守系リーダーたちによって担われたのも不思議ではない。運動の形態は、仲吉氏個人の考え方を強く反映して、文書による各方面への陳情・要請に限られ、大衆運動とは一線を画していた。 対日講和条約の締結が具体的な日程に上って来た1950年ともなると、日本では単独講和か全面講和かをめぐる講和論議が盛んになり、それと関連して沖縄出身者の間でも沖縄の日本復帰を望む声が大きくなった。この年11月に沖縄連盟は沖縄の日本復帰を要望することを組織として確認し、沖縄返還運動の在り方を模索し始めた。この頃、仲吉良光氏らは日米両政府筋に「アメリカが沖縄を軍事基地化せんとする御方針に我らは断じて反対しませんし、進んでアメリカ軍に協力する決心であります」と軍事基地化容認の日本復帰を要望する陳情活動していた。それに対し、沖縄連盟の中には「沖縄軍事基地化反対」の立場に立って沖縄の日本復帰を要求し、そのための大衆運動への組織的な取り組みを提唱する動きがあった。しかし実際は、それも全国的な統一した大衆運動に踏み出すまでには至らなかった。 沖縄の日本復帰を要求する大衆運動が日本で姿を現したのは、対日講和条約締結の年、1951年以後のことである。先に見たように、この年沖縄では、4月29日に結成された日本復帰期成会の下で日本復帰の大衆署名運動が全島で繰り広げられた。日本でそれにいち早く反応し、呼応したのが、沖縄学生会と琉球契約学生会所属の学生たちであった。二つの学生会は協同して、すべての沖縄出身者を保守と革新の別なく結集し、それを核にして、沖縄の日本への返還を要求する国民運動を組織する方針を立てた。 しかし、この方針を実行する上で、当初は困難や障害も多かった。当時、日本国民の沖縄の帰属問題についての関心は極めて薄く、台湾や朝鮮の問題と同じように考えている人も少なくなかった。それに加えて、政府も沖縄問題が大衆運動になることを抑えにかかっていた。東京で51年8月28日、学生たちと沖縄連盟有志とが協同して、沖縄の日本復帰を要求する大会と署名運動を、それぞれ新橋駅前と池袋駅前で開催準備したところ、公安委員会から不許可になり、警察の実力行使で中止させられた。このように、沖縄の日本復帰を要求する大衆集会は、占領下の日本では、一度も開かれないまま、1951年9月、サンフランシスコで対日講和条約が調印された。その第三条で琉球諸島は日本から分断されたままアメリカの軍政下に置かれ、沖縄は軍事基地化されることになる。 この事態に対処するために、沖縄学生会と琉球契約学生会は全琉学生連絡協議会(53年6月に沖縄県学生会に改組)をつくり、沖縄の「軍事基地撤廃と完全日本復帰の実現に向かって平和を愛する凡ての人びとと相携えて進む」ことを決議した。学生たちは、講和条約発効直後の東京における52年メーデー(「血のメーデー」)で 「沖縄、奄美、小笠原を即時日本に返せ Yankee go home from OKINAWA」 と書いた大きな横断幕を掲げてデモ隊に参加した。 当時は東西冷戦が始まって間もない頃で、日本国内の政治勢力も、自由主義陣営を支持する保守陣営と社会主義陣営を支持する革新陣営とに大きく二分されている上に、革新陣営内部では社会党と共産党とが対立し、さらに社会党は左派と右派に分裂していた。そういう政治勢力を、沖縄の日本への帰還を目指して一つに束ねることは極めて困難な情勢にあった。沖縄出身者を一つに束ねることさえ、並々ならぬことであった。 映画『ひめゆりの塔』と沖縄返還運動の始まり こんなエピソードがある。1952年中頃、映画『ひめゆりの塔』の制作開始に当たって、学生たちは沖縄出身者のすべての団体による後援を呼びかけた。言うまでもなく、この映画を通して沖縄問題をアピールするためである。ところが、沖縄出身者の団体役員の中には、それに反対の人たちもいた。理由は、今井正監督、伊藤武郎プロデューサーをはじめ映画制作の中心メンバーが共産党員だから、というのである。「沖縄出身者はこの映画を『アカゆりの塔』と見て、支持していない」と書き立てている新聞もあったほどである。当時は、共産党と関係を持つことを避けようとする空気が社会全般に広がりつつあった。その主な原因の一つはGHQと吉田内閣の共産党に対する弾圧にあったが、共産党自身にも問題があった。 日本の敗戦後間もなく、GHQによって獄中から解放された徳田球一ら戦前からの共産党員を中心に結成された日本共産党は、当初、アメリカとも協調して、平和革命路線を採っていた。それが1948年、アメリカが対日講和を棚上げして、対日占領政策を反共・逆コースの方向へ転換するに至り、日本共産党中央委員会は、ポツダム宣言の趣旨に従って日本の民主化を推進し、日本の完全独立と連合国軍の日本からの撤退を実現する公正な全面講和を促進する方針を明示した。この方針は、アメリカ軍の占領が長引いている現状に、苛立ちや反発を感じ始めていた国民の間で、共感と支持を広げていく。そして、1949年1月の衆議院総選挙で、共産党は有効投票総数の9.8%を得票して、35人の当選者を出すまでに政治的影響力を伸ばした。前回47年の総選挙での共産党の得票率3.7%、当選者4人に比べて、大躍進である。その共産党に対してGHQと吉田内閣がレッド・パージで大弾圧を加えたことは先に見たとおりである。 共産党はそれで大きな打撃をこうむったが、さらに大きな痛手になる事件が次々と起った。その端緒は、1950年1月、コミンフォルム(冷戦時ソ連・東欧共産党の国際的な情報機関)が、アメリカの占領支配下にある日本で平和的に革命を達成できると考えるのは誤りである、と日本共産党幹部野坂参三の平和革命論を激しく批判、武力革命方式の採用を示唆したことにある。徳田球一書記長らの主流派(所感派)が、コミンフォルムの見解は日本共産党の立場を十分には考慮していないという所感を発表して、批判の受け容れを渋ったのに対して、コミンフォルムの批判を受け容れるべきだとする志賀義雄、宮本顕治らの反主流派(国際派)が対立した。その後、中国共産党の忠告的な論評もあって、主流派もコミンフォルム批判を受け容れたが、党内分裂の溝は深まるばかりであった。 そこへ、6月、朝鮮戦争勃発の直前に、GHQは日本共産党中央委員24人を公職から追放する指令を発し、直後に党機関紙『アカハタ』の発行停止を命じた。それに続いて、GHQは、共産党系労働組合活動家の解雇(レッドパージ)を指令し、解雇者は1万数千人に及んだ。そのために、共産党系活動家の多い産業別労働組合会議(産別)は無力化されて解体した。それから、共産党の指導に反対する組合活動家によって産別民主化同盟(民同)がつくられ、さらにその幹部たちによって日本労働組合総評議会(総評)が組織されることになる。 一方、GHQマッカーサー司令官は、かねがね反対していた日本の再軍備容認に踏み切り、7万5千人の警察予備隊(自衛隊の前身)創設を日本政府に命じた。沖縄ではアメリカの恒久的軍事基地建設が大々的に始まっていた。 このように内外の情勢が風雲急を告げるなかで、共産党主流派幹部は地下に潜行して、臨時指導部の下での合法の公然活動と非公然の武装闘争とを統一して指導する地下指導部をつくった。この指導体制のもとで、1951年2月、共産党は武装闘争方針を提起し、10月には全国協議会(五全協)で民族解放民主革命を目標にした「日本共産党の当面の要求―新しい綱領―」(51年綱領)を決定、発表した。 そこで採用された武装闘争方針は中国の人民民主革命における軍事方針を模倣したもので、山村に武力で解放区をつくり、そこを拠点にしたパルチザン武装闘争で都市地域にも革命を広げていくというものである。この方針を実行するために、若い活動家たちが「山村工作隊」として山村に送り込まれ、都市では「中核自衛隊」「独立遊撃隊」に参加させられた。武器には「火炎瓶」が使用された。中国の革命で勝利した戦略・戦術を、条件がまったく異なる日本の現実に機械的に適用したのである。それが成功するはずはなかった。 党内が分裂している上に、武装闘争戦術を採る日本共産党は、国民の間で急速に支持を失い、大衆から遊離、孤立していった。そういう政治情勢の流れは、共産党系幹部の多い沖縄人連盟と沖縄学生同盟の組織運営にも影響を及ぼした。 沖縄人連盟では、1948年以降、共産党系役員を排除する空気が強まり、名称も、共産党系の団体と見られるのを嫌って、「人」の一文字を抜き、沖縄連盟と改めた。それでも「一般に評判が悪い」というので、1951年には沖縄連盟を解散し、沖縄出身者の団体として新たに沖縄協会が設立された。 沖縄学生同盟の場合は、1949年に契約学生の親睦団体として琉球契約学生会が組織されたこともあって、49年以降は活動が不活発になり、50年春には名称も沖縄学生会に戻ったが、その活動は南灯寮生が担っていた。この二つの学生会、沖縄学生会と琉球契約学生会は、対日講和条約の締結を契機に協議会を持って、組織の一体化へ踏み出し、53年6月には沖縄県学生会に統合されることになる(以下では、二つの学生会の協議体を学生会と呼ぶことにする)。 さて、映画『ひめゆりの塔』が制作された1952年は、以上で見たように、共産党の孤立化が急速に進み、10月の衆議院総選挙で共産党の議席がゼロに転落した年である。沖縄出身者の中に、この映画の後援に二の足を踏む人がいても、無理からぬ面があった。今井正監督は山本薩夫、亀井文夫両氏とともに東宝映画をレッド・パージされた監督として、よく知られていたからである。そこで、学生会は、『ひめゆりの塔』のシナリオ(台本)をもらってきて、沖縄出身者の団体幹部に配って読んでもらったり、集会があれば出かけていって映画の説明をしたりして、後援に加わるように説いてまわった。 映画の撮影は順調に進んで、完成を2、3ヶ月後に控えた頃の9月21日、新宿文化会館で那覇出身者の懇親会である「那覇人会」が開催された。その会場で伊藤武郎プロデューサーに『ひめゆりの塔』の後援を依頼する挨拶をさせて欲しい、と学生会は事前に申し入れた。すると、「那覇人会」の役員はその申し出を即座に拒否したばかりか、会場で私が学生会を代表して発言を求めると、待機している数人の役員が寄ってたかって、有無を言わせず私を会場の外に押し出した。事情を知らない会場の人たちは、何事かと怪訝そうに見ているだけである。 居合わせた学生たちは、そのまま黙って引き下がるわけにはいかないと考え、小型のガリ版謄写印刷機を持って来て、ことの成り行きを説明したビラを作り、琉球舞踊などの出しものを観賞している会場の一人ひとりに配って読んでもらった。その効果はてき面で、さすがの役員達も伊藤武郎プロデューサーの挨拶を許さないわけにはいかなくなった。その挨拶が終ったとき、広いござ敷の会場の後ろの方から 「青年は美しい!」 と学生を励ます声が上がった。そこには、詩人の山之口獏氏、画家の南風原朝光氏ら数人が車座になって談笑していた。 那覇人会の役員とは対照的に、沖縄出身者全員の団体である沖縄協会の会長神山政良氏は、『ひめゆりの塔』のシナリオを読んで、「これはいい映画ではないか。是非成功させよう」と学生会の呼びかけに快く応えて、沖縄協会が映画の後援団体になった。その影響下にある沖縄婦人会も後援に加わった。そして、年が明けて1953年1月、封切りに先立ち、映画『ひめゆりの塔』の公開試写会が沖縄協会、沖縄婦人会、沖縄学生会三団体連名の主催で開催された。会場は渋谷の飛行会館で、映写の前に神山政良氏をはじめ三人の後援団体代表が替わるがわる壇上に立って挨拶し、超満員の会場から割れんばかりの拍手が送られた。 『ひめゆりの塔』の公開試写会を協会、婦人会、学生会が共同で主催したことは、沖縄出身者が支持政党や保革の違いにとらわれることなく、沖縄の日本復帰運動で統一行動をとる出発点になった。試写会から間もない1953年2月には、保革合同の沖縄諸島祖国復帰国民大会が神田共立講堂で開催された。それを契機に、沖縄返還の国民運動を持続的に推し進める中心母体として、この年11月、神山政良氏を会長に「沖縄諸島祖国復帰促進協議会」が結成された。それ以後、党派を越えた沖縄返還運動の流れに学生会の運動も合流していくことになる。 それと同時に、学生会は独自の立場から沖縄問題についての研究活動や啓蒙活動や広報活動も展開していた。これらの活動の模様や成果は、学生会発行の学生新聞で、日本在住の沖縄出身ばかりでなく、沖縄現地にも伝えられ、それなりの影響力を持っていた。この学生新聞を、アメリカ占領軍当局や琉球大学当局は危険文書としてマークしていた。 また、沖縄問題を内外の平和運動の中でも取り上げてもらうために、反戦・平和の集会があれば、学生会から出かけて行って、アメリカの軍事基地になっている沖縄の実態を報告し、沖縄問題解決のための協力を要請するようにしていた。今、あらためて年表で調べてみると、1952年10月には北京でアジア・太平洋地域平和会議が、11月にはウィーンで諸国民平和大会が開催されている。こういう世界的規模の平和集会の際は、出席する日本代表に沖縄問題を提起するように依頼したり、沖縄問題を訴える長文のメッセージを日本代表に託して届けたりしていた。このように国際的な運動にまで視野を広げた学生会の活動も、先に触れた「沖縄諸島祖国復帰促進協議会」に継承された。そして、1955年4月、ニューデリーで開催されたアジア諸国会議に際しては、会長の神山政良氏が日本代表の一人として直接参加し、沖縄返還決議を採択させるまでに国際世論を高めた。 その間の1949年末頃から大学を卒業する53年3月まで、私は学生会の中心メンバーの一人として活動していたが、先にも触れたように、1952年中頃、日本共産党に入党した。アメリカの軍事占領支配下にあって軍事基地化されつつある沖縄を解放するには、アメリカの世界戦略に対抗する国際的な連帯の力が必要であると考えたからである。共産党は世界の革命勢力・平和勢力の連帯を目指す党というイメージがあった。 動機がそういうことであったから、私は南灯寮細胞に所属して活動も沖縄問題に集中し、大学での党活動に関係したことはない。学生会の活動を通じて共産党員になった沖縄出身の学生はかなりの数に上るが、多くが私と同じ動機で入党し、同じ立場で活動していた。 私の他にかなりの数の沖縄出身学生が入党したのには、日本共産党指導部の戦術転換も一つの好条件になっている。1951年10月の日本共産党第五回全国協議会は、沖縄・奄美・小笠原諸島の「諸君とともに断固として闘う決意を新たに」する声明を発表し、これら諸島の日本復帰運動を支持する態度を明確にした。そしてまた、1952年7月4日付の徳田球一書記長の論文『日本共産党30周年にさいして』は、「党の幹部達がストライキ、デモンストレーション等の実力行動のみに精力を集中して、国会や地方議会の選挙等のごとき問題を軽視する傾向」をいましめ、「公然活動と非公然活動との統一に習熟」しなければならないと説いた。それを受けて、共産党指導部は武装闘争の軍事方針を事実上中止し、現在はその実行の段階ではなく、準備の段階である、と戦術を転換した。それで、沖縄出身の学生活動家が入党して、合法的で公然たる沖縄の日本復帰運動をするのに都合がよい環境になっていた。 5 アメリカ軍政下の沖縄へ 沖縄非合法共産党の設立と党中央の対沖縄方針 1953年3月、大学を卒業した私は契約学生の義務を果たすために、沖縄に帰ることになっていた。ところが当時、「(日本共産)党内には日本の完全解放なしには、琉球の日本復帰はあり得ないという思想が、相当根強く浸透していた」(「琉球対策を強化せよ」『平和と独立のために』1954年4月1日付)。この考え方から、沖縄出身の学生党員は帰郷せずに日本に留まって、党活動をすべきであるとされていた。私もその意見に従い、帰郷を見合わせることにして、しばらくはアルバイトで食いつないでいた。 そこへ共産党三多摩地区委員会から指示があって、私は南灯寮細胞から非合法地区委員会の機関紙部に所属替えされた。私に与えられた任務は、党の非合法機関紙『平和と独立のために』(以下『平独』と略)を作成する作業の一部で、タブロイド版の孔版謄写印刷をするための原板作製であった。対日講和条約発効と同時に合法機関紙『アカハタ』が既に復刊されていたが、非合法機関紙『平独』も依然として発行されていた。それは、官憲の手入れがある場合に備えて、印刷工場で一括印刷するのではなく、地方、地区毎に分散して印刷していた。 その原板を作るには、先ず熱して熔解したニカワの液に感光剤を混ぜて薄い平板にし、乾燥させる。その上に、半透明の薄い和紙に印刷した『平独』紙面の原紙をのせて、感光させる。そのニカワの板を水で洗い流すと、感光しない文字の部分だけが水に溶けて孔になる。それを再び乾燥させると、孔版謄写印刷用の原板になる。 この作業を、党員や支持者の住宅の風呂場にこもって、自分一人だけでするのだが、何度試みてもうまくいかない。ほとほと閉口して、潰れそうになっているところへ、契約学生として沖縄に帰郷せよ、という党本部の指示が伝えられた。沖縄に共産党ができたから、沖縄に帰って党活動せよ、というのである。私は、陸に打ち揚げられた魚が水に返される思いで、喜んで帰郷の準備にとりかかった。 先に述べたように、敗戦後日本から分離された琉球諸島では、当初、四つの群島毎に地域政党が結成されたが、共産党はなかった。共産党が結成されたのは、奄美大島からの呼びかけによる。 奄美大島では、沖縄と事情が異なり、1947年に、中村安太郎氏ら戦前・戦中に日本共産党員であった人たち8名によって、非合法の奄美共産党が結成された。奄美共産党は、結成の当初から東京の日本共産党本部と連絡をとり、その出版物なども取り寄せるなどしていた。ところが間もなく、その活動は米軍の軍政府に探知され、中村安太郎氏は日本共産党機関紙『アカハタ』等を密かに取り寄せた廉で逮捕され、軍事裁判で重労働一年の刑を科された。それと前後して、共産党の影響下にある奄美青年同盟の結成許可申請も却下された。その後、形期を終えて出獄した中村安太郎氏は、1950年に合法政党として結成された奄美社会民主党の中で合法活動をすることになる。 先にも触れたように、1952年4月の対日講和条約発効に合わせて、アメリカ占領軍は奄美、沖縄、宮古、八重山の四群島を統括支配する琉球列島米国民政府(通称USCAR。民政府といっても実質は軍政府であり、以下米軍政府と呼ぶことにする)を新設し、その代行機関として琉球政府を発足させた。この新たな情勢の展開に対応できるように、沖縄人民党と奄美社会民主党は統合して、琉球人民党になった。その際、社会民主党を合法舞台として活用していた非合法の奄美共産党は沖縄にも活動の場を広げ、沖縄に渡って来ている奄美出身党員数名よりなる沖縄細胞を組織した。細胞長(キャップ)には林義巳氏が選ばれた。 沖縄細胞のメンバーは、人民党の合法活動と米軍基地工事に従事する奄美出身労働者の組織活動に力を注ぐ一方で、人民党の沖縄側幹部に非合法共産党の結成を呼びかけた。その非合法共産党のことを奄美の党員は「基本党」と呼んでいた。 奄美からの呼びかけに対し、人民党の沖縄側では、土地栄氏、仲里誠吉氏ら若手幹部の中に賛成の人もあったが、書記長の瀬長亀次郎氏は反対した。反対の主な理由は、沖縄で人民党とは別組織の非合法共産党を結成すると、党の中に党をつくること(党中党)になって人民党の組織を壊す惧れがある、と懸念されたからである。それは、瀬長氏の過去の共産党員としての経験と無関係ではない、と思われる。 瀬長氏は、鹿児島にあった第七高等学校理科在学中の1928年11月、九大学生の共産党員をかくまったという犯人隠匿の疑いで逮捕され、20日間拘留されて不起訴になったが、それが理由で七高を放校になった。それから一旦沖縄に帰郷し、熊本の野砲連隊で兵役を終えた後、神奈川県に移り住んで、労働運動に身を投じた。その間の1931年11月に日本共産党に入党し、翌1932年5月、丹那トンネル工事の労働争議の指導中に逮捕され、治安維持法違反で懲役三年の刑を科された。非転向で刑期を終え、出獄したのが1935年4月である。 この経歴を見ると、瀬長氏が労働運動に身を投じてから出獄するまでの期間は、1929年4月16日の全国一斉の共産党員検挙(4・16事件)によって壊滅的な打撃を受けた非合法共産党と、合法政党として同年11月に設立された大山郁夫を委員長とする新労農党との対立・確執で、両党とも勢力不振に陥り、一方では右翼社会民主主義者がファシズムと妥協して、反ファシズム統一戦線が挫折した時代と重なっている。 瀬長氏は、この時期の苦い経験から、一方では日本共産党の秘密結社的でセクト主義な非合法活動に批判的になり、他方では右翼社会民主主義者に強い不信感を抱くようになったと思われる。そういう経験から得た教訓を沖縄人民党の組織や大衆の中での公然たる政治活動に生かしたのではなかろうか。それは結党に当って党名をきめるときの経緯からも伺える。 当山正喜『沖縄戦後史・政治の舞台裏』(沖縄あき書房、1987年)には次のように書かれている。 |
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党名をめぐって、瀬長亀次郎は「労農党」を主張、浦崎康華は「社民党」を望んだ。だが、当時の社会情勢からみて階級性をはっきりだすのはまずい、米軍につぶされる恐れがあると考えた池宮城は「階級性は表に出さない方がいい」と力説して、ついに人民党とした。(中略)池宮城はいう「米軍から弾圧がないように左翼的な党名を避け、カムフラージュした」。しかし、瀬長は「反ファシズム統一戦線の立場から人民党にした」という。 |
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瀬長氏によると「(沖縄人民党の創立に)集まった同志たちは、そのほとんどが戦前沖縄の社会運動に参加した経験や治安維持法で検挙、投獄されたことのある進歩的な人びとであった」(『瀬長亀次郎回想録』新日本出版社、1991年)。その進歩的な人びとの中には共産主義者もおれば左翼社会民主主義者もいる。これらの人びとを広く結集した左翼革新の合法政党として沖縄人民党は結成されたのである。その際、党創立に参加したメンバー皆が、瀬長氏が言うように「反ファシズムの統一戦線の立場から」党名を考えていたかどうかは疑問だが、確かなのは、誰も非合法の共産党をつくることを考えていなかった、ということである。瀬長氏も例外ではなかった。 ちなみに、瀬長氏が右翼社会民主主義者に対して抱いていた不信感は、沖縄社会大衆党の第二・三代委員長であった安里積千代氏を「沖縄におけるファシストの中核をなしている裏切り分子、右翼社会民主主義者」(『世界』岩波書店、1958年10月号)と論難するほど強烈であった。 さて、その瀬長氏が非合法共産党の結成に同意を表明したのは、後述の日本道路社(清水建設の下請け)のストライキが勝利した1952年6月26日、瀬長氏と親しい小さな食堂の二階座敷で林義巳氏と二人だけで話し合った席上であったという。そこで瀬長氏は林氏に 「義巳君、[非合法共産党の結成に反対して―筆者注]すまなかった。自分が誤った。いまから一緒に闘おう」と告げたと言う(『戦後初期沖縄解放運動資料集』第三巻所収「林義巳インタビュー記録」)。 日本道路社の争議は奄美共産党沖縄細胞が奴隷的な労働条件下にある奄美出身の出稼ぎ労働者を組織し、世論と立法院議会を揺り動かして勝利に導いた。この歴史的な事件は、アメリカ軍に占領されて軍政下にある沖縄では、非合法共産党の非行然の地下活動で労働者の闘争を呼び起こし、それを人民党の公然、合法の政治活動に結びつけることの重要性を実証したといえる。それを予見できなかったことについて、瀬長氏は「誤った」と自己批判したのであろう。それに当時は、米軍政府の人民党非公法化の意図が露骨になり、それに対して、一方で人民党を合法の革新政党として防衛しながら、他方では、人民党が非合法化された場合でも、大衆闘争を組織し、推進する力量を持つ地下組織を整備しておく必要がある、と痛感されていた。そういう事情が重なって、瀬長氏も非合法共産党の結成に同意したと思われる。 それからほぼ一年経って1953年7月、沖縄側人民党幹部と奄美共産党幹部は那覇市で合同の会議を持ち、琉球列島全域を活動範囲とする非合法共産党を結成し、東京の日本共産党本部に勤務している沖縄・奄美出身の党員を介して、「日本共産党琉球地方委員会」としての承認を党中央委員会(以下、党中央と略す)に要請した。 それを受けて党中央は、南西諸島を対象とする対策委員会を新設し、沖縄・奄美現地の党を指導する体制作りに着手する。対策委員会の実務は、それまで党本部の市民対策部にいて、沖縄出身党員グループの指導も任されていた沖縄出身の高安重正氏が担当することになった。そこで打ち出された党中央の方針が、沖縄出身の学生は、日本に残って党活動すべきであるという従来の方針を転換して、卒業後は沖縄に帰って党活動をしなければならない、としたことである。党本部の私に対する帰郷の指令は、この転換した新方針の適用第一号であったわけである。 帰郷と公職追放 ところで、帰郷となると、パスポートの問題があった。もともと契約学生の場合、契約学生の身分証明書で沖縄・日本間の住来は自由にできた。それが1953年4月以降は、契約学生も沖縄・日本間の出入には一般のパスポートが要ることになった。私が身辺を片付けて帰郷の途に就いたのは、この年の9月である。パスポートの発給を申請した方がよいかどうか、迷ったが、契約学生の身分証明書で渡航できなければ、あらためてパスポートの発給を申請すればよいと考えて、私は鹿児島港から出航する船に乗ることにした。そして、東海道線、山陽線、日豊線と列車の旅をし、宮崎県に疎開してきた家族のもとに寄ってから、鹿児島に向かった。 鹿児島港では、案の定、乗船前の出国手続きで私の身分証明書が問題になった。私は 「契約学生として帰郷の義務があり、去る3月に沖縄に帰るはずだったのが、個人的な事情で遅れたのだから、出国を認めて欲しい」 と出入国管理の係官に頼み込んだ。幸いなことに、係官は沖縄二中で私と同期の林宰俊君(旧姓赤嶺、弁護士)と第七高等学校文科で同級の旧知であった。係官の彼は 「五高と七高との対校試合の際に、赤嶺君から紹介されて会ったことがある」 と私を憶えていてくれた。そういうよしみもあって、彼は「沖縄に着いてからどうなるか、責任は持てないけど」 と断った上で、私の出国を認めてくれた。彼の好意に感謝して、私は白雲丸という客船に乗船した。 那覇までの船旅は順調だった。9月26日、那覇の港に着くと直ちに、横付けになった船に出入管理部の係官が数人乗って来て、船上で入域手続きを始めた。そして、手続きがすんだ乗客は次々と船を降りていった。ここでもまた、私の身分証明書が問題となり、私は下船を差し止められた。旅客全員が船を降り、私だけが残っているところへ琉球政府警察局の出入管理部長がやってきて、「あなたの入域については、米軍政府に問い合わせるので、そのまま船で待っているように」と言い残して船を降りていった。最悪の場合でも鹿児島に送還されるだけだ、と思い巡らしながら待っていたら、案外早く、一時間ほどして出入管理部長は船に戻って来た。そして、船を降りてよいと告げ、無表情で事務的に入域手続きをすませてくれた。 それから、旅装を解くいとまもなく、就職先として琉球政府から指定されていた那覇商業高等学校に着任の挨拶に伺った。ところがである。校長は、沖縄二中で漢文を教わった宮島(旧姓、伊良波)長純先生で、私と顔を合わせて挨拶を受けるなり 「君の就職内定は取り消された」 と言い渡したまま、黙して語ろうとしない。取り消しの理由を聞いても 「それは琉球政府の文教局に行って聞いてくれ」 と答えるだけで、何の説明もない。何やら私と話すことさえはばかられるといった様子である。仕方がないので、取って返す足で琉球政府文教局を訪ねることにした。 文教局の局長室に入ると、正面に局長席があり、その手前左側には育英会会長の席があった。局長は沖縄二中で英語を教わった小波蔵政光先生で、育英会会長は同じく二中で国語を教わった嶋袋全幸先生であった。局長は、私が内定取り消しの理由を尋ねたのに対して、「そういうことになった」と答えるだけで、ここでも満足な説明は得られなかった。私と向き合った局長の顔には、人目をはばかって私との対話を避けようとする困惑の色がありありと浮かんでいた。 私は、取り付く島もない思いで文教局を辞し、政府庁舎の外に出た。その時である。局長と私との対面を黙って見守っていた嶋袋先生が席を立って、私の後を追って来た。先生は私を政府庁舎の裏に連れて行き、周りにひとけがないのを確かめてから、声を落として話して下さった。 「実はね。アメリカ軍から指令が出て、波照間島の中学校以外には君を如何なる公職にも就けてはならない、と言って来たのだよ。それを文字通り受取って、君を波照間島に送るわけにはいかないしね。そういう事情だから、君は東京に引き返した方がよいと思うが、どうだろう。そのために必要な旅費は僕が考えてあげるから」 後に他の方面からも聞いた話を総合して分かったことだが、契約学生卒業予定者の就職先を内定する際、米軍当局はいち早く琉球大学や琉球銀行等に対して、私の採用を禁ずる指令を出していたらしい。そのために、私の就職先はなかなか決まらず、しばらくは空白になっていたという。それが那覇商業高校に内定したのは、そこに勤めていた私の友人たちが「いい機会だから、チャンスを逃がさないで採用するに限る」と、校長に私の採用を焚き付けた結果であったそうである。校長も文教局長も、当初は、それで問題はないと考えていたらしい。しかし、米軍当局は見逃さなかった。私が那覇の港に上陸し、赴任する段になって、その情報を知らされた米軍政府民間情報教育部長ディフェンダーファーは、直々に琉球政府文教局長室に怒鳴り込んで来て、私の採用取消を命じたというのが事の次第である。その際、ディフェンダーファーが波照間島を持ち出したというのは興味深い。 日本列島最南端の太平洋上に浮かぶ孤島波照間島について、新川明氏(詩人、元沖縄タイムス社社長、会長)は、著書『新南島風土記』(大和書房、1978年)の中で、次のように述べている。 「今日でも首里あたりのお年寄りが、小さい孫たちが悪さをすると、いうことをきかないと波照間島へやってしまうぞ、とおどしているのを見かける。これはかつてこの島が、琉球王府の流刑地だったことの名残りである。」「八重山地方はとくに重罪人の流刑の地とされ、わけても波照間島は断罪となるべきところを死一等減じられた終身刑の受刑者を送り込んだという。」「島の人たちの説くところによると、このように重罪人の流刑地ではあっても、いわゆる殺人・強盗といった種類の凶悪犯ではなく、政治犯の流されてくるところだった点を強調する。」 ディフェンダーファーは、私を波照間島へ流すならよい、それができないなら一切の公職から追放せよ、と琉球政府に命じたわけである。 これは私の想像だが、文教局長の小波蔵先生や商業高校の校長宮島先生には米軍当局から相当な圧力、それも生活の道が閉ざされかねないほどの脅迫的な圧力が加えられたに違いない。そうでなければ、教え子である私との会話をはばかったり、避けたりすることなど、あろうはずがない。アメリカの軍政は師弟の間さえ引き裂く苛酷なものだった。そういう情況の中にあって、島袋先生は事の?末を話して下さったばかりでなく、私の進退についても親身になって心配して下さった。私は先生の心づくしに感謝しながら、冗談を交えて答えた。 「私は琉球育英奨学生として郷土の復興に尽くす義務を負っています。その義務を果たすために帰って来たのですから、ここに残ります。ここは私の郷土ですから」 「そう」と軽く頷かれた先生の顔には初めて徴笑みが浮かんだ。それが、私には、あの中学時代、近眼の眼鏡の奥から慈愛に満ちた眼差しでにこやかに生徒たちを見守っていた先生の明るい徴笑みに思われてならなかった。今でもそのように思い出される。 さて、以上のような次第で公職に就けなくなった私は、しばらく瀬長亀次郎氏宅に居侯をさせてもらい、その間に共産党中央からの連絡事項を琉球地方委員会に伝えた。その時は奄美諸島の日本復帰直前であった。それで、私が参加した琉球地方委員会は、沖縄と奄美が別々に党を建設することを取り決めて、解散することになった。その際、奄美出身で人民党の常任委員であった林義巳氏と全沖縄労働組合協議会書記長であった畠義基氏は沖縄に残ることになった。 沖縄の党は、名称を日本共産党沖縄県委員会(以後「沖縄の党」と括弧付で書くことにする)とし、委員長は瀬長亀次郎氏で、書記局の実務は私が担当することにした。奄美の党は日本共産党鹿児島県委員会に所属する奄美地区委員会とすることにした。 帰郷当時の沖縄の状況 琉球列島統治機構整備の第一歩として実施された1950年5月の沖縄群島知事選挙が住民の日本復帰運動を呼び起こす契機になったことについては先に見た。同時に行われた四つの群島の知事と議会議員の選挙の結果は、知事も職員も沖縄・奄美の日本復帰を志向する人たちで占められた。そして翌1951年、住民が日本復帰の運動を開始したとき、知事と義員たちはその先頭に立って運動を盛り上げた。 アメリカ軍当局者は、琉球人は日本人とは異なる少数民族であると見て、琉球の日本からの分離独立は琉球人の望むところで、日本国民の間でもそれほどの抵抗はあるまいと踏んでいた。ところが当てが外れた占領軍当局は、1952年4月、対日講和条約発効に合わせて琉球政府を発足させるとき、群島政府と群島議会を廃止し、公選する予定の琉球政府行政主席の選挙実施は無期延期して、アメリカ占領軍の任命制にした。 その行政主席には比嘉秀平氏が琉球軍司令官ビートラー少将によって任命された。比嘉氏は一年前の1951年4月に発足した琉球臨時中央政府の主席に任命されていたが、中学校の英語教師であった経歴の上にアメリカ占領軍当局に協力的であったのが買われたのであろう。氏は社大党の結成にも参加し、同党の中央委員であったが、「沖縄の日本復帰は時期尚早である」と党の即時日本復帰の主張に異議を唱え、「日本が十分な経済力を回復しないうちに日本に復帰することは、病める母親のすねかじりをする子どものように荷やっかい扱いされる。だから、当面はアメリカの統治政策に協力した方が県民の利益になる」と実利主義の現実容認路線を主張していた。その結果、社大党内では即時日本復帰論者と日本復帰時期尚早論者とが激しく対立し、やがて比嘉主席とその同調者は社大党を脱党して、1952年8月31日、アメリカの統治に協力的な親米与党として琉球民主党を結成した。それ以後、比嘉主席らの脱けた社大党は即時日本復帰を主張する中道革新野党の道を進むことになる。 アメリカ占領軍当局も、民主主義を口にしている手前、立法院だけは公選制にして、1952年3月2日、住民の直接選挙で31人の議員が選出された。その勢力分野は社大党15、人民党1、無所属15であったが、当時は社大党が与党的存在で、無所属は与野党の何れとも言えなかった。そして、31人の議員はみんな、ニュアンスの違いはあれ、沖縄・奄美の日本復帰を主張していた。 その立法院は、開会早々4月29日、満場一致で日本復帰の実現と行政主席選挙の実施を要請する決議を行い、つづいて5月12日には、戦時占領下の布告、布令、指令が有効とされている根拠を問う決議を行って、軍政の継続に抵抗を示した。それ以後立法院は、それまで無権利の捕虜として扱われていた住民の生活と権利の問題を積極的に取り上げて、その解決のために努力を重ねていった。その際、最も切実な問題は軍用地問題と並んで労働者の待遇改善と労働者の権利を保障する労働法制定の問題であった。 1950年に大規模な軍事基地建設が始まり、それを地元の建設業者ばかりでなく、日本、アメリカの建設業者も請負い、労働者は琉球列島の各地の他、日本とフィリピンからも沖縄本島に渡ってきた。賃金は人種差別され、日本人、フィリピン人と琉球人(奄美・沖縄人)との格差は大きかった。奄美・沖縄の労働者は低賃金の上に、タコ部屋に押し込められ、予告のない解雇に苦しめられていた。この状況を打開するために、人民党は労働者に呼びかけて、1952年5月1日、戦後の沖縄で第一回のメーデーを開催し、労働組合結成と労働法制定の気運を高めた。 6月に入ると、アメリカ軍の発電所建設を請け負っていた清水建設の下請け会社、日本道路社の労働者143人のストライキが起こり、奴隷的な労働者の惨状が明るみに出た。その日本道路会社の争議を皮切りに、軍事基地工事に従事する労働者の争議が相次ぎ、しばしばストライキに発展して、労働者の生活と権利を守れという世論が高まった。 それを受けて立法院では、労働現場や宿舎の現地調査をして、労働者の待遇改善要請を全会一致で決議するとともに、人民党の瀬長議員が発議、提案している労働三法制定の審議に入った。 そういう状況を背景に、軍事基地建設工事に従事する労働者ばかりでなく、広く各種の民間企業従業員や官公庁職員のあいだでも労働組合結成の気運が急速に盛り上がった。 立法院と労働者のこうした動向が人民党の活動で呼び覚まされ、指導されていると見た琉球軍司令官兼米軍民政府副長官ビートラー少将は、1952年8月19日、開会中の立法院に自ら赴いて、「人民党は共産党である」と人民党を名指しで非難攻撃する反共演説を行った。 その直接のねらいは、奄美大島笠利村における立法院のやり直し選挙に立候補している人民党公認候補への投票を妨害することにあった。笠利村では、3月に行われた第一回立法院選挙で不正投票が発覚して、選挙をやり直すことになり、3月の選挙では次点で落選した中村安太郎氏が立候補していた。そして瀬長亀次郎氏は他の人民党幹部らと共に中村候補の応援で奄美大島に行っていた。ビートラ演説は瀬長議員が不在の立法院議場で行われたのである。その演説の全文は沖縄と奄美のすべての新聞に掲載され、新聞は人民党攻撃の反共宣伝に利用されていた。 アメリカ占領軍当局は、笠利村のやり直し選挙に干渉するばかりでなく、より基本的には、立法院で社大党や無所属の議員が人民党と協力するのを阻止して、立法院でも、民衆の中でも、人民党を孤立させようと狙ったのである。 しかし、その狙いは民衆の抵抗で打ち砕かれた。笠利村のやり直し選挙の結果は人民党の中村候補が当選し、人民党の政治的影響力は立法院の内外で一段と大きくなった。 立法院では、アメリカ占領軍当局が労働法の成立を阻止するために再三にわたって圧力を加えてきたが、院外の労働運動が高揚する中で、1953年7月、労働三法を可決した。アメリカ占領軍当局も、アメリカ軍に雇用されている軍労働者への適用を除外する条件で労働法の成立を認可した。それ以来、占領下沖縄の労働法は、民間企業や公務員に適用される「民労働法」と、アメリカ軍の雇用される軍労働者に適用される「軍労働法」(布令116号「琉球人被用者に対する労働基準及び労働関係」)との二本建てとなる。「軍労働法」では罷業権が認められなかったが、それはともあれ、労働法の成立は労縄組合の結成を急速に押し進めるものになった。 このように情勢が進展する中で、1953年4月には、沖縄本島中部地区の立法院議員補欠選挙があり、社大党と人民党は天願朝行氏を統一候補に推して、比嘉任命主席の親米与党を破った。この結果についても当てが外れたアメリカ軍当局は、天願候補の経歴に難癖をつけて、選挙管理委員会が告示した天願候補の当選を無効にし、再選挙を命じた。これに対して社大党と人民党は「植民地化反対共同闘争委員会」を結成し、再選挙を拒否して対抗した。この共闘委員会は、アメリカ軍当局の命令で解放させられたが、その結成と運動は社大・人民両党の提携を軸に住民を統一戦線に結集して、軍の占領政策に正面から組織的に抵抗した最初の政治的経験であった。 このようにアメリカ占領軍と住民の対立が鋭くなってきた1953年は、朝鮮戦争の早期終結を公約に掲げて生まれたアメリカのアイゼンハワー政権が、ニュールック戦略を策定し、実行に移した時期である。 ニュールック戦略下の基地建設と土地接収 ニュールック戦略は、朝鮮戦争で膨大になったアメリカの常備兵力と軍事費を削減しながら冷戦に対応する戦略として策定された。その骨子は、巨大な核戦力と海外核兵器基地を強化する一方、同盟国の兵力を増強して局地戦への即応戦略を高め、それにCIA(中央情報局)の隠密行動や特殊部隊の作戦を組み合わせるというものである。特にアジアでは、朝鮮で中国軍と直接交戦した経験から、ソ連よりも中国を敵視する立場に立ち、冷戦開始時に韓国と台湾を注意深く除いて設定していた反共の防衛線、アリューシャン群島―日本列島―沖縄―フィリピンを結ぶ島嶼線に、「全面戦争の危険を冒して」台湾を加えた。それだけに、中国に対する核兵器基地・出撃基地としての沖縄基地の重要性は一段と高まった。 アメリカは、朝鮮戦争で283万余の地上軍と莫大な軍事費を投入しても勝利できなかった経験を踏まえて、アジア各地の地上戦では、現地の反共同盟国の軍隊を戦わせる方針を採り、李承晩政権、蒋介石政権、ゴ・ディン・ジェム政権のような反共独裁政権に軍事援助と経済援助を与えて、韓国、台湾、南ベトナムの常備兵力を増強することにした。後のベトナム戦争にしても、導火線は南ベトナム傀儡政府軍を増強したアイゼンハワー政権の手で用意されたと言える。 日本の場合は、再軍備と米軍基地に反対の国民感情があることを考慮して、自衛隊の地上兵力の増強目標を35万とするのと引き換えに、駐留米軍のうち地上軍はすべて撤退し、緊急出撃に必要な海兵隊は沖縄に移すことにした。その結果、在日米軍基地の75パーセントが沖縄に集中することになる。現在普天間基地の移設先とされている名護市辺野古周辺のキャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン等の海兵隊基地はこの計画に沿って建設されたものである。 沖縄は制約のない核兵器基地である上に、空軍、海軍、海兵隊、特殊部隊の自由な出撃基地であり、さらに兵器、弾薬その他の軍需物資の貯蔵・補給基地でもあるという軍事上の重要な役割をおわされた。そういう沖縄基地を、アメリカ軍は、アジア戦略全体を支える最重要の軍事基地という意味から「太平洋のキーストーン」と呼び習わした。 以上のような軍事基地構築のためには、戦時占領で囲い込んだ軍用地以外に、新たに広大な土地が必要になる。そこで土地所有者(地主)が軍用地として提供する賃貸契約に応じない場合、アメリカ軍は、1953年4月3日に公布・施行した布令109号「土地収用令」を発動して、一方的に必要な土地を接収した。ニュールック戦略とともに、アメリカ軍による新たな土地の強制接収が始まったのである。 アメリカ軍が農地を接収するときは、先ず「何処其処の土地はマスタープランの赤線内にある軍用地であるから、作物、家屋等の建造物を撤去せよ」と住民に通告して来る。マスタープランとは、簡単に言うと、例えば嘉手納空車基地とか、普天間海兵隊基地とか、キャンプ瑞慶覧とかキャンプ・シュワブとかいう、それぞれ個別の基地についての、土地利用と施設建設の計画である。事前に住民に知らせることなく、極秘裡に計画された基地の範囲は、地図上で赤線を引いて示してある。それをマスタープランの赤線と呼んでいた。風俗営業の「赤線地帯」とは異なる。なお、マスタープランの内容については、梅林宏道著『情報公開法でとらえた沖縄の米軍』(高文研、1994年)に詳しく述べられている。 アメリカ軍は、土地収用令の公布直後に、真和志村(現那覇市)安謝、銘刈両区の住民に接収予定地の作物撤去を通告し、数日後の4月11日には、いきなりブルドーザーを農地に乗り入れて整地作業にとりかかった。問答無用の一方的な農地の強制接収である。 ついで、アメリカ軍は小禄村(現那覇市)具志区民に接収予定地の作物撤去を五週間前に通告して来た。具志区民は安謝、銘刈両区の経験を踏まえて対策を協議し、アメリカ軍が土地接収の作業に来たら、早鐘を打ち鳴らして区民全員が作業現場に集まり、作業を阻止することを申し合わせた。 12月5日、その日がやってきた。MP(米軍憲兵)とCICの警護つきでブルドーザーが具志の農地に乗り込んで来たのである。ガスボンベの早鐘が打ち鳴らされ、数百人の具志区民が駆けつけてきて、ブルドーザーの前に座り込み、作業を中止させた。農地接収の取り止めを要求する具志区民に対して、作業関係者は琉球軍司令部(RYCOM)司令官の指示を伺って来る、と言い残して一旦引き揚げた。それから二時間ほどして現れたのは米軍第29歩兵連隊の完全武装部隊である。数百人の武装兵がトラックから降りるなり、銃剣を構えて突き進んで来て、ブルドーザーの前に座り込んだ具志区民を蹴散らし、追い立てた。ブルドーザーは再び作業を始めた。 米軍武装部隊は野営テントを張って警備に当たった。まさしく、銃剣とブルドーザーによる土地の強奪である。 その日の夕方、私は瀬長氏宅にいた。そこへ具志から使いの人が駆けつけて来て、瀬長氏に米軍の武力土地接収の模様を手短に報告した。それを聞いた瀬長氏は、具志の人たちと相談に行く時間と場所を決めて、使いの人に皆への連絡を依頼した。夕食後、私は瀬長氏の供をして、具志区の会合に出席した。 場所は、人民党員で沖縄漁連労働組合の活動家である国吉辰雄氏宅で、八畳ほどの部屋一杯に区の主だった人たちが集まっていた。出席者はほとんどの人が瀬長氏と顔見知りで、親しく挨拶を交わした後、米軍の武力土地接収にどのように対処するか、話し合われた。そこで、立法院や行政主席への陳情では男も女もできるだけ多くの区民が参加して世論に訴える案などが出され、それを、更に区民全員に諮って、実行に移すことになった。 この話し合いに出席して、具志区民がブルドーザーの前に座り込む闘争に立ち上がるまでには、このような話し合いが積み重ねられていたことを、私は初めて知った。具志区民の土地取り上げ反対闘争はよく言われるような「住民の自然発生的な抵抗」ではなく、人民党の組織的活動に支えられていたのである。住民の抵抗を共産主義者の扇動によるものとして弾圧する口実をアメリカ軍に与えないために、人民党はできるだけ表立たないように心がけ、民衆に密着して民衆の自発性を高め、発揮させていたのである。 その一方、人民党は独自の演説会などの公然たる広報・宣伝活動で、米軍の武力による土地取り上げの実状をつぶさに報告して、米軍政を痛烈に批判し、アメリカの軍事占領支配に反対する世論を喚起していた。 私にとって、帰郷早々に具志の土地闘争に遭遇したことは、米軍政下における党活動の在り方を考える上で貴重な経験であった。 |
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6 革新統一勢力の前進と反共弾圧 立法院選挙における革新統一戦線の勝利 奄美が日本に復帰した1953年12月25日、アメリカ占領軍は立法院の解散を命じた。奄美選出の議員がいなくなると、親米与党である民主党の議席が過半数から半数以下になることが自明であったからである。立法院の議員定数31人のうち、奄美選出の議員は8人で、内訳は民主党6人、社大党1人、人民党1人であった。残る沖縄選出の議員は23人で、内訳は民主党11人、社大党10人、人民党1人、革新系無所属1人である。奄美選出議員の抜けた立法院は、与野党同数になり、無所属の1人がキャスティングボートを握る不安定な状態になる。そういう立法院の存在を、アメリカ占領軍は寸時も容認しなかったのである。 明けて1954年1月、アイゼンハワー大統領は年頭の一般教書で沖縄基地無期限保有の方針を明示した。それを受けて、琉球軍司令官オグデン少将は「復帰運動の継続は混乱を誘発し、共通の敵共産主義者以外に誰にも慰安を与えるものではない」と声明、日本復帰運動を禁止した。 次いで3月14日に行われた立法院選挙では、アメリカ占領軍の指令によって前回の中選挙区制は廃止され、代わりに沖縄を29の選挙区に細切れにした1選挙区1議席の小選挙区制が導入された。その区割りは、人民・社大両党の候補者を共倒れさせて民主党候補を当選させるように、念入りに作られていた。いわゆるゲリマンダーである。革新勢力が強い都市部では、特にそれがひどかった。那覇市は第17から第19までの3つの選挙区に分けられ、第18選挙区は人民党書記長の瀬長亀次郎候補と社大党委員長の安里積千代候補とが鉢合わせするように、故意に入り組んだ境界線で区切られていた。第19選挙区も人民・社大両党の有力候補者を競り合わせるようにしていた。そうすることで、アメリカ占領軍当局者は、人民党を立法院から締め出し、立法院を親米与党の民主党で固めることを狙ったのである。この立法院選挙で、沖縄住民はアメリカの沖縄基地無期限保有の意図にどのように応えるか、問われることになった。 私個人にとって、この選挙は帰郷後最初に取り組んだ政治闘争である。当時、私は那覇市に隣接している真和志市(現那覇市)ある小さな土建会社で事務職につき、その近くに住んでいた。先に述べたように公職から追放された私は、その後、就職の件で新聞社にも当たってみたが、私を採用すると米軍から紙の配給を停止されるという理由で断られた。そして、瀬長氏の紹介でやっと、従業員が数10人規模の小さな土建会社に勤めることになった。私は住居のある真和志の人民党支部に所属する一方で、非合法共産党の建設にも着手していた。そこで迎えた立法院選挙である。 この選挙に当たって、人民党は社大党に統一戦線の結成を呼びかけた。しかし、小選挙区制の下では候補者の調整ができず、両党の全面的な選挙協力は成立しなかった。そこで人民党は、那覇市3選挙区のうち2つの選挙区で独自候補の瀬長亀次郎氏(18選挙区)、大湾喜三郎氏(19選挙区)の当選を期し、隣接する真和志市の2選挙区では、社大党の平良良松氏(15選挙区)、西銘順治氏(16選挙区)と個別に政策協定を結び、人民党の候補をおろして、平良、西銘両氏を社大・人民両党の統一候補として推した。平良、西銘両氏との交渉は主として私が担当した。都市部以外で人民党の独自候補がいない選挙区では社大党候補を支持し、全住民に人民・社大両党の提携を軸にした統一戦線の結成を呼びかけた。 選挙の結果は、瀬長、大湾、平良、西銘の4候補とも当選し、都市部では5議席中4議席を革新勢力が獲得して圧勝した。各党の獲得議席数は民主党12、社大党12、人民党2、無所属3であった。社大・人民両党に革新系無所属1を加えた野党革新勢力が過半数の15議席を制し、立法院正副議長は社大党が占めた。それには都市部における革新勢力の4議席獲得が決め手になった。住民は、統一戦線結成のアピールに応えて、アメリカ占領軍の策謀を打ち砕いたのである。それを、4月23日付米軍『星条旗』紙は「共産主義者達は社会大衆党と連合することにより、立法院議長並びに副議長に共産党の同調者を選出することに成功した」と忌々しそうに書いている。この後、アメリカ占領軍は常軌を逸した反共キャンペーンを張って、弾圧の嵐を吹かせることになる。 日本共産党中央の軍事方針を拒否 そんな中、日本共産党本部の高安重正氏から、来る5月10日から3日間、党中央の方針を伝える会議を奄美の名瀬市で持つから、「沖縄の党」の代表を寄越せ、と連絡がきた。 半年前に日本に復帰した奄美の名瀬市へ誰が行くとなれば、渡航が拒否されることは分かっているから、密航する以外に方法がない。となると、名前と顔がよく知られている人民党幹部が行くわけにもいかず、会社を辞めて党専従になっていた私が行くことになった。 私はメーデーの直前、勤めていた土建会社の社長から「君を会社に勤めさせていたら、米軍基地工事に入札させないと、と言ってきているので、身を引いてくれないか」と言われ、それを機に、会社勤めを辞めて党活動に専念することにしたばかりだった。そこへ党中央から奄美への代表派遣を要請してきて、私が行くことになったのである。 私は那覇から出航するぽんぽん蒸気船に、洋上での途中乗船をあらかじめ頼んでおき、沖縄本島北部本部半島沖の海上でエンジン付のサバニ(クリ舟)から乗り移って、先ず与論島に渡り、それから島伝いに名瀬市に行った。 名瀬市では、中村安太郎氏宅で、奄美代表の中村氏とともに高安氏と会い、「琉球対策を強化せよ」と題する文書と「当面する闘いの方向」と題する文書を渡され、その説明を受けた。前者は1954年4月1日付『平独』紙に掲載された無署名論文で、日本全国向けに琉球対策を示したものである。後者は沖縄現地の党向けに出された方針書で、日本の民族解放民主革命を達成する力である民族解放民主統一戦線の運動を、沖縄では反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の運動として具体化し、発展させることを、当面する闘いの方向として示したものである。この2つの文書は日本共産党中央委員会が沖縄に関して戦後最初に出した政治方針を記述したもので、51年綱領を沖縄に適用したものである。 2つの方針書を読み終えて、説明した後、高安氏は 「日本の民族解放民主勢力が奄美を前進拠点にして、アメリカ帝国主義の完全軍事占領下にある沖縄を解放するのが党中央の方針である。沖縄もそれに呼応できるように、そろそろ武装闘争の準備をしなければならない」 と口頭で指示した。 1953年当時の日本共産党が、現在は武装闘争の実行段階ではなく、その準備段階である、と軍事方針を修正したことについては先に触れた。その修正した軍事方針を沖縄に対しても指令したわけである。先に触れた党中央の方針書にある「いまもっとも必要なことは全琉球を統一的に指導する党の指導機関の確立である」というのも、実は、奄美を前進拠点にして沖縄を解放する軍事方針に沿って観念的に考え出されたものである。 それを聞いて、中村氏は 「さすが中央の考えることは大したものですなあ」 と感嘆していた。私は、沖縄代表としてはもちろん、個人としても意見を述べるのを差し控え、中央の方針を持ち帰って、沖縄県委員会の討議にかけることにした。 私が名瀬市から沖縄に帰ってすぐに開かれた拡大県委員会の会議で、「当面する闘いの方向」として示された「反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線」のスローガンは全員に受け容れられた。アメリカの軍事占領支配に反対して祖国復帰を要求し、軍用地接収に反対して土地を守ることは、すでに、沖縄住民の統一要求になっていたからである。しかし、「武装闘争の準備」指令については、瀬長委員長が 「そんなことを沖縄で実行できるわけがない」 と最初に反対意見を述べ、他の委員も全員が同調した。 そこで沖縄県委員会は、党中央の武装闘争の方針は黙殺して、沖縄の現状に適した政治方針と活動方法を探りながら党建設を進めることにした。つまり、沖縄では、日本共産党中央の51年綱領に基づく武装闘争方針はシャットアウトされていたのである。 この会議が終わってすぐの雑談で、瀬長氏は冷笑とも苦笑ともとれる微笑を浮かべた顔を近くの席にいる私に向けて 「高安はこういう文章を書くのはうまいからね」 と同意を求めるように話しかけてきた。党中央の沖縄対策の方針書は高安氏の手に成るものと瀬長氏は見ていたのである。瀬長氏と高安氏は1930年前後に非合法下の日本共産党員として京浜地区で活動し、日本労働組合全国協議会(全協)の活動を共にした旧知の仲である。 以上の経過から次のように言うことができる。非合法共産党の建設に当初は頑なに反対していた瀬長氏が後に賛同したのは、武力革命方式を採っている日本共産党51年綱領を承認したからではなく、また、党中央の指導を要請するのに熱心だった奄美共産党の方針に同調したからでもない。瀬長氏が非合法共産党の結成に踏み切った理由については、先に述べたので、ここでは繰り返さない。 軍政下の反共主義弾圧 さて、立法院選挙の結果に危機感を募らせた米軍当局者と琉球民主党幹部は、人民党だけでなく社大党も反共攻撃の対象にした。民主党を代表して副幹事長新里銀三氏は、1954年4月10日、オグデン司令官に書簡を送り、反共主義の尖兵よろしく、人民・社大両党に対する厳しい対処を要望して、次のように述べている。「社大、人民両党の言行動を今後ともそのままに放任せんか反米、容共思想は全地域に拡大し、彼らの勢は旭日昇天の勢で培養され、民主党は軍の犬という悪宣伝のため其の勢力は弱体化の一途をたどり近い将来において衰亡するのではないかと憂慮されるが故に之が対策を強く要望致します。」 5月19日、オグデン司令官は琉球軍司令部に新聞関係者を招集して、反共の講釈をし、「ここ沖縄における共産主義の先導者は瀬長、大湾、兼次である」、「日本復帰は共産党の方針である。復帰を支持する社大党は共産党の方針に従っている」、「教職員は共産主義を教え、共産党員の補給の目的で教育を行なっている」と、人民党だけでなく社大党、教職員会をも攻撃した。 これより先、メーデーが近づいた4月下旬、米軍政府は「メーデーはカール・マルクスの誕生日を祝う共産主義者の祭典である。共産主義者でない者は参加するな。参加者は共産主義者とみなす」と声明して、労働者を脅迫した。それは米軍当局の命令による指名解雇の前触れであった。この前後から、組合のある多くの職場で組合活動家が解雇され、生まれたばかりの労働組合は次々と潰されていった。 また、日本復帰期成会の中核になっている教職員会に対しては、会長ら幹部の日本への渡航を拒否するなどの弾圧を加えて、日本復帰運動を封じ込めていった。 この時期、労働組合は米軍民政府の反共キャンペーンの下で幹部や活動家が指名解雇されて、壊滅状態に追い込まれつつあった。そのため、上部組織である全沖縄労働組合協議会(全沖労)は、加盟下部組織からの組合費の納入が少なくなり、極度の財政難に陥っていた。そんなある日、全沖労事務局長の畠義基氏がこんな話をした。「琉球政府労務課労政係の職員で実家が質屋の荻堂氏から全沖労事務局は5千B円(1B円=3日本円)を借りた。荻堂氏は、情報さえ提供してくれるなら、質草はなくても金は都合する、と言っている」。当時の5千B円は現在の日本円で10数万円の額である。それを無担保で貸してくれたというのである。私は、CICが経済的に苦境にある畠氏を諜報活動の標的にしていると直感して、今後荻堂氏からは借金しないように、厳しく注意した。 それから1月とたたない7月15日、米軍政府は、奄美出身の人民党中央常任委員林義巳氏と畠義基氏の両人に対し、48時間以内に沖縄から退去せよ、と命令してきた。ところが、48時間以内に那覇から出航する奄美行きの船便はない。現在のように航空便はもちろんない。だから、48時間たって、7月17日夕方になると、両人は逮捕される。両人に対する退去命令は両人の逮捕が目的であったのではないか。それは、畠氏からの情報提供が得られなくなったことに対し、CICと米軍政府が報復的攻撃を仕掛けてきたものであろう。林、畠両氏は退去命令に従うことを拒否して、潜行した。その後、畠氏は8月27日に潜伏先で逮捕されたが、その直後に林氏は密航で名瀬市に渡った。 畠氏が逮捕されて3日後の8月30日、米軍政府は「日本共産党の対琉球政策要綱」を手に入れたと発表した。そして、翌31日の地元2大紙『沖縄タイムス』『琉球新報』はその全文を2日がかりで掲載し、それが人民党に対する日本共産党の指令である、と大々的に報道した。 同じ日、民主党の星克立法院議員は人民党非合法化を狙った「共産主義政党の禁止に関する決議案」を立法院に上程した。この一連の動きについては、つとに新崎盛暉氏が次のように指摘している(新崎盛暉『戦後沖縄史』日本評論社1976年)。 |
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この文書(日本共産党の対琉要綱)は、米軍の反共攻勢のなかで重要な位置を占めている。それは星克たちの行動と連動しており、また、人民党事件の伏線をもなしている。しかし、これまでの戦後史記述のうえでは、この文書の真偽はほとんど問題にされていない。むしろほんものであることを自明の前提としているような記述が多い。 この文書を少し注意深く読んでみさえすれば、その内容自体から、これがデッチアゲられた文書であることは判然としてくる。もし今後、検討の余地を残す問題があるとすれば、それは、この文書が、まったくの根も葉もないデッチアゲなのか、それとも、何らかの根拠となる資料があって、ライカムG2だか、米民政府だかが、それに浅はかな改変を加えたのか、という点だけである。 |
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この文書(日本共産党の対琉要綱)は、米軍の反共攻勢のなかで重要な位置を占めている。それは星克たちの行動と連動しており、また、人民党事件の伏線をもなしている。しかし、これまでの戦後史記述のうえでは、この文書の真偽はほとんど問題にされていない。むしろほんものであることを自明の前提としているような記述が多い。 この文書を少し注意深く読んでみさえすれば、その内容自体から、これがデッチアゲられた文書であることは判然としてくる。もし今後、検討の余地を残す問題があるとすれば、それは、この文書が、まったくの根も葉もないデッチアゲなのか、それとも、何らかの根拠となる資料があって、ライカムG2だか、米民政府だかが、それに浅はかな改変を加えたのか、という点だけである。* この指摘が正鵠を射ていることは、最近公開されたアメリカ政府の機密公文書で裏付けられる。その機密公文書を紹介しよう(前掲資料集第1巻所収)。 先ず、1954年9月7日付、琉球軍司令官から東京の極東軍司令官に送られた報告書には、要旨次のようなことが記されている。 「陸軍諜報部員は、9月の第1週に、最近逮捕された共産主義政党である沖縄人民党のメンバー畠義基を那覇刑務所で尋問した。畠の答弁の骨子は、日本共産党と沖縄の共産主義分子との間に明白な緊密関係があることを示している。」 「米軍政府は、先週、日本共産党の54年4月1日付『平和と独立のために』紙に掲載された「琉球対策を強化せよ」と題する非合法共産党文書の解説(interpretation)を新聞に公開した。原本(original document)の内容は公開されなかった。すべての新聞は共産党文書の解説を大いに宣伝した。沖縄の新聞は今や、沖縄人民党が共産主義路線を唱導する政党であることを、確実に信じている。このことを当局は強く印象づけられた。共産党文書の解説を公に広めたことは、琉球立法院で共産主義と瀬長亀次郎を含むその委員会を調査するための立法を通過させる結果になった。」 また、1954年10月21日付で那覇の米国領事部からワシントンの国務省に送られた機密公文書には、次のような記述がある。 「沖縄人民党が真に日本共産党の沖縄版であるという陸軍部隊の立証は、『平和と独立のために』と題する文書を日本の機密の出所から入手したことによって強められた。日本共産党の出版物であるこの文書は琉球に関する共産主義者の政策を列挙している。人民党の指導者の言説は、全く明らかに、そこに設定された方針に従っている。この文書のG2による解説(G―2's interpretation of the document)のコピーは一緒に同封して届ける。この文書は、一般の新聞に公開された8月31日までは、機密にされていた。新聞の反響は好ましいもので、大方の民衆に共産主義に反対する感情を起こさせた。」 以上のアメリカ側公文書ともつき合わせて、歴史の事実を整理してみよう。 琉球軍司令部G2は、1954年4月1日付日本共産党非合法機関紙『平和と独立のために』を、日本の秘密諜報機関を通じて入手した。それで、ライカムG2は同紙掲載の「琉球対策を強化せよ」から、日本共産党の活動が沖縄現地においても始まったことを察知した。ライカムG2は、この「琉球対策を強化せよ」を下敷きにして、反共宣伝用の英文解説(G―2's interpretation of the document)とその日本語訳を作成した。それが8月31日の新聞に公開された「日本共産党の対琉球政策要綱」である。 人民党弾圧事件 ライカムG2所属のCICは、8月27日に逮捕した畠義基氏を尋問し、彼の自供から、日本共産党沖縄県委員会の構成や、私が奄美に密航して党中央の方針を持ち帰り、それを県委員会で討議した模様など、沖縄の非合法共産党の組織と活動について、畠氏の知っている限りの情報を確認した、と推察される。そこで、米軍当局は好機到来とばかり、かねがねG2が用意しておいた捏造文書「日本共産党の対琉要綱」を8月31日の地元新聞『沖縄タイムス』『琉球新報』に公表し、人民党は日本共産党と提携し、その指令で動いている政党である、と大々的に宣伝して、一挙に人民党の非合法化を図った。そういう米軍当局と連携して、同じ日の8月31日、民主党の星克立法院議員は「琉球内に共産主義政党あるいは共産主義政党と提携する政党が存在するか否か調査の必要がある。存在するとすればただちに非合法化する必要がある」という決議案を立法院に上程した。立法院会議では、人民・社大両党議員の抵抗に遭って決議案の後段部分は削られ、共産主義政党を調査する特別委員会が設置された。それを、米軍当局者は、「日本共産党の対琉要綱」を新聞が大いに広めてくれた結果である、と評価したのである。 さて、立法院に設けられた共産主義政党調査特別委員会だが、この委員会が実際に調査活動を進めるとなると、人民党の非合法化が不可能になることに、米軍当局もやがて気づいたに違いない。というのは、立法院が米軍発表の『日本共産党の対琉要綱』なる文書の信憑性を調べるとなると、それが捏造文書であることが分かってしまうからである。だからと言って、その下敷きとなった日本共産党非合法機関紙『平独』掲載の方針書「琉球対策を強化せよ」を持ち出すわけにもいかない。この方針書は日本共産党の党内文書であって、沖縄人民党に対する指令書ではない。そのことは、誰が読んでも、自明の内容である。だから、この文書の存在は人民党が共産党とは別個の組織であることの傍証にしかならない。 米軍当局は、尋問した畠義基氏の自供によって、日本共産党の下部組織としての沖縄県委員会が組織されたことも既に知っていた。その沖縄の共産党は元々が非合法下で組織されているので、今更あらためて非合法化する意味がない。非合法共産党の活動を封じ込めるためには、その公然活動の拠りどころとなっている人民党を非合法化するしかないが、それもできない、というジレンマに米軍当局はぶつかったのである。そこで米軍当局に残された手段は、人民党を直接弾圧することであった。そこで利用されたのが畠義基氏の退去命令拒否事件である。 8月27日に逮捕された畠氏は、6日後の9月1日、即決の軍事裁判で1年の懲役刑を科られ、即日刑務所に送られた。そして、米軍当局は服役中の畠氏を脅したり、懐柔したりして、畠氏が潜伏していた豊見城村の農家に誰が手引きしたかを自供させ、それに基づいて豊見城村長に選挙で当選したばかりの人民党幹部又吉一郎氏を9月16日に逮捕した。さらに米軍当局は畠氏を懐柔し、彼に軍事裁判で証言することを約束させて、10月6日に瀬長亀次郎書記長他豊見城村の人民党員ら4人を逮捕した。米軍当局は人民党の中枢に弾圧の手を伸ばしてきたのである。そればかりではない。逮捕、投獄等、弾圧の範囲はさらに広がった。 9月20日、又吉氏に対する軍事裁判を傍聴するために集まった群衆は解散を命じられ、それに抗議した人民党員ら数人が逮捕されて、即決の軍事裁判にかけられた。そのうち、2人は法廷侮辱罪、3人が不解散罪で1ヶ月または3ヶ月の懲役刑に処せられた。 また、瀬長氏が逮捕された10月6日の夕方、人民党本部で数10人の党員や支持者が抗議集会開催の準備をしているところへ、米軍当局の命令を受けた琉球政府の武装警察隊が急襲し、居合わせた全員を逮捕した。そのうち、指導的なメンバー5人が起訴され、即決の軍事裁判で1年の懲役に処せられた。 10月21日には瀬長、又吉両氏に対する即決軍事裁判が開かれ、瀬長氏が犯人隠匿幇助、偽証、偽証教唆の罪で懲役2年、又吉氏が犯人隠匿幇助の罪で懲役1年の刑を科されて、即日投獄された。 この一連の人民党弾圧事件について、新崎盛暉氏は前掲書で次のように述べている。 |
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米軍は、畠義基の潜行問題をきっかけに、関係者を恫喝したり懐柔したりあらゆる手段を講じて、又吉一郎や瀬長亀次郎にまで手をのばすことに成功したのである。そしてさらに、瀬長亀次郎たちの不当逮捕に抗議して那覇署に押しかけたとか、不当逮捕反対、無罪釈放を要求する集会を開くためのビラ、ポスターを印刷、配布、所持したなどの理由で、50数名の人民党員や関係者を一網打尽にした。この大量逮捕では、結局、5名が起訴されただけではあったが、瀬長亀次郎たちの場合が、犯人隠匿幇助および教唆などを口実にしたいわば別件攻撃だったのに対し、この場合は、正面から集成刑法の〈騒乱を惹起するか又は暴行行為に導くと思料せられる行為を為す者〉とか、〈合衆国政府又は米民政府に対して誹謗的、挑発的、敵対的又は有害なる印刷物又は文書を発行し、配布し、又は発行或は配布せしめ、又は配布の意図で所持する者〉とかの条項をふりかざした正面攻撃であった点に注目しておく必要がある。* |
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集成刑法というのは、1945年、アメリカ軍が沖縄占領と同時に発した布告第1号「戦時刑法」を1949年に手直しした布令第1号「刑法並びに訴訟手続き法典」のことである。それが、1955年に再度手直しされて布令第114号となったが、本質的に戦時刑法であったことに変わりはない。それは、沖縄を戦時占領している米軍と米軍基地の安全及び米軍人・軍属個々人の安全を確保することを目的として、占領地である沖縄の住民を取り締まる刑法典である。この布令に抵触・違反した住民は、逮捕されて、軍事裁判にかけられ、即決で刑を科せられる。米軍当局はこの布令を根拠に人民党弾圧を欲しいままにした。後述するように、1950年代には、米軍が武力土地接収に反対する農民を逮捕・投獄し、或いは、CICが目星をつけた住民を好き勝手に拉致する事件が相次いだが、それもこの布令を拠りどころにしていた。言論、出版、表現の自由もこの布令によって抑圧されていた。 住民の基本的人権を無視・抑圧してかえりみなかったこの布令は、1972年に沖縄の施政権が日本に返還されるまで、存続していた。それまで27年間、沖縄には戦時占領下の軍政が布かれていたのである。 7 土地と命とくらしを守るたたかい 米軍の武力土地接収と農民の抵抗 沖縄の1954年は、まことに、反共主義の弾圧の嵐が吹き荒ぶ暗黒の日々の連続であった。米軍は、労働組合幹部や組合活動家を指名解雇するレッドパージで労働運動を弾圧し、教職員会の活動を封じ込めて、祖国復帰期成会を自然消滅に追い込んだ。社大党に対しては圧力をかけて同党所属の立法院正副議長を辞任に追い込み、親米反共の民主党に正副議長の席を明け渡させた。人民党に対しては、既に見たように、米軍が直接弾圧の手を下して、打撃を与えた。このような弾圧の結果、労働運動、日本復帰運動をはじめとする大衆運動は息を濳めて、静まり返った。そういう情況の下で米軍は大々的な恒久的軍事基地の構築を急いだ。1953年4月3日に公布した布令109号「土地収用令」を発動して、真和志村と小禄村で新たな軍用地の強制接収を伊江村と宜野湾村で新たな軍用地の武力接収を強行した。 伊江村は、沖縄北部、本部半島の北西約11キロの海上にある周囲21キロ余の島で、伊江島と呼び習わされている。第二次大戦末期には、日本陸軍が伊江島に飛行場を建設してアメリカ軍の進攻に備えていた。1945年の沖縄戦では、アメリカ軍と日本軍との激しい攻防戦の末にアメリカ軍が伊江島を占領した。その時の戦闘で、3千数百人いた村民の半数近くが戦死し、生存者は島外に移住させられた。アメリカ軍は、住民が一人もいない島に飛行場その他の軍事施設を築き、島全体を軍事基地にした。1947年になって、村民の帰還が許され、島外に移住させられていた村民も元の住居地に戻って来た。そして、飛行場や軍事施設内にある農地を耕作して生計を建てなおしていった。当初、アメリカ軍はそれを黙認していた。 そこへ1954年7月、アメリカ軍は真謝区と西先駆にまたがる100万坪の土地を爆撃演習場にすると通告し、10月には、真謝区の全住居の78と西崎区全住居の74戸の立ち退きを命じた。両区の農民は皆、当然のことながら、農地の接収と家屋の立ち退きに反対した。 宜野湾村に対しては、1954年7月、「アメリカ軍施設から1マイル以内の水田は蚊がわいて日本脳炎の危険があるから、水生作物を植えるな」とアメリカ軍が指令してきた。その水田地帯は通称伊佐浜と呼ばれる地域にあり、水田12万坪、畠2万坪からなる農地で、伊佐、喜友名、安仁屋、新城4区の農家236戸が耕作していた。伊佐浜は、沖縄本島中部の西海岸沿いに走る1号線(現国道58号線)の東側内陸部に広がるキャンプ瑞慶覧の南西の一角にある。キャンプ瑞慶覧は琉球軍司令部があったアメリカ占領軍の中枢基地である。そこに、1957年以後はアメリカ高等弁務官府が置かれ、1975年以後は沖縄駐留アメリカ軍のトップである4軍調査官が司令官となる海兵隊基地キャンプ・バトラー司令部がある。そういう最も重要な中枢の司令部基地を完成するために、アメリカ軍は伊佐浜水田地帯の接収に乗り出して来たのである。 宜野湾村の4区の農民は、「水生作物を植えるな」と言うアメリカ軍の指令を無視して、二期米の田植えをすませ、行動で農地接収に反対の意味を示した。 こうして、伊江島の農民も、宜野湾村の農民も、アメリカ軍の土地取り上げ反対闘争に立ち上がったが、アメリカ軍はそれを共産主義者の扇動によるものと宣伝して、強制接収の姿勢を露骨にしていった。折しもこの時期は、人民党に対する弾圧の嵐が吹き荒れているさなかで、アメリカ軍に抵抗すると共産主義者と言われてひどい目にあわされるという恐怖心を住民に植え付けていた。そういう恐怖心につけ込んで、アメリカ軍は土地接収に反対する農民を脅迫していた。 以上のような情況にどのように対処するか、沖縄の非合法共産党(「沖縄の党」)政治局は、1954年10月下旬から11月初旬にかけて、綿密な情勢分析の上に立つ闘争方針を練り、それを「人民大衆の力を結集して敵の狂暴な弾圧に総反撃せよ」と題する方針書(前掲資料集第二巻所収)にまとめて党員に提示した。それはB4縦書き26行罫線紙22枚、400字詰め原稿用紙にしておよそ50枚の分量で、内容は多岐にわたっている。当面する闘争方針の要点は、宜野湾村の軍用地接収に反対する農民の闘争が反撃に移る突破口になることを見通して土地を守る闘いに全住民の力を結集し、アメリカ軍の占領支配に総反撃する方針を示したものである。 この方針を広く民衆の間で宣伝するために、沖縄の党は、非合法機関紙を1954年12月に創刊した。この非合法機関紙は現在、第2号から第10号までが保管されている。タブロイド版4頁ないし8頁の謄写印刷、週刊(後旬刊)で、『民族の自由と独立のために』(『民独』と略称)という題字の脇に、毎号「平和と民主主義と生活を守り 反米・祖国復帰・土地防衛の統一戦線の勝利をめざして」というスローガンを掲げている。アメリカ軍の土地接収に反対する農民の闘争については、特に、情況の移り変わりを丹念に報じている。 宜野湾農民に対する強迫と分裂工作 沖縄の党が反撃体勢を整えつつある間も、アメリカ軍当局は土地接収予定地の農民に対する脅迫、懐柔、分裂工作を強めていた。アメリカ軍当局は、宜野湾村ではアメリカ軍基地で働く労働者が多いという弱みにつけ込んで、「軍用地接収に反対するなら、その区の軍作業員(軍雇用労働者)は解雇する」と脅迫した。アメリカ軍基地の水道から引いている喜友名区に対しては「軍用地接収に協力しないなら、水道の水を止める」と圧力を加えた。そして、例のように「軍用地接収に反対して騒ぐ者は、共産党と見られて、補償をもらえなくなる」と反共宣伝を流し、「アメリカ軍に逆らうと、どんな酷い目に遭わされるかわからない」という恐怖心をかき立てた。 その一方で、MPやCICに守られた作業員が、いきなり水田地帯の測量を始めたり、ブルドーザーで整地を始めたりした。その都度、農民は早鐘を打ち鳴らして現場に駆けつけ、測量作業員やブルドーザーを実力で追い返した。そういうときはきまって、MPやCICが区の代表者や土地委員を軍司令部に連行し、アメリカ軍将校が腰の拳銃をがちゃつかせながら、「お前たちは共産党に扇動されているのだろう」などと訊問、脅迫して、土地の明渡しを迫った。それも、一度や二度ではない。幾たびも繰り返された。 そういうアメリカ軍当局の脅迫と圧力に抗しながら、農民は、年末から翌1955年初頭にかけて、二期米の稲を刈り取り、すぐに新しい一期米の田植えをすませた。その農作業には、各地から青年や学生が支援にかけつけるようになった。 こうして、農民を屈服させることができないと見るや、アメリカ軍当局は、交渉は行政主席と村長とだけ行い、農民代表とは一切合わない方針を明示した。そして、村長を何度も軍司令部に呼びつけて脅かしたり、村のボス的な人を使って農民の説得に当たらせたりした。その揚句、12月8日、アメリカ軍当局は「12月13日までに、伊佐、喜友名、安仁屋、新城4区の補償要求を出せ」と村長に通告してきた。最後通牒である。 村長は、それを受けて 「土地接収にただ反対というだけでは、アメリカ軍に向き合えないから、とにかく補償要求を出して、それが容れられないなら土地を渡さない、という線で行こう」 と4区の幹部たちに説いて回った。それは真和志村の軍用地接収でもよく使われた手口で、補償要求を出せば、それは接収を承諾した上での条件闘争につながっていく。そのことを知りながらも、アメリカ軍の脅迫と行政主席や村長の説得に動揺した喜友名、安仁屋、新城3区の幹部は補償要求を作成して提出し、伊佐区も共同歩調をとるよう働きかけた。伊佐区では、南半分の1斑から3班までの集落はその働きかけに同意した。しかし、北半分の4班から6班までの64世帯327人からなる伊佐浜部落(集落)はそれに応じなかった。そういう伊佐浜の農民に対して、補償要求を出した区の幹部たちは 「伊佐浜は反対ばかりしているが、土地が強制接収されて、補償がもらえなくなったら、伊佐浜が責任を持つか」 と責め立てた。伊佐浜では止む無く、「一、代替耕地として伊佐区の海岸を干拓し、3万坪の農地を造成する、二、立ち退き家屋23戸分の宅地を造成する、三、干拓地からの農業収入が得られるまで生活保障をする」ことなどを補償要求として提出した。 そこで、アメリカ軍当局は琉球政府の比嘉行政主席、宜野湾村の知念清一村長と補償条件を取りまとめる三者協議を開始した。それを取材した『沖縄タイムス』は12月17日の朝刊で「宜野湾村伊佐の土地問題は円満に解決されるだろう」と報じた。 年が明けた1955年1月7日、知念村長はアメリカ軍当局との協議で取り決めた補償条件を伊佐浜の農民に示し、「この条件を承諾しなければ、後はどうなるか、村長として責任が持てない」と10日間の猶予を与えて、承諾を迫った。その補償条件は伊佐浜農民の要求とは程遠いもので、農地の代替地は全くなく、23戸の立ち退き家屋の移転先としては、海岸の荒れ果てた湿地帯があてがわれた。そこは人間が住めるような土地ではない。 そのように事態が進行しているのを見て、1月10日、立法員土地特別委員会は「宜野湾村の土地問題の解決を比嘉行政主席の善処に期待する」と言って、宜野湾村の土地問題から手を引いてしまった。今や、行政主席も村長も立法院も頼れなくなった伊佐浜の農民は、孤立感と無力感から、困惑し切って、村長に返事をしないまま、10日の猶予期間は過ぎた。 1月18日早朝、アメリカ軍担当者が伊佐浜の土地委員長沢岻安良宅に来て、沢岻氏が、まだ寝ているのを起こし、「あなたたちの土地問題は、村長も承諾して、これで全部解決した」と3者協議で取り決めた補償条件を示した。そして、これから早速、土地の測量作業と立ち退き家屋の評価作業を始める旨告げて、帰っていった。この通告を突きつけられた伊佐浜の幹部たちは、「こうなっては、どうしようもない」と諦めるほかなかった。同日付の『沖縄タイムス』は「伊佐浜の土地問題は円満裡に解決し、水田地帯にある23戸の家屋はいよいよ立ち退くことになった」と報じていた。 伊佐浜が土地接収を承諾させられたという知らせは、その日のうちに、人民党本部に届いた。そこに居合わせた私は、すぐにバスに乗って、伊佐浜に駆けつけた。私はそれまでに何度も伊佐浜を訪れていて区民の皆さんとは遠慮なく話し合える間柄になっていた。 ところが、その日、男たちは話すのが辛いのか、伏目がちに顔をそむけて、話に応じてくれない。対照的に婦人たちは、心配な気持ちをそのまま訴えるように話していた。水田の傍を流れるせせらぎで洗い物をしている年老いた農婦は、私を見上げる目に涙を浮かべて 「この田んぼが取られるくらいなら、私も一緒に埋めて欲しい」 と嘆き悲しんでいた。また、赤ん坊を胸に抱きしめた農婦が、庭の木陰に立ち尽くしたまま 「土地接収を承諾してから、男たちは酒を飲んで、あっぱんがらー(やけくそ)になっています。男はそれですまされるかもしれません。しかし、産し子産し出じゃちゃる女や、あねーならぬ(子供を産み育てる女は、そんなにはしておれない)」 と、母親としての気持ちを切々と語っていた。そういう婦人たちの声を聞いて、私は何とかしなければならないと思い、伊佐浜の幹部の人たちと粘り強く話し合った。そこで、土地委員長の沢岻氏は、無念な気持ちを抑えながら、次のように語った。 「行政主席も村長も、アメリカ軍の言うとおりの補償条件を私たちに押し付けるばかりで、反対したら、後は責任が持てない、と言っている。立法院も行政主席に任せて、手を引いてしまった。それに、土地接収を承諾した区の人たちは、伊佐浜があくまで反対して補償がもらえなくなったら、伊佐浜が責任を持つか、と私たちを責め立てている。もう、私たち伊佐浜だけではどうにもならない」 この話を聞いて、私は、人民党をはじめ労働組合や教職員会等に対するアメリカ占領軍の反共主義の弾圧と伊佐区農民に対する脅迫と分裂工作とが、伊佐浜の人たちをどんなに深い孤立感に陥れているか、痛切に実感させられた。そこで私は沢岻氏に対して次のように提案した。 「沖縄には皆さんを支援する気持ちを持った人が沢山います。ただ、何をすればよいか分からないので、黙っているだけです。立法院も、皆さんが働きかければ、親身になって動くはずです。試みに、私が人民党の大湾議員のほかに社大党の議員も連れてきますから、座談会を開いて、皆さんの気持ちを率直に話して聞いてもらってはどうでしょうか」 沢岻氏は、それまで行政主席や立法院に陳情してきた経験からいぶかしげだったが、立法院議員が来てくれるなら、座談会を持ってもいいということになった。 翌日の早朝、私は社大党所属の立法院議員西銘順治氏が自宅に訪ね、ことの次第を話して、座談会への出席を要請し、承諾を得た。それから伊佐浜とも連絡をとって、1月28日に座談会を持つ段取りをつけた。 ところが当日、伊佐浜に行ってみると、約束の時間になっても議員の姿がなく、伊佐浜の人たちの顔には失望の色がありありと浮かんでいた。私は那覇にとって返して、立法院に行き、個室でためらっている西銘氏の言い訳を聞くのもそこそこにして、西銘氏を説得し、西銘、大湾両議員と一緒に立法院の公用車で伊佐浜に駆けつけた。 立法院議員が来てくれたというので、伊佐浜の人たちは大変喜び、男性も女性もほとんど全員が座談会に集まった。そして、伊佐浜の人たちの訴えを聞いて心を動かされた西銘氏は、社大党も全党挙げて伊佐浜の土地闘争を支援するよう党内に呼びかけるほか、立法院でも支援決議するように働きかけることを約束した。その間のことを西銘氏は1955年の日記に次のように記している。 「一月一九日 朝、国場幸太郎君が久方ぶりに訪ねてきて、一時間ばかり話した。 一月二八日 大湾喜三郎、国場君と一緒に 伊佐浜部落に実情調査に行った。緊迫した情勢だった。ことに、婦人たっちの悲壮な気持ちに胸を痛めた」(『西銘順治日記―戦後政治を生きて』琉球新報社、1998年) 女性が先頭に立った伊佐浜の再起 西銘、大湾両議員の言葉に元気づけられた伊佐浜の人たちは、両議員が退席して後、土地を守る闘いを今一度立て直す相談を始めた。私も席をはずして、話し合いの結論がでるまで外で待機していた。部落の方針を決める話し合いでは、外部の者は誰であろうと一切参加させないで、自分たちだけで主体的にとりきめるのが伊佐浜部落の慣習になっていた。そういう部落の話し合いの結果、男は土地接収を一旦承諾したけど、女は反対だということで、闘いを再構築することになった。ここまで話が進むと、「女や戦の先駆けイナグヤイクサヌサチバイ」(いざとなると女は闘いの先頭に立つほど強い)などと冗談も飛び出して、みんな生き生きとなった、と外に出てきた幹部の一人は明るい笑顔で私に話した。 3日後の1月31日、伊佐浜の婦人たち20数名が行政府に押しかけて、行政主席に面会し、土地接収に反対の意思を伝えた。同じ日、西銘氏ら社大党の立法院議員団は伊佐浜を訪れて、実情を聴取し、社大党は伊佐浜の土地接収反対闘争に全党を挙げて取り組むことになった。翌2月1日には婦人たち40名がアメリカ琉球軍司令部に出かけて行って、土地取り上げを止めるよう直に訴えた。 しかし、アメリカ軍当局は婦人たちの訴えに耳をかそうともせず2月3日11時頃、ダンプカーを使って、水田を砂で埋める作業を始めた。伊佐浜では早鐘が打ち鳴らされ、住民が作業現場に集まってきて、作業を中止させ、ダンプカーを追い返した。 こうして再建された伊佐浜の土地闘争は新聞でも事実が報道されるようになり、広く世論の支持を呼びおこした。そして、一旦は伊佐浜の土地問題から手を引いていた立法院土地特別委員長も、改めて2月5日、大勢の傍聴人が見守る中で伊佐浜の土地接収に反対の嘆願書を採択した。婦人を先頭にした伊佐浜の闘いは、ついに、立法院を揺り動かしたのである。それまでに、伊佐浜住民は、立法院、行政主席、各政党に次の嘆願書と婦人の訴えを届けていた。全文を紹介する(前掲資料集第二巻所収『民族第6号』掲載)。 |
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嘆願書 昨年七月ごろから水稲植付禁止、ひきつづき土地明渡し要求と数ヶ月以来われわれ伊佐浜の住民は死刑宣告同様な沈うつな空気につつまれ、笑いは消え、憎しみと猜疑が充満し、幸福なるべき家庭の平和は乱れ、愛し合うべき隣人も不和と反目の空気がみなぎり、自ら欲せず地獄の淵に呻吟して居る実状であります。われわれ伊佐浜住民は、命ある者自らたち難く、享受すべき二十世紀人の人権を確認し、老幼男女一致団結してわれわれの財産をわれわれとわれわれの子孫のために確保しなければならぬ決意を固めるに到りました。 住民のための住民の政府、理想の社会を実現するために存する各政党に、われわれ住民は左記の通りわれわれの真情を訴え、充分なる御調査の上、われわれ伊佐浜住民を回生せしめられる様住民一同暑名し嘆願いたします。 記 一、伊佐浜とは伊佐区の一部四、五、六班を総称しております。接収される耕地十三万坪が四ヶ部落の土地でありながら、常に伊佐浜問題とされるのは、伊佐浜住民だけが全く裸になり、生死に関するからであります。 世帝数 六四戸 人口 三二七人 農耕地 四九、五〇〇坪 二、世帝数六四の職業の内訳は次のとおりであります。 農業 五五 商業 二 軍作業 五 無(救済)二 三、農家五五戸の内全部土地を失う者五一戸、残り四戸は収用地以外にわずか残るが、生計を支えることができない。 四、周辺に代替耕地が全くない。 五、添付してある婦人の訴え、経過記述書に真相を記載してあります。 伊佐浜住民一同 婦人の訴え 伊佐浜の軍用地問題としてたびたび新聞に報道されておりますので、伊佐浜というところはよくお分かりのことと思いますが、私達住民が今日までどんなに幸福な生活をしていたかご説明申しあげます。 私達は、祖先伝来の美田から食に困らず、また各家庭の台所まで水道の水は無尽蔵に自然流下し、洗濯やその他おしげなく使ってもお金も出ません。交通も便利でバスもひっきりなしに通っています。街に住むひとびとが断水騒ぎや高いお金で水を買って一碗の水も大切に使うことをお聞きしますと、働くことのみが幸福と思う私たち田舎の婦人としては話題も少く、こういう水を買って生活している街の話なんか重大なニュースに値する位平和で、生活の諸条件と環境にめぐまれている処で、沖縄のどこに住むひとびとより私達は幸福だと思っておりましたが、昨年の七月ごろから、この土地を軍が使用するということを聞いたときは、幸福な楽園から地獄の谷につき落される恐怖を感じました。 しかし、私達主婦は、家庭内部の事と子供の養育のみを天分と考え、土地問題とか大きな問題は男の仕事と今まで夫や父に従い、暮して来ました。しかし去る一月一七日に円満裡に解決しいよいよ立ちのくことになったということが新聞に報道されたので、皆様には私達住民が今後の生活も充分補償され納得して立ちのくことになったと思われますが、私達はその真相を知りびっくり仰天いたしました。 その条件は次の通りであり、皆様も私達の心情をお察しできると思います。 一、移動予定地は伊佐西原海岸の荒廃地的千五百坪埋立て、一戸当道路を含み四七坪割当らる。実際宅地は三五、六坪となり、現在の建坪を縮めねば再建できない家もある。 一、軍から一人一日二合の二百日分の食糧補給があるとのことだが、一坪の土地も残らないでその後は餓死する外ない。 一、軍からやるという土地賃貸料は平均一ヵ年に二円四、五十銭だが、移動地の借地料は一ヶ月二円、年二十四円を要求されている。 こういう条件で立ちのきしたとき、果たして私達の生活は成立ってゆくでしょうか。一目瞭然だれが考えてもわかります。私達の中には頼る夫を戦争で失い、残された子供の成長をたのしみに歯をくいしばって子供を学校に進学させている人も二人あります。これもこの立派な土地があればこそやってゆけるのです。この土地を失えば伸びる私達の子供も中途でつみとる外ありません。 私達はこんな不幸につき落され、可愛い子供の将来を考えると、女だてらにといわれても私達が率先してこの土地をまもらねばならないと立ちあがりました。もう私達は愛ゆえに勇敢になりました。子を思う母の強さをくじく力はありません。私達は自分達の幸福をまもるためにこの土地から一歩も立ちのかない覚悟をいたしております。 主席始め沖縄の政治を担当される皆様がきっと私達の苦しい立場をお救い下さると信じて農業にはげみます。 どうか私達農婦の力になって下さいますようおねがいいたします。 伊佐浜婦人一同 |
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伊江島・伊佐浜に武装部隊出動 伊佐浜の婦人の立ち上がりを契機に軍用地接収に反対する世論が盛り上がりつつある1955年3月11日、いきなり、伊佐浜水田地帯の一角でショベルカーによる整地作業が始まった。それを見た住民は、早鐘を打ち鳴らして、男も女も総出で作業現場に集まり、口々に作業を止めるよう訴えた。それでも作業を止めないので、パワー・ショベルが空中高く上がったすきを見計らって、住民が次々とその下に飛び込んで、座り込んだ。そして、男性の一人が運転席に駆け上り「ショベルの下には人がいるぞ! 止めんか!」と叫ぶ声に、作業員は機械を止め、あたふたと重機から降りて隣接する米軍キャンプ(兵営)の方角へ逃げ去った。 すると、キャンプに待機していた米軍武装部隊が出動して来て、作業現場に座り込んだ住民に銃剣を突きつけ、銃床で殴ったり、軍靴で蹴散らしたりして、住民を過去させた。米軍当局者は、住民にはどのくらいの抵抗があるか、小手調べをしたようである。 同じ日の3月11日、伊江島では、戦時の上陸作戦さながらに300人の米軍武装部隊が舟艇で海を渡って来て上陸し、ブルドーザーやダンプカーを次々と陸揚げした。上陸した部隊と車両は、ただちに、島の中央部よりやや西側にある飛行場付近に移動して、テントの野営陣地を設営した。それが済むと、アメリカ兵が着剣した銃を構えて取り囲む中で、付近一帯の測量が始まり、ブルドーザーも唸りをあげて作業を始めた。この仕打ちに驚いて駆け寄った農民たちはアメリカ兵に突き飛ばされ、蹴散らされて、右往左往するばかりである。やがて日が暮れ、作業は一旦中止した。だが伊佐浜とは異なり人の目の届きにくい離島の伊江島では、小手調べだけでは終わらなかった。 翌3月12日は朝早くからアメリカ軍の作業が始まった。そのときのことである。老農夫の一人が寝巻き姿のまま外に出てみると、数人のアメリカ兵が付近の畑に杭を打っている。老農夫はとんで行って、手まねや身振りを交えながら「この土地が無くなると家族7人が生きて行けません。どうか、土地取り上げは止めて下さい」と訴えた。言葉がまったく通じないので、地べたに寝転がって死ぬ格好をして見せたり、拝むように手を合わせたりして嘆願した。すると、伊江島での作業の指揮をとっている工作隊長のガイディア中佐がつかつかと歩み寄ってきて、老農夫をこぶしで何回も殴りつけ、地べたに押し倒した。それを今度は、数人のアメリカ兵が取り押さえて、手足を荒縄でしばり、さらにその上を毛布でぐるぐる巻いて蓑虫のように縛り上げ、有刺鉄線を円筒形に積み上げてこしらえた檻の中に放り込んだ。それを見て心配して駆け寄ったもう一人の老農夫もアメリカ兵に捕まって監禁された。このように作業の邪魔になる者は片っ端から監禁しておいて、アメリカ兵は百万坪の広大な土地に有刺鉄線のついた金網を張り巡らしていった。 手の施しようもなくなった農民たちは、ガイディア中佐に面会を求めて「アメリカは民主主義の国だというが、戦争に勝てば、負けた国の農民の土地を強制的に取り上げてよいのか」と抗議した。それに対して、ガイディア中佐は「この沖縄はアメリカ合衆国軍隊の血によってぶんどった島だ。君らにそんなことを言う権利はない。君らは3等国民だ」とうそぶいた。 「では、弱いものの肉を食ってもよいと言うのか」と重ねて抗議すると、ガイディア中佐は平然とした態度で「はい、食うのだ」と嘲るように答えた。 4日目の3月14日は早朝から、前日までの作業で張り巡らした金網の中にある家屋の強制立ち退きが始まった。トラック4台に分乗したアメリカの武装兵約50人がブルドーザーと一緒にやって来て、家の中で怯えている農民の家族を引きずり出したり、カービン銃を突きつけて追い出したりしたあと、13戸の農家を家財道具もろともブルドーザーで次々とひき潰していく。屋根の萱に火を放って燃やした家もある。 生活用水として雨水を貯めてある貯水槽もブルドーザーで片っ端から轢き潰された。井戸を掘っても塩分を含んだ水しか出ない珊瑚礁の島では、貯水槽に貯めた雨水だけが唯一の生活用水である。それをも使えないようにしたのである。 住む家を失った13戸の人たちは、草むらに設営された窓もない狭苦しいテント小屋に収容された。その生活の苦しみを農民たちは次のように琉歌に託している。 雨降りば漏ゆい 太陽照りば暑さ 水や泥水ゆ 飲むる苦ちさ (雨が降ると漏ってしまい 陽が照ると暑い 水は 泥水で それを飲む苦しさといったらない) 土地を奪われた苦しみを訴え、土地取り上げの中止を請願するために、農民の代表は沖縄本島に渡り、那覇にある琉球政府庁舎廊下に座り込んで、来る日も来る日も陳情を続けた。しかし、それでは全く埒があかないので、伊江島に戻った農民は、有刺鉄線をくぐって爆撃演習場の中に入り、「ここは私たちの土地であります。私たちは生きるために働きます」と和英両攵で書いた白旗を掲げて畑を耕作した。 すると、武装したアメリカ兵が軍用犬を連れて襲いかかり、あるときは3人、あるときは5人と農民を捕らえて軍事裁判に送り、軍事基地に入ったという廉で数ヶ月の懲役刑に処した。こうして投獄された農民は通算百数十人に上る。また、農民の中には、アメリカ軍の飛行機から投下される演習弾で爆死した者が2人、アメリカ兵に射殺された者が一人、重軽傷を負った者が38人いる。負傷者の中には、右腕をもぎ取られた17歳の少年や大腿部を銃弾で撃ちぬかれた11歳の小学生も含まれている。 島ぐるみの抵抗へむかう足並み 伊江島、伊佐浜におけるアメリカ軍の武力土地接収と、それに対する農民の抵抗の事実は地元の新聞でも報道され、伊江島、伊佐浜の農民に対する支援の輪は沖縄中に広がっていった。軍用地問題に関する世論の高まりを背景に、1955年4月13日には、軍用地地主大会が開かれ、軍用地問題の解決を要求する統一行動が始まった。沖縄の党の非合法機関紙『民独』は土地闘争の経過をその都度詳細に伝え、4月17日付の第9号では「土地を守るために全県民の力を合わせよう」と題する主張を揚げて、やがて来る「島ぐるみの土地闘争」を次のように構想している。 「土地問題の解決へのみちは、全県民が団結するのみである。(中略)政府も、立法院も、市町村長や市町村議会も、アメリカの言いなりになって土地取り上げに協力することなく、あくまで土地をまもるために住民とともに団結してたたかうならばアメリカ軍は完全に孤立し、県民の要求をみとめねばならなくであろう。」 軍用地接収に反対して土地を守る世論が高まる中で、アメリカ軍に弾圧されて窒息状態にあった労働運動を始めとする大衆運動は息を吹き返し、政党の活動も活発化した。そういう状況を反映して、5月1日のメーデーはかつてない1万人近い大集会となった。 この年のメーデー大会は、前年の弾圧の経験を踏まえて、労働者、農民、学生、市民、女性など、誰でも広く参加しやすいように、夜間に那覇市の野外広場で開催された。大会直後に主催者側がまとめた宣言・決議集は、大会の盛況を報告して、当時の民衆運動の模様と雰囲気を伝えている(前掲資料集第1巻所収)。 メーデーの集会に見られるような軍用地問題に関する世論の盛り上がりを背景に、1955年5月19日、立法院は「軍用地問題に関する四原則」を確認する決議を超党派の全会一致で行った。「四原則」とは、軍用地に関する住民の要求を次の4つにまとめたものである。 @ アメリカ合衆国政府による土地の買い上げまたは永久使用、地料の一括払は絶対におこなわないこと A 現在使用中の土地については、適正にして完全な補償がなされること。使用料の決定は住民の合理的算定に基づく要求額にもづいてなされ、かつ、評価および支払いは、1年毎になされなければならないこと B アメリカ合衆国軍隊が加えた一切の損害については、住民の要求する適正賠償額をすみやかに支払うこと C 現在アメリカ合衆国軍隊の占有する土地は、早急に解放し、かつ新たな土地の接収は絶対に避けること アメリカ軍は1945年に沖縄を占領するや、飛行場、兵営、軍需物資集積所などに用いる土地を自由勝手に金網で囲って、軍用地にした。それも戦時占領とあって、土地使用料は全く支払われなかった。1952年4月に対日講和条約が発効した後は、そのままでは許されないとあって、同年11月、アメリカ軍は「契約権」と称する布令91号を発し、土地所有者(軍用地主)と賃貸借契約を結んで、使用料を支払うことになった。ところがその額たるや、年に一坪1円80銭という取るに足らないもので、それを17年分一括払いして永久使用権をアメリカ軍が獲得するというものである。この布令「契約権」の公布は住民の怒りを呼び起こしただけで、軍用地の所有者で土地の賃貸契約に応じたものは、わずか2パーセントにとどまった。アメリカ軍は軍用地使用料の一括払いによる土地の永久使用権獲得に失敗したのである。 そこでアメリカ軍は、今度は、この賃貸契約に地主が応じない場合でもアメリカ軍が一方的に軍用地の接収ができるように、1953年4月3日、先にも触れた布令109号「土地収用令」を公布し、新たな軍用地接収に乗り出した。しかし、この布令は新たな土地接収にしか適用できず、現に使用している軍用地には適用できない。そこでアメリカ軍は、軍事基地として使用している土地は「黙契」によって賃貸契約が成立しているという意味の布告26号を1953年12月5日に公布した。つまり、軍用地所有者がアメリカ軍との土地賃貸契約を拒否しても、「黙契」によってアメリカ軍は借地権を獲得しているというのである。 こうした事態に対して、立法院は、1954年4月30日、先の四原則を内容とする「軍用地問題に関する請願」決議を全会一致で行い、行政主席、立法院、市町村長会、軍用土地連合会(軍用地主会)からなる4者協議会を結成して、アメリカ軍と折衝することにした。 だが、その後、反共主義の弾圧が吹きすさぶ中で、4者協議会はアメリカ軍と折衝することができず、「四原則」も仮死状態に陥っていた。それが1955年5月19日に、立法院議会における超党派の確認決議となって、1年ぶりに蘇ったわけである。それから3日後の5月22日には「軍用地問題解決住民大会」が開催され、比嘉行政主席はじめ4者協議会の代表をアメリカ・ワシントンに派遣して、「四原則」についてアメリカ政府に直接陳情することを決議した。 この決議に基づいて、行政主席ら代表団は5月24日に渡米した。 土地取り上げに反対する伊江島・伊佐浜農民の抵抗と、それを支援する民衆運動の盛り上がりは、ついに立法院議員全員を奮いたたせ、アメリカ占領軍から任命された行政主席をも「四原則」を要求する運動の先頭に立たせたのである。全住民を巻き込む「島ぐるみ闘争」へと向かう足並みがここで揃ったと言える。 比嘉主席ら渡米代表団は、6月8日、アメリカ下院軍事委員会で意見を陳述した。それを受けて、下院軍事委員会ではその年の秋に調査団を沖縄に派遣し、その調査結果に基づいて沖縄の軍用地問題について勧告することになった。この決定により、プライス議員を団長とする調査団が10月23日に来沖することになる。この調査団派遣に住民は少なからず期待を寄せた。しかし、その期待は間もなく裏切られる。 もちろん、事態の成り行きを冷静な目で厳しく見ている人々もいた。当時宮古刑務所で服役中の瀬長亀次郎氏は、6月30日の獄中日記に次のように記している。 「沖縄では伊佐部落や伊江島土地防衛闘争はさらに発展し、米国への派遣という、まやかしの手を打たざるを得ない立場に任命政府を追い込んだことなど、いろいろ本質的な問題が後から後から発生している」(『不屈 瀬長亀次郎日記』琉球新報社、2007年)。 抵抗の意志を歴史に刻んだ伊佐浜農民 行政主席ら代表団がアメリカ下院軍事委員会で陳述した直後の6月14日、米軍民政府首席民政官は「立法院が土地問題に没頭して予算編成を遅らせるなら米軍民政府補助金を取り消し、議会解放を行う」と脅迫めいた警告をして、土地接収の強硬姿勢に変わりがないことを明らかにした。 そのおよそ4週間後には、伊佐浜に対して「7月17日までに土地を明渡せ」と一週間前に期限を切って、最後通告をした。その期限が切れる前日の7月16日、藁にも縋りつく思いで琉球政府を訪れた伊佐浜の農民たちに、行政副主席は「接収は1日も延期できない。通告通り18日には強制収用を断固する」とアメリカ軍の意向を伝えた。それをうなだれて聞いていた農民たちのなかから、赤ちゃんを抱いた婦人が副主席に抗議した。 |
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いぇんちゅ(鼠)や浜のがにぐゎ(蟹)ではあるまいし、立ち退き先もないのに立ち退かせるなんて、あんまりではありませんか。小さい子供たちまで心配して、学校にも行きません。今朝も子供が“お母さん、私たちも、伊江島の子供と同じように、ご飯も食べられなくなるし、学校にも行けなくなるのだね”と言ったときには、耐えられなくなって、子供を抱きしめて泣きました。農民が田畑を失うのは、あなたが副主席を首になるより恐ろしいことです。それは死ねと言うのと同じことです。家も田畑も取り上げられて路頭に取り出される。いくら戦争に負けたからとは言え、それが血も涙もある人間のすることでしょうか。 |
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副主席は押し黙ったまま、返す言葉がない。琉球政府も全く当てにならないと分かった農民たちは、部落に帰って総会を開き、最後の対策を協議した。土地を明渡すか、最後の抵抗を示すか、道は何れかである。前にもふれたように、部落の方針を決める総会には外部の者は参加させない。どういう結論がでたか聞くために、私は総会場の外で待機していた。その私に、会議を終えて外に出てきた人々は総会の模様を次のように話してくれた。 話し合いが始まってしばらくは、みんな沈痛な面持ちで黙り込んでいたそうである。やがて、重苦しい空気が漂うなか、長老の一人が静かな口調で口を開いた。 |
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接収に反対するか、応ずるか、どの道を選んでも、自分たちには土地も残らないし、移動先もない。それを自分で土地を明渡したとあっては、アメリカ軍の野蛮な土地取り上げを自分たちが認めたことになる。それでは自分たちをこれまで支援してくれた沖縄中の人々や、遠くから激励の手紙を送ってくれた皆さんにも申し訳がたたない。私たちには、もはや、子孫に残す財産もすべて無くなろうとしている。この上は最後まで土地取り上げに反対して開い抜き、せめて、歴史の上に伊佐浜の名を残そうではないか。 |
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爽やかな風が吹き抜けたように、重く淀んでいた空気はこの一言で一掃されたという。みんなの顔は晴れ晴れとなり、総会はアメリカ軍の土地接収に最後まで反対して闘う意思を固めた。 いよいよ7月18日、強制接収が予定された日になると、伊佐浜には朝早くから幾百幾千という支援の人々が沖縄中から駆けつけてきて、部落を埋め尽くした。そのために、その日はアメリカ軍も手出しをしなかった。そして、強制接収は、支援の人たちの多くが家に帰って、地元の住民の他は泊まり込んでいる人も少なくなった深夜に始まった。 午前3時頃、アメリカ軍のキャンプ(兵舎)のある北東の方向から重車両の動く音が聞こえてくる。しかし、真っ暗闇で姿は見えない。聞き耳を立てていると、水田地帯のすぐ側を通っている軍用道路の彼方からも轟々という不気味な音が聞こえてくる。音がだんだん近づいてきたところをよく見ると、武装兵を満載したトラックとこれまた武装兵を両脇に乗せたブルドーザーが、ライトを点けずに何台も何台も徐行して来るではないか。そして、空がうっすらと白みかける頃には、13万坪の水田地帯はすっかり武装兵に包囲され、ブルドーザーが32戸の住居がある部落に突入していた。 海の方ではドレッジャー(浚ちょう船)が汽笛を鳴らしながら伊佐浜の海岸に近づいて、海水と一緒に砂を流し込むパイプを水田地帯に向けてつないでいく。それは戦争さながらの陸海両面作戦で、琉球軍副司令官ジョンソン准将が陣頭に立って指揮をとっていた。 夜が明けたときには、水田地帯の周りに有刺鉄線が張り巡らされ、大勢の作業員が水田の哇を次々と切り崩していた。支援に駆けつけた人たちは武装兵に阻まれて近づくことができず、怒りに震えながらアメリカ軍の仕打ちを見守っているばかりである。 伊佐浜の人たちもこうなっては手の施しようがなく、金網の中に入った32戸の家屋に座り込み、最後の抵抗を示した。それをアメリカ兵たちは銃剣やピストルを突きつけて追い出した後、家屋の取り壊しにかかった。 先ず、部落の入り口にあるマチヤグァー(日用雑貸の小売店)のトタン屋根にツルハシが打ち込まれる。剥き出しになった梁にロープがかけられ、それをブルドーザーが引っ張って、家は引き倒された。倒れた家の木材等は家財道具もろともブルドーザーで寄せ集めてダンプカーに積み込み、近くの浜辺に捨てに行く。このようにして32戸の家屋は次々と取り壊された。 先に引用した『西銘順治日記』は当日のありさまについて、次のように記している。 「七月十九日、六時ごろ、善光さん(山城)が見えて「伊佐浜が大変だ。タクシーで迎えにきた」という。良松さん(平良)と3人で出掛ける。普天間登口で通行止め。車を捨てて伊佐浜まで歩く。ものものしい警戒だ。ブルドーザーを入れて周囲から田畑をどんどんつぶしていく。あさましい限りの強奪ぶりだ。アメリカは民主主義も自由も口にする資格はない。」 数日後、ドレッジャーが海底から吸い上げた砂を海水と一緒に水田に流し込み、水田はみるみるうちに砂で埋められていった。 家を取り壊され、強制立ち退きさせられた32世帯の人々は、しばらく近くの小学校に収容された後、10数キロ離れた高台に移された。しかし、そこは農業ができない不毛の地で、結局2年後には、大部分の人たちが生計を立てる道を失い、一部の人たちは南米ブラジルへ移民として移住した。 8 CICとの対決―拉致と拷問 伊佐浜の農民の闘いは、強大なアメリカ軍の武力接収に敗れて、悲しい無念な結果に終わったとはいえ、それは伊江島の農民の闘いとともに、沖縄中の人々の心に抵抗の火をともし、やがて来る“島ぐるみ”の土地闘争へ全住民を導くものになった。 しかも、それは、アメリカ占領軍の相次ぐ弾圧によって労働組合のほとんどが押し潰され、人民党の幹部が投獄されている状況の中で起こったのである。占領地住民に対する諜報活動を任務としているアメリカ陸軍部隊であるCICは、農民の闘いを支援し、盛り上げているのは、非合法共産党(沖縄の党)の周りに結集した若い人たちの活動であると目をつけていた。その中でも特に彼らがにらんだのは、沖縄の党の非合法機関紙『民族の自由と独立のために』(『民独』)の活動である。 7月19日、伊佐浜の武力接収の現場で、『民独』作成の中心メンバーの一人がCICに拉致され、拷問されたのにつづいて、私もまた8月に同じ経験をさせられた。発端はコザ市(現沖縄市)にある中央病院を私が訪れたことにある。病院には瀬長氏が入院していた。 瀬長氏は前年1954年10月の人民党弾圧事件で那覇にある沖縄刑務所に投獄されたが、直後の11月7日の夜、受刑者の待遇改善を要求する暴動が起こり、瀬長氏らがいるだけでも受刑者が元気付くと考えた刑務当局は、1955年1月、瀬長氏を宮古島の刑務所へ、又吉一郎氏を八重山の刑務所へ移した。その後、瀬長氏は宮古刑務所で十二指腸潰瘍、胃下垂症を発症、沖縄本島の病院で手術を受けることになり、7月2日に那覇の沖縄刑務所に移された。20日に中央病院に入院、月が変わって8月11日に手術を終えたところだった。 手術後は輸血が必要と聞いていたので、たまたま瀬長氏と同じ血液型である私は、8月13日正午前、同じ血液型の友人と二人で中央病院を訪れた。しかし、その日は予定している供血者の数が揃わないというので、3時間ほど待合室で過ごした後、採血をしないで帰ることにした。 玄関を出てバスの停留所へ向かっているとき、アロハシャツ姿の日系二世のアメリカ人らしい男が二人、私たちの後をつけてくる気配がする。那覇へ向かうバスに乗って、後ろの窓のガラス越しに外を見ると米軍ナンバーの乗用車が後をついてくる。乗っているのは先ほどの男2人である。CICに間違いない。とっさの判断で私は友人を次の停留所で降ろし、私はそのままバスに乗っていた。バスが停まっている間はCICの車も停まり、バスが動き出すとCICの車も動いて、後をつけてくる。 それから3つ、4つ停留所を過ぎた頃、米軍ナンバーの乗用車がもう1台バスの前に現れ、次の停留所でバスは乗用車二台に前後をはさまれた形で停まった。そして、前の車からは背の高い半袖シャツのアメリカ人が2人、後ろの車からは先ほどの日系二世が2人、路上に降りたって、バスの乗降口に歩み寄って来た。そこで4人はひとかたまりになり、私を指差したりしながら相談し終えると、背の高い白人のアメリカ人がバスに乗り込んできた。彼は後方の座席に座っている私の所に真っ直ぐにやってくるなり、背中を丸めて上からのぞき込み 「コクバさん、ちょっとおりてくれ」 と言いながらポケットから身分証明を取り出して私の前につきつけた。怪しいものは逮捕、訊問して取り調べる権限を持つ者であることを示すためである。 バスを降りた所で白人のアメリカ人と日系二世の4人に囲まれた私は、バスの前に停まっている車の方に押しやられ、後部座席に押し込まれた。隣には白人のアメリカ人が座った。バスの後ろに停まっていた二世たちの車は、一旦前に出た後、ユーターンして、いま来た道を引き返した。先にバスを降りた友人を探しに行ったのであろう。それから私を乗せた車も走り出した。 バスを降りた友人がCICに見つからず、無事であったことは、後でCICに尋問されている中で、友人が誰であったか執拗に何度も聞かれたことから分かった。その友人の存在は、私がCICに連行されたことを知る人物が少なくとも1人はいることをCICに認識させるものになった。私は友人の名を黙秘し通した。 車の後部座席の隣に座っている白人のアメリカ人に、どこに行くのか尋ねても返事はなく、運転席の白人のアメリカ人も電話連絡をとる以外は無言で車を走らせた。午後四時過ぎ、着いた所は伊佐浜水田地帯の南隣にあるCIC本部である。当時のCIC本部は数棟の蒲鉾型兵舎(コンセット)からなり、私が連れ込まれた蒲鉾型兵舎の壁にはT4と書かれ、入口にはTechnical Serviceという掛札があった。私はその入口のある部屋の隣で、応接セットのある部屋に通された。 そこには白人のアメリカ人と日系二世と合わせて五、六人が待ち構えていて、私を取り囲み、いきなり私の衣類を脱がせて服装検査をした。次いで正面と左右から写真を撮って後[第U部扉写真‐編者注]、再び衣類を脱がして、聴診器を手にしたアメリカ人が私の身体検査をした。それから私を裸のまま椅子に座らせ、「第三国人身上明細書ALIEN PERSONAL HISTORY STATEMENT」の用紙を持ってきて、書けという。その内容は、家族、友人、団体関係、特に共産党との関係などを詳しく日本語と英語で記入させるものである。私が記入を拒否すると「それなら質問に答えろ」と尋問を始めた。 私は、逮捕理由も示さない不当逮捕と、裸にして尋問するという人権無視の取り扱いに抗議し、即時釈放を要求した。そして、一切の質問に回答を拒否し、5、6人のCICたちと無言で相対した。すると、彼らは私を壁の側に立たせ、入れ替わり立ち替わり私の前に立ちはだかって 「お前らJCP(日本共産党)はアメリカ人をハブのように嫌っている。お前はコクバだろう。剛情を張る間は立っておけ」 「よく教育されていやがるなあ。2、3年はほうり込まんと直らんなあ」 などと詰問したり、罵ったり、脅かしたり、好きかってに喚き散らしていた。それがしばらく続いた後、これでは埒があかないと見てとったのか、CICたちは、私を裸のままで隣の奥まった部屋に移した。 それほど広くない部屋の真中には、簡素なテーブルが1つ置かれているだけで、他には何もない。専用の拷問室である。その部屋で、CICたちは私を裸のまま壁とテーブルの間に立たせ、二人一組になり、1、2時間交代でやって来るようになった。 組は七組ほどあり、日系二世だけの一組を除いては、白人のアメリカ人と日系二世との組み合わせであった。その中の一組に隊長らしい白人のアメリカ人が居て 「話したいことがあったら私を呼べ。鼻の長い大尉と言えば分かる」 と言っていた。 最初の一組は大型のカメラを持ってきて、裸で立たされている私をフラッシュで撮影した後、質問で攻め立てた。 二組目がやってきた頃、日は暮れて夜になっていた。CICたちの質問攻めに無言で対している私が壁に寄りかかって体を休めようとすると、CICたちは私を壁から突き放し、私が足を開くと両足を揃えさせ、いっときも体を休ませない。 何組目かにやって来た白人のアメリカ人は色眼鏡をかけ、片手に革の鞭を持ち、杖をついて歩いていたが、もう一人の日系二世と一緒に、私を壁に向かって立たせた。そして両の手の平を高く上げさせて壁に押し付け、両足を広げさせて後ろに引いた。股を開いて壁に腕立て伏せをさせられた格好である。私が姿勢を崩すと、顔を打ったり、足で蹴ったりした。色眼鏡のアメリカ人は私の背後からステッキで陰部をつついて辱めたり、革の鞭を体に巻きつけて脅したりしていた。 日系2世だけの二人組はやって来るなり 「裸でいるのか、服を着なさいよ」 と親切そうに言い、服を返して、質問を始めた。それに対しても私が回答を拒否すると、テーブルを叩いて喚き出した。そして隣の部屋から写真撮影に使う照明用の電灯を運び込んで来て、立っている私の真ん前におき、ライトを私の顔に当てた。焼けつくような熱は顔を上げておれないほどであったが、私が姿勢を変えてライトをそらそうとすると、電灯の位置や向きを調節してライトを私の顔に集中させ続けた。熱攻めの拷問である。先に服を着せたのは熱攻めを効果的にするためであった。シャツもズボンも汗でびしょびしょになり、喉はからからに渇いた。 この熱攻めは、次々とやって来る別の組にも受け継がれて、夜通し続いた。その間、CICたちはテーブルや空き缶をたたいたり、彼らだけが風に当たっている扇風機に針金か何かを突っ込んだりして、部屋中を騒音で満たしながら罵り、喚いていた。 私が神経を休めようと立ったまま目をつむると、CICたちは、私の鼻や耳をこよりか藁切れのようなものでむずむずさせていた。ときには、水の入ったコップを私の顔の前にかざして 「ほら、飲みたいか」 という。私が手を伸ばしてコップを取ろうとすると、コップを引っ込めて 「質問に答えるなら飲ませてやろう」 とからかっていた。 更にまた、CICたちは、先に撮影した私の全裸写真を、4つ切大にして持ってきて 「お前の姿だ、見ろ」 「お前の家族にこれを送ってやろう。何と思うだろう。セナガの家族にも見せてやろう」 などと、侮辱的な口をたたきながら、その写真を私の顔にばたつかせていた。その写真は私を辱めるためにCICたち皆が最後まで利用し、弄んでいた。 熱と光と騒音と恥辱的な罵声に加えて 「JCPのことは君がしゃべらなくても、どうせ君がしゃべったと発表するんだ」 「君一人なんか海の底に沈めようと、どこへほうり込もうと誰にもわかりはしないんだ」 などと喚く中で一夜が過ぎた。その間、私は食事はおろか、水一滴も与えられず、一睡もしなかった。 朝の7時か8時頃、「鼻の長い」大尉の組がやって来て、照明用のライトを消し、私を応接セットのある部屋に移した。私は汗でびしょ濡れになったシャツとズボンを脱がされ、パンツ1枚になって椅子に座らされた。大尉は私の汗で濡れたシャツを広げて椅子に掛け、朝食を運んで来させるなど、親切そうに振舞って、英語で話し掛けてきた。それをもう一人の日系2世が通訳した。 「こんなことをいつまで続けても仕様が無い。一つ交渉しよう」 「交渉とはどういうことか」 と問い返すと 「第三国人身上明細書を書くなら、6時間寝かす。機関紙部のことを知っているだけ書いたら、すぐ釈放する」 私はそのどちらも拒否して 「私に罪があると思うなら起訴するがよい。裁判で争う」 と、突っぱねた。大尉は 「起訴しようと思えばできるが、我々の仕事は起訴するのが目的ではない。ここは何をする所か、知っているか。我々の仕事に協力すれば釈放する。条件に応じて寝たいなら、私を呼べ」 と対敵諜報部隊であるCICの本性をあらわにして、立ち去った。 その後、私は再び拷問室に移され、パンツ1枚で立ったまま、代わる代わるやって来る2人ずつのCICから、昼食抜きで詰問され、罵られ、辱められて日中を過ごした。 夕方、例の大尉がまたもやって来て、私を応接セットの椅子に座らせ、先ほどと同じことを言い残して立ち去った。それから夕食にまるいパン1個を与えられた後、私は隣の拷問室に移され、代わる代わるやって来るCICたちに照明用のライトを顔に浴びせられ、光と騒音と罵声と叫喚との仲で2度目の夜を過ごした。CICは、こうしてまる2日間、私を一睡もさせず、私の精神と肉体とを疲労の極限にまで追い込もうとしていたのである。 連れ込まれてから3日目、8月15日の朝、大尉の組がめぐって来て、ライトを消し、私を応接室の椅子に座らせた。2世は水の入ったコップを持っていたが、私が取ろうとすると 「第三国人身上明細書を書くなら水をやる、睡眠もとらせる」 と言う。私はそれを拒否する一方で、今の状態を切り抜ける方法はないか、今のままでは鹿地亘事件のようになるおそれはないか、と思い巡らしていた。 その事件は、第二次大戦直後の占領下の日本で、左翼の文学者で作家の鹿地亘がアメリカ陸軍キャノン中佐の率いるCICの別働隊キャノン機関に拉致され、秘密裡に約1年間監禁されていた事件である。 鹿地亘事件のようにならないためには、私がCICの拉致状態にあることを外部に知らせなければならないが、それには私を軍事裁判に起訴させる以外に無い。そこで私は、軍事法廷で日本共産党員として公然と闘う腹を決め、身上明細書の記入は拒否したまま、その質問事項の家族、学歴、経歴など純粋に個人的な事項についてだけ、口頭で答え、その代わりにCICは私を軍事裁判に起訴するように仕向けた。私をどう始末するか探っているに違いないCICに合法的な道を選ばせたのである。その際、私は東京に居たときに共産党員であることは公然化していたので、それを認め、それ以外の党関係、団体関係、友人関係は一切黙秘した。聞き取った内容は日系2世が英語で記入していた。 一応の聞き取りがすんだところで、私は睡眠を要求し、応接椅子のマットを床に並べて寝た。まるまる2昼夜、48時間ぶりである。たちまち深い眠りに落ちた。 大尉を含む4、5人のCICたちが私を囲んで起こしたとき、頭は重く、寝入りばなの感じであったが、数時間は寝たようである。大尉は 「これからあなたを起訴して予審にまわす。しかし、予審がすんでも公判まではここで調べる。これは勾留状だ」 と差し出して見せた。それは「国場の身柄を公判が開かれるまで勾留する権限を第526CIC部隊責任者に与える」という意味の予審判事が出した英文勾留状だった。 しばらくして、那覇にある軍事法廷に行くことになり、大尉はパンツ1枚でいる私に服と帽子、時計、ペンなどの所持品を返すように部下に命じた。それから大尉の運転する車に乗せられて那覇に向かった。後部座席の私の左右には日系2世2人が乗っていた。 法廷前で車から降りたのは5時前だった。CIC3人に囲まれて、先ず琉球政府の警察局長室に、次いで那覇警察署長室に連行され、そこで英文の起訴状を渡された。それには「KOKUBAは琉球政府の認可を得ていない新聞『民族の自由と独立のために』を不法に出版した責任者である」という意味のことが書かれていた。 軍事法廷に入ると、そこにはトーマスというアメリカ軍判事と通訳、それにCIC3人、警察署の司法係2人がいるだけで、新聞記者も傍聴人もいない。内密にことを運ぶつもりらしい。型どおりの予審が無造作に行われた後、その晩は那覇警察署の留置所で過ごした。 翌16日午前10時頃、日系2世のCIC3人が迎えに来て、私は車でCIC本部に連行された。そこでは、もはや、大した質問もなく、昼食をとってから再び那覇警察署に移された。 しばらくして、軍事法廷に呼ばれ、那覇署の警官に連れられて行ったところ、法廷にはトーマス判事と通訳以外誰もいない。私が被告席に着くや否や、トーマス判事は口を開いた。 「只今CICのメージャー・ジョンソンと話し合ったところ、CICではあなたを起訴する意思はないそうです。あなたは不起訴になりましたから、お帰り下さい」 「それだけか」 「それだけだ」 軍事裁判になったら、私はCICの拷問の実態を法廷で明るみに出し、沖縄住民の人権を蹂躙してやまないアメリカ軍の占領支配に対決して闘うつもりでいた。しかし不起訴になって、私は闘う場を失った。CICは軍事法廷での私との直接対決を避けたのである 私が釈放された同じ日の8月16日、アメリカ軍琉球軍司令部(ライカム)は「沖縄に日本共産党の沖縄県委員会が1954年初頭より存在し、活動している」と発表し、翌日の新聞『沖縄タイムス』と『琉球新報』にでかでかと掲載させた。その狙いは、私がCICの拷問を表沙汰にするのを牽制すると同時に、沖縄の党を挑発して前年の人民党事件のような弾圧の機会をつくることにあると思われた。沖縄の党は党だけ突出した抗議行動を控えて、あくまでも人民大衆の力を結集してアメリカの軍事占領支配に総反撃する方針を堅持し、沈黙を守った。 すると、ライカムは4日後の8月20日、日本共産党沖縄委員会に関する追加情報として、細胞(支部)が活動している地区や職場を発表して、新聞に報道させた。それでも沖縄の党は沈黙していた。それにしびれを切らしたかのように、ライカムは、今度は8月24日、琉球政府に命じて、高校助教論に共産党員がいたことを発表させ、新聞に報道させた。それでもなお、沖縄の党は沈黙していた。ライカムとその配下にあるCICはそれ以上の手出しをしなかった。彼らの挑発は不発に終わったわけである。 事件の経過を私から聞いた党政治局では、私がとった態度について、何の誤りもないという意見と重大な誤りだという意見とがあった。私はその2つの意見を汲み取った自己批判書(前掲資料集第二巻所収)を書いて党に提出したが、結果においては、ライカムが日本共産党委員会の存在を公然化させたことになり、さらに共産党員というだけでは逮捕も起訴もできないことを広く認知させることになった。 しばらくして、入院中の瀬長氏から病院に来るように連絡があり、面会に行ったところ、瀬長氏は「これからは、公然と活動することだ」と私を励ました。そして翌1956年3月の立法院選挙では、瀬長氏のすすめもあって、那覇市の選挙区から人民党公認で立候補した。結果は惨敗であったが、私にとっては公然たる政治活動に踏み出す第一歩となった。 9 アメリカ軍占領支配への総反撃 島ぐるみの土地闘争 日本で55年体制が成立した1955年、沖縄では、「土地を守るたたかいの面でも、生活と権利を守るたたかいの面でも、平和を守るたたかいの面でも、大衆闘争が大きな発展をみせた」(「沖縄における党建設上の誤りと欠陥について」前掲載資料集第二巻)。アメリカ軍の占領支配に対する沖縄住民の反撃が始まったのである。 そんな中で、この年9月3日、沖縄本島中部の石川市で、永山由美子ちゃんという6歳の女の子がアメリカ兵に連れ去られて、暴行され、惨殺される事件が起こった。 それから半年後の1956年4月、今度は与那嶺悦子さんという32歳の女性が、柵の壊れたアメリカ軍弾薬集積所の敷地でスクラップ(屑鉄)拾いをしていることろを、アメリカ兵に射殺される事件が起こった。 これらの事件が起こるたびに住民は抗議運動に立ち上がったが、住民の基本的人権を蹂躙してかえりみないアメリカ軍の数々の行為に住民の怒りと憤りは積み重なるばかりであった。沖縄がそういう情況にある1956年6月9日、プライス勧告がアメリカ側から比嘉行政主席に伝えられ、6月20にその全文が公表された。 プライス勧告というのは、先に述べた前年5月22日の「軍用地問題解決住民大会」の決議で渡米した比嘉行政主席ら四者協議会代表の陳情を受けて、アメリカ政府下院軍事委員会がこの年の10月に沖縄に派遣した調査団の調査結果報告である。調査団は団長がプライス議員であったことからプライス調査団と呼ばれ、その報告はプライス勧告と呼ばれた。 プライス勧告は、先ず、沖縄基地の重要性を強調し、「琉球列島には挑戦的な民族主義運動がないので、アメリカは、この島々を長期にわたって、アジア・太平洋地域における前進基地として使用することができる。ここでは、原子兵器を貯蔵または使用するアメリカの権利に対し、なんら外国政府の干渉や制約をうけることはない」と公言してはばからなかった。 軍用地問題に関しては「いかに琉球の問題に同情的になっても、琉球におけるわれわれの主要な使命は戦略的なものであり、したがって、ここでは、軍事上の必要性が断固としてすべてに優先する」という軍事優先の立場から、住民の四原則の要求を頭ごなしに退け、すでに四万エーカー(約4900万坪)の軍用地がある上に、あらたに一万二千エーカー(約1500万坪)の土地を接収し、それらの軍用地はすべて永久に買い上げる方針を明らかにした。 このプライス勧告は、言ってみれば、「沖縄には民族主義運動もないほど、住民は無気力で、おとなしいから、アメリカは沖縄を、前進基地・核兵器基地として、どこの国からも干渉や制約を受けないで、永久に使用することができる」と沖縄住民をみくびり、「軍事上の必要がすべてに優先するから、そのためには、住民の生活と権利が犠牲になってもかまわない」という考えをあからさまに言ってのけたものである。沖縄が民族的に侮られていることを住民に強く意識させずにはおかなかった。 そこで、民族の尊厳を守るためには全住民が一致団結してプライス勧告に反対しなければならないという考えが沖縄中に沸き起こり、「土地を守る四原則」の貫徹は、単に軍用地所有者だけの問題ではなく、領土権を守るための民族的な闘いであると考えられた。 プライス勧告の公表を受けて、立法院は、いちはやく、プライス勧告反対の態度を明確にし、四原則の中でも特に軍用地料の一括払い反対と新規土地接収反対の二つの要求をアメリカ側が認めなければ総辞職することを決議した。次いで四者協議会を構成している行政主席、市長村長会、軍用地連合会も立法院と歩調を合わせて総辞職を決議した。 プライス勧告が伝えられてから11日後の1956年6月20日、四者協議会の提唱で、沖縄のほとんどの市町村でプライス勧告反対の住民大会が開かれ、6月25日には、那覇で10万人、コザ(現沖縄市)で5万人の住民大会が開かれた。プライス勧告反対の運動は沖縄全住民を巻き込んで、文字通り“島ぐるみ”の闘いになり、沖縄の島全体が熱っぽい民族運動のるつぼと化した。プライス勧告は、住民の胸の中に積もり積もってくすぶっているアメリカの軍事占領支配に対する怒りと憤りに火をつけ、それをいっぺんに爆発させて、燃え上がらせたのである。 1954年の人民党に対する弾圧直後に「沖縄の党」政治局が発した方針書「人民大衆の力を結集して敵の凶暴な弾圧に総反撃せよ」が見通した通りに情勢は展開し、さらに、「沖縄の党」の非合法機関紙『民族の自由と独立のために』第9号(1955・4・17)の主張「土地を守るために全県民の力をあわせよう」が指し示す方向に闘いは発展したのである。それはまさしく、アメリカ軍の苛酷な軍事占領支配に対する沖縄住民の総反撃であり、アイゼンハワー政権のニュールック戦略に基づく沖縄基地確保の強行策が引き起こした沖縄住民の総抵抗であった。 占領支配の壁に風穴 沖縄住民の島ぐるみの闘争は、日本本土でも連日のよう大きく報道され、日本国民の沖縄に対する関心はにわかに高くなった。それ以前には、1953年に今井正監督の映画『ひめゆりの塔』が上映され、“忘れられた島”沖縄を思い起こされるのに大きな役割を果たした。また1955年1月には、自由人権協会が沖縄の人権問題について調査した結果を朝日新聞が大きく報道し、沖縄の実情もようやく国民に知られるようになってきた。しかし、この頃まで、日本本土における沖縄返還運動は、沖縄出身者だけの運動にとどまっていた。それが広く国民的な運動になったのも、沖縄住民の島ぐるみの土地闘争が日本に伝えられてからである。 それまでアメリカ政府は、沖縄を制約のない核兵器基地として排泄的に独占支配するために、沖縄問題への他国の干渉、介入をいっさい許さなかった。日本政府も、沖縄の統治に関しては、くちばしひとつ挟むことができず、傍観者の地位に甘んじていた。アメリカ占領軍の許可がなければ、誰であろうと、沖縄への入域も沖縄からの出域もできなかった。沖縄の実情は、外部に報道されることがなく、世界の耳目に触れることもなかった。 ところが“島ぐるみの土地闘争”に遭遇して慌てたアメリカ占領軍は、住民大会の代表が日本国民の支援と連帯を求めて日本に渡航するのを許可せざるをえなくなり、また、日本の報道関係者が沖縄に来て取材、報道するのを拒否できなくなった。“島ぐるみの土地闘争”は沖縄を外部の世界から遮断していたアメリカの軍事占領は壁そのものが取り壊され、沖縄の施政権が日本に返還されることになる。 “島ぐるみの土地闘争”はその起点であったと言える。 |
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編集後記 本稿は、著書の国場幸太郎さんが生前に書き残した遺稿「私の沖縄経験(仮題)」を編集したものである。遺稿は、約11万字の分量でフロッピーディスクに残されていた。 この原稿の成り立ちについて、国場さんは編集の森あての書簡(1999年5月13日付)で次のように説明している。1995年にまとめた小冊子『回想――私の沖縄経験から――』を謹呈した岡本恵徳・新川明両氏から「もう少し詳しい回想」や「当時の米・日・琉の包括的な把握に立った総括」を書いて欲しいという葉書をいただいたこともあり、また、沖縄タイムス出版部長の上間常道氏からも「沖縄の戦後史のある局面を照らし出すような自分史のご執筆を、小生個人として密かに期待しています」という書簡をいただいて、98年から「エッセー風の回想録を綴ってみようと思って書き始めた」と。そして「文体(語り口)はこれでよいか、内容は興味をもって読めるものになっているか」、編者に意見を求められた。この時点では、最終的な遺稿の半分ほどまで書き進められており、「もし出版できる目途が立てば、今まで明らかにされていない党関係まで含めて書き継いでいこうか、と考え直しているところ」だった。 このように本稿はもともと「エッセー風の回想録」のイメージで書き始められた。ところが、その後99年から3年ほどのあいだに、「今まで明らかにされていない党関係」を証しだてる「沖縄非合法共産党関係資料」が相ついで見つかり、国場さんは編者らとともに福島県の金澤幸雄さんや、奄美大島の林義巳さんを訪ね、史料の研究整理に取り組まれることになった。その成果は「著書略歴」でも紹介したように現代史研究の諸論文となってまとめられていった。これによって50年代沖縄の島ぐるみの抵抗運動の成立過程と舞台裏が明らかになったことは、大変貴重な、喜ぶべき展開であった。 ところがその一方で、この島ぐるみの抵抗運動を地下から隠密に準備し牽引していった国場さん個人の「エッセー風の回想録」は、中途のまま、まとめにくいものになってしまった。新たに発見された大量の史料を検討する作業は研究論文でおこなったが、そこで研究者としてつめていった。歴史的事実の流れをふまえつつ、歴史のなかの当事者としての「自分史」を、あらためてまとめなおすのはむつかしかったのだろう。国場さんが亡くなられてから、鳥山淳さんと私はご遺族から遺稿を託されたが、その内容は「エッセー風の回想録」のなかに専門書のような研究分析がはさまれる状態で、未完のまま残されていた。 資料的価値を考えるならば、第三者が手を加えることなく未完のまま発表するのが望ましく、あるいは、生前の論文やインタビューから補うかたちで完成原稿に編集しなおすことも不可能ではなかった。鳥山さんと私はなんども話し合いを重ねたが、最終的には、国場さんがこの原稿をだれにでも読みやすく興味をもって読んでもらえるものにしたいと考えていたことを重んじ、専門的な検討部分をカットし、「エッセー風の回想録」の線でまとめなおすことにした。 そうして章立てや見出しを加除し、削除部分の前後を調整するなどしてできあがったのが、本稿「沖縄の人びとの歩み」である(約86000字)。国場さんがつけていた仮題の「私の沖縄経験」は、自分史に限定した当初の執筆イメージのタイトルであったため、沖縄非合法共産党関係資料の発見によって社会全体を見わたす視野の広がりが増したことをふまえて、編者がつけなおした。その際、青少年むけに国場さんが書いた沖縄史概説書『沖縄の歩み』(新少年少女教養文庫)のいわば自分史・民衆史バージョンという意味で、その書名を手がかりにさせていただいた。また、副題として、あつかう対象・角度・時代範囲をしめす「戦世から占領下のくらしと抵抗」を挿れた。なお、遺稿からカットした主要部分については、版元の不二出版のホームページにデータを掲載する予定なので、関心のあるかたは参照いただきたい。 こうして1998年の執筆開始から15年後、難航の末にできあがった本稿は、国場さんが残された遺稿のすばらしさが、編者にとっても思いのほか輝きをはなってくる内容になったのではないかと、ひそかに自負している。那覇の小さな一家族が世界大恐慌と世界大戦の到来によって運命を翻弄されながら、家族愛と思いやりによってたがいに肩を寄せあうようにして家庭をまもり、貧しい人びとのやさしい心づかいに包まれて育った幸太郎少年が、正義感と誠実さによってさまざまな人との出会いを重ね、戦中戦後の日本・沖縄の激動期を乗りこえ、ついには非道な軍事占領にたいする全沖縄の島ぐるみ抵抗運動を人しれず築きあげてゆく。 青少年をふくめて沖縄に関心をもつ幅ひろい人びとに読んでもらいたい、戦後沖縄を代表する革命家の幼少期からの成長物語という側面が前面に出てきたと思う。また、歴史書、歴史物語としての本稿の最大の魅力は、世界最強の軍隊による恐怖政治のもとに縛られ、外界から切り離されていた受難の島の人びとが、どうして危険を冒してつながりあい、島ぐるみの抵抗運動を生み出し、軍事占領体制を終わらせてゆくことができたのか、その謎をとく鍵がこれ以上ない鮮明なかたちで明らかにされている点にある。青年国場幸太郎が体現する、思いやりと人間への信頼、尊厳をもとめる強い信念こそが、その核であった。国場さんの人がらや人間性をあますところなく伝える本稿は、同時に、戦後沖縄の歴史の核にある精神がなんであるかを、雄弁に教えてくれている。 国場さんの遺稿を国場さんの霊前にささげるというのも、すこし変な気はするのだが、ともあれ「国場さん、これでどうですか?」と聞いてみたい。とはいえ、大らかさと気づかいを何より大事にする国場さんは、むしろ本稿を読んでいただいたお一人びとりの感想こそを聞きたがっているのだろう。そして沖縄をめぐって、みなさんがこれからどう生きてゆかれるのかを、ずっと気にかけているのだと思う。わたしも国場さんにふたたびまみえるとき、恥ずかしい思いをしないようにありたいと思う。 2013年8月23日 国場さんの五回忌に 森 宣雄 |