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パペットモンスター仲井真 |
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沖縄県知事の“一人クーデター” |
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自発的隷従と自己決定権をめぐる磁場 |
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仲里 効 |
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1 知事と政府の共犯セレモニー 「猿芝居」「茶番劇」「壮大な詐術」「だまし絵」、そして政府の書いたシナリオの上で踊る「パペット(操り人形)」などと沖縄の内部から厳しく批判された、2013年12月25日の仲井真弘多沖縄県知事による辺野古新基地建設のための埋立て容認表明(正式には27日)は、沖縄の戦後史のなかでももっともダーティーなイメージを喚起するトピックのひとつになるだろう。 その8日前(12月17日)の沖縄政策協議会で、仲井真知事は「普天間飛行場の5年以内の運用停止」「牧港補給基地の7年以内の全面返還」「MV22オスプレイ12機程度の県外配備」「環境管理面での日米地位協定の改定」を含む6項目の基地負担軽減と、「2014年度概算要求額3408億円の総額確保」「基地跡地利用の予算確保」「那覇空港第二滑走路の増設」などの沖縄振興にかかわる要請を行なった。 これに対して安倍晋三首相は、新たな政府間協定を作成することや防衛省内にチームを設置すると述べるにとどめ、振興策については「2014年度予算概算要求を上回る3460億円」とするとしたのをはじめ、「2021年度まで毎年3000億円の振興予算を確保」「北部振興事業は21年度まで毎年少なくとも50億円の事業などを継続」「那覇空港滑走路増設工事を19年末までに完了」などと回答してきた。 この政府回答を仲井真知事は、沖縄への思いが「かつてのどの内閣にも増して強い」とか「驚くべき立派な内容」とか「有史以来の予算」などと讃えた。だが、果たして仲井真知事が言うように、手放しで評価できるものだろうか。そうではないはずだ。それらは「すでにやっている」ことでもあり、担保を欠いた「口約束」にすぎず、ましてや「140万県民を代表して感謝」する筋合いのものではない。振興策にしても「沖縄」というくくりを外して省庁別予算編成のルールから見れば、格段に配慮がなされているわけではないことは多くの論者の指摘するところである。いわば沖縄政策協議会での要望書は、バーゲニング・カードにさえならない、政府方針の想定の範囲を出るものではなかった。 「やるべきことはすべてやった」とする政府回答は、辺野古埋立てという一点を落とすための能書き以上のものではなく、驚くに値しなかった。唐突とも思える沖縄政策協議会の開催→仲井真知事の要請→安倍首相の回答→仲井真知事の承認までのセレモニーは、あらかじめシナリオが書かれていたとしか言いようがなかった。だからこそ沖縄は仲井真知事の振る舞いに「パペット」を見て取り、要請=回答の共犯セレモニーに「猿芝居」や「壮大な詐術」を嗅ぎ取ったのだ。 こうした「壮大な詐術」にはある力学が巧みに使い分けられていることに気づかされる。それというのは「沖縄振興予算」を過大に見せ、基地問題を包み込むことであった。これまで基地と振興策はリンクしないということが県政や政府の公理にされてきた。「金と引き換えに、沖縄の心を売った(買った)という不名誉なレッテルだけは貼られたくなかったのだろう。にもかかわらず、肝心要のところで振興策によって懐柔され、レトリックを弄し自己弁解に終始する醜態を演じてきた。考えてみれば、「リンクしない」という打ち消しは、振興策が強い決定要因にされてきたということを逆説的に明らかにしてもいる。今回、その苦いパラドックスをあらためて目撃させられたまでのことなのかもしれない。そしてその力学をよく心得ているのは、ほかならぬ官邸だったということである。それゆえに「振興策」を突出させるかのように見せかけ、公約を骨抜きにすることができた。 17日の仲井真知事の要請から25日の安倍首相の回答をはさみ知事への承認へと至るレールは、まさにそうした力学が沖縄統治の構造に組み入れられ、肝心要で落としどころへと決着していく過程をまざまざと見せつけたのだ。 それにしても、と思う。仲井真知事のとても尋常とは思えないセリフは一体どこからくるのだろうか。その不自然さはかえって背後の黒い霧を疑わせる。と同時に、沖縄統治のヘゲモニーに対する同一化を行為遂行的に、しかもスペクタクル化して見せた。だからこその「詐術」であった。 2 「隠喩としての病」と「自発的隷従」 ところで、仲井真知事が交渉の舞台を東京に移してからの9日間の言動で、影のようにまとわりついてきたあることに注目せざるを得なかった。「あること」とは、腰から足にかけての痺れで東京都内の病院に入院したことと、交渉にあたって車椅子で臨んだことである。私たちは17日の沖縄政策協議会に出席のため車椅子で官邸に入る姿と、25日の首相との会談終了後、官邸から車椅子で出てきて記者団に囲まれる知事の映像を繰り返し見せられた。なぜ知事は沖縄の命運が決まる決定的な時期に沖縄を不在にしたのか、そしてなぜ入院してまで東京に居残ったのか。腰痛による検査入院と車椅子での外出にはやむを得ない事情があったにしても、重要な政治的決断の真只中であるだけに、意図せざる意図のように出来事の核心を影絵のように浮かび上がらせることになった。 つまり知事が入院した9日間と病床はまた、知られざる駆け引きの時間稼ぎと場所取りにもなったということである。誤解を恐れずにあえて言えば、交渉の司令部としての知事室を沖縄県庁から移動し、立て籠もったとしか思えない。沖縄の地の熱と激しい阻止行動の圧力をシャットアウトすることで決断を囲い込み、沖縄への背信のために密室を政治の舞台にしたのだ。 それを打ち消し、覆い隠すために“病”が呼び出された。その“病”が痺れであったことは注意しておいてよい。入院は一種の籠城で、その日付と場所は周到なシナリオが書かれていた、と見なされても不当とは思えない。形成され始めた沖縄の自己決定権への仲井真知事の“一人クーデター”は、永田町の完全な手の内にあった。だからこそ繰り返し映し出された車椅子の映像は、隠喩のように見る者の意識に入り込み、イメージの政治を喚起した。 さらに言えば、それよりちょうどひと月前の11月25日、辺野古埋め立てを容認させたのち、自民党所属の5名の沖縄選出国会議員を同席させての石破茂幹事長会見映像との対称を考えないわけにはかない。5名の表情に差(この差は、県内移設に対する態度の濃淡によるものだが)はあったものの、終始俯き苦悶の表情さえ浮かべた姿と、威圧するような石破幹事長の姿とのコントラストに、沖縄では「琉球処分」の構図を想起した意見が少なくなかった。あの会見映像には、自民党内の中央と沖縄のねじれを組み伏せたということを公に見せしめる直喩の効果があった。仲井真知事の入院という名の籠城と車椅子は、立ち姿の石破幹事長の背後で座ったままうなだれる5名の国会議員の映像とモンタージュされるとき、明らかに対をなして「猿芝居」や「だまし絵」を合作したと見なすことができるだろう。 さまざまなダーティーイメージで構成された2013年の11月から12月にかけての、まさに沖縄の命運を左右する瞬間に私たちが見たものの核心を統治システムと決断の構造にまで踏み込んで言い当てるとすれば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従」という概念ではないだろうか。「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見当たらない悪徳」という、名ならぬ名。それまでの公約を撤回し、日本政府のロジックに自らのロジックを同一化させ、進んで屈した、その決断に構造化されているもの―「自発的隷従」をおいて、それを呼ぶにふさわしい名はないだろう。知事の決断の前哨として5名の国会議員を屈服させた「県内移設を含むあらゆる可能性を排除しない」というロジックを思い出してみたい。この一見手の込んだロジックにはしかし、現実的にただひとつの選択しかないということが含意されている。ここでは「あらゆる可能性」はだだの方便にすぎない。「あらゆる可能性」は排除され、ただひとつの選択へと収斂していく。 「驚くべき立派な内容」とか「有史以来の予算」という仲井真知事の手放しの評価は、いみじくもド・ラ・ボエシが「あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである」と辛辣に指摘した、まさに「隷従状態を勝ち得たのだ」という倒錯になぞらえてもけっして不当にはならないだろう。そしてその倒錯は、隠喩としての病が動員されることによってより効果を発揮することになった。腰痛の悪化のための入院は知事のセルフプロデュースとしての「籠城」という側面をもっているだけではなく、「隷従状態を勝ち得た」ということにおいて「監禁」というもうひとつの意味を浮かび上がらせてくれる。この「籠城=監禁」こそ“一人クーデター”の性格を表す構図にほかならない。 仲井真知事の変節ははからずも「自発的隷従」の二重構造とも言える、外と内に働く力をも引き出すことになった。ここでの外に働く力とは、日本の戦後国家の起源を決定づけ、政治にとどまらず社会や文化をも拘束していったサンフランシスコ条約と、その条約が結ばれた同じ日に締結された日米安保条約によって成立した体制である。背信とも変節とも言える仲井真知事の転向を囲い込んだ安倍首相の言動の背後には、つねにアメリカの視線があった。なぜ日米安保条約は国家の最高法規としての憲法より上位にあり続けてきたのかという問いは、「自発的隷従」という答えにおいてその本質を露にする。なによりもまた、日米安保体制の結節点に位置する沖縄は、アメリカを複製しアメリカのヘゲモニーを深く内面化することによって存立した日本の戦後国家の在りようを、つねにあぶりださずにはおれない。 いまひとつの内に働く力とは、沖縄が日米安保体制の結節点であるがゆえにさらされざるを得ない、日本政府からの同化圧力にかかわる「隷従」のあり方である。この同化圧力は、形を変えたにしろ、沖縄の近現代を貫くイデオロギー装置として機能してきた。力を誇示ずるような石破幹事長とその背後にさらしものにされた5名の沖縄選出国会議員の映像に、大多数の沖縄びとが松田道之琉球処分官と琉球王府の役人たちの姿を重ねたとしても、沖縄選出自民党国会議員にさえ分かち持たれていた沖縄の民意が、包摂と排除を使い分けた圧力に屈したという側面は否みようもない。「処分」はまた「同化」でもあった。仲井真知事の「自発的隷従を勝ち取った」としか思えない逆立ちした言動は、陰になり日なたになり“沖縄的転向”を演出してきた包摂的排除という装置の内部にあった。そしてそれは1972年の「日本復帰」後は「沖縄振興」という名のもとに機能してきた。いわば「沖縄振興」は統治システムに装置化され、その都度“沖縄の乱”を丸め込み、覆い隠してきたのである。 3「生政治」と日米の軍事的ゲットー化 「沖縄振興」は、基地を安定的に維持していく統合装置であるがゆえに、投下される資本は沖縄に還元されるよりも、国家と資本の還流システムのなかに多くが吸収されていくようになっている。表面は賑わいを見せている沖縄社会も一皮めくればそこには荒涼とした地肌がむき出しになっている。 12月14日の地元紙・沖縄タイムスには「沖縄の貧困率全国最悪/07年ワーキングプア率も」の見出しが躍っていた。それによれば、「絶対的貧困率」(必要最小限度の生活を保つための収入がない人の割合)と「貧困就業世帯」(就業世帯のうち所得水準が最低生活費以下の世帯)を示す「ワーキングプア率」が、沖縄はいずれも全国ワーストとなっていることが、戸室健作山形大学准教授の研究によって解明されたと紹介されていた。総務省が5年ごとに実施する『就業構造基本調査』(07年)のデータから導き出したもので、「絶対的貧困率」は全国平均が14.3%であるのに対し、沖縄は29.3%、「ワーキングプア率」は全国平均6.7%に対し、なんと20.5%にのぼり、2位の大阪の11.5%を大きく上回っている。この驚くべき数値は、『就業構造基本調査』が発表された直後の7月13日にやはり沖縄タイムスが取り上げていた、非正規雇用の割合が沖縄は全国最高の44.5%という突出した数値と対応している。これらの数値からは、沖縄が47分の1という行政単位には収まらない、日米によって合作された軍事植民地であるがゆえの構造的欠陥が見えてくる。 その構造的欠陥は、長い圧倒的な米軍の排他的占領によってもたらされたいびつさに起因していることは疑いようがない。沖縄県が発行する『100の指標からみた沖縄のすがた』の最新版からも、沖縄社会の深層を蝕んでいるそのいびつさが「復帰」後もけっして解消したわけではないことを知らされる。いずれもワーストワンを示す1位と47位の多さはそのことを雄弁に物語っている。在日米軍専用施設面積が75%を占めているのをはじめ、全国1位となっているのは、完全失業率、第三次産業構成比、出生率、人口増加率、死亡率、離婚率、悪性新生物、脳血管、心疾患による死亡率などである。47位は、全国の7割しかない年間平均収入から、第二次産業構成比、収入にかかわる貯蓄年収率、可処分所得、高校大学進学率などである。その他、1位と47位のすぐ近くに無視できない数の指標がひしめいている。このワーストワンの密度と連関が、沖縄人の生活と生存の根っこのところまで浸食し、多重化しているのが分かる。 こうした軍事植民地的状況をもっとも典型的にしめす指標として挙げられるのが、基地維持政策と結びついた「軍用地料」である。『沖縄の米軍基地と軍用地料』(来間泰男、榕樹書林2012年)は、基地の面積と軍用地料の変遷をたどりながら、とりわけ72年の「復帰」後に地料が大幅に上がり、今も上がり続け、沖縄社会に大きな影を落としている問題に分け入っていた。「高い」軍用地料=増え続ける不労所得は、一般地価の引き上げや勤労意欲の減退、贅沢と遊興、投機・詐欺の横行などの問題を生んでいるが、「すでに、沖縄には『地主階級』の分厚い層が形成されている。沖縄は『農業県』であるよりはるかに『軍用地料県』なのである」という指摘は衝撃的である。ちなみに08年の統計では、沖縄県全体の農業所得は、軍事地料の45%にしかならないという。分厚い層として形成された階級としての軍用地主は、沖縄社会の隠された影のアクターになっている。 「日本復帰」を境にして、10年ごとに沖縄振興開発計画が策定され莫大な「沖縄振興予算」が投下されたにもかかわらず、『就業構造基本調査』から浮かび上がった「絶対的貧困率」や「ワーキングプア率」の極端な高さ、『100の指標でみる沖縄県のすがた』で明らかになったワーストワンの占める比重、そして増え続ける不労所得=軍用地料によって蝕まれた沖縄の社会的身体が避けられず生政治的な様相を呈しているところに、問題の深刻さがある。仲井真知事が演じた「だまし絵」や“一人クーデター”の「パペット」の深層には、軍事植民地・沖縄の剥き出しの生政治があったことは銘記しておいてよい。言葉を換えて言えば、日本国家の沖縄統治に組み込まれた「沖縄振興」という名の同化装置が“仲井真弘多”というパペットモンスターを産んだということでもある。 ところで、ここで目を塞ぐわけにはいかないのは、沖縄の将来を左右した出来事と相補うように、日本の安全保障の枠組みを根本的に書き換える国家安全保障戦略、新防衛大綱、中期防衛力計画が決定されたことである。基盤的防衛から動的防衛へ、動的防衛から統合機動防衛力へと指針を移した安全保障戦略は、南西諸島の防衛に重心を置いた島嶼防衛論へと大きく舵を切り、沖縄を「安全保障上極めて重要な位置」と見なしているところに際立った特徴がある。 たとえば航空自衛隊那覇基地のF15戦闘機部隊を1個飛行隊20機から2個飛行隊40機に倍増するほか、既存の沖縄駐留自衛隊基地の拡大強化と宮古や八重山、与那国島を防衛の「空白地帯」として新たな配備が計画されていることに、その一端が示されている。自衛隊施設数は「復帰」時の3から39に増えるという。米軍再編の要である普天間基地の代替基地建設がもしも強行されるならば、日本の軍事再編とも結びつき、その複合によって琉球列島は日米の軍事的ゲットーと化していくことは目に見えている。 4 〈橋〉をわがものとする筋肉と頭脳 こうしてみると、辺野古への新基地建設のための埋立て承認と抱き合わせた「沖縄振興」が、どのような意味をもっているかが分かるというものだ。沖縄社会の分断と階層化を固定し、「絶対的貧困率」や「ワーキングプア率」の際立った高さに見られるように、沖縄人をますますサバルタン化していくことになるだろう。だとすれば、2013年12月の倒錯した決断を拘束した「沖縄振興」という名の統合の政治に対し、フランツ・ファノンが『地に呪われたる者』のなかで、植民地状況からの解放のゾミア(脱国家的地平)として提示した「橋をわがものにする思想」を何度でも想起すべきだろう。すなわち「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊にしないならば、橋は建設されぬ方がよい。市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は、空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナによって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。(・・・・・・)市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」としたことを。 新たな基地建設と引き換えに手にした「沖縄振興策」をファノンのひそみに倣って「空から降って湧」いた〈橋〉であると言ってみたい。ここで否定的に言われた〈橋〉とは物理的な意味だけではなく、より精神の植民地主義にかかわるもので、民衆を拘束するシステムの総称と見なしてもよい。沖縄には「日本復帰」という名の併合後、けっして人びとの意識を豊かにすることはなかった「沖縄振興」という名の財政出動がなされ、多くの〈橋〉が造られてきた。その〈橋〉が沖縄に何をもたらしたかは、「絶対的貧困率」や「ワーキングプア率」の抜きん出た高さを挙げるまでもないだろう。 「筋肉と頭脳」を主体的に組み直すこと、そして「橋をわがものとする」こと――では、沖縄が「橋をわがものとする」とはいかなる内実において語らなければならないだろうか。たとえば地元紙・琉球新報が注目した「自己決定権」の思想は、その手がかりを与えてくれないだろうか。昨年12月31日の一面には1月からスタートする数本の新企画が予告されていたが、その紹介には「沖縄の未来を開く突破口と位置付け、確立への道を探ります。」という文とともに「自己決定権」の語があった。また、新年号では「未来開く突破口/民意世界に発信」を見出しにして、二面と三面見開きで特集を組んでいた。リード文で、「自己決定権」という概念が沖縄で注目されていること、政治体制をはじめ経済、文化的な事柄を自由に決定できる権利として国際社会にも広がっていること、そして「自己決定権」の確立で新たな歴史に向かおうとする気運はさらに高まっていくという視点から沖縄の戦後抵抗を振り返っていた。 その象徴的な取り組みとして、1962年の琉球立法院での、国連憲章や第15回国連総会(1960年12月)で採択された「植民地独立付与決議」に言及した「二・一」決議と、「オール沖縄の原点」として昨年1月28日に県内全41市町村長や議会議長らが、オスプレイ撤去と県内移設断念を訴える「建白書」を携えた東京行動を取り上げていた。その横には県内全市町村長直筆の「建白書」も掲載されていた。そして、1966年に国連で採択された国際人権規約第一条「人民の自決権」や、その権利を第二条で人種や言語や政治的地位にかかわりなく保障していることに言及していた。さらに国連人種差別撤廃委員会が2010年3月に沖縄への不均衡な基地集中を批判し、差別解消を日本政府に勧告したこと、またそうした国際基準を内側から裏づけるように沖縄の「自己決定権」の確立に向けた「権利章典」を提唱している島袋純琉球大学教授のインタビューも掲載している。 2014年1月3日の社説では「民意の力で尊厳回復を/国連で不当性訴えよう」の見出しで「自己決定権」とそのあり方について論評している。ここで注目したいのは「自己決定権」を求める世界的潮流に沖縄の実践を位置づけ、そのうえで、英国からの独立の是非を問う住民投票を行なうスコットランドや同様の動きがあるスペインのカタルーニャ、米国との自由連合盟約か州昇格か独立かの選択を模索するグアムの取り組みなどを紹介し、「沖縄でも自治州や道州制などの構想が復帰後連綿と続いてきた。独立研究学会も発足したい。いずれにせよ、自己決定権を拡大しない限り、幸福追求はなしえない。差別的処遇を撤回させ、自ら尊厳を取り戻そう」と結んでいることだ。一新聞社の社説にこのような論評が載ること自体まことにもって驚きと言えるが、それだけ沖縄の主体を構成する眼の高さと声の質が確実に変わってきたことを裏づけている。 この「自己決定権」への注目は、これまでの日本と沖縄の関係のあり方を根本的に改変するもので、政治的表出に新たな風を呼び入れただけではなく、沖縄の抵抗の歴史を普遍の目で発見し直そうとし、世界の脱植民地化の実践との共時性に向けて沖縄の想像力を開いていこうとする明確な志向が見られる。〈橋〉をわがものとする思想を、沖縄自らの「頭脳と筋肉」において創出していこうとする試みと結び合っていることは間違いないだろう。このことは、アメリカに自発的に隷従する日本政府と、日本政府のそれを仲井真知事が反復した二重の意味での自己植民地主義とは明らかに異なる。 沖縄民衆の尊厳と意思が貶められたあの日、県庁一階ロビーを占拠した行動のなかに否みようもなく生きられていたのは、ほかならぬ〈橋〉をわがものとする思想であった。珊瑚礁のイノーを懐にした海の思想が人びとの実践に流れ込んでいる光景が、たしかにそこにはあった。そして〈海〉と〈橋〉をわがものとする思想は、1月10日夜の沖縄県議会臨時本会議で、県政史上初となる仲井真知事の辞任要求決議の可決へと受け継がれていった。 さらに1月19日、普天間基地移設の賛否を明確な争点にした名護市長選挙で、「海にも陸にも基地は造らせない」という旗幟を鮮明にした稲嶺進が、移設推進と再編交付金を抱き合わせた候補に大勝した。翌20日の沖縄タイムス社説は「敗れたのは国と知事だ」という見出しで本質に迫っていた。 「パペット」の「パペット」たるゆえんがあばかれ、“一人クーデター”とそれを操った日本政府の企図は、沖縄の地の熱、筋肉と頭脳、つまり《海と橋をわがものとする思想》によって打ち倒されたのだ。 |
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『世界』2014年3月号 |