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新左翼運動と沖縄闘争
――全軍労第三波の“流産”と4・28闘争



川田 洋



はじめに

 全軍労第三波ストライキは、ついに“流産”した。そして、“第三波”の爆発にかけられて来たひそかな期待は打ち砕かれ、「全般的に昨年のような大きな混乱はない」(『朝日』[1970年]4月29日)ままわれわれの“4・28”は終わった。
 4月7日、全軍労と米四軍合同労働委員会は、第二波ストに関する停職処分の軽減(最高5日を最高1日に)、6月30日までの「休戦」を主内容とする“暫定条件協定”で合意に達し、翌8日の全軍労第5回中央委員会は、3時間半にわたる激論の末、54対35でこの暫定条件協定を可決。沖縄労働運動史上未曽有の規模と戦闘性をもって闘われた四ヶ月に及ぶ解雇撤回闘争は、ともかくひとつの終りを告げたのである。 
 「終り」などと言ってはいけないのかも知れない。全軍労の「暫定協定を結ぶにあたっての声明」(4月9日)は次のように言っている。
 「全軍労は、一連の解雇撤回闘争から学んだ多くの教訓を組織的に再点検し、次の戦いに備えての組織体制を確立すると同時に全軍労の果たすべき使令を自覚しつつ県民大衆と行動を共にしながら、諸問題解決にとりくんでいくことを明らかにする」(『沖縄タイムス』4月10日)
 全軍労執行部も、米軍合同労働委員会も、誰もが「終った」とは言えないだろう。しかしあえて私が「終り」という言葉を使うのは、第二波120時間武装ストの貫徹と、そしてこの“休戦協定”によって上原執行体制の指導性は底をついたこと、従って、今後の全軍労の闘争は、すでに「外部からうらやましがられた統一のみごとさ」(同前)を発揮するものではなくなることを予測するからである。
 それは8日夜の中央委員会の様子によってすでに暗示されている。会議の「非公開」化=傍聴制限(各支部1人─あとは排除)、学生、反戦に対してはバリゲード構築、そして、採決後の下部組合員のヤジ「ヤメロ、ヤメロ。もはや全軍労は戦えない」(『琉球新報』4月9日)
 全軍労第三波ストの“流産”と上原執行体制の統制指導権能の分解の中から、全軍労下部労働者は、第二波の渦中で組織化を開始した青年部を軸に、自らの戦闘態勢を準備している。日和見指導部対下部戦闘的労働者といった、裏切り史観のシェーマは、しかし今、何ひとつ生産的な意味を持ちえない。全軍労の分解に於て、沖縄現地闘争は、自らの戦後史の終局へたどりついたのであり、その歴史過程を主体化する論理を実践的に追求する方向は、ダラ幹告発運動から生まれる筈もないからである。
 それは、ただちにわが日本のプロレタリアートとその指導部にはねかえる性質の問題である。4・28闘争の集会で「上原の裏切り」が数々のアジテーターの口から語られた。かれらは、自らのかけた期待が裏切られたことを語ったのだ。しかしその“期待”とは一体何なのかいかなる歴史の産物なのか。われわれは、これを、60年代の終焉という歴史性に於いて、換言すれば、67年以来激動をはらむ現代を先端で闘い、切り拓いて来た第二次新左翼運動の終焉=転回点の意識において、可能な限り明らかにしておく必要がある。沖縄闘争に於ける“戦後”の終焉、日本新左翼にとっての60年代の終焉の関係は、相互に己れの存在様式を明らかにするためにまず要求されているのであり、安易な“連帯”を拒絶するために必要なのだ。インドシナ半島をめぐる二つのアジア会議が見せつける世界史の激動の中で、しかし、闘争者にとっては、沖縄と本土が、今ほど切断されている時はないのである。

(1)

 65年8月19日、佐藤は戦後の内閣総理大臣としてはじめて沖縄の土を踏み、「沖縄の祖国復帰が実現しない限りわが国とって『戦後』が終っていない」と語った。すでに日韓条約の本調印を済ませ、資本の対外行動を階級的基盤とする政治権力の具体的執行者としての佐藤にとって、沖縄は、自らの国境・領土問題として残された戦後処理の問題であり、アジア支配の具体的展開の重要な問題として“沖縄”が浮かびあがったことを物語ったものであることはいうまでもない。ここから、69年日米共同声明、72年施政権返還へ向う政治コースは、諸々の経済的問題の総和以上に、現在の日帝の帝国主義としての動向を規定し、表現する政治過程である。
 沖縄にとって「復帰」は、軍政権構造、および基地による生活破壊からの解放の政治表現として展望されて来た。現地の闘争は“復帰”の旗幟下に、何よりも民主的諸権利を獲得する闘争として展開されて来た。平和憲法こそ、沖縄に与えられなかった「平和と民主主義」のシンボルであり、“復帰”はその獲得である筈だった。その意識構造は、米軍政と巨大な基地構造という重い物質関係の中に、それえの抵抗・それからの解放の要求であったのであり、日本人意識とか愛国的意識とかに支えられたものではなかったし、従ってこれを「民族主義」としてイデオロギーの水準で問題にしてみても、現地の人民の闘争が変わるわけのものでもなかったのである。
 「復帰」が、「民主化」の完成として予測して来た沖縄人民に対して、その理念を打ち砕く力は、イデオロギー批判からではなく、政治―社会過程(物質的構造)の側からやって来た軍労働者の解雇、各企業の「復帰体制づくり」としての合理化、就職率の低下、物価の上昇等々。72年返還へのブルジョアジーの政治は、「復帰」要求に「返還」政治展望を与えるとともに、戦後沖縄の全社会的再編を推進するものとしてあらわれた。
 軍労働者の解雇問題を考えてみよう。米軍合同労働委員会が発表した解雇人員は、2月2日の第3次解雇までで1738名(うち400名については2月6日に撤回)、これに並行する格下げ、配転が1043名であり昨年12月4日の全体計画を上まわっている。7月からはじまる71会計年度については、9千名の解雇計画があると伝えられている(米軍当局は大量としか言っていないが)が、これもまた上まわった規模で進むものとみていいだろう。
 68年版『沖縄要覧』(琉球政府発行)によれば、67年では労働力人口42万5千、そのうち米軍雇用者は4万、約1割を占めている。従って、既発表分と来会計年度予測数の総計だけでも1万(4分の1)を超すのであり、基地サービス業や関連部門に対する波及力を考えれば、数万人の労働者が、現在の労働関係から放出されることは間違いない。
 従って、労働力の問題からだけ見ても、72年返還への過程は、52年以降の土地強制接収、58年ドル切替以降の本土資本の進出に伴う農業再編についで戦後三度目の巨大な階層分解の過程であるということができる(注・1)。
 しかも、この階層分解過程は以下の三点で従来の第1次、第2次の過程と異なった性質を、構造的、歴史的に刻印されている。
 第一に、今回の階層分解=社会再編は、日本帝国主義権力のヘゲモニーの下にひきおこされ、従ってその社会性は、日本全土での規模を持つ再編過程の構成要素をなすものであること。これは「沖縄」の枠をこえているということにとどまらず、「沖縄」の枠、戦後期に形成されたその独自な、固有な構造の解体の直接的与件である。
 第二に、階層分解の主体が、前二回の場合は農民層であったのに対し、今回の場合には賃金労働者層であること。たしかに農業(含林業)部門の就業入口は、他を圧して多い(総数42万のうち13万─67年)が、そのうち自営農民の占める位置は定かでないが、60年前後の本土資本の進出、再編過程で、相当数が農業プロレタリアに転化している(注・2)。従って、農民層分解、前回の場合よりも副次的であると同時に、第二次産業との関連ではるかに目的意識的なものとなるだろう(注・3)。あきらかに、屋良政府の「豊かな沖縄県づくり」なるユートピアの一県経済論に対して、72年返還の政治経済過程は、全土的、国家的規模(さらに言えば、アジアを射程とするそれ)で進行しているのであり、「日本の中の東南アジア」となる方向は明らかだ(注・4)。
 第三に、基地合理化=軍事再編が、反革命、侵略体系の総体的危機の中で進行していることである。そこに、日本の国家、日本の軍隊の政治=軍事的ビヘイビアが介在することによって、又、「かつてない複合的総合基地」が戦闘体制の中にあることによって、今次階層分解過程は、その政治性を世界性においてあらわにしなければならなくなっている。
 以上三点を総括的に表現すれば、今次階層分解=社会的全面再編は「施政権」の転換を軸として、「政治的」主導性のもとに展開されることによって、国家・憲法幻想総体との対決を闘争論理の基軸にすえぬ限り闘争の展望のうちに把えきることが出来ない性格を持つものであると言わなければならない。いわばこの憲法――国家幻想との闘争の論理に於いてしか(そう言いたければインタナショナリズムに於てしか)本土−沖縄の“闘う連帯”はありえない。新左翼運動にとっては、67年10月以降「ベトナム」との関係で形成して来た革命的国際主義の資質を根源的に問うものとして、72年返還=第三次琉球処分は存在しているのである。

(2)

 第三次琉球処分の現過程へ論及するに先立って、ここで、本土―沖縄の運動における”断絶”について問題を整理しておこう。当面明らかにしておく必要があるのは、「上原=裏切り」という、はじめに紹介した4・28のアジテーターの意識の歴史的性格である。いま運動が超克すべき問題の所在をそこから明らかにすることが出来ると考えるからである。
 本土と沖縄の戦後過程をふりかえってみれば、50年代に到る戦後第T期が階級関係の流動性のうちにあり、50年代に、一定の安定した階級関係を構成するに到ったこと、そして、60年代がその階級関係の安定性を動揺させ、流動させ、新たな階級関係への移行のうちに70年代初頭をむかえているという点は共通している。従って、70年の今日、闘争の諸局面は分解=多元化の様相を呈していること、又その多元化の様相のうちに、〈世界性〉は生命を持って「国際主義」の現代的性格を条件づけていることも、本土―沖縄を貫通した構造であるということが出来よう。
 しかしこの共通性は、決して闘争の連帯性、一体性を自動的に保証するものではない。むしろ“多元化”は分解であり、断絶の相猊をとってあらわれる。しかし又、これを条件として新たな連帯を模索する以外にはないのだ。

 戦後第T期の階級流動の終結、新たな、安定した階級関係への移行のメルクマールは、本土の場合は2・1ストであり、沖縄では土地闘争であった。そしていずれも敗北に終った。戦後第U期の階級的安定構造は、いわば敗北の結果として形成されたものであった。
 しかし、その後の歴史過程は異った方向を持つ。沖縄では、50年代末に、民主的権利として要求して来たもののひとつ、労働立法の制定・労組結成の許可を勝ちとって以降、67年教公二法の実力粉砕闘争に至る過程は、とにかくも勝利の歴史であった。68年主席公選制の実施は、戦後沖縄の民主化過程の頂点といっていい。この「勝利」が米軍政の側からすれば間接統治への移行=政治支配の安定条件として機能して来たが、それは沖縄での政治闘争そのものの解体(本土の61〜3年の情況を想起せよ!)をもたらすものではなかった。祖国復帰=憲法実施は、この「民主化」の完成として政治的に展望される幻想であった。今その「幻想」が物質的な貌をのぞかせはじめることにより、「復帰」の幻想としての機能は失われ、「復帰不安」へ変りつつあるとき、はじめて、「復帰論」を共通の幻想として統合されて来た闘争の分解が具体的な問題となり、従って又、統合軸の再構成が、具体的な課題として迫られる構造にはいったのである(注・5)。
 だが他方、本土の闘争史は、2・1スト挫折以後、一貫して敗北の軌跡を描いて来た。教育二法、国・地公法いずれもその敗北の産物であった。そして、その敗北の完成としての60年安保闘争以降、この敗北の歴史から与えられた負債との苦闘を経て、新左翼は、10・8羽田以来2年間激動の旗手として登場しうる自己形成を遂げて来た。しかし、今、その自己形成の限界があらためて問い直されている。
 72年返還=一体化への現在の政治過程は、日本プロレタリアートの敗北の結果が沖縄プロレタリアートのうえに、日帝の支配の質的拡大、強化としてあらわれるという構造のうえに繰拡げられている。
 その中で闘われる沖縄現地の闘争は、従って「本土政府」に対する闘争であるばかりではなく、「本土」総体に対する「限りない異議申立て」(『沖縄タイムス』1月13日)でもある。こうした関係の中で、本土の闘争者は、自己の敗北の歴史をくつがえすものを〈沖縄〉に求めた。全軍労闘争に対するおびただしい「評論」が、ひとつ残らずといっていいほど“美化論”でうめつくされたのはこのためであり、又、沖縄の闘争者たちがこうした論調に、憎悪にちかいほどの異和感を持つのもこのためである(注・6)。
 全軍労第三波の“流産”という事態の中で「全軍労指導部の裏切り」を語ったアジテーターは、こうした、自らの敗北をくつがえしてくれるものを沖縄に求め、そしてその期待が打ちくだかれた心理を表現したのだ。“裏切られた”のは全軍労下部労働者であるより、かのアジテーター自身であり、日本プロレタリアートであり、自らの敗北を、誰か他人が取り戻してくれるのではないかという、甘えた精神そのものであった。こういってはあまりにひどいので、救済者は他人ではないことにする必要があり、だから「奪還」してしまえばいい、という論理が、今日の戦闘的奪還論の心情にほかならない(注・7)。
 こうした甘えた精神は、思想的水準でいえば“連帯”ではなく“もたれかかり”であり、国際主義のダラク版である。そして、政治的には、ブルジョアジーの「一体化」論の展開に対してたたかうことが出来ない。「一体化」の名における、併合の具体的展開に対抗しえない。そしてこれこそ、社会愛国主義・社会排外主義の現代における姿に他ならないのだ。
 69年の政治闘争は、この点をこえるものを生産することに失敗した。否、この点を超えようとする意志そのものが、例外はあるとしても総じて不在だったのだ。
 社共をのりこえるべき新左翼は、この点で社共に敗北し、ブルジョアジーに敗北している。ブルジョアジーの「一体化」は、決してギマンでもペテンでもなく、日本プロレタリアートの敗北を条件として形成された、戦後型階級支配労働支配、政治支配を、69年の敗北を条件として沖縄へ拡張するものであり、「既成指導部」は、「国政参加法」に賛成したことだけでなく、政党・労働組合の一体化・系列化を推進することによって、第三次琉球処分=帝国主義的併合の担い手となっているのである。政党・労働組合の系列化・一体化は、日本プロレタリアートの敗北の歴史の容認を、沖縄プロレタリアートに強要するもの以外ではありえない。そして、自己の敗北の歴史を沖縄がとりかえしてくれるのではないかという意識のうちにあるとき“新左翼”は、「沖縄奪還」をスローガンとするか否かにかかわらず、既成指導部を超える方針を持ちえない存在なのである。
 67年10月、「ベトナム革命勝利」「組織された暴力と国際主義」を掲げたとき、それは、ベトナム革命の攻撃性の受容、主体化の表現であった。当時われわれが、ベトナム革命から受け取った攻撃性は、国家権力の支配を社会深部に到るまで揺り動かしうる波及力を持って激動の二ヶ年を領導した。今沖縄プロレタリアートに、日本プロレタリア運動の敗北の重圧をおしつけることを根底から拒絶して、現下の帝国主義的琉球併合を粉砕する方途と論理を実践的に提起しうるか否か、70年代を前衛として闘い抜きうるか否かの結節点として問われている。これに応えることを抜きにして「アジアの激動」をどのように語ろうとも、それは南国の闘争者を救世主にまつりあげてしまう、おぞましい自己欺瞞にしかならないのである。

(3)

 第三次琉球処分=帝国主義的琉球併合の政治過程は、三つの軸で今進められている。その主軸は、那覇で行なわれている「沖縄返還準備委員会」(日米琉三者協議会)であり、副軸は、東京での「沖縄問題に関する日米協議会」および「国政参加」政治体制の整備である。最後のものは、今次国会が「国政参加法」を挙党一致で成立させたことにより、今年10月の沖縄衆院および来年7月の参院選へ具体的な焦点は移った。労働政策、経済政策、企業進出等々の諸社会過程は、この政治過程に、総括的統合軸を持つものとして進行している。そして、経済=社会的性格も、軍事の側面も、それを統合する政治過程も、第三次琉球処分の総過程は、日常の対外衝動の現過程の主軸として展開する位置を持ち、従ってそれを構成する諸要素は全て、アジア的射程のうちに運動するものである。
 「沖縄」を狭義の枠として考える限り、日帝と米帝の角遂は重大な問題ではない。米帝にとって沖縄は不沈空母=軍事要塞島にすぎず、その再編は、軍事合理主義でストレートに貫徹する方針はすでに明白であり、日帝はそれに対して経済合理主義=政治合理主義をもって沖縄を併合するのであり、この限りで日米関係は相互に「友好的」でいることが出来る(注・8)。しかし、沖縄をアジア帝国主義支配の再編の基軸として問題にするとき、日米帝国主義の相剋は深刻な形で現れる。ただしそれは、決して古典的な市場分割戦や、軍事的衝突としてまずあらわれるのではない。今日、帝国主義にとって後進国は、自己の包括能力を越えたものとして存在しており、その再度の包括を可能にしうるか否かという、かつて問われたことのない問題に直面している。第二次ベトナム革命以降の民族解放闘争が、レーニンの民族問題の論理構成をはみだし、一国国民国家の形成で終結するものではありえなくなっている歴史的根拠がここにあり、従ってレーニン帝国主義論がその有効性を問わなければならぬ根拠も存在している。
 帝国主義にとって、侵略・反革命の再編を不可避のものとしているのは、植民地=後進国を再び自己の運動論理のうちにとりこむというまったく歴史的に新たな課題に今や本格的にとりくむほかなくなっているからだ。そしてこの再包摂の戦略として提起されているのが、旧ケネディ・ブレインの開発戦略構想である(注・9)
 日米帝国主義の現過程の矛盾と抗争は、この開発路線をどのように担うかをめぐるものである。例えば日米繊維交渉が、行政的レベルであのように深刻な対立を表現しているのは、何も繊維の問題で対立しているのではない。又、日韓貿易会談であらわれた、軍事産業輸出か重化学かという対立をみても、そこには日帝のアジア開発への姿勢がうかがわれる。今回のアジア開銀で日本が、アメリカを上まわる巨額の拠出をあきらかにしたことによって、少なくとも日本の金融ブルジョアジーは、本格的な開発戦略の実践化に歩を進めたのである。
 共和党上院議員は、4月7日、繊維交渉で妥協しない日本に対しては沖縄を返すべきではないという演説を行なって注目された。サーモンド演説に関する限り、アメリカ帝国主義政治の尊大さと、政治かけひきのための外交圧力にすぎない。しかし、繊維交渉と沖縄は帝国主義のアジア支配の再編という規模の中では、帝国主義の歴史的危機に対する対応をめぐって、日米帝国主義の本質的な矛盾によって結ばれているのであり、そこに又、沖縄再編の世界性・アジア性がある。「第一次琉球処分が日清関係において、第二次琉球処分が日米関係としてその『世界性』を問題にしたのに対し、今日の第三次琉球処分の世界性は、日米琉亜―環太平洋の射程をもって提起されている」(注・10)だから、沖縄の帝国主義的再編をめぐる闘争は、アジア環太平洋を射程として持つ革命展望抜きにありえないし、「アジア革命」を実践的に提起しなければならぬ根拠がここにあるのである(注・11)。

 だが、にもかかわらず「アジア革命」を語っても沖縄闘争を語ったことにはならない。いいかえれば、沖縄併合に対する闘争を語らずには、アジア革命は政治性格において他人様へのもたれかかりにしかならない。沖縄返還準備委員会、日米協議会、そして国政参加という政治過程にどうかかわるのか、に応えなければならない。これは当面する政治スローガン、政治行動の具体的な設定の次元へ到るための問題である。これを抜かすと、沖縄人吉本主義者たちのように、「第三次琉球処分反対」を、感覚的反撥のレベルで語り、そこから思想・文化の世界へ昇天することになってしまうのは必定なのだ(注・12)。

 具体的に語らなければならない。沖縄の帝国主義的併合=72年返還=第三次琉球処分粉砕の闘争は、「沖縄返還準備委員会」粉砕を方針化するべきなのか?
 そもそもこの「準備委」とはどういう性格の会議であろう。これが「日米共同声明」から72年施政権返還へ移る過程の決議執行機能をもつ「機関」であれば、これを粉砕することは、第三次琉球処分に対する具体的な打撃であり、ただちにやるべきこととなる。だが果してそうか。
 この会議に「琉球政府」が、オブザーバーとしてだけれど加わっている事実がまず問題である。琉球処分の会議に、何故処分される当の琉球が参加しているのだ。処分対象は、いうまでもなく戦後の琉球である。だから、屋良行政主席が、戦後沖縄の政治構造から自立した存在であれば、彼の参加は少しも不思議ではない。だが、屋良こそは戦後沖縄の構造の典型的な体現者であった。みのべ都知事が「都民党」と自称したように、屋良こそは「沖縄党」代表であり、そうであるがゆえに、初代公選主席の座を占めることが出来たのだ。
 とすれば、処分対象の参加する処分委員会は、具体的な執行機能を持つ「機関」ではありえない。これは「協議体」にすぎない。そしてこの「協議体」が存在する理由があるとすれば、それは、72年返還が、沖縄の自主的な参加によるものであるという幻想を形成するということだけである。
 幻想だといったのは、だから本当はギマンでありペテンであるというためではない。およそ一切の政治行為は幻想的行為であり、共同幻想なしに政治などありえない。いかなる幻想であるか、いかなる構造を基盤として成立する幻想であるかだけが問題なのである。
 琉球処分へ琉球が自らの意志で参加するという、いささか倒錯的な幻想は、しかし充分に歴史的根拠を持っている。戦後沖縄の安定した階級関係を形成する役に立った「復帰」論(注・13)は、今やそのかちとった「民主化」の完成としての施政権返還、本土復帰の主導理念へ転化するのだ。沖縄人は日本人だ、今こそちゃんと日本人になるのだ。異民族軍隊が口をはさんでこない、ちゃんとした議会に参加出来るのだ。軍労働者の退職金は「本土並み」になった。間接雇用への移行だって夢じゃない。
 従って、復帰準備委員会粉砕の闘争は、この幻想が幻想であるというバクロの闘争、すでにこの闘争をやっている革マル派の言葉をかりれば、その階級的本質をあばき出し、告発する闘争である。
 もしも政治過程がイデオロギー過程であり、従って政治闘争はイデオロギー闘争であればよいのならこれで充分だろう。しかし、政治行為が幻想的行為だというのは、イデオロギー的行為だということではない。政治過程は物質的に進行する。
 現在、復帰への主体的参加の幻想は、物質的過程としては、全軍労に対する退職金差額分の政府支出(今会計年度分2億円)を手はじめとするカネの払い→買い取りによる「本土政府の責任」の遂行であり、そのうえに、「豊かな沖縄県」のユートピアが宣伝され、幻想過程は何よりも「国政参加」を統合軸として旋回している。「政治としては全軍労の解体・県労協(沖縄プロレタリアート)の解体・屋良政権打倒という過程を経ることなしには、返還はありえないのである。そして今日の沖縄政治構造の解体に対する日帝の新たな統合論理が、国政参加問題である」(注・14)。そしてこの「国政参加」は、決してギマンでもペテンでもなく、今年10月には沖縄衆院選・来年7月には全国参院選として進行する。今第三次琉球処分の政治過程はこれを軸としているのであり、ここにこそ闘争の焦点が合わなければならない。それは沖縄では、国政参加ボイコットを戦術として展開さるべき闘争である。そして、すでに沖縄の戦闘的部隊は、これを意識的に追求しはじめている。
 周知のように、現地では、旧来の復帰幻想は完全な分解をとげ、「復帰不安」が噴出している。復帰協が「即時無条件全面返還」のスローガンに代って「日米共同声明との対決」を基調にすえたことは、既成指導部自身、復帰幻想にではなく、復帰不安に依拠しなければ存在を維持することが出来なくなったことを表現している。
 だが、復帰不安そのものは、復帰幻想の分解の単なる結果であり、従って復帰幻想そのものを越えうるものではない。それは従って、「一体化」論と別に矛盾せずに併存しているのだ。政党・労組の一体化・系列化を「日米共同声明との対決」の言葉の下でどしどし進行させているのが既成指導部・社大党・社会党・人民党であり県労協幹部である。それはだから、琉球処分に対する抵抗ではあっても拒絶ではない。そして、この抵抗と拒絶のあいだには、万里の距離がある。この抵抗は、処分価格のつりあげを要求するプレッシァーの意志であり、もっと高く買い取って欲しいという卑しい心情の上に立っているのだと言い切ってしまうことが出来る。
 国政参加ボイコット戦術は、この抵抗と拒絶のあいまいな関係を一挙に明るみに出し、復帰不安の中をさまよう「復帰闘争」の戦線の中に、新たに緊張を生むものとして機能する。そしてこの新たな緊張関係こそ、現地の革命的左派の主体形成の条件なのだ。
 これを担いうる部隊は、すでに67年教公二法闘争以降その姿をあらわして来た、反帝派・反戦派の隊列以外にはない。従って、このボイコット戦術を新たな主体形成の条件を生むものとして意識的にとり組む部隊は、何よりも屋良政権下で、階級的戦闘性の所在を模索して来た過程の総括をもって登場する以外にはない。
 この国政参加ボイコット闘争は、屋良政治構造および日帝の政治支配への拒絶であると同時に、憲法、議会体制の下にある日本プロレタリアートに対する問題提起としての性格を持つ。我々は、憲法に守られることのない軍政権の下、沖縄固有の戦闘性をつくって来た。お前たちは、自らの敗北の歴史をどう主体的に超そうとするのかを明らかにせよ、と。ここにはじめて、沖縄プロレタリアートの〈勝利〉の歴史と、日本プロレタリアートの〈敗北〉の歴史は、互いにもたれかかり反撥しあう不毛な、微温湯のような“連帯”をこえて、緊張を持った関係をとり結びうる最初の条件が、沖縄の側から形成されるのである。
 とすれば本土の側はどうすればいいのか。ここで、本土と沖縄の構造的な断絶がある。本土での闘争についてはあらためて次節で追求しよう。ただここで言うべきことは、沖縄固有の戦闘性の歴史があり、その戦闘性が自らの政治表現をとるほかはない時代にはいったということ、従って、それこそ本土のプロレタリア運動は、革命展望に於て連帯すべき真の相手なのであり、それを「奪還」などしたら、沖縄に固有な構造の解体・一体化・系列化の水路へはまりこんでしまうということである。沖縄人民は、米軍政下の闘いの中につくり出した自らの戦闘性を、どのようにして守るのかという問題に応えるべき地点に立っているのであって、彼らの戦闘性の形成に何ひとつ寄与出来なかった本土の闘争者は、その独自の戦闘力を70年の過程に新たに形成することしか連帯のことばを持たないのである。

 沖縄人民の闘争は民族主義だといわれて来た。ある場合には否定的に(没階級的だから)、又ある場合には肯定的に(全島民の「統一と団結」でアメリカ帝国主義と闘えるから)。そして、新左翼は例外なく前者の立場をとりそのうえでさまざまにかかわろうとしたが、余りうまくかかわれたとはいえない。時間が足りないのではない。技術的にまずかったのでもない。問題はもっと本質的なところにある。
 ちなみに、最近沖縄では、民族的闘争の時代は終った、階級的立場に立つ闘争がひつようだという言い方がかなり広くされている。
 例えば当山社会党県国民運動本部長は『沖縄タイムス』のインタビューに答えて次のように言っている。
 「これまで祖国復帰を目標に文字通り全県民的な運動を盛り上げて来た。その成果については私も高く評価している。しかしながら率直にいって、過去の戦いは“沖縄を祖国に返せ”という素朴な感情、すなわち民族闘争の域を出なかった。……われわれとしては、耐えず強調しているように、軍事基地が存在しているがゆえに抑圧されているのは労働者階級を中心とする県民大衆であると、そしてわれわれの基地撤去、反戦復帰の要求を頑として聞き入れないのはアメリカ帝国主義であり、日本独占資本家階級である。従って沖縄の解放闘争というのは階級対階級の戦いであるし、今後の反戦復帰闘争はわれわれ労働者階級を中心とする県民大衆が階級的な視点をガッチリ身につけて発展させていかなければならない。」
 さらに「階級闘争を発展させるとは具体的にはどういうことか」という記者の質問に対して、
 「これまでの運動形態というのはいわゆる“街頭主義”に終始していたきらいがある。……むしろ労働者を主体に置いて各自の生産点で資本側と対決する体制をつくりあげていくことである。」
 と答えている(『沖縄タイムス』4月14日)。
 一見原則的なこうした発言は、しかし、72年琉球処分の現過程に戦闘的に対峙しうるものであろうか。私の判断は否定的である。
 第一に「民族主義的闘争の時代の終焉」は、それに替る政治性の提起なしに語られている。とすればこれは政治闘争の否定の論理ではないのか。ここでいわれる資本と賃労働の階級的対立は、経営者と労働組合の対立という以上の内容は持っていないのだ。これは対立にはちがいないが、「経済的」利害の対立であるにすぎない(注・15)
 第二に、このような形で経営者に対する労働組合の対立を、政治闘争の具体性抜きで抽象的に語るとき、今当面している国家―憲法幻想に対しては武装解除に導びくことは必定である。しかもここでは、政党・労働組合の系列化に対する意識が欠落している。とすれば要するに社会党、県労協の、日本社会党、総評への「一体化」が具体的なイメージとしてうかんでくるだけである。これが今日の帝国主義的併合の政治過程とどこでも対立しえないことは言うまでもない。
 現在、沖縄の戦闘的労働者活動家の間では、従来の復帰論による政治闘争の過去史に対して、全く誤まったものだったというような見方があると聞いている。おそらくそれはイデオロギー的に誤っているということよりも、精一杯闘ったけど結局敗けていく方向におかれてしまっているという実感にうらづけられているのであろう。心情としては判る(60年闘争の敗北体験と照らしあわせて)し、又、客観過程としても必然的にこのような見解が戦闘的部分の中に生れるだろうことも諒解しうるが、しかもなお前に引いたような階級性論に敗北するのではないかという危惧を強く感じる。問われているのはやはり闘争の政治性なのだと思う。
 政治性というのは、「奪還」か「解放」かというようなレベルで言っているのではない。「復帰」の旗の下に蓄積された闘争史の中で、沖縄人民がつくりあげて来た沖縄固有の戦闘性を、灰の中のダイヤモンドとしてとり出し、みがき、帝国主義的併合の権力政治と、政治のレベルで闘いうる政治的自己表出の論理こそが今形成されるべきものなのではないか、と考えるのである(注・16)。沖縄プロレタリアートの戦闘性は、「沖縄」としての独自性を媒介にしなければ成立しない。この点では、社大党が「沖縄解放同盟」を提唱しているのはさすがだとおもう(注・17)。「[沖縄]人民の中の沖縄ナショナリズムとも呼びうる動向は、社大党に新しい基盤を与えることになるかもしれない」という「白パンフ」の予測ははからずも当っていたわけだ。もちろん、社大党が現在の姿のまま組織する「沖縄解放同盟」のナショナリズムは、琉球銀行系ブルジョアジーの論理へも、又、琉球国民党の反共独立論へも接続してゆく可能性がある。しかし、これは、まじめな対応を新左翼に問うている問題であることは間違いない。戦後過程で沖縄プロレタリアートが形成した独自の戦闘性を日帝の併合政策との闘争論理として自覚的に再編することは、換言すれば独自の「民族形成」なのであり、それが世界へ自己を解放するためには、レーニンの民族自決論の歴史的制約をこえて闘われているアジアの第三次武装解放闘争の反日帝闘争を集約的に表現しうるものへ自らを押しあげねばならない。帝国主義的併合の結果、「豊かな沖縄」とは、「日本の中の東南アジア」以外ではない。沖縄プロレタリアートは、自らをアジア解放戦士のうちに位置づけることに於いて、日本帝国主義の国家=憲法幻想と永続的に闘う位置を世界史の現段階に確定する。〈世界革命にとって沖縄とは何か〉という設問に対しては、以上が、今日の闘争の発展段階から導びき出しうる解答である。

(4)

 全軍労の二波にわたる闘いの火柱を南方に見つめながら、ついに、「全軍労ストと連帯しよう」というアジテーションが空疎な上すべりをしてゆくまま、何の歯取めも、緊張もつくりだせぬまま4・28を迎えた。69年佐藤訪米阻止闘争に於いて“沖縄”をついに自己の運動論理の中にとらえこみ、位置づけることが出来なかった。従って又その闘争の政治的射程が「日米共同声明」の帝国主義政治の射程をこえるものへ至りつくことが出来なかった過程の直接的産物として、4・28は闘われたのだ。
 4・28はカンパニア闘争であった。しかし、この数年間に経験したいくつかのカンパニア闘争とは何かしらちがっている。例えば昨年を想い起そう。6・15は、「新左翼のメーデー」と言われ、実数6万の巨大なデモンストレーションであった。10・10は、6・15の再版くりかえしとは誰も呼べぬ緊張度を持って繰拡げられた10〜11月闘争への大閲兵式であった。そこには、情況から強制された緊張が具体的な形で戦線の中にあった。佐藤訪米実力阻止という具体的行為目的、10、11月という具体的日程、新宿、神田、霞ヶ関、羽田という具体的場所。これらの具体性は、「70年安保粉砕」という政治意識の中で一元的に結合し、その一元性によって戦線内緊張の具体性を構成する要素として生きていた。4・28には、インドシナ半島の激動が、全軍労第3波の流産が、等々、いくつも情況そのものの緊張がありながら、戦線内では、そうした情況と自己との関係に対するもどかしさのようなものが全体をつつんでいた。
 カンパニア闘争として成功したということは、要するに街頭結集に成功したということであり、11月で重傷を負ったといわれる新左翼が、傷ついた不死鳥として、傷口をかばいながら今再びその翼をひろげてゆっくりと大空を飛びはじめたことを全社会に確認させることに成功した、ということである。だが、この街頭結集の中には、いかなる政治指導も存在していなかった。結集した質に対して、どの政治集団もこれを規制することも、そこに介入することもできなかった。政治集団(党派)―大衆という関係の中で、もどかしさは二重に存在した。大衆は、日米共同声明から72年返還という政治過程が音を立てて進行するのに対して、何かをしたい、という強固な意志と、何かやれる筈だというばくぜんとした確信をないまぜにしながら、その意志と確信を一点に結びつける具体的かつ論理的な政治表現を求めてもどかしがった。党派は、日付と場所を書いたステッカーによって、万単位の大衆が目の前に結集しているのに、彼らと自らの「政治方針」の間に何か白々しさが壁をつくっているのにもどかしがった。この大衆は、かつてのように親しい存在でも、思いのままに指導出来るものでもない、奇怪な存在なのではないか。「ゲバ抜き」というのは、この大衆に対する妥協であった。従って又党派は、この妥協についてもいら立ったのである。

 昨6・15闘争を「壮大なゼロ」と呼んで全面否定を論理化したのは赤軍派であった。しかし今、すべての党派の中に、4・28は結局カンパニアでしかなかったという。漠然とした否定的評価が底流として流れている。これに明確な表現を与えれば「壮大なゼロ」となり、そこから、かかる現状を切りやぶるものとしての〈党〉の建設、〈党〉のための闘争が強調されるのは、論理的には必然である。
 60年安保の敗北のあと、死体を喰うハイエナのようにあらわれた「反帝反スタ・革命的学生運動論」が、安保が敗けたのは「革命的マルクス主義に武装された革命的プロレタリア党」がなかったからだ、だからすべての闘争を、党のための闘争として貫徹せよ、とふれ歩いたあの論理が、今全党派を侵している。そしてこの一つだけをとってみることにより、60年代最後の四半期の刻みつけた新左翼が、しかも、60年闘争の敗北を超ええずにいると結論することができる。「安保全学連をのりこえる大衆的戦闘部隊により、60年闘争を超えた闘いとして70年を闘う」―66年再建全学連の共同の政治志向は、ギリギリの地点で接近しながらついに達成しえぬものとして今なお宙に浮いているのではないのか。
 党派軍団の〈行動〉によって、大衆との緊張関係を形成し、そこに自己の政治性の展開と再生産の条件を得て来た第二次新左翼運動は、ここに、大衆との緊張を切断される構造にはいっている。大衆の結集を「壮大なゼロ」と呼ぶとき、その党派は大衆の結集が内包している質を放棄し、それへの政治指導を放棄したに等しいのだ。そしてこれは、10〜11月闘争の敗北の直接的帰結である。政治過程は70年安保を軸として旋回した。その70年安保の政治関係は〈沖縄〉をめぐってその全性格を表現している。日本帝国主義に対して〈復帰〉を要求する旧来の政治展望を「72年返還」の具体的政治展望によって自らの論理のうちにとらえこもうとする政治委員会の路線に対して、70年安保をめぐる政治緊張を形成することが69年に新左翼政治指導部に与えられた具体的政治任務であった。それが「70年安保」の具体的解明、政治関係としての「70年」の具体的洞察、「70年安保粉砕」を担う主体・戦線の具体的組織方針の内容である筈だった。そこに問われる政治指導能力は、羽田―佐世保―成田―68年秋の時期に問われたものの枠を超えるものであったのだ。政治闘争における「暴力」は政治的行為である。暴力はその質、その有効性を政治的に問われる。69年、暴力の側が「政治」を要求したのだ。その時、新左翼は、政治能力として問われたものに、戦術のエスカレートで応えようとした。戦術における暴力は、固有の政治性に対する自覚的関係をこのときに欠落させたのである。ここに政治闘争の戦術における暴力は、政治力としての緊張を失ない、単なる物理化に転化する。戦術の一人歩き、暴力の自然成長性とはこのことだ。そして、単なる物理力となった「闘争」は、より大きな物理力に対して敗北したのである。(又同時に、政治的右派もここに登場理由を与えられた。「労働者を物理力とするのは反対」→「街頭闘争一元論反対」という図式が成立する。)
 だから、10〜11月闘争をその政治的敗北に於いて捉えるのではなく、「軍事的敗北」として総括するとき、10〜11月に要求されながら形成されなかった政治指導能力の問題は、永久に闇の世界へ追放されるほかはない(注・18)。それは政治集団(党)にとっては、だが生命を決する問題である筈ではないのか。自らの政治指導能力を、具体的政治過程の中で再生産する回路を自ら切断するとき、それは政治集団の自己否定である。それは、権力による攻撃に対する屈服の一種である。10〜11月決戦に向けた行政権力の攻撃は、“暴力キャンペーン”によって市民社会への統合力を部分的にせよ回復した。その攻撃の性格は、新左翼政治集団のかいめつを、大衆との分断によって実現しようとする性格のものであった。そのために展開された”暴力キャンペーン”は、だから、新左翼政治集団とそれに領導された戦闘部隊の行動を、政治的行為ではない、物理的破壊行為として印象づけることによって、行動の政治性をまっ殺することを目的としていたのである。
 それは今日の帝国主義権力の弱点をあらわしていた筈だ。政治行動が、政治行動として、その政治性に於て問題になるなら、帝国主義支配者自身の政治的質、政治的統合力がもろに問われる。そのように問われたとき、現代ブルジョア政治権力は、大衆を吸引しうる政治のイメージを与えなければならない。だがこれは不可能なのだ。今日の行政権力は、現在から未来への社会のイメージを大衆に示すことが出来ない。市民社会の中に渦巻く体制不信をとらえこみ、自らの構成要素に組みかえ、自己増殖する能力の欠如―これこそ現代ブルジョア権力の(ソビエト連邦の場合もしかり)決定的な、最大の弱点である。だから権力は、10〜11月闘争が政治闘争となり、その行動者の行為の政治性が問題になることを何よりも恐れたのであり、だからこそ政治行為の政治性をまっ殺し、ただの破壊行動として社会的に規定させることを最大の追求目標としたのであった。秩序の維持―だがその秩序は「価値」を持っていない。今日政治闘争とは、政治課題を焦点とする行為によって体制・秩序の価値を問うことであり、それによって現体制の弱点を拡大させる闘いである。そしてここに、学園、職場拠点に於る社会的闘争と政治焦点をめぐる闘争との通路があるのだ。それは現体制の危機の全社会的性格を条件として成立する。闘争の普遍性である。たしかに、吉本隆明もいうように、社会的闘争をどのように激烈に闘おうともそれが政治闘争になるわけではない。「大学を安保闘争のトリデに」というスローガンは、そのような意味では混乱でしかない。しかしこのスローガンを政治集団の政治方針としてではなく、闘う大衆のアモルフな心情としてみたとき、ここには現体制に対する憤激と、その体制のはらむ危機の普遍性への直観的洞察があらわされている。「東大奪還―沖縄奪還」などというくだらぬゴロ合せを政治集団が押し出したとき、政治集団はこの大衆の中に息づいている危機への直観的洞察を論理化しその政治表現を方針として与えるのではなく、アモルフな心情の憤激に即自的に依拠し、それを物理力として駆りたてることに自らの任務をおとしめた。69年、政治焦点―政治過程に対する洞察力、批判力、としての政治指導の内容が問われたとき、それに応えるかわりに戦術のエスカレートに問題を限定し純化することによって、政治集団は大衆との間の緊張を自ら切断し、権力の攻撃に対する対決点を設定することができずに敗北した。
 全軍労の闘争に対して、そして72年返還への政治過程の具体的進行に対して、ついにかかわるべき点をみいだせぬいらだちをあふれさせた大衆とその大衆の質に政治表現を与ええぬ政治集団―4・28は、11月決戦期の関係を純化して表現することにより、10〜11月決戦の政治的総括の内容と方向を示したといえるのである。

 情況はさらに激動をあらわにしつつあり、そして、大衆の中には、現体制、現代世界総体の危機への直観と、それへのかかわりの具体性を求めるいらだちとが生きている。4・28における反戦青年委員会の動員は、おそらくこのことを端的に示している筈だ。そしていらだちは、緊張関係の具体性への要求であり、それ自身ひとつの緊張である。だがこれを、10・8羽田以降の時間軸の中でみれば、緊張の最後の形態であることを特に強調しておかなければならない。
 もし6・15に至る過程に、このいらだちを政治権力との関係で具体化すべき政治焦点があれば、4・28の大衆はたとえ政治集団が今のままの存在でしかないとしても、その内的緊張を維持しえよう。しかし今、そのような政治焦点は存在しない。そして6・15そのものは政治焦点ではない。だから今のまま6・15へ無為に時間を空費するなら、6・15は、4・28の縮小再生産になる他はないのだ。現在50日という時間は巨大な意味を背負ってわれわれの前にある。体制の危機を示す事実は増しこそすれ減っていないし、従ってその危機の普遍性に対する直観も、なお生きつづけるだろう。60年安保のあとのように、世界がまるで変ってしまったような空白がとつぜん全体を支配する事態が繰返されることはまだないと言っていい。しかし、50日の空白は、緊張意識の最終表現であるいらだちを確実に侵しょくするだろう。そのとき、6・15ははじめて、「壮大なゼロ」以外の何ものでもないものとしてあらわれるのだ。10年を経て語の完全な意味において「壮大なゼロ」となる「6・15」―それは、新左翼政治集団の解体、大衆的政治意識の拡散を決定する筈のものである。

 ここで述べようとすることは、ひとつの模索にすぎないし、問題提起と呼ぶこともおこがましい私的言辞であるが、今問われている問題への接近のために批判的検討素材の一つになればそれでいい。

 今直面しているのは、一般的な政治路線の問題だけではない。むしろ、政治路線をめぐる論争が論争として繰りかえされることによって逆に実践的緊張が空白になってゆくような関係を総体としてどう変えるのかと、問題は立てられているように思われる。だとすれば、模索の方向は、政治路線の衣裳替えではなく、組織戦術の方向でなければならない筈だ。それは、いわゆる「組織論」という次元で抽象的・原理的に展開する筋合のことではなく、今ある素材それ自身について語らねばならない。今ある素材とは、情況そのものであり、権力の現動向であり、4・28に街頭結集した大衆(意識的大衆)であり、政治焦点の不在という事実であり、諸政治集団の存在であり、そして諸個人の中にある闘いの決意である。4・28に結集した質は、先述したようにいらだちとして情況との間に緊張関係を持っている。従って自己展開しうる運動論理を現在の戦闘的大衆は内在させているのであり、この運動論理に基づいて政治行動を組みたてることを可能ならしめる組織戦術こそ今問われている問題である。
 この組織戦術によって、政治指導部は大衆との緊張を構成し、それを持続化し、大衆の闘争力、闘争への意識に具体的政治表現をとらせることが出来る。このとき政治集団に問われるのは、日常的拠点での政治結集の組織戦術であり、拠点における独自の結集軸を形成する能力である。換言すれば「細胞」形成の能力である。10・8以降、大衆闘争が政治焦点をめぐる街頭結集を軸として回転しただけでなく、党派自身もその政治結集を街頭で具体化して来た。街頭を媒介にしたことは正しかった。しかしそのことは、政治集団が自ら行動部隊になる結果を生んだ。問われていた政治指導能力は、政治集団が行動部隊化し、〈方針〉を戦術エスカレートに純化することによって放棄されたのであった。
 〈日常的拠点での政治結集〉は今、こうした過程の結果から強制された選択である。これは、現在では後退戦の組織戦術ではない。6・15までの間に、4・28の質に具体的な政治表現を与え、その緊張の再生産のサイクルを形成出来れば、現在はかならずしも後退期ではないからだ。しかし、6・15までの時間を空白としたなら、それは後退局面以上のものになってしまうだろう。

 今、これ以上論理として具体的に述べることができない。ここで、またぎきではあるが一つの例を紹介して〈日常的拠点の政治結集〉の現在の性格をさぐっておこう。
 4・28の日に職場会議を持った組合がある。この組合は政治行動に戦闘的な組合であった。そして、この日の職場会議のテーマは、いくつかの経済的要求の問題であった。これはナンセンスだろうか。
 たしかにナンセンスだ。4・28には参加すべきか否かという軸で考えればこれ以外には言い様がない。だが、このように言うところからは「4・28」そのものについての政治緊張がつくられぬということも又事実なのである。と同時に、「経済要求」の会議は、相変らず「経済要求」の水準にとどまる。「経済闘争」と「政治闘争」は別個のものであり、経済闘争を死ぬほど激しく闘ってみても政治にはならない。そして経済要求を討論する会議に対して「政治闘争」の4・28への動員を対置するとき、この「政治闘争」へのオルグは“外部注入”であるが、これはレーニン組織論における“外部注入”という意味とは全くちがう、啓蒙主義の水準にある。
 ここで「4・28不参加」の意味を組合会談に問い直したらどうなるか。その経済要求自体ではなく、それを討論するという行為が、4・28への参加という行為よりも重いことが確認されなければならない。従って、経済要求についての会議そのものが、4・28闘争についての、それへの参加〈不参加〉についての討論からはじまらねばならなくなる。そしてここに、経済闘争の行為における政治的緊張が形成される条件が産まれるのだ。この政治性は、4・28が政治行動として設定されているから成立するのであり、従ってその政治性は、4・28闘争の政治性のものであるということができる。職場、日常的拠点における政治緊張は、このように形成される以外にないのだ。
 街頭か職場かという「論争」は、概念の論争としてはくだらないものであり、概念としては〈統一〉してしまうことも可能である。しかしその〈統一〉は、実践的にはほとんど意味を持たない。職場か街頭かという論争は、実は大衆のブレであり、そのブレに切りこむことを、概念のレベルでの対立・統一は持ちえないからである。大衆の中のブレは、大衆の中で生きている。だからそれはそのブレ自体の意味を逆に大衆に問いつめることによって緊張を構成する要求に転化しうるし、政治指導としてはその転化を意識化する以外にとるべき方向はないのだ。拠点における政治結集というのは、このような政治指導能力を形成することを意味している。
 10〜11月決戦期に、10・21マッセン・ストとして提起された方針はこうした内容を客観的には含んでいたと思う。しかし当時は、政治闘争のダイナミズムという有利な条件の下に提起されながらその有利性を結局つかみそこなってしまったのだ。その問題は就中11・13をめぐって集中的にあらわれた筈だ。佐藤訪米実力阻止に対して、総評は「訪米反対」を対置した。この総評の「訪米反対」論の性格を職場討論の中で徹底的に明らかにすることにより、11月決戦は職場での政治緊張に支えられるものとして闘いえた筈である。「反対」が悪意であるなら、強行される場合に「阻止」するのでなければ意味がない。総評の「反対」は「訪米」にではなくて「実力阻止」に対する「反対」であった。したがってそれは、権力の動向に対する対決の意味をひとつも含んでいない。そこでは「実力阻止」のみが闘争の論理として存在したのだ。このことを明らかにする職場討論が行なわれず、職場での政治緊張を構成しえなかったために、11月決戦のあと、権力の追撃=反戦派パージが登場したとき、「暴力キャンペーン」に、11月決議の政治性はまっ殺され、敗北したのであった。
 今、10〜11月期の有利な条件、政治焦点のダイナミズムが失われている中で、10、11月のツケを取らされようとしている。負債は返しておかなければならない。組織戦術の転換は、そのためのものである。

 沖縄でも似たような事態は起っているのではないかとおもわれる。10万を予定した復帰協集会は、一割程度しか結集できず、「盛り上り不足」を幹部は嘆いている。しかし、那覇集会か、職場闘争かという選択に多くの労働者は春闘の中で立たされたにちがいない。春闘の職場集会か、4・28那覇集会か、という討論は行なわれただろう。それは、春闘そのものの政治性を形成する条件となりうる筈である。しかも、沖縄での春闘は、まだほとんど解決していないし、全体としての焦点は6月になると言われている。23日の統一ストに自治労が参加しなかったのもそのためである。そして沖縄は、10月衆院選をひかえた政治緊張の中にある。山猫ストを主張する全軍労青年部、各分会の動向もふくめて、10月へ押しあげられてゆく沖縄政治闘争の性格を5〜6月の過程が決定してしまうことはほとんど疑う余地はない。5月〜6月、本土と沖縄は、各々その未来を決める時間帯として、自己の闘争論理を、政治路線から組織戦術までふくむ総体性において再編することを迫られている。「70年代階級闘争」はここからはじまるのだ。(5月3日)

追― 〈復帰〉幻想の解体に対して、政治的統合論理としては「国政参加」が今基軸となっているが、これを支える社会的幻想が、「平和産業」論―「豊かな沖縄県づくり」の論理である。東洋石油基地阻止闘争の中で、現地の反戦部隊はこれと正面から対決しなければならなかった。この点について少し紹介する予定だったが、時間がないので、別の機会にしたい。

(注)
(1)戦後沖縄の階層分解過程については、社会主義学生同盟・一条信路編『72年沖縄返還=第3次琉球処分と全軍労闘争』(以下「白パンフ」と略)の3章「全軍労闘争の歴史的位置・1」を参照。/なお、このパンフがとっている方法、すなわち、階層分解過程から階級闘争の論理を追求する方法の有効性は、限定的なものであることに注意せよ。階層分解期の中にある沖縄だからこそ今日この方法は有効なのである。
(2)前注の「白いパンフ」および森秀人『甘蔗代採期の思想』(現代思潮社)を参照。
(3)例えば農林省が発表した農政方針は、沖縄製糖業の「過保護」をやめる方向を明らかにしている。これによって、砂糖キビ生産は今のままではかいめつすることは間違いない。この農政方針と、通産省の産業立地政策、および日本経済調査協議会の報告「沖縄経済開発の基本的方向について」(4月13日発表)、沖縄工業開発調査団の報告(同日発表)を並べてみれば、〈第3次琉球処分〉の経済過程はほぼ総体として予測可能であろう。
(4)「日本の中の東南アジア」とは、香港、台湾、シンガポール、マカオ等に拡大している「保税加工地域」と同じ構造的位置を占めることを示す。「白パンフ」第2章「アジア帝国主義支配の再編と日本帝国主義」参照。
(5)闘争の統合軸の分解と再編については、「白パンフ」28〜30頁参照。
(6)『沖縄タイムス』のインタビューに対して、岸本三郎自治労委員長は次のように言っている。/「沖縄のような闘争が本土ではできないからといって、沖縄が栄光の空をになって70年代闘争の火ぶたを切れということは、きわめて無責任ないい方であるし、ほんとうにヘドの出る思いをさせられる」(『沖縄タイムス』4月8日)
(7)「奪還論」の最近の論調としては、例えばマル学同中核派「全学連大会の革命的意義と4・28闘争の任務」(『前進』477号)がある。この論文は、「やった、やった」という調子よりもまじめに戦線の危機を問題にしているものであるが、それを、政治闘争が現実の政治過程と結ぶ関係の質において自らの質を捉えるための方法を欠いているために、技術主義的に展開されてしまっている。「奪還論」の批判としては、不充分ではあるけれども、共産同三多摩地区委『叛旗』2号を参照。
(8)軍事再編に日帝が無関係だと言っているのではない。ただ日米間には沖縄の軍事再編に関する限り、競合・角逐の関係はないと言っているのである。帝国主義間矛盾論を教条化しないと「超帝国主義論」のように考える頭脳では、この関係は判らない。軍事再編については、まず軍事自体の問題として語る必要がある。/米帝の沖縄基地再編は、概括的に言えば陸上部隊の削減と大量空輸体制にもとずく空軍海兵隊の強化であると言える。これは、核ミサイル潜水艦体制との関係ではじめて具体的に展望を持ちえたものであり、同時に、インドシナでの軍事敗北という冷厳な事態に対する反革命の側の軍事対応である。グアム―沖縄のみで全アジア・環太平洋全域の戦略行動を統轄しうる体制であり、これは、ベトナム介入過程の中で建設されて来た(詳細は『新沖縄文学』臨時増刊号《70年沖縄の潮流》参照)。/これに対して、中曽根体制化に展望されつつある日帝の軍事対応の構想は、決して環太平洋規模のものではなく、ローカルな性質のものである。ローカルというのは、地理的行動範囲の問題でありむしろ、帝国主義的な世界性に存在論理を持ったものではない、ナショナルな性格であることをここでは言っておきたい。産業ブルジョアジーの中にある産軍共同体志向にも拘わらず、4次防計画については、他のアジア諸国に対する政治配慮から、意識的に防衛予算の増大率を抑制しなければならないのが今日の日帝である。従って、中曽根は、意気高くうちあげた自主防衛構想、“70年代安保解消論”からたちまち安保永久固定化論へ移らねばならなかった。少しは現実を知ったのである。ただしそれを知らせたのは金融資本であり、総資本の論理であって、決して日本プロレタリアートではない。/佐藤の中朝共同声明に対するヒステリックな反論は、中国に対するものであるよりも自民党内統合のためのものであり、さらにそれよりも、東南アジア諸国及びアメリカに対する弁明である。
(9)この点については、全く不充分なのだが『叛旗』2号「アジアの革命と反革命」参照。なおレーニン帝国主義論の歴史的な射程度に関しては、第二次世界大戦そのものから問題にしなければならない。そして、終戦から49年にかけて展開されたアジアの武装解放闘争と現下の第三次アジア革命との構造的差違、特にその主体の形成論理について明らかにすることは、レーニン帝国主義論の再検討なしには不可能である。この問題は、いずれ別の論稿で展開する予定である。
(10)「白パンフ」9頁参照。
(11)ことわっておくが「極東解放革命」などは論外である。「極東」―ファー・イースト。これは英帝国主義者のつくったことばだ。「極東解放革命」を語っている者たちは、眼玉だけロンドンに置いているのか? おくびょうなヨーロッパ革命主義者たちは、北一輝「支那革命外史」も、橘樸「支那研究」も知らずに「アジア革命」を語ろうとしている。だが、日本のマルクス主義にとって「アジア」は鬼門だったことを見すごしていると、とんでもないところへ転落するのだ。彼等が実にキマジメな人種であることはよく知っている。しかし、主観的誠実さというものは、特に現在のように思想の分解期にあっては、頽廃の温床になりやすいことだけは忠告しておこう。/ところで、帝国主義はアジア支配、後進国再包摂のために、「社会主義国家」を引き入れようとしており、「社会主義国家」の側も又これに応じている。経済過程では援助の協力体制として、又軍事―政治過程では、ヨーロッパ・アジアの集団安保体制の提起によって。そして東西の接点ドイツでは、ついに両独首相が固い握手をかわした。/だが、平和共存秩序の破れ目を共同で縫合しようとする問題は、赤い中国の政治対応をガンとして持っている。おまけにこのガンは核実験をやったとおもえば電子計算機も「自力」でつくり、ついに日本のおもちゃよりかなりましな人口衛星まで打ちあげ、優雅に天上の調べを地球のまわりに歌わせているというすばらしさだ。この赤い中国は、再び大胆な対外活動を開始した。革命的か、いやスターリン主義にちがいないかというたぐいの議論はあまり意味がない。ただし、ロンドンを窓口にポンド建てで金属資源を買い漁っているこの大国は、当分のあいだ重工業原料の獲得方法を変更する必要には迫られないだろう。その限りで、アジアでは、核つきミサイルから紅衛兵、民兵までの武力をチラつかせて、戦闘的に振舞うことは充分可能な筈である。
(12)政治革命なき文化革命が今日一部で流行しているようである。中にはおもしろい着想もあり、決してくだらないとはおもわないが、にもかかわらずその「反政治」的姿勢は、政治次元での敗北を容認することに結局つながってしまうのではないかという懼れを抑えることが出来ない。いわんや、政治闘争・政治革命の問題を、「社会革命」の世界へ転移させたところであれこれの党派のスローガンが似ているところから一緒にしようなどというたぐいの「党派再編」論議などは噴飯ものである。もっともこれを議論のレベルで一生けんめい相手にしようとすると、忍法オボロ影にひっかかることになる。皆、我が道を行くと居直っていればいいのだ。
(13)「白パンフ」7頁参照。
(14)「白パンフ」5頁参照。
(15)経営者と労働組合の利害の対立は、原理的に言えば価値法則の貫徹条件をめぐる対立以上でも以下でもない。その対立はブルジョア的な対立であり、労働組合は、その意味では、ブルジョア的利害関係のうえに成立するのである。まさにそのようなものであるがゆえに、労働組合は、賃金労働者のブルジョア社会(市民社会)への登場の最初の条件だったし、今もそうなのである。/マルクスは、ブルジョア社会には経済的利害を異にする二つの社会階層が存在するという以上に、実体としてのプロレタリア階級の存在を言わなかった。「プロレタリア階級」が彼にとって、「視える」ものとしてあらわれたのはパリ・コンミュンが最初であった筈だ。プロレタリアートは、武装したときにはじめて視える存在として現われるのである。階級形成と武装の問題は、このあたりから問題をたてなおさなければならないのではないかと思う。もっともこれは私が思いついたことではない。
(16)教職員会の最近の内部論争について、現地から上京した活動家の話を聞くことができた。かいつまんでいえば、管理層までふくめた教職員会の中につつみこまれてしまっている矛盾を、若手は、教育労働者としての自己規定・自己形成の下に、自ら顕在化させようとしている。しかもそれは、屋良政権批判というすぐれて政治的な論争の中にあらわれている。しかも組合結成の方向が、日教組に対しては一切幻想を持たぬところから主張されているという。おそらく教職員会は復帰運動の母体であり主役であるものとして、本土との交流をつづけて来ることによって、逆に最も早く正確に本土幻想から自らを解放した部分を生んだのだ。現地でじかにその様相に触れることが出来たら、「注」としてではなく堂々と本文の中で書くことにしようと思う。
(17)『沖縄タイムス』4月9日紙上での仲本教宣部長のインタビュー。
(18)『叛旗』1号「共同体論へ―階級・組織・党」で、60年代から70年代へ向う精神の一端を「レジュメ風の荒けずりな文体」(松田政男)のうちに煌めかせた神津陽が「秋期決戦」を「軍事的敗北」として捉えていることは、啓示のような衝撃で問題の深刻さを知ることを強要する(『蒼氓の叛旗』第4部)。政治行為者としての神津陽に対しては、この一事をもって、それ以前の彼の論稿全てを検討しなければならない。ひからびたシェーマや政治官僚の行う政治ユートピアを拒絶して、大衆のアモルフな情念をこそ〈世界〉への階級として踏もうとした「共同体論」は、何であったのか。それとも、こうした評価は鈍な読み手の勝手な読みこみにすぎなかったのか。松田政男のラブ・レター(『週刊読書人』)などよりはちがった地点で、私達は神津の論文を読んでいた筈であるが、確信は揺いで来た。

『情況』(1970年6月号)

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