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国境・国家・第三次琉球処分


川田 洋


■ 目次 ■
はじめに
I <沖縄>は<国境>を告知する
U 日本−沖縄−アメリカ――最後の敗戦処理としての国境・領土権
V 日本−沖縄−中国――〈琉球処分〉からアジアへ
W 〈国境〉は蠕動する――〈国境〉と〈国家〉あるいは日本の中の非日本

「思うに国家独立自営の道は、一に主権線を守禦し、二に利益線を防護するにあります。何をか主権線という、国境これです。何をか利益線という、わが主権線の安全とかたく関係しあう区域これであります。今日列国の間に立って、国家の独立を維持しようと欲するなら、ただ主導線をもって足れりとせず、かならずや利益線を防護しなくてはなりません。」―第一回帝国議会における首相山縣有朋の演説(明治23年12月6日)

はじめに

 私たちが、この一、二年、重なる悪条件の中で模索してきた、わが<沖縄>への、遅々とした、ただ着実な歩みは、ほとんど無視されるか、あるいはひいきのひきたおしのような賛辞によって迎えられてきた。だが、ごく少数の注視者をもまた、私たちは、もったのである。そして、実践的にはこの少数の注視者のみが、私たちの、ささやかな作業を実践的に読みこみ、それによって私たちに対する、実践的批判・反批判の関係をとり結んできたのであり、私たちの目的は、それで十分につくされている。一年まえ、苦闘の中からつかみとった本質的な把握が、自ら考える頭脳も持たぬ者たちによって今頃猿まねされようが、あげつらわれようが、あるいは無視されようが、彼らに対して嘲りのほほえみ以外に与えるものはなにもない。それは私たちと、そして実践的注視者によってはすでに過去であり、直面しているのは自ら答え得ずにいる現在なのだから。
 私たちは、一貫して問題を、次のように立ててきた―<沖縄>は<本土>を拒否することによって、かつての日支両属・戦後の日米両属の歴史から飛翔しうるのであり、〈本土〉は、まさにそのような〈沖縄〉との関係においてのみ、<本土>としての規定性・日本という規定性を自ら破砕して新しい歴史過程を展望しうるのだ、と。この問題提起が、どのような抽象性を身にまといつけていようと、歴史過程の現実は、ますますこの提起の意味を客観化しつつある。
 だが、おろかしい者たちはたえず私たちに、次のような「批判」を投げつけて来た。「本土復帰」に反対なのか、それなら「独立」論ではないか、はっきり言え、と。この問題の立て方が、愚かしいのは、「本土復帰」を肯定しようが、「独立」を主張しようが(もっとも、公然たる独立論は、琉球国民党の流れを汲むごく少数の沖縄ナショナリストと、ML派の「臨時革命政府」論のみだが)、ひとしく「沖縄問題」のブルジョア的解決があると考えているところにある。
 私たちの問題提起は、その最初から、「本土復帰」か「独立」かという地平をはるかに超えているのであり「批判」者たちは、ただ自らの感性のまずしさゆえに「沖縄問題」のブルジョア的解決の可能性を前提とし、その前提のうえにあぐらをかいて「批判」したつもりになっているにすぎない。
 本稿は、こうした愚鈍な「批判」への反批判でもある。だが、その反批判は、愚鈍な精神のよりどころそのものの破砕へ、かれらの思惑を遠くこえた問題の新たな提起へゆきつかざるをえない。「批判」者どもは、やぶをつついて蛇を呼びだしたのだ。この蛇を取って喰う方法を今からでも遅くないから自らの頭脳で編み出すためにない智恵をしぼって考えるがよい。さもなければ、残された道はただひとつ、現代ナショナリズムの政治への屈服だけである。「革命的左翼」総体が、第二インターへの、社会排外主義への転落の寸前にある。断わっておく。あとはないのだ。

I <沖縄>は<国境>を告知する



 いわゆる「沖縄問題」とは何か? 巨大な軍事基地の存在か、異民族支配=分離支配か、それとも薩摩以来の「差別」の問題か―何百回、何千回と、いろいろに「沖縄」は語られてきた。そして今なお何百一回、何千一回目かの「沖縄論」が巷にあふれ、七二年施政権返還は着実に近づいてくる。「国政参加」は実現し、返還協定交渉は進行し、協定を批准すべき"沖縄国会"も、具体的なスケジュールの問題となった。そして、コザ暴動、国頭村射撃演習阻止、毒ガス移送、そして全軍労ストライキと、現地ではさまざまな予測をはじきとばして政治過程が進行している。
 だが、誰がこの激動の砕け散るしぶきの中に「沖縄問題」の本質をさぐりあてているか、誰が、第三次琉球処分の政治社会総課程の中に現代史の核心を探っているのか。知識人と、そして左翼政治諸集団の現状を見渡すかぎり、誰もいない。
 知識人たちについてみよう。一冊の本がある。中野好夫編『沖縄問題を考える』太平出版・1968年7月10日第1刷発行。定価650円。執筆者=新崎盛暉/宮崎繁樹/高橋実/星野安三郎/宮里政玄/木村禧八郎/森田俊男/井上清/霜多正次/新里恵二/石田郁夫/中野好夫。序文・中野好夫/文献案内・新崎盛暉。「ひとりのこらずそれぞれ真剣に沖縄問題にとりくんでこられた人たちばかりのはずである」(序文)これらの人々は、今どこにいるのだ、何を発言しているのだ? かつての革共同の御用イデオローグ新崎盛暉が何を考えたのか『沖縄タイムス』紙で(どこに住んでいるのだ、彼は?)このごろ躰の調子が悪くてものを考えられない、などと哀れな泣きごとをたれ流している(1)ほか、誰か何かいいこと言っているか?
 一方新左翼政治諸集団の方はどうであろうか。昨10月、大方の組織は「国政参加粉砕」とその機関紙に書いていた。現地で国政参加派と国政参加ボイコット派とが対立したあのとき、ボイコット派を支持することは正しかった。そして容易でもあった、書くだけなら。ところで今、統一地方選挙と参議院選挙が近づいている。諸党派の新聞を見よ。みのべに投票しろ、革命的議員をたてろ、革命的議会主義を貫け、だ。参議院選が、沖縄を全国区にふくめて行なわれることを知らない筈はあるまい。春闘―地方選―参院選―この過程こそ、11月国政参加の政治的確認であり、ダメ押しであり、そして社会的実体化なのだ。去年秋、国政参加ボイコット派に支持を表明した者は、今度は、7月参院選のボイコットを組織化しなければ自らをあざむくことになる。ところがこのありさまだ。一せいに「奪還」派へ"一体化"した。おう、やはり中核派は「日本革命の星」だ、主流派だ。
 なぜこういうありさまを呈しているのか、なぜ、知識人も政治集団も、激動に目を奪われて、歴史過程の本質へ一歩も接近しえずにいるのか。
 <沖縄>を語るための前提が、まったくまちがっているからである。その誤りは、次の二点が、例外なく見落されているところから生まれた。それは、@サンフランシスコ条約第三条に対する誤認、A<中国>の存在の無視・あるいは無知。そして、この二点が見落されている限り、復帰・返還論と同じ位相にあるほかはなく、「奪還」論はイヤダ・イヤダと泣こうがわめこうが、結局それは主流派へのそねみの域を出ることができず、その地平へ転落し、あとをついてゆくほかはなかったのだ。「キライキライもスキのうち」−よくあるハナシじゃないか。



 第一点・「サンフランシスコ条約第三条の誤認」とは何か。この三条は、周知のように、琉球列島(「南西諸島」)をアメリカの施政権下におくことを明記したものであり、売りわたしの確認条項である。誤っているのは、この売りわたしを「非合法」なるものであると考え、そして、言葉はどうあれ、沖縄をアメリカの植民地となったと考えることだ。この誤謬は、より正確に言えば、この第三条によって日本の沖縄領土権が否定されており、したがって、第三条を破棄して失われた領土権を復活させなければならない、ということがその内容だ。
 だが、この認識は間違っている。サンフランシスコ講和条約第三条こそは、日本の領土権を否定したのではなく、その領土権をあらためて確認した条項だったのだ。なぜか。45年「ニミッツ布告」によって、日本の行政権から、沖縄を含む「南西諸島」は分離された(2)。それ以後、この諸島の領土権は、誰に属するものとも決まってはいなかった。その帰属不明の諸島が、日本によってアメリカに譲渡・売却されたのだ。一体誰が自分のものでもないものを他人に譲渡・売却しえよう。まさにこの三条によって「南西諸島」は、日本のものとしてアメリカに売却され、これによって戦後はじめて、南西諸島が日本領土であることが、国際法上確定されたのである。これは「非合法」ではない。ただ不当であるだけだ。この島に住む人々が、自らの住む土地の帰属決定から完全に疎外されているがゆえに、完全にこれは不当である。だが、この不当性はまた沖縄の住民にとってこの三条は全く無縁なものであることをも意味する。沖縄の住民がこの三条の「破棄」を求めることは、この三条そのものを認めることでなくて何であろう。祖国復帰論は法律解釈としてすでにその出発から、悲しむべき誤認の上に立っていたのである。
 米軍の暴虐な支配の下で抵抗と解放の血の闘争史を生きてきた沖縄の人々に、この誤認をもって責めるのは過酷である。だが、この不当な譲渡・売却を行なった日本政府の行政圏に住むわれわれが、今なおこうした誤認を誤認としてかえりみず、サ条約三条破棄は、われわれのみがひとり負わねばならぬ政治的負債であることを今なお知らずにいるとすれば、それはただ無智であることをこえて、第二次琉球処分=サンフランシスコ講和に加担し、沖縄人民に敵対することを意味する(3)。  
 すでに62年に、文学者森秀人は、この本質を唯一人把みとり、はっきりと書き記している。
 「沖縄人民は、遂に一度も、政治的に自己主張することを許されることなく、一方的に日本国民とその政府によって、日本の領土として認定されたうえで、アメリカに売却されてしまった。沖縄人民の日本復帰の願望は、半分達成されたうえで、丁寧に打破されてしまった(4)。」
 「放蕩親(日本)が、遊廓(米国)に自分の娘(沖縄)を売りとばしたのである。しっかりした娘ならば、あんな親爺は自分の親ではないと自分の方から縁切状をたたきつけることで親爺の親権を否定し、売られることに抵抗したであろう。ところが娘(沖縄)は、売られる危険のせまったその時において、みずから親爺の娘であることを名のりあげ、親爺(日本)は喜んで遊廓に娘を売り飛ばしたのである(5)。」
 スッキリしているではないか。これ以上何をつけ加える必要があろう。



 第二点・「<中国>の存在の無視・あるいは無知」とは何か。明治百年の近代日本史の忘却である。中国こそは、帝国主義日本の近代百年にとって最大の<他者>であり、この<他者>との関係こそ、日本資本主義の形成史を最も深く規定してきたし、今もそうである。そして、三度にわたる琉球処分の歴史には、たえず中国が、それぞれの形で例外なく登場する。第一次琉球処分は、日支両属の琉球を、支那から最終的に切断した。第二次琉球処分は、中国革命に対する反革命の軍事拠点として琉球を米軍の専制支配下においた。そして今、第三次琉球処分は、尖閣列島問題を契機として、すでに中国を呼び出している。
 この中国の存在を無視して日本の未来は語れないことは、ブルジョア政治委員会自身が否応なく認めざるを得ない現実であり、ただ、自らの内なる中国を「一億総ざんげ」によってスポイルしつづけることによって辛くも成立する「戦後民主主義」の論理だけが今日もなお、歴史的現実としての中国の存在を無視・忘却して沖縄問題を日米関係の内に閉ざしつづけているのである。戦後民主主義の"鬼子"として出生した日本新左翼運動は、その母胎から受けた負の遺伝子を今なおそれとして意識化しきれず、さらに、そのトロツキズムの洗礼によって、<中国>への独自な接近・把握の方法を自ら奪ってきた。日本のマルクス主義が中国に関して行った業績は、中国社会構造の分析の領域であり、しかもそれは非マルクス主義者橘樸の業績があったればこそであった。戦後民主主義は、しかしこれらをいっせいに闇にほうむってしまったのだ。日本マルクス主義史学の史学としてのまずしさは、日清戦争の歴史規定さえ今だ何もされていないところに、典型的にあらわれている(6)。
 戦後的政治秩序とそのイデオロギーとしての戦後民主主義は、鎖国的性格を持ち、かつその鎖国性自体に対する意識を決定的に失なったところに最大の特徴をもつ。アメリカ帝国主義とその世界政策への従属は、戦後日本資本主義が近代的重化学工業を軸とする蓄積様式を形成するための不可欠の条件であった。戦後民主主義こそ、憲法秩序こそ、大東亜戦争がそうであった以上に脱亜の完成であり、戦争とそれへ向う時代のすべてを暗黒の中におしこめた、自己の歴史の切断と忘却であった。それゆえ、暗黒の中におしこめた筈のものが戦後史を傍流として確実に生命を長らえてきたことに意識的に無自覚であり、それが傍流から、歴史の裏面から公然と白昼に踊りだしたとき、戦後型思想はいちようにそこに、"過去の亡霊"をのみ見いだし、その持つ新しい生命力に対して自らを保守化したのである。
 <中国>の存在に対する無視・無智は、日本史の忘却と切断をもっとも鮮やかに照らし出す。近代日本史の最大の<他者>、それとの関係のうちに自らを形成しえた存在としての<他者>である中国は、<支那>という呼称とともに厚いヴェールの彼方へ追放され、それを条件として、進歩派と旧ファシストが、新中国賛歌を免罪符のようにうたいあげることが出来たのであった。戦後型進歩主義の高踏的体系をなす岩波ジャーナリズムが、岩波新書で出した尾崎秀実『現代支那論』を戦後廃棄していることを筆頭に、事例を挙げてゆけばきりがない「支那」アレルギーは、日本人としての自己批判ではなく、「一億総ザンゲ」の自己欺瞞なのである。
 新左翼運動は、「組織された暴力と国際主義」によって、また学園バリケード占拠によって、あきらかに戦後政治構造をある部分で暴力的に踏みこえた。『叛乱論』の著者、東大助手共闘の指導者長崎浩は、私と同席したある大学祭のシンポウジムの席上で、「全共闘運動の実践的に提起した問題は、ある意味では思想的にはすでに提起されていたのだ」という意味のことを発言したことがある。思想的にはすでに提起された、というのは、65年前後、つまり日韓闘争の最終局面・ベトナム反戦闘争の開始期における「戦後民主主義総括」論争のことであろう(7)。全共闘運動に開花した第二次新左翼運動が、65年期の思想的提起を実践的に表出したにすぎないのか、それとも六五年を踏みこえて次なる時代へ、70年代へ自らを突出させたのか、それは、今「全共闘運動の総括」を思想のレヴェルで完結させることを問うているのではない。現に進行する第三次琉球処分の政治過程を、歴史の転機として把えきる視点を自らのものとしうるか否か――問われている問題ははるかに実践的な位相をもって存在する。



 巷に撤き散らされる沖縄論議の不毛性、あれこれの沖縄闘争論の非実践性の根拠が、サンフランシスコ条約の意味の誤認と、〈中国〉の無視とに存在するということは、とりもなおさず、それらの〈論〉の〈戦後〉的規定性それ自体の問題である。沖縄問題は、日本資本主義が自らの〈戦後〉的規定性を最終的に越えようとするところにその歴史的位置を持つものとして、まさにそれにかかわる思考自体の〈戦後〉的性格を、今日私たちが持つ〈政治〉発想の〈戦後〉的性格それ自体を問いつめている。それは、そうであることによって、戦後的政治秩序――平和憲法体系それ自体の歴史性格を、根底からあらわに照射するのだ。だが、政治秩序をあれこれの部分性に於てではなく、その根底から照射するとは、〈国家〉そのものを問うことであり、そこに〈沖縄〉が、ただに〈辺境〉であることをこえて〈国境〉としての位置を占めるものだ、と言う根拠が存在する。私たちが「沖縄問題」の本質へ迫ろうとするためには、戦後的政治意識の範疇には存在しなかった〈国境〉というタームをとりあげてみることは、唯一とはいわないにしても、有効な方法のひとつではあるまいか。もちろんここではまだこれも、一つのあてこみにすぎない。


U 日本−沖縄−アメリカ
――最後の敗戦処理としての国境・領土権



 そもそもアメリカと日本の間の〈国境〉がそれ自体として問題になることはありえない。ここでは、琉球列島に関する施政権が、アメリカ政府から日本政府へ公的に移讓されるという問題である。
 だがこのことは、日本資本主義にとっては第二次大戦の敗北につぐ歴史的な事件である。いうまでもなく、「南西諸島」分離支配=沖縄戦の終結こそ、日本帝国主義の敗北の最後の確認であり、アメリカ帝国主義にとっての沖縄軍事支配とは、何よりも日本軍国主義殲滅のための軍事的要請として始まったのであった。1945年の米海軍軍政府布告第一号「米国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民ニ告グ」は冒頭次のように言う。
 「日本帝国ノ侵略主義並ニ米国ニ対スル攻撃ノ為、米国ハ日本ニ対シ戦争ヲ遂行スル必要ヲ生ゼリ。且ツ是等諸島ノ軍事的占領及軍政ノ施行ハ我ガ軍略ノ遂行上並ニ日本ノ侵略力破壊及日本帝国ヲ統轄スル軍閥ノ破滅上必要ナル事実ナリ。」
 まさにこのようにして「分離支配」された軍事拠点の施政権が、日米二つの帝国主義の間で、「協定」か「条約」か、いずれかの形式をとって「平和的」に移行しようとしている。軍事的要地の施政権・領有権をめぐる帝国主義国間関係が「解決」を語りうるとすれば、それは、レーニン的な帝国主義論の教条的な理解に立つ限り、帝国主義戦争が不可避の条件である筈だ。現下の「沖縄問題」は、こうして、いわゆる「帝国主義」認識自体の再検討を迫る問題としてある。返還(奪還)論に対する批判派は、「日米共同侵略前線基地化」というような表現をとっているが、では、そのような侵略の"共同性"とは何か、それを不可避とする歴史規定性とは何か、ということが、「帝国主義」認識の再検討の具体的な意味である。いうまでもなく、ここでは、一国帝国主義の国内動向の範囲を超えて問題が提起されており、したがって、かつての「帝国主義か、国家独占資本主義か」といった論争の延長上に解答は存在しない。また「社会主義圏」の存在をもって、帝国主義間の共同行動の必然性を根拠づけても、それは国家間矛盾の政治力学の範囲にすぎず、「社会主義圏」はここでは、帝国主義世界に対して外的に存在する「政治圧力」でしかありえない(8)。逆にいえばここでは「帝国主義」は「半世界」に点在するいくつかの単独国家としてしか存在していない。しかし、「帝国主義」とは、分割の終了→再分割戦への突入という歴史規定を与えられた資本主義の運動論理であり、そのような意味に於いて、それは、資本主義の世界性の規定以外ではなかったのである。「社会主義圏」の存在にかわって、アジアの革命闘争を挙げるのが、最近の"流行"であるが(「極東解放革命」「アジア革命への大合流」「東アジア革命」エトセトラ……)そのように「革命」に対する反革命の"共同性"・世界性を問題にするなら、ただちに、その相手とする"革命"の世界性が問われる。要するに問題はこの次元では、現下の革命対反革命の「世界性」が、つまり、そのような世界史の現段階そのものの歴史認識・世界認識が問われているのであり、そこでは、「社会主義圏」自体も、ただ外在的に政治的にのみ存在しているのではない以上、それらをも含んだ「世界」総体の把握の方法があらためて問い直されているのである。
 今論を沖縄に限定してみたとき、問題は二つに大別されるだろう。第一は、日本−アジア−アメリカをめぐる日米間の帝国主義競争の現局面の中で沖縄の所在がどのようなものであるか、という点であり、第二には、そのような沖縄の支配が、施政権返還という形で推転せざるをえない沖縄の権力構造とはいかなるものか、という点である。



 第二点の、沖縄の権力問題については、あらためてのちに独自の問題としてとりあげる。ここでは、第一点に関して、簡単に要点を確認しておこう。
 本誌昨年6月号の「新左翼運動と沖縄闘争」で、私たちは次のように書いた。
 「共和党上院議員は、四月七日、繊維交渉で妥協しない日本に対しては沖縄を返還すべきではないという演説を行なって注目された。サーモンド演説に関する限り、アメリカ帝国主義政治の尊大さと、政治かけひきのための外交圧力にすぎない。しかし、繊維交渉と沖縄は帝国主義のアジア支配の再編という規模の中では、帝国主義の歴史的危機に対する対応をめぐって、日米帝国主義の本質的な矛盾によって結ばれているのであり、そこに又、沖縄再編の世界性・アジア性がある」
 「帝国主義の歴史的危機」とは、文脈のなかでも明らかなように、今日の後進国問題である。後進国に対する「援助」その他の形態をとった戦後の資本投下が、資本蓄積を結果せず、逆に貧困の蓄積と、民族資本の買弁化を結果し続けて来た結果、後進国は、古典的帝国主義にとっての植民地に比べて、資本投下対象として枯渇してしまっており、戦後資本主義は、後進国市場より以上に、先進国市場に対する資本輸出を軸とする蓄積様式の上に戦後的繁栄をうたいあげてきたのであった。そして、その帰結として、後進国は、政治的にも経済的にも現代帝国主義の包括能力を超えたものとなり、ただ軍事的抑圧をもってかろうじて秩序を保つ他はない。
 かかる構造の危機性は、ただ軍事的な、あるいは政治的なものであるにとどまらず、世界体制としての帝国主義そのものの存立にかかわる危機であることはいうまでもない。したがって、帝国主義の側からする解決がありうるとすれば、この後進国を再び自己の論理の中にとりこむこと、すなわち、そこにおける労働力と生産手段との結合を資本の論理に於いて再建し、蓄積構造の要素として機能せしめる条件を形成すること以外にはありえない(9)。
 いわゆる「開発戦略構想」なるものは、反革命の役割を、軍事作戦行動に限定することなく、こうした後進国における蓄積=再生産の条件の再建総体へ拡大し、軍事行動をもその一還として位置づけようとするものである。マクナマラが国防省長官時代にヴェトナムでとった「戦略村」は、その具体的表現の一つであった。当然にもここで要求される後進国の政治権力は、こうした資本蓄積構造の建設者でなければならず、反共で軍事権力であればよいわけではない。むしろ反共軍事政権は、たえず買弁化し、そうした買弁化した政権に対してはアメリカは、クーデターでそれを粉砕して来たのであり(バオダイの打倒・ゴ=ジンジェムの擁立、ゴ=ジンジェムに対する、グェン=カオ・キのクーデター工作)、ある場合には、容共政権の方がよりましだという判断さえも下してきた(10)。
 こうした判断は、箇別産業資本の論理のものではなく、総資本=金融ブルジョアジーのものである。日米繊維交渉にはじまる、日本商品のアメリカ市場からの追放は、たしかに産業ブルジョアジー相互の矛盾・商品輸出レベルでの競合の形態をとってあらわれている。しかしこれを古典的な商品輸出の競争としてとらえ、そこから日米間経済矛盾の新たな展開を展望することは決定的に誤っている。
 繊維交渉の過程で日本の繊維業界は執拗にアメリカ企業のいう「被害」なるものの調査を要求したが、米側はこれを拒みつづけたことは周知の事実である。要するに「被害」などというに足るものは、まったくないか、あるとしても取るに足らぬものなのだ。問題は、日本資本主義が先進国市場で利潤を実現しつづけようとするエゴイズム−後進国開発に資本を投下する、しかも当面は利潤として循環する展望のない資本を投下することを可能な限り回避し、開発出資の負担をまぬがれようとするそのエゴイズムに対して、アメリカ資本主義が明確に拒否する時期が来たという点にある(11)。
 今手もとに資料が見当らず、引用して示すことができないが、昨年始めのアメリカ議会の諮問委員会のある報告は、明確に、日本が後進国への開発投資という、直接の利潤は期待しえない、だが帝国主義総体にとって共通に必要な支出に対してきわめて消極的であることをあからさまに批判していた(『世界週報』誌が三〜四回にわけて全文を訳載している)。
 したがって、繊維からはじまり、自動車、家電、電子部品、さらに金属にまでおよぶ日本商品のアメリカ市場からの追放は、開発計画の共同参加者たりえない日本の資本を、否応なくアジアへ向かわせようとする機能を結果する(12)。それは、客観的には(そしてある程度意識的にも)アメリカ帝国主義の、戦後世界秩序からの離陸であり、しかもそれが、一国経済上の利害をそれとしては展開しえぬ現代の中で、世界戦略として提起されているのである。これを「保護貿易主義」ととらえるのは、こうした世界戦略としての性格、それを強制する現代世界の性格そのものへの無知以外の何ものでもない。



 アジアの帝国主義支配の再編の中での沖縄は、こうした動向の中で、60年代的構造――アメリカにとっては「軍事拠点」、沖縄自体はドル圏にかかえこまれた疑似的国民経済構造、そして日本にとっては第一次産業の一部にとっての(特に製糖業)収奪源、という位置から、全面的にその姿を変えざるをえない。
 アメリカにとって沖縄は、戦後一貫して一度も経済的メリットを持つものとは考えられなかった。政策的にも、歴代の高等弁務官は米系企業の沖縄誘致に積極的に働いたということはない。こうした歴史をくつがえしたのが、68年1月のガルフ、エッソ等四石油企業の沖縄上陸である。この石油企業の沖縄進出は、だが、沖縄を経済的にも植民地化しようとする意図から発したものであろうか。
 四社計日産25万バーレルという製油所の規模に対して、人口百万の沖縄社会の中で石油消費力を持つといえるのは軍事基地だけである。だが基地への燃料供給だけなら、四社が同時に製油所を建設する意味は少ないといわなければならない。この米系石油企業の沖縄上陸は、沖縄自体の開発や植民地化といった次元に展望を持つものではない。それは一方に東南アジア、他方にほぼ百%を海外に依存している世界第三位の石油消費国、日本を同時的に射程にふくむものにほかならない(13)。
 「米国石油資本の沖縄進出は、いろいろな背景が考えられるが、その一つとして需要構造面から理由づけられるものがある。すなわち、石油製品を工業燃料または原料として使用する場合と、ガソリンのように自動車燃料として消費する場合と二通りある。米国・日本・ヨーロッパのような工業先進国は主として工業用燃料や重油を多く使用する。一方後進国は工業が進歩していないから、ガソリンの消費が多い。したがって日本本土で重油などを量産すればガソリンが生産過剰になるし、一方後進国でガソリンを需要にみあうように量産すると重油が過剰になる。そうした需要構造のちがいからくる生産分需要の不均衝を是正するためには、先進国と後進国の中間に精油所を設立することが得策と考えられるようになった。」(『沖縄タイムス』67年10月4日付)
 巨大精油所の運転の開始は、電力問題の解決条件であり、アルコアのアルミ精煉所建設は、平安座(へんざ)のガルフ精油所建設と密接な関連の上に計画されたものである。このガルフは、すでに韓国で大韓国営会社と共同して製油所をつくり、朝鮮沿岸大陸棚の石油利権を獲得しており、昨年七月、国府から尖閣列島海域の石油試掘権を獲得したのも、こうした計画の一環をなすものであった。
 石油、そしてそれを条件とする化学・金属等の装置産業――これらは、沖縄の臨海工業地帯の主役である。第二次大戦の艦砲射撃で地形が変ったとさえいわれた沖縄本島は、今72年返還を軸とする再編の中で、その海岸線の姿を一変しようとしている。通産省発表の計画によれば、臨海工業地帯の用地造成は主としてうめたてによることになっており、その規模は本島の現在の面積の30%にもおよぶと言われている。



 こうした装置産業の誘致は、歴代琉球行政府の一貫した方針であった。日本政府の恫喝にも屈せず米系四石油会社の申請に許可を与えたのは最後の指名主席松岡であり、東洋石油の製油所建設を推進したのは、最初にして最後の公選首席屋良である。第二次産業の発展によって、基地依存型の跛行的経済構造から、健全な沖縄経済へ脱皮する点で、かれらの意図は一貫しているといえる。
 だが、こうした臨海工業地帯の建設は、「健全な沖縄経済」をもたらすであろうか? いわゆる「平和経済計画」については、あらためて後節で検討するとしても、ここで明らかなのは、一〇万バーレル規模の製油所の従業員は二百名足らずであり、社外労務は出荷要員の数十名程度であるから、雇用問題の解決になる筈がないし、また鉄鋼や自動車のように関連産業を必要とするわけでもない。つまり、製油所や、それによる火力発電所、そしてその電力を利用する金属精煉工場等の装置産業群は、はじめから「沖縄経済」から離陸した存在だということである。それは、沖縄の住民にとっては、威圧的な、疎遠な化け物以外ではありえない。軍事基地は、一方では沖縄の労働力を吸収し、他方ではネオン街をつくりあげ、公私さまざまにドルを沖縄社会におとしてきた。その基地自体が今、沖縄経済から脱却しつつある。東洋石油の製油所が建設されている、中城村、久場村の海岸の埋め立て地は、ぐるりと金網でかこまれている。その金網の上部は、外側へななめに傾斜し、鉄条網がはりめぐらされている。それは、軍事基地をとりまいているあの金網と完全に同じ形のものなのだ。

 米軍基地はいくつかの部落を丸ごと移動させ、飛行機を沖縄住民の頭上に落下させ、そして厖大なドルをまきちらした。臨海工業地帯の建設は、それに先行して、市町村の合併を進行させており、やがて、フッ化水素や亜硫酸ガスを沖縄住民の頭上にまきちらすであろう。予定されている「健全な沖縄経済」――それは、60年代までの反革命軍事拠点沖縄が、ただに軍事拠点としてのみならず、社会経済過程をも含んだ「開発」という名の侵略・反革命の前線基地へと変貌することを意味するのだ。
 アメリカ帝国主義にとっては、一方では軍事拠点・他方では「開発」拠点としての役割を、軍事基地と工業地帯によって持つことが沖縄の持つ意味であり、そのいずれもが、沖縄地域社会、そこの政治−経済過程から構造的に離脱してものとして展望されている。
 これに対して、沖縄地域社会の支配・統治を担い切るのは日帝に課せられた課題であり、そうしたものとしての施政権返還により、第二次大戦敗北の"戦後処理"が、国境・領土問題として決着づけられるのである。この最後の"戦後処理"が、アジアへの侵略過程の本格的な展開の画期である他はないことは、すでに別の機会にも展開した(14)。沖縄社会再編は、すでに現在にあっても、日帝にとってはアジア的展望の中にはじめて現実的意味をとってあらわれている。雇用問題の解決展望を期待されている労働集約的な工業にしても、また医療・衛生管理行政にしても、自然環境調査にしても、それらはすべて、アジアへの一歩の接近以外のものではない。
 だが、こうした"戦後処理"自体が、第二次大戦の敗北の処理として、換言すれば戦後25年の帝国主義的総括として自己完結しうるものでないこともまた今日同時に明らかとなっている。25年の総括は、帝国主義にとってもまたわれわれにとっても、明治100年の総括としてしかありえない。そのことを最も端的につきつけているのが、〈中国〉の存在である。

V 日本−沖縄−中国
 ――〈琉球処分〉からアジアへ



▽「尖閣列島の5つの島の国府に帰属する」(国府・魏外交部長)
▽「尖閣列島は米施政権はの範囲内で、わが国の領土であることは一点の疑いもない」(愛知外相)
▽「佐藤反動政府は米帝国主義の支持の下に各種の口実をさがして、魚釣島などの島々を含む中国に帰属する一部の島と海峡を日本の版図に入れようと企図している」(中国・新華社記者の報告)
▽「尖閣列島は明治17年古賀辰四郎によって発見され、その周辺は沖縄漁民の活躍の場所であった。明治28年閣議、29年勅令により沖縄県八重山郡石垣村に属すことが決定した。現在米民政府布令『琉球列島の地理的境界』の規定による区域内に位置している従って日本返還に対しては返還区域内に含まれていることは何ら疑う余地がない」(琉球政府「尖閣列島の領有権および大陸ダナ資源の開発主権」に関する主張)

 昨年7月、国民政府が尖閣列島付近の大陸ダナ海底資源探索権をガルフに与えてから半年以上を経過した今日も、進歩派から左派に至るまでの返還派・奪還派は何ひとつ明確な発言をしていない。そしてこの沈黙こそ、逆に「沖縄問題」の歴史射程が返還(奪還)論のそれを超えていることを物語っている。問題は尖閣列島そのものにあるのではない。明治維新以降100年の、言い換えれば日本近代100年の中国との関係そのものにあるのだ。

 そもそも日支両属の琉球王国から沖縄県への移行は、そのまま、日本が近代国家として世界史に登場する過程であった。同時にそれは、日本の国家統治と資本蓄積様式が近代資本主義としての形態をまがりなりにもとってゆく条件を国内的に形成する過程でもあった。



 事実関係を朝・中・琉関係に限定して整理しよう。
▽明治4年・本土廃藩置県。この年、宮古・八重山からの貢納船が嵐にあって台湾に漂着し、54名が原住民に殺害されるという事件がおこっている。
▽明治5年・「藩王御請」−琉球王国は「琉球藩」となり、国王尚泰は華族に列せられることになる。
▽明治7年・台湾征討。これを当時は「生蕃討伐」と呼んだ。大久保利通、清国に渡り、日本の台湾出兵を「民ヲ保ツ義挙」として認定させる。
▽明治8年・江華島事件。朝鮮出兵論高まる。内務大丞松田道之、琉球へ渡り清国との冊封・朝貢関係の遮断を承認させる。
▽明治9年・黒田清隆全権一行、江華島へ上陸、日朝修好条規調印。
▽明治12年・琉球処分。
▽明治15年・壬午の軍乱。軍政改革を契機とする反日反乱。清軍に鎮圧さる。袁世凱、大軍をソウルに駐屯。親清派・閔妃の支配強まる。
▽明治17年・甲申事変。金玉均を中心とする親日派の反清クーデーター。失敗し、清軍により親日派のみならず日本人も殺害され、日本国内では反清感情が熱昂する。
▽明治18年・伊藤博文、李鴻章と会談。天津条約締結。
▽明治27年・東学党の乱。日清戦争開始。
▽明治28年・下関条約。米、仏、露の「三国干渉」により、日本は、遼東半島の割譲を断念。台湾在住の中国系本島人、「台湾民主国」を宣言。近衛師団、台湾上陸。台湾住民の反日闘争展開。
▽明治29年・台湾総督府条令発布。
 ここに日本は、アジアで初の植民地領有国となり、帝国主義国家として世界史の舞台に登場することになった。廃藩置県以降30年の歴史は、対外的には幕末の不平等条約の重圧をはねのけながら、清・朝鮮への侵攻を推進する過程であり、国内的には、まず旧藩土族の側の新政府に対する叛乱(7年・佐賀の乱から10年・西南の役)を鎮圧し、自由民権派を抑圧・解体し、民権派による民衆蜂起(15年福島事件から、国民党峰起・加波山事件・秩父暴動・飯田事件・自由党大阪事件(15)等)を暴圧する過程であり、明治18年に大政官制への移行、23年に最初の衆議院選挙が行われ、第一回帝国議会が開催されている。この時期に軍事面では15年の「壬午の軍乱」を契機として陸海軍の大拡張が強行され、軍団編成がそれまでの内乱鎮圧用のものから、大陸作戦を射程に入れた外戦配備用のそれへと転換をとげた。軍事支出額は、明治14年/海軍310万円・陸軍825万円・16年/海軍624万円、陸軍1008万円・22年/海軍1446万円・陸軍1426万円と、総額でわずか8年間に2倍半に増加し、特に海軍の支出は5倍近くにもはね上っている。16年と22年の微兵令の大改正は、こうした軍隊の兵員確保のものであり、18年の鎮台条例の改正、21年の師団編成への、切換えは、のちの日本陸軍の野戦の根幹を形成した、軍編成上の画期的な大改革であった。



 明治の琉球処分は、こうした日本近代の出発点を形成する歴史過程の一環以外の何物でもない。12年の琉球処分はそれとして完結しえたのではないし、12年以降、国内問題に変ったのでもない。日清戦争と日本の勝利によってはじめて、「琉球処分」もまた完結したのである。
 琉球の磧学と仰がれた真境名(まじきな)安興は、次のように述べている。

 「日清戦役は、東洋に於ける我邦の地位を決定し、日露戦役は世界に於ける我邦の地位を決定せしといはれし丈け、各方面に於ける影響も亦甚大なり。殊に日清役は、沖縄の民心と文化に一大回転機を与へしことを知らざるべからず。沖縄の地位が日支両国の間に介在せられしより300年来、両属政治の下に馴致せられたるに拘はらず、維新の宏謨は、国民的統一の為に之を藩となし、また県となしきたり。然れども、幾100年間の惰力は、一朝制度の改廃に依りて、之を矯正すべからず、明治12年の廃藩置県を距る10数年の間は、民心統一を欠き、或は嚮背に迷ふ者ありしが如きも、一に清国の後援に依る復旧思想に因はれたればなるべし。然るに日清役に於ける皇軍の大捷利は、彼等の迷夢を覚醒し、総ての問題を解決し得たりと謂ふべきなり」(『沖縄現代史』)

 日清戦争の終結によって、ようやく琉球から「沖縄県」への移行が完結したことは、日本近代百年の歴史過程の中での沖縄問題が、封建帝国主義清国に対する戦勝を通して完成された、近代国家としての国境確定の問題であったことを物語る。琉球処分のこうした性格は、12年の処分の直後における、いわゆる"分島問題"に最もあからさまな形で表現されている。天津に立ちよった前米大統領グラントの両先島譲渡案や、琉球王国の復活を意図して琉球王族派と清の李鴻章が案出した琉球三分案、そして、宮古・八重山両先島のみを清が譲渡する「琉球条約」案等々の変遷は、しかし、すでに琉球それ自体をめぐる問題をこえて、朝鮮・台湾をめぐる日清関係の一部でしかなかったのである。



 従来の沖縄論議は顔をもっている。一方は、米軍占領=異民族支配ととらえてこれを「復帰」によって"解決"しようという論議であり、もうひとつは〈本土〉−〈沖縄〉の歴史的差別をとりあげて、その差別解消を問題にするという論議であり、この双面的な議論が、相互の関係も、脈絡も定かならぬままないまぜにされて来ている。だが、〈本土〉−〈沖縄〉関係、あるいは日−米関係という視点の中には、〈中国〉は存在しない。日中関係史の中での〈沖縄〉は、尖閣列島問題が表面化してから現在に至るも、どこでもまともにとりあげられてはいないのだ。
 
 すでに述べたところから、琉球併合は、台湾併合と同時的に決着が着いたことは明らかであろう。われわれが日・中関係の中での沖縄というとき、同時に「台湾問題」を語っているのである。いいかえれば、沖縄を日本領土として前提的に語る方法は、同時に、台湾が中国領土であることを語っている。だが、沖縄は日本領土、台湾は中国領土、という常識論は、だが次の事実−台湾と琉球列島の間に国境線なるものはかつて一度も存在しなかったこと、72年返還は、台湾本島と与那国島の間のわずか4キロの海域に、歴史上はじめて国境線を引くことなのだ、ということを完全に見落しているのだ。この問題は、日本・沖縄の返還・復帰論者によっても、国民政府によっても、「台湾はわが中国の神聖な領土」だとする北京政権も、いずれもが見落しているか、故意に語っていない問題である。
 われわれはどこまでが日本領土であるのか、どこから中国領土なのか、という議論には興味はない。国境――それはプロレタリア革命にとっては消滅すべき運命を持つものだ。だが、国家の死滅−国境の消滅という問題が、いま、72年をまえにして、「原理」や「思想」のレベルではなく、現実的政治選択の問題として問われているのである。
 明治の琉球処分は日清戦争のあと、台湾の併合によって完結した。だから、第二次大戦の敗北までの間、琉球列島と台湾の間に国境線などは存在する筈がなかった。戦後、アメリカ軍が南西諸島を分離したのち、つまり琉球列島が帰属不明のまま米軍占領下におかれている状態の中で、47年10月18日、中国国民党政府が琉球の中国帰属の要求したのも、だからあながち荒唐無稽なことでもなかったのである。



 戦後25年、たしかに与那国島までは琉球行政府の管轄であり、4キロ先の台湾本島は国民政府の支配下におかれてはいたが、台湾と沖縄列島の住民は、さまざまな交流関係をつくって来た。沖縄本島では、パイナップルのとり入れのあと、かんづめ工場が動く時期になると大勢の台湾女工がやってくる。最近は、石油基地建設や、軍港湾関係にも台湾労働者が導入されている。また国境線のない台湾――先島海域は台湾漁民の共同の漁場である。そして、李節工や漁民以上に、台湾と琉球の民衆的な関係を表現しているのは、台湾から移住した開拓農民であろう。
 朝日新聞のルポ「国境の島々」(上)は、石垣島の台湾人農民の姿を報道している(16)。

 「『私たちはすっかり八重山の人間になりきっているのに子どもや孫は無国籍者同様に扱われ、社会の片すみで悩んでいる。このままでは両親から引き離され、強制送還されるのでは……』石垣島の台湾部落は、沖縄復帰をひかえて深刻な不安におびえていた。
 石垣島など八重山一帯に住む台湾出身者は約200世帯。昭和20年以前の居住者は永住権、38年当時の居住者には半永住権が与えられている。ところがこの永住権は子どもたちには及ばず、子どもたちは公民権が適用されないばかりかパス・ポートもなく沖縄以外への旅行も思うにまかせないばかりというのだ」
 「石垣島に台湾から開拓民がやって来たのは昭和8年……2年後に約400人を集団移住させた。……戦時中には3600人もの死者を出したマラリア禍、吹荒れる台風。戦争でほとんどは台湾に強制疎開させられ、残った者が戦後わずかに落残っていたパインの種で、"再出発"した」
 「"パインは台湾にしかできない"という地元民の目の前で、開拓民は新しい農具を使い、ジャングルを切りひらいて成功させた。戦時中の食糧難を切り抜けたのは開拓民のおかげだった」
 「台湾出身者たちの不安は、本土政府が永住許可についてきびしい態度を示しているといわれることから、さらに深刻だ」

 "集団移住"といい"強制疎開"といい、いずれもこの農民たちが自ら希望したことではおそらくあるまい。こうした開拓農民の手でうえつけに成功したパイナップルが、戦後、米軍に耕地を追われた本島の農民の手でひろめられ、砂糖キビと並ぶ沖縄農業の中心作物となったのだ。その開拓民のまえに、72年施政権返還は、居住権制限・家族解体・強制返還をチラつかせるものとして登場している。
 注意深い読者なら、ここで、林景明『知られざる台湾』の悲憤にみちた告発を想起するだろう。台湾人はその意向も認められることなく「日本人」とされ、日本名を与えられ「日本兵」として戦地へ送られ、そして敗戦と同時に「日本」から捨て去られ、そこに、蒋介石軍閥の残虐な支配がおとずれた。その蒋介石一派に対して闘う台湾独立連盟の活動家たちは、死刑宣告の待つ国府台湾へ、日本の法務局・入官の手で強制送還される。(『知られざる台湾』W・参照)
 かつて私は、沖縄が「日本国家の都合によって、国境の外から内へ、内から外へとおしだされたりひきこまれたりして来た」と書いたが、台湾もまた、日本との関係で同じ位置をもってきたのだ。そして今、その〈沖縄〉と〈台湾〉の間に、歴史上はじめて明確な国境線が引かれようとする事態が切迫している。日本の歴史責任は中国大陸に関する限り、北支侵略から以降が中心であり、それは「戦争責任」の範疇にくりこんでしまうこともできよう。しかし〈台湾〉に対して持つ歴史責任は、台湾併合以来今日までの切れ目ない時代をおおうものである。敗戦により〈日本〉は、〈沖縄〉をアメリカに、そして台湾を蒋介石に売りわたして、閉鎖された〈ヤマト〉の中にとじこもることによって、その〈国体〉を維持して来たのだ(17)。


W 〈国境〉は蠕動する
――〈国境〉と〈国家〉あるいは日本の中の非日本



 前節で、従来の沖縄論議が二つの顔を持つことに触れた。今は、従来の沖縄論議で言われて来た「差別」の位相をあらためてとりあげよう。結論を先にいえば、旧来の「差別」議論は、〈本土〉との平準化要求を基軸としている。そのために、〈沖縄〉もまた〈日本〉なのだというテーゼは〈差別〉を告発すればするほどますます強弁されざるをえず、その結果沖縄問題を〈国境〉の問題として、いいかえれば、〈日本〉国家総体との関係性に於いて設定することができずに来たのであった。第1節であげた、@サ条約三条項に対する誤認、A〈中国〉の存在の無視、は、いずれも、この議論の方法――つまり〈本土〉からの「遅れ」として「差別」を考えるその方法それ自身の帰結だったのである。こうした方法を転覆させるために、われわれが〈国境〉というタームの使用を媒介として、沖縄を国内問題に限定する枠をとりはずそうとしてきたことは、今さら説明を加えるまでもないだろう。従来の「差別」議論の方法的誤謬は、ただ方法の問題にとどまらず事実認識そのものをも歪めて来た。まずその一例をあげよう。

 「廃藩置県が本土で行なわれたのが1871(明治4)年。沖縄では旧支配層の強い反対があって、それは琉球処分という形で1879(明治12)年に実施された。しかし、そのおくれはいまだ8年であった。それが廃藩置県後も沖縄だけが旧土地制度のまま放置された。こうして沖縄で地租改正条令が完全に施行されたのは1904(明治37)年のことであった。本土におくれること、実に31年である。それについて市町村制が本土では1888(明治21)年に施行されたのに沖縄では1921(大正10)年、また府県制施行は本土が1890(明治23)年だったのに沖縄では1920(大正9)年と、それぞれ30年ないし33年もおくれをとった。こうして、衆議院議員選挙法もまた、本土が1890(明治23)年に施行されたのが沖縄ではそれより22年もおくれた1912(明治45)年にようやく施行されるしまつだった。それも特別つきの選挙法で、その特例が撤廃されて本土なみの選挙法が沖縄に施行されたのは、さらにそれより8年おくれた1920(大正9)年のことであった。本土におくれること30年である」(『沖縄の百年』第2巻・太平出版)

 この典型的な本土−沖縄比較論の方法からすれば、〈おくれ〉すなわち差別である。だが、近代日本の沖縄差別は、この〈おくれ〉自体のことであろうか。
 沖縄の「土地整理」は明治36年に終了し、それに伴って地租条例が施行され、土地の私有制が導入された。それが沖縄における近代の開始点である。この地租改正=土地整理が、本土(ヤマト)の場合と異っていたのはそれ以前の土地所有形態のちがいにあった。国内ではすでに幕藩体制中期以降、大都市商人によって担われた商品経済の形成があり、そうした商品経済の発展の中で、土地私有制は制度的には認められずともすでに実質的には実現される条件をほとんど持っていたのである。それに対して沖縄の場合、清と薩摩の間の封建的貿易中継地としての位置が商品経済の形成をはばみ、土地所有も「地割制」と呼ばれる、共有制度が貫徹されていた。琉球農民は、首里王府から貸与された村の共有地を戸ごとに割りあてられて耕作する農奴的な存在であり、日本国内の自作・小作などの「農民」とは著しく異っていた。土地整理・地租改正条例の実施が、琉球農民にとって「解放」であったのか、収奪形態の変化にすぎなかったかという議論は無意味である。封建的農耕奴隷から土地を持つ農民への変化は、解放であり、まさにそのことによって、収奪形態の変化=近代化としてある他はないからだ。こうして土地私有者となった農民は、商品経済の機構に組みこまれ、農奴にとってはありえなかった階層分解にさらされ、その中の下層部分は土地を売却して小作農となり、さらには農業生産過程から放遂された「自由な労働力」に転化するほかはない。明治期の沖縄農民は、封建制度機構から"解放"され、近代的収奪構造の中に投げこまれ、一方では海外へ移民として、他方では本土へ職を求めて出稼ぎにゆくほかはない、過剰労働人口を排出することになる。そして、こうした琉球人労働者の本土への流出によってはじめて、日本における沖縄差別は社会的に構造化されたのであった。

 「本土では1868(明治1)年に早くも土地制度の改革が着手され、それは廃藩置県(1871年)の翌々年1873(明治6)年の地租改正条例公布となって結実した。それが沖縄では廃藩置県の1879年後も何ら旧土地制度の改革はみられず、1904(明治37)年の地租条例施行にいたったのであった。本土におくれること31年である。この経済的な変革の遅れが、実は日本の近代史において沖縄が他府県におくれをとった真の原因で、その背後には中央政府ならびに県当局の沖縄に対する差別政策がひそんでいた」(前同)
 この比較主義方法論は事実認識に於て、〈おくれ〉そのものを〈差別〉ととらえる点で誤まっていた。だが、さらに進んで、ここでは、「差別」が「政策」の問題に還元されていることがわかる。差別は為政者のつくりだしたもの、恣意の物と考えるなら、又その解消も恣意によって可能となるだろう。だが、すでに述べたように近代の沖縄差別は、琉球農民の“解放”→流民化→本土流出という過程を経て形造られた、社会構造なのであった。それは恣意の産物ではなく、日本の近代の出発点が持つ諸歴史規定性の産物にほかならなかった。沖縄が受けとったその歴史的規定性をここで仮りに〈国境〉と呼んできたのだ。

 本土へわたった沖縄出身労働者(土地を失なった農民)の求職運動に対しては、「朝鮮人と琉球人お断わり」という礼が待っていたことはよく知られている。当時、朝鮮人と沖縄人が、同じような差別関係におかれていたことをここから知ることができよう。沖縄県では知事をはじめ上層官僚が歴代本土人によって占められてきたことは、この沖縄統治機構が、朝鮮・台湾の「総督府」的なものだったことを表現している。そのことは、教育行政の中にもっとも典型的にあらわれている。それは、「内地」に対して意識的に格差づけられた教育内容と、そして特に日本語教育の強制という点で共通していた。
 明治43年「朝鮮併合」の翌年、「内鮮人の区別なくひとしく教育勅語の趣旨に基いて教育を施すことを目的」として発布された朝鮮教育令には「教育ニ関スル勅語ノ趣旨ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス」。また台湾公学校規則は「公学校ハ本島人ノ児童ニ国語ヲ教ヘ徳育ヲ施シ以テ国民タルノ性格ヲ養成シ竝生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と明記されている様に、典型的な植民地教育が実施されたのであった。日本語教育と日本教育制度の強制は、「近代化」における民族の抹殺であった。沖縄方言の撲滅運動はその極端な例であろう(18)。
 だが、沖縄統治が、朝鮮・台湾の植民地統治と同質のものだったことをただ述べるだけでは十分ではない。「日清戦争の戦勝の結果、獲得した新領地の台湾と、さらに利権を確保した朝鮮とが、明治政府のまえには新しい収奪の対象として投げ出されていた。(中略)こうして明治政府の関心は沖縄の統治からやがて朝鮮・台湾の経営へと移行していった。が、その朝鮮ならびに台湾の植民地経営にあたって、沖縄の統治がそのまま模範となった」(『沖縄の百年』中・ゴシックは川田)のだ。
 〈本土〉(あるいは〈内地〉)を尺度にしてそこからの「遅れ」を測定することこそ、植民地統治の為政者の方法であった。従来の差別議論は、その方法において、「学制改革」以来の日本の皇民化教育のそれと完全に重なっているといわなければならない。そこでは、明治以降の〈差別〉がもつ近代的性格に対する批判の視点は存在せず、また朝鮮・台湾との位相の同位性に対する視点が、〈沖縄は日本なのに差別されている〉という形でうちすてられる。
 もちろん〈沖縄〉は朝鮮でも台湾でもない。したがって常識的な意味での植民地概念を沖縄にあてはめてみても何ら現実への踏みこみにはならないし、理論活動としての、そうした図式のアテハメは、怠惰の一言につきる。しかし、明治百年の尺度で〈沖縄〉を見るときに、これを朝鮮・台湾は外国・沖縄は日本なのだ、という前提をとる限り、沖縄差別は「国内問題」の枠におしこめられ、かくしてそれを扱う方法は〈本土〉との〈おくれ〉の問題に集約され、まさに近代的差別の方法そのものへとピッタリ合致してしまうほかはないのだ。戦後の進歩主義イデオロギーは〈差別〉をすべて〈前近代〉の問題とし、近代民主主義の完成過程は差別を解消するべきものだという理念にしがみついてきた。その端的な表現は「部落」の同和路線としてあらわれ、すでにその破産を実践的にはあきらかにしている。



 本土――沖縄の〈格差〉是正に、差別解消を展望する方法の誤謬をこえるためには、沖縄が、たとえ「県」であれ、あるいは、「分離支配」であれ、〈日本の中の非日本〉としての位置にたえずおかれてきたという事実から出発する以外にはない。(〈日本の中の非日本〉というのは、問題接近のためにつくったひとつのタームであり〈国境〉と同じくひとつの作業仮説にほかならないが、これによって逆に、〈国境〉概念そのものを以下では拡張してゆくつもりである。それによって、タームが、実態をどのように表現するかは、以下の展開で示すほかはない)
 〈日本の中の非日本〉とは〈沖縄〉のみならず、在日中国人、在日朝鮮人がそうであり、〈部落〉がそうであり、そして〈スラム〉がそうである。こうした日本の中の〈非日本〉は、さまざまな形で、〈日本〉から疎外され、疎外されたものとして日本資本主義の再生産構造の底辺部分を形成してきた。程度も様式も異なってはいるが(そしてこのちがいそのものはそれとして重要な意味をもっており、あとでその点にもどって検討を加える)いずれも憲法民主主義から多かれ少なかれ排除されてきている。
 戦後憲法民主主義の過渡期政体として持つ巧妙さは、こうした日本の中の〈非日本〉群をただ排除するのではなく、まさにその排除によって、それらの存在自体をも、それらの存在をかかえこんだ〈日本〉国家をも、一つの安定構造に組みこんできた点にある。植民地放棄・民族自決の承認によって、中国人・朝鮮人には国内での彼らの権利制限を、かれらの〈祖国〉意識の承認によって補完し、在日華僑総会・朝鮮総連等の構造へくみ入れたし、また沖縄と部落に対しては、祖国復帰・あるいは「同和」イデオロギーによって、その〈差別〉解消の展望を「民主憲法」のうちに吸収してきたのであった。下部での反抗を抑圧にするために、さまざまな因習や前近代的要素を動員しつつ、それら前近代性は、憲法精神の未完成によるものであるから、憲法精神にのっとって差別の解消へ努力することが必要だし可能だ、という発想は、保守党政治権力への批判もふくめて、憲法幻想総体の自動安定機能を形成して来たのである。そして、憲法民主主義自体は、こうした〈非日本〉を除いた「日本人」たちの世界に現実的にはうちたてられ、日本型マルクス主義のヨーロッパ的性格は、まさにこの「日本の中の日本」の領域においてのみ賃労働と資本の対立を見、「階級闘争」を展望することができたのであった。こうした「階級闘争」がその質を問われたのは、具体的には朝鮮戦争の時点における反戦闘争であり、そして、60年代後半の闘争の中で再び問い直されている。日本の階級闘争の歴史総括は本稿のテーマではないから立ち入るのはさけるが、入管法闘争の過程であらわになった、ノン・セクトと「八派」との分解に関連して若干の問題を整理しておくことは必要であろう。
 華青闘の7・7声明によって一挙にあらわになったかにみえる問題は〈差別〉概念と〈階級〉概念の背離として、すでにその以前から進行していた。乱暴に分離すれば、ノン・セクトは、現象としてある〈差別〉に関わることを通して権力支配総体との闘争へのぼりつめることを展望し、党派左翼の側は、階級対階級の論理から、権力闘争の総体性を政治権力打倒闘争として展開することに、現象としての〈差別〉との闘いは組みこまれるべきものだと考えた。ここに背離が生れているとすれば、それは〈差別〉認識が、それ自体としては現実の支配構造の把握に進みえず、現実の支配関係の本質としての階級性に対しては、党派左翼の「階級」概念が、「階級」像の先験性と「階級意識」の主観性へ二重化することにより、現実の支配構造の解析能力を喪失していることを意味する。だが、〈差別〉を、因習や前近代性の残滓としてではなく、近代社会の必然的な属性としてこれを問題にする限り、現象としての〈差別〉が、いかなる階級関係の産物であるのかを解明しなければならない。そして、そのためには、「階級」概念が、〈日本の中の日本〉という世界に限定されてきたその歴史規定を越えて再構成されるほかはないのである。その作業抜きには、〈日本の中の非日本〉という存在はあいかわらず「階級」概念の射程の他に放置される以外ないし、そこで権力打倒闘争を箇別課題闘争よりも優位におくとき、それは、ノン・セクトの諸君がいう「党派エゴイズム」というようなケチな問題ではなく、〈日本の中の日本〉の、〈非日本〉に対する優越性として現実にはあらわれざるをえないのだ。そして、この点を超えるには、その「階級」概念は、理論的にいえば「賃労働対資本」という原理レベルから、「国家」の政治水準へ押しあげられねばならず、これを思想史の側からいうなら、日本マルクス主義のヨーロッパ的性格(近代主義的性格といってもいい)を対象化することが求められている、ということができる。



 さて、ようやく〈国境〉というあやしげなタームをさらに拡張しなければならない地点へやってきた。〈日本の中〉の〈日本と日本の中の非日本〉という形であらわれる差別は、乱暴を承知でいえば〈国境の中の国境〉である。そして、日本帝国主義100年の歴史の中で、〈非日本〉とは、例外なく日本資本主義の産業予備軍の世界であった。〈部落〉が明治以降その人口と規模を拡大し、またスラム人口が拡大してきた事実はこれが産業予備軍のプール装置にほかならぬことを意味する。また在日中国人・朝鮮人、特に朝鮮人が強制連行・強制労働によって日本に住みついたことは周知の事であろう。「朝鮮人と琉球人おことわり」という〈差別〉は、日本資本主義の労働力支配構造の中で、沖縄と朝鮮のおかれていた同位性を物語っているのだ。
 だが、こうした国内の産業予備軍の存在は、同時に、国境を越えた労働力支配との関係で、はじめて歴史的に成立する。そして「国境を越えた労働力支配」とは、「資本の輸出」をいいかえたにすぎない。つまり、日本の中の非日本の存在・国境の中の国境の存在は、その歴史性格において、まぎれもなく帝国主義的支配の様式そのものなどである。いわゆる施設権・領有権境界としての〈国境〉は、帝国主義の運動論理の中では〈国境の中の国境〉と、そして、国外労働力市場圏を意味する〈国境外国境〉とをあわせもつことによってはじめて現実的な意味を持つものとなる。沖縄施政権返還と、入管令の改悪と、そして中国問題が同時的に政治過程にのぼってきたのは決して偶然ではない。そこに今日の日本帝国主義の運動の局面がむきだしにあらわされ、帝国主義的国境の確定の焦点が〈沖縄問題〉として表現されているのである。
 もしもこのとき、「国内」は階級対立・「他民族」に対してはレーニン・モデルの「民族自決権」論でふりわけ、“告発”されるたびに“自己批判”を繰りかえしてみても、それは「一億総ザンゲ」の亜種でしかないことはあまりにもあきらかだ。そしてその「国内」と「他民族」の区別の論理は、「階級闘争」の構図そのものを「城内階級闘争」へ変質させてゆくほかはあるまい。新左翼もふくめて一切の革命的政治集団が第二インターへ転落する危機性とは、まさにこうした事態にほかならない。「城内階級闘争」か「国境を越える革命」か。日帝打倒は日本の革命的階級の任務だとしても、その革命的階級は、〈国境〉を超えることによってしか自らの国家を総体として対象化しえず、自らの〈革命〉を展望することはできない。そして、踏みこえるべき〈国境〉が、今〈沖縄〉として眼前にあるとき、われわれの、〈沖縄闘争〉は、自国の階級闘争を〈世界〉へ拓く通路の問題としてあるのだ。私たちがその中で育ち、生き、そしてその擬制と虚偽に対して闘ってきた戦後憲法体制を超えてゆくこと、三重の国境を踏みこえることを〈沖縄闘争〉は問いかける。
 余談になるが、那覇へ向う「とうきょう丸」が27度線をこえたとき、雨のちらつく上部甲板の手すりにもたれて東支那海をながめながら、私は「とうとうやってきた」というざわめきが躰の中を走ったときの気持を今も忘れることができない。川崎の製糖会社に勤めているという青年が、私に歌を教えてくれた。
   〈東支那海前に見て、われらの生きた土地がある
   この土地こそはわれらが生命
   一坪たりとも、わたすまい〉
 東京の「歌ごえ運動」の歌と大して変らないふしまわしは気になったが、それでもその時はこれがテーマ・ソングになった。「とうとうやってきた」−−沖縄へ、というより、東支那海へだ。「東支那海」に私は感激していたのだ。27線によって「平和憲法」から遮断されたこの海の海の名前だけは「東中国海」ではなくてまぎれもない〈東支那海〉であった。
 「海の彼方にゃ支那がある。支那にゃ4億の民が待つ」(馬族の歌)−宮崎滔夫『三十三年の夢』をかばんにつめて、私はほとんど心情のアジア主義者であった。27度線をこえて、わがヤマト帝国はすでに東北の海の彼方にあり「平和憲法」のおよばぬ地点からヤマトを見たとき、同時に「平和憲法」25年の彼方が、かいまみえたと私は感じたのである。
 だが、心情のアジア主義の“感激”などは、たわいのないものにちがいなかった。沖縄から戻ってから読んだ大江健三郎の『沖縄ノート』は、〈みにくい日本人〉たちの一人としての私に、奇妙な真面目さで無理心中をせまってきた。その無理心中の論理をふりきるために私はかなり消耗した時間を費やさなければならなかった。



 戦後憲法体制がそのうちに日本の中の〈日本〉と〈非日本〉の差別構造の安定性を形成するものであったことはすでに述べた。その〈非日本〉の中での、〈沖縄〉と〈朝鮮〉あるいは〈中国〉は、それぞれの内部での統一性を持つことによって、同時に日本の中の〈非日本〉として安定構造のうちに存在したのである。ただ、〈沖縄〉は〈日本〉を(日本の中の〈日本〉を)「祖国」とし、在日朝鮮人・中国人はそれぞれに「朝鮮」、「中国」を「祖国」として、それぞれの祖国概念が、それら〈非日本〉の統合の基軸をなしてきた。
 だが今、そうした統合軸がほとんど同時的に危機の様相をあらわにしつつある。華僑総会から華青闘が、韓国民団から韓青同が、そして復帰協の中から国政参加粉砕共闘が生み出された過程は、日本の中の〈非日本〉が、各々の統合の安定性を喪失しつつあることの具体的なあらわれであり、同時にそれは、日本の中の〈日本〉と〈非日本〉の関係それ自体の安定性が危機性へ転化しつつあることを意味する。華僑総会・民団・復帰協等は〈非日本〉の統治機関にすぎないことが告発され、こうして〈非日本〉は、逆に〈日本〉そのものをはじめて根源的に対象化することによって自己を表現をするほかない地点へ歩み出たのである。
 当然にもこうした過程は、日本の中の〈日本〉そのものの内部危機を同時的に伴わざるをえない。今、どちらが原因でどちらが結果かを議論することは大した重要性をもたない。ただし、この危機の構造が総体として表現するものは、一般的な政治危機・政治危機なのではなく、まぎれもなく〈国家〉的危機なのであり、箇別的にはどれほど国内政治上の現象にみえようとも、総体としては、世界資本主義の現過程がひきおこしているところの同時性・世界性のひとつの表現以外のものではありえない。沖縄人民の、そして在日アジア人民の闘争と日本の階級闘争がもつ共通の性格は、ただ世界史的位相における共同性・共通性としてのみ、これを把えることができる。
 だが、ここでは二重の作業が課せられていることを確認しなければならない。
 第一には、在日アジア人民や沖縄人民と日本階級闘争の共有しうる普遍性が世界史的位相を持つものであるということから、ただちに、現代の世界認識・世界把握の方法が問われているという点である。危機の世界性・同時性は、戦後世界体制の秩序そのものの危機である以上「平和共存」あるいはその裏返しとしての「反帯・反スタ」は、世界認識の方法として考えた場合には無力であるばかりか反動的なしろものにすぎないことはあらためていうこともないであろう。
 第二に、しかし、各々の闘争の客観的基盤をなし、その条件をなすところの危機の普遍性は、その闘争自身の共通性を自動的に保証するものではありえない。旧来の統合軸が解体にさらされているとき、そこでの闘争は、いずれにせよ孤立を強制されざるをえないし、したがってまたそうした孤立の闘争の間に、共通性を見出して、その共通性を連帯の論理へ形成することを展望するのは、完全な錯誤なのだ。現下の後進国解放闘争と、帝国主義の世界の大衆叛乱がそうであるように在日アジア人や沖縄人民の闘争と〈日本人〉の闘いが連帯を語りうるとすれば、それは祖国の共通性に於いてではなく、相互の異質性の相においてはじめて可能なのである。
 いうまでもなくこのことは、古典的自決権論の論理とは完全に異質な問題である。古典的自決論は、それぞれの民族国家の階級関係の安定性を前提としている。いまの私たちの議論は、こうした階級関係の安定性それ自体が危機をはらんでいる時代における階級闘争の論理を問題にしているのだ。
 これまで、私たちは、問題の模索の過程で不正確な用語をあえて用いてきた。「対日民族問題」(社学同パンフ)あるいは「民族形成」(本誌昨年六月号)等々の用語は、その字づらだけからすれば、沖縄独立論の用語とおもわれてもやむをえなかったであろう。だが、正当な読解力を持ちあわせた読者ならこうした字づらからではなく、行論総体からわれわれの主旨を把握することもできた筈である。
 私たちは、沖縄独立論に対しては完全に否定的である。しかしそれは、多くの独立論批判が言うように「独立してしまったら喰えなくなる」などという理由からではない。独立論批判は、沖縄の権力分析において、いずれ別の機会に展開してみせよう。だが、私たちの、従来の議論に対して、復帰に反対なのか、反対なら沖縄をどうするのだ、結局独立論なのだろう、と、いい気に、なって・批判・したつもりの連中に対しては、我々の見解を対置しておくべき時であろう。
 「復帰に反対なら沖縄をどうするのだ」という問題のたて方自体が完全に虚偽である。ここでは「復帰」にせよ「独立」にせよ、ありうべき沖縄社会のブルー・プリントとして発想されているのだ。だが一体誰が沖縄のブルー・プリントを語れるというのか。ブルー・プリントを復帰でも独立でもよい、語るとすれば、それは「沖縄問題」のブルジョア的が解決が可能だということを前提としているのだ。そのような意味で「復帰」が可能なら、同じように「独立」も可能である。けれども、七二年施政権返還は、沖縄人民にとっても、私たちにとっても、“選択”の問題として存在しているのではない。それは帝国主義の攻撃として、換言すればその客観的運動論理として進行しているのであり、沖縄の人民にとって選択可能条件をもったものではありえないのだ。政治制度の水準での選択など、沖縄住民にはかつて一度も許されたことがなかったし、そして今もそうだからこそ、七二年返還を私たちは、第三次琉球処分と呼んできたのである。〈復帰か独立、はっきりしろ〉−ざまあみろと言わんばかりの“批判”はただちに“批判”者どもへハネ返る。おまえたちは、沖縄のブルー・プリントを描くほど、現実の政治過程からかけはなれた存在なのだ(19)、と。



 問題は、沖縄プロレタリアートが、現在の攻撃の前でどのような政治選択によって自らを帝国主義打到の主体として自己を組織しうるか、という点にあり、同時に〈ヤマト〉のプロレタリアートは、いかなる連帯性において、日本の中の〈日本〉としての歴史規定を超えうるのか、という点に凝縮されている。そして、この〈沖縄〉が日本の中の〈非日本〉として、〈国境〉として日本文化圏に対峙している位置から出発するとき、〈日本〉プロレタリアートと〈沖縄〉プロレタリアートは、相互を射程にふくみつつ独自の階級形成の回路をたどる他はありえない。
 吉本隆明の《異族性》というターム(『情況』所収「異族の論理」参照)は、タームとして私たちが使うのにはべんりすぎる。それは、沖縄の闘争者にとっては、重い衝撃を秘めていただろうことは間違いない(20)が私たちにとっては、衝撃の重さは二重であるために、使ううちにかろやかなべんりさだけしか手元に残らない危険を秘めているのだ。本稿はそうした危険を回避する意図も含めて、あえて日本の中の〈日本〉と〈非日本〉という、あまりゴロのよくない言葉を用いてきた。だが言葉の選択はまあどうでも良い。かっこいい言葉を振りまわして何かいいこと言ったような気分におちこまなければ何でも構わないのだ。
 だが決して構わなくないのは、沖縄プロレタリアートと〈日本〉プロレタリアートの自己形成が異質な回路をもたざるをえないという点にかかっている。等しく日帯の統治下におかれているとはいえ、まさにその統治が分断と差別をふくんでいるとき、相互を射程にふくんだ独自の回路を選択することだけが、日帝打倒への唯一の現実性である。
 〈本土〉の党派が〈沖縄〉に「支部」を組織することに、私たちが一貫して反対しているのは実にこの点にかかっている。こうした組織は、〈日本〉の中に「一体化」することをしか意味しない。私たちにとって、〈世界〉へ通底する回路としての〈沖縄闘争〉を「国内階級闘争」にくみ入れてしまうことは、たとえそれが階級闘争の名において語られようも、帝国主義政治の一体化過程を左から補完する役割を果すだけである。

 「これまで祖国復帰を目標に文字通り全県民的な運動を盛りあげてきた。……しかしながら卒直にいって、過去の戦いは“沖縄を祖国に返せ”という……民族闘争の域を出なかった。……今後の反戦復帰闘争は、われわれ労働者階級を中心とする県民大衆が階級的なと視点をガッチリ身につけて発展させていかなければならない」

 これは沖縄社会党運動本部長の発言である。社民でさえこの程度のことは言うのだ。だが「階級的な視点をガッチリ身につけ」た「反戦復帰」は、労働組合の本土組織への統合として進行している。それは全軍労を例にとれば「本土並み」間接雇用としてあらわれ、全軍労労働者の闘争を、東京における全駐労と防衛施設庁の交渉ルートへ吸収する結果となることは明らかであろう。沖縄労働運動の本土一体化は、直接にその戦闘性の解体と、日帝支配への屈服となるほかはない。こうした政治過程に抗して闘う論理は、沖縄プロレタリアートが〈日本〉文化圏を媒介にすることなく独自に世界史へ自らを登場させる以外にはない。だがこうした闘争の指導部が、どうして〈日本〉の政治集団の一地方支部ありえようか。それは、日本階級闘争を政治射程にふめくて成立する独自の政治集団であるほかはないのだ。

 沖縄階級闘争は、昨秋10〜11月の「国政参加」をめぐる政治過程のうちにこの問題をついにあからさまに表示した(国政参加粉砕闘争に関しては『京大新聞』1500号が正確なルポを掲載している)。今年のはじめからゲバルトにまで至った現地中核派と中部地区反戦の衝突は、その直接の帰結である。

 独自に世界史へ登場する沖縄プロレタリア運動と、まさに〈異質〉の相に於いて連帯しうる日本プロレタリア運動とは何か? それは第二次新左翼運動が〈暴力〉のうちに復権させた国際主義のわきばらにつきつけられた匕首のような問いである。それは第二次新左翼運動が提起した問題の具体化でありながら、その具体性に解答することは、すでに第二次新左翼運動の射程をこえた領域に属している。
 〈権力〉とは、60年代の私たちの闘いの中では、上から重たくのしかかる何物かであった。その重圧に対する暴力的闘いの中に、われわれは、〈世界〉への通路を直観した。しかし、〈権力〉は〈権力〉一般ではなくてまさしく〈国家〉であり、その「国家」は「国境」が問題になったときにはじめて、「国家」としての相貎を全的にとあらわしはじめたのである。〈国境〉とは権力支配の〈辺境〉であるだけではない。その〈国境〉が不気味に蠕動を開始するとき、それは〈国家〉総体へ波及する運動論理をもってあらわれるのだ。
 60年代後半の革命的左翼が語りついできた「反帯闘争」は、ここにその十全の課題を与えられたのである。〈国境〉の蠕動運動のうちに総身をあらわしたものこそ、「帝国主義」そのものなのだ。国家権力の帝国主義的動向との闘いの敗北は、自国プロレタリア運動にとっての敗北にとどまらず、〈国境〉をこえた他国の人民の頭上へ新たな抑圧となってあらわれる。人管闘争の過程で、65年日韓闘争が、「注的地位協定」と闘う論理を持たなかった結果が、60年代後半の人管体制の反動化として在日外国人のうえにあらわれた事実が明らかにされた。これをいちはやく日本階級闘争の「民族的責任」として把えたのは、ノン・セクトの活動家であったが、今、70年代へ向けて開始された日本帝国主義の自己運動との闘争展望を追求するうえでは「民族」概念そのものが再度検討を要求しているのであり、したがって、問題は「階級闘争の結果の国際性に対する責任」の位相において把えかえされなければならない。第二次新左翼運動の終焉と第三次琉球処分の政治過程のうちにしだいにそのりんかくを明らかにしつつある。
(三月十五日)

●追 記
 第三次琉球処分の現過程の分析と、そして最近の諸闘争の評価は一切省いた。現地の諸闘争は、現地の闘争者自身によって語られるべきものであり、東京からあれやこれやの評価を行なうべき対象ではない。また72年へ向う政治−社会総過程の分析は、「情勢分析」の範囲をこえた問題をはらんでおり、別のテーマとしてとりあげる以外にはない問題だからである。
 おそらくそれは、沖縄の権力支配の構造分析の作業を要求するであろう。同時に、沖縄の社会再編は、かつての明治の琉球処分がそうであったように、「沖縄」で完結しうるものではなく、直接にアジア的射程の問題としてのみ存在する筈だ。したがってそこでは再び国境を問題とせざるを得ない。
 本稿における〈国境〉、〈国境の内の国境〉、〈国境の外の国境〉などという表現の拙劣さには、われながら嫌になる。だがそれにしても、数多くのマルクス主義国家論が「国境」なんかに一言も触れていないのは、一体どういうことであろう。国境なき国家などが、に果して存在したのだろうか。おそらく従来の「国家論」は、〈国家〉の原理規定のレヴェルの〈論〉であるのに対し、階級闘争の現実過程が問うのは、国家の実熊的存在様式なのだ。論理の位相が異なっているのである。レーニンでいえは、われわれは『国家と革命』ではなく『帝国主義論』をこそ国家論として読まねばならないのかもしれない。

≪注≫
(1)新崎が消耗したのは革共同のせいでも誰のせいでもない。彼自身の責任だ。私たちは一年も前に親切に注意しておいてあげたでしょ。「新崎には、イデオロギーや運動の論理の状況を、階級基盤・階級関係の側から説明するのではなく、その逆の方向の論理だけがある。それはマルクス主義でもないし、科学的立場でもない。中野好夫との共著『沖縄問題二〇年』の方が、方向こそちがえ水準ははるかに高かった。新崎に忠告するが、妙に左傾したりするのはやめて、中野好夫を超える道を真剣に追求した方が、将来のためである。」(社学同パンフ『七二年沖縄返還=第三次琉球処分と全軍労闘争』70年3月発行−社学同は編集・発行にのみ責任を持っており、執筆には関係ない。念のため)
(2)「米国軍占領下、南西諸島及其近海人居住民二告グ『権限の停止』」(ニミッツ布告・米国海軍軍政布告第一号)南方同胞援護会編『沖縄基本問題資料集』291頁。
(3)この誤認の権威あるサンプルとしては、国際法学者宮崎繁樹の「沖縄分断の法的構造」(中野編『沖縄問題を考える』所収)がある。明大学費闘争の弾圧者宮崎(当時学生部長)は、こうして明治大学の秩序の維持者であると同時に、沖縄住民に対する敵対者の一人でもあるのだ。
(4)『甘蔗伐採期の思想』現代思潮社・63年刊101頁。
(5)前同102頁。森秀人のこのあざやかな分析と批判を「はじめて見た」などという者は、なまけ者でなければモグリである。私たちは毎年この森秀人を引用・紹介しつづけてきて、これで三度目だ。69年7月『叛旗』二号、70年3月、前出注(1)社学同パンフ、そして本稿。
 知識人たちも政治組織も、一人の文学者の鋭い問題提起に目もくれずに居直り続けてきただけだ。だが何の上に? サンフランシスコ講和体制の上に、「平和憲法」秩序の上に、「平和と民主主義」のソファーの上にだ。その下に、沖縄人民のうめきが敷きつめられてしいたというのに。何が「連帯」だ!
(6)日清戦争に関する規定は、(1)日清間の朝鮮分割戦か、それとも(2)封建宗主国清からの朝鮮の解放戦争か、という形で今だ結着をみないまま、歴史学界では放置されている。日露戦争が、古典的帝国主義戦争の図式にピッタリ合うのに対して、日清戦争はそうした図式では間尺が合わないのだ。歴史学界などというものが結局のところ図式による過去史の分類かあるいは史料考証技術しかつくりだしていないことを物語る格好の例であろう。
 問題は、日本の国家権力が過度期の政体形成にずば抜けた能力をもってきた、その極点としてのあの天皇制に関わっていると思われる。天皇制国体こそが、近代国家への移行期とそこ後の政体の基軸をなした点について、ついにまともな理論展開をなしえなかった歴史学者たちが日清戦争を把握しきれるわけがないのだ。
 〈国家〉自体が問題になるのは、外部との関係に於いてのみである。国内的に問題となるのは〈国家〉総体ではありえない。日清関係を軸とした明治初期の対外関係の中で換言すれば世界資本主義がまさに世界資本主義たろうとする歴史的時代の中での日本の近代を司る権力=国体としての天皇制の確立のメルクマールとしての日清戦争を問題にする以外にはない。
 日本のマルクス主義史学のこの貧困さは、マルクス主義権力論自体の脆弱性であり、それは今日の新左翼にもそのまま引き継がれている。私たちはいずれ沖縄の権力支配分析に於いてそのことをとりあげるだろう。ここで一言しておくなら、60年代に登場した危機論(「ファシズム論」)のすべてがこの範疇にある。ファシズムは、快して国内的危機に対する一国権力の反動化なのではない。それは危機の世界性に対する、権力の反革命なのであり、世界戦略(「第三帝国」「大東亜共同体」等)としてのみ登場するのだ。一国権力の反動化は、世界戦略ではない。言いかえればそれは政府危機・政治危機ではあっても、厳密な意味での国家危機ではないのである。
(7)この期の議論は、当時の私がもっとも注目したものであった。代表的な文献としては、咲谷漠(長崎浩)「戦後的政治過程の終焉」共産同統一委『共産主義』復刊一号。井汲多可史「戦後民主主義と学生運動−安藤紀典批判」『現代の理論』66年3月号。吉本隆明「戦後思想の荒廃」『展望』65年10月号。
(8)宇野学派の二つの流派、大内国独資論も岩田世界資本主義論も、この点に関する限りなんら選ぶところはない。私たちが一般的な〈情勢分析〉をこえて、〈世界認識〉自体が問われている水準へ自己を押しあげたとき、安保ブンド以来の「宇野経済学」の理論範疇をこえた課題に直面したのであった。
(9)危機の構造は、東欧に関しても類似している。
 ただ現局面での「社会主義」国家群の危機は中国を別とすればヨーロッパ的規定性を強く刻印されており、後進国問題の位相はもちろん異なったものである。しかし現下の後進国の経済的枯渇それ自体は、〈帝国主義の苛酷な収奪〉にのみ帰せられめるべきものではない。戦後の東西双方からする「援助競争」そのものの結果であり、援助資本の投下が民族資本とその政権の買弁化を推進し、資本の代りに貧困が蓄積される、そうした構造を産む過程には東の援助も西の援助も、果した役割に変りなどあろう筈もないのだ。
(10)かつてのアメリカ国務省は、49年中共の政権獲得をまえにして、中共の勝利を読みとり、中共こそ、中国の政治担当者に他ならないという判断に立って『中国白書』を編纂している。蒋介石政権が中国の近代化を旗印としながら、たちまち買弁政体と化し、中国社会の近代化を担う能力を喪失していることに、ニュー・ディール派のアメリカ人は完全に絶望したにちがいない。(蒋介石とその軍隊の性格が、歴代支那社会の軍閥を継承しているものであることは、その台湾統治の中にも純粋に表現されている。揚逸舟『台湾と蒋介石』参照)
(11)世界戦略としての開発路線は、帝国主義現代の世界戦略として、ただアメ帝のみがそれを政治方針化する能力と資質を持つものであった。ヨーロッパ諸国の日本分析と、アメリカ側からする日本分析の性格の差の中に、それは明瞭に看取しうる筈だ。戦後から50年代初頭に至るアジアの武装革命に対する介入は、旧宗主国・英・仏・蘭とっては、戦前型植民地構造の復元を意図したものであったが、アメリカ帝国主義にとっては、すでに古典的植民地支配と異る路線のうえにたてられたものであったことは、前注『中国白書』の内容からしても推察可能である。そして事実、買弁化したゴ政権に替えて、ク−デターで擁立したチュー・キ政権も又買弁化への道を歩みつつあるという判断のもとに、アメリカは、チュー・キ政権のたてなおし工作と並行して民間の、「民主化運動」の組織化にも手をつけてきた。サイゴンで都市民衆運動のヘゲモニーを持つアン・クワン寺院はCIAの直轄下に解放戦線派と共同戦線を張って「民主連合」運動を展開してきた。だが、こうした情況は、情勢そのものがすでにのりこえている。サイゴン学生運動は、仏教徒の指導を超えて、都市ゲリラ戦へ前進した。
 解放戦線の指導下の闘争が、このように、CIAとの共同行動を経て民衆の武装闘争へ押し上げられてゆくこの闘争の質は、おそらくはあれこれの指導者の恣意をこえて、現代の武装解放闘争それ自身の運動論理なのである。
(12)事実70年の夏以降、日本の繊維産業は、商品輸出から、後進国へのプラント輸出へ転換を開始した。すでに韓国の保税加工地域が日本の繊維産業にとってメリットを持つ時期は終りをつげており(『世界週報』70年3月10日号)、台湾および東南アジアへ向かう以外にはない。日本資本主義形成期から、戦後第I期まで、日本の蓄積構造の根幹をなしてきた繊維産業は、こうした強制された条件の中で質的転換をとげつつある。次に見る鐘紡の例はひとつの典型例であろう。
 「東南ア市場に進出する場合、現地の技術水準が低くたとえ工場を設置しても生産を軌道にのせるまでかなりの時間が必要だとされている。これではせっかくすぐれた生産設備を持っていっても十分に生かすことができない。そこで鐘淵紡績ではあらかじめ日本で現地採用者を教育し、教育後ただちに現場の監督者として配置し海外事業の運営にあたらせている。あわせて人事など管理部門の責任者を派遣して経営管理の強化をはかっている」(『日刊工業新聞』1月12日付)
(13)北原和夫「米系石油資本の沖縄進出」『アジア』70年2月号依田洋・海津文夫「東洋石油闘争と横浜方式」『共和国』第三号参照。
(14)注(1)の社学同パンフ第二章「アジアの帝国主義支配の再編と日本帝国主義」および川田洋「日本帝国主義と沖縄」『現代の眼』70年10月号参照。
(15)大井憲太郎らの「自由党大阪事件」が、「民衆蜂起」のうちにかぞえられるべきものか否かは問題があることは承知している。ただ、西南戦争に至る旧士族の叛乱から区別された10年代の一連の変革行動のひとつとしてここにかぞえたにすぎない。
 本稿とは又別のテーマに属する事柄であるから評論はひかえるが、甲申事変後の民衆の清に対する敵愾心と主戦熱の高潮を見た民権挫折派が、この民衆のエネルギーを国内改革へ振り向けようという思考にとらわれたことは、今日なおきわめて教訓的であることは確認しておかなければならないだろう。大衆の反清感情を利用して「日本人の手による“朝鮮改革”」を行ない、そうした国内緊張から内政改革の機会を作りだそうという、大井・磯山清兵衛らの思考は、民権運動の急進派がたどった転向のコースであった。ここではすでに朝鮮改革は日本革命の手段になりかわっている。
 昨年、「奪還」派が「日帝のアジア侵略を内乱へ転化せよ」というスローガンを打ち出したとき、私たちはアゼンとせざるをえなかった。これが、「帝国主義戦争を内乱へ」なるレーニン・テーゼのゴロ合わせとしてひねりだされたのではなく、本気でこのように考えているとすれば、それは、大井憲太郎らのたどった道の現代版ではなくて何でありえよう。いや、ひとり「奪還」派のみではない。聞くところによれば、沖縄の地では、「極東派」や「大合流派」は、ヴェトナム革命が朝鮮半島に飛火しなければ日本プロレタリアートは決起しないだろうとして、後退論をとなえているという。まあまた聞きだから事実と異するなら取消すが、それにしても他国の革命に自国プロレタリアートの決起の条件を展望するという期待主義は、一転して他国の革命を従属させるエゴイズムにただちになりかわりうるのだ。
 あれこれの“アジア革命派”に対しては、機会あるたびに「日本の革命運動にとってアジアは鬼門であったことを忘れているととんでもないことになるぞ」と警告してきたつもりだが、ここでももう一度くりかえしておく。そしてここでもまたリトマス試験紙は“中国”であることをつけ加えておこう。“大合流”派にとっての毛沢東思想や「中国」は、ヨーロッパ人の東洋的神秘と大したちがいはないし、「極東」派や「東アジア革命」派となると、〈中国〉の影も形もみえない “極東”だの“東アジア”だのがとくとく語られるのだ。60年安保の国会論議じゃあるまいし、「極東の範囲」についておしゃべりするヒマはない。地図を広げて、よく見てみな。
(16)(上)2月1日付「とけあう血――石垣島」、(中)2日付「だれのもの――尖閣列島」、(下)三日付「離島抵抗――下地島」。
 沖縄問題に関連して〈国境〉という言葉をたとえ無意識にせよ使ったのは、私の知る限りこの連載ルポが唯一のものである。
(17)島尾敏雄・谷川健一らの提唱する「ヤポネシア」論は、こうした「第三次琉球処分」の政治・社会過程との位置関係を明らかにしえないなら、自己結した〈文化論〉へ転落する他はない。就中本論の指摘する、台湾・琉球間国境線の登場に対してどのようにこれをその文化論的視角から把えるのかについては、緊急に解答がせまられているとおもわれる。その地点で台湾、=沖縄同時解放論をたてきれるかどうか、その政治的位置に関する仕事はもちろん私たちが引き受けねばならない。日韓台共同反革命に対して、〈日本〉の左翼          と中共・金日成が結合しても対応しきれない領城を、「東支那海」はもっているのだ。それは、補足されるべき欠落ではなく、日・韓・台=反革命毛・金=日本左翼が、メダルの表裏のように位置している関係からはみだし、はみだしているがゆえにその「革命」のひめる反革命性を照射しうるような〈余剰〉の領城なのである。
(18)明治以後の標準後教育が持った性格は、「方言礼」の存在にあからさまに示されている。学校で「方言」をしゃべった生徒は、「方言礼」を首にかけられ、別の生徒が方言を使うのを発見したらその者の首にその札はかけられるのであった。だが、戦後沖縄での標準語教育もまったく同じことをやっていたことを現地で知らされた。私の会った労働者は、小学校時代に学校で方言をしゃべったために教師に便所掃除を命ぜられたことを話してくれた。もちろんこの教師は、教育勅語教育を行っていたのではない。栄光あかる教職員会のメンバーとして、アメリカの植民地的支配の中でも日本人としての誇を忘れぬようにと、日本語=標準語(共通語)を教えこんだのだ。
(19)バリケード闘争の中で、誰がありうべき大学のブルー・プリントを考えたか。教授会であり、日共=民青と右派であった。全共闘運動が歴史的意味を持ったのは、こうしたブルー・プリント発想が一切反革命的であるというテーゼを自らのものとしたからはなかったのか。沖縄のブルー・プリントを語ることのできる「新左翼」は、少なくとも学園闘争のときの精神を忘却したか、それなければ戦線逃亡をしていたかだ。
(20)新川明「<憲法幻想>の破砕」『現代の眼』70年11月号、同「<復帰>思想の墟妄」同誌71年1月号を参照。おそらく吉本隆明の「異族の論理」は誰よりも新川氏ら沖縄のインテリゲンチアによって武器として受けとめられたとおもわれる。いや、武器というのは吉本隆明のもちあげすぎだろう。ここは「啓示」とでもいうべきか。詩人にして革命的インテリゲンチアである新川氏らにとって武器は自らをとぎすまし打ち鍛えるほかないものであることは前提の筈だ。

『情況』1971年4月号所収

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