沖縄の自立解放について――復帰・併合・買弁勢力に抗して


〈目 次〉
 はじめに
 一 復帰運動を検証するために
   ・1 「祖国復帰」とは――反転する記憶
   ・2 未決の復帰運動――惑乱する記憶
   ・3 復帰運動の残骸・「沖縄イニシアティブ」
 二 自立解放への準備と前提について
   ・1 自立への迂回――「自治の衰退」の打開へ
   ・2 「沖縄特別県制」から「沖縄政策提言」へ
   ・3 自己統治としての「自治の再建」へ
 三 自立解放の政治潮流・勢力形成へ(未稿)




はじめに

  ……奄美大島から与那国島までの琉球弧の島々を対象
  とし、この地域の人々が固有な文化を継承しつつ世界に
  例をみない新しいタイプの独立国…わたしたちは、人類
  とりわけアジアの未来の歴史に、わたしたちが考え得る
  最も理想的な社会の成立する「地域政府」をこの地でつ
  くってみせようではないかと考えます。(二一世紀同人
  会『うるまネシア』第三号01.11発行)

 本年三月に「沖縄振興特別措置法」が成立した。七二年日本併合以来、三〇年間施行された「沖縄振興開発特別措置法」に代わって、「開発」の二文字を削り、「格差是正」から「経済自立」を謳い文句に作られたものである。課税特例措置による企業集積を狙った「金融・情報通信特区」の創設、自然科学系人材育成を目的とする「大学院大学」の新設などが柱とされているが、いずれも何ら新味あるものとは言えない。そもそも一〇年ごとの三次にわたる「沖縄振興開発計画」なるものは、「基地従属経済」「公共事業依存経済」を強めこそすれ、決して「経済自立」には向かいようがなかった。

 総額七兆円を超える国費投入は、その殆どがブーメランのように沖縄を経由し日本へ吸い上げられ、オコボレが沖縄を「潤す」という植民地経済の有り様を見せ付けた。「振興開発・経済発展」と「沖縄経済自立」とは似て非なるものであり、むしろ、敵対的ですらあった。『風をよむ』第六一号で我々は「経済的自立と政治的自立とは不可分の課題であり…政治的自立を欠くならば、経済発展が、そのまま日本資本への従属性を強める結果を招」く、と指摘した。

 名護市郊外での米軍による流弾事件が発生して間もない本年七月二九日、第九回代替協(注1)が首相官邸で開催され、九五年以降の闘いを押し つぶすように提起されたSACO(注2)合意での普天間基地返還が、名護東海岸・辺野古沖の美しい海と珊瑚礁を埋め立てて建設される巨大な海上軍事基地としてその姿を露わにした。

 「第三次琉球処分」(注3)と呼ばれた一九七二年の日本併合がもたらした「国内植民地」的支配の中、強大な日米帝国主義の軍事基地の存在とそれ故の格差温存の「依存経済」(軍事基地・公共事業・買収)の構造化による差別と抑圧という現実は、一方での数度にわたって改悪された軍用地特措法と、新たに制定された沖縄振興特措法を二本の柱に法・制度的に打ち固められた。ポスト冷戦も、日本支配階級は独自の戦略をもたないまま、米帝の世界戦略の一環に組み込まれ(従属し)、前方展開をも担う役割を果たすための新ガイドライン成立以降、周辺事態法から有事法制定へ突き進んでいる。「改憲」問題もかかる文脈に位置しており、沖縄の軍事基地が米帝主導の下、日米共同侵略反革命の前線基地(・軍事属領)であるという事態にいささかの変化もない。

 かつて川満信一は「琉球共和社会憲法C私(試)案」の前文を次のように記した。
 「九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って『戦争放棄』『非戦、非軍備』を冒頭に掲げた『日本国憲法』と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く、淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた。/好戦国日本よ、好戦的日本国民と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。」

 これは一九八一年段階での述懐ではあるが、本年四・二八の「命どぅ宝・平和世コンサート」の「サヨナラにっぽん・戦争国家ヤマトゥへの決別」と奇しくも重なり合う。
 とすれば、今確実に「戦争国家」への道を踏み出した――それは戦争関連法(PKO法・周辺事態法から有事法制定まで)だけでなく、国旗国歌法やメディア規制関連三法、国民総背番号制(住基ネット)など、ありとあらゆる人民統制・管理を目論む――日本政府に対して、軍事外交をも蚕食する展望を持つ分権思想の形成拡大を推し進め、日本帝国主義国家解体をも射程することは、ある意味で必要条件でもある。

 すでに沖縄の民衆は、日本という国家と社会を相対化しつつある。しかしそれを思想的文化的レベルだけでなく、文字どおり政治的レベルへと押し上げることが何よりも緊要の課題である。言われるところの「自立経済建設」も、政治的社会的自立に裏打ちされないままの、あれこれの「プラン」形成に終始するならば、全くの空語であることは強調しておきたい。(注4)

 沖縄・日本の労働者階級人民の連帯を組織しつつ、日本国家の亀裂・矛盾・対立の裂け目をこじ開け、押し拡げ、「沖縄人民の自決権支持」のスローガンを首尾一貫して推し進めるための準備を、理論的にも実践的にも創り出すことが問われている。


一 復帰運動を検証するために

・1 「祖国復帰」とは――反転する記憶


 仲里効は『月刊・情況』(11月号01)で “自立・独立論は、…沖縄の人々の最も繊細な歴史意識や記憶にまで想像力を伸ばして論じられなければならないでしょう。” と語った。
 それは、人頭税に象徴される薩摩支配、ソテツ地獄から「醜さの極致」とまで言われた沖縄戦へと引きずり込まれたヤマト支配の凄惨な記憶だけではない。第一次琉球処分以前の「琉球王国」と、第二次琉球処分の結果もたらされた「琉球政府」の二様の民衆的記憶の中にも刻まれている。古琉球の記憶まで遡及し、「唐ぬ世からヤマトぬ世、ヤマトぬ世からアメリカ世」と時代の流れ(嘉手苅林昌・注5)を噛みしめ、いま「あま世」(注6)を希求する民衆の細流を奔流へとまとめあげていく方途を模索する必要があろう。

 「脈々と受け継がれる琉球人意識や沖縄人意識などを考えると、琉球人は現在でもまた、日本社会に併合された異質な民であり、マイノリティとして生きる「在日」であることは否定できない事実だといっていい。それゆえに、琉球弧の島々が抱えている課題を解決するために、在日琉球人たちの中から、独立を目指して失われた国家や、さらに豊かな政治社会を夢見る主張が出てくる理由が存在している。……現代の琉球人たちは日本社会における異質なマイノリティとして存在し続け、日本人とは異質なものとして扱われてきた。そして、逆にそのことが新しい琉球人を生み出し続ける場をつくっている。近代以前に起原を持つ琉球人は、近代の歴史によって生み出された新しいグループを含みつつ、現在においても共通の時空を生きている。」(後田多敦『うるまネシア』第二号01)

 東アジア・北西太平洋に浮かぶ島嶼国家としての琉球王国の記憶は大交易時代・海洋民族の「夢」と結びついているだけだが、米軍政による植民地支配下での琉球政府時代の記憶は、「平和と民主主義」をめぐる自己統治のたぐいまれなる体験と結びついている。だがしかしヤマト(薩摩)支配が「日琉同祖論」を生み出したのとちょうどメダルの裏表のように、米軍政支配は「日本」という「祖国」を見出してしまった。

 琉球処分・皇民化・沖縄戦の記憶は、土地強奪と軍事基地の重圧と一切の民主主義的諸権利の剥奪という、戦後の沖縄を覆い尽くした米軍政支配へと引き継がれていった。五〇年代の全島を巻き込んだ土地闘争(島ぐるみ闘争)において、沖縄民衆は、新たな勇気と自信を創りだしていった。しかし米軍政への果敢な闘いがもたらす「希望」はまた同時に、圧政者への深い「絶望」も惹起したことを付け加えなければなるまい。いわば「孤立無援」の泥沼のような闘いが、沖縄/沖縄人としての自立・自決の必要性を醸成しつつも、しかしそれを掴み取る方向へとは向かわなかった。いわば「自立・独立」は「夢」としてしか記憶されることはなかった。

 「反米感情」とともに、異民族(=米軍政)支配による軍事属領・植民地支配に一切の災厄の根源を求めてしまったが故、「同民族たる日本」への帰属=「祖国復帰」こそが、そうした現実からの脱却の途であり、「平和」も「民主主義」も「豊かな生活」も約束するものとして沖縄の民衆を捉えてしまった。「平和と民主主義、よりよき国民生活」という日本の戦後革新のスローガンは、そのまま沖縄に持ち込まれたとも言えよう。こうして “「現状を脱したい」と願う自治権拡大の運動が「祖国」という〈地点〉を創り出し、「日本/人」を志向することが社会運動の潮流となった” (田仲康博『EDGE』第一二号)。

 仲里は自らが主宰する、その『EDGE』第一二号(01.2.10発行)において渾身の力をこめて「想像の共同体〈日本〉」を特集した。そこでは「〈沖縄の子ら〉はどのように日本人になったか/されたか」を執拗なまでに解きほぐす。仲里は、再併合(復帰)三〇年を前に、独力でもって「復帰運動」の総括を手掛けようとしたとも言える。第一次琉球処分以降の沖縄に対する国内植民地支配・「同化と差別」は、沖縄戦によって終わったわけではない。「皇民化教育」の尖兵が「復帰運動」の主導者でもあったのだ(注7)。沖縄の子らを「より良き日本人」に仕立て上げていった教師たちは、どのように意味でも免罪できないと言わざるを得ない。復帰運動の総括とは、近代を通して「日本/日本人」化の病巣を抉り出し、沖縄を「沖縄県」とし、沖縄人を「日本人」に鋳直すように造り上げてきたことを問い直し、「祖国復帰」のために一切を注ぎ込んでしまったツケを支払わないまま口を拭ってしまったことを明らかにすることでなければならない。

・2 未決の復帰運動――惑乱する記憶

 沖縄が日本を「祖国」として描き出そうとする「努力」は、当時は未だ「天皇メッセージ」(注8)の存在は暴露されてはいなかったとは言え、講和条約(いわゆるサンフランシスコ条約)第三条が沖縄を切り捨て(注9)、日米安保体制下での平和と繁栄を日本にもたらしたこと、とりわけ朝鮮特需をはじめとする戦後復興から高度成長へ続く日本の戦後が、アジア民衆の新たな屍の上に築かれてきたことを欠落させていった。

 ベトナム反戦闘争の全世界的昂揚は、沖縄闘争に対して一つの転換を迫った。新たな「島ぐるみ闘争」としての祖国復帰運動は、ベトナム反戦闘争と結びつき「反戦復帰」へとその様相を変え始めた。日本においても、六〇年安保闘争で「日帝自立論」をもって新しい地平を切り開いた新左翼と呼ばれる勢力を中心に、「日帝の侵略加担阻止」の闘いと媒介されることを通して、やっと「沖縄問題」を自らの主体的問いとして手繰り寄せ始めた。「沖縄を切り捨てた虚妄の平和」(新崎盛暉)や「醜い日本人」(大田昌秀)が日本の論壇に登場し、大江健三郎の「沖縄ノート」などとともに日本人の贖罪意識を広汎に呼び醒ましていった。

 決して比喩ではなく、戦場と隣り合わせで生きることを強いられた沖縄にとって、「日本」は憧憬の対象ですらあったが、そうした沖縄民衆との連帯を日本の民衆もまた「沖縄返還」闘争として絶大なる支持を形成してしまった。その限りでは「反戦復帰」も「沖縄奪還」も「祖国復帰運動」を左から支えるものであった。

 もちろん森秀人の『甘蔗伐採期の思想』などによる「祖国復帰運動」への批判を嚆矢とし、新川明や川満信一などによる「反復帰論」が新たに論壇に登場したことも付け加えておかなければならない。そして何よりも「在日沖縄人運動」の先駆ともいえる沖縄青年同盟(注10)の闘いを忘れてはなるまい。ただ、それらの影響は一部の新左翼と知識人を除けば微々たるものでしかなく、もはや誰にも押しとどめることの出来ない濁流としての「祖国復帰運動」に押し流されていった。「フリムン」の称号を付された野底土南琉球独立党)や「沖縄、ニッポンではない!」と叫んだ竹中労(『琉球共和国』三一書房72/復刻ちくま文庫02)とともに。

 「平和」「民主主義」「豊かな生活」――この三題噺は「復帰運動」のキーワードである。
 「平和」。もはやこの言葉の喪失感は隠しおおせない。「平和のための戦争」が声高に語られ、沖縄においてさえ「非武の島」や「命どぅ宝」が虚妄の言説視される。「民主主義」。これは「制度」でしかない。美しい物語をもたらすが、「制度」に込められた夢として「民主主義」が語られ、そうすることで人々は脇に追いやられた。そして「豊かな生活」。

 今ここで「物呉ゆすど我が主」という言葉を持ち出すのは穏当さを欠くかもしれない。しかし、これを避けては沖縄、そして日本の未来を語り得ないと思う。「基地容認への転換は現状を打破する切り札」とする稲嶺県政とそのブレーン達(いわゆる「沖縄イニシアティブ」(注11))は、「振興策」=日本政府の買収資金をあてにした「選挙戦術」でしかなかった「県政不況」なる標語に自らも呪縛された。「もっと基地を!」と彼らが叫ばざるを得なくなるのは火を見るより明らかだろう。もちろん「公共事業」にすがりつくことでしか今を生きられないと観念する人々には、麻薬であれなんであれ「物呉ゆすど我が主」なのか。出口を見失った「不況」に喘ぐ日本政府が、買収資金の財布の紐を締め始めたら一体どのような「イニシアティブ」を「沖縄」は発揮できると言うのか。

 復帰運動の総括に際して、エピソード的ではあれ極めて重要な問題を指摘して置こう。それは日米共同謀議としての「日本の沖縄施政権返還」がテーブルにあがった頃、流布された「イモハダシ論」である。これは現在の沖縄の自立解放闘争の行方を見定める時に、多くの示唆を与えてくれる。
 おずおずと提唱された「復帰時期尚早論」とともに「今、復帰すれば、沖縄はイモハダシの生活に戻る」という、いわゆる「イモハダシ論」が流布された。それに対して、当時「イモハダシの生活になろうとも祖国に復帰することが沖縄県民の願いである」という解説がなされた。つまり、日本ナショナリズムに連れ添うように「祖国に復帰することが最大の悲願である」というわけだ。果たしてそうか。そうした心情が皆無であるとは言わない。しかし、圧倒的多数の沖縄の民衆は「日本人の一員になれば、今よりははるかに豊かになる」ことを信じ込んでいた。しかし、「豊かさ」などは所詮、相対的なものでしかない。そこでは「豊かな日本の中での貧しい沖縄」という「格差」しか問題にならなかった。この「格差是正」の呪縛から沖縄は今も逃れられていない。

 復帰協の中心を担った公務員達にとって「本土並み待遇」は垂涎の的だった。例えば、六〇年代を通して日本詣でを繰り返した沖縄教職員会の教師達は「本土」の教育環境の素晴らしさに目を見張ったという。彼らの主導する復帰運動はいとも簡単に「イモハダシ論」をデマとして退けられたのだ。そして、日本人になることで「平和」も「民主主義」も手にし得るという新しいデマを流すことに専念した、といえば言い過ぎか。

・3 復帰運動の残骸・「沖縄イニシアティブ」

 屋良から(「土着派」と呼ばれたが病気のため短命に終わった)平良を挿んで西銘へ、そして大田県政とその暗転から稲嶺の登場へ。

 「沖縄が『歴史問題』を克服し、二十一世紀において新たに構築されるべき日本の国家像の共同事業者となることである」。こうした沖縄版「歴史修正主義」とでも言うべき三百代言風の言説(「沖縄イニシアティブ」)は、「一九七二年当時も、現在も世論調査でみた県民は復帰を評価、支持している。」と豪語し、「新崎盛暉氏が『沖縄の民衆は、復帰それ自体、日本国家への帰属それ自体を目的にしていたのだろうか。そうではあるまい。「平和憲法下への復帰」というスローガンが表現しているように、復帰は、米軍事支配からの脱却の手段として選択されていたのである』との主張もおかしい。県民は、米軍統治からの脱却を含めてトータルとして日本復帰を選択したのである。」(大城常夫「沖縄タイムス」00.6.14)と一蹴する。

 西銘が「海洋博」「CTS建設」で馬脚をあらわした「復帰知事」の後を引き継ぎ登場したが、日本政府は「復帰措置」のムダ金を費消する「日本の四七番目の県」として見なした。西銘が当選した七八年は、「復帰五年後」の公用地法期限切れをなんとしてでも延長させるために地籍明確化法なるものをなりふり構わず成立させ、非合法化した米軍用地強奪(いわゆる「安保に風穴をあけた四日間」)を何とか乗り切った七七年の翌年であり、「7・30」と呼ばれた「交通区分変更」の大混乱の年であった。そしてこの年を前後して各種世論調査は「復帰」を「良かった」とする層が「良くなかった」層を追い抜き、年々拡大していった。新崎は「復帰に失望した民衆」vとする小見出しの中で「復帰は、沖縄の民衆を、これまでとは異質の日本的秩序の枠に組み込むことになった。」(『沖縄現代史』96)と書き記した。復帰に「失望」しつつ、しかし「復帰は良かった」とする民衆が西銘を選択した。この段階で、はっきりと復帰勢力は沖縄民衆から見放されたのだ。

 八六年「日の丸・君が代反対県民総決起大会」が開かれ、翌八七年「海邦国体」において「日の丸」が焼き棄てられ、六月二一日、約二万五千人の参加で嘉手納包囲=「人間の鎖」が行われた。そうしたうねりを経る中、九〇年、湾岸戦争が勃発し、三期十二年続いた西銘県政が大田昌秀に取って代わられる。この大田当選は「保守の自滅ではあっても、革新の勝利とはよび難かった。」(新崎前掲)そして一九九五年九月、米海兵隊による少女性暴力犯罪が発生する。

 この少女性暴力事件を契機に、「復帰」後、最大の「島ぐるみ」闘争を生み出し、それは日本全土へと大きなうねりとなって波及。おしりも、米軍用地強制使用期限切れを迎え、不屈に闘い抜く反戦地主会とそれに連帯する日本・沖縄を結ぶ反戦反基地闘争、そして一方での大田県知事による代理署名拒否によって、一気に大昂揚を惹起した。
 しかしこの「復帰後最大の島ぐるみ闘争」は、「大田の反乱」=「県庁主導」型を打破し得ないまま、九五年一〇月二一日の八万五千人の結集と、九六年九月八日に行われ全有権者の過半数(投票者数の八九%以上)を獲得した「地位協定の見直しと基地の整理縮小を求める県民投票」の「記憶」を付け加えて終息した。

 0・6%の土地に75%もの軍事基地が居座り続け、性暴力事件も含め、事件・事故による基地被害は今も続発している。それだけではない。冒頭述べたように「住民投票」で明確な拒否を示した沖縄民衆の意志を愚弄するかのような「地元容認」の名の下に、二五〇〇メートルもの新たな海上軍事基地が辺野古沖に「普天間基地の県内移設」として建設されようとしている。この「地元容認」は、「大田の反乱」が準備した、とする論者もいる。「基地カード」を切りながら「振興策」を引き出す・その手法が今日の結果を生んだ、というのである。果たしてそれだけか。「(日本の)国策と国益」に奉仕する「沖縄イニシアティブ」のように「歴史問題の克服」を説き、沖縄民衆の「記憶」を抹殺しながら、「日本/日本人の一員となった現在、基地負担とその見返りのバーターは当然ではないか」という言説の声高な出現。比嘉良彦が「沖縄イニシアティブ」の「率直な感想」として「沖縄のサイレント・マジョリティーの本音を顕現したもの、…これは良い悪いを意味しない。また、好き嫌いの問題でもない。事実としてそうだ」(沖縄タイムス00.6.6)と指摘する。これが復帰運動・「本土並み復帰」の三〇年後の現実なのである。 前述した「イモハダシ論」を別な角度で照射してみよう。そこに三〇年前、「愚民視」されたウチナーンチュの怒りも見て取れるではないか。ちょうど、若き日の名護市長・岸本建男が唱えた「逆格差論」(注12)と同様に。そして岸本が投げ捨てた(投げ捨てざるを得なかった)この沖縄人意識こそ、掴み取らねばならないものだ。だからこそ「沖縄イニシァティブ」なるものが生まれてしまったのだとも言えよう。

 沖縄タイムス紙上で「中心指向と安易なスタンス」(田仲康博)、「欠ける精神性や創造性」(保坂広志)、「排除できぬ地域苦悩」(太田昌国)、そして「現状追認論者の言葉遊び」(新崎盛暉)などと批判されようとも、「日本の国家像の共同事業者に/批判者は帰属問題の態度表明を」(大城常夫)と言い切る。彼らは声高に「復帰と自立」「併合と分離」そして「統合と反逆」についての選択を論者たちに迫り、日本に従属すること、日本人として生きること抜きに「沖縄の未来」はないかの如く振る舞う。


二 自立解放への準備と前提について

・1 自立への迂回――「自治の衰退」の打開へ

 ここで我々は、「祖国復帰」とその運動がもたらしたものは「日本国への帰属=日本人になること」を通して、沖縄が沖縄であることの「アイデンティティ」の全き喪失であったことを改めて確認することが出来る。

 日本政府は沖縄から、一切の異議申立ての権利を剥奪した。日本政府が、自治であれ自立であれ沖縄の「独自性」を容認しないのは、まぎれもなく「沖縄は日本ではない」からである。その上で、あらゆる手立てを使って沖縄を日本に繋ぎ止めて置こうとする。何故か、それは膨大な軍事基地を押し付け、その安定した、無制限の使用を維持するためである。米軍政支配下の民主主義的諸権利の剥奪にあえいだ二七年間と、日本に併合され安保と天皇という二つの憲法外的支配に隷属させられた三〇年間を貫いて、沖縄の民衆は希望と絶望をないまぜにしてきた。

 『年誌』創刊号(二〇〇〇年四月)の「沖縄論文」はその末尾で次のように語っている。
 「我々が『第四次琉球処分』と呼んだこの間の一連の事態(九六年の代理署名最高裁判決・大田知事応諾と、九七年の国会議員の九割が賛成して可決された軍用地特措法改悪)が明らかにしているように、帝国主義者の議会と法律の下で、国内植民地としての沖縄への差別抑圧支配をやめるように求めることや、現状の日本国家とその法・制度に期待をかけるのは間違いである。…日本国家や国法への幻想を捨て、日本の国策・国益ときっぱりと一線を画し、沖縄の自立の道を歩むことこそ現実的な方途である。現在これを可能とするのは沖縄人民の『民族的分離の自由』の権利行使であり、またこの自決権を支持し日本帝国主義の打倒をめざす日本人民の政治的直接行動だけである。」そして「沖縄が政治的自立の道を進むのに今、集眉の課題となっているのはそれを粘り強く実現する政治的主体を形成することであり、政治的自立の意志と条件を欠くならば経済的自立もないことは明らかだろう。」

 軍事基地の重圧を「平和」の担保(日米安保体制の承認)とし、軍事属領・植民地的支配からの脱却は民主主義を「(日本の)制度」として受容し、「豊かさ」への希求は文字どおり「銭どぅ宝」の思想を蔓延させ、復帰措置・振興策依存を決定づけた。そして、政治的(政党的)自己表現=自己組織化は液状化し、「自治の衰退」のみがクローズアップされてしまっている。一挙に露呈した「大田・県庁主導型」のマイナスとともに蔓延した「チルダイ」とは、そうした事態の顕現を指しているのかもしれない。

 チルダイ。「明るい絶望」とでも形容したらいいのか、それとも「逡巡する希望」か。「復帰三〇年、全島買弁化」したかのような様相を呈している現在、反省なき復帰勢力と崩落した沖縄革新も、ポストコロニアル状況の中で、こう言って良ければ「左の買弁」勢力ではないのか。買弁化することで「平和」も「民主主義」も「豊かな生活」もヤマト風に染め上げたのだ。

 だがしかし、運動を組織したことのある人ならすぐわかることであるが、運動は、展望とともに実際的な「獲得目標」が鮮明に打ち出されなければならないだけでなく、それへの手段・方法あるいは(運動・組織)形態が確立されなければ、運動そのものが成立しない。もちろん自然発生的一揆主義的(これは批判的に言っているのではない・念のタメ)闘争が、闘争の過程で目前の「獲得目標」から逆に「展望」を切り開くこともある。しかし、その場合、手段・方法を度外視しても良いくらいの「獲得目標」に対する闘争主体の強固な「意志」が存在している(少なくとも、その闘争の中心的担い手たちには)ことが要求されよう。ここでは新川が指摘した「血を流す(覚悟)」(注13)は比喩として語るだけではすまされない。主体の「強固な意志」は、「可能な目標」と「可能な方法」を要求するのである。

 復帰運動の負の遺産の清算とは、「反戦反軍反基地闘争」と「民主主義的諸権利の獲得のための闘い」と同時に、「現状打開のための自治権拡大」として闘われることによって培われてきた沖縄/沖縄人の経験を、自前の社会建設(わたしたちが考え得る最も理想的な社会の成立する「地域政府」)に向けた沖縄の民衆的意志として打ち固めることでなければならない。それは五〇年代の「土地闘争」、六〇年代の「自治権闘争」を再び民衆的自己統治の偉大な歴史として甦らせることでもある。そのためにこそ迂回ではあれ、「復帰(運動)」によって意識においても制度においても決定づけられた「自治の衰退」を突破する「具体的な目標」の設定と、そのための「具体的な方法」の準備に着手することである。

・2 「沖縄特別県制」から「沖縄政策提言」へ

 「併合一〇年」を控えた一九八一年、沖縄教職員会(日教組・沖教組へ再編・統合)と並ぶ復帰協の中核部隊であった自治労沖縄県本部(復帰闘争時は国公労とあわせて沖縄官公労として存在していた)は「沖縄特別県制論」(正式には「沖縄の自治に関する一つの視点―特別県構想」)を発表した。(注14)しかし、この「特別県制論」は、復帰運動の総括をなしえないまま、西銘県政登場以降の沖縄革新に対する逆風への抵抗と、「祖国復帰」の現実への言い訳に終始するだけのものでしかなかった。

 「日本(国憲法)」そのものを拒否する新川明たち反復帰論者はもちろん、当時の社会大衆党の論客・比嘉良彦も「(これは)沖縄県民の『復帰の選択』は正しかったが、本土政府による復帰措置は問題があったとする論。復帰措置の手直し的発想から自立を模索しようとする。しかし、この『第二次復帰運動』は、再び国内分業論に立った本土政府の一体化政策(『内国植民地政策』)をより強固に補完する論理に陥る。」と手厳しい批判を加えている。そして矢下徳治も「『人民自治』の考え方すら峻拒する現行憲法にあっては、特別自治権論を容認する余地はない。」(ともに『沖縄自立への挑戦』社会思想社82)と言い切る。かくいう筆者も、どちらかと言えば、比嘉・矢下コの考えに近かったように思う。

 それから十七年後の九八年、自治労本部は沖縄プロジェクトを組織し、「特別県制論」を継承する形で「パシフィックオーシャン・クロスロード、沖縄へ―二一世紀にむけた沖縄政策提言(第一次案)―」(注15)を発表した。これは、九六年に大田県政によって打ち出された「基地返還アクションプログラム」(二〇一五年までにすべての軍事基地を返還させる)および「国際都市形成構想」(「二一世紀・沖縄のグランドデザイン」)に対する自治労の側からの呼応でもあったと言える。

 「沖縄政策提言」は自らの提言の根拠として「沖縄をめぐる環境変化」を挙げた。
 その第一の指標は、代理署名を拒否し、日本国政府との直接対決を辞さなかった大田県政の存在である。もちろん、この大田県政の姿勢を生み出したのは沖縄人民の「島ぐるみ」ともいえる反戦反基地闘争の巨大なうねりではあった。第二の指標は、安保再定義・新ガイドラインなどの日米(安保)の変化である。「日本政府がこのガイドラインを履行するには沖縄の合意と納得が不可欠」であった。第三は、「県民意識の昂揚である。復帰当時の熱気は復帰後二〇数年の経過のなかで、自立と独自性を求める機運に変化しつつある。」そして第四に、地方分権をめぐる「制度的変化」を指摘し、「地方分権推進計画」(後に地方分権推進法に結実)策定などの動きをあげる。

 こうして「提言」は、「実現可能性」かつ「法的整合性」を強調し、道州制とも通底する中央政府と市町村等基礎自治体との間に大幅な権限を持つ「地方政府」形成を目論む「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」(注16)を結論として押し出した。自治労にとっては当然のことであろうが、地方分権推進から地方自治法改正・自治基本法制定を展望し、各自治体での自治基本条例(自治憲章)制定をめざす立場を明らかにしている。

 しかし、「提言」が発表された九八年から四年後の現在、「環境」は激変した。
 「第四次琉球処分」後の沖縄を覆った「チルダイ状況」は九八年の大田敗北に至り、以降二〇〇〇年六月の県議会議員選挙で、公明党の与党入りという事態はあれ、与野党三〇対十八という県政史上はじめての大差がつき、同年一一月那覇市長選でも三二年ぶりに革新系が敗退し、それは翌〇一年の浦添市長選に続き、本年〇二年に入って名護市、沖縄市、さらに金武町、具志川市、南風原町、与那原町から石川市、豊見城市と軒並み「保守(自公)系」勝利という構図が出来上がった。その限りでは、第一の指標と合わせて第二の指標たる「沖縄の合意と納得」を取り付けうる行政レベルでの地ならしは終わった。(今秋の県知事選が総仕上げか?)さらに第四の指標たる「分権問題」も、「機関委任事務の廃止」という鳴り物入りとは裏腹に、形を代えただけで地方財政問題等も含め(一部首長のパフォーマンスはともかく)、中央・地方構造は何ら変化していない。
 「提言」が語る、「(沖縄に有利な)環境変化」のうち三つは雲散霧消し、彼らの提言はその根拠を失った。

 そもそも「提言と要綱」は、地方自治(法)との対質においても、また日本「国家」との対質においても、鮮明な「地方政府像」を描いたとはとても言えない。「(自治州)地方政府」の立法機能の強化についても、情報公開や外国人選挙権、住民投票などが明示されているに過ぎないことにも現れているが、言葉は悪いが「官許の地方自治」を前提とする、単なる凡百の「地方分権案」の一つにすぎない。さらに、「法的整合性」はいざ知らず、「実現可能性」なるものにおいても、「(独立論は)独立への方法論を持たないことが最大の欠陥である。」という言葉は、そっくりそのまま、自治労プロジェクトの諸君にお返ししなければなるまい。

 第一に、法・制度なるものが、階級闘争の結果、言いかえるなら国家と人民の闘争の結果にすぎず、そうした闘いのないところで、国会の議決=法制化という方法は全く無力でしかなく、実際の住民の現実・生活と権利をめぐる具体性を抜きに「要綱」をめぐる議論を組織しようとしても空疎であるということに気づいていない。第二に、「提言」の具体化たる「要綱」は日本の国政の議決にすべてを委ね、沖縄の自立解放の主体が後景に退けられていることである。米軍用地特措法改悪を思い返すだけで分かるように、一%の住民の命運は九九%の人間に握られているという「擬制」を疑おうとはしない。ましてや日本政府に隷属することによって「平和と繁栄」を得たいと願う――植民地支配の結果としての――いわゆる「買弁」勢力が沖縄の政治的主導権を掌握している現在、尚更であろう。

 ただ「提言」に見るべきものがあるとすれば、第三の指標として「自立・独立の気運」を指摘するとともに、そうした気運を下支えに、「琉球弧」概念=「奄美」をも包み込み「沖縄の異質性」を法(行政)制度レベルにおいて「地方政府」として突き出したことではないだろうか。これは、「復帰・本土一体化」に翻弄された八一年段階の「沖縄特別県制論」から一歩踏み込んで、米軍政下での自治権獲得闘争と「琉球政府」の「記憶」と重ね合わせることで、「自立=分権」概念を豊富化しうる可能性を垣間見ることが出来よう。

・3 自己統治としての「自治の再建」

 「沖縄特別県制論」が発表された一九八一年、まったく別の角度からではあるが玉野井芳郎の試案(「沖縄自治憲章」案(注17))が作成された。

 「沖縄自治憲章」は、一九九〇年に発行された玉野井芳郎著作集第三巻『地域主義からの出発』に収められているが、この試案作成に関わったと思われる仲地博は、そのあとがきで「このころの沖縄では、『琉球共和国憲法』(『新沖縄文学』四八号)[「琉球共和国のかけ橋」――川満信一「球共和社会憲法C私(試)案」、仲宗根勇「琉球共和国憲法F私(試)案」]が発表され、自治労が沖縄特別県制の構想を打ち上げている。三者の間に直接の関係はないが、復帰一〇年目を節目にして、沖縄の自治のあり方を見直そうとする時期であったのである。」と書いている。

 「自立」と言い「独立」と言っても、或いは「琉球自治政府」にせよ「琉球弧共和国」にせよ、沖縄の民衆の自己統治意識の形成・拡大・発展を抜きにはありえない。「(再)併合三〇年」を経て、改めて「自治」の問題を取り上げることの意味を喚起したい。これこそ、「沖縄の自立・独立」にむけた準備作業の、極めて重要な基礎であると思われる。すなわち「日本国家からの分離・独立」の展望は「いかなる沖縄の未来像を描くのか」という問いと不可分であると同時に、前述したようにそのための方法・形態がリアルに問われているからでもあると言えよう。

 「試案『沖縄自治憲章』」それ自体は、日本(国憲法)に従属する一(地方)自治体のものとして作成されており、「政策提言」で提起された「自治基本条例」の先取りとも言えるものでもあるが、完成度は高い。(なぜ自治労プロジェクトは「玉野井試案」に言及しなかったのか。)
 例えば、この間の「国民総動員体制づくり」としての有事法制論議に際し、戦争協力拒否をめぐり、自治体の動向と権限とが問題となっているが、憲章・第十五条の(平和的生存権を確保するための諸権利)は「一 軍事目的のための表現自由の制約を拒否する権利 二 軍事目的の財産の強制使用、収用を拒否する権利 三 軍事目的のための労役提供を拒否する権利」として、極めて具体的実践的に規定されている。

 だが、それ以上に筆者が注目したのは「第三章 憲章の保障」の項である。この「憲章」は単に一(地方)自治体における最高規範であるだけではない。第十六条では「国の法令を解釈する場合は、この憲章に背反することのないよう努めなければならない。」と、「国法」との対峙まで踏み込んで規定している。さらに第十八条で「この憲章によって保障された基本権が、国および自治体の行為によって侵害されたときは、住民は、これに対し抵抗する権利を有する。/自治体の自治権が国の行為によって侵害された場合は、自治体は、これに対し抵抗する権利を有する」と宣言する。すなわち自治体のみならず、個々の住民の「抵抗権」を承認していることである。ここで宣言された「抵抗権」は対(日本)国家だけでなく、権力一般に対するものとして「自決権」を超え、いわば「人民の革命権」とも重なり合う。現在の、国家緊急権の確立・発動と結びついた有事立法攻撃に対して、護憲主義・市民主義を基礎とする反対の空しさを鋭く衝く。

 この「沖縄自治憲章」は「県条例」であることからして、政策提言の言う「法的整合性」が求められるであろうし、その場合、先述の十六条、十八条のみならず多くの条項が国法との抵触を余儀なくされる。そして、「県議会」の議決を必要とする点において、「保革」を問わず一切の既成政治(政党)勢力が敵対や無視という対応に終始するであろうことから、「実現可能性」も危うい。いわば、その側面では独立論にも等しいハードルが横たわっている。

 『うるまネシア』第二号01で岸本真津は「保守とか革新とか、あまり実態を伴っていない基準で、政治を色分けるのはもうやめにしないか。……沖縄の位置やこれからの方向は『自立・独立』と『隷属・依存』を両極とする座標軸の上で動いていく。」「『自立・独立』派は、『自立・独立』の一点を通して自らの座標軸の中で手を結ぶことだ。」と結論づける。繰り返しになるが、自立解放の課題は、自己統治意識・能力を打ち鍛えつつも、目的と主体にとっての構造が問われており、特に、思想文化的潮流と反戦反基地闘争を担う運動潮流との連携・連帯・連合は不可欠であろう。「居酒屋独立論」という批判は、それに水を差す事にしかならなかったことが、残念である。崩壊しつつある「沖縄革新」を大胆に再編し、従来の「保革構造」を打ち破る、自立解放勢力の政治的登場こそが望まれている。

 そうした意味では、松嶋泰勝が『沖縄島嶼経済史』(藤原書店02)での「経済的自立のための二重戦略」(海洋ネットワークと内発的発展)に加えて、九・七シンポで「問題提起」した「沖縄州構想」を実際的な運動・組織へと展開・推進し――もちろん沖縄/沖縄人としての主体に焦点を当て、その政治的傾向・潮流・勢力へと歩を進めることが前提ではあるが――、「沖縄自治憲章」獲得と併せて、文字通り構造化戦略化しえるものへと形成していくことが問われている。これらを指して「自立解放への迂回戦術」と名付けてもあながち的はずれではあるまい。

 もちろん法・制度として構想される「自治」といえども、「自決」を前提にし、「自立」に裏打ちされなければならないことは言うまでもない。この章の末尾に、蛇足ながら付け加えておく。


三 自立解放の政治潮流・勢力形成へ(未稿)
(二〇〇二・一〇・八)



(注1)代替協 SACO合意に基づく「普天間基地返還」の代替地決定のため、稲嶺県政発足後の二〇〇〇年八月に政府各省庁と沖縄県、名護市などで構成された「普天間飛行場代替施設に関する協議会」。

(注2)SACO 正式名称は「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」(Special Action Committee on Okinawa)。在沖米軍基地の整理・縮小問題を協議するため、一九九五年一一月、日米安保協議委員会(SCC)の下に設置され、九六年一二月に最終報告が承認された。「鳴り物入り」で喧伝された「普天間基地」を含む11施設の返還が盛り込まれたが、ほとんどが移設条件付きとなっており、全施設が返還されたとしても在沖米軍基地の70%が残る。

(注3)一六〇九年、薩摩(島津藩)は琉球王国を武力制圧。奄美諸島を直轄領とし、沖縄、両先島(宮古、八重山)諸島を「薩摩支配下の琉球王国」として「属国」化した。こうして、沖縄は「日本」ではない、いわば「日中両属」の下、二重の収奪(薩摩と琉球王府)に置かれたが、明治維新による近代国民国家の道を歩き始めた日本政府は、七二年「琉球藩」(琉球国王を藩主に)を設置し、七九年三月、薩摩侵略と同様に武力をもって琉球藩を廃し「沖縄県」設置を強行。この日本の版図への併合を「琉球処分」と称した。
 一九四五年、沖縄戦による米軍占領を経て、五二年四月二八日、サンフランシスコ条約によって、琉球弧四群島(奄美、沖縄、宮古、八重山)は「正式」に米軍政下に置かれた。これを日本(・アメリカ)による「第二の琉球処分」と呼ぶ。
 一九七二年、反戦反基地闘争の大昂揚と祖国復帰運動を逆手にとり、米帝の「ニクソンドクトリン」(アジア人をしてアジア人と戦わしめよ)による日米共同謀議(「核密約」、基地機能維持・再編強化など)を経て、沖縄は日米共同侵略反革命前線基地として「返還」された。この「祖国復帰」=「日本再併合」は「第三次琉球処分」と名付けられた。

(注4)稲嶺県政によって県物産公社(「わしたショップ」)を追放され、今沖縄物産企業連合を立ち上げた宮城弘岩は、著書『沖縄自由貿易論』98で、「日本の枠組みの中での沖縄の発展は難しい。日本という社会の成り立ちそのものが、沖縄には適用できない。個々の企業や産業の成り立ち、それを支える社会的価値観が異質である」と言い切っている。

(注5)後に佐渡山豊が『ドゥチュイムニー』で「唐ぬ世から大和ぬ世、大和ぬ世からアメリカ世」に続けて「アメリカ世からまた大和ぬ世 ひるなき変わゆる くぬ沖縄」と唄った。

(注6)「あま世」。伊波普猷の最後の著作(『沖縄歴史物語』1946.7)から。
 「どんな政治の下に生活した時、沖縄人は幸福になれるかという問題は、沖縄史の範囲外にあるがゆえに、それには一切触れないことにして、ここにはたゞ地球上で帝国主義が終りを告げる時、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を附記して筆を擱く。」

(注7)川満信一は「当時屋良(朝苗。沖縄教職員会会長を長く務めた初代公選主席にして、初代沖縄県知事・筆者注)さんを中心として復帰を推進してきた人たちと言うのは、戦前の天皇制教育を受けてきた人たちです。その人たちは戦後教育に復帰し、一応『民主主義』とか『平等』という言葉を使いますが、しかしその思想の質において、ほとんど戦前的な皇民化教育のそれを維持したままと言うのが見えてきたのです。」(『二十一世紀、沖縄・日本の将来像』98)と語る。

(注8)「極東裁判」が始まり自らが戦犯として起訴されるかも知れないと怯えていたヒロヒトは、四七年九月、マッカーサーに「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を(五〇年もしくはそれ以上の長期にわたって)継続するよう天皇が希望している」と伝え、自らの延命のために沖縄を売り渡した。

(注9)再び伊波普猷、最後の著作から。
 「沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、沖縄人はそれまでに、それに関する帰属を述べる自由を有するとしても、現在の世界の情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれていることを知らなければならない。彼等はその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令することは出来ないはずだ。というのは、置県後僅々七十年間における人心の変化を見ても、うなづかれよう。否、伝統さえも他の伝統にすげかえられることを覚悟しておく必要がある。すべては後に来たる者の意志に委ねるほか道はない。」

(注10)沖縄青年同盟 一九七〇年に沖縄出身の青年・学生によって結成された沖縄青年委員会のメンバーのうち「自立解放」を掲げるグループが「奪還派」と分岐、沖青委(海邦)派を組織し、七一年一〇月一六日に沖縄青年同盟と改称。七一年一〇月一九日、いわゆる「沖縄国会」において、首相佐藤栄作の所信表明の最中に「日本人に沖縄の運命を決定する権利はない」「返還粉砕!」を叫び、爆竹を投げつけた。さらにその後の裁判闘争において「被告」とされた三人はそれぞれの出身地(八重山、宮古、沖縄)のウチナーグチを使用し裁判を闘った。
 「聞きなれない言葉に、動揺して日本語で答えなさいと注意する裁判官には『ぬーんちぃうちなーぐち、ちかてーならんがー』。さらに『うちなーやにほんどやがやー』などの言葉に法廷は混乱する。……国会爆竹事件、うちなーぐち裁判は、世替わりの際にその枠組みや内実に対して、『沖縄人の口が封じられていた事実』を証言している。」(後田多敦『沖縄タイムス』00.9.30)

(注11)「沖縄イニシアティブ」。二〇〇〇年三月開催された「アジア太平洋アジェンダプロジェクト」沖縄フォーラム(沖縄サミットを控え、当時の首相小渕も出席)において、琉大三教授(高良倉吉・大城常夫・真栄城守定)によって発表されたレポート。「沖縄イニシアティブ一アジア太平洋地域のなかで沖縄が果たすべき可能性について一」目次は以下の通り。1・提言の趣旨/2・「歴史問題」(1)「琉球王国」という独自の前近代国家を形成したこと(2)独自の文化を形成したこと(3)日本本土から「差別」を受けたこと(4)戦争で拭いがたい被害を被ったこと(5)「異民族統治」を受けたこと(6)日本に復帰することを求めたこと(7)基地負担の面で不公平であること/3・「沖縄イニシアティブ」の発揮(1)自己評価の普遍化(2)「基地沖縄」の評価(3)ソフト・パワーとしての沖縄(4)二つの碑文(5)知的交流としての沖縄。なお三人の提言者による『沖縄イニシアティブ』00.9.30がひるぎ社から出版された。

(注12)「逆格差論」。一九七三年、名護市が「第一次産業振興計画・あしたの名護市」を発表。その中で「格差是正」を逆手に取り、「本当の豊かさは物質的な豊かさだけでは測れない」と、いわゆる「逆格差論」を展開した。この構想の中心メンバーに「若き日」の岸本建男がいた。

(注13)「〈座談会〉検証・独立論」(「けーし風17」97)において新川明は次のように語っている。「これは比喩です。血を流すというのは、今の生活レベルをどれだけ落とせるかの話です。血を流さないままで今のおいしい生活のままでさらにおいしい独立を夢みるなんてこんなムシのいいことは話にならない。独立の決意とか決断とかは、自ら血を流せるか否かの決意、決断のことなのです。」

(注14)「政策提言」(及び「特別県制論」)の下敷きとなったと思われる野口雄一郎「復帰一年 沖縄自治州論のすすめ」(『中央公論』6月号73)を見てみたい。
 野口は「本土復帰から一年、いま沖縄は政治的・経済的困難に苦しみ、閉塞情況のなかにあえいでいる。」という情況認識を踏まえ、「自治州構想こそ、本土復帰という既成事実を逆手にとることによって、未来への展望をひらくことのできる政治目標ではあるまいか。」と提唱する。
 まず、独立・連邦制・自治州・特別自治区の四つの形態を取り上げる。「特別自治区は、あくまで国の地方自治の枠のなかで特別の処遇を要求するものであって、自治州にくらべればより消極的な存在である。」一方連邦制は、「外交権や防衛権だけは連邦国家に委ねるが、司法・立法・行政の内政は独立国家と同じになる。…自治権の徹底という点では、有力な形態である。しかしこの連邦制を実現するには、単一国家体制を明示している現行の憲法を改正しなければならない。」それゆえ、野口は「政治的分権である連邦制ではなくて、行政的分権である自治州を選んだのである。…自治州制の場合には、行政的分権であって、ひとつの特別な地方公共団体であるために、現行の平和憲法の枠内で実現可能である。しかも具体的には、かなり高い自治性をもち、国の行政的権限や財政、さらに司法権なども委譲することができ、独立国家や連邦ほどではないにしても、自治権を大幅に拡大させることも可能である。」
 その上で、「もしも沖縄住民の自治権を完全な形で求めるとすれば沖縄が独立国家になるのが、論理の当然であろう。そしてすでに沖縄には、本土復帰を拒否する発想にたった『沖縄独立論』とか『沖縄共和国』という主張がある。だがこれは、少なくともいまの沖縄県民の民族意識からみて、受け入れられないだろう。またEC(欧州共同体)に典型的に現れている国家統合への世界的な潮流にもさからうことになろう。したがって、独立国家論には多くの魅力があるにもかかわらず、採用しない。」と結論付けている。

(注15)自治労本部・沖縄プロジェクト1998.2「政策提言(第一次案)―」目次/序にかえて/第1章 沖縄からのメッセージ――近代一〇〇年の超克と二一世紀への架け橋――1基地の島から平和交流のキーストーンへ、2日本のシステム転換の要、3ガイドライン安保と基地返還プログラム、4日本の変革と沖縄の自治/第2章 沖縄経済の自立と持続可能な発展――FTZをネットワーク型「部品」産業化の結び目に――1沖縄経済の特質、2国際都市形成構想、3産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会、4『全県』自由貿易地域構想の問題点、5アメリカの「選択関税」と地域産業の集積、6沖縄のFTZ内の食品等加工産業群の集積、7新しいネットワーク産業化(Network Industrialization)の動き、8ネットワーク産業化と沖縄の新「部品産業(Parts Industry)」群の育成、9人材の育成と人(ヒト)の誘致、10ネットワーク型「部品」産業等のイメージと沖縄「自由貿易地域」/第3章 沖縄米軍用地の転用――社会改造としての跡地利用の展望――1世界史的転換、2基地経済、3軍用地の規模と性格、4土地需給、5振興開発、6跡地利用フレーム、7跡地利用の体系的推進/第4章 雇用の促進――働き方の価値転換と成熟型社会への仕事づくり――1沖縄の就業特性、2雇用開発の課題、3沖縄県雇用開発推進機構(案)、4事業例示―「海人むら」(定住雇用促進型)/第5章 沖縄自立の制度・機構の必要性――琉球諸島特別自治制の構想――1「21世紀・沖縄のグランドデザイン」と制度構想の位置、2沖縄特別自治制論の系譜、3琉球諸島特別自治制の考え方

(注16)「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」。第一前文/第二総則/一この法律の目的/二琉球諸島自治政府の定義、種類および領域/三 この法律の効力/第三住民の権利および義務/一住民の定義、権利義務の基本/二選挙権および被選挙権/三住民の直接請求権/四住民の意見提出権とその取扱(応答義務)/五情報公開請求権および個人情報の保護/六住民の公務就任権/七その他/第四琉球諸島自治政府の組織および権限/一自治政府の種類および権能/二議会の議員および首長その他の執行機関/三基本条例の制定/1自治政府の基本理念2選挙に関する事項3住民投票および直接請求に関する事項4長および議員の資格・任期等に関する事項5行政の組織および議会の委員会等の編成6意思決定手続きの基本に関する事項7琉球諸島自治政府が管理する関税率に関する事項8群島または郡税に関する事項9その他、琉球諸島自治政府の権限に属する事項/四県/五群島または郡/六市町村/第五域内諸政府間の関係/第六琉球諸島自治政府の政府間係争処理委員会/第七補則/第八施行の手順/※群島または郡政府は同時に設立される。薩南諸島については、住民の住民投票により琉球諸島自治政府への参加を決する。それに伴って鹿児島県の区域を変更する(地方自治法第6条の規定により処理される。

(注17)生存と平和を根幹とする「沖縄自治憲章」(案)
 われわれは、沖縄に生きる住民、沖縄に生きる生活者として、自治、自立を目ざす理想および権利を有する。その理想および権利は、琉球弧の温帯的、亜熱帯的かつ島嶼的な絶妙の自然環境を背景に “守禮之邦” に象徴される非暴力の伝統と平和的な地域交流の歴史とに、深く根ざすものである。
 われわれは、第二次大戦下の沖縄戦において、軍民混在の国土戦とは、いかなるものであるかを身をもって体験した。それは、まさしく悲哭の一語につきるものであった。また、われわれは、戦後米軍の占領下に、人間としての自由と権利を拘束され、言い知れぬ苦難を経験した。
 われわれの平和への希求は、かくて生まれるべくして生まれた。しかし、われわれが平和の実現を目ざす今日の世界は、自然生態系の荒廃と地球的、さらに宇宙的規模での核の脅威によって、重大な危機に瀕している。わが国の最南端にあって、現在巨大な米軍基地を抱えるここ沖縄において、この危機はきわめて深刻である。
 沖縄の戦後の歴史、とりわけ復帰運動および平和運動の歴史を踏まえて、日本国憲法および本憲章が定める権利を拡大、充実し、これを永く子孫に伝えることは、われわれ沖縄住民の責務である。ここにわれわれは、生命と自然の尊重の立場を宣明し、生存と平和を根幹とする「沖縄自治憲章」を制定して、年来の自治・自立の理想と目的の達成を心に誓う。
第一章 沖縄の自治
 第一条(住民主権)沖縄における自治体のすべての権限は、沖縄に生きる住民に由来し、そのもたらす福利は、沖縄住民が享受する。
 第二条(自治権)われわれ沖縄住民は、最高の意思決定者として自治権を享有し、その生存と平和のために、自治体を組織する。/自治体は、沖縄住民の自治権を尊重し、その拡充のために、最大の努力を払わねばならない。
 第三条(参加する権利)沖縄住民は、地域の自治行政に参加する権利を有する。/沖縄住民は、地域の自治行政に参加する権利を有する。/沖縄住民は、地域に関する問題につき、有権者総数の十分の一以上の連署をもって、自治体の長に対し、住民投票を行なうことを要求することができる。自治体の長は、住民投票の結果を尊重しなければならない。/沖縄における各地域の住民は、その地域の利害に関する問題につき、自治体の長に対して、住民集会を開くことを要求することができる。自治体の長は、住民集会の意思を尊重しなければならない。/自治体は、地域住民の意思が、最大限に自治体行政に反映されるように、行政手続きを定めなければならない。
 第四条(知る権利)沖縄住民は、地域の主権者として、必要な自治体行政に関する情報を請求し、利用する権利を有する。/自治体は具体的かつ積極的な方法により、自治体行政に関する情報を住民に提供するよう努めなければない。/自治体行政に関する情報は、公開を原則とする。情報管理に関する細則は、別に定める。
 第五条(プライバシーの権利)何人も、私的事項を侵害されず、且つ自己に関する情報をみずから統制する権利を有する。自治体における個人情報の処理は、前項に定める権利を侵害しないよう、厳重に管理されなければならない。
第二章 沖縄の生存と平和
 第六条(権利の享有)沖縄住民は、日本国憲法および本憲章が定める権利を享有する。あらゆる社会的関係において、両性は対等でなければならない。/沖縄に在住する外国人は、基本的人権の享受を妨げられない。
 第七条(シマの生活)自治体は、沖縄の社会的基層であるシマ(字、区)の生活文化と自治を損なわないように細心の注意を払わなければならない。
 第八条(地域文化)自治体は、沖縄が歴史的に独自の文化を創造し、日本文化において、重要な地位を占めていることに鑑み、この地域の文化を積極的に保護し、育成しなければならない。/学校教育および社会教育は、ともに地域の文化と環境を基礎として、実施されなければならない。
 第九条(生存権の保障)沖縄住民は、健康で快適な生活を営む権利を有する。自治体は、この権利の実現について積極的に努力する責務を負う。/心身に障害を持つ者、老人、子供、その他社会的、経済的に恵まれない住民が、安心して生活する権利を保障することは、自治体の責務である。
 第十条(相互扶助と共同性)相互扶助と共同性は、沖縄の民衆の伝統的特徴であり、沖縄の生活環境および住民の生活権は、この伝統の上に築かれねばならない。
 第十一条(自然の共有)沖縄の自然は、住民共有の財産であり、その利用にあたって、濫開発は決して行なってはならない。/何人も、沖縄の自然を汚染してはならない。沖縄住民および自治体は沖縄の誇る自然環境、生活環境および地域文化環境を良好に維持し、または改善するため、積極的に努力する責務を負う。/われわれ沖縄住民は、廃棄物の排出と処理に最大限の注意を払い、水と緑の豊かな自然環境をつくりあげていくよう努めなければならない。/入浜権と水利権は、相互扶助と共同性の伝統に基づき、かつ沖縄の自然環境にそなわる固有の慣行的権利として、確認されなければならない。/沖縄住民は、日照、通風、静穏、眺望、および地域の文化環境に関する環境権を有する。
 第十二条(平和的生存権と平和的地域交流)何人も、みずからの自由を守り、あらゆる恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有する。自治体は、諸島嶼の住民相互の交流を推進し、平和に生きる住民相互の生活と文化の向上をはかるために、交通、通信体制の整備に努力を払わなければならない。
 第十三条(平和主義)沖縄住民は、永久絶対の平和を希求し、自衛戦争を含むあらゆる戦争を否定し、沖縄地域において、戦争を目的とする一切の物的、人的組織を認めない。/沖縄地域において、核兵器を製造し、貯蔵し、または持ち込むことを認めない。また核兵器の搭載可能な種類の鑑船、航空機の寄港および海域・空域の通過を認めない。
 第十四条(非核・平和の日)自治体は、戦争犠牲者の霊を慰め、恒久平和を確立する誓いの日として “非核・平和の日” を定め、人間の尊厳および非核・平和の思想の普及に努めなければならない。/沖縄住民および自治体は、生存と平和をつくり、確保するために、具体的かつ積極的に経行動する責務を負う。
 第十五条(平和的生存権を確保するための諸権利)沖縄住民は、平和的生存権を具体的に確保するために、次に掲げる諸権利を有する。
 一 軍事目的のための表現自由の制約を拒否する権利
 二 軍事目的の財産の強制使用、収用を拒否する権利
 三 軍事目的のための労役提供を拒否する権利
第三章 憲章の保障
 第十六条(最高規範)この憲章は、沖縄における最高規範であり、あらゆる条例、規則は、この憲章に適合しなければならない。国の法令を解釈する場合は、この憲章に背反することのないよう努めなければならない。
 第十七条(審査委員会)この憲章を保障するために、審査委員会を置く。審査委員会は、一切の条例・規則または自治体の行為が、この憲章に適合するか否かを点数検査し、全住民に、その結果を公表する権限を有する。/審査委員会の組織および運営に関する事項は、別に定める。
 第十八条(抵抗権)この憲章によって保障された基本権が、国および自治体の行為によって侵害されたときは、住民は、これに対し抵抗する権利を有する。/自治体の自治権が国の行為によって侵害された場合は、自治体は、これに対し抵抗する権利を有する。
 〔附則〕 この憲章は 年 月 日から施行する。


※『共産主義運動年誌』第三号(2002.11.1)に大杉莫名で発表されたもの

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