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沖縄の民族問題と独立論の地平

   ―「沖青同の総括」を参考として―




  真久田  正


 真久田です。今日は前半で「沖縄青年同盟とわたしの関わり」についてお話をし、後半で「沖青同の総括」について、特に「民族問題と独立」についてお話をしたいと思います。
 今日は本村紀夫さんも会場に参加していらっしゃいますが、沖青同の誕生から最後の骨を拾うまで関わっていたのは、わたしと本村さんだけでした。最初の頃は以前この沖縄講座でも講演された仲里効さんや金城朝夫さんらもいらしたんですが、途中でみなさん沖縄に帰ってしまったものですから、我々が取り残された形になったわけです。そんな沖青同とわたしの出会いの頃からの話をします。


沖青同とわたし
−結成から消滅に至る経過とわたしのかかわり−


世界一周貧乏旅行
 最初に話はうんと遠回りしますが、今から33年前の1969年5月29日、わたしは中近東のイランのクエッタという町にいました。土壁の穴倉のような小さい木賃宿に一晩泊まりまして、市場へいくと青い小さなりんごがすごく安かったので一袋買ってきて部屋の中で食べていました。窓の外からコーランの朗唱が聞こえていました。
 なぜそのときのことをそんなによく覚えているのかというと、この日がわたしの20歳の誕生日だったからです。沖縄民謡風に言うと「あれは19の春でした」となるわけですが(笑)、ホントに19の春に沖縄を脱出し、まず香港からカンボジアへ行きました。それからタイ、インドを経由してパキスタンに入り、そこから砂漠の大陸横断バスに乗ってイラン高原を通り、5月29日にトルコとの国境近くのクエッタという小さな町にいたわけです。
 そこからトルコへ渡り、イスタンプールからオリエント急行に乗って、ブルガリア、ユーゴスラビアを通りオーストリアのウィーンに着きました。ここで、まずウィーン大学へいきまして学生アルバイトを紹介してもらいました。香水のスプレーを組み立てる家内工業的な会社でしたが、同じように学生アルバイトがたくさんいました。この学生達の話を聞いていましたら、彼らはチェコスロバキア人でチェコから逃げてきたと言うんですね。ソ連がチェコの民主化運動を弾圧していた時期で、まあ簡単に言うと難民ですね。わたしも難民みたいなものですから(笑)、友達になったりしていましたが。
 そんなある日、ラジオからふと「オキナワ」という言葉が聞こえたんです。ドイツ語と英語のわかる学生に聞いたら「沖縄が米軍占領下から日本に返されるという話をしているよ」と教えてくれました。1969年の夏、佐藤・ニクソン会談のニュースでした。それをわたしはヨーロッパで聞いていたわけです。
 それからドイツ、フランス、イギリスに渡り、スコットランドに行き、それから戻ってニューカッスルという小さな町からフェリーでデンマークに渡り、またそこでアルバイトをしました。何故デンマークかというと、そこからアメリカにわたりたかったんです。当時デンマークはアメリカのビザが取りやすいといわれていました。実は沖縄を出る時、最初からアメリカにいきたかったのですが、当時は米国留学のエリートか米兵と結婚でもしなければ普通の沖縄人はアメリカには行けなかった。
 ともかく、そんなわけでアメリカに何とか渡りました。ニューヨークのマンハッタンにある日本レストラン「ベニハナ」という店で半年くらい働きました。もちろん日本人の従業員が多いのですが、韓国とかベトナム人とかいろいろな国の人がいて友達になりました。
 当時、沖縄出身の学生はだいたい「本土」に来てはじめて沖縄差別を体験するというのが普通でしたが、わたしの場合はアメリカの日本人社会の中で差別を受けたり、プライドを傷つけられたりするような経験をしたわけです。
 そのレストランのバーカウンターで、ある日、バーテンダーのチーフがニューヨーク・タイムスを広げていたので横からひょいとのぞいてみると、三島由紀夫が割腹自殺した写真が載っていました。ですから、そのときまでわたしはニューヨークにいたというアリバイみたいなものになるわけですがね(笑)。

沖青同との出会い
 その年の暮れに東京に来ました。そのころ国分寺に八重山高校時代の同級生がいましたので、彼のアパートにもぐりこんで、しばらく生活していました。当時は復帰運動の絶頂期でした。71年に入って世相としては京浜安保共闘とか、クリスマスツリー爆弾事件とかがあって騒然とした時代です。
 そんなある日、代々木公園だか清水谷公園だか忘れましたが、大集会があるというので友人たちとつるんで見に行きました。赤旗が林立する中、旗に「海邦」という文字が見えて、ちょっと惹かれるものがありました。あとで「かいほう」と読むことがわかりましたが、それは沖縄青年委員会というグループでした。何気なくその旗に近付いていってみると若い女性が「アイ、真久田兄さ〜ん!」と呼び掛けてきた。なんと高校の一級後輩でした。それでデモにすぐ入ってしまいました(笑)。無節操な話ですが、このとき金城朝夫さんもいて、この人も高校の大先輩なんですね。「おお、真久田か、君、世界一周してきたらしいな。一緒にやろうぜ」という訳で、わたしはホイホイついていきました。
 それから学習会とかに参加するんですが、そこではじめて「反復帰論」に出会いました。当時、我々は復帰運動の中で育ってきたので「復帰するのは当然」と思っていました。核と基地を残したままでの欺瞞的な返還に反対という主張も強まっていましたが、しかし、それは「反復帰論」とはちょっと違う。「反復帰論」とは基本的に復帰しないという話です。
 世界中回ってきたわたしの感覚から言うと、ああそうだよなあ、もともと沖縄は琉球王国という国だったんだし、日本が祖国というわけはないよなあと、目からうろこが落ちる体験でした。「そうだよ、だから独立なんだな」というと、「いやいや、まあ独立は一国社会主義になってちょっとまずいからこっちへ置いておいて(笑)」となるんですが、「とにかく反復帰で、復帰絶対反対なんだよ」というわけです。まあいいや、ということでわたしも一緒にくっついていくことにしました。
 そして、いよいよ72年5月15日の復帰が政治日程に上ってくる。その返還協定を批准する国会が31年前のちょうど明日のことです。71年10月19日でした。その前日の18日、つまり今頃ですね、決意して準備しているというか、なるべく足跡を残さないというか、アジトを転々としていました。私物は全部処分して……ですから世界旅行の時に書いた日記などもこのとき全部処分してしまったんですね……それから、その3日前に沖縄青年委員会が発展的に解消して沖縄青年同盟が結成されました。

国会爆竹事件
 さて、そんな準備をして、いよいよ当日です。国会が始まりました。ピシッと背広を着て、髪も短く切って(笑)。……この作戦も金城朝夫さんがすべて提案しました。爆竹で返還協定の批准国会を混乱させようというわけです。佐藤首相が所信表明演説で返還協定の批准を言い出すから、そのときに爆竹を打って演説を妨害しようと。わたしなんか、いいね、おもしろい、やろうやろうとすぐのりました(笑)。
 なぜ爆竹かというと、実際問題、爆竹以外に傍聴席に持ち込めるわけがないんです。後で「火炎瓶の方がよかったんじゃないか」なんて言う人がいましたけれど(笑)、とんでもないですよ。ビンなんか持って入れるわけがない。警戒がものすごく厳しいですからね。
 もう一つ、これはわたしだけの意味づけかもしれませんが、沖縄ではよくお祭りの時に爆竹を鳴らすんです。わたしの郷里の石垣島では旧盆に子供が爆竹を鳴らす習慣がありました。先祖の霊と一緒についてくる餓鬼、まじむん(魔物)を爆竹を鳴らして追い散らすというわけです。だからわたしは、小さいころから爆竹を鳴らすのは専門だったんですがね(爆笑)、つまり、国会内の魔物たちを蹴散らしてしまおうという意味があったわけです。
 三人でやったわけですが、わたしが21歳で、三人とも同じくらいの年齢です。作戦としては傍聴席に入って左側の端にわたし、右側に本村さん、真ん中に島添さんが座る。まず左側で爆竹を打ち、衛視をひきつけておいて、今度は右側という作戦だったんですが、敵もさるもの、衛視にはそれぞれ持分があって、思うようにはいかなかったですね(笑)。
 この作戦を考えた金城さんは、当時、日中国交回復の先駆けをなした帆足計という代議士の秘書をしていたことがあって、その関係かどうかは分かりませんがすごい爆竹が手に入りました。40連発くらいで2重3重にくっついている。これをパンツの中にこうやって隠してですね(笑)、タバコとライターをポケットにいれて、とにかく佐藤首相が「沖縄」という言葉を出したらそれを合図にやろうということでした。
 ところがこのときは、日中国交回復の話もあったものですから、首相は最初に日中の話を始めたんです。「沖縄」という言葉は一応出るのですが、まだ日中の話が続く。じりじりして、どうしよう、どうしようとしているうち、ついに「沖縄返還協定」という言葉が出たんで、「よ〜し、もうやっちゃえ」というわけでライターで火をつけて「返還協定粉砕」と叫んで、ボンと投げました。まあ、そうやってつかまってしまうわけですが、当時の「毎日グラフ」にこのときの特集が出ています。今日はこれを持ってきましたが、この逮捕直後の写真を最近見たある若い人が、「つくずく沖縄人は国会で口を封じられているんだなあ」と言っていましたが、文字通り衛視に口を封じられている写真です(笑)。

ウチナーグチ裁判闘争
 その後は獄中生活になります。これも金城さんのアイデアでしたが、わたしが八重山、本村さんが宮古、島添さんが沖縄本島とそれぞれ三名いるわけですから、それぞれの方言で裁判闘争をやってみようということになりました。目的は沖縄返還の欺瞞性を訴えることです。もともと沖縄は日本ではない、我々がウチナーグチをしゃべればあなた達はわからないだろう、それくらい沖縄は日本ではないのだという、そういう意図があった。それと、もちろん法廷を混乱させるという狙いもあったわけです。
 公判では最初に人定質問、罪状認否というのがありますが、ウチナーグチに裁判長がまず目を白黒させる。三人がそれぞれの方言でしゃべったものだから、ドンドンわけがわからなくなって、興奮して「日本語でしゃべりなさい」と叫ぶわけです。すると傍聴席からもウチナーグチの野次が飛んできて、裁判長は真っ赤な顔をしてパニック状態になるんです。鳩が豆鉄砲を喰らったというのはこのことですね。
 「退廷」「退廷!」となって、衛視がワーッと襲いかかって来て、傍聴席も含めて大混乱になりました。で、翌日の沖縄の新聞には「あれは単なるヤマトの過激派の事件ではなかったようだ。沖縄の気持ちがよくわかる青年達がよくやった」という書き方をしていました。当時の大学人とか文化人とか色々な人たちが共鳴してくれて、好意的な記事をコラム欄などに書いてくれたんです。ですから、今でも50歳代ぐらい以上の人たちならこのことはよく覚えていますね。「あれはお前だったのか」という話になるのですが(笑)。
 それと国会爆竹闘争の2日後の10・21国際反戦デーには沖縄青年の隊列が200人にも上ったそうです。この「毎日グラフ」の特集にもそのようにでています。そして沖縄青年の活動家がどんどん沖青同に加盟してきました。その背景には一方で全共闘運動が後退期に入り、新左翼党派が四分五裂してその中にいた沖縄青年達が「すべての沖縄人は団結して決起せよ」という訴えに共鳴して応えてきたということがあります。ですから、逆に言えば沖青同は最初から各セクトの寄せ集めみたいな状態だったともいえるわけです。
 その後、半年くらい拘置所に入るわけですが、出所してくると、どうも様子がおかしい。メンバーがどこかよそよそしい。そのころから内部論争が始まっていたわけです。で、そのころ仲里効さんや金城朝夫さんらが沖縄に帰ってしまった。幹部の連中が帰ってしまった。また、当時フロントから入ってきた人で上間さんという人がいましたが……彼は沖青同きっての理論家でしたが……この上間さんも沖縄へ帰ってしまう。それでわたしと本村さんが取り残されてしまったわけです。
 それから島添さんが沖電気を解雇されて、われわれは解雇撤回闘争に取り組みました。もともと沖青同では、前身の沖青委時代から本土集団就職できた沖縄出身の青年達をまとめようということを主要な活動目標にしていました。
 ちょっと余談になりますが、昔、沖縄人連盟という組織があって、紡績工場に働く沖縄出身の女工達を組織化するために工場の塀の外で三線を弾いて外へ呼び集めたという話を聞いたことがあります。それに倣って、わたしが提案して当時の総評の宣伝カーを借りてきてエイサーの曲をバンバン鳴らして沖縄出身の青年達を呼び寄せることなどもしました。
 エイサーと言えば、「ゆうなの会」という親睦団体を作り、本土で初めての本格的なエイサー大会を鶴見の潮田公園で開催したりもしました。そんな活動もしましたが、当時は一方で「自衛隊の沖縄派兵」「海洋博の開催」という情勢でしたから、「武装闘争をすべきだ。お前ら、何をエイサーなんかチャラチャラやっていんだ」という批判がありました。それでもわたしは「いや、大衆運動でやるべきだ」と言っていましたが、そんな内部対立がだんだん深まってきたわけです。
 
帰郷から現在まで
 その後、沖縄解放同盟をつくるとか色々ありましたが、わたしは「もう沖縄に帰ろう」という気持ちになって、当時、沖青同のある女性と同棲していたのですが彼女と一緒に沖縄に帰りました。
 ところが、当時は今よりもひどい就職難の時代で、なかなか就職できない。おまけに行く先々で刑事がくっついてくる。そんな中で、わたしはもう政治的な活動には参加しないとすべてを諦め、潰れました。その代わり、どうしてもこういう体験とか思想というのは忘れられないものですから、詩を書いたり小説を書いたりということをやってきました。また、当時からヨットに出会って、海で遊びほうける世界に入っていきました。
 そうして十数年がたって、ある時、2、3年前の話ですが、新崎盛暉さんが「居酒屋独立論」の批判をして、それに対して高良勉さんが「いや、それは違う」と反論されて、「我々はもっとまじめに独立論を研究しようとしているのだ」というようなことを新聞に書いていました。それを読んで、自分ももう一度独立問題をしっかり研究してみようかなと思い立ちました。高良さんに手紙を書くと、翌日すぐに電話があって「すぐ集まろう」ということになり、その後色々あって『うるまネシア』を発刊するになったわけです。
 自分史を含めた沖青同とわたしの関わりと現在に至る経過はだいたいそんなところです。


沖青同の総括
 ―民族自決と独立の問題をめぐって―

 
沖青同分裂の原因
 次に「沖青同の総括」、とりわけ「民族問題と独立」の話題に移ります。これについては沖青同の分裂の時の議論から話をはじめてみたいと思います。
 沖青同の当初からの理論的なバックボーンを作ったSさんという人がいましたが、まず彼とわたしがぶつかりました。彼が分裂の時に『沖縄武装解放闘争宣言〜沖青同との決別と沖青同内一部観念的民族論批判』という文章を書き、人民権力派というグループを作りました。この「沖青同内一部観念的民族論者」というのがわたしのことなんですね(笑)。
 そこで、これに全面的に反論するため、わたしが『沖青同結成以来の活動総括および闘争方針提起(草案)』という文章を書きました。このように青焼きコピーで今も残っていますが(笑)。これを組織内部で議論して意志一致できたら印刷しようと計画していたのですが、わたし以外に誰も了解してくれない(笑)。とくに民族問題、自決権の問題が了解してもらえず、結局この文章は日の目を見なかった。そこで、今日は30年目にして日の目をみさせてみたいと思います(笑)。
 分裂の原因は、大きく分けて二つあった。一つは闘争方針、具体的な運動方針の問題で、もうひとつは思想的、理論的な問題。このうち闘争方針の問題は、簡単に言うと「武装闘争か大衆運動」かという話ですが、まあ30年前のことですし、これはどうでもいいとしましょう。問題は思想的、理論的問題の方ですが、これは今日まで引きずっている問題です。
 わたし自身としては30年前に決着したと思っていますが、あれから30年間、沖縄では今でも同じような議論が何度も繰り返されている。だからその話を集中的にしたいと思うんです。
 この思想的な対立は最初は何処から出てきたかというと、セクトの寄せ集めみたいな状態になっていましたので、沖青同としての思想的、政治的な意志一致ができなかった。その時にフロントから来た上間さんが、「思想的、理論的意思一致を図るためには綱領が是非とも必要だ」と提案しました。
 当時の沖青同には3つの大きなスローガンがありました。「すべての沖縄人は団結して決起せよ」「沖縄返還粉砕」「沖縄人民権力の樹立」というものです。このうち「返還粉砕」については、「反復帰論」でも言いましたが、ずっと、いつまでも復帰しないということです。すでに復帰してしまった時点でも、復帰は認めないと我々は言ってきたわけですから、つまり、永遠に日本に帰属しないというわけですよ。だったらそれは「独立じゃないの」とわたしなどは言うわけですが、これが仲間達にはどうしても分かってもらえない。
 それから「人民権力の樹立」ということをもう少し理論的に言うと、「プロレタリア独裁」でもなく、「労働者階級が権力を握る」ということでもなく、「人民」「人々」なんですから、つまり概念としては労働者のみならず農民、公務員、学生、資本家もすべて入る。とにかく「沖縄の人々」すべてということですよね。
 一方「権力」とは何かというと、具体的には軍隊、警察、監獄、裁判所や議会や行政組織など、つまり政府のことであって、現代ならマスコミも入るかも知れない。とにかく、そういう「沖縄の人民の権力」つまり我々の政府を創ろうというわけですから、だったらそれは独立ではないかということになるはずですよね。ところが、沖青同では「いや、独立ではない」と言う。では何なのかというと、「だから、人民の権力だ」という。こういう堂々巡りの議論になったわけです。
 もう一つは「沖縄人は民族ではない。だから民族自決なんか関係ない」という議論でした。それに対してわたしは「我々は韓国人でも中国人でも台湾人でも日本人でもないんだろう。だったら沖縄民族と言ってもいいじゃないか」と主張していたんです。ところが、S同志は「いや、沖縄人は民族ではない」という。だったら、何なのかというと、「だから沖縄人だと言っているじゃないか」ということになって、ここでも堂々巡りでした。
 こうした議論の中で先に沖縄へ帰っていた上間さんがはじめてレーニンの民族論を提起したんです。この民族問題はレーニンの思想の根本的なところにあります。レーニンの理論を読めばこの議論の答えが出てきます。そこで、わたしも急いでレーニンを一所懸命勉強しました。それをわたしは30年前の文章の第2章で、「民族自決問題の討論の総括」というタイトルで書きました。そこで、当時の議論を次に紹介させていただきます。
 
民族自決権の問題
 1916年の『四月テーゼ』、これが沖縄問題にも実にぴったり合います。まずレーニンはこう言います。
 「社会主義の目的とするところは、小国家への人類の細分状態をなくし、諸民族の一切の孤立性をなくし、諸民族の接近を図るばかりではなく、諸民族を融合させるところにある。なぜなら、大国家が有利な点は経済進歩の見地からも大衆の利益の見地からも疑いがないからである」。つまり、社会主義云々は別としても、人類の遠い未来を見据えれば、例えば経済的にも文化的にも沖縄が本土に復帰し、日本民族と同化していくのも基本的にはいいことなんだと言っていることになるわけです。ただし、そのすぐあとで次のように断っています。
 「しかし、その諸民族の接近・融合を図る際に、まずもって政治綱領として明確に定式化しておかなければならないのが民族自決権の条項である」と。
 では民族自決権とは何かというと、「民族自決権とは政治上の意味での独立権、被抑圧民族が抑圧民族から自由に政治的に分離する権利をもっぱら意味し、分離問題を分離しようとしている民族の一般投票によって決定することを意味する」という。これがレーニンの民族自決の定義です。ちなみに、ここで「一般投票によって決定する」とはっきり言っていることにも注目していただきたいんですが、まあそれはひとまずおいておきましょう。
 ところが、すぐその後で「しかしながらこの要求は、決して分離細分化小国家の要求と同じではない」とも言っています。この部分を捉えて人民権力派の人たちは「だから沖縄が日本から分離・独立するのはよくないとレーニンも言っているじゃないか」というわけですが、しかし違うんですね。
 もうすこし進んでみましょう。わたしはこのあたりの言い回しが大好きだったんですが、レーニンはこうも言っています。
 「勝利を得た社会主義は、まず民主主義を実現しなければならない。したがってそれは民族の完全な同権を実行するばかりでなく、被抑圧民族の自決権、すなわち自由な政治的分離の権利を実現しなければならない。隷属民族を解放し、自由な同盟の基礎の上にこれらの民族との関係を打ち立てることを……ここが好きなんですがね(笑)……現在でも、革命の最中でも、革命の勝利の後にも、そのすべての活動において証明しない社会党、そういう党は社会主義に対して裏切りを行うであろう」。
 また、「社会主義の目的を達成するためには、民族自決権の問題を社会主義の時代まで延期するといった形ではなく、明確に、正確に、定式化された政治綱領として掲げなければならない」とも書いています。
 だから「民族自決権を政治綱領として掲げる必要があるんだ」と、わたしと上間さんなどは提起していたわけです。さらに、続けてレーニンはこうも書いています。
 「この綱領は、抑圧民族の社会主義者の偽善と臆病を特別に考慮に入れなければならない」。みなさん、これ、わかります? つまり、ヤマト民族のことを言っているわけですよ。日本の社会主義者、社会党、共産党、新左翼などを含めて、沖縄を抑圧している側の民族の偽善と臆病には特別に気をつけろよ。例えば、我々が独立を主張すると色々難癖をつけるような文化人や学者連中が出てくるだろうが、こいつらは偽善者なんだぞ、臆病なんだぞ、気をつけろよ、とレーニンは100年ぐらい前から我々に忠告していたわけですよ。ですから当時からわたしは日本のすべての党派、良心的な文化人などを全部否定していました。信用できない。
 ところが人民権力派の人たちは「レーニンの論点は諸民族の融合に力点がある。確かにヤマトの側に対しては沖縄の分離の自由を認めよといっているが、沖縄の側から分離の自由を言うのは間違っている」と主張し、わたしを批判しました。
 別の論文で確かにレーニンは、「抑圧民族の社会主義者が、被抑圧民族の分離結合の自由を認めその民族が何処の国家に所属するか、それとも自立しようとするか、それには虚心でなければならない。また、これに反して小民族の社会主義者は、彼の煽動の重点を我々の一般的形式の第二の言葉、すなわち諸民族の自由意志による結合に置かなければならない」と、確かにそういっています。
 ところが、それも、そのすぐ後で「彼(つまり小民族の社会主義者)は、国際主義者としての自分の意志に違反することなしに(つまり自分の良心にしたがって)、自民族の政治的独立にも自民族の隣接する諸国家、甲国、乙国、丙国への編入にも賛成することができる」とも言っています。そして、「しかし、彼はいかなる場合にも小民族的な偏狭さ、閉鎖性、孤立性に反対して闘い、全体的なもの、一般的なものを考慮に入れることに味方し、部分的なものの利益を全体の利益に従属させることに味方しなければならない」とも言っているんです。ですから、要するに例えば沖縄が中国につこうが台湾につこうが、あるいは独立しようが、それはどっちでもいいんだよ、沖縄人の好きなようにしていいんだよ。ただし、そのときはアジアの情勢をよくみて、アジア全体の利益になるように考えてくれよと、こういうことを言っているわけですよ。

民族問題と独立
 それからもう一つ、「沖縄人」の話です。「沖縄人は民族ではない」といって自決権を否定する意見が沖青同内では当初からありましたが、それは今でも続いている沖縄問題の根本的な思想問題だと思います。
 これについてレーニンは「ユダヤブント」の問題との関連でこういうことを言っています。簡単に言えば、一定の地域に住んでいて、一定の共通する言語を持って、一定の歴史的、文化的な共感を持っているかどうか、これが民族的な存在かどうかの基準なんだということです。そういう意味で「ユダヤ人は民族でない」というわけですから、逆にいえば「沖縄人は民族である」と言っていることになるわけです。我々沖縄人は沖縄という一定の地域に住んでいて、互いに意志疎通のできる共通の言語をもって、かつ歴史的、文化的共感をもっている。だからこそ我々は「すべての沖縄人は団結して決起せよ」という呼びかけに共鳴して沖青同に結集してきたんじゃないか。だったら、我々は民族的存在であり、自決権を主張してもいいではないかと、わたしはそう主張していたわけです。
 今から思えば、確かに不毛な議論だったなあとは感じていますが、しかし、この問題は依然として現在でも沖縄人の間でも解決していない問題です。例えば、前回、この沖縄講座で知念ウシさんのお話があったようですが、彼女も言うように確かにウチナーンチュからはヤマトンチュウに対する批判がいっぱいあるわけです。そして「我々沖縄人は日本人ではない」と言えば、ほとんどのウチナーンチュがそうだと共感してくれますよ。ところが、「だから、我々は民族的存在であり、したがって独立すべきでしょ」というと、「いや、そこまでは……」と、みんな口ごもる。ここに沖縄人の複雑な「県民感情」というものがある。この問題は復帰のときからずっと引きずってきている。そして、今後ともずっと引きずっていくだろうと思うので、こうしてお話をしているわけですが、わたしはその後もこの問題を考え続けてきました。
 
結びに
 しかし、最近はわたしも少し変わってきました。そこで、最後にこの話をまとめる意味で、現在のわたしなりの民族問題に関する考え方を結論的に述べることにします。
 二年前の沖縄サミットの時に、冒険舎(出版社)の宮平さん、内山さんらが主催する沖縄独立に関する講演会がありました。このとき、イリノイ大学の平恒次先生の講演を聞いて目からうろこの思いがしました。30年前「反復帰論」に出会ったときからすれば二度目の目からうろこの体験でしたが、平先生は「先住民族の自決権と独立の問題」に関連してこう言っていました。
 簡単に言うと、「現在の国連では一定地域に住んでいる人々なら、無条件に自決権が認められる」ということです。The Rigts of Peapls Self Ditarmination と言いますが、ここで重要なことは「ピープルズ」という言葉です。つまり「人々」なんです。一定地域に住んでいる人たちが「私たちは独立します」といえば、もう独立できるんです。独立していいんです。国連ではそれを認めるんです。
 これは先にみたレーニンの理論にも通じるところがありますが、とにかく、一定地域に住んでいる人々、人民であればいいんです。日本語ではちょっとやっかいですが、要するに必ずしも「民族」でなければいけないとは国連では言っていない。つまり、中国人であろうが、韓国人であろうが、アメリカ人であろうが、日本人であろうが、とにかく沖縄に住んでいれば自決権があり、「私たちは独立します」と宣言すれば、国連では世界から認められるのです。
 では、その独立宣言というのはどうやってやるのかといえば、さっきのレーニンの話にもでてきたじゃないですか。「……分離問題を分離しようとしている民族の一般投票によって決定することを意味する」と。つまり、武装闘争でやれとは言っていないんです。住民投票でやればいいんです。だから、民族であろうがなかろうが、そんなことはもうどうでもいい。とにかく、沖縄に住んでいる人々が住民投票によって過半数を獲得すれば我々は独立できるんです。ですから、例えば、みなさんが沖縄に移住してですね、住民投票に参加すれば、すぐに独立できるのではないかと思いますが(笑)。
 ところが、残念なことに、今わたしが沖縄でこんな話をしたら、賛成してくれるは多分30人くらいですかねえ(笑)。もっとも、酒飲みながら「沖縄は独立しなければいけないよね」なんていうと本音ではみんな賛成してくれるんですよ。ところが実際に公式の場になると誰もそうは言わない。だから、「居酒屋独立論」なんですけどね(笑)。
 しかし、わたしは信じています。30年間信じてきて、いまさら信じてないとはいえない(笑)。沖縄には独立論は地下水脈のように地底で連綿と流れているんです。必ずいつか独立しますよ。


<(2002連続公開講座『沖縄「復帰」30年を問う』第2回10月18日:かながわ県民サポートセンター)>

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