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国境・国家・大東亜革命
      ●Kさんへの手紙・続




川田 洋


Kさん――
 五年前の『情況』誌に載せた「手紙」の末尾で、次のように書きました。
《続きは、かつて書き散らした「沖縄=国境」論の制約といったあたりを自省しながらになるかと思います。また、よろしく》(「国境・国家・改憲国民投票」、二〇〇八年七・八合併号)
 これはその「続き」です。
 五年前、貴兄は那覇でのシンポジウム「自己決定権のために」を企画し、小生にも参加を求められました。折悪しく生活環境の激変で心身の変調に見舞われていたため要請に応えること叶わず、その記録を特集した『情況』誌編集部の要請で書いたのが前便でした。
 それから五年目の今年五月、再び那覇で「〈沖縄〉を創る、〈アジア〉を繋ぐ」シンポジウムが開かれましたが、今度は企画者の一人である貴兄が悪化する身体を抱えて東京に留まり、小生が同シンポ参加を含む「政治的観光旅行」に出かけるというすれ違いになりました。
 すれ違いはそれに終わりませんでした。訪沖の報告もできぬうち、貴兄は苦しい闘病の果てに他界され、その後になって小生はこんな「続き」を書かねばならぬ仕儀となったのですから。
 残念の極みですが、あえて慣習に背を向け「ご冥福」は祈りません。尋常ならざる克己心をもって間際まで闘争者としてご自身を貫いた貴兄に向ける言葉とは思いにくいからです。彼岸に渡っても貴兄は眼光を現世に向け続けていることでしょう。本便もその霊眼に触れることを祈るばかりです。

はじめに

 今回沖縄行きを決めた直接のきっかけは、山城博治氏の参院選立候補でした。
 今年初めに貴兄から、社民党全国比例区で立つと聞いたとき、のけぞりそうになりました。全国規模の集票組織力か、マスコミ的知名度か、少なくともいずれかの条件を満たさぬ限り議席獲得など不可能な選挙だからです。山城氏は基地撤去闘争のリーダーとして沖縄現地の運動圏では高い知名度を持ち、出身組織自治労県本組織も集票機能を発揮できるでしょうから、選挙区なら勝利の展望も持てるでしょう。しかし内地で彼の名前と存在を知る人はごく限られているはずです。といって絶滅危惧ラインを切りつつある社民党が政党票で二議席を確保できるなどと言うのは夢想でなければ虚説です。したがって現実的には、現職議員の一議席護持のために沖縄票を積み上げ利用すること以外にありえません。
 のけぞりかけて猛然と腹が立って来ました。貴兄も病躯を押して参加された四・二八集会で山城氏のビデオメッセージを視た後、友人と語らって現地行きを決めました。腹が立ったというのは、内地ミニ政党の卑小な利用主義に脊髄反応を起こしたためばかりではなく、「復帰」を前にした四〇数年前の沖縄「国政参加」選挙の記憶がよみがえったからです。
「沖縄の声を本土の国会へ」なる掛け声に象徴されたこの特別選挙に、旧日本社会党は輝ける全軍労委員長・上原康助氏を担ぎ出しバッヂを着けさせました。全沖縄の米軍基地を、言い換えれば沖縄米軍政支配を、震撼させた基地労働者の戦列からトップ・リーダーを引き抜き、一介の陣笠議員として東京へ拉致≠オたわけです。これには前史がありました。沖縄全軍労の基地封鎖ピケット・ストに鼓舞された沖縄のあらゆる民衆運動が合流し、復帰協・県労協から学校、商店街までを含む全島ゼネストへ向う巨大な流れとなったとき、これを封じ込めるために当時の社会党・総評が一役買って、ついには「二・四ゼネスト」が流産したこと、その逆流のなかで全軍労もスト体制を解き組合員の着用するヘルメットをロッカーに収納し鍵をかけてしまったこと、等々です。こうして「国政参加選挙」は、現実の闘いのエネルギーを「本土」へ顔を向けた「投票」行為へ拡散させる過程、まさに「沖縄返還=再吸収・再併合」[1]の政治過程の重要な一環となりました。
今回の参院選での社民党による「山シロ」候補擁立は、実はそれ以下です。山城候補で集められる沖縄票は欲しい、しかし「山シロ」個人票が内地現職のそれを上回って順位逆転したのでは元も子もない。通常なら候補者別に出して大量配布する機関紙『社会新報』号外を「山シロ」版だけは用意しなかったのも姑息な利用主義の現われだったのでしょう。結果はご存知のとおり、沖縄現地の戦線から永田町への山城博冶氏拉致≠ヘ未遂、爬虫類の顔をした現職が議席にしがみついて終わりました。選挙結果の分析は小生の任ではありませんが、沖縄解放闘争の今後を間がる【考える】とき、今回の山城選は小さくない転機を内含しているのではないかと思います。敗北必至の闘いをそれと承知しながら敢えて闘った諸兄姉の義侠心が、その内実を掴み取ることを期待しています。
 一九七〇年当時、嘉手納基地を控える旧コザ市を中心とした現地反戦派労働者は、「国政参加選挙拒否・投票ボイコット」の旗を掲げました。滔々たる「本土復帰」→「国政参加」の流れに抗するスローガンが主流になることはありませんでしたが、「上原さん、東京へ行くな、ふるさとを創れ!」[2]というスピリットが一定の共感を呼び、波及力を持ったことも事実です。その後の「返還協定粉砕」闘争も、全軍労の闘いがゲート前ピケット・ストから牧港兵站部での基地内ストへ前進したのも、歴史経験としてあらためて顧みられてよいのではないかと。
 いささか前置きが長くなりました。本論に入ります。


  
 かつて書き散らした「沖縄=国境」論の制約――若気の至りや未熟さで許されることを削ぎ落として残るものを端的に言えば、「朝鮮」問題の欠落です。それは、「戦後沖縄」の全体像を捉え切れなかったことの帰結だったと顧みて思うところです。「制約」どころか「誤謬」と言われても仕方ない下【が】も知れません。以下、レーニン『帝国主義論』の解読を試みた本誌前号の拙稿とやや重複しますがお赦しください。
 戦後沖縄の全体像の要は、いうまでもなく米軍政支配であり、その軍事基地の支配構造です。それは、「基地依存経済」という言葉が示したように、沖縄社会全体を規定する統治システムでした。沖縄の中に基地があるのではない、基地の中に沖縄がある≠ニ言われたあの巨大な軍事基地が本格的に建設されていったのは、朝鮮戦争が終結してからでしたね。「日・韓・台」反共軍事同盟という言い方がされましたが、五〇年代の冷戦体制における政治的布陣を示す言葉としてはともかく、軍事的にみればきわめて不正確な表現でした。蒋介石国民党統治下の台湾に米軍基地などなかったし、在日米軍基地は戦後平和運動が繰り広げた基地反対闘争の抵抗に晒されていました。アメリカ政府にとっては、大統領の公式訪問が直前に中止に追い込まれた六〇年安保闘争は、日本の反米闘争の集約であり、それを受けて在日米軍基地は縮小、その機能は沖縄に移転されます[3]。すなわち、冷戦期の東アジア反共軍事システムは、分断朝鮮半島を最前線とし、その直接後方に沖縄を配する陣形で構成されたことになります。この韓・沖軍事システムは、米軍太平洋管区司令部の直接管轄にあった、沖縄が「太平洋の要石(キーストーン・オブ・ザ・パシフィック)」と呼ばれたゆえんでしょう。この点から視れば、日本内地の米軍基地はサブシステムといってもいい存在だったと思います。
 政治的に言えば、日本に「平和と民主主義」を移植したアメリカは、朝鮮半島には「戦場」という位置づけで臨み軍事独裁政権を擁立したし、沖縄は自ら軍政を敷きました。「押付け憲法」説がありますが、沖縄や朝鮮半島は押し付けられることさえなかった事情、前便で述べたとおりです。
 かつてのわが「沖縄=国境」論は、こうした戦後沖縄の全体像を明確にせぬまま、日本−沖縄関係を近代百年の歴史軸で考えていたことになります。実践的な関心事が戦後進歩派の「沖縄返還」論(最左派としての「奪還」論)のナショナリズムを批判するところにあったのですが、右のような「戦後沖縄」の構造的特質を全体把握しない「国境」議論は、これまた左翼ナショナリズムの一変種ではなかったかと、顧みて思わざるをえません。
 中国についてはそこそこ目を向けていました。近代日本にとって最大の〈他者〉と考え、拙いながら自分なりの中国革命像を模索してもみました。これらが無意味であったという精算【清算】主義はとりません。しかし、それにしても「朝鮮」の欠落はあまりにも明らかです。一九六五年日韓条約反対闘争では「沖縄」に関心は向かす【ず】、沖縄を考えるときには「朝鮮」が欠落する、いったいこんな政治観はどこから来たのか――「革命」観の一国主義だったとしか思えません。それを集約的に表現していたのが「自国帝国主義打倒」論ではなかったかと。
 新左翼諸派はスターリン主義「一国革命」に「世界革命」を対置し、日本共産党の「民族民主二段革命」路線の民族主義に「プロレタリア革命」の階級闘争主義を対置しました。「自国帝国主義打倒」論は後者の必然的帰結であり、この二つは「日本革命が世界革命の突破口になる〜する」という自負にねじり合わされていたはずです。そこに「民族主義」に対する濃厚な嫌悪感が流れていたことは否定できません。結果、「民族解放」を掲げる後進国革命を低位に視る「先進国革命主義」への傾斜が生まれます。
 ベトナム戦争が激化しベ平連のイニシアティブでベトナム戦争反対運動が始まった時の対応がまさにそうでした。「反帝・反スタ」是非論争も「世界資本主義」か「国家独占資本主義」かといった議論も、ベトナム戦争の世界史的意味を捉える実戦理論には結びつかぬまま大衆運度の広がりを後追いしていったのが実相でした。「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを創れ」というゲバラ・アピールがようやく「世界革命」主義に共鳴して街頭行動の急進化を追及したのはいいのですが、今度は、先行したベ平連市民主義を「第二戦線」視し、それが持った社会基盤の広さや深さについても、米軍脱走兵支援に発揮された非公然活動の実践力についても、具体的な理解を深める契機を持てぬまま、戦術エスカレートに身を委ね、結果、自らのイニシアティブが喚起した民衆の闘争力から自らを切断し、主観的「革命」観念に自閉していったというほかありません。「国境を超える革命」が無自覚のうちに「国境」のうちに自閉していったのです。
 もちろんさまざまな模索はありました。「東アジア革命」や「極東解放革命」といった党は【派】スローガンにみられた「アジア」志向もそうだったとは思います。わが「沖縄=国境」論もこの時期の模索のひとつに数えられるでしょう。当時どれほどの意味を持てたかは別として、やはり左翼ナショナリズムを抜けきれていなかったとすれば、特段の優位性を主張するわけにはいきません。



 ソ連社会主義の崩壊以来、「東アジア」言説が多方面で登場してきました。立場も内容もさまざまですが、文革後の中国が改革解放へ転じたこと、韓国・台湾で民主化がめざましく進んだこと、それらを条件として中・韓、ソ(ロ)・韓の国交正常化が実現したことなどを背景としている点は共通だと思います。小生などは、歴史認識が後継【後景】に退き、否定に媒介されない「経済成長共存論」的な論調が多数を占めているところ、大いに不満です。特に左翼の側からこうした傾向に同調していく傾向を見ると、「すべての歴史は階級闘争の歴史である」という『宣言』テーゼが試される時代を感じます。
「東アジア」を語るなら、特に帝国主義日本で語るなら、戦争と革命の歴史認識を再構成することが積極的に主題化されるべきではないでしょうか。先の「戦後沖縄」の全体像はここに深く関わっているはすです。
 戦後沖縄を規定した東北アジアの軍事構造は、対中包囲網の一環であり、東西冷戦構造の有機的構成部分でした。それは、第二次世界大戦を契機としたアジアの革命がひとつのサイクルを閉じて生まれた均衡関係。戦時−戦後革命の敗北が帰結した秩序構造として捉えることができます。
 その革命とはいかなるものだったか――第一に日本ファシズムに抗する革命(=「抗日」)であり、第二に、日本ファシズム崩壊後のアジア秩序再編に抗する革命(=「反帝」)です。これを一箇の総過程として掴み取ることが、革命の歴史認識の軸をなすはずと思うのです。
 その鍵は、大日本帝国が遂行した戦争の理解です。戦後進歩史観はこの戦争を「太平洋戦争」と呼び習わし、国民的戦争体験をもっぱら「被害」の相で集約することに多大の影響を及ぼしました。一九七〇年前後からこれに「加害」の相を追加補足した「アジア〔・〕太平洋戦争」の呼称が登場し、「歴史教科書」論争にみる「歴史認識」議論が戦後的国民意識を引き裂いてきました。しかし、連合国との戦争とアジア侵攻と二つの戦争があったわけではありません。現実に進行したのは「大東亜戦争」という一つの戦争です(その意味では年数だけの「十五年戦争」のほうがマシです――ただ無内容ですが)。そして旧日本軍のアジア侵攻は「侵略」に留まらず「反革命」だった、むしろ「反革命」が「侵略」の基礎だったと考えるべきでしょう。なぜならそこには「革命」があった――中国人も朝鮮人も、ただ黙って「犯し尽くし・殺し尽くし・焼き尽くし」されていたわけではなく、抵抗と解放の闘いを自力で組織していたからです。大陸侵攻を「侵略」の相に切り縮めるときこの「革命」が視野からスッポリ抜け落ちます。結果、「加害」の意識は歴史性を剥奪された倫理主義へ転じてしまいます。「自虐史観」なる右からの批判はここに根拠をもって登場した点、軽視してすむものではないはずです。
 大東亜戦争が理念として掲げた「大東亜共栄圏」構想は、日本の帝国主義的膨張という一国主義ではなく、ひとつの擬似世界戦略でした。ナチス・ドイツの「ヨーロッパ第三帝国」がドイツ一国を超えたものであったのと同じく、「大東亜共栄圏」も日本という「国」を超えたもの、すなわち「超国家」主義でした。それは、主観的には国民国家的近代の止揚を企図するものでした(「近代の超克」論)。現実に企図されたのは「全世界」の統合ではなく「ブロック化」政策であり、仮に成功したところで次にはブロック間の抗争が不可避となることは、戦時下に「日支同時革命」を構想した尾崎秀実がつとに指摘したとおりです。
 反革命がこうした擬似世界戦略を必要としたのは、対する革命が民族や国境を超えて展開されていたためにほかなりません。
 その事情を端的に物語るのが、戦時下における朝鮮解放闘争の展開です。延安に身を置いていた朝鮮人革命家キム・サン(金山〔本名=張志楽〕は、何日にも及ぶインタビューに応えて、祖国朝鮮から満州・北京・上海・広州そして延安を股にかけた活動の足跡を語りつつ、現下の革命が今や日本にまで波及しつつあるとの認識を述べています[4]。また、傑出した民族主義者キム・グ(金九)も、上海、ついで重慶で活動しました[5]。
 日本ファシズムの反革命との抗争をもっとも戦略的に展開したのは、いうまでもなく中国の革命運動でした。この反革命−侵略が中国の抗日統一戦線を基礎に、文字通り「中国革命」へと成長・発展させた過程と機制については、かつて少し解明を試みたところですが、大陸における日本軍兵士の反軍・反戦闘争を組織的に援助するとともに(鹿地亘『日本人民反戦闘争同盟資料』同成社)、日本へ強制連行される「捕虜」の中にオルグ要員を送り込み、敗戦後の日本の闘争との連携を意識的に用意したことは殊に重要です[6]。
 こうして日本で敗戦を迎えた中国人共産主義者は、各地で日本人活動家との接触に入ります。獄中共産党幹部の釈放に先立つ、占領軍将兵として日本に来たアメリカ共産党員を含む小さな会合は、ひとつの象徴と思えるので、やや長くなりますが現場証言を引いておきましょう。
「〔一九四五年〕九月末か十月初旬のことである。台東区稲荷町の私の家に、中国と米国とわれわれ三国の顔ぶれが集まった。
 その動機は、中国の八路軍の人で、日本に捕虜として連行され、北海道の炭鉱で働いていた二人の八路軍の軍人――八路軍とわかれば銃殺されていたが、隠しおおせた人びと――が、終戦で釈放され、『労農通信社』をたずねてきたのである。『労農通信』の責任者であった浅田謙次は友人である共同通信記者の楊春額に連絡し、同時にアメリカ関係にも連絡してもらった。そして私の家に集めることにしたからとの連絡があった。……来訪した人びとは、
 人民社  佐和慶太郎、浅野謙次、中西功
 中 国  楊春額(通訳をした)と八路軍の二名
 米 国  塚原中尉(二世)、ネルソン少尉
の八人であって、私を加えて九人の懇談会が開催された。
  …(中略)…
 この懇談会で議論の中心になったのは、天皇制の問題であった。
 塚原中尉は、天皇制がいかに残忍であるかを強調した。
 中西は統一戦線の立場で、どうあつかうかを提案していた。
 私は、天皇制は崩壊させねばならぬが、天皇自身をギロチンにかけることには賛成しかねたので、伊勢神宮の宮司にしてはという考えがあったが、この場ではいわなかった。
 八路軍の二人は、信仰としての天皇をどうするかといった意見をのべた」(松本健二『戦後日本革命の内幕』亜紀書房)。
 「国際天皇制論争」という小見出しが付されたこの記述で特に重要と思うのは、二人のアメリカ軍人の参加です。後の共産党が体質化した「反米民族主義」-「ヤンキー・ゴーホーム」イデオロギーのかけらもありません。戦勝国アメリカ、敗戦国日本、そして勝利しつつある革命中国の共産主義者が、天皇制ファシズムという巨大な反革命権力の崩壊過程に立会って、その前途をめぐり、文字通り「国境を超える」議論を展開しているのです。
 戦争遂行権力の崩壊は、なによりその軍の崩壊です。天皇制軍隊の崩壊は、太平洋戦争の軍事的敗北(その最後が沖縄戦)だけではありませんでした。「八・一五」降伏の後も日本軍の地上兵力の過半は大陸に残存し、日本の敗戦にともなう国民党軍・共産軍双方による武装解除を経て一部は双方に組み込まれ、続く国共内戦で闘い合いました。内地では「二・二六」反乱でもついに実現することのなかった「皇軍相撃」が、現実のものとなったわけです。それは、反革命軍隊が革命に媒介されて自己分裂を起こしたことを意味します。ポツダム宣言受諾でかろうじて天皇の地位保全=「国体護持」を取り付けた政治過程は、この「皇軍相撃」体験が国内へ還流すること、それを媒介した革命が反革命・侵略の回路をたどって国内へ逆流することをめぐる攻防となります。「早く戦争をやめないと赤色革命が来てしまう」という上奏文に表れた近衛文麿の危機意識は、まことに正しかったというほかありません。
「戦後日本革命」は「日本」の国内過程ではなく、大東亜戦争に対する大東亜革命の一環であり、この「国境を超える」革命の戦後的展開が朝鮮半島に集約的に展開されます。朝鮮戦争に対する反戦闘争は、日本の敗戦革命の最後の局面でした。バルカン半島以外の戦後ヨーロッパが「冷戦」だったのに対し、アジアは南アジア、東南アジア、そして東北アジアで「熱戦」です。この戦後アジア革命に対する戦後反革命の盟主としてアメリカ帝国主義が登場し、インド・ベトナム・朝鮮半島の分断で戦後アジアはようやく「冷戦」秩序へ移行します。分断朝鮮半島を最前線とし、その直接後方に沖縄を配する韓・沖軍事システムは、この秩序の機軸として一九五〇年代に本格的に構築されることになります。
 第二次世界大戦後の「西側」世界権力は、戦前の「ブロック化」に替わって「自由化」を機軸に世界市場の統合再編を推進します。ベトナム戦争は、この世界市場再編に旧植民地地域を抱合する「開発援助」政策と不可分の軍事的展開でした。それが泥沼化し後退を余儀なくされ始めた時期に、沖縄施政権返還が現実の政治日程に上ります。一九六〇年代末から七〇年当時の沖縄米軍基地は、北爆へ向うB52の発信基地として、また海兵隊を中心とする地上部隊の出撃・補給兵站拠点としてフル稼働状態にありました。軍用機の墜落・炎上事故、増員される米兵による犯罪が頻発し、本国の黒人解放闘争の進展を反映して黒人兵と白人将兵との対立も常態化します。
 脱走兵援助組織PCS〔パシフィック・カウンセリング・サービス〕のスタッフが米ブラック・パンサーのプロパガンダ・フィルムを携えてコザの反戦青年委員会を訪れ、上映会の手配を依頼してきたことがあります。小学校の教室を借り16ミリ映写機を用意したのは中頭教職員会のメンバー、タイプ謄写で英文ビラの原紙を作ったのはアメリカ人スタッフ、それを印刷した輪転機がどこのものだったかはもう記憶の彼方ですが、夜の上映会には嘉手納の黒人へい【兵】たちが定刻、数台の車で乗り付け、黒ベレーに皮ジャンの武闘訓練やデモの映像に歓声を上げ床を踏み鳴らし、そして終わるとまたバッと一斉に引き揚げて行きました。非番の日には派手な縫い取りのジャンパー姿で肩で風を切ってのし歩いていた彼らは、コザの街頭で反戦のメンバーに出会うとニヤリと笑って拳を突き出し「連帯の挨拶」を送っていました。
 嘉手納のゲート前通りに並ぶAサインバーもその頃には「米兵専用」の制限も緩くなり、沖縄人の出入りも頻繁でした。一度「見学」に行ったとき、たまたま隣り合わせた若い黒人兵から「沖縄人は日本人なのか?」と訊かれて戸惑ったことがあります。聞いてみると、沖縄配属を前にハワイで受けた教育では、沖縄人はかつての上陸作戦のときには非常に協力的で日本人とは異質な人びとだと教えられたが、実際に来てみると日の丸を掲げてデモはあるわ、基地のゲートではピケットを張るわ、どうも話がちがうという疑問でした。英語のできる反戦メンバーは、日本へ復帰すればこの巨大基地の抑圧から自由になると日の丸デモもするが、沖縄には長い差別の歴史があり、米軍の上陸時に日本兵摘発に協力した背景もそれだ、といった趣旨のことを懸命に説明していました。それを聴いた黒人兵は「アメリカの黒人と似ている」と納得顔でカティーサークのグラスを上げていました。
「日の丸復帰」が「反戦復帰」へと色彩を変えつつある時期、「反米民族主義」とは異質な連帯感覚が、少なくともコザの一角には生まれていたのです。



 四〇数年ぶりの中部沖縄はまったく様変わりでした。左側通行になった道路は整備され、わが物顔で轟音を立てていた米軍車輌に替わってピカピカの乗用車がすいすい走る、浦添の牧港兵站部はフェンスを残してがらんどう、巨大な石油基地が完成した平安座は立派な海上道路でつながり、満潮時には船、干潮時にはトラックが海水を踏んで行き来していたなど想像もつきません。嘉手納基地のメインゲート前には高速道路の高架橋が架かり、北側の美里村を併合して「沖縄市」と名前を変えたコザの街頭にアメリカ兵の姿は見当たらず、そして何より緑が多くなった。白茶けて埃っぽかったコザ周辺に高い樹が群生しているのは感銘を誘います。再会した元反戦労働者の一人は、老いさらばえた小生の風体をしげしげと眺めて四〇年という時間が実感できる≠ニ言っていましたが、まさに四〇数年、沖縄戦から復帰に到る米軍政支配をはるかに超える「沖縄県」時間を経て、オキナワはニッポンになったことが身に染みました。
 それだけに、現在の米軍基地の存在にはいよいよ異常な感じを強く強く覚えます。普天間基地の全景を一望できる北側の公園の石段を登る途中で、離陸するオスプレイをほぼ真下から観ることになりました。輸送用ヘリのローターよりずっと直径の小さなプロペラで大型の機体を浮上させるには、非常な高速回転の推力が必要とされるのでしょう、たちまち低い雲に吸い込まれていった残像は、異常に大きなエンジンブロックが特に印象的で、あの軍用輸送機そのものの異常さを物語っているように感じました。
 今回の旅程は、J/Yご夫妻の格別な手配と配慮をいただき、北は辺野古現地から南は平和祈念公園まで足を延ばすことができました。平和祈念公園にある「平和の礎」には、沖縄戦の犠牲者の名前が軍民・国籍の別なく刻まれていますが、この「礎」事業が篤志の韓国人の手で始められたことは、とりわけ重要だと思います。

 沖縄をめぐる政治関係もまた様変わりです――とりわけ「尖閣」問題。「大東亜戦争−大東亜革命」、「対中包囲網」を引き継いで、問題の中央に位置するのは中国です。
 まず、観察的事実をいくつか並べて起【お】きましょう。
 日本の世論が中国の「改革開放」に新時代への期待を膨らませ、俄か友好企業の中国進出が急増していた二〇数年前、東南アジアで「中国脅威」が現実の問題として語られ始めました。特に「NIES」の中でも経済ポテンシアルが高く、かつ陸続きのタイでこの傾向は明瞭でした。タイは東南アジアでもマレーやインドネシアのような華僑迫害の歴史は希薄で、在タイ華人社会は安定した地位を保ってきました。「脅威」はその在タイ華人ではなく、北から浸透してくる中国の巨大な影です。「国境貿易」に群がり、現地妻を持って金儲けに熱を上げる漢族商人の行動などが日本も報道されるようになったのは十数年前からでしょうか。
 たまたまめぐってきた訪中機会が北京や上海ではなく雲南省だったので、一も二もなく行くことにしました。中国語はからきしですが、標準北京官話が南部で通じるわけもなく、一人で会議に放り出されるのとちがって通訳・ガイド付の小グループですから、言葉の心配は措いての初訪中です。州都昆明から石林という観光スポットまでマイクロバスで高速道路を走りました。その先はまだ開通していないので、どこまで延ばす計画かとガイドに尋ねたのは、もちろん国内を念頭に置いてのことだったのですが、返ってきたのは「シンガポールまで」。ビルマ領を挟んでタイを南北に縦貫し、マレー半島を縦走してその先端までという意味です。これには本当にのけぞりました。
 頭の中で「大東亜戦争」が明滅します。この道路はかつて日本軍が叩いた「援蒋ルート」のひとつを逆にたどるものにほかなりません。反革命の回路が革命の回路に反転するなどと言えるものでないことは明らかです。他方、マレー半島からシンガポールへと聞けば、敗走する英軍を自転車で追撃した「コタバル上陸作戦・マレー銀輪部隊」の故事が浮かびます。大東亜戦争の日本軍ではまったく別な軍事行動の舞台だった地域が一本の道路に結び合わされる、これがガイドの返事で小生の脳裏に浮かんだ「赤色帝国主義」の幻影です。戻って来た昆明市では、タイ・ビルマ・ベトナム・カンボジア・ラオスなどの領事館がずらりと並ぶ後ろに、中国人民銀行の巨大なビルがそそり立っていました。
 次にベトナム訪問の機会を得て、ハノイからサイゴン、いや「ホーチミン市」まで陸路をたどりました。印象的だったのは、アメリカに対する好感と中国に対する強い警戒が大きなコントラストを示していたことです。これまた通訳を介しての話ですが、アメリカがベトナムで悪いことをしたのは高々二五年間のこと、それに対して中国は数千年にわたって越南=ベトナムを圧迫してきた長い歴史があるというわけです。実際、中国国境に近い北部の観光地では、中国人の姿が目立ちました。ベトナムから中国へ向う経路が、戦時中もうひとつの「援蒋ルート」だったことは指摘するまでもないでしょう。
 限られた体験での観察的事実はとりあえず以上です。いずれも七、八年前のものですが、ここから現在への視軸を探ってみたいと思います。
 ベトナムと中国の紛争案件のひとつに、南沙諸島=スプラトリー諸島の領有権抗争があります。日本では他所事のように扱われるこの領域もまた大東亜戦争の圏域だったこと【を】頭の隅にでも刻んでおきましょう。日本は一九三六年に領有権を宣言し「新南群島」と命名、敗戦まで支配していたのですから。現在ここの領有権を主張しているのはベトナムと中国のほか、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、台湾と、きわめて多国籍紛争ですが、ベトナムと中国は一九七四年と八八年の二度にわたって軍事衝突に到っています。「尖閣」をめぐる日中対立の比ではありません。近年中国が海軍力の増強に邁進しているのは、アフリカ資源獲得を意識したインドとの競合と並んで、この南沙諸島領有問題が大きいはずです。
 右の第一次海上衝突へ向う時期が沖縄返還と前後していることは注意を惹かれます。四〇数年前のあの時期、やはり「尖閣」が浮上し、明治の琉球処分をめぐる清国との間での領有権分割=「分島問題」が取りざたされた歴史を踏まえ、このときは台湾国府が「尖閣」領有権を主張しました。米中国交回復で国連の代表権は台湾国府から中国へ移り、続く日中国交正常化交渉で棚上げ≠ウれてきたわけですが、その「尖閣」があらためて対立案件に浮上し、「国境」に位置する沖縄の政治環境を大きく変動させているわけです。中国の新造艦艇と海上保安庁の巡視艇とが神経戦を繰り広げるなか、当の海域で生きる現地漁民は操業を制約され死活問題になっていると報道されています。事情は同じ海域を魚場とする台湾・中国の漁民にとっても変わりないはず、という視点はほとんどないのが現代日本のマスコミ 報道ですね。それは、唐突な「国有化」宣言で一挙に対立を激化させた前政権の愚昧な外交姿勢に見合った見識水準というべきものでしょう。
 こうした東亜情勢で重要なのが韓国の動向だと思います。むしろ中韓関係というべきでしょうか。
 朴槿恵大統領が習近平主席に大歓迎された去る七月の中韓首脳会談で、中国は共同声明に「南北の平和統一を支持する」と明記し、北朝鮮の「自主的平和統一」より韓国の統一政策を支持する姿勢を明確にし、外交筋や国際ジャーナリズムの注目を集めました。中国が北朝鮮の指導者より先に韓国大統領と会談するのはこれまで例がなく、両【竜】首脳がいずれも新任とあって「中韓新時代」を華やかに演出した今回の首脳会談ですが、しかし韓国ではその後、過度の対中接近を警戒する論調が相次いで伝えられています[7]。
 つい先日の朴大統領のベトナム訪問を、日本のジャーナリズムはもっぱら「原発セールス外交」として伝えていましたが、右のような政治過程をみれば、対中・対米関係の今後を念頭に置いた高度に政治的な対応として理解すべきかと小生などは考えます。
 米中二大覇権国の狭間にあって、韓国も北朝鮮もベトナムも、外交力を研ぎ澄ませています。この間の政治過程を一瞥すれば、前民主党政権も復活自民党政権も、東アジアの政治動向からほとんど蚊帳の外に置かれているに等しい。帝国主義としては四流どころといったところでしょう。その日本の生産力ポテンシアルを米中が分割収奪するプログラムとしてTPP交渉が最終段階を迎えようとしています。浮かれすぎの五輪招致もその文脈と無縁という保障はありません。
 今このとき問われるのは、民衆の生活過程を繰り込む運動展開だと思います。
 社民党はあらゆる活力を喪失したというべきでしょう。しかし沖縄では事情が異なるはずです。山城氏が先頭に立ってきた反基地闘争があらためて沖縄民衆の生活過程を繰り込んでいけるならば、貴兄らが強調してやまぬ「自己決定」の展望を切り開く力になるのではないかと、ひそかに期待しております。民衆の「自己決定」権とは権利から権力を展望するものでしょう。その権力が「国境」に孔を穿つことによって生命力を再生産することが、小生の「期待」の内実です。

むすび

 コザで再会した旧友から、かつてML派で闘っていた高校生の消息を聞くことができました。復帰へ向けた基地合理化で解雇されたお父さんが生計の途を海外に求めてアルゼンチンへの移住を決めたとき、反戦の事務所を訪れた彼は父親の苦悩を語り、自分も移住することを皆に告げました。向こうでの家業は花屋かクリーニング屋の見込みとか。先住沖縄移民のネットワークが受け入れを用意してくれるようでした。家族と共に沖縄を後にしたこの青年は、その後アルゼンチンの沖縄県人会で活躍し、先年その会長として沖縄を訪れたそうです。
 沖縄には明治の民権運動と結びついた海外移民の長い歴史があること、ご存知のとおりです。戦後復興から経済成長の軌道を歩んだ内地では過剰労働力の吸収が進み、海外移住を促進する「移民=棄民」政策は一九六〇年前後で収束しますが、「分離支配」下の沖縄では、むしろ整備・充実され[8]、「基地依存経済」から基地のほうが離陸する復帰過程で重要になります。一九七〇年当時も南方同胞援護会が各部落に出張所を常設し、移住希望の受付業務に当たっていました。
 移住からしばらくしてブエノスアイレスからもらった絵葉書は、「共産主義者はこっちではコムニスタという。アルゼンチンは、肉が安くて美人が多い」――およそこんな文面でした。いかにもらしい≠ニ思いながら読んで、数年前の流行歌を思い出しました。
   ♪天国ヨイトコ 一度ハオイデ
    酒ハウマイシ 姉チャンハ キレイダ
     ウッファー ウッファー ウッファッファー
 貴兄はもう現世のしがらみから完全に自由なはずです。ガンコ・ガマン・ガンバルのストイシズムはこの世にサラリと遺棄し、魂の自由を存分に堪能してください。

 では、いつか――風の中で。
                                   (九月十日)


【註】
[1] 当時小生らはこの政治過程を「第三次琉球処分」と呼びました。明治の「琉球処分」、サンフランシスコ講和による分離支配=「売り渡し」、それに次ぐ第三次≠ニいうわけです(社学同・一条信路編『七二年沖縄返還=第三次琉球処分と全軍労闘争』一九七〇年三月――この内容はTY氏主導になる小グループでの討議を文章化したもの。「第三次琉球処分」という呼称だけは小生のアイデアだったかもしれません)。
[2] 九州・大正炭鉱に拠を置いた故・谷川雁のスローガンのモジリ。これを当時現地で文字化できなかったのは残念でした。今となっては笑い話でもいいのですが。
[3] この点で、六〇年安保闘争は内地の米軍基地を沖縄に押し付けるものだったと言うことができます。それに先立つ一九五六年の砂川闘争で、当時の浅沼社会党書記長が「核兵器など沖縄かタイへでも持って行け」と演説したことを前便で紹介しました。この浅沼演説の記録を捜して国会図書館の資料検索も(某議員秘書を通じて)試みたのですが、「ない」との返事でした。社会党〜社民党が「いくらなんでもマズイ」と廃棄・抹消した可能性を否定できません。かつて利用した南方同胞援護会編『沖縄問題基本資料集』で視たかと思うのですがすでに手許になく、古書ネットをみると第二版に替わっていて、初版収録資料がそのまま保存されている保障もありません。
[4] ニム・ウェールズ、キム・サン『アリランの歌――ある朝鮮人革命家の生涯』(松平いを子訳、梶村秀樹解説、岩波文庫)。ニム・ウェールズは、朱徳の評伝『中国の赤い星』で知られるエドガー・スノーの妻ヘレンのペンネーム。
 キム・サン=張志楽の略歴を、ヘレン・フォスター・スノー『中国に賭けた青春』(春名・入江訳、岩波書店)の註から引いておきます。
「二〇年代に上海で大韓民国臨時政府の周辺にあり、マルキシズムの影響を受け中国共産党に入党。一九二七年、広州コンミューンに参加。その後、北京市委員会組織部長などを務める。二度にわたって逮捕されるが釈放され、三五年、中国における朝鮮人同志を糾合して朝鮮民族解放同盟を結成、その代表として延安に移り、抗日軍政大学で教えているあいだにヘレン・スノウと知り合い、その経歴を語る。三八年、トロツキスト、日本の間諜の容疑で処刑された。八三年に名誉回復」。
[5] 『白凡逸志――金九自叙伝』(梶村秀樹訳・注解、東洋文庫)。蒋介石によるクーデタ後の上海で地下活動に移っていた中国共産党が信をおいた数少ない朝鮮人政治家の一人が、この金九だったと言われます。
[6] 平岡正明編著『中国人は日本で何をされたか――中国人強制連行の記録』(潮出版社)。
 今この事実を取り上げることは、右派からは「中国の日本侵略」悪宣伝の好餌とされるでしょうし、それを警戒する進歩派は敢えて無視しようとし、一国主義左派からは「革命の輸出」として否定的に扱われることでしょう。世界革命派は現在の視点と立脚点を問われます。
[7] 「『同盟』を結べと韓国に踏み絵をせまる中国」
 (日経ビジネス・オンライン、八月二九日付)
  http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130827/252648/?P=1
[8] 戦後沖縄では分離支配確定直後の一九五三年、琉球政府と米国民政府の共同出資で法人「移民金庫」が設立され、渡航資金や渡航先での事業資金などの融資を行って移住を援助します。同「金庫」は一九六〇年に「琉球海外移住公社」に改組されました。

(『共産主義運動年誌』第14号2013年10月1日発行)


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