Toppage Critic 談話室(BBS) 図書室 リンク Emigrant


『沖縄の自治の新たな可能性』最終報告書bU
沖縄自治研定例研究会議事録/期間:2004年10月〜2005年3月/場所:琉球大学


はしがき/仲地 博
照屋寛之『戦後初期の沖縄の諸政党と独立論』

W.構想案『憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法』

●はしがき/仲地 博

 本報告書は、文部科学省の科学研究費の給付を受けた「自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−沖縄の自治経験と新たな展望をもとにー」(2002年度から2005年度)の第5報告集である。本研究の正式な研究テーマと研究目的は次の通りである。

研究テーマ
 「自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−沖縄の自治経験と新たな展望をもとに−」
研究目的
 @国際統合、地域統合が進展し、主権国家の役割も姿も変容を迫られつつある。その中で地域の役割が大きな意味を持ち始めており、その表象として地域の基本法の研究が時代の要請となってきている。
 A本研究の目的は、地域の基本法・自治基本条例の理論的、歴史的、国際的比較、総合的な研究を行うものである。参加研究者が、理論面とともに沖縄という地域を意識した実践的研究を行い、(その産物として)市町村レベルと県レベルの自治基本条例・法の試案(モデル条例)を案出することにある。
 B沖縄県内の自治制度の研究に実績のある憲法・行政法・行政学・政治学者研究者を一堂に集め、さらに自治体職員及び議員等との意見交換をふまえ、国内外の最新事例を幅広く調査検討し、自治体の憲法と言われる地域づくり・自治基本条例に関する研究会を形成して研究目的を追求する。

 本研究に着手した2002年当時、道州制についてのメディアや世論、自治体等の関心は決して高いとは言えなかった。2003年8月に、小泉総理が北海道の道州制特区を具体的に指示する頃から、道州制は現実的課題と意識され、各都道府県や自治研究団体は、きそって道州制の検討に乗り出した。
 本研究は、「自治基本条例」をテーマに据えているが、基本条例の基盤にある自治体の姿が真のテーマであったと言ってよい。すなわち、県レベルの自治基本条例を終局的目標とした本研究にとって、当初から道州制そのものが重要な関心事であったといってよい。
 沖縄で自治を構想する者は、誰でも国との関係に思いをいたす。団体自治という言葉に見られるように国との対抗関係で自治を考えるのは当然のことであるのだが、とりわけ沖縄の歴史を背景にすれば、そして、現在の自治が過去の所産であることを思えば、沖縄が国との関係を機軸にして自治を考えることは必然なのである。
 沖縄では、明治以来自治・自立を構想して来た歴史を持つ。本研究は、自治についての理論的、歴史的、国際的比較を手段にしつつ現実と切り結んできた。理想と現実、学問と実務の相克を克服することを試みたとも言える。多くの研究者や実務家、ジャーナリスト、市民の議論が結集されているが、それゆえ、逆に未成熟、相互の矛盾、非現実的、没理想という批判がありうるであろう。未完の研究であるが、それでも、研究の経過を世に問い続けてきたわけは、沖縄の自治のみならず日本の道州制の議論の深まりに寄与することを信じたからである。

 ここに3年間の研究の軌跡を記しておく。
 初年度上半期は、理論的・基礎的テーマについて研究成果の交流(報告書bP)を行い、初年度下半期は、自治基本条例のモデル素案の作成(報告書2)を行った。2年目上半期は、自治の実態の分析とともにモデル条例の深化(報告書bS)をはかった。2年目下半期は、沖縄県レベルの自治のあり方に主たる焦点をあて、自治の理論と動態を広い視野から検討すべく、この分野の第一線の研究者を招き研究の交流を行った(報告書bS)。
 最終年度の上半期は、沖縄の自治構想の歴史的研究を集中的に行った。同時に研究会を3つの班(主として政治学研究者からなる班、憲法研究者からなる班、行政法研究者からなる班)に分けそれぞれの分野からの自治構想を研究した(報告書bT)。下半期は、その成果を受け、三つの構想を中心とするシンポジウム、さらに、それを踏まえ、「沖縄自治州基本法」の研究会が継続的に行われた。他方で、研究者の研究論文の取りまとめが行われた。

 本研究は、上記研究目的のABで述べたように、住民、自治体職員や議員の参加により、現実から遊離しない理論と実践の架橋を目指している。今期も広く一般に公開した。
 合併問題、財政危機は、今期も連日のようにメディアで報道され、住民投票、リコールなど住民参加の要求も強い。道州制の議論も県庁内部や住民の間で始まっている。そのような背景のもと、本研究に対する関心も高い。科学の地域貢献としても評価し得るものと思う。

2004年度下半期活動記録
○ 2004年10月16日
 沖縄自治研究会自治基本条例研究プロジェクト中間報告 シンポジウム「沖縄の新たな自治を提案する」
○ 第1回研究定例会(10月30日)」
○ 第2回研究定例会(11月13日)
 「前文」、「人権」
○ 第3回研究定例会(11月27日)
 「沖縄における自治の基本法則」、「国との関係」
○ 第4回研究定例会(12月18日)
 「財政」、「沖縄自治州と市町村の関係」
○ 第5回研究定例会(1月8日)
 「市町村」、「沖縄州の統治機構」
○ 第6回研究定例会(1月22日)
 「前文」、「沖縄の沖縄自治基本法の法的位置づけ」
○ 第7回研究定例会(2月5日)
 総まとめ会議@
○ 第8回研究定例会(2月27日)
 総まとめ会議A

[以下略・5に同じ]

平成16年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)(2) 課題番号14320008 代表:仲地 博
−自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究−最終報告書・5
「沖縄の自治の新たな可能性」定例研究会議事録
発行日 2005年3月
編 集 島 袋  純
発行者 沖縄自治研究会
 琉球大学文系総合研究棟702〒903-0213沖縄県西原町字千原1番地 電話&FAX(098)895-8473
 Email:junshima@edu.u-ryukyu.ac.jp URL:http://jichiken.at.infoseek.co.jp


照屋 寛之『戦後初期の沖縄の諸政党と独立論』

Tはじめに

 沖縄は歴史的、地理的に独立論が台頭しやすい土壌がある。その理由は、まず1609年に薩摩の侵攻、それから1879年に日本による併合、1945年は米軍統治下、それから1972年の祖国復帰というようなことで、沖縄は不本意にもこのような歴史的な体験をしなければならなかったことが考えられる。「こうした歴史の中で近代沖縄の運命を決定づけたのは、1879(明治12)年に行われた明治政府による廃藩置県である。ひとつの県として日本の版図に強制的に組み込まれて以来、沖縄の主体性・独自性が国益の名の下に無視され、差別され、苦渋の歴史を背負わされてきた」。そして、この差別の歴史的な体験というのが、この独立論の根底の中にあるのではないかと思う。もし差別ということがなかったならば、このように独立論というのは底流をなして脈々と今日まで受け継がれることはなかったのではないか。(1)
 これまで、沖縄の政治・社会の節目、節目には独立を掲げた人たちが登場してきたのは、このような背景があるのは確かであろう。これからすると、琉球独立論は戦後初期はもちろんこと、復帰前後も県民のどこかで脈打っており、復帰はしたもののまだまだ独立を完全にはあきらめられない、何かがあるような気がする。このようなことは他府県では全く考えられないことである。(2)最近、大山朝常元コザ市長の『沖縄独立宣言−ヤマトは帰るべき祖国ではなかった』、比嘉康文元沖縄タイムス記者の『琉球独立論の系譜』が出版された。大山朝常氏はその中で「立法院議員やコザ市長の職にあるあいだ、私の胸中には『沖縄独立』という言葉が刻みこまれていた。議員や市長という立場上、それを口にすることはなかった。『きっと、いつか』という思いは消えるどころか、沖縄の現実を見るにつけますます強まっていった。…‥市の長として、私は自分にできるかぎりのことをやったという思いを抱きながら市庁を去った。市長として思い残すことは何もありませんでしたが、しかし、そのとき、別の新たな思いがふつふつと私の胸の奥から沸き上がっていた。言うまでもなく『沖縄独立』への思いであった。公職を離れた私は、『沖縄海洋大学』建設構想などに関わりながら、沖縄の新しい未来像を模索してきた。その根底にあるのは日本からの『沖縄独立』、そして『新・琉球国』の建設である。集会や会議などの席上、ことあるごとに私はそんな思いを話した。しかし、周囲の反応は一様に冷ややかであった。『日本から独立なんてできるわけがないですよ。夢物語にすぎません』若い人ほど、そういって一笑に付した。ヤマト病にかかっている人などは、まるで私の頭がおかしくなったとでもいうような目で見た。そんなとき私は、決して夢物語などではないことを、辛抱強く語って聞かせた。実際『沖縄独立論』はなにも私が最初にいい出したわけではない。それは沖縄のこのわずか50年の歴史の中でも、何度か大きな現実的課題として登場した」(3)と、意外なほど独立への想いを切々と語っているのは興味深い。
 一方、比嘉康文氏もその著書の中で、「沖縄は、かつて『琉球王国』として完全な独立国だった。中国大陸に沿う形で九州(島)と台湾(島)の間に点在する南西諸島(199島)の南に弧状に連なる琉球諸島(161島)は『琉球王国』として存在した」「27年間の米軍支配のあとに迎えた日本復帰からすでに30年余。その戦後史の中でたびたび『独立』の動きがあった。その根底にあったのは、苦渋の歴史からの脱却である。住民の中にある潜在的『独立』志向は、戦後史の節目となる選挙の度ごとに現れている。」「沖縄の戦後史の中で独立のチャンスは度々あった。しかし、私たちは独立についての継続的な問題研究や運動を積み重ねてこなかった。そして独立の機会をいつも逃がしてきた」(4)と述べている。このように沖縄が、戦後60年、復帰後32年経っても今なお独立論というのが語られる地であることは、自治・自立と言うことを考えるならば誇りであるが、歴史的差別が根底にあることに思いを致すならば痛恨の極みというべきであろう(5)。
 本稿では主として戦後における沖縄の政党が、琉球独立をどのように捉えていたかを考察したい。さて、戦後の政党はどのように結成されていったのであろうか。まず、奄美、沖縄、宮古、八重山の各群島をそれぞれの活動領域として結成された。米軍の初期の占領行政が、各群島単位に軍政府を設立して統治するという方針であったことから、与えられた政治空間を活動対象の領域とする政党が、各群島単位に結成されたのは当然であった。
 沖縄本島においては、1947年6月、仲宗根源和を中心に沖縄民主同盟が結成され、ついで、47年7月には、浦崎康華、瀬長亀次郎、兼次佐一らを中心に沖縄人民党が結成され、さらに同じく47年9月には、大宣味朝徳を中心に沖縄社会党が結成された。また宮古では、沖縄本島よりも早く、すでに46年中ごろには民主党が、47年後半には社会党が、49年には自民党が結成されている。そして、八重山では、46年ごろいくつかの政党が乱立したが、48年には、民主党と人民党(後に自由党と改称)に収斂していった(6)。これらの政党は、下部の党員組織を持たない少数特定の政治家集団に過ぎなかったし、一般大衆の中に根をおろす大衆政党にはほど遠いものであった。

U沖縄における戦後の政党結成と琉球独立論
(1) 政党誕生の契機
 米軍の沖縄占領開始から3年も経過した時点での米軍政府の沖縄占領政策は、日本(本土)とはまったく違っていた。米軍はたとえ民主主義の理念を語ることはあっても、それを実行しようとはしなかった。むしろ逆に、軍政下においては、民主主義は制約を受けざるを得ないことを強調することを忘れなかった。『琉球列島における統治の主体』の中で「軍政府が琉球列島を統治する限りは恒久的民主政府も、完全なるデモクラシーも確立することは出来ない。ただ琉球列島を統治するに際して、軍政府は実行しうる限りにおいて《民主主義の原則》を用いているのである」すなわち、「軍政府は猫で沖縄は鼠である。猫の許す範囲でしか鼠は遊べない」(7)という、いわゆる「ネコ・ネズミ論」である。「例へば軍政府は猫で沖縄は鼠である。猫の許す範囲しか鼠は遊べない。猫と鼠は今好い友達だが猫の考へが違った場合は困る。・・・・・講和条約の成るまでは民衆の声は認めない、又有り得べきものではない。平和会議の後帰属が決まった、政治が決まった後民衆の声も反映するだろう。講和会議の済むまでは米軍政府の権力は絶対である」。(8)このネコ・ネズミ論は大半の住民を萎縮させた。同時に沖縄住民は怒りを押さえがたかったに違いない。仲宗根源和は「ねずみにたとえられ、猫の意欲次第でいつでもくい殺される立場にある、といわれて沖縄人がどんな心持でこの話をきくか、それがわからないようでは民衆の心理を把握すべき実際政治を指導する資格はない」(9)と、ワトキンス少佐を痛烈に批判した。このような政治情勢の中で若手の活動家らは「沖縄をこのままにするとアメリカのいいなりになって復興対策は議論できない。県民にどういう目標を与え、復興するのか知らさないといかん」(10)ということで、戦後初の県民大会を開くことになる。
 沖縄における政党が結成されたのは、このような政治的、社会的情勢のなかにおいてであった。つまり、このようなアメリカ軍政府のやり方に対する不満や批判が起こったのは当然であり、その批判の中から、また、本土で「民主化」の先例を受けて帰郷した人たちの刺激もあって、民衆の声を政治に反映させるために、先に述べたように、1947年には沖縄民主同盟、沖縄人民党、沖縄社会党という三つの政党が相次いで結成された。
 これらの政党には次のような3つの共通要素を挙げることができる。
 第一の共通点は、これらの政党がすべて「民主化」を最大のスローガンとしていたことである。軍政下での圧制にあえぐ住民の中から政党が結成されたことを考えるならば当然のスローガンである。
 第二の共通点は、占領政策に対する協力の姿勢である。これは後に反米政党としての立場を強め、米民政府の反共攻撃の矢面にたたされることになる沖縄人民党においても例外ではない。これは米軍統治下にあることと大いに関係しており、特に注目すべき点である。
 第三の共通点は、特に注目すべきであるが、琉球独立論を唱えたことである(11)。
 以下の政党に見るように、特に戦後初期の政党は独立論を抜きにして語ることはできないといっても過言ではない。

(2)沖縄人民党と独立論
 沖縄人民党は1947年7月20日に結党された。琉球独立論を唱えていたかどうか非常に賛否が分かれている。沖縄人民党の初期の性格が右や左の思想の集まりだったこと。普通、人民党はどうしても極端な左だというイメージがあるけれども、当時における人民党は必ずしもそうではなかった。右も左も集まっていたということが言われる。そもそも沖縄人民党が産声を上げる背景となったのが「うるま新報」であるが、当初は完全に「うるま新報」は民政府の御用新聞と言われていた(12)。したがって、それからしても、非常に右も左も集まった政党だったという感じがする。そして、この政党の場合、第一に米軍の位置づけ、それから沖縄の独立を志向していたではないかということが非常に注目された(13)。
 その沖縄人民党は沖縄の将来について、その結党の際の政策の冒頭、「人民政府の樹立」を掲げている。これは沖縄の独立を志向したものと考えることができる。これがやはり人民党のこの部分が独立論との関係で非常に指摘されている。このことは、沖縄人民党の歴史の中での綱領などを見ると、やはりこの言葉がまず沖縄人民党綱領の中でも掲げられている。綱領は政治、経済、社会、それから文化という面で分かれているが、政治の面でもすぐに出てくるのが「人民自治政府の樹立」であることは注目すべきではないか。(14)
 それから、スローガンを11あげているが、やはりその中に最初に出てくるのが「沖縄人民政府の樹立」である。さらに沖縄人民党が、沖縄民政府への陳情書を出すけれども、その陳情が13項目あるけれども、ここでも真っ先に上がってくるのが、「沖縄人民自治政府の樹立」である。そういうことで、沖縄人民党は随所に「人民政府の樹立」というのを掲げている。それからするとやはり沖縄人民党は、独立論を非常に主張していたと言われるのはやむを得ないことであろう(15)。
 沖縄人党の初期の性格が「右や左の思想の集まりだった」(池宮城秀意)ことはきわめて注目に値する。その第一は、米軍の位置付けであり、第二は、沖縄の独立を目指したのではないかという憶測が持たれた点であった(16)。
 儀部景俊・安仁屋正昭・来間泰男共著の『戦後沖縄の歴史』は「人民党の目的や綱領を見て注意を引くのは、日本復帰の要求がうたわれていないことです。目的には『沖縄民族の解放』と書かれています。(中略)このことが沖縄の要求を積極的に示しているわけではありませんが、本土の民主勢力の中にあった沖縄少数民族論=独立論の影響があったことは伺えます」(17)と記している。
 新崎盛暉沖縄大学教授は『戦後沖縄史』の中で「戦後初期政党に共通な第三の特徴は、独立論である。沖縄人民党のいう全沖縄民族の解放は、明らかに独立論的志向を示している。特に『うるま新報』や実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、49年から50年の段階においてもなお一貫して、「全沖縄(琉球)民族の解放」「沖縄(琉球)民族の主権の確立」「解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設」「人民自治政府の樹立」「沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集」が強調されている」(18)ことを指摘し、新崎教授は「解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが、独立論であることは、ほぼ間違いないであろう」(19)と述べている。
 しかし、これに対して上原清治(共産党県委員会副委員長・当時)は、「日本共産党の第5回大会で採択した「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」などの影響がまったくなかったといえないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で5回大会の方針が誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというと、そうではない。はっきり「独立する」との表現もない」(20)と、新崎教授らの一連の主張に反論している。
 比嘉幹郎元琉球大学教授は「政党の結成と性格」の中で人民党は「将来の沖縄の国際的地位問題については、この時期にはまだ明確な党の立場を表現していない。確かに同党は、『全沖縄民族の解放』とか『人民政府の樹立』など、独立志向を示唆するような語句を使っているものの、独立論主張の決め手になる用語は見当たらず、むしろ意図的に弾力的な解釈ができる語句を用いたようで、同党の立場は必ずしも明確ではない」(21)と述べている。
 このように、沖縄人民党が果たして独立を目指していたのかどうかは、立場によって見方が異なっていた。独立を志向していたと主張する人もいれば、それを否定する人もいた。人民政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法制定会議の招集などをどのように解釈するかで、沖縄人民党が独立を志向していたかどうかの解釈にも大きく影響するし、これを積極的に解釈すれば、確かにこれは「人民政府の樹立」と言っているから、政府を樹立するということは独立というふうに捉えるならば、独立志向であっただろうということになる。
 さらに、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集もそうである。憲法制定のために会議を開催という解釈をすると、これもやはり独立志向であったというふうに理解することもできる。ただ、消極的に解釈すれば、比嘉教授が指摘しているように、明確にそういう言葉は使ってないから、断定することはできないという捉え方ができる。このように沖縄人民党が果たして独立を志向していたかどうか、立場によって見方が違っているというふうなことになるのではないだろうか。ところが、沖縄人民党も時代の流れの中では復帰を主張していくようになっていくのが当時の時代の流れであったのであろうか。

(3)社会党と独立論
 さらに政党結成の動きがみられ、1947年9月10日には、大宜味朝徳を中心に「沖縄社会党」が結成されている。この政党は、同年10月13日に兼島信栄を党首とする「琉球社会党」と10月20日に合流して、「社会党」と名乗るようになった。沖縄社会党、琉球社会党は短命の政党で、特に琉球社会党は1週間しか存在していない(22)。社会党について述べる前に、沖縄社会党、琉球社会党がどのような政党であったかを述べておきたい。
 大宜味朝徳は1947年9月10日、沖縄社会党を結成し、自ら党首に収まる。沖縄社会党は戦後初めて「アメリカの信託統治」を主張したのが特徴で、その考えは後に琉球国民党を立ち上げて独立を主張することに結びついていく。当時、住民の間では「祖国復帰」の願望が強く、反日感情を示し、アメリカの支持の下で新琉球の建設を目指すという大宜味の主張は住民に受け入れられなかった。大宜味のねらいは、沖縄を米国の信託統治下で独立させることであった。帰属問題には触れなかった当時の政党の中で、沖縄の将来像を公然と表明した唯一の政党であった。しかし、政党の名は有していたものの、党首大宜味朝徳のワンマン組織であり、これといった有力者がいたわけでもなく、したがって、政治的、社会的影響力もほとんどなく、住民の支持も得ることもなく、47年9月10日に結成後わずか四十日間存続したに過ぎない(23)。政党が続々誕生した47年10月13日、沖縄本島で4番目の政党として結成されたのが兼島信栄によって組織されたのが琉球社会党である。この政党は、沖縄の戦後初期政党の中に政党の名はとどめているものの、存続したのはなんと一週間であったために、党則や綱領、党員など具体的なことは何ら明らかにされていない。つまりこの政党は結党7日後の47年10月20日に大宜味朝徳の沖縄社会党と合流した。沖縄社会党と琉球社会党が合併して「社会党」となったが、合併の理由は、両党とも信託統治を主張するなど政策面で一致した点があったからである(24)。
 合流によって誕生した社会党は、沖縄の“帰属問題”に関して「『国家体制の整備』や『琉球憲法の制定』を基本政策として掲げ、また同党政務調査会の決議事項のなかには、米国信託統治の支持、防共強化対策、外資導入歓迎などが含まれていたといわれている。さらに、対日講和条約の草案が検討されていた頃に出版された大宜味の著者(再建沖縄の構想)によれば、他の政党との政策面における根本的な相違点は、社会党が、『琉球民族の幸福は米国帰属にありと確信しハワイ州の沖縄県実現を要望し政治、経済、文化各面の米国化』を主張していたことであるという。要するに、社会党は、民主的な琉球独立国の樹立を究極的な目標として結成された政党であったといえよう。同党は沖縄の将来に関する政策を公然と表明した最初の政党であった。」(25)と述べられている。
 だが、この社会党も約3年たった1950年ごろには完全に大宜味党的な政党になってしまっていた。落ち目になっていた社会党は、52年3月の立法院選挙にも一人を擁立したが、落選し、同年4月7日ついに解散に追い込まれる。
 そして、大宜味は1958年琉球国民党を結党することになる。しかし、大宜味朝徳の琉球独立論を絶えることはなかった。1958年、今度は、大宜味朝徳は、琉球国民党を結成して独立を掲げた政党として活躍することになる(26)。

(4)共和党と独立論
 前述したように、沖縄の戦後初期の政党は親米的であるけれども、この共和党も漏れなく親米的であった。沖縄の政党の名称には共和党、民主党などいろいろあるが、恐らくこの共和党という名称も、結局はアメリカへの親米的な要素のあらわれという感じがする。要するにアメリカの政党には共和党と民主党があり、そういう面で米軍統治下にあった沖縄の政党も、共和党とか民主党とつけたらアメリカの機嫌、アメリカが好意的に見るのかなと、あるいは、アメリカに協力的と見られるのかなと、考えていたのではないだろうか。
 沖縄民主同盟が衰退していって、その中心的な人物であった仲宗根源和などが中心と共和党を結成する。1950年9月17日の沖縄群島知事選挙に松岡政保を擁立して敗北した沖縄民主同盟はすっかり意気消沈していた。知事選より一週間後に行われた群島議会議員選挙でも民主同盟は敗北した。知事、群島議会選挙の敗北は、沖縄民主同盟の解党を意味していた。こうした状況下で、群島議員に当選した保守派の4人が結束して新党結成に動き出した。その結果、50年10月28日に誕生したのが共和党である。共和党に結集した「4人組」といわれた群島議員新里銀三、宮城久栄、松本栄吉、祖根宗春である。そして、彼らをバックアップしたのが松岡政保であった。共和党の結成で仲宗根源和、桑江朝幸ら民主同盟の主要のメンバーは共和党に駆けつけた。仲宗根源和が加わったことで共和党の性格は大きく変わった。結党した議員4人は、当初「占領下だから、米軍にタテつくより協力して物資をもらった方が沖縄の復興を早くする」と考えていた。だが、仲宗根は民主同盟時代から「琉球独立論」を主張していた。したがって、党の考え方も次第に独立論へと傾いていった。新里銀三は「私らは、占領下で布令、布告が出ており、どうせ米軍のいいなりだったら、米軍から物をもらった方が得策だと主張した。しかし、仲宗根源和は、独立論をぶち上げ、結局、仲宗根に押し曲げられてしまった。復興するまでは占領政策に従った方がいいと思ったので、仲宗根源和とは(行動を)別にしようと考えた」と、語っている。
 このように、共和党の路線には二つの柱があったことは否定できない。一般的に、共和党は独立を目指していた、と言われ、そのような宣言もしているが、これは仲宗根源和主導の路線であり、議会活動をしていた4人組は別の道を歩むことが多かったようである。
 このように、共和党は路線問題で意思統一ができなかった。民主同盟から移ってきた仲宗根源和は、組織部長として独立を主張していた。仲宗根は、「アメリカは自由主義が行過ぎで、戦争に勝って自信過剰になっており気にくわん」と語り、独立を説いた。これに対し、松岡政保は「独立は夢物語だ。独立すると、大学も裁判所も自分で作らなければならないのに金はない。そんなことができるはずがない」と反対した(27)。
 『琉球経済』(1951年6月1日)の特集「琉球帰属論」の中で琉球独立についてかなり詳細に延べている。その中で「琉球独立論」(仲宗根源和)、「なぜ?独立を主張するか」(桑江朝幸)、「独立国琉球の再現を期す」(兼島信助)、「帰属問題の一考察」(大庭政慶)、「日本帰属は何を意味するか」(池宮城秀意)、「日本復帰は悲劇の再現」(大宜味朝徳)等々、貴重な論考が収録されている。
 仲宗根源和の「琉球独立論」は、序論と本論からなっておりますが、その中で序論の部分に興味深いところがある。貴重な発言であるので少々長くなるが引用しておきたい。「琉球の帰属問題は私共琉球民族が運命の岐路に立って、何れの途が反映と幸福と自由に通ずる明るい途であるかを選択する重大な問題であることは申すまでもありませんが、多くの人の中には、はじめから、日本復帰希望で満腹していて、独立論の趣旨を聞こうともしない人々があります。その態度は甚だ危険であり、非理知的であります。御本人のためにも、その人自身の子孫のためにもよくない態度であります。私共は民族の運命を決するためにも、自分自身のためにもそしてまた私共の子孫のためにも、此の問題はあらゆる角度から十分に冷静に各種の議論を比較検討することが最も必要であります。これから私は琉球は民主主義共和国として独立し、自由主義国家の一員としてこれに参加すべきであるという、琉球独立論を抵唱したいと考えます。」「独立に対して『出来たらそれに越した事はないが経済的に駄目じゃないですか』という人が多い。私はこういう時こう答えています。『独立してこそ経済的にもゆたかになれるのです。はじめから経済的に駄目だとあきらめてしまって、我々は子孫代々他人の食卓からこぼれ落ちるパンクズをひろおうというのですか。とんでもない話しではありませんか。自らの手で働いて求めたパンを自らの食卓にのせて朗らかに食事する民族になろうではありませんか。この意気を失ってしまって、日本に頼ろうとしたら日本の荷厄介になるだけです。誰も余計な荷物をかつぎたくありません』日本復帰論者の中には、『独立するのも悪くはないが、経済的にはどうせ自立は出来ないから日本と一緒になってその不足を援助してもらうほうがよいと思うという』人がおりますが、かかる論者に対しては『日本の政治が沖縄を貧乏にした最大の原因であったことを知らずに、逆に沖縄は日本の政府から援助でも受けていたとでも勘違いしているのでしょう。それはとんでもない間違いです。このことは、過去の史実をよく検討して判断を誤ってはいけません。それと同時に、現在の日本は米国の援助を受けている国であって、沖縄を援助する実力がないことを知っておかなければなりません。』と私は注意を喚起しています」(28)。
 それから本論の中で、「我々は今アメリカから食料の無償配給を受け、衣類も住宅も代金を支払わずに供与を受けています。アメリカの好意に対して感謝の念を持つことは必要でありますが、決して乞食根性を起こしてはいけません。この沖縄列島の主人公は私ども沖縄人であり、アメリカは私どもの土地にヤドカリをしているのですから、我々は当然受け取るべき家賃を受け取るのだと考えるべきであって、決して卑屈な気持ちを持ってはいけません。ただわれわれ沖縄人は、アメリカ人に対して、人間同士として好意と好意、即ち善意の交際をしていくべきであります」(29)。
 注目すべきことは、このように仲宗根源和が琉球独立論を声高に唱えていた頃、ほぼ時を同じくして西銘順治元沖縄県知事は独立論に真っ向から反撃した。西銘氏は共和党とは関係ないが、当時の「琉球独立論」を考える上で有益な意見と思われるので参考までに引用しておきたい。日本復帰論を特集した「世論週報」に「独立論をばくす」という論文を発表し、次のように独立論を論破した。「独立論の拠って立つ論拠は、沖縄がかつて独立国として歩んで来た古い歴史的な事実と人種的に琉球人は日本人ではないという点に在り、そして彼等が夢見ているような美化された琉球の反映と幸福が、独立によって、再び将来少なくとも主体的な歴史的役割を果し得るだろうと、或いは断定し、或いはモウ想している点で在ろう。然らば彼等の言う如く琉球は果たして独立国であろうか。これは解釈の問題であって、史実は独立論にのみ見方しているのではない。目的論的に解釈すれば、琉球は支那であったとも云えるのである。従って過去において琉球が独立しなければならないという当為としての結論は生まれ来ない筈である。過去の歴史的事実はあくまで史実であって、それが問題の解決に一つの示唆を与えるとしてもそれからのみ現在や将来の当為の論拠は生まれてくるものではない。又、彼等は、人種的に琉球人は日本人ではないと云うが、如何なる論拠に立ってそう云うのだろうか。寧ろ学理的には琉球人が人種的な統計指数において支那人や朝鮮人よりも遥かに日本人に近いことは明白である。彼等が琉球人は日本人でないと云うことは、鹿児島人は日本人ではないという位の意味しかない」。さらに政治的にも経済的にも独立は不可能であることを次のように述べている。まず政治的には、「過去において琉球が東洋の二大政治力たる日本と支那の政治圏外に超然と自立し得なかった如く世界がアメリカ其の他の資本主義的政治圏内とソ連其の他の社会主義政治圏内に二分されて勢力均衡の安定せざる今日、琉球がかかる政治的闘争の過程から超然として独立し得ないことは火を見るより明らかなことである」。そして、経済的には、「第二次世界大戦の結果、世界は経済的に極めて不安定な状態であり、資本主義経済から社会主義経済への推移を示しているとは云え、その主流をなすものは依然として資本主義経済である。従って一国が完全な姿において独立する為には、資本主義的経済体制を自立し得ることが不可欠の条件である。経済的自立なくして完全な政治的独立はあり得ない。狭い土地、乏しい資源、過剰な人口、それに今日のような生産設備と生産技術を以ってしても果して経済的な自立体制を樹立することが可能であろうか。又社会主義経済体制の自立もかかる条件を以ってしては不可能であろう。この二つの条件、即ち政治的な条件と経済的な条件だけからしても琉球の独立が如何に不可能であるかは事実である。吾々は事態を客観的に冷静に判断しなければならない。単なる思い付きや空想から出発してはならないのである。以上の論点から琉球の独立は不可能であるという結論に達した」(30)。西銘氏の独立反対の論拠は今日でも多くの支持を得ており、今なお説得力があるのではないだろうか。
 しかし、当時の沖縄の政治的オピニオン・リーダーが、情熱を傾注していた独立論、反独立論は、多くの沖縄住民の共感を呼ぶことはなく、住民の関心は共和党ができた頃から沖縄の政治は復帰問題へと流れていった。群島知事平良辰雄が提唱者となって署名運動が展開され、全有権者の72.1%が「復帰促進」の意思表示をしたため、独立論や米軍との協力がくすぶっていた共和党には衝撃であった。結党から約1年たった1951年8月のことであった。このように4人のうち3人が復帰を希望した当時の情勢下で、政治的独立を主張したところで共感を呼ぶはずがなかった。51年の後半になると共和党の勢力が衰え、53年の立法院議員の選挙を目前にして自然消滅となった。共和党は、結党1年半にしてその名を消すが政界再編の糸口となった点で特筆すべきものがあった。民主同盟から共和党へと流れてきた戦後の保守政界であるが、それが大同団結するのは琉球民主党が誕生する52年8月であった(31)。

(5)琉球国民党と独立論
 大宜味朝徳は47年の社会党、58年の琉球国民党の結成の指導的人物であり、常に反復帰の旗幟を鮮明にして政治活動を行なった。そして自らは、52年、60年、65年の立法院議員選挙、61年の那覇市長選挙に立候補した。しかもこの政治活動費は、ほとんど大宣味自信が直接負担していたようである。このように私財を投げ打ってまでも反復帰の運動を展開した理由は一体なんだったのであろうか。おそらくそれは、一貫して、戦前の日本政府の沖縄に対する差別政策への煮えたぎるような怒りと日本人一般に対する限りない不信感に起因しているものと思われる。(32)
 琉球国民党は、1958年11月30日、反共産主義、琉球独立を旗印に結成された。大宜味朝徳を党首にした琉球国民党は、拠点を沖縄本島に置きながら台湾省に支部を設置するなどこれまでの政党とはかなり異質の存在であった。それは、国民党の理論武装をした副総裁の喜友名嗣正が台湾で沖縄の独立運動をしていたためである。喜友名は、台湾省参議の肩書きと台湾省琉球人協会理事長を兼ねて沖縄の独立運動をしていた人物で、台湾では、2、30人の沖縄出身者で組織され、沖縄の独立を目指した琉球革命同志会を組織し、国際的な革命宣言と琉球の民族解放の先頭に立っていた(33)。親米・反共・反ヤマトゥンチュー思想の大宜味と意気投合したのは「沖縄の独立」という点で一致したからであった(34)。多くの独立論者が、日本人による沖縄人差別が原因でヤマト嫌いになっているが、喜友名嗣正の場合には中国大陸で抗日運動に参加しているという点で他の独立運動家と異なっているようである(35)。
 琉球国民党のこれまでの他の政党との大きな違いの一つは、琉球国民党が自衛隊の創設まで検討したことであろう。国家としての独立を目指すには経済力が伴い、軍事、外交能力が備わってなければならない。そこで同党は、政策の中で琉球自衛隊の創設を構想した。これは台湾の独立運動にまねたようである。県内の政党で自衛隊の設置を打ち出したのはじめてであった。副総裁兼渉外部長だった喜友名嗣正は、「外交権と軍事力がないと独立の意味はないので自衛隊創設を盛り込んだ」(36)と述べている。これからも琉球国民党の独立の意思が如何に強いかを知ることができる。琉球国民党は、1958年12月には第二代高等弁務官ドナルド・P・ブースに「琉球自衛隊設立促進に関する要望書」を提出している。要望書には「世界の何れの国家においても軍隊もしくは自衛隊を保有し国家の安全を期している。我が琉球も独立国家として健全な国民を錬成することは重要な国策であり独立国家として自衛隊は当然必要な機関である」(37)と主張し、その創設によって失業者の解消など、経済的・社会的効果が琉球の産業経済の発展に大いに奇与するので、自衛隊を早急に創設せよと述べている。このことからしても大宜味がいかに真剣に独立国家ということを考えていたのかが理解できる。要するに、自衛隊も持たなければやはりこれは独立国家と言えないだろうというふうなことで、これを高等弁務官に直訴した。
 さらに大宜味が独立論を訴える政治活動の中で、よく新聞に投稿し執拗に自分の意見を述べていたことも興味深い。このような手法をとった独立論の活動家は戦後の政党の中で大宜味以外に見当たらない。大宜味は「琉球新報」によく投稿している。「琉球」というタイトルが気にいっていたから「琉球新報」に投稿したのかどうかは定かではない。しかし、大宜味の頑固さからすればそこまで拘ることも十分に理解できる。
 「琉球新報」に「琉球国民党結成に就いて全琉球人民に訴う」とする広告で琉球国民党を結党するに至った大宣味朝徳の考えが述べられている。かなり長くなるが大宜味の政治的な考えを理解するには貴重な資料になると思うので引用しておきたい。まず、この広告は、「B円の切り替えはいよいよ実施された。これは日本復帰運動に終止符を打った無言の宣言である。琉球住民はこの際今までの琉球の政治、経済、教育など日本依存的な考え方を是正し、自ら立ち上がって琉球の国際的進出に開眼すべき時期に来たと思う」と述べ、これまでのような依存的な姿勢から脱却し、自主自立の道を模索すべき時期にきていることを琉球住民に訴えたのであった。そして、これまでの琉球が日本時代に琉球がいかに貧困を強いられていたか、そして、その要因を『日本政府からの経済的搾取』、『差別』、『政治家の先見性の欠如』によるものであるとして、具体的事例を挙げながら、日本を徹底的に批判した。まず経済的苦難について、「戦前の琉球は『ソテツ地獄』で『孤島苦の琉球』と云われまったく文化的に取り残された島であった。県の税外収入といえば波止場の桟橋賃だけであり、経済界は銀行、保険会社は皆日本の支店で集めた金子は日本に持って行かれ、琉球に金子が入るの砂糖時期ぐらいのものであった。大学も一つもなく、国有鉄道一里もなく、国費で負担する国道は、那覇港から県庁までの一線であった。重税で農家の困窮は極端であった一例を明治中項の沖縄県庁の予算を見ると歳入65万5千円に対してその内沖縄県庁の費用は45万5千円で20万円は日本政府に納入されていた」
 さらに、このような日本政府の経済的搾取以外に、大宜味が日本復帰に反対した理由は、沖縄住民に対する差別的待遇であった。同広告の中で次のように述べている。「政治の後進性から来る琉球人に対する差別待遇、其の重圧は大きかった。沖縄県出身の官吏は判任官で釘打ちされ、警察官も巡査部長以上はなかなかなれないというのが行政上の不文律であった。之は四十歳以上の人なら皆経験している筈だ。二三の高官はでても之は異例だ。沖縄人は頭はよくても、腕があっても結局は高官になれぬという実情であった」と、沖縄住民に対する差別扱いに対して怒りをぶつけた。このような差別的な扱いは海外移民の場合にもあったと次のように述べている。「海外に出稼ぎに出かけた沖縄移民はこの差別待遇問題で闘い続けて来たのが過去半世紀の移民悲史である」。
 さらに、琉球の混迷の原因を琉球住民に対する差別以外に「もっとも重要な時期に為政者や指導層が先見の明を欠き、政治の方針をあやまり、県政運用上の大綱的、基本的問題解決を怠ったために、ついに民心興らず治績も挙げえずして、琉球を経済的に後退せしめ財政的危機に陥し入れたということである。政治家に先見の明がなく今日の琉球の対抗的基本的問題の解決を怠って琉球を混迷に陥入れていることは今日とよく似ている。今日の琉球政治の状況をみるに、悉く日本復帰したら、……という前提のもとに政治や教育が行われている。こここに琉球政治の暗さがあり、低迷があり、不徹底が生じ混乱に混乱を重ねている実情がある。」(38)と述べて、大宜味は日本復帰ではなく琉球独立こそが沖縄の進むべき道であることを力説している。
 さらに、大宜味は「国民党内閣の構想」を提案するが、これも新聞広告という形で出している。要するに、大宜味は非常に情熱を傾けて独立論を唱えていたけれども、新聞では大宜味の政党活動を記事として、ニュースとしては取り上げることはなかったようである。大宜味はその中で「其時の話題は琉球の独立問題であった。彼日く、琉球の独立問題には吾々も非常に関心を持っている。ホントーの話他の四つの反米政党は問題ではない。琉球の住民がホントーに琉球の独立を考えているなら吾々も考え直さねばならぬ。一体琉球が独立すると云うが人物がいるかネ」(39)とこの人が尋ねたら、大宜味は琉球には人物はたくさんいる。そしていろいろな人たちの名前を挙げているんですけれども、またある本の中では、これは大宜味が勝手に挙げたんじゃないかなとの指摘もある。果たして、本人たちが大宜味の構想に賛同して名前を出したのかなというと必ずしもそうでもないようなことが、いろいろな方がまた述べていない。そのへんが大宜味はちょっと信用がなかったのかなというふうな感じがする。
 それで最後に、「国民党内閣の構想」の中で、財政問題をどうするかという質問に、大宜味は「それは日本政府から戦災賠償金を取ってやると云ったら、戦災賠償金は初耳だ。まだ払ってなかったのか。それはおかしいとほうほうのていで帰っていった」(40)というふうなことを述べている。このようにして琉球国民党は大宜味を中心として琉球独立論を唱えていく。
 さらに、これも琉球新報への広告であるが、「琉球は日本時代より良くなった」と論じている。つまり、米軍支配下にあった琉球というのは、かつての日本政府下にあったよりは経済的にはよくなっている。ならば、何も日本政府に帰る必要はない。日本本土に帰る必要はないんだということを、広告をとおして訴えている。その中で次のように述べている。「日本の帝国主義搾取より開放された琉球人は色々の面で幸福になり希望と喚起と光明が与えられた。その2、3を拾ってみよう。……民間企業が増加した。日本時代は植民地政策で自由に企業が出来なかった−又資金もなかった−今はどんな企業も自由に出来るようになった。セメント事業合板事業、ビール事業、紡積事業、塩素事業等戦前到底考えられぬ事業がどしどしできた。交易事業も充実。電気、水道をはじめ電信、電話、ラジオ、テレビ、新聞も充実し住民の文化生活が向上してきた。……貿易が拡大された。戦前の貿易品と云えば黒糖と鰹節が輸出されているだけであった。今や縫製品、トランジスター、民芸品、合板、洋酒、セメント、陶器漆器等世界市場に輸出されその額も年々増大されてきた。……生活程度も向上した。農業、漁業、牧畜の発展により日本時代イモとカラス小で生活をした人々はいまや山海の珍味に変わった。健康で長寿になった。日本時代は食うだけでいっぱいであったが今や娯楽もふえ村々に映画館も出来、外国シネマも見られる……」(41)と述べ、そのタイトルの示すように、かつてのヤマトユーよりも今の方が経済的にも好くなっていることを力説し、復帰してヤマトユーに戻るよりも独立することが沖縄にとって如何に有益であるかを訴えている。
 このように、琉球国民党は大宜味を中心としてその政党というのが運営されているが、ただ、果たしてどのぐらいの党員がいたのか。そのへんがなかなか見えてこないというのが、この琉球国民党のある面では弱いところというか、あるいは大宜味ワンマン的な政党だったのかなという感じがする。
 思うに、戦後初期の政党が沖縄独立をどのように主張していたのか。それを沖縄住民はどのぐらい支持をしていたのかということを、初めに沖縄人民党、それから社会党、共和党、琉球国民党を中心に検討してみたが、独立論というのはそんなに受け入れられなかった、というのが私の現時点での感想である。
 その当時、徐々に祖国復帰、本土復帰へと流れていった。アンケート調査では1950年には72%が祖国復帰を望んでいた。大宜味、仲宗根らが非常に情熱を傾けて説いた琉球独立論は、住民の中には浸透はしていかなかった。

V おわりに
 戦後初期の政党が、沖縄の独立をどのように主張していたのか、それがどのぐらい沖縄住民の支持を得ていたのかを、沖縄人民党、社会党、共和党、琉球国民党を中心に検討してみたのであるが、独立論というのはそんなに受け入れられなかったというのが私の現時点での感想である。特に大々的に琉球独立を展開した琉球国民党について言うならば、そもそも琉球国民党は政党本来の活動もなく、党の役員も実際に何人ぐらい実在していたのか明確でないことを考えると、琉球国民党という戦後に誕生した公党としての政党が、琉球独立論を展開したというよりもその政党の中心人物であり党首であり、言論人であった大宜味朝徳と喜友名嗣正が個人的な琉球独立論の考えを政党の名を借りて主張していた、といっても言い過ぎではないかもしれない。
 比嘉康文氏は「沖縄は常に日本の政治、経済の意向に左右されてきた。1609年の薩摩侵攻以来、復帰後の現在までその状況は変わらない。沖縄自身が自らの将来を決められないままの歴史が続いている。『鉄の暴風』と形容された沖縄戦が終わった後、わずかな時期ではあるが、自分たちの手で理想的な沖縄を建設しようと燃えていたことは沖縄戦後史の中で特筆されてよいであろう」(42)述べている。理想に燃えていたことは確かであるが、残念ながら希望の花を咲かすことはできなかった。いつかこの沖縄にもヤマトの政治に翻弄されない花を咲かすことができるのであろうか。
 現実はもっと深刻である。皮肉にもこの論文を執筆中の2004年8月13日午後2時18分、米軍のヘリコプターが、ここ沖縄国際大学のキャンパスに墜落した。その事故の処理の仕方は、これまた沖縄県民を愚弄するものであった。戦後60年、復帰後32年にしてこのような現実に直面すると、いやがうえにも大山朝常さんの「ヤマトは帰るべき祖国ではなかった」という意味深長な言葉が脳裏を掠めるものである。当時の独立論を唱えていた先人たちの叫びが聞こえてくるような気がしてならない。
 これからの道州制論議の中でも沖縄がこれまで置かれた政治状況を踏まえ、これまでの独立論も生かしながら、今度こそ英知を結集し「県民の県民による県民のための政治」の自立に向けて進んでいける方策を模索しなければならない。


(1)「『差別』意識が形成された要因として、日本本土にとって沖縄が、かつてアジアの中の“異国”であったという事実が挙げられよう。もともと、近代日本は、『欧米列強に対する自らの従属的状態を、.そのままアジアの隣国に押し付けようとした』のであり、それゆえ歴史的にアジアの中の“異国”であった沖縄も『従属的状態』におかれるべきものと捉えられたのである。しかも、沖縄は17世紀以来薩摩の支配を受けることによって、独立国の体裁を保ちながらも『天皇→徳川将軍→島津→琉球王国という階層的秩序』に組み込まれ、その中で最下層に位置付けられてきたという歴史的経緯があった。こうした背景の中で、本土の人々の間に、日本帰属後における沖縄が、依然として日本の最下層に位置する地域の一つであるという『差別』意識が持たれていく」(福島良一「沖縄に対する国側の施行様式〜その歴史的体質」琉球新報、1996年7月22日)。大田昌秀元沖縄県知事(現衆議院議員)は、その著『醜い日本人』の中で「大阪人類館事件について次のように述べている。「大阪で第5回勧業博覧会が催されたさいのこと、学術人類館の会場には、映画のセットよろしく茅葺小屋がしつられ、中には2人の沖縄婦人が『陳列され』、説明者が、『此奴は、此奴は』とムチで指差しながら動物の見世物さながらに沖縄の生活様式とかを説明していた」(大田昌秀『醜い日本人』24頁)。
(2)沖縄独立論が最初に出たのは「沖縄戦直後のことでした。独立を唱えたのは、治安維持法によって弾圧された体験をもつ戦前の社会主義者が中心であった。しかし、彼ら新たな支配者として沖縄に乗り込んできた米軍を、その独立を可能にする解放軍と見誤った。当然ながら民衆の支持を得ることができず、独立論はいつしか消えてしまいました。再び『沖縄は独立すべき』という声が出てきたのは、本土復帰の前後でした。悲願だった本土復帰が平和憲法下への復帰などではなく、日米軍事協力強化政策の一環としての返還であることが明らかになるにつれ、反復帰論が台頭してきた。『復帰は誤りだった』という声は、そのまま沖縄自立・独立論にまで高まっていきましたが、これもやがて潰えてしまいました」(大山朝常『沖縄独立宣言』現代書林、192頁)
(3)大山朝常、前掲書 191-192頁。
(4)比嘉康文『「沖縄独立論」の系譜』琉球新報社、1-2頁。
(5)『新沖縄文学』(第53号)は「琉球独立論」を特集している。
(6)新崎盛暉『沖縄戦後史』20頁参照。
(7)同上19頁。
(8)沖縄県史料『沖縄諮詢会記録』493頁。
(9)仲宗根みさを『仲宗根源和伝』月刊政経情報社、145頁。
(10)当山正喜『沖縄戦後史 政治の舞台裏』あき書房、9頁。
(11)新崎盛暉、前掲書『沖縄戦後史』20〜22頁参照。
(12)当山正喜、前掲書『沖縄戦後史 政治の舞台裏』76-78頁参照。
(13)同上80頁。
(14)沖縄人民党史編集刊行委員会『沖縄人民党の歴史』、56頁。
(15)同上、58頁参照。
(16)当山正喜、前掲書、80頁。
(17)儀部景俊・安仁屋正昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』、日本青年出版社、86頁。
(18)新崎盛暉、前掲書、22頁。
(19)同上、23頁。
(20)当山正喜、前掲書82頁。
(21)比嘉幹郎「政党の結成と性格」宮里政玄編「戦後沖縄の政治と法」東京大学出版会、所収、218〜219頁。
(22)当山正喜、前掲書、111-112参照。
(23)同上、110頁参照。
(24)同上、111頁、比嘉幹郎、前掲論文、219頁参照。
(25)比嘉幹郎、前掲論文、219頁。
(26)当山正喜、前掲書、113頁参照。
(27)当山正喜、前掲書、114-115参照。
(28)仲宗根源和「琉球独立論」『琉球経済』所収、1-2頁。
(29)同上、2頁。
(30)西銘順治「独立論をばくす」『世論週報』沖縄出版社所収、53-56頁。
(31)当山正喜、前掲書、117-118頁参照。
(32)同上、257頁。
(33)同上、257頁参照。
(34)同上、259頁参照。
(35)比嘉康文、前掲書、209頁。
(36)比嘉康文、前掲書、181頁。
(37)同上、182頁。
(38)「琉球新報」1958年9月17日。
(39)「琉球新報」1965年10月31日。
(40)同上。
(41)「琉球新報」 1965年11月3日。
(42)比嘉康文、前掲書。242頁

このページのトップにもどる


W.構想案 『憲法第95条に基づく沖縄自治州基本法』

【前文起草案】
 沖縄に関するさまざまな事項について、この沖縄に生きる私たち住民が、最終的に決定する権利を有する。沖縄の自治と自立をめざした私たち住民の営為は、沖縄のことは沖縄で決めるという、沖縄住民による自己決定権を最大の基盤とする。
 私たちは、沖縄の住民の命を守ることを何よりも最優先することを宣言し、非暴力と反軍事力を基本にした平和な国際社会の構築をめざし、その方策に積極的に参画する。
 平和への希求は、これまでの琉球・沖縄の歴史に深く根ざしている。信義を重んじる国際交流で築いた琉球の歴史文化を壊滅させ、多くの住民を犠牲にした沖縄戦の体験は、その後の沖縄住民に、つつましくも平和を望む小国寡民として生きる道をはぐくんだ。
 しかし、人間としての基本的権利と自由を制限された戦後の米軍占領下の経験と、戦後60年を経てもいまだ占有する巨大な米軍基地の存在は、いまなお満たされない沖縄における平和的生存権の真の獲得を切実な課題としている。
 その意味で、沖縄戦後史は沖縄に生きる住民の平和と生存を希求し、それを獲得しようとする営為だったのである。しかし、いま、その基盤である平和憲法さえ改悪されようとしている。私たちは、その平和憲法の改悪に反対して、沖縄自治州では平和憲法の理念をより徹底して活かす道を目指す。
 そのような琉球・沖縄の歴史をふまえて、この沖縄自治州基本法では、中央政府が主導する一元的な道州制の導入ではなく、個々の島や地域の個性を大事にする琉球列島内の緩やかで多元多層的な、沖縄独自の自治・分権構想の枠組みを提示する。その沖縄独自の自治・分権構想は、特有の自然環境と生熊系に根ざし、独自の地理的特性を生かした沖縄自治州の政治的自律と経済的自立を志向する。
 その際、日本の中の沖縄という視点だけでなく、東アジアの中の沖縄という視点を重要視したい。日本の中で例外であった地上戦としての沖縄戦は、アジアに座標軸を広げると地上戦であった地域の方がより一般的であり、むしろ地上戦を経験していない日本の他地域の方がアジアでは例外な地域だといえる。今後、アジアとの信頼関係を築いていくために、日本の他地域にはない、アジアの歴史認識に通底する沖縄の歴史的視点を大事にする。
 米軍基地の存在は、沖縄の自立経済や経済発展を阻害しており、安全保障上の問題においても、沖縄住民に対して多くの負担を強いている。この沖縄自治州基本法では、沖縄からの米軍基地の完全撤去を目指して、沖縄の歴史的・地理的特性を生かして国際機関を誘致し、沖縄から東アジアの平和構築ためのイニシアティブを発揮する。

沖縄自治州・自治基本法の前文注釈
【小国寡民】
 小国寡民(しょうこくかみん)という語句は、小さい国で人民も少ないという意味であるが、もともとは老子の言葉を淵源としており、老荘思想が示す次のような理想の社会を表したものと言われている。「道家の理想的の社会は小国で人民も少く、兵器はあっても戦はせず、生命を大切にして、舟車はあっても之によって遠方に出ることなく、民は各其衣服に甘んじ、其職業を楽しんで、国と国とが隣接して隣の国の鶏や犬の声が聞えるくらい近くても一生涯往来もせぬ様な社会である」。
 そのような隣国と争わず平和で命を大切にするという「小国寡民」の思想は、近代日本の思想史においても一つの系譜を形成している。たとえば、明治期から大正期にかけて、幸徳秋水の「小日本なる哉」、内村鑑三『デンマルク国の話』、三浦銕太郎「大日本主義乎、小日本主義乎」、石橋湛山「大日本主義の幻想」などの著作において言及されている。「小国寡民」の思想が、社会主義的理想から幸徳秋水によって、福音的信仰主義から内村鑑三によって、さらに政治経済的見地から三浦鉄太郎や石橋湛山によって「小国日本」が主張された。それからわかるように、近代日本思想史における小国主義の系譜の淵源は、一つではなく多様である。また戦後初期には、経済学者の河上肇が戦後日本の進むべき道として、そのものズバリ「小国寡民」という表題の論考を書いている。
 そして、その近代日本思想における小国主義の系譜を前提に、日本復帰後の沖縄が目指して欲しい社会として、その「小国寡民」の思想を説いたのは、中野好夫であった。中野は「小国主義の系譜」という論考で、戦後軍事拡張の道をたどる日本とは異なって、沖縄戦の教訓を生かして命を大切にし平和を愛する復帰後の沖縄の進むべき道として「小国寡民」の思想を説いた。それは、戦争を放棄している平和憲法9条の精神につながっている。本前文で記述されている「小国寡民」の語句は、このような思想的系譜に基づいて使用されている。

【住民】
 国民主権がどのような構造をもつのかで解釈論上の見解の対立がある。それは、《The Japanese people》を「国民」と訳すのか、「人民」として訳すのかに示されるように、主権がどのような思想的系譜に基づいているか、が問われている。日本国憲法でも、地方自治特別法について住民投票を保障する憲法95条、及び憲法改正について国民投票を保障する96条1項にあるように、「人民」の意思による政治を求める原理が基盤にある。
 この基本法を貫く主権の原理においても、「人民主権」の原理に基づいている。しかし、原理は人民主権であるが、「人民」という語句には様々なイメージが付着しており、誤解を招かないためにと、本基本法では「住民」という語句を当てている。つまり、原理は「人民主権」に基づきながら、それを示す言葉として「住民」の語句を当てている。

1.沖縄における自治の基本原則

【事項案】
1.憲法で謳われる地方自治の本旨とは、主権者である住民による自治の実現のことであり、この趣旨に反しない限り、憲法は地方自治体に特別な権限を付与することを認めている。
2.住民は、その地域の福祉、環境、安全および文化を保特するとともに、独自性のある地域社会を創り出し、発展させることを目的として、自治体を設立する。
3.住民は、地域の主権者として、自治体運営の企画、立案、実施及び評価のそれぞれの過程に、直接または間接に、積極的に参加し、その地域の将来について決定する権利を有し、かつ責任を負う。
4.自治体は、主権を有する住民の信託のもとに、地域住民への行政サービスを提供し、地域における事務事業を自主的かつ総合的に行う権能を有する。
5.自治体は、その運営に当たっては住民の声を最大限尊重し、民主的かつ公正・透明で効率的な運営を心がけなければならない。
6.自治体は、自らの行う事務事業に関する企画、立案、実施及び評価のそれぞれの過程において、住民と情報を共有し、かつ、住民に対して分かりやすく説明する責任を負う。

【解説・補足】
1.私たち一人ひとりには、社会生活の主体として生きていく権利があり、私たちの社会はその権利を保障する義務を負います。どのような地域社会をつくっていくべきなのかという「地域づくり」の主権は住民にあります。それは、この地域をどうしていくのか、この地域がどうなっていくのか、ということが、この地域の住民の生き方に、大きく関わる問題になりうるからです。住民には、どのような地域づくりをするのか、判断し、決定し、行動する権利があるのです。
2.「地域づくり」とは、地域の建築物、土地利用などの外形(ハード面)をつくることだけを指すのではなくて、それを含めた私たちが住む共同体づくりのこと。自治のしくみや運用の改善など、住民主体の自治を作っていく過程も含みます。
3.住民には地域づくりの仕事に、白紙の段階から参加する権利があります。また、地域づくりの事業の実施中、終了した後も、地域づくりの仕事を評価し、それを次に反映させるのは、住民の権利です。
4.地域は、それ自体いろいろな機能(住居、産業、学習、医療、福祉、文化、娯楽など)を持っており、それらの担い手によって地域は成り立っています。それぞれの担い手が参加することは、地域づくりにとっても欠かせません。
5.地域づくりへの参加は、自由な意思に基づくものです。誰からも参加を強制されることではありません。人はそれぞれの関心や、事情によって、地域づくりへの参加の仕方は当然違ってきます。参加しないことで不利益を受けることがあってはなりません。
6.地域づくりをめぐって、住民、働きに来る人、学びに来る人、その他地域に関心を持つ人の間で、視点や感覚の違い、利害対立などが生ずることも考えられます。その場合にも、お互い理解を深めながら、それぞれの基本的権利を侵されないよう、充分な共通認識を持って、地域づくりを進めなければなりません。


2.人権

(1) 基本的人権を守る権利


【事項案】
1.何ものも、人類普遍の原理である私たち住民の基本的人権を侵すことはできません。そのおそれがある場合、私たちには、これに対して異議を唱え、行動する権利と義務があります。
2.議会・行政は、住民の基本的人権の保障に取り組み、それが何ものかに侵害されるおそれのある場合には、議会・行政は「人権の砦」となって住民の基本的人権を守らなければなりません。
3.住民が自ら居住する地域の事柄について、法的地位を含むあらゆる決定権を持つことは、何ものも侵すことの出来ない普遍的な権利です。

【解説・補足】
1.私たち住民ひとりひとりは、自らの生命・自由・財産を確保する生まれながらの権利(基本的人権)を持っています。私たちは皆、自由かつ平等であり、誰からもこの基本的人権を犯されることはありませんし、誰もこれを犯すことは出来ません。私たち住民は、相互の基本的人権を守るために皆の意思で国や自治体を形成しています。
2.住民の基本的人権が何ものかに侵害されるおそれがある場合、自治体の議会と行政は、住民の声としてこれに異議を唱え、住民の基本的人権を守る防波堤として行動しなければなりません。また、議会と行政の一方が住民の基本的人権を侵害しようとする場合も相互にこれを抑止しなければなりません。
3.沖縄自治州基本法は、日本国憲法の3つの原理を、沖縄において具現化する為に、制定するものです。憲法を選択する権利、自分達のために新たな憲法を作り出す権利をも、沖縄の住民は有しています。


(2)平和的生存権

【事項案】
1.すべての住民は、恐怖、暴力、欠乏、貧困、抑圧、環境破壊にさらされることなく、平和のうちに生活し、居住する個別的具体的権利をもっています。これは、人類普遍の権利であり、いかなる理由においてもそれを侵害してはなりません。
2.自治体は、すべての住民が平和のうちに生活し、居住する権利を個別的具体的に保障する義務を負っています。地域づくりの施策全ての中に、平和を希求する精神が息づかなければなりません。

【解説・補足】
1.沖縄の歴史から学ぶべき重要な教訓の一つは、戦争がなくても、住民がさまざまな暴貧困、抑圧、環境破壊にさらされ、人権や生命の安全を脅かされているのなら、それは「平和」な状態とは言えないということです。平和のうちに生活し、居住する権利は、憲法で保障された権利であると同時に、人類がいかなる理由においても守らなければならない普遍的な権利です。自治体と住民は普遍的な諸権利を暮らしの中に定着、発展させるために、協力しなければなりません。
 憲法で定められた「平和的生存権」をわたしたちの暮らしの中に定着させ、実りあるものにするには、あらゆる場面で「平和」や「持続可能な環境」を追い求め、まちを守り、地域を守り、環境を守り、かつ発展させるための具体的な施策の展開が欠かせません。
2.日本国憲法の前文は、「平和的生存権」を「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」と定めています。憲法の定めに基づいて、国が国民に対して「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに存在する権利」を保障する責任と義務を負うのと同様に、自治体には憲法の三原則をはじめ日本国憲法の精神に基づいて、住民の「平和的生存権」を守る責任と義務があります。
 自治体は、あらゆる行政施策、サービスにおいて、住民の平穏なくらしと安全、および基本的人権が脅かされることがないよう、十分配慮しなければなりません。自治体はまた、独自のまちづくり施策および住民・諸団体との協働によるまちづくり施策において、住民の歴史的体験や日常の生活実感から導き出される「平和への思い」を最大限尊重しなければなりません。
 「平和的生存権」は、本来「公共の福祉のために」との理由で制約を加えられる場合もありえる「財産権」とは同列に論じられない、崇高かつ根源的な権利として認識されなければなりません。

(3) 環境権

【事項案】
1.沖縄の自然は人類共通の地球の財産であり、わたしたちはわたしたちをとりまく環境すべてに対して、それを享受する権利とともに次世代へ保存し、保全継承する責任があります。
2.住民、事業者、議会・行政は、相互に協力して、わたしたちの生活と生産から生ずるごみの減量と資源化に努め、環境への負荷を最小限に抑える最大の努力を行う義務があります。
3.自治体は、住民、事業者と相互に協働して、ごみの処理と自然環境の保存・保全を行う仕組みを整えなければなりません。

【解説・補足】
1.環境とは、わたしたちを取り囲む周囲のものすべてを指します。そのため、人間と動植物をはじめとする自然界のものすべては、互いに影響を与え合います。その中で、わたしたちは、命の尊厳を学び、他者(動植物含む)への思いやりを身につけ、心身ともに成長していきます。つまり、この環境を壊すとは、わたしたちの人間性を壊し、命の連鎖を分断するということであり、環境を守るということは、わたしたちの人間性と命の連鎖を守ることです。
 一度失われた自然は戻ってはきません。沖縄の自然は、今沖縄に住んでいる地元の人間だけの所有物ではありません。人類共通の普遍的な地球の財産です。この認識に立ち、今のわたしたちの都合だけで自然を食いつぶしてはなりません。
2.美しい島を守るため、ごみを出しているのは、わたしたち1人ひとりであるという認識に立ち、この条文は「わたしたちは主体的にごみを出さない努力をします」という宣言です。つまり、わたしたちにはごみの分別収集をはじめとして、生活全般に関して考え、見直し、行動し、協働してごみの減量と資源化に勤める義務があります。
3.自治体は、すべての環境問題に関して、住民に粘り強い働きかけや徹底した情報の共有を行い、住民との間に信頼関係を構築する義務があります。そのうえで、相互に協働する仕組みを整えなければなりません。


(4)文化権

【事項案】
1.沖縄州住民には、沖縄・琉球固有の文化を継承し、共有し、創造し、発展させる権利があります。
2.自治体は、住民の自主性を十分に尊重しつつ、住民が文化的活動の機会を広げられる施策に務めなければなりません。

【解説・補足】
1.個々人の自由な価値観にもとづき、文化を継承し、共有し、創造し、発展させることは、住民の権利です。この権利がすべての住民に等しく保障された社会でこそ、人々の創造性が育まれ、その感性や表現力が高められると信じます。沖縄自治州では、多様な住民が自由に交流し影響しあうことを支援することによって、多元的な沖縄の豊な文化を創り出すことを目指します
2.自治体は、住民が、文化を継承し、共有し、創造し、発展させることが充分にできるような環境の整備を図らなければなりません。自治体が行う施策によって、住民の文化の権利を侵害することがあってはなりません。


(5)教育と学習に関する自治の権利

【事項案】
1.住民には、地域文化を学び、創造する権利があり、自由な学習の権利があります。
2.自治体は、住民主体のまちづくりと自治を実現するため、すべての世代の人に学習の権利と機会を保障しなければなりません。

【解説・補足】
1.住民自身が強制ではなく、自分たち自身で学習し、自己変革していく権利のことです。教育と学習の権利は住民の権利です。
2.自治体は、住民に十分な情報を提供し、住民が学ぶ場や機会を保証しなければなりません。また、議会・行政は、そうした地域の教育自治をより豊かなものにするために、教育の内容を独自に判断・決定し、住民もその判断・決定に参加する権利をもちます。それは、教育の場における自治の上に築かれるものです。


(6)知る権利(議会・行政の情報の住民による共有)

【事項案】
1.情報の共有は、住民が自治体の主権者として、地域づくりに責任を持つために、欠くことができません。住民の自主的な判断と行財政の適切な運営のため、住民の情報は、その質と量において、議会・行政に劣らない水準を確保することが必要です。
2.情報の共有は、自治体の主権者である住民と自治体が信頼関係を築く基盤であり、住民は、議会・行政がもっている情報を知る権利があり、議会・行政は、これを保障しなければなりません。
3.議会・行政の情報は原則として公開であり、住民にとって必要な情報を可能な限り分かりやすく提供する責務があります。
4.自治体は、住民の生活に影響を及ぼす事柄に関し、自国及び他国に対して、軍事情報を含めた全ての情報の公開を求めなければなりません。また、その情報は、全てが住民と共有されなければなりません。

【解説・補足】
1.住民と議会・行政が連携して地域づくりを進めるためには、お互いの理解を深めることが重要です。そのためにはお互いが情報を共有することが必要です。「情報の共有」とは議会・行政情報の提供だけではなく、住民へ積極的に、そして可能な限りわかりやすく説明することを意味しています。
2.議会・行政が保有している情報は、住民全体のものであることを認識し、積極的に提供することが原則です。議会・行政から住民への情報提供手段が充実しても、住民自らがそれを積極的に活用しなければ情報は生かされません。そのために住民は議会・行政の情報に関心を持ち、まちづくりに参画する姿勢が大切です。
3.議会・行政から提供される情報の多くは、住民にとって理解しにくいものです。そのため、行政は、住民にわかりやすい内容と方法で伝えることを心がけなければいけません。同様に行政は住民の求めている情報や住民が発信する情報を敏感に把握し、国や他の自治体の情報も積極的に取り入れて、地域づくりに生かす姿勢が必要です。
4.軍事情報を国家に独占させない事は、住民の平和的生存権を守る上で重要です。


(7)自己情報コントロール権

【事項案】
1.個人に関する情報は、その個人自身のものです。個人の情報をいつ、どのように、どの程度まで、保有させ、伝達するか、を自ら決定する権利が、その個人にあります。
2.自己情報コントロール権を実質的に保障するため、議会・行政は、その個人情報の取扱う全ての業務の、全ての過程に、住民の意見を反映させて、その仕組をつくらなければなりません。
3.個人情報を取扱う全てのものは、住民の自己情報コントロール権を保障しなければなりません。

【解説・補足】
1.個人の情報をむやみに知られない権利は、個人の自律と自己決定を可能にする上で、欠くことのできない権利です。今日のように情報処理技術が進展した社会においては特に、思想・信条などの内面に関する情報に限らず、氏名、住所、年齢、行動、身体的特徴その他、個人に関わる全ての情報について、その取扱いの方法により、個人の人格権を損なう危険性が高くなっています。
 ただし、大きな権限を持ち、社会に対して大きな責任を負っている公人は、その権限や責任の大きさに応じて、個人情報権利に関して制約を受けざるを得ません。それは、その権限に対して、社会的なコントロールを確保するために必要だからです。
2.行政・議会が扱う全ての情報は、住民から預かっているものです。そのため、原則的にその全ての情報は、住民との間で共有されます。行政・議会の個人情報の取扱い方についての情報も、住民との間で共有され、住民がコントロール出来る状態にしなければなりません。
3.民間の事業者についても、その性質や量に応じて、条例や任意の規則などの適切な規則を定めなければなりません。その際、集会・結社及び言論、出版その他一切の表現の自由を保障する為の充分な配慮をしなければなりません。


3.国との関係

【事項案】
1.憲法で明確に自治体が行うことを禁じている事項については、沖縄自治州の権限は及ばないものとする。それ以外の事項については、住民の信託に基づき設置された沖縄自治州に包活的に権限がある。沖縄自治州は、自治立法権、自治行政権、自治司法権、自治外交権を有する。
2.沖縄自治州は、特に沖縄に関連する立法において、国会に対して法案の提出権を持つ。
3.沖縄自治州議会の制定する州法は、憲法に抵触するものであってはならず、国の行政機関が制定する命令に優位することとする。国法において国の権限とされた事項についても、沖縄自治州の権限に移行するように沖縄自治州から国会に対して発議することができる。
4.沖縄自治州知事は、沖縄自治州の住民の安全と福祉の増進に関る国の業務については、所管担当大臣と同格の立場で、安全保障を含む国の行政に関与する権限を持つ。
5.国と沖縄自治州との間で、法律の解釈について争いのある場合には、裁判所において解決を図らなければならない。

【解説・補足】
1.新地方自治法の施行に伴い、国と地方公共団体の関係は「対等・協力」となった。補完性の原理に基づき、国の内政に関する様々な権限について、住民により近い市町村を最優先し、つぎに沖縄自治州を優先する。国は沖縄自治州でも担うのにふさわしくない事務事業のみ担うことになる。
2.国会への法案提出権は、議院内閣制を採用する国においては、通常、内閣及び議員に付与されているが、州の代表から構成される上院を有する国においては、上院議員すなわち州政府の代表が議員として国会への法案提出権を有する。この点から、州政府が法案提出権を有することを憲法上否定するものではないと考え、沖縄州への法案提出権付与を特別法に規定する。
3.沖縄自治州は、国との関係において、住民の安全と福利の増進という観点から、駐留米軍基地問題や安全保障問題を含む全ての問題について、対等な立場で協力し合い、積極的な解決に資するように努めなければならない。沖縄自治州政府は、住民の安全を守るために国際的武力紛争の犠牲者保護に関するジュネーブ条約の第一議定書第59条の「無防備地区」の宣言を含め、あらゆる措置を考えていくこととする。
4.州の立法の権限は、一括付与方式で、「憲法で明確に禁止していないもの」であれば、自治体にも権限があるとの解釈をする。国法との州法の調整が問題となり、その基本的原則を特別法に盛り込む。州法は、国家の制定法に準ずる位置付けである。憲法第95条の特別法において、沖縄自治州は、この特別法により自らに関する組織編成権を有することとなる。また、沖縄自治州に関する法について、国会における改正を迅速化する必要がある。
5.沖縄自治州は、自治司法権に基づき、沖縄自治州裁判所を設置する。沖縄自治州の州法に関連する事案については、自治州裁判所に訴えを起こす事ができる。沖縄自治州裁判所は、最高裁判所のもとに置かれる。「最高裁判所法」の改正並びに州法の制定により、沖縄自治州が、沖縄州裁判所判事の指名権を獲得すること、判事審査の住民投票制度を設けることなどが考えられる。


4.財 政

【事項案】
1.沖縄自治州及びこれに属する市町村は、自治財政権を有する。
2.全国民の法の下における平等と幸福追求の憲法上の権利を保障するために、沖縄自治州及びこれに属する市町村の人々に提供されるべき公共サービスの財源を、国は、平和的領土・領海の維持・保全の観点を含めて、沖縄自治州及びこれに属する市町村に保障しなければならない。
3.国は、沖縄自治州及びこれに属する市町村に対し、次の各号に配慮して財源を移転する。
ア 全国平均と同等の一人当たり政府支出
イ 機会の不均衝是正をめざす自立経済の促進
ウ 国境・離島地域としての沖縄地域の特殊事情
4.国は、財源移転の基準を定め、これに基づき、財源を移転する。
  国は、財源移転の基準を公開しなければならない。
5.国の課税秩序に反しない限りにおいて、沖縄自治州は課税する権利を有する。
6.沖縄自治州及びこれに属する市町村は、米軍、米軍基地内施設及び軍人・軍属等への課税については、州内の事業所及び住民と同等の原則を適用する。
 Aただし、国は米軍との協定に基づき、当該請求に対して米軍に代わって支払うことができる。
7.沖縄自治州の予算および決算に関する権限は、沖縄自治州議会が有する。
8.沖縄自治州議会は、毎会計年度の予算を編成する。予算の編成にあたっては、州内市町村の均衝ある発展に配慮する。予算編成の過程を住民に公開しなければならない。
9.沖縄自治州政府は、沖縄自治州議会及び住民に対し、定期に、少なくとも毎年一回、沖縄自治州の財政状況について報告するとともに、常時閲覧できるようにしなければならない。

【解説・補足】
1.戦後の”アメリカ世”及び復帰後の”大和世”を通して莫大な公共投資が沖縄地域になされたが、沖縄における「自立経済の確立」「安定した社会の実現」は未だ実現していない。その要因には様々なものが考えられるが、1つには、自治財政権が不十分なため、公共投資や予算の執行が地域の実情にそぐわない形でなされたことによる。
 自治財政権の確立は、今後の沖縄自治州における地域づくりにおいて最も重要な鍵であるといえる。
2.沖縄自治州は、領土こそ小さいものの広大な領海を有する。沖縄自治州が属することにより、日本国は、広大な領海とそれに付随する漁業資源や海底資源などを有することが可能となり、現在及び将来にわたる潜在的価値は計り知れない。
 また、「竹島」や「北方領土」の例をみるまでもなく、国境地域に自国民が永続的に居住するということは、最も平和的な領土の維持・保全の方法である。
 したがって、沖縄自治州において日本国民としての最低限の生活(ナショナル・ミニマム)が維持できるよう配慮することは、日本の国民益にかなう。
3.沖縄自治州のみならず、地理的な不利性や国策や規制等により、他地域と同等の努力をしても、“経済的発展や自立経済の構築が困難な地域”“税収が低い地域”は国内に多く存在する。
 特に沖縄自治州及び州内市町村は、“国境性”及び“離島性”という特殊事情を抱えており、特段の配慮を必要とする。
 例えば、沖縄は全国的な鉄道・道路ネットワークから孤立しており空港及び港湾の果たす役割は他の都道府県よりもはるかに重要な意味を持つ。このため、沖縄の空港・港湾を全国的な公共交通ネットワークの一部と見なし、ガソリン税や高速道路料金を空港・港湾整備に必要な財源として移転する。
4.適切な財源の移転は、歴史的にみても世界的にみても、国を維持する際に必要な当然の政策であり、財源を移転する側とされる側の関係は手続き上のもので、そこには本来、上下関係は存在しない。しかしながら、財源を移転する側の裁量範囲が大きくなればなるほど、その影響力がおおきくなり、往々にして、上下関係が成立する傾向にある。
 したがって、沖縄自治州への財源移転にあたっては、一定の基準に基づきこれを行うこととし、国による裁量の余地を残さないことが重要となる。
5.国及び他の道州との二重課税にならない限りにおいて、沖縄自治州は課税する権利を有する。
 例えば、環境税や入域税、賭博税などが考えられる。また、「泡盛」は琉球王国時代からの沖縄の特産品であり、その税収は沖縄自治州へ帰するものとし、税率についても沖縄自治州に決定権を付与することを検討する。
6.沖縄自治州は重要な経済基盤である土地の多くを基地に取られているため、経済的発展の可能性を奪われている。また、基地は住民生活にとって典型的な迷惑施設であり、環境破壊施設であるため、本来、人口密集地や貴重な自然環境を有する地域と基地は相容れない。さらに、同じ自治州内に居住し存在するにもかかわらず、基地施設及び軍人・軍属と自治州住民及び事業所とでは税制面で必ずしも平等とはいえない。
 そこで、米軍、米軍基地内施設及び軍人・軍属等への課税については、州内の事業所及び住民と同等の原則を適用し、その税収は、沖縄自治州自立経済のための財源とするだけでなく、環境税と同様の趣旨にのっとり、基地被害の根絶、基地環境監視、基地縮小のための施策等の財源とする。
7.財政民主主義の基本原則に則り、沖縄自治州の予算及び決算に関する権限は沖縄自治州議会に属し、その執行にあたっては沖縄自治州議会のチェックが必要である。
8.現行の国や都道府県の制度と異なり、毎会計年度の予算の編成は沖縄自治州議会が主体となって行い、沖縄自治州政府は補佐的に予算案を提出するものとする。
9.財政状況については、これまで以上に紙媒体の報告や閲覧を充実させるだけでなく、電子媒体(インターネット)を活用し、24時間いつでも何処からでも閲覧できる体制を構築する必要がある。


5.沖縄自治州と市町村の関係

【事項案】
1.沖縄自治州と市町村の関係は対等・協力である。沖縄自治州は、住民が創設するもっとも基礎的な自治体である市町村の自治を最大限尊重しなければならない。
2.市町村は、住民が創設するもっとも基礎的な自治体としての役割を担う。沖縄自治州は、広域自治体として、市町村を支援する補完的役割を担う。市町村が行うことが適当でない/できない事務を補完的に処理する。
3.沖縄自治州と市町村の紛争は、沖縄自治州に置く自治州裁判所の管轄とし、自治州裁判所が判断する。

【解説・補足】
1.新たな地方自治法の施行に伴い、国と県、市町村の地方公共団体は、対等・協力の関係となった。その際、市町村が行うことができない事務を県が、県が行えない事務を県が行うというように、補完性の原理に基づいて、身近な政府/単位に優先的に事務を分配し、市町村の自治を最大限に尊重する。
2.自治州と市町村の事務は、補完性の原理に基づき、垂直補完や水平補完等の様々な形で、補完を行っていく。自治州が行う事務は、大きく分けて以下の3項目が想定される。
(1)広域的事務:地方の総合開発計画の策定、資源開発、天然資源の保全、治山治水事業、道路、河川の建設等
(2)市町村に関する連絡調整事務:市町村合併の案策定、福祉事業のモデル作成、離島及び過疎支援等
(3)補完的事務:高等学校、大学、試験研究機関の設置、雇用、産業振興、公害規制等
3.市町村が事務処理をする中で、沖縄自治州からの是正要求や許可拒否などに対し、市町村の執行機関が不服の場合は、沖縄自治州を管轄する自治州裁判所に対して、審査要求を行うことができる。


6. 市町村

【事項案】
1.市町村は住民が創設するもっとも基礎的な自治体であり、その地域の住民の福祉のため包括的な自治権を有する。
2.主権者たる住民は、憲法の範囲内で、規模と風土に適した仕組みや権限を創造することができる。
3.各市町村は、自治力向上のために相互に協力し、情報共有に努め、自治の拡充のための政策形成については、相互に調査・研究を実施する。

【解説・補足】
1.市民がつくりあげていく地方政府としての位置づけ。市町村は、地域住民の福祉の向上に関するすべてにおいて、統治していく権限を持つ。
 包括的権限付与方式・・・世界自治憲章やヨーロッパ自治憲章に示されているようにその地域住民の福祉に関することは、地域で考え実施していく。
2.地域住民でその地域の統治の仕組みや権限を自ら決定することができる。ですから例えば、シティーマネージャーや行政委員会の設置の仕方などは、各自治体によってさまざまな形を選択することができる。
 各市町村では自治基本条例の中で、それぞれの地域にあった姿が条文の中に盛り込まれていく。
3.各市町村には、情報の提供・作成義務があり、説明責任を果たさなくてはならない。
 情報共有ということは、あらゆるプロセスを公開していくということである。
 各自治体間は、相互に協力して公共課題の解決、またより専門的な知識・技能を習得して、施策提言を積極的に行うべきである。

7.沖縄自治州の統治機構

【事項案】
1.沖縄自治州住民の最高意志決定機関として沖縄自治州議会を設置する。自治州内に適用される公職選挙法については別に定める。議会は、住民の直接的な民主主義の権利を尊重しなければならない。沖縄自治州議会は、二院制とし、州内の市町村代表により構成される自治院と、自治州内で直接公選される議員により構成される立法院を設置する。議会の権限及び二院の関係については別に州法で定める。
 議会及び議員は、議会及び議員活動に関して、わかりやすく、かつ詳細に住民に伝えなければならない。また、議会の本会議、委員会その他の会議は、公開の不利益を具体的に立証しない限り、すべて公開する。
2.沖縄自治州の行政の執行者として、自治州内全域を選挙区として公選される知事を置く。
3.沖縄自治州知事を補佐し行政を執行する機関として沖縄自治州政府を設置する。沖縄自治州政府の権限及び業務、組織、職員については別に州法で定める。
 沖縄自治州政府は、すべての行政活動に関する情報について公開する。
4.国の最高裁判所下に、沖縄自治州裁判所を設置する。沖縄自治州裁判所の権限及び管轄については別に州法で定める。
 沖縄自治州議会により、制定された州法の裁判については、沖縄自治州裁判所で取り扱う。
5.沖縄自治州警察安委員会の委員については公選される委員により構成される。沖縄自治州警察の本部長及び幹部職員は自治州職員とし、知事が任命する。
6.沖縄自治州警察安委員会、沖縄自治州警察の権限、業務については別に州法で定める。

【解説・補足】
1.議会 沖縄自治州議会は二院制とするが、参議院、衆議院や上院、下院という名称だと、国会や米国議会の仕組みを重ねて考えてしまうため、新たに州内の市町村代表により構成される議会を自治と、自治州内で直接公選される議員により構成される議会を立法院と呼称する。(名称については要検討)
 自治州の予算については先に立法院に提出しなければならない。予算について自治院で立法院と異なった議決をした場合に、立法院の議決を沖縄自治州議会の議決とする。ただし、自治州内の市町村への予算配分の仕組みの決定に関しては自治院が最終議決権を有する。
 沖縄自治州内では国法を有効とするが、法律の範囲内において州は自らの住民の福祉に関して州法を制定することができる。州法は国の省令に優位する。
 沖縄自治州議会は、州法提出権と予算編成権を有する。このため、条例準備、予算査定、監査のための機構を議会内に設置する。
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、議会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。また、両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
 自治院の任期は、各市町村長の任期と同じとする。立法院については、例えば任期は四年、任期は三期までを限度とし七十歳を定年とするような任期制の導入を検討する。
 沖縄自治州議会は、議員の兼業化や、住民の傍聴を容易にするために、通年制や、夜間、土、日曜日の開会など多様な運営方法の導入を検討する。
2.知事 知事は予算教書(メッセージ)、州法教書の提出権及び沖縄自治州議会の議決に関して拒否権を有する。
 知事については、例えば任期は四年、任期は二期までを限度とし六十五歳を定年とするような任期制の導入を検討する。
 また、参議院を道州の代表で構成する等の国会の改革を提案し、知事による地域からの国の法案提出権を有することを目指す。
3.行政 地方自治法、地方公務員法の適用除外となる部分については別に州法で定める。 三役、部局長制を廃止し、一定の経営責任を有する幹部職員(政治的任用:理事or執行役員)により運営する。
 行政職員の国籍条項を廃止し、兼業禁止規定の改定により、非営利活動や非政府組織、州議会議員、市町村議員との兼業を可能とするとともに、すべての住民に門戸を開く。
 行政職員については勤務日、時間、場所等について多様な勤務形態を認め、行政の公正性を維持するための最小限の職員を除いて、期間を限った勤務が可能な業務については任期制の公募による採用を行う。
4.司法 自治権、立法権と同じく司法権を地方が有するために、沖縄自治州裁判所は憲法の下におく下級裁判所とする。この場合、国の地方裁判所も併存し国の法律に関する裁判は国の津法裁判所、州法に関する裁判は沖縄自治州裁判所が取り扱う。
 沖縄自治州裁判所においては、国内の判例のみならず、国際的な人権保障の水準を念頭に裁判官の良心に基づき独自の判断をする。また、公正な裁判制度の維持のため、2審制導入の検討を行う。
 裁判官・検事の人事はその公正性、育成システムを担保するため、国の裁判所、検察の人事のなかに置く。
5.警察 沖縄自治州警察は自治州内に権限を持つ地域警察とするが、刑法の下、犯罪捜査に関しては全国警察と協力して行い、沖縄自治州外での逮捕権を有する等、広域化する犯罪に対応できるようにする。

このページのトップにもどる

modoru