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<沖縄>を創る、<アジア>を繋ぐ

『情況』2013年7−8月合併号

<シンポジウム出席者(発言順。敬称略)>
  平良識子(たいら さとこ)  ……那覇市議会議員。沖縄社会大衆党副書記長。
  長元朝浩(ながもと ともひろ)……沖縄タイムス社取締役・論説委員長
  李 鍾元(りー じょんうぉん)……早稲田大学教授
  丸川哲史(まるかわ てつし) ……明治大学教授
  大田静男(おおた しずお)  ……八重山郷土史家
  仲里 効(なかざと いさお) ……映像批評家
  川満信一(かわみつ しんいち)……詩人。個人誌『カオスの貌』主宰。


 「抑止力」「中国の脅威」「島嶼防衛」「固有の領土」有の領土」「主権回復の日」などなど、沖縄の経験を置き去りにして、勇ましく飛び交う空疎なコトバたち。
 いま、東アジアの領土や領海をめぐる緊張を通して、主権、国境という近代の枠組みが根本から問い直されようとしている。
 サンフランシスコ講和条約60+1年― 沖縄は分割され、アメリカのむきだしの統治下におかれた。
 一方、日本の戦後社会はアメリカの傘のもとで「民主」と「経済成長」を遂げた。今に至る二つの戦後がある。
 そして、「復帰」40+1年― 極東の軍事的な要石としての沖縄の位置は変ることなく、日米の軍事再編にさらされている。
 東アジアの分断の起源を解き放ち、新たな〈1 〉にすることはできるのか。終わらない占領と植民地主義から始まりのアジアへ、歴史意識の深層の扉をこじ開け、〈沖縄〉を創り、〈アジア〉に繋ぐ思想は生まれなければならない。ここ沖縄から。

(5・18沖縄シンポジウム呼びかけチラシから)


 平良識子(総合司会) 昨年は「復帰」40年、サンフランシスコ講和条約60年の節目の年でした。沖縄にとってこの一年は、様々なことが問い直される、そのような一年だったと思います。オスプレイ配備については、県民の意思が一つになるという新たな政治状況が生まれ、県民大会が行われ、沖縄の一つの自己決定権の証として、「オスプレイノー」、「県内移設反対」を発信しました。しかし、それを全く無視して、オスプレイ配備は強行された。また、辺野古に新たな米軍基地を建設しようとしている。「県内移設反対」を言っていた自民党の国会議員がどんどん切り崩されている。また北朝鮮の「ミサイルの脅威」を口実にPAC3を沖縄に強行配備する。そして4・28の「主権回復の日」式典。いったいこのことは沖縄に対してどのようなメッセージなのか。そしてまた直近で言えば、橋下大阪市長の「慰安婦」容認発言。あるいは、わざわざ沖縄の基地を視察に来た中で、海兵隊に「風俗業活用」を進言するようなことがあった。この背景には、沖縄に基地があることが当然であるかのような、そういう前提がある。そして今、参議院選挙の直前ではありますが、急速に安倍政権が憲法改正に向かっている。国家が流布している「抑止力」や「中国脅威論」、「島嶼防衛」、「固有の領土」等々の言葉で、巻き込んでいく。そこで人が生きているということを無視して、巻き込んでいく。
 そのような状況で、私たちに何ができるのか。アジアと繋がって、沖縄がこれから「60年プラス1年」をどう生きていくのか。創っていくのかということを、みなさんと共に考えていきたい。今の危機的なアジアの状況、沖縄の状況の中で、新しい秩序を構築していけるのか。それぞれの自己決定権を尊重していけるような、アジアを創っていけるのか。そのことを考えたいと思います。
 それではコーディネーターの長元朝浩さんにマイクを渡したいと思います。長元さんは沖縄タイムス取締役・論説委員長として、アジアの視点から沖縄の現状を告発し、論じています。

 長元朝浩(コーディネーター) 会場にお入りになった方、まずこの横断幕を見て度肝を抜かれたのではないかと思います。先ほどパネリストの李先生と雑談をしていましたら、これまで見た中で一番芸術的な横断幕だとおっしゃっていました。この横断幕について、何も付け加えることはないのですが、あえて説明を加えさせていただきます。僕も会場に来て初めて見たのですが、真ん中にサングラスが描かれていて、サングラスに「EAST ASIA」と「OKINAWA」の文字が裏返しに映っており、その左右に「40+1」「60+1」とあります。昨年がサンフランシスコ講和条約発効60年という節目の年でした。また1972年の「復帰」からちょうど40年にあたりました。そして今年が「+1」年目に当たります。こういう時期に、東アジアのことを考えてみようということですが、このサングラスが一体なんなのか。これを製作していただいた方は沖縄では著名な画家、アーチストです。その方もサングラスをかけているので、そのサングラスかとも思いますが(笑い)、そうじゃなくて、マッカーサーが使っていたサングラスかもしれません。そのことについては、あとで本人に確認したいと思います。この横断幕と、各パネラーの名前をかなり達筆な文字で書かれた方は、真喜志勉さんです。(拍手)
 ありがとうございました。これから具体的な議論に入っていきます。きょうのシンポの趣旨については、先ほど平良さんから説明がありました。もう一つあえて付け加えたいのですが、これまで我々が沖縄の中で、特にこの数年間、基地問題を語る場合には、ひとつの語り口、アプローチの仕方がありました。一つは海兵隊の機能とか役割はどんなものであるか。あるいは日本政府内部の政策決定過程。どういう形で政策が決定され、何が問題なのか。あるいは日米安保のありかた、「安保ムラ」という一種の利益共同体の問題とか。そういう切り口で沖縄の基地問題を論ずることが多かった。その中で、「抑止力」とか、「地理的優位性」という概念が、これまで宣伝されていたよりもはるかに蜃気楼のような、脆弱な、つまりそれを使う側がどうにでもできるようなものではないか。そんなことがこの間の議論の中で、だいぶ明らかになった。
 きょうは、そういう話とは全く違うアプローチの仕方をしたい。それは、東アジアというファクターを重視して、東アジアの歴史、東アジアの冷戦秩序、中国の台頭、そこから見たときに沖縄の基地問題はどういう風に見えるのか。あるいは沖縄の基地問題から東アジアを見たときに、どのようなことが言えるのか。そこをきょうの議論の中心にしたい。
 その議論に相応しい方を四名、お呼びしています。

 まず、李鍾元(リー・ジョンウォン)さんです。李さんは立教大学で教えていらして、去年から早稲田大学の教授になられています。NHKの朝の討論番組によく出られるのでご存知の方も多いと思います。きょうは四名の方の著書をそれぞれ一点だけ紹介します。李さんは1953年に韓国でお生まれになり、東京大学大学院で学んだあとこの本を出されました。1996年の『東アジア冷戦と韓米日関係』(東大出版会)です。この本は国際政治学会では名著として知られ、大平正芳記念賞、アメリカ学会清水博賞、米国歴史家協議会外国語著作賞を受賞しています。その後も朝鮮半島の国際政治を研究されています。
 そのお隣が明治大学教授の丸川哲史さんです。丸川さんは、ちょうど李さんと10歳違いで、1963年に和歌山でお生まれになっています。一橋大学大学院を出られて、台湾文学と東アジア文化論が専門で、非常にたくさんの著書を出されています。一冊だけ、岩波書店から2003年に出された『リージョナリズム』をご紹介します。この本の中で丸川さんは「東アジアの冷戦構造の中で、日本はその最前線ではなく、一歩下がったところで、城内平和・城内民主主義を享受してきた。」と指摘されています。この本の最後に基本文献案内がありまして、その中で、李さんの論文を激賞していまして、個人的にも多大な刺激を受けた、と書いています。
 その隣が大田静男さん、仲里効さんです。お二人は、共通の知的バックグランドを持っていらっしゃいます。大田さんは八重山という島で生まれて、東京へ出られて、今は八重山にまた戻られて活躍しています。仲里さんも同じように大東島という島で生まれて、東京の大学を出て、そして沖縄の地元に戻って活躍されている。大田さんの著書として、『八重山の戦争』(1996年南山舎)をご紹介します。これは日本地名研究所風土研究賞、沖縄タイムス出版文化賞を受賞しています。八重山の戦争遺跡をフィールドワークして、大変克明に記録されています。最近では八重山毎日文化賞も受賞されています。『とうばらーまの世界』というCD付の本も出版されています。最後に右端の方、映像批評家の仲里効さんです。1947年に南大東島で生まれ、多くの著書がある批評家ですが、その中から、『悲しき亜言語帯〜沖縄・交差する植民地主義』(2012年未来社)を紹介します。本の帯には、「沖縄の言説シーンの深層をこれほど強力にえぐり出し解明したウチナーンチュ自身による批評はこれまで存在しなかった」とあります。
 それぞれ分野も専攻も異なる四人ですが、きょうのテーマに関心を持って発言してこられた方々です。それではまず李さんから20分ずつ提起していただきたいと思います。

発題1:東アジアの中で考える日本・アジア・朝鮮半島

 李 鍾元  この会場に入ってきて、横断幕を拝見して、感動に浸っているところです。サングラスと反転した文字、この意味はなんだろうと考えていました。研究者というのは何でもまず答えを探そうとする。そして答えらしきものを見つけて「これが答えだ」というのですが、芸術というのはそんな簡単に答えは出ない。謎めいた、仕掛けのある作品だと思います。
 私自身は30年前に日本に来ました。アメリカのアジア政策を基本にしながら、その中での韓国・日本の関係を勉強してきました。日本の中でずっと抑えられてきた問題が一気に噴出するような、そういう時期に来ている。大きな転換点だろう、そういう思いを持ちながら、長元さんからも繰り返しお話がありました沖縄の基地問題を、直接論じるというよりも、ちょっと迂回するように思えるかもしれませんが、その点はご了解いただきたいと思います。
 4月28日、日本政府が公式的な位置づけを明確にしたことで、「沖縄にとっての4・28の意味」を考えるきっかけになった。同じ出来事をどういう角度から見るかで異なってくるのは、当然のことです。本土においても沖縄との関係を考えざるを得ない。そこにある意味では積極的な意味合いが、見いだせるだろう。

 私は1982年に留学のために日本に来ました。そして三鷹市で生活をしながら、日本はいい国だと思いました。韓国は全斗煥政権の時代でした。人が殺されたり、警察と軍のプレゼンスが非常に高い社会でした。街を歩いていて警察を見ると、どう避けていくかをまず考えた。そういう生活を当然のように送っていた。韓国から留学に来た私にとっては、日本の警察は「おまわりさん」という、道を教えてくれる人というイメージで、随分日本と韓国は違うんだなと感じたりしていました。もちろん、日本の警察も別の場面では別の顔があったのだと思いますが、少なくとも当時の韓国と比較すると、日本はとても平和だなと思った。
 そのことが、私にとって、国家とは何かを考えるきっかけになりました。最近だいぶ変わってきましたが、私が30年前に日本に来た時には、「国家」とか「民族」とか「愛国」という言葉は、日本の大学の教室でも、そんなに前面に出なかった。当時の韓国では、政府側であろうが、反政府であろうが、「国家」「民族」「愛国」の言葉は当然のことのように使っていた。私自身も愛国者だと思っていましたが、日本にきてからはあまり使わなくなった。東京の渋谷で久しぶりに「愛国」の文字を見つけたのは、日本愛国党のポスターでした。ここに日本の「愛国」を見つけた(笑い)。未だに鮮明に覚えています。その後、韓国では「愛国」をだんだん使わなくなった。それと入れ替わるかのように、日本の本土で、「愛国」「国家」が以前よりは増えてきている。日韓の逆転現象が、いろいろな形で出ていますが、韓国の子どもはキムチをあまり食べないのに、日本の子どもは大好きとか(笑い)。いずれキムチは日本のものになっていくかも知れないとも思っていますが。そのように「国家」「愛国」「民族」というのも入れ替わろうとしている。それを学問的にもどう位置づけようかと考えているところです。
 色々な意味で「戦後日本」は「戦前日本」とは違う。単なる時代区分ではなくて、新しい政治経済社会を含んでいる「戦後日本」、その中に沖縄は含まれているのか。また2006年の第一次安倍政権の時には、「戦後レジュームからの脱却」が声高に繰り返し唱えられた。「戦後日本」の中には、評価すべきものとできないものがあるのではないか。「戦後日本」の評価すべきものを発展させていく、「戦後日本の発展的克服」というのはあるのではないか。「戦後日本」をどう考え、克服していくのか、それが大きなテーマだと思う。

 「平和国家・日本」というのはカギかっこで使わざるを得ないが、「平和憲法」に集約される戦後日本の蓄積、実績は、ポジティブに評価すべきものだろう。平和憲法九条も、「押し付けられた」という言説が最近盛んに飛び交っているが、国際連合そのものは、国家が勝手に戦争してはいけないという、そういう理念の上に立っている。今それは形骸化してうまくいっていませんが、国際連盟から引き継いだ国連憲章の趣旨は、いくつかの限定の中で、自衛のための最低限の軍事行動はそれぞれやらざるを得ない。しかし戦争というものは国家が勝手にしてはいけない。これが前提になっている。そういうふうに考えると、日本の憲法は例外でもなければ、国連というのはそもそも世界大戦を経た上で、その反省から生まれた。人類が追求すべき理念のさきがけであると考えると、憲法九条の歴史的な意味は非常に大きい。そのおかげもあって、日本はアジアの戦後の紛争で直接巻き込まれることはなかった。それは大きく誇って良いことではないか。
 しかしその「平和国家・日本」の光の裏面は、日米同盟であり、日米安保がある。その意味では、日本は平和国家というよりも「基地国家」であり、アジアの冷戦、熱戦にも、いろいろな形で関わっている。それだけではなくて、そこから様々な利益を得てきている。そのような負の部分が当然あるが、その両面を見ながら、戦後日本の成し遂げた達成は、ポジティブに評価し、それをどのように地域的につなげていくのか、それを考えるべき。様々な意見が出て、方向が錯綜しているのが現在の日本の政治状況ではないかと思う。
 先ほどご紹介いただいた私の著書は、1950年代のアメリカのアジア外交の中での韓・日関係を探るものでした。その時に資料を読みながら感じたことがある。アメリカのアジア政策の中で、日本と韓国が地域的な分業体制に組み込まれていた。朝鮮戦争の時に、アメリカは日本をもっと武装させようとした。日本の軍事力を活用しようとした。しかし吉田茂は、軍事国家になることは彼なりには抵抗して、自衛隊の前身組織を作ったけれども、本格的な軍事化は抵抗しながら、「軽武装・経済重視」路線を展開した。日本は巨大な軍事負担を背負わずに回避でき、経済の復興に力を注ぐことができた。
 目を朝鮮半島、韓国、台湾に転ずると、同じ時期に重武装の軍事国家になっていく。日本では1957年に、朝鮮戦争とともに設置された国連軍司令部が東京からソウルへ移転し、在日米軍の撤退・移動が動き出す。日本の本土に残したいという米軍の意向もあったのですが、本土で反基地運動が激しくなり、核武装した地上軍を日本本土には置けなくなった。この本土の反基地運動のプレッシャーを受けて、米軍の司令部を韓国に移し、海兵師団を沖縄に持ってくる。日本の本土には地上軍の戦闘部隊は残らない。日本の平和運動の成果として地上軍は残らなかったが、その代わりに韓国と沖縄の米軍は強化された。これはまさに米国中心のアジアの戦後秩序の中での日本と韓国の役割分担があり、沖縄と台湾も同じような役割を担わされた。韓国・台湾・沖縄が、前哨国家・前哨地域となった。まさにこのような地域的な構図を考えなければならない。
 結論を前倒しして申し上げると、韓国も沖縄も冷戦秩序の最前線に位置したことで、巨大な負担を背負わざるを得なかった。この冷戦秩序を変えるためには、現地での様々な取り組みがもちろん必要ですが、それを通して、地域そのものを対立から協調へ切り替えていく必要がある。「地域を創る」ことが核心となる。

 今日のシンポのタイトルは「〈沖縄〉を創る 〈アジア〉を繋ぐ」ですが、沖縄もその中にある東アジアをどう繋げて、創っていくのか。台湾でも大陸との関係でそういう努力をしていますし、韓国でもそのような模索がされている。沖縄でもそのような発想が必要ではないか。
 冷戦下の戦争があり、共産主義の脅威があり、否応なしにアメリカ中心の軍事に依存する秩序が形成された。アメリカの関与がそのような冷戦秩序を必然化したという見方もできますが、G・ルンデスタッドの言葉を借りれば、「招待された帝国」、西欧諸国が米国を招き入れた面があります。地域の指導者が資本主義秩序を形成しようとしてアメリカを招き入れた。欧州もアジアと同じように、アメリカの軍事力に依存するような状況が作られた。しかし、欧州は、今考えると非常にしたたかな脱冷戦外交を展開した。ソ連の脅威に対抗し、自らの復興を成し遂げるために、アメリカの力をフルに利用して、冷戦の対立にあぐらをかいていたわけではなくて、それを乗り越えるための努力をした。まずは従来のナショナリズムを西欧だけでも超えていこうということで、EUができた。それだけではなくて、東欧にまで手を伸ばした。まず西ドイツが、東方政策を打ち出し「接近による変化」というスローガンを掲げた。それが全欧洲に広がり、1975年の欧州安全保障協力会議CSCEの創設につながった。その10年以上の蓄積を経て、1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が平和的に、それほど大きな混乱もなくスムーズに体制転換を成し遂げた。
 これは欧州だからできた面もありますが、ここから私たちは多くの教訓を得ることができる。アメリカの力を利用しながらも、その枠の中で安住したのではなく、アメリカの枠を超えて、自らの地域的な利害を確保することができた。これはアジア各国に大きな教訓を与えるものです。
 日本ほどまだ力はありませんが、前哨国家であり、反共軍事国家であった韓国も、経済成長を成し遂げ、民主化が進展するに従って、外交も欧州型を志向するようになった。北朝鮮に対して融和的な政策を取ると、日本のメディアは「左派政権」と烙印を押しますが、これは金大中政権、盧武鉉政権に限らず、北方に目を向け、北への関与政策を最初に進めたのは、軍人出身の盧泰愚政権でした。韓国も最前線の前哨国家としての負担を軽減するのに、冷戦構造そのものを変えなくてはならないと考え、北朝鮮やロシアに目を向け、北方外交を進め、北東アジアの安全保障協力機構を提唱した。前哨国家である韓国が、冷戦が続くと国境線は対立が厳しくなる。その対立を協調に変えると、国境線は交流の拠点になる。それ以来韓国では、政権が変わっても、冷戦を脱冷戦に持っていくことで、朝鮮半島を対立の最前線ではなくて、北東アジアの交流の拠点になりたい。これが保守革新、右左問わない韓国の一貫した政策の流れだと思います。現在の朴槿恵政権も六者協議を拡大した「ソウルプロセス」の構想を掲げ、米韓、米中の連携を模索している。
 中国の台頭の中で、東アジアは「新冷戦」を迎えている。これも、単に脅威に対処する、備えるということではなくて、同じように関与していく。脅威そのものをシステムの中に取り込んでいくという発想が必要です。この「新冷戦」の中での日本の安全保障を考えたときには、何が必要なのか。九条改憲と国防軍の創設が焦点化しようとしているが、これは明らかに逆流。昔は国を守るのは「国防」でしたが、しかし国を守るのは軍事だけではない。より幅広いもので、「安全保障」という考え方が出てくる。国家だけではなく、そこに暮らす人々が安全でないと意味がない。そういう流れの中で、「国防軍」などの発想が出てくるのは、19世紀的で復古的と言わざるを得ない。
 もうひとつ、領土についても、先日朝日新聞が書いていましたが、尖閣が「国策の海」にされた途端に、漁民が海に出られない。竹島も、緊張が高まると、そこで漁をしている漁民は損をする。「領土」を所有だけで考えるのか。むしろ「機能」に着目する必要がある。所有はゼロサムだが、機能は分かち合うことができる。
 最後に、東アジアという「地域」を創ることで国家を変える。このことが重要ではないか。

 長元朝浩 ありがとうございました。前哨国家・地域としての韓国・台湾・沖縄というお話がありました。サンフランシスコ講和条約60+1年ですが、政府の表現によれば、確かに日本本土は主権を回復しました。でもその講和条約によって、韓国・台湾・沖縄という地域が、冷戦の最前線に置かれた。非常に厳しい状況を強いられたということについて、日本の中で、関心が薄かったのではないか。沖縄と日本本土は、戦争が終わったあとでさえも、共通の国民の記憶を育てることができなくて、それが今に尾を引いている。しかも、李さんが話されたように、まさに沖縄の場合は、平和の配当もないままに、「新冷戦」を迎えて、ますます状況が厳しくなっているということだと思います。
 では丸川さんにお願いします。

発題2:「尖閣」と「釣魚」のあいだで

 丸川哲史 私の自己紹介のようなことから話はじめますと、私は1990年から93年まで、台湾に三年間日本語講師として行っていました。そこで中国語を覚えたことが、私の中華世界、あるいは東アジア世界への最初の接近の仕方でした。中国語ができるようになると、自然に大陸中国の方ともおしゃべりできるようになった。元々の専攻は日本の戦後文学だったのですけど。
 私に与えられたテーマですが、「『尖閣』と『釣魚』のあいだで」というものです。これは象徴的な言い方になります。というのは、実は二つだけではないわけです。「尖閣」というのは、"The Pinnacle Islands" の意訳であり、英語起源であるわけです。このエリアにかかわる日本人の歴史記憶の根源にかわることです。もう一方、中国側の「釣魚」というのも不思議な言い方で、逆さまにすると「うおつり」となります(このエリアで漁労を行っていた宮古の人々はそのように呼んでいたそうです)。そして大陸中国では「釣魚島」、台湾は「釣魚台」ということになります。こういった複数の名前の絡まりあいに留意しておく必要がある、ということです。
 最近、中国の社会科学院の学者二人が連名で、「琉球の地位はいまだ未定である」とした人民日報の論文「『下関条約』と釣魚島問題を論ずる」が出され、話題になりました。今日のシンポは40年(+1)と60年(+1)という時間軸で議論するという趣旨になっていますが、中国・台湾の場合で考えると120年前の出来事――日清戦争前後から考えざるを得ないと思います。先の言い方では、英語経由の「尖閣」という概念を使いはじめていたということですね。そこで象徴的なことを言いますと、現在、国際条約体制というものは英語を第三言語として意味を確定とすることで成り立ったものであり、例えば日本と中国で条約を交わすときにも必ず英語に翻訳しなければならない。これが二カ国間国際条約の基本ロジックなのですが、第三項によって眺められているというわけです。しかしまたこのころまで、日本と中国の間で交渉する際には、それを第三の言葉で確定していたわけではなかった。例えば1895年の下関条約は仮名混じりの漢文と漢語文だった。お互いに、書いたものを見ながら確認していたはずです。英語が取り入れられたのは、1905年のポーツマス条約からです。ロシアと日本の戦争処理の条約ですが、それを作った土地が米国だったこともあります。日本語とロシア語、そして最終審級としての英語で条約文が作られた。そういうふうにして、この東アジア地域において、国際条約体制のロジックが徐々に入ってくる、その過程として120年の歴史を考えざるを得ない。以上、大学の講義ですと半年から一年かけて解説する問題ですが、端折ってお話ししています。

 二つ目の問題は、私は東京から来たものなので、東京で今起こっている新しい現象を加味しながらお話しせていただきます。つまり1960年安保以来の幅広い階層の人々が国会議事堂を取り囲んでデモが行われているという出来事とともに、沖縄の問題を考えざるを得ないと思っています。この出来事に関しても、東アジアの地図を思い浮かべて発想した場合どうなるか。つまり、東アジアにおける米軍基地と原発がどうつながるか――このことを3・11以来二年間考えてきました。切っ掛けは、原発事故のあとの米軍の「トモダチ作戦」でした。米艦隊が放射能を避けながら津波の被災地に向かい、そこに上陸し、救助活動を行っている――この映像がマスメディアで流れました。その時にこういうことをSF的に考えました。もし、原発事故が起こった場所が、太平洋岸でなくて、朝鮮半島とか中国大陸の側の沿岸(いわゆる日本海側)だったら、どうなっていたか。その場合に、「トモダチ作戦」はどういう意味を持つのか。同じ海域では常に、朝鮮半島の北部をターゲットにして同じ暴力装置が堂々と軍事演習をやっている。米軍の「トモダチ作戦」というものの二重の性格が如実に浮かび上がっていたはずです。
 原発にしても米軍基地にしても、戦後の日本のあり方を決定した二つの大きな装置として、植えつけられたものです。しかしこの装置は、日本だけではなくて、東アジア全体のエリアの中で存在している。であるならば、米軍基地はどのように存在しているかということと、原発はどのように東アジアの中に挿入されたかを、二つながら重ね合わせて考える必要があると思います。

  二つの暴力装置の配置(専門家でないので正確ではありません)
大陸 台湾 日本 韓国 北の共和国 米国
  核兵器 × × ×
  濃縮技術 ×
  リサイクル処理 × × ×
  原発
  原発輸出能力 × × × ×
  米軍基地 × × ×
    *大陸中国の核開発の由来―ソ連、フランス、米国、日本

 この表を作ってみてわかったのは、日本と韓国は非常に「進んでいる」ということです。米国によって原発が設置され、また原発輸出ができる能力を既に持っている。一方、大陸と米国は核兵器を持って対峠しており似通っていると言える。似通っているモメントとして、両者とも原発輸出は可能ではないことも含みます。中国の場合は後発原発国ですのでそれがまだできない、ただし核廃棄物の処理にかかわる事業には乗り出そうとしているようです。そして米国は1979年のスリーマイル原発(TMI)事故以来、原発の開発をあきらめ、輸出しない方針になっている。しかしそれを日韓に肩代わりさせている、ということですね(また核廃棄物のリサイクル事業、これも代わりにやらせようとして来た)。さらに、以上の東北アジアの地図に北の共和国(いわゆる北朝鮮)が割り込もうとしている。初めは、90年代に主に米国から許可を得た技術供与として始まり、その内にそれを濃縮技術へと転用させ、核兵器を持とうとしている段階です。
 ここで興味深いのは、私の専門領域である台湾です。核兵器はない、濃縮技術もなくて、リサイクル処理もない。原発はあるが、輸出能力はない。そしてまた米軍基地もない。これは何を意味しているのか。1979年米中国交回復の年に、国交回復の条件として台湾の米軍基地が撤去された(つまり北京政府に力によってそれが為された)。これは実は、東アジアの冷戦の構造を変えた出来事です。TMI事故と同じ年です。いずれにせよ台湾への米国の関与が薄れ、米国経由の台湾における原発も建てっぱなしとなり、そのまま置き去りにされたわけです。
 つい先日ですが、「3・11」のデモで、東京では一万数千人でしたが、台湾では10万人から20万人がデモをしている。台湾が東アジアの核‐原発ネットワークから徐々に抜け出そうとしている徴候と言えるでしょう。これこそ、米国のプレゼンスが低下した結果でもあるわけです。今台湾では第一原発から第三原発までが稼働していますが、TMI事故以来、日本が米国に代わって台湾に作ろうとして来た第四原発の建設続行の可否が問題になっている。2月25日に行政長官(首相)が「建設中止の国民投票をやりましょう」と言い出して、これが引き金になり、先日の大きなデモに発展した。ここでもうひとつ重ね合わせなければならないのは、台湾と大陸中国との関係です。2011年に取り交わされた両岸FTA(自由貿易協定)の中に原子力の条項が入っておりまして、これは多分、今後に関して台湾の核廃棄物を大陸中国が処理することを可とする、そのような意味を持つ協定ではないか(詳細は書かれていませんが)。つまり、脱冷戦の入り混じったグローバリゼーションが進行する中で、冷戦構造が徐々に変形しているわけです。
 さて、このようなことで、大陸中国・台湾・朝鮮半島・日本・沖縄、各地域で起こっている社会運動をどのように結びつけて考えるのか――私の念頭にあるわけですが、ここで一つだけ大陸中国のケースを取り上げます。
 昨年(2012年)の8月から9月にかけて、尖閣/釣魚島問題に関連して大きなデモが中国大陸で起こりました。石原都知事の尖閣購入発言から野田内閣による国有化の動きがありましたが、その表明は7月7日の盧溝橋事件の日でした。そして9月18日の満州事変の日、ずっと静観の態度をとっていた中国政府が公船を尖閣に派遣し、それが一つの合図となって、大陸中国各地のデモが収まっていく――このような出来事が観察されたわけです。
 それぞれの地域の社会運動が連動しにくい条件として、それぞれの地域や国家が持っている代表制、政治システムが違うとどうしてもそこで起きている現象が理解されない。大陸中国ではいわゆる国政選挙はない。そのことで、むしろデモが政権に対する強いメッセージになる可能性が高い。もちろんデモも危険性があって、1989年の時のように弾圧されることもある。しかし、デモに対して、中国政府はかならずそれを注意深く観察している。中国語で言うと、上から下へは「反応」、下から上は「反映」というのですが、政府が反応する可能性が高いことを見越して、民衆はデモを行うのです。今回の場合、「政府は日本に対して弱腰だ」という突き上げのデモであり、それに対して中央政府が公船を派遣し、デモは収まった。このこと自体は、いろいろな問題を含んではいるのですが、いわば直接民主主義的な展開だったとも言える。中国の独自のあり方で、民衆の意思と政府の意思が一致した関係を持ったということですね。このように中国のデモのあり様を見ていくと、中国には民主主義はないという「日本の世論」はどのように解釈すればいいのか、ということになりますね。
 それぞれの地域は、それぞれの歴史があり、特有の代表制の形がある。中国の場合、言ってしまえば、つまり代表制とは共産党のことです。この共産党の機能がどういうものであるかを分析しない限りは、中国の中の民主主義とはどういうものか、あるいはそれがどのように発展して行くのか想定するのは難しい。お互いの政治システム(代表制)の違いを乗り越え社会運動を繋げていくには、各地域のシステム(代表制)の違いを考えながら連携できる、そのような想像力や政治的なロジックを研ぎ澄ます必要がある、以上です。ご清聴ありがとうございました。

 長元朝浩 いま、沖縄の中では焦点化されている地域がいくつもありますが、大田さんに八重山の状況を報告いただきます。

発題3:八重山の波濤

 大田静男 八重山から来ました。みなさん一人ひとりが自分の生まれた島の言葉で自己紹介すると、この国の文化の多様性を知ることが出来て面白いなと思います。
 八重山のような、小さな、ミクロ言語地帯の島に、中国を仮想敵国とした国の島嶼防衛計画というのがあって、与那国島に陸上自衛隊沿岸監視部隊や移動警備隊を配備するということで、島を二分して大騒ぎしている。
 尖閣、尖閣と先程から話が出ているわけですが、尖閣は八重山の方言で言いますと、銛のことをイーグンといいます、クバはビローのことで、島に沢山自生しているということで、「イーグンクバ島」と言っていました。この島が、中国のものか、日本のものか、と言っているわけですが、私から見ると、八重山の人たちは島の周辺、イノーで貝や魚を採って食べればよかった。何も遠いイーグンクバ島まで生活のため船を漕いでいく必要はなかった。沖縄と中国を往来する船の船頭たちは、この島を見ていただろう。日本政府は琉球処分によって沖縄を一県として、その翌年に宮古・八重山を清国に割譲するという「分島・改約案」を提案する。ところが清国の国内事情から交渉が引き延ばされ、結局まとまらなかった。その後、尖閣は古賀辰四郎が開拓を申請するが、明治政府はこれを認めようとしなかった。国標さえも建てさせなかった。日清戦争で、日本の勝利が確定的となると一転して領土に組み込む。
 八重山が脚光を浴びるのは、西表島から石炭が産出することが知れ渡るようになり、東アジアの情勢が大変緊迫する。つまり清仏戦争ですね。内務大臣山県有朋らが、西表島炭坑を視察するなどして、大変有望視されてくる。明治政府は「清国に割譲する」といい、清国は「石ころだらけの島はいらない」と言った、その島が、今度は宝の島になった。1960年代には尖閣周辺の東シナ海で石油も出るとなって、琉球、台湾、日本、中国とみんなが「わったー島」と言い出して大問題となった。それが現状。日本は「我国固有の領土」と主張し、それを守るために、自衛隊沿岸監視部隊を与那国に配置する。与那国では、沖縄県下で初めて町議会が自衛隊誘致の決議をした。政府防衛省は喜んで用地取得等の2012年予算、経費10億円を計上した。
 八重山教科書問題では、3月に文科省の役人が竹富町教育委員会に乗り込んで圧力を加えた。昨年、玉津石垣市教育長の狡猾な手法によって八重山地区教科書採択協議会で推薦もしていない育鵬社の公民教科書が採択され、教育行政は混乱した。石垣市と与那国町教育委員会が育鵬社の教科書を採択し、竹富が東京書籍を採択する。この育鵬社の公民教科書というのは、読んで見て驚きました。時代錯誤ですね。公民採択に一人の委員が賛成した理由は、「尖閣領土問題がキチンと書いてあるから」という。もう一人の委員は、八重山の方言で、言葉を忘れたら島を忘れる。島を忘れたら、国を忘れる。だから島のことを、つまり尖閣のことを大切に書いてある教科書が良いという。
 実はこの教育委員会の右傾化というのは、石垣市の中山市長が新自由主義史観で、彼を支持してきた防衛協会の人間とか、右翼と関係のある人たち、保守が議会で多数を占める。教育長には自民党文教族と関係の深い人物が就いた。教育委員もそういう人たちによって牛耳られている。保守教育委員を、バックアップしている人たちの根は、もっと深いところにあると私は思う。1968年の主席公選で革新から屋良朝苗さんと保守から西銘順治さんが立候補した。その時革新の中核は沖縄教職員会でした。その教職員会を分裂させれば、保守の西銘さんが勝つだろうと、当時の自民党は思って、分裂策動を練った。そして日教組を分裂させ攻撃していた人物を八重山に派遣し、人事問題を契機に分裂策動をして、八重山教職員協議会というのができる。その人たちの残党が、今も生きていて、背後で糸を引いている。
 先に述べましたが、3月に義家弘介文科省政務官を派遣しまして、育鵬社の教科書を使用するよう竹富町教育委員会に圧力をかけてきました。しかし、竹富町の教育委員会は、これを拒否し、父母たちのカンパによって、東京書籍版を購入し生徒に配布しました。そして5月に入って、竹富町に文科省局長名で石垣、与那国と同じ育鵬社の教科書を採択するよう局長名での指導が入った。しかし、竹富町教育委員会はそれに屈せず頑張っている。

 中期防衛計画によって、先島、与那国島にも石垣島にも陸上自衛隊が配備されようとしている。今後、沖縄本島北部とおなじく湯水のように補助金を使って、配備を進めるだろう。
 日本政府が日米同盟の根幹である基地を安定化させるために、県民にそれを認めさせようとしている。沖縄は基地の固定化を認めない。反対運動が激化している。しかし石垣市議会では非常におかしな話になっている。「主権回復の日」政府式典に抗議する意見書と辺野古埋立申請に抗議する意見書を賛成多数で可決した。この決議を否決させようと自民党議員たちが工作をした。しかし公明党と中立の一部議員が賛成に回り、工作は失敗した。これは、普天間基地の県外移設や辺野古埋め立てに反対する県内世論と逆行し、沖縄の「基地反対」という一枚岩に、風穴を開けて、「沖縄では基地賛成するところもあるよ」と見せようとした。議会勢力の弱いところが狙い撃ちされている。しかもそれを扇動しているのが、「八重山日報」というマスコミです。八重山日報の論説委員長というのが、自衛隊出身者ですね。中国脅威論を煽り、尖閣の記事がない日はない。産経新聞八重山支局と言える新聞です。さらに八重山出身の特攻隊の第一号と言われている人物、軍人をたいへん褒め称えて、なぜ授業でそれを教えないかという論調をしている。それから八重山防衛協会の会長が、八重山のマラリア問題に関して、「軍命はなかった」と公言している。さらに、3月に与那国島で行われた朝鮮人慰安婦の慰霊祭についても、「そんな事実はない」と、歴史を歪曲しようとしている。そんな人たちが、だんだん発言力をましてきている。
 八重山は、内からも外からも大変な状態になってきている。それから、日台漁業協定にしても、頭越しで決着した。八重山のウミンチュたちに一言の相談もない。これは日中漁業協定を結んだ時も同じ。日中漁業協定で、中国の漁船が東シナ海を荒らし回っていると日本のマスコミは非難しているけれども、これを認めたのは日本政府です。その時にも、沖縄の漁民たちに一言の相談もなかった。いままた、同じことが繰り返されている。国は決めたあとで、説明にやって来る。とにかく国民、県民を馬鹿にしてますね。中国の漁民を装った民兵が尖閣に大挙押しかけてきて上陸する。海上保安庁と沖縄県警がその中国人を逮捕する。中国は、「どうして我が国民を逮捕するか」ということで、逮捕された中国人を奪還するため、砲撃しながら逮捕した船を追いかけて石垣港にやって来る。その時に自衛隊が出てくることになる。戦争です。こういうシナリオが自衛隊関係者では想定されている。これはお国のみなさんが戦争やるということですが、じゃあ、八重山に住んでいる人たちはどうなるのか。
 国民保護法というのがあって、武力事態、戦争時に住民はどうすればよいのかを決めている。沖縄県も石垣市も決めてある。それによれば武力事態が起きれば、離島の島々から船に乗って石垣島に来て、石垣島から船や飛行機で本土に疎開をすると書いてある。石器時代の話ではない。超近代兵器、核ミサイルを飛ばす時代です。船なんかで避難できるわけがない。八重山の人は、戦争になったら終わりです。死ぬ以外にない。船なんかくるもんですか。食料なんてあるもんですか。ミサイルを打ち込まれたら、どうなりますか。軍事基地や船舶、飛行場のあるところを狙うのは軍事上の常識です。だから私は言うんですが、軍隊の理論で尖閣問題を語っている人たちは考えてみてください。私たちがどうなるかということです。私たちは本当に、死亡者台帳の中にしかいない。だから、戦争はやってくれるな、やってくれるなと念仏を唱える以外にない。日米同盟強化という名目で尖閣の危機を煽って、沖縄の基地強化を図るというのは、間違いないことです。日本の現状を見ると、ますますお先真っ暗。しかし、そうであっても、殺してはいけない。戦争してはいけない。平和が大切だ。いうことを私たちは訴えていかなくてはならないんじゃないかと思います。
 私は八重山の戦跡はほとんど見ました。まだ行っていないのは尖閣と仲之神島くらいです。黴くさい防空壕や、真っ暗な闇の中で滴の落ちる鍾乳洞から見えたもの、そこから学んだことは、戦争が一旦起きれば終わりということです。

 長元朝浩 八重山の大変厳しい状況を報告していただきました。最後に仲里さんよろしくお願いします。

発題4:沖縄の自立の思想的拠点

 仲里 効 今日は大きく分けて二つのことを話してみたいと思っています。いま、沖縄の民衆意識は確実に変わりつつあることを実感させられますが、何が、どのように変っているのかを考えてみれば、やはり1995年の三名の米海兵隊兵士による少女暴行事件のインパクトの大きさを無視するわけにはいかない。あの事件をきっかけにして、沖縄の戦後のあり方や「復帰」とは何であったのかということをあらためて問い直していくということが起こります。少女暴行事件に凝縮された理不尽な現実はいまだ終わっていない、いやむしろ、終わらすことができなかった沖縄自体に対する痛みを伴った内省として現れていった。だからこそ、沖縄がかかえる問題の構造への関心や日米両政府への抗議の声があれほどの高まりをみせ、うねりとなっていったことは、ここであらためて強調しておいてもよいでしょう。そして95年世代≠自称する自己認識をもった若い世代が登場したことは、「復帰」後の沖縄においてはまったく新しい出来事だったといえます。さらにその95年世代≠フなかから、70年前後の状況と鋭く切り結んだ「反復帰論」を発見し直していくということも起こった。
 この変化の私なりの理解を言えば、68年体制≠ェ緩やかだが確実に崩壊に向かっていった、ということになります。68年体制≠ニは何かといえば、1968年に三大選挙≠ニ言われた、初めての主席公選をメインに立法院議員選挙や那覇市長選挙が行なわれたわけですが、そのときに日本復帰運動を母体とした政党や労組からなる革新共闘会議≠ネるものが結成されます。この共闘体制を一方の極にして構築された沖縄的保革の政治現象を指して68年体制≠ニ言っています。この体制はそれ以前の沖縄の政治や社会運動を集約するとともに、それ以後の沖縄の政治のあり方まで方向づけていったという意味で大きな影響力をもっていた。この68年体制≠、日本での55年体制≠ニ比較してみると、アメリカ占領下の沖縄の特殊な政治・社会状況のなかで生まれた日本復帰運動がシステムとして機能していく問題が浮かび上がってくるのがわかります。冷戦構造下とはいえ、日本と沖縄とでは、異なる体制が存在したことになります。
 68年体制≠ヘ復帰運動を母体としていますので、日本本土との同一化や一体化を基調にしていました。したがって「復帰」後の政党や労組をはじめ社会のあらゆる領域に浸透していく系列化に無防備であっただけではなく、それどころか日米合作の沖縄共同管理体制を補完していく役割を担っていきます。これは大いなる皮肉と言えますが、それよりもむしろ、復帰運動が内在化した同化主義的幻想が、国家の沖縄併合を不可避的に呼び込んでいった、と見做したほうがより正確なのかもしれません。「復帰」後は、以前ほどの凝集力はなくなったにしても、沖縄の政治や社会や文化を方向づけ、系列化と一体化の方向での統合機能を果たしていくことになります。いわば68年体制≠フ体制内化ということになりますが、そのことをはっきりさせたのが95年のあの事件でした。歴史の連続性に亀裂が入り、その亀裂から沖縄の終わらない例外状態≠ノ目を向け、問題にしていく。68年体制≠ノ収まらない眼や声を持った動きが起こったこと、そのことによって民衆意識は流動化し、多元化していったこと、そのように解釈することができるのではないでしょうか。この動きの特徴をもうすこし踏み込んでいけば、日本国家の枠組み自体を問う、沖縄の自立と自己決定権へと向かう方向へとせり上がっていくようになった、ということが可能です。沖縄の民衆意識が流動化しつつ出口を求めていこうとする動きの内圧が、これまでにない高まりを見せていったとすれば、その内圧を沖縄の近現代史の構造として汲み取りたい、という思いがありました。
 いまひとつは、こうした沖縄の自立と自己決定権を求める内圧が、沖縄を切り捨てたサンフランシス講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」とする政府方針が打ち出されてからというもの、それに鋭く反応した動きとシンクロしながら広がりを見せていったことの意味をどう捉えればよいのか、という問題です。はからずも「主権回復の日」の政府方針で、沖縄の不条理の起源と出会い直すことになった。その出会い直しは、95年の少女暴行事件が起こってしまう現実を変えることができなかったことの内省と深いところで繋がっていた。68体制≠フ囲いには収まらない声がもはや無視できないところまできていて、68体制≠フ向こうにどのように政治的共同性を構築していくことができるのか、という問題意識にまで深められていきます。
 
沖縄自立論のためのコメンタール
 はじめに、沖縄の近現代を貫く構造と民衆意識の態様について考えてみたいと思います。昨年は「復帰」40年の節目でもあったことから、「復帰」とは何だったのかをあらためて問い直す多様な試みがなされましたが、その問いへの私なりの解を、昨年せりか書房から刊行された『〈復帰〉40年の沖縄と日本―自立の鉱脈を掘る』に寄せた「内的境界と自立の思想的拠点―ウンタマギルーの眉間の槍は抜かれたか?」という拙論にまとめてみました。この本の直接のきっかけは東京外語大学の西谷修さんを中心とした研究グループによって取り組まれたシンポジウムです。この15年近く、沖縄映画の特集上映や沖縄暴力論をテーマにしたシンポジウムなど、いくつかの企画に協力させてもらいましたが、昨年吉本隆明さんが亡くなったことがシンポジウムの内容に少なからぬ影響を与えたということは否めません。吉本さんの死と沖縄の「復帰」40年が重なったことはたんなる偶然にしかすぎないにしても、しかし、何か因縁浅からぬものを感じたこともたしかです。
 それというのは、吉本隆明さんは70年前後に、沖縄の問題に積極的に書いたり発言したりしてきましたが、そのとき発せられた言葉は状況の深部に届く射程をもっていました。
 68世代=i68体制≠ナはありません)ともいえる私たちにとっては、吉本さんの死によってあの時代のあの思想を想起させられた。しかも沖縄の「復帰」40年と重なったことは余計その思いを強くさせた。西谷さんのなかには、吉本思想の特異点を刻んだともいえる「擬制の終焉」と「自立の思想的拠点」という視座から沖縄の「復帰」40年を振り返ってみることはできないか、ということがあった。それで西谷さん自身は「擬制の終焉」から、私には「自立の思想的拠点」から論じていくことが課せられた、というわけです。
 「自立の思想的拠点」という視点から沖縄の問題に接近するにあたって、避けて通れないのは、やはり吉本さんが「南島論」や「南島の継続祭祀について」のなかで提示した〈グラフト国家〉論でした。その〈グラフト国家〉論とのかかわりで、併合と分離と再併合によっていくども境界を書き換えられた沖縄の民衆意識のありかたを考えてみたいということでした。沖縄の民衆意識は〈内的境界(国境)〉の問題として捉え直すことが可能です。だとすれば、沖縄の自立は〈グラフト国家〉と〈内的境界(国境)〉の発動のあり方と繋がってくるはずです。この試みは、沖縄の近現代を貫く構造をどうにかして掴みたいという私なりの問題意識から導かれたものです。詳しくは直接読んでもらいたのですが、今日のテーマとかかわると思えるようないくつかの論点をかいつまんで紹介することで問題提起としたいと思います。
 まず〈グラフト国家〉という概念です。これは吉本隆明さんが「復帰」の本質を国家統合の問題として捉えるために編み出した概念だといえます。グラフトというのは「接木」の意味で、ひとつの共同体が別の共同体を取り込もうとするときに、取り込もうとする共同体のイデオロギー的な核を接木し、それが取り込んだ共同体のなかにあたかも以前からあったように見せかけることで、征服や併合を自然のように思わせる巧妙な装置であることをはっきりさせてくれた。「自然」のように見えるということは、継ぎ目が消されるということを意味する。沖縄の「日本復帰」とは、復帰運動のなかにあった同化主義を、国家の併合の論理が接木したことに本質的な問題があったということであり、その継ぎ目が消されることによってあたかも「元に戻った」という創作がなされる。これは明らかに擬制です。しかしその擬制を自然のように見せかけるところに〈グラフト国家〉の〈グラフト国家〉たるゆえんだということができます。吉本さんが、沖縄は本土中心の国家を覆滅するほどの歴史や伝統をもちながら、日本の一辺境として「復帰」するのはこのうえもない愚行であり、天皇制を相対化できなければ、「帰るも地獄、とどまるも地獄」と喝破したのもそうした〈グラフト国家〉論からする根源的な批判になっていた。沖縄の自立の思想は、この〈グラフト国家〉と継ぎ目の視点を手放してはいけない、そう思えます。継ぎ目を沖縄の状況に不断に明示化することは避けられない作業だということになるはずです。
 第二に、先ほど李さんの発言にもありました「前哨国家―韓国・沖縄・台湾、辺境あるいは境界線の視点」からのイニシャティブということと関係することになりますが、このことを沖縄の民衆意識の〈内的境界(国境)〉の問題に置き換えてみるとどうなるかということです。境界は取り込んだり囲い込んだりする限界の機能をもっていますが、同時に外へむかって開かれる交通の機能も併せ持っています。いわば両義的です。この両義性は沖縄の近現代史の構造とかかわっています。1879年のいわゆる「琉球処分」で日本の版図のなかに強制的に併合され、日本化=皇民化の歴史を辿らされ、沖縄戦はそのもっとも悲惨な現れと見なすことができますが、1952年のサンフランシスコ講和条約で日本が占領状態から脱するのと引き換えに、沖縄はアメリカの排他的占領下に隔離される。そして1972年に再び「復帰」という名で日本に併合される、という歴史を辿ってきた。こうした歴史的経験は沖縄の民衆意識に複雑な影を落とすことになった。かつて沖縄の文化、思想状況の特徴が「同化と異化」というタームで盛んに論じられたのもそのことと無関係ではなかったはずです。沖縄においては、国家とか国民という概念は、あたりまえの前提ではなく、たえず疑問符を付してからしか考えられない。この疑問符を付す意識が潜勢力としての〈内的境界(国境)〉ということになります。言い換えれば、沖縄にとっての自立の思想的拠点は、〈内的境界(国境)〉をどのように発動していくかにかかってくるということです。
 第三に、70年前後の「反復帰論」とそれを80年代に架橋した「琉球共和社会憲法/琉球共和国憲法私(試)案」のもつ可能性です。「反復帰論」とはここであらためて言うまでもないことですが、国家の併合の論理に沖縄人自身がすり寄っていく心的現象に根底から異議を唱えたアクチュアルな思想的実践のことです。この「反復帰論」によって沖縄の近現代史の構造と沖縄人自身の同化主義の病根を内側から越えていく視座を獲得したといえますし、「新沖縄文学」48号(1981年)に掲載された二つの憲法構想は、沖縄の自立を「構成的権力」として提示した初めての試みだと見なすことができます。

 第四に、沖縄闘争にはじめて〈国境〉の視点を導き入れた、川田洋さんの「国境・国家・第三次琉球処分」という論考の現代的意味です。この論考は「情況」の1971年4月号に掲載されたものですが、今読み返しても新たな発見をさせてくれます。それどころか尖閣諸島をめぐる領土問題を考えるうえでとても示唆的で、先駆的な論考として位置づけてもけっして不当には思えません。この川田さんの「国境・国家・第三次琉球処分」は、吉本隆明さんの〈グラフト国家〉論とどこかで繋がる、同時代性をもっていた。沖縄の近現代史を三度の「琉球処分」というかたちをとった併合過程のパースペクティブで捉え、なかでも第三次琉球処分としての72年返還をめぐって〈国境〉が顕現したことを指摘したところは今でも参照するに充分耐えうる内容になっています。
 「T〈沖縄〉は〈国境〉を告知する/U日本―沖縄―アメリカ/最後の敗戦処理としての国境・領土権/V日本‐沖縄‐中国/〈琉球処分〉からアジアへ/W〈国境〉は蠕動する/〈国境〉と〈国家〉あるいは日本の中の非日本」という構成になっていますが、今日のシンポジウムのテーマとの関連で言えば、サンフランシスコ講和条約第三条の認識の問題について論じたところを見てみると、沖縄の日本復帰運動や本土日本の沖縄返還運動がいかに従属ナショナリズムに呪縛されていたのかがわかります。この第三条によって沖縄が日本の領土から切り離された、だから三条を廃棄することによって失われた領土を回復するという認識のもとに運動は推進されていきます。そうではなく、三条によって沖縄がはじめて日本の領土して宣言され、アメリカに売り渡された、という視点を川田さんは提示しています。この視点は近現代史の構造的把握がなければでてきません。
 さらに、近代日本の最大の他者としての中国に対する無知と無理解を糺していますが、このことは日本近代史の陥穽を浮かびあがらせることにもなっています。三次の「琉球処分」はいずれも中国の存在を抜きにしては語れないということを明らかにしている。すなわち、第一次琉球処分はそれまでの清国との関係を切断することであったし、第二次琉球処分としてのサンフランシスコ講和条約は、1949年の中国革命の影へのディフェンスの性格があり、72年の第三次琉球処分は、尖閣列島の領有をめぐって中国を呼び寄せた、という。この論考の末尾で言われた「〈国境〉とは権力支配の〈辺境〉であるだけではない。その〈国境〉が不気味に蠕動を開始するとき、それは〈国家〉総体へ波及する運動論理をもってあらわれる」という言葉は、尖閣諸島の日本政府による国有化をきっかけにして先鋭化した領土や主権をめぐる動態の核心を言い当てている。まさに海がノモスと化している現象が先取りして読み込まれているように思えます。
 第五に、高嶺剛監督の「ウンタマギルー」のラストシーンが物語る映画的想像力をいかに読むのかということです。沖縄が日本に「復帰」した1972年5月15日のその日、「これからは沖縄は日本だ」と叫んで、親方が妖艶なマレーを道連れに自爆する。この自爆のラストシーンは、沖縄の「復帰」の限界を表出したものであると同時に、自爆することによってオキナワンドリームを逆説的に守った、ということが言われているように読めます。この自爆シーンと応接するように主人公のギルーが眉間に突き刺さった槍のまま、海辺を彷徨うシーンがモンタージュされていくわけですが、ギルーの彷徨いは沖縄の「復帰」後の困難性が暗示されているはずです。ギルーの神通力を失墜させた眉間に突き刺さった槍は、沖縄が日本ではなかった時代の夢の喪失を意味し、オキナワンドリームを射抜いた槍は〈グラフト国家〉の寓意だと見なすことができる。
 以上が、沖縄における自立の思想的拠点の私なりの視点と論点です。いささか比喩的な言い方になりますが、沖縄の自立はウンタマギルーの眉間の槍をいかに抜くことができるのか、という問いに置き換えることができる。〈グラフト国家〉と併合の継ぎ目に自覚的であること、〈内的境界(国境)〉を沖縄に内在するアジアを呼び出すことによって発動すること、このことにかかってくるように思えます。

非対称的な戦後と流動化する民衆意識
 次に4・28の「主権回復の日」をめぐって何が露出したのか、それはどこへ向かおうとしているのかについて考えてみたいと思います。4・28の政府主催式典で露出したのは、まさに沖縄と日本の非対称的な戦後と沖縄の民衆意識の変化ではないでしょうか。どういうことかといえば、政府方針への異議や反対を通して、サンフランシスコ講和条約は、沖縄にとっては排除と擬制のシステムであったという事実と出会い直していった、ということです。これは李先生が指摘した、韓国、沖縄、台湾が前哨国家であったこととも関係していますが、東アジアには二つの、正確には三つの異なるタイプの戦後があるということにあらためて気づかせてくれます。いずれも東アジアの冷戦構造に深く規定されていますが、そのひとつは、アメリカの傘の下で、「民主」と「自由」と「経済成長」を遂げた日本型です。二つ目は、強力な反共ブロックとしての軍事独裁と基地専制ともいえる韓国・沖縄・台湾型。日本型の戦後と韓国・沖縄・台湾型の戦後は非対称的な関係にあります。いわば日本国憲法をもち、カッコつきの「民主」と「経済成長」は、沖縄(そして韓国と台湾)を周辺化(軍事独裁とむき出しの米軍支配)することによって成り立った、いわば擬制のシステムだということができるはずです。忘れてはならないのは、自力で革命を遂げ、一時は第三世界の解放の想像力を喚起した中国の存在です。東アジアの戦後は中国の存在を無視しては語れないのがはっきりしているということであり、これまでアメリカの傘のもとでドメスティックな戦後を生きた日本は、沖縄、韓国、台湾、そして中国の存在をその視野のなかから排除してきた。〈4・28〉を「主権回復の日」とした政府方針によって露出した沖縄と日本の戦後が非対称的であるというとき、こうした東アジアの異なる戦後をも視野のなかに入れることができるかどうかも同時に問われなければならないはずです。
 ここで、沖縄の民衆意識の変化について、用意した新聞資料を見ながら具体的に辿ってみたいと思います。資料は4月28日の政府主催式典に抗議する県民大会の翌日の沖縄タイムスと琉球新報の社説や大会の様子を伝える記事、そしてオピニオンの欄から拾っています。まず、主権回復の政府式典と一万人が結集した宜野湾市海浜公園で行われた抗議大会について解説した翌29日の社説をチェックしていくことにします。沖縄タイムスは「新しい風が吹き始めた」、琉球新報は「真の主権をこの手に」の見出しがついています。タイムスの社説は、大会で目立ったこととして島くとぅばに抗議の意味を込めた人が多かったこと、幅広い世代の参加者があったこと、政府式典で沖縄の集団的記憶が簒奪されることや沖縄のコアの経験が逆なでされたことへの危機感があったこと、そして登壇者や大会参加者の感想のなかに「主権」「自己決定権」「尊厳」「自恃」「離縁状」という言葉が多かったことなどを挙げ、「ここに示されているのは自立への渇望であり、気概である」と指摘しています。対照的に政府主催の記念式典については、なぜ、今なのかその理由がうかがえなかったとして、〈4・28〉は基地問題や歴史認識をめぐる亀裂を浮き彫りにした、と結んでいるのが印象に残ります。
 琉球新報社説のなかでも沖縄の民衆意識の変化に注目していて、たとえば、地域の運命は自ら選択して決める「自己決定権」や、沖縄では日米の基地維持政策を「植民地政策」として捉えていること、「沖縄の真の主権回復には独立や特別な自治が必要との意見も増えている」ことなどを紹介しています。沖縄タイムスと琉球新報の社説のいずれも、沖縄の人々の意識が変ってきたことに言及していて、その変化の特徴を沖縄の言語による発言と「自己決定権」や「独立」の言葉がタブーを破るかのように出たことに見て取っています。記者のコラム「大弦小弦」(「沖縄タイムス」5月1日)や「金口木舌」(「琉球新報」5月3日)にも同様の関心が向けられています。

 ところで、では、両紙が注目した民衆意識の変化は、実際にはどうだったのかということを、同じく配布した新聞記事から検証してみたいと思います。まず、4月28日の新報社会面に掲載された記事です。「主権自ら回復を」の見出しで、4月27日に行われた「琉球民族独立総合研究学会」準備会主催の「琉球の主権を考える国際シンポジウム」に300人が詰めかけ、熱気に包まれた様子を伝えています。
 また4月28日の抗議大会で、大会イメージカラーの緑の布に「日本国にもの申す! もはや親でもなければ子でもない」というスローガンを書いた「離縁状」を掲げて意思表示した男性や、南風原文化センター主催の〈4・28〉企画で、ハワイに留学していたときに、ハワイの先住民の主権回復運動と出会った経験を鏡にして、沖縄の自己決定のために戦後史を主体的に学ぶ意義と、母語としての沖縄語を取り戻す必要性を説いた「オキスタ107」のメンバーの座談会を取り上げています。
 〈4・28〉を特集した琉球新報のオピニオンの欄にはこんな声が拾われています。「自分たちのことを自分たちで決める自己決定権を模索する時期にきている」という20代の女性、「4月28日は個人的には『沖縄独立を考える日』にしたいと思います。独立ということをこれから生涯考えてみたいと思います」という60代の男性、「4・28を『沖縄独立の日』とする決意を新たにしたいものです」と述べる80代の男性など、「自己決定権」や「独立」を公然と表明しているところが目を引きます。こうした「公然さ」はこれまでにない現象です。沖縄の民衆意識が確実に変ったという実感は、このような声に裏打ちされているのです。
 沖縄タイムスの「4・28わたしの思い」でも、「独立」を主張する複数の声が拾われています。このコーナーは大会参加者の声を集めたものですが、60歳の男性は「今まで自分を日本人と思ったことはない。沖縄人だ。東京行動のデモが『日本から出て行け』と罵声を浴びていたが、本当に出て行きたい気持ちだ」とウイットを利かせたコメントを寄せています。このような声を象徴するものとして4月28日の沖縄タイムス歌壇に寄せられた「ニッポンは母国にあらず島人の心に流す血を見つむのみ」という歌に見ることができます。
 日本をカタカナの「ニッポン」にしたところに、アメリカへの隷属を含意させているにしても、「日本」であればいいのかという問いは残りますが、この歌は大会会場で「日本国にもの申す! もはや親でもなければ子でもない」とメッセージを発した「離縁状」と相通ずる気概を読んでも間違いではないでしょう。
 こうした新聞記事からは、これまで沖縄と日本の関係を親と子に擬した復帰幻想から切れていく構えを読み取ることが可能ですし、いくども境界線を書き換えられた歴史的経験の民衆意識への刻印としての〈内的境界(国境)〉と、その発動のあり方が確実に変ったということを物語っているはずです。言葉を換えて言い直せば、沖縄の戦後を長い間拘束してきた68年体制≠ェ限界点にきたということであり、もはやそれによっては人びとを糾合することは不可能になったということであり、その限界の向こうに新たなる政治的社会的空間を模索していこうとする意志が公共空間に躍り出た、と捉えても的を外した見方にはならないはずです。これまで沖縄の歴史の変り目には自立・独立論が見果てぬ夢のようにくりかえし立ち現れては消えていきましたが、95年以降の変化はかつての現象とは明らかに違っているのがわかります。
 ゆるやかではあるが地殻の変動ような蠢動は、ここにきて確実にひとつの階梯をくぐったと見なしても間違いにはならない。資料には入っていませんが、琉球新報社主催のシンポジウムで、討論の柱のひとつに独立論が取り上げられているのには目を見張りました。問題はしかし、独立論の思想的、実践的射程ですが、ここでは突っ込んで論じていくことはせずに、沖縄の民衆意識が深いところで流動化しているということを指摘するにとどめておきます。

 このように確実に変りつつある一方、変らない同化主義の現代的デフォルメに目をつぶるわけにはいかない現実が存在することもまたたしかです。〈4・28〉をめぐるオピニオンに顕われた、変らない沖縄の典型は「真の復帰」論です。沖縄の現実を考えると「復帰」はまだ実現していない、「真の復帰」の途上であるという趣旨の発言に読み取れる同化主義的原理は、状況のさまざまな局面に変奏されながらも繰り返し登場してきます。いまだなお「復帰」幻想や同化主義は克服されていない、ということを痛感させられます。この批判的克服がないかぎり、沖縄の抵抗は繰り返し〈グラフト国家〉に回収されていくことになるでしょう。
 たとえば、「主権回復の日」を〈4・28〉ではなく、「日本復帰」した〈5・15〉にすべきだという意見が、政府見解の代案として提示されたりしました。この見解は、復帰運動や沖縄返還運動が拠り所としたサンフランシスコ講和条約三条を破棄し、日本に「復帰」することによって戦争で失われた領土を回復するという従属ナショナリズムを現代的に変奏したにしかすぎません。「真の主権」回復のためには「真の復帰」がなされなければならないというロジックが、〈グラフト国家〉に絡め取られていく顛末はだいたい想定ができます。新たな衣装をまとった同化主義、こう言っても間違いにはならないはずです。
 かつてないほどの内圧を強めている沖縄の自立への胎動を、いかに〈グラフト国家〉の統合の論理を超え出る実践的な思想にチャージしていくことができるのかが問われています。68体制≠フ死を見取ること、反復する「真の復帰」論のロジックを内側から突き破ること、そしてなによりも「沖縄戦後史に内在する東アジア」(孫歌)を、沖縄の自己決定権と自立の構成的力動にしていくこと。沖縄の歴史意識の潜勢力としての〈内的境界(国境)〉をドメスティックに閉ざし〈グラフト国家〉をコピーすることではなく、また最近の沖縄の言論に流通する「構造的沖縄差別」論の国家―内―国家の論理に収まることでもない。沖縄を〈創る〉こと、そしてそれをアジアに〈繋ぐ〉こと、このことを自立の鉱脈に設営し直すことなしには展望を開くことはできない、こんなことを思ったりしています。

<質疑討論>

 長元朝浩 ありがとうございました。休憩をはさんで、第二部でみなさんの質問を受けたいと思います。その前に、僕の方から李さんと丸川さんに質問しておきたいと思います。
 丸川さんへの質問です。最近、中国共産党の機関紙・人民日報に、例の沖縄の帰属論の論文が出ました。それを受けて環球時報も関連した社説を掲載しました。5月15日に琉球独立学会が発足したことにエールを送る記事も出ました。これらの中国の動きは、沖縄にとっては非常に関心の深い問題ですので、そもそも中国側が、何を考えて、どういう意図でこういう論文を出しているのか。中国側の裏事情について、お聞かせください。
 李さんへは、先ほどの大田さんのお話にあった八重山の厳しい政治状況の中で、教科書検定の話が出ました。これは歴史認識の問題だと思います。先の大戦を中国や韓国、北朝鮮への侵略、植民地支配と見るのかどうなのか。あるいは「従軍慰安婦」の問題をどうみるのか。この歴史認識に関して言うと、まさに朴槿恵大統領が米議会で日本政府を批判したように、歴史認識をめぐって非常に東アジアが揺れている。李先生から先程、欧州では戦後、統合に向けた様々な努力がなされて、実際統合されたとの話がありました。ですが、東アジアではなかなか東アジア共同体が成立しない。むしろ状況は悪化するばかりじゃないかという気がします。その大きな原因の一つが歴史認識の問題だと思います。この点について、李さんの考え方をお聞かせください。

 丸川哲史 例えば、先の『人民日報』での論文での「沖縄の帰属は未決である」というような言い方――これはやはり日清戦争の前に遡って考えてみてください、というメッセージですね。これが基本的な構図だと思います。ただ今の時点でこういう議論を出してくるのも社会科学院のトップに当たる人材ですから、ある程度政府の意思との間で、反応と反映の関係があります。その意味で国家政策的な側面が強いわけですが、昨年の尖閣購入発言から国有化に至る一連のやり取りの中から出てきたものだということをまず考える必要がある。そういったことがなければ、あのような論文は出てきません。事実認定から言うと、日清戦争の前に、清朝と日本政府のあいだで琉球の帰属をめぐる一連の議論があった。先島の向うとこちらとで分ける分島案というものが一時期議論されていたわけですが、決裂してしまう。なぜかというと、1880年代の海軍力で言うと清国の方が優っていた。こういうことからして、分島案をむしろ清国側からけったわけです(分島案そのもののアイディアはアメリカ経由で日本からだされたものであった)。やはり日清戦争が大きな問題で、これによって、なし崩し的に、暴力的に帰属が決められていった――このような歴史的構図を強調しているわけです。日清戦争後期の1885年の1月、尖閣に杭を打つ決定が為され、同じ年の5月に下関条約が来る。ここで清国政府と明治政府が議論していた方途が、戦争によって断ち切られることになる。ただし、もちろんのこと、琉球処分以前、琉球には王朝があったわけですから、琉球の帰属は琉球である、という思想自体は琉球・沖縄内部に持続してあったはずでしょう。先の分島案自体も、やはり明治政府による琉球処分の結果として、それを前提として出したものであったわけですね。
 歴史をさかのぼって考えますと、当時の清朝としては、国際条約体制に合わせようと努力しつつも、やはり朝貢‐冊封体制の延長線上で考えていた節も強かった。また一方、今の中国自身は国際条約体制の中で存在しています。そこで「中国の復活」と同時に、いわば二つの価値基準が撚り合わさり、曖昧になっている――これが今の中国人の一般的な感覚構造なのではないか。2005年の反日デモで「琉球を返せ」というスローガンが登場しました。二つの基準が曖昧になっていることの徴候ですね。帰属という観念自身が、おそらくこの一世紀半くらいの間に完全に別になっているはずですが、やはり記憶の中で、また態度の中で曖昧に残っている。
 最後に付け加えますと、その過渡期の最たる徴候として、例えばカイロ会談における中国側(蒋介石)の態度がある。つまり蒋介石がルーズベルトに言ったのは、「朝鮮は独立させてもいいですよ」という言い方ですね。いわば中華王朝的な振る舞いがまだ身体化されていて、次の時代、つまり独立国ができて国際条約体制に入っていくときの橋渡し的なものとして、蒋介石の発話があった。さらに(蒋介石の日記では)琉球・沖縄に関しても、明治憲法体制が作られる以前に日本が実効支配してしまっており、だから将来において中国が一方的にそれを領有するよりは、信託統治形式、あるいは米国と中国との共同管理でも良い――そういうことをカイロ会談の段階で言わされたようです(実はそれによって、米国による沖縄戦後の管理が是認されてしまった、という可能性がある)。

 長元朝浩 今の話で、習近平体制の下で、習近平さんは中華民族の復権というのを強調していますが、その場合の歴史的な射程というんですかね、清国の時代に一番版図が広がった。当時の琉球は冊封・朝貢体制下にあるので、沖縄も含めて属国なのだから俺たちのものだという見方が、中国の指導層なり人民解放軍の幹部の中にあるのでしょうか。

 丸川哲史 そうですね。指導層であるとか、解放軍とかにかかわりなく、琉球・沖縄自体に何か手を出そうとか、そういう意図はないものと思います。その意味で、主要には日本(帝国主義)に対する屈辱の感情記憶だと思います。日清戦争の賠償金で日本資本主義は原始蓄積して重工業化できた。そのような隣国日本に対する歴史的なルサンチマンがある。そこでこの屈辱のシンボルとして、尖閣/釣魚島が選ばれてしまっているわけですが、逆に考えればそこにまず限定しているとも言える。琉球・沖縄全体にまでそのシンボル作用を広げようとはあまり考えてはいない、しかしそこまで考えることもできるのですよ、と警告している――このように私は解釈します。

 李 鍾元 今の話題は、私は専門ではないのですが、朝鮮半島でも、必ずしも同じではないですが、高句麗問題があります。高句麗に限らず、10年くらい前から、中国周辺の歴史について、大々的な研究が進んでいる。単に古代史の研究ではなくて、これからの中国の政治外交にも影響するようなプロジェクトではないか。高句麗関連では「東北工程」、すなわち高句麗を中国史の一部に取り入れる視点での歴史研究が国策として進められています。経済成長を遂げて、大国の基盤を築いたあとに、大国意識が広がりつつある。この中国の大国主義が政治外交政策軍事にも影響し、歴史研究もそれに動員されている。
 1991年の湾岸戦争の時に、フセインがクウェートを侵略する理由としたのが、歴史的にイラクの領土だった、というものでした。当時のトルコの首相が、「その理屈で言うならイラクはトルコのものだ」そういったことを思い出しました。清朝など過去の時代を持ち出すと、ヨーロッパはほとんどイタリアのものだという言い方が出来るかも知れない(笑い)。古代史までさかのぼって過去と現在を直結させる議論は、東アジア特有のものではないか。
 歴史認識の問題ですが、大田さんや仲里さんの話を聞きながら、私は断片的にしか読んでなかったので、沖縄の問題が大変勉強になりました。大田さんの八重山の話ですが、思い出したのは、2010年、延坪島に北朝鮮が砲撃を加えて死傷者を出した事件がありました。最前線の島ですが、韓国全土では「北朝鮮けしからん」「報復せよ」の声が高まったのですが、その時に印象に残っているのは、勇気ある新聞記者だと思うのですが、延坪島の住民の「報復はやめて。安全なところから無責任なことを言わないで」という声を拾って記事にした。こうした声が韓国世論にも影響したかも知れない。その後、ソウル大学平和統一研究所の調査を見ると、北朝鮮に対する認識がかなり悪化する。その時にも地域差があって、韓国南部のほうが「けしからん」という強硬論が多く、休戦ラインに近いところでは保守的な地域でも「対話が必要だ」「あまり追い詰めない方が良い」の声が多かった。境界線に住んでいる人は、ある種のリアリズムの平和主義がある。これは無力のように見えるかもしれない。しかし、かつての韓国は反共で凝り固まった軍事国家で、いつでも戦争するような国でしたが、長い年月を経て、保守政権であっても北との対話を求めるような姿勢があります。これは韓国にとっても得である、と。延坪島の住民の感覚を、ほとんどの韓国の人が、前哨国家で軍事国家で、米軍の核にも反対しなかった国であっても今は、前哨国家としての苦しみから、国境線を交流の場にしたいというふうに変わってきている。
 仲里さんのお話ですが、確実に変わりつつある何かがあるというお話に感銘を受けました。いろいろな事件の積み重ねで、アイデンティティとか、国家の意味とか、改めて考えようという意識が広がっているというお話でした。そのような変化するアイデンティティと現実と、八重山に代表されるような厳しい締め付け、分断策というのは、現実の裏表だと思います。
 単純化して申し上げると、私は1970年代から、近くは2000年代から、グローバル化の到来とともに、国境の意味、主権国家の意味は急速に変わりつつある。その時から米国の覇権の凋落が言われて、相互依存の言葉が出たのが70年代であり、それが冷戦の終焉を経て、グローバル化が進み、現実的には国境がかなり低くなっている。安全保障の面でも国境を超える様々な課題があって、協力しなければならない。国家同士が対立し合うのではなく協力して解決しなければいけない課題が八割九割もあるのが、現実です。確実に相互依存と共同体、国境が低くなっている。国家の垣根が低くなっている。アジアにおいても、急速に進行していると思います。東アジアが非常に厳しいといいますけれども、域内の貿易の度合いを見ると、NAFTAより上で、EUよりちょっと下。こんなに喧嘩しながらも、私たちが食べているもの、着ているものはほとんど中国から来ている。地域の分業で作ったものなので、地域はひとつになっているのが現実です。リアリストは戦争が現実だと言いますが、戦争は現実的な選択ではない。平和が現実です。
 国境が低くなり、国境の意味もあやふやになったりするので、それに対する反動としてもう一方の、新冷戦とか国家とか、反動が来ている。その二つがせめぎ合っているのが、現代世界で起こっていること。日本でも中国でも韓国でも、変化する相互依存と国際協力に利害を見出す国際派が、政治の中でも経済の中でも増えつつある。それに不安を感じる人々もいて、民族派になったり、ナショナリストになったりする。同時並行でせめぎ合っているのが、東アジアの現実です。
 尖閣とか八重山とか、国境は揺らいではいけないので、締めつけを強化している。自衛隊も入れて、国家のコントロールを強化していく。
 日本も生きていくためにはアジアと協力しなければいけない。日本のためにもアジアと一つになる必要がある。そのためには、共有できる歴史認識をもつ必要がある。それに対する反発として、愛国心を強化するような流れも教育現場でぶつかり合っている。
 最後に一点。「靖国」で愛国心のキャンペーンを張ったりする人たちも、実際にやっていることは国境を低くして、新自由主義で進めようとしている。実際の経済政策は、保護貿易ではなくて、まったくの非ナショナリズム。そのバランスをとるために、政治的にナショナリズムを掲げるという構図もある。また、軍事予算も減らさざるを得ない米軍の現実がある中で、いかに予算を確保するかが重要。軍人出身のアイゼンハワー大統領自身が、軍産複合体の成長に、警鐘を鳴らした。市民が覚醒した自覚を持って、冷静な判断をしなければならない。

 長元朝浩 では時間があまりありませんが、会場からの質問を受けたいと思います。

 質問A 歴史を見ると、琉球や尖閣や台湾の領有権問題について、中国の側の認識に変遷があるような気がします。丸川さんにそのあたりをお聞きしたい。

 丸川哲史 中国大陸、台湾と琉球・沖縄は、常に振動し合いながら1000年以上の時間が経っている。いろいろな波風が立っても、そういう関係があるという前提で考えることが重要です。
 例えばですが、伊波普猷の著作を見ていると、辛亥革命の影響かなと思うところが時々ある。いわゆる人種論です。辛亥革命は満州王朝を追い出して、漢民族の王朝を立てる。これは実際にはフィクションに近い話で、漢民族とそれ以外を分けるようなことは実はほとんど成立しないのですが、「漢民族の王朝」を立てるという言説によって革命が成立した側面がある。この辺も皮肉なことに西洋から来た発想なのですが。伊波普猷の中の人種論には辛亥革命の影響があるのでは、と思います。ただし、沖縄の場合にはそれでもって独立する方向にはいかないで、より高度な自治を要求するという根拠として人種論を提起している。そういうことからも、中国革命の波動と沖縄の思想形成というものは、無関係ではないのです。今起きていることも、色々な意味で後世から評価するならば、どこかで連動しているかもしれない――そう考えてみるべきです。しかし、その間に日本のマスメディアとかが入ってしまいますから、そのことが中々意識化されない。実は潜在的に、東アジア全体が変わろうとしている時に起きた波動は、自分たちと内在的に関係を持つはずなのです。そこに常に自分たちのアンテナを張っておくべきだと私は思います。

 質問B 中国の人民日報の記事などがありますが、琉球の独立を認めると台湾、チベットの独立問題にも波及する。これらについて、どうでしょう。

 丸川哲史 三つには、別々の性格があります。琉球には王朝がありましたね(日本がその王朝を潰したという経緯が潜在する)。台湾には独自の王朝があったのではなくて、漢民族が入植し、東部の原住民地区を除いて清朝の行政区が成立していた地でした。そしてチベットの王朝はラマ教を共に信仰しているネットワークとして、清朝との間での宗教的モメントの共有がありました。「独立」という場合に、帝国主義が入り込む清朝期の状態をベースにして考える必要があり、またそれぞれの地域に対する清朝の関係構造がどうであったのか、省察する必要がある。だから、琉球と台湾とチベットが連動して独立するという話の仕方は、かなり荒唐無稽だと思います。

 長元朝浩 一番印象が深かったのは、大田さんが「戦争が起きれば終わりだ」と話されて、それに答える形で李さんが境界線に近いところは平和のリアリズムがあるということをおっしゃったことです。朝鮮戦争を思い出していただきたいのですが、朝鮮戦争が起きて日本の体制がガラリと変わった。朝鮮戦争なかりせば日本の戦後も沖縄の戦後もだいぶ変わっていた。それだけ決定的な影響を東アジアに与えたのが、実は朝鮮戦争だった。これは今に引きつけて言えば、もし尖閣の領有権をめぐって、日中が対立して軍事衝突になれば、沖縄の負担軽減云々の主張は一度に吹っ飛んでしまうということです。そのためには戦争を起こさないための努力をしなくてはいけない。戦争の危険な因子は領土ナショナリズムと排外主義的なナショナリズムだと思いますが、それをどう克服するかというのが我々に課せられた課題ではないか。四人の方にコメントをいただきたかったところですが、時間がありません。きょうは長時間ありがとうございました。

 平良識子 最後に、川満信一さんから一言、閉会の挨拶をいただきます。

 川満信一 1997年でしたか、沖縄独立の可能性をめぐる激論会がありました。沖縄が抱えている問題はなかなか論議し尽くされません。尖閣やその他の問題をめぐって、緊張関係が高まっています。その焦点に立っている沖縄としては、あと5日間くらいかけて缶詰で論争するくらいのテーマがあります。そういう機会を設けて時間制限なしで、くたばるまで議論する(笑い)。そういう機会を設けたいと思います。(拍手)

(文責・沖縄講座/深沢一夫)

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