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− まずは江川町から西へ向う −
静岡の市街地は1キロ四方の程度の狭いところに凝縮された街並みが形成されている。
中心街の呉服町通りは一部が旧東海道だった。地方都市には珍しく人通りが多い。
江川町から弥勒まで寄り道をしなければ3km弱の行程
これから昔を探して巡ってみよう−懐かしい風景を思い描いて
[江川町から呉服町方面を望む]
先ずは江川町を出発して江川町通りに沿って150メートル南西に行き呉服町を通って七間町通り、人宿町、新通りを抜けて弥勒へと向ってみよう。このルートが西へ向かう旧東海道だ。
この江川町は御幸通り、北街道、伝馬町通りがぶつかる変形5差路の交差点。
江川町は御幸通りが出来た頃無くなってしまいましたが交差点の名前で残されています。
「江川町」の由来については、いろいろな説があって定かでないが伊豆国韮山代官を勤めた江川太郎左衛門の先祖が住んでいたという説や古く川が流れていたことにちなむという説などがある。
江川町には駿府の有力商人が多く住んでいたらしいが今では紺屋町・呉服町・常磐町・両替町・御幸町などの一部になっている。
[江川町交差点]
江川町交差点を一回り見渡してみます。
正面に見える「P」のマークのビルはパーキングではなく静岡駅と一体の「パルシェ」というショッピングビル。
[江川町交差点]
駅からのこの道は「御幸通り」と呼ばれ、かつて天皇陛下が来静した際に整備された道だ。
[江川町交差点]
江川町交差点の東側に再開発ビルのベガサートがそびえている。終戦後の仮設建物が残っていたような地区であったが2005年にやっと整備された。
この建物の南を走る一方通行の道が伝馬町通りと呼ばれ、東京方面へ向かう旧東海道だ。
伝馬町は江戸時代に本陣があった宿泊地の中心。伝馬町については別に巡ってみます。
[江川町交差点]
江川町交差点の西側はNTTの「通称電電ビル」。
[呉服町スクランブル交差点]
江川町を南西へと150メートル進むとスクランブル交差点がある。ここを右に曲がって呉服町通りを行く。
呉服町はこの交差点から本通までの500メートル続く静岡の中心となる商店街。
昔は、本通方面から1ブロックずつ丁目が変わり、6ブロック目が6丁目になり、最後がこのスクランブル交差点になる。
呉服町6丁目ということで「呉6」と呼んでいた。今、呉服町を大きく2つに分けていて一丁目と二丁目だけになっているが、愛称として「呉6商店街」と呼ばれて残っている。
[早朝の呉服町]
早朝なので人通りは少ない。呉服町通りに入った所から振り返って紺屋町方面を望む。
正面突き当りが静岡駅だ。
「紺屋町」
町名は慶長年間に駿府の町割りの際に、染物師の町として整備されたことによるとされている。
読み方は「こうやまち」と呼んでいる。
[呉服町]
スクランブル交差点を再び戻って渡り、紺屋町から呉服町方面を望む写真を撮ってみた。
「呉服町」
呉服町の命名は徳川家康が駿府在城の時に、呉服商人がこの地に住んで城中の呉服の御用を勤めたことよる。
そのころから駿府城下町の中心として富豪、豪商が軒を並べていたとのこと。
[休日の呉服町]
地方都市には少ない人通りの多い中心商店街。以前に撮った写真を載せてみました。
ここの商店街も昔からの店が店主の高齢化に伴って、世代交代しつつある。
[休日の呉服町2]
呉服町通りと青葉通りの交差する場所。ここは市役所から続く公園で憩いの場となっている。
[呉服町]
市役所から呉服町商店街を見下ろしてみます。
この商店街は静岡の大火や空襲による大火の反省から昭和30年頃に戦災復興の耐火建築として3階建ての連続したビルとして整備された。
当時は再開発の先駆けとして注目を浴びた。今ではそれが足かせとなって新しい建築物への移行が進みにくい商店街となっている。
個人的には好みの商店街。人通りが落ちない理由のひとつなのかも??
[昼休みの呉服町]
この写真は平日の昼休み時間。青葉通りから呉服町通りを望む。。
[呉服町から市役所]
青葉通りの正面に市役所がそびえる。まるで市役所の庭のようだ。
ここから市役所と青葉通りの周辺を寄り道するページへは。こちらをクリック。
[呉服町札ノ辻]
この先の交差点が札ノ辻と呼ばれている。撮影地点は安心堂という静岡では有名な昔からある宝石店の前だ。なぜかこの呉服町通りには宝石店が多い。静岡人は宝石好き?
[呉服町札ノ辻]
昔このあたりに札の辻があった。このビルは札の辻ビルと称している。看板にこのビルに入っているメニューが被っている。
[呉服町札ノ辻]
看板は江戸のころの町が描かれている。説明文があるので、ちょっと読んでみよう。
「土佐光成筆 大和絵土佐派の宮廷絵師 この絵図は宝永5年(1708)頃に手越の徳願寺付近に立って、実際に駿府を一望して描かれたものと憶測されている。」
「札の辻(高札場)の由来 高札場は、幕府が法律・法度・掟書・犯罪人の罪状などを、各藩及び一般に知らしめるために建てられた。
参勤交代の折、大名や役人、又は行き交う旅人や一般町人等はこの高札により幕府の情報その他を得た。
城下町内を通る東海道の呉服町から七間町に入る辻に置かれたことから、この交差点は「札の辻」と呼ばれ、周辺を「札の辻町」といわれていた。」
[呉服町札ノ辻]
札ノ辻の看板の絵図を描いたと憶測されている手越の徳願寺付近から、今の駿府を一望してみました。
[呉服町札ノ辻の碑]
この札の辻の交差点を左に折れると七間町通り。伊勢丹側に札ノ辻の碑があった。
「七間町」は、今川時代の豪商伴野氏が七座の長として当地に屋敷を賜ったことにより、七座(七軒)の長の屋敷のある町という説と、通りの幅が七間あったという説がある。
読み方は「しちけんちょう」と呼んでいる。
[七間町通り]
札の辻にある伊勢丹前から七間町を臨む。
七間町はここから500メートル続き、映画館が並んだ所を過ぎると駒形通りに変わる。
この50m先の信号は両替町通りとの交差点。
「両替町」は、慶長13年徳川家康が京都の銀座を駿府に移し、4町を座人の宅地とし2町に銀座役所を建て金銀の両替屋を置いたことにはじまる。
その後、江戸に銀座は移された。
[七ブラ]
七間町をブラブラとウインドウショッピングをしながら映画を見に行くことを七ブラと言って人を集めようとしているが呉服町に比べると若干人通りが少ない。通りの名前も「七ブラシネマ通り」と呼んでもらいたいらしい。
写真は早朝なので人通りは少ない。日曜日には人通りも多く商店街としてのポテンシャルはまだまだ捨てがたい。
もちろん空き店舗は無い。
[七間町通りの東宝会館]
東宝会館は近代的な建物に生まれ変わって営業している。松竹もここで営業している。邦画が中心の映画館だ。
[七間町通りのピカデリーとミラノ]
オリオン座の向かいがピカデリーとミラノ。
映画館が軒を並べている。
ミラノの入り口にはかつて活躍した巨大な映写機が展示されている。
[七間町通りのオリオン座]
七間町は映画館通りとして頑張っている。斜陽となった映画館も静岡ではまだまだ客が入り、昔に比べて減ったものの健在だ。
このオリオン座は洋画を多く上映していて一番メジャーな映画館。
ただ、静岡のバスターミナルが建て替えのビルのなかにシネコンの併設が予定されていて今後の行方は不透明だ。
[七間町通りのピカデリーとミラノ]
オリオン座の向かいがピカデリーとミラノ。
映画館が軒を並べている。
駒形通りが見通せる。
[東海道は右折]
東海道は、映画館を過ぎて50mほど行ったこの交差点を右折する。このあたりはかつて寺町と称し、寺が集まっていた。昭和6年ころまではここに安立寺という寺があって七間町はここで突き当たりだった。
《寺町》
家康は駿府の町を造る際、市中に散在した寺の多くをこのあたりに集めた。そうしてできたのが寺町一〜四丁目、西寺町などである。いずれも区画整理で町名が消えてしまった。
寺を一か所に集めた理由として、万一の際、外敵の侵入を阻止するための防衛線であっただろうと言われている。かつて寺町が駿府の西南端であり、ここから先は田畑が安倍川まで広がっていた。
城の追手門からまっすぐ伸びる七間町通りは安立寺という寺で行き止まりになっていた。また、それぞれの寺の境内は広く設けられていて、一旦事あるときには兵馬を駐屯させることもできた。
[東海道の案内]
この右折場所が分かりにくいので、この店でよく聞かれるのだろう。手製の道案内が貼ってあった。
ここを曲がると人宿町だ。
[人宿町通りを臨む]
七間町通りから人宿町通りを臨み、その先は梅屋町へと続く。
人宿町は、まさに読んで字の通り宿屋街であった。駿府には古くから横田、伝馬町が宿駅として発展し、江戸時代も本陣.脇本陣はそちらに置かれていて、人宿町の方は商人宿が多かった。はじめは三丁目まであったが、戦後の区画整理により一、二丁目に改められた。
[駒形通りから七間町]
人宿町方面へ曲がる前に駒形通りへ入ってみます。振り返り七間町を見通すと正面には県庁が見える。
ここまで来ると繁華街の喧騒はなくなる。
「駒形」の由来については、昭和7年に大字川辺の一部で新設された。当初は七丁目まであったが近年の区画整理で六丁目までとなった。
七間町通りの突き当たりだった安立寺が春日町に移転して、七間町通りと駒形通りとが一直線でつながった。町名の由来は町内に鎮座する駒形神社にちなんだものである。
[駒形神社]
映画館から300mほど駒形通りを行くと左側に駒形神社がある。駒形通りは駒形神社があることから呼ばれている。
この通りは、旧東海道の新通りと並行して弥勒町まで続く商店街。
この商店街は昔ながらの商店街で、この周辺の生活を支えている。スーパーマーケットなどに負けずに人情ある商売を続けてほしい。
「駒形神社」の由来が神社の横に次のようなことが書かれていた。
駒形神社の起源は旧国幣小社駒形神社(岩手県水沢市)栗駒山(1628m)の山頂に馬の形をした岩があり、農業神として信仰され、馬を保護しその病を癒すなど一般の信仰を集めていた。
この神社もこの事情、由緒に基づいて平安中期頃、「安倍の市」と呼ばれ安倍川の流れに沿う川のべ(川野辺)の開発発展の守護神としてお祭りしたのがその始めと思われ、今から430年前の天正年間に再建されたと伝えられている。
現在の本殿拝殿は昭和63年、氏子の浄財寄進により改築された。
[人宿町]
人宿町に戻って東海道を行く。
この通りは約200mのコミュニティ道路として整備されている。
東海道として意識した小さな看板が道路脇に立っている。一つずつ読んでいってみよう。
[静岡姉様の看板]
道路脇に立っている看板の一つ目は静岡姉様人形。
姉様人形で親しまれるこの人形は、代表的な静岡の郷土玩具として知られている。
粋な姉様姿の駿河美人は、時代が変わり、スタイルが変わっても健在である。
[駿河竹千筋細工の看板]
次は「駿河竹千筋細工」。
府中名物に様々な手工芸品があげられるが、竹細工は今日でもよく知られている。
武家の手内職としてつくられた竹細工は、当地区周辺のみやげものとして人気が高かった。
「鶯のうまれる竹の細工もの」絵狂人葛飾北斎描く東海道53次府中の画である。
[人宿町通りの看板]
次は「人宿町通り」。
かつては七間町通りに接続する東海道で縦七間町通りと呼ばれた事もあり、東海道府中宿の主要路である。
庶民の木賃宿の多い旅籠町として栄えた所である。なお、本陣をはじめ武士の泊る所は、紺屋町、伝馬町付近であったようである。
[梅屋町の看板]
次は「梅屋町」。
人宿町通りと新通りの交差点のあたりが梅屋町
町名の由来は旅籠「梅屋」からきており、人宿町と同様旅籠町であった。
慶安4年、討幕を企む由井正雪ら一味は、ここ、旅籠「梅屋」に立て籠もった。しかし、計画は事前に幕府に知られ、正雪は自害、クーデターは失敗に終わった。世に言う慶安の変である。庶民の町に起きた歴史の舞台にのぼった出来事であった。
[沢屋だるま店]
旧東海道らしい、昭和を感じさせるお店だ。だるまを昔ながらの工法でコツコツと黙々と作っている姿を想像させてくれる。
[新通りへと左折する]
東海道は、ここをまた折れ曲がる。
曲がったこの通りを新通りという。
[新通り]
人宿町通りとの交差点から新通りを臨む。
ここから1kmの直線の通りとなる。
新通という町名は、慶長14年駿府城下の町割りの際、従来の東海道筋であった本通り筋に対し新たに道幅5間の新通りが設けられ東海道の往還となったことに由来する。
1丁目は旅籠町、2丁目は新通大工町・新大工町、3・4丁目は馬喰(ばくろ)町、5・6丁目は笠屋町、7丁目は大鋸(おおが)町とも称された。
[新通り]
ここから新通1丁目となり道幅が広がる。
左から来る道は常磐公園につながる駿河町通りと言う。
[あなご屋]
あなご屋はウナギを食べさせてくれる料亭。
江戸時代の文久2年からやっていた料亭で、以前は能舞台もあって格調がある建物だったが改築して外から見る限りでは特徴のない店になってしまった。
[田尻屋]
田尻屋はわさび漬の元祖で、創業以来240年を数える老舗という。当時は、徳川9代将軍家重の時代で、初代田尻屋利助が始めたとのこと。
駿府城の中堀の脇に「駿府城わさびの碑」が建っている。
わさびは370年前わが国で始めて安倍川上流有東木で栽培された。わさび漬は今から200余年前駿府のわさび商人によって初めて考案され幾多の人に受け継がれて改良進歩した。
特に明治以後交通機関の発達により長足の発達を遂げたのである。
ここに明治百年を期し先覚者の偉業を偲び感謝の誠を捧げてこの碑を建つ。
[0362新通り・秋葉神社]
神社は2階にあって1階が有効利用されている。
この神社の交差点を北西方面に一里塚跡があるというので寄り道してみます。
80mほど行くと4車線の本通りへ出る。
本通り周辺は別ページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[一里塚]
仏壇屋の近くに隠れるように一里塚の碑が建っている。
内容を読んでみます。
一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、1里(約4キロ)ごとに直径7〜8メートルの土饅頭を盛り、榎などの記を植えて旅人の目印にしたものである。
慶長9年(1604)江戸(東京)の日本橋を 東海道、東山道(中部や関東の地方)、北陸道の3街道に一里塚を設けた。しかし、現在では、交通機関の発達や道路拡幅などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。
一里塚は市内長沼、本通八丁目、丸子、宇津ノ谷の4か所に設置されたが、いずれも原形をとどめていない。
本通の一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。
現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から28里の地点に築かれたもので、大正11年、国の史跡に指定されているほどである。
[一里塚]
一里塚から本通りを見渡す。
本通は東海道の意味である。通町とも呼ばれた。現在十丁目まであり、八丁目には一里塚跡がある。
慶長14年(1609)の町割りで「新通」が設けられたため、本通は東海道の裏街道的存在となっていたが、昭和初期に安倍川橋に直結するよう路線変更がなされ、300年余りを経て再び「本通」的な機能をとりもどした。
[0364新通り・伏見稲荷]
新通りへ戻りしばらく行くと駿河伏見稲荷神社があります。その先の交差点を左折し静岡県地震防災センター横にある小さな稲荷神社へ寄り道してみます。
[双街の碑1]
しあわせ通りの交差点を左折して東海道から外れてちょっと寄り道。
新通りから100mほど行くと静岡県防災センターがある。静岡は昭和50年ころに東海地震が明日にでも起きるかもしれないと言われて防災に力を入れてきています。
その防災センターの裏に小さな稲荷神社があり、双街の碑が建てられています。
[双街の碑]
双街の碑の説明文がありましたので読んでみました。
双街の碑由来が書いてあったので読んでみます。
双街とは、2丁の街という意味である。
江戸時代の初期、長い戦国時代を経て住民の気持ちがすさんでいるころ、この駿府のまちでも男女野合の悪習が盛んに行われていた。
徳川家康は晩年大御所として駿府城で余生をおくったが、その頃の駿府は江戸に次ぐ都として繁栄を極めた。
家康は住民の気持ちを和らげ、またこの悪習を正すため揚屋町ほか、7ケ町にこれを区画し、京都、伏見から遊郭を誘致したが、元和元年間に5ケ町を江戸吉原に移した。
その後、この2町の遊郭は昭和の時代まで続き、昭和32年法律により廃止された。
この碑は、この街に働いた女性たちの労に思いをはせ、双街の由来を記すため明治27年11月に当時の静岡県知事小松原英太郎氏の題字により、地元の人達が建立したものである。
[新通りはこの先で終わり]
新通りへ戻って少し進むと川越町へ入る。
正面に弥勒が見えてきた。
[府中西見附]
新通りの川越町へ入ったところからいままで来た新通りを振り返る。
このあたりに府中宿の宿境となる府中西見附があった。東見附は横田にあった。
新通二丁目・川越町しんとおりかわごしちょう
江戸時代の新通り沿いには新通一〜七丁目と新通川越町とが順に並んでいた。
これらは明治22年市制施行時に市域となり、昭和41、45年の住居表示により、二か町になり、新通川越町も区域をやや変えてただの川越町となった。
現在の新通二丁目は旧の六、七丁目を母体にしている。
新通は徳川家康が駿府の街づくりをする際、新規に設けた本街道で、街道沿いの町々は職業本位で構成されていたと言われている。
川越町は安倍川の川越人足たちが住んだ町で、河原町などとも俗称した。
駿府の川越町は新通のほか、本通沿いに本通川越町、堤添川越町とあわせて三か町あり、安倍川渡河にいかに多くの人手を要したかを物語っている。
[高札場]
弥勒へ入ったところから駿府城方面を新通りを振り返る。
このあたりには高札場が立っていたらしい。
弥勒は、安倍川越えで駿府に出入りすみ際の出入り口である。慶安年間(1648〜1652)山伏の弥勒院という者があった。還俗して源右衛門と名乗り、安倍川の川岸で餅を売った。これが名物「安倍川餅」のはじめといい、店を「みろく茶屋」といった。のち源右衛門は駿府町奉行に願って、その付近を開発して弥勒町を設けたという。この弥勒町はのち大里村(昭和4年=1929、市に合併)に属して大字弥勒となり、昭和7年(1932)これを母体に大字安倍川、川辺の一部を加えて弥勒一〜二丁目を設けた。これが昭和41、2年(1966、7)の住居表示で整備されて現在の弥勒一、二丁目となった。
[弥勒川会所跡]
弥勒の交番の脇に川会所跡の説明看板が立っていた。
読んでみます。
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。
川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督する所が川会所であった。
安倍川にも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越えの賃銭の取扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当たっていた。
この川会所は、間口6間、奥行4間半であり、5人位の裃を着た役人が詰めていたとされている。
ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人64文、へそ下は55文、へそまでは48文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、ひざ下は16文であったといわれている。
[弥勒]
弥勒公園前から今来た新通りを振り返る。
[弥勒案内図]
この案内図は弥勒公園に立っている。
周辺には名所がひしめいているのがわかる。
[0389弥勒町由来]
江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を「安倍川餅」という。これが「弥勒町」の名の由来となった。」と記されている。
十返舎一九の「東海道膝栗毛」には「ほどなく弥勒といえるにいたる、ここは名におふ安べ川もちの名物にて、両側の茶屋いづれも綺麗に花やかなり」と著され「弥勒茶屋」と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
弥勒町は、駿府の城下町の西の見附の前面に位置し、駿府96ケ町に準じた扱いを受けていました。
近世の安倍川は、歩行渡(かちわたり)の川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年の渡船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。
弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和初めの小学4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行を称える「頌得の碑」と「安倍川架橋橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。
[0389弥勒道標]
丸子宿の宿境まで16町(1.8km)
府中宿の宿境まで2町(0.2km)と書かれていた。
[明治天皇小休止跡]
明治天皇の来静の際にこちらで休まれた。
当時には大変な騒ぎになったんだろう。
[由比正雪墓]
《臨終山正念寺》
もと弥勒町にあった寺で、安倍川原の刑場で処刑された囚人を葬る寺で、慶安の変でさらし首となった由井(比)正雪の首塚もここにあった。その正雪に剣術を学んで親の仇を討ったという、宮城野・信夫の姉妹が正雪の菩提を弔うために奉納したといわれていた十三仏があったが、明治初年(1870頃)廃寺となったので、本寺である横内町の来迎院に移された。
また正雪の首塚は寺町の菩提樹院に移り、戦後その寺の移転に伴い、現在は沓谷花園町の同寺にある。
いま弥勒公園に「由井正雪公之墓趾」という石碑が建っているが、そこが正念寺の跡であろう。碑は昭和26年(1952)7月、静岡西部発展会の人々によって建てられた。
[0385カブキ門]
この冠木門は、静岡市制100周年記念事業として開催された静岡「葵」博覧会場に建てられたものです。
東海道宿駅制度400年を記念して、府中宿西の見附に近いこの場所に移築したものです。
冠木門は、寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。
[0382義夫の碑]
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。
しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津ノ谷で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。
旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落とし主に帰すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。
そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や融資の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず。(府臨難不見忠臣志)
宝に臨まずんば義士の心を知らず。(府臨財不知義士心)
[安倍川架橋の碑]
石碑の横の立て看板を読んでみます。
この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられたものです。
[新通りと本通りが合流]
ここで東海道は新通りと本通りが合流して弥勒橋を渡ることになる。
[弥勒石部屋]
弥勒は安倍川餅の発祥の地。
石部屋は古くから営業している安倍川もち屋だ。
安倍川もちと言えば、きなこと砂糖でまぶした餅で美味しいが、この店で出してくれる「からみもち」が特に美味しい。
「からみ」は大根ではなく静岡名産のワサビでゆでた餅をからめて食べることから、お土産にできないのが残念だ。
[安倍川もち]
安倍川もちの土産物屋さんが何軒か並んでいる。
[弥勒橋]
安倍川橋、通称「みろくばし」として親しまれてきた。
《安倍川橋》
弥勒の素封家宮崎総五が明治7年(1874)に造った木橋安水橋がその前身で、幅2間(約4メートル)長さ280間(630メートル)の賃取橋であった。橋銭は一人4厘、馬車4銭5厘、工費7千円で償還後は無料にする予定であったが、出水による流失などでままならず、明治29年(1896)県に移管されてようやく無料となった。
県は明治36年(1903)に改築、さらに大正12年(1923)に鉄橋に改築し安倍川橋と改称した。これが現在の橋である(幅7.3メートル、長さ490メートル)。しかし、自動車交通量の増大に伴って、この橋だけではまかないきれなくなり、下流に駿河大橋を設けた。昭和35年(1960)開通。さらに近年、下流の南安倍川橋が拡幅された。
[弥勒橋]
交通量の多い通りを渡り弥勒二丁目方面をちょっと巡ってみます。
[本通りと新通り]
駿府方面を臨んでみる。正面の弥勒公園の左が本通。右が新通り。
かつて、川越えしてきた旅人はここで駿府の町を臨み、整然と整備された町の向こうに駿府城が建ち、そのはるか彼方に富士がそびえるのをながめた。
家康の威厳を誇示する景色を創設していたと言われている。
今では高い建物が邪魔になっているようだ。
[宮崎總五頌徳碑]
弥勒橋のたもとの土手にある碑
東宮殿下御成婚奉祝記念
篤行家宮崎總五頌徳碑
と書いてある。
《宮崎家》
安倍川渡し場に近く、亀屋と号して他の何軒かの茶屋と同様に安倍川餅を売っていた、このあたりきっての有力者で、主人宮崎総五は有度安倍郡長、貴族院議員などを務めた政治家で、安倍川架橋や宇津ノ谷トンネルの開削、私塾朝陽義塾の設立などを行った。
さて、東海道中で最も名高いといわれた名物安倍川餅は、黄粉をまぶして白砂糖をふりかけた一口餅で、砂糖を使っていたために一個五文と当時としては高く、「五文取り」などとも呼ばれた。
[安倍川の変遷の看板]
宮崎總五頌徳碑のすぐ脇に看板が立っている。
安倍川は川筋を時代ごとに変えながら静岡平野を扇状に造って来た。その変遷が地図とともに説明されている。
安倍川は、その昔静岡市付近が湿地帯であった時代には、藁科川流路を異にし、現静岡市中心部を流れて海に注ぎ、藁科川は安倍川の現流路を流れ海に注いでいた。
静岡市街地は安倍川の氾濫で流失された土砂によって形成されたもので、登呂遺跡は、この微高地上に発達したものです。
室町時代には今川氏が平野の高い部分に城を築こうとして、幾条にも流れていた安倍川を西へ追いやり、現在の流向となりました。
<薩摩土手>
17世紀はじめに徳川家康が駿府に移り住む際に洪水から駿府の町を守るため、薩摩藩に命じ堤防(薩摩土手)を築かせました。
その長さは4,100mにも及んでいます。薩摩土手の一部は現在も残っています。
[安倍川の変遷]
安倍川の変遷の看板の隅に安倍川の昔の流れ概略図が書かれている。
かつては曲金から大谷方面へ流れていたこともあった。また、巴川ともつながって清水へも流れたこともあったようだ。
[供養塔]
土手に沿ってちょっと行ってみると碑が立っている。関東震災横死者供養塔とある。
溺死剣難者慰霊碑も並んでいる。
[南田町の首地蔵]
本通りへ戻り、南田町の路地を県立静岡商業高校へ向かうと首地蔵がある。
[水神社]
首地蔵の脇の階段を下りると水神社がある。
この神社の裏手の土手が薩摩土手の始まり。そのまま南田町へ土手は続く。
《水神社》
弥勒二丁目に鎮座する。祭神は「瀬織津姫命」。安倍川の水害に対する守護神として、付近住民の崇敬を集めている。境内の自然石手水鉢に三川越町(本通、新通、堤添の川越町)、弥勒町、天明6年(1786)とある。
以前は境内に乞食が大勢住んでいて、気味がわるかったものである。
[薩摩土手]
薩摩土手は今ではこの南田町あたりに残るのみだ。
薩摩土手
静岡市は安倍川・藁科川が運んだ土砂の上に出来た町である。わずか数百年前までは、安倍川は今の浅間神社脇を流れ、今の市街地に幾筋かの支流をめぐらしていた。戦国大名今川氏がこの扇状地に居館を置き、そのあと徳川家康が隠居の地として選んだわけである。将軍職を秀忠に譲った家康は慶長21年(1607)駿府城の大拡張工事に着手した。
ここで問題になるのは安倍川による水害であった。城の北方に斜めの土手を築き、安倍川を西へ追いやって、藁科川と合流させることにした。この土手に用いた石材は九州薩摩藩の島津忠恒が国元から送ったもので、そのため完成した土手を薩摩土手という。
この土手は井宮町の妙見山下を起点に、今の水道町の北を通り、若松町の西方から南下して、中野新田に至る約4キロにわたって築かれ、さらに水道町のところから外側にもう一本土手を設けた。敷(下部)の幅22メートル、馬踏(うまふみ)(上部)の幅11メートル、高さ5.5メートルの大規模なものであった。
また、明治末年(1912)まで土手(安西四丁目〜弥勒)の上に野天火葬場があり、別名を火屋の土手、なまって「ひやん土手」と呼んだ。今も古くを知る人はこの俗称を用いる人がいる。田町一丁目から南田町までの部分は昭和32、3年(1957、8)に取り除かれて、幹線道路となった。これを昭和39年(1964)薩摩通りと命名した。
薩摩土手の完成によってそれまでの河川敷や荒蕪地であったところに新田が開発されていった。内側にできたのが安西内新田(いまの新富町一〜六丁目など)、外側の二本の土手に囲まれた部分にできたのが安西外新田(いまの柳町、田町一〜七丁目)である。
[キリシタン殉教碑]
本通りに戻ってキリシタン殉教碑を探すとひっそりと道路脇にたたずんでいた。
本通を通って市街地へ戻る「本通り周辺」のページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
このまま弥勒橋を渡り東海道を丸子宿へ向かうには「手越〜丸子」の別ページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
−コメント−
[江川町〜弥勒]
ここで江川町から弥勒の探索は終了する
ここまで寄り道をしないで来ると3km弱の道のりだ。脇目も振らずに歩けば1時間もあれば着いてしまう。
見どころは紹介した所以外にもあるが、それは別の機会にしようと思う。
弥勒橋を渡ると急に時代を感じる雰囲気になってくる。
手越をこえて丸子路を行く。旧東海道を約6kmの行程となる。
見どころが多いので寄り道をすると10kmをこえる。
[弥勒橋を渡ると手越]
江戸時代には渡しがあったんだろう。
安倍川橋(弥勒橋)を渡り駿府宿へ向かうページへはこちらをクリック。
[弥勒橋と富士]
橋の方へ振り返ると遠くに富士が見える。
駿府の城下が富士を背負っているように見えるのだ。
[手越]
道も狭まり、旧東海道のたたずまいを感じる。
写真は車が少ない時をねらって撮ったので寂しい道路のようだが交通量の多い道なのだ。
<手越>
平安時代末ごろから宿場として栄えた。向敷地と丸子を越える峠「手児の呼び坂」を由来とする説と安倍川の渡渉点で手ずから川を越えることができたという説がある。
[手越妙音寺]
街道に沿った右側の小さな細長い丘陵が「金山」と言わている。
街道から逸れて安倍川沿いに200mほど入り、金山の北はずれにある妙音寺へ寄ってみました。
檀家からの大きな負担によって立派な本堂を建てる寺が多い中、良心的な好感の持てる寺だ。
この本堂のあたりにかつて古墳があったらしい。
他にもこの金山のどこかに数基の古墳があったらしいが、ほとんど荒れた山で見つけることができなかった。
[手越妙音寺]
金山のお祖師様と書かれた銅像が建てられている。
照永山妙音寺という日蓮宗のお寺なので、日蓮様であろうか。
[手越・心光禅院]
街道まで戻るとすぐに「瑞岩山 心光院」という臨済宗のお寺がある。
石材屋のサイトに沿革が書かれていたのでパクってみました。
心光院は、元禄2年(1689)京都淀の養源寺開山
雪谷宗岫大和尚の遺骨をそえもって大龍恵入和尚を開山とす。森又兵衛氏を開基として瑞岩山心光院と称す。
宝永元年(1704)5月28日 本山直末となる。
開山300年祭を昭和61年11月17日に行なう。
新西国三十二番 千手観世音菩薩
駿河一国百地蔵四番 盗難除 地蔵尊
[手越・心光禅院]
お地蔵さんなのか?門の横に像が建てられていました。
[手越・少将井神社]
橋から200m程の場所にある心光禅院の隣の金山の麓に少将井神社がある。
入口に看板が立っていて由緒が書かれていた。
当神社の祭神は素盞雄命(すさのおのみこと)で創建は建久4年(1193)、源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年に当り、有名な富士の巻狩曽我兄弟の仇討のあった年である。その後、東海道の要衝安倍川の渡しの宿場町として繁栄した手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経の遊君少将君の名と共に往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られ、当地の名社として今日に至っている。
明治12年(1879)村社に列し、明治22年9月6日手越桜山鎮座の村社神明宮(天照大神)、手越し向山鎮座の山王神社(大山咋神おおやまくいのかみ)、手越水神鎮座の水神社(罔象女命みずはのめのみこと)、の三社を合祀し、同日手越藤木鎮座の左口神社(猿田彦命さるたひこのみこと)を移し境内社とした。後に合祀して祭神は五柱となる。
社殿は明治32年(1899)7月、昭和33年11月氏子の奉仕により改築される。
例祭は古くは9月18日に行われたが、明治43年より10月17日に改められる。例祭には氏子一同服装を改めて参拝するを例とし、平素は出生児の初宮詣りや、病気平癒の祈願詣りなどがあり、神人和合の古い伝統が伝えられている。
[手越・少将井神社]
小さい神社だが奥社もあり、格式を感じる。
この裏山「金山」は江戸時代に入る前には「金山砦」があったらしいが痕跡は見つけられなかった。
この細長い丘陵には数基の古墳があったらしいがこちらも痕跡は見つけられなかった。
[少将井神社・富士]
少将井神社の横から裏山を登ってみると開けた場所から富士が見えた。
かつてはこの場所に神社があったのかな?
[高林寺]
街道へ戻り、程なく寺が現れる。
臨済禅宗高林寺という。ちょっと由緒が書かれたものでもないかと探したが見つからなかった。
山門横の石柱には「官許・元祖手越名灸所・御霊山高林禅寺」と書かれていた。
後で聞いた話では、1652年に由比正雪を自殺に追い込んだ武士がその褒美の金で、供養のために神社と寺をこの地に設立し、明治の神仏分離の時に寺として残したとのこと。
[高林寺]
門をくぐると庭は手入れが行き届いていて気持ちがいい。
背は低いが幹が太い松を背負うように地蔵堂が立っていて、駿河百地蔵第五番霊場、子育地蔵尊 「松根子育地蔵尊」と書かれていた。
[高林寺]
庭の片隅に木馬堂というのがあって、木馬が祀られている。
後で調べたら、浅間神社の木馬と縁があるといったことらしい。
元は浅間神社に有り、火災の時に神社を逃げ出し、1頭は浅間神社に戻ったが、1頭は御穂神社へ逃げ、あと1頭がこの地に逃げた。浅間神社の楼門の脇にある左甚五郎作と書かれた神馬とよく似ている。
[手越の街道]
橋から500mほど西へ進むと道路脇に木がせり出していて旧東海道の雰囲気を感じる。
ここから国道1号線まで1直線で見通せる。
[手越の街道]
道路脇に木がせり出している所を通り過ぎてから写真を撮り忘れたのを思い出し、今来た道を振り返る。
[手越の街道]
旧東海道には良く松並木が見られる。
[手越の街道]
旧東海道はこの先の300mほどで国道1号線に出会う。
[手越の街道]
国道1号線のちょっと手前から今来た道を振り返る。
東海道を西からやってくると手越に向かう道だ。遠くに駿府城下や富士が見えたのかも。
[国道1号線]
手越の街道から国道1号線へ出る。
100mほど国道を歩くと歩道橋があるので中学校側へ渡る。
学校の東側を南に向う道が長田街道。しばらく行ってみる。
[長田平和塔]
長田西中学校を過ぎて100m程南に公園のようなスペースがあって塔が建っている。
塔の脇の看板を読んでみます。
<長田平和塔の由来>
長田地区の平和塔は日清、日露、日独の3戦役に当時長田村、軍人として参戦出征者のうち、戦死及び戦病死並びに遭難者など50名の犠牲に対し村民、相い計り、尽忠報告の士卒の勲功と親遺籍のため、大正14年2月建設の議と称し、帝国軍人会その他有志により協賛規約の上、実行委員会の組織のもとに全村の寄付土地を含み費用の拠出により国に請願、その結果、海軍駆逐艦(25センチ砲)及び砲弾丸、その他、下賜、よって大正15年1月起工同年8月忠魂塔として竣工、正面に、東郷元帥顕塔記「極天護皇基」の5字を彫刻建設となり、忠勇義列と皇基の平住を記された。
その後、満州、支那事変、大東亜戦争など、618名の尊い犠牲者に対し、追悼法要を修行して参りました。
しかしながら、現状維持は経年により強度不足とのことで幾度か専門家を交えて関係者一同その対策に苦慮して参りました結果、砲身台座の保護は期し難く、又、近年東海地震等発生により砲身の傾斜転倒を想定しますと、付近住民の不安は勿論のこと、一般住民の皆様方に被害を及ぼす要因ともなりかねないので、この安全な対策として砲身の切断と台座の補強を行い、転倒防止を計りました。
今日、戦後50周年(1995年)を迎えるに当たり今後戦争のない平和な時代づくりとして残された砲身台座は、長田平和塔と改名、住民一丸となり世界の恒久平和を祈念してこの塔を建立しました。
平成6年9月26日
長田忠霊塔奉賛会 役員・遺族・仏教会
[長田平和塔]
長田平和塔の横には石碑が建っている。
[無量禅寺]
「圓珠山」「無量寺」という曹洞宗の寺が長田平和塔前の鎌田消防署の東にある。
[明光寺]
長田街道を500m南に行った所に「西向山」「明光寺」という曹洞宗の寺がある。
[佐渡の歩道橋]
長田西中学校前の国道1号線へ戻り、佐渡の歩道橋を渡った所の路地を北へ入ると福泉寺がある。
[福泉寺]
福泉寺の山門。
[福泉寺]
「日向山」「福泉寺」という曹洞宗の寺院です。
[西宮神社]
国道1号線へ戻り、左へ行く旧道は後に譲りもう少し寄り道し、50mほど西へ行く。
北側の丘への登り口に西宮神社がある。
[西宮神社]
国道1号線をもう少し西に向った所から西宮神社のある丘を見る。
[西宮神社]
西宮神社
片隅に神社の看板があるので読む。
西宮神社は福を授けてくれる恵比寿さまです。
私達のすることを全て見ております。
神様に恥じることなく清き(清潔に)直き(正直)・まこと(誠実)の心で過ごしたいものです。
平成23年6月吉日 西宮神社総代 氏子一同
[佐渡山古墳群跡]
西宮神社の前の路を50mほど登ると農道に出る。
農道脇に「佐渡山古墳群跡」という石碑があり、説明書きが立っている。
<佐渡山古墳群跡>
西宮神社境内を中心に発掘された当古墳群は、これまでに7基の調査が行われました。
これらの中には賤機山古墳に次ぐ規模の横穴式石室で、組合せ式箱型石棺二基を設け銅鏡、馬具類等が副葬されているものもありました。
この古墳群は、今から約1500年前から100年間以上にわたりこの地を治めた有力者たちの古墳として作られたと考えられます。
現在地から万葉以来東海の歌枕として知られる「手児の呼坂」に至る丘陵には縄文、弥生各時代の遺跡も多く、数千年の昔から古代人の生活の営みを知ることができます。
森林浴に、歴史探訪に、格好のハイキングコースです。
昭和61年2月 静岡市
[丸子佐渡]
佐渡の交差点へ戻って旧道へと入るとますます雰囲気が旧東海道。この佐渡は「さわたり」と読む。
寄り道はこのあたりで終え街道を進む。
[丸子佐渡]
国道から佐渡に入るとすぐに道標があってこの地の謂われが書いてあった。
この道筋は江戸時代の東海道です。府中宿を過ぎて川越人足によって安倍川を渡り、手越村を抜けて続く松並木を西へ進むと佐渡村です。佐渡村からさらに西へ進むと丸子の一里塚があり、丸子宿へ入っていきます。
江戸時代には、この車が行き交う賑やかな通りにも松並木が続き、参勤交代の大名行列や多くの旅人が行き来しました。
[丸子佐渡]
佐渡公民館の敷地に入ると碑が立っているので読んでみる。
除幕式 昭和57年3月28日
建立の趣旨
地名「さわたり(佐渡)」が地図上から消えたことを惜しんで、この碑を建つ。「さわたり」は、わが国最古の歌集「万葉集」巻14東歌(あずまうた)にうたわれた地名であって、この歌は東国農民の愛唱歌謡の一つであった。当地方一帯は、古くから「さわたり」の地名で呼ばれてきた。
万葉集巻第14 あずま歌
さわたりのてごに
い行き逢ひ 赤駒があがきを速み
こと問わず 来ぬ
「佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった。」
この歌は、わが国最古の歌集「万葉集」に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。「佐渡」はその頃からこの辺の地名で、その歴史は誠に古い。昭和52年「丸子1丁目」と改称され「佐渡」という地名が地図の上から、永久に姿を消すこととなった事を惜しみ地元町民とともにこの碑を建てる。
[丸子子授地蔵]
佐渡公民館の向かえに地蔵堂が建っている。
[丸子]
この先の木のある所で東海道は右に大きく曲る。
そのの先を山の方に入って行くと「最古の東海道」とされる道と小野薬師寺がある。
寄り道したかったけど距離があるようなので別の機会に散策してみます。
最古の東海道は別のページを作っています。こちらをクリック。
[小野薬師寺]
別の機会に小野薬師寺へ出かけた時の写真。
人里離れた山の中腹に密かに佇む無住の寺だ。
写真の時期はちょうど桜が満開だったので厳粛な雰囲気に色を添えていた。
[丸子]
旧東海道を西へ向かう。
このあたりは商店が多く丸子の中では賑やかな地区。
<丸子>
東海道五十三次の20番目の宿場町。
手越しの手越長者と呼ばれる住人平太家綱が鎌倉時代の奥州征伐の軍功によって、源頼朝に土地を与えられて設けた新駅の丸子宿が町名の由来。
丸子は麻呂子(まろこ)すなわち男子のこと、手越は貴子(あてこ)すなわち女子のことで、年に一度男女が相手選びをした風習があった。今で言う「合コン」かな?
[一里塚周辺]
長田西小学校の辺りに一里塚がある。探しながら行くと道路は工事中で場所がわからないまま通り過ぎてしまった。
振り返ると工事看板の陰に・・・
[一里塚の石碑]
工事看板の陰に小さな塚があった。
「一りづかあと」と書いてあった。さすが小学校前だ。
[一里塚の石碑]
裏側から。
大正14年7月静岡市と刻まれていた。
結構古い。
[丸子六丁目]
東海道はこの辺りから道幅が狭くなる。
[水神社]
丸子宿の東見附を過ぎてすぐの場所に水神社がある。
[丸子宿]
水神社脇に丸子宿の説明標が立っている。
この道筋は江戸時代の東海道です。ここ丸子(まりこ)は文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継(てごしへいたいえつぐ)という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家(えきけ)を設けたのが起源と言われています。今の元宿といわれる辺りです。
戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長(そうちょう)も「丸子という里、家5、60軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と気しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。
比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度(すけごうせいど)といいます。
東海道図屏風の絵と説明文
江戸時代初期の東海道の様子を描いた屏風の内の丸子宿部分です。軒先で何かを売っています。刀をさした人、旅装の人、右の方には安倍川を渡ろうとしている人も見えます。
[丸子宿]
説明標に丸子宿の略地図が画かれていた。
ここは東の見附を通り丸子宿に入ってきたところです。見附は、宿場の出入口ににあり、往来を監視する機能をもっていました。
現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。
天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」では、宿内町並東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、と記録されています。
丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を勤める機関もありました。
[水神社]
丸子川の脇に建っている。
過去から水害に悩まされた地域だった。
[丸子川]
丸子川は普段ほとんど水も流れていない小さな川だ。
以前は鮎がこの辺りまで上っていたけど、今はどうかな?
[祠]
小さな祠もあって、いろいろな神頼みが欲しいほど災害が多かったのだろう。
[龍國寺]
水神社のすぐ先の路地を北へ入って、国道を越え300m程行った山すそに寺がある。由緒が書かれていたので読んでみます。
<お寺の由緒>
山号 九淵山
寺名 龍國寺
宗名 曹洞宗
本尊 青頭観世音菩薩
開山 松山宗宿大和尚 開基 創建 天正13年3月 (1585)
<御本尊の由来>
この御本尊は、青頭観音また白衣観音と申して奇なる御像であります。故事によると、この御本尊は昔鎌倉金沢の称名寺(納めるべく、唐より渡来した磁像の観音様で、この船が相模の沖にて難破し宮の島に打ち上げられました。
この時の千体佛の一体で現存する唯一の貴重なる観音様です。この御像を小堀遠州(遠江守、1579〜1647)が懇望され値千両で望まれましたが、当寺住職の曰く「愚僧は一代、寺は末代、予が心一つにて、此の佛を売り申す事、成り難し」と断りました。
また或る時、松平出羽守直政(1601〜1666)が当寺を一見し、庭に本南天の背丈2間程もある一株を望まれて、江戸へ引き取られました。其の翌年の夏、住職に贈り物有り、と記されています。
毎年3月9日を御本尊の縁日として、壇信徒と共に慈悲深い観音様を感謝報恩の心で無病息災を祈願し念じて、参詣者共々厳かに法要し、深く信仰を仰いでいます。
お慈悲の眼あたたかく まどかに智恵は満ちわたる
この世の母のおん姿 南無や大悲の観世音
平成13年3月9日(2001年)建立 当山7世重法代 壇信徒一同
[龍國寺]
寺の脇には時代が経った地蔵さんが並んでいた。。
[天皇休憩所]
街道に戻り進むと旧道を思わせる町並みになってきた。
明治天皇御小休所址と書かれた石碑が民家の片隅に立っている。
東海道を進んでいるとこの石碑がよく見られる。ちょっと休むだけでも大変な騒ぎだったんだろうと思う。
[丸子本陣跡]
明治天皇御小休所址からすぐに本陣跡の石碑が建っている。
石碑の横に謂われが書いてあった。
丸子宿が、東海道伝馬制の制定によって宿場町に定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長6年(1601)です。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は200戸余りでした。
宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の宿の宿泊所で大名宿ともいわれました。建物は書院造りで、門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが明治3年新政府によってこの制度は廃止されました。
[とうふ屋]
軒下にとうふ屋の看板が下げられている。
今でも営業をしているのだろうか?
かつてやっていた名残りなのだろうか?
[かたばみ屋]
今度は「かたばみ屋」と書かれた看板が下げられていた。
商売をしている家には見えない。
かたばみ屋?
何を生業にしているのだろうか?
単なる屋号?
[お七里役所]
この石碑も家の片隅に邪魔そうに立っていた。
江戸時代の初期、寛文年間、紀州、徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、146里に沿って7里間隔の宿場に、独自の連絡機関として23ヶ所に中継ぎ役所を設けた。
県内では≪沼津≫≪由比≫≪金谷≫≪見附≫≪新居≫に設けられ、この役所を「紀州のお七里役所」と呼び5人1組の飛脚を配置した。
これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、登り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て≪七里飛脚≫の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月3日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中8日を要し、特急便は4日足らずで到着した。
幕末の古文書に、入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記されている。
丸子宿におけるお七里役所は、当家のことである。
徳川頼宣は、家康の第10子で家康が亡くなって3年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。
[観光地看板]
観光地の看板が立っている。ここは丁字屋の敷地だ。
市内の観光スポットが紹介されている。丁字屋からの距離も記載されていて観光客には助かる。
[千寿酒造]
丁字屋の向かいに千寿の前の説明看板が立っている。
戦乱の世、源平時代には数々の美しくも悲しい物語が残されています。
私たちの郷土にも「千寿の前」の物語が伝えられています。
千寿は静岡市の手越の長者の娘として生まれ「白拍子」と呼ばれる舞姫でした。
舞姫は麗しい美人が多かったようですが中でも千寿は源頼朝が天下の美女、12人を集めた時、その第一に千寿をあげている程でした。
千寿と平重衡との恋物語は「平家物語」近くは山本富士子、松本幸四郎共演の歌舞伎にて広く知られたわけですが、悲嘆やるかたなき千寿は尼となり「熊野御前」を訪ねて遠江に移り、重衡の菩提を弔い磐田に住んだと伝えられています。(現在の磐田市白拍子部落)
千寿の墓石、風雨にさらされて幾百年、今この千寿に前にあやかりし麗しき美女のさずからむと手向ける娘達の野花に、戦乱の世に咲ける悲恋がしのばれます。
清酒「千寿白拍子」はこの千寿の前にちなんで醸されたものでふくいくとした優雅な香り、新鮮でまろやかな旨味を含んだお酒で「まりこ」のとろゝ汁と共に東海道の名物として長く世人の愛飲を戴いております。
千寿醸造元 敬白
[東海道丸子案内]
この辺りには至るところに歴史の説明看板や道標が立っている。
<歴史の道 東海道の御案内>
この道筋は江戸時代の東海道です。丸子宿の西の見附と高札場がありました。
分岐する道を川沿いに西北へ進むと、諸大名や幕府役人、文人等が東海道の往来の際に立寄った名所、恋歌師宗長ゆかりの吐月峯柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)があります。
道沿いには、明和元(1764)年に建立された道標がありますが、元は別の場所にたてられていたものと考えられます。
[丸子とろろ]
丁子屋は慶長元年創業の老舗。安藤広重の「東海道五十三次」の「丸子」のモデルだったらしい。浮世絵にそっくりだ。
そっくりに作ったんだろうか?
<丁子屋の店の案内>
とろろ汁を商って400年。郷愁を誘うカヤ葺きの屋根。中に入ると黒光りする大黒柱。懐かしい囲炉裏。日本民家の中で味わう麦とろは格別です。古来より自然薯は山薬と云われ滋養強壮の食べ物として珍重されてきました。
と書かれています。
<とろろ汁>
江戸時代の初めからの丸子宿の名物。山芋をすりおろし味嗜汁でのばして、麦飯にかけ、海苔やきざみねぎをかけて食べる。
丁字屋の店の前に芭蕉の句碑がある。「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」
また『東海道中膝栗毛』で有名な戯作者十返舎一九の狂歌碑もある。
[丁子屋]
昼食にとろろを食べてみました。
麦めしにとろろを掛けて腹いっぱい食べました。
[丁子屋]
一般の客はここへ通されるらしい。
天井の回りに東海道五十三次が飾ってある。
[丁子屋]
精算をすませ入口のところに貼り紙がある。
以前に「なんでも鑑定団」に丁子屋の主人が出たことがあった。
五十三次の本物を全部持っていた。その一部を展示しているのだろう。
[丁子屋]
古民具がたくさん展示してあって、さながら小さな民俗資料館のようだった。
[丁子屋]
自慢の骨董が並んでいる。
多分所有している一部を飾っているのだろう。
[丁子屋]
奥にもいくつか部屋が見える。
それぞれ味のある部屋だ。
[丁子屋]
茅葺屋根の下は昔ながらの建築だった。
屋根裏に駕篭などが置いてあった。
[丁子屋]
玄関の脇に「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」がある。
<石に刻まれた詩>
けんくハ(けんか)する夫婦ハ口をとがらして鳶(とんび)とろろにすべりこそすれ
<立て札>
とんびとろろのわらべうた
とんびとろろのお師匠さん
からすはかじやでかねたたき
雀すずやのすずならし
(静岡生まれの一九さんも口ずさんで育ったから狂歌ができたにちがいない)
大空をゆったり気分でピーとろろ
摺粉木回せばねばっこい
美味しいとろろができたのに
冷めないうちにトンテンカン(夫婦げんか)
からすにまかせたまづいとろろ
くわせちゃいかぬとぶんまいた
とんびの先生もすってんころりん
[丁子屋]
辰石と看板が建っている。
徳川家康公は駿府城築城にあたりその石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。
この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、370余年間目前の旧東海道の下で眠っていたが去る丙辰(1976)正月、電話ケーブル埋設事業の際掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇った
丸子の縁起物として辰石と名付けました。 店主
[丁子屋]
石碑がもう一つあったが内容が難しくてよくわからなかった。
[丸子川の碑]
たなばた災害復旧記念 丸子川の碑と書いた碑。
隣の岩には丸子川を詠った幽斎の歌が彫られている。岩の裏に謂われが書かれている。
水源を宇津ノ谷に発する丸子川は、古くから歴史的経済的に沿岸住民のくらしと深く結び付き親しまれてきた。それだけにひとたび「あばれ水」と化したときは、その及ぼす災禍も極めて深刻となり、過去にもその例は多い。
昭和49年7月7日深夜から翌未明にかけ本市を襲った集中豪雨は毎時85ミリという未曽有の記録となり、そのため丸子川は30分に1メートルの以上増水をみせ堤防の決壊、橋梁家屋耕地の流失あいつぎ、被災するもの2650戸、1万人に達する静岡市史に忘れ得ぬ大災害となった。
その後、今日の姿に復するまでには17億5千万円の巨費と4ケ年の日子を費やしたのである。
(文が長いので後略)
[細川幽斉の説明]
看板を読んでみる。
天正3年(1534)から慶長15年(1610)
安土桃山時代の文武両道に卓越した大名歌人で、近世和歌の祖とも称えられ「古今伝授」を授けられた。
関ヶ原合戦の直前居城が石田光成の攻略により落城の危機に際し後陽成天皇は古今伝授の隠滅を憂いて勅命にて幽斎を救出した。
信長秀吉家康にも重臣として処遇され丹後田辺城主となり、明治維新を迎えて現在17代護貞公に至っている。
天正18年(1590)3月8日、秀吉の小田原征伐の先陣として、うつの山路を越え「まりこ川と人のいふをきゝて」を詠んだ歌で、この日丸子川を渡って駿府に入った。
[いざり地蔵の看板]
看板は立っているが地蔵さんはどこにあるのか???
見回してみたが???
[丸子とろろ]
一松園。
とろろ汁は「丁子屋」が有名だが一松園も歴史があるらしい。
こちらを好んで通う人もいる。
[馬頭供養塔]
一松園の前に碑と祠がある。
江戸時代の交通には馬が欠かせなかったんだろう。
[栄屋の碑]
栄屋とだけ読める碑が立っているが謂われは書かれていなかった。。
[丸子橋]
東海道は丸子川を越えて続く。
[丸子高札場]
丸子橋を渡った所に高札場跡があって、いろいろな説明看板が立っていた。
<天和(てんな)の高札>
丸子の文化財
江戸時代の東海道丸子宿に建てられていたと思われる高札が昭和56年頃に丸子戸斗の谷の津島神社から発見されました。
天和2年(西暦1682年)今から320余年前徳川5代将軍綱吉が諸国の高札を建て替えた時のものと推定されています。
実物は縦58cm長さ258cm厚さ82cmの杉材でこれほど大形なものは県下でも珍しく静岡市の文化財の指定されています。この丸子の貴重な文化財をレプリカで紹介し、その昔の丸子宿の面影を残したいと願うものです。
高札3枚(忠孝奨励諸法度・宿駅諸法度・毒薬にせ金禁制)
なお現物は戸斗の谷町内会が保存している。
<定・忠孝奨励御法度>
1.忠義や孝行を奨励し夫婦兄弟諸親類は睦まじく召使の者にも情愛を加える事、若し不忠義不孝する者あらば重罪とする
1.何事にも贅沢をしてはいけない住家・衣服飲食等まで倹約を守る事
1.悪心をもって偽り又は無理な言いがかり又は自分の欲のために人に害になる事はするなすべて家業のために励む事
1.盗賊悪党は奉行所へ訴え出ること、その時ご褒美をくださる事
附 博打は堅く禁止する事
1.喧嘩口論は停止する。自然(万一)喧嘩があってもその場へみだりに出向かず、又手負(けが人)たる者を隠し置かない事
1.死罪の族これ有る時は呼び出される者以外は集まってはいけない。
1.人身売買堅く停止せしむ並びに年季奉公に召使下人を雇うときは男女共に十年とする事その定年数を通れば重罪とする。
附、譜代の家人又はその所に往来する者は他所へ相越し在付、妻子をも所持せしむ、其の上、科なき者を呼び返さない事
右の条々相守るべきこと、若し違反する者には厳しく処分するので申し出るもの也
下知くだんのごとき
天和二年五月 奉行
<定・宿駅諸法度>
1.御朱印、御伝馬人足の員数は御書付の外多く出すべからず事
1.御伝馬並びに駄賃の荷物は1駄について40貫目人足の荷物は1人について5貫目の限事
1.丸子より府中までの駄賃銭は1駄について47文乗懸荷物は人と共に同前、荷物なくて乗るは31文、人足賃は1人にて24文
1.岡部へ47文荷なしに相乗りは51文人足賃は41文ただし夜どおし急ぎ相通る輩は荷物なしに乗るといえども夜の分は1駄を積んだと同じ駄賃銭を取るべき事
以下略
<條々・毒薬にせ金禁制>
1.毒薬並びににせ薬種は堅く禁制なり
若し商売する者には罪科とする
たとへ同類といえども訴え出る物には御褒美をくだされる事
1.にせ金銀の売買は一切停止すべし
自然持ち来るは両替屋において打ちつぶしてその主に返すべきなり
並びに外しに金銀は金座銀座で改めるべき事
附 にせ物すべからざる事
1.寛永の新銭は金子1両につき4貫目もちろん歩には1貫目御料私領共に年貢収納等にも御定の員数たるべき事
以下略
[津島神社]
丸子橋を戻り丸子川に沿って上ると国道1号線に出る。
バイパスとのインターになっているので複雑になった場所の道が左右に分かれる角に小さな社が建っている。
津島神社と書かれた看板が立っているので読んでみます。
[丸子稲荷神社元宮]
津島神社の左側の道を進むとすぐに稲荷神社の元宮がある。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
937年、京都伏見稲荷大社の御分霊を丸子の氏神様として鎮祭した。それから千余年、東海道の名社として領主、諸大名を始め、一般庶民の信仰も篤く、五穀豊穣、厄除け、商売繁盛の神として崇敬されてきた。
1978年、静清バイパス建設のため、現在の地に移転改築された。元の地には元宮があり、更に1987年、奥宮が建立され、三ヶ所に祭られている。
[丸子稲荷神社]
新旧の社が佇んでいた。
[丸子稲荷神社遷宮]
バイパスの下をくぐって匠宿の駐車場脇を抜けると稲荷神社の新しい社がある。
バイパスの建設に併せて稲荷神社が遷された。
[駿府匠宿]
津島神社の右側の道を進むと直ぐに駿府匠宿がある。
伝統工芸の体験や土産物などを売ったりしている公共施設。
静岡は今川や徳川が駿府築造のため職人を集めた歴史があって、伝統工芸が盛んな土地柄なのだ。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
静岡市の伝統産業と歴史をテーマに、「創る、遊ぶ、学ぶ、触れる、観る、味わう」という生活文化を幅広い年齢層が体験できる施設。
各種工芸の創作体験や、250インチの大型スクリーンと38台の小型画面の組み合わせによる参加型体験シアター「たく丸劇場」、遊び心が交流する空間「おもしろ体験館」などがある。
[吐月峰]
駿府匠宿から300mほど行くと吐月峰がある。
「名勝史跡 吐月峰 柴屋寺」 とある。略由来が入口に書かれている。
静岡市丸子泉ケ谷にある柴屋寺は室町時代の中期永正元年(1504)連歌師柴屋軒宗長が草庵を結んで閑居したところであって吐月峰の名によって天下に知られた名称であります。
この泉ケ谷の地は応仁戦乱の頃持舟・宇津山・賤機山などと共に駿府の外城として丸子城があり今川氏親は今川の内訌の難をこの丸子城にさけて十余年を過ごしたのであります。
現在の柴屋寺は当時の丸子城内の一部であり青年恋歌師宗長は氏親ともに暫くこの城内にあって自然の風詠に戦塵を忘れたと伝えられています。
氏親は駿府城に帰って(長享元年・1487年)国主となった後もたびたび柴屋軒をたずね、なお公財を捨てて同宇を建て始めて柴屋寺と称えたのであります。徳川家康はこの寺に朱印地を賜い堂宇の朽ちるを惜しんで懇ろに修復したのであります。
その庭園は宗長が自ら禅味と詩魂を打ち込んで築いたものといはれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧みに取り入れた借景庭園であります。
[吐月峰]
入口に歌碑があるが私には読めない。
看板がいくつもあるのでもう一つ読んでみる。
吐月峰柴屋寺は、今川6代当主義忠と7代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が永正元年(1504)55歳で草庵を結び余生を送ったところである。この頃は、禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしたという。
風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」などの美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は、国の名勝・史跡に指定されている。
庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した「七曜石」や宗長が月が出るのを座って待ったという「月見石」などがある。その月見石の背後に師の宗祗と並んで宗長の墓がある。
当寺は、京都の嵯峨から移植したという竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が今も民芸品として即売されている。
なお、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、屯阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されている。
[吐月峰]
落ち着いた建物。
[吐月峰]
吐月峰 柴屋寺「保存顕彰会」設立記念の碑。
と書いてある。
[吐月峰]
部屋からは日本画のような庭が見通せる。
[吐月峰]
裏庭もきれいに整えられている。
隙はない。
[吐月峰]
私には庭を愛でる素養はないが、落ち着く雰囲気だ。
[吐月峰]
どこをみても絵になる。
[吐月峰]
庭を見せるために設計されている。
この庭から月の登るのを見る。
秋には月見会が毎年開かれる。
誘われるが今の私にはその余裕はない。
老後の楽しみに取っておきたい。
[待月楼]
吐月峰からすこし行ったところにある、とろろを食べさせてくれる旅館だ。
ここの庭も有名らしい。
[待月楼]
吐月峰からすこし行ったところにある、とろろを食べさせてくれる旅館だ。
ここの庭も有名らしい。
[待月楼]
ここの庭も有名。
[待月楼]
離れの部屋で昼食をとります。
[待月楼]
離れの部屋から庭が見える。
[待月楼]
このようなコース料理をいただきました。
[待月楼]
このようなコース料理をいただきました。
[歓昌院]
待月楼のすぐ奥に「天柱山歓昌院」という曹洞宗の寺の参道が見える。
[歓昌院]
「歓昌院」の参道を進むと山門があり、その先に急な階段がせまっている。
[歓昌院]
仏教会の会長をやっている和尚さんに話を聞くと鎌倉以前にはこの寺の脇に東西をつなぐ往還道が通っていたとのこと。
[古東海道]
歓昌院の墓地の脇に「牧ケ谷」と書かれた案内が立っている。
[歓昌院]
「牧ケ谷」と書かれた案内のある山道か、右側に向う舗装された農道を登る。途中歓昌院を見下ろす。
[古東海道]
農道を10分ほど登ると峠へ通じる案内看板が出ている。
[古東海道]
かつての街道も人通りも少なく立木が道を横切る場所も見受けられる。
[古東海道]
5分も登ると峠に出る。「丸子元宿」「木枯しの森」「徳願寺」を案内する道標が立っている。
[古東海道]
急な場所には杭と竹で手すりが設置されている。
地元にこの道を整備してくれるきとくな方がいるようだ。
[古東海道]
牧ケ谷の農道へとつながる。
歓昌院へ案内する道標が立っている。左側へ進む道だ。
[古東海道]
丸子へと、もと来た道へ戻る。
案内する看板があって、次のように書かれていた。
「木枯しの街道」
23・5・9達成記念日
(一人で10年間整備)
後世の為に宝を残す整備
この場所からスタート!!
誰か?協力してよお−お願いします
[古東海道]
切り通しに整備されている場所もある。
[千手観音]
丸子側に戻り下っていき歓昌院を過ぎさらに下ると道の西側に歓昌院の末寺慈昌寺がある。
千手観世音菩薩像・薬師如来像の由来。
当初安置の千手観音は尊像背部銘記に後白河天皇守本尊京三十三間住運慶仏師作 建久6年3月17日(1192)とあり昔故あって奥大井笹間より当所に移されたものである。
永正4年(1503)柴屋寺開祖の宗長禅師は「宇津山記」に「奥に歓昌院あり左の岨に観音の霊像云々」と記し歴史の古さをうかがわせる。その頃武田勝頼が下した寺領安堵判物(現存)によれば、この地は歓昌院の管理下にあった。歓昌院8世3室尊秀和尚は寛文年間(1661〜1673)当所に末寺慈昌寺を開祖し本尊として衆生の病苦を救い給う薬師如来像を本堂に観音堂には千手観世音菩薩像、不動明王像、毘沙門天像を安置された。
駿河一国三十三観音巡礼第十三番札所として名声あり正徳4年(1714)の奉納句額(現存)によれば伊豆より美濃まで多くの信者を集めた事が判る。
安政4年(1857)歓昌院19世道霊彦苗和尚により堂宇改築。明治初年慈昌寺は歓昌院に併合、寺地は収公されて官地となった。その払い下げを受けた多田元吉氏は改めて泉ケ谷区に寄進され区民は霊験あらたかな薬師如来の後為に現在地に薬師堂を再建した。昭和26年観音堂の大修理、翌張る盛大な開帳法要厳収、昭和60年薬師堂の修理が施され、ここに面目を新たにすることができた。
延命銀杏堂の由来
当処は、寛永年間から幕末まで天柱山歓昌院の末寺として創建された慈昌寺の旧境内であり、その頃既に樹齢数百年を経た大銀杏樹が聳立していた。銀杏は古来火防の妙力ありとして社寺に多く植えられたが、同樹を長年にわたり観音堂を護り、約300年前、歓昌院本堂再建のおりには主用材としてその使命を荷った。
次代の銀杏も以来300年の間、春の緑、秋の黄葉極めて美しく、その採光と偉容は住民の尊親するところであったが、永い星霜を経て樹勢漸く衰え、昭和57年台風のため倒伏した。
世紀世代を越えて住民が朝夕親愛した銀杏樹を末永く記念するため、泉ケ谷町内会が同樹の基幹部保存を強く運動し、静岡市がこれに応えて平成3年10月堂宇を建立した。
現在地に成長中の銀杏樹は3代目として愛育され、境内の千手観音及び薬師如来の御佛と共に町内安全、無病息災への住民の願いが込められている。
[丸子路]
旧東海道に戻って
丸子川に沿って進む。
[丸子二軒家]
旧東海道は丸子二軒家で国道1号線に出る。
交差点に出る所に庚申さんがある。
この交差点を越えて大鈩不動尊に向かってみよう。
[丸子庚申]
庚申塔と彫られた石碑。
[丸子庚申]
丸子の庚申さんが国道1号線の脇に建っている。
この交差点は「二軒家の交差点」と言う。この後は東海道から一時離れ、交差点を渡り、大鈩地区へ入る。
[誓願寺]
大鈩山 誓願寺。
このあたりは大鈩と呼ばれているがこの寺からきているのだろう。
誓願寺は、建久年間(1190〜99)に、源頼朝両親追善のため建立されたが、天文年間(1532〜55)の丸子城の戦火で類焼した。しかし、永禄11年(1568年)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものである。
この寺はまた、大阪冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところである。慶長19年(1614年)豊臣家重臣で、賤ケ岳七本槍の勇士でもあった片桐且元は、京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について、駿府城の家康に申し開きのため、この寺に滞在していた。有名な方広寺大仏鐘銘事件である。しかし、家康には且元の意がくまれず、遂に大阪冬の陣を起こし、続いて翌元和元年(1615年)5月の大阪夏の陣で、豊臣家は滅びてしまうのである。
境内には子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる。また、本堂右側にある古池には、珍しい産卵法で知られる「モリアオガエル」が生息しており、」五月から七月にかけて、その産卵風景を見ることができる。
[誓願寺]
立派な境内だ。
[誓願寺]
誓願寺には地蔵尊がある。看板が立っていた。
<誓願寺の地蔵尊>
この地蔵尊は天明8年(1788)の建立なり。
誓願寺第13世達源和尚の徒弟禅粛首里は太鼓坊と云われる太鼓打ちの名手。然し病弱で若くしてこの世を去った。
達源和尚は首里を不憫に思い世の人々が三悪趣を離れ百病根を断ち長寿であるようにと願いを込めて首里の故郷の方向に向かって建立せしものなり。
[丸子城入口]
誓願寺のすぐ近くに丸子城への登り口がある。
静風苑という煎茶道場の脇に丸子の里自然歩道に通じる小道があった。
丸子城は別のページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[丸子城]
大鈩不動尊へ行く途中から丸子城がある三角山が見える。
[丸子大鈩十二神社]
三角山を見た後、すぐに鳥居が見える。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
丸子誓願寺の奥で、大鈩不動尊への道の途中に位置し、鳥居をくぐって階段の上に行くと本殿、拝殿がある。
鎮座地の大鈩は、古くより鉄を産出し、製鉄の盛んな土地で、神社の主神も製鉄と関わりの深いイザナミノミコトである。
この地では古墳五基が発見発掘され、神社の創立は相当古い時代と思われる。
[丸子大鈩十二神社]
小じんまりした社屋が建っている。
[丸子大鈩不動尊]
国道から1.5kmほど奥にお不動さんがある。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
誓願寺より先の坂道の奥に、静かな杉林に囲まれた不動明王堂が安座されている。
その下には不動の滝があり、両側には十六羅漢像が安座されている。
滝の岩場でサワガニを見つけたり、夏場は絶好の避暑地として多くの人々が参詣する。
毎月28日の縁日には、各地から参詣や出店に訪れる人々で賑わう。大祭は1月と7月に行われる。
[丸子大鈩不動尊]
不動尊は沢の滝を利用するかのように位置している。
[丸子大鈩不動尊]
狛犬も崖の岩に置かれている。
[丸子大鈩不動尊]
薄暗い滝の脇の参道を行くと明るく開けて不動尊が祀られている。
[丸子大鈩不動尊]
日中でも電燈が点けられている。
[丸子二軒家]
大鈩から二軒家へ戻って丸子路を行く。
[赤目ケ谷]
丸子路は丸子赤目ケ谷を通る。
このあたりに紅梅が多かったので、「赤梅ヶ谷」と言われたが、いつしか「赤目ヶ谷」という地名になった地域。
[赤目ケ谷]
旧道を進む。
[丸子路]
また国道1号線に出会う。
[丸子裸弁財天]
国道と出会うところに丸子裸弁財天の看板がある。
どこが入口かわからない??
[長源寺]
丸子裸弁財天の看板の脇に丸子観光案内図が立っているので読んでみる。
<長源寺・起木神社>
長源寺は宝台院の末寺として、寛保元年(1741)慈悲と心の安らぎの観音様を祭ったお寺です。
山門左側正面に、平成元年に建立された高さ3mの座像で、観音菩薩が3人の子供を抱き寄せた石仏「小百合水子観音菩薩」の供養塔がある。
境内には、幕末の国学者野沢昌樹の墓がある。昌樹翁は甲斐の人で、明和事件(1767)で尊皇の志士で有名な弟の山県大弐が処刑されたので、駿府丸子長源寺に移り住んだ。時に府中に寓居し、国学、医学の道を教えた人だった。木枯の森の本居宣長撰文の碑も建立された。寛政12年(1800)79歳で没し、縁り深い長源寺に葬られた。
辞世の歌に「心引く ほたしなき身は 梓ゆみ かへらぬ旅の 道にまよわず」
鳥居の奥に、源頼朝公縁の起木天神が祭られている。平安中期に学問の神として知られる菅原道真公を御祭神として鎮祭された。当社は古来神域に紅梅が多く「赤梅ケ谷」と言われ、何時しか「赤目ケ谷」となった。春秋2度の例祭日には「合格祈願」「雷除けの神」として信仰篤く、遠近より参詣者で賑わっている。
[長源寺]
長源寺は少し戻った路地を入るとあった。
[起樹天満宮]
長源寺の少し奥に天神さんの鳥居がある。
[起樹天満宮]
平安中期に建てられた天神さん。
<起木神社>おきぎじんじゃ
鎌倉時代の初め、源頼朝が上洛の折り、この杜の前に梅の大木が倒れて道をふさいだので、道をあけるように命じたところ、その木は一夜のうちに起き上がって枝葉を茂らせたという伝説による命名。
また、赤目ヶ谷の地名は、道真が愛した紅梅にちなみ、もとは赤梅ヶ谷であったという。
[起樹天満宮]
菅原道真の絵が奉納されていた。
[起樹天満宮]
天神さんの脇に「日本近代茶業の先駆者 多田元吉翁の碑」が立っていた。
インドから茶の技術を学び全国に広めた人らしい。丸子に日本の紅茶のルーツがあった。
[起樹天満宮]
丸子赤目ケ谷起木天神碑の文。
漢文なので意味が解らないが解説看板が立っていた。
「風は松声をとどめて静かに、山は跿馬を含んで渕し」
[丸子路]
かつての東海道は国道と丸子川を縫うように進む。
[丸子路]
かつての東海道は国道の整備によってどこを通っていたのかこの辺は良く分からない。
[丸子路]
こちらが東海道かな?。
[丸子路]
国道と平行して進む。
[丸子路]
この先は丸子から宇津ノ谷へと続く。両側から山がせまり国道と旧東海道は1本になる。
ここから宇津ノ谷へ入るにはこちらをクリック。
−コメント−
手越から丸子の行程は市街地から離れていて雰囲気は昔の東海道を感じることができる。
交通量が多い国道沿いは空気が悪いのが難点だけど。
歴史がある史跡が数多く出会えた。
− 宇津ノ谷 −
宇津ノ谷は丸子宿と岡部宿の間にある峠道。江戸時代には山賊が出ることで難所とされていたらしい。
[宇津ノ谷]
国道は山に向っていく。先に見える道の駅の看板が宇津ノ谷へ入ったことを教えてくれる。
国道1号線の両側から山が迫って、旧東海道は国道に置き換わっているようだ。
[宇津ノ谷道の駅]
トンネルが見える手前に宇津ノ谷道の駅の入口がある。
駅には地元の特産物なども売っているようだ。
[宇津ノ谷道の駅]
宇津ノ谷の道の駅への入口を過ぎると宇津ノ谷の集落へ入る看板が出ている。
正面に見える立体交差の橋を渡って宇津ノ谷へ向かう。
[宇津ノ谷トンネル(昭和・平成)]
国道は山へと突当り、トンネルへ吸い込まれていく。
旧東海道は右の宇津ノ谷集落へと入る。
国道1号線のトンネルは下り線が平成トンネル、上り線が昭和トンネルと呼ばれている。
[宇津ノ谷道の駅]
国道はトンネルに入るが、その手前を左に折れると立体交差して宇津ノ谷の集落に入る。振り返って道の駅が見える。
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷は古い建物が今も残り、懐古趣味の旅人を集めている。
[宇津ノ谷]
静岡では珍しく古い建物が並ぶ地域だ。
[宇津ノ谷]
道は2つに別れ、右は50年ほど前まで国道一号線だった方面で、左は旧東海道となる。
案内看板が立っている。
看板を読む。
<蔦の細道>
古代・中世(約700年〜1590年頃)の東海道です。
古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」にこの峠道の事を書きしるしてから全国的に名前が知られるようになりました。
<明治のトンネル>
明治・大正時代(1876年〜1930年)の東海道です。
今見られる「レンガのトンネル」は明治29年に照明用カンデラの失火によって新たに造りかえたもので現在は、国の登録文化財に認定されています。
最初のトンネルは日本ではじめて通行料を取ったので「銭取りトンネル」と言われていました。
<慶龍寺(宇津山)>
慶龍寺は天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。
当寺は、室町時代から伝わる「十団子」が有名で、毎年8月23・24日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が売られている。
<旧東海道>
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたものと言われています。
江戸時代に入り正式の。東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっておりました。
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷は江戸・明治・大正・昭和・平成と時代ごとに新しい道が整備されている。
看板に見どころが描いてある。今日は一気に巡ってみよう。
[宇津ノ谷]
旧東海道は石畳のように整備された道を進む。
タイムトンネルを進むようだ。
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷の住民たちが力を合わせて町並みを作っている。
[宇津ノ谷]
町並みは続く。
歴史がかおるまち丸子へGO!と書かれた看板が下げてあったので読んでみる。
(1)明治のトンネル
明治9年に開通した日本初の有料トンネル。国の登録有形文化財で、現在は無料。
(2)お羽織屋と宇津ノ谷のまち並み
石畳の美しい道の両側に、昔ながらの屋号の看板を軒先に掲げた家々が並び、当時をしのばせる。
(3)慶龍寺
8月23・24日の縁日だけ、室町時代から伝わる魔よけの十団子が販売されている。
(4)道の駅宇津ノ谷
宿場町をイメージする和風の建物で、畳の休憩スペースもある。売店や軽食コーナーには、新鮮な旬の味や地元で取れた農産物、加工品などもあり、毎週日曜日には朝市を開催する。
(5)つたの細道・在原業平の歌碑
平安時代の東海道を偲ばせる古道「つたの細道」には、伊勢物語の主人公・在原業平が東(あずま)下りの途中で詠んだ「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり」の句碑がある。
(6)東海道宇津ノ谷峠
豊臣秀吉が小田原征伐の際に新たに作った道。江戸時代、峠越えとして街道の要所になった。
(7)誓願寺
源頼朝が創建し、戦火で類焼した後、武田信玄が再建したといわれる寺。境内には豊臣家の重臣・片桐且元夫妻の墓がある。池はモリアオガエル産卵で有名である。
(8)大鈩不動尊
不動明王堂と、丸子城で武田信玄の守り本尊となっていた愛宕山大権現のお堂がある。毎月28日は不動尊縁日。丸子の朝市が開かれ、参道は訪れる人で賑わう。
(9)日本紅茶の発祥の地
起木天満宮には、多田元吉がインドから持ち帰った紅茶の原種木と顕彰碑、ゆかりの碑文がある。
(10)駿府匠宿
静岡の伝統工芸を紹介するスポット。体験工房や展示ギャラリー、食事処もある。
(11)吐月峰柴屋寺
今川氏に仕えた連歌師宗長が草庵を結んだところ。京都銀閣寺を模した庭園は自然を取り入れた借景園で、枯山水の庭園とともに国の名勝史跡に指定。月の名所としても有名。
[宇津ノ谷]
明治天皇御小休所跡の看板。
[宇津ノ谷]
十団子の由来が書かれている。
昔一人の旅僧がここ宇津ノ谷の里を通りかかると鬼が人間の姿にかえて出てきた。
旅僧が「お前は誰だ」と問ふと「祥白童子だが坊さんはどこからきた」と言う「お前を成仏させようと遠くからやってきた。すみやかに本体を現せ」と言うと彼はたちまち6mの鬼の姿に変身した。
「なるほどお前の通力は大したものだ。今度はできるだけ小さなものに化けてわしの掌に上ってみよ」と言えば小さな玉となって僧の手に上った。それを杖で砕くと10粒の小玉となったので僧は一口に呑みこんでしまった。それから後は鬼の災いはなくなった。
この旅僧は弘法大師が刻んだ地蔵菩薩で宇津ノ谷の慶竜寺にまつられており砕けた玉は十団子として売られている。
[宇津ノ谷]
秀吉公のお羽織の由来が書かれている。
天正18年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津ノ谷(うつのや)に休息した。
その際、当家の祖先が馬の背を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙。裏は「カイキ」、後に家康もこの羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。
東海道宇津谷 石川家
[宇津ノ谷]
この町並みは絵心をくすぐる。
腕前のほどはわからないが筆を揮っている老人の姿自体がまた絵になる。
話を聞いてみると先日団体でここを訪れて、気に入ったので改めて来たのだと言っていた。
[宇津ノ谷]
東海道をちょっとそれて一回りしてみる。
[諏訪神社]
道をそれて400mほど行くと諏訪神社があった。
[慶龍寺]
諏訪神社から200mほど坂を下ると「宇津山 慶龍寺」が見える。
[慶龍寺]
この寺は、室町時代から伝わる「十団子」が有名で、毎年8月23・24日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が売られている。
[慶龍寺]
宇津山 慶龍寺は天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩。
[宇津ノ谷]
慶龍寺から赤い欄干の橋を渡り、この路地を50m歩くと御羽織屋に戻る。
裏道のような所も整備されている。
[宇津ノ谷]
先ほど通った所へ出た。町並みを振り返って見る。
観光客は老人が多い。
[宇津ノ谷]
ここから先は道も狭まり坂も急になる。
東海道は江戸の頃にどこを通っていたのかな?
この細い道を通ったのかな?
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷の集落が途切れる所から振り返る。
[明治トンネル]
集落が途切れると明治トンネルに続く道に出る。
石畳状に整備されていて好い雰囲気だ。
[明治トンネル]
トンネル手前に駐車場があり、ここから先は車両進入禁止になっている。
ここにはあずまやがあって、一休みできる。その脇に観光案内が書かれている。
<地蔵堂と地蔵の話>
峠の地蔵は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また道しるべの役割も果たしていました。
地獄の入口で衆生(すべての生きもの)を救うという地蔵信仰は、江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り信仰することによって村や村人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰の流行します。
宇津ノ谷峠には静岡市側に峠の地蔵が、岡部町側には坂下の地蔵が祀られており、峠の両側に地蔵が祀られていたことがわかります。坂下の地蔵には寛文11年(1671)銘と元禄14年(1701)銘の石灯籠が奉納されていることから、江戸時代前期には坂下地蔵が信仰されていたことがわかります。
峠の地蔵堂跡で平成11年に実施した発掘調査では「東海道図屏風」に描かれている祠のものと思われる基壇(建物の下の石や土の壇)の跡と、18世紀末頃に建てられたと考えられる地蔵堂の雨落溝の一部、地蔵堂建設のために造成された石垣が確認されています、石造の地蔵像は明治42年(1909)に宇津ノ谷の慶龍寺に移されました。
<宇津ノ谷峠の構造>
東海道宇津ノ谷峠は、官道としての道幅2間(約3.6m)を基本としながらも。地形に合わせて変化しているのが特徴です。崩落しやすい地盤であるにもかかわらず、斜面を切り通して道を確保しております。両側あるいは片側に側溝が設けられ、深さ20cm程の掘り込みに直径5cm強の石を詰めた暗渠のような構造であったことが発掘調査によってわかりました。石畳は敷かれていなかったようです。峠では切り通した斜面の崩落を防ぐためと考えられる石垣が検出されています。
<東海道宇津ノ谷峠道周辺案内>
かつて宇津ノ谷の峠は、旅人の行く手を阻む難所でした。両側に迫る山々を縫うように通る東海道の昼なお暗い峠道を、ものの怪や山賊に怯えながら越えてくると、宇津ノ谷の、あるいは坂下の村がちらと見える。旅人はどれほどほっとした事でしょうか。平安時代の文学「伊勢物語」でその名を知られた宇津ノ谷峠には、古代から現代までの道が時代とともに移り変わっていく様子が残っています。それぞれの時代の知恵や土木技術を駆使して造られた峠越えの道を歩き比べてみましょう。
≪古代・中世の東海道≫
律令時代の官道として整備され、「伊勢物語」以来、数多くの文学作品に「蔦の細道」「蔦の下道」として登場する道です。道筋を確定することは難しいですが、この道が基本となって近世の東海道へと発展していったと考えられています。
≪近世の東海道≫
徳川家康が慶長6年(1601)に宿駅制度を定め、古代・中世んお道を改修整備した道です。
享和2年(1802)に刊行された十返舎一九の「東海道膝栗毛」や、歌舞伎「蔦紅葉宇津ノ谷峠」の舞台にもなっています。静岡市から岡部町までの峠道には、俳人雁山の墓、ひげ題目の碑、駿府代官羽倉簡堂の撰文による羅径記碑の跡があり、その道のりは約960mです。
≪明治のトンネル≫
明治9年(1876)に日本で初めての有料トンネルとして開通しました。煉瓦造りの今の姿は、改修されて明治37年(1904)に再開通したもので、明治時代の貴重な土木遺産として国の登録有形文化財になっています。長さ203m 高さ3.9m 幅4.0m
≪大正のトンネル≫
大正15年(1926)に着工し昭和5年(1930)に開通したこのトンネルは、自動車時代の到来により明治トンネルにかわって、東西を行き交う自動車交通の増大をっさえてきました。長さ227m 高さ4.3m 幅7.3m
≪昭和のトンネル≫
高度経済成長に伴うさらなる自動車交通の増大を予想し、日本最大の幅員を有するトンネルとして、昭和32年(1957)着工、同34年(1959)に開通しました。平成のトンネルにあわせて改修され現在のかたちとなりました。長さ844m 高さ6.6m 幅9.0m
≪平成のトンネル≫
交通量の増加は予想をはるかに越え、宇津ノ谷の慢性渋滞を解消するため昭和のトンネルに並行して建設されたこのトンネルは、平成2年(1990)に着工、平成7年開通した。長さ881m 高さ6.58m 幅11.25m
[案内図]
ここにも案内図。角度を変えて描かれていた。
<慶龍寺(宇津山)>
慶龍寺は天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。
当寺は、室町時代から伝わる「十団子」が有名で、毎年8月23・24日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が売られている。
<蔦の細道>
古代・中世(約700年〜1590年頃)の東海道です。
古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」にこの峠道の事を書きしるしてから全国的に名前が知られるようになりました。
<旧東海道>
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたものと言われています。
江戸時代に入り正式の。東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっておりました。
[明治トンネル]
案内図の続きを読みます。
<明治のトンネル>
宇津ノ谷峠(旧東海道)は、江戸初期東海道の駅伝制が整備され官道となりました。
明治のトンネルは、旧東海道を通行する人たちのために、明治9年(1876)総工費24,800円で築造された日本最初の有料トンネルです。
当時は、測量技術が発達していなかったため、「く」の字型のトンネルになってしまい。見通しが悪いため照明用のカンデラを設置していました。
このトンネルの構造は、静岡口の約20mは青石造りでしたが、大部分が角材の合掌造りであったため、明治32年に照明用カンデラの失火により焼失崩壊し、廃道となりました。
現在の赤煉瓦トンネル(通称)は静岡口を直線に手直ししたため、長さ203mとなり、明治37年に施工しました。
[明治トンネル]
タイムトンネルのようだ。
このまま明治時代につながっているような気持ちになってくる。
[明治トンネル]
トンネルの中はレトロ調に整備されていた。
ここを抜けると明治時代ではなく藤枝市(岡部町)に出る。
[明治トンネル]
岡部側の出口。
こちら側は掃除が行き届いていないが、自然な雰囲気だ。
[明治トンネル]
季節は秋。
落ち葉の絨毯が人通りの少なさを物語っている。
もちろん車両進入禁止なのだ。
[明治トンネルから旧道へ]
明治トンネルから100mほどで峠越えの旧東海道へ向かう道に出る。
年配のハイカーに時々出会う。
[明治トンネルから旧道]
いろいろな時代の道が交錯しているので迷子になる人が多いのだろう。あちらこちらに案内板が立てられている。
[旧東海道]
旧東海道はこの坂を登って行くとある。
宇津ノ谷から峠を越えて来た道が坂を下って岡部向かう道へここから100m登ると出会う。
[旧東海道]
江戸時代の東海道。
写真の中心から左側へ坂を下ると岡部へと続く。
写真の左側へ坂を登って行くと峠を越えて宇津ノ谷へと続く。
峠へ向かってみる。
[旧東海道]
200mほどで道路から分かれて山道となる。
旧道はここから登る。
みかん農家の車が出荷のために置いてあった。
[旧東海道]
人が一人やっと通れるほどのハイキングコースのようになっている。
当時は大名行列も通ったのだから、もう少し整備されていたのだと思う。
[旧東海道]
昼なお暗い山道を登り始めると思いのほかすぐに峠となる。
[宇津ノ谷地蔵堂跡]
峠を下ると宇津ノ谷地蔵堂跡がある。
整備されていて説明書きがあるので読んでみる。
峠の地蔵は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割も果たしていました。
地獄の入口で衆生(全ての生き物)を救うという「地蔵信仰」は、江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り、信仰することによって村や村人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰も流行します。
宇津ノ谷峠には静岡市宇津ノ谷側に「峠の地蔵」、岡部町坂下に「坂下の地蔵(通称:鼻取地蔵)」があります。「峠の地蔵堂」も明暦2年(1656)に狩野探幽による「東海道地取図巻」に描かれています。このことから江戸時代初期にはすでに信仰されていたと考えられます。
また、坂下の地蔵堂には寛文11年(1671)銘と元禄14年(1701)銘の石灯籠が奉納されていることから、両地蔵は共に江戸時代の初期には既に信仰されていたことがわかります。
峠の地蔵は明治42年に慶龍寺に移されました。
<地蔵堂跡>
「峠の地蔵堂跡」は、平成12年度に実施された発掘調査の成果に基づいて整備されています。
発掘調査によって、この平地には、地蔵を祀っていた建物跡と考えられる痕跡が2箇所検出されました。
整備されている地蔵堂の位置は、谷側の石垣を築き、この平場を広くした時点で建てられた地蔵堂を示してあります。大きさは約5m四方だったことがわかりました。
整備された地蔵堂とは別に、約2m四方の建物跡(礎石)が検出されました。この建物跡は、山側に近く、規模も小さい建物であるため、石垣が築かれる前の宇津ノ谷での峠の地蔵信仰の初期に造られた祠の跡と考えられます。
<発掘調査前の地蔵堂跡>
検出された2つの地蔵堂跡は、小さい方が古く、平地が狭い時期に造られた地蔵堂の痕跡と考えられます。
大きい方は、谷側の石垣が築造され、新たに平場は拡幅された時期に造られた地蔵堂の痕跡と考えられます。
絵図は地蔵堂を描かれた時期により大きさや形が違うことがうかがえます。
(写真の解説)入口は狭く、日差しも入ってこない、暗く鬱蒼としている状態です。右側に覗く石垣もほとんど埋まっています。
<発掘調査によって検出された2つの地蔵堂跡>
(写真の解説)約2m四方の地蔵堂跡には、その範囲に石が並べられていた痕跡がうかがえます。約5m四方の地蔵堂跡には、その範囲に残る溝状の痕跡が一部確認できました。
[宇津ノ谷地蔵堂跡]
宇津ノ谷地蔵堂跡の看板を読む。。
この奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。
江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居がある。
盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上る。
文弥は、同中、護摩の灰、堤婆の仁三に目をつけられながら丸子宿にたどり付く。
一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが目的を果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。
丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文屋の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。
文弥の百両ほしさに十兵衛が宇都ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場「文弥殺し」の舞台がここ延命地蔵堂前である。
延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年8月23・24日である。
[雁山の墓]
下っていくと雁山の墓がある。
俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、公布と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めました。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられています。
しかし、雁山はその後「有渡日記」や「駿河百韻」等を著し、明和4年(1767)、82才で甲府に没しました。
もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていましたが、山崩れで流れ、この位置にうつされました。
[旧道から宇津ノ谷集落]
雁山の墓から少し下ると開けたところへ出る。
宇津ノ谷の集落を一望できる。西に峠なので冬は陽が陰るのが早い。
この景色はいつまでもこのままでいて欲しいと思う。
自分が住んでいないと言える言葉。
[大正トンネル]
このモーテルは今でもやっているのだろうか。
旧東海道と明治トンネルから下ってくるとここに出る。この舗装路は昭和トンネルが出来るまでは国道1号線だった。
ここは大正トンネルへ100m地点。
[大正トンネル]
明治トンネルより少し大きい。ここは明治トンネルと違って使われている道路。
レトロな雰囲気はここでも感じることができる。
[大正トンネル]
岡部側へ出てからトンネルを撮って見ました。
[東海道]
大正トンネルからでて間もなく明治トンネルへ続く道に出会う。
タイル状に整備されている。綺麗に整備されているが観光客は少ない。
[旧東海道]
先ほど通った道に出る。再び登り、今度は坂下方面へ向かう。
[東海道]
旧東海道は宇津ノ谷峠を越えて坂下方面へ向かっていた。
明治トンネルへの道は整備されているのに坂下への旧東海道は荒れていて歩くにも注意が必要な状態だ。
[髭題目碑]
坂下に続く旧東海道に髭題目碑。
林の下草に埋もれるように碑が立っている。看板があったので読んでみる。
碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。
裏面には建立年月の「天保六年霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田市辺りまでの建立者達の名前が刻まれている。
このような髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである。
[つたの細道]
ら径記碑跡。
碑に書かれた文章を読む。
蘿径記碑は文政13年(1830)、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末永く残すために建立した石碑です。
「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。
[坂下地蔵堂]
つたの細道へ行く前に坂下地蔵堂へ寄ってみる。
[宇津ノ谷トンネル岡部側出口]
坂下地蔵堂の裏手に宇津ノ谷トンネル岡部側入口がある。
ここから岡部宿方面へ行くにはこちらをクリック。
[つたの細道]
「つたの細道公園」を右手に見ながら通り過ぎるとつたの細道の登り口まで200m。
昼間でも薄暗い渓流の支流に沿って細道が延びている。
登り口に看板が立っていた。
蔦の細道は宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、峠は標高210m、勾配24度、道のり約1500mで、文学の名所として著名である。
「伊勢物語(第9段東下り)」の一節に「ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、
(中略)
駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりけり 藤の山を見れば、5月のつごもりに、雪いと白うふれり。
時しらぬ山は藤の嶺いつとてか 鹿子まだらに雪のふるらむ」とあるが、この文と歌が「蔦の細道」のいう名の起りといわれている。
[つたの細道]
登り口からしばらくは急な坂が続く。滑らないように石畳が敷き詰められている。
当時からのものだろうか?
[つたの細道]
道幅が狭くなっても石畳はまだまだ続く。
歩きやすいような、歩きにくいような。
雨で道が流されないし、雨の後でもぬかるんだりしないので滑らずに歩けるだろう。
[猫石]
中腹まで来た所に「猫石」と書かれた岩がある。
猫が伏せているような形をしていると言う人や、ここに猫がいたからという説がある。
[つたの細道の峠]
峠の頂上には少し休める開けたスペースがある。
今登って来た山道を振り返る。
[つたの細道の峠]
遠くを見ると藤枝方面が見える。
[つたの細道の峠]
道に迷わないように表示板が立っている。
[つたの細道の峠]
静岡側の下り口。
この先は暗い湿った林の中を歩くことになる。
[つたの細道の峠]
林の中から峠方面を見る。
息を切らして暗い山道を登り続けると明るい光が射してきて、峠へ出た喜びを感じるシチュエーション。
[つたの細道]
だんだん暗い道へ入っていく。
[つたの細道]
頂上まで120mの看板が倒れて腐りかけている。
ここまで登って来てつらい気持ちを慰める看板。
もう少し下がった所に「蔦の細道の文学」を説明した看板も立っていたので読んでみる。
在原業平より約400年後(鎌倉時代1182〜1333)
藤原定家の子、為家の側室阿仏尼は鎌倉幕府への旅に出た。当時日本は元が来寇して来た。文永、弘安の両役の最中だった。物情騒然殺伐たる東海道での女旅。建治3年(1277)10月のことである。(出発日が16日だったので、この日記を十六夜日記という。
宇津の山越ゆる程にしても、阿闍梨の見知りたる山伏行きあひたり、夢にも人をなど眷をわざとまねびたらん心地して、いとめづらかにをかしくもあわれにもやさしくも覚ゆ。急ぐ道たりといえば文もあまた、え書かず、やんごとなき所一つにぞ、おとづれ聞こえる。
わが心 うつつともなし 宇津の山
夢にも遠き 都恋ふとて
つたかえで しぐれぬひまも うつの山
涙に袖ぞこがるる
こよひは手越という所にとどまる。なにがしの僧正のとかや上り給ふとて、いと人しげし宿かりかねたりつれど、さすがに人のなき宿もありけり。26日藁科川とかや渡りて興津の浜にうちいづ
[つたの細道]
このように沢に脇を道が続いている。
雨の後には歩きたくない場所だ。
[つたの細道]
植林された林の中を細道は続く。
当時はもっと雑林だったのだろう。
[つたの細道]
車で入ってこれる場所へ出た。
宇津ノ谷の道の駅方面へはもう一度細道へ入る。
[つたの細道]
草をかき分ける。
[つたの細道]
蔦の細道の静岡側の登り口は遊歩道のような場所から始まる。
[つたの細道]
入り口周辺は整備されていて道標も立っている。
[つたの細道]
宇津ノ谷の道の駅の脇から「蔦の細道」は始まる。
看板の説明を読んでみる。
<旧東海道(大名街道)>
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡の境にある宇津ノ谷の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。
一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津ノ谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。
鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津ノ谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。
ここで鬼退治にからむ十団子の伝説が生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正一八年(1590)7月、小田原城を落とし、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。
慶長6年(1601)徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120人から300年もあり、1万石の大名でも5、60人の共揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。
この道も明治9年(1876)トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。
−コメント−
宇津ノ谷周辺を巡って見ました。
逆から回っても1周して戻ってくるルートです。
山道が多いので正確な距離はわかりませんが6km程度の行程かと思います。
歴史を感じられる小さな旅を堪能できました。
− 伝馬町〜長沼一里塚 −
伝馬町は江戸時代には本陣や旅籠がひしめいている所だったらしい。
今でも静岡駅とバスターミナルに挟まれた所だ。
旅籠を後にして江戸へ向い長沼の一里塚まで寄り道をせずに歩くと4km弱の行程。
[江川町交差点]
伝馬町通りの基点の江川町は御幸通り、北街道、江川町通りの交差する変形5差路の交差点。
江川町は御幸通りが出来た頃無くなったが交差点の名前で残されています。
写真正面のビルは再開発された「ベガサート」。その建物の南側の一方通行が伝馬町通り。
「静岡中心街」の出発点と同じ江川町交差点から伝馬町通りを東に向って出発してみよう。
この江川町から西の呉服町方面へ向かうページへはこちらをクリック。
[西郷山岡]
幕末の重要な史跡。
碑が立っている。謂われを読んでみる。
静岡市指定文化財(史跡)
西郷・山岡会見之地
慶応四年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王を大総督とする東征軍の参謀伝馬町の西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ松崎屋源兵衛宅で行われた。
この会見において、徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。
明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置づけられるものである。
ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鉄太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります。
[西郷山岡]
ペガサートの隣にシティオというビルがある。
下がブティックなどの店が並び、上階にホテルが入っている。
以前は安田屋旅館があった場所。ビルの前に看板が立っている。
維新の歴史を変えた街「西郷・山岡の静岡会見」
慶應4年(1866年)2月12日、慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追悼軍が江戸に到着した。官軍の江戸総攻撃は目前に迫り、一部では慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。
そんな重苦しい空気のなかで、勝らは大きな賭けに出た。勝は山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当らせた。
山岡は江戸から静岡まで官軍兵士の居並ぶなか、「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に参る」と叫びつつ、早馬を走らせた。東海道を疾走する山岡の早馬の図は有名な錦絵になっている。
山岡は西郷の宿舎だった伝馬町の松崎屋源兵衛方を訪ね、3月9日、西郷・山岡の会見が実現した。
両者は一面識もなかったが、互いに胸襟を開いて折衝した。その結果を、西郷から駿府城代屋敷を御座所として静岡に滞在していた熾仁親王に伺を立てると、宮から七カ条の内論書を得た。
最終的には14日、江戸での西郷と勝の会見で決着するのだが、実質的な交渉は静岡会見で行われ、江戸の会見はセレモニーにすぎない。
歴史の転換期で静岡は重要な舞台となっていたのです。 (文責 黒沢 脩)
[伝馬町通り]
伝馬町通りを行く。
静岡にも109がある。正面の建物がそれだ。
伝馬町は古くから東海道の駅が置かれた。江戸時代には、駿府伝馬宿、府中宿などと呼ばれた。
本陣二軒のほか、脇本陣、問屋会所、荷物の貫目改所、旅籠屋、木賃宿があった。
伝馬とは旅客や貨物の輸送用の馬や人足のことで各地に残る伝馬町はその拠点である。
[伝馬町の由来]
109の前に伝馬町の由来が書かれた石碑が建っている。
読んでみる。
伝馬町の歴史は慶長14年(1609)に家康公が駿府を町割して、東海道53次の宿(しゅく)と定めたことに始まる。宿には本陣や脇本陣が置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑わいを呈した。
明治以後も静岡宿といったが、明治22年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった。以来、況不況の波を克服し、或いは静岡大火、空襲の災禍にもめげず、人々は手を携えて住みよい街づくりに努力、県都の玄関口として今日の繁栄を見るに至った。
ここに近代的な市街地再開発事業の竣工に当たり先人苦心の跡を偲び、併せて未来への発展と、ゆかりの人々の多幸を念願して祈念のしるしとする。
[府中宿の鳥瞰図]
府中宿の鳥瞰図があった。
絵図なのでリアル性はないがイメージがよくわかる。
赤い線が旧東海道。曲がりながら進んでいる。
[住宅地図]
当時の住宅地図。
この看板は江戸時代当時の住宅地図に説明文が次のように書かれていました。
「府中宿」は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町、そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。
府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の、宿場の役割を担っていたのが「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに、43軒の旅籠が立ち並び賑わいを見せていました。
徳川幕府による参勤交代の制度が確立されるのに伴い、勅使や大名等の宿泊場として各宿場に「本陣」と「脇本陣」が設けられていました。府中宿には、上伝馬町と下伝馬町に本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ設けられていました。上伝馬町の本陣は上本陣と呼ばれた望月家、脇本陣は松崎家でした。
[本陣・脇本陣跡]
本陣・脇本陣跡の石碑があった。
[府中宿の由来の看板]
本陣・脇本陣跡の碑の横に府中宿の由来の看板がある。
伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社等があります。
徳川幕府末期の動乱期に、15代将軍徳川慶喜公の処遇や江戸城の無血開城への道筋を決めた東征軍参謀西郷隆盛と勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟の会談が行われた松崎屋敷跡が市指定史跡「西郷山岡会見の地」となっています。
[伝馬町通り]
伝馬町通りは徐々に大きな建物が消えて市街地から離れていく。
[伝馬町本陣]
先ほどの本陣跡とは別の本陣の碑が立っている。
大きな本陣が2か所あったらしい。当時の繁栄ぶりが偲ばれる。
伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社等があります。
また、古くから久能や高松など駿河湾沿岸の集落との交易の道であって、江戸時代徳川家康公が亡くなり久能山に葬られてからは、参勤交代で往き来する西国の大名が必ず東照宮参詣の為に通った「久能街道」が華陽院の門前近くの東海道から始まっています。
[伝馬町・珠賀美神社]
伝馬町通りの静岡銀行のある交差点を南に曲がると100mほどで珠賀美神社があり、「砥園さん」といわれ敬われている。
謂われの看板を読んでみる。
当神社は金剛山寶泰禅寺の鎮守。牛頭天王社として、慶長19年(1614年)6月、徳川幕府譜代の候でありました、京都所司代板倉伊賀守勝重の創建といわれ、宝暦8年(1758年)9月、現在地に移されたと云われています。明治3年12月、今の社号に改められ、昭和15年1月、静岡大火後、区画整理に伴い現在の社境になりました。
御祭神の主神は健速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)で、誉田八幡大社と松尾大神とを併せて奉祀してあります。この誉田八幡大神は、現在の鷹匠町、旧誉田町華陽院境内に鎮守として、明治12年村社に列格しておりましたが、明示20年1月、相殿神の市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)とともに当社の境内に合祀され、今日に及んでおります。
球賀美神社は、武健康の神であります。
誉田八幡神社は、破邪の神であります。
松尾神社は、醸造の神であります。
[珠賀美神社・石灯篭]
これが「鬼彦伝説」の石灯籠。
社前にある久能山東照宮の石灯籠は「鬼彦伝説」の石灯籠として知られ、駿府に鬼彦という怪力者がおり、久能山東照宮の石灯籠を天秤棒でかついできましたが、この地で折れてしまったので、当神社に奉納したと伝えられています。
[寶泰禅寺]
珠賀美神社を西に入ると臨済宗妙心寺派「金剛山 寶泰禅寺」。
入口に看板があった。
当山は1381年(永徳元年)に開創される。山号を金剛山と号し、臨済宗に属する。後醍醐天皇の皇子無文元選を開山とし、雪峰禅師を中興とする。
中興より妙心寺派となる。
江戸時代、朝鮮通信使の正使服使従事上官等の休憩所に宛てられ、綺麗第一の名を得た。府中の臨済寺、興津の清見寺とともに駿河3刹と称せられている。寺内に今川家最後の勇将岡部正綱の墓、江戸後期の漢学者山梨稲川と儒医戸塚柳斎の碑などがある。
また、わらべ地蔵の庭としても知られている。
[伝馬町・宝泰寺]
門は普段は使われていない。
庭はきれいに整備されている。
[宝泰寺・客殿]
建物はさほど古くはないがビルの合間の落ち着いた空間。
[伝馬町・艾屋]
伝馬町通りへ戻り東へ。
伝馬町にはかつて老舗が多かったが今は世代交代されているが、数少ない昔ながらの商売をやっている。
今の時代に艾(もぐさ)屋で商売になるのか心配だが、続けていって欲しい気がする。
[鋳物師町]
今は無き旧の町名、鋳物師町を説明する碑が立っている。裏に説明があった。
東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代のはじめに鋳物師が住んでいたことに由来します。
「鋳物師町」の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目・日出町に分かれています。
[花陽院門前町]
今は無き旧の町名、花陽院門前町の説明の碑。
碑の裏に説明がある。
「此町は元横田の内にて、寺門前なるによって然唱(しかりととな)へ、寺に隷(つ)くなり」と江戸時代の地誌「駿河志料」に記されています。町は伝馬町と鋳物師町とに挟まれ、東海道に面し府中宿の一画を構成しています。
町名の華陽院は、明治5年(1692)「駿府数并家数人数覚帳」などによります。華陽院門前町は、明治5年誉田町と中八幡町となり、現在は伝馬町と鷹匠二丁目の一部となっています。
町名の由来となった玉桂山華陽院は、元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られています。
駿府ででの竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(家康公の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に名を改めました。華陽院には源応尼の墓と並んで家康の5女市姫の墓があります。
[伝馬町華陽院]
花陽院門前町の説明の碑のある路地を北に入るとすぐに保育園がある。浄土宗「玉桂山 華陽院 府中寺」に併設されている。
ちょっと入らせてもらうと華陽院の謂われの説明看板があった。
華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼(げんのうに)の菩提寺で、はじめ知源院(ちげんいん)と呼ばれていた。源応尼は、天文20年(1551年)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。
源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣り合ったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職・知短(ちたん)だった。
源応尼は永禄3年(1560年)5月6日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に引退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法要名から改められたものである。
[市姫墓]
市姫は家康の5女
境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の5女市姫の墓があり、近くには側室のお久の方の墓もある。
主な寺宝 団扇(家康が使ったもの)
ひな屏風(市姫が使ったもの)
[源応尼墓]
源応尼は家康の竹千代時代の養育者。
[華陽院お久の方墓]
徳川家康公の側室 お久の方の墓
他にもこんな人の墓がある。
御定番 松平右近信之の墓
御城代 安藤直之の墓
御城代 安藤出雲守 藤原広栄の墓
[華陽院掛軸]
寺の玄関に旧駿府の絵図が掛軸にして架かっていた。
僧正にに伺ったらコピーとのこと。
[久能街道]
久能山東照宮道。説明文を読む。
東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通じる久能街道はここから始まります。目の下に葵駿河湾、遠くに伊豆半島を見ることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには300年にわたる平和な江戸時代を開いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。
昭和20年代まで、この場所には「久能山東照宮道」と記した石碑がたっていました。
もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた静岡でもっとも古い街道の一つで、駿府の町に北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は。南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と東西から人や情報が流れ込んだ東海道が交差するところに発展したことになります。久能街道は、はるか昔から駿府を支えてきた大切な道でした。
久能街道へ向かうページへはこちらをクリック。
[つつじ通りの碑]
このつつじ通りは防火帯として作られた32m道路。
静岡環状線の一部となっている。
この碑はかつての市長「荻野」氏自筆で「和」と刻まれている。
[つつじ通り]
つつじの咲く時期にはピンクの帯ができる。
写真は秋なので紅葉している。
[西宮神社]
静岡にも西宮神社がある。本場西宮と同じえびすさんを祀ってある。
「おいべっさん」と呼ばれる。毎年10月19日と20日にはエビス講の縁日が行われ、「ご縁起」と呼ばれる祝鯛や千両箱、お福の面、小判などを吊るした飾りを買って帰る参拝者で賑わう。
[だるま屋]
西宮神社の前には縁起屋がある。
[伝馬町通り]
西宮神社とだるま屋前の伝馬町通り。
このあたりは横田町。『和名抄』に載っている「横田郷」が由来の町名。
律令制度の時代から駅として発展していた。
[猿屋町の由来]
この辺りはかつて猿屋町と呼ばれた。
町名は、猿引きの住む町であったことに由来します。
猿引きとは、正月に家々を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれます。
江戸時代の地誌「駿国雑志」には、この猿屋町の猿引きについて詳細な記述が見られます。それによれば、この地には、今川氏の時代から猿引きが住み、正月・5月・9月に駿府城内や城下の家々などに出向いて馬の病災除けや、子供の疱瘡除けを願い猿の舞を披露していました。猿は馬の守護神であるという古くからの信仰があり、そうした信仰に基づいて厩を回っていたようである。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の猿屋町の家数は6軒、人数は54人でした猿屋町は大正4年下横田町へ編入されました。
[伝馬町通り]
伝馬町通りはきよみずさん通りと出会い、真っ直ぐに進む。
この先150mで国道1号線に交差する。
このあたりから、かつては下横田と呼ばれていた場所だ。
清水寺へ向かうページへはこちらをクリック。
[伝馬町通り]
きよみずさん通りを越えた所で今来た道を振り返る。
江川町交差点から伝馬町通りを1km来たあたりだ。
[下横田・東見附]
国道を越えるとすぐにJR。
昔はここに踏切があり、下横田の踏切と呼ばれていた。
下横田には元禄年間に設けられた枡形もった東見附があった。今はどこにあったかわからないが駿府の町の入り口であった。
西見附は新通りにあったので府中宿は4km近い広さがあったことになる。
東見附は枡形で、構成する石垣は高さ2尺の土手の上に3尺の石垣を積み、その頂部は屋根形、底部の幅は9尺であった。
[下横田]
今の旧東海道はJRの下をくぐる。
この先の町々は静岡市に編入する前には豊田村南安東と呼ばれていた地域。
[豊原町]
JR在来線と新幹線の下を抜けると旧東海道は豊原町を通る。
通りぬけた所から府中宿方面を振り返って見る。
豊原町は豊田村の入口になる。豊田村に入る原っぱだったのだろうか。
[曲金]
JRのガード下を抜けてから100mほどの変則交差点を左側へ進み、また200mほど進んだ場所から東を臨む。
このあたりは曲金と呼ばれる町名だ。
ここから路地を南へ入ると軍神社がある。
曲金の町名の由来は2説あり、直角に曲った金尺のような区画された水田があったことから呼ばれるようになったという説と、『和名抄』にも載っている「真壁郷」がなまったともいわれている。付近一帯には奈良時代に区画した条里制の遺構がある。
[軍神社]
軍神社は楠の大木が数本。
数百年の樹齢がこの神社の古さを物語っている。
[軍神社]
楠は皆ありがたさを感じるほどの生命観に満ちている。
[軍神社]
さほど立派でもない神社がたたずんでいた。
祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、建御雷神とも表記する。
雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されている。
軍神社は日本武尊が東征の際に、戦勝を祈ったのがはじまりという伝説がある。律令時代に有渡郡の正倉と郡役所がこのあたりにあったといわれ、それを護る軍隊の軍神を祀ったともいわれている。
[軍神社]
意味がわからない記念碑が立っている。
この神社には謂われを書いた説明はどこにもなかった。
[法蔵寺]
曹洞宗「佛国山 法蔵禅寺」。本尊は聖観世音菩薩。
この寺には
法曹界の巨星 海野晋吉
文部省唱歌の「背くらべ」や「おもちゃのマーチ」の作詞家 海野 厚
などの墓がある。
[法蔵寺]
寺に入ると手入れがいきとどいた海野家の墓がある。
説明の看板があったので読んでみる。
<郷土の生んだ 法曹界の巨星 海野晋吉先生>
海野晋吉先生は、大正、昭和の歴史的な思想・政治裁判に登場し、戦後も世間の注目を浴びた数多くの事件(松川、砂川裁判等)の弁護に立ち、法曹人の使命たる正義と人権擁護を旗印にかかげて、終始一貫在野の法曹人として精魂を傾けられ、選ばれて「日本弁護士連合会長」「全国選挙管理委員長」をはじめ数々の要職について、多彩な活動をされた先生である。
片山哲元総理大臣は、石塔脇に自筆の墓誌を献じて、その功績を讃えている。
(中略)
先生は日頃「故郷忘じ難し」と申され、西豊田小学校時代に隣接の軍神社境内で遊んだ事や、静岡中学(現静岡高校)の頃、涼を求めて当寺の本堂脇の部屋で勉強した思い出を懐かしそうに話され、郷土曲金の地と人々をこよなく愛し、当寺の護持にも特に尽くされた暖かい人情をもった篤信の人で、わが郷土の生んだ偉人である。
[狐が崎地蔵尊]
地蔵さんの説明書き。
狐が崎とは、寺の正面に見える谷津山の南麓曲金1丁目地先のこと、谷津山の尾崎で突出しているので「狐の鼻」のような地形
往古「狐が崎の渡し」「梶原合戦古戦場」として史話に残っている。
此處(勝田医院前辺)は昔、東海道を往来して府中に出入りする山脚の要所で、京都の清水寺と永観堂(禅林寺)の地形と駿府音羽の清水寺とこの地と相似していることから名付けられたという「永観堂」という堂宇が建ち、地蔵尊が祀られていた。
[千日地蔵尊]
もうひとつの地蔵さんの説明書き。
今から凡そ300余年の昔、延宝4年(1676)のこと、この地方一帯に悪病流行して、多くの人々を苦しめた。
折しも、村内に信仰厚き者あり、わが身を犠牲にして、病に苦しめる人々を救わんとして、曲金5丁目地先(済生会病院跡)に丈余の穴を堀てその中に入り、読経祈願すること幾数日、村人達は竹筒を通して聞こえるお経の声と鐘の音に手を合わせ感謝するも、遂に2月15日正午、その声途絶えて入定された。
此の祈願と犠牲が佛天に通じ、一国七郡に蔓延した疫病悉く退散して、もとの平和な村にかえったので、村人たちはこの佛様の化身のような修験者の菩薩を弔うため堂宇を建立し地蔵尊を安置して、千日参詣の願をかけてお祀してそのご恩に報じたと伝えられてこれを「千日地蔵」といわれている。
[馬頭観音]
法蔵寺を出て西豊田小学校の外壁に沿って東へ向うとすぐの角に祠がある。
馬頭観音の説明書きが立っている。
<馬頭観音の由来>
古来ここ曲金、谷津山南麓の地を「狐ケ崎」と称し「古戦場」として知られている。正治2年(1200)梶原景時は、鎌倉幕府の御家人として、源頼朝の寵臣であったが、その薨後、同輩に妬まれて遂に幕府に追われ、一族33騎は上洛の途中、駿河の国吉田、的場(一説には興津清見関)まで来て近郊の武士団に露見して弓矢を射かけられた。
梶原主従は、ここ、狐ケ崎まで追い詰められ合戦川(今も春日町から曲金1丁目地先を流れる安倍川の支流)付近で返し合わせて大合戦を展開した。この戦いで敵矢に斃れた景時の「麿墨」をはじめ、一族郎党の愛馬を懇ろに葬るよう村人に頼み、反撃に転じて武士団を瀬名川、大内辺まで退却させたが新手が加わった為、遂に戦運利にあらずして力尽き、全員討死した。(今も大内の梶原堂に祀る)
村人達は、堂塔を建てて供養し、又諸願を叶えて下さる「願かけ馬頭観音」としても、近在の信仰を集めていると、村の古老達によって語り継がれて来た。
昭和51年10月 町内協賛者有志建之
昭和62年4月 由来看板再建選文 法蔵寺住職
同 施主 海野仏具店
[金地蔵]
馬頭観音から南へ400m行った所にお堂が建っていて脇に説明書きが立っている。
<「金地蔵」由来記>
今から凡そ300年程前「260年の天下泰平な世の中だ。」と言われた江戸時代。でも駿府に近い曲金の地にも、悪疫流行し、農民たちは土地の城代、町奉行、代官に依頼を重ねた。しかし防疫手段は後手後手になり一向に悪疫弱まらず、その上、延宝年間「1675年〜1676年」にかけては、コレラ病が蔓延し、農民たちは、「3日コロリ」と恐れその防疫に力を注ぐ。一方神仏に祈祷祈願を続ける。
1853年嘉永年間には、またまた天候不順、干魃に見舞われ、農民挙って雨乞いを続けるも、その効無く、作物の枯死は見るに絶えぬ程無残でした。
当時天災地変、災害の続く折りには、村の角地に地蔵尊を建立するならわしがあったと伝えられる。
曲金5丁目「蔵屋敷」の字名は遠い昔、奈良時代に「正倉」のあった地で、古い水田址には条理性の遺構が巡っており整然とした水田、農道が開かれ、農民に便利さを与えていた。
何時の頃からか、この農道の辻角に「金地蔵」が建立され、その脇地に庚申塔が建てられた。
収穫の秋たわわに実る稲穂、作物の災害から見舞われぬよう台風シーズンを前に7月24日を金地蔵の祭日とし、この日は朝から自分の水田から収穫した米で、だんごを作り、地蔵尊にお供えし、念仏を唱えて、夜更けるまで焚火を囲んで語りあかしたと云う。村民たちは、生活を脅かす災害退散を祈願し、精出して働く事は、家族の喜びであり、そして子どもを産み育てる事はやがて、悪魔退散させる事につながるのだという考え方が、生まれるようになった。
そして天地天変、悪疫流行もなく厳しい労働にも耐える健康な躰、黄金の波打つ稲田を見るにつけ、金地蔵尊の御守護を信じ、同時に健康な夫婦から生まれる子どもも、念ずれば丈夫で安産できると思うようになった。
戦前は、金地蔵尊の前に一本の線香と花を添えて祈る若夫婦の姿がよく見受けられたと古老たちは語ってくれた。
静岡市史編集専門委員 安本博 撰文
曲金5丁目町内会
それから現在に至るまで毎月24日を縁日として、老母たちが祠の美化、生花線香をあげて、ご詠歌を唱え、心の安らぎを語る憩いの祠ともなっている。
ご詠歌 ひとせきて ふたせにわかるる 金地蔵 おさんのひもを とくぞ うれしき
平成4年7月吉日 町内 山本きよ編纂
[曲金道標]
法蔵寺と軍神社に隣接して西豊田小学校があり、童謡「せいくらべ」の碑が立っているらしいが、不審者と間違えられると厭なので小学校へ入るのはやめて旧東海道に戻る。
しばらく行くと道標が立っていた。
[曲金]
道標から直ぐ先に「柚木の地下道」と交差する。
このあたりから旧東海道はふたたびJRと交差する。
[曲金]
JRに旧東海道は寸断されている。
この写真のあたりをJRの向こう側に見える谷津山方面へ向かっていたらしい。
やむを得ず「柚木の地下道」をくぐって旧東海道を探す。
[柚木]
地下道を抜けると国道1号線に出る。
出た辺りは柚木。東に進んだ信号の所が旧東海道との交差点。旧東海道がJRへぶつかる場所を確認する。
[柚木・国道]
JRで寸断された所から改めて旧東海道を進むことにする。
この先の信号で国道1号線を突っ切ることになる。
[相川鉄工]
国道1号線の信号を渡る手前の東側に相川鉄工がある。
懐かしい雰囲気を持った建物なので写真を撮らせてもらった。
平成21年中に取り壊すのだそうだ。
[柚木]
国道1号線を渡ってから振り返る。
[護国神社]
東へ進むと旧東海道は静岡鉄道の線路に沿って進む。
すぐ踏切があり、護国神社へ通じる。ちょっと寄り道をしてみる。
[護国神社]
護国神社の南の遺族会などが入っている「つつじ館」の前に軍刀を持った銅像が立っている。
「工学士 市川紀元二像」と書かれている。像の前に植栽の謂れが書かれた看板があった。
<植栽趣意>
過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和19年5月勇躍南方戦線に出陣した。
然るに戦局回天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った。
現在の平和な生活を感謝し、その志と事実を永く憶えんがため、桜の若樹を植え記念とする。
春ことに爛漫と咲きしって英魂を慰めよ
昭和52年8月14日 遺族代表 伊藤小夜
伊藤記隊付陸士第58期士官候補生一同
[護国神社]
「つつじ館」の前には歩兵第118聯隊の慰霊碑も建っている。
[護国神社]
市川紀元二像の前に立っている石碑「殉国碑」。
石碑の文と隣の由来碑を読む。
<殉国碑 泉第5316部隊之碑>
泉第5316部隊ハ關東軍ニ屬セル獨立混成旅團トシテ支那事變ノ拡大トトモニ熱河ヨリ中國ニ進出
長城線ヲ突破シ 昭和12年10月張家口ニ於テ第26師團獨立歩兵第13聯隊トシテ編成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年11月26日軍旗ヲ奉ズ
(以下省略)
<殉國碑の由来>
去る太平洋戰争において 主として本縣出身者により編成された泉第5316部隊(獨立歩兵第13聯隊)は 内蒙古(モンゴル)の厚和(綏遠すいえん)に在って幾多の作戰警備に任じ 昭和19年7月フィリッピンに轉戰した
途中 部隊の一部はバシー海峡において魚雷攻撃を受け軍旗とともに海歿
残る主力はレイテ島の決戰に臨み死闘すること半歳 矢盡き刀折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
遠い異境の地に飢えと疲勞に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠にこれを顕彰したい心が結集され 昭和33年2月泉五三一六會を結成し會員の一致協力により同年9月ここに念願の殉國碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている
[護国神社]
「つつじ館」の前には長島銀蔵翁の寿像と西村直己先生顕彰像と書かれた像も建っている。
[護国神社]
8月13日からは「万灯みたま祭」が催されていて社務所も賑やかだった。
[護国神社]
「万灯みたま祭」の時は本殿、境内の周辺に提灯が並ぶ。
[護国神社]
普段の護国神社は非常に静かだ。
歴史は古くないが広い境内に荘厳な雰囲気を持っている。
終戦記念日には慰霊祭が盛大に行われ、8月22日から3日間、万灯みたま祭がおこなわれている。
静岡県共祭招魂社が前身で北番町に跡地の碑が立っている。
明治のころに静岡県共祭招魂社として北番町に創設し、国のため殉じて靖国神社に祀られた静岡県下の英霊を分祀したが、第2次世界大戦時に現在地の柚木へ移転した。
また静岡護国神社と改称された。
[護国神社]
本殿広場の南には慰霊碑が立ち並ぶ。
「愛の灯」という従軍看護婦の像が建っている。碑文を読みます。
<碑文>
昭和12年以降の戦時事変等に際し赤十字の旗のもとに日本赤十字社静岡県支部救護員として応召し、国の内外において傷病者の救護に献身し、博愛と奉仕の使命に殉せられた方々の遺徳を偲び、その御霊のとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました。
平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつ愛の灯の偉大さをしのび、ふたたびこのような悲惨なことがないようにと念願し、これを後世に永く伝えようとするものであります。
昭和50年10月吉日建之 日本赤十字社静岡県支部長 山本敬三郎
日本赤十字社看護婦同人会静岡県支部長 小山シヅ
殉職救護員芳名 23名の氏名
[護国神社]
「鎮魂」「比島派遣 独立歩兵第164大隊 元独立守備歩兵第32大隊」と書かれた碑が建っている。碑文を読む。
<部隊の略歴>
昭和17年2月13日 比島派遣独立守備歩兵第32大隊は静岡歩兵第34連隊補充隊に於て編成完結総員762名
同年3月23日 第10独立守備隊隷下部隊として比島攻略戦参加のため宇品出帆
同年4月3日 フィリピンルソン島リンガエンに上陸
同年4月20日 フィリピン中部ビサヤ諸島攻略のためセブ島に上陸爾後セブ、ボホール、レイテ島の戡定作戦竝に警備
昭和18年5月18日 第11独立守備隊隷下部隊と警備を交代ミンダナオ島カガヤンに転進
同年6月24日 F作戦のためミサミス州に上陸爾後ミサミス、ザンボアンガ、ラナオ各州の戡定作戦竝に警備
同年11月16日 第10独立守備隊は軍令により独立混成第30旅団に改編 大隊は独立歩兵第164大隊に改編
昭和19年4月10日 大隊主力はミンダナオ島東海岸リアンガ地区の戡定作戦竝に警備
同年6月15日 独立混成第30旅団は軍令により第100師団(據兵団)に改編 大隊は第75旅団隷下となる
同年9月3日 大隊はミサミスよりパガデアン、コタバトを経てサランガニ湾ダジヤンガスに転進
同年10月5日 師団集結のためダバオ地区に転進師団左翼隊となりダバオ河左岸インダガン、イシン地区に配備
昭和20年4月17日 米第10軍団はミンダナオ島コタバトに上陸 4月30日第24師団を主力とする米軍はダバオに進攻 大隊はダバオ市街北方5粁バガカ高地前面に進出せる米軍橋頭堡陣地に対し攻撃を敢行
同年5月11日 師団命令によりダバオ河右岸に転進 ウラ、キヤンガビヤオ地区に布陣 爾後タクナン、ミンダル、リビーの米軍拠点に対し特攻隊攻撃を続行
同年5月31日 師団命令により1ヶ中隊を海軍第32根拠地司令部指揮下に配属するためダバオ河左岸インダガンに派遣
同年6月1日 米軍主力はウラ、ギヤンガビヤオ所在の大隊陣地に対し連日猛攻を加え来たり死闘を展開す。
6月18日に至りベリサリオ、ラソン、ゴマラン地区に於て同月24日よりタモガン草原にて戦闘を続行、爾後ヌガンウピヤン地区に至る
。
海軍部隊配属中隊は左岸転進以来インダガン、マンドック、ドミンガに於て戦闘を続行、爾後奥の森方面に至る。大隊は米軍来攻以来4ヶ月間に渉り千二百有余名の兵力をもってこれを迎撃、善戦敢闘するもその大部を失う。
同年9月4日 第百師団の投降命令が発令され大隊は9月19日タモンガン草原に於て米軍に降り戦争終結となる。
大隊編成以来比島各地に転戦し其の間戦没せる将兵は990有余名に及べり。
[護国神社]
「ノモンハン事件」「慰霊碑」と書かれた碑が建っている。碑文を読む。。
<慰霊碑の由来>
この碑はノモンハン事件に従事して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
ノモンハン事件は昭和14年5月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。
直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第23師団隷下の将兵であった。
この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入駆使しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。
特にノロ高地、バルシヤガル高地、フイ高地における悽惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであった。
同年9月16日停戦協定が成立したが、この間実に1万1千124名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極りないものがある。
ここに幾度かの死線を乗り越えて来た静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。
願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈念としたい。
幾久し悲願実りてこの聖地
今ここに建つノモンハンの碑
昭和54年9月16日建立
ノモンハン事件従軍生存者有志一同
献歌 中村双葉
揮毫 渡邊墨仙
[護国神社]
「鎮」という碑がある。由来を読む。
大東亜戦争厳烈なる昭和19年2月19日元満州遼陽に転変せる我が満州第574部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島大宮島(グアム島)に転達しましたが同年7月21日連隊長末永大佐以下最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。
又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多戦友の霊永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立しこの貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。
昭和51年10月吉日
慰霊碑建設世話人会
[護国神社]
「内匠部隊之碑」由来の碑を読む。
昭和17年3月20日内匠部隊長以下738名中部第36部隊にて編成
3月20日宇品出港バターン半島に直行攻撃参加
4月21日ミンダナオ島に転進、8月よりコタバト州警備戡定作戦参加
12月20日第3部隊より充員更に18・19年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力1800名となる
19年9月10日部隊は米機約70機によりコタバト地区で爆撃さる
数機をを撃墜し師団長より感状を受く
以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進
20年4月17日、米8軍コタバト地区に上陸
部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す
英霊千数百名ここに祀る
<由来>
終戦30年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可を得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ、月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す
昭和51年3月21日
コタバト静岡県人会
同 遺族会
[護国神社]
「あゝ拓魂」という比較的新しい碑。
民族の悲劇に散った 満洲開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
かつて日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕日の満洲に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命に痛恨の涙はつきない
日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にすることなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである
開拓精神は創造発展の真髄 真理探究の道である君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る
昭和49年4月23日
静岡県知事 竹山祐太郎
[護国神社]
本殿前の広場の西側に「平和への誓い」という記念碑が建っている。
終戦50周年を記念して建てたとのこと。
<終戦50周年平和祈念事業改修記念碑>
平和への誓い
平成7年4月 静岡県知事 石川嘉延 謹書
この霊域は明治維新以来太平洋戦争に至る間に国のために命を捧げたもの及び戦禍のために倒れた人々の霊を慰めその迷芳を後世に伝えるために県民の総意によって構想せられたものである。
ここに戦争によるあらゆる思出を収めこれに参するものに新らたな愛国の精神を振い起たせ平和日本興隆の象徴としたい念願である。
昭和27年11月3日 財団法人静霊奉賛会長 静岡県知事齊藤寿夫誌
[護国神社]
本殿前の広場を囲む林の切れ目から谷津山の頂上へ向かうハイキングコースの入り口になっている。
まるで「トトロの森」に入って行くような雰囲気がある。
ちょっと入ってみると泉が湧いていて保護している場所があった。
[谷津山浅間神社]
護国神社から南東方向へ静岡県自動車学校を右に見ながら400mほど行くと東海大学短期大学部が見える山際に小さな鳥居が立っている。
谷津山の頂上にある浅間神社への入り口だ。
[谷津山浅間神社]
ハイキングコースのような参道を進む。
約400段を越える階段を登ると頂上に到着する。
[谷津山浅間神社]
頂上にも鳥居が立っている。
神社といっても社殿は建っていない。
[古墳]
浅間神社のある場所は実は古墳なのだ。
北東方向に少し下りた所から全体を見てみる。自然の地形を生かした前方後円墳の円の部分。
谷津山古墳(柚木山神古墳・ゆのき)
静岡平野の中央に位置する標高108mの独立丘陵谷津山の山頂に築かれた「谷津山古墳」は、古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳です。
この古墳は、静岡清水平野の古墳の中で最も古く、かつ最大(全長約110m・高さ10m以上)で後円部の中央に披葬者を埋葬した竪穴式石室がヘギ石を積み重ねてつくられていました。
江戸時代の天保年間と明治時代に掘り起こされてしまい、その詳細は不明ですが、当時の様子を伝える記録から、大きな板石で覆われた長さ約3.5m竪穴式石室の中に、朱を塗った木棺が豊富な副葬品と共に納められていたことが推測できます。
銅鏡6面をはじめ、銅鏃・鉄鏃・剣などの武器それに紡錘車・巻軸形石製品・砥石・石製鏃・管玉など披葬者の社会的地位の高さを示す副葬品が出土していますが、残念ながらそれらの多くは散逸してしまいました。
古墳の形態・規模・副葬品の内容それに静岡清水の両平野を見渡すことができる立地条件から、谷津山古墳の披葬者は「旧事本紀」(平安時代に編纂されたとされる古代の史書)による廬原国(いほはらのくに・古代の駿河国の前身)の墳墓ということができます。
[古墳]
周りを見ると石垣が組まれた所もある。
南側の四阿の脇にも小さな円墳がある。説明はないが2号墳か?それならば前方後円墳なのだが?
尾根伝いに歩くと10分足らずで音羽町の清水寺から登った広場まで行ける。
清水寺へ向かうページへはこちらをクリック。
[長沼]
護国神社まで戻り、旧東海道は静岡鉄道の線路に沿って進む。
2006年に、長沼駅手前の線路の北側にバンダイのホビーセンターが建った。
静岡は模型の町なので進出してきた??
[長沼]
長沼駅には車庫があって古い車両も置いてある。
この辺は高い建物がないので、天気の良い日には富士山も見ることができる。
[長沼]
長沼駅を越えると急に車の通りも減って静かになる。
[久應院]
長沼駅から300mほどで曹洞宗「長沼山 久應院」という寺があり、その向いに一里塚があった。
[一里塚]
久應院前の民家のわきに一里塚の碑が立っていた。
[一里塚]
久應院前の民家のわきにあった一里塚の道標が無くなっていたので、どうしたかと探してみたら、長沼公民館の隣に移設されていました。
(H27)
[長沼]
旧東海道は再び国道に出会う。
[長沼]
今は旧東海道の正確な位置はわからない。
この後、古庄〜谷田へと続く。
−コメント−
府中宿の中心となる伝馬町から東国へ向う。
旧東海道はJR東海道線を南に渡り、また北へ渡る。
短い行程だが見どころは多い。
− 古庄〜谷田 −
旧東海道は古庄でJR東海道線に分断され迂回して駿河区へ入り、清水区の草薙に至る。
寄り道をせずに歩くと3km弱の行程と短いので有度山周辺の見どころを探索をしながら回ってみます。
全部回ると8kmくらいある。
[国道一号線・古庄]
国道一号線の真ん中から長沼を振り返ると国道の一部に無駄なスペースがある。旧東海道か?
ポケットパークにでも出来そうなスペースが未利用のまま残っている。
伝馬町〜長沼方面へ戻るページへはこちらをクリック。
[古庄]
古庄の旧道に入ったところから国道一号線の信号を振り返ってみる。
長沼から古庄の旧道へは斜めに国道が横切っている。旧道が国道1号線の下に200mくらい埋もれている。
[兎餅]
国道から入る所に兎餅の看板が立っている。看板にいわれが書いてある。
「兎餅」跡地
兎餅のいわれ 兎餅・・漉し餡が透けるほど薄い餅皮に包まれた大福餅で 中央に満月の焼印が押されていた。
「耳長ふ聞き伝え来し兎餅 月もよいからあがれ名物 蜀山人」
江戸、文化・文政期の狂歌師、大田蜀山人(1749-1823)の歌に詠まれた東海道名物 兎餅、かつて安倍川餅、追分羊羹とともに駿河3大名物といわれ1700年頃〜1964年迄 この古庄の地(長沼から古庄に入る旧東海道の入口)で商われておりました。
古庄自治会・静岡市観光課・兎餅元祖 吉田屋
兎餅は鷹匠2丁目の松木屋で今でも伝えられている。そのページへはこちらをクリック。
[古庄]
古庄を教える道しるべが立っていた。「府中から3.3q、宿境まで三十町」「江尻から6.1q、宿境まで一里十九町」と書いてあった。
旧東海道沿いにはこれと同じ形の道標がところどころに立っている。
古い荘園があったから古庄と呼ぶとも言われている。今は東海道線の北側なので旧千代田村に近いように思うが、昔は旧豊田村だったことから東海道線が通るまでは池田との関係が深かったと思われる。
岡部美濃入道常慶が古庄之池を掘って田にしたと伝えられている。
東海道の街道沿いにあったうさぎ餅が名物であった。江戸時代の狂歌師太田蜀山人は「耳長う聞き伝えこし兎餅つきもよいからあがれ名物」と詠んだ。大福餅の表面に満月形の焼印が押してあった。今では鷹匠の松木屋が当時を偲んで作っているようです。
[大谷川]
古庄の旧道は大谷川放水路を跨いで進む。
大谷川放水路は昭和49年の七夕豪雨後の治水対策で巴川の水が警戒水位を越えたときにバイパスして大谷川へ放水する。
放水路は国道1号やJRを横切って深い堀が築かれている。
[古庄の突当り]
古庄の旧道を行くと間もなくJR東海道線へ突き当る。
線路の敷設のために旧道が150mほど削除されている。
線路敷きは柵されていて入れない。
[地下道]
突き当りを線路沿いに200m進むと地下道の入口がある。
自動車がすれ違えない狭い地下道だが時々車が走っている。
ちょっと対向車にビビリながらJR東海道線の下をくぐる。
[地下道]
地下道を抜けると栗原へ出る。栗原側出口
JRはこの辺りは幅が広く100mほどの狭い地下道を抜ける。
栗原の町名の由来
旧東海道を東へ行くと、長沼の次にあったのが、栗原村であった。
有度山のふもとに、栗の林が広がっていたことが町名のいわれとの説がある。
[旧東海道記念碑]
石碑が立っているので内容を読んでみる。
東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。これは古来より主要街道の一つであり、府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で弥次郎兵衛、喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。
国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和37年国鉄操車場の建設により栗原の西側が分断され更に静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行われたことから栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。
その昔を偲び、なおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。
尚、この記念碑のみかげ石は静岡市追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので昭和初年の御用邸改修の折、栗原町内会が払下げを受けたものであります。
[突当り]
栗原側からJR線への突当りを振り返って見る。
旧東海道が途切れているのはさみしい気がします。
[草薙総合運動場前]
静岡鉄道の駅。
きれいに整備されている。
[草薙総合運動場前]
静岡鉄道の駅前を通り過ぎると20mほどで旧東海道は突当りとなる。
開発されていて旧東海道は痕跡も無くなってしまう。
つながる先を探してみようと思うが、この古庄から谷田までの行程は3kmもないほど短いので池田方面へ寄り道をしてみてから探す。
[草薙総合運動場]
運動場への道は整備されていて南幹線を地下道でくぐって渡る。
地下道を抜けると球場の前に出る。
《草薙総合運動場》
草薙総合運動場は県立の運動施設で野球場や陸上競技場や体育館やテニスコートやサッカー場などがある施設。
前身は静岡電気鉄道(現在の静岡鉄道)が昭和5年に完成させた旧野球場
昭和14年に野球場とその周辺の土地を県に寄付した。
昭和32年に静岡国体が開催される際、施設を拡充整備して総合運動場になった。
[草薙球場]
地下道を出た正面に野球場が建っている。
[草薙総合運動場]
運動場の敷地内でどこかの高校の体育大会か何かが開催されていて人が溢れていた。
八角の体育館もある。
[陸上競技場]
今は改修中となっていた。
[池田街道]
総合運動場を南側出口から出ると池田街道と呼ばれる道に出る。
南幹線が出来る前はこの道が静岡の駅南地区(現駿河区)と清水をつなぐ主要道路だった。
[円福寺]
総合運動場を出て200mほど池田街道を南に向かうと曹洞宗「聖色山 円福寺」がある。
寺は工事中で邪魔をしないようにそっと覗いた。
[円福寺]
寺の脇に謂われの看板が立っていた。
将軍堂内に屋根間口150cm・奥行130cm・高さ155cm位の逗子があります。その中に高さ40cm程の式服を着た座像が空間一杯に鎮座しています。祭神名は足利尊氏とその子竹若です。また「等持院殿仁山妙義大居士」と書かれた尊氏の戒名の位牌もあります。
本堂由来は昔(室町時代末期か江戸時代初期か不明)現将軍塚のところに在ったとされる霊光院が廃寺となり円福寺に合祀された時に遡ります。霊光院が廃寺になって境内に在った竹若堂も円福寺境内一隅に移築されたと思われます。しかしその堂も歳月と共に朽ちてきたので中に祀ってあった竹若騎馬像(将軍塚由来に記載)を本堂一隅に移し安置しました。そして時が過ぎ竹若騎馬像も傷みがひどくなったので当時の住僧がこれを憂い束帯を着けた父尊氏の像を作りその胎内に騎馬を取った竹若像を納めました。しかし伝来の遺産をこのままにしておけないと地元の寺尾某氏が発起人となり足利霊廟再建の資金集めを始めました。「足利霊廟建設寄付姓名簿」弘化3年(西暦1846年)6月の古文書が残っております。
<謂われは次につづく>
[円福寺]
<謂われのつづき>
再建は寄付名簿とは年月が空き安政5年(西暦1858年)と廟の棟札に記されています。その間に安政の大地震が起きましたので困難な事情があったと察せられます。藁葺きのお堂は幾度か葺き替えられたと思いますが昭和30年まで存在しました。
昭和30年、傷みの激しくなってきた建物を一間ほど西に移動し藁葺きを瓦葺きにするなどの大改修をして昭和30年11月2日落慶法要を営み現在に至っております。
尚、明治維新前は駿府より毎年目付役の巡視があったとのことです。
御詠歌
足利の 古し昔の偲ばれて
御霊をここに いつき祭らん 寺尾昌壽
[池田街道]
円福寺を出て直ぐの池田街道の信号機を左に向かうと日本平へ向かうパークウエイへとつづく。
そちらへ向かってみる。
[西峯田公園]
日本平へ続く道へ入り100m程の所に西峯田緑地と書かれた公園がある。
ここはかつて水が湧いていて池があった場所だ。次に寄ろうと思う池田神社の境内の一部だった。
池田という町名の由来なのだろうか。
[池田神社]
西峯田公園から100mほどの右手の小さな森が池田神社だ。
由緒が書かれていたので読む。
主祭神 事代主命
配 祀 須佐之男命、大己貴命、木花開耶姫命、大山祇命、武内宿弥命
由緒 池田神社は静岡市池田藤六坪1207番地に在って延喜式神名帳には駿河国有度郡池田神社と記されている。
有度郡三座の一にして神階帳には正五位池田天神と記されている。
創立年代は不詳であるが総国風土記に池田神社所祭事代主神也、大泊瀬若鷦鷯天皇(おおはつせのわかささぎ)(25代武烈天皇)乙卯6月祈雨祭之とある、今より1500年前のことである。
往時の神社地は8万平方米を所有せしという
<由緒はつづく>
[池田神社]
池田神社の御神木。
<由緒のつづき>
この境内に池があって祈雨の祭事を行ったという説があり、その池は現在の西峯田公園となっている。
又神社境内に古井戸あり後桜町天皇の明和年間(1764−1767)4ケ年に亘り当地方に大旱魃があって池田区内の井戸皆干上り飲料水欠乏の大苦難に陥った時があり、この時村民相集り神社境内に井戸を掘ったところ霊水滾々と湧出し村衆の生活を守ったという井戸の記録がある。
この井戸の深さ約3間、直径約4尺周囲石垣積みにして拝殿の北方約20mの所に位置する。昭和41年大慈悲院川の掘削工事に当り、その土砂堆積により現在埋没されている。
明治42年神饌幣帛料供進指定神社となる。
静岡県神社庁神社等級規定第十級社
例祭日 七月十五日 祇園祭
十月十七日 例祭
[池田神社]
池田神社の前に小さなお堂がある。
[本覚寺]
池田神社から南へ200mほど行くと本覚寺。
説明書きを読む。
本覚寺(青龍山本覚寺せいりゅうざんほんがくじ)
本覚寺は、日蓮聖人の直弟子、日位上人が鎌倉時代の延慶元年(1308)に創立した日蓮宗の寺で、市内でも有数の古刹である。その後、徳川の治世を迎えてからは、代々の将軍から幾たびか朱印状を受け、隆盛を極めるようになった。山内に八箇坊を有したこともあり、坊の名称も身延山の諸坊と同一のものが散見しているところから「駿河の身延」といわれていた。
広い境内には、鎌倉時代の本堂、金毘羅宮をはじめ、南北朝時代の本仏堂には、釈迦牟尼如来(春日の作)の本尊が祀られているほか、子育鬼子母神、十羅刹女、行学院日朝上人の木像が安置されている。
<説明書きはつづく>
[本覚寺]
<説明書きのつづき>
また、墓地には、高天神城々主岡部丹波(今川氏の武将。桶狭間敗戦時に鳴海城を守って降らず、義元の首を駿府に持ち帰る。のち武田氏に仕えて、高天神城を死守)武者奉行孕石主水(今川氏重臣。のち、氏真の代に主家を去り、武田氏に仕えて、高天神城を死守)、侠客で名高い安東の文吉などの墓がある。
なお、元首相、石橋湛山は、実父杉田日布上人が明治後半から大正にかけて約30年間当時で住職をしていたため、この寺で青年時代を過ごしている。
[本覚寺]
立派な釣鐘堂。
[本覚寺]
日蓮大聖人御尊像。看板を読む。
この銅像は、日蓮大上人が初めて南無妙法蓮華経のお題目唱えられた時のお姿で、「立教開宗の日蓮大聖人」です。
時は建長5年(1253)4月28日の早朝でした。場所(ところ)は、千葉県の千光山清澄寺の旭ケ森でした。
太平洋からさし登る朝日に向かって、力強く、南無妙法蓮華経、と声高らかに唱えられ、法華経を広める宣言をされました。
時に大聖人は御年32歳でした。
[本覚寺]
本堂。
[本覚寺]
お堂が立っている。
本仏堂は南北朝時代(1336〜92)、金毘羅堂は鎌倉時代(1185〜1333)の建築で、位牌堂は明治4年(1871)に久能山東照宮の護摩堂を移築したものとされているがどれがその建物かがわからなかった。
[本覚寺]
蔵?
[本覚寺]
この寺には大樹が多く生えている。一番古い樟に説明書きがある。
樹高 35・00メートル
目通り周囲 7.00メートル
枝張 35・00メートル
このクスノキは、本覚寺創建当時(1308)からあったといわれているもので、クスノキに見る美しい樹形を呈し、巨樹として知られている。
クスノキは暖地に多く自生する常緑樹である。材は堅く、香気があり、建築材・楽器材・彫刻材などに使われており、また材から樟脳が採れる。
[日本平動物園]
本覚寺を出て、池田神社まで戻り日本平方面に向かい東名高速道路をくぐると直ぐに動物園がある。
[エンバーソン邸]
動物園の南側の道路を進むと動物園の裏側に旧エンバーソン邸がある。
ここは、明治37年(1904)にカナダ人宣教師ロバートエンバーソン氏の自邸として、静岡市葵区西草深の静岡英和学院の近くに建てられました。
その後、静岡市に寄贈され移築保存されたと看板に書かれていました。
[エンバーソン邸]
看板を読んでみます。
旧エンバーソン邸は、カナダから来静したキリスト教宣教師ロバート・エンバーソン氏の自邸として、明治37年(1904)に建てられました。かつては静岡市西草深町に位置していましたが、この建物は、エンバーソン師の帰国後も代々の宣教師や牧師の住まいとしてその役目を果たしてきましたが、昭和62年(1987年)に静岡市は当時の所有者であった日本基督教団静岡教会より寄贈を受け、現在の場所に移築・復元しました。
建物は、木造2階建て・寄棟造瓦葺で、1階にはテラス、2階には玄関に突き出したバルコニーやサンルームが配され、屋根の一部には屋根窓が、また、室内の中央部には暖炉が設けられるなど典型的な明治時代の西洋館様式をなしています。
創建当時は、洋風フェンスに囲まれた敷地内にテニスコート(一面)やキリスト教学生会寄宿舎などが併設された別棟を伴っていました。
昭和33年(1958年)には敷地内に教会が建設されることになり、建物が約15m曳家されました。その時の移動に伴い、和室や食器庫などに使用された別棟の解体や食堂の脇部分を中心とした改築がなされましたが、母屋については創設当時の形状をそのまま現在に伝えています。
明治43年(1910)にロバート・エンバーソン氏が帰国した後も、建物は教会関係者によってその形状を崩すことなく受け継がれ、また、幸いにも戦災による焼失からも逃れることができました。このように、時代の様々な変遷を乗り越えて現在に伝えられた旧エンバーソン邸は、静岡市内に現存する数少ない明治時代の西洋建築物として、また、静岡県内に唯一残る外国人宣教師の住宅として貴重な建築物となっています。
建物の概要
創建当時の所在地 静岡市西草深町15番地の1
用 途 住宅
構 造 木造2階建・寄棟造日本瓦葺
面積
建築面積 創建時185.26u 復元時142.97u
1階床面積 創建時162.12u 復元時119.83u
2階床面積 創建時125.84u 復元時125.84u
延床面積 創建時287.96u 復元時245.67u
[聖一色浅間神社]
エンバーソン邸を出て池田神社方面へ戻り、東名をくぐり100mくらい下った交差点を北側に曲がり200mほどの西側に木が生い茂った場所が浅間神社だ。
静岡市には浅間神社が多く10ヶ所以上ある。その一つだ。
[聖一色浅間神社]
境内には大木があって説明があった。
浅間神社くろがねもち
目通り 3.86メートル
樹高 28・60メートル
枝張り 東西 17・45メートル
東西 23・70メートル
推定樹齢 約350年
(寿命400〜500年)
所有者 浅間神社 代表 川口新一
[聖一色浅間神社]
静かな林に囲まれている。
<聖一色の町名の由来>
荘園時代に年貢などの租税を一種類だけを領主に納め、他は免除される土地を「一色田」と言ったらしいがここが一色だった。
「聖」は「ヒジリ」と発音する。かつて「樋地祗(ひじし)神社」という神社が謂れなのではないかともいわれているが定かではない。
[広野神社]
聖一色浅間神社を出て北上すると500mほどで東名高速の側道となり、もうしばらく行った信号を西に曲った所に神社がある。
広野神社だ。看板の説明看板が立っていた。
神社誌 静岡市国吉田五丁目14−10 神社名 廣野神社 神紋 三つ巴
祭神 本殿 速須佐之男命
天王社 八幡大神 天下泰平 天王大神 国土安栄
八幡社 豊受大神 五穀成就 久久能遅命萬民受楽
樟の木 樹齢490年(推定)広野神社境内に室町時代の大永年間中期から村の鎮守の森全体に芳香を放ち何回ともなく落雷を受けた傷跡を残し拝殿を抱くように両側にそびえ立つ二本の樟の木(樟脳のとれる)(いいにおいのする常緑樹)は神社境内を訪れる参拝者の脳裏からきえさる事はないでしょう。
郷土の記念物として、いついつまでも命数を重ねて欲しいと願っています。天照大神の弟の速須佐之男命がこの広野神社の祭神です。
全国の神社八万社の中から代表的神社六千社を選び出した神社名鑑に郷土広野神社が掲載されている。
[広野神社]
拝殿の両側にそびえ立つ樟の木。
この神社と桃源寺に関わる伝説がある。
昔、この広野神社のそばに「天狗の松」という大きな松ノ木があって天狗が住んでいた。
桃源寺がこの広野神社より高いところにあることをねたんで寺がが山門を造るたびに壊したことから桃源寺には山門が無いのだそうだ。
[桃源寺]
広野神社の伝説にある曹洞宗「吉田山 桃源寺」へ行ってみる。
東名脇の信号まで戻り、そのまま東名をくぐるように直進。東豊田中学校と桃源台小学校を通り過ぎると桃源寺がある。
伝説のとおり山門は無い。
[桃源寺]
良く手入れの行き届いた寺だ。
この後は、先ほど静岡鉄道の「草薙総合運動場前」の先で無くなってしまった旧東海道の続きを探して清水方面へ進んでみる。
[国吉田]
広野神社まで坂を下り、草薙総合運動場から続く道路と交差する信号があるが、開発されて間もない道路のようだ。
もう少し坂を下ると100mほどで信号があって、開発整備される以前からあったような道路と交差する。ここが旧東海道かな。
このあたりは府中宿と江尻宿の中間の、「間の宿」だった。
間の宿は、宿泊は禁じられていて食事をとったりする休憩所だ。
隣接する中吉田とともに、平沢から流れる吉田川の流域であったことから付いた町名なのだろう。
[谷田]
東名高速道路の下をくぐると旧東海道だったと思える雰囲気の道になった。
地名は谷田になる。
谷田は有度山麓から流れる吉田川の水を利用して、谷に田が開かれていった土地だったんだろうか。
今ではこの地区には住宅の合間に畑が見られる程度の農地があるだけだ。
[津島神社]
街道を左に入り100m先の南幹線を越えて直ぐに神社がある。
社脇に由緒が書かれた石碑があったので読んでみます。
[津島神社]
津島神社の裏口の脇にやぶきた茶のいわれが書かれた石碑があったので読んでみます。
<やぶきた88年の記録誌>
[東光寺]
街道へ戻り東へ進むと、右手に東光寺がある。ここは清水区の谷田。区が変わっても町名は一緒なのだ?
急いで通ると見逃しそうな寺です。
説明看板があったので読んでみます。
「葦葉達磨大師像」について
ダルマ様は、今から約1500年前、インドの香至国の王子として生まれました。
60歳で中国に渡り、少林寺で壁に向かって9年間座禅を続け「禅」を中国に広めました。その教えが後に日本に伝わり、曹洞宗・臨済宗・黄檗宗となりました。
従ってこれら禅宗のお寺では、本尊様の左隣に達磨大師様をお祀りしています。
現在、私たちが普段見かける赤くて丸い「だるま」に代表されるように、ダルマ像は、座禅している姿をあらわした座像が一般的です。東光寺にこのたび建立された「葦葉達磨大師像」は、ダルマ像としては大変めずらしい立像です。
酒の入ったヒョウタンを杖の先に引っかけ、片手に鞋(アイ・わらの靴)を持った、人間味あふれるお姿をしています。足元は、ダルマ様が中国の揚子江葦の葉っぱに乗って横切った、という言い伝えをもとに、葦の葉と揚子江の波が表現されています。
ダルマ様の教えとして有名なエピソードを一つ紹介します。
※ エピソードは、次の達磨立像の枠に続く。
[東光寺]
東光寺の門前に達磨の立像があった。
この寺の座禅会の看板が立っているので読んでみる。
※ 達磨様のエピソード。
ダルマ様が座禅をしている最中、慧可(えか)という人が訪ねてきました。
達磨「あなたは私に一体何を求めているのですか。」
慧可「私の心の不安を取り除いてください。」
達磨「わかりました。ではその不安な心を持ってきなさい。そうしたら心を安らかにしてあげます。」
慧可「どうにかして心を持ってこようとしましたができません!」
達磨「これであなたの心を安らかにすることができました。」
ダルマ様は姿や形がありもしない「心」にこだわってとらわれているから、不安になったり悩んだりするのだ、だからこだわるなと教えたのです。このダルマ様の一言で慧可は悩み続けた心の闇が切り開かれ、ダルマ様の弟子になりました。
禅を中国に伝えた当時のお姿をあらわした「葦葉達磨大師像」に手を合わせ、葦の葉にさわって御利益をお受けください。
[館跡]
東光寺から2km有度山方面へ上ったところにある平沢寺まで行ってみる。
旧東海道と思われる道を東光寺から50mほど戻った交差点を有度山方面へ向かって緩やかな坂を登っていく。
300mほど上ったあたりに、鎌倉時代か戦国時代の地方武士の屋敷があったとのことで遺構でも見つからないかと探してみる。
このあたりには段差が多くどこを見ても遺構に見えてしまう。
[館跡]
このあたりは段状態に農地が整備されている場所が多いので館跡なのか農地整備の跡なのかはわからない。
地元の農家の人に聞いてみたが「子供の頃、この近くに池のようなものがあった」とのことだが、堀の跡だったのだろうか。
[山の神]
東光寺から2km有度山方面へ上ったところにある平沢寺まで行ってみる。
旧東海道と思われる道を東光寺から50mほど戻った交差点を有度山方面へ向かって800mほど緩やかな坂を登っていくと道路脇に山の神の看板と鳥居が立っている。
現在山の神様を祀ってあります山は、大昔から誰ゆうとなく山の神さん、山の神さんと呼んでおりました。
この山にのぼり、木を伐り土をとった者は必ずといってよいほど1、2年のうちに亡くなってしまいました。
又ある年は、村中の人達が難病にかかって困ったことがあり、あまり不思議なのでこの山に入り探求したところ、その年この山の松の大木を伐って吉田川のイセギに使用したことがわかりました。
そこで当時の世話役の人達が生繁った笹藪を切りわけてみますと、その中から2体の石のホコラが出て来たので、早速、ヤライを造って祀ってあげましたところ、その後木を伐っても、土をとっても何のタタリも無くなりました。
それ以来ささやかなお堂をたてて左記の祭神を合祀し、年に一度の大祭を行っておりますが、今は善男善女のご参詣がたえません。
谷田山神奉賛会
祭神 大山祇神(おおやますみのかみ)
大祭日 毎年4月吉日
[山の神]
階段を登ると林の中に社が建っている。
[平沢寺]
山の神を過ぎてまた1kmほど行くと真言宗智山派「布袋山 自在院 平沢寺」がある。
当日は本堂の落成式をやっていたので人や車が溢れていて、普段は人陰少ない場所なのに雰囲気が違っていた。
[平沢寺]
本堂の手前の山門。山門脇に説明書きがあったので読んでみる。
平沢寺(へいたくじ)は、和銅年間に法相宗の高僧、行基上人が諸国行脚(710〜713)の途中、この地に立寄り、地蔵尊を彫刻して草堂を建て安置したことに始まるという。
養老2年(718)、元正天皇の18歳になる皇子の病気平癒祈願が行われ、行基上人は再度駿河国を訪れた。行基上人は高さ50m、直径24mのクスの木を伐り、7体の観世音像を刻み、21日間、皇子の病気回復を祈願したところ、不思議なことに皇子の病気は快方に向かい治ったといわれる。行基上人は7体の観世音像のうち最初の一体を当寺に、続いて順次、駿河国安倍郡の6つの寺に一体ずつ安置した。この7体の観世音像の安置されているところが「安倍七観音の霊場」といわれている。
寿永2年(1183)野火が元で山火事となり観音堂・鐘楼・山門等の七堂伽藍を焼失したが、幸い当寺の本尊である千手観音菩薩と延命地蔵尊はともに無事であった。その後、今川泰範の頃、星明坊良盛という名僧が当寺の住職となってから参詣者も増え隆盛となったといわれている。守護大名今川義元もこの観音を信仰し、参詣の際に休息する仮殿(殿屋敷)を造ったほど信仰が厚かった。
また、毎年2月の節分と7年に一度(4月中旬)の観音御開帳には、多くの参詣者でにぎわう。
[平沢寺]
山門には仁王像がにらみを利かせている。
阿吽の呼吸で寺を守っている。
[平沢寺]
山門の横に平澤神社が建っていて、脇に地蔵尊のエピソードが書かれている。
この地の地蔵尊の御由来は、過ぐる昭和60年1月吉日、当山壇信徒御一同の御協力を得て、山内に鐘桜再建計画の際、境内観音堂床下より数個の御仏像片が発見されたことに依るものであります。
当時、関係者一同これも尊き御佛縁かと、相計り、この御佛片をもって富山県高岡市在住・佛師本江忠司氏の手をわずらわし、一体の地蔵尊を鋳造いたしました。
その後、完成の地蔵尊を当山に運搬の途次(昭和61年正月)名神高速道路の関ケ原附近路上において交通事故に遭遇、転倒した車は数回転の末、殆ど原形を止めぬ程に大破いたしましたが、車中の地蔵尊は、あたかも運転中の本江氏の背後に庇護するかの如く寄り添いある為、氏はいささかの怪我もなく、事無きを得たのであります。
これはまさに奇跡ともいうべき事実として現場検証の警官も、ただ感銘するのみであったと申します。
更にこの地蔵尊は本江氏の要望もあり、氏の宅前に安置されておりましたが、地蔵尊の御温容にうたれた近在の老人が杖にすがりつつ毎朝参拝を続け、永年の持病である中風が僅か3ヶ月余りにして全く快癒したというのであります。
ここに、かくも当山に御佛縁深く霊験あらたかな「平沢身替り地蔵尊」を勧請安置し、当山御参詣の皆様の御多祥と無病息災を説に記念するものであります。
[平沢寺]
地蔵尊はどこにあるのかわからなかった。
社の中は何の神様かわからないが祀られている。
神社の向かえには布袋様?恵比寿さま?大黒さま?が祀られている。ここが「布袋山自在院平澤寺」というので布袋さまなのだろうか。
[平沢寺]
急な階段を登ると観音堂が建っている。
[平沢寺]
観音堂の隙間から中を覗くと千手観音の写真が見える。
暗いので何が祀られているのか良くわからない。
[平沢・観音]
上のお堂の裏手に最近建てられたとみられる石造りの観音様が立っていた。
いろいろ知りたいこともあったが大勢の人は皆式典に参列していて、雇われの警備員はこの寺の知識は無い人でした。
また、旧東海道まで戻る。
[熊野三柱神社]
平沢から戻って東海道へ戻るちょっと手前の信号の所に熊野三柱神社がある。
この神社には3方向に鳥居がある。
[熊野三柱神社]
コンクリート造りの神社と稲荷神社が建っている。
[谷田1号墳]
熊野三柱神社の南側にゲートボール場とこんもりした小山がある。
このあたりには古墳が多い。看板を読んでみる。
谷田1号墳は宮ノ後古墳とも、いわれている古墳で6世紀の後半に築造されました。全体では、50基以上にものぼる谷田古墳群の中のひとつです。
この古墳には横穴式石室と呼ばれる石を積んだ室があり、ここに死者を葬るようになっています。
横穴式石室からは、直刀、須恵器(坏・堤瓶)土師器などの副葬品が出土しました。
[谷田1号墳・谷田52号墳]
このあたりにはここの他にも古墳が多い。周りには文化施設も多く、巡りながら探索してみる。
[谷田53号墳]
谷田1号墳の隣にある。
[谷田17号墳]
谷田1号墳から200mほど坂を上った林の中に谷田17号墳がある。
谷田古墳群の1基で、丘陵の端に位置し詳細な調査は実施されていませんが、墳丘(径約3m)を良好にとどめる古墳時代終わり頃の円墳です。
[やぶきた茶の原種]
静岡県指定天然記念物「茶樹やぶきた母樹」解説。
この木は、茶の優良品種である「やぶきた」の母樹です。
「やぶきた」は安政4年7月ここ有度村に生まれた故杉山彦三郎翁が選んだもので、収葉量と製茶品質は最もすぐれ、その名は全国的に有名です。翁はその一生を茶の品種改良に捧げ、全国の茶生産地を踏査して良樹の選定につとめ、幾種もの優良種の選抜に成功しました。
この母樹は、たまたま竹やぶの北側にあったので「やぶきた」と命名されたものです。現在各地の茶生産地には、この木の分身が植付けられ、わが国茶業の発展に寄与しています。そして、昭和38年4月30日県の天然記念物に指定され、県文化センターの建設にあたり「やぶきた」母樹の所有者である杉山彦三郎翁顕彰会から県に寄贈されました。
このため「やぶきた」母樹誕生の地と、翁の栄誉を永久にたたえるため、静岡市谷田159番地からこの地に移植しました。
[文化センター]
この辺り一帯は広々した公園状の植栽の中に県の文化施設が立ち並んでいる。
散歩するには絶好の地域だ。
[図書館]
県立図書館がある。
環境の良い所にあって学習しやすいが、交通の便が悪いのが難点。ついでに寄れるような場所ではない。
[美術館]
この日は県立美術館は閉館日だった。
[ロダン館]
県立美術館の山側にはロダンの彫刻などを多数展示しているロダン館が建っている。
美術館と2階でつながっている。
[谷田54号墳]
ロダン館の裏山の遊歩道を登るとすぐに古墳がある。
最初は見逃して登りすぎた所に県立大学の薬草園があって散歩する老人に古墳の在りかを問うと案内してくれた。
谷田地区には6世紀代から8世紀初め(約1500〜1300年前)にかけて多数のの古墳が造られました。特に、西側から南側にかけての斜面には、小さな古墳が密集しています。
谷田54・55・56号墳は、美術館周辺の環境整備事業に伴う調査によって新たに発見されたものです。墳丘はほとんど削り取られていましたが、遺体を埋葬するための石室(横穴式石室)や墳丘を取り囲む周溝が確認され、7世紀後半から8世紀初めに造られた円墳であることがわかりました。律令体制に組み込まれていく地域社会の様子を知る重要な資料であることから、墳丘を復元して古墳の位置を明示することとしました。
[谷田55号墳]
古墳の向こうにロダン館の屋根が見える。
ロダン館の直ぐ裏でした。
[文化センター脇の碑]
文化センターの公園と県立大学の間に石碑が建っていた。
何だかわからないがとりあえず写真を撮ってみました。
[静岡県立大学]
日本平の景勝地に似あわない学舎が建っているが学生が多く活気がある。
以前は女子大だったが、静岡薬科大学などと合体して共学になったが、女性が多い。
同じ有度山の大谷地区にある静岡大学に比べてお洒落な学生が多く思う。
[谷田瓢箪塚古墳]
県立大学から200mほど下ると公園の中に古墳がある。
谷田には古墳が数多く残っているがここが一番大きい。
瓢箪塚古墳
遺跡名称 西ノ原一号墳(前方後円墳)
所在地 清水市草薙字西ノ原31番地
大きさ 直径21.8m(円墳)、幅9.0m〜11.5m(方墳)、全長40m
この古墳の築造年代は、およそ6世紀初頭古墳時代の後期と推定されています。昭和52年調査の結果周溝の存在も確認され全体の保存状態極めて良好な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代盧原国(いをはらのくに)と云われ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土地の人々と戦った事が古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫、意加部彦(おかべひこ)がイオハラ国の国造(くにのみやつこ)となりこの地方を支配したと言われております。
それよりずっと下って西暦663年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り、唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります。この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。
なお、この付近には、古墳が点在しておりましたが畑地・宅地の開発が進み現在は道を隔てた北東側に一ケ所を残すのみとなっております。貴重な遺跡の保存に皆様方のご協力を戴ければ幸いです。
[谷田瓢箪塚古墳]
この古墳から200mほど坂を下ると旧東海道に交差するが、街道から離れた東光寺の旧東海道の所まで600mほど戻って次に進むことにする。
[美術館通り]
熊野三柱神社の前は美術館通りと言う。
並木道になって芸術が好まれる地にふさわしい雰囲気がある。
この坂を上って行くと先ほど巡って来た美術館や図書館がある。
[谷田]
美術館通りを横切る辺りは清水の谷田。
谷田という町名は静岡と清水に同じ名前の町名があって、東海道はそこを通って行く。
[中之郷・谷田]
中之郷と谷田の間に街道が通っている。
かつてのメインストリートだったのだろう。正面に富士が見える。
旧東海道は正面に富士が見えるように意識して通したと思われる場所が所々で見られる。
[草薙]
清水区に入ると草薙と町名を変える。
道は直進できないようになっている。
草薙〜入江方面へ進むページへはこちらをクリック。
−コメント−
旧東海道はJR東海道線を縫うように通っている。
古庄から草薙までの短い行程でしたが寄り道が多いので。
旧東海道の距離の割に距離が長かった。
− 草薙〜入江の稚児橋 −
ヤマトタケル伝説から名が付いた草薙から次郎長というやくざで有名な清水湊へ向う。
寄り道をせずに旧東海道を行くと4km余りの行程。
[草薙の旧東海道]
清水区に入るが谷田という地名は両区にまたがっている。旧東海道は谷田と中之郷の間をしばらく進み草薙となる。
正面に富士画見える。写真ではよくわからないが見えている。昔は富士を見ながら江戸に向ったんだろう。
古庄方面へ戻るページへはこちらをクリック。
[草薙旧道]
今は旧東海道が裏道となっていることから真っ直ぐに進めないで突き当たったりしている。
[草薙]
ちょっと迂回して直進すると街道は小さな橋を渡る。
[草薙神社鳥居前]
旧道がどこなのか分からなくなるので南幹線へ出る。草薙神社の鳥居前まで来ると東海道の看板が立っている。
このあたりからは南幹線が旧東海道になるらしい。
実際の道は部分的には南側にずれていたのかもしれない。ここだったのでは?と思わせる路地もあるがよくわからない。
[草薙鳥居]
先へ進む前に、南幹線の石鳥居から800mほど奥の草薙神社へ寄ってみる。
ゆるい坂が続く。
[草薙神社]
こんもりとした緑の中の草薙神社。入口の脇に謂れが書いてありました。
式内延喜式
草薙神社由緒
1 御祭神 大和武尊
1 御創建 景行天皇53年
1 例祭日 9月20日
景行天皇第2皇子の日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が起り、長け尊を殺そうとして原野に火を放った。
尊は佩用(はんよう)の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を降り草を薙ぎ払い火を逆賊の方へなびかせ、尊は無事に難をのがれた地を草薙という。
その後、佩用されていた天叢雲(あめのむらくも)の剣を草薙の剣と名称を変更になり草薙神社に神剣として奉られる。今より1860余年前である。
[草薙神社]
日本武尊像。
こんな人だったんだろうか?
[草薙神社]
入口の脇に井戸があったが謂われはよくわからない。
昔はここで清めたのだろうか?
[草薙神社]
御神木。
幹が空洞になってしまっているが、根性で生きている姿が力強い。
いつまでも生きていてほしいと応援したくなる。
樹名 大楠
樹齢 1000余年
樹高 15m余
周囲 20m余
この大楠は樹心は朽ちて外皮を残すのみといえども
今尚枝葉は繁茂し御神木の威厳を保っている。
昭和37年9月17日清水市指定文化財の天然記念物に指定された。
[草薙神社]
神門。
門の裏には古い流星が保存されている。
[草薙神社]
神門には神将が見張っている。
[草薙神社]
本宮。
生垣の脇に錆びた看板がありました。
草薙神社は日本武尊を御祠りしております。今より凡そ1860余年前に第12代景行天皇第2皇子として御生まれになりました。
勇猛果敢の御性格にして天皇の信頼厚く天皇の命により各地の賊を平らげて参りました。
当地に於かれましても賊と戦い、野火によって正に一命も危うくなりました時、尊が帯刀しておりました天叢雲剣を抜いて薙払いついに賊を平らげました。
[草薙神社]
神楽殿
龍勢の竿がくくりつけられている。
[草薙神社]
龍勢の説明ディスプレー。
この建物の中に龍勢の道具が揃っているのでしょうか。
<無形民俗文化財 龍勢(流星)煙火について>
文化財保護法により昭和59年3月16日付
静岡県選択 無形民俗文化財
保護団体 草薙神社龍勢保存会
龍勢(流星)煙火の由来
戦国時代の天文12年(西暦1542年)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。
「昼のろし」(龍勢)は煙や布切れ又は旗などを漂わせて「夜のろし」(流星)は光で合図しあうものであった。駿府城と久能山東照宮の守りとして、この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれてきて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋季例大祭日(9月20日)に打ち上げがおこなわれ現代に伝わっています。
龍勢(流星)煙火の仕組み
この龍勢(流星)は「のろし」に始まったと言われます。約15mもある尾竹竿に、ロケット式火薬噴射竹筒を結びつけ、その上端部に各種の変化花火を仕込んである仕掛け筒を固着した構造です。
発射ヤグラに掛けロケット式火薬噴射筒に点火、火薬の燃焼ガスの大音響とともに、自力により上昇展開する仕組みになっている。龍勢花火の製作・打上げは保存会員より実行される。
草薙神社龍勢保存会。有度まちづくり推進委員会
[首塚稲荷]
草薙神社から街道へ戻る途中から東側の坂を登り、清水有度第2小学校からさらに100mほど登った所に首塚稲荷神社がある。
[首塚稲荷]
看板に由緒が書いてありました。
首塚稲荷神社
所在地・草薙字東山1124番地
祭神・宇迦之御魂 創建・不詳
首塚稲荷神社の由緒に、三ツの言い伝えが有る。
1.草薙神社攝社にて草薙神社略記に。日本武尊東征のみぎり、此の地において地方部族と戦った時の戦死者の首を埋め、塚を作ったと伝えられている。
また北側の谷を流れる小川を血流川と呼ばれている。
2.景山景時が吉川氏に討たれ、大内山にて戦死を遂げた時、乗馬「磨墨(するすみ)」の首を刎ねたところ大内山より飛んでこの地に落ちたという。
名馬を称える伝説がある。
3.今川氏が駿河に栄えた時代の事。
(今川氏親の時代)文明8年(1476)氏親の父7代「義忠」の急死により、世継ぎ問題が起こり氏親(幼名竜王丸)派と小鹿範満(従兄弟)派に分かれて反目した、小鹿氏を支持した有度山東麓の矢部一族は、此の付近にて戦い小鹿氏と共に敗れ去る。後年その時の戦死者の遺骨が散乱し畑地耕作に事欠く始末であったため、村人の手により遺骨を集めて弔った。この付近には、野狐が多く出没したので、稲荷神社を建て祀ったと伝えられている。
[草薙神社参道]
街道へ戻るために坂を下る。
清水有度第2小学校や清水第7中学校を通り過ぎ、街道へ出る直前に看板が立っていて草薙神社参道の事が書かれていた。
此の絵図にある鳥居は石鳥居で2か所有り東は一里山新田と草薙村の境にあり、西は草薙村と谷田村の境の2か所ありました。東の鳥居は寛政7年9月吉日(1795)西の鳥居は寛政5年9月吉日(1793)・神主森主計宗芳の時、近郷、近在の氏子の寄進によって建てられたが、現在は移転して草薙神社境内にあり。
又此の道は、草薙神社への参道で、東参道の両側に杉並木があったので、現在も草薙杉道の字名が残っている。
駿国雑誌に左記の記録あり(東参道鳥居付近)
「お茶小屋と釜の段」有度一里山新田にあり村の西はずれ南側の石鳥居は、式内草薙神社への道筋で「お茶小屋」という所あり寛永年中、将軍家上洛の時、お茶を差し上げた所で、松並木の内に有り。釜の段に茶臼塚という塚有り、この所に釜を据えて、お茶を立てお茶小屋にて将軍家に差し上げたと言われる。(現在は、第7中学の校庭になっている)
「小田村」江戸時代の村で戸数20軒・人口98名・反別12丁歩余(12000平方米)の狭い村で明治以降独立の村として存立する事が難しかったので行政指導により、草薙村と合併の内命を受け、明治10年2月12日静岡県令大迫貞清氏より許可の指令を受け合併した。
[草薙一里塚]
南幹線は4車線の幹線道路。南側の歩道を進むと北側の歩道に東海道を歩く集団がいた。
その前には一里塚の碑が立っている。
[草薙一里塚]
塚に説明書きがあった。
一里塚は徳川幕府より慶長9年(1604)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里(3920m)を36町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた。
東海道は江戸日本橋を起点に京都までの120里(約470km)の道の両側に松並木を植え1里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。
草薙一里塚は江戸より43里(170km)の処で43番目の塚です。道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は5間(9m)四方、高さ1間(1.8m)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・旅人の道しるべ・休憩所等となっていた。
榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府・今の静岡市)2里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠振り分け荷物を肩に旅立つ姿が偲ばれます。
因みに一里山の起源は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれるようになった。
[草薙一里塚]
一里塚の脇にはなぜか狸が立っている。
このあたりは一里塚にちなんで一里山という町名になっている。
[草薙一里山・旧道]
一里塚からほどなく信号があって、そこから新道と旧道に分岐する。
[草薙旧道]
旧道には車の通りが少ない。この先の十七夜山千手寺の看板に伝説が書かれている。
上原鎮守十七夜宮伝説
昔上原に大変信仰の篤い人があった。ある日夢の中に不動明王のお姿が現れ「わたしは浅畑の、滝の不動尊である。お前の信仰心の篤いのに感じ入った。お前のような者の住む上原は、さぞよい所であろう。是非上原に奉って大勢の人々の難儀を救ってやりたいと思う。早く浅畑へ来てわたしを上原へつれて来るように」とのお告げがあった。不思議な夢を見るものだと思っていたが、それから毎晩のように同じ夢を見るのであった。彼は「これは全く、浅畑の不動さまのお告げに相違いない。浅畑の人達には申し訳ないが不動様を上原へ、お連れ申し上げる亊にしよう」と決心した。そこで彼は、わざわざ浅畑まで出掛け、滝の不動尊の扉を押開き、御神体を取り出して持ち帰ろうとした。浅畑の人達は、これを見つけて追いかけて来て、取り戻そうとした。彼は「私は不動様のお告げで、上原へ連れ申すのだが、皆さんがいけないと言われるならばお返しする」といって浅畑の人達に渡して帰り出した。浅畑の人達は御神体を受け取ったが、急に磐石のように重くなり、動かす亊も、持ち上げる亊も出来ない。浅畑の人達は驚き怖れて、急いで彼を呼び戻し、仕方なく、御神体を彼に渡した。浅畑の人達は御神体を持ち捧げて、上原へ帰ってゆく彼の後ろ姿をいつまでも合掌して見送っていたのである。
彼は上原に不動様をお迎えすると、庄屋さんとも相談して、十七夜山千手寺の裏手のお堂に、上原村の鎮守としてお祀りした。これが現在の上原鎮守十七夜宮である。この御神体というのは、45キロほどの漆黒の古木であるという。
(文化年間約180年前の地誌駿河記に所載)昭和63年辰年10月16日建之。
[十七夜山]
黄檗宗「十七夜山 千手寺」。
上原鎮守十七夜宮
旧東海道より約100m十七夜山千手寺本堂南 創建年代不詳
現存する最古の記録、慶安4年辛卯夏1651年
祭神、不動尊、祭日、10月16日
上原鎮守十七夜宮は、昔から、上原産土神として上原の土地を守り、上原に住む人々の万難を除去し、家庭の幸福を守護するとして、村人の信仰を集めて来た。
尚、出生児の無事成長を祈願しての、お詣りも行われている。
鎮守の宮詣
1.初詣 男 32日目 女 33日目
1.喰初詣 男 110日目 女 120日目
1.誕生詣 生後1ケ年
1.七五三詣
其他
1.結婚詣
再建
1.宝暦3年癸酉9月16日 上原村総氏現住4代 隣堂
1.明治14年10月 村落有信子寄捨現住8代 泰岩
1.大正12年10月 上原区一同 無住
1.昭和29年10月17日 上原区一同現住10代
1.昭和58年10月16日 本殿御厨子再建現住11代
[上原延命子安地蔵尊]
十七夜山から200mほどの所に上原延命子安地蔵尊がある。
さほど伝統のある建物には見えないが古木もあって古いのかな?と思わせる。
由緒の看板があるので読んでみます。
上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の、長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めてきた。創建時代は明らかではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。
之に従えば奈良時代となる。然し庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。
上原の古地名は地蔵原ともいわれていたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これ等の事を思い合せれば、創建は鎌倉時代或はそれ以前と考えられる。
永禄11年12月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本体の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。
次いで天正10年2月(1582)徳川家康が、武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。
元和元年大阪夏の陣の直後 秋10月(1615)吉川福聚院の住職明眼和尚の尽力と、付近住民の協力により、荒廃していた地蔵堂も立派な堂宇として再建された。
然しこの堂も明治24年9月(1891)、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は、間口1.2米、奥行1.8米程の仮堂で、41年間を過ごすことになったのである。
昭和7年4月(1932)上原区民の、長い間の悲願であった地蔵堂も、区民40余年に亘り積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。
昭和57年4月(1982)昭和再建50周年を記念し、御本尊を開帳し、盛大な大祭が執行された。
平成3年1月(1991)境内入口にあった消防器具置場も撤去され、周辺の整備が行われ、石の堂標が建立された。
毎年8月15日の祭礼の夜は、地蔵堂裏の広場で、大勢の人々が集り、盆おどりなどが盛大に行われる。
[上原延命子安地蔵尊]
地蔵尊の入り口にまきの木があって看板が立っている
「この樹木は清水市みどり条例により保存樹木として指定されたものです。」とある。静岡市と合併してどうなったのかな?
樹齢 約230年
樹高 10m70cm
枝張り 東西4m
南北7m
周囲 (目通り) 2m20cm
[狐ヶ崎]
東海道は有度山の出っ張りに池があり、迂回する形になっている。
この池のある場所に以前、狐ヶ崎ヤングランドという遊園地があった。
今はイオンのショッピングセンターに姿を変えている。
[狐ヶ崎]
池を迂回する旧道を振り返ってみる。
この有度山の出っ張りになっている尾根が狐の鼻のような形をしていることからこの名が付いたのだろうか?
[国師堂]
イオンの駐車場を通り抜けた南側の南幹線の下をくぐった所に聖一国師堂に通じる階段がある。
階段の途中には雛人形の青島藤次郎翁の碑がある。
<青島藤次郎>
青島藤次郎翁は明治3年4月18日、府中在見瀬村に生れた。進取の気性に富んだ人で、静岡市に出て足袋業を営んだが、そのかたわら静岡漆器の特色を生かした雛道具を造ることに着眼し、雛御殿、小道具などの意匠と形に工夫考案をこらし、また販路を全国に広げて静岡雛具の基礎をつくった。
ついで静岡雛具組合を創立して初代組合長となり、明治、大正、昭和の三代にわたって業界の育成、発展につとめた。一方、翁の足袋業は洋品店に、さらに昭和6年には静岡県下で最初の百貨店田中屋へと発展し、商才と先見の明は静岡商人の名を高めたが、昭和8年11月11日、静岡市呉服町の自宅で惜しまれつつ、この世を去った。年64才であった。
しかし翁の創見によってはじめられた静岡雛具はいまや日本全国に及び、さらに海外まで進出し、産額は全国1位を占め、前途洋々たるものがある。
ここに翁の遺徳に感謝の誠を捧げ、その偉業を顕彰しさらに業界の発展をいのり、ゆかりの地に碑を建てて永く記念するものである。
昭和33年3月3日 発起人一同
[国師堂]
10mほどの高さを登りきると聖一国師堂がある。堂の前に謂れが書かれた看板があった。
<聖一国師と国師堂>
聖一国師(1202〜1280)は、私たちの郷土静岡市栃沢に生れ、静岡茶の始祖として知られています。
国師は日本と中国の著名な寺で修行を積んだのち京都五山の一つ東福寺の開山となり、僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧です。また、1930年(昭和5年)には昭和天皇から「神光」の追号を賜わりました。国師の功績は多大で、中国(当時の宋)から茶の種子や麺類、人形などの技術を持ち帰り我が国に伝えて、日本の産業と文化の進歩のため大いに貢献しました。
今日、お茶の静岡と云われる静岡茶の起源は国師が中国から持ち帰った茶の実を静岡市の足久保に植えたのが始まりです。
1954年(昭和29年)聖一国師が初めて仏門に入った久能寺に近い、ここ狐ケ崎(当時の狐ケ崎遊園地)の御堂にその遺徳を伝えようと国師真像を安置して開眼の儀を行いました。
以来、この御堂を聖一国師堂と呼び毎年春秋の2回供養・法要を行ってその遺徳を偲んでいます。
[久能寺観音道]
旧道まで戻り、イオン入口の信号のある交差点の傍らに久能寺観音道道標というのがある。
ここでいう久能寺は今の東照宮のことではなく鉄舟寺の前身のとのことらしい。
別の機会に「久能寺観音道」を散策してみる。
久能寺観音道へ向かうページへはこちらをクリック。
[谷津沢川]
久能寺観音道道標の脇を流れる沢は旧東海道の下をくぐり、暗渠となって北上する。その路地を100m程入ると東海道線を歩道橋が渡る。説明看板を読む。
<谷津沢川水路橋>
この橋は、鉄道線路の上を川が流れ、そのまた上に歩道があるという日本でも珍しい橋の一つです。
かつて、この橋の辺りは丘陵地として地続きでしたが、明治19年(1886)頃の東海道本線敷設の際に切り通しの工事が行われ、そこに出来上がったのがこの谷津沢川水路橋です。
東海道本線の開通は国の威信をかけての大事業でしたが、この水路橋は下流域農地の灌漑用水を確保し、当時の主要産業だった農業を守るために必要不可欠な橋だったのです。
その後、昭和5年(1930)に現在の静岡鉄道静岡線の線路敷設のために延長され、昭和43年(1968)に国鉄から清水市に無償譲渡されました。
この橋が現在のように歩道橋としての機能を兼ね備えた橋になったのは、昭和9年(1934)の静岡鉄道狐ケ崎駅の開設や、その後の周辺地域への企業の進出、人口増加などによるもので、地域社会と共に発展し立派になってまいりました。
昭和49年(1974)の集中豪雨(七夕豪雨)の時には、谷津沢川の土手が水路橋の直ぐ手前で決壊し、線路上に大量の土砂が流れ込んで、東海道本線と静岡鉄道静岡線が不通となる大災害になりました。
幸いこの水路橋は無事でしたが、その後も常に危険を抱え、かつ老朽化したこともあって、平成元年(1989)に橋の手前を流路に沿って直線化し、拡幅、強化して、自転車置き場を橋の両端に備えた私達の生活の欠かせない3代目の橋となって生まれ変わりました。
元の橋の基礎部分が現在も東側に残っていますが、線路と直角に最短距離で渡しています。又、列車を通す高さを確保し、谷津沢川を緩やかな勾配で渡すために、流路を変え、嵩上げするなど、鉄橋建造小路を始め当時の土木技術の粋を結集したものでしたが、創造を絶する難工事であったと言われています。
[谷津沢川]
普段は水量の少ない水が歩道の下を流れているのを隙間から見ることができる。
[狐ヶ崎]
狐ヶ崎の久能寺観音道の道標を過ぎると真っ直ぐ清水の江尻へと向かう。
[踏切]
街道をJRが横切る。
ここは静岡鉄道の線路も併走した踏切なので遮断機が下りていることが多い。
[追分]
踏切を越えると追分という地名に向かう。
信号を左に入ると姥ヶ池伝説がある社が建っている。
[姥ヶ池]
信号から100m弱の道路脇に小さな社建っていて傍らに池がある。
看板が立っているので読んでみます。
今から1200年ほど昔、延歴年中、この池のあたりに、金谷長者というお金持ちが住んでいました。
子供がいないので、神仏にお祈りして子を授かりました。ある年にひどい咳が流行して、この子も患いました。乳母はこの池辺の弁財天に祈願して小児の代わりに池に入水して死にました。これより小児の病はよくなりました。
長者は姥の子育てに感謝して池のふちに社を建て霊を祭りますと池の底から泡が出始めました。
この池のほとりに立って、「姥かいな」と呼べば、それに答えるかのように泡が出ては淋しく消えていくようになりました。それからは姥ケ池と呼ばれ、ひどい咳に病む子供たちがこの社にお祈りするとたちまち治ると言い伝えられました。東海道を旅する人々は立寄ってお参りしたそうです。
[金谷橋]
旧東海道へ戻り東へ進むと間もなく小さな橋を渡る。
橋のたもとに謂れが書いてある。
追分と金谷橋の今昔
昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志みづ道」の分岐点であることから「追分」とよばれていた。
周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側に田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。
往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。
古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。
[都田吉兵衛供養塔]
橋を越えてすぐの所に供養塔が建物の陰に隠れるように立っている。
いわれの看板を読む。
春まだ浅き文久元年(1861)正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐れみ里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。
此処を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。
[追分羊羹]
静岡の3大銘菓の一つ追分羊羹はここが本店。
[しみずみち]
この場所は東海道としみず道との追分になる。
石碑が立っている。石碑の裏には南無妙法蓮華経と彫られていた。
このしみず道を100mほど入ると入江小学校のグランド脇へ出る。この小学校は「さくらももこ」の母校らしい。
しみずみちへ向かうページへはこちらをクリック。
[入江公民館前]
追分羊羹から入江へ向かい500mほどで県道を横切ると間もなく入江公民館がある。
旧東海道はまだまだ直進するのだ。今では建物にさえぎられて見えないが、富士を斜めに見ながら旅人は江戸へ向かったのだろう。
[江尻宿木戸]
入江公民館からしばらくすると道路脇に小さな道標が立っている。
江尻の木戸がこのあたりにあったのだろう。
ここから江尻宿に入る。
[入江]
この先の突当りに見えるのは、入江の変則交差点。
ここから南に曲がるとすぐ先が「ちびまるこちゃん」の舞台になった所。
この道は、入江から久能山東照宮へ向かう「久能道」なのだ。府中からも久能街道があるが、もうひとつの久能街道だ。
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[法願寺]
入江の変則交差点の手前に浄土宗「紫雲山 江照院 法願寺」の入口がある。
[朝顔日記]
朝顔日記の深雪の墓がある。説明看板があるので読みます。
当法願寺本堂の左奥に浄瑠璃「朝顔日記」深雪のモデルと云われる人の墓があります。
正廣院殿永安種慶大姉の銘があり、日向国(宮崎県)財部(現在の児湯郡高鍋町)3万石の城主、秋月長門守種長公の娘で4代目清水船手奉行となった旗本1700石山下弥蔵周勝の夫人で寛永18年(1642)4月18日に没し当寺に葬られました。
夫人の青少年期は数奇な運命を辿って居り、この事が物語の筋となったと思われます。
[いちろんさん]
入江の変則交差点に「いちろんさん」と建物に書かれた八百屋がある。
右の入口に「清水名物協会」ののれんが掛かっている。
[いちろんさん]
「清水名物協会」ののれんをくぐると小さな人形がディスプレーされている。
[入江]
入江の変則交差点を通り過ぎて、振り返って写真をとってみる。
[入江]
変則交差点から200mで巴川にかかる橋に出会う。この橋は「稚児橋」と呼ばれている。
[稚児橋]
稚児橋には伝説があって、欄干に「カッパ」が立っている。
[稚児橋]
欄干の「カッパ」の下に稚児橋のいわれが書かれた看板があった。
慶長12年(西暦1607年)徳川家康の命により、東海道53次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることになり、渡り初めの日とはなった。
さて儀式に先駆けて、かねて選ばれていた老父夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り忽然と入江方面へ消え去った。
渡り始めに集まっていた人達は、あまりに当然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。
なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。
清水の名物いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童がいるのはこの伝説による。
[稚児橋]
結構交通量が多い道でした。なかなかシャッターが押せない。
[稚児橋]
やっと車が切れたので橋の全体が撮れました。
江尻の宿へ向かうページへはこちらをクリック。
−コメント−
東海道を清水区に入ってからここまで約4km。
出発した草薙では、やっぱり見逃せない草薙神社へ寄ったので約6kmの行程となった。
途中に東海道から分岐する3つの道に出会った。
− 江尻〜興津 −
江尻の宿から興津の宿。
江尻では江尻城と小芝八幡宮を巡った後に旧東海道を進み、
興津では興津川を上った所にある横山城址・小島陣屋址までの10km強の行程。
[清水銀座西入口]
旧東海道は稚児橋を渡ると江尻へと入り、清水銀座通りへ曲って江戸へ向かう。
江尻周辺を一回り散策してから旧東海道へ向かうことにする。このあたりは江尻城を偲ぶことができる所も多くある。
江戸時代に東海道が整備される前の東へ向かう街道は、清水銀座通りへは曲らず直進して秋葉神社方面へ向かっていったのだろうか?そちらの道沿いにも古い史跡が多くある。
[魚町稲荷神社]
この神社のあたりから江尻城だったらしい。
エスパルスが毎年出陣式をこの神社で行う。
神社の境内には大きなサッカーボールがオブジェとなっている。サッカーのお守りが有るらしい。
[魚町稲荷神社]
神社の脇に謂われが書かれていた。
魚町稲荷神社
永禄11年(1568)12月、駿河に攻め入った武田信玄は、翌年現在の江尻小学校の敷地に、江尻城を築き、その後天正6年(1578)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城にした。
梅雪は1村1郷に鎮守あり、1家に氏神あり、どうして1城に鎮護の神がなかろうか言って、この地に社殿を造営したといわれている。(江尻町誌による)
近くは江尻宿の問屋場・高札場・本陣等があって東海道を往来する旅人でこの地魚町(上町)は賑わった。
祭神 宇賀地御魂命(うかじみたまのみこと)
例祭 8月3日
「明治天皇 東行御遺跡」の碑あり
大正6年2月稚児橋竣功の時の橋の親杭あり、「ちごばし」と刻まれている。
[江尻小学校]
小学校は江尻城の本丸があった。
校庭のどこかに記念碑があるらしいが不審者と間違われると困るので外からながめることにした。
[二の丸]
小学校の前の電信柱に二の丸町と看板が付いている。
町名のとおり二の丸があった場所だったらしい。
この他にも昔を歴史を感じる「江尻町」「小芝町」「大手町」などの町名がこのあたりに並んでいる。
[二の丸]
江尻小学校の正門脇に二の丸町の由来が書かれた看板が立っていた。
町名の由来「二の丸町」
武田信玄が、永禄12年(1569)東の北条、西の徳川に備え、江尻城を築いたが、天正10年(1582)江尻城は、徳川の手に渡り、後に廃城となった。
なかでも、二の丸の跡地は明治の頃より、独立した自治組織があり、城にちなみ「二の丸」とよばれ、現在に至っている。
また、二の丸には城の鬼門除けとして、二の丸稲荷神社が造られ、城の名残の石垣が江尻小学校校舎の南西にあったと、伝えられている。
江尻まちづくり推進委員会
[江尻城]
江尻小学校の校庭側に回って江尻城の名残りを探してみたが特別な特徴は見当たらなかった。
この写真は巴川の堤防から撮影している。巴川の流れは今と違っていて、水を取り込み堀にしていたらしい。
江尻小学校から200mほど北へ行くと小芝八幡宮があるので少し足を延ばしてみる。
その八幡宮の看板に城の図面が描かれていた。
[小芝八幡宮]
江尻小学校から100mほど北へ来ると小芝八幡宮がある。
神社の入口に神社の謂われと江尻城の謂われの看板が立っているので読んでみる。
江尻城は、永禄12年(1569)武田信玄が遠州の徳川家康に相対する橋頭堡(陣地)並びに補給基地として築城したものといわれる。
穴山信君(梅雪)は、元亀元年城将となり、天正6年(1578)江尻城の大改築を行ったが、天正10年(1582)家康に降伏し城を明け渡した。
慶長6年(1601)創城以来32年を経て廃城となったが、その間城将は10人を数え、城下には、初期的な城下町が形成された。
現在、二の丸、大手、鍛冶町、鋳物師町、紺屋町、魚町等の地名に、城下町特有の名が残っている。
[小芝八幡宮]
小じんまりした神社だが歴史の重みが見方を変えてくれる。
もったいない境内となっている。神社の謂われの看板を読む。
当小芝八幡宮は、嵯峨天皇弘仁2年(811)の創建といわれ、古称家尻(江尻)の里に建立された。
戦国の世、今川氏に代わった武田信玄が、永禄12年(1569)江尻城(小芝城)を築くにおよび、今までの廃れた祠を城内に移し、八幡宮を鎮守の神として祀り、武人の崇敬が厚かった。
慶長6年(1601)に廃城後、現在の地に移され、昭和8年本殿の造営なると共に、村社より郷社に昇格、旧東海道江尻宿九町の産土神として、人々の崇敬を集めている。
[小芝八幡宮]
社殿が静かだ。
神社の謂われの看板の続きを読む。
祭神 品陀和気命(ほんだわけのみこと)応神天皇
大雀命(おおささぎのみこと)仁徳天皇
武内宿弥(たけのうちのすくね)
年中行事 節分祭 二月節分の日
茅の輪祭(輪くぐり祭)6月30日
例大祭 10月8日 9日
宝物 「八幡宮」の額 寛政5癸丑
前中納言 藤原宗時 書
面鏡 清水丹後守藤原光正奉納
境内神社 事比羅神社 稲荷神社 金山神社
小芝城址の碑 明治42年3月建立
元本丸跡(江尻小学校)にあったのを当神社境内に移した。
手水鉢 寛保3年 天保6年 奉納
[小芝八幡宮]
誰の書なのだろうか。
「完遂」と書かれた石碑。
[小芝八幡宮]
小さな別殿がある。
地図に金山神社とあるのがこの神社なのだろうか。
稲荷神社とも見えるが?
[小芝八幡宮]
供養塔なのか石碑が建っている。
ここから1km弱ほど北へ行くと秋葉寺がある。裏山には古墳もある。そちらへ向かうページへは
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[清水銀座西入口]
清水銀座の西入口へ戻り、駅方面を見渡す。
旧東海道はここを進む。
地方都市の商店街を代表するように閑散としている。
かつてはかなり人出も多く栄えていたのだが・・・。
この先の信号を左に入った所に寺が並んでいる。「江浄寺」という寺には家康と妻「瀬名」との間の嫡男で、信長の命により切腹させられた松平信康の墓所があるらしい。
信康は岡崎に墓があるとの事なのだが、分骨でもしたのだろうか?
[清水銀座通り]
旧東海道は清水銀座通りを北に曲がるが、この辺りが江尻宿の中心だったらしい。
写真は振り返って西に向って今来た道を撮ったもの。
[清水銀座通り]
旧東海道は清水銀座通りを北に曲がり、その交差点の所にこんな店があった。まだやっているのかな?
(写真を撮った翌年には残念ながら新しい建物に変わっていた。)
[江浄寺]
清水銀座通りから曲って間もなく江浄寺がある。
[江浄寺]
清水銀座通りから曲って間もなく浄土宗「市中山 長光院 江浄寺」がある。
[妙泉寺]
江浄寺の北隣にも寺が並んでいる。日蓮宗「本応山 妙泉寺」だ。
奥にある建物は浄春寺。街道沿いには寺が多い。
[江尻宿]
江尻から旧東海道は北に向かい辻方面を臨む。
[末廣寿司]
国道1号線と交差する手前の信号を左に入ったところに有名な鮨屋の「末廣」ある。
[辻]
旧東海道は清水駅へ向かう国道1号線を横切り直進する。
[辻]
蔵を持つ旧家があった。
旧東海道を歩いているんだという気分にさせてくれる。
[辻]
このあたりは「辻」という町名。
ここも江尻宿になる。
[江尻宿東木戸跡]
江尻宿の東木戸がこのあたりにあったらしく看板が立っているので読んでみる。
江尻宿の東の出入口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
この付近は道路が桝形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことができないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。
[高札場跡]
高札場があったという看板が立っているので読んでみます。
高札は奉行所や代官所の命令・布告を書いた立て札で、街道筋など人の目につく場所に設置した。
辻村の高札場は西に向かって右手の一里塚前にあったことが絵図に記されている。
[一里塚跡]
このあたりに一里塚があったとさ。
<一里塚跡>
江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
塚は5間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
辻の一里塚は江戸より42番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。
[秋葉道入口]
「うおいそ」という料理屋の看板の脇に秋葉道入口という看板が立っていた。
東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。
この入口には戦後まで「秋葉山5丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶屋も3、4軒あり、東側は細井の松原に接していた。
[細井乃松原へ向う]
江尻宿を後にして、この先の細井乃松原を通り、先の興津宿へ向かう。
[細井乃松原]
国道1号線へ出る交差点に旧東海道の松原を記念して、整備されていた。看板を読む。
慶長6(1601年)、徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同9年(1604年)2代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同17年(1612年)に完成したと伝えられている。
元禄16年(1703年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸松原の全長199間2尺(約360m)松の本数106本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。
当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その後もない。
今の松は平成4年2月社団法人清水青年会議所から寄贈されたものである。
[細井乃松原無縁さん碑]
碑の脇の看板を読む。
<細井の松原無縁さんの碑>
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。
平成十三年、東海道四百周年を記念しこの石碑を建立した。
[細井乃松原から]
この細井乃松原から先は旧東海道の名残りは消え国道1号線を行く。
[庵原]
バイパスが1km程西に通っていて、東に500mに湾岸道路が通っているので、トラックの交通量は少なく割と空気がきれいだ。
[庵原]
庵原川にかかる橋を越えていく。
北街道(清水)のページも作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[横砂]
このあたりは、砂浜だったのだろうか「横砂」という地名。
山の上にお城が見える??
実は本物ではなくて浄水場の管理棟らしい。
[医王山東光寺]
左手に由緒のありそうな寺が立っていた。看板を読んでみる。
臨済宗妙心寺派の禅寺で、本尊の薬師如来(秘仏)は、行基作の伝。
天文年間(1532年・1554年)温仲和尚によって現在地より北方の地(寺西)に創建される。その後衰退して、慶長年間に、一輪和尚によって中興される。再び衰退するが宝暦年間に通天和尚により掌宇が再建され、安政年間には松洲和尚が庫裡を再建し盛衰を歴史に繰り返す。
清見寺 蓉嶺維禎禅師の法を継ぐ九代洪堂義範禅師(明治41年没)が法系開山となり寺門は一新する。文久4年(1864)書院を建設し、山門を瓦葺きに改め、その後本堂も再建する。書院は清見寺の旧書院の移築。山門は、勅使投宿のため急拵えした名残で門扉の形から格子門と呼ばれている。
現本堂は平成5年に再建された。
(以下略)
[横砂]
このあたりから旧東海道の雰囲気が徐々に出てきた。
東光寺から2本目の路地を山側に入って国道1号バイパスをくぐると神社がある。
[盧崎神社]
いほざきじんじゃと読むらしい。
廬崎神社は横砂の氏神様として古くは八王子天正、又は八王子大明神と称せられましたが、明治初年に廬崎神社と改称し、明治8年2月村社となりました。この神社は国狭槌尊(くにのさつちのみこと)をお祀りしており、神代7代の神といわれ神様の八徳表わすと信仰されております。
古い書物のほきの内伝によると八王子とは天照大神と須佐之男命がが誓約をされた時にお生れになった8人の王子であるとされています。
天王とは多くの場合、須佐之男命のことで駿河志料には祭神午頭天王八王子と記され、後世この8人の王子ということからして広い御神徳の内、特に安産守護の神ともされています。
この神社は文化10年江戸中期の棟札には浄見長者が大勧進をして官幣を奉納したと記録されており、既に天慶(平安中期)の年代から神社があったと伝えられています。
[横砂]
街道に戻り興津方面へ進む。
いい雰囲気の家がある。
[横砂地蔵]
秋葉燈籠がある地蔵堂が建っている。
[横砂の旧道]
地蔵堂の前で国道から旧道が分岐する。
国道はJRを高架で跨ぐよう整備されている。
[横砂の旧道]
旧道は踏切でJRを横切る。
もともとは店があったと思われる建物が目につく。かつてはこの通りが主要道だったことが偲ばれる。
[横砂の旧道]
この先で道は細くなり街道が消滅し、波多打川に突き当たる。上をバイパスが通っている。
旧道がどこを通っていたかはわからないので国道1号線へ出ることにした。
[興津宿]
国道はJRを跨いだ後、興津へと入る。
このあたりは清見寺にちなんで興津清見寺町という町名。
[興津宿座漁荘]
興津に入って500mほど進むと「座漁荘」が右にある。
看板を読む。
静岡市座漁荘記念館 西園寺公望公別邸
興津座漁荘
西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和3代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
座漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
座漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されています。
そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の座漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力とご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。
平成16年4月
[興津宿座漁荘]
座漁荘に入るとと「座漁荘址」の石碑が建っている。
説明板を読む。
坐漁荘は、公爵西園寺公望の旧居、大正8年12月に建築された。
その敷地は1255.96平方メートル前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。
建物総面積は469・27u、前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。建物面積は460.27u、二階建、瀟洒雅到ただよう和風建築であり、洋間一室とテラスとが附属していた。
坐漁荘の名称は子爵渡辺千冬の撰にかかる。
周の文王が渭陽で呂尚(太公望)の坐漁するに会い、礼を厚くして迎えて軍師とした。
渡辺は中国のこの故事に因み、太公望を西園寺公望の名に通わせ、坐漁を前庭に海迫るこの地形に結びつけ、さらに元老として天皇補佐の重責を荷う西園寺公の地位を軍師呂尚のそれに対照させ、坐漁荘を命名した。
公はかねて国際間の平和とわが国立憲政の発達を念願してやまなかった。
しかし満州事変以後わが国政治の動向は公の所期と全く相反するものがあり公は破局的事態の到来をふかく危惧しこれを阻止せんがため元老として実に焦心苦慮を重ねた。
公が国の行末に限りなき憂いを抱きつつ細雨に煙るこの坐漁荘に92年の生涯を閉じたのは昭和15年11月24日、太平洋戦争開幕に先立つこと約1年であった。
近年坐漁荘周辺の景観は一変し且つ建物も損壊の惧れを生じたので、住友銀行頭取堀田庄三の発議により住友連系の各社の後援の下、財団法人明治村並びに清水市地元の協力を得て、昭和46年3月坐漁荘の主要部分を愛知県犬山市所在の明治村に移築し、この歴史的建物は永く同地に保存されることになった。
昭和46年8月
東京大学名誉教授 財団法人西園寺記念協会理事 岡 義武
[興津宿座漁荘]
落ち着いた和室から庭を見る。
入場した時にもらったリーフレットを読みながら施設見学する。
○西園寺公望(さいおんじきんもち)(1849〜1940)
西園寺公望公は、嘉永2年(1849)右大臣徳大寺公純の次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代を自由主義の政治家として貫いた、我が国近代の元老の一人です。
また、現在の立命館大学の学祖であり、高い見識に裏打ちされた文人としても知られています。
○最後の元老
元老とは、近代日本特有の政治的存在で、重要施策(ことに後継内閣の推挙)について、天皇の諮問に応える強力な発言権を持つ重臣の呼び名のことです。
大正13年7月、松方公の死後、西園寺公は、ただ一人の元老として内閣首班の推挙や政変ごとの陛下のご下問への奉答をしてきました。
○「坐漁荘」とは
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)、風光明媚な清見潟に臨む興津清見寺町に老後の静養の家として建てられた別荘です。
設計は住友本社の建築技師・則松幸十が行い、京都から大工を呼び寄せ建てられました。
坐漁荘の名は、子爵渡辺千冬の命名で、周の文王が呂尚(太公望)が坐漁する場に会い、礼厚く迎え軍師としたという中国の故事に因ります。
居間からは、遠くにかすむ伊豆天城の連峰、目前には三保の松原が見渡せ、砂浜の漁船や干し網の近景が庭越しに広がっていました。
しかし、実際の坐漁荘は「興津詣で」と称されたとおり、訪れる政府要人が後を絶ちませんでした。
[興津宿座漁荘]
洋室からも庭を眺めることが出来る。引き続きリーフレットを読む。
○西園寺公の死と、その後の坐漁荘
西園寺公は、昭和15年11月24日に坐漁荘で死去しました。12月5日、国葬が執り行われ、その後、世田谷の西園寺家墓地に葬られました。
「その後の坐漁荘は、高松宮殿下に献上されたが、終戦後徳川家を通じて西園寺公一(公の孫)に戻されました。公一氏は、事情があって豪州のバイヤーに売却しましたが、この話を聞いたイギリス大使館の参事官レッドマン氏が買い上げ、昭和26年、財団法人西園寺記念協会の設立になりました。〜」(増田荘平「坐漁荘秘録」より)
「昭和43年〜坐漁荘の建物は傷みが激しくなりました。同年11月、明治村への移転の話がまとまり〜跡地は公園にして記念碑を立て、地元が記念館を建設するときは相談にのることが合意されました。翌44年10月、家具や調度品が運び出された後、建物を測量、記号をつけて解体し、45年6月、明治村3号地に移転復元されたのです。』(清水市史第3巻より)
[興津宿座漁荘]
庭に出て建物を眺める。婦人が写生をしている姿があった。
明治時代にはこの庭の前に海が広がり三保や伊豆が正面に見えていたとのこと。看板を読む。
坐漁荘庭園より三保の松原を望む
「公は、常々「庭は清風荘(京都の別邸)がよいが、眺めはここが一番よい。三保も伊豆も庭の中に有るようなものだ。」
と大変お気に召され、ご自慢もされていた。」
(「坐漁荘秘録」増田壮平著より)
秋晴や三保の松原一文字 大野 伴睦
(句碑が、清見寺境内にあり)
[興津宿]
座漁荘を過ぎると蔵のある建物も有り、宿場へ入ったと感じられる。
[高山樗牛]
清見寺の少し手前の道路脇に石碑が建っている。
「たかやまちょぎゅう」と読む。石碑に刻まれた文字を読んでみる。
樗牛(ちょぎゅう)は清見潟の風景をこよなく愛し
明治30年中秋当處の三清館に假寓して清見寺の鐘声を聞いた
三清館の所在地より南方の20m付近にあった。
昭和44年10月 旧三清館経営者嗣守
山梨県 陽建之
[清見寺]
街道から見た臨済宗妙心寺派「巨鼇山 清見寺」。
有り難い雰囲気を持っている。
[清見寺]
門だけ単独で建っている。
この門の向こうにJRが通っていて、寺へは橋を渡って行くことになる。
[清見寺]
入口の門に案内看板があって、大人300円とある。
見学できます
名勝庭園 滝が流れ落ち池に注ぎ家康公が5木3石を配置
大方丈 朝鮮通信使偏額多数展示、家康公手習之間保存
書院 静岡市指定文化財、天皇陛下御宿泊玉座の間あり
潮音閣 眺望が素晴らしい、眼下に駿河湾と三保の青松
右に日本平、左に遠く伊豆の山々を望む
[清見寺]
本堂は立派な建物
[清見寺]
境内はよく整備されている。
鐘楼は江戸末期に再築されたが、麓鐘は秀吉のゆかりもあるとのこと。
鐘楼の前には家康お手植えと伝えられる梅もある。
[清見寺]
本堂脇の入口とその脇の蘇鉄。
[清見寺]
海會塔、石書心経、地蔵、観音様。
[清見寺]
海会塔が建っている横に菩提樹が植えられいる。
説明看板を読む。
<菩提樹>
お釈迦様が悟りをひらいた樹。赤や黄の実をつけます。どうぞお手を合せてください。 清山20世植樹
[清見寺]
大正天皇手植の木。
[清見寺]
由緒を書いた看板もある。
<由緒>
当山は臨済宗で、古来より景色の美しさで名高かった。寺の始めは古く奈良朝時代此地に関所が設けられ其の守護として傍に仏堂が建立せられたのが始めと伝えられる。
而し寺として基礎の固まったのは鎌倉時代(1264)後足利尊氏此の寺を再興(1342)徳川時代を経て今日に至った。その間幾度か戦禍を受けたるも、再建復興して来た。
境内概観
山門 慶安4年(1651)建立
仏殿 天保13年(1844)建立
大玄関 元和2年(1616)建立
大方丈 文政11年(1828)建立
鐘楼 文久3年(1862)建立
五百羅漢 天明8年(1788)建立
観音銅像 昭和13年(1938)建立
臥龍梅 徳川家康手接
名勝庭園 江戸初期作庭
[清見寺]
<山下清 清見寺スケッチの思い出>という看板
清見寺という名だな このお寺は古っぽいけど上等に見えるな お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどういうわけかな お寺より汽車の方が題字なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見る海はうめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺なきれいと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな
[清見寺]
碑が立っていて説明書きがある。
読めない所があります。
<高山樗牛「清見寺鐘の声」碑文>
鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ。
うるわしきかな、山や水や、偽りなく、そねみなく、憎みなく争ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かはるところなきなり。おもへば恥ずかしきわが身かな。ここに恨みある身の病を養へばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児。数ならぬ身の世にながらへてまた何の為すところぞ。さるに、をしむまきし命のなほ捨てがてに、ここに漂泊の日暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
鐘の音はまたいくたびかひびきわたりぬ、わがおもひいよいよ・・・・
[清見寺]
清見寺の横にもう一つ門があった。橋を通らず踏切で渡ることもできるのかな?
[大正天皇ゆかりの碑]
「大正天皇在東宮海水浴御成道」と書かれた碑が立っている。
かつては有名な海水浴場があったことがうかがわれる。
[興津宿看板]
清見寺の前に興津宿の名所看板があったので読んでみます。まずは右上から。
<興津の歴史>
興津は、江戸時代の東海道53次のうち17番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名は「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。
興津川の下流部にあり、東は興津川、薩った峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。
鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩った山に警護関を設置しました。
慶長6年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。
江戸時代中〜後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。
<東海道53次について>
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで天下の覇者になった徳川家康は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など街道の整備を行いました。
中でも特に東海道は、朝廷のある京都と政治の拠点である江戸を結ぶ重要な幹線道で、家康は、ここに宿駅をもうけ、東海道伝馬制度を実施しました。駅宿の数は次第に増え、寛永元年(1624年)に53を数えるようになりました。
東海道53次の誕生です。
以来、東海道53次は、参勤交代制度の大名行列や庶民の旅、商人の通行などによって飛躍的な発展を遂げました。
<興津宿の規模>
東海道17番目の宿場ですが、東の由比宿には2里12町(9.2km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩った峠」があり、西に至る旅人は峠を越えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を越え由比宿に至ります。
また、西の江尻宿には1里2町(4.2km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。
興津宿の宿内、町並みは東西に10町55間(1.2km)人馬経門屋場1ケ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人100匹
天保14年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人女859人)でした。
[興津宿看板のつづき]
看板の左側に目を移し、右上の「清見寺」から読んでみます。
<清見寺>
白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ケ関とともに仏堂が建立されたのが創建として伝えられ、東海道屈指の名刹です。
徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。清見寺には、家康が愛した清見寺庭園(江戸初期の)や、家康手植えの臥竜梅、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財があります。その他、五百羅漢は、それぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実の熟する時」の一節にも登場します。
琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係史蹟に指定されるなど、歴史の宝庫になっています。
[興津宿看板のつづき]
<座漁荘>
明治大正昭和3代にわたる大政治家西園寺公望公の晩年の別邸だった座漁荘は大正8年(1919)に建てられ、以来昭和15年(1940)92歳でなくなるまで22年間の住居として利用されました。その間、唯1人の元老として天皇の諮問に奉答しています。
座漁荘には、歴代の総理や重臣の往来が激しく「西園寺詣で」「興津詣で」の言葉が生まれたほどです。
清楚な建物は、現在明治村に移され、当時の姿を留めています。跡地には記念館が建てられ、地元の公民館として利用されています。
[興津宿看板のつづき]
<興津の海と明治元勲達の別荘地>
東海道線が静岡まで単線開通したのは明治22年のことで、この時、興津駅が開業しました。またこの年には、皇太子(大正天皇)が来清し、清見寺に滞在され興津の海(清見潟)で、海水浴を楽しまれたことで、興津は全国的に有名になりました。また、明治以降には、興津は元勲達の別荘地として賑わいました。興津からの海の眺めをこよなく愛し、しばしば水口屋に投宿したのが政治家、後藤象次郎でした。
この縁がきっかけで、伊藤博文、井上馨、松方正義が別荘を建て、興津はさながら「明治の元勲達の別荘地」の様相を呈するようになりました。
[興津宿看板のつづき]
<日本3大並木・プラタナス並木>
興津駅北側にある農林水産省果樹試験場には、日本3大並木の一つ、プラタナス並木(北海道大学のポプラ並木・東京大学のイチョウ並木)があります。また、アメリカのワシントン市のポトマック河畔に植えられた桜と兄弟のウスカンザクラ、桜のお礼に送られたアメリカヤマボウシなど、貴重な樹木が多くあります。それぞれ花の時期には一般に開放されます。
[興津宿看板のつづき]
<宗像神社>
海上航海の守護神である築紫の宗像神を勧請したもので平安中期の創建と推定されます。祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の御子沖津島姫(みこおきつひめ)ら3女神ですが、江戸時代に弁天信仰と称しています。例祭は、7月31日に行われ、神事は深湯(くがたち)及び茅の輪くぐりがおこなわれています。
[西本陣跡]
西本陣があったことを標した道標が立っている。
手塚家が旅籠の主だった。
[不動尊]
波切不動尊へ向かう踏切。
鳥居に綱が張ってあり、階段は通行止めのようだ。
[不動尊]
不動滝。
鳥居の右の道に向うとお堂が建っていてその奥に滝がある。
[不動尊]
山道をしばらく登ると「興津山 不動院」がある。
日蓮宗の寺院らしい。
[不動尊]
不動院は小さな無住の寺だ。
[茨原神社]
不動院の先に茨原神社がある。看板を読む。
所在地 興津本町字滝ノ沢753
祭神 天照大御神
合祀 猿田毘古神 椿大社
大山祇神 山神社
品陀和気命 八幡社
木花佐久夜比女命 浅間社
建御名方命 諏訪社
菅原道真公 天神社
[脇本陣水口屋]
街道へ戻るとすぐ先に脇本陣跡がある。水口屋ギャラリーとして営業している。
「興津宿脇本陣水口屋跡」と「一碧楼水口屋跡」の碑が入口に立っている。
[脇本陣水口屋]
玄関前の庭に竹が生えていて、西園寺公の謂れが書いてありました。
明治の元勲のひとりである西園寺公望が1916(大正5)年より「一碧楼水口屋」を避寒のため数回滞在したことが記録に残っています。興津を気に入り、1919(大正8)年からは清見寺近くに別荘の「座漁荘」を建て常住するようになりました。終生西園寺の私設秘書と自認していた中川小十郎は、当時台湾銀行に頭取として赴任していたものの、しばしば西園寺を訪ね、「一碧楼水口屋」(現在の鈴与株式会社研修センター)を常宿としていました。この竹は小十郎が台湾から持ち帰ってもので、日本では珍しく、しかも移植しにくいとのことでしたが、現在も元気に根を張っています。
その後京都に「立命館」を創立した中川小十郎は、趣味に竹筆作りの優れた技術を持っていました。竹を好んだ西園寺にかつて丹精に作った竹筆を贈ったことから、「竹筆老兄」とよばれたことに因んで、自ら「竹筆老夫」の雅号も使用していました。
2002年7月、立命館大学の要請により、京都の立命館大学衣笠キャンパスへこの泰山竹の株を寄贈しましたが、西園寺公望と中川小十郎と「一碧楼水口屋」とのエピソードを伝える記念となりました。
[興津宿公園]
興津の交番の脇に公園ができている。
あずまやの手前に看板が立っている。
北緯 35度3分
東経 138度31分10秒
海抜 4.793m
東の由比宿に2里12町(8kmと120m)
西の江尻宿に2里2町(8kmと20m)
<由来>
東海道53次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。
地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。
[興津宿公園]
公園の入り口に大きな案内板が立っている。裏に説明があったので読む。
慶長6年(1601)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて17番目の宿である。
参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の2軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も24軒という賑やかな宿場となる。
ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。
なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩った峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。
この付近一帯が興津と呼ばれたのは、の祭神(興津島姫命)がここに住居を定めたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が居住していたのでその名を地名としたとの説もある。
古代から呼び名は、奥津・沖津とも言われていた。
[宮様まんぢう]
興津宿公園の前に和菓子屋があって「宮様饅頭」が売っている。
試しに饅頭を購入し、食べてみた。くせもなくおいしくいただけました。添え書きに由来があったので読んでみます。
献上銘菓 「宮様まんぢう」の由来
東京の有名な店からお菓子をとりよせるのが、一番楽でしたのでしたが、陛下は、そういうものになれておられることが分かっていましたので、何か変わったものを差し上げたかったのです。初めの日には宮様饅頭という興津特産の小さなお菓子を差し上げました。50年程前に、或る宮様が清見寺にお泊りになった時に差し上げたもので、そのために宮様饅頭という名前ができたのです。宮様はこれが大変お気に召し、また幸い、陛下もお気に召されたのです。
創業明治30年 宮様まんじゅう本舗 潮屋
[興津宿駅]
宮様饅頭から300m進むと興津駅が左手に見える。
東海道線の典型的なローカル駅だ。
[興津宿一里塚]
駅を過ぎると間もなく、街道の民家の脇に一里塚の道標がある。
道標のほかにはなんにもない。
[身延道の碑]
身延山道の石碑。身延山は日蓮宗なので、石碑には「南無妙法蓮華経」と髭題目で書かれている。
「身延道入口」とある。
雑然と石碑が立っているので何でかな?と思っていて聞いた話によると、以前ここに「石塔寺」があって明治の初めに廃寺となり、境内の一角に寄せ集められたとのことでした。
ここから旧東海道から外れてみる。身延まで行くわけではないが、3km弱ほど身延道を進むと城跡があるというのでそこまで行ってこのセクションの到着とする。
由比に向かって東海道を進むページへはこちらをクリック。
[身延道の碑]
いろいろな古い石碑が置かれている。
解説の看板があったので読んでみる。
身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。
街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。
また江戸時代初期には身延山参詣の道としても確立されるが、街道として最も賑わったのは幕府甲府勤番が設置され役人の往来も激しくなった江戸時代中頃からのことである。
[宗像神社]
身延道の碑から旧東海道を150mほど東に行った所に宗像神社の鳥居がある。
参道が100m続く。
[宗像神社]
神社の入口には由緒の書かれた看板が立っていた。
鎮座地 清水市興津中町554番地
祭神 奥津島比売命 狭依姫命 多岐津比売命
祭典 大祭7月31日 大祓特殊神事湯立式12月31日
歳旦祭正月元旦・祈年祭2月17日
節分祭2月3日・日待祭10月17日
看板には「御由緒」も書かれている。次の欄へ続きます。
[宗像神社]
落ち着いた社が建っている。看板の続きを読む。
御由緒
創建年代は不詳 一説に筑前(福岡県)より勧請したともいう。
昔よりの国碑に盧原(よばら)神社、俚俗(ぞく)に宗像神社とも言はれていた。当社は興津川の西にあり女体の森と言って舟人たちの灯台がわりとされていた。
興津川の水源は高瀬・西河内から出た名を浦田川と言っていたが、後に興津川と言うようになった。これは当社の祭神である奥津島姫命の名によって興津川になったとも伝えられている。また興津川の名の起こりも、大昔にこの祭神が八木に乗って大海原を渡り、この地に住居を定めたことから興津と言われるようになったとも言われている。
古くは境内も広く今の小学校新運動場一帯も社域であった。現在地は字宮の後と言うから昔の神社は東海道沿いにあったと思われ、多分高波を恐れて今の地に遷座したのであろう。
当社はもと弁才天宮・宗像弁才天・興津三女の宮・宗形大明神などど称していたが、明治元年より現社名に改称している。
祀官は代々宮川家が受け継いで明治初年に及んでいる。
当社の記録類は明治13年中宿町の大火により焼失している。
諸祈願 交通安全・商売繁盛・開運・家内安全・安産・病気平癒・学業成就・旅行安全・神前結婚式・赤ちゃん初宮詣・七五三祝・厄除・地鎮祭・新築家祓・その他諸祈願を執行します。
[宗像神社]
境内には興津の忠霊塔が建っている。
[宗像神社]
境内にはこんな社も建っています。
[宗像神社]
別の宗像神社の看板を読みます。
「ふる里の自然学習の森」
こんもりと茂るこの森は、昔、沖にこぎ出した船人たちから、よい目印としてたいせつにされたそうです。その頃は、海辺はもっと広々としてクロマツの葉が潮風にゆれていたのかも知れません。
今は道路や家並みに囲まれてしまいましたが、何本も並んで立っているクロマツは、「海辺のふる里の自然」を私たちに教えてくれているのです。
この森は、クロマツやクスノキのほかにも多くの樹木が茂っており、自然に親しむ最適の森で、「お宮の森・お寺の森百選」の一つに選ばれております。 静岡県
[身延道]
身延道に戻って、しばらく入ってみる。昭和に戻ったような商店が目につく。
今は閉じている店も多い。
[身延道]
JRの踏切の手前の路地を右に入るとすぐに「魚伊」という鮨屋があって昼食をとる。
ランチメニューの海鮮丼はコストパフォーマンスが高かった。
[身延道]
身延道へ戻り、JRの踏切を越える。
[果樹研究所]
JRの踏切を越えて線路沿いに左折したところに果樹研究所がある。以前は農林水産省果樹試験場だったが今は独立法人となっている。
ここには日本3大並木の一つ、プラタナス並木がある。
事務的な手入れしかしていないようで、北海道大学のポプラ並木や東京大学のイチョウ並木に比べて見劣りがする。
現地は立ち入り禁止になっていて、説明書きもなにもない。
観光客の訪問を拒んでいるようだ。
[身延道]
JRの踏切まで戻り身延道をしばらく真っ直ぐ北進する。
[身延道]
踏切から800mほどで東名高速のガードをくぐり、なお北進する。
[身延道]
東名高速のガードをくぐってから200mほどの路地を右に入った所に小さなお堂があって、その脇に身延道の道標があった。
以前はここが街道だったのだろうか。
[睦国神社]
今の街道に戻って間もなく左側に睦国神社がある。
[睦国神社]
睦国神社境内には立派な忠霊塔がある。
地元の遺族会が建てたと書かれている。
[身延道]
道はまだまだ真っ直ぐ続く。
なぜか「タクシーのりば」がある。どういう使い方があるのだろうか。近くに駅もバスのターミナルも見当たらない。
[身延道]
日蓮宗妙喜山法泉寺。
創建700年を越える歴史がある。300年くらい前に横山城あたりから現在の地に移って来たらしい。
いぼ取りの「いぼがみさん」で知られている。
[身延道]
法泉寺の本堂。
[身延道]
法泉寺の境内には鐘楼がある。
[身延道]
法泉寺の境内の立派な手入れの行き届いた松。
[身延道]
身延道はまだまだ真っ直ぐ進む。
このあたりになると住宅が多い。
[身延道]
東名高速道路からまた800mほどで新幹線に突き当たる。
身延道に入ってからずっと直進してきたがここで、くの字に曲がる。
新幹線の下をくぐるとすぐに国道52号線に合流する。
今は52号線が身延道と呼ばれている。
[消防学校]
新幹線の下をくぐって左に入ると消防学校がある。
学校の北側あたりを旧の身延道が通っていたとも思わせる。
[三和酒造]
旧の身延道を探しながら進むと古い塀に囲まれた建物があった。
三和酒造と書かれていた。今はやりの地酒があるのかも。
[蓮性寺]
三和酒造の南に蓮性寺がある。
[蓮性寺]
蓮性寺の本堂。
[横山城址]
蓮性寺から北上し、52号線に合流すると左手側にこんもりとした小山が見えてくる。横山城があった所だ。
400mほど国道を進んだあたりに山に向かう小道があるので入ってみると300mほどで山に突き当たる。
横山城址の看板があるので読んでみる。
この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(又は近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎「承久記」に興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来はその被官となった。
延文年間(1356〜61)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交がありしばしばこの城を訪れ、数首の歌が「宗長手記」に残されているが、大永5年(1525)の頃には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。そして永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。そしてこの年正月今川氏真救援のため出兵した北条氏康の軍(「薩った山」に陣をとる)と、4月29日に撤退するまで90日余にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍に拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が「薩った山」を攻めた記録も残されている。
その後武田氏は横山城に城番を置き、支城の一つとして重要視したというが、天正10年(1582)武田氏の滅亡とともに廃城となった。
[横山城址]
看板の横の方から城址へ向かう登り口がある。
[横山城址]
城を実感したくて登ってみましたが途中で道が藪に紛れてしまった。
[横山城址]
石積が所々にあったが当時のものかどうかはわからない。
[身延道]
旧の身延道はどこかがわからないが山の麓に沿って進んでみると「身延路」と書かれた道標の脇に古そうな「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑があった。
ここが身延道だと思い先へ進むがどんどん尾根づたいに山を登っていく。
昔はどこかに下り口があったのだろうが見つからなかった。
[横山城址]
山を登ったことで奇しくも横山城址を見下ろすことができた。
国道52号線へ戻り「龍津禅寺」まで行ってみることにする。
[小島]
国道52号線に戻り横山城址の山を迂回すると小島に入ったと看板が教えてくれる。
看板を読んでみる。
この「小島」の地は、駿河と甲斐を結ぶ要路として発展し、江戸時代宝永元年(1704年)から明治元年(1867年)に至る163年間静岡県中東部唯一の大名であった小島藩(1万石 領地30カ村)の藩政をつかさどった。陣屋の所在地として重要な役割を果たして来ました。
史跡
・小島陣屋跡 北西へ約500m
・酒瓶神社 北西へ約500m
・小島藩主墓所(竜津寺)北へ約100m
・清水市指定天然記念物「ちりめんかえで」(小島小学校) 北へ約1km
この歴史にはぐくまれた伝統と、恵まれた自然を大切にして、「心豊かな住みよい郷土」にしたいと願っています。
[龍津禅寺]
臨済宗妙心寺派の古刹。
街道沿いに立派な塀に囲まれている。
[龍津禅寺]
山門は歴史のある建物。
山門に掛かっている扁額は白隠禅師の落款とのこと。
立派な寺で観光客用なのか駐車場が広い。
[龍津禅寺]
よく整備されていて気持ちがいい。
江戸時代には小島藩主の松平家の菩提寺として厚い庇護をうけた寺。
[龍津禅寺]
山号を知りたくて訪ねたら奥さんが「拈華山(ねんげざん)」と教えてくれた。
本堂の中を案内してくれた。本尊が鎮座している。
[龍津禅寺]
祭壇の上の棚に小島藩、歴代領主の位牌が並んでいる。
その両脇に閻魔像が祀られている。(以前は山門の脇に並んでいた)
13体あってそれぞれ役割が違う。
[龍津禅寺]
白隠禅師が使用したと伝えられる講台が展示してある。説明書きが置かれていたので読みます。
三四講台<清水市指定文化財>
木製 84.0×90.0×137.5
宝暦5年(1755)春に白隠は、龍津寺での開山200年遠忌に招かれ維摩会を講義するが、その際に使用したとされる講義用の椅子。
「白隠禅師使用の講台」
「宝暦5年(1755年)年初より4月末日まで当寺に滞在し維摩経を提唱せし時使用せり。参集せし者実に300名になる、と。時の小島藩主松平安房守昌信公毎日拝聴に来山せり。」
[龍津禅寺]
別室に「須弥山器(しゅみせんき)」と呼ばれる時計のようなものがあって、説明書きが添えられていた。
<須弥山器(しゅみせんき)>
この器は古代印度佛教にいうところの須弥山に型どった木製大型の組立て和時計の一種で時刻と共に天体の運行なども識り得るように製作されている。
文政7年(1824年)秋尾州野呂瀬主税介
6代隠士源直恭68歳の時の製作である。
初め駿府城にあり、後に宝台院に移り、明治10年当寺7世唐山和尚これを譲り受く。
須弥山とは仏教の世界観で世界の中心に聳え立つという高山である。妙高山、妙光山の意味で、水上が八万由句(1由句は40里)水中も8万由句という。無限大の山で、日、月がその周囲をめぐる。
7つの金山がこれを囲み、須弥山との間に7つの海を作る。7金山の外側に鹹海(カンカイ)(塩水を含める海)があり、その外周を鉄囲山という。須弥山は9山と8海とから成り建っている。
[龍津禅寺]
小島藩3代藩主の昌信公の墓所があるとのことで探してみたら山裾を少し登った所に松平と読める墓碑があった。
「従五位 楞伽院殿 圓入止観大居士」
裏には「源朝臣松平昌信行年四十三霜卒」と書かれている。
[小島陣屋跡]
龍津寺のちょっと先の小屋の壁に案内看板があった。
駿河中東部唯一の大名として庵原・有度・安倍の3郡にわたる30カ村を統治した小島藩1万石藩主瀧脇松平氏が、宝永元年(1704年)ここに陣屋を構築、以来160余年間、藩政の中心地であった。
陣屋は、小藩の城郭として古典的なものであったが、明治維新後、小島藩学問所の後身、包蒙舎小学校々舎として用いられ、昭和3年移転によりとりこわされた。
多くの歴史と誇りある伝統を秘めたこの陣屋跡がわたくしたちの精神的風土の一つとして末永く保存されることを願うものである。
[小島陣屋跡]
案内看板の絵図や道しるべ。
散策するのにわかりやすい。
[酒瓶神社]
陣屋跡へ行こうと案内看板の先の坂を登ると「酒瓶神社」の鳥居がある。
この神社の御祭神は大酒大神(大山祇神)、小酒大神(木花咲耶姫)「さかべじんじゃ」と読む。
当初は高根山頂の近くにあったが、火災にあい今の場所に遷宮したとのことです。
[小島陣屋跡]
陣屋跡の前にも案内看板がある。
看板にチラシが置いてあったのでもらって読んでみました。
<小島藩主>
(1)静岡県中東部唯一の大名
幕末における静岡県内の大名配置:西部(浜松、相良、掛川)中西部(横須賀、田中)中東部(小島)東部(沼津)
(2)徳川将軍家の一族
小島藩主瀧脇松平家は、将軍となり徳川を名乗った家康以前の三河松平家の分家(18松平家の一家)
(3)最小領有規模高の大名
「大名」とは、将軍から1万石以上拝領の武将。静岡市域の30ケ村1万石を領有した。因みに最大は加賀前田家102万2千石
<小島藩の家臣>(1)幕府の定めの半数の家臣
幕府の定めた「軍役令」では、1万石の大名の抱えるべき家臣数は235人。「安政分限帳記載の小島藩の家臣数」は、102人でこの半数に満たない。不足の一部は、百姓を武士(譜代足軽:普段は農事に従事、定期に陣屋に出仕)に取立て補った。
<藩政の本拠>
(1)小島陣屋
「陣屋」とは大名の居所・藩政の本拠であることは「城」と同義であるが、2万石以下の大名は、家格を無城主格とされ、「城」を構えることを許されず、居所は「陣屋」と称した。
宝永元年(1704)甲州への要路身延路沿いの小島村の西側台地に陣屋を構築し、明治維新までの174年間、藩政の本拠とした。
(2)国指定史跡
約5000坪の敷地に、「虎口」や「見事な石垣」など「城並みの縄張りの遺構」が良好な状態で残っている。
平成18年7月に、「江戸中期小大名の居所の在り方を解明するために、学術上重要である」との理由により「文化財保護法に基づく国史跡」に指定された。
<藩政の理念>(1)臨済の名僧白隠の教え
臨済宗の名僧「白隠慧鶴禅師」が、小島藩3代藩主松平安房守のために書いた善政指南の書「夜船閑話巻の下」を贈られ、著書に示された「治国安民の教え」を歴代藩主が治世の標(しるべ)として受け継いだ。
<百姓苦闘の歴史>(1)宝暦年間
宝暦年間(1764〜)に小島藩が実施した財政改革による増税は、百姓の生活を困窮させ、「惣百姓一揆」よ惹起、曲折の末、従前通りの貢率に戻された百姓苦闘の歴史がある。
<小島藩が育んだ文化>(1)小藩に育まれた文化
俳諧に長じ、江戸期の俳誌に記されている3代藩主と家臣団、わが国の国文学史上「黄表紙の祖」とされる100石取りの武士恋川春町(戯作者・浮世絵師、本名倉橋格)を排出するなど、小藩ながら特色ある文化が育まれた。
[小島陣屋跡]
さらに坂を登るとさきほどと同じ内容の看板が立っていて、その脇に「小島陣屋跡」の順路と書かれた案内板があった。
入ってみると開けた屋敷跡が当時の空気を感じさせてくれる。
[小島陣屋跡]
屋敷跡周辺には石垣が多く残っている。
[小島陣屋跡]
坂を石垣で区画して屋敷が並んでいたのだろう。
[小島陣屋跡]
かつての繁栄が感じられる。
[小島陣屋跡]
小島の集落が一望できる
見晴らしは良く興津川を通る人はここから監視できる。
−コメント−
ゴールは東海道から外れて身延道を少しだけ覗いてみました。
入江城から横山城・小島陣屋までの10km強の行程でした。
室町から江戸の動乱の繁栄と爪跡が数多くありました。
− 興津 〜 由比 −
由比は由比町として静岡や清水と融合せずに独自の道を歩んで来たから昔の佇まいが随所に残っている。
第一次産業中心の町なのだ。
興津駅から薩った峠を抜けて由比までの8kmの行程。ルートによっては10km程度の行程になる。
[興津宿一里塚]
興津駅から由比へ向かうと間もなく出会う一里塚をスタート地点とします。
街道の民家の片隅にある道標だけが一里塚があったことを教えてくれる。
[身延道]
「江尻〜興津」のページはこの身延道を小島まで入って終了している。
興津や身延道の探索するページへはこちらをクリック。
[興津宿]
身延道の出会いから300mで出会う国道52号線(現在の身延道)を越えると国道1号線も旧道とバイパスへつながる道と分岐する。
もちろん旧道を進む。
[興津宿]
国道52号線から500mほどで興津川に架かる橋を渡る。
[興津川]
興津川を渡っていると3両編成のJR211系とすれ違う。
東海道線の電車はあっと言う間に興津川を渡って行く。
[薩った峠への道1]
興津川の橋を渡ると街道はバイパスに合流してしまう。
合流地点に山側に入る小道があり、ここが「薩った峠」への近道となる。
旧東海道になるのかどうかは疑問があるが雰囲気はある。
「薩った」の「た」は「土」辺に「垂」という字だが使える字でないのでひらがな表記とします。
[薩った峠への道1]
小道を入るとJR線にぶつかる。
踏切もなく歩道もない。「危険ですから近くの踏切を通行して下さい」「よい子はせんろに入らない!」との看板がある。
[薩った峠への道1]
渡って良いのか躊躇するが踏み跡があるし、「よい子」でもないのでバラストを踏みしめ線路を跨いで渡る。
渡った後は線路脇を進む。
[薩った峠への道1]
個人宅に入ってしまうかのような道が続く。
[薩った峠への道1]
先へ行けるのか不安になりながら、怒られる覚悟で前へ進むと道路として利用されていて薩った峠への近道らしい。
[薩った峠入口海岸寺]
道は急坂となり、民家から離れしばらく進むと地蔵さんが並んでいる。
説明書きを読んでみる。
百体観世音は、観音山海岸寺に祭られ、開山は田重甫大和尚、元禄9年6月14日で境内156坪、建立は不詳、延宝年中宗徳院7世田外の法孫秀鉄より尼僧となる。かつては海岸庵として阿弥陀如来を祭ったが天明期火災によって焼失。
駿河国百地蔵86番、東海88ケ所49番の札所で昭和17年仏堂海岸庵を今合寺名とした。
大正4年5年の台風には打ち寄せる大波にこの部落は全滅。それにもかかわらず1人の犠牲者も出なかった事は、波除け如来、百体観世音の御利益ではないかと今でも云い伝えられている。
金色に輝く百体観世音は本堂の波除け如来を中心に左右50体づつ祭られ、境内からは駿河湾、遠くには伊豆半島を望む風光明美の場所にあり、近くには親不知子不知で知られる薩った峠がある。
[白髭神社]
海岸寺のすぐ東側を登った所に白髭神社がある。
[白髭神社]
白髭神社の社殿。
[薩った峠への道2]
薩った峠への近道は観音山海岸寺を通り過ぎ150m坂道を登ると平坦路になり、北側のルートと出会うのだ。
ここでは、海岸寺から興津川の橋まで400mほど今来た道を戻り、北側のルートを進んでみます。
興津川の橋からはJRのガードをくぐり、川の左岸に沿った道を上流へ向かう。
[薩った峠への道2]
300m程進むと「土地改良の碑」が立っている。
薩った峠まで2.3kmの道標も並んで立っている。
[薩った峠への道2]
さらに200m進むと赤いポストの脇に峠へ向かう道標が立っている。
矢印に従い右に入る。
[薩った峠への道2]
200mほど入ると「端泉寺」と書かれた石の道標がある。右に入ればすぐに寺がある。
日蓮宗の「龍光山 瑞泉寺」
[薩った峠への道2]
さらに150mほどで分岐点に出会う。どちらへ行ってもOKのようだ。
[薩った峠への道2]
真っ直ぐ進むと道は突当り、カーブミラーに道案内板が付いている。
[薩った峠への道2]
道には秋葉山の常夜灯も立っている。どこの秋葉山なのかな?
[薩った峠への道が合流]
橋から1km余の行程を進んでやっと先ほどの海岸寺経由の近道と出会う。
近道は500m程の距離なのでずいぶん遠回りになる。
江戸時代には興津川には橋が架かっていなかったので、渡しで渡るとこちらの方が近道だったのかも知れません。
[薩った峠遊歩道入口]
山に向かって緩やかな坂を登ると墓地がある。
ここが薩った峠遊歩道の起点になる。墓地の間を道が貫いている。
[薩った峠遊歩道入口]
墓地の手前の駐車場に面し、四阿が建っていて、遊歩道の説明看板が立っている。
薩った峠は、万葉の時代から岩城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)近くの海中から地蔵菩薩の石像が引き揚げられ、人々はこれを山に祭りました。
山の名も菩薩と同じ意味の「薩った」と呼び変えられたと伝えられていました。
薩った峠越えは、東の箱根越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。
薩った峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)、朝鮮通信使のために山肌を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。
[薩った峠遊歩道]
東海自然歩道の道標。
薩った峠 0.9km 28分
JR興津駅 3.3km 60分
と書かれている。
[薩った峠遊歩道]
墓地の間を抜けると遊歩道は階段状になっていて、しばらく直登となる。
50mほどの高度を稼いだあたりで登りは終わる。
[薩った峠遊歩道]
登り終わった所に道標がある。
「清水市指定名勝 薩った峠」
「由比宿まで一里15町」
「興津宿まで17町」
[薩った峠遊歩道]
看板を読んでみます。
<薩った峠の歴史>
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩った地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩った山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯崎の不来海(こぬみ)の浜にわれ立ち待たむ)
ここに道が開かれたのは1655(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡がみられ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
<薩った山の合戦>
薩った山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が3ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。
[薩った峠遊歩道]
モニュメント状の案内道標。
[薩った峠遊歩道]
富士と山と海、素晴らしい富士のビューポイントだ。
外国人のカメラマンが好場所に陣取っていた。
[薩った峠遊歩道]
遊歩道は平坦になって等高線をたどる。
[薩った峠遊歩道]
フェンスが設置され整備が行き届いている。
[薩った峠遊歩道]
並木道を進む。
[薩った峠遊歩道]
「牛房坂」という石碑がある。
[薩った峠遊歩道]
薩った峠の説明案内碑が立っている。
[薩った峠遊歩道]
富士の景勝地。展望台が設置されていた。
有数のビューポイント。
[薩った峠遊歩道]
遊歩道はもう少しで終了する。
[薩った峠展望台]
700mほど駿河湾や伊豆を眺めながら進み最後に坂を登ると展望台に出る。
展望台に遊歩道を説明する大きな看板がある。
<現在地周辺について>
左手・駿河湾を望む歩道を西に進むと、眼下に由比の町、彼方に富士を望む展望台があります。
更に進めば、興津川を渡り興津駅に向かいます。
右手にある舗装道の三叉路を東に下ると、びわ畑が続く山道を下った先には、重厚な構えを残す東海道名主の館「小池邸」がある倉沢・寺尾地区です。
旧東海道の風情を残す通りを抜け、由比駅に向かいます。
3叉路を北に登れば、浜石岳に向かいます。みかん畑が続く舗装道から杉林の険しい遊歩道が続きますが、このコースは坂道も多いため、誘導標識に注意しながら進んでください。杉林の合間から見える立花池も見どころのひとつです。
浜石岳では、晴天時には広大な大パノラマをお楽しみいただけます。
[薩った峠展望台]
展望台にはいろいろな説明看板や碑が建っている。
トイレもあってのんびりハイキングができる。
[薩った峠展望台]
碑の一つは「薩った峠山之神遺跡」とある。どのような遺跡なのだろうか。
もう一つは「幸田文・文学碑」とある。
幸田文は吉永小百合の「おとうと」という映画の原作者だ。
彼女は全国各地の「崩壊地めぐり」の旅を続けたとのことで、由比地すべり管理センターがあるほど有名なこの地にも立寄ってメッセージを残している。
由比の家ある風景を見ると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう 草木のあるなんでもない山なのだ。
だが、そこを見ていると、なにかは知らず土よいつまでも平安であれ、と念じていた。
[薩った峠展望台]
ここからの富士は有名な富士。
素人でも絵になる写真が撮れる。
[薩った峠展望台]
展望台は駐車場を兼ねていて、興津から由比へ抜ける自動車道に接している。そこまで出ると東海自然歩道の道案内看板があり、その脇には地滑りの工事車両の注意看板も立っている。
その道の発祥は日本武尊にまで遡る。
日本武尊にゆかりの碑があるとのことなので、興津方面へ少し戻ってみる。
[駒の爪]
鬱蒼とした山の隙間を道は通っている。200mも行ったカーブにひっそりと碑があった。
日本武尊遺跡。駒の爪址。とある。
謂れの説明でもあるかな?と探したがどこにも見つからない。
ヤマトタケルが東征の際、険しい山道に馬の蹄が残ったと伝えられている。
[東勝院]
坂を600mほど興津川方面へ下って行った所に東勝院がある。
[東勝院]
薩った山東勝院の本堂。
[日本武尊遺跡]
東勝院から200m下ると石碑と祠が建っていて「日本武尊遺跡」と彫られている。
[日本武尊遺跡]
石碑の裏に謂れが彫られている。
日本武尊が東征の折 傳承によればここで馬の足を濕し沓を取替えたと云い沓掛明神社並びに井戸の跡である。
これより東に駒を進め峠の手前で踏みつけた岩に蹄が残った。困って「駒の爪」の名があり地名として今に傳えている。
峠を越えたところ鞍がずれ落ちたことから鞍佐理(鞍去り)明神社の跡である。
昭和55年 興津地区老人クラブ連合会建之
[薩った峠農道]
薩た峠の展望台まで戻り、農道のような旧道を下ると由比に出る。絵になるような富士は一時見納めになる。
この辺りは様々な果樹が生産されているので無人販売で時期の果物が楽しめる。
[由比西倉沢]
ここから農道のような旧道から普通の旧道に交わる。
街道沿いの民家が立ち並ぶ。
[西倉沢一里塚]
一里塚の跡を表す碑が立っている。
<一里塚(由比町西倉沢)>
江戸から数えて40番目の一里塚である。
江戸から凡そ160キロの距離になる。
ちなみに由比駅〜東京駅間は158.4キロである。
この一里塚は薩た峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。
<薩た峠の説明文>
戦国時代、足利尊氏が弟直義合戦せし古戦場として知られ、又東海道随一の難所「親知らず子知らず」の秘話が伝えられている。
峠は磐城山ともいい万葉集に「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」と詠まれ江戸時代、安藤広重の東海道五十三次のうちここ薩た峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものはあまりに有名です。
(山ノ神 薩た峠の風景は 三下り半にかきもつくせ 蜀山人)。
[由比西倉沢]
間の宿脇本陣の柏屋。
[由比西倉沢]
倉沢は旧東海道を味わえる家並みが続く。赤い郵便ポストが似合う家並み。
[西倉沢]
古い味のある建物が多い。
[宝積寺]
「ほうしゃくじ」と読むとか?。
古くからある寺のようだ。
曹洞宗「倉沢山 宝積寺」
[権現橋]
小さな沢をいくつか跨ぐ。
[鞍佐里神社]
街道脇に鳥居がある。神社は階段を登る。
説明看板を読む。
<鞍佐里神社くらさりじんじゃ>
「日本武尊が東征の途次賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、其鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。依って鞍去の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転化したともいわれている。
鞍佐里神社は尊が野火にあった薩った峠の雲風か山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。
神社拝殿の蟇股には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。
平成4年3月 由比町教育委員会
[鞍佐里神社]
街道から登った所に雰囲気のある神社が見える。
これが鞍佐里神社だろうか?
[八阪神社]
街道には神社が目につく。
[中峯神社]
さらに神社がある。看板を読む。先ほどの権現橋の所に看板があった。
寛政年間(230年位前)藤八という村人が他界し、後に天狗になって倉沢の火防守護をするといわれて藤八権現として祭られたといわれます。
安政5年6月(116年前)この辺りを襲った山津波により記録が流出し、由緒は不詳ですが、昔は富士浅間大菩薩といい、明治維新後、社殿が東・西・倉沢の中峰にあるので、中峰神社と改められました。
祭神 木花之開耶姫命
祭日 4月3・4日
戦争中は武運の神様として近郷近在からの参詣人で賑わいました。
[街道からの富士]
正面に富士が見える。
この先からは富士が見えなくなる。
[あかり博物館]
由比の寺尾地区に入ると「あかり博物館」と書かれた建物がある。
500円を出して元をとれるほど時間にゆとりがないので先を急ぐ。
この周辺は雰囲気がいいので、またの機会にのんびりと来たい。
[潮音寺]
「あかり博物館」の前の路地を山の方に入ると潮音寺の階段がある。
[潮音寺]
潮音寺は質素なお寺。
寺の建築物は無く住宅と併用の建物らしい。
[小池邸]
木の塀に囲まれた所に看板が立っていた。
(国の登録有形文化財)
小池邸
小池家は江戸時代には代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。
名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。
この建物は、明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸・ナマコ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました。
静岡市
[由比寺尾]
町並みは一旦途切れた後、寺尾という地区になる。
時計があしらわれた掲示板が立っていて、古い街並みになじんでいる。
[由比寺尾]
懐古調の町並みが続く。
[中の沢2号橋]
小さな沢が続き、小さな橋をいくつも渡る。
[讃徳寺]
山側の建物は日蓮宗「海上山 讃徳寺」。坂にへばり付くように建っている。
寺のまえに案内看板が立っている。
所在地 由比町寺尾上ノ屋敷549
当山は地元の長者河西六郎右衛門勝長が寛文9年(1669)自邸を提供して開基した。
開山は慈雲院日覚上人。本尊は一塔両尊四士曼荼羅
境内の七面堂には木彫極彩色の七面天女像が祀られており元禄3年(1690)阿闍梨本光坊日恕(当山5世)の背銘が記されている。当時悪疫防除のため、この地域で広く尊崇された。なお、平成6年町文化財(彫刻)に指定された。
また、正面石段をのぼり左手に谷口法悦が元禄4年に建立した大きな題目塔があり貴重である。
[宗像神社]
讃徳寺の山側へ入った所に宗像神社がある。
[由比寺尾]
旧東海道の面影が続く。
[由比寺尾]
さらに旧東海道の面影が続く。蔵も見かけることができる。
[由比寺尾]
この地区は丸のまま保存されていたみたいだ。
[由比寺尾]
旧東海道は国道1号線に合流し、寺尾と書かれた歩道橋を渡りJR由比駅へ向かう。
[由比国1]
JR由比駅へ向かう前に国道1号線を進んでみる。
[北野天満宮]
600mほど国道1号線を進むと山側に今宿の天神さんと呼ばれる神社がある。
このあたりは「今宿」という地名になっている。
[旧東海道]
先ほどの寺尾の歩道橋まで戻って由比駅へ向かうことにする。
[由比駅]
最近の標準的なローカル駅。
[由比駅]
「由比駅記念碑」と書かれた碑が立っていた。
ここに駅を作る際に多くの人の協力があったのだろう。
[由比駅]
駅前の観光看板を読む。
<由比本陣公園・東海道広重美術館>
由比宿は、お江戸日本橋を立ち、品川から数えて16番目の宿場で、本陣、脇本陣、旅籠が立ち並んでいた。
その本陣跡に江戸時代を代表する浮世絵師、歌川広重をメインテーマにした、日本でも初めての美術館を建設し、浮世絵と広重の画期的な世界を紹介。また、公園内には明治天皇御休憩の離れ「御幸亭」を再現している。 徒歩約30分(2.0km)
<浜石岳>
浜石岳の頂上は、グルッと360度の大パノラマ。目の前には雄大な富士山、駿河湾の向こうには、伊豆半島、右に清水港、三保半島、北を向けば遥か彼方に南アルプスの山麓が広がる。
また8合目には、青少年野外センターがあり、多くのキャンパーやハイキング者でにぎわう。徒歩約2時間30分(7.2km)
<薩った峠>
由比町と清水区との間、駿河湾に突き出した山の○にある峠で、昔は東海道の難所だった。
現在は、東海道本線、国道1号、東名高速道路が峠の南で重なり、富士山を背景とした写真撮影の名所として知られている。
歌川広重の東海道53次「由比」にも画かれており、当時そのままの風景を見ることができる。徒歩約45分(3.2km)
<由比漁港>
由比は、「日本一桜えびの町」。
明治27年望月平七氏と渡辺忠兵衛氏により桜えび漁法が発見され、平成6年に100周年を迎えた。これを記念し「桜えびモニュメント」が設置されている。
また、シラス漁や、アジ、ブリなどの定置網の水揚げも行われている。その他太公望に大人気の釣り場もある。徒歩約5分(0.5km)
<小池邸>
由比の西はずれの寺尾、倉沢は旧東海道の雰囲気を色濃く残している通りです。
東海道名主の館「小池邸」は、明治期に建てられたもので、当時のこの地域の街道沿いの民家の面影をよく残しています。徒歩約8分(0.8km)
<東海道由比宿交流館>
由比町の歴史に触れる場、観光の情報発信の場、また、地域や世代を越えてふれあう場として多目的に利用できる施設です。
館内には町の観光案内やミュージアムショップ、レストコーナーもあり、休憩のできる施設です。徒歩約30分(2.0km)
[駅前]
駅前といえども商店は少なく、人通りが少ないことがうかがわれる。
[最明寺]
由比駅から800m近くは標準的なローカルの町並みを進む。「町屋原」という地名になった所の路地を北へ400m入った所に最明寺がある。
看板が立っているので読みます。
<仏光山 最明寺 臨済宗妙心寺派>
所在地 由比町町屋原竹ノ尾213
鎌倉幕府執権、北条時頼の開基、寧一国師の開山とされ、寧一山は中国の生まれで、元の世祖が彼の才学を認め、密偵として西安元年(1299)日本に派遣されたが、見破られて捕えられ、伊豆修善寺へ幽閉された。のち許されて鎌倉円覚寺、建長寺を主宰した。
本尊は阿弥陀如来像で、宝冠、棟珱洛をつけた類例の少ない仏像で、鎌倉時代初期の決慶、若しくはその弟子の作と鑑定され、町文化財に指定されている。
裏の庭園は、自然美を生かした名園として知られ、庭の池には、以前は蟇蛙や森青蛙などが、交尾期になると何所からともなく無数に集まり、蛙合戦として有名であった。
平成5年3月 由比町5年3月 由比町教育委員会
[最明寺]
本堂。
本堂と観音堂の前に観世音菩薩とを説明した看板が立っているので読みます。
<南無観世音菩薩>
わたくし達が普段なにげなく、ご利益を求めて礼拝している観音さまとは、いったいどういう御方なのでしょうか。
菩薩さまであられる観音さまは「上求菩薩、下化衆生」
仏さまでありながら衆生救済のために衆生への慈悲のあまり汗と塵にまみれて現世に降りてこられる仏さまです。
観音さまのお力を必要とする人があればそれがどこであろうとお姿を、あらわされ「無垢清浄光、慧日破訪闇能伏災風火、善明照世間」そのお慈悲のけがれのない清浄な光は、あらゆる災禍をうちやぶり明るく世界を照らし出します。
私達もこの白寿観音さまのおこころに心を少しでも近付けるように努力して、いつも人々の中にいるようにして人の喜びや苦しみを自分のものとして感じ観音さまの神通力を自分自身の神通力として頂戴することができるようになります。
だれもみな平等に年をとります。差がでてくるのは、その年のとりかたです。
「知恵の長寿とは本来壱如」といいます。健康で幸せな毎日の為に心の曇り、心の「ぼけ」からまずとりのぞいていくことが大切です。心にいつも白寿観音様を念じお心を十分に理解しようと努め白寿観音さまのお心に自分自身の心を近付けていくように努力しようと発心することです。
心を澄ませて白寿観音さまの無垢洗浄のありがたい光を感得するつもりでおまいり下さい。
姿をかえられた白寿観音さまに必ずお会いになれます。
白寿観音さまにお願いして「ぼけ」を封じてもらいましょう。
合唱
<観音堂>
この観音堂は駿河の国観音霊場第24番の札所であり「物見山観音」と呼ばれており、お堂の中には明治初期に廃寺となった物見山慈眼院の(延命寺外仏堂)御本尊であった「宮殿型厨子入十一面観世音菩薩」が御本尊として祀られています。
御本尊の左側には文化11年(1814年)駿府の大仏師藤邑定慶の作で「善光寺型阿弥陀三尊」右側に「鎮守弁天財十二童子」が祀られています。
「阿弥陀三尊」は長野の「善光寺本尊」を模して作られたもので、一つの光背に「阿弥陀如来」右に「聖観音」左に「勢至菩薩」を配し下部は男女の従者を置くもので例年8月に「観音まつり」が賑やかに催されます。
[和田碑]
街道に戻り200m東へ進んだ路地を北へ入る。
山側へ上ると直ぐに和田盛夫忠魂碑と書かれた碑が閉ざされた塀に囲まれてあったが、謂われはわからない。
公爵と刻まれており、由比の地元に貢献した人なのだろう。
[豊積神社]
さらに山側へ緩やかな坂を上ると由緒ある寺社である「豊積神社」がある。看板を読む。
<豊積神社由来>
延喜式神名帳に「駿河国蘆原郡豊積社」とあり、ここの地を町屋原と称するのは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第40代天武天皇の白鳳年間ここに5穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。
平安時代に入り木花開耶姫を祀る浅間信仰が広く流布され、延暦10年(791)神主の夢想神託により木花開耶姫を祭神とし、豊受姫は稲荷社として境内社に遷宮された。
延暦16年、坂上田村丸が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月1日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し3日3晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。
平成14年12月 由比町教育委員会 由比町文化財保護審議会
[豊積神社]
御神木がある。看板を読む
<御神木指定証>
静岡県神社庁ご神木
審査委員会の議を経て御神木に指定します
静岡県神社庁
[地持院]
豊積神社の東隣に地持院がある。
山門脇の説明看板を読む。
<臨済宗妙心寺派 地持院について>
当山は往古、地持院山の麓か西山寺にあったと思われるが、天正年間(1573〜92)暗室和尚により現在地に移転再興された。
爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行ってきたが、明治初年の神仏分離策により、およそ現在の寺形になった。
木尊地蔵菩薩は鎌倉時代初期、慶派(運慶・快慶の流れ)仏師の作で静岡市文化財に指定されている。
他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地獄」等がある。
永代供養塔「永安廟」や四十四面の襖絵、枯山水「彼岸庭」の寺としても知られている。
本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立。開山暗室和尚より現住職鮎川博道和尚で27代目。
[地持院]
臨済宗「北田山 地持院」の本堂。
[桃源寺]
地持院の南に桃源寺がある。
<金谷山 桃源寺 臨済宗妙心寺派>
開基は今川の被官矢田淡路守で、矢田砦を守り砦の麓、桃源の地に寺を造営したと伝えられ、正保2年(1645)中興の祖といわれる耽源和尚が、現在地に本堂、庫裏を建て移転した。
境内に端麗な7体の観音菩薩像の石仏が並んでいる。文化12年(1815)信州高遠山室、北原佐吉の作銘が刻まれている。向かって左から不空羂索、如意輪、准胝、十一面、馬頭、聖、千手の7体で、仏像の典拠にのっとって忠実に彫刻されたもので、駿河の石造美術の創始者といわれた高遠石工の代表的作品と評され、町文化財に指定されている。
境内の大いちょう(雌木)も町指定文化財であり、山門わきの双体道祖神は、富士川以西では珍しく、貴重な一体である。
平成5年3月 由比町教育委員会
[桃源寺]
桃源寺の本堂。
[桃源寺]
桃源寺の境内に大イチョウの木がある。
[静岡銀行]
街道へ戻ると静岡銀行がある。古い街並みを意識したデザイン。
[由比宿]
街道にはこのような造りの家が多い。
[妙栄寺]
JAがある路地に入ると日蓮宗「経塚山 妙栄寺」がある。
門前にある由緒書を読む。
<経塚山妙榮寺>
宗派 日蓮宗
本尊 一塔両尊四士
守護神 鬼子母大尊神
開山 江戸時代 蓮乗院日満上人
由緒沿革
天正12年(1584)12月に蓮乗院日満上人が当境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没してあるのを知り、土地の有志と話し合って石塔と草堂を建立した。これを経塚山妙榮寺と号し、自ら開山となって、身延山窪之坊に属せしめたのが当時の起源である。
当時は3間4面の辻堂にして無檀無禄、住職は名義のみであったが、17世紀観静院日徳上人が再興を図ったものの間もなく清水市安穏寺24世に転じて果たさず、由比本光寺23世日順上人、正法寺19世日請上人等が兼務したが、後に荒廃に及んだ。
明治23年篤信家 望月与平氏が堂宇を修繕して題目修行の道場とした。
翌24年長田村広野(現静岡市広野)の富田とよ女子が当堂に来て仏祖三宝に給仕していたところ、27年4月海野久太郎氏が霊験を経て難病が平癒したので出家し、当山の法灯を継承した。
その後日豊法尼と18世日久上人の心願によって現堂宇が建立された。
本堂内には日蓮宗の開祖日蓮聖人尊像のほか法華経の守護神である鬼子母尊神が奉安され、霊験あらたかなところから参詣者が絶えない。
[由比支所]
由比町当時の役場。
今は静岡市と合併して由比支所となっている。
[由比川橋]
由比川にかかる橋。
[延命寺]
橋を渡って100mほどの路地を北へ入ると寺の山門が見える。
延命寺だ。山門脇に寺の説明が書かれています。
当寺の本堂内に3点の町指定文化財の仏像あり
拝観料無量。
玄関で申込をして下さい。御朱印もあります。延命寺住職
[延命寺]
延命寺の本堂。
<松石山延命寺(浄土宗)>
由比町由比北本町315
天正7年(1579)、由比本陣職岩辺郷右衛門と加宿問屋職由比太郎左衛門の開基、良公上人の開山とされる。
伝承によると、昔この地に真言宗の東方寺があり、 その伽藍の中の延命地蔵堂を改修したのが始まりといわれる。
本堂に祀られている町指定文化財の延命地蔵菩薩立像は、総高220cmの大型の寄木造の仏像で、円頂・彫眼・白豪相をあらわし、
納衣は通肩にかけ、左手に宝珠、右手に錫丈を持ち、両足を揃えて直立する。
後世の着色のため正確な製作年代は不詳だが寛文9年(1689)由比本陣職岩辺郷右衛門による修理銘の木札が胎内にある。
平成6年3月 由比町教育委員会
[和紙錦織の館]
街道に木板の壁の建物が立っている。
[正法寺]
錦織の館の脇の路地を入ると寺の山門が見える。
正法寺だ。しょうぼうじと読む。山門脇に句碑が建っている。
<正法寺・句碑>
残り田は 十代にすぎじ 明日はただ ゆひも望まで 早苗とりてん
光山 書
[正法寺]
正法寺の本堂。
<光栄山 正法寺(日蓮宗)>
所在地 由比町由比北本町300
太平洋戦争で供出された梵鐘に、文保元年(1317)浄円の草創であるとの銘記があり、この浄円は由比郷初代の領主「由比大五郎光高」の孫といわれ、現在の由比本陣、正法寺の位置に居館を構え、近郷を統治していた。
本堂別座の霊鷲山曼陀羅は、文化4年、京都の仏師林如水作で、霊鷲山型の懸崖に、仏菩薩像が宝塔を囲んで配置され、なかでも小像の大黒天、愛染明王の台座にネズミ、竜の極小彫刻が嵌めこまれている見事な作品で、町指定文化財である。
「慶長17年奥書木版法華経」(慶長文段経)が保存されている。身延山久遠寺22世日遠上人が、慶長17年(1612)に刊行されたものである。
参道の題目塔は、貞治元年(1362、北朝年号)建立のもので、町内最古の石碑である。
平成5年3月 由比町教育委員会
[郵便局舎]
街道へ戻った所におもしろ宿場館があり、横に明治の郵便局舎がある。
江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治4年3月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。
明治39年5月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年まで使用され、現在は平野氏宅となっている。
[脇本陣]
明治の郵便局舎と由比正雪の生家?とされる紺屋との間が脇本陣だ。
脇本陣とは、副本陣という意味です。
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が3軒ありました。そのうち江戸時代後期になるころ、徳田屋に代わって、つとめたのがこの羽根ノ屋とおもわれます。
この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根ノ屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本陣を願い出たことが史料にあります。
[本陣]
脇本陣の向かいには本陣がある。
馬の水呑み場
この横の長い水路状の濠、(幅1m、東西20m)は馬の水飲み場といって、むかし大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたところです。したがって水深も、もとは60cmもありました。
屋敷の前の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいものです。
[本陣]
本陣は「由比本陣公園」として整備され、「東海道由比宿交流館」「広重美術館」が建てられている。
ここは由比宿の本陣跡で屋敷の広さは約1300坪もあり、そのまま今日に伝えられました。
大名等が休泊した母屋は、表門を入った正面にありましたが、明治初年に解体されました。
向かって左手奥の日本建築は、明治天皇がご小休された離れ館を復元したもので、記念館「御幸亭」といいます。付属の庭園は「松榧園」といい、山岡鉄舟が命名したものです。
右手奥の洋館は広重美術館で、もとこの位置には土蔵が立ち並んでいました。
[本陣]
本陣公園には「御幸亭」が復元されている。
本陣記念館「御幸亭」
大名が止宿した本陣の主屋に対し、ここは離れ館で、明治天皇もご小休されましたので記念館「御幸亭」と命名しました。旧建物は老朽化しましたので出来るだけ当時の様式にのっとって復元しました。付設の茶屋は「結仁齋」と名づけました。
南側の池泉回遊式庭園は「松榧園」といい、由来は家康公お手植えの松 馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名しました。また北側の枯山水の築庭は、小堀遠州作といわれており当時の石組を修復・再整備し植木も補植して、遠州好みの趣きを伝えています。
[本陣]
「広重美術館」には多くの浮世絵が収蔵されていて期間ごとに入れ替えられている。
[由比正雪生家]
本陣前にある紺屋。由比正雪ゆかりの家だ。
由比正雪の生家は葵区宮ケ崎にあったともいわれている。
表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。
慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。
[大法寺]
広重美術館のすぐ裏にある寺。
こんもりとした木に包まれている。入口の看板を読む。
<八幡山 大法寺 臨済宗妙心寺派>
所在地 由比町由比字地景676
寺伝によれば天正13年(1585)由比助四郎光教の子光広の妻によって開創された。
開山は堅翁宗固和尚、本尊は如意輪観世音菩薩である。
ここは駿河一国33観音の25番札所、また駿河・伊豆両国33観音の横道22番札所になっている。
なお正面石段をのぼり左手には、海上安全を祈願する金毘羅堂があり、右手には、天保6年(1835)由比本陣岩邊郷衛門光端が先祖並びに両親菩提のために建立した貴重な宝きょう印塔がある。
平成19年10月 由比町教育委員会
[飯田八幡宮]
大法寺の東側に飯田八幡宮へ向う参道がある。
鳥居脇の看板を読む。
飯田八幡宮<由緒碑>
神社名 飯田八幡宮
鎮座地 静岡県庵原郡由比町由比671番地
御祭神 誉田別命(應神天皇)
相殿 山八幡大神
当社は由比氏に依り天正13年(1585)建立され祭祀されてきた。
その後下地景、矢崎、節井の八幡社が合併され更に明治4年今宿八幡平の山八幡社がここに遷座され五社八幡宮となる。
当社の創建は神護景雲2年(768)といわれ御神体の僧形八幡像は大永8歳由比出羽守光帳の子内膳大宅光教寄進の墨書がある。
正徳年間(1713)火災のため社殿と古記録を焼失す。
享保12年(1727)6月社殿を造営
明治33年(1900)5月由比習治氏は当社を村社として由比区に寄進
大正3年(1914)参道を開き石段を造成す
平成7年3月吉日建碑 由比区 氏子中
宮司 平岩 勉
[由比宿]
街道へ戻って本陣を振り返ってみる。
[由比宿]
本陣の周辺は伝統を感じさせる建物も多い。
[由比宿一里塚]
本陣から300mほど進むと左側の家の脇に一里塚の碑が立っている。
[由比宿一里塚]
碑の向い側に植樹された小さな一里塚があって案内看板が立っていたので読んでみます。
慶長9年(1604)江戸幕府により、行旅の便をはかるため、東海道・中山道・北陸道に設けられ、一里が36町、1町が60間と定められ、塚には榎や松の木が植えられた。
由比の新町の一里塚は江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661−71)山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。
十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。
[由比宿]
一里塚を過ぎると由比宿も終わり、先に見える東名高速道路の下をくぐると蒲原に入る。
興津から由比の散策はここで終了する。
蒲原を散策するページへはこちらをクリック。
−コメント−
由比は旧東海道を満喫できる街道歩きができる。
多くの旅人と出会える。多くはリタイアした人たちが多いが、外国人にも何人か擦れ違った。
薩った峠で行ったり来たりしたので全10kmを越える行程となった。
− 蒲原 −
蒲原の宿から富士川までの行程。
[由比宿から蒲原へ入る]
由比のページは蒲原神沢地区に入った所でゴールだった。
すぐ先の信号で旧国道1号線(現県道396号)と合流する。先に見える東名高速道路の下を進む。
由比を探索するページへ戻るにはこちらをクリック。
[蒲原]
東名高速道路をくぐる手前を北へ曲った山の麓に海寶寺がある。
[蒲原]
海寶寺の本堂は坂か階段を登った所にある。由緒書きがあったので読む。
<西木戸・茄子屋の辻>
沿革
当寺は、臨済宗(禅宗)京都妙心寺(建武4年西暦1337年)を大本山として、開山無相大師の一流の禅を宗旨として霊雲派太原小波を伝承しています。
寺名は「神澤山海寶寺」と呼称し、開山は天栄澤和尚大禅師で開創年代は不明です。
鎌倉時代の作とされている塔(由比川山奥の石)が当山に保存されています。
室町時代には京都より公家が来山した記録があり、江戸時代に一度全焼し約50年間建物のない時代もあったといわれています。
尚、当寺歴代住職三浦海寶院の読経によって蒲原城主北條新三郎(外700余名の兵士)の霊魂、一眼の亡霊を慰めた(蒲原町教育委員会文化財保存審議会及び富士市善徳寺史跡保存会刊行)とあります。
<文化財>
観世音菩薩 元禄2年2月
庚申像(日月荒神石仏)元禄6年6月
地蔵菩薩 天明3年4月
三界無縁塔(四来流死者菩提供養石) 安永8年4月
累跡 ○公家来山の絵 茶掛 応仁2年5月〜文明9年11月
○和歌 灰田中納言右近衛権少将源重親 茶掛 天文年中
○ねこの絵 狩野探幽作 茶掛(手許不在)
○ごうてん老師 自讃 頂相
大本山妙心寺初代管長で名古屋徳源寺住職 明治時代
○全国往来通行札(往来一札之事=石原家蔵)の押印札 江戸時代
[蒲原]
東名高速道路をくぐるとしばらくは県道を真っ直ぐ進む。
[蒲原駅]
東名高速道路から600mほどで蒲原駅がある。
東海道線のいなか駅。
[蒲原駅前の家?]
蒲原駅前だというのに、このような建物がある。
開発の手が入っていない証拠だ。
[蒲原宿西木戸]
駅前を過ぎて平凡な景色が続く県道を2km近く直進すると道路の左側に西木戸の案内碑がある。
この西木戸の案内碑から西に折れ、旧東海道の趣きある街道になる。
[西木戸の案内板]
蒲原宿案内板の横に立て札のような西木戸についての説明書きがある。
<西木戸・茄子屋の辻>
蒲原宿の西の入り口には木戸があり「西木戸」と呼ばれていました。
もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。
この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列乱闘が始まり、70人近くを倒しました。しかし、追ってに見つかり殺されてしまいました。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
[蒲原宿の案内板]
<蒲原宿について>
蒲原宿は、江戸から37里(148km)品川宿からかぞえて15番目の宿場です。
徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道五十三次の宿場のひとつになりました。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にありましたが、元禄12年(1699年)8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により大きな被害を受け、元禄13年(1700年)に山側(現在地)に移転しました。
天保10年(1839年)の宿場の規模は、宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と旅籠45軒で、富士川の川留めの際などには大変な賑わいを見せました。
[蒲原宿の案内板の続き]
<西木戸跡>
蒲原宿の西の端にあり「西見附」ともいわれました。見附の入口に柵を設けたことから「木戸」ともいわれ、東西木戸の間を「木戸内」と呼びました。
<浦高札場跡>
海に近い蒲原宿は、蒲原の津(港)を経由する海上交通の盛んでした。浦高札は海船、川船など船舶一般の取締りの「おふれ書き」で、これを掲示した所が「浦高札場」です。
<高札場跡>
柵会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は、幅2間5尺(5.1m)奥行4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の大きな規模のもので、ここには幕府の「おふれがき」が掲示されました。
<御殿道>
徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった「蒲原御殿」。御殿の位置は明らかではありませんが、桜の名所「御殿山」宿内に残る「御殿道」にその優美な名前をとどめています。
<本陣跡>
蒲原宿の本陣は、江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家でつとめていましたが宝暦年間(1751年〜1763年)に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣をつとめました。平岡家は明治11年に京都に転居しました。
現在の建物は大正時代のものですが、邸内には今も大名が駕籠を置いたといわれる「御駕篭石」が残っています。
<木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵>
木屋の屋号をもつ渡辺家は、江戸時代末期、蒲原宿の問屋職をつとめていた旧家。
今も残るこの3階建ての土蔵の中には、江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されています。
<問屋場跡>
問屋場(といやば)とは幕府の荷物のとりつぎ、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物のとりつぎをしたところで、各宿内に1ヶ所ずつ設置されていました。
<「蒲原夜之雪」記念碑>
歌川(安藤)広重描く、「東海道53次シリーズ」の中でも「蒲原夜の雪」は最高傑作といわれています。
広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して、碑が建てられました。
<東木戸跡>
蒲原宿の東の端にあり、「東見附」といわれていました。
東木戸跡には、当時の「常夜灯」(文政13年、1831年)が残っています。「宿内安全」と刻まれた「常夜灯」には夕暮れになると、ここから「蒲原宿」にはいるという目印の灯がともされました。また、東木戸のすぐ西側の所で、道路がわずかに「鉤の手」なっています。これは幕府が戦略のひとつとして作ったもので、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう、また、軍勢の流れを阻止するためのものです。
<一里塚跡>
一里塚は慶長9年(1604年)江戸日本橋を起点として36町(1里・4km)ごとに築かれた塚です。この一里塚によって、人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基準に賃金も算定されました。
蒲原の最初の一里塚は、元禄12年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものです。当時のおもかげはなく、今は小さな祠が残っています。
[蒲原宿]
県道から離れて古い町並みへと入る。
ここから蒲原宿の核心部となる。
[五十嵐医院(現在)]
五十嵐医院は内科小児科のようだ。
登録文化財に指定されている旧五十嵐歯科医院の子孫だろうか??
[泉龍寺]
五十嵐医院の手前を左に入り、寄り道をする。
旧町役場の蒲原支所の手前を右に曲がると突当りが曹洞宗「道場山 泉龍寺」だ。
[泉龍寺]
泉龍寺には釣鐘堂がある。大晦日には活躍するのだろう。
[城源寺]
泉龍寺の西隣に臨済宗妙心寺派「萬松山 城源寺」がある。
[城源寺]
城源寺も泉龍寺と同じように参道の奥に佇む。
[和歌宮]
泉龍寺のすぐ東側が和歌宮神社。
県道から参道をたどってみる。
[和歌宮]
神社入口に泉があって鴨の親子が遊んでいた。
[和歌宮]
入口に看板があったので読んでみます。
和歌宮神社の由来
御神体 山部赤人大神 木花開耶姫命
草創 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ
不尽の高嶺に雪は降りける
奈良初期の万葉歌人36歌仙の一。古来、柿本人麻呂と共に歌聖と称された自然歌人。736年、東道に際し、当蒲原宿吹き上げの浜より富士山を望み反歌を詠せらるとの因縁を以てここに一社を建立、和歌の宮と称し、また富士を歌題とせし縁故により富士浅間木花開耶姫命を祭り浅間と奉称した。
<注> 蘆原郡多胡浦浜に黄金を獲てこれを献ず「続日本記」多胡浦浜とは、清水区蒲原海岸全域を指し、特に風光明媚な、吹上げ附近の浜と言い伝えられている。
<略歴> 蒲原城合戦・永禄12年(1569年)12月 甲斐の国武田信玄との三度びの戦いにより蒲原城は落城、城主北条新三郎綱重は討死、この戦いで、社殿及び山部赤人翁の神像、伝記、宝物等焼失した。
寛永11年(1634年)焼失65年後、再建昭和35年(1960年)現在地社殿再建
神事 夏祭り 茅の輪くぐり 湯立て神事
秋祭り 御神輿渡御行列
元旦祭 初詣
[和歌宮]
境内東側には忠霊塔が立ち、西側には忠魂碑が並んでいる。
[長栄寺]
街道へ戻るとすぐに石碑が立っている。
路地に入ってみると真宗の「法流山 長栄寺」。
[長栄寺]
このあたりは寺や神社が並んでいる。
この寺にも釣鐘堂があって、大晦日はどうなるのだろうと心配してしまう。
[妙隆寺]
長栄寺に隣接している寺は日蓮宗の「道場山 妙隆寺」。
蒲原宿は寺と神社が所せましと続いている。
[蒲原宿格子戸]
妙隆寺から街道へ戻った所に「増田家」という格子戸がきれいに磨かれた家が左手にある。
[志田邸]
東海道を彩る建物が多く残る町並み。
「増田家」から100mの右側に「志田邸」があって、看板があったので読んでみる。
<国登録文化財「志田家住宅主屋」>
蔀戸(しとみど)のある家。
志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。
安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側2階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町屋形式の典型です。
蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下2枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部解放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました。
平成13年9月14日に国登録有形文化財に登録されました。
[旧五十嵐邸]
「志田邸」から50mたらずの左側に素敵な洋館が目につく。「旧五十嵐歯科医院」だ。
<国登録文化財「旧五十嵐歯科医院」>
大正時代の洋館
旧五十嵐歯科医院は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物です。当時の洋風建築としては珍しくガラス窓が多く使われ開放的であり、下見板のペンキとあいまってモダンな息吹が感じられます。
大正3年、五十嵐準氏が自宅を3回にわたり洋風に改造し、歯科医院を開業しました。水道がなかった時代、井戸水を2階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、当町在住の元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。
平成12年10月11日に国登録有形文化財に登録されました。
[御殿道跡]
旧五十嵐邸のすぐ前に南から出会う路地が、かつての御殿道だったらしい。住宅の脇に碑と看板が立っていた。
<御殿道跡>
かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。
御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなみに、寛永一一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
[高札場跡]
旧五十嵐邸のすぐ先にある柵区会館の前に看板が立っている。
<高札場跡>
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立て札のことで、辻札ともいわれました。宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。正徳元年(1711)に出された五高札が有名で(1)伝馬に関する定(2)忠孝を奨励する定(3)毒薬や贋銀売買禁止の定(4)切支丹宗門禁制の定(5)火付(放火)重罪の定、が墨書されて掲げられていました。また貨客運搬の駅馬や人足の賃銀も改定のたびに掲げられました。
[若宮神社]
柵区会館の路地は若宮神社の参道となっている。
「和歌宮神社」とは読み方が同じですが別の神社です。
鳥居をくぐると拝殿があるが本殿は急な階段を上った所にある。気をつけないとかなり危険な階段だ。
[楳田医院]
うめだいいんと読むのでしょうか。楳田医院も洋館。蒲原で医院といったら洋館が定番だったのだろう。
[磯部家]
「楳田医院」のすぐ先に「磯部家」がある。
説明書き看板を読む。
<手づくりガラスと総欅の家(磯部家)>
明治42年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、長年磨き込まれた木目がみごとです。
2階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。
日本における板ガラスの生産開始が明治40年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。
[蒲原宿]
磯部家のすぐ先に信号機があって、蒲原城址や善福寺へと向かう道と交差する。
交差点から見える家も謂れはわからないが古い。
蒲原城址と御殿山を探索するページへ行くにはこちらをクリック。
[本町会館]
信号を渡ってすぐの右側に本町会館がある。煉瓦の塀が建っているが、何かの名残なのだろうか?
[和泉屋鈴木家]
本町会館の向かえ側に旅籠だった建物がある。
<旅籠「和泉屋」(鈴木家)>
当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830〜44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。
今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
弘化2年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2軒に仕切られています。
[本陣跡]
「和泉屋」の向かいは本陣跡だ。
黒塀に囲まれ威厳がある。
<本陣跡>
本陣は、大名宿、本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。
主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここより100m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。
本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀をゆるされていました。
[清美軒]
本陣を過ぎると商店が並んでいる。
パン屋の清美軒は、同名のパン屋が清水市街地や駿河区などにあるが系列店なのかな?
[山居沢の橋]
小さな川を跨ぐ小さな橋がある。
記念碑があるというので川を下ってみる。
[記念碑]
川の脇にポケットパークのようなスペースがあって、記念碑が建っている。
<「蒲原夜の雪」記念碑>
「蒲原夜の雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道53次シリーズの中でも最高傑作といわれています。
昭和35年「蒲原夜の雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。
[蒲原河岸]
この川を200mほど下って県道とJRを渡った所に運河の跡がある。
[蒲原河岸]
このあたりに船溜まりがあったのだろうか。
にぎやかだったのだろう。
[問屋場跡]
旧東海道の橋まで戻り東へ進むと左側の民家の前に看板があった。
ここに問屋場があったのだろう。
問屋場(といやば)は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。
ここに問屋職(といやしき)、年寄(としより)、帳付(ちょうづけ)、迎番(むかいばん)、馬指(うまさし)、人足方(にんそくがた)、下働(したばたらき)、継飛脚(つぎひきゃく)、御触状(おふれじょう)、持夫(もちふ)の人々が、毎月15日交代で詰めて経営にあたっていました。
[吉田家]
問屋場跡の向かいになまこ壁で装飾した吉田家がある。
<商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)>
当家は、昭和まで続いた「僊菓堂」(せんかどう)という屋号で和菓子を作る商家でした。
玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。
[久保田家]
吉田屋の隣は久保田家。
土蔵の壁のような造りの家だ。
[なまこ壁の商屋佐藤家]
なまこ壁の商屋佐藤家。
説明書きがあったが読んでこなかった。残念です。
[八坂神社]
佐藤家の脇に鳥居があって、奥へ進むと八坂神社だ。
桜で有名な御殿山を抱える神社。
[渡辺医院]
佐藤家の隣には小じんまりした昭和を思わせる診療所があった。
[蔵]
新蒲原駅方面へ路地を入ると蔵がある。
このあたりには蔵が多い。
[東漸寺]
街道へ戻るとすぐに山側へ入る路地の奥に「護仏山 東漸寺」がある。由緒が書かれているので読んでみます。
<日蓮宗東漸寺(とうぜんじ)沿革>
当山は日蓮聖人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創といわれ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元(1331)年に創立された。
初めは仏護山大法東漸寺といわれ、富士宮市安居山東漸寺、甲州谷村の東漸寺と共に身延未三東漸寺と称せられた。
開創の頃はここより4・500m西方の本町いかりま地先にあったが、徳川三代将軍家光上洛の砌、柵御殿造営のために、4,630坪の寺地を拝領して寛永元年現在地に移った、その後火災、地震、集中豪雨等のためしばしば厄災にあい、特に安政5年6月の豪雨により本堂庫裡その他悉く埋没倒壊した、今ある建物はすべてその後のものである、なお御開山日目上人は当山創立の後、元弘3年、後醍醐天皇の御召により上京の途次関ヶ原近くの垂井の宿外れにて雪中病歿された。
(当山諸堂)日朝堂、七面堂他
[正八幡神社]
東漸寺のすぐ横に八幡神社がある。
[竜雲寺]
正八幡神社のすぐ隣に「岩戸山 竜雲寺」という臨済宗妙心寺派の寺がある。
寺や神社が続く。蒲原の人たちは信心深いのだろう。
[蒲原宿]
まだしばらくは宿場の雰囲気が続く。
この先200mほどで日経金の放水路の導水管が山から下ってきている。
そこを過ぎると宿場の雰囲気は薄くなる。
[東木戸]
日経金の放水路を越えて50mほどのところに東木戸の跡がある。
この木戸で蒲原宿は終わるのだ。
江戸時代の宿場の入口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。
蒲原宿の入口には木戸が設置されており、東の入口を「東木戸」と呼んでいました。
なお木戸と木戸の間のことを「木戸内」といいます。
東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
また、東木戸には「常夜灯」が残されています。常夜灯とは今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。
東木戸にある常夜灯には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入口を照らしていました。
文政13年(1831年)のものと考えられています。
[東木戸]
掲示板もレトロだ。
[諏訪神社]
東木戸の横に階段があって、登ると諏訪神社がある。由緒が書いてありました。
<由来記>
諏訪神社は保元年間、今から820年前吹上の丘六本松附近に建てられた御宮に始まる。
当時五見坂附近は六本松の辺りまでなだらかな丘陵が続き、すぐ東側に富士川の本流が流れ富士川はしばしば氾濫しては、丘陵をけずりては附近の住家や農作物に被害を与えていた。住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して、六本松の池の畔に諏訪明神宮を創建し、水難守護神としてお祀りしたのである。
いつの頃か池は水害で流されたが、土地の人々はこの池を諏訪が池と呼んでいたと云う。
その後も富士川の水害は度重なり、折角造営した御宮も流出の危険に迫られ、元和六年の水害の折り、現在の地に遷座し、本社殿拝殿籠堂玉垣等を造営した。
天明6年惜しくも火災の為め鳥有に帰し、仮宮を建た天保2年渡辺利左衛門氏を始めに、町内の人々の浄財により本社殿拝殿を建立したが、安政の大地震による山崩れの為め押出され現在の場所に転座した。
大正9年遷座300年を記念し、記念碑を建立し大祭を行った。碑文は当時蒲原町に在住していた正2位勲1等伯爵田中光顯閣下の揮毫である。
[諏訪神社]
急な階段を登って社がある。
[北条新三郎の墓]
蒲原城の城主だった北条新三郎の墓がこの奥にある。入口を案内する看板が立っている。
[北条新三郎の墓]
細い道を登るとほどなく鬱蒼とした林の中に北条新三郎の墓があった。説明看板が立っている。
[蒲原宿一里塚]
一里塚があったことを記念して碑と祠が民家の脇に建っている。
一里塚は慶長9年(1604年)江戸日本橋を起点として36町(1里・4km)ごとに築かれた塚です。この一里塚によって、人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基準に賃金も算定されました。
蒲原の最初の一里塚は、元禄12年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものです。当時のおもかげはなく、今は小さな祠が残っています。
[蒲原1丁目]
東木戸のあたりから蒲原1丁目に町名が変わる。
[蒲原旧道]
旧東海道は一里塚から200m足らずで山側に左折する。
直進して県道に出会ったところに義経硯水という史跡があるので、そこへ寄ってから旧道を進んでみる。
このあたりは今の生活に合せて道路整備されているので、旧東海道の場所が正確にはわからない所が多い。
[義経硯水]
県道に出るとすぐ左側に碑と五輪が並んでいる。案内する看板が立っていたので読む。
[光蓮寺]
先ほどの交差点まで戻り、西に曲るとすぐの場所に「佛身山 海前院 光蓮寺」がある。
由緒の看板でも無いかと探したが見つからない。
[旧道の坂]
急な坂を登る。
住宅地に入ったような風景なので間違えたかなと不安になる。
[旧道・東名]
坂を登りきったところで道は東名高速道路の上を橋で渡る。
橋を渡って右に曲がる。
[中之郷]
道は東名沿いに進んだ後、下りながら徐々に離れていく。
このあたりから蒲原から富士市の中之郷へと入る。
道は分岐する。真っ直ぐでも右を選んでもこの先で合流する。右へ進む。
[JR変電所]
この変電所を右に見て進む。
[新幹線]
新幹線のガード下をくぐる。
[中之郷]
道なりに進む。
[宇多利神社入口]
宇多利神社へ続く道と出会う。
石碑と灯籠が神社へと誘っている。
[秋葉燈籠]
宇多利神社の入口の脇に秋葉燈籠が立っている。
[中之郷]
左へ行くと野田山実相院へと向かう。
街道は右側へと進む。
[東名側道]
橋を渡り東名高速道路の側道へと向かう。
東名に沿って100m進むと道は突当り、街道は東名の下をくぐる。
[金鶴神社]
東名の下をくぐる前の突き当たりに階段があり、金鶴神社の立て札が立っている。
[野田山の碑]
金鶴神社の入口の向かいのスペースに野田山の石碑が建てられている。
碑には野田山、不動明王、弘法大師、聖徳太子と書かれている。
隣に薬師如来の小さな石碑も立っている。
[野田山]
東名の下をくぐると「野田山健康緑地公園案内図」という看板が立っている。
野田山の地名は、むかし湿地帯の所「ノダ」とよんでいたところから起こったようです。
古来より霊地としても知られ、大正11年松橋慈照師が歓法修禅中、草庵を結び四恩報謝のため真言密教の法を実修しました。大正15年多くの信者から寄進をうけ、実相院を建て、真言宗寺院としての規模をととのえましたが、昭和28年火災により、ことごとく焼失してしまいました。その後、大師広場に大師堂が建てられています。
[中之郷]
300mほど進むと道は大きく右へ折れる。
[県道188左折]
県道188に出会うので、左へ曲がる。
[秋葉燈籠]
秋葉燈籠が立っていて、街道であることがわかる。
[富士川第一小]
突当りに見える小学校の所で道は右に折れる。
[岩渕]
小学校のあたりから地名は「岩渕」になる。
[一里塚]
道が大きく左に曲がる所に一里塚がある。
江戸時代に築造された東海道の里塚である。
慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
この一里塚は、起点である江戸日本橋から37里目にあたる。
この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。そこで昭和45年3月、二代目を植えたものである。
[一里塚]
ここの一里塚は両側に塚がある。
[民俗資料館]
一里塚の所で出会う路地を入ると市立富士川民俗資料館がある。
[民俗資料館]
茅葺の建物が保存されている。
<稲葉家住宅>
富士市指定有形文化財
稲葉家住宅(富士市立富士川民俗資料館)
・構造 木造平屋建、入母屋造 茅葺
・建築面積 102.82平方メートル
・旧所在地 南松野(桑木野地区くわきのちく)
「桑木野の大家」といわれた稲葉家は、桑木野地区の中心的家柄であった旧家です。
稲葉家住宅の特徴は、右側に土間を設け、左側に各室を田の字型に設ける「整形四間取り」の構成で、この形式の早期の例として、歴史的価値が高いものとされ、また、その小屋組みの技法には、柱が直接梁を支える「折置組」と呼ばれる、古い形式の架構法が用いられています。
構造・技法と同家の沿革から、建築時期は、稲葉家初代源七郎の時代である、18世紀前期と考えられ、富士市に現存する古民家では最古のものとなる可能性が高いと考えられています。
[新豊院]
一里塚から300mほど進んだ左側に寺の入り口がある。
[秋葉燈籠]
新豊院の参道入口の脇に秋葉灯籠が建っている。
旧東海道は、この道でいいようだ。
[岩渕]
新豊院から200mで変形十字路に出会う。
県道188は右に曲がる。
左へ曲がると八坂神社や東名の富士川サービスエリア方面。
直進すると道が狭そうなので県道を選んで進むことにする。
[八坂神社]
変則十字路から八坂神社方面を見る。
常夜灯や鳥居が見える。
[県道188]
直進は住宅街っぽく、袋小路のように見える。
県道を進んでみる。
[県道188]
県道188を進むと200mで左へ曲がり、その後100mで右へ曲ると進行方向への一方通行になって下っていく。
[県道188]
一方通行の細い道を100m下ると富士川橋のたもとへ出る。
橋の前の交差点から県道188の出口を見てみる。
[富士川橋]
振り返って橋を撮影しました。
地元の人に聞いてみたら、さきほどの変則十字路を直進する道が旧東海道とのことなので戻ることにする。
[県道188]
ここからもう一度進む。
[小林本陣常盤邸]
交差点からすぐ先に木の塀の建物がある。
本陣だったようだ。
この道が旧東海道だったということだろう。
[小林本陣常盤邸]
門の隙間から中をのぞいてみる。看板が立っていた。
[歴史国道東海道]
本陣の門の横に東海道の看板がある。
<歴史国道>
東海道は慶長6年(1601)徳川家康によって宿駅・伝馬制度が定められて以来日本の主要な交通路となりました。
県下では東海道岩渕間宿・蒲原宿・由比宿が平成7年6月9日、歴史上重要な幹線道路として歴史国道に選定されました。
<一里塚>
富士川町役場下の県道にある一里塚は、慶長9年、徳川幕府の命により、大久保長安が東海道の一里ごとに築かせた里塚です。
この一里塚は江戸より37里めにあたり、今も往時の面影をしのばせています。
<間宿・小休本陣・脇本陣>
岩渕村は吉原・蒲原両宿の中間で富士川渡船を行いましたので「間宿」として繁栄しました。
しかし幕府は本宿にしか旅人の宿泊を許可しなかったので、岩渕村には渡船の準備のため一時休憩する施設として小休本陣、脇本陣の2軒がありました。
<富士川渡船>
富士川渡船は慶長7年(1602)から岩渕むら請で行いました。渡船場は木島村小山の尼ケ淵下から中之郷村境までで、その日の流路によって決めました。渡船場からの「上り場」は岩渕坂下附近にあり「高札場」「船頭会所」もありました。
富士川渡船は大正13年、国道橋が開通するまで断続的に継続しました。
[清源院]
道は常盤邸の先でクランクしていた。袋小路ではなかったのだ。
クランクから100mの左側に清源院という寺がある。
[右折]
清源院から100mの横断歩道の所から道は右折しながら下って行く。
この先30mで道は一方通行となるという予告道路標識がある。
車では先ほど行った県道188を通ることになるのだろう。
[光栄寺]
右折せずに調進すると「岩正山 光栄寺」がある。
庭からは富士川橋が一望できる。かつては渡船場風景も一望できたのかも知れない。
[岩渕]
車両進入禁止の標識がある。予告標識どおり車両進入禁止となる。
一方通行を逆行して進む道が旧東海道で、富士川の土手沿いの県道へ出る。
その前に左側の道へ入ると船山町の地区があるので、まずはそちらへ行ってみる。
[舟山町]
舟山町へ進むとすぐの左側に石垣がある。
歴史のあるものなのかどうかは不明だが、どのような使い道だったのだろうか想像してみる。
石垣とは似合わない住宅も建っている。
[舟山町]
道は狭く通過交通も少ないのだろう。のんびりと道路に住民が集まっていた。
[舟山町]
住宅は軒を並べて連なっている。
このあたりは富士川の土手から10m以上の高さもあって、洪水の被害を避けて海運の関係者が住んでいたのだろうか。
[舟山町]
道を下ると富士川へ出ることができる。
[舟山町]
斜面を使って建物が建っている。
最近の建物も多いが、古い家も残っていた。
[岩渕]
先ほどの一方通行に戻り、旧東海道を進む。
道の両脇に石垣が組まれていて時代を感じさせてくれる。
[旧東海道]
旧東海道を示す道標もあった。
[旧東海道出口]
道は富士川へと出る。
出口を振り返って見る。
[富士川]
旧東海道はここで富士川の終点。富士川沿いに県道10号が通っている。
[渡船場]
県道を渡り富士川の土手に渡船場跡の記念碑と説明が書かれていた。
<船型の植樹桝>
この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事として完成したものです。
江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸がありました。渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)六艘、高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)十八艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬船(笹船または小廻船とも呼ばれた)300艘(明治時代には800艘)があり、これら多数の船が出入していました。
この「船型」は、定渡船の規模を再現し、それにシラカシの木を帆に身立て、舳先を上流に向けて富士川を溯った高瀬船をもイメージしています。
[渡船場]
もう一つの説明書きを読む。
<渡船「上り場」常夜燈>
慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。
東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。
「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸、岩渕河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。
<角倉了以翁の紀功碑>
角倉了以翁の紀功碑 京都の豪商、角倉了以(1554〜1614)・素庵(1571〜1632)の父子は、慶長12年(1607)同19年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約18里(71キロメートル)で、大変な難工事の末、完成しました。
これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩渕河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。
町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成2年4月に現在地に再移転したものです。
−コメント−
蒲原の宿を越えて駿河の国の東海道も最東端の富士川までやってきた。
富士川町が合併して富士市に編入された。
西は大井川から、ここ富士川までの東海道を巡ってみました。
− 岡部〜藤枝・大手 −
宇津ノ谷を越えると岡部宿になる。
旧横内村をこえて藤枝宿へと続く。
藤枝宿の入口までの8km程度の行程になる。
[宇津ノ谷トンネル岡部側出口]
国道1号線を宇津ノ谷トンネルを抜けて岡部に出る。
このトンネルは上りを昭和トンネル、下りを平成トンネルと呼ぶ。
かつて宇津ノ谷の峠は、昼でも暗い峠道を、山賊に怯えながらやっと越えることができる難所でした。古代の「蔦の細道」から「旧東海道」「明治トンネル」「大正トンネル」と時代とともに移り変わっていく様子がおもしろい。
「宇津ノ谷」のページで散策ルートを巡っています。
ここから宇津ノ谷・丸子方面へ戻るにはこちらをクリック。
[坂下地蔵堂]
宇津ノ谷トンネルを抜けたところに坂下地蔵堂がある。
ここは「つたの細道」へ向かう道の入口で、宇津ノ谷峠へ向かう旧東海道の入口にもあたる。
昔、農夫が仕事帰りに牛が動かなくなり困っていたら、どこからともなく子供が現れ、牛の鼻を引いて助けてくれた。その子供がお地蔵様の化身だったと伝えられている。
そこで、「鼻取地蔵」とも呼ばれているとのことです。
[坂下地蔵堂]
地蔵さんが大勢で整列して出迎えてくれる。釣鐘堂もあって小さなお堂なのに信心の深さを感じる。
[坂下地蔵堂]
お堂の横に石碑がある。小屋のように囲まれていて大事にされている。横に説明書きがあった。
この石碑は、駿府代官であった羽倉簡堂が、宇津谷の古道を愛し、その消滅を恐れて文政13年、宇津谷の入口に立てたものである。碑文の内容はつたの細道の概要をよく伝えている。筆者である「市河米アン」は江戸末期一流の書家で、渡辺崋山と親交があったと言われる。
<碑文>
何の山か蔦、楓の径無けん、而して此の特に後世に著しきものあに、在五中将の詞藻の故を以てするに非ずや。按ずるに其の伝に曰く 中将体貌関麗、和歌を好む。其の勅を蒙り東下するや命じて曰く「歌枕を求めて還れ」と。而して勢語(ばいご)も亦載す。
既にして駿河の国に到り、将に宇都の山に入らんとす。道、幽昧にして細し、蔦、楓の翳密なり。其の和歌又、哀怨を寄託す勅して新古今集に采入せしむ。後人、艶称す。其の語を取り名づけて蔦の細道という。其の蘿径というのは、辞人の脩むる所しか言う。今、必ずしも改めざるなり。
山南の小路、即ち蘿径の口たり、北行すれば崎嶇。穴を穿たば一千余歩にして始めて嶺の左草橋に達せん。而うして山椒正に不尽の峯を東面に見る。即ち、僧宗祇の記する所に方に合す。
径は当時の官道。親王、宗尊、参議、稚経の諸公、皆佳什あり。然れども、豊公の相州を征するや、路、今の道に従う。即ち、古道の廃するや久し。
中将の東下、或は游賞(ゆうしょう)といい、或は貶謫(へんたく)という。その伝に依りていえば、蓋(けだ)し陰に之を謫(た)するなり。後説、是に近し。
今、ここに8月望前1日、公事有り。宇津の山を過ぐ、因て所謂、蘿径なる者を訪う。なげき有り。曰く
詞藻の微、猶よく古道を千歳の下に存す。いわんや、其れ、詞藻に大なる者をや。後のこの径を過ぎて、余とこの心を同じうする者、いずれか。すなわち、一石を樹てて以って、その口を表すという。
文政庚寅8月 簡堂羽倉天則用九撰
[坂下地蔵堂]
お堂の脇に急坂の小道があって登ると小さなお堂がある。
中にお地蔵さまがある。このお地蔵さまが本尊なのでしょうか。
[横添]
坂下地蔵を後にして500mほど進み、国道を渡ると横添地区へと入る。
宇津ノ谷峠を越えてすぐのところに山城(砦)があったらしい。ここの右の小山がその山城だったのだろうか。
[山城]
東海道を見守る出城がこのあたりにあったらしい。
多分この山かな?と思い、ちょっと探検してみる。
峠を見張る絶好のポジションであるが荒れ果てていて頂上までたどりつけない。
頂上周辺はかつて茶畑として耕作されていたようだが、今は大きなお茶の木に育っていて行く手を遮っていたので確認できず仕舞いだった。
[岡部川]
岡部川に沿って進む。
[岡部台入口]
岡部台という住宅団地の入口を過ぎると左側は工業団地として整備された地区がある。
このあたりに一里塚があったとの噂があるが確認できなかった。
[岡部宿入口]
川沿いに店のようなたたずまいの建物があって「岡部宿」の看板が建っている。店は閉まっていた。
案内看板を読んでみます。
【岡部宿のあらまし】
岡部宿は東には宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました。
岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5年(1872)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。
江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一首「豆腐なるおかべの宿につきてげり足にできたる豆をつぶして」と交通の難所であった様子が描かれています。
【当時の宿場の様子】
天保14年(1843)の調べによると、約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入口を示す枡形が設けられ常夜灯が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。
中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の継立などを行う問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇稼、荷物の運搬役を行う人馬役の家、農家などがありました。町並みは街道沿いに広がり、裏には神社がありました。
[十石坂観音堂]
「岡部宿」の看板を過ぎるとお堂が山際に建っている。謂れの看板が2つ立っていたので読んでみます。
<十石坂観音堂(じっこくざか) 町指定文化財 昭和48年4月指定>
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
(厨子一)
中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入である。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。
(厨子ニ)
観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。
江戸も中期以降の作と思われる。
岡部町教育委員会
<河野孫園碑文>
河野孫園は、駿府町奉行服部久工門貞勝が駿府地誌の編さんを山梨稲川(とうせん・江戸時代の漢学者としてその名を知られた)に依頼したときに、岡部の属する益頭郡を担当した人である。岡部本町に住し(屋号・河野屋)、文化12年正月18日46歳で没した。
孫園の墓碑は、稲川の撰文と書が刻まれたものである。その撰文の要旨は、孫園の資性と業績が立派であったことを顕彰したものである。建碑については、孫園の友人で岡部宿駅の漢学者・杉山佐十、本間春策等の友情によって立石されたものである。(「孫」の字は草かんむりが付く)
[川原町]
かつての東海道は国道1号線へと姿を変え、今は県道になっている。
このあたりは川原町という。
[岡部橋]
左右の山がせまり、50mほどの間隔に岡部川と東海道が通る。
[立光山不動尊]
橋を渡った所に不動尊へ通ずる階段がある。登るとお堂が建っている。
[柏屋]
岡部橋を渡ると間もなく左手に旧家が見える。観光客を意識した店先となっている。
店の横に「登録有形文化財第22-0032号この構造物は貴重な国民的な財産です。」と書かれた道標が立っている。
[岡部宿本陣址]
柏屋の先の閉ざされた門の前に本陣址と書かれた道標が立っている。
[岡部宿公園]
本陣址の裏は公園として整備されている。広々としたスペースだ。
[問屋場跡]
公園からすぐの所に問屋場跡の看板が立っている。
幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。
岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の2か所に問屋場がありました。
[佐護神社(おしゃもっつぁん)]
柏屋から200mの左側の山裾に神社がある。
立石神社例祭の御神輿の御旅所(御仮屋)の守護として古来より祀られています。
おしゃもっつぁんは、農耕の神、丈量(測量)の神または安産の神であったりと、さまざまな説があります。
現社殿は、昭和50年(1975年)に神神社より拝領し、移設されました。3っつに仕切られた内陣の中央には、天照皇大神、向かって右が佐護神社、左が小坂で祀る秋葉さんです。
例祭日 1月中旬日曜日
立石神社例祭 7月第3又は、第4土、日曜日「岡部史談 岡部のお宮さん」より
平成16年2月 おかべプロジェクト未来
[初亀酒造]
県道沿いに蔵のある建物がある。初亀酒造だ。
伝統がありそうな地酒が飲めそうだ。
[岡部宿旧道]
県道から分かれて旧道は石畳に整備された道へと進む。
宿場町の風情が残る。
[姿見の橋]
旧道を進むと水路が横切るところに謂れが書かれている。
小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まったという。
小町はこの橋の上に立ち止まって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。
こんなことがあって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという。
[岡部宿旧道]
旧道を進むと古い建物が目につく。
[正應院]
寺へ続く参道があるので入ってみると落ち着いた寺がだった。
[岡部宿旧道]
旧道をさらに進む。
[好光]
好光人形店がある。静岡駅南口にある好光人形店だ。
[岡部宿旧道]
旧道は岡部の中心区域に近づくと旧東海道の風情はなくなる。
[旧岡部役場前]
旧東海道は突当り右折すると旧の岡部町役場の前に出る。役場前の県道に出た所から藤枝方面へ向かう。
[五智如来公園]
県道へでてすぐの右側に公園があって、観光案内所が併設している。
[五智如来]
五智如来公園の奥に小屋が建っていて、お地蔵さん?がならんでいる。五智如来とあるので如来だろう。由緒が書かれているので読んでみます。
五智如来像
町指定文化財(昭和48年4月1日指定)
誓願寺の境内で街道に面して安置されていましたが、寺が移転したため現在の場所に移されました。
地元産の三輪石で作られ、石造りの五智如来像としては大きなもので2組あります。1組は宝永2年(1705)に陸奥棚倉城から駿府田中城に移られた内藤豊前守弌信の家老脇田次郎左衛門正明が同年に寄進したもの。もう一組は、明治の中頃、鬼島の森川重蔵と静岡市寺町の藤田権三郎が作ったものです。
宝永2年に田中城主となった内藤豊前守弌信には、上手く話のできないお姫様がいました。殿様と奥方にとっては、このことが大きな悩みとなっておりある日、静岡の宝台院で徳川家の奥方にこのことを話すと奥方は「岡部宿にある誓願寺の本尊である阿弥陀さまにお願いすると良い」と教えてくれました。
そこで早速、奥方は家老を連れてこの寺に参り願をかけました。お参りを続けた満願の日、お姫様は自由に口がきけるようになり、数年後には立派な大名の許へ嫁ぎました。
殿様はこのことにいたく感激し、誓願寺へ田畑を、家老の脇田次郎左衛門は五智如来像を寄進しました。
向かって右から
阿弥陀如来 釈迦如来 大日如来 阿しゅく(あしゅく)如来 宝生如来
岡部町教育委員会
[五智如来]
五智如来は奥にも小さな如来がいる。
[岡部旧道]
県道を進む。
[松並木]
松並木が旧東海道だったことを伝えている。
[石燈籠]
県道は国道1号線バイパスに交差する。
ここまでが岡部宿なのだろう。石灯籠の所に岡部宿の看板が立っている。
[岡部バイパス]
バイパスとの交差点の所から県道は国道1号線の称号を返上していない。
この交差点はバイパスのインターになっていて内谷(うつたに)インターといい、ここからバイパスは「藤枝バイパス」と名前を変える。
旧東海道は国道1号線を進まず右の道へ入る。
[横内村]
パイパスの下をくぐったところに横内村を知らせる木の看板がある。擦れていて読むのが難しい。
[横内村]
今は静かな通りだが、かつては主要な通りだったことでしょう。
[傍示杭跡]
横内に入る所にチョットしたスペースがあって岩村藩領の傍示杭跡がある。
傍示杭は境界に建てられた標柱で、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を示していた。
岩村藩領傍示杭
「従是西巖村領 横内」(是従り西岩村領)
この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が3万石の領地を持っていた。
駿河国に15ヶ村、5千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
横内歴史研究会
[横内村案内板]
横内村傍示杭跡に案内が書かれていた。読んでみます。
横内歴史案内 9100 傍示杭の横に掲示
横内村は文禄3年(1594)、豊臣家臣池田孫次郎輝利が村人に河川改修を指導し、白髭神社を祀り、開村した。江戸初期は、岡部領(天領)で宝永年間(1704〜1710)から田中領となったが、享保20年(1735)から幕末まで美濃国岩村藩領となった。この135年間は岩村藩15ケ村の役所の陣屋が置かれていた。江戸時代石高470石、戸数90戸の農村であるが、東海道が村の中を通っていて、明治22年鉄道敷設までは日本の大動脈として1日数千人の人々がこの街道を往来した。横内村には職人が多くいて現在揚げてある屋号札は往時の仕事を示している。
[横内村]
街道沿いの家には、かつてのその家の職業を伝える看板が数多く立っていた。
見て回ると楽しそうだ。
[滋眼寺]
新しい立派な塀に囲まれている寺がある。
[滋眼寺]
建物も新しくて気持ちはいい。
古き良き時代を感じることはできない。
[横内村]
今と昔が混在する通り。
[代官屋敷・高札場]
街道は橋に向かって坂になる。江戸時代のこのあたりはいろいろな施設があって、栄えていたらしい。
民家の脇に標柱が2本立っている。
「西村小路 代官屋敷」「高札場跡」と書かれている。
[川会所]
橋の近くの民家の脇には「朝比奈川 川会所跡」と書かれた標柱がある。
[御陣屋小路]
橋の手前の路地を入ると「御陣屋小路」と書かれた標柱がある。
史跡でもないかな?と突当りまで行ってみると祠があった。昔からあるのかどうかはわからない。
[横内あげんだい]
橋の脇にあるスペースにある案内板の脇に竹の柱の上に籠のようなものが付いている。
[横内あげんだい]
「横内歴史案内板」という地図が描かれている。
案内板の脇に「横内あげんだい」と書かれている。
[横内橋]
横内橋で朝比奈川を渡る。
[横内村]
橋を渡った民家の塀に「東海道 横内村」と書かれた看板が立ててある。
しばらく街道は続き、橋から200mほどから松並木が始まる。
[横内村松並木]
県道と並行して旧道が一方通行となって松並木の間を進む。
旧道は国道1号線と交差する。交差点から斜めに旧道の雰囲気がある道へと入る。
[仮宿]
ここは仮宿。謂れはわからないが東海道らしい地名だ。
道は小さな橋を渡り、すぐに国道1号線に戻る。
[旧田中領]
「従是西田中領」と書かれた石柱が道路脇に立っていた。
これより西、田中領ということなのだろう。
[広幡交番]
道は国道と出会うが合流しないまま、また分かれる。
国道と旧東海道の三角地に交番が建っている。
[八幡]
このあたりは「広幡」という所で「八幡」「仮宿」「横内」「下当間」「鬼島」という地名が複雑に入り組んでいて境がよくわからない。
藤枝と合併する前は広幡村と呼ばれていた。
[鬼島一里塚]
通りに面した新築の住宅の脇に一里塚の標柱が立っている。
邪魔だろうに立ててくれて有り難い。
街道を歩いているとこのような標示が楽しみなのだ。
[八幡橋]
旧東海道は葉梨川を渡る。
橋を八幡橋という。
街道は橋を渡ってすぐ左へ曲って進む。
橋を渡って真っ直ぐ進むと田中城へ徳川家康が出向くときに使った道で「御成り道」と呼ばれていて、今は途中で道が途切れていたりする。
[鬼島東海道碑]
八幡橋を渡った所の土手際に東海道を伝える道標が立っていた。
立っているというより埋もれていた。
[鬼島の建場]
燈籠と半鐘が道路脇にある。古い施設ではないが、燈籠の前に膝栗毛の一部が引用されて石に刻まれていた。
街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の2人も、そこそこに支度して、朝比奈かわをうち越え、八幡・鬼島に至る。
ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ、ブツブツいいながら、鐙ケ縁にさしかかる「処もとは鞍の鐙ケ淵なれど、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの富士枝の宿」
十返舎一九・道中膝栗毛より
[青山八幡宮]
八幡橋から500mほど進むと右に「青山八幡宮」の石柱がある道を入ってみる。
細い橋を渡り、国道1号線を渡ると八幡神社がある。
旧東海道からの参道になっていた。
[青山八幡宮]
鬱蒼とした森の前に鳥居がある。社は山の上にある。説明書きを読むと由緒が立派だった。
祭神
誉田別命(ほんたわけのみこと) (第15代 応神天皇)
玉依姫命(たまよりひめのみこと) (応神天皇の后)
息長足姫命(おきながたらひめのみこと) (神功皇后 応神天皇の母)
例祭日
9月「敬老の日」の前日の日曜日
(3基の神輿が広幡地区内を渡御する)
由緒
社殿によれば当宮は山城国(京都)の男山、石清水八幡宮の別宮にして天喜・康平年間(1053〜1064年)源頼義・源義家(八幡太郎義家)が前9年の役で奥羽下向のとき東北征討祈願のため天皇の命により現神社地が石清水八幡宮の地形によく似ていたので御分霊を観請して奉斎した社で、源氏が5里ごとに八幡社を建てた5里八幡の1社という。
8月15日には放生会があり流鏑馬が行われ、
神輿3基は明治のはじめまで岡部若宮八幡宮また藤枝宿は瀬戸川の勝草橋まで渡御した。現在3年に1度盛大に行われている飽波神社の藤枝大祭は藤枝宿の屋台が青山八幡宮の神輿渡御の行列に付き従ったものが始まりとされる。
本殿は慶長18年(1613年)12月再建したものであったが、昭和55年9月8日焼失し、現在の本殿は昭和61年9月に再建された。
創立当時の神領は千石との言い伝えがあるが定かではない。豊臣秀吉公は170石5斗の神領を寄せられ、徳川幕府もまたこれにならった。武門の守護神、源氏の氏神として田中城主だった酒井・西尾・本多諸氏の崇敬篤く、神器具その他が寄進され、社務祭祀を監督した。明治6年3月には郷社に列した昭和28年7月8日国有境内地は無償譲与され、宗教法人として承認登記した。
境内社
・進雄神社(すさのおじんじゃ)「天王社」(祭神 進雄命)
・惣社(祭神 天神地祇八百萬の神)
[青山八幡宮]
鳥居の横に力石がある。
この神石は往古八幡山頂にあったが明治初年(西暦1867)神輿3基を東京より新調購入し渡御した時より葉梨川沿のお旅所に据え置き若者の力試し力石として伝えて来た。
猶病気平癒祈願の為には石を持ち上げることによって病気が平癒し石をさわることによって無病息災家内安全を祈って来た。特に戦時中は、信神詣りの参拝者がこの力石を抱戴して信仰した。昭和32年に国道一号線が参道を横断するに当り旧お旅所より移動して今回平成元年ここに神石の力石として奉据した。
[青山八幡宮]
井戸の跡にも「御供井戸」と書かれた説明があった。
遠い昔から八幡宮神社にお供えをする神撰は、すべてこの井戸によって清められ、進められたものであります。
天和2年(1682)300年前の古い記録によれば、神撰(お洗米)は38度もこの水で洗い清めて、山頂の御神前にお供えしたものとあります。
由緒深い井戸でありますので、お互いに清浄に心掛けて下さるようお願します。
[青山八幡宮]
山を登ると八幡宮がある。
[青山八幡宮]
神社の脇に石碑があり由緒が書かれている。
<青山八幡宮由緒>
御祭神 誉田別命(ほんたわけのみこと)玉依姫命(たまよりひめのみこと)息長足姫命(おきながたらひめのみこと)
当八幡宮は京都の男山に鎮座する石清水八幡宮の別宮として第70代御冷泉天皇の天喜、康平年間(1063年〜1065年)朝臣源頼義同義家が勅を奉じて奥州下向のとき奥羽征討祈願のため、現社地の山が男山と非常に似ているので御分霊を勧請して奉斎した神社である。
男山と同じ鳩ケ峯の地名も今に残っている。旧東海道の5里八幡の1社と伝えられ往古より稚女による座子舞と現山の下の神池は青山放生池として旧8月15日には厳粛な放生会と流鏑馬神事が行われた。
3基の神輿は明治維新までは岡部若宮八幡宮まで出御した。
現社殿は慶長18年(1617年)に再建され正徳年間(1711年〜1716年)に大修築が行はれた。
鎮座当時神領千石を有していたとの口碑があるが定かでない。豊臣秀吉公より170石5斗の神領を受けて徳川時代まで続いた。酒井、西尾、本多、代々の田中城主の守護神として崇敬が篤かった。
境内地5113坪(16,867平方メートル)あり例祭は9月15日に斎行され現在に至る。
昭和54年9月吉日 宮司 浅井 正
[須賀神社]
青山八幡宮から街道に戻って100m進むと大きな楠の神社が見える。
[須賀神社]
須賀神社の由緒は書かれていないが楠の説明書きがあったので読んでみます。
静岡県指定天然記念物 須賀神社のクス
所在地 静岡県藤枝市水守17番地
所有者 須賀神社
管理者 須賀神社
このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ渕など、東海道ゆかりの史跡があります。
樹高 23.7m 根廻 15.2m 目通 10.9m
枝張 東西 21.2m 南北 27.9m。
[鐙ケ淵と観音堂]
須賀神社と同居するように全居寺が立っている。その裏側の小山にお堂が立っていて謂れが書かれている。
史跡鐙ヶ渕(あぶみがふち)と観音堂
一.此処の広場は、元葉梨川の渕でその形が馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ渕と呼称されていた。
一.崖上の観音堂は通称山之堂と言われ人々に親しまれて来た。御本尊は蛇柳如意輪観世音菩薩と言いお腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり、婦人の参詣者が絶えなかったという。
一.昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧のより切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より)
一.伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為、愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より)
一.弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は東海道中膝栗毛三編の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。
ここもとは 鞍のあぶみが 渕なれば 踏んまたがりて 通られもせず。
[水守]
旧東海道はホームセンターにぶつかり一時消滅する。
右折すると松並木の名残りが見える。街道は曲っていたのだろうか。
[国1・旧道]
街道は国道1号線と斜めに交差する。
車は旧東海道を真っ直ぐ進むことができないように交通規制されている。
国道を渡った所から振り返って今来た道を見る。
[藤岡団地入口]
国道から200mに信号がある。
藤岡団地へ入る道との交差点。
[藤枝宿東木戸]
天理教の教会の前に東木戸の標柱が立っている。ここから藤枝の宿が始まる。
藤枝宿方面へ進むにはこちらをクリック。
−コメント−
岡部から藤枝の入口までの行程。
随所に名所があって、旧東海道の雰囲気が感じられる所も多かった。
− 藤枝・大手〜青島 −
藤枝宿の東木戸から進む。
白子・長楽寺の商店街を通り、瀬戸川を越え志太・南新屋を通り青島へと向かう。
青島の一里塚まで旧東海道を進むと約6km。
寄り道をして行くので10km程度の行程になる。
[藤枝宿東木戸]
天理教の教会の前に東木戸の標柱が立っている。ここから藤枝の宿が始まる。
岡部宿方面へ戻るにはこちらをクリック。
[成田山]
新護寺。「成田さん」と呼ばれて親しまれている。看板に由来が書かれていた。
当山は今から約750年前の建長年間、照光院と云う名前の寺院であったが、後嵯峨上皇の子、 宗尊親王(十才)が6代将軍となる為、京都から鎌倉へ東海道を上る途中、ここ藤枝の宿で 親王の乗っておられた御所車の左輪が折れてしまった。
そこで御所車を修理する間照光院で 休息された。光栄ある休息にあづかった寺では、これを記念してそれ以来寺名を左車山休息寺と改めた。
又、この修復に当り破損した左輪や車軸を寺の裏の聖地を選んで埋めた後、その跡に 宮一宇を建立した。現在保存し、左車神社と名付けた。又、この地名をも「左車」と名付けて現在に至っている。
その当時境内には本堂、不動堂、大師堂、庫裡等の伽藍があったが、その後、今川氏から武田氏の戦国時代となり、文禄〜慶長にわたっての二度の戦火に遇ったため焼失したのち、廃寺同様となっていたところ、千葉県大本山、成田山の御分身を勧請して皆様方の燃ゆるが如き旦つ不断の御熱誠によりまして、静岡県唯一つの成田山として明治初年落成し、未曾有の盛況裡に入佛大法会を終え、今日に至り、駿河鎮護の道場として偉観を添え得ましたことは法幸限りなく御同慶至極の事と存じます。 合掌
[本町・天王町・大手]
本町3丁目の交差点。昔、この交差点はバスターミナルとなっていて商店街の起点となっていた。
ここを左に入ると大手。さらに進むと田中に至る。「大手」の町名は田中城の大手門からきたのだろうか。
この交差点を右に入ると天王町。昔「おてんのうさん」と呼ばれる神社の祭があって屋台がでたり花火が上がったりしていたが今はどうなっただろう。
天王町を過ぎてさらに進むと薮田、花倉へと向かう。花倉には「花倉城址」があるらしい。機会があったら行ってみたいところだ。
[小林目立]
旧東海道から外れて寄り道をしてみます。
本町3丁目の交差点を左に50mほど入った所に小さな作業場があって、旦那さんが今では珍しくなった鋸の目立てを行っていた。
恐々と声を掛けてみたら気さくな旦那さんで、報道もされているほどの有名人でした。
[愛宕神社]
小林目立から少し戻った路地を東側に戻るように入って300mほど行くと小さな神社が建っている。
この近所の神社(愛宕神社・左車神社・八坂神社)は皆、7月の第3日曜日が例祭日として合せて実施しているとのことです。
[愛宕神社]
由緒が書いてありました。
御祭神 二座 伊邪那美命(いざなみのみこと) (国土造営の神)
迦具槌命(かぐつちのみこと) (火の神)
相殿 村岡社
祭神 応神天皇・桓武天皇 旧除地高1石7斗
鎮座地 本町愛宕神社藤枝市本町690(左車字権助) 境内地130坪
御由緒
御祭神の伊邪那美尊「(伊勢大神の母神)は天の下の國々島々又万物を支配し給へる数多の神々を生成された尊い産霊の神様である。
迦具槌の命は火を司り給ひ光と熱とを以って萬物を活動させ生々化育さす広く厚い御神徳を具へられ又火が燃える様な勇猛熾烈な神様である。
以上の如く愛宕神社は防火鎮火の神様であり、何事にも発展繁栄開運の神様で開運厄除祈願で格別の御霊験を顕はされる。
当本町愛宕神社の創立年月日は不詳であるが境内の洗心石鉢に「宝永3年5月施主下伝馬町」と刻まれていることは古い昔からのものであり当時からの氏子の信仰と神社護持の範囲の一端を物語るものである。
[村岡山満願寺]
国道1号線へ出ると藤枝北高が通りの向こうに見え、その右(南西)側の国道沿いに寺が建っている。
駿河三十三観音 札所 第6番 天台宗「村岡山満願寺」 御本尊 聖観音。
皆人の心の雲は 晴るるなり 村岡山の 慈悲の光りに
右(上記)は駿河一国三十三ケ所 観音霊場巡り案内に案内による。
満願寺の聖観音像は、弘法大師作といわれ、鎌倉の、村岡の郷に安置されていました。
今から650年前、新田義貞が鎌倉を攻め北条高時を亡ぼしましたが、その時の戦でたくさんの神社仏閣は兵火のため灰塵に帰したのです。
聖観音の安置された、村岡郷の某山杉山寺もその時の戦火に合い、焼かれたのです。
その時、尊像を持ち出した者がありましたが、誤って滑川へ落としてしまったのです。尊像は海に流れ、年経て焼津当目の浜の巨岩(この岩を観音岩という)の上にたどりつき、毎世光を放っていました。
時の郡司、一色佐衛門尉は小舟を出して像を拾い上げたのです。
そしてこの事を、太政大臣源義満に報告しました。義満は、尊像を安置する一宇を建立させ、供田を寄付されました。
その後、永禄年間、武田方、馬場美濃の守が、田中城を建築し、後、山県三郎兵工の居城となりましたが、間もなく武田氏は亡び、徳川方の世となりました。
その様な時代の移り替りの中で、城主は代々当観世音を、城の守護安鎮の祈願寺として尊崇し、堂宇の修繕は勿論、祈祷料の他、米数十俵をたまわっていたのです。
明治初年に至って、国主は国替となり、ついで廃藩置県の制によって、祈祷料は止み、供田もとりあげられ、堂宇維持にも困難し、大破のままでした。明治33年8月、有志の補助を得て修繕が施されたのです。
今では、駿河33観音札所として、広く参拝者を迎えています。(西益津村史並びに藤井誠氏資料による)
[育英碑]
満願寺の横の林の中に石碑が建っていて、説明書きがありました。
明治政府は国民皆学をめざし、明治5年(1877)、学制を発布して小学校教育の浸透や義務教育化を図る教育政策を推し進めてきた。
志太地域では、教育熱の高まりとともに私塾が相次いで開設されたが、ここ田中では幕府の儒学者であった永井東陵によって早くから「育英舎」(明治3年)が開設され、伝統的な漢学を中心とした教育が行われていた。
明治34年には多額の私財を投じて、西欧の学問を取り入れた中等教育の私塾「育英学校」を創設し、養子の梅陵とともに先進的な教育にあたった。
明治45年に閉校となるが、それまでに1000余名の人材が巣立ち、その中には国会議員となった山口忠五郎や岡野繁蔵などの優秀な人物を多く輩出しており、短い期間であったが志太地域の教育に果たした役割は非常に大きかった。
育英碑は、この永井東陵を顕彰したもので、沼津兵学校教授を勤めた田辺太一が、中央から遠く離れているにもかかわらず育英学校で行われた教育は、中村敬宇の同人社や福沢諭吉の慶應義塾にも匹敵するほどであったと称賛している。
永井東陵 とうりょう(1822〜1909)
名を醇。幕府の儒官で、昌平黌教授。明治元年46歳で駿府に移住。翌年田中に移った旧幕臣子弟の教育のために藤枝に移住した。育英舎、育英学校を開設し、さらに明治42年には女子教育の駿陽女学校を設立した。
[田中神社]
満願寺や育英碑の隣に神社が建っている。由緒が書かれていたので読んでみます。
御祭神 宇迦之御魂神 徳川家康公
鎮座地 藤枝市郡宇山の鼻729
境内地 485坪 氏子数620戸
由緒
今からおよそ410年の昔、治乱攻防の戦国時代、甲斐の武田信玄は今川勢を攻め領土の安泰のため田中城を増築し守護神として山城の国から宇迦之御魂神を招請し祀ったと言われる。
この神は通称お稲荷様として五穀豊穣、商売繁盛、家運隆盛の神として武家はもちろん一般の信仰も極めて厚く徳川時代になっても代々の城主も尊崇の念に厚く毎年2月の例祭には城中に領民を入れ神酒を賜ったという。
明治初年の大改革により江戸から転住して来た旧幕臣は宗家東照公を祭神として権現社に祀り後に稲荷舎に合祀して田中神社と称した。神祠も城内から田中二番町(現大手二丁目)に移り、更に大正2年現在地に遷座。現地は旧西益津村の中心にあり土地も小高く樹木うっそうとして神社の尊厳を維持する適地であった。
東照公は田中城との因縁極めて深く戦国動乱の時代を終息。今日の平和国家建設の基礎を築いた功績は極めて大きい。
[大手]
国道を南西に進むとすぐの信号が大手交差点。
このあたりには50年ほど前に廃線となってしまった藤相線という軽便の始着駅があった。その後静岡鉄道のバス車庫となっていた所だ。
右へ行けば400mで旧東海道に戻り、左に400m行くと田中城址がある。
田中城址は別の機会とし、旧東海道へ戻ることにする。
田中城址へ行くにはこちらをクリック。
[常夜灯]
旧道の本町3丁目の交差点まで戻り、西へ進むとすぐ右に交番があって、立派な常夜灯が立っていた。
[藤枝宿絵図]
常夜灯のすぐ前に写真付きの見どころ案内看板が立っていました。
藤の里 歴史探訪
藤枝宿は、江戸から49里(約200km)のところにある、品川から数えて22番目の宿です。街道を一歩入れば昔ながらのたたずまいが宿場時代の名残りを語りかけてくる藤枝宿。現在に伝える天保13年の地図とほとんど変わらない町筋を探訪してみませんか。
<一.正定寺(本願の松)>
田中城主であった土岐丹後守頼稔が大阪城代へと出世したのを記念して寄進したものと伝えられており、藤枝市の天然記念物として指定されています。
<二.大慶寺(久遠の松)>
700年程の昔、日蓮上人が自ら植えたと伝えられている25mほどの松で、県の天然記念物として指定されています。大慶寺は田中城主の祈願寺であり、藩士などの墓も多数あります。
<三.蓮生寺>
源氏の武将・熊谷直実(後に出家して蓮生法師)ゆかりの古刹。山門は、文化8年(1811)、田中城主本多正意によって寄進されたものです。
<四.蓮華寺池公園>
藤の花で広く知られた総合公園です。
園内には様々な施設が整備されており、市民の憩いの場として親しまれています。
<五.藤枝市郷土博物館>
原始から現代まで、時代ごとに藤枝の歴史を学ぶことが出来る博物館です。数々の遺跡の出土品をはじめ、田中城や東海道藤枝宿の資料などが展示されています。蓮華寺池公園の中にあります。
<六.飽波神社(あくなみじんじゃ)>
古い歴史と格式がある神社で、10月の第一土・日・月が例祭日です。3年に一度の藤枝大祭には、旧藤枝町各区から十数台の山車(屋台)が繰り出し、手踊りや地踊りが奉納されます。
<七.長楽寺>
仁安年間(約800年前)の創建とされる名刹です。山門は市之瀬の高根白山神社宮司の家の門を移したと伝えられ、庭園と春梅が有名です。
<八.須賀神社>
旧東海道に接した水守にある神社です。御神木であるクスノキは根廻り15.2m、樹高23.7mの巨木で県の天然記念物に指定されています。
<九.史跡 田中城下屋敷>
田中城は今から500年程前、この地の豪族であった一色信茂が今川氏の命を受け築城したといわれています。江戸時代には駿府城の西の守りとして重要な位置を占めてきました。現在は下屋敷跡に建物や庭園が移築・復元されています。
<東海道藤枝宿いきいきまつり>
古くから市民に親しまれてきた白子の天狗まつりと上伝馬まつりが一緒になって、旧東海道を舞台に毎年11月3日に行われます。防火、防火、商売繁盛、無病息災などを願って、天狗行列やまとい行列、万燈が夜の旧東海道を賑やかに進みます。
[白子]
このあたりから藤枝の中心街だった。
生活のほとんどの者はこのあたりで賄われた。
映画館もいくつかあったように思う。
[了善寺]
藤枝東高等学校へ向かう通りが出会う信号をこえるとすぐの路地を入ると了善寺がある。
落ち着いた寺だ。
[むらこしつり具]
寺の前に昔からやってますといった釣り具屋がある。
[藤枝小学校]
了善寺の横に藤枝小学校がある。小学校の名前からすると、このあたりが藤枝の中心だったと伝えているようだ。
二宮金次郎が大事そうに子供たちを見守っている。
[蓮華寺池]
藤枝小学校の裏に蓮華寺池がある。
[郷土博物館]
蓮華寺池の畔に藤枝市立郷土博物館がある。
[古墳広場]
池の脇から遊歩道をたどる。
1km程、山道を歩くと出会うこの看板から古墳群が始まる。
[古墳広場]
まずは12から17号墳の間を通り抜ける。
[一号墳]
大きく目に付くのが一号墳だ。
[古墳広場]
7号墳の前に説明看板がある。
[古墳広場]
一番奥が6号墳。
これだけ多くの古墳が保存され整備されているのは見事。
[古墳広場]
1号墳の横に四阿があって「富士見平」と呼ばれている。
先ほどまで見えていたけれど隠れてしまったと集まっている高齢者軍団に残念がられた。
[白子の由来の碑]
東海道に戻った所に小川眼科があって、この白子という地名の謂れが書かれていた。
[白子の由来記]
以前にはここに石碑が立っていたらしい。。
凡そ今より390年前本能寺事変の折、伊勢白子の住人小川孫三、徳川家康公の危急を救い、賞として天正14年8月14日、御朱印を賜はる是より藤枝町白子町と称へこの地に居住す
昭和47年4月
藤枝市本町2丁目6−1 旧白子町 第13代 小川 博 後日の為これを誌す
[小川孫三]
医師・小川玄庵が先祖なり。
家伝によると、大神君(徳川家康)天正10年織田信長公家臣明智光秀の逆心により京都本能寺において自害。幾内騒動となる。
大神君(徳川家康)を連れて一行は間道を選び、伊賀路を越えて伊賀の国を通る時に、伊勢の一揆の者達が道をふさぐ。一行は野武士を追払い伊勢の国白子に着いた。この町に農民孫三と云う者がいました。
家康は孫三に海を渡る船を手配する事を命じた。孫三は家康の仰せに従い、夜にまぎれて小舟に家康を乗せて、若松の浦より漕ぎ出して夜を徹して海を渡り、尾張の国床鍋に船を着けた。重ねて家康の仰せに従い三河の国大崎まで送り届けた。孫三は、ここより伊勢の国に帰った。
その後の事情により駿河に来て、家康に仔細を話しました。家康は孫三の話を良く聴いた後、当地に居住する事を許可し、この地芝間を新白子町と名づけ、地子諸役免除の御朱印を賜わった。
天正14年8月14日(御朱印)
[どうして白子なの?]
紙芝居に仕立てた白子の由来が看板にしてありました。
(1)白子の小川眼科さんの横に、小さな黒い石が立っているのを、みんな知っている?。
その石を良く見ると小さな字がたくさんほってあるんだよ。だから、その石にはどんな事が書いてあるの?とおいじさんやおばあさんに聞いたらね、その石にはみんなの住んでいる白子の町の起りが書いてあるんだって。
(2)お話は、今から450年程前の西暦1586年(天正10年6月)に始まります。今の三重県伊勢の白子というところに、孫三という人がおりました。孫三が、家の前の田んぼで麦刈りをしていると、一人の男があわてて逃げてきて「私は怪しいものではない。だが追ってに追われている。どうか助けてくれ。」と頼みました。
ふと見ると山の向こうに数人の追っ手が見えたので、孫三はとっさに自分の刈った麦の束の中に男を隠し、そのまま何もなかったように麦刈りの仕事を続けていました。
(3)そこへ数人の男がドカドカと現れ、「今ここに男がにげてこなかったか?」「たしかに来たはずだ」「男をかくすとお前の首はないぞ!」と脅し、家の中からあたりいったいを探し始めました。
孫三はとっさに「あーそう言えば、さっき向こうのほうへ一人の男が逃げて行ったが・・・」と言いました。それを聞いた男たちは「向こうだ向こうだ急げー」と足早にかけていきました。
(4)夕方になりあたりが薄暗くなると、孫三は麦の中からさっき隠した男を出してやり「追っ手は向こうへ行ったから今のうちに私の家へ入りなさい。腹も減っているだろうから、飯も食わねば 早く!」
孫三は見ず知らずのその男を自分の家の一番奥の部屋へ通しました。その部屋の床の間には鎧兜が飾って有りました。それを見た男は「鎧兜があるとは ただの百姓ではないはず・・・」
「どのような身の上か?」と、たずねました。
(5)「実は今から431年前、近衛天皇が、顔がサルで胴がトラ、しっぽがヘビという大変恐ろしい怪物に日ごと悩まされ毎夜眠れぬ日が続きました。その為、天皇は源三位頼政公にヌエ退治を命令しました。その時に頼政公のお手伝いをしたのが私の先祖です。ヌエ退治のごほうびとして、武士の位と小川という苗字を天皇より頂きました。」と孫三は話ました。それを聞いた男は、天皇に奉仕し、その上苗字帯刀を許されるような人なら信用できると思い今度は自分の身の上を話し出した。
(6)「実は私、徳川家康という者。織田信長に駿河の国をもらい、そのお礼に安土城に行き、いろいろなもてなしを受け、今日、大阪の堺より京都へ行こうとしたが途中本能寺で変が起き、光秀により織田信長は倒され天下は乱れた。私は光秀に追われた為、奈良より伊賀上野を通り伊勢の白子まで逃げて来たのです。私はどうしても岡崎まで行きたいのです。」
(7)孫三と家康は二人だけで晩飯を食べながらじっくりと話し合い、岡崎まで逃げる方法を考えました。
まわりは追っ手の力が強いので海を渡る事にしました。
夜になりました。灯りもない真っ暗な海へ孫三と家康は、白子の港より小舟をこぎ出しました。そして、ようやく常滑の正住院というお寺の裏の海岸にたどり着き無事に家康を岡崎まで逃がす事が出来ました。
そして、更に駿河(今の静岡)まで家康のお供をして送ってきました。
(8)孫三は家康を助けた為、伊勢の白子に帰る事が出来なくなりました その事を家康に相談すると、「それは気の毒な事をした。それでは駿河の国の山西に住め。」と言われ、高草山の西、この白子の町に住み始めました。
その頃の白子は、すすき等の茂った淋しい所でしたが、伊勢の白子を思い第二の白子として住み始めました。
その後何年かたち、孫三は、家康の一生のうちで『四大危機』といわれる程の危険な伊賀越えを手助けしたごほうびに、家康より御朱印を戴きました。
(9)その時代の藤枝は宿場町で東海道を通る人や馬、かご、荷物等を次の宿場まで送り届ける責任を持たされました。
上伝馬や下伝馬には問屋を置き、他の地区の人はいやでも人夫を出さなければならなかったのですが、白子だけは御朱印のおかげで人夫を出さずにすんだのです。
(10)その為に、白子へは人々が移り住むようになり、安心して商売をやる事が出来たのです。その後、白子の人達みんなのお願いによって将軍様が代々変わってもこの御朱印の力を続けて使えるようになりました。ですから、白子の人達は御朱印を大切にし、その力を明治の初めまでの長い間利用しました。
従って、御朱印は小川家だけのものではなく、白子の町の守り本尊ともいうべきものになりました。
(11)今でも小川さんの家には、家康より戴いた御朱印が大切に残されています。小川さんのお墓のある了善寺の、もとのお寺も、伊勢の白子に光明山としてあるそうです。そこにはずーっと昔の小川さんのお墓もあるそうです。小川さんの家には850年の歴史があります。それが同時に白子の歴史でもあります。
皆さんにも、お父さんお母さん、その又お父さんお母さんと歴史があるんです。
決して自分一人ではないのです。
この様にして、町の歴史を調べてみたり、自分の家の歴史を調べてみるのもいいですね!
<徳川家康ゆかりの町>
1586年(天正14年)8月14日白子町誕生より400余年
徳川家康 が三河・岡崎城で誕生してから466年
1600年関ケ原の戦いに勝って、1603年征夷大将軍となり江戸に幕府を開き、1605年秀忠に将軍職を譲って、1607年駿府城に戻り、1616年病にかかり、75歳の生涯を閉じました。久能山に葬られまし後に、日光東照宮に移され、大権現(神)として祀られております。
【県知事賞】【藤枝市善行賞】「どうして白子なの?」白子の子ども会昭和62年製作白子保存会
[長楽寺]
信号を越えて50mほどの路地を左に入ると長楽寺がある。
岡出山の山裾にあり、落ち着いた雰囲気がある。
[長楽寺]
商店街の名前になっていることから民衆の信望が厚かったのだろう。
本堂は新築されているようだ。
私の入った門以外にも入口があるのだろうか。
[蓮生寺]
街道にもどってすぐの北側に石柱が立っていて、参道が奥の蓮生寺へと誘っている。
石柱の隣に秋葉燈籠も立っている。
[蓮生寺]
静かな手入れの行き届いた境内。
先ほど見た藤枝宿絵図の説明では、
源氏の武将・熊谷直実(後に出家して蓮生法師)ゆかりの古刹。
山門は、文化8年(1811)、田中城主本多正意によって寄進されたものです。
[鬼瓦]
庫裡の脇に保存している鬼瓦。
鬼瓦を置いてある台に説明があったので読んでみます。
蓮生寺本堂は明治37年の藤枝大火により焼失後、大正2年に再建され、平成15年に屋根瓦と白壁が全面改修されました。
この鬼瓦は本堂屋根に飾られていたものです。
[蓮生寺のイブキ]
鬼瓦の脇を通って庫裡の裏庭に行くと「イブキ」がある。説明書きを読む。
市指定文化財 天然記念物 蓮生寺のイブキ
イブキは、ヒノキ科の常緑高木でビャクシンともいわれ、幹がねじれる性質もある。雌雄異株であるが、蓮生寺のイブキは雄株である。球果は熟して紫黒色となる。
蓮生寺のイブキは、明治36年1月木町から出火した大火のため一部類焼したが、その後樹勢を復活し今日に及んでいる。
根廻 1.65m 目通 1.55m 樹高 6.8m
枝張 東西 7m 南北 7m。
昭和32年3月16日指定 藤枝市教育委員会
[藤枝だるま]
街道に戻るとすぐにダルマ屋があった。
[長楽寺会館]
街道の左に長楽寺会館という自治会館のような建物がある。その脇に小さな松があって説明書きがあった。
田中城跡の松
明治23年府県制が制度化公布され志太郡役所が設立された時、田中城跡から郡役所に移植されたのが此の五葉の松である。
昭和33年長楽寺町内会は郡役所廃止のとき此の地に移植し永久に保存すべく記念樹と定めている。松は常に緑を保ち長寿の祝木とされる。
省へり見ると既に100年超の樹齢で後世に伝えるべく大切に手入れし管理することに定めている。
昭和64年1月吉日 長楽寺町内会
[津島神社]
長楽寺会館の奥に鳥居が見える。鳥居脇に由緒が書かれていました。
天皇陛下在位60周年記念
天満宮誌
祭神 菅原道真
鎮座地 藤枝市藤枝5丁目12の11
境内地 1,169坪
例祭日 10月25日
境内社 津島神社
<由緒>
當天満宮の創立年月日は不詳であるが、宝永4年11月(1707年)元、打越の地に再建され旧除地高2石であった。明治8年9月25日(1875年)現在の天神山の地に遷座され、秋葉神社、金毘羅神社、出雲大社以下4社を相殿とした。
氏子は元より周辺の崇拝者多数で特に祭神菅原道真公が学問の神、正義の神とし一般から「お天神さん」と呼ばれて親近感を抱かれ崇敬されている。明治8年當地に奉遷と同時に旧藤枝町よりここに至る参道を造り昭和16年5月2日拡張工事をし、天神小路と呼ばれて親しまれている。
山麓には、減税を領主に直訴し斬首に処せられた義人増田五郎右衛門の石碑がある。明治2年村社に列し同40年3月15日神饌幣帛料供進社に指定された。
[蔵]
街道から戻り、100mの路地を右に入り若一王子神社へ向かうと途中に蔵があった。
昔はこのあたりに蔵が多くあったそうだ。
[藤枝役場跡]
蔵の前、若一王子神社の隣に各種団体事務所がある。
入口に藤枝役場跡と彫られた石柱がある。
[若一王子神社]
若一王子神社は小じんまりした神社だ。由緒の書かれた看板があった。
祭神 天穂日命 健御熊命
夫王子者天照大神之御児也聖武天皇御宇天平2年秋9月18日土師古人始て此地に一宇を建立祭祀を行ふ宇多天皇の御宇勅して神号を賜
若一王子大権現
[若一王子神社]
この神社の奥の山は静岡県指定の天然記念物に指定されている。看板を読む。
静岡県指定天然記念物
若一王子神社の社叢(にゃくいちおうじじんじゃのしゃそう)
所在地 静岡県藤枝市若王子73番地
所有者 若一王子神社
管理者 同上
<説明>
神社境内の森には、ヤマモガシ、ミミズバイ、イチイガシ、カンザブロウノキなどの暖地性樹木があり、下草のシダ類や草木類も豊富な種類がみられます。
この神社の森は暖地性植物がまとまって自生していて重要です。
その中には分布北限の種類もあります。志太地域の代表的な林として、岡出山とともに市街地の中に残る貴重な自然林となっています。
[洋館]
洋館?風の建物が建っていた。
[洞雲寺]
若一王子神社の先にある寺が洞雲寺。
[洞雲寺]
釈迦牟尼仏のお堂が建っていて説明書きがあった。
釈迦牟尼仏銅像
元禄の昔、清心といえる念仏の行者が朝に音羽山清水寺の観世音菩薩を礼し、夕に宇都谷山上の地蔵尊に詣すること一千日。
その従来に於て諸人より受けし浄財により満願の日、自ら大恩教師の尊像を鋳造し一切衆生の得脱を祈る。
鋳造の由来坐名に委し。
[長楽寺商店街]
洞雲寺から街道に戻ったあたりも商店街が続く。
本町3丁目あたりから商店街は1.5km位の間、ほとんど途切れずに続く。
白子や長楽寺といった昔からの呼び方で親しまれている。
[岡出山]
洞雲寺から長楽寺商店街(旧東海道)を横切り南へ行くとすぐに岡出山という独立した小さな丘陵がある。
頂上へ向う階段の脇に由来の看板がある。
<岡出山公園の由来>
岡出山公園の由来は、明治10年(1877)の西南戦役と明治27〜28年(1894〜95)の日清戦争で戦死した軍人の慰霊碑を、岡出山に建立することになったことからです。
この2つの戦争で、当時の志太郡(4町24村)から出征した軍人が、西南戦役で17名、日清戦争で59名戦死しました。そして、明治30年に志太郡奨兵会から「戦死者の慰霊碑」建立計画が、志太郡役所をはじめ各町村へ請願され、これに全町村の賛同を得て、明治37年(1904)に西南戦役と日露戦争の慰霊碑、明治42年(1909)には日露戦争で戦死した270名の慰霊碑が建てられ、ここを「志太公園」と命名しました。
藤枝町に、志太郡立の慰霊碑建立が決まったことは、藤枝町が志太郡のほぼ中心に位置し、古くから東海道の宿場町として栄え、この地方の政治、経済・産業の中心的な役割を担っており、また、岡出山の眺望が大変よい場所だったからです。
その後、志太公園は藤枝町が管理する「岡出山公園」となり、春の桜・秋の紅葉を楽しむ遊園地として整備されました。
昭和29年(1954)3月の町村合併によって藤枝市となり、昭和33年(1958)に満州事変から太平洋戦争までの戦没者2237名を追悼する忠霊塔が建立されました。
現在の公園は、藤枝市の平和を祈念するシンボル公園となっています。
西南戦役・日清戦争の慰霊碑(明治37年7月・建立)「旌忠碑」徳川慶喜公の揮毫。
日露戦争の慰霊碑(明治42年10月・建立)「日露戦役記念之碑」元帥山縣有明公の揮毫。
太平洋戦争までの慰霊碑(昭和33年10月・建立)「忠霊塔」藤枝市初代・山口森三市長の揮毫。
[岡出山]
階段を登ると頂上に忠霊塔が建っている。近くに周辺の案内看板が立っている。
<東海道藤枝宿>
岡出山の北、眼下に見える商店街の通りが旧東海道です。
藤枝宿は、品川から22番目の宿。
田中城を仰ぐ田中藩の城下町でもあり交通の要衝として栄えた藤枝宿は、宿場の賑わいの中に城下町の風情が漂う独特の雰囲気をもった町でした。
藤枝市内に点在している宿場時代の町筋と、名残りを語りかけてくる旧跡。
そして伝統と技術を受け継ぐ素晴らしい伝統工芸の数々。藤枝市の歴史を探訪してみませんか。
<長楽寺ちょうらくじ>
約800年前に建立され、美しく整った庭園と梅園が有名です。
また「青池の大蛇」伝説として、大蛇に娘をさらわれた粉川長者が娘の冥福を祈って自分の屋敷をお寺とし、これが現在の長楽寺となった話や、娘に恋した大蛇の悲恋話など、いくつかの話が伝えられています。(庭園は拝観できません)
<飽波神社あくなみじんじゃ>
仁徳天皇6年の創建の志太平野最古の社と伝えられています。
市内を流れる瀬戸川の水害から人々を守る神様として敬われ、湧波(わくなみ)神社、川関(かわせぎ)神社とも呼ばれていました。
3年に一度の10月の第1土、日、月曜日の藤枝大祭は特に盛大に行われます。
「あくなみさん」と呼ばれ、初詣や初宮参り、七五三といったお参りで地域の人々に親しまれています。
[岡出山]
岡出山はかつて古墳や古城があったのではないかと思われる好立地の丘だった。
周りを散策するといろいろな想像が膨らむ。
[飽波神社]
岡出山の西の麓に飽波神社がある。
飽波神社では藤枝の全住民をあげて行われる祭が行われる。
[飽波神社]
本殿。境内に由緒が書かれた看板が立っている。
<飽波神社あくなみじんじゃ>
御祭神 少彦名命すくなひこなのみこと
相殿 瀬織津姫命せおりつひめのみこと
蛭子命ひるこのみこと
大忍穂耳命あめのおしほみみのみこと
<由緒>
当神社は古墳時代、第16代仁徳天皇6年10月(西暦318年)飽波郷(旧藤枝一円)の鎮護としてお祀りされた志太平野で最も古い伝統ある神社です。
御祭神は少彦名命を申し上げて、大国主命と共に日本の国を開き産業を進め、医薬の術を教え、人々に様々な知恵をお授け下さるなど、幸福をもたらす神様です。
昔、この山裾の小石のまわりから清らかな水が滾々と湧き出て諸病に霊験があったと伝えられ人々に命の水を恵み、また瀬戸川の水害から護って下さることから川関大明神(かわせぎだいみょうじん)とたたえられ、湧波神社(わくなみじんじゃ)とも称せられました。
<例祭> 10月第1日曜日の前日の土曜日例祭
10月の第1日曜日神輿渡御(武者行列)
大祭 3年目毎(寅巳申亥の年) 14台の屋台で賑い、日本一の長歌による地踊りが見どころです。
<延喜式内とは>
平安時代初代初期(延喜年間 西暦901年〜922年)に制定された延喜式神名帳に記載されている格式の高い神社(全国3,132社)のことです。
[大井神社]
岡出山の東の麓に大井神社がある。
[大井神社]
由緒看板を読む。
祭神 弥都波能売能命
鎮座地 藤枝市郡1丁目12−20
境内地 1251坪59
例祭日 10月9日
<由緒>
当大井神社は往古駿河国益津郡田中山に在り正親町天皇永禄10年(1567)武田信玄馬場美濃守に下令して田中山に築城しこれを田中城(亀井城)と称した。
大井神社は以前からこの地に鎮座(創立年祀不詳)田中城の守護神として祭祀尊崇されていた。
慶長7年(1602)酒井備後守忠利田中城主の時四の丸を拡張修築し使臣をその内側に居住せしめたが神威を汚すことを恐れ当神社を村上山の清処(現在の鎮座地)に奉遷してこれを祀社り是れ郡村大井神社の始めなり以来田中領内の士族や遠近の人々より病気全快家内安全安産等種々の祈願を大楠神主に請したる記録あり又祈願成就のお礼の奉納物も数多く献上され今尚その一部が安置されている明治8年指定村社に昇進し氏子は郡村外白子下伝馬の住民も併せ440戸を有し益々氏子の崇敬の念厚く例祭日には韻賑を極めた明治40年神饌幣帛料供進社に指定され氏子の神社に対する敬神の念益々高揚され例祭日には余興も交じり年と共に盛大裡であった
昭和18年郷社に昇格し氏子の念願が叶えられた
注 社領8石であった
[あずさ]
岡出山を南に進むとすぐにある市役所の西の裏に「あずさ」と言う料亭がある。
「みずきセット」を頼んでみました。1680円で本格的な日本料理をおいしく頂きました。
[神明神社]
街道まで戻って西へ進むとすぐ右側に神社がある。
[神明神社]
神社の奥に「明治天皇藤枝行在所址」と書かれた石柱が立っていた。
[大慶寺]
神明神社の向かいの路地を入ったところに大慶寺がある。説明書きがあった。
圓妙山 大慶寺の由来
●日蓮聖人京都遊学往復お立寄りの霊跡
今を去る700余年前、鎌倉時代建長5年初春、(1253年) 日蓮聖人が京都比叡山へ遊学の折、往復お立寄りになって、道圓・妙圓の両夫婦を説法教化され、題目のご本尊と毘沙門天王を授與され、記念に一本の松をお手植えされました。この松は「久遠の松」と命名されました。
道圓・妙圓の名は、聖人より授けられた法号で、後年、両夫婦は自宅に法華堂を建立して、当山の基を開きました。両夫婦の墓碑は鎌倉時代の作で、大宝塔の下部に安置されています。圓妙山の山号は、道圓・妙圓両夫婦の法号よりとり、大慶寺は、法華経流布の大慶にちなんで寺号としました。
当山は東海道有数の日蓮聖人直接お立寄りの霊跡であります。現在の本堂は、間口、奥行10間(18メートル)四面で昭和2年完成したものです。
[大慶寺]
説明書きの続き。
●久遠の松(県指定・天然記念物)
日蓮聖人お手植の松で、樹齢700余年の黒松。松としては最高の年令で、全国まれにみる大木で、天然記念物に指定されています。高さ25m、根元周囲7m
●境内の建築物
庫裡は相良城(田沼公)の御殿を天明8年(1788)に移築したものであり、境内には鐘楼堂・ 三光堂・弁天堂・淨行堂がある。
●当山は徳川期より明治前迄は、「さむらい寺」と称せられ、田中城主(4万石)姫君病気平癒の功により祈願寺とされました。境内には、田中城主太田摂津守、田中藩姫君、同藩漢学者石井縄斎先生(日知館創立者)、国学者熊沢惟興先生を初め、家老高瀬重富氏等の墓碑並に大塚亀石、荷渓、翠崖等地方文人の墓石があります。
●宝物・文化財
願満祖師御尊像・日蓮聖人御本尊・加藤清正公書。徳川綱条公書・田中藩士の書画・地方文人の古文書・文化財等、多数を保存している。
[大慶寺]
本堂を包むように「久遠の松」と言われる大木がそびえる。説明書きがあった。
松の前の塔が道圓・妙圓の墓碑のようだ。
静岡県指定天然記念物 久遠のマツ
所在地 静岡県藤枝市藤枝4丁目2番7号
所有者 大慶寺
管理者 大慶寺
説明 クロマツの大樹で、県下でも有数の樹勢を誇る美しい姿で、古くから「久遠のマツ」と呼ばれています。
樹高 25.0m 根廻 7.0m 目通 4.5m 枝張 東西 28.0m 南北 28.4m 推定樹齢 約700年
由来 寺の縁起によると、鎌倉時代、日蓮聖人は京都比叡山に学びに出掛けるときこの地に立ち寄り、12年後に帰郷する際に再び訪れました。法華経に教化された老夫婦が別れを惜しんで願い出たところ、日蓮聖人が1本のマツを植えていったと伝えています。
「久遠」とは法華経の経文のなかにみえる言葉です。
[大慶寺]
説明板にもある庫裡。
[大慶寺]
他にも堂が建っている。説明書きにあったどの建物なのだろうか?
[大慶寺]
釣鐘も立派。
[西光寺]
街道に戻り次の信号を入ると灯籠があり、奥に西光寺がある。
[西光寺]
西光寺の隣に古そうな建物が建っている。
[月見里神社]
西光寺の奥に神社があって大きな楠がはえている。
藤枝市指定天然記念物 月見里神社のクス
所在地 静岡県藤枝市藤枝3丁目333番地
所有者 月見里神社
指定年月日 昭和61年10月6日
神社本殿の後ろにあり二股になった幹が特徴的なクスノキは、市内でも有数の優れた大木のひとつです。境内にはクスの大木が数本あり神社の森として残されています。
付近では、岡出山や若一王子神社境内の裏山などに自然の森がよく残されていて、志太地域の代表的な植物を見ることができます。
神社の名前は、周囲に山がなく月がよく見えるという意味で、「月見里」と書いて「やまなし」と読まれています。
樹高 18.0m 根廻 26.5.0m 目通 9.1m 枝張 東西 19.5m 南北 12m
[本願の松]
神明神社から正定寺がある。
街道沿いの石柱の脇に説明書きがある。
拝見しに入ってみます。
[正定寺]
山門から正面に立派な松が見える。
[正定寺]
門を入った所に弁天わらべ地蔵があった。
[本願の松]
説明書きを読む。
本願の松
藤枝市指定天然記念物 昭和61年10月指定
所在地 藤枝市藤枝2丁目699
所有者 正定寺
正定寺境内の本堂前にあるクロマツで、傘形に枝張りした美しい姿に整えられています。この場所は江戸時代の東海道「藤枝宿」の宿場町の西木戸口近くにあたり、古図などに描かれています。
松は享保15(1730年)に田中藩主であった土岐丹後守頼稔が大阪城代となった時に寄進されたものであるという由来が伝わっています。
根廻 約3m 目通 約3m 樹高6.3m 枝張 東西11.5m 南北14m
(データは指定時の数値)
[勝草橋]
旧東海道は瀬戸川を渡る。
橋の名は勝草橋という。欄干に説明書きがあるので読む。
<勝草橋の歴史>
勝草橋周辺は東海道の渡河地点であり、江戸時代には川越しが行われた。明治時代になり明治3年(1870)5月には川越しが廃止され、以後瀬戸川では渡し船と仮橋の二つの方法によって通行が行われるようになった。その後地元の有志から本格的な橋の建設を求める請願が静岡県に出され、明治8年(1875)11月26日に初代の勝草橋が誕生した。
勝草橋は長さ52間、幅2間の木橋で、橋の中央には馬除け場が設けられていた。この橋は通行者から橋銭をとる賃取り橋で、橋銭によって橋の運営がなされていた。
昭和になって交通の近代化が進むと、勝草橋も木橋から架け替え不要な鉄筋コンクリートの橋へと変わることになる。昭和7年(1932)7月31日に鉄筋コンクリートの新橋が竣工し、当時の新聞には「東海道の名橋 勝草橋の竣工 藤枝町の偉観」と紹介された。勝草橋は藤枝のシンボル的な存在とされ、橋上はお祭りや行事などの舞台となった。
しかしおよそ70年もの間藤枝の近代化とともに歩んだ勝草橋も老朽化が進み平成12年(2000)10月には架け替えのためその役目を終え、平成15年(2003)7月に現在の橋に生まれ変わった。
<勝草橋の名前の由来>
明治8年(1875)11月に初代の勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎岑満(いさしんじろうみねみつ)が付けたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し、唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府入りし、廃藩後には牧ノ原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じていたため旧幕臣の子弟らの教育にも当たった。
前島の博習舎(はくしゅうしゃ)、志太の為善館(いぜんかん)でも教鞭をとり志太地域の近代教育の進興に努力した。
勝草橋の名前の由来は二つの説が伝えられている。一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍(かちいくさ)橋といっていたのが縮まって、勝草橋になったという説である。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説である。
[勝草橋]
渡った先の欄干にも説明書きがある。
<瀬戸川の徒渡り(かちわたり)>
江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。瀬戸川の川越し制度が創始されたのは江戸時代貞享2年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。
瀬戸川の川越しは瀬戸川の徒(かち)渡りといわれ知られていた。越すに越されぬ大井川に比べて、瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かったためである。
瀬戸川に面した両岸の河原町、志太村、稲川村には川越し人足15人が常置されていた。参勤交代などの大通行の時には川越し人足のほか、付近の村々から助郷人足を動員して川越しに当たった。川越しに掛かる料金は川越し賃銭と呼ばれ、川の水深によって膝水・股水・乳通水・脇水・首通水に分けられ賃銭が決められていた。膝水8文、股水16文、乳通水32文、というように水位の高さに比例して川越し賃銭は高くなっていた。
<田沼街道>
勝草橋の志太側の袂から瀬戸川堤を100メートルほど下流へ行った場所は、田沼街道の終点であった。
田沼街道は宝暦8年(1758)相良藩主になった田沼意次(おきつぐ)によってお国入りのために整備された道で、相良街道ともいった。城下町であった相良の湊橋(みなとばし)を起点として、相良・榛原・吉田の榛南地域を通り、大井川を小山の渡しで渡河して藤枝宿へ至る約7里(28km)の道であった。
田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明6年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。田沼街道は大名の通行路としてだけでなく、海岸部と山間部を結ぶ物流の道としても盛んに利用された。
吉永や静浜で作られた塩を藤枝方面へ運ぶため行商人が往還したといい、田沼街道の内瀬戸谷川の橋は江戸時代には塩取(しおとり)橋といわれ、塩売り承認から税を納めさせた場所であった。
江戸時代の田沼街道は近代の道路拡幅や区画整理などによって現在その面影をとどめていない。
[一里塚]
橋を渡った所に一里塚跡がある。
<志太一里塚蹟>
奈良時代、官道の4里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。
主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
志太一里塚は江戸から約200qで50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。
[志太]
橋を越えると「志太」地域になる。
すっかり雰囲気は変わり、このあたりからは地方の幹線道路の姿が続く。
[本陣?]
街道に大きな八百屋が営業していて、屋号を本陣という。
橋の東側が藤枝宿なので本陣はここではないはず??
洒落なのだろうか。
[田沼街道]
ここを左に入る道が、田沼街道だ。
先ほどの勝草橋の欄干に街道の説明があった。
[志太]
このあたりは商店が点在している。
[為善館]
橋から500mも来た所に石柱と案内看板があったので読む。
<為善館について>
明治6年5月、志太村家地太(かじた)67、68番地に為善館が創設された。この学舎は、明治43年の、瀬戸川大水害のため流出して確認が困難であるが、現記念碑の建っているあたりと推定される。
これは、寺子屋の学校化したようなもので、創設に連合した、志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区となり、校則も制定されていた。明治19年、統合で前島学校志太分教室となったが、その頃の就学児童数は、約120名ぐらいと、当時の文書により推定できる。
明治23年青島尋常小学校創立に伴い発展的に閉館した。
[岡野繁蔵]
案内看板がまたあった。
「裸一貫から南洋のデパート王」となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれました。
青島小学校、育英学校に学び、21才でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨貿易商として成功し、さらに、スラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが太平洋戦争でやむなく日本に引きあげました。
戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土の為に貢献されたが、昭和50年、81才の生涯を閉じました。
石標に刻まれた「希望に起き、感謝に眠れ」こそ繁蔵の尊い信条でした。
[青木]
橋から1km弱で国道1号線に出会う。町名は南新屋と青木の境。ここは青木の交差点という。
旧東海道は国道を斜めに横切り、変則の交差点を斜めに進む。
[南新屋]
国道を渡り、南新屋を進む。
旧東海道には松が似合う。
[田中藩領]
青木の交差点から1kmほど進んだ左側に田中藩領傍示石蹟と書かれた石柱と説明看板が立っている。
瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す榜示石を立てた。
この榜示石は一丈余(約3M)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。
これと対になるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。
膀示石は、田中城主本多正意が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。
上青島にも榜示石があった。
[六地蔵尊]
田中藩領傍示石蹟から200mほどでお堂があり、説明がある。
<六地蔵尊の由来>
この六地蔵尊の由来を概略して記すれば、昔の人の遺い伝えと郷土の史跡から六地蔵は近在の名所として亦々東海道筋の由緒ある歴史の地として広く知られている所である。六地蔵尊は神龍凄みし鏡ヶ池から出現したるにより鏡池堂六地蔵尊と称し駿河国24番札所第9番の霊地に指定せられ東海道を旅する著名な人々がここに立寄って祈願をされたという記録。
また、正徳3年には大草太郎左エ門当地支配の節御嗣子なきため六地蔵尊に祈願せしところ感銘あってお子様が授けられしにより御手代向坂仁右エ門を普請役として派遣されこの堂宇を寄附されたという。また六地蔵の本像は知証大師の自作とされ長さ30糎ばかりの金色に彩色した木仏である。さらに鏡池堂の額は儒学の人渡辺崋山の揮亳であると伝えられている。
六地蔵尊の霊験は著しくあらたかにして願いごとが叶えられ災難消除・延命長寿・家内安全・交通安全等祈願すれば必ず感応すること疑いなし。依而近郷庶民帰依頼みに厚く遠近よりの参詣者絶えず。
この堂宇は昭和33年に昔の形をのこして改築したものである。六地蔵尊の縁日は毎年8月23、4、5日に行い、24日の晩は附近に夜店が並び余興もあって近郷界隈より参詣する善男善女でにぎやかく夏の夜の盛りばとして有名である。
六地蔵尊の開扉供養(お開帳)は33年目毎にそのときは本像を開いて信者に拝観せしむるその外は一切開扉しない。
尚六地蔵尊の周辺は時代の変遷により変化しておるが堂宇の位置は変わっていない。
六地蔵尊霊験あらたかなることは以上の通りであり、この由緒ある状況を今の人たちに広く知って頂くと共に永くこれを保存顕彰して次の時代に伝え遺したい所存であります。
昭和58年8月吉日 瀬戸新屋町内会
[六地蔵尊]
敷地の隅に地蔵が並んでいた。
[古東海道]
地蔵堂からすぐ先の右に入る路地の入口に古東海道蹟と書かれた石柱が立っている。
昭和30年代までは、こゝから西に瀬戸山の丘が続いていた。
この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。
この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。
松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。
古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。
島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。 平成10年5月 青島史蹟保存会
[東海道追分]
また、すぐ先の左側に石柱と説明看板が立っている。
こゝには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。
瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。
当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太(りゅうたい)寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。
東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。
[青島]
右手に青島小学校がある。
このあたりは青島と呼ばれる地域だ。
松並木がこの先にある。
[千貫堤]
ちょっと行った所にも左側に石柱と看板が2種類。
<市指定文化財 千貫堤>
寛永12年(1635)年田中城主となった水野監物忠善(けんもつただよし)は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360mにわたり、高さ3.6m、巾29mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。
昭和31年1月21日指定 藤枝市教育委員会
<市指定文化財 千貫堤>
慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。
寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善(けんもつただよし)は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。
昭和40年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取りのぞかれ、現在は石野家の南側に約40mの堤がそのときのまゝの姿で残っている。
[瀬戸の染飯版木]
近くに木柱が立っている。
「市指定文化財 瀬戸の染飯版木」「江戸時代 所有者 石野秀光」とある。
説明書きは無かった。
[染飯茶屋]
迎えのバイク屋の脇に石柱と看板が立っている。
<染飯茶屋蹟>
瀬戸の染飯(そめいい)は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶屋で売り始めたといわれ、天正10年(1582)の「信長公記」に、その名が記されている。
東海道が平地を通るようになっても現在の茶店蹟で江戸時代の終わり頃まで売られていた。
染飯とは強飯をくちなしで染め薄く小判型にしたものであったという。
くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。
染飯を売る時の包紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている。
平成10年5月 青島史蹟保存会
[田中藩領]
またまたすぐ先に田中藩領傍示石蹟と書かれた石柱と看板が立っている。
江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたゝめ、藩境に境界を示す傍示石を立てた。
田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銕太郎の所領となっている。
この標石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是西田中領」と書いてあった。
これと対になるのは田中藩領細島村の西端と考えられる。
市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の傍示石があった。
[千貫堤]
先ほどの千貫堤の看板に戻り、奥を見ると堤の名残が見ることができる。
近くで見ようと入ってみる。
[千貫堤・瀬戸染飯伝承館]
入って行くと「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の看板の矢印があったので覗いてみると小屋が建ってる。
中に入るとシルバー風の管理人がいて説明してくれた。この伝承館は堤の上に建てられていて、辺りの歴史遺構の説明がされていた。
[岩城山]
伝承館のすぐ裏にはJRの線路がある。線路の向こうに岩城山が見える。
千貫堤は岩城山、本宮山、藤五郎山をつなぐものだったらしい。
岩城山の右手に本宮山があるが、藤五郎山は削られて今は無い。
JRを渡り岩城山、本宮山まで行ってみることにする。
[正泉寺]
街道へ戻って400mほど進んだ信号から道をそれて、千貫堤の終点だった本宮山まで寄り道をしてみる。
信号から南に入り、JRを越え300mほどの所にある小山が本宮山で、その山の東側に正泉寺がある。
寺の入口に看板が立っていた。
熊野山(本宮山)
熊野三社大権現を祭る。往昔、天正6年(1578)3月10日、家康、浜松城より駿府出陣に挙を企て、大井河辺に陣取り、兵を遣わして田中城を囲む際、酒井左衛門忠次をこの本宮山と藤五郎山(今の昭和団地)に先陣とさせ、兵を充満させた。
同年8月にも初倉より大井川をこえ(伊呂尾越)、田中城辺の刈田をした。天正7年(1579)5月にも田中城を攻め、本宮山、あるいは瀬戸崎に兵は充ちた。因みに田中城はこのあと天正9年(1581)2月に落城した。
(武徳編年集成より)
[正泉寺]
本堂以外の建物。
阿弥陀堂かなにかだろうか。
立派な庫裡が新築されていた。
正泉寺の裏山の本宮山にある熊野権現登ってみる。
登り口の参道の横に古い墓があって、そこには説明看板が立っていた。
<青島家塋域(墓所)>
青島五郎兵衛長忠は当地(青島)に居住した豪族でその場所を「池田屋敷」という、(青葉町1−14番地辺り)、系譜によると長忠は武田信玄について当地へ出陣、遠州諏訪原城合戦の際、功があった。
のち田中城へ在勤、三方原の合戦でも軍功をたてた。元和元年(1615)5月朔日、62才で歿、清凉院忠山了節居士の法名をおくられた。
2代長宗、徳川方へつき、子孫繁茂、明治初年迄「池田屋敷」存続したが、その後、他処へ移る。昭和40年代、土地改良によって「池田屋敷」裏手の山にあった墓石郡を此処、正泉寺へ移す。
[熊野権現・本宮山]
本宮山の頂上に神社がある。神社には期待した説明看板は無かった。
[岩城神社]
次は岩城山にある岩城神社へ寄ってみる。
御祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命(いざなみのみこと、はやおのみこと、ことさかのおのみこと)
由緒並御神徳
御鎮座は年代古〜元明天皇の御代和銅4年8月(西暦711年)御創建にて近隣を本郷村と唱えし頃、上青島道悦島は皆当神社の氏子として駿河国志太郡の総鎮守の神として崇敬された。
御祭神は日本の国土を造り固めなした尊い神で悪事災難悪魔けがれを全て祓い産業を盛んにして家内の安泰を祈る広大な御神徳を恵み給う神様です。
<明治天皇御製>
目に見えぬ神に向かいて恥ざるは人の心の誠なりけり
ちはやぶる神の守りによりてこそわが葦原の国はやすけれ
[岩城神社・岩城山]
岩城神社から岩城山の頂上へ向かう道が出ている。
[一里塚周辺]
旧東海道に戻る。
松並木が若干残っていて、街道の雰囲気となる。
[青島一里塚]
一里塚は今では残っていない。
街道の南側の柵の脇に木の標柱と石柱が並んで立っている。
「東海道(青島)一里塚跡・藤枝市上青島」「南約10m道路東円形にて約120u」とある。
[一里山]
一里塚から間もなく信号があり、旧東海道は国道1号線に合流する。
「一里山」交差点という。
島田宿方面へ進むにはこちらをクリック。
−コメント−
藤枝宿からから青島の一里塚まで、寄り道を含めると10kmの行程。
随所に名所があったが、寄って来れないところも多かった。
− 一里山〜島田 −
青島の一里山から島田宿へ入る。
越すに越されぬ大井川までの約7kmの行程。
寄り道をしながら蓬莱橋まで行くと10kmを越える行程になる。
[青島一里山]
一里塚から間もなく信号があり、旧東海道は国道1号線に合流する。
「一里山」交差点という。
藤枝宿方面へ戻るにはこちらをクリック。
[一里山]
国道にも松がみられて旧東海道の雰囲気が残る。
島田に向かって右側に見える山を一里山と街道で出会った地元の人が言っていた。
[島田市]
一里山交差点を過ぎるとすぐに島田市へと入る。
[道悦島]
大井川町へと向かう県道227号線と出会う。
[道悦]
島田市道悦と書かれた歩道橋に出会う。
六合の駅へはここを左へ入る。かつてこのあたりは六合村と呼ばれていた。
右に分岐する道が旧東海道となる。
[旧道]
国道の喧騒から離れて一呼吸入れることができる。
[旧道]
旧道はまたすぐに国道へと合流する。
[蔵]
国道と合流するところの交差点の向こう側にある家には立派な蔵が今では残っている。
[御仮屋]
このあたりは国道は御仮屋という地名。
この先の交差点で国道と旧東海道は分岐する。
[監物川]
歩道橋の下に水路があるが、謂れのある水路らしく、看板が立っているので読んでみます。
<監物川と監物橋>
寛永12(1635)年、島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野堅物忠善の支配下に入りました。
志太郡一帯を支配することになった堅物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れました。
感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を「堅物川」と呼び、東海道に架けた幅3間、長さ2間の短い土橋を「堅物橋」と呼んだものと思われます。
島田宿史跡保存会
[御仮屋]
国道が右へと大きく曲るところが御仮屋交差点だ。
真っ直ぐ細い道へ向かうのが旧東海道。
[御仮屋]
旧道へ入り、島田の商店街である本通方面へ向かう。
このあたりは平凡な景色が続く。
[本通7丁目]
このあたりは本通の東の始まりで本通7丁目だ。
島田宿の西の始まりは本通1丁目からとなるが1km余りの間を7町に分けてある。
[本通7丁目]
本通は、本通7丁目交差点で県道34号線を合流してから大きく右に曲がる。
写真は合流した次の交差点に所から撮ったものです。ここを左に曲り700m南に進むと蓬莱橋に出る。
今はそちらへ行かずに旧東海道を進む。
[一里塚]
通りが大きく曲るあたりから6丁目になる。右側に一里塚の石柱があって説明板が立っている。
<島田宿一里塚>
慶長9年(1604年)徳川家康は、東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。
塚は5間四方(直径約9米)、上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。
島田宿一里塚は、天和年間(1681〜1684年)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。
幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅5間2尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています。
島田宿史跡保存会
[島田宿]
一里塚の石柱の向かいに「江戸時代の島田宿」の説明板が立っている。
一、島田宿の成立
慶長6年(1601)徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。
慶長9年(1604)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島田」で仮に庭立てを行った。
元和元年(1615)元の島田宿に戻り復興した。
一、位置
江戸へ 52里(約204km)
藤枝宿へ 2里8町(約8.7km)
金谷宿へ 1里(約3.9km)
一、宿内往還(道悦島村境より大井川堤まで)の長さ
34町53間(約3.8km)
道幅4間(7m24cm 向かいの車道に鋲で表示してあります)
一、宿内家並東西長さ
9町40間(約1.1km)
一、宿内人口(天保14年・1843年)
6727人 内 男3400人(当時の静岡県内では、府中に次いで人口が多かった)
女3327人
一、宿内総家数(天保14年・1843年)
1461軒
一、宿内施設
本陣 3軒 上本陣 村松九郎次家 (三丁目)
中本陣 大久保新右衛門家(三丁目)
下本陣 置塩藤四郎家 (四丁目)
脇本陣 なし
旅籠屋 48軒(大6軒・中7軒・小35軒)
一、問屋場 1ケ所(五丁目)
宿建て人馬 人足136人・馬100疋
一、高札場 1ケ所(西入口北側・多い神社南鳥居横)
一、郷倉 1ケ所(五丁目南裏)
「東海道宿村大概帳」より
島田宿・金谷宿史跡保存会
[本通6丁目]
本通6丁目から2丁目までは直線が続く。
この区間が商店街の核心部になる。
[甘露の井戸水]
このあたりは伏流水は豊富なのか、大井川の河川敷だった時代もあったのだろう。
自噴しているのか、なにか仕掛けがあるのだろうか?
[刀鍛冶]
刀の先端を形取った石碑が立っていてその脇に説明書きが立っている。
島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約400年間の歴史をもち、繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒と連ね、鍛冶集団を形成していたという。
その系譜は、義助・助宗・広助を主流とし、作風は、相州風・備前風などのみえる業物打ちであった。江戸時代になると、貞助系・忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。
彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。とくに.義助の「お手杵の槍」や、武田信玄所蔵どいう助宗の「おそらく造りの短刀」など、刀剣史上に今なお名をとどめる秀逸な作品も少なくない。
紀行文や文芸作品・芸能にも島田鍛冶は取り上げられ、往時の繁栄ぶりと名声のほどがうかがわれる。また、室町末期に活躍とした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。
島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている。
昭和61年3月吉日 島田市
[問屋場跡]
刀匠の碑と並ぶように問屋場跡の碑が立っている。説明板があるので読んでみます。
問屋場とは、宿場の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、継ぎ立てを行う施設でした。
島田宿問屋場の敷地は、間口8間(幅14.5m)、事務所は間口5間半(10m)で奥行5間(9.1m)の建物でした。そして、ここには長である問屋、その補佐役の年寄、事務担当の帳付(ちょうづけ)、人足や馬方の指揮をする人指(ひとさし)・馬指(うまさし)と呼ばれた宿役人が月交替で詰めていました。
また常備人足は136人、伝馬は100匹で、このうち人足30人、馬20匹は特別の場合に備え、さらに不足のときは周辺の助郷村から補いました。
飛脚(御継飛脚)は10人が常駐し、昼夜交替で御状箱(ごじょうばこ)を継ぎ送っていました。
島田宿史跡保存会
[道標]
旧東海道沿いにある「夢舞台東海道」の道標。
「藤枝宿境まで1里34町、金谷宿境まで24町」とある。
[島田宿案内]
島田宿案内図が絵付きで看板になっていた。説明を読んでみます。
1 東の升形跡(宿東入口)(七丁目)
島田宿家並みの東端には、土塁で三方を囲み、上には竹矢来を設けた「升形」の見付(見張り所)が設けられていました。
ここから東は松並木でした。
広さは5間四方(約18u)ほどでした。最初はここに宿場の番人を置いたともいわれていますがよくわかりません。宿場の境界として、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所でした。
2 一里塚跡(七丁目)
慶長9(1604)年、江戸日本橋を基点として主な街道に1里(約3.9km)ごとに距離を示す塚がつくられました。
大きさは直径5間(約9m)で上に榎が植えられていました。島田宿の一里塚は江戸から50里、京都から70里と記録されています。
旅人の行程の目安であり、夏の日差しをさける休み場所でもありました。なお一里塚は街道の両側に設けられるのが一般的でしたが、島田宿の場合は北側の塚しかありませんでした。
3 庚申堂と牛頭天王社(祇園町)
江戸の始めころ、旅の修験者(山伏)(1666年没)が、代官長谷川藤兵衛の知遇を得て七丁目天王小路西角に屋敷を構え、背負ってきた青面金剛を祀る庚申堂を建てました。彼はその後、疫病退散を願って、宿北裏の森(お囲い場の東端)に、京都祇園(現八坂神社)の御本体牛頭天王を勧請して天王社を創建しました。
そのことから彼は「勧進院」と呼ばれたようです。同じころ庚申堂も天王社の隣に遷座したと思われます。
これ以後七丁目北裏の集落を「天王村」(現祇園町)と呼びました。明治42年に神社名は「須田神社」と改称されました。
4 島田五鍛冶(5・6丁目)
島田宿には、戦国時代から江戸初期にかけて、多くの刀鍛冶が住んでいました。戦国時代の助宗作「おそらく」造りの短刀や儀助作「お手杵の槍」は名作として天下に知られていました。
元禄元(1688)年の町並み記録によると、六丁目に広助・儀助、五丁目に助宗・忠広・貞助の屋敷があり、この5人は島田五鍛冶と呼ばれていたようです。
5 問屋場跡(五丁目)
江戸時代、公用で送られる文書と荷物、および公務での旅人は、宿場ごとに人馬を継ぎ立てることになっていましたので、各宿場には人馬を継ぎ立てる問屋場が設けられていました。
島田宿の問屋場は宿の中央にあたる五丁目南側にあり、東西8間・奥行き約40間の敷地に、街道に面して間口5間半・奥行5間の建物が建っていました。
6 御陣屋(代官所)跡(四丁目北裏)
徳川幕府は、交通や軍事上重要な地域を、直接支配し、これを幕領または天領と言っています。
そこに御陣屋(代官所)を置き、年貢の徴収や、訴訟の取り扱いなどを行いました。島田御陣屋の最初の代官となった地元出身の長谷川藤兵衛長勝は自分の屋敷を代官所とし、その後3代つづきました。
孫の長谷川藤兵衛勝峯のとき遠州川井代官所に移動となったため、屋敷と建物は幕府所有となり、その後、代官が次々と赴任してきました。なお現存する「御陣屋稲荷神社」は当時は御陣屋の屋敷神として祀られていたものです。
7 本陣跡(三丁目・四丁目)
本陣とは、大名や身分の高い公家、僧侶などが宿泊したり、休憩したところです。宿場の中でも大きな屋敷を持ち、経済的にも裕福な民家が幕府から指定され、主人は「苗字帯刀」を許されていました。
島田宿の本陣は、上(西)から上本陣の村松九郎次家、中本陣の大久保新右衛門家、下本陣の置塩藤四郎家の3軒がありましたが、脇本陣は置かれませんでした。
8 塚本如舟屋敷跡(三丁目)
元禄4(1691)年と元禄7(1694)年の2回、俳諧師松尾芭蕉が旅の途中に客として泊まったことが知られる島田宿組頭の一人、塚本孫兵衛(俳号如舟)の屋敷跡です。芭蕉没後にも、その縁を求めて、芭蕉の友人や弟子たちが数多く立ち寄っています。
9 桑原家跡(一丁目)
文化・文政期から幕末期にかけて、島田宿随一の素封家(財産家)でした。一丁目で酒造業(稲葉屋)などを営み、間口13間の屋敷を構えて、持高は島田宿村高の6分の1にも及びました。
一方、代々文芸や書画に秀で、風雅を楽しんだ文化人の家系として駿河・遠江に広く知られていました。
とくに4代目の伊右衛門宣之(金渓・黙齋)は、画人でもあり、また隠居後、駿河国内を巡歴して地誌「駿河記」を著したことで知られています。
10 大井神社(一丁目)
元禄のはじめ頃(1689年頃)、下島(御仮屋)から現在の場所に遷座されて以来、島田宿の総鎮守として祀られています。そのときから3年に一度(寅・巳・申・亥年)の大祭が行われてきました。
この祭は大名行列・御神輿渡御行列・鹿島踊り・屋台踊りなど華やかで彩り豊かな祭として知られていますが、とくに大太刀に丸帯を下げて舞う絢爛豪華な大奴の行列と鹿島踊りは、ともに静岡県指定見慶文化財に指定されています。
11 高札場跡(一丁目)
幕府は、禁令や法度(法律)を人々に知らせるため板礼に書いて宿場の入口など人通りの多いところに掲示しました。
その板札を「高札」、立てられた場所を「高札場」といいました。島田宿には宿場の西入口にあたる大井神社南鳥居脇に立てられていました。内容はキリシタン禁制や火事場禁制、毒薬贋金等禁制、伝馬法度、陣場賃銭定などで、いわば公報の掲示板でした。
12 西の升形跡(宿西入口)(一丁目)
島田宿西の入口に当たる大井神社南鳥居向かい側に、宮川と正覚寺小路の間を土塁で囲った、升形の見付が設けられていました。ここで本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをしました。ここから西は、向島集落まで松並木でした。
[天皇行幸]
本通5丁目の交差点を北に曲がると「明治天皇島田行幸座所」との石碑が立つ黒塀の屋敷がある。
[本陣]
ホテルの前に本陣跡の小さな石柱が立っている。
島田宿には3つの本陣があったそうだ。
[からくり時計]
時計台があり、説明があった。
このからくり時計塔は、和風街並みエリアのシンボルとして建てられたものです。定時になるとまちが元禄の昔にかえる島田大祭(帯祭り)の風情を、大奴と鹿島踊りの人形が伝えてくれます。この祭りは、江戸時代から受け継がれ、3年に一度艶やかに繰り広げられます。大奴をはじめとする大名行列と鹿島踊りは、県の無形民俗文化財に指定されています。
(大奴)
大奴は神様が乗ったご神輿を護衛する人で、大名行列の花型です。総勢25人からなり、昔ながらの奴の姿に金襦の廻しを付け、左右に突き出した1間近い木太刀には、見事な丸帯を1本ずつ掛けています。左手には唐傘を持ち右手で全体の調子をとり、大きくゆったりと空を描いて一糸乱れず鷹揚に練って歩きます。
(鹿島踊り)
鹿島踊りでは、雅楽の音色にのって優雅にして荘厳な舞踊が展開されます。永宝年間、島田に疫病(伝染病)が流行した時、大井神社の境内に春日神社の神霊をお祭りし、疫病退散を祈願したのが始まりです。
平成11年11月吉日
施行者 島田市
指導協力 島田帯まつり保存会
島田鹿島踊り保存会
[御陣屋小路]
きれいに整備されている割に人気のない歩道。時計の前に本陣の説明書きがあった。
島田本陣跡
この地は江戸時代の参勤交代の折、諸国の大名が宿泊した島田宿の本陣があったところです。
この奥に島田代官の御陣屋があり現在御陣屋稲荷が祀られています。
[御陣屋稲荷]
御陣屋小路の突当りに稲荷神社がある。説明書きがあった。
<御陣屋稲荷神社 由緒>
島田代官所が野田から柳町に移った翌年の、元和3年(1617)に代官の長谷川藤兵衛長親が地域住民の安泰と五穀豊穣を祈るため代官所の屋敷内に稲荷祠を建立した。寛政6年代官所が駿府に統合された後も陣屋が置かれていたので御陣屋稲荷神社と呼ばれている。
祭神は宇賀魂神(別名倉稲魂神)を奉祀する。当時は住民の多くが農民だったので五穀豊穣を願って信仰が広まったが、現在は商売繁盛の神として信仰されている。
祭日は当初伏見稲荷神社と同じ2月初午の日であったと思われるが、その後3月初午になり現在では、3月初午の前の日曜日に祭典が行われる。
風刺人形の起源は明らかでないが、代官所の頃には罪人を庶民の前に晒して見せしめにしたようであるが、出張陣屋になってからは、庶民に勧善懲悪や忠孝貞節の本義を知らしめるため、罪状を記した人形を、自由に参拝できる稲荷祭の添物とし参詣人に見物させたものと思われる。
この風習が、陣屋が廃止されてからどのような経緯で民間に引継がれてきたのか定かでないが、前年の出来事を人形で風刺した稲荷祭日の風刺人形は、発言の場がない庶民にとっては日頃の鬱憤を晴らす機会として大いに人気があった。
[本陣跡]
呉服屋の脇に本陣跡の石柱があった。二つあったと言われるもう一つの本陣跡なのだろう。
[本通3丁目]
本通3丁目へ入った所の店先にも島田宿の石柱が玄関脇に置いてある。宿場町の誇りがあるのだろう。
[静銀芭蕉碑]
街道の南側に静岡銀行があり、その前の歩道沿いに芭蕉の碑があった。
やはらかにたけよことしの手作麦 如舟
田植えとゝもにたびの朝起 はせを
[島信芭蕉碑]
2丁目の交差点にある島田信用金庫の前にも芭蕉の碑がある。
変体仮名なので所々しか読めないが有名な句なので次のように書いてあるらしい。
「するがの国に入りて するがぢゃはなたち 花もちゃのにほひ」
この句は・・・・(やっぱり読めませんでした)
[本通2丁目]
2丁目交差点から旧東海道を見る。
この先で道が曲っている。
[大井神社]
旧東海道からの参道。両側に石積みになっている。土手石垣と言うらしく説明看板があった。
<土手石垣>
江戸時代、大井川の川越稼業の人達が毎日業を終えて帰る際、河原から石一つ選び持ち帰り、それを蓄積してこの土手の石垣を築いたものである。
[大井神社]
大井神社の由緒看板を読む。
<御由緒>
創建 建治2年
当地御遷座 元禄初年
大井川鎮護の神として奉齋される
勅宣正一位宣下 嘉永7年7月
島田の総氏神
祭典 日本三奇祭 帯祭
3年毎秋10月執行
駿州 島田
大井神社
<大井社 元禄2年社号標>
元禄2年(約320年前)この年に大井神社は元社地 現御仮屋お旅所より当地に遷座、島田宿の中心に氏神として鎮座し広く信仰を集め崇敬された
[大井神社]
神社の脇、境内の真ん中に大奴の像が立っていてその脇に説明看板があるので読みます。
<大奴像 鹿島踊像 建立記念>
大井神社大祭も元禄時代より300有余年私達の祖先の厚い信仰と尊い努力によって伝統が護持され今日に至りました。
今は日本三奇祭「島田の帯祭」と讃えられ安産祈願と共に全国にその名を知られております。
ここにこの尊い大祭行列の代表的な姿である大名行列の大奴と鹿島踊の三番叟2体の勇壮華麗な姿をブロンズ像として建立し、その美しさを後世に伝えるものであります。
[大善寺]
街道へ戻り400mほど進んだ交差点の角に大善寺がある。説明看板があったので読む。
■大善寺
当山の鐘は天明4(1784)年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘明)。
それ以後、昼夜6時(2時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)とくれ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。
しかし、この鐘は、昭和19年(1944)年、太平洋戦の際に供出され、現在の鐘は昭和48(1973)年に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています。
[大善寺]
寺の庭は良く手入れが行き届いていた。
[向島]
大善寺から500mほど進むと東海パルプが左に見えた分岐点で、旧東海道は県道から左に別れる。
[島田市博物館分館]
県道から分かれてしばらく進むと映画のセットのような街並みが始まり、島田市博物館分館の看板が目に入る。
[秋葉神社]
旧東海道と縁の深い秋葉神社があった。ちょっと可愛すぎる。
[立合宿]
同じような造りの建物が続く。ここは立合宿。説明看板を読んでみます。
「立合人」が詰めたり、川越人足の頭が必要に応じて相談場所として利用したところです。
「立合人」は、川越しを待っている旅人たちを番宿まで案内することがその役目でふつう番宿から越場にいる川越人足のところまでは「陸取(おかど)り」が案内しましたが、ときには「立会人」が越場まで連れていきました。
「立合人」は、川会所にも詰めていたといわれています。
[仲間の宿]
高齢者の人足の溜り場らしい。
[番宿]
働き盛りの人足はこちらで溜まっていたらしい。
川越し人足がふだん詰めていた溜り場ですが川越制度制定当初から番宿が存在したかどうかは不明です。
川越し人足は10組に分けられ、各組が一つの番宿に詰めました。
川越しは各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足もそれぞれの番宿で待機していました。
[札場]
札場の看板がかかっている店もある。
川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。
一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました。
[関川庵]
通りの脇に「関川庵」と書かれた木柱が立っている。
木柱の裏に説明が書かれていた。
八百屋お七の恋人吉三郎の墓
火と燃ゆる恋に心も身も焼きて あわれお七が灼熱の恋
[関川庵]
木柱が立っている路地の奥に「関川庵」という寺がある。
吉三郎の墓がどこかはわからなかった。
[島田宿大井川川越遺跡]
街道に戻り通りを振り返って見る。
昔の空気を感じる。
[川会所]
町並みの最後の所に川会所がある。
中に入ると説明書きがある。
元禄9年(1696)に川越制度が改定されてから、川役人が川越業務をおこなってきたところです。
現存する建物は、安政3年(1851)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和45年(1970)に建立当初の位置に近い現在地に復元保存されました。
なお、金谷宿側にも同様の施設があったと考えられますが、現存はしていません。
[川会所]
「川越しの時刻」の説明書きを読む。
明け六ツ(午前6時頃)から暮れ六ツ(午後6時頃)までで、季節により多少のずれがありました。
しかし公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立が許されましたが、よほどのことでない限り、暮れ六ツ以後の川越しは許されませんでした。
開始の時刻は、川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始されました。
旅人や川越人足たちは、向島の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知りました。
鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加刎の内より支払われていた。
[川会所]
「川札」と「台札」の説明書きを読む。
川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたといいます。公文書にも「油札」と記したものが多くあります。
川札1枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。
この川札は、美濃紙を12行に裁ってつくられています。その上方に、川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書きされていました。全体に油(柿渋)を塗り、その3分の2ほどはこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差し支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛に結ぶのに都合がよかったからでしょう。
このような「川札」がいつごろから使われ始めたか不明ですが、元禄4年(1691)年、ドイツ人で長崎オランダ商館付きケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記「江戸参府旅行日記」の中に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確立される元禄9年以前から利用されていたと思われます。
「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければなりませんでした。価格は、川札の2倍に相当した。
これは、中頭紙を横にして、幅7分ほどに裁ち、川札同様に、川会所または年行事の黒印を押し、端に「台札」と墨書したものです。
その起源は川札同様に、元禄9(1696)年、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。
[川会所]
「川庄屋と年行事」「雲助でなかった川越人足」の説明書きを読む。
<川庄屋と年行事>
元禄9(1696)年、代官野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになりました。その中心的な役割を担ったのが、川庄屋と年行事です。
川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務していました。
その主たる任務は川越賃銭の統制でしたが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなどきわめて多岐にわたっていたことから、当初の2人枠が次第に増員され、享和年間(1801〜1804)には、4人が任命されています。
年行事は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられましたが、その数は9人〜11人、あるいはそれ以上と一定していません。
川会所に交替で勤め、川越賃銭の取立て、帳簿の記載、川越人足の区分・配置を行いました。
また、川越賃銭を決めるための下検分を行い、川の留め明けについても決定的な意見を川庄屋に報告していたとされています。
「大井川の川越し」(島田市史資料編等編さん委員会編)より
<雲助でなかった川越人足>
川越人足は、外見上の粗野な風貌と、仕事内容により、ややもすると街道に出没する、いわゆる「雲助」と同一視されることもありましたが、事実は、長年にわたる厳しい修行を経て、高度な渡渉技術を身につけた熟練者の集団でした。
大井川は現在と違い、当時は水量が豊富こともあって、とても素人に勤まる仕事ではありませんでした。
川越人足になるには、12、3歳の頃から見習いとして、雑用を行い、15歳頃から「水入」となってさらに訓練をつみ、毎年末に川会所に申し出て、適当と認められると、正月になって川庄屋が本人を川会所に呼び出して川越人足になることを認められました。
<川留めと川明け>
大井川を川越しする料金は、その日の水深と川幅の広さによって決定されるので、当然毎日、変化しますが、ひとたび大雨にあって水深4尺5寸(約1.4m)以上に増水すれば大井川の川越しは禁止されています。これが「川留め」です。川留めは4〜6月頃に集中し、2、3日から1週間程ですが、慶應4(1866)年に連続し28日間にも及んだことがあり、これが最長記録となっています。
そして「川明け」になると、旅人たちは大井川の河原に殺到し、またこの4〜6月という時期は、参勤交代のとも重なり、混乱に相手にをかけました。このような日を「大通行」といい、この時期には、川越賃銭は、川会所で川札を求めない(取勝・とりかち)で、川越人足と旅人との一対一のやりとりで(相対越し)越立てをしました。これは、大通行の時期だけみとめていました。
[島田大堤]
川会所の脇に土手があって説明看板が立っている。
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604〜1605年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を堀抜き、宿内に3本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。
恐らくこの頃(天保元年・1644年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の20倍にも増えています。大堤の規模は高さ2間(約3.6m)で向谷水門から道悦島村境までの長さ3150間(5733m)と記録されています。
今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。
[八重枠稲荷]
街道脇に小さな神社がある。
昔、ここには大井川の「出し堤防」があり増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています
宝暦10年(1760年)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも、建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。
社殿は文化9年(1812年)と明治34年(1901年)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものです。
川石は硬くて加工に手間がかかりいまでは市内に数カ所残るのみの技法です。
[せぎ跡]
「せぎ跡」と書かれた札が立っている。
説明書きは見つからなかった。
[朝顔の松]
「せぎ跡」を抜けると広々した公園のようなスペースにでる。この先がもう大井川の土手だ。
碑が立っていてその先に松とお堂のような建物が建てられている。
<朝顔の松の由来>
昔、ここに一本の大きな松がありました。
江戸時代、大井川には橋が掛けられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。
ここには次のような物語があります。安芸の国(広島県)の娘、深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。
その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。
しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。
この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎの旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。
あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。
<次のフレームに「朝顔の松の由来」はつづく>
[朝顔の松]
松とお堂
<「朝顔の松の由来」のつづき>
この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1m56cm・高さ20m)でしたが惜しくも昭和10年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。
書かれている題辞は「風松久髣舜歌曲枯髄猶留瞽女魂」で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。
この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている。松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。
この物語「朝顔日記は」、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています。
[島田市博物館]
土手に出る手前に立派な博物館が建っていた。
この日はすでに閉館時間だったので、又の機会に覗いてみたいと思う。
[東海道]
土手から今来た道を振り返る。
[川越え]
旧東海道には橋はなかったので、この土手で街道は途切れる。
土手脇の看板に当時のイメージ絵が描かれている。
これで街道は終点となるが、このあと2キロ半ほど下流にある蓬莱橋へ行って本日の終了としたい。
[蓬莱橋]
島田宿大井川川越遺跡から2.5kmほど下流に木造の珍しい橋が掛かっていて、橋の手前に説明書きがある。
<大井川の変遷>
○大井川の昔の流れ
大井川下流部の流路は、堤防などの治水施設が不完全であった近世以前は何本もの支流が存在し、洪水のたびごとに変化していたが本流はある程度一定していたものと考えられています。又、主な流路は古い時代から現在に向けて東から西へ移動し、そしてこの流れによって運ばれて来た多量の土砂が現在の扇状地を形成したといえます。
○舟型屋敷
大井川沿いの集落は、自然堤防などの微高地上に発展していて、田畑、家屋敷を水害から守るため、家のまわりを三角形に囲む小規模な水はね用の土手「舟型屋敷」が造られました。そして、三角形の鋭角部が濁流の押し寄せる方向に向いており、濁流をさかのぼろうとしている舟のような姿になります。これを大規模にしたのが舟型集落(御囲い堤)といわれています。
○牛尾の瀬替(志戸呂堤)
大井川治水歴史の上で最初の大規模な事業は、天正18年(1590)に行われた牛尾の瀬替であり「駿河記」には「牛尾山は、現在の大井川東岸の山と連なっており、川は牛尾山の西側を流れていたが、この牛尾山の東部分を開削し、これに転流させ、旧流路に堤防(志戸呂堤)を築いた」と記録に残されています。そして、金谷の旧河床上に新田が開発されました。
○向谷堤と御囲い堤
慶長9年(1604)の大水害後、各地で築堤が試みられ、毎年の洪水に対する治水対策として、向谷水神山の山鼻から延長180間(327.6m)を始めとして島田宿の「御囲い堤」などが築堤された。
<既往の水害>
大井川の水害で記録に残る最も古いものは、宝亀7年(776)に起った大洪水です(続日本記)。また、慶長9年(1604)に大井川が乱流して、上・下青島、瀬戸新屋、南久兵衛、市左衛門、諸新田、前島等の辺を押し流しました(青島町誌)、これも大きな水害として、記録に残されています。
<現在の改修事業>
大井川は、明治15年(1882)国の直轄河川として改修工事が開始され、明治31年から5年間は内務省と静岡県が連帯で応急改修工事として金谷町から河口に至る築堤を実施し、引続き県単独で未改修部分が施工されました。
しかし昭和29年の台風14号による破堤寸前に至る出水で災害を受け、これを契機として、同33年から島田市神座から河口に至る区間が直轄に編入され改修工事を実施することになり堤防の新築、改築などの改修事業、またこれらの改造された施設の維持管理、さらには河川利用をはかる高水敷の造成などの環境整備事業が進められています。
<流域概要>
大井川は、赤石山脈(南アルプス)の間岳(標高3,189m)をはじめ農鳥岳、赤石岳などの3,000m級の山々を源流にもつ流路延長168km、流域面積1,280kmの日本でも有数の急流河川です。これらの山脈にもたされた降雨はいくつものダムや発電所を経て駿河湾に注いでいます。
国土交通省静岡河川事務所
[蓬莱橋]
回りには近代的な施設が見当たらないので歴史映画などの撮影現場によく使われている。
観光客は絶えない。
日没間際に関わらず人のいない写真はなかなか撮れなかった。
[蓬莱橋]
「越すに越されぬ大井川」水量が減ったとはいえ今でも滔々と流れている。
1km近い川幅の中で、大水が出る度に自由に川筋を変えている。
上流側は自然の景色が広がる。
下流側は遠くに橋が見える。
[蓬莱橋]
橋を渡って島田市街方面を見る。
<蓬莱橋の歴史>の看板を読む。
1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。
また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のために出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らねばならず、大変危険なことだった。
そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので、1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。
現在の蓬莱橋は、全長897m(平成9年12月 ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。
[蓬莱橋]
対岸の土手に下りてみると橋桁の間から遠く富士を望むことができる。
[谷口原周遊コース]
対岸の「谷口原周遊コース」の看板が立っている。
谷口原周遊コース図
@中條金之助景昭之像
牧之原大茶園開発の緒を陣頭指揮した元幕臣の記念碑です。隣に伊佐新次郎の「龍」の書碑があります。ここからの大井川左岸の眺望は素晴らしい。
A伊佐新次郎の書碑
学者である伊佐氏は、中條氏を支えた人物。幕末の三舟といわれた高橋泥舟・勝海舟・山岡鉄舟の書の師といわれている。また、下田奉行所組頭の時には、アメリカ初代領事ハリスに「唐人お吉」を奉公させた人物である。
B初倉阪本茶農協
平成8年操業開始。製造能力製品33.2万kg、茶園面積80haを処理します。作業員4名の完全自動化工場、東洋一の規模といわれています。
一般見学は工場操業中可能です。
C敬満神社
延喜式で名神大の位を受けました。
祭神、天照大神(アマテラスオオミカミ)・速須佐之男尊(スサノオノミコト)外数神が合祀されています。創建は社伝によると垂仁の朝26年(紀元前4年)といわれています。
D法林寺
曹洞宗、牧之原の開拓士に書道・仏典を教えた伊佐新次郎が葬られています。かつて下田奉行所に出仕中、唐人お吉をハリスの元へ奉公させたことで知られています。
E大楠神社
鉄明の御代(535年〜)の創建(社伝)。延喜式で神社格式名神の位を授かりました。
祭神大巳貴命オオナムチノミコト)、仁徳天皇の御代、大井川に流れ着いた大楠で船を造り、その船霊を祀ったといわれています。
F愛宕塚古墳
この付近には20以上の古墳群がありますが、その中で最大の古墳です。
長さ21.5m、高さ2.75mの前方後円墳です。
6世紀後期の家族を葬ったものと思われます。
[七福神の由来]
七福神の看板を読む。
七福神の由来
七福神とはそれぞれのご利益を授けてくれる7体の神(仏)のことで、7体参拝することで7難即滅、7福即生となり福徳を授ける神様です。
室町時代に中国より渡来し四国より淡路島を経て、日本古来の信仰とからみ合い順次全国に広がったものです。
地域により別の神様と入れ替わった所もありますが、全般には恵比寿、大黒、毘沙門弁財、福禄寿、寿老神、布袋の7神です。
江戸時代に入り、徳川幕府が民生安定の方策として、天下泰平、万民富楽、を願い一般庶民の信仰として広めました。
蓬莱七福神奉賛会
[恵比寿尊天]
恵比寿さんが祀ってあった。。
海上、漁業、商業、の守護神。
商売繁盛の神様として広く信仰されている。
地方によって呼称は異なり「恵比須」「戎」ともいう。
風折烏帽子をかぶり鯛を抱えた姿で描かれている。
蓬莱七福神奉賛会
[蓬莱吉祥天女]
吉祥天女の祠があって、説明看板を読む。
「蓬莱」とは、神仙思想より不死の仙人が住むと云う幻の蓬莱山の略。
○蓬莱山、竜宮城など、生命力が常住不変に存在するところ。即ち、不老不死の地を「常世国」と云う。
「吉祥」とは、めでたい証しで「寿、祝、賀、慶」の悦楽。
「天女」とは、女性として現世に生を受け、幸せな一生を過ごし、御霊が「天国に昇る妙代姿」
○七福神の福禄寿と寿老人は、同体異名であるので、吉祥天が福禄寿に替って入っている場合も有り又、吉祥天が加わり、8体になっている所もある。
奈良薬師寺の国宝(秘仏)吉祥天女にあたり、立像として此地に御姿を現わし薬師寺、松久保秀胤管長の入魂に依り開眼されました
国宝吉祥天女像は奈良薬師寺にて毎年1月、10月の2回開帳されます
法林寺 住職 谷口真英
[蓬莱橋]
吉祥天女の祠に「蓬莱」の意味が書かれた看板も立っている。
蓬莱の意味
「蓬莱」の意味
一.仙人が住むと言う幻の蓬莱山のこと。
二.我が国では、徐福が眺めた富士山のこと。
三.中国では、台湾を蓬莱島という。
四.唐の高宗が長安に建てた宮殿大明宮の別名。
五.蓬莱山の絵画のこと。
六.蓬莱山を模してこれに松竹梅・鶴・亀・高砂を州浜台にセットした婚礼、饗応用の飾り台(島台)のこと。
・蓬莱思想とは、愛和長寿。
・詳しい明細書は、橋番小屋及び写真展示場にあります。
[蓬莱橋]
また長い橋を戻って本日のゴールとします。
「太古の大井川」の看板を読む。
日本列島隆起の過程の中で大井川の主流は約70万年もの長い間に4回の大きな流路移動があり、島田市鵜網から西に流れ(袋井市)、南に流れ(大東町、御前崎町)、更に南東に流れを変えて現在の流路となったら。
「更新世後期」(13万年〜7万年前)頃の大井川は牧の原台地を流れ、川原であったが、基盤隆起に依り玉石まじりの砂礫層で形成された台地となった。
・「何で山より川原石が・・・」と疑問に思われるが日本列島誕生の経緯を知る事と同時に事実の証明で知る事が出来る。
・階段に積まれた石は此処より掘り出した太古の大井川・川原石である。
・海底隆起の基盤(シルト砂岩層)は蓬莱橋入口、州浜沢(地名・地獄沢)で見ることが出来る。
参公文書「嶋田宿と大井川」より
−コメント−
青島の一里塚から「越すに越されぬ大井川」まで、蓬莱橋への寄り道を含めると10kmの行程。
。
− 市役所・青葉通り周辺 −
青葉通りは商店街にゆとりのスペースを提供している。
旧東海道のわき道になっていたかも?
[呉服町から青葉通り]
青葉通りは市役所から常盤公園までの500メートルを公園状のスペースを併設した通りを形成している。
旧東海道の呉服町通りを横切っている。
東海道を西へ向かうページへはこちらをクリック。
[呉服町から市役所]
青葉通りの正面に市役所がそびえる。まるで市役所の庭のようだ。
まずは市役所の周辺を巡ってみる。
呉服町から旧東海道を進むにはこちらをクリック。
[御用邸跡]
かつて市役所のあった場所に御用邸が建設されていた。駅から市役所へ向かう道が「御幸通り」と称する由縁だ。
市役所の新館を御幸町側に出て、低層棟の脇に石碑が2つ建てられている。
この地にあった県民会館の前にあった石碑を庁舎建設に伴い移設されたものだ。
江戸時代に御用邸があったことを知らせる石碑と明治天皇御製の歌碑。
[市役所御用邸跡]
明治天皇が明治38年11月18日に滞在された際、御用邸の富士見窓から富士を望み詠まれた歌が刻まれています。
明治天皇御製
はるかなる
ものと思ひし
不二の根を
のきばにあふぐ
静岡の里
[市役所本館]
市役所は昭和の初期の建築。空襲の大火にも燃え残り昔のたたずまいを残す。
昭和60年頃の新館建築の際に耐震の問題から建て替えの話があったが補強して往年の姿を維持している。
[静岡市の由来の碑]
市役所本館の脇に静岡市の由来の碑が建っている。
内容を読んでみます。
静岡市の由来の碑
明治2年(1869)廃藩置県を前にして、駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された。
重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったん決まったが藩学校(府中学問所)頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘すなわち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決、同年6月20日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた。
以来100有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った。
ここに市制90周年記念を迎え黄村先生の遺徳を敬仰し、ゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす。昭和54年4月1日
[駿府町奉行所跡]
市役所は駿府町奉行所の跡に建っている。静岡市の由来の碑の脇に駿府町奉行所の説明看板が建っている。
内容を読んでみます。
駿府町奉行所の説明看板
駿府町奉行所は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。
寛永9年(1632)に大手組奉行所として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(1868)までに旗本を主に63人が町奉行に任命されました。
町奉行の配下には、与力8人と同心60人がいてその職務にあたっていました。
[市役所本館玄関]
市役所本館の玄関を入る。
昭和初期の雰囲気を感じさせてくれる。
[市役所本館玄関]
天井の照明や漆喰で仕上げられた天井は格調が高い。
[市役所本館玄関]
壁や階段は大理石が使われており、よく見るとアンモナイトのような化石を見ることができる。
[市役所本館ステンドグラス]
階段を上った中2階から裏庭に抜ける扉にはステンドグラスがあしらわれている。
[市役所本館ドーム]
市役所本館の中庭に出ると本館を裏から見る。
落ち着いたスペースからスペイン風建築のドームを見ることができる。
[夜の市役所本館ドーム]
市役所本館ドームは夜には照明される。以前撮影した写真。
[市役所から駿府城本丸跡]
市役所の17階から駿府城の本丸跡方面を臨む。
県庁の脇から駿府城跡が見下ろせる。
[市役所から駿府城東御門]
市役所の17階から駿府城東御門を臨む。
県庁の脇から駿府城跡が見下ろせる。
[市役所からの富士]
市役所の17階からは運が良ければ富士が駿府城や静岡市街地の向こうに見える。
[市役所から青葉通り]
市役所新館に登り青葉通りを撮影させてもらう。緑の終わりが常磐公園。
これから下に降りて青葉公園を歩いてみます。
[青葉公園]
青葉公園は。
静岡大火の後に防火帯として作られたので道路に挟まった公園を含むと35メートルの幅員のスペースが作られている。昔はここにおでん屋の屋台が並んでいた。
[青葉公園]
青葉公園にある像。
[別雷神社]
青葉公園は国道362を跨ぎ続いている。すこし行くと右に神社がある。
別雷神杜は式内社(967年施行の延喜式による神社)で、祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)と玉依姫命(たまよりひめ)で、古くから安倍の市の守護神として祀られ、今川氏や徳川氏の崇敬も厚かった。
江戸時代に各町の町頭が交代で町方の総代を勤めた「年行事」(今で言う、連合町内会のようなもの)の事務所(惣会所)と書庫とが別雷神杜に置かれていた。
[青葉公園]
常盤公園から呉服町方面を振り返る。突き当りに市役所が見える。
[常盤公園]
常盤公園に突き当たり西北側へ折れ、駿河町通りを進み駒形通りを横切り、約200m新通りへ出る。新通りは旧東海道となる。
この常盤公園は静岡大火や空襲による大火の際に多くの犠牲者を荼毘にふした場所だ。今は綺麗に整備され、晴れた日には将棋の仲間が集まる。
寺町
慶長年間の駿府城下町の整備に際して駿府の防衛戦として寺々を集めた。道路を挟み東側は町家、西側に寺院が並んでいた。
かつて寺町にあった妙音寺は向敷地へ、安立寺は春日町へ、善然寺・感応寺を除く各寺院はすべて沓谷の愛宕霊園に移転し、跡地は常盤公園として整備された。
[駒形一丁目・駿河町通り]
常盤公園から北西へ曲がるとこの道を駿河町通りという。駿河町通りは駒形通りと交差する。この交差点の左が駒形通り、右が七間町通りと名前を変える。道路の舗装が変わっているのがおもしろい。
ここから右へ曲って100メートルほど先に映画館街がある。
今は駒形通りと七間町通りが1本の通りになっているが、昔はここに安立寺という寺があって繋がっていなかったとのこと。
駿河町
旧寺町の寺院が大部分を郊外に移転させた後、戦後の区画整理によって七間町と駒形通りの間に出来た町。
この交差点から200mほど行くと旧東海道の新通りに出る。そちらへ進むにはこちらをクリック。
[宝台院]
駒形一丁目から常磐公園へ戻りそのまま通りぬけ国道一号方面へ300mほど行き国道へ出る50mほど手前を左に曲がると宝台院がある。
江戸時代には現在の常磐公園から南東側一帯が当寺院だったほど大きかったらしい。
年配の人には懐かしいのだが、旧国鉄時代に鉄道を跨ぎ駿河区方面へ行く陸橋の名前を宝台橋と称していた。
[宝台院・西郷局]
《宝台院》
金米山宝台院龍泉寺という。
室町時代の永正四年(1507)鎌倉光明寺八世観誉祐崇上人開山の浄土宗寺院で、天正17年(1589年)家康の側室西郷局(お愛の方)が駿府城で病没し、その菩提所となった。
西郷局は二代将軍秀忠の生母であったから、幕府から御朱印三百石を賜り、住職は10万石の大名同等の待遇を受け、駿河一国の触頭(ふれがしら)として、諸寺院を支配した。
しかし明治維新後は徳川家の援助もなく、加えて昭和15年(1940)の静岡大火及び昭和20年(1945)の戦災により焼失、さらには区画整理により寺域は狭隘となり、ついに昭和63年従来からの隠居寺であった久能海岸安居の照久寺へ別院を建立し、檀家の墓地のすべてを移葬した。
しかし、西郷局の大きな五輪塔は宝台院本堂前に移されて現存する。
もっとも二度の火災によって墓石の表面はかなり剥落している。
[玄南通り]
玄南通りは静岡の歓楽街の中心となる通りだ。
陽が沈むと両替町との交差点周辺は急に活気があふれてくる。
[両替町通り]
両替町通りは玄南通りと交差して静岡の歓楽街の中心となる通りだ。
[浮月楼]
玄南通りから両替町を駅方面へ向かいドンキホーテの交差点を越えて100mほど行くとパルコの裏に浮月楼がある。
《浮月楼》
浮月楼の看板にある説明
この地は、徳川幕府の代官屋敷であった。
明治元年8月前将軍徳川慶喜公は、謹慎の御身を水戸からここ駿府に移され、常磐町の宝台院に暫く閑居の後、翌2年10月この地に手を入れて還居された。
庭園は平安神宮を手がけた小川治兵衛の作庭による池泉回遊式として有数のものである。
慶喜公はここに20年の間住まわれ、自転車、写真撮影、油絵、狩猟などと多彩な趣味を楽しまれたようだ。
明治20年になると、東海道線がこの近くを通ることになり、その喧騒を避けて同21年6月、市内西草深の新邸に転居された。
その後にこの地は戸帳役場の共有となったが、名所保存を条件に市内有力有志により庭も建物もそのままに料亭「浮月亭」として開業、伊藤博文公など元勲方の御愛顧を辱うした。
残念ながら昭和15年の静岡大火等で建物は全焼したが、庭園の佇まいはほぼ元通りに復旧され、「浮月楼」として百年余りの歴史を持つ。
春は桜、夏は青葉、秋の紅葉など、街の只中で野鳥の声を聞き乍ら懐石料理を楽しめる。又、懐石料理での御披露宴にも利用でき、好評を頂いている。県都静岡市の社交場として益々御愛下されたくお願い申し上げます。
[浮月楼の宴会場]
かつては高級料亭の代名詞だった浮月楼も最近はリーズナブルな料金で会議や宴会ができるようになった。
[紺屋町小梳神社]
浮月からパルコの正面玄関へ向かい紺屋町通り(呉服町通り)へ出る。パルコの向かいに小梳神社がある。
このあたりは静岡で一番地価の高いあたりであるが神社があってビルの谷間にゆとりの空間を作っている。
「おけずりの社」ともいった。もとの鎮座地は東川辺(ひがしかわなベ)(駿府城三の丸南方)で元の青葉小学校のところにあった。
[小梳神社]
《小梳神社》
≪境内の看板≫
小梳神杜は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」(おしょうしょうさん)と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)、天照皇大神宮(あまてらすおおみかみ)が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神杜を城内に残したが、寛永年中(1624〜1643)には、城内から移転し、再度延宝3年(1675)現在の所に移された。家康は今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神杜境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。
「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当った城代は、松平左近大夫で、延宝4年6月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の7月27日、この風習は、今なお、氏子の間に引き継がれ、隔年に大神輿が市内を巡行する姿は、夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害にあったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお、境内には、平田篤胤選文による駿府の国学者新庄道雄の碑がある。
旧東海道の江川町〜弥勒のページの紺屋町から呉服町へ進むところへ行くにはこちらをクリック。
−コメント−
旧東海道のすぐ脇に市役所は位置している。
周辺には駿府の主要な施設が多くあった地域だ。
ただ、静岡の大火と空襲による大火によってほとんどの遺構は焼失してしまっていることが残念だ。
− 本通り周辺 −
本通りから新通りへ東海道は移った。
安倍川に接した弥勒から中町までの約2Km続く直線の本通りを行く。
[本通り・弥勒]
弥勒の安倍川橋から本通りを見る。
正面の弥勒公園の左が本通。右が新通り。
かつて、川越えしてきた旅人はここで駿府の町を臨み、整然と整備された町の向こうに駿府城が建ち、そのはるか彼方に富士がそびえるのをながめた。
家康の威厳を誇示する景色を創設していたと言われている。
今では城もなく高い建物が景観を損ねている。
[本通り・弥勒]
安倍川橋から200mほどで大きな交差点になる。
右へは国道1号線を越えて東名の静岡インターへと続く。
左はさつま通りと言って、かつては薩摩土手があったが、そのあとを幹線道路として利用している道が出会う交差点。
交差点を越えると本通西町、本通十丁目へと続く。本通は安倍川側から順に数を減らし2km先の中町手前で本通一丁目となる。
本通りは従来の5間幅から、昭和11年に安倍川橋に直結し、12間(22m)へと道幅を広げ、東海道が新通りへ移って以来、再び主要道路として利用されるようになった。
本通十丁目はもと本通川越町、本通西町はもと堤添川越町で、ともに安倍川渡しの川越人足たちが住んだ町だ。
[さつま通り]
本通からさつま通りへ入ってみる。さつま通りは幸町・新富町を右に見て安西5丁目へ向かう。
「新富町」
薩摩土手の内側に開拓された町。大正22年新富町として新設され、昭和3年に上新富町、新富町一〜六丁目に分割された。
[さつま通り]
さつま通りは田町が安倍川側に見ながら安西5丁目へ向かう。
「田町」
江戸時代初期に安倍川の流れを変えるために薩摩土手が造られ、安西外新田と呼ばれた水田地帯。田町という町名が新設されたのは大正14年、さらに昭和4年に南田町を設けた。その後、昭和11年に田町を1〜7丁目に分割した。
[本通西町]
さつま通りとの交差点に戻ると本通西町。次の信号を左に曲がると「しあわせ通り」と言い、幸町という町名に入る。幸せな気分になるネーミングだ。
「本通(ほんとおり・もとどおり)」
町名は、かつてはこの通りが東海道往還であったが、慶長14年駿府の町割りに際して開かれた新通筋が東海道往還となったことに由来する。
町名は『駿国雑誌』には「もととほり」と振り仮名が付されており、天明8年の司馬江漢の『西遊日記』にも「元通」とあり、江戸期は「もとどおり」と読んでいたと考えられる。
(市のホームページを参照)
[幸町・神明宮]
「しあわせ通り」へ入り2つ目の交差点を斜めに右に曲がり、またすぐに右へ曲ると鳥居がある。
神明宮と言い江戸より古くからあったお宮らしい。
[幸町・神明宮]
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
室町時代、延徳2年の創立で、天照皇大御神、豊受皇大御神を祭ってある。
本殿と庚申塔があり、境内には古木が多い。遊具があり、ボール遊びができる程の広場がある。
夏はセミ取り、秋は銀杏拾いなどができる。
60日毎の庚申の日には氏子の集いがあり、毎年1月1日は元旦祭、6月30日は大祓、9 月15日は例祭が行われる。
[本通十丁目付近]
幸町の神明宮から本通りに戻り中町方面へ向かいます。
「本通(ほんとおり・もとどおり)」
町名は、かつてはこの通りが東海道往還であったが、慶長14年駿府の町割りに際して開かれた新通筋が東海道往還となったことに由来する。
町名は『駿国雑誌』には「もととほり」と振り仮名が付されており、天明8年の司馬江漢の『西遊日記』にも「元通」とあり、江戸期は「もとどおり」と読んでいたと考えられる。
(市のホームページを参照)
[本通九丁目付近]
本通九丁目に浄元寺の入り口を示す塔が立っている。
[本通九丁目・浄元寺]
「萬吉山 浄元寺」慶長九年(1604)國州天越大和尚開山の曹洞宗の寺。
浄元寺の沿革
「浄元寺の沿革」
創立 慶長九年(1604年)
本尊 十一面観世音菩薩
開山 国州天越大和尚
慶長九年 二世日堂雲昨和尚、本師国州天越大和尚を請して開山となす。
当時家康公府中在城の頃は、しばしば出猟にて藤枝市葉梨盤脚院に於いて休息し、天越和尚に禅話を聞き、又囲碁を楽しむうちに深く帰依す。
時折駿府城にも招待し交友頻りなる中、老僧の往復に悩むを見て、地所を本通九丁目、その年新設制定された東海道53次の一里塚の地に元今の境内を賜り(2千坪)一宇を建立して和尚の隠居所となし「一里山浄元寺」と号した。後に「万吉山」と山号を改称す。
昭和20年の戦災までは、本堂、開山堂、庫裡、総門、半僧坊、豊川稲荷鎮守堂等の境内堂塔あり。
[一里塚]
本通に戻って間もなく、仏壇屋の近くに隠れるように一里塚の碑が建っている。
内容を読んでみます。
一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、1里(約4キロ)ごとに直径7〜8メートルの土饅頭を盛り、榎などの記を植えて旅人の目印にしたものである。
慶長9年(1604)江戸(東京)の日本橋を 東海道、東山道(中部や関東の地方)、北陸道の3街道に一里塚を設けた。しかし、現在では、交通機関の発達や道路拡幅などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。
一里塚は市内長沼、本通八丁目、丸子、宇津ノ谷の4か所に設置されたが、いずれも原形をとどめていない。
本通の一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。
現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から28里の地点に築かれたもので、大正11年、国の史跡に指定されているほどである。
[本通八丁目の一里塚前]
一里塚から市街地方面を見渡す。
新通りへ移り旧東海道を進むにはこちらをクリック。
[本通七丁目・浄国寺]
一里塚から100m先を左に曲がると通車公園の向かいに浄国寺がある。
古今山浄国寺 浄土宗。又永禄元年の創立という。
《縛り地蔵》
本通七丁目の浄国寺境内にある。祈願する者はお地蔵様を縄でしばり、祈願がかなうとその縄をとくということです。
[本通七丁目・弘願寺]
機教山光照院浄土宗弘願寺
六十六部供養塔と馬頭観音の碑が建っている。
[本通六丁目・長善寺一華堂]
梅屋勘兵衛の墓がある。梅屋町のいわれの元となる人物で由比正雪の自害した梅屋の主人。この寺の設立者らしい。
この寺では江戸初期以来、毎年2月の初午には「チャンチャカドコドン」といわれる子供の踊念仏が昭和16年まで行われていた。
[大鋸町・玄忠寺]
下駄久の碑、寺長尾健吉顕彰碑などがある。
《下駄久の碑》
明治半ばごろ焼杉下駄、塗下駄を完成させ、静岡市の履物産業発展の基礎を作った本間久治郎の遺徳を偲んで建てられた。
[大鋸町・西福寺]
松平山西福寺という浄土宗の寺
家康の家臣が開山したとのこと。
《大鋸町の由来》
製材用の大ノコギリ(大鋸)で製材する職人たちが住んでいた。慶長の町割りによって一部が新通に移転し新通大鋸町と称した。地内は寺が多く、上寺町・西寺町とも言った。
《西寺町》
町割りの際、市中に散在していた寺を外敵侵入の防衛線とするために集めてできた町といわれている。
大正4年に一部が大鋸町となって、昭和20年大鋸町・常磐町2丁目になった。
[土手通り]
大鋸町の寺から少し本通と反対側に行くと土手通り。かつてはかなり流行った商店街が続いた。
西と東を向いてみる。
[仲見世通り]
土手通りからもう少し本通から離れると仲見世通り。ここもかつては商店街が続いた。
[本通四丁目・凧八]
本通りに戻った所に駿河凧のお店がある。
駿河凧は、義経、信玄などの武者絵が主な図柄で、子供の誕生や初節句のお祝いに使われている。
[本通三丁目付近]
ここは国道362との交差点。右は七間町、昭和町方面。左は安西から藁科川を通って川根方面へと続く山間地を通る国道だ。
まっすぐ中町方面へ向かってみます。
[本通二丁目付近]
この交差点を右に曲がると両替町通りとなる。
十返舎一九生家跡があると言うので入ってみる。
[十返舎一九生家跡]
両替町通りを50mほど入るとビルの片隅に看板が立っていました。
「十返舎一九生家跡の看板」
「膝栗毛」で名高い江戸の戯作者、十返舎一九は、駿府町奉行同心重田與八郎鞭助・妻りへの長男として明和2年(1765年)両替町1丁目のこの地に生まれた。幼名市九、通称七郎、名は貞一という。
います中(現静岡市)出身で、江戸文学におけるの第一人者であり日本最初の本格的な職業作家といえます。
享和2年(1809年)38歳で「東海道中膝栗毛」を刊行し、一九の文名は大いに揚がり、以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された。
若くして俳諧を始め、大阪では浄瑠璃作者としても活躍したが、後に江戸に出て自作自画の黄表紙を始め洒落本、滑稽本、合巻、読本、人情本、拙本等に筆をとり、また、狂歌集、往来物等も多数出版した。
生来まことに多芸多才の人で、武芸、香道、書法等にも通じており、絵師としても高い才能を認められている。
一九は継ぐべき重田家第九代を弟義十郎に譲って江戸に出たが義十郎に子がなかったため、一九の長男定吉が重田家第十代を継いだという。
天保2年1831年8月7日歿。67歳。浅草東陽院(現在は中央区勝どきに移転)に葬られた。戒名は「心月院一九日光信士」とある。
伝えられる辞世歌は「十返舎一九研究」より
この世をばどりゃおいとまと線香の煙と共にハイさよなら
[駿府銀座発祥の地]
十返舎一九生家跡の向かい側の歩道に石柱が立っている。
慶長17年(1612)駿府の銀座は江戸に移された
今日の東京銀座のルーツは静岡にある
大御所400年祭を記念し建立する 寄贈 静岡ライオンズクラブ
[不去来庵]
十返舎一九生家跡の向かいに不去来庵がある。
「不去来庵」の看板
遍界山 不去来庵は、「伊伝」の屋号で知られる渡邉家の先祖が、光格天皇の御念持仏であった「阿弥陀如来尊像」を祀るために三代にわたって築いた由緒あるお堂です。
山号の「遍界山」は西有穆山(ぼくざん)禅師、庵号の「不去来庵」は伊佐新次郎の命名によるものです。
大正4年に落成したこのお堂は、間口4間半・奥行5間半の土蔵造りで、屋根は三河産三州瓦二重葺きの寄棟造り、正面の扉には森田鶴堂の漆喰彫刻(鏝絵)「金剛慎力菩薩像」が施されています。
昭和15年の大火や第二次世界大戦による戦禍からも焼失を免れ、建立当時の面影を今に残しています。
四季を通じて白い花の咲く庭園には、近世の三高僧、慈雲尊者・徳本行者・福田行誡上人の聖遺物とその御霊をお祀した「供養塔」や高村光雲作の「地蔵尊蔵」などがあります。
不去来庵庵主 渡邉 朗
毎年春と秋のお彼岸には「施餓鬼法要」が行われます。
配管及び法要参加を御希望の方は、左記までお問い合わせください。
(財)伊伝屋伝八文化振興財団
[本通り・静銀]
本通に戻るとすぐに静岡銀行本店がある。旧静岡三十五銀行本店として昭和6年に石造に見せたデザインで鉄筋コンクリート造で建てられ、国の登録有形文化財だ。
度重なる大火にも残り、昭和初期の銀行建築を現在に伝えている。中村與資平の設計ということ。
[本通り・静銀前]
旧東海道はこの静銀のある呉服町通りを伊勢丹の交差点から左へ曲がり七間町へと進むが、そのまま曲がらずに北西方面へ300mほど進むと本通りに出る。
戦災復興の際に防火帯となるように30メートル道路として整備された。
弥勒の安倍川橋までの約2km先まで見渡せる。
[本通り・日銀]
日本銀行静岡支店がある。日本銀行は昭和18年に今の呉服町一丁目側にあったが、昭和47年に「金座町」という地名の現在地に移った。
ここは江戸時代に「駿河小判」を造った金座があった。金座はのちに江戸へ移ったが、幕府造幣局の役を果たしていたとのことです。
[本通り・金座稲荷]
日本銀行静岡支店を北西に50メートル入ると金座稲荷がある。ここに次のような謂れが書いてあった。
当神社は後藤藤庄三郎光次が徳川家康公の命を奉じ駿府、上魚町に金座を開設し小判の鋳造を始めるに妻子金座の守護神として御二柱をまつったのが起源であります。
以来四百年、上魚町の産土神としてまつられ、その霊験あらたかなる為「お金の神、金運の神様」として広く崇敬を集め、通称「後藤稲荷」として親しまれてまいりました。
その後幾多の変遷を経て、昭和62年5月23日当初へ遷座致しました。
尚金座町という町名は、歴史的事実にもとづいた町名としては全国で唯一のものあります。
[本通り・天満宮]
一般に中町の「天神さん」といわれているが、ここの町名は呉服町一丁目だ。
昔から「川中の天神さん」ともいわれていて、中世以前は安倍川の分流がこの辺を流れていたらしい。
受験シーズンは合格祈願で賑わう。
天満宮はもちろん菅原道真を祀ってある。道真公の次男が、ここ駿府の地に流されたことから、ここに天満宮が祀られているといわれている。
[本通り・天満宮]
天満宮の牛。
天神様のお遣いといわれる牛の石像。なでると願いが叶うらしい。いかにもありがたい雰囲気を持っている。
[日銀前から中町]
中町は本通り突き当たりの交差点周辺。
右は静岡駅方面(約1km)、左は梅ケ島方面(約50km)
[中町 なかちょう]
もと本通四ツ足町といったが、語感がわるいということで、大正4年(1915)市の中央部という意味で中町と称するようになった。
四ツ足町の由来は今川時代に駿府館の四ツ足御門のすぐ前の町だからという説と、もっと古く国府の四脚門があったからという説がある。
[尼崎稲荷神社]
中町の交差点から本通りの一つ目の路地を入ったところに尼崎稲荷神社が建物の陰にひっそりと鎮座している。
看板を読んでみます。
元 尼崎又右衛門という富商の邸内にありました。
家康に召されて駿府に移り、はじめ本通五丁目(または新通り三丁目)に宅地を賜り、そこを十軒町と言ったが、慶長14年四ツ足町御門町(現中町)に替地を賜ったと言われています。
[車町・奥津彦神社]
中町の交差点を梅ケ島方面へ曲がると馬場町という町名になり、すぐに車町に入る。小さい町内が続く。
中町の交差点から100mほどの所に奥津彦神社がある。
[車町]
家康が駿府に来る際、牛車を引かせるために京の鳥羽から4人、伏見から3人の牛飼いを呼んで住まわせたことが町名の由来。
[車町・奥津彦神社]
奥津彦神社の石碑に由緒が書いてありました。
[奥津彦神社]
「祭神」
火産霊神 奥津彦神 奥津姫神
「由緒」
この神社の創立年月日は不明である。
社伝に駿河国の守護今川範国の子今川了俊、深くこの神々を崇敬して邸内に奉記してあったが、その子今川仲秋に政治の要諦を教えると共に「よくこの神を信仰せよ」と御神体を授けた。
仲秋は良く父の教えを守り身を慎み、祭祀を怠らず善政を行い、やがて立身して、遠江守護、尾張の守護等を歴任した。仲秋は、この世を去るに臨みて、その家臣に命じて御神体をこの地に祀らしめ、三宝荒神社と称したと伝えられている。
三宝荒神社は明治元年の神仏分離令に依り、奥津彦神社と改称された。
また三宝荒神社の別当用触山守源寺は昔から駿府の会所に使用され町々へのお触れ通達はここから出したので用触山の名がつけられた火の神様である炊事キッチンの守り神様である。
火の神信仰は火難を免れ病難を防ぐ。
[馬場町・常夜灯]
奥津彦神社の前の広い道路の向かい側も馬場町。この通りができる前は町並みが続いていた。
ここは浅間神社への参道の入り口で、赤鳥居が有り、そのわきには秋葉灯篭がある。
[馬場町](ばばんちょう)
家康在城の頃、浅間神社前に馬場がり、浅間神社の廿日会祭の流鏑馬が行われた事が町名の由来。
浅間神社へ進むにはこちらをクリック。
−コメント−
本通りは弥勒橋から中町までの約2km。
2度の大火により古い施設は無く、その反省から防火帯として整備された主要道路。
昔の街道とは位置も一致していなく残念ながら通り沿いには史跡もほとんどない。
− 浅間神社周辺 −
浅間神社。
浅間通りを行き浅間神社へと向かう。
[浅間通り]
静岡駅から800m。井川湖御幸線と本通の交差する中町交差点から浅間通りを見る。
浅間通りは400mほどの神社へ向かう参道で商店街となっていて、入口に鳥居が立っている。
かつては賑わった商店街だが今は人通りが少ない。それでも最近町並みを整備して明るい雰囲気がある。
いまだに古い店も多く、懐かしさを感じる店も多い。
[常夜灯]
浅間通りの入口にある鳥居の脇に大きな石灯籠がある。
かつては何ヵ所かの要所にあって、旅人の道案内になったのだろう。
今では安西橋の手前にある常夜灯とここの2基が古の面影を残している。
[山田長政]
鳥居から200mほど行った所に銅像が立っている。看板を読んでみます。
山田長政は、天正18年(1590)ごろ駿府馬場町の紺屋、津ノ国屋に生まれたという。
慶長12年(1607)家康が大御所として駿府城に在城し、駿府が日本の政治、経済の中心となり活気あふれた頃に少年時代を過ごした長政は、時の貿易奨励策で海外へ進出する商人たちに刺激され、慶長15年(1610)駿府の商人、滝佐左ヱ門、太田次郎右ヱ門らの船に乗り、シャム(タイ)に渡った。
そのころシャムのアユタヤの日本人町には7千人の邦人が住んでいた。長政は、この日本人町の頭領となり、シャムのソンタム王に仕え象にまたがり日の丸を立てた日本兵を率いて勇敢に戦い、次第に重きをなしついに六昆王(リゴール国王)に任ぜられたという。
寛永3年(1626)には故郷駿府の浅間神社に戦艦図を奉納しており、この戦艦図は焼失したがその移しは今も神社に伝えられている。
その後ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれ、寛永7年(1630年)隣国との争いのとき足に受けた傷に毒を塗られて死亡したといわれる。
天保13年(1842年)の馬場町絵図には、ここに津ノ国屋九左ヱ門と記してあり、ここが山田長政の生家跡とみられる。
[祭り]
これは以前に撮った浅間通りの写真。
4月初めに浅間神社は廿日会祭がとりおこなわれる。
400mほどの商店街はてき屋が並びお祭りムードが盛り上がる。
今でも類のないほどの店が並ぶが、昔は隙間が無いほどの盛況ぶりだった。
[浅間神輿会]
これも以前に撮った浅間通りの写真。
9月26日に浅間通りを歩いていると年配の男性が大勢で神輿をかついでいた。
神輿には浅間神輿会と書かれた提灯がかかげてあった。
年配の人も多く若い人は少なかった。かえって迫力があった。
[赤鳥居]
浅間通りはここで終わり、浅間神社になる。
この通りはこのレトロなバスが走っている。
浅間通りの神社寄りは「宮ケ崎町」という町名。浅間神社の門前町として発達した町だからこの名がある。
由井(比)正雪がこの宮ケ崎町の紺屋岡村弥右衛門の二男に生まれたといわれている。(正雪の出生には諸説あり、由比の紺屋に生れたともいわれている。)
正雪は後の慶安4年(1651)幕府を転覆しようと企て全国各地でで一斉に蜂起しようとしたが、事前に発覚して投宿中の駿府の旅館梅屋で自害したという人物だ。
[神門]
赤鳥居をくぐると浅間神社だ。
浅間神社はこの神社全体を指しての総称だ。浅間神社を含む複数の神社が集まっている。
[大歳御祖神]
神門をくぐると大歳御祖神。
神門の脇に由緒が書かれた看板が立っているので読んでみる。
<大歳御祖神社>おおとしみおやじんじゃ
大歳御祖命 別名 神大市比売命 配祀神 雷神
<由緒略記>
「静岡」という地名の由来となる賤機山の南端に南向きに鎮座し、奈吾屋神社、奈吾屋明神とも別稱され、応神天皇4年(273年)の創祀と伝えられる。万葉集巻第三「焼津邊に吾が行きしかば駿河なる安倍の市道に合いし子らはも」にみえる「安倍の市(今の静岡市街)」の守護神で延喜式内社・旧国幣小社である。主祭神は倉稲魂命(稲荷大神)の母神で、農・工・商業の守護神として崇められている。
後水尾天皇の御製に「賤機の山も動かぬ君が代になびく奈古屋の社の松風」と詠まれ、約100m北側に東向きに鎮座する神部神社、浅間神社の両社と共に、古くから朝野の崇敬を集めた。殊に徳川将軍家は天正・寛永・文化の3度に亘り、総漆塗・極彩色の壮麗な社殿を造営寄進した。
大東亜戦争末期に拝殿・楼門等を焼失したが、形式を異にして復興された。本殿(総漆塗・極彩色3間)・中門(総漆塗・極彩色1間1戸平唐門)・透塀(総漆塗・腕木門付)は他の社殿群と共に、国の重要文化財に指定されている。後背丘陵上には6世紀墳と推され、家型石棺と豪華な出土品で有名な国指定史跡「賤機山古墳」がある。
[八千戈神社]
社務所の前にある神社は八千戈神社。
八千戈 (やちほこ) 神社(重要文化財)
例祭日10月15日
本境内社は明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支天を祀ったことから、東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後の神仏分離に際し金印木像は臨済寺に遷され、以後、八千戈命を御祭神とする。
昭和5年5月29日昭和天皇御親拝の折には、神部浅間両社御修理中で当社を假殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行われた。
特に名公の誉れ高い立川和四郎富昌の彫物が中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では、武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
[大拝殿]
ここ「せんげんさん」は「あさまじんじゃ」と「かんべじんじゃ」がメインの場所に並んで鎮座している。
メインの両社は特別に依頼しないと参拝できない。普通はこの大拝殿で参拝する。
看板を読む。
徳川3代家光将軍時代 日光東照宮と共に大造営された社殿はおしくも火災にて焼失した
現社殿は11代家斉将軍時代文化年間幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜最高の技術を駆使して造営されたもので豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されております。殊にこの神部神社浅間神社両社の大拝殿は他に類のない特殊な重層楼閣造りで世に「浅間造」と称され等神社の象徴建造物であります。
高さ81尺(約25m)もあり外観は彩色絢爛、殿社は132畳で、天井には狩野栄信、寛信の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が画かれております。
[大拝殿]
大拝殿の前には舞殿がある。
この建物の彫刻には彩色がなされていない。かえって「しぶい」。
毎年4月5日に稚児舞がとりおこなわれる。
[大拝殿]
きらびやかに彩色された彫刻が豪華だ。
以前は色あせていたが、いつの日にか修復されていた。
今では職人が少ないだろうに・・・
[大拝殿]
2階の彫刻には金網がかけられている。
鳩対策なのだろうか。
[楼門]
浅間神社と神部神社へはこの楼門の奥に鎮座している。門の脇にある看板を読んでみる。
神部神社 大己貴命〔おおなむちのみこと〕(別名大國主命)
淺間神社 木之花咲耶姫命〔このはなさくやひめのみこと)〕
大歳御祖神社 大歳御祖神〔おおとしみおやのかみ〕(神大市比売命)(かむおおいちひめのみこと)
静岡淺間神社
例祭日 4月5日(廿日會祭4月1日〜4月5日稚児舞楽・踟(ねり)行事)
特殊神事 奉射祭(大的式)1月15日・節分祭(2月3日又は4日(鬼やらい)
神衣祭4月2日・9月25日・昇(のぼり)祭・降(くだり)祭4月3日・4日、11月3日・4日
境内社 麓山(はやま)神社 八千戈(やちほこ)神社 少彦名(すくなひこな)神社 玉(たま)鉾(ぼこ)神社
[楼門の看板の続きを読む]
由緒
三社からなる当社は、街道屈指の名社として朝野のあつい崇敬をうけ、殊に、駿府(現静岡市)にゆかり深い徳川家康公の崇敬以来、徳川幕府の宗(そう)廟(ひょう)として崇(あが)められた。
神部神社
崇神天皇7年(紀元前90年)の鎮座と伝え、延喜式内社で倭文機神社(しずはたじんじゃ)・美和明神(みわみょうじん)とも別称され、この地方最古の社。制による国府がここに置かれ駿河国総社と仰がれれた。次の各社と共に夫々が、縣社(明治6年)に列格され、国幣小社(明治24年)に昇格した。
浅間神社
醍醐天皇の勅願(ちょくがん)により延喜元年(901年)、富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国1300余社の分祀のうち最大最古の社。富士山を神体山と仰ぎ冨士新宮と称えられる安産子授けの神。後世、仏説の影響で「せんげん」と音読する。
大歳御祖神社
応神天皇4年(273年)の鎮座と伝え、延喜式内社で奈吾屋社と称したとされるが、奈吾屋社・大歳天神とも別称された。上古からの「安倍の市(現静岡市)」の守護神・地主神として崇められてきた。社名は、大年(おおとし)神・倉(う)稲(かの)魂(みたま)神(稲荷大神)の母(御祖(みおや))の神の意を表している。
この3社は、静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる名は賤機山(賤ケ丘)の最南端、神部・浅間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。古くから朝廷をはじめ、国司・武門・武将が崇敬し、徳川家はもとより、各時代に於いて北条氏(鎌倉幕府)・今川氏・武田氏が社殿の造営、社領の安堵等の赤誠を捧げた。
社殿
「東海の日光」と称揚される社殿群は、全26棟が江戸後期を代表する神社建築として重要文化財に指定されている。舞殿以外は、全て総漆塗・極彩色で、神部・浅間両社の「大拝殿」は、浅間造の特殊建築で棟高21.8mの豪壮な規模を誇り、同「本殿」の彫刻と生彩色の華麗さは、全国に比類を見ない建築装飾の秀作である。特に彫刻類は、立川和四郎富昌をはじめ立川流一門の爛熟した技を凝らしている。
史蹟
国指定史跡「賤機山古墳」
大歳御祖神社後背山上にあり、横穴式石室にこの地方随一の規模を誇る家形石棺を納める。武具・装飾品などの豊富な副葬品を出土し、六鈴鏡・忍冬唐草紋鞘口金具・鳳凰紋円頭柄頭などが発見された六世紀頃の墳墓である。
宝物資料
太刀(銘)備前長船住長光(重文)・狩野探幽36歌仙扁額・山田長政奉納戦艦図その他
[楼門]
門の両側で神社を武士が守っている。
[楼門]
水呑の龍。
パンフレットに浅間神社の7不思議と書かれている。
左甚五郎の作と伝える龍の彫刻は安政の火災の時、池に下りて水を吐いて御殿にかけたと伝えられている。
[神馬]
楼門の前に神厩舎があり、中に神馬(叶馬)がいる。
浅間神社の7不思議には2頭とあるが、3頭いて1頭は駿河区の手越にある高林寺に逃げて今でも同寺に安置されている。
パンフレットに浅間神社の7不思議と書かれている。
左甚五郎の作といわれており、安政の火災のおり、2頭の神馬(木の馬)は三保の明神へ逃げ、1頭はそのまま残り1頭は戻って来たとの話が残されている。
[観阿彌]
観阿彌の碑が楼門横にある。
「52と申し5月19日に死去せしが、その月の4日、するがの国せんげんの御まえにて法楽、仕りその日の申楽ことに花やかにて見物の上下一同にほうびせしなり」
能楽の始祖観阿彌
「花伝書」によると、世阿彌の父観阿彌が最後に演したのは、当神社「せんげんの御前」と記録されており、その15日後に駿河の国で死去した。
これまで顧みられなかった「観阿彌最後の舞台」を想定し「風姿花伝」の一節を刻み、観阿彌の功徳を称えるものである。
碑文は「生駒、宝山寺蔵旧伝本より転写した。
[御神水井戸]
楼門の前に井戸がある。説明書きを読む。
この井戸は、寛文10年(1670)の境内古図に既に記載があり、3代家光公造営の折には現存していたことが明らかであります。
大御所公は幼少人質の折、当神社付近で付近で遊んでおり、また、駿府在城の時には度々当神社へ参拝しておりますので、この井戸にて御手水をされたことが窺い知れます。
又、当時神社のすべての諸祀り儀他にも使用され、更に大神様のご神霊の籠った「御神水」として広く信仰されておりました。
明治以降は空井戸として保存されておりましたが、今度平成御大典記念事業として、崇敬者各位の要望と御奉賛により再興し、上屋を復元したものであります。
この「御神水」は、大神様の疫病退散、延命長寿の御神穂を受けるものとして霊験殊の外あらたかであります。
平成3年9月11日 駿河国総社 富士新宮 静岡浅間神社
[石鳥居と楼門]
浅間通りは大歳御祖神社へ向かう参道だが、長谷通りは浅間神社神部神社へ向かう参道だ。
長谷通りはかつてかなり栄えていて、石鳥居をくぐり楼門に向かい浅間さんを参拝する主要道のひとつだった。
東海道が整備される以前は長谷通りが主要道だった時代もあったようだ。
長谷通り方面は別ページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[少彦名神社]
北のはずれに位置する。駐車場脇にひっそりと建っている。
この神社の北側に昔、静岡鉄道のリフトがあって浅間山の頂上まで歩かずに行けた。
例祭日1月8日
本社は少彦名命を主神とし、他に神部神社末社14社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師社と稱し、薬師12神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され現在は少彦名命をご祭神とする。
社殿は入母屋造銅瓦葺、朱塗で細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来、境内社として病気平癒の信仰すこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある。
[少彦名神社]
欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」の一つ「亥」。
「子」と「丑」は外からは見れない。干支の時に見せてくれるようだと聞いたことがある。
[玉鉾神社]
少彦名神社の奥、山を背にして玉鉾神社が祀られている。
本社の北側に鎮座。社殿は伊勢神宮の御古材にて昭和51年再建された。
例祭 3月29日
祭神は羽倉東麿・岡部真渕・本居宣長・平田篤胤。国学の四大人明治9年県内神官により 官許を得て創祀され、受験・学問の神と仰がれている。
[浅間神社・神部神社]
玉鉾神社の脇から大拝殿の裏側や浅間神社・神部神社を見ることができる。塀に囲まれており立ち入りができない。
以前に団体の来客があった時に依頼して拝観させていただいたことがあったが今でもやってくれるのかな?
[百段]
八千戈神社まで戻った所に石造りの階段がある。百段と言われているけど数えたことはない。
今度数えてみようかな?
[百段]
登ってから振り返ってみる。上から見るとかなり怖い。
[賤機山古墳]
百段の階段を上って左に行くと古墳がある。きれいに整備されていて説明書きがあった。
<賤機山古墳>
賤機山古墳は、静岡平野の中心部に突き出た賤機山の南端に造られています。
葬られた人物は特定できませんが、6世紀後半にこの地方を治めた有力な豪族の墓と考えられます。
古墳の形は、直径約32m・高さ約7mの円墳で、内部には巨大な横穴式石室が造られ、石室内には遺体を納めた家型石棺が置かれています。
[賤機山古墳]
中を覗いてみると石棺があった。
−説明書きの続き−
<横穴式石室>
賤機山古墳の横穴式石室は、巨石を組み上げて造られ、県内最大規模を誇ります。
石室は、遺体を安置する玄室と、玄室への通路である羨道〜前庭とからなり、南に開く羨道の入り口は、遺体を納めた後で人頭大の川原石が積まれ塞がれました。
玄室と羨道の上には、重さ14トンを越える巨大な石を含む7個の天井石が載せられ、天井石の上は雨水の浸透を防ぐために、粘土で覆われています。
石室の石材は、高草山南端の大崩海岸から運ばれたと考えられています。
[賤機山古墳]
古墳の内部模型があった。
−説明書きの続き−
<出土遺物>
石室内は、過去に盗掘に遭い、副葬品の一部は失われました。特に石棺は側面に穴をあけて内部が荒らされ、棺内には、冠帽の破片やガラス玉などがわずかに残されていたのみです。
しかし、石棺外には、遺物が数多く残され、中でも奥壁の前、石棺の西側、羨道からは、それぞれまとまって出土しました。遺物には土器や装身具、武器、武具、馬具、銅鏡、銅椀などがあり、これらの遺物の時代は、6世紀後半から7世紀前半に及んでいます。
また、前庭の入口では、数個の甕が破片の状態で出土しましたが、これは、墓前でのお祭りで使われたものと考えられます。
[麓山神社]
百段の階段を上って右の階段を上ると神社がある。
「はやまじんじゃ」と呼ぶ。
(参拝の栞に説明があったので読んでみる。)
古来、賤機山上に鎮座。「山宮」と称せられた。
本社の別宮。漆塗極彩色。例祭/4月22日
大山祇命(おおやまづみのみこと)を主神とし、日本武尊を配祇する。
主神は本社浅間神社の木之花咲耶姫命の御父神にまします。
当社は宮元八ケ町の氏神でもある。
[麓山神社]
この神社も綺麗に彩色されている。
神社の入口には武家人形が座っている。
[賤機山慰霊碑]
麓山神社の脇の山道を500mほど登ると開けた山頂に出る。
戦禍犠牲者平和観音像が建っている。
救世観世音菩薩縁起
吾が静岡市は昭和19年11月5日南太平洋マリヤナ基地よりB29一機、本市上空に初めて侵入してより昭和20年8月15日終戦に至る迄殆んど連日の如く侵攻し特に本市上空は京浜都市及び中京都市爆撃の経路として空襲警報極めて烈しく其の為市民は心身共に恐怖と疲労に陥り且、戦時体制下に於ける生産活動能力は頗る低下を来たしその間に受けた被害は非常に大なるものがありました。
静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数12回死者1813名重傷者830名全半壊建物148戸焼失建物25239戸罹災者118746名の多きに上り特に昭和20年6月19日夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました。
其の状況はB29百機、零時50分から3時40分に至る約3時間単機乃至数機にて波状的に飛来し大型小型の焼夷弾を無数に投下し密度が高い絨毯爆撃を行った次第であります。
其の被害状況は罹災世帯数24459罹災者110646名死者1669名重傷者800余名其の后重傷者中死亡したもの多数に及びました。なほ本市は去る昭和15年1月15日の大火に罹り全市の大半を焼失しましたが犠牲者は僅か1名の死亡のみに止まりました。
然るに今次の戦禍の如何に凄惨たる事は皆様の知思する処であります。戦災者は永年の家産と貴き人命を一朝に失いその惨状は筆舌に尽すことは出来ません。雨霰の如く落下する焼夷弾の中を老人子供或は病人等何の罪もない非戦闘員が逃げ惑い夫は妻を庇い妻は吾子を護り阿鼻叫喚宛ら地獄絵図其の儘でありました。私は此のような多数の犠牲者に対し真に御気の毒にたえません。
然も一家全滅の憂目をみられ祭祀の出来ない数多くの方がある事を知りまして御慰霊追悼申し上げると同時に人類生存上再度斯のような人災は構成しない様発願致しました。
猶、其他内地外地に非戦闘員が千数百人の多数の戦禍のため犠牲となられても国家社会は年月の去ると同時に忘れられて行く状態は御霊と御遺族の心境に対し真に同情に堪えませんので合祀させて戴き全国民の皆様と倶に永久に四恩報謝の誠意を捧げたいのであります。
時至りまして元市会議員団市連合町内会婦人団体その他諸団体各位の御協力と御援助を蒙りまして静岡市隋一の名勝地賎機山の聖地に安置されて有縁無縁の衆生の菩提を済度し慈眼を以て衆生を視たまい福聚円満なる御姿と観音妙智力の功徳により御霊の冥福と倶に静岡市民の安泰と子孫繁栄、曳ては世界人類の平和と幸福を念願いたすことが目的であります。
昭和44年12月吉日(西暦1969年)建之 謹誌 喜壽福松 書刻 横井石堂
[B29墜落搭乗者慰霊碑]
賤機山慰霊碑の隣にはB29の大空襲時にその時墜落したB29の搭乗員の霊を祠る碑が建っている。
毎年6月に遺族による日米合同慰霊祭が行われている。
[賤機山]
ここは賤機山の南端にあたり、頂上には、かつて浅間神社脇からリフトが設置されていた。
その終着駅から市内が一望できる。
駿府城址の向こうに県庁や市役所をはじめとしたビルが立ち並んでいる。
[賤機山]
富士山の方角を望む。富士のビューポイントだ。
[賤機山]
富士を望んだ目線を下に向けると臨済寺が一望できる。
臨済寺へ進むにはこちらをクリック。
[賤機山城]
浅間山から尾根づたいに1km弱、20分ほどハイキングコースを歩くと賤機山城がある。
賤機山城は別ページを作る。
賤機山城へ進むにはこちらをクリック。
−コメント−
浅間神社は今川から徳川の時代に全国の名匠を駿府に集めて造られた。
日光の東照宮に匹敵する(ちょっと大げさかな?)神社だ。
浅間通りの入口まで戻って約3kmたらずの距離だが見どころが多く、このルートは時間は要する。
− 井宮安西 −
賤機山と安倍川に挟まれた地域。
東海道が整備される以前には、安西のあたりが東西を結ぶ街道だった時代もあった。
中町から出発して安西橋へ行き浅間通りまで戻り、井宮、昭府までの約6kmの行程。
[土手通り]
中町の近辺は「本通周辺」や「浅間神社」で紹介しているので、本通と並行する土手通りから散策する。
呉服町通りが本通りを越えると日銀のところから茶町通りとなる。茶町通りを進むと100mほどの金座町の信号で交差する道が土手通り。
写真は金座町の交差点の手前から土手通りを撮ったもの。横切っている道が茶町通り。
<金座町>
金座町という町名は昭和初期に上魚町から変更なった。江戸時代に魚や青果問屋が並んでいたことから上魚町と呼ばれていた。
江戸の初期にこの所で、後藤庄三郎光次が「駿河小判」を造って金座を営んでいた。金座はのちに江戸へ移ったが、それを因んで「金座町」と命名したとのことだ。
[土手通り]
金座町の信号から土手通りを西に向かうと50mで研屋町となる。この地区は小さな町名が入り組んでいる。
信号をもう1つ越えた所から金座町、車町方面を振り返る。
<研屋町と車町>
研屋町は徳川家康が京都から呼び寄せた研師が住んだことから呼ばれるようになった。
車町は徳川家康が駿府城築城に際して荷物を引く牛飼いが住んだことから呼ばれるようになった。
[顕光院]
土手通りの自転車屋の角を曲ると突当りに「医王山 顕光院」という曹洞宗の寺がある。
家康が呼び寄せたという縁の寺らしいが詳細はわからなかった。
[神明宮]
顕光院を過ぎてすぐの路地を本通側に曲ると屋形町という町名になり静岡神明宮という神社がある。
6月に夏祭、9月に「日待祭」が行われている。
<屋形町>
江戸時代に町奉行や与力などの屋敷があったからこの名がある。
[土手通り]
土手通りと国道362号の屋形町交差点。
交差点を右に曲ると安西方面へ向かう。
[静岡一番町教会]
国道362を安西方面へ200mほど進むと日本基督教団の教会がある。
一番町にあるから一番町教会という。
<一番町>
昭和の初期に裏一番町という町名が一番町と住吉町に分割した。
番町はもともと侍屋敷の町という意味で明治維新後に旧幕臣たちが住んだことからこの町名があった。番町は一番町から八番町まで分かれている。
住吉町はもちろん住吉神社にちなんでいる。
[住吉神社]
ほど安西方面へ向かうと小さな神社がある。
ここは一番町だが、隣にある町名の住吉町の由来となっている神社。
祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命で海の神、航海の神。この辺一帯が安倍川、藁科川の間にできた中瀬だったことから水害多発地で、それを鎮めるため勧請したらしい。
[住吉神社]
現地には説明書きも何も書かれているものはない。
石柱が2つ立っていて「神饌幣帛 供進指定 中津神社」「住吉大神宮御寶前」と彫られていた。
[静岡市市民活動センター]
住吉神社から100m路地を入ると「静岡市市民活動センター」がある。
元は一番町小学校があったが、今は三番町小学校と合併して、廃校となって市民活動センターとして利用されている。
[報土寺]
市民活動センターの西の道を北上する。このあたりは古くから栄えていて、葵町、錦町、茶町、上桶屋町、土太夫町などの小さな町内が並んでいる。
400m程進んで安倍街道に出たところに報土寺がある。
「宮崎山 報土寺」は家康によって今の地に移転して来たといわれる浄土宗の名刹。かつては浅間通りから直接続く参道があった。
[報土寺]
戦国時代に活躍した冷泉為和の歌碑がある。為和は応仁の乱の後に駿府に流れてきた公家で、この報土寺で歌会を開いたとされる。
この寺には、静岡の名士たちの墓が数多くある。
[安西おはつかさん]
報土寺の裏100m程の路地を入ると安西1丁目と八千代町の境の辺りに「水月堂」という小さなお堂が住宅にはさまれて建っている。説明看板を読む。
水月堂(通称おはつかさん)は静岡市安西1丁目南裏に位置し、11面観世音菩薩を安置し、神選府辺観音霊場(新西国)33ケ所巡礼札所中第26番にして本尊は鎌倉初期の名匠運慶の作と伝えられ国宝的存在でありました。しかし戦災(昭和20年6月20日)で焼失してしまいました。
元亀年間今を去る事400有余年(405年)前、安倍郡籠鼻(今の井宮町西北部)の圓皆寺(現在は廃寺)の住僧宗文のの創建で今川家の臣福島淡路守の夫人然正印智現妙本大姉の開基と伝えられています。
毎月20日を以て御縁日と定め毎年3月には僧侶を招き特別大法要を続けております。
水月堂奉賛会
[安西通り]
「水月堂」から20mほどで安西通りに出る。
安西通りの通っているあたりは東海道が整備される以前は、旧の東海道とも言える道だった。
旧の東海道は丸子方面から峠を越えて手越や牧ケ谷へ抜け藁科川を渡り、安西郷を通り、安倍川を渡り、長谷通りから北街道へ抜けていく経路だった。
<安西>
今の安倍川は江戸初期に完成した薩摩土手により藁科川と合流して流れているが、かつては今よりずっと東方の、市の中央部を貫流していた。
「安西」の地名は南北朝時代の「安西郷」の名残りで、安倍川(あるいは安倍市)の西という語源である。現在は安西通りに沿う町々で、一〜五丁目まである。
かつて安西は南賤機村の一部だったが、明治42年に静岡市へ編入された。その際、籠上以北の町は、新設された賤機村へ編入された。
[安西瑞光寺]
安西通りの北側の路地を入ると寺が並んでいる。
右の寺が「佛日山 瑞光寺」。曹洞宗のお寺だ。武田信玄ゆかりの歴史のある寺らしい。
[安西瑞光寺]
寺へ入ると正面に佐久間翕翁の石碑がある。明治の初期に静岡の文化に寄与した人らしい。
[安西瑞光寺]
お花塚?と彫ってあるのだろうか。塚があった。
[安西然正院]
左の寺が「鳳凰山 然正院」。こちらも曹洞宗のお寺だ。
[北番町・明倫館]
然正院の裏に古めかしい建物がある。
明倫館と書かれているが謂われはわからない。
[北番町静岡県共祭招魂社]
静岡厚生病院の北側に自治会館があって、その脇に石碑が立っている。
「静岡県共祭招魂社」は静岡県縁の戦没軍人、軍属を神様としてお祀りし、昭和14年に静岡県護国神社と改称、昭和17年に柚木に移転した。
その跡地を記念した石碑。
[神明神社]
静岡県共祭招魂社跡から300m北の神明町に神社がある。
この町名の由来となっている神明神社だ。
[八雲神社]
厚生病院まで戻り、病院北側の路地を進むと八雲神社がある。
境内に建てられた石碑に刻まれた八雲神社の御由緒
八雲神社御由緒記
鎮座地 静岡市北番町八十四番地
祭神 須佐之男命
祭儀 例祭 六月・九月
創立年月日 口伝によれば寛永三年創立と伝う
往古は牛頭天王と称し当国総社浅間神社に祀られていたが戦禍に遭い別当職が笈に納め安倍郡大岩村に遷し大岩村の村民の氏神として祭祀を引き継ぎたり、その後寛永の頃駿府城北番所の番士この地に居住し牛頭天王を崇敬し為に寛永三年大岩村よりこの地に勧請し宝永三年真言宗建穂寺末寺別当牛頭山宝積寺中興願成院智寂法印氏神として祭祀を承継す。
明治三年神仏混淆廃止令により八雲神社と改称し同八年二月村社に列格同四十二年六月十八日神餅?帛料供進指定を受く敗戦により国家の庇護を離れ神社本庁設立に伴い静岡県神社庁所属となりて氏子により祭祀を継承し現在に至る。
三百五十年を記念して建立 宮司 榊原新一 責任役員 杉山外作・望月新一。
[八雲神社]
本殿の前に看板がある。
八雲神社の祭神は須佐之男命です。
須佐之男命は皇祖天照大御神の弟君で大神の日本立国にその武勇をもって貢献された神様です。
出雲の国において八俣遠呂智(ヤマタノオロチ・大蛇)を退治した神話は有名です。
この健康の神様須佐之男命にお参りして、壮健な神様の精神体力にあやかりましょう。
[安西延命地蔵]
安西通りは安西5丁目まで行くと安倍川に突当る。
橋の袂に地蔵堂が建っている。
[安西・常夜灯]
地蔵堂の前に常夜灯が立っている。
浅間通りの入口と同型の灯籠であるところをみると、浅間神社への入口に位置付けられているのだろうか。
[安西橋]
安西の常夜灯前から西を臨むと安西橋がある。
この先は羽鳥を通って清沢・川根へと続く。国道362号線だ。
[田町・松ノ木神社]
安西橋から南へ安倍川の土手に沿って150m行くと土手の脇に松ノ木神社がある。
松ノ木神社のいわれについては、記録はなく伝説としての口づてにて残された事より外にはないと云われます。
明治の終わり頃、一番町尋常小学校、三番町尋常小学校に通った子供達は田んぼの畦道に何十年か経った大きな松ノ木が有り、其の下に小さな祠が有って、其の中にワラジが沢山つるして有ったのを見ている人は今も何人か、生存しています。
其の人達が、当時の古老から聞かされていた話によると、出雲大社を信仰し、諸国を遍歴した行者がふとした事から、お祠の附近の土地に住みつき、人々の話し相手となり、足を患った人や、いろいろの病気で悩んで居た人達に薬を教え、治療を施し、病気を治癒させたと云われ、病気の治った多くの人々は、大変喜び行者を尊敬し大事にされ、それが何年か続き終りは多くの人々に見守られて、この地に亡くなられた云われます。
医者もなく、貧しいくらしの時代のこととて、この行者を慕いお世話になった人々が云い寄って小さな祠を建て、お祀りをしてきたのです。
病気の時には治して下さるようにと願かけし、治ると、ワラジなどおはたしとして、あげたと云われ、それが幾つかつり下げてあったのです。
その後耕地整理が行なはれ、畦道もなくなり霊験あらたかとして讃えられていた小さな祠は移転せねばならなくなり、又お祠のシンボルであった、大きな松ノ木は伐る事になったのです。
誰云うとなく松ノ木さんと稱えられていた事とて、これを惜しみ皆さんが町内の中央に5坪、6坪の土地を選び以前より大きな立派な、お社を建て毎年お祭りが賑やかに行はれて来たのでした。
昭和27年9月町民の大きな要望により、現在の立派なお社を再築し、昭和27年9月21日午前0時に町内中の灯りを消し、羽織、袴の、正装で提灯の明かりを頼りに町内役員により現在の地に遷座され、シンボルであり、名残りの松もお社の側に他から移植され、大きく育ち、昔を物語ってくれています。
以後お詣りする人は増して、お祭りも賑やかに盛大に毎年秋の彼岸の仲日の前後に行はれます。
松ノ木神社も田町1丁目町内会と共に永久に栄えて行く事と思われます。
「松ノ木神社の神様は人助けの神様です。」
田町1丁目町内会
[田町・田町公園耕地整理の碑]
ちょっと足を伸ばして600mほど南にある田町公園の片隅に耕地整理の碑がある。
<田町>
もと安西外新田と呼ばれた水田地帯。薩摩土手を造ったことにより、開拓された新田で、外新田を耕地整理して設置され、田町と称した。
[安西通り]
安西橋の所まで戻る。
安西の西端は5丁目。安西通りを東へ向かい、浅間通りまで約1kmほど戻ることにする。
<安西五丁目>
安西通りに沿い一〜五丁目まである。江戸時代から府中に属していた。
五丁目は薩摩土手の外堤と内堤に囲まれた安西外新田にできた町。
[安西通り]
安西通りは橋から400m程東へ戻るとさつま通りと交差する。
さつま通りはかつて薩摩土手があった所を取り除き幹線道路に仕立てた通りだ。
左へ向かい1km程行った所にある川除地蔵から井宮神社の間に土手が残っている。
井宮神社前の説明看板がこのページの後半にある。そこへ戻るにはクリック。
[さつま通り]
安西通りの交差点からさつま通りを臨む。
ここから1km余りさつま通りは続き、本通りへ出る。
本通り方面のページへ進むにはクリック。
[安西通り]
安西4丁目。安西通りはここまで国道362号線だ。国道はこの先で右折して旧東海道方面へと進む。
[安西通り]
このあたりは安西3丁目。左に入った所は北番町。
北番町には(株)静岡茶市場やJAの茶業センターがあって、昔から製茶業や茶卸が多い。
<北番町>
番町は侍の住む場所の地名だ。安西通りをはさんで北側が北番町、南側が一〜八番町となっている。
元は江戸時代の初期に侍屋敷があったらしい。その後侍屋敷は消失したが、明治初め頃に旧幕臣たちがこのあたりに住んだ。
[安西通り]
安西1丁目まで来るとこの先で安倍街道と交差する。安西通りはここまで。
安西通りは静岡環状線の一部となっている。
[浅間通り]
安西通りと安倍街道の交差点付近は安倍町。安倍町の交差点から50mで浅間通りと出会う。
<安倍町>
安倍町の由来は2説ある。
1つは徳川家康の家臣安倍大蔵少輔元真が住んでいたので呼ばれたという説。
もう1つは古くこの辺が「安倍郡」の中心で安倍の市と呼ばれた地域だった。
[安倍街道]
安西通りとの交差点から安倍街道を進む。
県道井川湖御幸線とも言い安倍川や井川へ通じる主要幹線道路になっている。
[安倍街道]
安倍街道を進み浅間神社を右に見ながら北上するとそこは片羽町。
<片羽町>
もとは浅間神社神社の社領だったことから賤機山側には町屋がなく片側だけの町だったことから片羽と呼ばれた。
[材木町忠正]
材木町の交差点の所に静岡の地酒「忠正」の醸造元「吉屋酒造」の蔵があったが2009年3月に廃業。
創業宝暦元年ということで258年の歴史に幕を降ろしました。
徳川慶喜や山岡鉄舟、勝海舟などにも愛飲された辛口銘酒だった。
<材木町>
安倍川は浅間神社建立の当時はこの材木町の近くを流れており、普請のための材木を安倍奥から筏で流しこのあたりで水揚げされ、あまった材木を売る材木商が多かった。
薩摩土手により安倍川の流れが移った後も材木商を続けている者が多かったことから材木町と呼ばれている。
[井宮・瑞龍寺]
忠正の裏、賤機山の山裾に「泰雲山 瑞龍寺」がある。
説明看板があるので読んでみます。
宗派 曹洞宗
寺系 静岡市葵区沓谷長源院末
開創 永禄3年(1560年)室町・戦国時代
本尊 聖観世音菩薩
開山 能屋梵藝大和尚
開基 旭姫(徳川家康公夫人)(豊臣秀吉公の異父妹)
本山 大本山永平寺(福島県吉田郡永平寺町)
大本山総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)
瑞龍寺由来
永禄3年長源院第4世梵梅和尚の法嗣能屋梵藝和尚が開山して旧寺址を広めた。
当時は浅間山の西麓に位置し駿河7ケ寺の一つであった。
家康公は駿府在城の折度々住職を招集し曹洞の法門を聴聞された、当時も7ケ寺の一つとして家康公と深い縁に結ばれていた。
天正18年(1590)旭姫没するや、当寺に墓を建て、その時の法名「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」から当時の名前が瑞龍寺となりました。
この為、豊臣家・徳川家両家より寺領を寄進せられた。
戦災等で寺を焼失し、後昭和26年再建する。
<寺所有の重宝品>
旭姫の小袖・秀吉公の朱印状・蝶足膳(桐紋蒔絵膳)
<境内設置>
旭姫の墓・切支丹燈籠・芭蕉の時雨塚
[旭姫墓]
瑞龍寺には徳川家康の正室「旭姫」の墓があるというので探してみました。ひときわ古いお墓でした。
旭姫(朝日姫)墓廟
豊臣秀吉公の異父妹で尾張の地士佐治日向守の妻
秀吉が小牧長久手の戦後家康と同盟関係を築く為妹を日向守と離別させ天正14年(1586)5月浜松城の家康の所へ嫁がせた。
天正16年自分の母、大政所病気見舞いに上洛しそのまま天正18年1月自身も病気で没した(48才)
秀吉は京都東福寺に埋葬し「南明院殿光室総旭大姉」と諡(おくりな)し悲運な妹への供養を行った。
家康と共に在った僅か2年、上洛後2年で病没し加えて前夫日向守は秀吉の仕打を憤り切腹し果てる誠に薄幸の身の上である。
一方家康は旭姫がしばし詣でていた当時に墓を設け「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」と諡し祀った。
[キリシタン灯篭]
瑞龍寺には珍しいものが多い。キリシタン灯篭という物もあった。
「井宮の名所・旧跡イラストマップ」という大きな看板も立っていた。そこに説明書きがあったので読んでみます。
<しぐれ塚>(芭蕉の句)
安藤村長安寺から移されたもの、石の右側に(芭蕉桃青居士)左側に芭蕉の命日が刻まれていた。
「きょうばかり人も年よれ初しぐれ」の句からしぐれ塚という。
<キリシタン灯ろう>
1605年頃駿府城に、フランシスコ会、イエズス会があって、城内、安倍川の2ヶ所に南蛮寺があったといわれている。灯ろうの中をのぞいてみよう。
<旭姫の墓>
豊臣秀吉の妹で、徳川家康の正室であった家康と駿府城に住んでいたが、京都に行き48歳でなくなった。家康が東福寺から分骨してここに墓を作った。戒名(瑞龍寺殿)
[宗李山本翁碑]
石碑が立っていた。
かつての名士だったようで、この寺に大きく貢献した人なのだろう。
[瑞龍寺時雨塚]
旧跡イラストマップにも載っていた時雨塚。
説明書きを読む。
芭蕉翁の「今日ばかり人も年よれ初しぐれ」の句
芭蕉排青居士 元禄7年10月12日と、もとは彫ってあったという。
碑は昔、市内安東の長安寺に在ったが廃寺となったので明治12年頃、材木町の大村青渓氏が、この寺に移した。
[安倍鉄道]
安倍街道へ戻り、材木町交差点から100m程の西の路地を入ったあたりが昔、安倍鉄道の始発駅があった所だ。
(株)赤石(木材業)の事務所のフェンスに説明書きが掲げてあった。
安倍鉄道
昔は道路がせまく、乗物も発達していないので交通は人馬に頼っていました。
明治になってから牛妻以北は舟で物資の輸送が行われるようになり、牛妻以南でも舟が利用された時期がありました。
明治26年(1893)篭上−牛妻間に道路が開通し貨物輸送は陸上交通が中心となり、馬車、荷馬車、荷車等が利用されました。
●創立
大正2年(1913)、門屋の白鳥蒔太郎を社長に、資本金10万円で、安倍鉄道株式会社が設立されました。
設立当時の役員
取締役社長 白鳥蒔太郎 安倍郡賤機村門屋
取締役 狩野閏八郎 安倍郡玉川村落合
取締役 海野孝三郎 静岡市西草深町
取締役 大村利作 安倍郡大河内村平野
取締役 荻野 初蔵 安倍郡賤機村牛妻
取締役 池ケ谷浅次郎 安倍郡賤機村与一右エ門新田
監査役 稲葉利平 安倍郡賤機村下
監査役 狩野賢作 安倍郡玉川村桂山
監査役 酒井嘉重 静岡市安西井宮
大正5年(1916)4月3日と10日に鉄道員監督局の監査を受け、4月13日に運転開始の許可がおり、4月15日から井宮から牛妻に至る10kmの軽便鉄道が開通しました。
井宮駅は、十分一の跡(現在の(株)赤石附近)にでき、駅や機関庫等で500坪位ありました。
信号は、井宮と牛妻の2ケ所にあっただけで、その他小さな踏切には「入るべからず」と書いた立札がありました。
職員は、駅長、機関手、工夫等36名でした。
運転は、1日14往復で、夏は5時30分、冬は6時始発で、1時間おきに運転、福田ケ谷ですれちがう単線運転で、通常の構成は客車1両、貨物のある時は貨車2両が連結されました。
所有車は、当初、蒸気機関車3台、客車3台、貨物車5台でスタートし、その後、その数は増えていきました。
●主な輸送品は、井宮から牛妻方面へは魚、塩、米などの生活必需品や郵便物、牛妻から井宮方面へは木材、木炭、茶、みかんなどが多かったようです。
乗降客は、祭とか行事のない通常の日は、1日、150人位で、大正8年(1919)から9年の1年間の記録によると、人員21万6千人、貨物3千7百トンとなっています。
●静岡の廿日会祭や、軍人社の花火大会などに出た臨時列車、夏の牛妻の不動の滝に夕涼みに出かける納涼列車、土曜日ごとに出た蛍狩り列車などには、客車以外に、貨物用の無蓋車に人が乗り牽引されました。
●駅と料金は次の通りで、子供は半額、自転車は5銭、乳母車は10銭でした。
<井宮より>菖蒲谷5銭、御新田7銭、役場前(松富)8銭、福田谷11銭、下村12銭、大土手14銭、門屋19銭、中沢22銭、牛妻24銭
<牛妻より>中沢2銭、門屋5銭、大土手10銭、下村12銭、福田谷13銭、役場前(松富)16銭、御新田17銭、菖蒲谷19銭、井宮24銭
▲安倍鉄道井宮駅構内写真の説明
人影もない静かな浅野構内、正面は浅間山、左端の2階の建物が本社、その前がホームになっている。右側の建物は機関庫(写真提供山梨写真館)
大日本軌道株式会社製造の国産品
重量5tで「らっきょう型」のえんとつが特徴である。
[山岡鉄舟邸址]
井宮駅が出来る前にこの辺りに山岡鉄舟が住んでいた。
石碑が立っている。この石碑は2010年に山岡鉄舟会と水道町町内会によって再建されたものだ。
碑の横側に説明書きがあるので読みます。
山岡鐡舟
通称 鐡太郎 剣・禅・書の奥義を極めた明治の英傑
戊辰戦争時には東征軍の参謀西郷隆盛と駿府で直談判し江戸城無血開城の合意を成した
明治2年には静岡藩権大参事としてこの地に住まい 藩政に多大な功績を残した
明治21年没 享年53才従3位勲2等子爵
静岡市は鐡舟住居跡の記念碑を建てたが破損して撤去されたままで
あったため「静岡・山岡鐡舟会」の協力を得てこの碑を再建した
平成22年4月吉日 静岡市葵区水道町
[山岡鉄舟邸址]
先ほどの安倍鉄道の説明書きに「山岡鉄舟邸址」の説明もあったので読みます。
明治元年(1868)徳川亀之助(のちの家達)が徳川宗家を嗣ぎ、駿河、遠江、三河の内の70万石の一大名となり駿府城に入りました。明治2年(1869)6月17日藩籍を奉還し6月20日府中(駿府)を静岡と改称しました。
家達は静岡藩知事となり7月20日には城代屋敷から西草深石鳥居近くの元新宮兵部の屋敷に移転しました。(今の児童遊園地)
8月20日藩の役人達が任命されましたが、その中の権大参事という役人のところに山岡鉄太郎という名があります。
山岡は鉄舟の号で知られる豪傑で勝海舟(安芳)高橋泥舟(精一郎)と共に幕末三舟といわれた人です。
天保7年(1836)徳川氏の旗本飛騨郡代小野朝右エ門高福の長男として生まれたが山岡家を嗣ぎました。母は磯という名でした。
剣道を千葉周作の門で学びのちに無刀流という流儀をあみだし春風館という道場を設けて門人に教えました。又講武所という幕府の旗本達に軍学や武術を教える所の剣道の教師をしました。
慶應4年(1868)官軍約5千人が江戸を目指して駿府まで進んで来ました。
大総督有栖川宮は駿府城内の城代屋敷に泊まり、参謀西郷隆盛は伝馬町の松崎という家に泊まっていました。
江戸では江戸が戦場になっては困るのでおだやかに話をつけたいと思い、山岡鉄舟を使者として駿府へよこしました。
山岡は伝馬町の松崎方で西郷隆盛と面会して、「江戸城を官軍に引渡すこと」「元将軍の慶喜の命を助けること」「江戸を焼き払って戦場にしないこと」などの相談をまとめ、途中幾度も殺されそうになったがなんとか無事に江戸に帰りました。
その後も勝海舟らと共に官軍と徳川方の仲介役を務め国を平和な新しい社会にするために力を尽くしました。
静岡へ役人として来てからは井宮の十分一の役所跡に住みました。今の佐藤電気店、(株)赤石などがある所です。
静岡で権大参事を務めた後、茨城県参事、九州伊万里県(今の佐賀県内)参事となり、その後明治天皇の侍従、皇后宮亮、宮内小輔などの役も務め、明治19年(1886)子爵を授けられ華族となりました。明治21年(1889)病死しており東京谷中全生庵に葬られています。
鉄舟は書道も学び人のため額や掛物をたくさん書き、清水次郎長が鉄舟寺を建てる時に書を贈っています。
[井宮・大応国志産湯の井]
安倍街道方向へ向かうとすぐに瓦屋根の小さな建築物が目につく。
大応国志産湯の井」がある。説明書きがある。
<静岡市指定有形文化財(史跡)大応国師産湯の井>
円通大応国師(南浦紹明なんぼじょうみょう)は1235年(嘉禎元年)旧駿河国安倍郡井宮村に生れた。
5歳のとき服織村の建穂寺に入り、浄弁法師のもとで学び、鎌倉の蘭渓道隆禅師のもとでの修行を経て、中国(宋)に渡り臨済禅を修めた。
帰国後は鎌倉の建長寺や九州大宰府の崇福寺等に住山し、大徳寺を開山した法孫の関山慧玄をはじめ、多くの弟子の育成に務めるなど、臨済宗の普及に功があった。
この井戸は、国師誕生のとき産湯の水を汲んだものと伝えられている。国師の遺跡として、郷土に残っている唯一のものである。
[井宮・大応国志産湯の井]
「大應応国志誕生湯」と彫られた石碑と井戸を見ることが出来る。
[井宮・薩摩土手]
安倍街道へ出ると土手が目に付き、街道を切り通しになっている。
お堂と説明看板がある。
<薩摩土手の由来>
薩摩土手は権現様堤又は一部火屋土手とも呼ばれ、江戸時代の始めに造られました。
薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、旧静岡市史に掲載の天保13年(西暦1842年)に描かれた地図「駿府独案内」と言われています。
静岡市史によると、慶長11年(西暦1606年)薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで約4kmにわたって築堤したのが薩摩土手と言われています。
この堤は、江戸時代以来、市民の生命と財産を守ってきましたが、今日都市化の進展の中で現存しているのはこのあたりだけとなっています。
[井宮・薩摩土手]
土手はここが起点となり4kmほど続いていた。
いまはここからしばらくは土手が残っているが、新しい土手に役目を譲っている。
[井宮・薩摩土手]
石碑が記念して立っている。
[水道町川除け地蔵]
土手をしばらく散策。400mほど行きCOOPの先の交差点を渡ると小さなお堂があって説明看板も立っている。
<川除地蔵尊由来>
水道町の川除地蔵尊は、井宮町にある泰雲山瑞龍寺の所属佛堂でありますが、水道町の「しばきり」即ち、最初から居住者であるといわれる、故小林京作翁から私がきいた川除地蔵尊の由来は次のとおりであります。
今を去る780余年前のことで、その年の9月9日(初九日)19日(中の九日)29日(弟九日)と3回にわたり、安倍川に大洪水がありました。その時は、いわゆる「イノコナグラ」といわれる激浪がうずまき、堅固であった一番水道の堤防も刻々危険に瀕しました。
時の水利方役人松岡萬は、地蔵尊の佛体を菰につつんで堤防の上に安置し、治水を祈願しながら衆人を督励して、防水に専念していました。附近の住民はもとより、安倍川流域の殊に一番水道より灌漑用水を取り入れて居る農民たちは非常に心配して地蔵堂に集まり、連日連夜その対策に協議を重ねました。しかしこの度重なる大洪水に対しては施す術もなく、拱手傍観途方にくれて居りました。
そこへ、一人の老僧(属に六部さん)があらわれ「此の大難儀お察し申す、拙僧も、はや老齢ゆえ、安倍川流域の人々のために人柱となってこの堤防を守り治水永久のご安泰を祈り申そう」と申し出で、念仏をとなえながら従容として堤防の中に埋まりました。
その老僧が唱える念仏の鐘の音は、それから七日七夜、堤防の中から消えなかったといわれます。
これに力を得た水利方を始め、衆人一体となっての防水作業が功を奏し、ついに事なきを得ました。
この地蔵尊は、それまでは厄除地蔵尊として、地方の信仰が厚かったが、それ以来川除地蔵尊として衆人の信仰の的になったと云うことです。
現在のお地蔵様の尊体には、其の背面に「宝永4年丁亥天2月吉日」と刻まれてあります。
即ち、今を去る277年前、中御門天皇、の御代に再建されたものです。
昭和61年8月24日 水道町町内会
[井宮神社]
安倍街道まで戻り、土手の突当り、街道を渡ると山際に鳥居があって、小高い所に井宮神社がある。
鳥居の脇に社殿の再建のための寄付を呼び掛ける看板が立っていた。
<井宮町>
井宮神社にちなんで命名された。
井宮神社は、元は「妙見寺」だったが家康が妙見菩薩を勧請し神社となった。
この地、妙見山は武田信玄が築いた砦があった。妙見山下から取り入れた用水を守るため水神を祀ったことから井の宮と呼ばれた。
[井宮神社]
社殿は林の中で静かに建っている。
看板が立っていたので読んでみます。
<井宮神社(妙見山)>
現在の拝殿は安永5年(1776)に再建されました。
徳川家康が妙見菩薩(北斗七星のひとつ破軍星)をまつったので、妙見山の名の方が有名である。
昔から妙見さんと呼ばれている。
海運の神、又、さつま土手の守護神でもある。
北斗七星を祭ってあるので8月に七夕まつりをしている。
230年前に建てられた井宮神社(2010年の写真)
<徳川家康公・跡地 安倍川石合戦見学地>
臨済寺に人質の頃、山伝えに当社妙見宮に参拝され、石合戦見学地と伝えられている。
[安倍街道]
安倍街道は井宮神社を過ぎると籠上となる。
<籠上>
井宮がかつて籠の鼻と呼ばれており、その上流に位置することから籠上と称した。
[円成寺]
薩摩土手の切り通しを過ぎると「美肌湯」という温泉施設がある。その裏に「満徳山 円成寺」がある。
臨済宗妙心寺派の寺。
[円成寺]
円成寺に入ると小さな待合所のような小屋があって、見ると大黒様や恵比寿様がたくさん並んでいました。
[長栄寺]
円成寺の200m北に長栄寺がある。
看板があるので読んでみます。
<玉井山 長榮寺>
宗派 曹洞宗(禅宗)と申します。
当山は、慶長2年(西暦1597年、400余年前)に開創され、禅宗3派中の曹洞宗に属し、御本山は福井県の永平寺と、横浜市鶴見区の総持寺の両大本山であります。寺名の由来は、開基 甫庵長榮の法名により、長榮寺と称せられました。
当山、本堂に安置される御本尊は、古来より信仰深く衆生済度の仏様であります聖観世音菩薩でございます。
境内には本堂、位牌堂、庫裏、山門と、夢のお告げによる井戸の中より出現された千手観音様をまつる観音堂と、その井戸が山すそに有ります。
また、駿河一国札所のお地蔵様がまつられております。尚、著名人の墓も数基あり、本堂前左側には、めずらし菩提樹の木が有ります。
[長栄寺]
長栄寺の観音堂。
今川義元が桶狭間で討ち死にの後、義元の妻が千手観音の像を、敵の手に渡さぬためここの井戸に沈め、のちに通りかかった僧が、夢のお告げに従い拾い上げ、堂を建てて祀った。
[安倍街道]
安倍街道は籠上の交差点で美和街道と分岐する。
[安倍街道]
昭府へ入る。
第2東名の開通に合わせて4車線化が進んでいる。この先で国道1号バイパスと交差する。
[菖蒲神社]
井宮神社から約1km安倍街道を進むと菖蒲神社がある。
<昭府>
昭府町と名を変える前は松富下組で、またそれ以前は、このあたりはかつて菖蒲が茂っていたからか菖蒲ヶ谷(しょうぶがや)といわれていた。
日本武尊の「勝負」伝説から「菖蒲」になったともいわれている。
[菖蒲神社]
鳥居の脇にはお堂が建っている。
この「井宮安西」巡りはここで一応終了する。
[旧賤機村]
南賤機村の籠上以北と北賤機村が明治42年に合併し、賤機村が出来た。
昭府から上流側は江戸時代には駿府宿の中心地である伝馬町の米所として開墾され、伝馬町新田や与一右衛門新田などの穀倉地帯が続いた。
今では住居表示されて、「新伝馬」「与一」「桜町」「美川町」「秋山町」「伊呂波町」「松富」などの町名に変更になっている。
別の日に賤機山へ登って、麓の「与一」や「松富」を望んでみました。
安倍川の対岸は写真の左側から「西ケ谷」「内牧」「安倍口」「遠藤新田」などの旧美和村の町内が並び、山際に第2東名が通っている。
写真の右側が上流側になり、第2東名の先に「門屋」「牛妻」と続いているのが見える。
このあたりは、ほんの30年程前までは農業地域だったが、今では住宅が立ち並んでいて開発が進んでいる。
第2東名が開通し、ますます市街化が進む地域だ。
−コメント−
今回の「井宮安西周辺」は東海道とは外れている地域だが、古くからの史跡も多かった。
井宮は安倍川の奥との交流起点、安西は藁科川の奥との交流起点になって栄えたことが感じられた。
− 安東周辺 −
安東は駿府城から東側の周辺をいう。
安倍川が現在の流れに固定される前は度々氾濫を繰り返しながら賤機山近くを流れていた。
当時の中心市街地もその東岸にあって「安倍の市」と呼ばれ、それより東の地域を安東と称した。
[中町]
本通の突き当たりに中町の交差点が有り、中町ビルが建っている。中町ビルには四ツ足門跡が残っている。
かつては外堀の西端がこの辺りにあったが今は埋め立てられて中町ビルや静岡病院が建設されている。
ここから安東方面へ出かける。
長谷通り、麻機通りを通って臨済寺に寄って安東の記念碑まで行き長谷通りに戻ると約5.5km程の道のりとなる。
本通周辺のページへはこちらをクリック。
浅間神社へ向かうページへはこちらをクリック。
[外堀]
外堀に沿って200mほど行くとNHKがある。
ここを左に曲がったところに稲荷神社がある。
[二加番稲荷神社]
市街地には稲荷神社が多い。由緒の看板があるので読んでみる。
<二加番稲荷神社>
祭神三社 豊受毘売命・猿田彦命・天鈿女命
<由緒>
駿府城は寛永8年以後は城主を置かず「城代」によって統治され、城外守衛のため「加番」という役が置かれた。
当初は二加番屋敷の跡で、その守護神として稲荷神社が祭られた。当社を鷹森稲荷と称されたのは、この付近を流れた安倍川のほとりに鷹が集まった森があった故という。
一加番(鷹匠町1)三加番(東草深町)にも夫々稲荷神社が奉祭されている。
明治維新後は西草深町の産土神として遠近より崇敬されて今日に至った。加番屋敷には馬場・的場・火の見櫓などがある。
[西草深・二加番稲荷]
この稲荷神社の周辺は西草深町の中心に位置し、住宅地として人気が高い。
<西草深町>
駿府城の建設以前の安倍川は幾筋も分かれて流れていたが、その東よりの筋がこの草深辺りを通って南安東村方面へ流れており、草が生い茂っていたことからこの名がある。
徳川家康が町割りと称する区画整理のような事業を行わせた「駿府九十六ケ町」の一つとして数えられていた草深町がその前身。
[西草深・徳川慶喜公屋敷跡]
二加番稲荷神社を北に400mほど行くとポケットパークがあって、石碑が立っている。
<徳川慶喜公屋敷跡(西草深ポケットパークの碑)>と彫られている。さらに説明文もある。
「徳川15代将軍慶喜公は1889年3月から1897年11月まで8年余この地にお住みになった」と彫られていた。
[御器屋町]
ポケットパークの200mほど西の道路脇に「御器屋町」という道標がある。
いわれが書かれていたので読む。
<駿府96ケ町のうち御器屋町>
御器屋町の町名は江戸時代初めに御器(食物を盛る蓋つきの椀)を作る職人が居住したことに由来するとされています。
「元禄5年駿府町数井家数人数覚帳」によると御器屋町の家数は27軒半、人数193人を数えました。
江戸時代の地誌「駿国雑誌」には、徳川家康公が駿府に在城していた当時、この町の職人の手による「浅木御定器」を献上していたと記されています。御器の献上は徳川頼宣公(家康公の10男)・忠長公(3代将軍家光公の弟)の時代もつづき、このことにより諸役御免の恩恵を受けていました。
また、町内にはかつて以心寺という寺院があり、現在の安西小学校の前身として寺小屋教育が行なわれていたと言われています。
現在、御器屋町は西草深町・宮ケ崎町の一部となっています。
[御器屋町]
御器屋町の道標の横に子安観音の石碑が立っている。石碑脇に階段があって2階に祀られているようだ。
[外堀]
外堀まで戻って堀に沿って進む。
[外堀]
西草深町交差点の信号を右折し、堀に沿ってさらに進む。
[東草深・三加番稲荷]
間もなく稲荷神社が見える。
<三加番稲荷神社>
祭神 保食大神(うけもちのおおかみ)
祭日 春分の日、秋分の日
<由緒>
寛永8年に駿府城主徳川忠長が将軍の勘気に触れ蟄居を命ぜられての後は駿河の国は幕府直轄領となり、駿府城には城主を置かず城代・定番が勤める番城となり定番の下に小大名又は旗本の中から、加番を勤番せしめ城外の警備にあたらしめた。
慶安4年の由井正雪の反乱があっての後は従来の一・二加番に加えて三加番が増設され東草深にその屋敷を設けると共に邸内の守護神としてこの三加番稲荷神社を鎮祭し、代々の加番は深く崇敬して毎年2月初午に盛大な祭典を行い又石灯籠鳥居等も数多く奉納された。
明治維新に至り加番屋敷廃邸後は東草深三ケ町の鎮守となり明治11年3月政府公認の神社として存置を許可され後に水落町2丁目も氏子に加わり一般町屋、遠近の人々から深く信仰されるに至った。
<御神徳>
保食大神は伊勢の外宮に奉祀する豊受大神と御同神で人間生活にいちばん必要な食料と衣料をお恵み下さる神である。古歌に、「朝夕の箸とるごとに保食の神の恵みを思へ世の人」とある。
又福徳円満の神、商売繁盛の神として最も信仰される神である。
[東草深・三加番稲荷]
この三加番稲荷周辺は東草深町という。
<東草深町>
西草深町と同じく「駿府九十六ケ町」の一つとして数えられていた草深町がその前身。江戸時代の中頃までは上草深町・下草深町に分けて呼ばれていた記録がある。
[三加番稲荷神社]
神社の通りに面した所に駿府城のイメージ絵が掲げられていた。
「在りし日の駿府城(1608)」「絵じゃないと残せない静岡がある」「100年をかけて「平成の駿府城」をつくる会」と書かれていて、再建を望む声が聞こえるようだ。
[外堀]
外堀をさらに進むと堀の中から来る道との交差点に出る。
ここを左折して進む。
[外堀]
外堀から離れて進むとアイセルという女性会館と生涯学習センターのピンク色した建物が見える。
[長谷通・熊野神社]
さらに進み長谷通と交差する信号を超えると城北通りとなり、間もなく小さな森が見える。熊野神社だ。看板を読む。
<熊野神社>
<祭神> 伊邪那美命 速玉之男命 事解之男命 <合祀神>武内宿禰命 大山津見命
<由緒>
創建の年月日は不詳であるが、和銅4年(711年)の棟札が現存しているので今から1200年以前にはすでにこの地に奉斎されていたことがわかる。
紀州の熊野那智大社に永正3年(1506年)駿河の国安東庄熊野官造営木材取料散用状、永正年安東熊野官棟上料足散用状等の古文書が所蔵されているのをみると古来熊野3山との関わりが深かったことが推測される。
当神社は昔は相当大社であったという。駿河国新風土記には「この社古くは大社にして社人・社僧もあまたありしといふ」と記載されている。
慶長12年(1607年)9月紀州新官城主浅野忠吉が当神社の本殿を建築しその後も幾度か修理の費用の寄進があった。奉納社殿の棟札関係文書等保存されている。
当神社は昔から蝮蛇除の神として信仰された。天明8年(1788年)京都に大火があり皇后も炎焼して聖護院に仮御所が設けられたが度々蛇が出てお困りになった。禁裏・仙洞御所より当神社の蝮蛇除の神符奉るよう命がありこれを献上し白銀一封が下賜された。御初穂の包紙文書等は今も神社に保存されている。
明治維新後、静岡に閉居した15代将軍徳川慶喜公は当社へ木造の鳥居1基を奉納した。
明治8年2月静岡県第5代区1小区の郷社に列し、大正13年3月神饌幣帛供進神社に指定された。
当神社は古来安倍郡北安東村の産土神で、この北安東村の地域は現在の安東1丁目、2丁目、3丁目、長谷町、安東柳町、北安東1丁目、2丁目、及び城東町の一部であり、今もこの各町の氏神として崇敬される。
外県下遠近の人々より広く信仰されている。
[長谷通・熊野神社]
普通の造りの神社だが、取り巻く空気は厳粛な雰囲気を作っている。このあたりは「安東1丁目」。旧安東村の名を取っている。
<安東一丁目>
長谷通りの北東に面した町内が1丁目。城北通りを北へ進むと2丁目、3丁目となる。
江戸時代以前には、安倍川の東側に位置していたから呼ばれた。西側に位置していた安西と対比して呼ばれていたようだ。
[長谷通]
長谷通りまで戻って西へ向かう。古くから商店街として栄えた。
通りの北側が安東1丁目。南側が東草深町。
[長谷通]
安東方面から外堀へ向かう一方通行道路と交差する信号を越えてさらに長谷通りを進む。
[長谷通・駿府薬園阯]
静清信用金庫の前に石柱が立っていて「駿府薬園阯」と書かれている。
家康は薬草にこだわりをもっていて、かなりの博学だったと伝えられている。
そして、このあたりに江戸幕府直営の薬草園が創設された。家康の没後一時衰微したが、享保11年(1726)に拡張・整備され、海外渡来の薬草も栽培するようになったが、幕末の元治元年(1864)に廃止された。
[長谷通・国分僧寺阯・国府阯]
駿府薬園阯から100mほど西へ進んだ信号がある交差点の角に石柱が立っている。
「向かって 右 国府阯 此の奥26m 左 国分僧寺阯 此の奥 30m」と彫られている。
[長谷通・国分寺]
石柱から20mほど西の細い路地を入った所に「龍頭山 国分寺」という真言宗醍醐派の寺がある。
奈良時代に全国へ造ったとされる国分寺とするとかなり寂しい寺ではあるが、どこにも説明がないので謂れはわからない。
長谷通りにある石柱からすると国府だった国分寺の名残りなのかもしれない。
最近の発掘によって、国分寺は大谷の片山廃寺跡が国分寺だったという説が有力になっているが、その他の史跡の存在などを考えると、場合によっては時代を変えて両方とも存在したのではないかと思う。
国分寺は長谷通りの中心となる長谷町という住所にある。
<長谷町>
東海道が整備され、駿府の中心が伝馬町周辺へ移る以前に駿河の国府庁舎が置かれていたことから、「庁や」と呼ばれ、「長谷」と字を当てられ、後に「はせ」となったといわれている。
国府があったという説には異論があり、今では大谷の片山廃寺跡が国分寺だったという説が有力になっている。
[長谷通]
長谷通りはこのあたりから浅間町1丁目と西草深町との間を通り、浅間神社に向かう。
<浅間町>
この町名は文字どおり浅間神社の前にある町であることから名づけられた。
[長谷・天神湯]
昭和の現風景。銭湯が今でも営業している。
[長谷通]
長谷通りは間もなく浅間神社に突き当たる。
[長谷通・志木家]
通りの北側に「しき」という美容室と化粧品店がある。
浅間神社の主祭神である神部神杜の創建以来幕末まで代々神主を勤め、90代も続く旧家の志木家がこのあたりに住んでいるということで近所を探してみたがこの家しか見当たらないことから、この家が末裔と思われる。
[長谷通・駿河総社宮内神社]
「しき」の脇に小さな神社がある。
[長谷通・若宮八幡宮]
「しき」の裏に若宮八幡宮がある。この神社も志木家ゆかりの神社と看板に書いてあった。
<八幡宮> 通称若宮八幡宮
<御祭神> 誉田別命 稚日女尊 大己貴命
<相殿祭神> 奥津嶋比売命 市杵島比売命 多岐都比売命
<例祭日> 10月16日(10月16日に近い日曜日)
<御由緒>
創建の年月は確実にはわからないが、社伝に依ると、人皇十代崇神天皇の7年(西暦91年)天社國社の制が定められた時、駿河の国の神部神社の神主を命ぜられた志貴家の祖先大和國磯城郡(しきぐん)から当地に赴任し、此処に居宅を構え邸内に稚日女尊、大己貴命を勧請鎮座したのが、この神社の創祀といわれる。後に誉田別名と併せて奉祭し若宮八幡宮と称するようになった。
徳川家康公駿府社城の頃は鷹狩等の途次屡々神主邸に立寄り大楠の木陰で休息されたと伝えられている。
この神社は後に宮内村(現在の浅間町)の氏神として町民の信仰厚く明治8年村社に列した。
<境内>
414坪ある。
境内の楠の大樹は推定樹齢2000年周囲10m余り、静岡市指定の天然記念物である。
[長谷通・若宮八幡宮]
もう一つ別の看板が立っている。
社伝に依ると第十代崇神天皇の御代、駿河惣社(現在の静岡浅間神社の内の神部神社)の神主を人命を受けた志貴氏(境内南側に現住)は大和國より赴任し、ここに邸宅を構え守護神として若宮八幡宮を奉祀したと言われる。
この樟の大木は若宮八幡宮鎮座の時既にあったものか、あるいは鎮座の後に植えられたものか詳らかでないが、推定ます樹齢は一千年をはるかに超すものと思われる。
志貴家の伝えに「この樟は永禄12年の武田に依る兵火にも樹勢を損せず、其の後徳川家康公駿府隠楼後この老樟を愛し、しばしば訪れて樹陰に憩ったと言われる。
天保6年(1835年)新庄道雄編の駿河国新風土記に「惣社神主宅は浅間惣社総門前東の角にあり、宅地に若宮八幡の社あり、此社なる樟太さ廻り67間、堅実にして枝葉繁茂す、いずこの老樹も必ず朽ちたる所あるもの多けれども、この樹の如きもの、府の辺に此なし」と記され、又、弘化2年(1845年)駿河名木番付にこの樟は東の小結の位置を示している(この番付にのる24本の内、現存するものは、この樟以外殆どない)こうした古記録等よる見て百数十年以前既に駿河国仲の名木として知られていたことが明らかである。古来「子育ての樟」「不老長寿の樟」としての信仰もある。
目通周囲10.2m、樹高22m、枝張東西26m、南北33m
昭和50年12月18日静岡市天然記念物に指定された。
※新しい看板に「現在、落雷等により幹の中央部が空洞化しているものの樹勢は良好である。」とある。
[長谷通病関天王社]
若宮八幡から東へ200mほど行った所に社が建っている。
説明書きを読む。
今より約100年前、即ち明治41年6月、当時は安倍郡安藤村北安東小字柳小路と称し農家12戸の小村なりしが伝染病流行し村人は農業を忘れて予防壊滅に努めしが殆ど全戸に蔓延し
忽ち患者30余名を出し隔離収容の避病舎を増築し、交通は遮断せられ衛生思想幼稚な為め只々恐怖し往来する者すら他を迂回する状態なりし時村人相諮り神佛の加護を領の外他に託する術なく
村人の代表石割清次郎石割忠次郎の両名は麻機村北小山最勝不動尊修行者なる高井善證師を小笠郡中内田村御門の松本君平宅に訪れ病気平癒の祈祷を懇請したる処
快諾せられ此処に創めて病関天王社を当地に御祀りする事に相成り同年6月13日神霊を御遷座申し上げ集って祈念したる処
忽ち悪疫魔を駆逐し死亡者もなく終息す
爾来信仰する者年と共に増加し今日に到る
?(アン)病関マニヤソワカと3回唱えて禮拝すべし
平成14年9月 安東柳町祭典委員
[石鳥居]
長谷通りに戻る。もうそこには石鳥居があり、浅間神社の入口なのだ。
浅間神社のページへ向かうページへはこちらをクリック。
[西草深公園徳川慶喜公屋敷跡看板]
石鳥居のすぐ脇に西草深公園がある。第15代徳川将軍の徳川慶喜公が明治になってから住んだ屋敷がこのあたりにあった。説明看板があるので読む。
<徳川慶喜公(西草深公園看板)>
「草深町」は、「駿府96ケ町」の一つで、現在の西草深公園の東側に、二筋の通りに面して一画を占めていました。明治6年(1873)に一帯の武家屋敷を含めて「西草深町」となり、昭和44年に御器屋町などを併せて現在に至っています。
駿府城に近い草深町の近辺には、慶安4年(1651)に駿府城の警護や城下の治安維持にあたった加番の一つ「二加番」や与力・同心などの武家屋敷が配置されていました。
草深地区には江戸時代初期に徳川家康公に仕えた儒者「林 羅山」の屋敷があり、また明治維新期には静岡学問所頭であった向山黄村をはじめとする学問所の著名な学者が名数居住していました。
西草深公園には浅間神社の社家の屋敷があり、明治2年(1869)6月に静岡藩主となった徳川家達公が社家新宮兵部の屋敷に移り住みました。
徳川幕府第15代将軍徳川慶喜公葉、大政奉還の後慶応4年(1868)2月から謹慎生活に入り、同年7月に駿府宝台院に移り住みました。
宝台院での謹慎生活が解かれた慶喜公は、明治2年(1869)に紺屋町の元駿河代官屋敷に移り、さらに明治21年(1888)には西草深町に屋敷を構えましたが、東京に戻る明治30年(1897)まで政治の世界を離れ、一市民として過ごしました。
静岡での慶喜公は、狩りや写真を好み、油絵をたしなみ、明治10年代から自転車を購入して市内を乗り回って市民の話題となるなど、多種多様な趣味と共に西洋的な生活を謳歌した当時の最先端を行く文化人でもありました。
中でも静岡で習得した写真撮影の技術から生まれた作品は、各地の風景、生活ぶりを伝える貴重な歴史資料ともなっています。
慶喜公が東京に戻った後の徳川邸は「葵ホテル」となり、さらに、明治37年(1904)には日露戦争の捕虜収容所の一つとして使われましたが、同38年に施設内から出火し焼失してしまいました。
[西草深公園万葉副碑]
西草深公園の片隅に万葉副碑がある。
焼津べにわが行きしかば駿河なる安倍の市道に逢いし衆らはも 春日蔵首 老
万葉集は日本最古の歌集で奈良時代「西暦700年代の文芸の華であるその巻三推歌の中に静岡の古名「阿部の市」の名が見出される。これがわが静岡市に関する唯一最古の文献であり万葉集とともに市の名を千載の後まで留めるのがこの歌である。
歌の作者春日蔵首老は和銅年間常陸国「茨城県」に役人として在任した人であるからこの歌はその旅の途次静岡を通過して詠んだものであろう私たち万葉を愛しふるさとを愛するもの相謀ってここに碑を建ててその由緒を託しふるさと人に捧げるものである。
昭和36年3月 大石徳四郎 森豊 青山於菟
[麻機通り]
浅間神社から北上する通り。
麻機へ通じることから麻機通りと呼ばれる。
[丸山町・東雲神社]
浅間神社の北に隣接して東雲神社がある。小さな神社だが歴史はあるようだ。由緒の看板が立っていた。
<静岡東照宮 東雲神社>
東雲神社は古くから「丸山の権現さん」として親しまれてきた「東照宮」であります。創建は元和8年と伝えられ、「駿国雑志」や「安東村村誌」によれば駿府城内にあった「東照宮」を現在地である府中浅間神社(現静岡浅間神社)の別当、惣持院境内に移したものと伝えられています。
惣持院は明治元年の神仏分離令により廃寺となりましたが「東照宮」は明治8年2月18日、村社に列せられ、同33年、村内にあった八雲神社を合祀し「東雲神社」と改称しました。
御祭神は「東照宮徳川家康公」「速須佐之男命」のほか「天神社」「稲荷社」が祀られています。
宝物として寛永20年に3代将軍家光公の武運長久を祈願して作られた「東照公御尊像」のほか「慈性親王筆東照宮額」「36歌仙額」「駿府城代武田越前守信村奉納釣灯篭」「備前長光作脇差」などがあります。
「丸山」の地名は家康公が大御所として駿府城在城中の慶長年間、鷹狩のためこの地を訪れ、その趣が京の円山に似ているとして名付けられたものです。
[丸山町・東雲神社]
東雲神社の入口に再建してから間もない門が建っている。
お社は見つからないが再建中なのだろうか。
[東雲神社]
石柱が立っていて「猿田彦大神」と彫られている。
[丸山町・太田道灌嵯峨流名園]
東雲神社から太田道灌の嵯峨流名園を覗く。
[太田道灌嵯峨流名園]
街道沿いに入口があるが近代的な門は閉じられていて静岡鉄道の管理地の表札が書かれている。
以前は料亭の喜久屋があって、手入れされている庭を愛でることができた。10年ほど前に知り合いの送り迎えで利用させてもらったことがあったが、この庭は太田道灌が造ったといわれていた。
[麻機通り]
嵯峨流名園は柵で囲まれていて高いところから覗かないと中は見れない。庭園前からこれから進む麻機通りを見る。
[麻機通り]
城北公園を右手に見ながら進む。
城北公園は元静岡大学の跡地にできた。旧制高校時代に中曽根元総理が通っていたことがあるらしい。
[麻機通り]
麻機通りから臨済寺へ向かう参道。
ここは大岩町。
<大岩町>
この山麓あたりの下には岩盤となっていることから大岩の地名となったらしい。
浅間神杜前を通っていた安倍川の流れの一つは臨済寺の前あたりまで流れていて沼を作っていた。
臨済寺の参道の回りも大正時代までは沼田だった。
[臨済寺]
手入れが行き届いている格調高い寺だ。
<庭園の看板>
庭は本堂書院の背後にせまる賤機山の峠へかけ3段となって築かれ雄大な景観をもっている。皐月の頃は百花繚乱さながらゴブラン織をのべたような美しさで秋はまた全山紅葉して、その眺めは筆舌につくしがたい。山麓には細長い流れを通して池泉となし書院から嶺の茶室無想庵へは長い廊を架けわたして互をむすび庭の形式は池泉廻遊式となっているが、すこぶる変化に富み、まことに東海第一の名庭といっても過言でない。桃山末期より江戸初期へかけて完成をみた庭であろう。おそらくは当山四世鉄山和尚の好みである。(西村貞先生の文より)
[臨済寺]
先ずは仁王門が出迎えてくれる。入口の脇に寺の説明書きが書かれている。
臨済寺(大竜山臨済寺)
臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師大原雪斎長老が、師の大休禅師を迎え開山した。
雪斎は、今川義元の執権職として、帷幕(軍議する場所)に縦横の機智を振るった人である。義元が、駿、遠、三の太守として東海に勇を振るったのも、雪斉の力によるところ大で、この時代がまた、今川家の最盛期でもあった。
徳川家康は、竹千代時代の天文18年(1549年)8歳のときから、今川家の人質としての12年間、この大原雪斎から文武両道を学んだのである。後年、家康が天下を治め徳川300年の基礎をつくった素地は、この幼年時代に培われたといえる。
雪斎は弘治元年(1555年)10月10日、60歳でこの世を去った。雪斎の没後5年の永禄3年5月、桶狭間の合戦で義元が敗死すると、今川家の勢力は急激に衰えやがて滅亡する。今川家は雪斎によって興り雪斎を失って衰亡したといえる。
境内墓地の最上段には、氏輝公と雪斎長老の墓がある。
主な文化財 庭園(国の指定名園)、大方丈(国の重要文化財)
[臨済寺]
仁王門には文字どおり仁王(金剛力士)が立っている。
開口しているのでこちらが阿吽の阿形(あぎょう)像だろう。
阿吽の呼吸の「阿」の方だ。
[臨済寺]
こちらの金剛力士像は口を結んだ吽形(うんぎょう)。
仁王門の上に見える「大龍山」と書かれた額はコ川慶喜公の筆と言われている。
[臨済寺]
新仏堂は木目が美しい。平成になってからの建築なので、まだ輝いて見える。
30年も経つと有り難みが増してくるだろう。
[臨済寺]
石碑や石像が配置されている。
どれも手入れが行き届いている。
[臨済寺]
正面に本堂が出迎えてくれる。
国の重要文化財に指定されている。
[臨済寺]
本堂を正面に見て右に鐘楼がある。
[臨済寺]
ここは座禅堂。
この臨済寺はここまでは一般の参拝を受け入れてくれるが、この奥には特別な人や特別な時期にしか入る事が禁じられている修験道場なのだ。
[臨済寺]
ひと回りして帰ることにする。
[臨済寺]
門を出た所の池をながめながら臨済寺を後にする。
[麻機通り]
臨済寺から麻機街道へ出てもう少し北上する。
[大岩・天徳院]
大岩3丁目の山際に天徳院がある。
「第16番梅花観音霊場 神谷山 天徳院」とある。
[大岩・天徳院]
この天徳院も落ち着いた立派な本堂を有する。
[安東記念碑]
麻機街道へ戻り街道を渡り、安東方面へ向かうと耕地整理の記念碑がある。
この先に城北高校がある。
[安東記念碑]
記念碑から市街地を臨む。
約1kmで長谷通りの真ん中あたりへ戻ることができる。
−コメント−
中町の交差点から長谷通り、臨済寺を通って安東の記念碑まで約5km。
記念碑のある安東からどこも寄らずに中町へと帰ると約2km。
戦国時代以前に栄えた町を巡った。今は市内で人気の住宅地となっている。
− 北街道周辺 −
江川町交差点から鷹匠町を通って清水へ向かう街道。
葵区と清水区の境まで約7km。
清水寺や愛宕神社、梶原山まで足を延ばして13km程の行程になる。
[江川町から北街道]
北街道はこの江川町の交差点から始まる。
江川町交差点は旧東海道の府中宿の中心的な位置にあった。
今は交差点としてだけ町名が残っている。
東海道を西へ向かうページへはこちらをクリック。
東海道を東へ向かうページへはこちらをクリック。
[外堀]
江川町のペガサートの直ぐ北側から駿府城外堀が続く。
ここは南端の角になる。外堀は暗渠部分もあり1周つながっていない。
この先に見える城代橋から駿府城址へ入る事が出来る。
駿府城址を巡るにはこちらをクリック。
[駿府城外堀]
外堀南端から北街道方面を見る。
ここから北街道沿いに外堀があったが今はほとんど暗渠となって鷹匠町商店街が続いている。
[ペガサート前石碑]
道路脇に石柱が立っている。
何かを記念する物だろうが変体仮名で擦れているのもあって解らない。
「くがたはし」??
[一加番稲荷神社]
静鉄電車の新静岡駅の裏に神社がある。城を警衛する武士の詰所を加番といい、稲荷神社が当時の名残りを残している。
当神社の御祭神は、保食大神、御別名を豊宇気比売神、又、食稲霊神と申し上げ、稲、5穀の精霊神と尊まれ、衣食住の神、商売繁昌、厄除開運、無病息災、延命長寿の守護神として広く信仰されているかみである。
当社鎮座の由来は、寛永8年(1631年)駿府城主駿河大納言忠長卿(2代将軍秀忠公の第3子)が将軍の勘気受けて甲斐に蟄居の後は、幕府は駿河を直轄領とし、城主を置かず重臣の内から駿府城代を任命して庶政を綜理せしめ、城代を輔けて城外の守衛に当たらせる為に在番1年の役として加番を勤番させる事とし、紺屋町に一加番屋敷を設けた。(これを紺屋町加番或いは町口加番屋敷という)
初代一加番に信州飯田城主5万5千石脇坂淡路守安元が寛永9年(1632年)12月に仰せ付けられ着任した。この加番開設にあたり3200余坪の屋敷内の浄地を選び社殿を建て寛永10年(1633年)山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請し、駿府一加晩の守護神として鎮斎したのが当社の創祠と伝えられている。
[一加番稲荷神社]
稲荷神社は裏通りからも小さな鳥居があって参拝できる。
[鷹匠1丁目]
北街道へ戻り、街道沿いに発展した鷹匠町商店街を歩く。通りの右が鷹匠一丁目、左の城側が駿府町。
<鷹匠町>
鷹匠は一丁目から三丁目と東鷹匠町からなる。江戸時代に侍屋敷が多くあった町だった。
鷹匠と呼ばれる鷹狩りの世話役が住んでいたから付けられた町名とも言われている。
<駿府町>
元は追手町の一部だったが昭和41年の住居表示で分かれた。明治に外堀を埋めて師範学校を建てた場所が中心となる。
戦前は堀の名残りとなる城濠用水が流れていたが暗渠にして、その上に商店街が形成されている。
[鷹匠2丁目]
江川町交差点から500mほど進んだ信号を駿府城址の方向へ入ると市民文化会館が立っている。
その信号前から今来た市街地方面を振り返る。
[松木屋のうさぎ餅]
市民文化会館前の信号のあたりは「安倍川もち」の松伯堂や松木屋などの和菓子の老舗がある。松木屋は古庄の伝統的な銘菓「兎餅」を伝承している。
当時とは幾分意匠が変更しているらしいが結構おいしい。包み紙に由来が書いてありました。
東海名物 うさぎ餅の由来
耳長に 聞き伝えきし 兎餅
月もよいから あがれ名物
江戸時代に東海道を往来した大田蜀山人がその味の良さに詠んだ古庄名物「うさぎ餅」。
月があがるに、餅のつきがよいので召しあがれと、かけあわせた狂歌で有名になり旅をする人びとに賞味されました。
「うさぎ餅」の名は、店先に飼っていた兎から名づけたと言われ薄皮の餅に餡をくるみ、満月の焼印を押して販売されました。
前島家から吉田家へ伝わり、街道の名物であった。「うさぎ餅」を、創業100余年の老舗松木屋さんの協力を得て、その幻の味を再現してみました。
古庄に兎餅の看板が立っている。そのページへはこちらをクリック。
[鷹匠2丁目]
交番のある交差点が外堀の東端になる。ここから堀は復活して西に向かって半周続く。
水落の交差点から北街道を振り返る。
[水落町]
今は無きナショナル会館が水落交差点に面して建っていた。
ナショナルの拠点だったこの建物は、1階と2階がモデルルームだった。
今は時代と共に役割を終え除却され、隣接していた常葉学園へ売却した。
[外堀・水落]
交番裏に外堀の流れ出しがある。堀はここから横内川へ水を落として巴川へ合流して清水へと流れていた。
横内川は今は暗渠となって北街道の下を流れている。
<水落町>
江戸時代に駿府城築城のために造られた横内川という運河へ駿府城の堀の水を流れ落とす地として水落と呼ばれた。
明治以前までは武士の屋敷が多い地域だった。
[横内町・先宮神社]
水落の交差点から北街道を500m進んだ信号の路地を左に入ると先宮神社がある。
看板を読んでみます。
由緒
此のお社は、奈良時代宝亀9年9月 49代光仁天皇(西暦778年)の創建にて往古は足濯(あしすぎ)神社と称し足濯(現在の足洗)一円の農業の守護神、保食神を奉斎し、のち浅間神社の先宮として同神社の祭神、木花咲耶姫命と大山祗命の2柱の祭神を合祀し、のち先宮神社と改称された古き歴史を有する神社です。
現在の本殿は、浅間神社境内の山宮麓山神社改築に伴い下賜われた建物です。(徳川時代)
境内社
稲荷神社祭神 宇迦之御魂大神
濯澤神社祭神 市寸嶋比売命
金比羅神社祭神 大巳貴命
津島神社祭神 速須佐之男命
田村神社祭神 阿夜訶志泥命
猿田比古神
例祭日 夏越の大祓(6月30日)・秋季例祭(10月)
氏子区域 横内町・大田町・巴町・城東町
神職 宮司 大島千秋
[横内町・金刀比羅神社]
先宮神社の境内に金比羅さんもある。
御祭神 大国主命(大巳貴命)
福の神(恵比寿様の父神)をお祭りしてあります。
合祀 津島神社 御祭神 速須佐之男命
[横内町・来迎院]
先宮神社の隣に寺があり、「浄土宗 大用山 来迎院」 山門の脇に「本尊不動明王」と書いてある。本尊は聖徳太子作の阿弥陀如来との話を聞いていたので、アレ??って感じ。
後で調べたら由比正雪の門下になって仇討ちに成功した宮城野としのぶ姉妹が、正雪の菩提を弔うために建てて供養した十三仏堂があり、そこの本尊が不動明王らしい。
看板に説明書きがあったので読んでみます。
このお寺は慶長14年(1611)徳川家康公が創建されたもので正しくは大用山英長寺といいますが古くから横内の来迎院として親しまれて来ました浄土宗のお寺で本山は京都の知恩院です。
ご本尊の阿弥陀如来様は聖徳太子の作と伝えられております。開山の廓山上人は今川家の家臣中山城主の家に生れ長じて家康公の信任厚く駿府城に度々招かれて仏典を請じ世事百談のことをお話ししました。
以来法燈建綿として300有余年現住職は数えて実に21代目に当ります。創建当時の寺域は1900坪に及び門前には横内川の清流がながれ大方丈庫裡鐘楼などの伽藍は結構きわめました。
家康公寄進の南蛮屏風は明治初年宮中に献上され美術史上に名高い神物になっています。
境内に繁茂する揚梅の木は家康公のお手植でこの木に朱印30石を賜わったのも珍しいことです。
また境内の13佛堂は、もと安倍川のほとりにあった正念寺から移したもので由井正雪をめぐる宮城野、信夫の物語を伝えています。
[筆塚]
来迎院の山門を入るとすぐの右側に筆塚と隷書で書かれた石碑が立っている。
書は「幽渓書」との落款がある。青木幽渓先生の略歴が書かれていた。
<主な受賞>
1972 県文化奨励賞
1975 県知事表彰
1977 勲五等瑞宝章
1978 総理大臣招待
1976 ワシントン州タコマ市名誉市民章
<主な履歴>
1943 大日本書道展特選
1948 日展入選
1982 毎日書道会参与
1978 獨立書団参与
1974 県、市書道会顧問
1974 市文化団体連合会会長
幽渓操 建之 発起人代表大石幽邦 硯石寄贈 三日月堂
[横内]
街道へ戻ったすぐ先の歩道脇に石柱と説明看板が立っている。
<北街道と横内川>
歴史とロマン漂う「北街道と横内川」の由来
北街道は中世以降、近代初期まで約750年間にわたって「東海道」の役割を担う街道でした。
鎌倉時代初め、京都〜鎌倉間を往還する「鎌倉街道」となり、近世初頭まで府中〜興津間はこの道が東海道として長い歴史を見つめてきました。慶長6年(1601)東海道53次が制定された以降も北街道として利用され、1200年余りの変遷を経て現在も市の中心部と清水を結ぶ重要な幹線道路となっています。
横内川は400年前、家康公の命により駿府城築城に際して造られた運河でした。水落町を起点に北街道沿いに巴川に至る延長1475間(約2950m)で、江尻湊から船荷を巴川畔の川合で横内川に積み替え、府中までの運搬水路として使われました。また近郊農村への灌漑用水や市民の生活用水としても大きな役割を果たしてきました。江戸時代から近代にかけて、北街道の家並みに沿って流れる横内川は駿府城下町の風物詩として人々に親しまれてきました。
しかし交通量の増加に伴い昭和の中頃全線暗渠となり、その姿は消え失せました。この度太田町誕生100周年を記念して、ここに昭和初期の街並みの写真を刻む石碑を建立し、往時をしのぶこととしました。
2008年10月1日 大田町誕生100周年記念会
[北街道]
来迎院から北街道に戻り清水(しみず)区方面を臨む。
ここから南西へ500mの所に清水寺があるのでそちらに寄ってみる。
「しみずでら」ではなく京都と同じ「きよみずでら」と呼ぶ。
<横内町>
駿府九十六ケ町の一町で、駿府城東辺の外濠に面する城門を横内門と称した。
駿府城の警衛にあたる武士の屋敷が多く、北街道に沿って繁栄した町であった。
[清水寺]
北街道から500mほど南に下ると音羽町という町名になり、道路脇の大きな松が寺の入口の目印になっている。
<音羽町>
音羽町の町名は「音羽山清水寺」から由来する。このあたりは府中宿ではなく旧豊田村南安東に属していた。
[清水寺]
谷津山の麓に「音羽山 清水寺」という高野山真言宗の寺がある。
まずは石段を登る。
[清水寺]
寺の入口に由緒が書かれた看板があった。
<音羽山清水寺>
清水寺は、永正年中(1504〜)、印隔法印が開いた壇林(学問所)の古地に、当時今川8代守護大名氏輝の遺命によって永禄2年(1559)家臣の朝比奈丹波の守元長が創建したものである。開山は、京都から迎えられた尊寿院大僧正道因と伝えられている。この地の眺望がすばらしく、京都の音羽山清水寺に似ていたので、その名がつけられた。
境内には、慶長7年(1602)徳川家康が建立した観音堂をはじめ、薬師堂・聖天堂・霊牌、金比羅神社、熊野神社などがある。観音堂の中には、同じ頃に建立されたと思われる禅宗様の宮殿型厨子が安置されている。いずれも安土桃山時代の建築様式を伝え、昭和31年5月に県の文化財に指定されている。
また、清水寺境内は文学碑の宝庫でもある。「初夏の駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」の句碑をはじめ、山村月巣、小林文母らの句碑が数多くある。樹木におおわれ、苔むした句碑が静寂な境内にひっそりとたてられており、いっそう歴史の重みを感じさせている。
なお、当時は規律の厳しい寺であるため、観音堂、薬師堂など、殿堂の一般公開はしていない。
昭和58年10月 静岡市
[清水寺]
清水寺は木に囲まれ静かな雰囲気をかもしだしている。
派手さはなく観光地化もされていない。
[清水寺]
いろいろな施設が寺のあちこちにあるが何を意味するのかはわからない。
[清水寺]
境内には至る所に句碑がある。
「駿河路や はなたちばなも 茶のにおい」 芭蕉
[清水寺]
句碑はいろいろな形をしている。
「雪の旅 杖一本の 命かな」 詩三
[清水寺]
鐘楼も立派なものだ。
<清水寺の梵鐘>
清水寺の梵鐘は寛永12年に鋳造されて両替町三丁目に設置された分時鐘に由来する。
二度の改鋳を経て明治44年清水寺が譲り受け、同年10月に改鋳された際に、梵鐘の来歴を新たに徳川慶喜公による「聲徹海嶽 常報晨昏」と徳川家達公の「奘勵民業 永紀國恩」の双句を掲げた。
大正8年12月には鐘楼が完成し、梵鐘の音を再び響き伝えることができるようになった。
その梵鐘は戦争のために供出され、現在の梵鐘は昭和25年に復元したものである。
[清水寺]
朱塗りの建物がある。猫が厳かなふるまいでゆっくり歩いていた。建物の前に清水寺の説明看板が立っている。
(音羽山清水寺)
この寺は、永禄2年(1559)今川氏第8代氏輝の遺命を受けて、家臣朝比奈丹波守元長が創建した真言宗の寺である。
本尊は、千手観音菩薩であり、寺の名前は開山第一世の道因大僧正が京都清水寺から招かれて入寺したことから、故郷を偲んで、音羽山清水寺と名付けられたと伝えられる。
後に徳川家康公は、しばしば当寺へ参詣し、公地震の持念仏である千手観世音菩薩を納めたと伝えられる。
この観音堂は、木造瓦葺四柱造(寄棟造ともいわれる屋根形式で、奈良東大寺大仏殿などの重要建築物の屋根に多くみられる。)廻縁つきで、内部ははげ落ちているが極彩色であって、桃山時代の特徴がうかがわれる。
また、観音堂厨子は間口94cm、奥行73cmの木造瓦葺妻入宮殿造りで、昭和31年5月観音堂と共に、静岡県指定の重要文化財になっている。
なお、境内には明和7年(今から215年前)に建てられた江戸時代の俳人松尾芭蕉の句碑がたてられている。
「駿河路や はなたちばなも 茶のにほい」
昭和61年11月 静岡市
[清水寺]
句碑は山の斜面に点在している。
「名月や 心一つの 置きどころ」 月巣
[清水寺]
句碑を読む。
「はなすりの 端山を出たり 春の月」 文母
[清水寺]
散歩コースになっている。
「寝時分の 無いものならば 夏の月」 菅雅
[清水寺]
句碑の横には読み方の立て札が立っている。
「さむる時 野に何もなし 秋の蝶」 推陰
[清水寺]
ここはお堂なのか、お社なのだろうか?
[清水寺]
清水寺の境内は斜面にある。
遊歩道が境内を縫って頂上へ続いている。清水山の頂上は平の部分が広がっている。
旧東海道のページの途中に谷津山の頂上へ立ち寄っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[清水寺]
清水山の頂上の広場の中央にある小山が谷津山古墳群のうちの4号墳らしい。
[清水寺]
谷津山4号墳には「護山碑」と彫られた石碑が立っている
探したが謂われを書かれたものはどこにも見つからなかった。
[清水寺]
頂上広場には南側から登って来たが、西側へ下りる道がある。
下りてすぐに展望台のような所がある。清水の舞台と呼んでいる。京都の清水寺を真似ている。
[清水寺]
舞台の下から滝が流れ出している。
清水公園の一角に滝壺がある。隣接する住宅街の憩いの空間だ。
[清水寺]
清水公園は多くの住民の憩いの広場になっている。
紙飛行機を飛ばしている人もいた。
[清水寺]
清水公園の片隅に木蔭で将棋を指すスペースが作られている。
特に老人がのんびりとできる広場だ。
[元長寺]
清水公園の北側の路地を入って行くと瓦場町という町名になり山の麓に「天叟山 元長寺」という曹洞宗の寺がある。
<瓦場町>
瓦場町は駿府城を築く際に集めた瓦職人が住んでいたことに由来する。
[長源院]
さらに谷津山の麓に沿った道を進むと「沓谷霊園」という市営墓地があり、墓地に沿って回り込むと曹洞宗「大森山 長源院」がある。門の看板を読む。
<山門龍のいわれ(長源寺)>
戦国時代に創建(長亨2年(1487)今からちょうど500年前)された長源院には、興味深い言い伝えが残されている。
寺伝によると・・
ある旅の僧(當山開山覚山見知大和尚)が、手越の里(當山末寺泉秀寺)でつえの倒れる方角に寺を建立することを決めた。すると、つえはしばらく立ったままだったが、突然、つえの先から蛇が現れ、やがて竜となって沓谷の方向に飛んでいった。旅の僧は、竜が舞い降りた谷津山の麓に寺を建てる決意をした。村人たちは僧を助け、山を削り、池を埋めた。
ところが、一ヶ所だけ池の水をくめどもくめども切れない。いたずらに人力を費やしていると、見なれぬ老人がやってきて人夫のひしゃくで一気に水をくみ干してしまった。そして老人は「我は福老人(當山鎮守毘沙門天萬福子聖権現)である」と言い残してこつ然と姿を消したという。
完成した寺が「長源院」である。以来毎年當山では大晦日に参詣者にひしゃくを出し、元日には「万福舞」というひしゃく踊りの習慣が残っていたと伝えられている。明治以降この習慣もいつのまにか消えてしまい現在では「万福舞」とはどのような踊りであるのか全くわからない。
[長源院]
本堂、鐘楼も有り整えられた境内だ。
<ふるさとの誇り(長源寺)>
大森山長源院は、戦国初期、今川氏親公の重臣、朝比奈左京亮泰以公が建立せしものなり。泰以公は、今川氏親公の命により、駿府城を修築し、又駿府の城下町を整備したる人なり。当時谷津山の山麓にありし、朝比奈屋敷の総てを寄進し、覚山見知大和尚禅師を請し当院を創建す。
寺伝に依れば、当院建築の際、山麓の池水一ヶ所容易に乾かず困窮の折、万福子の神、老翁となり救助すると言う。依りて杓子を持ち踊る万福踊りが行われたと今に伝う。
寺門愈々隆え、当山7世在川謙昨大和尚の時に至り、当時駿府城に在城せられたる徳川家康公、鷹狩の度、当院に立寄られ、和尚と極めて眤懇となり、種々下賜品等あるも、当院は3度の火災の厄に遭い、その総てを焼失するも、幸い当院の檀家中山田常賢に賜わりたる葵の紋章入りの印篭現存す。又和尚駿府城に招かれ登城に使用したる駕篭、長持ち等あり。
家康公没後、大位牌を本堂正面に安置し、祀られて今日に至るあり。公の寵臣彦坂九兵衛、慶長14年(1609)(今から384年前)公の命に依り、駿府町割を成し、今日の静岡市の基礎を築けり。九兵衛6世の孫三太夫一族と、当院の関係ある駿府城代及び与力、同心、幕末、江戸より駿府に移住したる旗本侍の方々の墓塔あり。
駿府城代 松平加賀守康次
松平内膳正
菅沼織部正
浅野中務少輔
駿府城重臣 土岐朝昌
駒井馬
与力、同心 今井・河野・田代家等
昭和年代に入り、北大寮歌の歌詞を作りたる横山芳介、社会党代議士下川儀太郎、等の墓塔を存し、「鐘声夜泊の庭」の前庭「渓泉抱石の庭」の裏庭が整い、書院には、福田半香のふすま絵の名画、柴田泰山の鶴のふすま絵も美しく、昭和63年12月より、5ケ年の歳月を費やして、念願の諸堂宇、寺域墓地等の修復整備も一段落し、祈りの聖地として、脈々流れる、永遠の生命の殿堂としての、長源院の存在意義を、再認識して頂ければ幸いなり。
平成5年4月吉日 (郷土史家村松圭三しるす)
[北街道]
長源院から東中学を横眼で見ながら北街道まで戻る。
このあたりは銭座町という町名になる。
徳川4代将軍家綱の頃この地で銭座を設け、寛永通宝(駿河銭と呼ばれた)を鋳造した。
そのことから字名が「銭座」となり、その後町名となった。
[北街道]
北街道は現在4車線となって清水方面へ向かうが沓谷2丁目の交差点で左に分離する道が旧道になる。
この交差点を北上する道が唐瀬街道という。千代田、竜南、上足洗、北安東、城北、池ケ谷、岳美を通りながら唐瀬へと通じる。
<沓谷><上足洗>の町名の由来
室町時代には既に「駿河国沓屋郷」と呼ばれていたことが記された書物が存在するとのこと。
伝説では「浅間様」又は「日本武尊」が今の上足洗の辺りに来たとき、沓を脱いで足を洗ったとされる。沓脱ぎが沓谷に変わり、足洗いが上足洗という地名になったという。
[蓮永寺]
沓谷2丁目の交差点、北街道沿いにに山門がある。蓮永寺だ。説明看板がある。
蓮永寺(貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ)
蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあったが、元和元年(1615)、お万の方(の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興されたものである。
お万の方は、上総国(千葉県)大滝城主正木左近太夫頼忠の娘で、後に伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり、徳川家康に仕えて2人の男子を産んだ。上の子は、家康の第10子頼宣(紀州家)で、下の子は、第11子頼房(水戸家)である。水戸黄門の名で知られる水戸光圀公はお万の方の孫に当るわけである。
お万の方は、熱心な法華経の信者で、特に身延山久遠寺日遠上人の帰依者であった。元和2年(1616)4月17日に、家康が駿府城で歿すると、剃を下して養珠院と号し、この蓮永寺にこもって、家康公の菩提を弔ったということである。晩年は、わが子頼宣のもとで平穏に暮らし、77歳でこの世を去った。
境内には、当時の権勢を誇るかのように、身の丈を越える立派な供養塔が建てられている。また近くには勝安房の母信子と妹じゅん(佐久間像山の妻)の墓がある。
寺宝 家康ゆかりの品が数多く保存されている。
静岡市
[蓮永寺]
仁王門が建っている。
[蓮永寺]
仁王門には文字どおり仁王さんが出迎えてくれる。阿吽の謂れを思い出す。口を開いた「阿」、口を結んだ「吽」。
[蓮永寺]
鐘楼も建っている。
長く繁栄してきた寺であることがうかがえる。
[蓮永寺]
元は教育施設だったような懐かしい気持ちにさせてくれる建物が建てられている。
[蓮永寺]
庫裡もなまこ壁も使った古い建物だ。
[蓮永寺]
柱や梁が素晴らしい。
老舗商店の大福帳を開く番頭さんが似合いそうな造りだ。
[蓮永寺]
古いしっかりした建物が建てられている。
[蓮永寺]
境内には緑も多く、落ち着く寺だ。
[蓮永寺]
駿府城の鬼門にあたる蓮永寺は、本堂の正面を駿府城に向け、城の安泰を祈ったという。
[蓮永寺]
徳川家康の側室(徳川光圀公の祖母)
お万の方供養塔
[蓮永寺]
勝海舟の母と妹の墓がある。
<勝 信子の墓>
榮正院殿妙壽日徳大姉は勝海舟の実母であり、勝甚三郎元良の娘で小吉惟寅の妻である。
風雅を嗜み、写字を能くし教養を積み内助の功あり明治3年3月25日
行年67歳静岡に於いて病歿せり。
慈海院殿妙香日順大姉は海舟の妹じゅんにして佐久間象山の妻なり。
明治41年1月3日寂行年73歳慈母のかたはら此処に葬る。
維時昭和49年5月18日
静岡東ロータリークラブ厚志によ里建之
[陸軍墓地]
蓮永寺の南側に陸軍墓地があって慰霊碑が並んでいる。
広場となった南側に陸軍の兵士たちの50基以上の墓地がある。
関谷銘次郎頌徳碑
(陸軍歩兵大佐)勲3等功3級関谷銘次郎君は地震学の泰斗と仰がれ東京大学教授理学博士関谷清景君の実弟にして其父は岐阜県士族関谷玄助翁なり、君は父の性格を享け幼より勇武の気に富み明治8年陸軍幼年学校に入り、10年士官学校に遷り12年少尉に任ぜられ累進して大佐に至る大尉の頃独逸に留学して戦術を研鑽し帰りて幼年学校士官学校に将校生徒を養成し征清の役第ニ軍参謀として帷幕に殊勲を建て尋て大隊長聯隊長に歴補し和魂洋才適くとして可ならさるはなく名声大いに聞ゆ明治37年征露の役起るや静陵の精鋭3000を率い普蘭店得利寺蓋平大石橋海域鞍山站の各地に連戦して毎に功あり就中得利寺における偉功は聯隊に感状を受けしめたりは月遼陽大会戦の初頭第3師団左翼隊の重任を受け首山堡南方高地に向へり抑も此高地は遼陽街道を扼する天然の関錀にして陣堅く備頗る精なり31日未明軍容粛々弦月の影を踏み軍旗中隊を核心として戦線を進め奇襲猛撃一挙に敵の第1第2塁を奪取す然るに果敢の奮進は却て孤立の難に陥り敵十字火の下に大隊長橘少佐奮戦して之に死し其他死傷千余人惨絶を極む此窮況に處し大佐は毅然として部下を督励し従容として軍旗の安全を図り終に敵弾に殆る何ふ夫れ壮なるや大佐陣歿してより茲に20有6年其功烈を追慕景仰する者益多し乃ち同感者胥り此像を建て以て木朽の亀鑑とす
昭和4年8月31日 静岡首山堡会撰
[千代田・市高]
北街道へ戻り、沓谷2丁目の交差点から唐瀬街道に入ると千代田という町名になる。
100mほど行ったショッピングセンターの東側に並木道があり、静岡市立高等学校の校門へと続く。
<千代田>の町名の由来
明治になって千代田村と命名された。かつて一面に水田に広がっていた。
むかし家康がこのあたりに広がる水田を見て「千代田」と称したといわれている。
[千代田・市高]
静岡市立高等学校の校門はかつて、田安門がここにあった。今は校門の内側に移築され近代的な門に改築されている。
この校門は普段閉ざされていて、唐瀬街道沿いの門が使われている。
[千代田・市高]
校庭にあるので、事務局に断って写真を撮らせてもらった。説明看板が立っている。
<田安門の由来>
この門は、当地に移築される以前、西草深町の浅間神社向かいに建っていたものである。この敷地には、江戸時代、浅間神社神主の役宅が置かれていたが、1869(明治2)年、徳川宗家16代徳川家達の屋敷となった。
田安家出身の徳川家達は、前年、駿府70万石の城主として駿府城に入城していたが、藩籍奉還により静岡藩知事に任命され、公私の別をつけるためここを私邸として移住したものである。この門はその遺構であり、徳川家達の出身に因んで「田安門」と通称されてきた。
徳川家達は、1871(明治4)年東京に移住するが、この門は現地に残され、1887(明治20)年、同地に静岡尋常中学校(現静高の前身)が校舎を新築してその正門となった。
1900(明治33)年には、静岡尋常中学校が移転し、同地は師範学校女子部に引き継がれた。そして1924(大正13)年女子師範学校(旧師範学校女子部)が移転し、同地は西草深児童公園地となったが、この門は残存し、その後の静岡大火や空襲でも難は及ばなかった。
その後、この門は1958(昭和33)年に本校の正門として現在の敷地に移築された。以来、本校生徒の向学のシンボルとなり、今日に及んでいる。
静岡市立高等学校
[千代田・白髭神社]
市高の唐瀬街道をはさんだ西に小さな神社がある。看板に由緒が書かれている。
祭神名 武内宿禰命
例祭日 歳旦祭(元旦)
大祓い(6月)
秋季大祭(10月17日)
由緒
創建年代は不詳。日本書紀巻第7
景行天皇の御代(第12代)にその名が見られる。実在の人物にて新撰姓氏録に王仁の孫(わにのひこ)と記載されています。
往古よりこの地に鎮座しており、明和6年(1770)9月再建となり現在に至る。
旧社格 明治8年12月村社に列せられる。
現在は 静岡県神社庁神社等級規定12等級社である。
境内社 12社
氏子区域 千代田1丁目から7丁目及び竜南地区
神職名 宮司 大島千秋
[北街道]
北街道へ戻り旧道の方を進む。
間もなく「でみぐら亭」というレストランがある路地を右に入る。
[須賀神社]
「でみぐら亭」を過ぎ4車線の北街道を渡ると谷津山の麓に「須賀神社」と書かれた鳥居が見える。
神社は階段を登る。
略記
須賀神社 静岡市沓谷鎮座
<御祭神>
建速須佐之男命
奇稲田姫命
<御神徳>
国家安穏、万民守護の神として崇拝せる。事業繁栄、家内安全、開運厄除、学業向上の守り神であり、当地が祇園信仰の盛んな頃、庄屋の山田常賀が沓谷郷の産土神と仰ぎ牛頭天王社と奉称。
明治8年3月政府の調の折り須賀神社と奉称。社格は村社に列せられた。
<社殿>
流造 鳥居 明神造
<境内社>
本社向右 福神社 祭神
本社向左 廣田神社 祭神 天照大神荒魂
稲荷神社 祭神 宇和之魂命
東端 祖霊社 祭神 沓谷郷の祖霊
神は緑の森厳の中に鎮座す流造の社殿群でこの地方の特筆すべきもの稲荷神社は上方造で一見に値する社殿
[須賀神社]
「須賀神社」の階段の途中に「平成稲荷」と書かれた鳥居がある。
神社は一段上の広場に並んでいるが、稲荷神社へはこの鳥居から続く左側の道が通じている。
[須賀神社]
「須賀神社」の社殿があり、隣に「平成稲荷」と書かれた社が並んでいた。
並んではいるが参道へ別ということらしい。
[龍雲寺]
北街道へ戻って100m進んで又、谷津山の麓まで200m行った突当りに曹洞宗「洞谷山 龍雲寺」がある。
[龍雲寺]
竜雲寺は、守護大名今川7代の当主氏親の夫人龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)の菩提寺である。
寿桂尼は京都の中御門権大納言宣胤の女で、永正5年(1508)今川氏親に嫁して、3男4女を生んだ。
氏親は晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人の内助によるところが多かったと言われている。
大永6年(1526)氏親が56歳で亡くなると夫人は髪を切り、翠光院寿桂(後に長膳院)と号し、氏輝、義元、氏真3代約40年の永きにわたり政務を補佐し、守護大名今川氏の繁栄をもたらした。
ことに永禄3年(1560)5月、尾張国桶狭間における義元公の戦死は今川方にとって決定的打撃となったが、その間に処して沈着よく事をはこび兵をおさめて論功を行い、今川家の回復をはかり、外敵の進入を受けることなく国内の平静を保ったのは、尼の力に負うところが大きかった。
永禄11年(1568)駿府の館で没したが、遺命により、駿府の鬼門にあたる当寺に骨を埋め、永く今川館を護ろう念願したと伝えられている。
墓所は、寺の背後にあって、五輪二基のほか石塔があるが、そのいずれが尼公の墓であるのかさだかでない。
[龍雲寺]
寿桂尼の歌碑があった。
寿桂尼公今川家へ嫁するに当り、父八代権大納言中御門宣胤卿より賜わりし印形今川家決裁にこれを用う依ってここに永代に記念するものなり
歸(とつ)ぎ来し 駿河の国を 見守りて しづまりいます
寿桂尼大方
宜子 上
[愛宕神社]
谷津山に愛宕神社があり、かつては山城があった。
ここから登る。
愛宕城址のページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[北街道]
旧道まで戻り、東へ進む。
「羊羹屋マート」という菓子屋なのか食品店なのかわからない名称の店がある。
[北街道]
千代田小学校や千代田農協がある交差点がある。
ここを右に曲って愛宕霊園の方へ行ってみる。
[沓谷・愛宕]
市営霊園が広がっているがその霊園を背にして並んでいる寺を撮ってみました。
ここの寺街は戦後に駒形の辺りにあった旧寺町から集団移転してきたものだ。次の寺がある。
新光山 宗長寺 日蓮宗
法養山 妙像寺 日蓮宗
妙祐山 宗林寺 日蓮宗
竜華山 安南寺 臨済宗妙心寺派
正覚山 菩提樹院 臨済宗妙心寺派
蓮長寺 日蓮宗
勝地山 新善光寺 天台宗
長善山 浄祐寺 日蓮宗
萬嶽山 松龍禅院 臨済宗妙心寺派
自然山 真勝寺 真宗大谷派
[愛宕霊園・観音山]
霊園や寺の南に小さな山があって、観音山と言う。
この山も霊園の一部。
ここに寺が引っ越してくる前には谷津山と観音山とはつながっていたが切って通したとのことだ。
[愛宕霊園・観音山]
頂上には観音様が建っている。
ここの寺が共同して建築したとのこと。謂れが書かれた碑が立っている。
此の地は第二次世界大戦中計画されたる静岡聨隊の忠霊塔建設用地にして県下各種団体学徒等延十数万人に及ぶ銃後国民の清き汗の奉仕にて整地せる霊域なり。
然るに我が国は敗戦の止む無きに到り国土は荒廃し国民思想は混乱し200万の英霊地下に万斛の涙をのむの國情にて環の計画は水泡に帰せり。
我ら・に忠霊塔の代り戦病歿の英霊有縁無縁の戦災殉難者慰霊のため且つは世界平和と国民思想の差道を祈念して慰霊観世音菩薩の建立を発願し観音経中「八万四千衆生」の御文に因み溥く世人との結縁と喜捨を仰ぎ幸いにも2万5千有余人の資助を得更に旧34聨隊営庭の関谷聨隊長銅像台座を譲り受け昭和27年6月此処に移転翌28年静岡左官組合の献身的奉仕を得森田太津藏氏の手にて尊像完成す。
よりて同年10月18日開眼大法要を厳修し1900余人にて謹写せる観音経6巻と英霊法名を胎内に奉安し供養を営む。
冀は諸精霊位佛果を証して永久に安楽の菩提座に常住せられんことを維時
昭和28年10月吉辰 発願者 花園霊苑寺院一同
[愛宕霊園・観音山]
観音山の頂上からは愛宕霊園が一望できる。
[宗長寺]
新光山 宗長寺という日蓮宗の寺。
入口に看板が立てられている。
<連歌師「宗長」の旧跡>
室町時代の連歌師「宗長」の府中における屋敷「臨川庵」跡を寺院としたもので、当時は安倍川の畔にありました。
<宗長が臨川庵で詠んだ句>
河原ちかき宿所にて 夕すずみ身も日もさむし河原風
河辺の宿所にて すゑやみな川かみすめる春の水
<「宗長手記」より>
宗長が師匠の宗祀と詠んだ句
山ふかき里や嵐にをくるらん 宗長
<「水無瀬三吟」より>
なれぬすまひぞ寂しさもうき 宗祀
[沓谷・菩提樹院]
正覚山 菩提樹院は臨済宗妙心寺派の寺。由緒の看板が立っている。
<菩提樹院(正覚山菩提樹院)>
菩提樹院はもとは寺町4丁目(現在の常磐公園)にあったが区画整理によりここに移転した。
この寺には由比正雪の首塚である五輪の塔がある。由比正雪は幼名を久米之助といい、慶長15年(1610)駿府宮ケ崎、岡村弥右エ門の次男として生まれた。父は農業のかたわら紺屋を営んでいた。正雪は幼少の頃より軍書を愛読し後に江戸へ出て楠流軍学の師範となり、道場を開いたが門弟の数は数千人といわれた。
慶安4年(1651)3代将軍家光が没し、4代将軍家綱が11才で将軍となったが大名のとりつぶしなどで多数の浪人が出、社会は騒然とし、人心が動揺していた。正雪はこの不安を救い徳川幕府の政治を改革しようと計画し、慶安4年7月29日を期して江戸、駿府、京都、大阪の4ヶ所で、同時に兵(五千人と言われる)を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前にこの計画が発覚し、正雪は駿府梅屋町の旅籠で、部下7名と共に自刃した。時に正雪は42才、その後首刑され、安倍川原でさらし首となっていたが縁者の女人がこれを盗み、早暁より門の開いていた当寺に葬り、五輪の塔を建て供養したものが、正雪の首塚である。
昭57・3 静岡市
[沓谷・菩提樹院]
由比正雪公首塚。説明看板を読む。
幼名を久米之助という慶長15年(1610)駿府宮ケ崎の紺屋に生れ、幼少より書を好み17才の時江戸へ出て、楠不伝に楠流軍学を学びその秘法を伝授され、牛込に道場を構え軍学を指南せり。
時に徳川幕府の悪政を改革せんと幕府転覆を計り自ら久能山に立籠り、東西の同志に号令せんとせしが事寸前に露見し、慶安4年(1651)7月26日梅屋町の旅籠梅屋勘兵衛に於て捕り方に包囲され辞世の句を残し同志9名と共に自刃せり。
時に正雪42才、同志と共に安倍川畔にさらし首にせられしを縁者の女人秘かに之を盗み去り寺町(現常磐公園)菩提樹院に葬りしが即ち首塚なり、因に正雪公首塚は都市計画により昭和21年当寺が現地に移転と同時に移転された。
[沓谷・菩提樹院]
本堂の脇に伝駿河国分寺の塔心礎と説明看板が立っている。
静岡市指定有形文化財(考古資料) 指定年月日 平成7年1月23日
<取材地 静岡市沓谷1344番地の4 菩提樹院>
この石の上面には、直径1m前後、高さ約20cmの柱座状の高まりがあり、そのほぼ中央部に直径46.52cm、短径35cmの楕円形の孔が掘られている。しかし、もとは直径34cmの円形であったことが孔を穿った鑿の痕跡からわかる。
本来は寺院の塔の心礎として用いられたもので、中央の孔は釈迦の骨を入れる舎利孔であったと考えられる。この舎利孔の大きさは、甲斐や伊豆の国分寺のものとほぼ同じである。
石に刻まれた銘文によれば、明和8年(1771)に、時の駿府城代武田越前守信村によって駿府城三ノ丸城代屋敷があった社の手水鉢として奉納されたものであることがわかる。その際に、水溜めにするため円形の溝を現在の楕円形の大きさに広げたようである。
昭和5年(1930)に、当時駿府城代にあった日本赤十字社静岡支部の庭(現在の県総合福祉会館所在地)にあるのが発見され、昭和28年駿河国分尼寺の後身という伝承をもつ菩提樹院へ寄進された。
直径2.2m 短径1.42m 全高約1m 材質 粗面岩(火山岩の一種)
平成10年3月 静岡市教育委員会
[北街道]
北街道の旧道へ戻る。この先の信号で交差する通称「流通どおり」と呼ぶ第2東名へ続く幹線道路を横切り清水の方向へ進む。
[北街道]
流通どおりから500m程進むと巴川を越え、川沿いの道に入った場所から今渡った北街道(旧道)の橋を撮影した。
水路状になったこの川は8kmほどで清水港へと流入するが、ここから数メートルしか高低差が無く大雨時には氾濫の危険をはらんでいる。
この辺りは「上土」「川合」という川に由来する地名が付いている。
「上土」
巴川は毎年のように流域に水害をもたらし土砂が河床を上げるため、川の流れる位置が安定せず新田の開発は巴川の川掘りと並行して行わねばならず、上土の地名も浚渫した土砂を積み上げたことに由来する。
[北街道]
巴川から500m程で上り坂となり長尾川を渡る。天井川になっているのだ。
北街道の橋の下流500mで巴川へ合流する。
「川合」
麻機から流れてくる巴川と龍爪の麓から流れてくる長尾川が出合い出来た中州状の地域であることから、江戸時代から川合新田と呼ばれていた。
[北街道]
長尾川橋からは瀬名方面を見渡せる。
長尾川よりかなり低い土地ということがよくわかる。
[北街道]
長尾川橋から下流方向を見てみる。
天井川となっていることから、水位は低く、渇水期になると伏流してしまい砂利の河原が続く涸れた河川となる。
ひとたび大雨に襲われると一気に水かさが上がり、土手の高さのみが頼りとなる。
長尾川は瀬名川(西奈川)のほか微雨川、竜爪川、大沢川とか、場所によって平山川、こりとり川と様々な呼び名を持っている。
[北街道]
大圓山 増福寺という曹洞宗の寺だ。
[北街道]
「大圓山」の額が掛かっている。
[北街道]
長尾川を渡って500mで北街道の旧道は4車線の新道と合流する。
この辺りは瀬名川という町名だ。
「瀬名川」
瀬名川という地名は、長尾川が平時には水がないため瀬無川(長尾川)とも呼ばれていることからついたといわれる。
建長5年(1253)に東国へ向かう藤原為家が「せな川のはや瀬に見えず行く水や いも恋いわたる涙なるらん」と詠んでいる。
[瀬名川]
北街道は4車線の新道と合流し、すぐの「瀬名川西交差点」を北へ入ると旧西奈村の「瀬名」「長尾」「平山」と続き、突当りが龍爪山の登山口となる。
その次の「瀬名川交差点」を南に曲ると国道1号線へと向かう。
「瀬名」
瀬名は西奈郷の中心地。西奈の読み方は「せな」だったが「にしな」といつしか呼ばれるようになった。明治に瀬名村、瀬名川村、長尾村、平山村の4か村が合併し西奈村となり、庵原郡に属していたが、昭和23年に静岡市へ編入された。
「長尾」
長尾新太郎定景という鎌倉幕府の御家人が落ちのびてきて、200年ほどこの地で長尾家は栄えたが、室町末期、今川の時代にこの地を追われたといわれている。
[鳥坂]
北街道を清水の方向へさらに進むと間もなくバイパスの下をくぐり、清水区の鳥坂地区へ向かう。
北街道の清水方面は別の日に譲ることにして、瀬名周辺を巡ることにする。先ずは北街道の新道を長尾川の手前まで戻る。
北街道(清水方面)を巡るにはこちらをクリック。
[旧北街道]
北街道の新道を長尾川の手前まで戻ると西奈南小学校があって、体育館の前のT字路で東へ向かう道が大昔の北街道だったらしい。
東海道が整備される以前は北街道が京から坂東へ向かう往還道路だったとのことだ。正確にこの道だったかは不明だが、この道の周辺には当時の名残りも見られることからこの辺りに街道があったのだろう。
巴川や長尾川がどのように流れていたのか?などとも昔を想像しながら進んでみる。
[旧北街道]
瀬名川5号橋と書かれた橋を渡り、さらに進む。
[旧北街道]
すれ違うのがやっとの道を進み、この交差点から若干道幅も広がる。
ちょうど懐かしいフォルクスワーゲンがやってきた。
[旧北街道・矢射タム橋]
この交差点に石碑が立っていて説明看板もあった。
「梶原景時と矢射タム橋」
鎌倉幕府は、正治元年(1199)源頼朝が死亡し、頼家が2代将軍となった。
幕府では、武将らの勢力争いが激しくなり、鎌倉幕府創立の立役者梶山景時はその争いにやぶれ、鎌倉を追われた。領地の相模一の宮(神奈川県寒川町)から脱出し、一族や家来をつれて上洛しようとした。
幕府方は景時一行を阻止しようとし、各地の豪族に討伐を指令した。まず清見ヶ関(興津)で戦いが始まり、高橋・大内方面(清水市)に戦場が移った。
景時もよく奮戦したが、長時間の戦いの疲れと、地形に慣れていないため、各地で家来の武士たちは討ちとられた。特に、豪勇無双と言われた三郎景茂が入江一族の吉川小次郎に討たれたことで、景時も覚悟をきめ、この瀬名の地で自害した。景時と共に源太景季・平次景高の親子3人が自刃したと伝えられている。
正治2年(1200)1月20日頃でした。
辞世
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ」
「矢射タム橋」の由来は、この戦いのとき、このあたりで地元の侍らと矢を射りあったとの言い伝えによるものである。
静岡市観光課
[旧北街道]
街道は住宅街へと入って行く。
[旧北街道・浄界寺]
白壁に囲まれた寺は「浄界寺」。
無量山 浄界寺という曹洞宗の寺だ。
第56番 梅花観音霊場の看板が掲げられている。金毘羅大権現のお堂も建っている。
[旧北街道]
この辺りは旧道の雰囲気がある。
[旧北街道・世尊寺]
路地を南に入ると「世尊寺」がある。
寶集山 世尊寺という日蓮宗の寺で1474年の開山というので、街道が栄えていた頃からあったのだろうか。
[旧北街道]
街道は住宅街をさらに進む。
[旧北街道]
道は東名高速道路のガード下をくぐる。
[旧北街道]
この先は巴川にぶつかる。
[旧北街道]
ここで巴川と長尾川へぶつかり道は消滅する。
この辺りは新しい道なので旧街道だったのかどうかはわからない。
この川は河川改修が繰返されているので、川筋が今とは違っていた。
もっと昔の太古には安倍川の流れも清水へ向っていたこともあるようです。
この川を渡った東側には清水へ向う古い道が繋がることから、多くの人に利用されていただろう。
この後は北街道から離れて瀬名方面へ北上してみる。
清水方面の古道へ向うにはこちらをクリック。
[弁天池]
「瀬名川西交差点」を北上して700mほど行った所に池がある。
<弁天池の新しいやくめ>
この池は、大雨の時、洪水が下流に一度に流れないように、川の水を一時的にためて、時間をかけて川を流してやり、下流でのはんらんを防ぐために、役立つようになっています。
(施設概要)
・事業名 昭和61年度雨水貯留事業駒形神社池貯留施設
・貯留量 4,000立方メートル
・貯留池面積 4,000平方メートル
・貯留水深 96cm
[弁天池]
弁天池へ隣接して「花みづき」という懐石料理屋がある。
かなり高級な価格設定なので寄ってみる勇気は無かった。
[弁天池]
落ち着いた空間が創造されている。
[弁天池]
池に中の島が造られていて、神社が祀られている。
<駒形神社>
田心比売命(多紀理比売命)
滝津比売命(多岐都比売命)
市杵嶋比売命(市寸嶋比売命)
宗像大神とたたえ申す、宗像三女神をまつる神社です。
貞享二年(西暦1685)地頭大久保紀伊の守の勧進と言う。元弁財天御社と称せしを、明治2年、今の社号に改む。
貞享年間、紀伊守大久保玄蕃の奥方が、一夜の夢枕に弁財天が現れて、江戸(東京)上野にある「不忍池に型とって造れよ」と教えたところより、池も島もその様に築造されたと言われる。
国家鎮護・海上交通・漁業守護の神としてあがめられますが、特に別名を、道主神ともいうところから、交通安全の信仰が盛んです。
池は昔から農家にとって、かかすことの出来ない農業用水として、尊ばれて来ました。
明治8年3月、宗教法人法により、宗教法人「駒形神社」となる。
[弁天池]
拝殿なのか舞殿の脇に忠魂碑が建っている。
[梶原一族いくさの跡の看板]
弁天池から300mほど北に光鏡院があり、入口の向かいに看板が立っている。
<梶原一族いくさの跡>
梶原一族について
1,180年(治承4年)、源頼朝は、平家討伐の旗あげをしたが、相模(神奈川県)の石橋山で敗れ、洞穴に隠れていた。そこを平家方の将で、大庭景親に従っていた梶原景時が密かに助けた話は有名である。
景時は、その後、頼朝に仕え平家討伐や鎌倉幕府の創立に功をたてたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。
1,200年(正治2年)一族と共に西国の所領に向かう途中、駿河国、清見ケ関から大内(清水市)あたりで鎌倉の命を受けたこの地の地侍の待ち伏せに遭い、戦いとなったが利あらず、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。
梶原山の山頂には、梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚という名でも親しまれている。
梶原景時 辞世
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ」
2、庵原
当時は一面芦原の湿地帯の中であったので、月明かりをたよりに、両軍見えがくれながらの戦いとなる。
戦場はしだいに高橋、大内と西へ西への移動していく。
3、大内
ここで、梶原勢は、吉川小次郎を主力とする地侍と激突。
景時の3男、景茂と小次郎が一騎打ちとなり秘術をつくして戦い、力つきて景茂が討たれた。
また、負傷した小次郎も間もなく亡くなっている。
4、矢射タム橋
景時は西へ逃げ、瀬名川にさしかかった時、橋のたもとに待ち構えていた地侍が、いっせいに矢を射かけたので、「矢射タム橋」と言われるようになった。
5、矢崎
川合あたりまで進んだ景時は、更に行く手を地侍に阻まれ、「矢射タム橋」を逆戻りし、矢崎あたりで最後の死力をつくして戦ったがかなわず梶原山に逃れた。
6、梶原山頂
もはやこれまでとみた景時親子は、湧き水で鬢(びん)をなおして、山頂で自害して果てた。
[梶原山・一本松公園遊歩道案内]
「梶原一族いくさの跡」の看板の右半分に梶原山のハイキングコースの絵図と説明書きが描かれている。
図を参考に一回りハイキングコースを巡る。
<梶原山(夕日無山)>
標高279m、静岡・清水区境の山で、両市街はもちろん伊豆半島・南アルプスなどの眺望はすばらしい。
「梶原景時親子」がこの山頂で自害したことから、山の名もここからきている。
地元健全育成会と清水区鳥坂有志によりハイキングコースが整備され、あずまやの休憩所も作られている。
<びん(鬢)水>
山頂から50mほど下がった所にあり、梶原親子が自害する前に乱れた鬢(びん)を直し、のどの渇きをうるおしたといわれる湧き水あとをいう。
駿府城の石垣用に切り出されたと思われる石の一部も残っている。
<一本松公園(帆掛山)>
標高304m、むかし駿河湾を航海する船の目印とされた大きな松があった山で、清水港や、富士山の眺めは格別である。
清水区高部街づくりの会を中心に公園が整備され、大内の観音さまと共にハイキングコースとして親しまれている。
<瀬名古墳群>
5世紀〜7世紀代まで、瀬名地区一帯を治めた族長クラスの墳墓と見られ、すでに山の開発や農道建設で数基が発掘されたが、現在も尾根に3基がそのまま保存されている。
[光鏡院]
曹洞宗「清涼山 光鏡院」はまず仁王門が出迎えてくれる。
光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺で、長亨2年(1488)僧・恵雲が開山した曹洞宗の寺ある。
文明8年(1476)今川6代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分れて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名した。以来、一秀は瀬名一族の祖となった。
通称「瀬名館」といわれる字大屋敷は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮四代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。今日、遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかった。
瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山と考えられ、永録11年(1568)武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録にみられる。
光鏡院をはさんで、2代今川氏貞の菩提寺である「松寿院」や3代今川氏俊婦人の菩提寺である「竜泉院」の一帯は、瀬名一族発祥の地であるので、今川一族研究のうえからも、きわめて意義深い土地柄である。
昭和58年10月 静岡市
[光鏡院]
一段高い所に本堂がある。手入れが行き届いた境内だ。
[光鏡院]
本堂の裏には1000基は下らなそうな墓地が広がっている。中でも今川一秀の墓が目を引く。説明看板がある。
今川一秀は永享4年(1432)遠州堀越(袋井市)城主今川陸奥守貞延(今川了俊より4代め義恵弟)の子として生まれたが仏門に入り、近くの海蔵寺で成人した。
しかし父貞延が戦死したため還俗して城主に戻り、後、二俣城にも移り住んだが、駿府の今川義忠が塩買坂(今の小笠郡小笠町正林寺門前あたり)戦死するとその子の龍王丸(2歳)後の氏親−今川義忠の父−の後見役として瀬名に移った−何年かは不詳1480年ころか?−住居は大門町と西下町にまたがる「大屋敷」−リンク西奈あたり−と思われる。
長享2年(1487)僧慧雲に命じて光鏡院を建立開山した。文亀3年(1503)4月20日72才で没した。「瀬名殿」と呼ばれこの頃から「西奈(せな)」が「瀬名」になったと推察される。
3基の真中が当初の墓と思われ、向って左側の墓は宝暦2年4月、第11代(今川了俊よりの瀬名氏)の貞榮が一秀没後250年忌−平成9年9月−として建てたもので、当時22世岡田天介老師により平成4年9月台座が設置された。
文責 瀬名西下町 中川順一郎
建札製作 瀬名西下 串田正雄
板金工作 瀬名川町 大石角蔵
[光鏡院]
屋根付きの墓所もあり、看板が立っている。
中川本家初代(藤原鎌足末裔)
中川惣太夫之墓
法名 頓悟院不山宗智居士 延宝元年(1673)10月6日没。
[龍泉院]
光鏡院と並んで臨済宗妙心寺派の「大淵山 龍泉院」がある。
住職の奥さんに由緒が書かれたコピー。
<龍泉院開創由緒>
元亀2年秋9月今川了俊八世の孫今川伊予守氏俊の室今川氏親の2女
義元の妹なり
卒す法号を龍泉院殿光巌瑞圓大姉と去同3年氏俊一寺を創立し大淵山龍泉院と号し菩提所となし臨済寺4世鉄山和尚を請して開山始祖とす。
同年9月7日大姉の壱周忌に当たり今川陸奥守信輝寺領を寄付す宝暦10年7月祝融の災に遇い焼失す
同13年4月浙援和尚再建其後衰微せしを元治元年仁国和尚更に臨済寺貞山和尚の法を嗣て諸堂を修理す
境内3反2畝21歩
右誌す
準堤観世音菩薩木像 1体
右は夢窓国師の護持伝来の尊像なり二階堂羽州入道道蘊居士弐田入道信玄公柳澤吉保殿三公の念持佛也
[龍泉院]
本堂の裏の坂を登った所に今川義元の妹墓があって看板が立っている。
龍泉院殿光巌瑞圓大姉之墓
瀬名氏3代 今川伊予守氏俊の室 (今川義元の妹)
龍泉院殿光巌瑞圓大姉之墓
[瀬名古墳]
光鏡院の前の農道を登って梶原山へ向う途中に古墳があった。
今はどこが古墳かわからなかったけど、道路脇に看板が立っていました。
<瀬名古墳群>
5世紀〜7世紀代まで、西奈地区を治めた豪族の墓と考えられ、前方後円墳3基・円墳3基・方墳1基以上で構成されています。
<瀬名3号墳>
昭和60年の発掘調査の結果、一辺が約12m程の方墳で内部に横穴式石室が築かれ、副葬された須恵器、土師器、大刀、刀子、鉄鏃、金環、玉類が発見されました。
これらから、3号墳は6世紀後半に造られ、7世紀前半にかけて数回追葬が行われたことがわかりました。
ここにある石は、横穴式石室に使用された石の一部です。
静岡市教育委員会
[梶原山]
梶原山の頂上には「梶原平三景時終焉の地」「梶原景時親子供供養塔」と彫られた石碑と説明看板が建っている。
<梶原平三景時終焉の地>
鎌倉幕府を開いた源頼朝の家臣として勢力を振るった梶原景時も、頼朝が死ぬと北条氏や他の有力家臣と対立し、正治2年(1200)一族を率いて鎌倉を後にして西国へと向かったのです。しかし駿河地方には景時脱出の触れが回っており、一行が清見関(興津清見寺町)にさしかかった時、駿河武士団の吉香小次郎、渋河次郎、 船越三郎、飯田五郎、矢部小次郎と合戦になりました。戦いは高橋、飯田、高部地区にかけて激しく行われました。
景時の一族・家臣33人は次第に討ち取られ、中でも豪者といわれた梶原景茂(3男)はこれも駿河第一の豪者吉香小次郎と相打ちになり果てました。戦いの様子を見ていた景季(長男)は父にむかい「もはや、かない候まじき、敵の名もなき下郎の手にかからんより、速やかに御自害あるべし」と言うのでした。景時も今はこれまでと思い、景季、景高(2男)と親子3人で鳥坂に程近い牛ケ谷の山(梶原山)に入って行きました。
途中岩間から清水が湧きだしていたので、髪を洗い整えたと伝えられています。その場所は今「鬢水」と呼ばれています。
山頂の草の上に座を占めた景時は「もののふのかくこ(覚悟)もかかるときにこそ 心の知らぬ 名のみお(惜)しけれ」と辞世の句をのこし3人ともこの地で自害しました。時に景時61歳、景季39歳、景高36歳でした。
[梶原山]
梶原山から富士山と静岡市内が一望できる。まずは富士から望む。残念ながらこの日は頭を雲がおおっていた。
光鏡院前にあったハイキングコースの看板を改めて読む。
梶原山(夕日無山)
標高279m、静岡・清水区境の山で、両市街はもちろん伊豆半島・南アルプスなどの眺望はすばらしい。
「梶原景時親子」がこの山頂で自害したことから、山の名もここからきている。
地元健全育成会と清水区鳥坂有志によりハイキングコースが整備され、あずまやの休憩所も作られている。
[梶原山]
富士山から右回りに写真を撮ってみました。
清水港方面を望むと駿河湾の先に伊豆半島が見える。
[梶原山]
三保半島が清水港を形成する。
[梶原山]
梶原山の頂上は広場になっている。
有度山が駿河区と清水区を分断する。
日本尊命の草薙伝説から日本平と呼ばれている。
[梶原山]
安倍川の扇状地に市街地が広がる。ここから見ると平野の中心に谷津山が存在する。
谷津山の左に東静岡の高層ビルが、右に静岡駅周辺の高層ビルの塊が見える。
ずっと先に焼津市との境となる大崩や日本坂、高草山が見え、遠くに御前崎まで見渡せる。
この梶原山公園から5分ほど下った所に「びん(鬢)水」と言われる湧き水跡がある。
びん(鬢)水
山頂から50mほど下がった所にあり、梶原親子が自害する前に乱れた鬢(びん)を直し、のどの渇きをうるおしたといわれる湧き水あとをいう。
駿府城の石垣用に切り出されたと思われる石の一部も残っている。
[一本松公園]
梶原山公園から10分ほど歩くと一本松公園がある。
一本松公園の石碑と2代目の一本松の石碑が立てられている。
光鏡院前にあったハイキングコースの看板を改めて読みかえす。
一本松公園(帆掛山)
標高304m、むかし駿河湾を航海する船の目印とされた大きな松があった山で、清水港や、富士山の眺めは格別である。
清水区高部街づくりの会を中心に公園が整備され、大内の観音さまと共にハイキングコースとして親しまれている。
[一本松公園]
富士山の雲は晴れないので裾野しか見えないが梶原山よりよく見える。
清水方面の見晴らしも素晴らしい。
北街道(清水方面)を巡るにはこちらをクリック。
−コメント−
北街道は東海道が整備される以前には東西を繋ぐ幹線道路だった。
東海道が出来てからは主要道路では無くなったことから古い名所は少ないかったが。
随所にかつての繁栄をうかがわせてくれるところもあった。
この先は清水区へ入るので別の機会に巡る。
− 北街道(清水側) −
北街道は東海道が整備される前の古東海道とも言われている。
駿府城から瀬名を抜けて庵原(清水)へと向かい、旧東海道と横砂地区で合流する。
[瀬名]
駿府側の北街道のページは瀬名を到着地点としたので、瀬名を出発点として清水方面へ向かう。
この辺りからしばらく旧道の名残りは見つからないので現在の県道67号(北街道線)を瀬名川の交差点から進んでみます。
北街道(駿府側)へ向かうページへはこちらをクリック。
[鳥坂]
北街道はバイパスをくぐると葵区からさよならして清水区鳥坂に入る。
瀬名も標高が低いが鳥坂はさらに低く10mに満たない低地だ。
[鳥坂]
北街道はバイパスや東名高速と平行して清水方面へ進む。
[鳥坂]
このあたりは郊外型の商店が並んでいる地域。
[鳥坂]
「妙楽庵」と書かれた建物の脇を入ると「大福寺」がある。
とても幸せになる寺の名前だ。
[鳥坂]
路地の突当りの生け垣を越えると「大福寺」。
[鳥坂]
大福寺の立派な山門。
[鳥坂]
大福寺の本堂。
臨済宗妙心寺派「瑞應山 大福禅寺」
[鳥坂]
大福寺には鐘楼もある。
[鳥坂]
街道へ戻り300mほど進み「開運大日如来道」と彫られた石柱を入ると「妙立寺」がある。
[鳥坂]
妙立寺境内の傍らに江戸時代と思われる古い墓石が並んでいる。
[鳥坂]
境内には地蔵や菩薩の石像が見られる。
[鳥坂]
臨済宗妙心寺派「安昌山 妙立寺」。
[鳥坂]
本堂の脇を抜けるとお堂が建っている。
[鳥坂]
大日如来堂。
[鳥坂]
お堂には仏像が鎮座している。
[鳥坂]
妙立寺の裏に梶原山への登山道入口がある。
[鳥坂]
梶原山への登山道はここを登る。
[鳥坂]
妙立寺の裏に土壁の小屋があった。
なんだか懐かしく写真を撮ってみました。
[大内]
街道へ戻り500m進むと「梶原堂」を案内する石柱が立っている。
「鎌倉本体の武士 梶原景時を祀る梶原堂 大内牛未会」と彫られている。
[大内]
街道から100m入ると「梶原堂入口」と彫られた石柱の案内に誘われてみる。
[大内]
小さなお堂が建っている。
<梶原景時の遺跡>
もとは梶原山龍泉院というお寺で梶原平三景時公を本尊として、その一族をまつるために建てられました。
その時期は、景時公一族が鎌倉を脱出し上方に向かう途中、この地で戦い全滅した。正治2年2月20日(1200年)から160年経った延文5年12月28日(1360年)のことです。
この時、景時公の8代の孫、梶原景慶は、駿河に赴任してきました。景慶は、足利尊氏の弟、直義の援助を得て、矢崎山の山腹に龍泉院を建て、法名を龍泉院殿梶勝原公大居士とおくり名し景時公をまつりました。
それから622年経た文政5年(1822年)に龍泉院は火災にかかり全焼しました。
幸い景時公、長男景季公、2男景高公、源頼朝公、源頼家公の5位牌と如意輪観音像(金箔の厨子に安置してある)毘沙門天像等は無事でした。
時の住職は、梶原氏と縁故のある上杉家に寺院の再興を請願し、御堂1棟を贈られました。その後、梶原堂は何回かの復元により、原形を保ってきました。
昭和37年、矢崎山が根元から削り取られるにあたり山腹にあった御堂を現在の場所に境内を造成し移転しました。
鉄筋の御堂は、この時新しく建てられたもので中には、景時公、頼朝公の2位牌と如意輪観音像、毘沙門天像(鎌倉時代の作)しか収められていません。その横の形の崩れた3基の墓は、景時公・景季公・景高公の墓です。
昭和5年頃は墓も刻字もしっかりしていて、延文5年12月28日の刻字がある宝篋印塔でした。丸い石を中にした五輪の塔は、供養塔です。
明治4年の寺社検知で、龍泉院は廃寺となって以来、牛ケ谷区・矢崎区の信徒により梶原○○として、毎年旧暦2月28日に祭典をして来ましたが、昭和38年より新暦の3月3日に祭典を行なっています。
梶原出高(梶原山頂)には梶原親子の碑と鬢水といわれる遺跡があります。
景時公の辞世
もののふの覚悟はかかる時にこそ
人こそしらぬ名こそおしけれ
鎌倉幕府を創設した、頼朝公の重臣景時公は波瀾万丈の一生を其の一族と共にこの地につきぬ恨みを呑んで散りました。
昭和56年 高部まちづくり
[大内]
もう一つの小さなお堂。
[大内]
奥へ進むと桃林寺を案内する道標が立っている。
[大内]
奥へ進むと桃林寺がある。
[大内]
桃林寺の本堂。
曹洞宗「牛谷山 桃林寺」
[大内]
桃林寺。
[大内]
街道が大内に入ると商店も減り農地が目に付くようになる。
[大内]
また500m程進んで山の中腹に「霊山寺」が見えるので向ってみる。
[大内]
大内霊山寺御朱印所と書かれた看板がガードレールに止められている。
[大内]
お堂がある。
[大内]
「霊山寺御朱印所。21番札所」と書かれた看板が民家の前に掲げられている。
[大内]
「霊山寺」の案内石柱を頼りに進む。
[大内]
ここにも浅間神社がある。
[大内]
霊山寺周辺の案内看板が立っている。説明文も書かれていた。
高部・霊山寺
鷲峰山霊山寺は、遠く奈良時代に創建された古刹です。寺は大内山の中腹、標高150m程の山中にあります。麓の登山口から急な33曲りの道を登っていくと、道沿いに桜の木が続きます。ここは桜の名所です。登りきると、目の前に偉容を見せてくれるのが、創建が永正13年(1516)といわれる仁王門です。
<重要文化財の仁王門に感嘆!>
仁王門は、間口3間半、奥行2間の寄棟造りで、茅葺き屋根の雄大な風格を見せています。また柱は法隆寺に見られる上部がやや細くなったエンタシンス調の手法が用いられています。
創建は棟札に永正13年(1516)全福寿庵恵妙寄進とあります。当時この辺は今川氏親の支配下でしたので、その家臣朝比奈氏によって作られたことが分かります。門の両脇には江戸期の作である阿吽2体の仁王像が、寺の守護神として安置されています。
<仁王門から鐘楼、本堂へ>
霊山寺は昔から雨乞観音といわれ、、日照りの時の雨乞祈願に、ご利益があるということで、多くの信者がお参りしました。
仁王門を入り、さらに道を登っていくと右手に鐘楼が見え、その上方正面には、宝暦6年(1756)再建の本堂が姿を見せてくれます。単層入母屋造、回りに回廊があって、ここに上ると清水市街地の大パノラマが一望できます。この景色を見るだけでも疲れがなくなります。(本堂は市指定文化財)
[大内]
霊山寺の本堂は山の中腹にある。 ここから登ります。
案内板を読みます。
霊山寺
Iふるさとの路
霊山寺(登り約15分)
行基の開山で、仁王門は永正13年(1516)に建てられ国の重要文化財で仁王は江戸時代の作。
本堂の鰐口は県文化財。千手観音は行基の作で安置されている。
[大内]
丸子の小野寺と同じように「一丁目」から始まる石柱が登る苦労から参拝者を励ましてくれる。
[大内]
参道脇には観音様が見守ってくれている。
[大内]
菩薩様や仁王様のような石仏もある。
[大内]
やっと「二丁目」。何丁目まで続くのだろう?
[大内]
ところどころに和歌の短冊がぶら下げられている。
[大内]
岩盤を削り階段が作られている。
[大内]
石組みの階段もある。
ここは「三丁目」
[大内]
仁王の力石の説明看板がある。
<仁王の力石>
坂を登って疲れたとき、この足跡を踏むと不思議に足のつかれが直ったものです。力強い仁王様の足跡というのでこれを踏むと足がじょうぶになるといわれています。
仁王の力石は幾星霜の歳月の破損がひどく午未(昭和56年)生まれの大内同級生が還暦を記念してこれを再現した。 平成2年3月
[大内]
「四丁目」
[大内]
ここも岩盤がむき出しになっている。
[大内]
10分ほどがんばって登ると仁王門が見えてきた。
あともう少しだ。
[大内]
「重要文化財 霊山寺仁王門」と彫られた石碑が立っている。
「五丁目」の石柱も立っていた。
[大内]
右の仁王は阿吽の「阿」。
[大内]
左の仁王は阿吽の「吽」。
[大内]
霊山寺仁王門の説明看板を読む。
<国指定重要文化財>。
この仁王門は永正13年(1516)2月に建立されたもので、室町末期のものとして雄大な風格を示し柱は、法隆寺金堂の如く、中央に膨らみを持たせ上部がやや細くしている。
また中央通路上部の蛙股は、日本に3つしかないと言う特異な芸風を示している。
旧国指定 昭和6年1月19日
国重要文化財指定第872号 昭和25年8月29日
3間1戸寄棟造茅葺1棟
昭和25年5月改修
昭和46年茅屋根葺替え
なお、本寺所蔵の鰐口は、天正10年・1582・あり
静岡県有形文化財に指定
鷲峰山霊山寺檀家 平成20年4月
[大内]
句碑が立っている。
[大内]
霊山寺の本堂はもう少し先にある。
[大内]
本堂の手前に鐘楼がある。
[大内]
鐘楼に説明書きがあった。
鐘楼・梵鐘
この鐘楼は明治21年に再建されたもので梵鐘は元禄4年(1691)山麓の鐘鋳場で作られたが、太平洋戦争の際供出されて、現存の梵鐘は昭和54年3月檀家・篤志家により新鋳奉納されたものである。
[大内]
やっと霊山寺の本堂へ到着する。
[大内]
本堂には拝殿のようなスペースが明け広げられていた。説明看板を読む。
霊山寺本堂・天井龍図
鷲峰山霊山寺は、駿河7観音の1寺として往古より信仰されている霊場で天平勝宝元年(749)の開山と伝えられている。
本寺は、幾度か改築再建され現在の建物は、宝暦8年(1756)の再建で、上部の「虹梁」「梁桁」「束柱」等の彫刻に丹碧の彩色の跡も見られて室町様式の名残りをとどめて桃山〜徳川初期の形式がしのばれる。
また、本堂天井には、雄渾な筆致で墨絵の龍が描かれており、文政2年3月吉辰 山梨靖謹画の落款がある。これは柴田泰山、神戸麗山とならんで庵原三山の一人といわれた山梨鶴山39歳の作で、市内に残された鶴山唯一の天井絵としてその文化的価値は非常に高いものである。
昭和9年(1934)7月茅葺屋根を銅板葺に改め、「本尊開帳」宗祖弘法大師1100年遠忌を修した。
「本尊開帳は15年毎」
平成20年4月 鷲峰山・霊山寺檀家
[大内]
本堂の脇に一本松へ案内する看板がありました。
切り株に書かれたものですが半分に割れていました。
[大内]
神社のような雰囲気がある。
[大内]
天井には絵が画かれている。
所せましと札も貼られている。
[大内]
本堂の中を覗いてみます。
観音様?阿修羅様?
霊山寺は駿河7観音の一寺なので本尊は観音様と思う。
[大内]
本堂の中に小さな本堂が建っている。
[大内]
「駿豆両国 駿河一国 三十三所霊場順拝」昭和16年の木札が掛けられていた。
[大内]
本堂の裏に「霊山寺 本坊」があった。
[大内]
本坊は普段閉じられているようだ。
[大内]
「大内観音山里山マップ」という味のある絵地図が貼ってありました。
[大内]
北街道沿いには建物が減ってくる。
[霊山寺]
振り返って山側へ目を向けると山の中腹に建物が見える。大内観音で有名な霊山寺だ。
鳥坂から続く街道の山の麓には寺が多く建っている。
西から「大福寺」「妙立寺」「桃林寺」「霊山寺」「保蟹寺」「牛欄寺」
さらに山から離れたところに「乾徳禅寺」「江月寺」「圓通禅寺」がある。
[大内]
現在の北街道は鎌倉時代にあった往古の東海道だったころの街道と同じ場所だったわけではないようだ。
500年の歳月の間、巴川の氾濫も何度かあっただろう。
今の北街道は自動車社会になった近代に整備された幹線道路。
[大内]
塩田川の橋を越える前に川を下ったあたりが旧街道だったそうなので行ってみる。
まずは川に沿って、東名のガード下をくぐる。
[大内]
東名のガード下をくぐり400mでラブホテルへ突き当たる。そのあたりに街道が通っていた時期があった。
塩田川と巴川の合流点ということもあって周辺は沼地となっていて旧道の位置はわからないし、先へ進む道もない。
塩田川を越えた先からは旧道と言われている道が存在しているらしいので後ほど行ってみる。
[東名ガード]
北街道に戻り塩田川を渡り、街道は東名のガード下をくぐり南側を進む。
[押切]
この先の路地を左折して400mほど行くと「圓通禅寺」「江月寺」「乾徳禅寺」が並んでいる。
ちょっと行ってみます。
[押切]
臨済宗「多福山 圓通禅寺」
[押切]
臨済宗妙心寺派「常照山 江月寺」
[押切]
臨済宗妙心寺派「長福山 乾徳禅寺」
[大内新田]
北街道まで戻り、そのまま信号を渡り300m程南に向いバイパスの手前に旧北街道が東西に通っている。
旧北街道は西へ300mで突き当たりそこから西を望む。
今は沼地になっていて街道の痕跡はない。
[押切]
旧北街道を東へ向かう。
[押切]
古い立派な家があって、ここが旧道だったことが窺われる。
[押切]
旧道は車がすれ違えない道だ。
[押切]
旧北街道は今の北街道に合流する。
[押切]
合流点に旧北街道を案内する看板が立っている。
<ふるさとの路 ここより旧北街道>
この細い道は新田の部落を通り、塩田川を渡り花立、矢崎より鳥坂の深田をさけて瀬名川へと続き、京都に至る鎌倉時代には重要な官道でした。
明治35年〜41年に改良工事が行なわれ、今のような北街道となった。
高部まちづくりの会
[天王]
ここからまた北街道を東へ向かう。すぐに水路を渡る。
この水路から先は天王西という町名になる。
[天王町]
街道は静清バイパスで分断されている。
[天王町]
天王町ICとも複雑に絡んで変則3路線の交差点になっている。
清水駅へ向かう道が今では北街道となっているが以前は東へ向かう道が北街道だった。
今回は昔をしのぶことが目的なので当然東へ向かう旧道を進む。ここからは「旧北街道」と呼ぶことにする。
[天王南]
バイパスの下を変則に越えて「旧北街道」を進む。
[高橋]
山原川を越えると町名は「高橋」となる。
[高橋]
山原川を越えて300mほど進んだ南側に建徳寺がある。
[高橋]
日蓮宗の「高橋山 建徳寺」
[高橋]
建徳寺は広々として落ち着いた寺だ。
[高橋]
[高橋]
建徳寺を過ぎ、信号を越えてすぐの北側に臨済宗妙心寺派の「廣徳山 高源寺」がある。
[高橋]
山門の脇に看板があるので読んでみます。
浩宮徳仁親王殿下お成り記念
昭和56年9月12日
<梶原景時一族の碑>
鎌倉幕府創業の功臣 梶原景時は将軍頼朝の没した翌、正治2年(紀元1200年)2代将軍頼家のため鎌倉を追われた
一族33人は再起を期して西国の所領に赴く途次迎え撃った
この地の豪族たちと戦って敗れ全滅した
碑には、晩唐の詩人杜牧(とぼく)の
不盡乾坤燈外燈龍没(ふじんけんこんとうがいのとうりゅうぼっす)
の一句が刻まれていて梶原一族に寄せる萬斛の思いをうかがうことができる。
[高橋]
山門から高源寺を望む。
[高橋]
高源寺の本堂は久能寺の本堂を移築したものらしい。
本堂脇の看板を読む。
<「静岡市有形指定文化財」高源寺本堂>
高源寺は13世紀、開山に今川氏出身の仏満禅師を請じて鎌倉時代に創建されました。
開基は従5位下左衛門尉高橋孫太郎維之といい、承久の乱の京都攻めに軍功を立て、鎌倉幕府からこの地に領地を賜ったといわれています。
現在の高源寺本堂は、明治5年(1872年)に当地に移築されたもので、今の鉄舟禅寺の前身とされる真言宗久能寺の院主坊の建物とされ、江戸後期頃のものと推測されます。
旧久能寺の宝物類は国宝や重要文化財として現在は鉄舟禅寺にありますが、建築物で現存するものは高源寺の本堂だけであると思われます。
なお本堂の欄間の彫刻は寛永年間(1630年代)、飛天(天女)の彫刻は元禄16年(1693年)のものです。欄間の彫刻は元禄6年(1693年)に修復され、彩色し直してあり、上下間の天井欄間は、享保6年(1720年)に修復されていますので、他の建物から移築されたものでしょう。
このように、久能寺の歴史や江戸時代の貴重な建物として、平成14年10月、旧清水市より有形文化財に指定されました。
廣徳山 高源寺
[高橋]
馬に乗った武者姿のレリーフと供養碑が立っている。
説明看板を読む。
<梶原景時一族の供養碑>
梶原景時一族の供養碑
碑の表面文字は
「不盡乾坤燈外燈龍没」とあり、向って左の側面には「三拾三人是也」としるされています。
これは鎌倉幕府を開いた源頼朝の功臣梶原平三郎景時一族の供養碑で、碑の文言は晩唐の詩人杜牧の詩の一節とといわれ、禅家において「宗門第一の書」と尊重されている「碧巌録」の標題に掲げられているものです。
景時は相州鎌倉の人、石橋山の合戦で頼朝の危難を救いましたが、この縁によって重用され、鎌倉幕府の創業にも大きな役割を果たした名将です。
しかし頼朝の没後、将軍頼家の忌憚にふれて、西国の所領におもむく途次、この高橋や、大内、鳥坂付近などで駿河在地の豪族たち飯田五郎、吉香小二郎、蘆原小二郎等と争って利あらず子の景季、景高、景茂ら一族33人と共に壮絶な最期を遂げました。
時に正治2年正月20日(西暦1200年)のことです。
禅の詩偈を用いさらにその末尾に「龍没」とありますように、この碑には「鎌倉本体の武士」といわれた誉れ高い武門の一族に寄せる限りない追慕の憶いがこめられていると思います。
碑の左右に添えてありますのは
再起を期して、遥かに京を目指したといわれる一族の勇姿を偲んだ彫刻家、下山昇先生の力作であるレリーフと梶原の忠僕が、一族の没後この地を尋ねましたが、主人たちの死を知って悲しみの余り病んで没した跡に、里人が建てたと伝えられる「ウナリ地蔵」を再建したものです。
[高橋]
本堂の祭壇。
[高橋]
本堂脇に観音様が祀られている。
看板を読みます。
<行岩観音さま>
この観音さまは、明治初年のころの高源寺住職だった行岩和尚(森部行岩)のお徳をたたえ、その董育を受けた筆子たちによって建てられました。
行岩和尚は「慈眼視衆生」のお観音さまになって、この郷土に住む私たちの幸せを願いつづけていますが、とくにこどもたちの健やかな成長と学業の成就についてもお祈りして下さっています。
行岩和尚は高源寺に寺小屋を開き、さらに飯田小学校の前身である観水舎においてにおいて子弟の教育にあたりました。
明治34年4月21日遷化 享年74才
[高橋]
顕彰碑があり、説明板を読みます。
<山梨豊太郎顕彰碑>
山梨豊太郎は、文久2年(1862)旧庵原郡高橋村の名主山梨長十の長男として生まれました。
豊太郎の生きた時代は、日本が幕末・維新を経て、国会を開設するに至るまでの、政治経済の大激動期にあたっていました。
周囲から、将来の指導者として期待をされていた豊太郎は、僅か20歳で自由民権運動の先頭に立ち「国会の順序」と題する名演説をして人々に感銘を与えました。
この間、巴川の水を直径10.8mの大水車で揚水して、田畑を潤し、多くの村民から感謝されました。明治21年新たに市町村制がしかれる事になり、飯田郷の高橋村・下野村・石川村・蜂ケ谷村・山原村・西久保新田村は3分裂する危機を迎えました。
この際にも28歳の若さで村民の代表となって、官への反対運動の先頭に立ち、「飯田村」を誕生させる原動力となりました。残念なことに明治21年11月、既に病が重かった豊太郎は、目の前に迫った国会開設も飯田村の発足も見ることなく、28歳の若さでこの世を去りました。
村民達は、あまりにも若くして亡くなった、郷土の恩人の豊太郎の死を惜しみ、その業績をたたえ、後の世に伝えようと考えてこの碑を建てました。
[八坂西町]
「旧北街道」を進むとすぐに新幹線のガードをくぐる。
このあたりから八坂へと入る。
[八坂南町]
新幹線ガードを越えると八坂南町。
すぐに県道54号と交差するの信号がある。
この県道はバイパスが出来るまでは国道1号線だった。
[秋吉町]
県道54号を越えるとこの先は「旧北街道」と言えるのかどうかわからないが東海道が整備される以前の往古の東海道ということで今までどおり「旧北街道」と称します。
このあたりから秋吉町へ入る。
[秋吉町]
県道54号から400mで秋葉山があり、は「旧北街道」と言うのかどうかわからないがは秋葉山へ向かう。
[秋吉町]
東海道が江尻方面に整備される以前はこの周辺から中心的に栄えていたという話もあるが面影は見つからない。
正面にみえる森は矢倉神社の社叢だ。
[西久保]
秋葉山は真言宗醍醐派の秋葉寺(しゅうようじ)を周辺の3寺が輪番で運営している。
一番西に位置するのが「秋葉山本坊 峰本院」
寺の説明書きを読んでみます。
記
秋葉山は元亀2年(1571年)日光法印天野景直の開山により秋葉3尺坊大権現が祀られ、本坊峰本院瑠璃光殿は、先祖天野遼景の戦痕を癒したる薬師如来を本尊とし、12支の守り本尊を祀ることによって左の祈願・祈祷をしております。
命名・お宮参り・七五三祝・子供虫封・厄除祈祷・開運祈祷・地鎮祭・方災消除・家相方位・縁談相性・交通安全・安産祈祷・病気平癒・各種祈願
[西久保]
峰本院と福昌院の間の道が秋葉寺へ向かう参道となる。
[西久保]
秋葉寺の境内。堂か何かが建っていた土台が残っている。
三重塔あたりだったのかも知れない。
由緒書きがあったので読んでみます。
<駿州秋葉山 秋葉寺由来>
【創建】
当山は元亀2年(1571)12月16日天野小四郎景直により開山され火防の守護神として近郷に名高く、古くは宮家、大名家の祈願所として尊宗を得ていた由緒ある寺院であります。
【沿革】
戦国時代武田信玄支配の江尻城、等の軍備施設などに相呼応して清水港を一望し江尻に隣接し又東海道に沿える真土山(まつちやま)に遠州より秋葉三尺坊大権現を遷座し、平素は宗教的行事の職務をとり有事の際は、武田軍と軍事助力せしめるために企画された要塞としての開山であります。
天正4年武門として再起する希望を棄てた景直は出家を遂げ、名を日光と改め第一世の住職となる。明治の神仏分離令により現在は真言宗醍醐派(京都伏見醍醐寺三宝院)末寺にて真言密教並びに修験道の法流を受け継いでおります。
【秋葉三尺坊大権現】
秋葉三尺坊大権現はその縁起によれば、貞実賢固の婦夫が観音に祈誓し一子をもうけ、その子6歳にて出家し十五歳にて阿闍梨(あじゃり)となり、1頭の白狐に乗り飛行自在の神通力をもって悪事災難を救い特に火防の守護神として名高く全国で信仰されてます。
[西久保]
階段を登った所に秋葉寺の本堂が建っている。
階段の脇に看板があったので読んでみます。
<秋葉寺の釜>
この釜は安政年間(1854年)武蔵国川口在(埼玉県東南部現川口市)の住人鋳物師甚兵衛最後の作品で秩父大社に奉納されるべく作られしもその願いはたされず故あって沼津市某工場で湯沸釜として使用されているのを知って秋葉山信徒総代山梨信夫氏がこの釜を誰れにも知られず朽ち果てるのを嘆き同社より譲り受け当山に献納安置したものである。
昭和51年3月 秋葉寺
[西久保]
秋葉3寺の一つ「秋葉山 福昌院」
「開山 元亀2年(1571年) 駿州秋葉山 秋葉寺 大祭毎年12月15日16日」の大きな看板が立っている。
[西久保]
福昌院の横には商店のような店が建っている。
[西久保]
秋葉3寺の一つ「秋葉山 榮松院」
[西久保]
「榮松院」の前の路を北へ向い新幹線のカードをくぐり間もなく「鹿島神社」がある。
[西久保]
「鹿島神社」の境内わきに神木がある。
[西久保]
「鹿島神社」の本殿。
[西久保]
「鹿島神社」の本殿わきにも神木がある。
[西久保]
「鹿島神社」前の道を北へ100m行った三和酒造わきの路地を入ったところに階段があり、「正一位稲荷」と登り口に書かれている。
[西久保]
階段を登ると頂上に「正一位稲荷」がある。
この丘陵地帯は秋葉山古墳が多く見つかっている。ここも古墳だったらしい。
「正一位稲荷」の西側に古墳広場があるがフェンスで直接行くことができない。
一度通りまで戻る。
[西久保]
階段を下りて、すぐ北側に駐車場があって登り口がある。
古墳広場へ向うことが出来る。
[西久保]
ちょっと登った所に踊り場があり説明板があるので読んでみます。
<秋葉山古窯跡調査区配置図>
秋葉山東側斜面からは5基の窯跡(登り窯)が発見されています。
また西側の斜面の北よりでも1基(堤下1号窯)が確認されています。
窯跡は15mから9m前後の規模で、6世紀後半から7世紀後半にかけての約100年間に渡って須恵器(土器)の坏、甕、高坏などを焼いていました。
清水地区の古墳から出土する須恵器は、この秋葉山古窯跡での製品が供給されたものが多いとされています。
[八坂東]
階段を登ると見晴しの良い場所に出る。
清水市街が見渡せる。
[八坂東]
尾根伝いに南へ行くと古墳広場へつながる。
[八坂東]
秋葉山2号墳があって、1号墳が先に見える。
[八坂東]
階段を下りて秋葉山2号墳を見上げる。
[八坂東]
秋葉山1号墳へ行ってみる。
円墳の階段を登る。
[八坂東]
秋葉山1号墳の頂上に説明書きがある。
<秋葉山1号墳>
平成3年度の発掘調査の結果、頂上付近から古墳時代初頭(1700年前)の銅鏃が1点出土し、周囲には同時代の土器を含む溝が確認されました。銅鏃は遺骸とともにおさめられたものと思われ、溝は古墳の周溝と考えられます。
このことから頂上部には古墳時代初頭の墓(古墳)が築かれていたと推定されます。
また、太平洋戦争中丘陵頂上付近に大砲の陣地が構築され、中腹にくりぬかれた穴からは、海を睨む砲身がみえました。
[八坂東]
「三和酒造」まで戻り北へ進むと300mで曹洞宗「瑞祥山 龍雲院」がある。
[西久保]
「旧北街道」の秋葉寺前まで戻り、東へ進む。
[矢倉町]
「旧北街道」を進むと間もなく変則交差点の信号がある。「矢倉の辻」と呼ばれている。
左から庵原方面へ向かう道。
右は「大手」「小柴」「江尻」へと向かう。
正面の右の道は「辻」方面へ向かう。
そして正面左の一方通行が「往古の東海道」
[矢倉町]
矢倉町の中心に矢倉神社がある。
[矢倉町]
神社の入口に「猿田彦大神」の石碑があって説明書きが立っている。
<猿田彦命と天宇受売命>
天照大御神の詔により、ニニギ尊が高天原から日向の高千穂峯に天降られる神話「天孫降臨」の際に、天と地を結ぶ分れ道の辻で御一行を出迎え先導を申し出る異貌の国神が猿田彦命です。
応対した天宇受売命は、これにちなんで猿女の君と名乗ることになり宮廷の神事で、演舞を勤める民族の始祖となりました。
又、猿田彦命は旅行安全、交通安全の神として尊崇されています。
なお猿田彦命と天宇受売命の両神は矢倉神社境内社の八雲神社に御祭神として祀られています。
[矢倉町]
石鳥居が入口に構えている。
説明がある。
<石鳥居の由来>
奉納 慶応4年辰年正月吉日(1868)
伊徳丸 治郎七
世話人 綿屋伊兵衛
江戸時代末、伊徳丸に乗り込んでいた治郎七は、突然の嵐に遭難しました。治郎七は海上から見慣れた矢倉神社の森を遠望し、大神の御加護を祈りながら懸命に船を操り一命を得ました。
事後、矢倉の大明神の御威徳に報わんと石鳥居を奉納しました。
[矢倉町]
矢倉神社の本殿
[矢倉町]
矢倉神社の社務所
[矢倉町]
「表忠碑」説明を読む。
<表忠碑>
日清(明27、8年)、日露(明37、8)戦後第1次世界大戦(大3〜7年)の戦後に郷土からも多くの青年が出征しました。
表忠碑は大正9年戦後兵士の御魂慰霊のため竣工されました。
表忠塔側面には、以後太平洋戦争(〜昭20年)までの戦没兵士氏名が刻まれています。
なお、石碑正面には設立の由来が刻まれていましたが、戦後GHQの弾圧を懸念して削り落されました。
[矢倉町]
矢倉神社の境内にある「新開稲荷社」の説明書きを読む。
<新開稲荷社由来>
かつて矢倉神社東方に榎島と呼ばれた小丘があり、いつの頃か稲荷社が祀られて稲荷山と称されました。
弘化年間(1845年頃)に辻村の人々が海岸近くに新開稲荷社を勧請建立しました。
稲荷山の社は、明治6年に当社境内に奉遷されて祀られていましたところ明治22年東海道本線開設に伴い、新開稲荷社も当社境内に奉遷されることとなり合社されました。
なお、新開稲荷社殿は、矢倉神社々殿改築に伴い矢倉神社本殿を移築しました。
[矢倉町]
矢倉神社の境内に八雲神社がある。
<八雲社御祭神>
須佐之男神(すさのお)厄除
櫛稲田比売神(くしいなだ)夫婦円満
猿田彦神(さるたひこ)旅行安全
天宇受売神(あめのうぶめ)芸能開運
弟橘比売神(おとたちばなひめ)日本武尊の妃
吉備武彦命(きびのたけひこ)日本武尊東征軍の将(庵原の君)
大伴武日連命(おおとものたけひむらじ)日本武尊東征軍の将
[矢倉町]
「本殿」由緒を読む。
<矢倉神社>
清水市矢倉町鎮座
祭神 景行天皇・日本武尊・神武天皇・蛭児神・事代主命 外8柱
例祭 10月17日、神門 五三桐、神事 神輿渡御、氏子 2000戸、崇敬者 400人
由緒沿革
当神社の創建は仲哀天皇の御代、庵原国造意加部彦が日本武尊、景行天皇を始めてお祀り申し上げました。
景行天皇第2皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたのでえ御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給いひ此の地での兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝えられています。
里人その遺徳を慕ってお祀り申し上げました。
村上天皇の天暦2年に藤原許[卿は神武天皇を合祀し奉りました。降って天正18年、豊臣秀吉小田原出兵の砌、太刀、玉石を献じたとも伝えられています。
駿河国諸郡神名帳に従5位上矢倉地祇とあり古社であります。昭和9年神武天皇御東遷2600年祭に当って宮崎県知事より幣帛料の奉納があり、同じく昭和15年紀元2600年祭に当って静岡県知事の幣帛供進使参向がありました。
尚、当社相殿の事代主神は古くより信徒の区域が広く境内社稲荷神社は開運の神として特殊の多くの信仰者があります。
資料 昭和13年 徳富蘇峰氏が神額を奉納 矢倉神社社務所
[矢倉町]
日本武尊の像が立っている。この神社は「日本武尊」と「景行天皇」を祀っているのだ。
[矢倉町]
境内には大木が多く生い茂っているが、このクスノキが異様な雰囲気を持ち際だっている。
[矢倉町]
矢倉の辻まで戻り、一方通行の道を東へ進む。
[矢倉町]
一方通行はすぐ終り対面通行になる。辻からこの道へ進ませないがための一方通行のようだ。
[西久保]
交通量の少ない道を進む。
[西久保]
八幡大神社
老人憩いの家になっている。
「袖師ふるさとの路」「41」「八幡大神社(八幡様)」という札がかかっている。
「41」とあることからいろいろなところにかかっているのだろう。
[西久保]
神社の裏には似つかわしくない洋風な建物が併設されている。
[西久保]
何の建物なのか、不思議な建物。
[袖師町]
この先から袖師に入る。
[袖師]
信号を北へ入ると100mで「真如寺」がある。
[袖師町]
真如寺は保育園が併設されている。
[袖師町]
真如寺には「金比羅宮」が併設されている。
「袖師自治会三区自治会館」の看板もかかっていた。
[袖師町]
地蔵様が祀られている。
[袖師町]
曹洞宗「嶺水山 真如寺」
[袖師町]
信号まで戻り、そのまま通り過ぎて50mほどで袖師小学校がある。
正門の脇に松が「嶺陣屋の松」がある。
武田信玄が駿河進攻の時に本陣が置かれた「嶺陣屋」が神明山付近にあったがその松を移植したとのこと。
[袖師町]
「嶺陣屋の松」の根基に「袖師ふるさとの路」の看板が「2」とかかれている。
[袖師町]
「旧北街道」の信号まで戻り東へ進むと50mで東名静岡インターと港を結ぶ取り付け道路と交差する。
街道は取り付け道路を横切り先へ進む。
街道を東へ進む前に神明山古墳へ寄ってみたいと思う。
[袖師町]
東名方面へ500mほど行った所に神明山古墳がある。自然丘陵を利用した古墳で神明神社が祀られている。
鳥居の脇に説明書き石碑があったので読む。
<神明宮と古墳の由来>
神明山古墳は庵原の三池古墳に匹敵する典型的な前方後円墳で紀元5世紀末の豪族の古墳である。
此の古墳は「いほはら乃国」の主権者の死に当り神明山に壮大な墓を造って葬り円立の表面を丸石で敷きつめた非常に立派なものであったと思はれる。
その後次々と支配者が葬られ、神明東築山古墳、神明神社本殿前古墳、神明神社西古墳となった。
歳月は流れてこの祖先の眠る神聖な場所へ祖先を崇拝するため神明神社が祀られて一族の氏神となったと考えられる。
これは私達の祖先が上嶺一帯の地に住居を営んだことを証すもので浅間山とともにこれら丘陵地帯は袖師文化発祥の地とも言える。
[袖師町]
神明神社が古墳を守るように祀られている。
[袖師町]
神明神社の本殿。
[袖師町]
奉納相撲でもとり行われるのか土俵が本殿脇に造られていた。
[袖師町]
神明神社の裏へ回ると古墳の雰囲気が残る。
[袖師町]
神明山古墳の高い所から見下ろしてみる。
[袖師町]
神明山古墳の石室が保存されている。
[袖師町]
神明山1号墳の注意書きが桜の木に止められている。
古墳の形に沿って赤い色のついた石を並べてあります。勝手に石を動かさないでください。
[袖師町]
古墳の形に沿って赤い色のついた石が並んでいる。
[袖師町]
神明神社から東へ200mほどの交差点を北に入ってすぐの東へ向う路地を入った民家の駐車場の奥に上嶺の陣屋の井戸が遺されている。
この辺りは嶺村と呼ばれていて江戸時代には陣屋があった所。この井戸以外の遺構はほとんど遺っていないようだ。
「袖師ふるさとの路」「26」「陣屋跡」「陣屋井戸」と書かれた看板が掛けられていた。
[袖師町]
陣屋井戸は民家の敷地の中に柵で囲まれて存在する。
事故の無いように頑丈に造られている。
[袖師町]
陣屋井戸の裏側の道路脇に祠があってがお地蔵さんが祀られている。
「袖師ふるさとの路」「27」「子授け地蔵」と書かれた看板が掛けられていた。
[袖師町]
陣屋井戸の100m南の民家の塀にも看板が掛かっている。
「袖師ふるさとの路」「28」「権現井戸跡」と書かれている。
家康ゆかりの鉱泉として最近まで湯屋が営業されていたが今は民家となっている。
[袖師町]
「旧北街道」へ戻り、工業団地の中を進む。
[袖師町]
小さな水路が道路の下を通っているがこれが愛染川ということらしい。
この水路を下っていくと愛染町がある。
かつてはこの川で染物をおこなっていたのだろうか?
[袖師町]
パチンコ屋を右に見ながら進む
[袖師町]
この先から横砂へ入る。
[横砂西町]
旧袖師村と旧横砂村の境に蜆川が流れている。
かつては蜆が多く取れたのだろう。
[横砂西町]
蜆川は街道より北側が暗渠になっていてどこからながれてくるのかわからない。
街道から流れているかのようだ。
[横砂西町]
蜆川はこの先150mで旧東海道をくぐり、400mほどで海へそそぐ。
[横砂西町]
横砂に入ると間もなく路がカーブする。
[横砂西町]
カーブを曲るとすぐに旧東海道が見える。
[横砂西町]
旧東海道へ出た所から「旧北街道」入口を振り返る。
交通量の多い道が旧東海道。2km余りで江尻宿へ向う道だ。
[庵原]
旧東海道は庵原川を渡り江戸方面へと向かう。
東海道を興津方面へ向かうページへはこちらをクリック。
−コメント−
東海道を語るにはこの北街道を外せない。
鎌倉時代の繁栄を思いながら巡ってみました。
− 安倍川西岸周辺 −
駿府の中心地は度重なる大火によって文化財と呼べるものはほとんど焼失してしまっている。
安倍川の西岸は空襲の影響も少なく要所に旧跡が残っている。
狩野橋から始まって旧東海道あたりまで巡る。
街道歩きとは違って見どころが点在しているので30km近い距離となる。
[狩野橋]
先ずは安倍川の西岸を北から順に巡ってみることにする。
浅間神社を右に見ながら安倍街道を上り、籠上から美和街道へと向かうと静岡駅から5km足らずで狩野橋を渡る。
写真は東岸から見た狩野橋。橋の向こうの上に見える山が城山と呼ばれ、かつて安倍城があった。
橋を渡り、旧美和村へ入った所が「安倍口新田」「西ケ谷」という町名となる。
安倍口の先に遠藤新田、足久保へと続き、さらに江戸時代には峠を越えて栃沢、大川村へと続く主要道だった。
13世紀に栃沢に生れた聖一国師が中国から持ち帰った茶の実を足久保で栽培したのが、静岡茶の起源とされている。
<美和村>
昭和30年に静岡市へ合併するまで美和村と呼ばれていた。
美和村は平安時代から南朝方の領地で、南北朝時代には南朝方の狩野氏の拠点となり北朝勢力と争った当時の美和郷に由来する。
[西ケ谷総合運動場]
狩野橋を渡るとすぐに市立の総合運動場がある。
屋内プール、陸上競技場、テニスコート、グランドゴルフなど様々なスポーツが楽しめる。
[西ケ谷球場]
西ケ谷総合運動場と並んで西ヶ谷球場があり、その向こうに清掃工場が見える。
[内牧・結成寺]
西ケ谷球場を過ぎて第2東名の下をくぐる。このあたりは「内牧」という町名になる。
第2東名の下をくぐってすぐの左へ曲る路地を入った所に臨済宗妙心寺派の「亀谷山 結成寺」がある。
<内牧>
鎌倉時代に軍用馬の牧場があったことに由来するといわれる。
南北朝の時代にここを拠点としていた狩野氏の館がこの近くの丘にあった。
[内牧・結成寺]
門前に石碑があり、年代物の杉の木が生えている。
[内牧・結成寺]
山門には仁王(金剛力士)が立っている。開口している方が阿吽の阿形(あぎょう)口を結んだ方が吽形(うんぎょう)。
[内牧・結成寺]
林の中に静かに寺がたたずんでいる。
境内には戦前戦後に歌壇で活躍し、芸術院会員だった「川田 順」の歌碑が建っている。
「首山堡」は日露戦争の主戦場だった所なので、その戦争を偲んだ歌なのだろう。
<歌碑>
狩野介の菩提寺の山 蟲鳴きて 首山堡は死に志 兵の坐あ里 川田 順
[内牧・結成寺]
鐘楼もあり伝統のある寺だということがうかがえる。
[内牧・結成寺]
ここ結成寺は鎌倉時代の初めに藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族で鎌倉幕府御家人工藤祐経の開基とされる。
南北朝時代に活躍した狩野氏の菩提寺であった。
[内牧・内牧城]
結成寺の前から南を見ると第2東名が聳えていてその橋げたを支えるような小山があるが、ここに城が建っていた時期があった。
[内牧・内牧城]
小山を登ってみると茶畑の中に石碑が立てられている。
謂れが彫られているので読みます。
内牧城の由来
内牧城は南北朝時代(1336〜1392)の安倍城であると考えられていたが調査の結果安倍城主狩野貞長の居館であることが判明した。
またこの内牧城には後醍醐天皇の皇子である宇良親王も滞在した由緒ある城址として末永く保存したい
平成4壬申年8月吉日
[安倍城跡]
安倍城は結成寺、増善寺、建穂寺、洞慶院に囲まれた山頂にあった。
城山とも呼ばれるこの山は435mの高さがあるので思いつきでは登れない。別の機会に登ってみました。
城跡へ登るにはルートが幾つかあるが、西ヶ谷の運動場と清掃工場の間から入るのがわかりやすい。
安倍城跡へのページはこちらをクリック。
[慈悲尾・増善寺]
まずは広い駐車場がある。
脇に寺の謂れが書かれた看板が立てられている。
増善寺(慈悲山増善寺)
増善寺は、白鳳21年(681)に法相宗の始祖道照法師が開いた真言宗の寺で、「慈悲寺」と呼ばれていた。明応9年(1500)曹洞宗に関心の深かった駿河の国守、今川氏親(今川7代目)は辰応性寅禅師(しんおうしょうえんぜんじ)に帰依し、性寅(しょうえん)を開山として七堂伽濫を整えて、再興し、曹洞宗に改め、今川家官寺増善寺となった
大永6年(1526)6月、今川家中興の祖と呼ばれた今川氏親が亡くなると、この寺で盛大な葬儀が営まれた。寺には、苔むした氏親公の墓とともに460年前に造られた等身大の木像が安置されている。
寺宝として、今川家古文書をはじめ、徳川家康寄進の天目茶碗・扇・硯などがあるが、これらは静岡市文化財資料館(浅間神社境内)に展示されている。
寺の裏山に南北朝期の安倍城跡がある。一大城塞網の拠点としての安倍城主狩野貞長との戦乱において多大な年月と戦乱の末、間もなく、今川氏は根拠地を駿府に移し、守護大名として、東海に君臨するようになった。
その後、度重なる内紛が起こり、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって、安倍城をひかえた自然の要塞の地「慈悲尾」に今川家の菩提寺として自らの安息の地を求めたのはけっして偶然のことではない。
昭和58年10月 静岡市
[慈悲尾・増善寺]
境内にはいくつかの説明看板がある。
この写真は山門。
徳川家康公と増善寺
増善寺は、天武帝白鳳21年(682)法相宗祖道昭法師の草創で保檀院と称した、後文明12年(1480)辰応性寅禅師保檀院のすたるを起こし、時の駿・遠・三の大守今川氏親公の帰依により大伽藍を建立す。
「日本屍上聯燈録第10」によれば、等膳和尚が当山に掛易し、大衆の教化にあたっていた。その頃今川家の人質(天文18年〜永禄3年)となっていた家康(竹千代)は、当山にしばしば鷹狩のため遊びに来た。
これを見つけた等膳和尚はこの地は殺生禁断の聖地であることを少年(竹千代)に悟した。少年は三州の将種であり、父、広忠の墓参りをしたい旨相談された。師は人質の身である竹千代を葛駕篭にいれ、背負い清水港より篠島に送った。それより岡崎城に入り、目的を達し駿府に帰る。後家康が出世し、浜松城(天正11年)に入ると師を可睡斎藤に住せしめ、駿・遠・三、豆の国の大僧録司に任命し、旧恩にむくいるため、朝廷に申し出て、等膳和尚に「鳳山仙麟禅師」の号を下賜した。時に等膳天正18年(1590)5月21日示寂が開いた真言宗の寺で、「慈悲寺」と呼ばれていた。
明応9年(1500)曹洞宗に関心の深かった駿河の国守、今川氏親(今川7代目)は辰応性寅禅
[慈悲尾・増善寺]
観音堂が本堂脇に建てられている。
[慈悲尾・増善寺]
石碑も多く建てられている。
[慈悲尾・増善寺]
高僧道昭法師の遺跡と彫られた石碑がある。
[慈悲尾・増善寺]
寿桂尼の歌や今川を讃える歌碑が建てられている。
碑文
戦国の華と栄えていくくに
誉れ妙なり
寿桂尼 大方
碑文
釈教の心を 今川氏親
いかかえむ四十あまりの年のをに
とかぬ所の法のまことを
志貴昌澄 書
歌の意味
私は年も四十歳を過ぎたが仏の教えがいまだ会得できないでいる
どのようにしたら会得できるであろうかまだまだ努力しなければならない
氏親公が自己反省の気持ちを和歌にたくしたもの。
八代将軍徳川吉宗の頃の駿府の国学者である志貴昌澄翁が書いた珠流河久佐からとったものである
昭和50年4月13日 今川氏顕彰会
[椎之尾神社]
増善寺から100mほど安倍川へ戻った路地を北へ入ると椎之尾神社があります。ここの町名「慈悲尾」は「椎之尾」の字があてられていたとの話もある。
この神社の脇から安倍城址へ向う増善寺口の登山道がある。
[建穂神社]
慈悲尾から約3km南下し、途中「千代」「山崎」を通って「羽鳥」へ向かう。
羽鳥小学校辺りから山側に入ると「建穂」(たきょう)という町名になり、山の麓に町名の由来となる建穂神社がある。
建穂寺の歴史(静岡市建穂)
建穂寺は、白鳳13年(662)法相宗の道昭が草創し、養老7年(723)に行基が再興したと伝えられる。
創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平7年(735)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。
平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ、「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。
学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。
文化財の一部は、観音堂内に保存されている。
平成7年2月
今川文化クローズアップ推進実行委員会(静岡市教育委員会監修)
[建穂神社]
建穂神社に建穂寺の説明看板があったが、神社のいわれが書かれていない。
以前は建穂寺を中心とする神仏混淆の場だったが、明治の神仏分離や火災などのために廃寺となり神社となった。
寺の歴史が深い。神社は寺に付属していた施設だった。
[建穂神社]
上の写真が拝殿。この写真が本殿でしょうか。
[建穂寺観音堂]
建穂神社から500mほど離れて公民館の裏に観音堂が建てられている。
看板を読みます。
建穂寺(瑞祥山建穂寺)
建穂寺は、白鳳年間(654〜669)に道昭法師によって開基された真言宗の古寺である。
奈良時代に僧行基が聖武天皇の病気回復を願って彫った観世音菩薩を納めた寺として知られている。その後鎌倉時代以後、久能寺と共に駿河文化の中心として大いに栄え、今川氏の時代や江戸時代には、保護が厚く、徳川家康から480石の朱印を受けたといわれている。
しかし、かくも栄えた当寺も明治維新により徳川氏の保護を失うとともに、明治政府による神仏分離の宗教政策などにより多くの院坊も壊され、跡だけが残っている。また、明治3年の火災により、ほとんどが焼失してしまい、現在は再建された観音堂に納められている多くの仏像によって往時を偲ぶのみである。
4月1日から始まる浅間神社の廿日祭に奉納されている稚児舞は古くから建穂寺の舞として伝えられているもので、家康が駿府在城の頃、建穂寺に参詣した折、稚児舞を見て大変気に入り、崇敬厚い浅間神社へ奉納するように言われたことから始まり、今日まで伝承されている。
昭和60年1月 静岡市
[建穂寺観音堂]
小さなお堂には釣り合わない仁王(金剛力士)が立っている。
仁王のためのお堂のように見える。
[建穂寺観音堂]
昔の建穂寺は駿府を代表するほど栄えた寺だったそうだ。
お堂の隙間から中を覗いてみると様々な仏像が並んでいる。
[建穂寺観音堂]
文化財クラスの仏像を所蔵しているとのことだが、本当にこんなセキュリティの低い所にあるのだろうか。
[建穂寺観音堂]
由緒はわからないが、時代はありそうな仏像が多い。保管方法にも問題がありそうだ。
増善寺から小さな峠を越えてこの建穂寺へ通じる道があったそうだ。今も道が残されているのだろうか。
そのうち探索してみたいと思う。
[羽鳥・浅間神社]
建穂寺観音堂から西へ500m程の久住川を越えた所に浅間神社がある。
静岡には浅間神社が多くある。
<羽鳥>
「はとり」は静岡市へ合併編入されるまでの「服織村」の中心地。江戸時代以前から藁科郷服織庄と呼ばれていた。
機織りを業とした「機織部(はたおりべ・はとりべ)」と呼ばれる人達がこの地に住んでいたことに因む。
藁科川の少し上流に「富厚里(ふこおり)」という町名があるが、服を織ることに由来しているといわれている。
[羽鳥・浅間神社]
児童遊園を兼ねた明るい雰囲気の神社だ。
[羽鳥・洞慶院]
浅間神社から久住川を上る。
藁科街道から1km入った所に「久住山 洞慶院」がある。
曹洞宗の主要なお寺で落ち着いた雰囲気を持っている。
[羽鳥・洞慶院]
参道には年代物の杉林が並んでいる。
説明看板を読む。
洞慶院の大スギ
樹高 40・00メートル
目通り周囲 4.20メートル
枝張 5・00メートル
橋のたもとにあるこれらの大スギは、洞慶院の山門のかわりに植培されたものといわれ樹齢約310年にもなる巨樹として知られている。
スギは日本の特産で全国各地に野生する常緑の高木である。材は柔らかで、ぬれても腐りにくいので建築材・器具材・船材などに使われている。
昭和59年3月 静岡市
[羽鳥・洞慶院]
大木を多く抱えた境内。
時代を感じることができる。
[羽鳥・洞慶院]
さすが名刹といった本堂。
洞慶院(久住山洞慶院)
洞慶院は、はじめ馬喰大明神の社僧寺として真言宗に属し、喜慶院と称せられていたが、享徳元年(1452)守護福島伊賀守の懇願により、石叟円柱和尚が再建し、洞慶院と改め、曹洞宗とした。
石叟は、恕仲天ァ禅師を開山と仰ぎ、自らは2世に居り、石叟の法弟大巌宗梅を3世とした。大巌は大いに宗風を昂揚し、賢窓・行之・回夫の三高足を生んだ。この三哲は輪住制を以て当山に住み、以後末派寺院が一年交代で輪番住職を勤めたが、明治の新政で輪番制から独住制に改まった。
毎年7月19・20日に行われる開山忌には、無病息災、家内安全、夏病みなどの御祈祷が行われ、参詣者で賑う。この時、境内で売られる「おかんじゃけ」は、この地の代表的な郷土玩具で、行楽客に人気がある。
また、この洞慶院は、梅園でも有名で、毎年3月上旬の開花期には市内はもちろん、市外から多くの花見客が訪れる。
昭和60年1月 静岡市
[羽鳥・洞慶院]
「梅花流発祥の地」の碑がある。
洞慶院の先々代住職を務め、後に永平寺の貫主となった丹羽禅師が、親しみある御詠歌を広め、それが梅花流というらしい。
[羽鳥・洞慶院]
「三界萬霊」の塔が立っている。
三界とは欲界・色界・無色界
萬霊とは、あらゆる世界、全ての生きもののやむことのない世界のこと。
すべての霊に手を合せる場所である。
[羽鳥・洞慶院]
洞慶院は梅の名所だ。
梅園は一面に広がっている。
[羽鳥龍津寺]
羽鳥の浅間神社まで戻り、200mほどの所に「万年山 龍津寺」はある。
看板があったので読んでみます。
栄保大姉の辞世の歌は宮内庁書陵部所蔵の「今川為和集」に次のように載っています。
「10月18日三条宰相中将母(仁齢栄保大姉)追善22日遠行彼辞世正形をは皆ことごとく返し捨てくもるかたなき有明の月如以侍しは彼位牌の前に一紙瓦礫」
「夢にのみあるかとみれはなきかけの心の月や空にすむらん」
解説
天文5年(1536)10月18日、当時最高の歌人冷泉(今川)為和は親友三条公兄の母、仁齢栄保大姉(竜津寺開基)の追善供養に参じました。
すると、仏前に彼女の辞世の歌がありました。歌の意味は、この世の中で味わった喜怒哀楽のすべての感情を捨て去って、有明の月のように澄み切った心であの世に旅立ちます、というのです。この歌を詠んだ為和は、こんなにすばらしい歌に比べれば自分の歌など石ころみたいなものだと、感心したのです。
そして、あなたとは夢の中でしか会えないと思っていましたが、あなたはあの澄みきった月の中にいらっしゃるのですね、と供養の歌を献じたのです。
撰文 宮本 勉
平成11年7月21日
発起人
龍津寺住職 浅井義賢 護持会役員一同
宮本 勉 武田久夫 兼高健吉 吉澤三義 武田脩一 吉澤弘治 前田正巳 仲原泰治
[羽鳥龍津寺]
本堂前にあるしだれ桜が見事だ。
写真はまだ3分咲きでした。
[羽鳥龍津寺]
龍津寺の看板の前にある石碑。
辞世仁齢栄保大姉
人形をは 皆ことごとく返し捨て くもるかたなき有明の月
平成11年7月吉日
[新間・中勘介]
藁科街道へ出て清沢方面へ向かう。
1kmほど進むと新間へと入り、右に中勘介記念館という市の施設がある。
中勘助と杓子庵
昭和18年(1943)10月、樟ケ谷に天地療養にきた中勘助夫妻は羽鳥に移るまでの1年半この庵に住んでいました。
はじめは、庵の下に見える粟畑にちなんで「粟穂庵」と名づけましたが、季節が移り杓子菜(おたま菜)の盛りになると「杓子庵」と変えました。
中勘助はこの庵から藁科川を眺め月を仰ぎ野草を愛で鳥の声に耳を傾けながら静かに文筆生活を送っていました。俳句をはじめたのもこの庵であった。
折からの厳しい戦局の中にあっても恵まれた村の自然に感謝し、新間の人々との素朴な触れ合いを喜びながら、その生活は随筆「樟ケ谷」の中に描かれています。
平成7年6月1日 静岡市教育委員会
[新間・中勘介]
記念館の裏にある茅葺屋根の小屋が杓子庵。ノスタルジーの雰囲気を醸しだしている。
[羽鳥・中勘介]
記念館は古い建物が保存されたものだ。
昭和初期の風俗が想像される。
[新間・中勘介]
縁側の風景。
天井が低い。
[新間・見性寺]
中勘介記念館のすぐ奥に曹洞宗「楠谷山 見性寺」がある。
看板が立っているので読む。
曹洞宗 見性寺(案内)
創立 大永年間(1521〜26)
本尊 如意輪観世菩薩
開山 勅特賜厚覚禅師
開基 朝比奈弥一郎
(由緒)
当山の草創は、寛仁元年(1017)真言密教に属し真光坊見昌寺と寺伝は伝えている。
今の見性寺は、中世の最も安定した戦国大名、今川氏親の時代に大雄崇厚覚和尚を開山として、この地、藁科川の清流に洗われ四季を通じて恵まれた景勝の地に法燈が樹立されたことに始まる。
開基、朝比奈弥一郎は、このころ深く禅に心を寄せ開山厚覚和尚に帰依し檀越(施主)となって見性寺を建立し曹洞禅の道場として開創した。
以来、当山は、今川氏親・義元・氏真の保護の下に寺運に恵まれた。開山禅師以下、歴代住職の活躍はめざましく、藁科川一帯に広がる村落に末寺を建立し、この地方の曹洞宗の禅風の振作に貢献していることは重要である。
徳川幕府の樹立と共に、当山は幕府より寺の由緒を重んじられ寺領(御朱印地)9石を拝領した。
今日、当山に保存される今川氏、武田氏の御朱印、御判物および其の他の寺宝は、郷土研究の基礎資料として重視されている。
昭和53年12月吉日 今川氏研究会
[新間・見性寺]
山の麓に静かにたたずむ本堂。
本堂の前に梵鐘堂が建っていて説明書きが書かれている。
大梵鐘
大梵鐘は「ぽっくりさん」にお詣りする方が打って下さい
打ち方の心得として1回100円
浄銭を賽銭箱に入れて、先づ大梵鐘に向って合掌礼拝して「南無ぽっくり往生佛」とおとなえし、念じて力いっぱい打って下さい。
大梵鐘の一打のご利益
礼佛一声延命天壽 合掌し礼拝した鐘の響は、あなたの健康を守り諸難を消除し厄除となります。
念佛一声安楽往生 「ぽっくりさん」を念じた鐘の響は安らかな清い心を得て明るい日々が送れます。
[新間・見性寺]
庫裡の横に池があり大きな鯉が所せましと泳いでいる。
天然黒鯉と緋鯉
この池の大きな鯉は100年以上の年齢です。大きな湖水でとれたもので鯉の体調120cm体重25kgあります。なかなか泉水に慣れないものです 観賞されます お客様におねがいします。勝手に身近なエサを与えたり、小石などなげ入れないで下さい。
<鯉の年齢>
日本で一番長生きした鯉として記録されている鯉は、岐阜県飛騨白川の越原郷の旧家で、越原家(現在名古屋女子大学々長)越原公明氏宅の庭池の鯉で、名前(花子)メス鯉で200年以上の年齢で、先年死んでしまいました。この鯉(花子)に関する古文書他多くの記録はいま残されています。
淡水魚関係の学会では、長生きの鯉として大変有名になっています。
[牧ケ谷]
羽鳥まで戻り牧ケ谷橋で藁科川を渡るとそこは牧ケ谷。
変則交差点で南藁科街道を見る。
<牧ケ谷>
馬の牧場が置かれていたことに由来するといわれている。
[牧ケ谷・庚申堂]
変則交差点を山側に入ると200mで分岐点があり、お堂が建っている。
丸子からここ牧ヶ谷へ峠を越える道が存在したとのことだが今は整備されていない。建武2年(1335)手越河原の合戦で、新田義貞が奇襲の際にこの道を使ったとされている。
[牧ケ谷・耕雲寺]
分岐点を右に向い400m行くと山の麓に臨済宗妙心寺派の「牧谷山 耕雲寺」がある。
[牧ケ谷・耕雲寺]
茶畑脇の参道。
[牧ケ谷・耕雲寺]
境内の片隅に「戒名のない卵頭墓石」の看板がある。
この寺は増善二世虚廓僧の開闢洞家禅院なりしが
何なる由かありけん済家に転じて宝泰寺に属せり(駿河志料)
慶長十七年(一六一二)三月 徳川家康は切支丹禁教令を発し足下の駿府で 厳しい詮索と過酷な迫害を開始した 近侍の銃隊長原主水胤信は 信徒の故に捕らえられ 安陪川原に於て十指を切断 額に十字の火印を当てられ放遂された この惨劇を目撃した一人の仏僧は彼を救出、自寺に匿い庇護したことが露見し曲事として処罰された(徳川実記 駿府政事録)
それは強大な権力にたちはだかり 自らの生命をかけひたすら 仏陀の教 慈悲の神髄を全うした義挙であった 以来幾星霜 一字の戒名一語の伝承もなく 今ここに眠る義僧の冥福を祈り深甚なる尊敬の念をもって この埋もれた事蹟を顕彰するものである
郷土史研究会
[牧ケ谷古墳]
古墳の看板もある。
牧ケ谷古墳群
耕雲寺の裏山には、6世紀末から7世紀中ごろにかけて造られた墓地があり、「牧ケ谷古墳群」と呼ばれています。
牧ケ谷古墳群は昭和44年のみかん畑開墾の際に発見され、5基の古墳が確認され、そのうち4基については発掘調査が行われました。
いずれも石を組み上げて造られた横穴式石室を持っています。石室は、幅約1.2〜1.5m、長さ約5〜7m、高さ2m程度の小規模なもので、石室内には遺体を埋葬するために石板を並べて造られた石棺が備え付けられていました。
石棺の中やその周りには、土器、耳飾り、大刀、馬具などが副葬品として納められていました。
各古墳とも、崩壊や破壊が進んでいましたが、最も残りの良かった2号墳については、消失した天井石のかわりにコンクリート製の蓋が載せられ、見学可能な横穴式石室として大切に保存されています。
平成10年3月 静岡市教育委員会
[牧ケ谷古墳]
1号墳があった場所はこの石垣の上あたりだったらしいが今は姿が見えない。
[牧ケ谷古墳]
2号墳はもう少し上に保存されている。
[牧ケ谷古墳]
2号墳は整備されて石室が残されている。
[牧ケ谷・洗耳寺]
牧ケ谷の奥にもう一つの寺がある。「南水山 洗耳寺」という曹洞宗の寺だ。
修験道場の施設もあった。
[産女観音]
南藁科街道まで戻り800m余り進むと、産女という町内だ。
街道から200m入ると産女観音と呼ばれる「産女山 正信院」があり、安産、子授け、虫ふうじにご利益があるとされている。
[産女観音]
正信院の本堂。
永禄年間(1558〜70)武田氏の駿河侵攻で敗れた今川氏真の家臣牧野喜兵衛がこの地に落ちのびて、世を忍んでいたとき、その時懐妊中の妻が難産の末ついに死んだので、それを嘆き悲しみ、妻の墓所に堂宇を建てて、
子安観音を祀ったという。それ以来、「産女観音」(うぶめかんのん)といって安産祈願の参詣人が絶えることがない。
[木枯神社]
産女から牧ケ谷へ戻る途中、藁科川の河原にこんもりとした小山が見える。
[木枯神社]
下流側に階段があり、鳥居が見える。
階段の脇に由緒が書かれている。
木枯森
静岡県指定名勝 木枯森
指定年月日 昭和29年1月30日
所在地 静岡市羽鳥大字森下
藁科川の川中島であるこの森は、丸子から牧ケ谷に抜ける歓昌院坂を経て駿府に通じる古道のかたわらにあり、古くから歌枕としてその名を知られていた。
平安時代の文人清少納言が枕草子の中で「森は・・・・こがらしの森」としるすなど、東国の美しい風景として数多くの歌によまれたのである。
丘の頂上には八幡神社が祭られ、神社の横には江戸時代の国学者本居宣長(もとおりのぶなが)の撰文による「木枯森碑」や駿府の儒医であった花野井有年(はなのいありとし)の歌碑が建てられている。
昭和63年3月31日 静岡市教育委員会 静岡県教育委員会
[木枯神社]
こじんまりとした神社が建っている。
平安時代から度重なる洪水にもこの木枯の森は無事だったようだ。
[徳願寺]
藁科川沿いの道を下ると牧ケ谷から駿河区へと入り向敷地へと町名が変わる。
向敷地の山の中腹にある徳願寺から始まる「最古の東海道」巡りを別の日に行っている。
「最古の東海道」へのページはこちらをクリック。
[手越・東海道]
徳願寺から1km南下すると旧東海道へ出る。
「東海道」の「手越〜丸子」へのページはこちらをクリック。
−コメント−
藁科川の川中島にある「木枯森」で今回はゴールとする。
− 最古の東海道 −
宇津ノ谷峠越えの東海道が整備される以前は、
「手児の呼坂」「井尻峠」「日本坂」を越えて焼津へと向かうルートだった。
ここでは手越の徳願寺の南にある「手児の呼坂」から「日本坂」を越えてみよう。
[牧ケ谷]
葵区の牧ケ谷から南藁科街道を下ると駿河区の向敷地へと町名が変わる。
街道も長田街道と名前を変える。
街道が川沿いになった所の河川敷きに舟山がある。
[舟山]
葵区と駿河区の境のあたりの安倍川河川敷きに小さな森があり舟山と言う。
東海道が整備される以前の藁科川は安倍川とは別の独立河川だったので、2本の河川を渡らなければならなかった。
舟山あたりで藁科川を渡り、その先の安倍川を渡って安西へと向っていたらしい。
[手越・伊勢神明宮]
駿河区に入って間もなく長田北小学校の前から山の麓へと向かう。
少し登った所にある神社。
鳥居の脇に戦争犠牲者の忠霊塔が建てられている。
こういった忠霊塔は地域の中心となる神社や寺でよく見かける。
[徳願寺]
伊勢神明宮のすぐ近くの農道のT字路に徳願寺の道しるべが立てられている。
徳願寺へ向かうにはこの農道を登るか、100m程の南に参道があって階段状の山道を登る。
[徳願寺]
農道を登るとしばらくして「大門段」と書かれた看板が立っているので読んでみます。
徳願寺が大段に建てられて居た当時に、此の付近に山門が建てられて居たため、この場所が「大門段」の地名で後世に言い伝えられている。
[丸山見晴し台]
農道を登って行くと途中に丸山という小さな丘があって、見晴台が造られている。
富士山はもとより南アルプス、安倍川、静岡市全体が見渡せる。(この写真は別の日に撮ったものです。)
建設のいきさつの書かれた看板が立っていたので読んでみます。
<円山花木園>
農地・環境・景観の保全活動を目的に、向敷地里山保全協議会が設立された記念に、耕作地の土地所有者の皆さんのご協力により地域の皆さんと協働して霊峰富士を仰ぎ静岡市内を一望できる円山花木園を開設しました。
どうぞ、静岡一番の展望をお楽しみ下さい。
平成19年4月 向敷地里山保全協議会 向敷地町内会 向敷地部農会
[徳願寺]
農道を麓から100m程の標高を稼ぐと徳願寺が見える。
山門の脇にお堂が建てられている。
この建物が駿河七観音を祀る観音堂なのだろうか。
[徳願寺]
寺の正面入口は少し回り込んだ所にある。
由緒書きがあったので読む。
徳願寺
平成6年夏 徳願幻住32世天記
境内地 2400余坪
御本寺 慈眼寺(福井県南条郡今庄町小倉谷)
示寂 明応8年3月23日(1499)
開祖 天叟祖寅大和尚
開基 徳願寺殿慈雲妙愛姉(北川殿)今川家7代 氏親の母
本尊 千手千眼観世音菩薩(行基作)安倍七観音の一体
創立 長録2年(1457)曹洞宗
創建 養老年間(717)真言宗
曹洞宗 徳願寺
[徳願寺]
参道は木に覆われて静寂の中にある。
この参道はほとんど使われていないようだ。
[徳願寺]
「大窪山 徳願寺」の本堂がある。境内には歴史が書かれている。
徳願寺山(静岡市向敷地)
静岡の市街地や富士山を遠望することができる徳願寺山一帯は、縄文時代から中世・近世にいたる先人たちの足跡が残された貴重な歴史の宝庫といえる。
中でも近年注目されているのが、徳願寺山頂の掘切りを伴う曲輪状の山城の遺構である。「大窪山徳願寺」は、山頂に祀ってあった千手観音を降ろして現在の寺がここに開かれたとの伝承がある。
このため徳願寺の前身は、安倍7観音の一つである「大窪寺(だいあじ)」に関連した遺骨の可能性が考えられる。大窪寺(だいあじ)が、山岳仏教寺院として栄えていたことは鎌倉初期の「久能寺大般若経」(静岡県文化財)の奥書に寺名がしばしば登場することからも理解できる。
現在の徳願寺は戦国時代に今川家7代氏親の生母で北川殿(北条早雲の妹)が曹洞宗に改宗し今日に至る古刹である。
寺には北川殿の古文書などが残されている。
[徳願寺]
今川家の7代当主氏親の母、9代当主義元の祖母である北川殿の墓がある。
北川殿が徳願寺の開基となっている。
[徳願寺]
池の畔に鴨とアヒルが遊んでいた。
人に慣れていて餌が欲しいのか近寄って来た。
[手児の呼坂]
山の中腹にある徳願寺から南下すると農道は二股に分かれる。
右へ行くと農道は北丸子へ出る。真っ直ぐ行くと「手児の呼坂」の入口へと向う。
[手児の呼坂]
二股から坂を登りしばらく行くと「手児の呼坂」と書かれた道しるべが階段を登った所に立っている。
「最古の東海道」とされるこの道はこの坂を越えて丸子へ出て井尻峠、小坂、日本坂へと向かう。
[手児の呼坂]
「手児の呼坂」の看板の近くに「最古の東海道」「万葉の道」と書かれた看板も朽ちかけていた。
[手児の呼坂]
由来看板も立っている。
手児の呼坂
我が国最古の東海道の大動脈だった東路は、日本坂を越えて手児の呼坂を通り、舟山を経て駿河の国府に通じていました。
平安朝の頃から宇津の山路が開けると、手児の呼坂は、丸子を経て手越・国府への道として、江戸初期東海道53次の街道が整備されるまで千余年の長い間、都と東国を結ぶ重要な官道でした。
東路の「手児の呼坂 越えかねて 山にかねむも 宿りはなしに」をはじめ、3首の万葉歌が残され、紫式部、連歌師宗長、大納言烏丸卿幾多の有名人によって多くの歌が詠まれた東路の歴史と高学を秘めた峠路でした。
[手児の呼坂]
峠のあたりに「史跡 手児の呼坂」の石碑が建っている。
[手児の呼坂]
丸子側からの登り口にも「手児の呼坂」の看板。
[手児の呼坂]
樹木のトンネルの坂を下る。
[手児の呼坂]
坂を下ると北丸子の市街地が見えてくる。
[手児の呼坂]
坂を下りきる手前に緑のトンネルが歴史の道から現実へとつなぐ出口のようだ。
[手児の呼坂]
北丸子の市街地から「手児の呼坂」を案内する看板
[北丸子]
最古の東海道は区画整理された街路となって、旧東海道方面へと進む。
[北丸子]
「最古の東海道」は「現在の東海道」の国道1号線と交差して「旧東海道」方面へと向かう。
[丸子]
旧東海道へと突当る。
正面は長田西小学校。
[丸子]
このあたりは旧東海道として長い間発展をとげていた区域なので最古の東海道はどこを通っていたのかわからない。
旧東海道のページへ進むにはこちらをクリック。
[丸子]
旧東海道の名残りを感じられる松の手前の路地を南へと向う。
[丸子]
丸子川に突き当たる。
[井尻橋]
丸子川の井尻橋と書かれた橋を渡る。
ここから井尻峠へと進む。
ここから最古の東海道が復活する。
[井尻橋]
橋の手すりに「小野寺」「朝鮮岩」「満願峰」と書かれた小さな案内看板がかけられていた。
[井尻峠入口]
井尻橋から小野薬師寺へと向かう。500mで坂が急になる。
「最古の東海道、井尻峠」と書かれた看板が立っている。
宇津ノ谷を通る「蔦の細道」や「旧東海道」が整備される以前には、ここから小坂へ向かい日本坂を通って焼津へと通じるこの道が主要道路だった。
[井尻峠]
井尻峠入口のすぐ横に八幡神社がある。
[小野薬師寺]
峠へ向かう前に小野薬師寺へ寄ってみます。
坂道を登ると「二丁目」と書かれた道標があった。
急峻の山道は荒れてはいるが部分的に舗装のような整備がされている。
お参りの人への配慮か路端に一丁目から順に八丁目?まで道標が立っている。
[小野薬師寺]
小野薬師寺はちょうど桜が満開で厳粛な雰囲気に色を添えている写真を載せておきます。
《富向山小野寺》 ふこうざんおのじ
丸子の井尻と呼ばれる山の中腹にある真言宗の寺。
昔は正月に男女が参詣し、「ひよどり踊り」を歌い踊って、妻を求めた。
今でも正月15日に「カッポ酒」という酒を振るまってくれるらしい。
本尊の薬師如来像は小野妹子の子孫で小野小町の父として有名な小野篁の念持仏と言われている。
[小野薬師寺]
富士が良く見える。
富士が見渡せるように木を除けて植えてある。
静岡市内にある中でも指折りの絶好の撮影ポイントだ。
[小野薬師寺]
寺の裏手に朝鮮岩、満願峰への道しるべがある。
ここは朝鮮岩経由で満観峰へ向かうハイキングコースになっている。
又の機会に挑戦してみようと思う。
[小野薬師寺]
小野薬師寺から少し戻った所から南側へ山道をしばらく登った所に墓がある。
檀家の墓ではなく住職の墓であろうか数基が並んでいるだけだった。
[最古の東海道]
先ほどの八幡神社脇にあった「最古の東海道」の道しるべまで戻って井尻峠を越えることにする。
[井尻峠]
踏み跡もほとんど見えない山道だ。
[井尻峠]
欝蒼とした藪の中へ向かうような山道だ。
[井尻峠]
クモの巣をかき分けて進む。
[井尻峠]
しばらく登ると山道は開けた段々畑へ出る。
[井尻峠]
ここからは静岡市街地がよく見える。
丸子の市街地が見渡せる。
遠くには富士が見えるはずだが曇っていて見えなかった。
[井尻峠]
峠を越える。
石垣が組まれている箇所があった。
道を保護するためのものか、かつて農地だったのだろうか。
[井尻峠]
道は下りに入る。
道が林で保護されている。
[井尻峠]
大和田へ向い下って行く。
[井尻峠]
大和田側の道は傷みが少なくて歩きやすい。
所々に石垣が組まれている。
[井尻峠]
道しるべの看板が掛けられている。
「大和田←→井尻」と書かれている。
[井尻峠]
荒れてはいるが所々に耕作のあとがある。
[井尻峠]
道は所々崩れた所がある。
[井尻峠]
舗装道路や作業小屋が見えると石垣で組まれた農地も散見される。
[井尻峠]
大和田の登山口。
石垣が組まれて歩きやすい。
[井尻峠]
大和田へ向けて道路は舗装されている。
[井尻峠]
この舗装路は住宅?作業小屋?で突き当たる。
犬が放し飼いになっており、吠えながら近づいてきて、それを追って住人?が出てきたが抑えようともしない。
犬が興奮して足にまとわりつき、なんと噛みつかれてしまった。強く噛まれたわけではなかったが買ったばかりのズボンが破られた。
怪我は内出血程度だったが、子供なら傷になっていただろう。
[井尻峠]
舗装路を真っ直ぐ大和田の町内へ下りていく。
電信柱に「井尻峠への道」と書かれている。
[大和田]
大和田神社がある。
[大和田]
観音堂または地蔵堂が集落の中心となる交差点に建っている。
[大和田]
井尻峠へ案内する道しるべが掛けられている。
「東路(あずまじ)井尻峠←万葉の道大和田」と書かれていた。
[大和田]
小坂へ通じる城山中学校前の道へと向かう。
[大和田]
道は城山中学校の交差点へ出て、新巴川製紙から小坂へと向かう道に出る。
[小坂]
800m程で小坂川へ突き当たる。
[小坂]
小坂へは真っ直ぐ進むが、右への道へ入ってみる。
右への道が古い農家の間を縫うように通っていて旧道のようだ。
[小坂]
所々道が寸断されていてわからなくなるが、畑と山の際を進む。
[小坂]
道の山側の脇には石垣が組まれている。
[小坂]
ポケットパークのある交差点で小坂への道と交差する。
[小坂]
ポケットパークの塀に「最古の東海道(万葉の道)」の看板が掛けられている。
今通って来た道が最古の東海道ということらしい。
[小坂]
ポケットパークの向かえ側の角に「御所の前」がある。石柱が立っていて由緒書きが彫られていた。
<史跡 御所の前>
7世紀中期頃、大和朝廷は、西は九州、東は陸奥の一部を統一し、遣隋使、遣唐使の派遣により、大陸の先進文物制度を摂取し、中央集権国家の確立と、諸国に通ずる交通路の整備を図り、「大化」と初めて年号を制定した。世に言う大化の改新(645)である。
大和の都から遠く陸奥国に通ずる最古の東海道は、大化2年の駅伝制の詔により、駅馬、伝馬の制度が設けられるようになった。
万葉の道、駅馬の道とも言われ、野超え山越えの狭隘な道が延々と続いていた最古の東路が高草山の何処を通ったいたかについては、初倉駅−小河駅−日本坂−手児の呼坂−横田駅が考えられる。
海抜302mの日本坂超えの道は急峻であり、花沢から大崩海岸の平坦な通路も利用したものと思われる。この坂超えの道と大崩街道の合流点が、倭建命の伝承の地、小坂小字「御所の前」であり、往時の交通の交通の要衝の地であった。万葉人の苦難の旅路が今に偲ばれる貴重な史跡である。
[小坂]
「御所の前」の路地を入った所に満願寺という曹洞宗の寺がある。
住職のいない寺のようだ。
[瑞應禅寺]
「御所の前」まで戻り100mほどの路地を南に入ると臨済宗向嶽寺派の雲梯山 瑞應禅寺(うんていさん ずいおうぜんじ)という臨済宗向嶽寺派の寺がある。
路地への入口に案内の石柱が立っている。
[小坂]
ここ小坂には日本武尊に縁のある史跡が多くある。
瑞應禅寺にも伝説があって、開基は日本武尊とか。実は開基ではなく寺の前身となる館があり、その後、その地に寺が創建されたとされる。
またこの寺の開山が行基だったとの伝説もある。
山門は享保12年に改築され昭和30年に修復されたもの。
[瑞應禅寺]
山門の前に子安観音堂が建てられている。
昭和43年に新築されたものだそうだ。
[瑞應禅寺]
山門をくぐると鐘楼が目に付く。
嘉永4年(1851)に再建されたもの。
[瑞應禅寺]
本堂は安政4年に焼失し、明治23年に再建されたもの。
今は臨済宗向嶽寺派の寺として住職もいる寺なので手入れが行き届いている。
[瑞應禅寺]
金比羅宮があるとのことなので、どこにあるか探したら裏山に小さなお堂が建てられている。これが金比羅宮なのだろうか。
登っていいのかわからなかったので確認できませんでした。
[小坂の磐座]
小坂の通りへ戻り日本坂へ向かうとすぐに「小坂の磐座鎮祭」の案内板が家の木壁に貼り付けられていた。
ちょっと路地へ入ってみました。
[小坂の磐座]
民家の門を入った所に「御所の石」という「日本武尊の腰掛石」があり、日本武尊が腰を掛けて休んだという。
<坂の磐座(いわくら)の由緒>
縄文人も弥生人も通り日本武尊が坂越えしたと伝承される。
この峠路をいつしか尊の御名に因んで日本坂と呼ぶようになりました。この日本坂は都と東国を結ぶ最古の官道で万葉の道駅馬の道防人の道として世に知られています。
坂の東口、路傍の山の端に旅人の守護神として崇められ磐座が鎮祭されていました磐座とは古代人が信仰した神が宿る神聖な霊石のことです。
小坂からの坂越えの人達は旅の道中安全を祈願し花沢からの旅人は恙なく坂越えてきた感謝の祈りを捧げました。往昔の苦難の旅路。その語るこの磐座には多くの古代の人達の魂とロマンが秘められています。
この霊石は平成元年9月台風禍にて崩落し、地主成澤義行政江夫妻がこれを痛み畏れ、守護神として自邸に奉祭し旅人達の御霊安かれとお祀りしています。
[小坂]
通りへ戻り日本坂へ向かってすぐの角に「安養寺」を案内する石柱が立っている。
100mほど入ると「安養寺」が見える。
[小坂]
山門が建てられていて、門には「佛谷山 安養禅寺」と書かれている。
[小坂]
山門の脇に「下馬石」と書かれた看板があった。
馬で来た参拝者はここで馬を降りたのだろう。
[小坂]
門を入った左側に絵と字の描かれた看板が立っている。
家康公お手植えみかん
当地小坂安養寺裏山に徳川家康公駿府在城当時この地方に鷹狩にこられた折、お手植されたものであると言い伝えられている。由緒あるみかんの木があります。
尚駿府城内にも樹令350年を経る老樹が現存しております。
静岡市教育委員会
[小坂]
看板の脇に蜜柑の木が生えているが、これが徳川家康、お手植の蜜柑なのだろうか。
[小坂]
鐘楼も建てられている。
時代が感じられる建築だ。
[小坂]
曹洞宗の「仏谷山 安養寺」。本堂は比較的新しい建物だった。
[日枝神社]
寺を出た所に鳥居が立っている。
ちょっと入ってみます。
[日枝神社]
ひえ神社は比叡山にあったことから日枝神社とされる。
山岳信仰の神社。
[小坂]
安養寺から西へ200m余りで公民館があって、その向い側にバスの回転場所がある。
新しい地蔵尊が立てられていて銘盤に説明書きが彫られていた。
<小坂地蔵尊建立縁起>
当小坂は、遠く奈良朝の頃から佛教篤信の地で、住人は淳朴勤勉で多くの農耕を業としてきました。現在戸数、230戸町内和協して、誠に平和な恵まれた土地であります。
然るに、朝夕、子供に至るまで親しみ尊ぶ町内地蔵堂が腐杯破損して其形すらなく長い年月を過ごしてきました。古老の話によれば、明治17年9月15日の大暴風雨の時に古来の地蔵堂は崩潰したので、其後假に造築したものでありたとか、今日では、地蔵尊像すら原形を失して、詣うずる人々が甚だ憂うる処でありました。
今度、幸いにも町内各家挙げて、尊像建立の議を決す因縁が結ばれて、各自浄賊を寄進して、多年の宿願を成就することになりましたので、現在四囲の事情、境内用地の状況等を考慮して、尊像を製作し、露佛として安置を見るに至りました。
想ふに、地蔵菩薩は我等に最も親しみ深い佛様で、毎日六道に遊化して、我等の苦を抜き楽を與え給うの他、10種の福徳を授け、八大怖を除き、四生五行あらゆる面に変化して、能く我等を導き給う大願王尊であります。故に之の菩薩を恭敬し、供養する事に依って、福徳楽壽極まりなく後生善処の最大佛果を與え給う、實に不二摩訶行の佛様であります。
おんかかびさんまえいそわか
維時昭和36年9月26日
[小坂]
バスで訪れた人のためにだろうか、この地域の案内看板が掲げられていた。
見どころがわかりやすい絵地図に描かれている。
[小坂]
家康の手植え蜜柑の説明看板が通りに面して公民館の前に描かれていたが、安養寺にあった看板と全く同じものだ。
この看板にはどこにみかんの木があるのか書かれていなかった。ここだけ見た人は訳がわからないだろうな。
[小坂]
秋葉灯籠が道路脇にある。屋根付きの小屋の中に入っていて大事にされていることがわかる。
[小坂]
しばらく進むと日本坂の案内板があり、由来が書かれている。
日本坂の由来
日本坂は、奈良期の官道が初倉駅(島田市)、小川駅(焼津市)、横田(静岡市)を経由していたことから当時の東海道の峠道として使われていたと思われる。
「城超えて阿部の田の面に居る鶴(たず)の ともしき君は明日さえもがも」(万葉集)
にみえる坂は日本坂と思われ
「焼津辺にわれ行きしかば駿河なる 安倍の市道に逢ひし児らはも」万葉集
の歌でも、この峠が安倍の市との交易路として重要であったことがわかる。
平安末期以降は、東海道が宇津の谷峠越えとなり日本坂超えは衰退したが、地元では昭和10年頃まで花沢側で生産された繭が(日本坂越しに)運ばれるなど生活に密着した峠として用いられた。
坂名は、焼津の地名起源説話に影響されたと思われ日本武尊にちなむという。(駿河志料)
[小坂]
道が二手に分かれている。
真っ直ぐ進むと日本坂。
右に曲れば満願峰への道となる。
[小坂]
地図が描かれた看板があって、道案内されている。案内図が多く立てられている所を見ると迷う人が多いのだろうか。
<御坂堂から登ろう!>
日本坂まで 40分 花沢の里まで1時間15分 満願峰まで 2時間20分
満願峰472m 農道から25分歩いて約1300歩 農道から40分歩いて約1800歩
自然の中で自分の宝物を見つけよう。
御坂堂から花沢まで約5000歩 御坂堂から満願峰まで約7300歩
歴史と自然あふれる小坂の里には珍しいクロマドホタルが生息しています。
日本武尊が「敵に追われ隠れた」と言い伝えられている穴。
いぼ地蔵、子育て地蔵とも言われており願い事をかなえてくれる。
[小坂]
この分岐点には御坂堂という小屋が建っていて日によっては農産物の直売所にもなっているようだ。
立札が立てられているので読む。
動機 成澤政江
作詞 春田鐡雄
日本坂のぼれ 東からのぼれ お日様とのぼれ
日本坂のぼろ 東からのぼろ 御坂堂からのぼろ
日本坂登りゃ 歴史の山が 駿河の海が 日本一の 富士山が
御坂堂は史跡「小坂」から出発しましたささやかなふもとの茶屋ですが地元小坂に眠る昔の人の生活を考えて見たいと思ったから(こんな山のすみにくらした人たちの信仰やら健康を考えたら)と店にならべたもの、朝市などこの考へから産み出したもので御利用頂きたく考えたものです。山へ上り下りの節おたちよりください。
[小坂]
日本坂へ進む前に観音堂へ寄ることにする。
御坂堂の脇にも案内板が立てられている。
[小坂]
「雲龍山 不動尊」がひすいの滝の前に建てられている。
[小坂]
観音堂が立てられている。三十三観音が並ぶ。
[日本坂]
分岐点まで戻り、日本坂へ向かう。
農道と山道がある。
しばらく登ると農道は突当り急な山道となる。
[日本坂]
山道とはいえ、石垣が組まれて整備されているところもあり、実用とされていた時期があったことがうかがわれる。
石垣の上は茶畑だったようにも見えるところもある。
[日本坂]
かつては馬での往来が可能だったと言われている。
[日本坂]
険しい場所もある。
山は手入れされていない林となっていて林業の後継者不足が垣間見える。
[日本坂]
農道から離れてから15分足らずで峠に出る。標高が302mとのこと。
右に尾根伝いに2.1kmで満願峰、左に800m上ると花沢山、正面へ下ると花沢の集落へ下りることが出来る。
[日本坂]
峠の直ぐ横に石組みの祠があって地蔵尊が祀られていた。「穴地蔵」と言われている。
これが日本尊命が隠れたとされる岩穴だとか。
2000年近く前の話なので当時のままではないだろうと思うけれど思いをはせてみました。
[満願峰]
満願峰の頂上。標高は470m。
頂上には四阿も建てられていてハイキングの目的地としてよく整備されている。
[満願峰]
頂上広場の一角に木の生い茂った場所がある。
[満願峰]
密集した木に囲まれて祠があった。「高根白山神社」があると聞いているのでこのことなのだろう。
[満願峰]
晴れていれば静岡市街地の先に富士がきれいに見えるのだが頂上に着いたら麓が見えるのみだった。
ハイキングコースを描いた周辺地図と案内看板が四阿脇に立っていたので読んでみます。
東海自然歩道バイパスコース
470m ここは満願峰です
<現在地周辺について>
東南に下ると「日本坂峠」を経て「花沢山」にむかいます。花沢山へ向かう歩道はきつい登り下りが続く、上級者向きのコースです。途中休憩をとりながら、無理せず自分のペースで進んでください。
北西に進むと逆川沿いを下り、旧東海道の面影を感じさせる「宇津ノ谷」に向かいます。
また、周辺には上図のように多くのハイキングコースがあります。
[日本坂]
満願峰から日本坂まで戻り、焼津方面へ下りる。
下りはじめるとすぐに庚申塔が立っている。
この道沿いには庚申塔が多く見られるが、こんな高い所にもあるのだ。
[日本坂]
このような悪場もあって、崩落がたびたびあるのだろう。
このような所も馬で往来したのだろうか。
[日本坂]
年代物の杉も所々に見られる。長い年月ここを通る旅人を見守って来たのだろうか。
[日本坂]
花沢の農道からの登り口。
[日本坂]
農道を横切って街道を下りると石畳となっている場所もあった。
[花沢]
街道は「高草山 法華寺」の境内に出る。
[花沢]
仁王門が建てられていて仁王様が出迎えてくれる
入口にある寺にある文化財の説明看板に「仁王門」の説明が書かれていた。
焼津市指定有形文化財 仁王門 昭和42年12月4日指定
木造入母屋造り。銅版葺。間口7.36m(4間)、奥行4m(2間)、梁高4.11m(13尺6寸)、棟高7.50m(24尺6寸)の8脚門。
元禄16年(1703)12月、藤枝の大工伊左ヱ門によって建立されたもので、左右の全部に仁王尊(金剛力士像)がまつられている。仁王門とは仁王像を安置する門であり、伽藍を守護することを意味している。
[花沢]
迫力のある仁王像が寺を守っている。
[花沢]
入口近くのお堂の脇に看板が建てられていた。
乳観音の由来
えと文 滝井ノボル
むかし、、、、高草山の隣村の嫁が乳の出がわるくて悩んでいた。毎日赤児を抱いて神仏に願かけして歩いたがが一向に効き目がない。
ある日のこと、赤児を背おい高草山を越えてみた。
ふもとの法華寺の門前で祈った。そのとき、、、、
とつぜん大木の幹から光を発し観音さまが現れた。
「そなたの願い叶えて進ぜましょう」とお告げをいただいた。
すると嫁の乳はその晩よりあふれるばかり出がよくなり赤児は目に見へて肥え太り村一番の元気な子になりました。
このことは近郷近在に知れわたり大評判となった。以来法華寺は乳観音をまつり、近郷近在の母子たちに喜び慕われて訪れる人が絶えないという。
法華寺のことを別称「ちちかんのん」と云っている。
[花沢]
境内にこの寺にある文化財を説明した看板が立っていた。
法華寺の文化財
静岡県指定有形文化財 木造聖観音立像 昭和33年4月15日指定
像高169.2cm 臂張46.6cm 裾張34cm 裾奥行 21.5cm
寄木造りで直立の等身大立像。桧材。ひだの彫りも、その線の流れも極めて優美であり、藤原期(平安時代後期)の作と思われる。
もとは彩色されたものらしく、漆箔がところどころに残っている。
天衣が裳の前で二段に平行に並び、それがさらに左右の手に懸り、裾脇でひるがえっているが、後補のようである。天冠、瓔珞など装飾の金具も多いが、後世のものである。
焼津市指定天然記念物 イチョウ 昭和42年12月4日指定
昭和58年8月7日指定 倒木のため
同年9月13日市指定解除
目通り5.54m、根廻り8.40m、樹高20m、枝張り21m、下垂気根10個(最長1.4m)
法華寺の山門前にあり、樹勢良好、雌樹で多量の実をつける。
イチョウは化石植物で、鎌倉時代にの中国から、我国に渡来したといはれている。火に強く、火災にあっても枯死しない性質がある。
昭和57年3月 静岡県教育委員会 焼津市教育委員会
[鞍掛峠]
法華寺から鞍掛峠までの道を散策してみます。
寺の山側に花沢の里の山小屋があってその脇を案内標に沿って登る。
[鞍掛峠]
小さな沢の脇に石組みされている坂道を登る。
馬や荷車を対象としたような幅のある道だ。
[鞍掛峠]
分岐点には迷子にならないように案内標が導いてくれる。
[鞍掛峠]
緑のトンネルを抜けると峠へ出る。
峠を通り過ぎて下ると岡部へ向かい宇津ノ谷の手前へ出る道だ。
峠から尾根伝いに登ると満願峰へ向かう山道になる。
[花沢]
花沢の里へ戻る
古い町並みが残る人気のある街道だ。
[花沢城]
花沢の里を沢に沿って下ると東名高速道路が見えてくる。
西を見て見るとこんもりとした山が見えるが、これがかつて花沢城があった山だろうか。
[石脇城]
東名のガード下をくぐり国道150号線を西へと向う。1kmほど進むと北側に小さな山がある。これが石脇城址だ。
国道に平行する農道に入ると城址のは入口に標柱が立てられている。
[石脇城]
城址へ向かう道が真っ直ぐ小山へと続く。
[石脇城]
山への入口に鳥居が建てられている。登り口の脇に説明看板が立っていた。
石脇城跡
この城は、北の高崎山から南へ枝分かれする尾根の先端の標高30mの「城山」に所在する。
15世紀(室町中期頃)の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城(支城)と推定され、範囲は南北約220m、東西130mと考えられる。
山裾の西から南へ流れる堀川を外堀とし、山頂の第一曲輪(くるわ:頂上あるいは尾根の上の平坦化された区画)、中腹の第二曲輪、その第二曲輪を堀切で隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪5〜6ヶ所からなると云われており、第一曲輪と考えられる山頂には土塁(どるい:城郭の防御のための土手)の痕跡が残っている。
城主については、記録がないが、江戸時代に編まれた地誌「駿河記」によると、文明年間(1469〜1486)に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇に住まわせたとある。
伊勢新九郎盛時は、文明8(1476)年応仁の乱の影響で今川家の当主、上総介義忠が遠江(御前崎市川上)の塩買(替)坂での戦死により、時代をめぐる家督争い(内紛)が起きた際、嫡子龍王丸(後の今川上総介氏親)を助けて活躍した。伊勢新九郎は、この功績により富士下方12郷(富士市域)を与えられ、延徳3(1491)年以後伊豆平定にのりだし、やがて関東8ケ国を治めた戦国大名北条家(後北条)の基礎を築いた。
[石脇城]
「城山八幡宮」という神社が建っている。
[石脇城]
石垣が組まれた箇所が所々にある。
城のあった時代からのものかどうかは不明だが、そうだったらいいなと思う。
[石脇城]
この城山は二瘤になっていて一つは城山八幡宮でもう一つは大日堂が建っている。説明書きがあるので読んでみました。
大日堂の文化財
<焼津市指定文化財 吉祥天立像(木喰五行上人作)>
吉祥天は、正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので美しい顔になったといわれている。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じるにこやかな童顔をしている。高さは94cm。
昭和42(1967)年12月4日指定
<焼津市指定文化財 不動明王像(木喰五行上人作)>
この像は吉祥天立像が完成した2日後に出来上がった。岩座の上に踏んばり、渦巻きとなって燃え上がる火炎の中に立ち、不動の気魄を十分に表わしながらも木喰仏らしい人間味がでている。高さは94cm。
昭和42(1967)年12月4日指定
<木喰五行上人と焼津>
木喰五行上人(1718〜1810年)は安永2(1773)年56歳の時に日本廻国と千体仏の願をおこし全国を廻り諸国に自刻の仏像を奉納した。現在全国で約500体の作品の存在が確認されている。
木喰上人が当地を訪れたのは寛政12(1800)年上人が83歳の時で、故郷である現在の山梨県へ戻る途中であった。現在焼津市には、この時作られた仏像が大日堂、勢岩寺(歴史民俗資料館で保管)、宝積寺に残っている。
[石脇城]
石脇城のある城山を西側からながめる。
塀で囲まれた大きな家が山の傍らにあったが、昔から屋敷があった場所なのだろうか。
[浅間神社]
城山の北側に回ると東名の脇に神社がある。
鳥居の脇に大きな岩が2つ並んでいて、岩を避けて舗装されている。
岩の上にはしめ縄が飾られていた。
[浅間神社]
岩の横に神社の由緒が書かれた看板が立っていた。
浅間神社由緒
鎮座地 焼津市石脇705番地
祭神 木之花咲耶姫命・品陀和気命
天照大御神
例祭日 10月10日
境内社 津島神社 境内地477坪
<由緒>
浅間神社登り口の右側に大きな岩が二つある。旗掛石又は鞍掛石という。
本来この二つの岩は、我国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。
この浅間神社は、延徳3年9月天下の英雄徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が郷里原川村から、浅間社を勧請してこの聖地の側に奉斎したものと伝えられ、明治8年2月村社に、同40年3月神饌幣帛料供進社に指定された。旧除地高は2石であった。
<旗掛石>
当時、岩の近くに原川新三郎氏の門前があり、家康が天下を取ってからしばしばこのあたりで鷹狩を催し、そのつど原川家を訪ね、その際家康の旗を建て掛け、馬の鞍を置いたのでこの名があるという。他にやきつべの小径、駒つなぎの松の名跡がある。又、氏子達で年2回大しめ飾りが行われる。
<災害>
昭和57年9月12日の本県を直撃した台風18号により境内の南側階段等東海氏多大の災害を蒙るも464名の氏子一丸となって懸命な努力を続け復旧に直進し同年10月吉日大鳥居を再建した。
[浅間神社]
神社境内に「石脇探訪絵図」が描かれていた。
[寶積寺]
東名の側道の道路脇に寶積寺の案内看板が立っていた。
宝積寺の文化財
<焼津市指定有形文化財 地蔵菩薩像>
昭和47年11月28日指定
像高77cm(2尺2寸5分)、内台座14cm(4寸6分)、木喰五行上人作
この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂をつかんでいる。木喰仏としては珍しく、材質が桜の木である。しかもまことに慎重で、一部丸ノミが使用され、足指の爪まで掘り出されている。製作は、寛政12年(1800)7月と推定される。
[寶積寺]
東名の側道を進むと寶積寺がある。
[寶積寺]
石造りの観音様が境内に並んでいる。
西國33番観世音菩薩由来
当山石脇寳積寺境内に安置まします西國33番観世音菩薩の御尊体は今を去る、180年前。人皇119代光格天皇の御宇享和元年辛酉5月及び7月吉日を選んで、当村並びに近郷の篤志家が先祖菩提の為、勧請建立されたものであり、斯様な33の御尊体を羅列配置してある霊場は全く稀であり其の感応霊験あらたかなることは世人の能く知るところであります。
[大崩]
最古の東海道は寶積寺までで引き返し海岸ルートの大崩を通り静岡まで向う。
海岸線を通る道は最古の東海道のルートの一つだったそうだが、どうやって通ったのだろうか。
断崖絶壁が続き、がけ崩れが日常的に発生する悪場が続く。
あまり知られていないがアワビやサザエの好漁場。ほとんど築地へ行ってしまうそうだ。
[大崩]
絶壁の向こうに駿河湾。静岡市街の先に富士山がそびえ絶好のビュースポットとなっている。
[大崩]
JR東海道線は開設当時は今よりも海岸の近くに通っていて、廃トンネルが往時の風景を感じさせてくれる。
[大崩]
このトンネルのすぐ脇に波打ち際がある。
海が荒れる度に通行止めとなっていたらしい。
[城山烈士供養塔]
用宗駅の東へ200mに用宗公民館の前に「城山烈士供養塔」がある。
説明看板を読んでみます。
城山烈士供養塔
由来記
この供養塔の向背地の城山にあった持舟城は永禄元亀天正年間(1568年〜1582年)戦国争乱の最中に生れ、今川、武田、徳川など戦国大名の軍兵が互に攻防戦を繰り広げ数百の将兵が城と運命を共にしました。
ときの城将向井伊賀守正重ほか壮烈な散華を遂げた将士の霊よ安かれと祀ったのです。
[城山烈士供養塔]
供養塔に持舟城の説明も書かれていましたので読みます。
<持舟城趾由来略誌>
今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として、関口刑部親長に持舟城を守らせていた。この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年3月結婚。この政略結婚が後年家康の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知る由もなかった。
永禄3年5月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。川中島で戈を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄11年末駿河に進行して持舟城を攻略、城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。
三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正7年9月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が今川方の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃し果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫叔父伊兵政綱長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。
後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り、今も古式蒼然とした墓塔が同寺にあります。天正8年2月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正10年2月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を拔き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終わった。
向井正重の次男正綱はたまたま城外に在って生き残り、本多作左エ門の手の者となり徳川家に仕えて船手頭となり、その4代目の子孫正興が長崎奉行勤番の折、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置されました。向井家は以後代々重臣として繁栄し、其の後裔は東京都新宿区に現住しておられます。
[用宗大雲寺]
用宗駅の東へ400m行った踏切を渡り、用宗駅の北側まで戻り、新幹線のガード下をくぐると持舟城址のある山の麓に曹洞宗「湘海山 大雲寺」がある。
羽鳥の久住山洞慶院から始まった「静岡梅花観音霊場」の一つ。大きな寺だ。
[用宗浅間神社]
用宗にも浅間神社がある。
祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、霊峰富士を御神体として、火難消除・縁結び・安産・航海・漁業・農業の守護神として信仰されています。
神社の境内からは富士が見えないが、裏山を登ると持舟城址があり、そこからは素晴らしい富士が見える。
[用宗汐見坂]
浅間神社の脇の農道を登ると用宗汐見坂と書かれた道標があった。
この先には持舟城がかつてはあった事からこの坂は歴史があるのだろうか。
謂れはわからなかった。
[用宗持舟城址]
小山の頂上は持舟城趾なのだ。
用宗城は別のページを作っています。そちらへはこちらをクリック。
[手越河原古戦場跡]
用宗駅からJRに沿って1.5kmほど北にある「みずほ公園」に「手越河原古戦場跡」と彫られた石碑がある。
ここで「最古の東海道」とその周辺の散策を終了する。
手越河原古戦場跡
昔の長田は安倍川と藁科川が自由に流れていた広い河原であった。
鎌倉時代の末この河原で度々戦が展開された。中でも建武2年12月5日、新田義貞と足利直義の両郡合せて十万余の軍勢が正午から午後8時頃まで17回も激戦が繰返され直義軍は敗退したと言う。
この戦から650年に当るのを機会に戦に斃れた多数将兵の霊を慰め、戦を後世に伝える為にこの碑を建てる。
−コメント−
街道歩きと言うより、ハイキング、山歩きといったルートだった。
歴史以前、日本尊命の伝説の時代が始まりのルート。
山道が多く、距離がわからないが20kmを越えると思われる。
− 久能街道 −
伝馬町から久能山東照宮へ向かう街道。
街道だけを歩いて約9kmの距離がある。
[久能街道]
旧東海道の伝馬町通りから久能山東照宮へ続く道が久能街道と呼ばれ参勤交代の際に多くの大名の参拝に利用されにぎわった。
正確な位置はわからないが「久能山東照宮道」という石碑が伝馬町通りに立っている。
[つつじ通り]
伝馬町通りからつつじ通り交差点に入って久能山へ向かう。
32m道路。静岡環状線の一部を形成している。
戦後に防火帯として整備された静岡環状線の一部だ。
[つつじ通り]
つつじ通りは国道1号線の交差点を横切りJRの高架をくぐる。
JRの高架される前は八幡の踏切という交通の要衝があった所だ。
高架によって静岡の南北が一体化された。
[つつじ通り]
つつじ通りはまで続く。
南幹線は通称カネボウ通りと呼ばれる。昔、カネボウの工場がここから1kmほどの所にあったことからそう呼んだ。
[つつじ通り]
伝馬町通りから800m程でつつじ通りの終点。南幹線(通称カネボウ通り)を横切ると道は狭くなり八幡2丁目から八幡3丁目へ入る。
ここからは久能街道と言える道となる。
[八幡神社]
道が狭くなってから300m程で八幡神社がある。久能街道はこの鳥居の前の自動車の抜けられない道らしい。
ちょっと参拝してみます。謂われの看板が所々にあるので読む。
<楼門跡>徳川家康公奉納の物で、大東亜戦争の昭和20年(1945)6月の静岡空襲で焼失しました。家康公は慶長18年(1613)10月に本殿以外すべてを翌年の大坂の陣必勝祈願として改築維持したといわれます。富士宮浅間神社楼門随身と同じ 左 甲州住人河内下山 石川清助、 右 山城国上京住人 桜井三蔵と記載され、楼門の物と伝える狛犬が保管されています。江戸城、駿府城、東照宮など徳川家の重要建築物を建築した、初代京都大工頭 中井大和守正清を奉行として建築されました。紀州 徳川頼宣公家老で駿府代官 彦坂九兵衛(光正)も関わったといいます。
<社名碑>現在のものは、昭和58年(1983)に京都府の石清水八幡宮田中文清宮司謹書のもので、以前は木製のものでした。木製の寄進者は、阿部芳三責任役員他31名奉納でした。
<鳥居>八幡部農会により昭和49年(1974)に奉納されました。現在の、農業用水橋との中間にも昭和55年(1980)頃まで木製の鳥居がありました。
<江戸末期維持手水社>当社で最も古い建物で、14代将軍 徳川家茂(1846〜1866)、第121代 孝明天皇(1831〜1867)が亡くなった年である、慶応2年(1866〜7)に維持された手水社です。東西の瓦は材質が異なります。
[八幡神社]
八幡神社の本殿。謂われの看板を読みます。
<本殿>明治22年(1889)当社15代八幡清雄神主が改修した物です。この時代、静岡藩立学校を卒業し、御穂神社の長澤雄楯神主の協力で、安倍・有渡・庵原の20社程が改築された記録がありその一つと推測されます。由比の豊積神社・葵区田代諏訪神社もこの時期に改築されたと云われます。昭和時代中期に銅版泥棒事件がありましたが、住人により取り押さえられました。平成16年大和1丁目永井総代により本殿の扉が奉納されました。平成19年7月17日本殿北東の土砂が崩れました。過去にも確認されますが、直接本殿が傷ついた記録は、室町時代今川氏親が、流星が直撃して永正14年(1517)5月28日改修した以来のことでした。
<八幡山古墳>戦前まで18基あったといわれています。本殿内の物は、横穴式古墳で、この辺りを統治下豪族を埋葬したといわれます。有度部牛麻呂の墓といわれますが、詳細資料はありません。赤い曲玉など装飾品が発掘され、東京の博物館に運ばれました。
浅間神社や久能山東照宮等の抜け道といわれますが、構造上そのようなことはありません。
<小堀和泉守政延手水鉢>1649〜1694。延宝2年(1675)当社の本殿西南にある手水鉢奉納した人物です。初めて臨時駿府加番任期終了とし、沓谷の愛宕神社にも灯篭を奉納しています。11才の頃、徳川家綱に拝謁した記録があります。近江小室藩3代目藩主で、作庭建築家、茶道遠州流で有名な小堀遠州の孫にあたり、遠州流茶道の継承者でもありました。朝鮮通信使饗応役を元和2年(1682)に務めました。この手水鉢は、小堀家の家紋を形にした物です。
[八幡神社]
相撲の土俵がある。高砂部屋が毎年やってきていた。
今でも来ているのかな?
[八幡神社]
奥社は木造でした。
神社は木造がありがたい気がする。
<御神木>御神木はイチョウの木です。この木は境内に10本あります。明治時代初期より御神木とされ、拝殿北東には、最古の物がありましたが、台風により倒壊してしまいました。それぞれ、奉納された物で、イチョウの実銀杏は、七五三などの授与品として古来より授与しています。古い本殿跡に植えられたものは杉本もと氏により奉納。女坂中腹にあるものは、八木延三郎氏奉納とされますが、年代が特定できません。拝殿横のものは阿部元責任役員により奉納されました。
<総代提灯>明治14年(1881)5月に奉納され、女坂下にあり、明治時代の神社総代により農業用水路(参道中間)辺りに建立した物で昭和時代に移設されました。義務教育後に村で行った八幡補修学校校長でもあった井上彦左衛門の他27名の名も刻まれています。明治時代の八幡村世帯数は、約90世帯でその中の名主家の人々と推測されます。
<拝殿>昭和35年(1960)に改築しました。昭和37年伊勢の神宮祭主北白川房子様の参拝や東関部屋の参拝がありました。平成19年大和1丁目田村総代により補修工事が行われました。
<神宮祭主お手植え松>昭和37年(1963)3月7日 伊勢の神宮祭主第122代明治天皇の第7皇女北白川房子様が、神社本庁統理、総長を伴い、御参拝されました。この際、男坂下、秋元灯篭の場所に松を植樹されました。残念ながら枯れてしまいましたが、色紙に八幡の歌などを奉納され当社では、現在も当時の際具を使用しています。
[八幡神社]
神社の裏手からの階段。急な階段で危険なのだろう、立ち入り禁止になっていた。
<男坂、女坂>鎌倉時代よりあるといわれます。男坂は、馬術奉納に使用したといわれます。この階段は、男115段、女130段です。男女の性格や生命の誕生、感じの書き順ともいわれ男坂は例祭のみ使用し、普段は立ち入り禁止です。
[八幡神社]
ゆるい階段は女坂。今はこちらから頂上に向かって登ることができる。
[三峰神社]
いくつかの神社が境内に点在している。
1.三峰神社 御祭神 イザナギノミコト、イザナミノミコト
旧八幡村大坪の氏神様といわれ、アマテラススメオオミカミ、ヒルゴノミコト、ツキヨミノミコト、スサノオノミコト、カグツチノミコト等の親神。
神代七代の神様。日本書紀などの神話に登場し初めての男女の神といわれます。生死、結婚等の神様です。文化9年(1812)5月創建といわれ、秋葉神社といわれていました。社前の灯籠は文化年間に創建されました。旧例祭10月17日
村の南方守護神とされ、例祭時に関係する神具があったといわれ、隣村(石田、中田)の境神と推測されます。
<八幡村灯籠> 三峯神社前にある壊れた灯篭です。文化9年建立、三峯神社に奉納された物といわれます。彫刻が施され、狛犬と朱雀と思われる彫り物が確認できます。
[津島神社]
いくつかの神社が境内に点在している。
2.津島神社 祭神 スサノウノミコト 崇道尽敬皇帝(トネリシンゾウ)
夏越大祓い(わくぐりさん)、祇園祭、御霊祭の神様で厄除け、災難除け、祓い、学の神様として崇敬されます。旧八幡村字西高田より明治40年頃の一村一社制度により遷座。素戔鳴尊は本殿、境内社に祀るたタゴリヒメ、イチキシマヒメ、タギツヒメの親神様。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、三種の神器一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を手に入れ、姉のアマテラスオオミカミに献上した神様。怨霊鎮め・冥界の守護神とも崇敬され、御霊社祭神としても祀られ、多くの神話に登場します。
同社祭神 舎人親王(676〜735)は、第40代 天武天皇の皇子で、白峰神宮 祭神 第47代 淳仁天皇(淡路廃帝)の父でもあり、追尊され崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)とされました。日本書紀編纂に総裁として携わり藤原鎌足の孫 藤原4兄弟(静岡県に縁深い藤原一族の祖 南家 武智麻呂・北家 房前・式家 宇合・京家 麻呂)の政権協力なども行っています。子孫には、清少納言(966〜1025)がいます。清水区にも伝説で舎人親王の墓と呼ばれるところがあります。日本書紀は現在でも多くの歴史書などに登場します。
旧境内には、庚申さん、子安観音がありましたが、明治初期の廃仏毀釈で子安観音は、神竜院に、庚申さんは、その辺りにあります。また、伝説も多くあり、「子安地蔵と老婆」「井戸の神」「浅間神社神興渡御」「手水の童歌」などが残ります。手水はこの境内に移され、童謡は木の実をつぶしその色で占いをしました。
江戸時代の駿河新風土記にはこの社より5月5日浅間さんに向かったが、何らかの理由で近くの神社に合祀したとあります。
昭和時代初期の静岡浅間神社の本に、崇道尽敬天皇は、八千戈神社に合祀されていると記載があります。駿河志料には、端午の節句発祥神社で御霊信仰の藤森神社(平成18年全国八幡宮連合にて確認)と同じ御祭神、中座 スサノオノミコト、ワケイカヅチノミコト、日本武尊、応神天皇、神功皇后、武内宿祢、仁徳天皇、東座、舎人親王、天武天皇、西座 早良親王、伊豫親王、井上親王(いがみしんのう)と記され、同社の大将軍社の分社とも推測されました。
[八幡山城]
神社のある八幡山は昔、山城があった時期がある。登ってみた。
[八幡山城]
かなり広い天守台。立派な城だったのだろうか。
[八幡山城]
城址の碑。
応永18年(1411)頃、駿府に入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿府防衛の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明8年(1476)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ1.5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方安倍川を経て持舟(用宗)城まで5km、それらはすべて指呼の間に一望することができる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護にあたっていた。長享元年(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄12年(1569)武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後廃城となったと思われる。城址は、標高63.7m、南北500mの独立丘陵で、近年公園となり、大きく変貌したが、今なお曲輪や空掘などの遺構を見ることができる。
[八幡山城]
天守台周辺は遊歩道として整備されている。
[八幡山城]
「少年とチャボ」というブロンズ像がある。
この広場からは市内が一望できる。
遠くには富士山が見える。ここも富士のビューポイントだ。
[八幡山城]
見晴らしは良く南アルプスも見える。
[旧の久能街道]
八幡山の遊歩道は南側へ下る道もあって丸子池田線という都市計画道路に出るが元へ戻って鳥居前から南へ向かう。
旧の久能街道は今は自動車が通れない。
突当りになっているような所を通る。
[神龍院]
自動車の通れない細い道を50m程で抜けると直ぐに寺がある。
かなり立派な臨済宗妙心寺派「栽松山 神龍院」というお寺
[八幡4丁目]
神龍院のすぐ先で丸子池田線という都市計画道路に出る。
直進出来ないので、すぐ西の信号のある交差点を渡る。
[旧の久能街道]
直進の道に戻る。
この先で車道と合流する。
[金剛寺]
道が合流すると曹洞宗「向當山 金剛寺」という寺がある。
この寺は山の際に立っている。金剛寺には貞永元年(1232)の銘の入った11面観音の鋳物像があるとのこと。
この山は有東山。周囲300mに満たない独立丘陵。
まるで大きな円墳のようだ。
[星光寺]
金剛寺の先の路地を入ると「瑞紫山 聖光寺」という黄檗宗の寺がある。
ここも有東山に張り付くように立っている。
[有東神社]
星光寺と並んで神社が立っている。
神社脇の階段を登るとすぐに頂上に出る。
広場として整備されており児童公園となっている。
ここも昔は城や古墳の最適地に見える。有東砦があったという話もあるがこの地なのだろうか。いわれの書かれたものはなかった。
[有東2丁目]
有東山から600mほど南下すると大きく曲って4車線の道路に出る信号のある交差点に出る。
そして振り返った写真。
向こうに八幡山が見える。
[静岡市立商業高校]
久能街道はここで静岡市立商業高校へぶつかってどのあたりを通っていたのかわからなくなっている。
たぶん学校内にルートがあったように思う。
ここから南へ700m行くと登呂遺跡があるのでそちらへ寄り道してみる。
[登呂遺跡]
静岡市立商業高校から南へ700m行くと登呂遺跡がある。
昔は安倍川がこの辺りを流れていて川のほとりの湿地帯だったらしい。
ある年の洪水で集落の上に土砂が被さって保存されたのが発掘された。
登呂遺跡のページへ向かうにはこちらをクリック。
[芹沢美術館]
登呂遺跡に芹沢美術館が併設されている。
芹沢美術館のページへ向かうにはこちらをクリック。
[富士見台2丁目]
先ほどの静岡市立商業高校まで戻り、久能街道の続きを探す。
700mほど南東に向かい東名高速道路の手前に久能街道が復活する。
[富士見台2丁目]
久能街道は東名をくぐる。
[高松]
東名をくぐると急に田園地帯になる。
農地改良で整備された地域だったので以前は見渡す限り田んぼだったが今は徐々に開発されている。
[高松]
少し進んだ所から振り返る。
緑地帯は東名高速道路。
[高松]
田園地帯を過ぎて、住宅地に入る。
古くは高松郷といわれ、江戸時代は高松村、宮竹村、敷地村で高松三か村と呼ばれた。
広い低湿地に水田が広がっていた。
[宮竹神社]
神社がある。
宮竹の地名はこの神社が由来なのだろう。看板を読む。
所在地 静岡市高松字宮竹2053番地
祭神 志那都比古命しなつひこのみこと
志那都比實命しなつひみのみこと
菅原道真公すがわらみちざねこう
別殿 大名牟遅命おおなむちのみこと
少名彦命すくなひこのみこと
素戔鳴尊すさのおのみこと
船玉神社ふなたまじんじゃ
境内社 稲荷神社(伏見稲荷)
看板は次のフレームへ続く。
[宮竹神社]
看板の続きを読む。
由緒 創建年月は不詳であるが宝永3年3月再建と記した棟札が現存する。棟札に「奉造営宝永三丙戌年駿河有渡郡宮竹風祭大明神宮 藁科八朗兵衛 天下太平 五穀成就 万民安楽 惣氏子老若男女安全守賜所」「奉勧請風祭大明神 級長津彦命 級長津姫命鎮座所 天保13年壬寅年九月十九日 祭主 龍爪山神主 瀧美濃守正行」とある。
変遷 昭和十一年十月六日 村社天満宮を合祀
昭和二七年八月、宗教法人登記
昭和三四年三月 風祭神社の社名を宮竹神社に変更
認証 静岡県神社庁認証 13級
注 資料は昭和51年発行の静岡市神社名鑑による。
[高松]
久能街道は交番の所を左折する。
このあたりは久能街道の正確な位置はわからない。
[大谷]
久能街道の有った所まで戻って通りを探す。
区画整理中なので周りは中途半端な街路になっている。
数年後には変貌していることだろう。
江戸時代は大谷村、片山村、宮川村で三村を成し、久能山東照宮の神領だった。
古くから自然に恵まれた地域で古墳時代から栄えた。江戸時代までは大谷港があった。
[大谷]
旧道のなごり。
ここもそのうち開発されてなくなってしまうのだろう。
[大谷]
今はまだ生活道路として利用されている。
このまま久能方面に向かう前に大谷周辺を寄り道してみる。
[八坂神社]
まずは50mほどで八坂神社がある。
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと厄除けの神)
配祀 大国主命(大黒さま福の神、縁結びの神) 菅原道真(天神さま学問の神、書道の神)
例祭日 10月16日
<境内工作物>
石鳥居 明治29年建造昭和62年再建
石燈籠 元和3年(1617年)建造後再興再修
慶安元年(1648年)建造後再興再修
手水舎 文化3年(1806年)建造
由緒 創立年月日不詳 寛文12年(1672年)再建
江戸時代まで午頭天王社といわれる
旧村社(明治8年より)
昭和27年宗教法人となる 静岡県神社等級規定11級社
<八坂神社「クスノキ」>
目通り幹周囲 6.40メートル 樹高 30.00メートル
樹齢 500余年
静岡市巨木ランキング12番
天然記念物指定に準ずる貴重なものです。御神木として保護育成にご協力ください。 環境庁調
[大谷不動]
八坂神社の手前を階段で登ると公園があり、大谷不動尊の倶利伽羅堂がある。
不動明王の石像は、正しくは大聖不動明王と呼ばれる。石像の高さは1mに満たない。伝説によれば、戦国時代のはじめ、文明2年(1470)村内の金屋(きんや)さんとよばれる漁師の網にかかって海中から引き上げられたという。海から拾い上げられたということもあって、村人たちはいつしかお不動さんに豊漁の願かけをするようになり、大切に祀られるようになった。
不動明王は五代明王の中心で、忿怒(ふんぬ)の形相をしているのが特徴である。不動明王に対する信仰は、密教がさかんになった平安時代の初期に始まるが、いかなる仏教宗派にも関係なく信仰できたことから、江戸時代には民衆の中に入り込んでいた。
不動明王には眷属(けんぞく)として八大童子が付属している。このお堂の中にも今羯羅童子(こんげらどうじ)・制た迦童子(せいたかどうじ)など8体の8大童子が不動明王をお守りするように祀られている。
不動明王はいつのころからか、大正寺が管理するようになり、「百年に一度」とも「50年に一度」ともいわれる御開帳も大正寺の住職によって執り行われている。祭礼は毎年8月27日・28日の両日で、御開帳は昭和62年8月に行われたのが一番新しいところである。
不動堂は何度か焼けており、延宝3年(1675)に焼失したとの伝承もある。明治のころ、平沢の観音さんから建物を譲り受け、それをお堂としていたが、それも老朽化したため、昭和59年2月に取り壊し、同年8月、新しいお堂を建立して現在に至っている。
平成3年1月吉日 東大谷町内会
[大正寺]
大谷不動尊のある公園の北側は住宅街となっていて、坂を下って大谷街道に出る手前に曹洞宗「瑞現山 大正寺」の山門がある。
[大正寺]
山門から200mほど入るとお堂がある。看板を読みます。
<鎮守堂「諏訪大明神」のゆらいについて>
=沼の婆さんと大正寺=
1,335(建武2年)後醍醐天皇のとき、足利直義と新田義貞が安倍川で戦って(=手越河原の合戦)いた頃、麻機村にそれはそれは恐ろしい大きな沼(=浅畑沼)がありました。得体の知れない怪物が住んでいて、風もないのに突然波を起こして船を沈めたり、雨が降らないのに急に水を溢れさせ、周辺の作物を水浸しにしたりして、まったく困った沼でした。それどころか、夏になると毎年若い娘が沼にさらわれたり、怪物を見かけた者がいるとか、根も葉もない風説に大変怖れられていたそうです。
新田義貞の弟、脇屋義助が駿河国の守護として在国中、瀬名村の娘「小菊」と結ばれ「小葭」という女の子が生まれましたが、小菊は産後の肥立ちが悪くこの世を去ってしまいました。それからは、小菊の母である「秋野」がを大切に育てておりましたが心労から秋野が病の床に伏せてしまいました。秋野の回復を願って小葭は浅間神社に百日願いをかけるために、浅畑沼を船で渡っているとき、河童に引きずり込まれて水底に姿を消してしまったのです。
病の床に伏していた祖母秋野は、かわいい小葭を沼の底に引きずり込んだ憎き河童を退治しようとその浅畑沼に身を投じて「龍」となってしまったのです。
龍に化身してしまった秋野(=沼のばあさん)の霊をはじめ小葭の霊をなぐさめるために、明応4年(1494)に血脈を授けられ、懇ろにお祀りしたのがこの大正寺(=大祥寺)を開かれた行之正順禅師が信濃国諏訪城主桜井信濃守の子供であったことから寄進建立されたのでです。
それ故に、沼の婆さんがお祀りされているこの鎮守堂の名前も「諏訪大明神」と名づけられているのです。行之正順禅師から血脈をいただいたとき沼の婆さんが残し去ったといわれている龍身のウロコが大正寺の「寺宝」として今でも大切に保存されております。
浅畑沼や巴川の氾濫に救いの手「=大谷川放水路」をさしのべてくれました大谷住民の心は、行之正順禅師と沼の婆さんの因果応報のあらわれではないでしょうか。昔から大谷村を守ってくれております沼の婆さん「清龍院法運智泉神女」鎮守堂を大切にいたしましょう。
「大谷の里」より
[大正寺・忠魂碑]
諏訪大明神と姿みの井戸の間にある石碑。
[大正寺・姿みの井戸]
今川義元が、小田信長との戦いで桶狭間の露と消えたあと、駿河国(駿府)は今川氏真によって護られておりました。
しかし、突然、永禄11年(1568)12月13日の明け方に、三国同盟(今川・武田・北条)の約束を一方的に破り、武田信玄の軍勢が駿河国(駿府)に攻めてきたのです。その軍勢の兵火によって駿府の居城をはじめ浅間神社・臨済寺は焼失してしまいました。
武田軍乱入の中で、武将「朝比奈弥太郎泰能」は勇敢にも孤軍奮闘をいたし、主君今川氏真公を掛川城に逃れさせ、又、城に居た、か弱き婦女子たちをも、高松海岸から船で脱出させるよう手筈をととのえた上で、これらを守りながらしんがりの任を勤め果たし、一人、ここ駿河国小本山の大正寺(当時大祥寺)に辿り着いたのです。
しかしその時は、もう全身傷だらけの虫の息であり、この大祥寺の清く澄んだ井戸水で傷ついた身を清め、己の姿をうつし見ながら末期の水を飲みほし、主君の無事安泰を祈り、自害したそうです。以来この井戸を「姿みの井戸」と呼ぶようになりました。
主君今川氏真公に命を投げ打って仕えた「朝比奈弥太郎泰能」のお墓は、懇ろに大正寺歴代和尚の横に祀られております。
※また、朝比奈弥太郎泰能が最後まで手から離さなかった槍は、遺品として大正寺に大切に保存されております。
※焼け落ちる城から朝比奈弥太郎泰能の手で抜け出すことが出来た婦女子たちは、高松海岸からの船に乗ることもできず、哀れにも入江の淵から身を投げてしまいました。
この淵こそ今の世でも高松の「上臈ケ淵(じょうろうふち)」と呼ばれている所以です。
※戦国の世の忠君として名を残した朝比奈弥太郎泰能の「姿みの井戸」の隣に、大正寺第31世隆之和尚の計らいで日清・日露・太平洋戦争に尊い命を捧げられた大谷出身者の英霊の「忠魂碑」が移し祀られることになったのも、ご先祖さまの因果応報の顕れですね。
「大谷の里」より
[大正寺]
鎮守堂の向いに大正寺の門がある。
瑞現山大正寺。500年以上前の応仁、文明の頃に今川氏の臣で桜井信濃守の子である行之正順和尚が大正寺を創建した。
[大正寺]
大晦日には除夜の鐘が響き渡る。
[片山廃寺]
大正寺から大谷街道を1km弱ほど北へ向かうと片山廃寺がある。説明書きがある。
国指定史跡 片山廃寺跡
片山廃寺跡は、奈良時代後半(8世紀後半)に建てられ、平安時代前半(10世紀前半)まで存続したと考えられる古代の寺院跡です。JR静岡駅から南東3.5qの有渡山西麓に位置し、寺院の敷地は、約160m四方の広大な面積であったと推測されています。
この寺院を駿河国の国分僧寺とする説もありますが、塔の跡が発見されていないことから、有渡郡の有力豪族の氏寺であるとする説もあります。
<遺跡の発見>
片山廃寺跡は、古くは江戸時代の地誌である「駿河国新風土記」に「久能寺の坊中にて昔一千坊の廃跡なるべし」と記され、久能寺に結び付けて紹介されていました。1930年(昭和5年)に大谷街道が造られたとき、畑の中から「多くの瓦と整然たる礎石列」が発見され、旧制静岡中学校の大澤和夫教諭と郷土研究部員らによって、奈良時代の古代寺院跡として初めて確認されました。そして、建てられた場所の地名(小字名)から「片山廃寺」と名付けられることになりました。
<発掘調査>
片山廃寺を解明するための本格的な発掘調査は戦後になって始められることになりました。最初の調査は、1948年(昭和23年)に登呂遺跡周辺調査の一環として日本考古学協会によって行われました。ついで、1956年(昭和31年)に第2次発掘調査が、1966年(昭和41年)には東名高速道路の建設工事に伴って第3・4次の発掘調査が静岡市教育委員会によって行われました。調査の結果、金堂、講堂、僧房の基壇(地面から盛り上げた建物の土台)の一部と礎石(建物の土台の上に置き、柱の基礎にした石)の配列が確認され、寺院中心部分の伽藍(寺院の建物)の様子がわかってきました。
1992年(平成4年)から1995年(平成7年)に行った寺院の範囲を確認する調査では、境内西側の境界と考えられる直径25〜40cmの柱の列の跡が発見され、木の柱を支柱にした板塀が寺院の境内をめぐっていたことが判ってきました。
また、第4次調査および1996年(平成8年)の第34次調査では、火災によって金堂・講堂・僧房が焼失し、その後復旧されなかったことも判明しました。
所在地 寺院跡:静岡市大谷字片山.上亀井 瓦窯跡:静岡市大谷宮川
指定年月日 昭和40年9月7日(追加指定 昭和49年5月13日)
<史跡指定>
片山廃寺跡は、仏教文化が政治の中心である大和から全国に伝わっていく様子を知るうえでも、また、駿河国のの当時の様子を知るうえでも貴重な古代寺院の遺跡であることが認められ、1965年(昭和40年)に国の史跡に指定されました。
また、片山廃寺跡の南方約500mの山裾には、片山廃寺で使用する屋根瓦を焼いた、宮川瓦窯跡群があります。1971年(昭和46年)に行った清泉寺窪地区の発掘調査で登窯2基と平窯1基が確認され、1974年(昭和46年)に「片山廃寺跡瓦窯跡」として、国史跡の追加指定を受けました。
[片山廃寺]
寺の後が発掘保存されている。
<<史跡の内容>>
<伽藍配置>
伽藍(寺院の建物)はいずれも南向きで、境内のほぼ中央に南側から金堂、講堂、僧房の順で配置されています。
<金堂跡>(寺院の中心的な建物で、本尊を安置する建物)
建物:間口7間・30.9m、奥行4間・17m
基壇:間口37m、奥行23m
<講堂跡>(法要や教典の講義を行う建物)
建物:間口7間・25.5m、奥行4間・15.8m
基壇:間口30.3m、奥行20.6m
須弥壇(仏像を安置する台):間口10.9m、奥行4.2m
<僧房跡>(僧路の住居となった建物)
建物:間口23間・68.2m(推定)、奥行3間・9.1m
基壇:間口70.3 m(推定)m、奥行10.9m
<出土遺物>
瓦類:軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦
土器類:須恵器、土師器、灰釉陶器
鉄製品:コテ、釘
石製品:大理石製の磚(建物の床や壁などに使用された煉瓦状の建築材)
[白山神社]
片山廃寺の裏手に白山神社が建っている。
鎮座地 静岡市大谷896番地
御祭神 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
配祀 大山祗命(おおやまつみのみこと)
由来
創建の年月日は詳らかでない。延宝6年(1676年)の棟札には、白山妙理大権現の神名がみえ、もと白山権現といい、浄光院という寺の鎮守であったといわれてきた。神社の近くの沢を権現沢といい、上流には権現谷の地名も残っている。
大正9年に本殿造営、昭和61年に昭和天皇御在位60年奉祝記念事業として、鳥居・玉垣を建造奉納した。神社等級規定13級社である。
[静岡大学]
久能街道へ戻る途中の坂を登った所に静岡大学がある。
有度山の斜面に大学がある。
[静岡大学]
静岡大学前の通り。
この通りには古墳群があるので、昔を思い偲んでみる。
[宮川7号墳]
このあたりの右側に宮川7号墳があったらしい。
住宅の間の空き地がそうなのだろうか?
その少し先にも6号墳があるらしい。やはり空き地があるが・・・
[諏訪神社古墳]
静岡大学の通りが大きく曲ったところの山側に諏訪神社古墳がある。
鳥居の前に看板が立っているので読んでみる。
古墳と神社はセットになっている所が多く思う。
静岡市指定史跡 諏訪神社古墳(宮川古墳群4号墳)
指定年月日:平成9年4月23日 所在地: 静岡市大谷4475−1外
有度山西側山麓は、なだらかな傾斜が続きその裾部分は大小の谷によりいくつもの小丘陵に分割されています。それぞれの丘陵上から南向き斜面にかけては数多くの古墳が築かれています。
宮川地区の丘陵上には「宮川古墳群」が形成されています。この中で、既に発掘調査が実施された「丸山古墳(宮川1号墳・方墳・7世紀)」は横穴式石室内に大型の家型石棺や豪華な副葬品が納められており、また、アサオサン古墳(宮川7号墳・方墳・7世紀)は長大な横穴式石室をもつ、などの詳細が確認され、いずれも有力な人物の墓であると推定されています。
諏訪神社古墳は、発掘調査未実施のため、構造や築かれた時期などの詳細は不明ですが、直径30m、高さ約5mの大規模な円墳で、宮川古墳群の中でも古い時期(5世紀〜6世紀前半か)の有力者の墓であると考えられています。
元のかたちを良好に残す数少ない古墳のひとつであり、重要な文化財として保存されています。
[諏訪神社]
諏訪神社古墳の頂上に神社がある。
鎮座地 静岡市大谷4475番地
御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)
例祭日 十月十六日
由緒
創建の年代は詳らかでないが、故老の言い伝えによれば、信州の行之和尚が大正寺の開基となったとき、(応仁の乱の頃)信州より随行してきた桜井庄太夫が、諏訪大明神を勧請したのが初めであったという。
元の社地は字宮川にあったが低地のため貞享4年(1687)再建、明治8年2月村社に列し、昭和27年宗教法人となる。神社等級規定13級社である。
[宮川5号墳]
諏訪神社から宮川5号墳と思われる空き地を見下ろす。
[宮川1号墳]
諏訪神社古墳の前に1号墳があった場所。
たぶん祠がある場所が跡なのだろう。
[大谷]
大谷の区画整理の整備中の久能街道まで戻り、久能へ向かう。
[大谷]
このあたりが東の大谷区画整理のはずれになる。
[西平松]
西平松に入ると旧道の様相を呈してくる。
古く平松村が別れて西平松、中平松、青沢の3か村となった。
平松村は塩づくりで栄えた村だった。
[怡泉寺]
有度山は海に削られ切り立った形になっていて海岸側からは山へ向かうルートはほとんど無い。
山から海岸までは300メートルほどしか無い地形が続く。
街道から山側に入った突当りに寺や神社が点在している。
西平松に入ってから約1kmほどの曹洞宗の寺が「龍門山 怡泉寺」だ。
[羽衣神社]
怡泉寺から100mの苺温室の路地の突当りに天の羽衣神社がある。
羽衣伝説を祀った神社だ。
三保の松原へ向かうページへはこちらをクリック。
[羽衣神社]
由緒の看板が立っているので読む。
祭神名 天女の霊
配祀神 応神天皇 須佐之男命 火産霊神
社伝によると昔、中平松に住む長右エ門という者が清水で塩を商いその帰りに駒越の浜に於いて松の木に羽衣がかかっているのを見つけ家にもちかえった。天女は羽衣を取り戻すためにその夜長右エ門の許に来て仕えることを頼んだ。長右エ門は女が天女であることを知らず家に住まわせる事3年あまり。
ある朝、前の浜に材木が打ち上げられたので長右エ門はじめ村人全員が浜に拾いに出ている隙を伺い天女は羽衣を手に入れ去ろうとした。しかし長く下界に暮らし身が汚れていたので飛翔の術が力尽きてしまい氏神である八幡宮でお祓い(お清め)をして霊力を復活させようとしているとき長右エ門が帰って来た。天女は事情を語り誓って言った。「私を氏神に祀って下されば永く当村の守護神になろう」と言って天に昇っていったのである。長右エ門は村人と図り天女を氏神として祀り中平松天人社と称した。
明治8年2月村社に列格 その后名称を天羽衣神社に改称した。
静岡県神社庁神社等級規定12級社
[青沢]
苺の温室が並ぶ街道を進むと青沢という地名になる。
[久能山全景]
青沢は400mほどで通り過ぎ、古宿という地名に変わる。
このあたりになると久能山の全景を目にすることができる。
[継全寺]
古宿公民館の前の街道から継全寺へ参道がのびる。
[石蔵院]
継全寺から1km行った所に曹洞宗「安居山 石蔵院」がある。街道に面して石碑が立っていて謂れが書かれている。
元和2年(1616)4月17日、将軍職を秀忠に譲った後も、大御所として君臨していた徳川家康が、75年の波乱に富んだ生涯を駿府城で終え、遺言により、その亡きがらが久能山に葬られることになった。4月19日、葬儀の行列が、この石蔵院の前を通り過ぎた後、一人の武士が割腹して果てた。この武士が井出八郎右エ門である。
井出八郎右エ門は、家康の厩の舎人(乗馬の口取りなどを勤めた役人)であったが、永年の知遇に報いるため、この石蔵院の門前で、家康葬儀を目のあたりに見て割腹殉死したのである。舎人という身分の低い武士ではあったが、家康から受けた永年の恩顧を忘れなかった井出八郎右エ門の忠誠心は、後の世までも人々の語り草となっている。
久能街道に面した石蔵院所有地の一角には、井出八郎右エ門の墓(右)や地蔵堂(中央)と並んで、彼の忠誠心に心を打たれた多くの人々の手によって、昭和の初期、顕彰碑(左)が建てられたのである。
[石蔵院]
庭に大きなイチョウがある。
静岡県指定天然記念物
昭和29年1月30日指定
目通 4.7m 樹高 30m 根廻 6m
枝張 南北22m 東西21m
慶長年間(1596〜1615)に石蔵院の開山良尊禅師の手植と伝えられている。
このイチョウは、雌木で葉の上に結実する現象が見られる。このようなお葉付イチョウは全国にも極めて少なく、植物形態学上の資料として貴重なものである。
昭和59年5月31日
[石蔵院]
落ち着いた寺。
[安居神社]
街道に面して安居大明神の鳥居があった。
[安居神社]
このあたりの地名「安居」の名が付いた神社が木々に埋もれて鎮座している。
鎮座地 静岡市安居288番地
御祭神 武内宿祢命 武烈天皇
配祀神 国常立命 猿田彦命
例祭日 10月18日
境内地 1306.8u
由緒 創立年月日不詳 文化元年(1875年)再建の棟札がある。
明治8年2月村社に列格。
旧来安居神社と称したが、後に白髭神社と改称し、昭和19年3月25日尾勢神社を合祀して、再び安居神社に改めた。
御神穂 延命・開運・開拓・道しるべの神様として霊験あらたかである。
名実共に庶民信仰篤く、安居神社の存在意義は遠々神代に及び今日に至る
[宝台院]
常磐2丁目にある徳川家ゆかりの「金米山 宝台院」の別院。立派に整備されている。
照久寺は、久能山城の城将榊原照久の菩提寺である。
天正10年(1582)、武田勢の守る久能山城を攻め落とした徳川家康は、その天険を重要視して、榊原照久を城将としたのである。
元和2年(1616)4月17日、家康は、その破らんに富んだ75年の生涯を終え、遺言によって久能山に葬られることになった。
2代将軍秀忠は、直ちに社殿造営に着手、翌元和3年12月に完成し、榊原照久を初代神主とした。
家康は生前、照久に「久能山は駿府城の本丸だ」と語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説いた。
照久もまた、その任務の重大さを認識し、家康の死後、身をもって久能山東照宮の警固にあたった。そして自分が死んだら、墓塔を久能山の方向に向けて建てるように」と遺言したといわれる。境内の一番奥の高台には、榊原照久の墓塔が遺言どおり久能山東照宮に向けて建っている。
照久以後の江戸時代、榊原家は、歴代の当主が久能山門番として、その任務を全うした。
昭和60年に宝台院との合併が成立し、境内地を拡張し、宝台院より墓地移転整備をし、昭和61年11月に本堂落成式を挙行し、宝台院別院となりました。
[宝台院]
常磐2丁目から墓地を改葬されてきている。
<当院に現存する墓>
榊原家歴代の墓
照久寺歴代の墓
宝台院歴代上人の墓
俳人かしく坊の墓
戊辰戦争戦没者の墓
瀧家の墓
寿徳院歴代上人の墓
[久能山下]
久能山東照宮の参道前を通り過ぎた所から久能街道を振り返る。門前のあたりは「根古屋」という町名。
山城の麓に建てられた付属の建物を「根小屋」と呼ばれることから因んだと思われる。
[久能山下]
久能山東照宮の参道には土産物屋が並んでいる。
ここから先は別のページを作っている。
久能街道の清水側へ向かうにはこちらをクリック。
久能山東照宮(久能城址)へ向かうページへはこちらをクリック。
−コメント−
久能街道だけで約9kmの行程。
途中で登呂遺跡への寄り道(約2km)
片山廃寺周辺への寄り道(約3km)。
マッケンジー邸への寄り道(約1km)。
全部回ると1日がかりの街道めぐりになる。
東照宮までめぐるとゆっくりしている間は無い。
− 駿河区 −
駿河区の主な街道に沿っていない見どころを巡る。
一度に巡ることは難しいので、スポットでの訪問になる。
先ずは静岡駅を南口へ出る。
[東照宮碑]
駅の南口を出てすぐの西側に「東照宮」「是より2里11町」と彫られた碑が建っている。
東照宮没後300年を祈念して建立された。台座には大正4年4月17日と彫られている。
もとは久能街道の起点だった伝馬町にあったらしいが宝台橋脇に移設、そしてこの地に移って来たものだ。
家康の遺訓も台座に書かれていた。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒は敵と思へ
勝事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る
己を責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
慶長8年正月15日家康(花押)
人はただ身の程を知れ草の葉の
露も重きは落るものかな
昭和55年4月17日
東照公遺訓 久能山東照宮宮司松浦國男謹書
[ルノアール]
静岡駅南口広場にルノワールのブロンズ像が立っている。説明も柵もなく自由に手を触れることが出来ます。
「黒金町(くろがねちょう)」は静岡駅の町名で、鉄道を表す鉄(くろがね)が命名の由来となっている。
[ルノアール]
ルノワールのブロンズ像は2体。
[水の森ビル]
静岡駅南口広場に面して再開発ビルが建っている。ここの住所は南町。
「南町」は昭和20年の区画整理で出来た町名。駅の南ということにちなむ町名。
[千勝浅間神社]
水の森ビル近くの駅南銀座通りを200mほど南へ行った稲川の地に小さな浅間神社がある。
[稲川千勝浅間神社]
境内に由緒書きが書かれているので読みます。
<千勝浅間神社由緒>
鎮座地 静岡市稲川1丁目2番2号
創建月日 不詳
祭神 木花咲耶姫命
境内3社 1.福成稲荷神社 祭神 保食の命
2.金刀比羅神社 祭神 大物主の命
3.秋葉神社 祭神 火具土の命
例祭 夏季 8月20日 秋期 10月16日
宝物 狛犬一対 静岡市指定有形文化財 正和2年乙卯と彫刻してあり、雲慶の作で西暦1313年頃のものと推定される。
社殿工作物 本殿 幣殿 社務所 鳥居 石造り八幡形2基
氏子区域戸数 稲川1丁目、稲川2丁目、稲川3丁目、南町2区820戸
神社記 明治8年2月村社に列格す。昭和21年7月30日宗教法人令による届出をなし、宗教法人千勝浅間神社として発足。昭和27年8月宗教法人法により法人設立の登記をし、静岡県知事より認証され現在に至る。静岡県神社庁認証の神社。等級は10級である。
旧来の記録によると稲川の地に大楠があって、この楠を中心にお宮が建設された。
昔の行事 1月15日朝、武射あり 1月30日 鏡餅を供う
3月3日 草餅を供う 5月5日 チマキを供う
7月2日より7日まで参籠 9月27日 神楽ありと記されてある。
御祭神は蛇を嫌忌すること甚だしく氏子の者が草刈に来て草籠の中に蛇が入っても村境に来ると必ず籠の中より落ち、常に蛇除けの神として信仰されたそうです。
昭和20年6月20日大東亜戦争の為、旧来の社殿等は全焼し、現在の建物は昭和27年9月に本殿が設立された。
[千勝浅間神社]
由緒書き看板の下に岩があって説明が書かれていた。
<千勝浅間神社の手洗鉢>
君が代にうたわれているさざれ石で造られており、平安、鎌倉時代のものと思われる。
千勝浅間神社氏子総代会
[翁稲荷大神]
駅南銀座通りに戻ると稲荷神社の幟がかかっている。
[崇福寺]
駅南銀座通りの終点を東に曲ると寺がある。駿河一国観音霊場の32番。
「徳雲山 崇福寺」という臨済宗妙心寺派の寺院。
寺の入口の石碑に刻まれた文字を読む。
<鯖太子堂>
山梨玄度は稲河家11代清臣の実父なり清臣稲河家の養子となるに因りて共に稲川に移り改め号して稲川居士といふ
[崇福寺]
境内に太子堂と書かれた建物がある。
[伊河麻神社]
駅南銀座通りの先に県道354通称「南幹線」へ出る。南幹線を西側へ200mほど進むと伊河麻神社がある。
静岡市稲川1丁目10の15(元中田字宮地1番地)
祭神名 品陀別命(ほむだわけみこと) 例祭日 9月15日
社殿工作物 (本殿)9.25u(幣殿)21u(拝殿)56.7u
(社務所)39.6u(参集所)247.5u
境内社 金刀比羅神社、稲荷神社、火産神社
境内地 1,958u 氏子戸数 2,100戸
<由緒>
延喜式神明帳に「駿河國有渡郡伊河麻神社是也と所載され諸郡神階帳に正4位伊河麻明神、白鳳4年4月創建ス」とある。駿河志料には「伊河麻神社今井鎌大明神といふ、当社は延喜式神明帳所載にて、風土記に有渡清水(或は玉潔水)伊軸麻神社浄見原天皇神宇4年4月被祭之、應勅処分、為4宮奉祭誉田天皇所也」と見え、神階は所郡神階帳に正4位下伊賀麻明神とありて古はいかめしき御社にと有りけむ。
此地を去りて遥かに鳥居林井垣添など云う字ここかしこに残り古の大社の?あり、今は村持の社なれど古木茂れる森なり、今川家の近臣に四宮右近光汲り之此社の神宮にして武役を勤めし人にやありけん」と記されている。明治8年2月郷社に列し、旧除地8213歩を有し、明治42年6月18日静岡県告示第210号を以て神饌幣帛料供進指定神社に列せられた。昭和50年12月25日郷社列格100年記念事業として社殿を新築竣功した。昭和21年7月30日宗教法人令により届出をし、昭和27年8月宗教法人法による法人設立の登記をした。
静岡県神社庁認証の等級は6等級である。
町名の「稲川」は江戸時代の稲川村だったことに由来する。浅間神社の関係者だった稲河氏の所領だった。
[津島神社]
伊河麻神社から300m南幹線を西に向い、路地を入った所に神社がある。由緒看板を読む。
<津島神社由来>
鎮座地 静岡市馬淵2丁目15番10号
祭神 素盞鳴命
社殿工作物 本殿 拝殿 境内地
御神徳 この神は素盞鳴尊(日本書紀)とも書き伊邪那岐尊と伊邪那美之命2神の御子であり、天照大神の弟として他の神に比べ勇敢の神で有られた疫病退散の神として信仰が厚くまた農業の神としても崇敬されている。
由緒 創建年月日不詳。文化2年3月再建。明治8年2月村社に列格
大正12年本殿拝殿を改築 昭和19年神饌幣帛料供進神社に指定
昭和20年6月戦災により焼失。昭和28年宗教法人法により設立登記。昭和30年再建
当神社の祭典 7月25日例祭
神社等級 静岡県神社等級規定により9級社に指定
[見瀬天満宮]
南幹線は「馬渕3丁目交差点」で大浜街道と交差し、大浜街道を700m南下し市道丸子池田線と交差する「馬渕3丁目交差点」を越えてすぐの路地を入った所の神社。
由緒看板を読む。
<見瀬天満宮>
神社名 見瀬天満宮
鎮座地 静岡市馬渕4丁目11の16(旧町名−見瀬)
御祭神 菅原道真公(学問の神)
例祭日 10月吉日
由緒
創建年代は不詳であるが駿国雑志に「雷電社 有度郡見瀬村に有り。祭る処火の神也。当村及中村西脇村の土神とす。神主詳ならず。3代実録云。元慶2年(878年)戊戌、夏4月14日授駿河国正6位上岐都宇命神、雷火神、併従5位下。云云。則此神社也」とあり平安時代の記録に登場する古社である。
現存の棟札の中には延宝元年(1673年)の物も見られ、現在の社殿は拝殿が明治39年(1906年)本殿は昭和51年(1976年)に新築されたものである。
稲荷神社(境内社)
祭神は宇迦之御魂神。明治41年まで最頂寺屋敷(現在地、見瀬222番地の隣地)に鎮座の神社である。
雷火神
道真の没後、京都御所に落雷があり多くの朝臣が死に、又、国内に疫病が流行し、藤原一族の変死が続いたので人々は道真の霊の崇であると恐れた。天暦元年(947年)調停は北野に天満宮を建て道真の霊を祀った。
※北野の地は従前から天神地祇を祀る神聖な所であり農耕祈願の雷公祭が行われていた所であるので道真を天神と称し、雷神とも結びついたのであろう。
平成6年4月吉日 天満宮 責任役員
[専行寺]
見瀬天満宮から「市道丸子池田線」を700mほど東進した所に「法楽山 専行寺」という日蓮正宗の寺院が中田2丁目にある。
<町名の由来(中田)>
中田の地名は、駅南地区に広がっていた田園地帯の中心的な位置を「中田保」「中田郷」「中田七村」などと総称したらしい。
明治に入ってから中田村ができたが、その後静岡に合併して町名として残った。
[吉祥寺]
「見瀬天満宮」の南200mに「玉泉山 吉祥寺」という曹洞宗の寺院が中田本町にある。
江戸時代の初期に開山したとのことです。
[吉祥寺]
25番 静岡梅花観音霊場となっている。
[自休寺]
吉祥寺から大浜街道へ出た街道沿いにある「愛歳山 自休寺」という曹洞宗の寺院。
ここの町名は見瀬。
「見瀬」は江戸時代にこのあたりが見瀬村だったことから付けられた。安倍川の瀬に由来する町名。
[玉泉寺]
大浜街道沿いの自休寺から100mほど西に寺がある。町名は中原になる。
「瑠璃光山 玉泉寺」という曹洞宗の寺院。
「中原」は中田に7つあった村の一つ。安倍川に挟まれた原だったのだろう。
[山王寺]
500mほど北上し南幹線に出て50mほど駅方面へ戻ると寺がある。馬渕3丁目にある「霊泉山 山王寺」という曹洞宗の寺院。
26番 静岡梅花観音霊場となっている。
馬渕という町名は、このあたりが低湿地帯で渕があったことから由来するらしい。江戸時代には宝台院の敷地だった。
[津島神社]
山王寺から南西へ500mの所に津島神社がある。自治会館が境内に建設されている。
昭和51年の住居表示までは中原の一部だったが津島神社に由来して名付けられた。
[水神社]
津島神社から南へ500mほどの「市道丸子池田線」と「インター通り」の交差点の角に水神社がある。
このあたりの町名は中野新田。
江戸時代に薩摩土手の外側の安倍川原を遠江の人たちが入植して開墾した新田。
[水神社]
境内脇にある由緒書き看板を読む。
<水神社>
鎮座地 静岡市中野新田81の2番地
祭神名 瀬織津姫命 相殿 素盞鳴命
例祭 10月16日
由緒
創建年月日は不詳である。駿河国新風土記に中野新田は駿河国有渡群のうち安倍川の川原に開かれた新田。幕府領。弘化元年からは旗本本郷氏領。村高は寛文年間の高帳には記載なく(元禄郷帳)320石とあることから江戸時代元禄以降の創建と思われる。
当地は開墾より安倍川の水害にあい、そのため水神社が建てられた。
明治8年2月村社に列格した。
先祖代々郷土の守り神として民、氏子の信仰の的となり親しみ心の寄りどころとして永く仕え伝えられてきました。水神社が中野新田の守護神としてまことにふさわしい限りです。
平成12年1月吉日
[中島神社]
東名静岡インターの西に中島神社がある。
[中島神社]
こじんまりした社殿。
[昌林寺]
中島神社から南東に500mほどの所にある「法城山 昌林寺」という曹洞宗の寺院
<中島の町名の由来>
安倍川はかつて幾筋もの川に別れて静岡平野を流れていて中の島状になっていたことから中島の地名となったらしい。
中島はもともと「長田」の地域だった。江戸時代には興津の小島藩領であり、安倍川の土手にある松並木は小島藩が植林したものという。
[稲荷神社]
昌林寺から東名に沿って東へ約1km。東名の脇に「保食大神稲荷神社」がある。
[正法寺]
稲荷神社の向かいに「田中山 正法寺」という曹洞宗の寺院がある。
[正法寺]
ここの地名は「西脇」
西島の隣だったことから西脇村と呼んだ。中田七村の一つだった。
[光増寺]
正法寺から200m東名に沿って東進すると西島と地名が変わり、ここにも寺がある。
山門が落ち着いた雰囲気を醸している。
安倍川はかつて幾筋もの川に別れて静岡平野を流れていて中の島状になっていたことから西島の地名となったらしい。
江戸時代には興津の小島藩領だった。
[光増寺]
「中寶山 光増寺」という臨済宗妙心寺派の寺院。
[渡神社]
光増寺の隣に「渡神社」がある。
[白髭神社]
光増寺から東南へ約1kmの所にある「白髭神社」。
[下島白髭神社]
「白髭神社」は「下島」の氏神。
安倍川はかつて幾筋もの川に別れて静岡平野を流れていて中の島状になっていたことから下島の地名となったらしい。
江戸時代には下島は興津の小島藩領だった。
[西岩寺]
石田街道へ出ると「向陽山 西岩寺」という曹洞宗の寺院がある。
[西岩寺]
最近建て替えられたようできれいな寺だ。
[西岩寺]
西岩寺の墓地は300m以上離れて、浜川を越えた海岸のそばに位置する。
墓地の中心にある戦没者の慰霊碑は「青木幽渓」さんの揮毫とのこと。
[帝釈寺]
西岩寺から200m北東に「寶珠山 帝釈寺」という曹洞宗の寺院がある。
ここの町名は「高松」
およそ石田街道から東側の地域を広く「高松」と呼んでいたが、昭和54年に住居表示に伴う町名変更で「宮竹」「敷地」「高松」に別れ、丁目も付いたがこの地区はまだ住居表示未実施の地域。
古くは高松郷、江戸時代は高松、宮竹、敷地を合わせて高松三か村と呼ばれた。
高松地区一帯は、有史以前は安倍川扇状地が形成されたあとも入江として残り、三保のような東西に細長くつづく海岸砂礫洲ができて、せきとめられるようになり陸地化していった地形。
登呂遺跡ができるころに低湿地となって、水田が作られた。従って高松低地の地表のすぐ下には軟弱な泥の層がひろがっている。
[諏訪浅間神社]
帝釈寺から200m東に諏訪浅間神社がある。
[諏訪浅間神社]
高松の氏神。
[慈貞院]
高松にはもう一つ寺がある。「円道山 慈貞院」という曹洞宗の寺院。
多くの寺は江戸時代の檀家制度によって一村に一寺のケースが多い。
現在の町名は高松だが、宮竹に位置するのだろうか。
[慈貞院]
「霊光」と彫られた戦没者の慰霊碑が建てられている。
[旧マッケンジー邸]
海岸近くに旧マッケンジー邸が保存されているので行ってみる。
月曜日なので休館でした。看板には次のように書かれていた。
開館時間 8:30〜17:00
( 見学の方は16:30までに入館願います。)
休館日 月曜日(祝日の場合を除く)
年末年始(12/26〜翌年1/5)
入場料 無料
[旧マッケンジー邸]
塀の外から覗いてみました。
素敵な建物です。
[旧マッケンジー邸]
日を改めて再訪問しました。
門が開いていて歓迎してくれている。
[旧マッケンジー邸]
近くで見るとさらに素敵な建物だ。
[旧マッケンジー邸]
中へ入るとタイムスリップしたような空間が広がる。
[旧マッケンジー邸]
ピアノがあったり、暖炉があったり。
[旧マッケンジー邸]
当時の写真や小物が展示してある。
[旧マッケンジー邸]
書斎。
[旧マッケンジー邸]
ここにもピアノや暖炉がある。
[旧マッケンジー邸]
会議室なのか、食堂なのかな。
[旧マッケンジー邸]
キッチン、配膳室。
[旧マッケンジー邸]
レンジやオーブンが西洋の空気を感じる。
[旧マッケンジー邸]
冷蔵庫がある。氷の冷蔵庫なのだろうか。
[旧マッケンジー邸]
和室もある。
[旧マッケンジー邸]
ベッドルーム。病院を彷彿する。
[旧マッケンジー邸]
バスルームも2ヶ所あった。
[旧マッケンジー邸]
階段も雰囲気がある。
[旧マッケンジー邸]
3階は見晴し部屋になっている。
台風の時には大変だろうなと思う。
[旧マッケンジー邸]
玄関脇に文化財の照明がある。
<地域景観資源>
旧マッケンジー住宅 静岡市駿河区高松
指定第3号 平成23年9月30日 静岡市
<登録有形文化財>
第22−0007号
この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁
[旧マッケンジー邸]
庭の隅に石碑がある。
<マッケンジー夫人の功績を讃う>
静岡茶の名声を、とおく海外に高からしめた夫君を助け、茶業の振興に貢献された若き日々、夫君逝きし後も共に愛したこの地に在って人びとに温かなこころを寄せられた
晩年、在静岡50年
夫人の敬虔な善意は社会福祉の灯となり、ことに幸いうすき子らも、その慈愛のもと健やかに育まれた。
また、夫人たちにはボランティアの精神を刻む。自ら奉仕を実践した20有余年
導きかな 日本赤十字社金色有功章
宜なる哉 静岡市名誉市民の称号
輝かしき 知事表彰 勲三等瑞宝章
ここ高松の潮騒のなか、その功を刻みてとこしえに静岡市民敬仰の証とする
昭和49年10月吉日 静岡市長 荻野凖平
[牧牛寺]
石田3丁目にある「平田山 牧牛寺」という臨済宗妙心寺派の寺院。
静岡駅から真っ直ぐ海へ向う石田街道沿いにある。
「石田」の町名は江戸時代に久能山東照宮の神領だった「石田村」から名付けられた。
[登呂遺跡]
静岡駅から2kmほど西南に登呂遺跡がある。
昔は安倍川がこの辺りにも流れていて川のほとりの湿地帯だったらしい。
[登呂遺跡]
復元の住居や倉庫が点在している。
<国特別史跡 登呂遺跡>
登呂遺跡は、今から約1,900年前の弥生時代後期の集落遺跡です。太平洋戦争中の昭和18年(1943)に発見され、昭和22年から25年(1947〜1950)に行われた学際的な発掘調査により、弥生時代の人びとの暮らしと米づくりの様子が日本で初めて明らかとなり、昭和27年(1952)に、「特別史跡」に指定されました。
平成11年度から平成15年度に行われた再発掘調査では、遺跡は、洪水により2度埋没し、その度に復興された変遷が確認されるなど、集落の様子が細部にわたり明らかになりました。
特に、最初の洪水前の集落の姿が最も良好に保存されていたため、再整備では、その姿を復元しました。
[登呂遺跡]
再整備により新しく作られた復元?家屋。
復元のようだが度重なる火災対策のため、コンクリートにより復元風に建築したものだ。
一見して本物の復元家屋と見分けがつかない。
[登呂遺跡]
こちらは従来の復元家屋。
<2号住居>
昭和25年に発見された住居跡。平面の形は楕円形で、周囲は盛土され(周場)、住居内部には羽目板がめぐり、4本の柱と炉が設置されている。周堤の外側には配水用の周溝が掘られ、杭と横木による護岸がされる。
[登呂遺跡]
復元家屋の入口から中を覗く。
[登呂遺跡]
踏み固められた土間の真中に囲炉裏がある。
[登呂遺跡]
家屋の中には当時の生活を体験できるような道具が置かれている。
説明員が常駐していて依頼すれば体験が出来るようだ。
[登呂遺跡]
より生活感を再現している家もある。
[登呂遺跡]
再整備前の平成21年に行った時の写真。当時は再整備をお知らせする看板が立っていたので読んでみました。
<復元住宅>
昭和26年以来、皆様に親しまれてまいりました公園の北側の復元住宅は、登呂遺跡再整備工事に伴い、12月1日に解体撤去しました。
登呂遺跡では、住居跡の存在しない位置に復元住宅が造られました。これは、遺構の保護と住居跡の背後に復元住宅を配置することで、住居跡にこのような形の建物が建っていたのだということを理解していただく整備手法だったわけですが、その後は別の整備手法が主流となりました。このため、住居の少ない場所に住居を建てたことで、住居の数を間違わせたり、集落の範囲を誤解させる原因にもなっておりました。
今回の再整備工事では、洪水直前まで存在した登呂遺跡の姿を正確に復元する方針ですので、住居のなかった位置に住居を置いておくわけにはいきません。そこで、復元住居を解体撤去したわけです。解体された復元住居の柱や梁は、今後、西側居住域エリアで展開していく予定の体験学習(住居復元体験)で活用できるよう「活かし取り」し、保存してあります。
平成19年度から新しく復元住居が居住域の上に造られていきますが、この復元住居は、「メモリアル広場」として登呂遺跡整備の歴史を解説する予定のこの場所で展示し続けます。
[登呂遺跡]
この写真も平成21年で再整備前のもの。かなり傷んでいた。
住居の説明があった。
<住居と家族>
この住居には、1夫婦にその子供たちを併せた5・6人が住んでいたと思われています。
入口はやや東より南で中央に炉があり、夏は涼しく、冬は暖かく、案外住みよく設計されています。
土の上にはアンペラ(ムシロのようなもの)やワラなどを敷いているようです。
[登呂遺跡]
同じアングルから復元後の写真。
[登呂博物館]
登呂博物館は建てなおされた。
[登呂博物館]
博物館へ入ると登呂遺跡発掘当時の写真と昭和22年11月の新聞記事が掲示されている。
[登呂博物館]
2階は企画展が開催されていて有料で入場できる。
稲作登呂遺跡のメインテーマだ。
<稲作のはじまり>
水田による稲作は、およそ7,000〜6,500年前に中国の長江(揚子江)中・下流ではじまったと考えられています。日本ではまた縄文時代前期で、自然の食料を採取する生活をおくっていました。
<稲作の日本への伝播>
日本で水田による稲作がはじまったのは、九州の北部地域で、縄文時代の終りの頃にさかのぼります。水田稲作の技術が中国大陸から日本に伝わった経路については、いくつかの説が考えられています。
<コメの収穫>
弥生時代のイネは、いくつかの種類がまざって栽培され、種類によって実る時期に違いがあった可能性があります。イネを刈り取る方法としては、全てのイネを同時に刈り取らずに、よく実った種類から順に、穂首だけを刈り取る方法がありました。収穫したイネはよく乾燥させてから臼に入れて、竪杵を使って脱穀や籾すりをしました。
<コメの品種>
イネにはジャポニカ種、インディカ種、ジャワニカ種といった植物生態学的な分類のほか、赤米・白米・黒米といった玄米の色で分類する方法など、さまざまな分類の方法があります。また、畑での栽培に適した陸稲と水田での栽培に適した水稲があります。
弥生時代の水田稲作では、水稲である温帯のジャポニカのイネに加えて、陸稲とされる熱帯ジャポニカのイネも栽培されていたと考えられています。
[登呂博物館]
水田のいろいろな道具が展示されている。
<水田を耕す>
水田を耕す道具には、鍬や鋤があります。鍬や鋤には、平たい板状のものと櫛歯状のものがあり、土を掘り起こす道具です。
また、田下駄はどろんこの水田の中を歩く時に足が沈んでしまわないようにはいた道具だと考えられていますが、弥生時代の水田跡からは多数の足跡がみつかることもあって、その使われ方が検討されています。
<水田をつくる>
水田は、水の出し入れがしやすいように北側から南側に向けてゆるやかにかたむいた湿地につくられていました。
水田の中には水路が通され、田の水の出し入れに使われていました。また、水路の中には田に入れる水量や水温を調節するための小さなダム(堰)がつくられていました。
<大区画と小区画>
水田は、土を高く盛り上げてつくった丈夫な畦や矢板・杭で補強した畦(大畦)で広く区切られ、その中は小高く土を盛り上げただけの小さな畦(手畦)で細かく区切られていました。大きな区画だけではすべての田んぼに同じ深さの水を張ることは困難です。
小さな区画は、どの区画にも同じ深さの水を張る工夫だったと考えられます。大畦は、作業用の通路として使われ、また、ひとつのまとまり(単位)をつくりだしていたとも考えられます。
[登呂博物館]
田下駄や石器、蓑の跡が展示されている。
<布を織る>
編んでつくられた布は、すでに縄文時代につくられていましたが、糸を織って布をつくる技術は、稲作文化のひとつとして大陸から伝えられた技術でした。布を織る機織りの道具は、部品ごと別々になっていますが、縄で結ばれるとひとつの道具になります。
登呂遺跡からは機織具の部品と、麻の糸で織られた布の切れ端が出土しています。
<石器をつくる>
石の道具は、縄文時代から受け継いで、工具、農具、武器、・をする道具、調理の道具、身を飾る道具など、弥生時代の生活の中でも幅広く使われました。そして、打ち欠いただけの打製の石器と、磨かれた磨製の石器がありました。
<道具をつくる道具>
道具をつくり出すために、材料を打ち割ったり、くりぬいたり、削ったり、磨いたりといった加工する道具がありました。弥生時代になると、とくに木の道具類が多く使われるようになり、発達しました。
これは、木を加工する道具として、大陸から伝えられた木を切り倒すための太型蛤刃石斧、木をくりぬくための柱状片刃石斧、木を削るための扁平片刃石斧やノミ状片刃石斧といった優れた摩製の石斧が使われたり、弥生時代後期に広まった鉄製の刃物が使われたりするようになったからです。
<土器をつくる>
弥生時代の土器は、縄文時代の土器に比べて薄く、模様が簡単になってきました。
つくり方としては、「輪積みづくり」という方法で形をつくり、表面に模様を描き、乾かした後に「野焼き」で完成させました。
模様は、縄を転がして付けた縄文と櫛のような道具で引いたり、突いたりして付けた櫛描文は西日本を中心に流行し、縄文は縄文時代の伝統を受け継いだ文様で、東日本を中心に流行しました。登呂遺跡から発掘された土器には、その両方の文様がみられ、東西両方の地域との交流を知ることができます。
【土器の形づくり】
ヒモのようにした粘土を輪にして積み上げていく「輪積みづくり」の方法で全体の形をつくりました。
【野焼き】
乾燥させた土器を焚き火で焼き上げました。土器が赤っぽい色をしているのは、粘土に含まれている鉄分が酸化したからです。
[登呂博物館]
住居づくりについての説明が書かれている。
<住居づくり>
弥生時代(おもに東日本)にみられる住居は、地面を掘ってすくった竪穴如お居が一般的でした。しかし、登呂遺跡の住居は、地下水の水位が高かったため地面を掘らずに地表面に床をつくりました。床の周囲には屋外に杭、屋内には羽目板で囲った堤を小判形に巡らせ、構造として竪穴住居と同じになるように建てていました。
また、堤の周囲には地下水の水位を下げ、住居の中に水が入ってくるのを防ぐ排水用の溝が掘られていました。屋根は4本の柱と梁で支えられ、屋根の裾は周囲の堤まで接していました。柱を埋め込んだ穴の底には板が敷かれ柱が沈んでしまうことを防いでいました。床の中央付近には、炉の跡が見つかっています。
<木取り>
切り倒した丸太から木材を切り出す方法としては、まだノコギリがなかったので、丸太にクサビを打ち込み、木の芯からミカンの房のように彫り分けていく方法や必要な●をあけて丸太に刻みを入れ、その●をはがし取るといった方法がありました。
また、板材には、年輪にそって削りとる板目いたと年輪を断つように削り取る柾目材があります。
[登呂博物館]
鼠返しなどの建物の仕組みが紹介されている。
<高床の建物づくり>
柱を建てた穴の跡しかなく、・や炉跡がみつからない建物は、
床が地面にない高床の建物の跡だと考えられました。
高床の倉庫は、収穫したイネを翌年の収穫時期まで長い間保存しておくため、ネズミなどの小動物が入ってくるのを防ぐネズミ返しの板が柱に取り付けられていました。
壁板は井桁に組まれ、建物のゆがみを少なくする工夫がされていました。また、倉庫と同じく高床の祭殿は、祭りごとがおこなわれた神聖な建物で、棟木を支える柱が張り出してそえられているのが特徴的です。
[登呂博物館]
いろいろな器が展示されている。
【煮炊きの道具】
火の当たりが良い台が付いた甕がおもに使われました。この台付甕の表面には煤がついています。
【土の器】
壺、甕、椀、鉢などといった種類があり、調理、保存、運搬用の道具、食器などとして広く使われました。
【木の器】
槽、鉢、皿、高杯などの種類があり、ほとんどが刳りぬいてつくられ、食べ物の盛り付けなどに使われました。
<調理と器>
食料は生でも食べていましたが、加熱調理もしていました。調理用具や食器はおもに土や木を使ってつくられ、とくに木製の用具はいろいろな形の製品がつくられました。また、調味料として塩がすでに使われていました。
[登呂遺跡]
3階へ登るとテラスになっていて遺跡の全景と富士山が見える。この日は残念ながら霞んでいて富士が見えなかった。
[登呂遺跡]
登呂遺跡は水田の中に復元家屋が立ち、その向こうに対比するように高層団地や静岡新聞社のビルがそびえる。
[芹沢美術館]
登呂博物館西側の林の中に石造りの建物がある。芹沢美術館だ。
[芹沢美術館]
登呂遺跡に芹沢美術館がなぜ併設されているのだろう。
<看板>
この美術館には、我が国染色界の第一人者、人間国宝の芹沢_介先生が、郷里静岡市に寄贈された作品及びコレクションが展示されています。
<石碑>
芹沢_介氏の功績をたたえる
静岡市本通りに生まれ 郷土静岡の和染に学び 沖縄の紅型にひかれ 美しい意匠と豊かな詩情は 型絵染の独自の世界を築き上げた 人間国宝 文化功労者 そしてフランス芸術功労章に輝く世界の巨星 いま数千点に及ぶ作品とコレクションは ふるさとに贈られ 静岡市名誉市民の称号と共に 弥生の里登呂の地に とこしえにその功労を刻み 静岡市民敬仰のあかしとする。
昭和61年6月吉日 静岡市長 河合代吾。
[芹沢美術館]
入口を入ると大谷石?に囲まれた通路が美術館へと導く。
手入れの行き届いた松も絶妙な風景を作っている。
[芹沢美術館]
すっきりした、無駄な装飾がない玄関口。
[芹沢美術館]
玄関を入って今来た通路を振り返る。
[芹沢美術館]
芹沢_介と言えばこの「型絵染」。滝。
[芹沢美術館]
人をモデルにした作品もある。
[芹沢美術館]
富士と雲をデザイン化したものだろうか。
[芹沢美術館]
美術館には芹沢作品と芹沢コレクションが展示している。
[芹沢美術館]
一段下がった所に洒落た空間がある。
[芹沢美術館]
天井がドーム状になっている。
[芹沢美術館]
どこを見ても絵になっている。
[芹沢美術館]
真中のあたりに応接間のような部屋があって箱庭を見ることが出来る。
[芹沢美術館]
応接間風のスペースに年譜が書かれていた。
<芹沢_介略年譜>
明治28年(1895) 5月13日、静岡市葵区本通の呉服太物卸小売商、大石角次郎の次男として生まれる。
大正5年(1916)21歳 東京高等工業学校(現・東京工業大学)図案科 を卒業。
大正6年(1917)22歳 芹沢たよと結婚。静岡県立静岡工業試験場にて図案指導を担当する。
大正11年(1927)27歳 大阪府立商品陳列所図案課を辞し帰郷。手芸団体「このはな会」を結成する。
昭和2年(1927)32歳 朝鮮への旅の途上、船中にて柳宗悦の論文「工藝の道」に感動、生涯の一転機となる。
昭和3年(1928)33歳 東京・上野公園で開催された大礼記念博覧会で、沖縄の染色(びんがた)に瞠目。
昭和4年(1929)34歳 国画会に染色家としてのデビュー作「紺地蔬菜文壁掛」を出品、国画奨学賞を受賞。
昭和6年(1931)36歳 柳宗悦の依頼により、1月に創刊した雑誌「工藝」の表紙を、型染で担当する(1年分12冊)。
昭和9年(1935)39歳 柳宗悦の勧めで東京・蒲田に移住する。
昭和14年(1939)44歳 初の沖縄滞在。紅型の技を受ける。
昭和20年(1945)50歳 戦災により家屋と工房焼失。型染カレンダー創始(没年まで継続)。
昭和30年(1955)60歳 工房新設。芹沢染紙研究所開設。
昭和31年(1956)61歳 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
昭和32年(1957)62歳 宮城県登米市石越町より板倉を住居として移築。
昭和38年(1963)68歳 倉敷の大原美術館に芹沢のデザインによる芹沢_介染色館・宗像志功版画館が完成する。
昭和41年(1966)71歳 中東・欧州各地を巡遊。紫綬褒章受章。
昭和42年(1967)72歳 静岡市名誉市民となる。
昭和43年(1968)73歳 新宮殿連翆の間の横額2面謹作。サンディエゴ州立大学で夏季セミナーを開き、個展を行う。
昭和45年(1970)75歳 勲四等瑞宝章を受ける。
昭和49年(1974)79歳 知恩院大殿内陣の荘厳布を制作。
昭和51年(1976)81歳 文化功労者となる。フランス、パリの国立グラン・パレにて「芹沢展」開催、大成功をおさめる。
昭和53年(1978)83歳 大原美術館にて「芹沢_介の蒐集もう一つの創造」展開催。
昭和56年(1981)86歳 6月、静岡市立芹沢_介美術館。フランス政府より芸術文化功労賞を授与される。
昭和57年(1982)87歳 インド・クシナガラ釈迦本堂のための「釈迦十大弟子尊像」を制作。
昭和59年(1984) 4月5日 88歳で逝去。正4位勲2等瑞宝章を贈られる。
昭和56年(1981)86歳
[芹沢美術館]
カレンダーが掛かっている。カレンダーの横に芹沢_介美術館の説明が書かれている。
大正のはじめ、画家を志した芹沢_介は、雑誌「白樺」を通じて西欧の文学や絵画に若き情熱を燃やし、国内では特に岸田劉生、中川一政、富本憲吉やバーナード・リーチの作品に強く惹かれた。その後、健やかであるべき工芸品が、美術へ逃避する退嬰的な風潮をきびしき批判した柳宗悦は、人の暮らしを高く豊かにする日常の雑器にこそ美が宿ると、実物を示しながら新たな工芸論を展開した。適格にして明快な柳の論旨にふれて、新鮮な感動を覚えた芹沢_介は、工芸に己の進む道ありと信じ、胸は大きくふくらむ。
郷里静岡で、伝統の相染に取り組む工人たちの確かな仕事に学び、昭和3年ご大典記念博覧会に沖縄県出品の紅型の色と模様の美しさに心打たれて目を開き、その心と業をうけとめて、型染こそ一生を託す仕事との信念をもつ。
爾来、柳宗悦を深く信慫して師と仰ぎ、彼の収集品を陳列する日本民芸館を中心に、展開された民芸運動にも力を尽くす。柳もまた芹沢の卓越した観察眼と描写力から生れた模様を当代随一と見抜いた。柳の主張や思想に共鳴した、陶工の河井寛次郎と浜田庄司、版画の宗像志功、木工の黒田辰秋らと共に20世紀を代表する作家として大成し、幾多の秀作を残す。
芹沢_介は制約の多い型染めの技法を用い、豊かな表現力に天賦の造形感覚が加わって、独創性に満ちた模様の世界を拓く。着物、屏風、のれん、額、軸、絵本など伝統の様式によりながらも変化に富んだ作風は世に「セリザワ模様」と称されるほど工芸の本質を純粋な形で具現した。その道を装丁や挿絵など数多くのグラフィック・デザインにも及ぼす。さらに家具、どんちょう、ステンド・グラスから建築にいたるま広い領域にまで仕事を進め、ついに他の追随し得ない高みへと到達した。
華麗にして荘重さに満ち、芳潤にして馥郁と香る芹沢作品は、人々の目を輝かせ心を和め、豊かさに胸の高鳴りを覚えさせるが故に、国内はもとより海外にまで愛好者の輪を広めた。
パリ国際近代美術館長のジャン・レマリー氏は来日し、透徹した眼で芹沢作品に迫り、「超俗にして簡素な東洋美」と讃え、昭和51年「芹沢_介パリ展」を企画し、日本人としては初のグラン・パレでの展覧を実現した。藍地に白く染め抜いた「風」の文字のポスターに誘われて訪れた万余に及ぶ異邦の人々に深い感動を与え、専門家の間からは「沈滞するフランス美術界に新鮮な刺戟を与う」との高い賛辞が贈られた。
若き日、東北の小絵馬に魅せられて始まった蒐集品は、やがて洋の東西南北に及び、人々の日々の営みに合せての知恵の集積としての世界の民族造形に静かな眼を向けると共に深く執心し、常に座右を賑わし続ける。
昭和56年、作品とコレクションを同時に展示する静岡市立芹沢_介美術館が開設され、昭和58年にはその全貌を総覧し得る「芹沢_介全集」31巻(中央公論社)が完成する。
作家がその在世中に美術館と全集の完成を目のあたりに為し得たのもまさに「芹沢」ならではの未曾有のことといえよう。
彼の描く絵や文字はのびやかにして清々しい。だが静寂もあれば、時には乱舞に似たものもある。その末期には、霊界への道を行きつ戻りつしたかと想像される流麗な字模様をしたため、この世に美しい染めの花園を残しながら、昭和59年4月5日弥陀の浄土へと旅立ったのである。今、静かに芹沢作品への関心が澎湃と湧きあがっている。
財団法人アジア民族造形館理事長 アジア民族造形文化研究所長 金子量重 昭和61年
[芹沢美術館]
美術館の出口。
[鷹の道遺跡]
駿河区役所の3階から鷹の道遺跡の発掘現場を見ることができた。ここの遺跡も近代化の犠牲になってしまう。
[石田神社]
駿河区役所から約400m西に石田神社がある。
石田神社の由緒
1 素戔鳴命(配祀)稲田姫命
1 例祭日 6月30日夏祭 秋祭 元旦祭 初午祭
1 社殿・工作物 本殿 拝殿 社務所
1 境内社 稲荷神社 御嶽神社 高倉稲荷大明神
1 境内地 1,103平方メートル
1 氏子数 1500戸以上
1 由緒創建 年月日天仁2年9月(紀元1109年鳥羽天皇御代 静岡市神社名鑑による)
1 寛文12年 11月の古文書あり
1 明治8年2月 社名悪王神社(あこうじんじゃ)より石田神社と改称した。
1 明治8年2月 村社に列格した。
1 昭和20年4月26日 神饌幣帛料供進神社に指定された。
1 昭和20年12月住友金属株式会社静岡プロペラ製作所工場の地の神として祭ってあったのを終戦により住友会社よりの依頼により石田神社境内に移転して祀った高倉稲荷大明神である。
1 昭和21年7月宗教法人令により届出をなし昭和27年8月宗教法人令により設立登記した。
1 静岡県神社庁神社等級規定10級社に指定された。
[石田神社]
石田神社は住宅街にひっそり建っている。
<古老の口碑>
当神社は乳児の夜啼きする者ある時は此の社に来りて祈願し社前に寝させて一声泣かして帰り共後夜啼き直りたる時は立願賽して又乳児を連れ来りて土偶を神前に納るを例とす。其霊験あるを以て古来よりこれを信ずるもの多く他府県人等来りて立願する者も少なからずと云う。
「付記」
この項にある土偶とは「土でくのぼう」で玩具図鑑にも悪王神社の首人形と服織村の洞慶院の「おかんじゃけ」とが載って居る。
其様に静岡近在に昔より有名であるが大戦後、土偶即ち首人形等商う店もなくなりし為に今は奉納する者が絶えた次第である。又首人形の代わりに絵馬を奉納する人もあったがこれも今は少なくなった。
次に昔より悪王神社或は悪王神と言いますがどうしてこのような名前を付けたかと言うことで或漢学者の考証によりますと亜皇の誤りではないかと云う。
悪の字について亜の下の心と云う字と皇の上の白を行書で書いて白を心と書き違えたのを後に誤り伝えられたのではないかということです。
亜皇ならば亜はつく皇は「皇統」とか「すめう」と読む、スメラにツグ即ち天照大神にツグで即ち御弟須佐之男命と言うことになる。祭神が須佐之男命であるから亜皇神社或は亜皇神という字もこれでなければならぬ筈との説である。
また一説には源平時代に猛い武将等が自ら名前を悪源太義平とか悪七兵衛影清等と言ったように最初から猛い祭神須佐之男命であるので悪王神社と言ったのだろうとの説もある。
どちらにしましても今は明治8年2月より石田神社と改称された。
(考証)素戔鳴命(古事記) 須佐之男命(日本書紀)
<町名の由来(石田)>
かつて石田村だった名残りの町名。
この辺りに弁志田池(へしだいけ)と呼ばれた所があったと「駿河国新風土記」に書かれている。
ヘシダが変化してイシダに変わったとも言われている。
江戸時代の石田村は久能山東照宮の神領であった。
[小鹿山神古墳]
区役所から3kmほど東方の有度山の麓、東名高速道路の側道から入ってすぐのアパートの脇に遺跡発掘現場があった。
ここも発掘後には何もなかったかのように開発されるのだろう。
[小鹿・竜雲寺]
小鹿にある「小鹿山 龍雲寺」という曹洞宗の寺院。
昔、この寺は小鹿氏の館があった。竜雲寺は館の中心だったらしい場所に位置する。
小鹿氏の館にちなみ、このあたりを「小鹿」という。
小鹿氏は今川氏親の身内で跡目争いに敗れた人物。鎌倉末期の有力武将だった。
室町末期に駿河国守護今川義忠が討死した後、義忠夫人北川殿の兄伊勢新九郎氏(のちの北条早雲)が相続争いの間に立ち、義忠の遺児竜王丸(のちの氏親)の成人まで、今川一門の小鹿範満が後見することになった。
竜王丸が成人した後も、小鹿範満は後見の座を下りなかったことから討ち取られ小鹿氏は滅亡した。
[竜雲寺]
竜雲寺の門の脇に石碑が立っている。
<東豊田小学校発祥の地>
明治維新により我が国は、近代国家を目指し、その基盤たる教育を奨励した。
明治5年に学制が頒布されるや当小鹿では、明治7年2月8日この龍雲寺の堂宇を借りて学校として小鹿村庠と名づけた。
明治13年に茅葺きの屋根を瓦葺きに替え、小鹿・池田・聖一色の学童らの通学する処となった。
明治23年に至り校名を東豊田尋常小学校と改め、2年後小鹿北原の地に建てた新校舎に移るまで、大凡19年間にわたり、ここ龍雲寺は児童の教育の場であった。
現在の東豊田小学校の渕源の地である謂れを記して、祖先を偲ぶよすがともするものである。
平成元年9月吉日
撰文者 田宮久美
寄贈者 田宮安吉
[七面大明神]
小鹿病院の裏山の小さな神社が七面大明神。神社の脇には珍しい神社の墓地がある。
池田との境に建っていて小鹿に位置する。
[曲金北遺跡]
東静岡駅の南口の前に遺跡がある。
[曲金北遺跡]
遺跡の説明が書かれた碑がある。
<古代東海道>
平成6年、静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」の建設に先立ち、曲金北遺跡の発掘調査が行われました。その結果、古代の都と地方を結ぶ重要な幹線道路である東海道が発見されました。
発見された古代東海道は調査区を長さ約350mにわたって一直線に平行して延びる2本の溝という形で見つかっています。この溝は道路の側溝であり、側溝の間の路面部分には砂利をたたき込んだ状況が見られました。
両側の側溝の中心間の距離は12〜13mを測り、道路の幅としては約9m程と推定されます。
側溝や路床から出土した遺物などから、この古代東海道は8世紀初頭〜10世紀初頭(奈良時代から平安時代前半)に使われていたと考えられます。
一直線に延びる古代東海道の方向は、静岡・清水平野の条理の東西軸方向と一致しており、本地域の条理が古代東海道を基準として施行されたことがわかります。古代の官道と地域計画の壮大さをまざまざと見せてくれる資料です。
なお、発見された古代東海道の遺構は関係者の努力により、約100mにわたって保存されました。遺構は約1.5mのところに残されていますが、地表にはカラーブロックにより路面を、また植栽により側溝の位置を表現しています。古代東海道の規模・方向性などを実感していただければと思います。
平成10年10月 静岡県 静岡県教育委員会
−コメント−
− 久能寺観音道 −
清水の狐が崎から鉄舟寺(旧久能寺)まで約3km程度の散歩道。
久能山東照宮へ向う久能街道と合流する駒越まで2kmを加えて約5kmの行程となる。
[旧東海道]
旧東海道の狐が崎にあるイオンショッピングセンター横の交差点に久能寺観音道がここから始まるという道標が有る。
[久能寺観音道]
久能寺観音道の道標前に説明看板があるので読む。
<久能寺観音道>
この道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。
久能寺はもと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国主今川義元攻略のため久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築されたものである。
明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っている。
[久能寺観音道]
谷津沢川の脇の自動車の通れない狭い道を進む。
[久能寺観音道]
道幅はやや広くなるが、相変わらず狭い道だ。
このあたりは「平川地」という町名
[久能寺観音道]
南幹線の下を抜ける。
[久能寺観音道]
「有東坂」という町名に変わり、入り組んだ道を進む。
[久能寺観音道]
南幹線から200mほど進むと右に寺が見える。
[久能寺観音道]
「延命山 誓願禅寺」という曹洞宗の寺
[久能寺観音道]
入口に寺の名を標した石柱が立っている。
[久能寺観音道]
誓願寺は小さな丘陵地の麓にあり、東斜面に誓願寺の墓地が並んでいる。
その丘陵地の西側に回り込むともう一つ墓地がある。珍しいキリスト教墓地だ。
[久能寺観音道]
キリスト教墓地は洒落た墓が並んでいる。
[久能寺観音道]
観音道まで戻り進む。
[久能寺観音道]
観音道は山の麓を進む。
階段が所々に見られる。
[久能寺観音道]
観音道はこの先の路地を左に曲り、自転車もすれ違えないほどの路地を進む。
この路地を曲らずに200mほど坂を上ると楞厳院があるので寄ってみます。
[久能寺観音道]
「補陀山 楞厳院」という曹洞宗の寺院
[久能寺観音道]
楞厳院の門前にある「忠魂碑」
[久能寺観音道]
観音道へ戻り、狭い道を進むと100mほどで白髭神社がある。
[久能寺観音道]
林の間の参道の奥に社殿が見える。
[久能寺観音道]
山の麓を観音道は進む。
[久能寺観音道]
狭い道が続く。
[久能寺観音道]
山際に墓がある。
玉泉寺の墓だ。
[久能寺観音道]
寺の境内とも観音道ともわからない道を進む。
[久能寺観音道]
道が墓の間に消える。
[久能寺観音道]
「普門山 玉泉寺」曹洞宗の寺だ。
[久能寺観音道]
「普門山」の額が本堂にかかっている。
[久能寺観音道]
玉泉寺は墓のスペースが広い。
[久能寺観音道]
観音道は相変わらず狭い道が続く。
[久能寺観音道]
伊勢神明宮
[久能寺観音道]
伊勢神明宮の由緒が書かれた石碑が立っている。
<伊勢神明宮(船越町)>
伊勢神明宮祭神 天照皇大神
相殿多度社祭神 天津彦根命
相殿白髭社祭神 武内宿弥命
1.船越町伊勢神明宮は創建年月日不詳なれども桃園天皇2412年宝暦2年9月再建とあり、明治8年2月村社に列す。
1.相殿多度社は三重県多度本社より黒幣を戴いて雨乞祈願した時合祀せり。
1.相殿白髭社は船越町下の宮に祀りに在りしが時代の変革に伴い大正7年ここに合祀す。
1。船越の地名は元和2年・・・検地のとき船越と号せり。
[久能寺観音道]
観音道は現在の道路と平行し、交差しながら進む。
正確な位置はわからないまま進んでいく。
[久能寺観音道]
船越堤公園の脇を抜けていく。
[久能寺観音道]
桜で有名な船越堤。
池の中に四阿が設置されている。
[久能寺観音道]
狭く車も通れない路地の多いこの地区に、ここ船越堤へは大型車が通れる道が整備されている。
[久能寺観音道]
観音道は脇の小道へ向っていく。
[久能寺観音道]
山裾を進む。
[久能寺観音道]
北矢部にも伊勢神明宮がある。
<北矢部伊勢神明宮>
1.十八祖社 正治(1200)の頃にこの辺りを領有していた豪族矢部小次郎家綱が矢部氏の十八祖大織冠藤原鎌足を斎祀った社にして古くからお十八祖と言われている。
2.御霊神社 矢部氏らによって不運の最後を遂げた鎌倉幕府の智将梶原景時・景季父子の霊を相祀る。3.伊勢神明宮 天照皇大神を江戸時代の中頃より伊勢信仰により勧請したものとされる。
4.津島神社 須佐之男命を祀る戦後新定院境内より移転合祀する
以上の諸柱をお祀りしているがこれらの神を総称して伊勢神明宮と呼称するようになった。
鎮座地 清水市北矢部字氏神神山1317番地外
境内敷地 2091坪
例祭日 2月11日〜10月17日近辺の日曜日
[久能寺観音道]
観音道は住宅街の中を通る。
[久能寺観音道]
観音道の周辺には寺が多い。道から少し外れて東海寺がある。
臨済宗妙心寺派の小さな寺だ。
[久能寺観音道]
東海寺から200m程南に日蓮宗の「見海山 能満寺」がある。
幼稚園が併設された寺だ。
[久能寺観音道]
私道のような道へ入って行く。
[久能寺観音道]
観音道は山裾を進む。
[久能寺観音道]
車が通れない道だが、ちゃんと舗装してある。
[久能寺観音道]
杉原山と書かれた道標がある。
[久能寺観音道]
足を踏み外しそうな道
[久能寺観音道]
史跡「徳富蘇峰顕彰の碑」と書かれた道標が立っている。
[久能寺観音道]
道から少し入った所にお堂が建っている。看板に説明書きがある。
<杉原山虚空蔵堂>
このあたりは杉原山と言います。今から約500年前に創立された本能寺は村松1丁目のたたき取りの山であり、当時は杉原山全体が同寺の敷地境内でありました。現在、この仏堂の境内地は66平方メートル程であります。
戦国時代、甲斐の武田信玄がまだ世に出なかった徳川家康を攻め窮地に陥れました。
その時、家康を追いつめたのは信玄の家臣、今福丹波守主従7人であったといわれますが、ついに家康を探し出すことができず、ご主君に申しわけないと、この地で無念の自害をしたと伝えられています。
後に村人たちはこの7人の悲運を哀れに思って「7代様」と呼んで供養してきました。
7代様を虚空蔵菩薩としてお祭りするようになったのは、今から200年余り昔の明和8年(1771年)本能寺大8世遠寿院日問上人の時からであります。
[久能寺観音道]
もちの木の脇に「保存樹木」の札が掲げられている。
[久能寺観音道]
「いいなり地蔵」のお堂があり、祈願の札が数多く掛かっている。
[久能寺観音道]
説明看板があるので読みます。
<言い成り地蔵尊の由来>
時は元和2年夏(380年前)旅の老行者あり、この地にて病に臥す。
村人は昼夜親切に看護す。
「われ地蔵菩薩の化身なり逝きて後、この地に地蔵菩薩を建てよ、如何なる願いも叶う程に」と
村人、地蔵菩薩を建て懇ろに供養する。いつしか「言い成りさん、いいなりさん」と信心厚き人々により詣でる線香の煙り絶えることなし
平成8年3月吉日再建
[久能寺観音道]
いよいよ「鉄舟寺」の近くまでやってきた。
[久能寺観音道]
「鉄舟寺」の石積みの塀が建っている。
[久能寺観音道]
鉄舟寺が「久能寺観音道」の目的地。今は鉄舟寺と呼ばれているがかつては「久能寺」と呼ばれていた。
まずは仁王門が迎えてくれる。門の脇に由来の看板が2つ立っていた。
<鉄舟寺の由来>
鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、およそ一千三百年の昔、推古天皇の時代、国主久能忠仁公によって創立せられ、奈良朝の初期、行基菩薩が中興せられた。
当時坊中三百六十、宗徒一千五百人もあり、豪勢をほこっていた。又鎌倉時代以後の貴重なる文献や、仏像、仏画、納経、什器等数々の宝物が今日まで寺に残されてある。
降って武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の嶮要に築城することとなり、天正三年(1575)現在の場所に移されたのである。後武田氏は滅ぼされたが、徳川幕府も古来からの名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜った。
世が改まり明治御一新となるや、その混乱の中で長く栄えた久能寺も次第に散乱し、住職もない廃寺となってしまったのである。
幕末の俊傑、山岡鉄舟はこれを惜しみ、再興せんことを発願し、仮本堂に今川貞山師を迎えて開山とし、広く寄進を募ることにしたのである。
明治十六年(1883)鉄舟四十八歳の時である。鉄舟は募金のために、沢山の書を揮毫して侠客清水次郎長に与えた。次郎長も大いに奔走した。
この時次郎長のために書いた募金趣意書が、鉄舟の手控帳の中に記されている。
「鉄舟寺庫裡建立墓縁山本長五郎簿」
寺を建てても何もならぬ。親を大事にしてもなんにもならぬ。わが身を大事にしてもなんにもならぬ。なんにもならぬところを能く能く観ずれば、
又、何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、諸君なんにもならぬ事を諒察あらば多少の喜捨あるも又、
なんにもならぬ何かあるの一事也」
明治二十一年二月 山岡鉄舟しるす
ところが、鉄舟は明治二十一年七月五十三歳で惜しくも此の世を去り、鉄舟寺の完成を見ることが出来なかった。
清水の魚商、柴野栄七翁は元来信仰の篤い人であったので、鉄舟の意志をつぎ、幾多の困難を乗り越え、明治四十三年三月十日鉄舟寺の完成を果たしたのである。
かくて名刹久能寺は蘇り、清水の霊場鉄舟寺は永久に伝わることになったのである。
[久能寺観音道]
もう一つの看板を読む。
<国宝「久能寺経」装飾法華経嘱累品>
平安時代後期
永治元年(1141)
鐡舟寺蔵
装飾経の最高峰である「久能寺経」と「平家納経」は、平安貴族の法華経信仰の隆盛と写経の荘厳が極限に達した平安時代末期に出現している。
それは、貴族佛教と王朝文化が融合した結晶ともいえるこの世に類のない紙工芸の傑作である。
「久能寺経」は、平安宮廷の優雅典麗の雰囲気と高貴な気品を湛えている。
また、その約20年後に完成した「平家納経」が、平清盛(1118〜1181)率いる一門の莫大な財力を背景に権勢を誇り、栄華をきわめた豪華絢爛たる趣好と対称をなしている。
久能寺経は、栄治元年(1141)鳥羽上皇(1103〜1156)御出家の折、逆修(生前の供養)五十講が営まれ、この機会に写経された。
そして、鳥羽上皇の離宮の一部にあった安楽寿院に置かれた。
法華経28品を各28巻として、開経の「無量義経」と結経の「観普賢経」を加えた30巻の一品経である。
巻末に結縁者として、中宮待賢門院(1101〜1145)、女御・美福門院(1117〜1160)をはじめ宮中の人々の名が、写経者とは別人によって書かれている。
いつのころか、東海道の佛法布教の一大中心地として栄え、寺坊360余を擁する久能寺に京都より将来された。
それより800年余、世の変遷の中、一部が流失して、とりわけ明治維新後の久能寺荒廃の折に8巻が散逸している。
幸い明治16年(1883)、明治天皇侍従・山岡鐡舟(1836〜1888)が、名刹の廃れたのを惜しみ、鐡舟寺を再興し、残る久能寺経19巻は無事保存され、明治33年(1900)、国宝に指定された。
この「嘱累品」は料紙に、金銀の切箔や砂子、銀の野毛を控え目に散らし、界線(行割の線)も銀泥で明るい色調である。
上方には、五天女が軽やかに舞い飛び、経文の下には、水波を銀泥で表わした池に、蓮の花が、緑青、群青等で、こまやかにのびのびと描かれている。
見返絵の山と霞を金銀で描いた絵は、明治34年の修理に際し添えられた。 合掌
平成7年7月 鐡舟寺 住職 香村俊明 識
[久能寺観音道]
阿吽の仁王様
[久能寺観音道]
仁王門を入り階段を登る。階段の登り口に説明看板が立っている。
補陀洛山鉄舟禅寺
創建
鉄舟寺はもと久能寺と云い、今の久能山にあって、およそ1400年の昔、推古天皇の時代、国主久能忠仁公によって創立。奈良朝の初期、行基菩薩が中興されました。
開山 今川貞山師
本尊 千手観音
数多くの文化財を展覧
山岡鉄舟に仁侠を認められ鉄舟寺建設に協力した清水次郎長まで 次郎長等身木像有り
東海の名刹 鉄舟寺宝物殿 元鉄舟寺
<山岡鉄舟について>
鉄舟は、1836〜1888年(天保7〜明治21年)江戸末期、明治の政治家、旗本小野家の5男として江戸に生れ鉄太郎といい、飛騨(岐阜県)で育った。
22才のとき山岡氏を継いだが江戸で槍剣術を学び、剣の達人として無刀流剣法をあみ出した。剣の心としての禅に修養を積み、時々龍沢寺に参禅し星定和尚に教えを受けていた。
明治御一新となるや、荒廃して廃寺となってしまった名刹久能寺惜しみ再興を図った。
時に明治21年7月53歳の時、寺の再建の完成を待たずにこの世を去った。
幕末の三舟の書 山岡鉄舟 勝海舟 高橋泥舟
[久能寺観音道]
門の裏に宝物殿の料金所がある。
また時間がある時に入ってみよう。
門の横に歴史が書かれた看板を読んでみる。
[補陀洛山 久能寺の歴史]
<旧久能寺から鉄舟禅寺>
補陀洛山久能寺は、
はじめ現久能山東照宮が鎮座する久能山頂にあって平安時代に建穂寺と駿河を2分する勢いであった。
この久能寺は、推古天皇の時代に、秦河勝の次男秦尊良の子といわれる久能忠仁の創建になると「久能寺縁起」は伝えている。
平安初期には天台宗の寺院として建立されたと考えられる。
永禄12年(1569)までには、その久能山頂に武田氏が城を構え、久能寺は現鉄舟寺の村松に移され、真言宗に変わる。
これ以前をここでは「旧久能寺」その後「久能寺」と呼び分けておきたい。
やがて明治初めの廃仏毀釈の荒波を受けたが、明治16年(1883)に山岡鉄舟が臨済宗の寺院「鉄舟禅寺」として再興する。
<久能寺の創建と寺院>
@由来
推古天皇の頃久能忠仁が杉の巨木中に5寸余りの金の千手観音を見つけ堂に祀ったこと、
補陀洛からの老僧の夢告から補陀洛山と名付け、寺号も檀那の名に負うこと、
A行基の事績・駿河七観音寺との関わり
堂塔ほか建物の整備のこと、
B源清の事柄
源清の再来を通じての平泉とのかかわりと師忠の寄進のこと、
C星光坊見蓮の事績
永久2年常行三味堂を建て、例式の勤行が始まること、
D康平5年寿勢僧都が法華八講を始めること、
平治2年仁王講を始めること、
天仁2年4月1日実朗上人が三十講を始めること
E為政者との関わり
平家一門が久能寺経を納めたこと、
頼朝の寄進、
坊数360、宗徒1500人、奥座敷宗500余人を数えたこと、薄墨の笛のこと、
F堂社焼失
嘉禄年中の大火以降勢いを失ったこと、
G伊豆との関わり
願成院落慶の帰り、船が難破、舞楽関係の什物を失ったこと、
などが述べられ、加えて寺の勢いが衰微したことが記されている。
養老7年(723)に僧行基が入山し、7体の仏像を彫り、7寺を創建した、
この7寺が久能寺のほか、霊山寺、建穂寺、法明寺、徳願寺、増善寺、平澤寺と呼ばれる寺院である。
いずれの寺院も行基を開山とし、千手観音を本尊としていて、江戸時代には参詣者を多く集めていた。
また、こうした諸寺の関係は、県指定文化財の「大般若経」の奥書にも見え、霊山寺には江戸時代中期の久能寺銘を刻んだ浴油道具の杓が伝わっている。
鉄舟寺過去帳にも、駿府清水寺、智本智院、などに並んで建穂寺、平澤寺見えていて関わりの強さを窺うことが出来る。
中でも平澤寺は久能寺妙楽院との関わりが、永禄13年(1570年)以降の平澤所蔵文書で確認できる。
室町時代の前期には、駿河国の密教寺院のネットワークが出来上がっていたであろう。
さらには密教寺院ネットワークは、全国にも拡がっていた。
一方屏風谷を挟んで日本平山頂と対峙する峰の頂に位置していた久能寺には、いくつかの参詣道が整備されていた。
平澤寺も主要な参詣道を守護する寺院のひとつであり、草薙、矢部、村松などから久能寺を目指す参詣には守護のための寺院が設けられていた。
あるいは永禄12年(1569)までに移されることになる妙音寺(現鉄舟寺)もそうした寺院のひとつであった。さらに鉄舟寺には「鎮守十二所権現勧請札」一面が知られている。
康平5年(1062)に納快が勧請した十二所権現を、応保2年(1162)に星光坊見蓮が再興したときに、藤原教長に書写させた額がこれで、古代の神仏習合の一資料としても注目される資料である。
教長は駿河守を任じていて、時の宰相入道であり、調停内部と久能寺が大きく関係をもっていたことが分かる。
鉄舟寺蔵本「久能縁起」の異本である安永7年書写の「東照宮本」では、末尾に、「(朱書)当山鎮守十二所権現正躰の修理の事、弘辛酉8月長元年朔日、願主金剛峯子道尊、絵師沙弥入蓮矣。己上十二所権現正躰之像之壇之裏書也。人王八十九代、亀山、従弘長元年、至寛文3癸卯年9月11日為観音の芳宮修理供養開帳焉。同10月朔日閉結畢。」
とあり、弘長元年(1261)に十二所権現の本尊(木造伝摩多羅神像)が修理されたことを伝えている。
また、天台守護の「勧請札」「熊野三所権現」銘や、熊野「補陀洛寺」と「補陀洛山久能寺」の名銘から弱射ながらも熊野との関わりを窺うことができる。
久能忠仁の名付けられる以前には、久能山は賤機山とも呼ばれていたと一書は伝えるが、山頂からの眺望のすばらしさと共に、まずは山号が「補陀洛山」であることに注意したい。
補陀洛という言葉は既に「久能縁起」の中に見えていて、14世紀の前半には久能山が補陀洛の山と観念されていて、恐らくこの言葉は古代に遡るであろうと思われる。
補陀洛とは、海上のかなたの理想郷のことであり、日光が然り、また、京の都における熊野がそうであったように、聖地あり浄土(理想郷)と考えられていた。入口に位置する寺が久能寺なのである。
補陀洛渡海とは、久能寺においても、眼下の海岸から南の洋上に船出してその理想郷に往生することであった。
このように久能寺は、密教の中核的な地方寺院のひとつであり、朝廷とも密接な関わりがあり、天台宗、真言宗や修験道を介して熊野とも繋がっていた場所であった。
(まだ歴史は長いです調べて書きます・井上)
[久能寺観音道]
階段の上の宝物殿
[久能寺観音道]
宝物殿の横の鐘楼
[久能寺観音道]
「熊野一二社」が祀られている。
[久能寺観音道]
本殿には葵の御門が使われている。
[久能寺観音道]
観音堂は丘の頂上にある。
階段の入口に石柱が立っている。
[久能寺観音道]
階段の両脇に観音様の石像が並んでいる。
[久能寺観音道]
50mほどの高さを上った頂上の広場からは清水が見渡せる。
雲がなければ富士が見える
芭蕉句碑がある。「雲霧の暫時百景を尽しけり」 芭蕉翁
[久能寺観音道]
観音堂の横にお堂が建っている。
[久能寺観音道]
観音堂
「久能観音道」はここで終点となる。
鉄舟寺の前身「久能寺」はもともと今の「久能山東照宮」にあったというので久能街道まで行ってみます。
[龍華寺]
龍華寺は鉄舟寺から300m南にある。
<観富山龍華寺>
当山は寛文10年(江戸時代初期)日蓮宗の高僧であった日近大僧都の開創で浄財の施主は紀伊頼宣と水戸頼房二卿である。
時の帝、東山天皇は日近上人を崇拝せられ、この寺を皇室の祈願寺と定め、観富山龍華寺と御命名された。
一、内苑 観富園須弥山式庭園
本堂 文化財
祖師堂 120枚の天井画
一、外苑 龍潜園
一、天然記念物 大蘇鉄 大サボテン
一、明治の文豪 高山樗牛
一、樗牛館 樗牛の遺品、寺の重宝を展示
一、拝観時間 8時30分〜16時30分(年中無休)
一、拝観料 大人300円 子供100円(30名以上より割引)
住職敬白
[龍華寺]
門前に絵地図があって見どころが画かれている。
<日蓮宗 観富山 龍華寺 参詣案内図>
天然記念物 大蘇鉄 大サボテン
明治文豪 高山樗牛の墓
七面堂
槇柏
厄除不動尊
行啓門
東山天皇行幸橋
祖師堂
本堂
樗牛館
[龍華寺]
拝観は有料だったので時間のある時にゆっくり、また来たいと思う。
[龍華寺]
今では珍しい、茅葺き屋根の本堂が山門から見ることができる。
[天王山]
龍華寺から県道198号を500mほど南に行くと東側に天王山遺跡がある。看板を読みます。
<天王山遺跡>
清水市指定史跡 天王山遺跡
指定年月日 昭和44年7月1日
天王山遺跡は、昭和26年から5回にわたって発掘調査が行われ、縄文時代晩期(今からおよそ3000年前)を中心とした遺跡であることがわかりました。
この遺跡では住居址のほか集石墓・屋外炉・土器・各種の石器・耳輪・骨針・土偶などが発見されました。出土した土器から中部地方の縄文時代晩期の標識遺跡となっています。
平成3年4月 清水市教育委員会
[天王山]
遺跡跡には児童遊園として整備されている。もう一つ看板があるので読みます。
<筆捨の池>
久能街道は、有度山の麓に沿って久能に至る道で昔は人々の往来がひんぱんな道でした。
途中のここは不二の森(天王山神社)という小さな社があり、大きな松が1、2本植えられた小高い所でした。
ここからの富士山、駿河湾、伊豆連山の眺めはすばらしく、諸国を行脚し、多くの名勝地を観賞した西行法師(西暦1118〜1190)も、あまりの絶景に「筆舌に尽くし難し」と感服し、筆をかたわらの池に捨てたといわれ、後にその池を筆捨の池と言い伝えられています。
また、室町時代の山水画の大家、雪舟和尚は遣明使の随行として渡明し、明帝との謁見の折、日本第一の絶景地を問われ、この地の風景を推したといわれています。
現在は、池を埋め立てたとはいえここでの景観は日本の各名勝地に比べて勝るとも劣らぬ郷土の誇りとして長くその名をとどめていきたいものです。
昭和61年2月
不二見地区まちづくり推進委員会
南部公民館おもと大学ふるさと研究クラブ
[天王山]
「天王山遺跡」と彫られた石碑が建っている。
[天王山]
「天王山神社」が祀られている。
[宮加三]
天王山遺跡から有度山方面を見る
この丘陵も遺跡だったのだろうか。古墳や出城の好ポイントに見える。
[市立清水病院]
市立病院も有度山の麓に建てられている。
[市立清水病院]
市立病院周辺に古墳があったそうだがどこなのだろう。
[市立清水病院]
市立病院の南側に散策道路が整備されているがこの丘に古墳はあったのだろうか。
[殿沢古墳]
市立病院から200m南にも古墳があったらしい。
日本平へ向うパークウエイを上るとすぐにガードレール脇に看板が立っている。
<殿沢古墳郡跡>
今から1400年前(7世紀後半)この地域に住んでいた権力者の古墳跡。
全部で6基発掘された。
平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
[殿沢古墳]
看板の向かえ側には住宅街が建設されている。
[殿沢の渡し]
パークウエイを下りた所の向かえ側の路地を入った所が「殿沢の渡し」だ。
[殿沢の渡し]
この坂を下った所にかつては海岸があったという事のようだ。
[殿沢の渡し]
下った所に看板が立っている。
<殿沢の渡し跡>
狐ケ崎を出発点とする久能観音道は殿沢で二つに別れる。
西に行くと久能山、東は舟で御穂が崎へ渡るところ。
平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
[忠霊塔]
忠霊塔公園には記念碑がいくつか並んでいる。
[忠霊塔]
平和記念碑の横にある階段を登ると忠霊塔が建っている。
<平和祈念碑>
すぐる太平洋戦争では多くの市民が戦地で、あるいは空襲により傷つき犠牲となりました。
昭和20年8月15日の終戦から50年これら多くの御霊にあらためて深く思いをいたし不戦の誓いを新たにすることで世界恒久の平和を祈念するものであります。
平成7年8月15日 清水市長 宮城島弘正
[忠霊塔]
階段を上ると見事な建造物が建っている。
[忠霊塔]
石碑も建てられている。
[忠霊塔]
ここも富士のビューポイントだ。
[忠霊塔]
公園状に整備されているので少し足を延ばすとちょっとしたスペースがあって看板が立っている。
<信行社迎山草庵跡>
幕末から明治の動乱の時、駒越の農民が信行社と称する京都の守本恵観先生を招き「先祖を厚く敬い慈善の志をつらぬき、人に対して謙譲の徳をもって接する」という教えを学んだところ。
平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
[旧萬象寺跡]
水路脇の農地の前に説明看板が立っていたので読む。この水路が用冨川の名残りだろうか。
現在は臨済宗妙心寺派の「冨春山 萬象寺」がここから400mほど南西に行った久能道沿いにある。
用冨山萬象寺跡
嘉元元年(1303)に鎌倉建長寺の象外和尚が、ここ用冨川のほとりに観音堂を建てた。
これが萬象寺の始まりです。
平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
[久能寺観音道]
県道198号へ戻り南下するとすぐに国道150号(久能街道)へ突き当たる。
ここで「久能寺観音街道」の散策は終了する。
久能道へ行くにはこちらをクリック。
旧東海道へ戻るにはこちらをクリック。
−コメント−
久能寺観音道は鉄舟寺や龍華寺などの清水屈指の名刹が並んでいる。
有度山の東山麓は古墳なども多く発掘されていて太古から栄えていたことがうかがわれた。
− 久能道 −
清水の入江から久能山東照宮へ向かう道。
約10km程度の行程になる。
[旧東海道]
旧東海道の入江の変則交差点から始まる。
旧東海道へ戻るにはこちらをクリック。
[久能道]
旧東海道から久能道が始まる交差点の家の塀に「久能道」の説明書きが書かれていました。
<久能街道>
江尻宿における主な交通路といえば東海道であり、次はここより分岐している久能道でした。
この道は当時より牛車が自由に往復できるほどの道巾があり、道両側には民家や商家が軒を連ねて並び−入江南小路−と呼ばれていました。
この場所に追分の志みづ道と似た道標が建っていましたが戦後いつとわなく無くなってしまいました。
このたび下水道の工事でその台石がみつかったのをきっかけに、○○氏のご理解を得てここに再建されました。
昭和61年3月吉日
[久能道]
久能道は真っ直ぐ南へと向かう。
[久能道]
100mほど南下したあたり。
ちびまるこちゃんの作者「さくらももこ」の実家がこの辺りらしい。
[久能道]
淡島神社。
虚空蔵尊社の石柱も立っている。
[久能道]
狭い淡島神社の境内に大木が生えている。
「清水市指定文化財」「天然記念物」「大クス」と書かれた木柱が立っていた。
[久能道]
淡島神社の裏を入った所に「油木地蔵尊」の堂宇がある。看板を読む。
今から百数十年前、この近くに無縁仏(家族の無い者)が祀られて居りました。
この近くの人達がお地蔵さんを建てて、毎月23日団子を作り、供えて供養してきました。
お地蔵様の高さは2mくらいあったそうです。境内に樹高6m位の油桐(毒荏)があったので誰言うとなく油木のお地蔵さんと呼ばれるようになりました。
昭和20年このあたり一帯は戦災にあい、焼けて壊れた地蔵さんはこの所に埋め無縁仏として祀られています。
油桐とは5、6月頃に花が咲き実を結びます。昔は照明用にこの実より油を搾って使う為、山原、伊佐布などの山間地の村々で広く作られて居りましたが、明治以降電気の普及と共に栽培されなくなりました。
駿河一国百地蔵の内、第78番札所
(御詠歌)たずねてきてこれがいりえのぢぞうそん
お慈悲の御手にたすけたまうぞ
入江まちづくり推進協議会
[久能道]
静岡鉄道の入江岡駅はこの橋に入口がある。
[久能道]
入江岡駅の橋は入江の丘ということで見晴しがいい。富士方面と新静岡駅方面の写真を撮ってみました。
この橋の下はJRと静岡鉄道の電車が隣り合わせて走る。
[久能道]
久能道は南幹線を横切り、南へと向かう。この道は県道75号線として整備されている。
[久能道]
南幹線から200mほど南下すると西から「しみず道」が合流し、50m重複した後に、県道75号は「しみず道」と一緒にに東へ曲がる路地へと向かう
久能道は真っ直ぐ南へ向かう。
[志みづ道]
久能道から西を向いて、合流する「志みづ道」を覗いてみる。
志みづ道に行くにはこちらをクリック。
[上清水町]
久能道と志みづ道は50m合流して南下すると県道75号は志みづ道と一緒に東へ左折して狭い道に入る。
久能道はそのまま南へと向かう。
[慶雲寺]
志みづ道と別れて50m南へ進むと「大小山 慶雲寺」がある。
臨済宗妙心寺派の寺
かなり古くから栄え多くの修行僧がいた寺らしいが、度重なる火災で今は近代的な本堂が建てられていて伝統の面影はない。
[久能道]
慶雲寺から50mで県道197号を横切っても真っ直ぐ南下する。
ここは「岡町」と「下清水町」の町名境。このあたりから道は狭くなってくる。
[久能道]
「下清水町」側の路地を入ると突当りが光明寺。
[久能道]
境内から山門を振り返る。
山門脇に千体佛道が建てられている。
[久能道]
仏様は千体はいないようだった。
[久能道]
久能道へ戻ってすぐの路地を東へ入ると先にこんもりとした森が見える。
[久能道]
神社の社叢だ。
[久能道]
石垣で囲まれた立派な神社だ。
[久能道]
この神社の前まで海岸線か水路があって、海とつながり舟が出入りしていたとも言われ、保元の乱に敗れた源(鎮西八郎)為朝が伊豆大島に流刑される際、ここから船出した伝説が残されている。
この神社は八幡神社や住吉神社が祀られていて、船玉神社とも呼ばれていて、海上安全の神様でもある。
[久能道]
境内の本殿と社務所の間に神社の由緒が書かれた看板が立っている。
當社は元住吉大神を奉る天智天皇時代の創建と伝ふ。
民部図帳に住吉神領300束を賜わりと伝ふ。
文治年間梶原景時の勧請により八幡神社と改名、旧清水町の産土神にて崇敬者多く御殿地の金比羅神社は元禄10年鎮座して海上安全の守護神として船舶業者崇敬厚く、昭和31年4月當社に合祀。
宝物、文治年間 鎧、寛永年間の棟札。
例祭日4月9日、10日 秋祭10月16、17日
[久能道]
社務所の横に石碑が建っていて、隣に説明看板が立っている。
烈祖殿址の碑
慶長14年(1609年)に駿府城主、徳川頼宣が父家康のために下清水に造営した御浜御殿の址を後人が偲んで嘉永7年(1854年)8月に金比羅祠の側に建てたもので、昭和40年2月に隣接の岡町八幡神社に移転されたものである。
昭和49年3月 清水市教育委員会
[久能道]
船玉神社が境内社として鎮座している。
[久能道]
清水市指定文化財「天然記念物」「大楠」と書かれた標柱が立っている。
八幡神社の由緒看板の後ろにあった楠は平成23年9月の台風で倒れてしまった。その際、町内中に樟脳の香りが充満した。
[久能道]
ここにも清水市指定文化財「天然記念物」「大楠」と書かれた標柱が立っている。
[久能道]
また八幡神社の南へ向うとすぐに浄土宗「九品山 蓮池院 福嚴寺」がある。
[久能道]
本堂は建て替えられた近代的なものだった。
[久能道]
福嚴寺から西へ100mほど行くと「月見里(やまなし)笠森稲荷神社」がある。看板を読む。
<月見里笠森稲荷神社>
祭神 天宇受売命 宇迦能御魂命
相殿 猿田彦命 久那斗命 速佐須良比売命
由緒
駿河国有渡郡下清水(現清水区岡町)に鎮座する此の社の創建は約1570年前第19代允恭天皇の御代13年5月15日に此地清見潟の嶋の領主郷士善四郎忠村の遠都御祖が招請して天宇受売命を奉祀し更に同28年に宇迦能御魂命他3柱の大神等を配祀したものであります。
伝承品
保元・平治の乱(1159年〜1161年)後、源為朝は伊豆大島に配流される途次、此の嶋にて海路の日和と源氏の再興を祈願し形見の石の印章と頭領の編笠を奉献し尚遡っては弘法大師(空海)が830年代に済世修行中、参籠されて、手づから彫刻した弁財天の像を奉献され夫々今猶護り伝えられています。
祭典
月次祭 偶数月の朔日
例祭 5月15日(直前の日曜日)
勤労感謝祭(新嘗祭) 11月23日
境内社
厳島社 市貴嶋姫命
少彦名社 少彦名命
[久能道]
拝殿までが一般の参拝場所だ。塀に囲まれて本殿には入れない。拝殿前の看板を読む
<明治天皇御製>
神垣に朝詣りして祈るかな国と民との安らかむ余を
古しへの姿のままに改めぬ神の社で貴とかりける永久へに国護ります天地の神の祀りを粗そかにすな
[久能道]
境内を掃除をしている女性に声をかけると門を開けてくれたので本殿の前まで入らせてもらうことができた。
[岡町]
「月見里笠森稲荷神社」の北側の路地を西へぬけると久能道へ戻る。
南へ進む。
[岡町]
この辺りは「岡町」。
[梅が岡]
港橋へ通じる道と交差して、梅が岡と南岡町の間の路地を進む。
道はますます細くなってくる。
[久能道]
住宅の塀に「久能街道」の案内板が掲げてある。
[久能道]
街道は突き当たる。
左側へ90度曲って進む。
[久能道]
道幅は車がやっと通れる程度しかない。
[南岡町]
街道はまた、すぐに右へ曲る。
[久能道]
道幅は広くなったり狭くなったりしている。
[南岡町]
久能街道は細い道を真っ直ぐ進むが、左から突き当たる2車線の広い道を200mほど行くと「清水の次郎長」で有名な臨済宗妙心寺派「幽谷山 梅陰寺」がある。
[梅陰寺]
梅陰寺は豪華な大きなお寺。観光客も多く駐車場も大型バスに対応する。
[梅陰寺]
歴史を感じさせる門も残っている。
門に札が多く貼られていて祈願する参拝者が多いことがうかがわれる。
[梅陰寺]
境内へは大人300円の拝観料が必要だ。
次郎長や子分達の墓も多く、墓石を欠いて持っていかないように注意書きが書かれている。
(梅蔭禅寺)参観規定
山内に於いて左の行為禁ずる
堂宇墓石を毀損すること、参観の方には維持冥加料として左の全員を申し受けます。
一般 高校生以上大人300円
小中学生 150円
団体(30名以上)高校生以上大人250円
小中学生 120円
参観時間 午前9時から午後4時30分
(入山は4時迄)
橋客清水次郎長及び子分の墓
お蝶弁天、銅像、遺物数十点
[新定院]
久能街道へ戻り南下するとすぐの西側に臨済宗妙心寺派「雲門山 新定院」がある。
建築中の建物も寺の施設のようだ。
[新定院]
新定院の本堂前に線香を建てる施設も立派だ。
[北矢部]
久能街道をさらに南下する。
このあたりは北矢部町という。
街道を南へ進む。また広い通りへ出るが、まだまだ直進する。
[久能道]
広い通りを見渡してみる。
この広い通りはこの先に「三光町」「八千代町」と小さな町名を通っていて300mほどで清水町に突き当たってしまう。
清水は幹線道路が突当りとなることが多い。
[村松原]
街道をまだまだ南下する。
[久能道]
水路を越えた先に大きな木が生い茂っている。ここにも稲荷神社がある。
[久能道]
鳥居前の由緒看板を読む
<稲荷神社>
祭神 稲倉王神
伊弉冉尊 外1柱 祭神不詳
由緒
成務天皇の時代(131年〜190年)に、一人の老人が稲をにない、この地にやってきて草庵を結び土地の人々に農業を教えました。村人はその恩に報いようと立派な家を作り、翌朝そろって住まいを訪れた所、老人はすでに立ち去って行くえがわかりませんでした。村人はいつまでも老人を敬い慕って、かつて老人が住んでいた草庵に稲倉玉という名を奉ってお祭りしました。(稲荷神社略縁起)
後宇多天皇の時代(1274年〜1287年)に、日蓮上人の弟子で海長寺を開いた日位上人が、時々この稲荷神社に参詣し、後に、社殿のうしろへ本妙庵という僧舎を建てて祭らせました。その後本妙寺が祭事を行ってきましたが、明治維新後の神佛分離によって本妙寺を離れ、別に神官を置いて祭ることになり、今日に至っています。
昭和60年1月 不二見地区まちづくり推進委員会 清水市立第四中学校郷土研究部
[久能道]
久能道は突き当たったように見えるが、細い道がさらに続く。
角に石碑が建っているが何も彫られていないので何の石碑かはわからない。
この交差点を右折し600mほど西進すると鉄舟寺がある。
鉄舟寺は久能寺が改名した寺で、この久能寺が久能山東照宮が建設される以前に久能山にあった。
今通って来た久能道は久能山へ向かうための道だった。
鉄舟寺へ行くにはこちらをクリック。
[本妙寺]
石碑のある交差点の角には寺がある。
日蓮宗の「遠因山 本妙寺」
[本妙寺]
本妙寺は民家のような質素な堂宇。清潔感があり好感が持てる。
[久能道]
本妙寺の横の細い道の先には清水不二見小学校の脇を通る。
この道が久能道かどうかはわからないが、一番近いように思う。
[久能道]
清水不二見小学校の横で道は突当ってしまうので、歩道橋の下をくぐって古くからある道にも見える細い道を行く。
[久能道]
道はまた突当る。久能道と推測する道は右へ曲り南進する。
南進する前に左へ曲り200mほど北進した所にある本能寺へ寄ってみる。
[本能寺]
本能寺は村松一丁目にある。
[本能寺]
格調高い雰囲気の寺。山門の正面にお堂がある。
[本能寺]
日蓮宗「東光山 本能寺」本堂は鉄筋の建物。
[本能寺]
山門を入ってすぐ右に新築の建物が建っている。窓もなく何の建物か不明。
[本能寺]
建物の片隅に手こぎの井戸がある。茶室なのだろうか。
[久能道]
先ほどの交差点まで戻り、南へ向うと200mほどで信号のある交差点を直進する。
ここを右に曲り800mで龍華寺へ突き当たる。
[海長寺]
交差点を越えるとすぐに海長寺の塀と本堂の屋根が見える。
[海長寺]
日蓮宗 本山「龍水山 海長寺」の山門
[海長寺]
広々した境内に本堂と大きな建物もある。
[海長寺]
鐘楼もある。
[久能道]
街道を進む。
[村松神社]
海長寺から200mほどで村松神社がある。
[村松神社]
ここ「村松」という町名の中心となる神社。
村松神社由緒
鎮座地 清水市村松4番地
1.祭神 手力雄命 誉田別命 応神天皇
2.祭典 例祭10月17日
3.境内地 約600坪
4.氏子 世帯 村松 南組400 中組500
5 由緒 村松神社は元の村社並みに村社中野神社を合併
1.八幡神社の創建は」天地天皇の御代であったころの民武図帳に見える所でこの古文書は約700年前に書かれた。
2.中野神社は総国風土記に直日神社と掲載されている神社で御穂神社、草薙神社の両明神間に位置したので中野明神と称したので古昔75石の朱印地を有したが火災により社殿其の他一切を焼失したが氏子ら宗敬者によって現在までに復興された。
宮一色、かわらけ、面等の地名は神主社人等の宅地跡が称せられて往昔の大社であったことを立証している。
3.大正4年両神社は合併して現在の名称となった。その后大東亜戦争の結果昭和28年6月2日宗教法人村松神社となり現在静岡県神社庁より10等級神社として認証されている。
昭和43年7月
[宮加三神社]
ここ「宮加三」という町名の中心となる神社。八幡神社が祀られている。
八幡神社由緒
鎮座地 清水市宮加三432番地
1.祭神 誉田別命(応神天皇)
相殿 乍宮司神社 猿田彦命
天神社 菅原道真
大棟梁神社 不詳
2.祭典 例祭10月17日
3.境内地 約10アール(壱反歩)
4.氏子 元三澤村元宮一色村100戸
5 由緒 創建は不詳なるも約800年前
豪族三澤小次郎建立と云い伝う
寛政2年9月再建
明治8年村社に列す
明治13年本殿新築
大正4年宮一色八幡神社を合併
相殿として移築
昭和58年拝殿改築本殿
昭和59年3月吉日
[宮加三神社]
神社の鳥居横にお堂と力石がある。
[久能道]
宮加三神社のすぐ先の交差点を横切る。
この交差点を右へ曲ると600mで天王山遺跡へ行くことが出来る。
[東向寺]
交差点を越えると間もなく左側に東向寺がある。
正面に見えるのは寿昌寺の本堂。
東向寺は手前を左に入ったところにある。
[東向寺]
「臨済宗妙心寺派東向寺」と彫られた石碑が立てられている。東向寺の山号は「陽澤山」
[東向寺]
静かなお寺。
[寿昌寺]
東向寺のすぐ南側に臨済宗妙心寺派の寿昌寺がある。
[寿昌寺]
久光山「寿昌寺」の本堂
[八幡神社]
寿昌寺のすぐ南に八幡神社がある。
[お堂]
八幡神社から100mも行かないうちにお堂が建っている。
久能道沿いには、手を合せる所が多くある。
[加茂神社]
200mも行くと加茂神社がある。
[久能道]
久能道は今しばらく南へ向う。
[久能道]
久能道は広くなり、狭くなって駒越に向う。
[久能道]
久能道は駒越小学校の西を通る。この先で薬局とスーパーの間を抜ける。
[駒越]
「こまごえスーパー」の前に小さなお堂が建っている。
久能道は直進するようだが、この角を右に曲って700mほど行くと迎山の忠霊塔公園へ出る。
[駒越]
お堂の横に説明看板があるので読む。
「二十三地蔵」
ここは金山通りで五軒屋路に入るところ、この地蔵様は「日切り地蔵」とも呼んで、日を限ってお祈りしました。毎月23日の夜、お念佛をとなえ、家内安全、無病息災、交通安全をお祈りした。
平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
[駒越]
民家の前に「里程標」が立っている。
[駒越]
郵便局を右手に見た先に幹線道路に出る。
今は国道150号のバイパスが出来たので主要幹線はそちらに譲って、「いちごライン」と呼んでいる。
久能道はこの幹線道路を西進する。約4kmで久能山東照宮の入口となる。
東進すると久能道から離れて三保街道へ向う。
三保街道へ向かうにはこちらをクリック。
[久能道]
久能道はここから西へ向う。この道は国道150号。静岡の海岸沿いを浜松まで繋ぐ主要道路として今でも重要な役割を担っている。
[久能道]
国道150号を200m進んだあたりのJA集荷場前に幹の太いイチョウの木が生えている。
案内板を読む。
<大公孫樹(おおいちょう)>
静岡市指定天然記念物
大公孫樹1本
昭和37年9月17日指定
樹高 23.25m
根張 20.00m
枝廻り 4.24m
樹齢 約800年と推定される。
平成17年3月30日
清水農業協同組合
静岡市教育委員会
[久能道]
大イチョウのすぐ先に。こんもりとした小さな丘がある。
[久能道]
丘には神社が祀られている。鳥居脇の看板を読む。
≪駒越神社の由来≫
駒越の中浜砂には、古来、産土(うぶすな)の神(おぶつなさん)と呼ばれた宇迦能御魂神(うがのみたまのかみ)が祀られていた。
御神体は白蛇である。明治39年県条例に基き此の境内に村内の氏神5社を合併することによって神饌幣帛料供進の指定を受け、明治42年3月29日に合祀が完了した。
明治44年10月13日を以って村社駒越神社となる。
<氏神5社と御祭神>
元 殿澤2179番地の村社 天神社
祭神は菅原道真公で殿澤天満宮ともいい学問の神様である。「神階帳」には「船越天神」と記され、古代は国司郡領、戦国時代は今川、武田の尊信が厚かった。
元 北屋敷1560番地の村社 八幡神社
祭神は、15代応神天皇。幼名誉田別命。源頼朝の挙兵と共に武家の守護神となった。
元 中浜砂1181番地の無格社、宇賀神社
祭神は須佐男命の妻、豊受姫命で財宝の神、福の神とされ弁財天ともいわれ白蛇を祭る。「惣国風土記」に「高麗肥(こまごえ)の止由気(とゆけ)神社は泊瀬辺天皇(のち雄略天皇)2年巳酉7月初めて例幣を奉る」とある。
元 西浜砂1997番地の無格社、若宮神社
祭神は藤原氏の祖神で、奈良の春日神社の祭神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子、天押雲命(あめのおしくものみこと)である。武家の時代には武人の神となり若宮八幡大神ともいわれている。
元 別府2679番地の無格社、八幡神社
祭神は応神天皇。のち八幡大菩薩とも呼ばれる。瀬朝が別府の庄司を置き祭祀とした。
[久能道]
社殿。
[久能道]
小さな社も建っている。
[久能道]
駒越西のインターチェンジの様な高低差がある交差点。ここを右に曲ると鉄舟寺(旧久能寺)や龍華寺がある「久能路観音道」へ向う。
久能寺観音道へ行くにはこちらをクリック。
[久能道]
駒越西の交差点から清水市街が一望できる。
交差点は15mほどの標高があるが、清水市街のほとんどが10m以下の地域が広がっている。
[久能道]
臨済宗妙心寺派「冨春山 萬象寺」がある。
[久能道]
参道のわきに軍人の慰霊碑が並んでいる。
[久能道]
本堂。
[久能道]
六地蔵。
[久能道]
本堂の裏に祠があった。
[久能道]
国道150号を西へ向う。
[久能道]
久能と言えば「いちご狩り」だ。この「増」という地名の地域はいちごハウスだらけだ。
[久能道]
「増出荷組合」前というバス停の駅名。今は公民館として使用されているらしい。
[久能道]
通りに龍源寺と書かれた案内の石碑が立っている。
[久能道]
増井山(ぞうせいざん) 龍源寺という曹洞宗の寺。
和尚様から寺のいわれを聞いた。
この地は鎌倉時代のころ地元の漁師が金の観音様を海から引き揚げお堂を建てて祀っていた。
その後、江戸に入って寺を開山し、今日に至っている。ということでした。
[久能道]
旧道とバイパスの分岐点がある。左側へ行くとバイパス、海岸通りとなる。
[久能道]
旧道を選んで進むとすぐに清水区蛇塚から駿河区根古屋へ変わる。
[久能道]
間もなく久能山の参道入り口となる。
[久能道]
そこのビルを曲った所が参道。
[久能山下]
バイパスから久能山の参道を眺める。すっかり観光地の商店街が形成されている。
久能街道の静岡側へ向かうにはこちらをクリック。
東照宮をお参りするにはこちらをクリック。
−コメント−
久能街道は府中からと清水からの両方から参拝する道がある。
清水の人たちは信心が深いのか、神社と寺院と祠が至る所にあった。
− 三保街道 −
羽衣伝説の三保半島は御穂神社を中心として栄えた村落。
駒越から出発して駒越まで戻るr約10km余りの行程になる。
[駒越東町]
久能街道が国道150号線へ出るあたりは駒越地区だ。その地点から三保街道へと向かう。
左側が駒越東町、右側が駒越南町
久能道へ戻るにはこちらをクリック。
[駒越南町]
国道150号線を東進すると150号線バイパスと合流する。
この信号を直進する狭い道が旧三保街道らしい。
まずはここを左折して今の三保街道に向かう。
[駒越東町交差点]
駒越東町交差点で左に折れると清水港。右折すると三保。
[折戸]
三保へ向かう道は大きな工場が多く広々している。
[折戸]
真っ直ぐな道は奥へ進むにつれ徐々に狭くなる。
[折戸]
富士の良く見える時期にもう一度来てみました。街道の正面に富士が見える。
清水銀行が洒落ている。
[三保]
駒越東町交差点から約3kmで「羽衣の松」入口がある。
右へ入ると御穂神社があり、羽衣の松がある。
左へ入ると「塚間の渡し」がある。
[三保]
富士の良く見える時期にもう一度来てみました。街道の正面に富士が見える。
[三保・塚間]
「羽衣の松」入口の信号を、「羽衣の松」の反対の左へ入り「塚間の渡し」へ向ってみます。
[三保・塚間]
500mほど進み信号を過ぎると、かつての繁栄を偲ばせる店や店の跡が目に付く。
[三保・塚間]
民家が減り工場が目に付き始める。
[三保・塚間]
信号からから200mほどのところに右へ分岐する路地があるのでそちらへ向うと「塚間の渡し」。
[三保・塚間]
路地に入って200mほど進むと鳥居が現れる。
御穂神社の一の鳥居だ。
[三保・塚間]
鳥居の脇にベンチがあり、説明看板があったので読んでみます。
<塚間渡し>
古く鎌倉時代(寛元3年西暦1245年)から、御穂神社へ詣でる人々や名勝三保の松原への遊客が興津と塚間を結ぶ渡し船を利用していました。
御穂神社への参道は興津から海路をのぼり塚間から陸路に替え当時約13丁の道程でした。特に塚間からの陸参道は「どう者道」といって当時かなりの賑わいを呈しその名残りを現在もこの石鳥居や常夜灯に見ることができます。
塚間の渡しの途中にある貝島には、かつて徳川家康の「貝島御殿」があり宏大な富士見櫓が建てられ家康の保養の目的と徳川水軍の基地としての目的をになっていたと伝えられます。
鎌倉時代から永い間船司をつとめた三保の領主太田家は御穂神社の宮司と清見ケ関の関守を兼ね慶長年間には徳川家康からも107石(三保54石、折戸17石、駒越35石)のお墨付きが与えられていました。
高山樗牛の「清見潟日記」にも「1月、2月の頃には参宮の道者、興津の駅に下るもの絡駅として絶えず清見寺に詣で三保に渡り」としるされてあります。
[三保・塚間]
鳥居の前にも説明看板があるので読みます。
<御穂神社「一の鳥居」と常夜灯の由来>
この鳥居は江戸時代の末慶応元年(1865)に、御穂神社の「一の鳥居」として、三保村の有志を始め村外の多くの崇敬者達によって寄進建立された。
慶安3年(1650)の古地図には、この場所に鳥居の姿を見ることができる。また元禄16年(1703)駿府目付三島清左衛門の「駿府巡見帖」の一節に「磯ぎわの松原入口に、三保明神への道しるべの抗木が左右に立つ」とある。その姿は時と共に変遷があったが、この石鳥居が慶応年間の建立となれば、打ち続く飢餓と、天保・安政の大地震に加えて、幕末騒擾の中で往時の人々が、いかに日々の平安と世直しを求めて神仏の加護を願い、丈余のこの石鳥居と常夜灯を建立したのであろう。
尚、この鳥居は建立以来140余年の歳月を経ており、この間の風雨震災による摩耗風化が著しく、崩壊の恐れ有りとして平成7年(1995)脚部の一部を残して撤去されました。
平成16年(2004)元清水市長宮城島弘正氏を代表として、御穂神社「一の鳥居」復元委員会が組織され、三保地域全体に対し鳥居復元の呼びかけがなされました。これに対し、地域住民をはじめ地元企業個人篤志家そしてまた遠くアメリカ三保クラブの方々からも賛同の浄財が寄せられました。復元には従来の鳥居の資材を全て再使用し、耐震構造が施されております。
平成17年4月9日 御穂神社「一の鳥居」復元委員会
[三保・塚間]
街道へ戻る途中に分岐点がある。
右が先ほど通って来た御穂神社へ向う道。神社へは帰りに寄ろうと思う。
左へ向う三保の灯台方面へ向う道へ進む。
[三保・塚間]
この道は街道(新)を横切る形で灯台方面へ向うが、まずは新道を進むことにした。
[三保・新道]
新道を進むと正面に「三保造船」が見える。
かつては清水の経済を引っ張る企業の一つだったが、残念ながらここも造船業の不況の波にのまれている。
[三保・新道]
さらに進むと、徐々に静かな街道となってくる。
[三保・新道]
右に大きく曲る。
[三保・新道]
また、すぐに左に曲る。
[三保・新道]
三保マリーナ脇を抜ける。
[三保・新道]
三保は文化地区で東海大学海洋学部ほか、いろいろな文化施設の案内看板が立っている。
「東海大学社会教育センター」「海洋科学博物館」「自然史博物館」「三保黒潮スイミングクラブ」
「清水エスパルス本社・クラブハウス、練習場・三保グラウンド」
[三保・新道]
「水族館」(東海大学海洋科学博物館)と「恐竜の博物館」(東海大学自然史博物館)の入口。
[三保・真崎]
海洋科学博物館の脇を抜け、堤防に上ると正面に富士が出迎えてくれる。
海と富士は良く似合う。
[三保・旧道]
戻って旧三保街道と思われる道へと入る。
車がすれ違えない狭い道だ。
[三保・旧道]
道は住宅の間を通っていく。
道に鉄でできたアーケードの入口のような門が建っている。
昔は看板が掲げてあったのだろうか。
[三保・旧道]
新道から来る道と変則十字路で交差し、直進すると塚間の渡しへと向かう旧道。最初はこちらが旧三保街道と思って向かったが御穂神社方面へは向かわず塚間の渡しへと向う道だった。
この交差点を左に入ったところに源為朝の墓などの史跡があり、100mほど東へ行った交差点を南進する道が旧三保街道らしい。
まずは間違えてしまった道を進んでみます。
[三保・旧道]
塚間の渡しへ向かう旧街道を進む。
[三保・旧道]
住宅の間を進む狭い道。
かつては商店だったと思われる家も所々に残る。
[三保・旧道]
洋館風の家も残る。
[三保・旧道]
蔵のある家もある。
[三保・旧道]
元はスーパーマーケットだったのだろうか。
かつてはメイン街道だったのだろう。
[三保・旧道]
道は若干広くなって、住宅の間を進む。
[三保・旧道]
この左側の路地に入って進むと旧三保街道へと合流する。
[三保・旧道]
まずは直進する。
[三保・旧道]
藤五郎神社。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<藤五郎稲荷>
安政元年(1854)の大地震で三保真崎の土地は大きく陥没、津波が耕地の大部分を砂で埋めた。とくに代官領になっていた新田は全滅の状態となった。
ところが内海の一部に新しい土地が隆起して、農民に一筋の光明となった。この隆起土地を開墾したいと代官に申し入れた。代官は聞き入れずに小前百姓(小規模農家)の代表である藤五郎と兵五郎を投獄した。
しかし、農民の意気は高く、粘り強く訴え続けた。御穂神社の神官太田は驚き、また代官所も大勢の農民を向こうに回すのは不利だと考えはじめた。そこで2人を釈放して、新地の配分を村役人と小前百姓の代表とで合意のうえ取り決めることになった。
こうしているうちに藤五郎は再び捕えられた。その理由はハッキリしない。太田神官は、藤五郎の指導力が大きくなり、ことに土地争いでは小前百姓の人気が集まっている一方、自分の評判は非常に悪いことを知った。そこで「目の上のコブ」の藤五郎を消したいと考えたらしい。
明治の夜明け直前の慶應3年(1867)の春、藤五郎が出獄と決まったが、その前夜、牢の中で何ものかのために毒殺されてしまった。家族はもちろん、村民の嘆きは大きかった。そこで藤五郎の霊を慰めるために祠をつくった。明治2年(1869)のことである。
この祠を「藤五郎稲荷」と呼び、戦時中に現在の地に移ってから社殿を造営、神社として装いも整った。境内の碑に由来が記されている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
道は広くなって進む。
[三保・旧道]
この先で三保街道(新)と出会い信号を渡り進むと塚間の渡しへと向かう。
この道が旧三保街道ではなかったようなので元の間違った交差点へ戻る。
[三保・旧道]
交差点から30mほどの民家の脇に「為朝の墓」と書かれた看板があり、民家の庭に入ってみる。
[三保・旧道]
入るには気がひけたが、誰かいないかと探しながら入ってみる。
[三保・旧道]
家の裏はこのようなところだった。
家に人影が見えたので声をかけさせてもらった。
「散策パンフレット」に次のようの書かれている。
H源為朝の墓
平安末期の武将、源為朝の墓と伝えられるものが川口さん宅の裏にあります。許可を得てから、見ましょう。
(三保の松原散策マップより NPO法人「三保の松原・羽衣村」発刊)
[三保・旧道]
小さな墓があった。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
平安末期の武将で、豪勇、射術の名手 源為朝は、保元の乱(1156)に敗れ、伊豆大島に流される途中、船は大時化に遭い三保の海岸に漂着した。
当時、川口家(源兵衛さん)の裏は海であった。為朝は源兵衛の娘と夫婦になったと云う。
今も裏庭に墓所がある。祠は左右2基、五輪の塔も2基あり、左が為朝、右は家来の墓といわれる。西隣(遠藤家)の裏の家(川口家)にも祠があるが、一方は、3丁つぶての「キヘイジ」の祠といわれる。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
「散策パンフレット」にはさらに源為朝について書かれていた。
<源為朝>
三保本町に「源兵衛」さんという、屋号の家がある。源兵衛の由来は源ノ兵衛(みなもとのひょうえ)で、代々源兵衛を名乗り、家紋は三ツ巴であったが、地頭の太田家に交換されて桔梗の紋になった。系図は柱の上に縛っておいたが太田家より格が上なので家ごと焼かれたといわれ為朝が使用したと伝えられる椀と壺がある。
同家の言い伝えは次のとおりである。保元元年(1156)保元の乱に敗れた為朝が大島へ流される途中、船は大時化に遭い、三保の海岸に漂着、当時源兵衛家の裏は海であったという。
為朝は源兵衛の娘と夫婦になり一子をもうけた。今も裏庭に墓所がある、祠左右2基、五輪塔2基、為朝、五輪塔は家来の墓といわれる。
(三保の松原散策マップより NPO法人「三保の松原・羽衣村」発刊)
[三保・旧道]
「源兵衛」さんの家から東へ200m近く行った所に佐久神社があります。
佐久神社の入口脇にあるのが白縫姫の墓です。
「散策パンフレット」には白縫姫についても書かれている。
白縫姫の墓は、向の川口家(元庄屋)にあったが、今は佐久神社の片隅に置かれている。
[三保・旧道]
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<おしゃもじさん(佐久神社)と白縫姫の墓>
本町1区の「おしゃもじさん」は、検地竿を納めて祭ってあるとか、また「イボ」とりの神様とかの言い伝えが残されている。このような民間信仰の神は、古い時代から様々な信仰が入り交じって伝えられて来ているので、ご神体を明らかにすることは出来ない。
駿河国三穂社記には、簡単に左久神社、三保村杜の中に在り」として雙栗神社、即ち猿田彦大神とある。この神は道祖神とも結び付けられている。
毎年6月15日前後の日曜日に、本町一区自治会主催の祭典を行なっている。
尚、境内には、市みどり条例による保存樹木の指定を受けている「タブ」の樹がある。また、ここより西寄りにあった為朝伝説にまつわる白縫姫の墓とされる五輪の塔と祠が、近年境内東側に移設安置されている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・灯台]
灯台の下に説明看板があるので読みます。
清水灯台は、明治45年3月1日に設置点灯されました。
わが国における最初の鉄筋コンクリート造りの灯台です。
景勝三保の松原の中にあり、視界のよい日には秀麗な富士山によく似合う瀟洒な灯台で、大正4年昭和天皇が皇太子当時に行啓されています。
この灯台は、駿河湾を航行する船舶の安全のために重要な役割を果たしています。
<施設の概要>
位置 北緯35度0分26秒
東経138度32分0秒
塗色及び構造 白色 塔形
灯質 群閃白光 毎20秒に2閃光
光度 67,000カンデラ
光達距離 14海里(約26km)
高さ 地上〜頂部 19.2m
水面〜灯火 21m
管理事務所 清水航路標識事務所
この灯台が、1世紀近い歴史の中で、数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたのであろうことを想うとき、これからも毎夜美しい光を置きゆく船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。
社団法人 燈光会
この周知板は、モーターボート競争公益資金による財団法人船舶振興会の補助金を受けて設置したものです。
[三保・灯台]
灯台のてっぺんに羽衣を着た天女が舞っている。
[三保・予科練]
灯台前に少年兵のブロンズ像が建っている。説明書きを読んでみます。
<「甲飛予科練之像」記念碑案内>
「甲飛予科練之像」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年から、志願により選抜された者たちである。
昭和19年9月1日 清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生14、15、16期生千数百余名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた所であります。
当時、学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、今だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成されました。
思えば、純朴にも祖国のため何の懸念も抱く事なく、身命を捧げんとしたものであります。
愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、わたくしたち甲種練習生の跡であると、そして更に後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願いながら、この碑を建立しました。
平成18年2月11日
[三保・碑]
静岡市長名の石碑がある。「居浜想山」と彫られている。
合併後に建てられたものだろう。三保の自然を賛美したものだろう。
三保の浜は安倍川の奥から流れて来た砂が駿河湾の流れの強い海流に運ばれて堆積したものとのこと。
[三保・飛行場]
三保の灯台を500m北へ行った所に三保飛行場という小さな飛行場の入口がある。
[三保・旧道]
「源兵衛」さんの家と佐久神社の間を南下する道まで戻り、旧三保街道と思われる道を進む。
旧三保街道を進み始めてすぐの路地を入った所に伯良神社がある。
伯良神社は漁夫伯良が住んでいた地を記念して祀られた。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<伯良神社>
羽衣伝説に登場する漁夫の伯良(白竜などとも書く)は三保村の人。
例の天女と漁夫の関係はいろいろな形で伝えられているが、その一つではある日、伯良は松原で羽衣を拾った。
天女がきて「私のものです。お返しください。」といったが、伯良は返さないで、ついには夫婦になった。そしてのちにそろって昇天した。ともいう。
その伯良の屋敷の跡とされている。ここには祠があって伯良神社と呼ばれ、またわきにある古井戸を「伯良井戸」といっている。
尚境内には、市みどり条例による保存樹木の第1号の指定を受けている「くす」の樹がある。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
街道へ戻りまた少し南へ進んだ交差点を東へ入った所に津島神社があった。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
この神社は、素戔鳴尊を祭神として祀ってある。この神は農業・疾病送り、商売繁盛、などにご利益が有るとされている。
その昔村に疾病が発生し、大勢の死者がでたとき村人達は、祠を建て疾病送りの祈願をしたと言い伝えられている。
祭日は6月の第2か第3の日曜日で、本町2区自治会主催でおこなわれる。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[釣江寺]
街道へ戻り、100m近く南へ進むと路地の突当りに釣江寺がある。
今は無人の寺となっている。
[釣江寺]
最近建てなおされたこじんまりした寺だ。
檀家のある寺ではないようだ。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
此のお寺は御穂神社の歴代神主の菩提を葬ったお寺であった。
最も古い墓碑には寛永16年(1639)の仙遊良松大姉の字も読み取れる。
古くは興津清見寺の末寺として現在は上清水梅陰寺の管理地となっている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[釣江寺]
寺のすぐ北には無縁となってしまった江戸時代の墓地が並んでいる。
格式のある墓も見られる。
近所の人は太田家の家臣の墓らしいと言っていた。
[三保・旧道]
街道へ戻り南へ進む。
街道沿いには時代を感じる構えの屋敷がある。
[三保・旧道]
木の板の外壁の建物。
[三保・旧道]
街道の脇に石碑が立っている。
田中孫七はこの三保で海苔の養殖を広めた人
彫ってある文字を読む。
<田中孫七居住地>
東宮殿下御成婚奉祝記念
三保海苔改良者 田中孫七居住地
大正13年1月16日建之 安倍郡
[三保・旧道]
街道は住宅地を進む。
[三保・旧道]
林が見えてくる。
三保第一小学校。
[三保・旧道]
小学校前の空地の奥に石碑が建っている。
入口に看板が立っていて次のように書かれている。
<太田健太郎の墓>
三保ふる里のみちは、これで終了です。ご苦労さまでした。歩いた距離は約5kmです。
小冊子「ふるさと三保」に太田健太郎の墓について次のようの書かれている。
<太田健太郎と駿州赤心隊>
健太郎は、弘化2年(1845)鈴木家に生まれる。嘉永2年(1849)5歳で伯父御穂神社神主太田図書忠澄の養子となる。
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜追討の令が出て、健太郎は、浅間神社・草薙神社の神主らと共に、駿州赤心隊を結成し、官軍に味方した。
しかし慶応4年12月18日の夜、幕府から朱印地を貰ってきたこれまでの恩に対して恨みを買い、旧幕臣に襲われ死亡した。
大正11年(1922)長男希預太郎によって三保小学校前に墓碑が建てられ、裏面に「健太郎の赤心隊員としての功績など、勤皇の状が天聴に達し、大正9年に靖国神社に合祀された。」などと刻まれている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
松原荘ホテルを左手に見るとその先は「御穂神社」だ。
[三保・旧道]
「御穂神社」は参道が四方にあって、ここは北から入る鳥居がある。
「御穂大明神」「神社境内地」と彫られた石柱が立っている。以前は鳥居の台座だったような造りだ。
[三保・旧道]
左へ入ると鳥居があり、由緒看板が立っていたので読みます。
<御穂神社 (三保大明神)由緒>
静岡市清水区三保1073番地鎮座
主祭神 大己貴命(大国主命、三穂津彦命)
三穂津姫命
祭 典
例祭 11月1日 湯立の神事
筒粥祭 2月14日の夜より同15日
由緒略記
創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神、海の神と崇められると共に天から天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である。
中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文8年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後仮宮として建てられたもので、本殿は清水市指定有形文化財に指定されている。
信仰は三保の氏神様・清水・庵原の総氏神として親しまれ文化発祥の地である。祭神の神徳により、お祭や、正月など全国各地より多くの人々が参拝する「御神木羽衣の松」の名社です。
[三保・旧道]
三保街道は三保神社を迂回するように曲っている。
角には境内地を利用して生涯学習交流館(公民館)がある。
[三保・旧道]
生涯学習交流館を回りこむと御穂神社の正面の鳥居が見える。
[御穂神社]
御穂神社(みほじんじゃ)は三保の神社。
鳥居の脇の説明看板を読みます。
御穂神社(三保大明神)由緒
静岡市清水区三保1073番地鎮座
主祭神 大己貴命(大国主命、三穂津彦命)
三穂津姫命
祭 典
例祭 11月1日 湯立の神事
筒粥祭 2月14日の夜より同15日
由緒略記
創建の時は不明であるが、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、駿河国の国魂の神、国土開発の神、海の神と崇められ古くから朝野の崇敬をあつめた。
景行天皇10年(諸神祭式)光仁天皇宝亀年間(類聚国史)等に奉献の事が見え延喜式内社である。
中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進した寛文8年落雷のため焼失し、現在の社殿は仮宮であるが信仰は三保の氏神様、清水の総氏神として親しまれ三保、清水の文化発祥の地であると共に、祭神、お伊勢様「大国様」のご神徳により、お祭や正月など全国から多くの崇敬者が参拝するご神木「羽衣の松」の名社である。
本殿は静岡市の指定有形文化財です。
[御穂神社]
鳥居を入った正面に舞殿のような建物がある。
[御穂神社]
本殿。かつては家康が寄進しただったらしい。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<御穂神社と筒粥祭り>
御穂神社は、延喜式内社で、祭神は大己貴命(別名、大国主命・三穂津彦命)と三穂津姫命の二神。
昔から朝廷を始め、源・今川・武田・豊臣・徳川等の武将に篤く崇敬され、又近郷近在の人々からは「三保の明神さん」と親しまれてきた。
徳川家康は慶長(1600〜1612)の末、本殿以下10数棟を寄進し、美観を極めたが、寛文8年の失火により、ことごとく焼失す。その後仮社殿として現在に至っているが、当時の宮居は現今の20倍余はあったと記されている。
例祭は春・秋に行なわれ、殊に春の「筒粥祭り」は、毎年2月14日から15日の未明にかけて行なわれる粥占いの神事で、海の彼方より常世神(とこよかみ)を迎える神事も併せて行なわれる点で、古式を伝承する特殊な祭りとされている。
また、当社はふるくより桜の名所としても知られ、毎年4月には桜祭りも境内で盛大に行なわれる。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[御穂神社]
境内には子安神社も祀られている。
看板を読む。
<子安神社>
御祭神 須佐之男命 稲田姫命
御穂神社ご祭神である大国主命の父母にあたる神々であり古来より子宝・安産・子育ての神として信仰される。
また昔から安産の祈願やお礼参りとして底を抜いた柄杓を奉納する風習があり、水がつかえず軽く抜ける如くに楽なお産が出来ますようにとの願いが託されている。
[御穂神社]
境内には他に3社が祀られている。
境内三社
神明社 祭神は天照大神
本宗は伊勢神宮です
皇室の御祖先神として尊ばれ
また国民の総氏神様として仰れています
八幡神社 祭神は応神天皇
仲哀天皇の第四皇子、母神は神功皇后です
源氏の氏神としてあがめられています
八雲神社 祭神は須佐之男命
大国主命の父神です
[御穂神社]
馬屋がある。説明看板を読む。
神馬の由緒
元は木の馬であり、左甚五郎の作といわれ安永2年(1773年)駿府大火で、浅間神社の2頭の神馬が、当社に逃げ1頭は残り1頭は戻ったと伝えられている。
明治45年北原白秋来清のとき詠まれたチャッキリ節に「賤や賤機浅間さまの白いお馬よなぜ逃げた」と唄われている。今も浅間さんには黒いお馬さんの馬屋と空屋の馬屋がある。このように由緒ある神馬は古くから信仰され親しまれてきた。
当社の11月の例祭、2月の筒粥祭に、子どものみお馬さんの腹の下をくぐり、お供えのお豆を食べると「かんしずめ」「はぎしり」「寝小便とめ」などの病気がなおると信仰されている。
現在、神馬のご神徳により、おせんげんさまの神馬と共に「なんでも叶う」叶え馬としてお守をうけて絵馬に願事をかき奉納し祈願する。願事が叶い感謝のお礼参りをする人が年々増えている。
[御穂神社]
この神馬はレプリカだ。本物は普段、格納されている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
明神さんの神馬
三保に育った者にとって神社の中で一番なつかしいものは、馬屋に入った神馬だろう。11月と2月のお祭りの時、馬屋の扉が開き、子供たちは馬の腹をくぐる。
お腹をくぐって、お供えのお豆をたべるとおねしょをしなくなると言われている。子供の時には、たいそう大きな馬に見えたものである。
北原白秋のちゃっきりぶしに、「しずや賤機 浅間さまの しろいお馬よ 三保へお馬よ なぜ逃げた ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ」
とうたわれているように、この馬は静岡のお浅間さんから逃げてきたとの伝説がある。安政2年(1855)の駿府の大火で浅間さんの2頭の神馬が御穂神社に逃げ、1頭は残り、1頭は戻ったという。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[神の道]
神社を出て南に向って松の並木道が伸びている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<神の道>
御穂神社の正面から真南に向って樹齢200年とも云われる老松の並木が約500m続く、この見事な並木路は、海の彼方より御穂神社に来臨する常世神(とこよかみ)がお通りになる道である。
現在も毎年2月14日の深夜、この道を通って神迎えの神事が行なわれている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[羽衣の松]
神の道が終わると観光地によく目にする光景に出会う。
この先の天然の土手を越えた所に羽衣の松がある。
羽衣神社という天女を祀った神社が西平松にある。こちらをクリック。
[羽衣の松]
羽衣の松はかなりの老木。樹勢も衰えてしまっている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
羽衣の松
御穂神社の正面から南に延びる松並木の外れの浜に「羽衣の松」がある。
この老松にまつわる羽衣伝説は観世元清の「羽衣」によってより有名になった。
松の横にある「羽衣天女詞碑」は享和3年(1803)駿河町奉行牧野靭負が建立したものである。
この松は衣掛けの松として有名になっているが、本来は御穂神社の「筒粥行事」の際、海の彼方から来臨する常世神の目印となる「憑り代」としての役目をしているのである。
樹齢650年とも700年ともいわれているこの松も、害虫の被害等により樹勢の衰えが顕著に見られるため、平成10年(1998)この松より数メートル西にはなれた風格見事な松を次世代の「羽衣の松」の候補と定めた。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[羽衣の松]
保護された老木がいくつか見られる。
[羽衣の松]
羽衣の松の近くに小さな祠がある。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれていた。
羽車神社
羽衣の松の際にある石造りの社は、羽車磯田社とも言い、御穂神社の離宮で、「筒粥神事」の際、海の彼方より来臨する常世神(とこよかみ)は、まずこの社に降臨し、松並木の神の道を通って御穂神社に入るとされている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[羽衣の松]
アルファベットで書かれた石碑が立っている。
「散策パンフレット」に次のようの書かれていた。
<エレーヌの碑>
フランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、憧れの三保の松原を見ぬままパリで没しました。この碑の下に彼女の遺髪が埋葬されています。
(三保の松原散策マップより NPO法人「三保の松原・羽衣村」発刊)
碑の前に小さな松があり、説明書きが立っている。
<「羽衣の松」二世の松>
この松は平成9年2月に「羽衣の松」から穂木を採取し、接ぎ木による二世作りに成功したものです。
伝説の松の遺伝子を含め未来へ残す二世の松です。
平成11年3月13日 清水市 羽衣の松保存対策委員会
[羽衣の松]
羽衣の松の前には砂浜が広がっていて、天気の良い日には絶景の富士を愛でることが出来る。
砂浜は昔に比べて浸食されて狭くなってきている。
波打ち際の消波ブロックが景観を損ねている。
[三保の松原]
三保の松原が富士を引きたてている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
三保の松原
日本一の富士山の眺めの美しさで名高い三保の松原は、長さ4kmに及ぶ松林と砂浜が駿河湾に突き出ており、昔から万葉の人々にも歌によまれる程親しまれてきた。
殊に天女の伝説によって美しく語られる羽衣の松附近の渚からの景色は素晴らしく、大正5年には新日本三景の名勝地に選ばれ記念碑が建てられた。
また大正11年には国の名勝にも指定され、史跡名勝天然記念物の碑も松原の中央部鎌ケ崎に建てられている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
神社まで戻って旧三保街道を南進する。
区画整理が進んでいるのでどこが旧街道なのかがわかりにくい。
今後、ますますわからなくなるだろう。
[三保・旧道]
以前の景色が想像できない。
通行しやすい道が完成している。
[三保・旧道]
この辺りは歴史を感じさせてくれる景色が全くないが、生活はしやすくなったのだろう。
[三保・旧道]
区画整理の地域を過ぎると旧三保街道の雰囲気が復活する。
[三保・旧道]
この先で広い道と交差する。
[三保・旧道]
東海大学へ向う道が交差する。
突当りが大学のキャンパスになる。
[三保・旧道]
東海大学へ行く道と交差してさらに南へと向う。
[三保・旧道]
街道は住宅街を進む。
[三保・旧道]
裏道のような旧道には所々に商店をみかける。
[三保・旧道]
旧道に商店をみかける。
[三保・旧道]
社叢が見られる。
瀬織戸神社だ。
[三保・旧道]
瀬織戸神社の石鳥居。
[三保・旧道]
鳥居の脇に神社の由緒が書かれていたので読んでみます。
瀬織戸神社
当神社は神護景雲元年(今から1200年前)に建てられたもので、祭神は瀬織津姫(天照大神の第2王女)である。
別名「辨天様」とも呼ばれ、水難・豊漁・招福・修学等を祈願する神であり、又いぼ取りを祈願した人が、成就の際に自分の年だけ奉納した白石がある。
[三保・旧道]
瀬織戸神社。
[三保・旧道]
境内には立派な松が並んでいる。 社の前に苗木があり、横の看板を読む。
植樹
桜苗 ソメイヨシノ
境内に16本
平成22年3月
寄贈 ヒバリヤ
岸山惣憲
[三保・旧道]
神社の向かえにある木造の門扉がある旧家。
現在では入口がここではないようだ。
[三保・旧道]
瀬織戸神社から50mほどの小児科医院の塀のところに瀬織戸の渡しの看板がある。
看板を読む。
<瀬織戸の渡し跡>
室町時代大永年間の頃まで三保半島は島となっており、駒越と浅瀬の海で隔てられていてその浅瀬を渡し船で渡ったいう。
この私は別名(有渡の渡りの早きせに、逢すありとも後にわが妻」(670年頃)と詠んでいる。
[三保・旧道]
病院は坂を下った所にあるが、この坂が渡しへ向かう坂だったのだろう。
今では地形が変わっていて海はかなり離れた所にある。
[三保・旧道]
瀬織戸の渡し跡から100mほど進むと国道150号線へと突当る。
三保街道はここで終了とする。。
久能道へ行くにはこちらをクリック。
−コメント−
三保街道は全国的にも有数の観光地を貫いている街道。
見どころも多く楽しく散策できる。
− 志みず道 −
旧東海道の追分から清水湊へ続く道を「志みず道」と呼んでいる。
寄り道しないと約2km程度のお手軽行程。
[旧東海道の追分]
このあたりは追分と呼ばれる所。東海道と清水港へ向かう道との追分となっているのでそう呼ばれている。
「追分の羊羹」として親しまれている羊羹屋の脇に「しみずみち」の入口がある。
この羊羹はモチモチして甘さも抑えたくせになる味だ。
[しみずみち入口]
しみずみち入口には石柱が立っていて「是より志みづ道」と書かれている。
道は自動車が通るにはギリギリの広さ。
[志みづ道]
志みづ道に入って100mほど直進し、小学校が左側に見えると水路に沿って左へ折れる。
この小学校は清水入江小学校。「さくらももこ」の母校とのこと。まるちゃんはここがモデル?
志みづ道から水路に沿って右へ向い路地を静鉄線路脇まで入った所に寺があるので少し寄ってみる。
[東泉寺]
静鉄線路脇に臨済宗妙心寺派「端陽山 東泉寺」がある。
[東泉寺]
東泉寺の本堂。
[追分]
小学校のブロック塀と水路に挟まれた道を進む。
[静岡鉄道とJRの線路]
鉄道の線路で志みづ道は分断されている。
踏切を渡る前に桜橋駅の近くに大きな木が並んでいる神社が見えるので寄ってみる。
[村松稲荷神社]
鳥居の横に由緒の書かれた看板が立っている。
御祭神 宇気母智命
由緒
戦国時代武田勝頼の家臣穴山梅雪が江尻城のが廃城となりその際現在の場所に文殊を遷したと伝えられる。以後徳川家及び近郷の入江家が文殊稲荷神社として尊崇する事を厚かったと謂われる。
配祀
思兼命 崇徳天皇 大巳命
[村松稲荷神社]
境内に入ると小さな木の脇に保存樹という看板が立てられている。
この木が保存されているのだろうか。
保存樹
この樹木は清水市みどり条例により保存樹林として指定されたものです。みんなで大切に守って下さい。
樹種名 くず
指定番号 6号
指定年月日 昭和54年10月1日
清水市
[村松稲荷神社]
この神社には大きな木が多く、古い年代から繁栄してきたことが伺うことができる。
[愛宕神社]
村松稲荷神社の境内に小さな社が建てられていて、由緒の書かれた看板が立っていた。
愛宕神社の由来
愛宕神社はその昔、王城鎮護の神として洛西(京都市右京区)愛宕山頂に総本山が有り、全国に分散祭祀されている。
この近くでは静岡市沓谷に徳川家康が駿府城の鬼門除けとして祭祀された愛宕神社は有名である。祭神は火之迦具突智命である。このお社はそこから分霊されたものと推定されるが、残念ながら日時等は定かでない。よって祭神は火の神でありお祈り下されば火についての安全は勿論、もろもろの日常生活についての安全は保障される。又、辰年、巳年の守り神でもある。
平成12年弥生 文殊稲荷神社 氏子会
[大樟]
愛宕神社の横に大木があり、説明書きが立っている。
静岡市天然記念物 文殊稲荷神社 大樟
「稲荷神社」は、大正2年刊行の「静岡県安倍郡誌」に記載されているが、神社の森や大樟については、文献に垣間見ることができない。
茶畑の中に林立する大樟は、江戸時代に東海道を往来した人々の目を引くものであり、これまで地域の人々に大切に育てられてきた。
樹高は、30.5m、目通り径は6mを測る。
平成18年3月31日
静岡市教育委員会 文殊稲荷神社
[大樟]
立派な「くすのき」だ。
[桜橋]
先ほどの歩行者用の踏切まで戻り、ここを渡る。
志みず道は歩行者用なのだ。
[春日一丁目]
踏切を渡って50mで南幹線へ出る。
南幹線を渡ってから今来た道を振り返って見る。
[桜が丘町]
相変わらず狭い道を100m進むと化粧舗装されているコミュニティ道路に出る。
この道は清水商業高校から来る道だ。
[清水文化センター]
清水文化センター前の北側の道。
[県道197]
志みづ道は県道197号を横切る。
[入江岡町]
狭い道に広い間口の塀の家が所々にある。
江戸時代には往来が多かったことを想像しながら進む。
[入江岡町]
来た道を振り返って見てみる。
右は入江岡町、左が上清水町。
[入江岡町]
マンション敷地の一角に祠があった。お地蔵さんらしい。
軒下の看板に「交通安全」「子育地蔵」「御詠歌・・・」と書かれていて、きれいに手入れがいきとどいている。
志みづ道はこの先で突き当たる。この道は旧東海道の江尻宿から来る県道75号(久能道)と合流する。
[志みづ道]
今来た「志みづ道」を県道75号の交差点から振り返る。
[久能道]
県道75号は旧東海道から「久能道」を整備したものだが、ここで「志みづ道」と合流。
この50m先で左へ曲がる路地へと進む「志みづ道」が県道75号となる。
「久能道」は県道から市道へと変わり真っ直ぐ進む。
久能道に行くにはこちらをクリック。
[上清水町]
県道となって「志みづ道」は狭い道を清水湊へと向かう。
[上清水町]
「久能道」との交差点はかつて札の辻があったらしい。看板が設置されていたので読んでみます。
<上清水村 札の辻跡>
上清水の旧家望月家には、徳川幕府に替って政治を行うことになった明治政府が、慶應4年(1868年、明治元年)3月、民衆の守るべきことがらを全国の町や村の「札の辻」(高札掲示場)に布告した立て札が残されています。
「壱の札」には、儒教の五倫の道(君に忠親に孝、夫に従い、目上の人を敬い、友と仲良く)という人間関係における道徳的なあり方を示し、また、身よりのない者や体の悪い者を哀れみ、人を殺したり、家を焼いたり、盗みをしてはならないなどと示しています。
「弐の札」は、久能道としみず道が交差し
人々の往来も激しかったところですから、おそらく旧幕府の時代から御触れを伝える「札の辻」のあった場所と思われます。
[八幡神社]
札の辻のすぐ先に上清水八幡神社がある。
この神社の創建は平安時代からともいわれている。
[八幡神社]
鳥居の脇に由緒書きがあった。
八幡神社の由緒
上清水八幡神社は、堀河天皇の御代寛治元年今を巨る834年前源氏の頭領八幡太郎義家の勧請により建立せられ誉田別命応神天皇を祭神とし配社相殿に素盞鳴命を祀る八雲神社境内社として稲荷神社外3社を祀る。
義家手植と伝えらるる大楠は欝叢として繁茂し、清水市文化財の指定を受けて居る。其の後社殿荒廃のため今を巨る295年前、御西天皇の寛文12年徳川4代将軍家綱の意を受け清水船手奉行細井左次右エ門が現存社殿を再建した。
当時徳川家から奉納した葵定紋付の御簾は本殿に蔵置せられ細井奉行寄進の額面は拝殿正面に掲げられている。
其の後天保年間大修理を加えたが100余年を経て破損甚しきため昭和40年8月氏子の寄付により拝殿の屋根替へ其の他の大修理を加え更に昭和46年9月氏子並崇敬者の特志寄付により燈籠こま犬階段表裏参道等を築造して境内を整備し荘厳なる社殿と緑滴る社叢は神社としての威容を誇り広く信仰崇敬の的となって居る。
昭和46年10月 氏子総代拝記
[八幡神社]
これが義家手植と伝えらるる大楠なのだろう。
[上清水町]
神戸商店と言うお菓子屋さんがある。
道はこの先でクランク状に曲っている。
[上清水町]
菓子屋の前に高い塀に囲まれた家があって、脇に懐かしいゴミ箱の跡が残されていた。
この脇の路地を入って行くと「チャンチャン井戸」と呼ばれる井戸があるらしいので行ってみる。
[チャンチャン井戸]
路地を50mほど進むと浜田小学校の校庭が見えてくる。
[チャンチャン井戸]
浜田小学校のグラウンド前の住宅の敷地内に井戸の跡があった。
チャンチャン井戸
このあたり(旧上清水村)は、昔から水の少ないところで、掘井戸にしても、しぶみがあって飲み水には適しませんでした。
今からおよそ800年ほど前に、この地に流れついたひとりの旅の僧が、疲労で倒れていたのを村人が助けました。僧は恩返しにとチャンチャンかねをたたき経を唱え、村人が困っている水を探し歩きました。
ある日、僧が示した場所をみんなで掘ると、突然その穴から水がわき出しました。喜んだ村人はこれを「チャンチャン井戸」と呼ぶようになりました。この井戸の水は清く飲み水によいため、遠くからも水くみにきました。
「清水」という地名も、これから起こったとも伝えられています。
昭和58年3月 浜田地区町づくり推進委員会
[禅叢寺]
臨済宗妙心寺派「白華山 禅叢寺」
「志みづ道」は禅叢寺を避けるようにクランクする。
湊からやって来ると正面に寺の門が向いている。
この寺には「次郎長」「白隠禅師」「山本勘介」などとかかわりがあるらしい。
[禅叢寺]
手入れのいきとどいた落ち着いた境内。
[禅叢寺]
本堂の脇に寺の由緒が書かれた板があったので読んでみます。
禅叢寺の由緒書
白華山禅叢寺は臨済宗妙心寺派で享禄4年(1531)岡部美濃守盛長公を開基とし鎌倉建長寺雪心和尚の開山として創建された。準開山(2代)九岩和尚は織田信長の3男神戸信孝(伊勢の武将神戸具盛の養子となる)の孫であると過去帳に記されている。
九岩和尚の実弟は神戸元久と言い、この子孫は現在もつづいている。開基岡部美濃守は岸和田藩主岡部氏の先祖で岡部町の出身、当時この地方を領有して居たらしい。岡部公の墓は神戸元久の墓のすぐ前にある。
禅叢寺の本尊は釈迦如来で年代は不詳である。
薬師堂の薬師如来は鎌倉時代の作で明治維新前は当山塔頭法西寺の本尊で門前にあった。
明治初年合寺して本尊薬師如来を禅叢寺に移した。
薬師堂の向って右に馬頭観世音左に弘法大師を祀ってある。
毎年1月8日の初薬師縁日には戦前まで善男善女で賑った。
当山はその名が示すように竹藪があった。これは地震や津波の害に強く避難所としての役割を果たしていた。境内には良質の水が湧く井戸があり低湿地の上町、浜清水住民の飲料水や入港船への補給水として用いられ竹桶による通水も行われた。
山本道鬼(勘助)陣中使用の鉄笏と食駕篭(三ツ巴紋)が保存されていた。(昭和20年焼失)岡部公が軍学の師として登用したとも考えられる。
第9代千英和尚の当時白隠禅師19才で当山衆寮に掛塔し、千英和尚の講座を開くと白隠年譜に記されている。
以来度々当山を訪れている。第16代月汀和尚は書を能くし次郎長幼年時代手習に通ったと伝記にある。現在の諸堂は山門を除き戦災後の建築である。
平成3年3月吉日
[禅叢寺]
本堂の裏に手入れの行き届いた庭がある。
[禅叢寺]
山門を入った所に懐かしい手こぎポンプの井戸があった。
使ってみたら簡単に水が出てきた。
[上一丁目]
禅叢寺の先の交差点を越えると上一丁目に入る。
[専念寺]
浄土真宗大谷派「堀江山 無量寿院 専念寺」。
塀には「旧しみず道」の看板があった。
[しみず道]
専念寺を過ぎてすぐの交差点で「志みず道」は右へ曲る。
この先の萬世橋までちょっと寄り道をしてみます。
最初はこの橋で「志みず道」は終点だと思っていた。
[しみずみち]
橋が盛り上がって見える。
この場所は標高0m地帯なのか?
[萬世橋]
萬世橋は昔の規格の橋なので狭い。
乗用車がやっと擦れ違うことができる程度だ。
[萬世橋]
橋の脇に記念碑と説明書きがあった。
明治の中頃、清水町と対岸向島との交通のため橋は、港橋と富士見橋の二橋しかありませんでした。
このため、上一丁目の人たちは不便を感じ、たびたび望月萬太郎清水町長に橋を架けるよう陳情しました。
その頃、東海道鉄道が開通した後で、清水町と江尻町との交通、交流は日に日に頻繁になってきた折であったので、望月町長は巴川沿いに両町を結ぶ新道を県費補助で建設し、併せてこの新道に架橋しようと策しました。
新道と橋は明治29年6月28日に完成、上一丁目の人たちは待望の架橋完成を喜び、橋名を望月町長の名の一字「萬」をとり、萬世橋(よろずよばし)と命名明治30年6月橋のたもとに碑を建て、望月町長の功労を永く記念することとしました。
その後新道は(しんみち)と呼ばれ、清水町と江尻町を結ぶ重要な道路となり、両町合併(清水市誕生)のきっかけになったといわれます。
現在の橋は昭和10年3月架け替えられました。
[八雲神社]
萬世橋の50m上流側に八雲神社がある。
[上一丁目]
専念寺から直ぐの交差点まで戻り「志みず道」を進む。
曲ってすぐの上一丁目自治会の看板には「旧しみず道」の札が付いている。
[しみず道]
「志みず道」は間もなく県道197号線を渡る。
先ほど清水市民会館の前で横切って来た道が曲ってここへつながっている。
[しみずみち]
「志みず道」はこの車両進入禁止を南下する。
ここの「志みず道」は県道75号線なのに一方通行なのだ
[しみず道]
住宅街を進む。
提灯がぶら下がっていて居酒屋でもあるのかと思ったら、提灯を作っている所らしい。
[しみず道]
道は突当り、曲ってすぐの民家の塀に「旧しみず道」の札が付いている。
[しみず道]
「志みず道」は正面の橋へは向かわず、クランクするようにまた右へ曲る。
昔からクランクしていたのだろうか?かつてはここを直進していたのかも知れないとも思う。
[しみず道]
橋まで行ってみる。
「ふじみばし」と書いてある。かつては富士が見えたのだろうか。
[しみず道]
クランクまで戻り進む。
[妙生寺]
右に寺の入口がある。
真宗の「恒河山 妙生寺」
[しみず道]
「志みず道」は神谷生花店へ突き当たる。
花屋の横が實相寺の参道になっているので、花屋が突当りではなく寺が突当りなのかもしれない。
[実相寺]
神谷生花店の横に石柱が立っている。
「浄土宗 忠高山 蓮座院 実相寺」と彫られている。
[実相寺]
門をくぐった所にある石碑は「南無阿弥陀佛」と味のある筆致で書かれている。総本山知恩院の浄土宗門主による筆によるものらしい。
[実相寺]
本堂はハイカラな近代建築だが、境内は落ち着いた手入れが見られる。。
[しみず道]
神谷生花店前で左折するとすぐに出会う商店街は「次郎長通り」と呼ばれている。
[次郎長通り]
この通りの先に、次郎長の生家がある。
[次郎長通り]
次郎長通りへ入って100mほど行った所に寺へ向う路地がある。
日蓮宗「円教山 妙慶寺」
[次郎長通り]
妙慶寺の本堂。
[次郎長通り]
梵鐘のいわれが書かれた石碑があった。
梵鐘の由来
当山は大永年間(1521〜28)領主今川義元公が開基檀越となり、息女圓教院殿妙慶日慧大姉の菩提を弔う為創建された寺で、山寺号はその法謚による。
永禄2年(1559)村松海長寺第十世蓮華院日存上人を迎え開山とす。爾来400有余年今日に至る。
寛政7年(1795)に鋳造し奉納された当山の半鐘は第2次大戦中の昭和15年(1940)11月23日全国の寺院に倣い御国の為に献納。鐘楼も取り壊された。
その後この半鐘は終戦直後米国海軍軽巡洋艦トピカ号の乗組員達により戦利品としてカンザス州トピカ市在住のミミ・シボー女史が「日本の元のあった場所へ返還すべきだ」と提唱。この運動を時のダグ・ライト市長が支持され、カンザス市在住沼田英夫日本領事ウイルソントピカ市に於いてフェルカー市長主催の盛大な返還式が開催され、当寺から第37世井水尭文上人ら5名の代表が渡米。深甚なる感謝と御礼を申し上げ返還された。
同年10月3日半鐘は無事帰山し、壇信徒の丹精により平成3年(1991)4月26日半鐘建立。その落慶式には遥々米国トピカ市よりフェルカー市長夫妻が来日。外務省関係者、宮城島市長清水市長等を始め多数の来賓の臨席を賜り壇信徒200有余名が参列。極めて意義深い喜びの式典が奉公された。
戦争のためとはいえこの半鐘は広大な太平洋を往復し、帰山するという誠に幸運な半鐘で当山の宝であるのでここにその史実を記し宗祖、日蓮大聖人のご遺徳を崇敬し祖霊の供養は勿論、日米両国戦没者の慰霊と世界平和日米友好親善を永遠に祈念するものである。
平成3年4月26日 圓教山 妙慶寺
[次郎長通り]
妙慶寺の庫裡。
[次郎長通り]
次郎長通りへ戻り50m南の路地に次郎長通り商店会の案内看板が掲けられていた。
[次郎長通り]
この建物が次郎長の生家跡。
[次郎長通り]
次郎長の生家跡と今来た次郎長通りを振り返る。
生家跡には説明書きが書かれている。
<清水湊 次郎長生家博物館>
山本長五郎は、1820年(文政3年正月元旦)この家に生れました。
江戸時代の清水湊は、この付近の巴川河岸であり、ここ美濃輪町一帯には廻船宿30戸が軒を連ね、上流の上町、本町には廻船問屋が集まっていました。実父の木三右エ門は、自前の船で業を営む船持ち船頭でした。
長五郎は8才で山本次郎八(米屋「甲田屋」を営む叔父)の養子となり、次郎八さんちの長五郎、つまり次郎長とあだ名されました。
安政地震(1859年)の後に修繕したと伝えられるこの家は、表通りに面した帳場と住まい、中庭、船道具を置いた裏(屋敷)をぬけて中通りへ、さらに浜通りへと通じ、巴川を隔てた向岸には、咸臨丸壮士之墓があります。
館内の、次郎長半生の偉業を記す資料など、清水湊の歴史の証人です。
館長名 服部千恵子 商店名 次郎長生家
平成11年7月 小さな博物館認定
みなとまるごと博物館SHIMIZUの会 会長 杉山 満
[次郎長通り]
「次郎長の生家跡」へ入ると生前の写真や道具などが展示してある。
<次郎長のあらまし>
次郎長は当家、木三右エ門の次男として生まれたが、8才の時、母親の弟で、近所で米屋を営む山本治郎八の養子となった。治郎八のところの長五郎が「次郎長」のニックネームになり、渡世人になっては土地の名をつけて「清水次郎長」と呼ばれた。
幼少の頃はワンパクが過ぎて持て余し者だったが、16才の時養父の訃にあい、家業に精を出すが、旅の僧に25才までの寿命と予言され常道からはみ出した。
23才で米屋を実の姉夫婦に譲り旅に出て、その後の25年間は浪曲や映画で語られるアウトローの途を続けた。
しかし、明治維新を機に、山岡鉄舟、榎本武揚、広瀬武夫大山陸軍大臣、小笠原長生等の偉人と交わってからは様々な社会事業に熱心に取組み、地域に多大な貢献をした。前半生は博徒であったとしても人の功罪は死して後に定まるとすれば信念をもって地域に尽くした人情家社会事業家としての晩年の次郎長は称賛に価するといえる。
明治26年6月12日歿(1820〜1893)
次郎長の歿後100年を記念して「次郎長翁を知る会」が結成されました。
目的は、次郎長の後半生を探り、その有大な人間像を求め、残した功績を後の世代に語り継ごうというものです。
会長には地元出身で長銀理事長の竹内 宏氏を迎え、市の経済界や多数の県内外の人々が入会しています。
[次郎長通り]
次郎長の時代の家具や調度品が展示してある。
<次郎長とは>
文政3年(1820)〜明治26年(1893)を侠客として又国士として波乱の生涯(74才)を終えた人である。
母方の叔父に当る米問屋、甲田屋、山本治郎八の養子となった。次郎長の通称は、次郎八のところの長五郎という意味である。
若い頃は米屋家業に精を出したが、その後は遊侠に身を投じ清水港の親分となった。
晩年は山岡鉄舟の知遇を受け国を思う国士というか、政治家というか、実業家というか、次に掲げる数々の事跡を残している。
(一、壮士の墓)
明治元年(1868)清水港に漂着した幕府の「咸臨丸」が官軍に砲撃され死者多数を出し、その死骸が湊に浮遊し漁民稼業に困ったが官軍の前に誰も収容しようとしないのを次郎長は仏に賊も官軍もあるものかと遺体を葬った。これが山岡鉄舟、榎本武揚の目に留り、山岡鉄舟から「精神満腹」の書が贈られ、榎本武揚から墓碑銘揮毫が寄せられ知己の仲となった。
(二、清水港の発展に海運業を創設)
これからの港は蒸気船を導入しての海運業が必要であることを説いて廻ると共に自らが静隆社を起し蒸気船を購入して清水−横浜間の海運業を始めた。
(三、英語塾の開設)
海外に目を向け「これからの若い者は英語ができなきあだめだと日本で最初の英語塾を開いた。
(四、富士裾野の開墾)
これには囚人の労働力を使い模範囚の保護活動の上に広い原野を耕し勤労の喜びと家族とのふれあいの下で更生の途を開く一石二鳥の有効利用をはかった。この開墾地に次郎長町という地名として残されている。
(五、伊勢神宮から分霊した「神道天照教」建設に協力)
日本に国の教えを築くため幕末維新の勤王家であった徳田寛量に協力して富士裾野の開墾の上に「神道天照教」を高島嘉衛門と共に建設に努力した。この「天照教」と開墾の関連は目下調査中である。
(六、相良油田の開発)
山岡鉄舟からの手紙により「石坂周造」と会い、その頼みを聞いて相良油田の開発に協力した。
又、清水から株主を募集して油田開発の資金協力をした。
この石油開発に日本で最も早いものと言われている。
(七、三保の開墾)
三保に次郎長新田という地名が残されており、ここが次郎長の開墾したところである。
(八、徳川幕臣への援助)
徳川家臣が幕府の互解により録を離れ、生活に困っていたところを次郎長が援助した。
(九、東海道線開通への協力)
東海道線開通に当って人夫の供給を一日2000人動員したと言われている。
(十、清水港に問屋の育成)
幕末ごろから盛田家が清酒、味噌、醤油醸造をし、中埜家に食酢の醸造をして千石船で江戸に販売していた。11代盛田久左エ門と4代中埜又左衛門が相謀って駿河に販路を開発せんとするとき次郎長が仲介して中泉現金店を発足させた。中泉の名前は中埜の中と盛田家(屋号の山泉)の泉を取ったものである。三井物産鰍ェ清水の支店を設けるときも次郎長へ御招待状が発せられている。
次郎長生家
[次郎長通り]
次郎長の生家から100mほど南に「美濃輪稲荷神社」の鳥居がある。
[次郎長通り]
鳥居をくぐった路地の先に「美濃輪稲荷神社」がある。
[次郎長通り]
寄進された鳥居が並んでいる。
[次郎長通り]
「美濃輪稲荷神社」の社殿。
[次郎長通り]
萬霊塔碑が建っていて、説明看板があるので読みます。
<万霊塔碑>
清水市指定文化財 万霊塔碑 昭和41年4月1日市指定
徳川時代にこのあたりを新田開発した際多数の人骨がでたので霊を慰めるため、播磨屋作佐ヱ門が石野甚右ヱ門広江に撰文を依頼し天明2年(1782年)5月に建立したもので、和文で綴った優雅な碑である。
昭和50年1月 清水市教育委員会
[しみず道]
「次郎長通り」の入口へ戻り「港橋」を見る。
橋の手前に蔵がある旧家はかつての繁栄を伝える。隣は入船寿司本店。
[港橋]
しみず道はこの橋が終着点となるらしい。
[西宮神社]
港橋を渡らずに上流へ曲った所に西宮神社がある。
[上総稲荷神社]
西宮神社から直ぐの場所に上総稲荷神社がある。由緒が書かれている。
鎮座地 静岡市清水区本町3番1号(旧清水市袋町417)
祭神 宇迦之御魂命 大宮姫命 太田命
例祭 5月14日(前夜祭) 5月15日(本祭)
境内地 18坪9合
本社創建 天保8年(1837)
由緒 本神社は天保8年(1837)に創建され、上総稲荷と称した。明治6年(1873)に稲荷神社と改め、昭和5年(1930)11月1日静岡県令兵第2137号を以って上総稲荷神社と改称した。
嘉永7年(安政元年)11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震および翌日の安政南海地震により社殿が破壊された。現在の社殿は明治6年(1873年)に再建されたものである。
[清水港船宿記念館]
港橋に戻り渡ると信号の向こうには、何やら古い建物がある。
次郎長が清水の波止場で開業していた船宿「末廣」の材料を使用して平成13年に復元された建物だ。
実際に末廣があったところはこの先の「日の出ふ頭」のあたりだったらしく石碑が建てられているそうだ。
[清水港船宿記念館]
記念館の脇に説明看板があった。
<清水次郎長の船宿 末廣>
この建物は、明治19年、清水次郎長(山本長五郎)」が、清水の波止場に開業して、明治時代の船宿の面影がしのばれるよう復元したものです。
入場無料
開館時間:午前10時〜午後6時
休館日 :月曜日 年末年始(12/29〜1/3)
[清水港船宿記念館]
石碑が2つ立っているので読んでみます。
清水港の宿りにて 愚庵詠
我が妹をおもふものから 妹が我をこひんこころも かくやとぞしる
伏谷如水 子孫 鶴子合掌
<次郎長清水港警固之碑>
明治元年(1868)次郎長は、大総督府駿府町差配役伏谷如水により清水港の警固を命ぜられた。この事実は、同年5月29日付の如水家中間野隆太より次郎長宛書簡により明らかである。維新動乱の渦中、次郎長はこの大役を見事に果し、後の清水港発展に結びつけた。後世に伝えるためここにその事績を誌す。
田口英爾撰
平成15年3月 次郎長翁を知る会会長竹内宏書
[清水港船宿記念館]
中に入ると土産物の売店がある。売店の女性が「よかったら2階をご覧下さい」と言ってくれた。
階段の登り口に多くのサイン入り色紙が並べてあった。
主な有名人は「加藤剛」「ウド鈴木」「テツandトモ」「春風亭昇太」「岡本夏生」
残念ながら有名なサインは少ない。
[清水港船宿記念館]
2階に登ると「ドキッ!」とした。
人が並んでいるかと思ったら人形だった。
[清水港船宿記念館]
いろいろな古民具が置いてある。次郎長の英語塾の説明書きがある。
次郎長の英語塾で英語で英語を習った話がいくつも伝わっています。
明治7年、旧幕臣の新井幹が成就院に明徳館(後の清水小学校)という私塾を作りましたが、次郎長はその一角で英語塾を開いたそうです。
次郎長は、自らは無学でしたが、学問の大切さは理解していました。
[清水港船宿記念館]
この窓は味があっていい。
夏、ここに腰掛けて夕涼みは風情があるだろう。
欄間に額が掛かっていて、港橋から巴川の土手沿いに200m余り行った所にある「壮士の墓」の説明が書かれていた。
幕府の咸臨丸が清水港沖で難破し、乗組員の死体が海に浮かんでいても官軍のお咎めを恐れ誰も葬る人がなかった為に、次郎長が「死んだ仏には敵も味方もない」と言いこれをねんごろに葬った。この行為に対し、山岡鉄舟は次郎長に「精神満腹」の書を贈って、これを賞した。
[港橋]
記念館から港橋を眺める。
[壮士の墓]
「壮士の墓」は小じんまりとしたスペースに収まっている。
説明看板を読む。
明治元年8月品川湾を脱出した徳川幕府の榎本艦隊旗下の咸臨丸は台風のため難航をつづけようやく清水港に漂着し船体修理中を追跡して来た官軍の富士山武蔵飛龍3館の襲撃を受けて春山副官を始め多数の乗組員が戦没したのは9月18日のことであった。
その死体が海に浮き沈みしているのをだれ一人かえり見るものもなかったのを清水港の仁侠人次郎長こと山本長五郎がひぞかに収拾して向島の松の根のもとに埋葬し一基の墓を建ててその菩提を弔った。
剣禪一如の大偉人山岡鉄舟が次郎長の義挙に感激して雄渾の筆を揮ったのがこの壮士の墓である。
静岡県知事 齋藤壽夫書
[壮士の墓]
墓の後ろに小屋があり、地元の集会所を兼ねた資料館になっているようだったが閉まっていた。中は見えるので、ちょっと覗いてみたが残念でした。
旧東海道へ戻るにはこちらをクリック。
−コメント−
「志みず道」の周辺には寺や神社が多くあった。
今回紹介した寺社以外にも沢山ある。
− 清水区内 −
清水の主な街道に沿っていない見どころを巡る。
一度に巡ることは難しいので、スポットでの訪問になる。
先ずは府中宿から江尻宿へ向う「北街道」の副道だったかもしれない道から訪ねる。
[楠]
巴川と長尾川が出会って「葵区瀬名川」と「清水区楠」の間をしばらく平行した後合流して清水へ向う。
現在の北街道は「瀬名」から「鳥坂」へと通っているが、北街道の古いルートは「瀬名川」で巴川と長尾川に突当り消滅している。
巴川と長尾川の間の土手からこれから訪ねる清水の吉川へ向う道を見る。
[楠]
400m上流の橋を渡り、土手沿いに対岸まで戻る。
「清水区楠」から「清水区吉川」へ向う道の入口。巴川沿いの土手から始まる。
[楠]
若宮白髭神社が巴川脇にある。
大雨の時には洪水の常習地区なので神に祈る。
[楠]
200m程で国道1号からの道に出会い、交差点に曹洞宗「保寿山 興福寺」がある。
[楠]
興福寺から先は整備された道路が「清水区長崎」に向けて真っ直ぐに伸びる。
[長崎]
興福寺から約1kmでバイパスの長崎ICと国道1号線を結ぶ4車線の道に交差する。
[長崎]
4車線の道に交差する手前の路地を北に入ると曹洞宗「長崎山 教福寺」がある。
[長崎]
4車線の道との交差点の南側に臨済宗妙心寺派「延命山 東明寺」がある。
新しい本堂だが、今は無住の寺のようだ。
[長崎]
4車線の道との交差点を越えて東へ進むとすぐに長崎神社がある。由緒書きの看板を読む。
<長崎神社の由来>
祭神 素戔鳴命
創建 天和3年(1683)
享保8年(1723)再建
合祀
天神社 菅原道真
白山神社 白山比当ス
もともとは、牛頭神社といわれていたが、明治5年、長崎神社と改称同8年2月、村社に列した。
合祀の2社は、元村内に鎮座されていたものを、明治18年8月25日、当神社に合祀したもの。
合祀 天神社
元矢崎橋の下にあった社を、巴川改修に伴い長崎神社に合祀した。
その由緒は、梶原景時討ち死の時、景時は梶原山に逃げ登った時に始まる。山は険しく馬も後ずさり登ったというほどで、景時は馬を放ち去らせようとしたが、馬は主人のそばを離れようとしなかった。景時は馬具を遠くへ投げ飛ばしたその落ちた所に、後の人々が社を建て祀った。
【鞍】は瀬名村に落ちて[登鞍明神]に、
【鎧】は鳥坂村に落ちて[浅間社・天王社]の両社となり、
【轡(くつわ)】は長崎村に落ちて[天神社]に祀られたという。
平成20年10月吉日
[長崎]
長崎神社は2階建ての2階にある。
[長崎新田]
長崎神社から300mほど進んだ所の路地を左に入ると佐口神社がある。
神社の境内には保存樹林に指定されている楠の古木がある。
[堀込]
吉川に向って道を進む。
[堀込]
若宮神社前に信号がある。
古道は斜めに細い道へ向う。
[堀込]
若宮八幡神社。
[堀込]
若宮八幡神社の本殿。
[堀込]
若宮八幡神社の境内社。
大地主大神という若宮八幡宮を守る境内地を護る土地の守護神」と書かれた看板が立っていた。
[堀込]
吉川へ向う狭い道を進む。
[吉川]
「清水区吉川」に入るとすぐ、吉川墓が道路脇にある。
看板を読みます。
「吉川氏の墳墓」
昭和18年、吉川子爵家が第1代吉川経義の750年祭を記念して築造したのがこの墳墓である。
ここ吉川の地は、鎌倉武士として、また、戦国の世で活躍した吉川氏発祥の地であり、その由来は、吉川八幡神社の鳥居に詳しく記されている。
吉川氏の墳墓は、古くからオコリポタと称され、この付近に住む人々にとって神聖視され、入ることの許されない禁制の場所であった。4代にわたる墳墓が分散していたことから、一個所に統合したものである。
第一代経義は寿永2年(1183)源頼朝から吉川の地を安堵され、第二代友兼は、梶原一族を狐が崎の合戦(1200)で討った功績によって、第三代朝経に播磨国福井庄(兵庫県姫路市)を賜り、第四代経光は、承久の乱(1221)の戦功によって、安芸国大朝庄(広島県山県郡大朝町)の地頭職に任命された。
第五代経高は、ここ吉川の地よりそれぞれの地方を支配したが、正和2年(1313)この地を離れて大朝庄に移住した。
戦国末期、毛利元就次男元春は吉川家を継ぎ、小早川氏と共に毛利家の支柱となり、「3本の矢」の逸話はあまりにも有名である。その子広家は関ヶ原の合戦(1600)で東、西軍の間で苦心折衝、その功によって、徳川家康より周防国岩国6万石の城主に任じられた。
岩国藩第三代藩主吉川広嘉は、名勝「錦帯橋」を築造し、今では全国から数多くの見学者が訪れている。
ちなみに、吉川友兼が梶原景茂と清水市のこの地の戦いで使用した青江為次作の名刀「狐ヶ崎丸」は、国宝として岩国市の吉川資料館に展示、公開されている。
平成13年(2001)3月 岩国吉川家 第16代当主 吉川重幹
有度まちづくり推進委員会
吉川自治会
清水西ロータリークラブ
[吉川]
吉川墓の脇に石碑が建っている。
石碑に書かれた文字を読みます。
吉川氏発祥の旧跡碑
清水市吉川を中心とする一帯の地方は旧岩国藩主吉川氏の初代経義より友兼朝経経光経高に至る5代128年間の旧跡地である
昭和33年6月 岩国市史編纂所長 文学博士 瀬川秀雄誌
[吉川]
吉川墓の前からこれから進む先を見る。
[吉川]
吉川墓から700mほど南に曹洞宗「對富山 源光院」がある。
別の日に訪れた。
[吉川]
道はクランク状になっていて、吉川から能島へ向う。
昔はこのあたり一帯を吉川家が治めていた。
[能島]
50mほどで道は突当り左へ曲って100m北に能島八幡宮がある。
[能島]
能島八幡宮の社殿。
[吉川]
少し南へ戻った交差点で東へ向う。
道は水路脇を通っている。この水路のあたりに巴川の本流が流れていたこともあったそうだ。
[吉川]
水路脇に「吉川屋敷跡」を説明する看板が立っていたので読みます。
<吉川屋敷跡>
吉川館は古宮を西北隅とし東西約180m(100間)南北約240m(130間)ぐらいの長方形と伝えられ現在の上の段がこれに当る当方の川流が谷津沢川の名残ではなかろうか?この時代の東海道は今の北街道であり、是より能島の地を通って巴川は、綱を手繰る繰舟を用いて渡ったと考えられ能島の八幡社を繰崎八幡と称しこの所を舟越と言った。
尚、吉川の小字に繰崎舟戸の地名がある。昔は有渡へ渡る重要な幹線であったと考えられる。この所は初代経義が寿永2年源頼朝より賜り館を築き以後北朝年号康永4年、南朝年号興国5年(西暦1345年)まで約160年間居住したと考えられている。
(参考)
寿永2年は1183年で木曽義仲京都に入る年(参考文献)有度郷土誌旧有度村
静岡県の歴史中世編静岡新聞社による。
昭和59年1月 有度まちづくり推進委員会
有度公民館歴史クラブ
[吉川]
「吉川屋敷跡」の看板を過ぎると道は路地ばかりになって昔に思いを寄せる道は消えてしまう。
看板から200m程南西に曹洞宗「瑠璃光山 西照寺」がある。
この辺りに「北脇城」があったとされているが遺構は見つけられなかった。
[北脇新田]
西照寺から北側に北脇新田となる。
300mほど北に白髭神社がある。境内に看板が立っていたので読みます。
<疣(いぼ)宮の由来>
この北脇の白髭神社は、境内にある石の溝に溜まった水を、疣につけると消えてなくなり、その効能で広く知られていた。そのため、北脇の地域にとどまらず、近くの村の人たちも、「疣宮さん」「北脇の疣石」と親しまれ、崇敬されてきた。今もなお、市内の多くのお年寄りの方々が、その伝承を知っている。
いうまでもなく、疣は皮膚病の一種であり、特に、人の目に付きやすい顔、首、手、足等に出来、そのために、容姿にも関係深く、伝染するものであって、子どもにも若者にもお年寄りにも嫌悪されていた。
かつては、この境内の南側に大きな山桃の木が自生しており、その木の葉や実、樹皮の中に効能があったと言い伝えられ、石の窪みに溜まる自然水との混合によって、より効果を発揮し、多くの人たちに感謝されたことと思われる。
「疣宮さん」として愛された北脇のこの白髭神社は、医学の進展していなかった時代に生きた人々にとって、皮膚病の疣を治療し、恩恵を授けてくれたありがたい神社だったのである。
平成10年3月 有度まちづくり推進委員会 有度ふるさとマップ委員会
[北脇新田]
また300mほど北に行った巴川の手前に地蔵堂が建っている。
「河岸地蔵」と祠に書かれている。
隣に10基ほどの墓が建てられていた。
[渋川]
南へ500mほど行くと新幹線が通っていて、ガードをくぐった先に臨済宗妙心寺派「瑞光山 金剛法寺」がある。
[渋川]
南へ500mほど行くと新幹線が通っていて、ガードをくぐった先に「金剛法寺」がある。
[渋川]
金剛法寺のすぐ北の路地にある「渋川館」の跡という看板を読む。
渋川館跡
昔、ここに入江の一族渋川氏の館があったと言われています。
正治2年(1200年)梶原景時一行33人を入江一族が迎え討った時、渋川次郎某が4人を討ちとる武勇をあけたことが、「吾妻鏡」に記されています。以前この辺りに曲沢という沢があり、館の堀跡と伝えられていました。
うしろの丘は往時の屋敷の名残であろうと思われます。
1988年3月吉日 入江まちづくり推進協議会
[下野町]
吉川・北脇・渋川と鎌倉以降に勢力を持った武家達がいた地域から離れて2kmほど北の旧飯田村方面へ向う。
北街道と静清バイパスを越えた「下野町」に浅間神社がある。
[下野町]
「浅間神社」の境内に神社のいわれが書かれている。
<浅間神社>
鎮座地 静岡県静岡市清水区下野町8番24番地
(旧静岡縣庵原郡飯田村下野字前田九拾七番)
創建 創建年月日は、不詳なれど明暦年間の頃十二天と称する佛様が祀られていたと伝えられています。
嘉永元戌申年9月吉日上棟再建との記録があり、明治初め頃までは十二天尊社と称していました。
祭神 木花開耶姫命(皇孫瓊瓊杵尊皇后)
祭礼 一月 歳旦祭
二月 節分祭
三月 十二天社祭
六月 大祓祭
十月 例大祭(秋祭り)
十二月 除夜祭
<浅間神社の由来>
この神社は元来、十二天尊社と称し、あまねく災いを除く十二の仏を守護としていました。
明治維新に発布された神仏混合禁止令により、仏社の十二天社は、村役宅に預けられ新たに山原の関田神社より木花開耶姫命を祭神として分祠し、明治3年、社を下野浅間神社と改称し、同年2月村社に列せられました。
それ以後、現在でも静岡並びに、富士宮の浅間神社と同じ御神体をお祀りしています。
御神徳は、国家安泰は勿論、氏子一家の幸運、家内安全無病息災、夫婦円満、生業繁栄を守護して下さる神様です。
現在の本殿、拝殿は下野7町有志の御努力と氏子全員の御協力によって昭和47年(1972年)10月に建替えられました。
<十二天尊社の由来>
往昔、鎌倉崇寿寺薬師如来と共に安置せるものなり。
貞永年間兵火の為、同寺島有に帰し薬師如来、十二神を背って上洛の途、現今(下野)の神社前に休息せしに、いざ発たんとすれど寸毫も動き得ず、因って薬師如来は当地に御堂を建て如来を安置す、これ現在の崇寿寺なり、
それより十二神を当地の氏神として祭せるものなり。
往昔より安産婦人病の守護神として崇拝者実に多かりき、明治初年より神仏混合禁止令に基づき、村役宅へ預けし後、災禍を受ける者多く是れ十二神の祟りなりとの説高まり村役及び住民の強い懇願により、浅間神社境内の神域に別棟を建立し奉祠せるなり。
伝説に依る当地休息の日、即ち3月1日を以て御縁日と定め、盛大に祭祀を行い多数の崇拝者の参詣するに至れり。
尚、同じ棟には水天宮、神明宮、三狐神が祀られており、厄除け、悪病除け、交通安全、五穀豊穣、事業開運などの守護神として古くから、多くの氏子に厚く信仰されています。
<記>
昭和天皇陛下御在位60年記念として
下野浅間神社総代会、下野敬神婦人会様にて昭和60年6月吉日建立しましたが20数年が経ち劣化が酷く危険の為、改めて建て替える事に成りました。
平成20年12月吉日 下野浅間神社総代会、下野七町連絡協議会
[下野町]
下野浅間神社から100mほど離れて下野浅間神社ゆかりの「医王山 崇寿寺」という臨済宗の寺がある。
[梅ケ谷]
下野の崇寿寺から2km弱ほど西の梅ケ谷にある臨済宗妙心寺派「神谷山 牛欄寺」。
門前に看板があったが文字がかすれてよく読めなかった。
Fふるさとの路
牛欄寺
西国88か寺 88番札所で聖観世音菩薩(鎌倉時代の作)を鷲とし、また葵の紋をいただく山門は駿府城のものと云われている。
本堂裏には雄の牛頭石がある。
住職により長い間寺子屋教育が行なわれた。
高部まちづくりの会
[梅ケ谷]
牛欄寺の本堂。
境内には牛の像が横たわっていた。
[柏尾]
牛欄寺から1km足らず北へ行った所に曹洞宗「大圓山 光福寺」がある。
門前に看板がある。
Dふるさとの路
光福寺
真珠院の末寺であったが、明治14年法地に寺格昇進した。
現在の本堂は大正13年〜昭和2年にかけて日本最初の鉄筋の寺として完成した。
明治4年の神仏分離令により熊野5社権現より掛け仏15面(市文化財)が移管されている。
[柏尾]
光福寺は素敵な建物だ。
静岡県指定有形文化財(建築物) 光福寺本堂
構造 鉄筋コンクリート造2階建陸屋根
規模 建築面積 124.27u
延床面積 217.95u
最高の高さ 13.00m
設計・施工者 桜井康弘
県指定 平成5年(1993)12月21日
大正13年から昭和2年にかけて建築された、鉄筋コンクリート造りの寺院本堂。
大正12年(1923)関東大震災による木造の全焼や、煉瓦造り崩壊で反省され未来永劫残せるものとの考えから、かわって鉄筋コンクリート造りが、地方へ伝播してきた先駆的建物として貴重である。
火灯窓(かとうまど)・懸魚(げぎょ)等伝統的寺院建築の手法を含めながらも、全国的に例をみない思い切った特異な意匠である。
新しい技術やデザインに果敢に挑戦した先人の努力と、想像力の豊かさは近代建築として優れている。
平成12年7月 静岡県教育委員会 光福寺保存顕彰会
[梅ケ谷]
光福寺から山裾に沿って北へ1.5kmほど行くと水車小屋が目に入ってくる。
[梅ケ谷]
水車小屋から1km奥に入ると不動滝がある。
[梅ケ谷]
岩盤の隙間から細い水が流れてくるが水量は少なく迫力はない。看板が立っているので読む。
<Cふるさとの路>
滝の不動明王
疫病消除のため延享元年(1743年真珠院18世和尚は、17日間この滝に打たれ大聖不動尊に祈願した。又、干ばつに当たり、雨乞い祈願をした。再三にわたり不動尊は住民の苦難を救った。このすぐ上に冷泉跡がある。
高部まちづくりの会
[梅ケ谷]
光福寺から北東へ800mほどの所に曹洞宗「鳳凰山 真珠院」がある。
山門脇に説明看板が立っている。
真珠院山門 清水市指定文化財
昭和55年6月25日市指定
間口11尺奥行き10.6尺で禅宗様四脚門、切妻造り平入り、屋根は桟瓦葺である。
享保4年(約260年前)以前のものであり、紅梁の袖切り木鼻の絵様破風の懸魚等に近世の作風を残している。
平成10年11月吉日 清水市教育委員会
[梅ケ谷]
真珠院の山門脇の祠があり、説明書きがある。
<當山鎮守白山権現由来>
今川義忠公祖先の遺風を慕ひ旧址の再興を計り賢窓常俊禅師を開山に拝請し長禄3年鳳凰山真珠院と改称す
当時白山権現は山門頭に祭られて居た。
明治の初年に鹿島神社に祭祀されて今日に至る。
今回境内に遷し當山の鎮守として佛法興隆山門繁栄を祈念するものなり。
白山権現とは永年改組大師入宋の折影随じ一夜碧巌に助力した古事に倣いたるもの也
昭和54年3月吉祥日 住持謹白
<花山天神由来>
宝暦2年當山に初めて祭祀せらる
昭和13年花山天神の御厨子入り御神体を水口一枝老師より拝戴し爾後當山の守護神とし祭り今日に至る。
此の浄地に堂宇を新築し山門守護心願成就学業書道栄達交通家内安全を祈願し奉るものなり。
昭和54年3月吉祥日 住持謹白
[梅ケ谷]
真珠院の本堂。境内に由緒書きがあったので読みます。
<真珠院概況>
当山は元、真言宗に属し、今川範国公の開創した国光寺で、当時は今川家の別荘があった処である。
その後、今川義忠公は、1382年祖先の遺風を追慕して寺を再興し曹洞宗鳳凰山真珠院と改宗した。
1452年、洞慶院3世大巌禅師の法嗣、賢窓常俊大和尚を開山に拝請した。
師は大平山渓畔の石上に木食坐定し道誉は近郷に名高かかった。
御本尊は、釈迦牟尼佛で運慶の腹ごもりの作と伝えられている。
境内は2063坪あり曹洞宗の綿密な道場で禅風を宣揚している。
境内には、青面金剛尊(年代不詳)秋葉3尺坊大権現(1696年)鎮守白山妙理大権現(1523年)花山天神(1745年)不動明王尊(1746年)を祭祀している。
当山は今川家代々諸公の崇敬を戴いた。
徳川家康は、朱印地を15石と改め寺領として下附された。又、駿府在城の時(1601年)住僧6世鳳巌全察和尚を召されて佛法を聴聞された。
開山当時は、7堂伽藍の形態を整えていたが、文化9年(1813)明治9年(1876)と2度の火災を受け、殿堂、什宝等多くの文化財を失ったことは残念である。
山門に掲げた鳳凰山の額(1744年)は、昭和55年清水市の文化財に指定された。
山門側の梛(なぎ)は、昭和54年清水市の天然樹木に指定された。
昭和の中期より鐘楼堂、位牌堂、玄関、庫裡等が建立され境内が整備された。
昭和56年 高部まちづくりの会
[梅ケ谷]
東明寺。
長崎の同名の寺は別院なのだろうか。聞いてみたかったが住職は不在でした。
[蜂ケ谷]
東明寺から東へ600mほど東に臨済宗妙心寺派「補陀山 善應寺」がある。
[蜂ケ谷]
地蔵?が参拝者を出迎えてくれる。
[蜂ケ谷]
百霊場巡拝塔が建っている。
[蜂ケ谷]
善應寺の本堂。
[蜂ケ谷]
善應寺から500m東へ行くと蜂ケ谷八幡宮がある。
由緒看板が立っているので読む。
蜂ケ谷八幡宮
鎮座地 清水市蜂ケ谷806番地
大鷦寮鳥ノ尊(仁徳天皇)創建不詳なるも天暦元年(1034)前と伝うる古社
礼祭年間行事
1月 元旦祭
6月 大祓
7月 天王祭
10月 日待
12月 しめ縄造り・煤払い
境内神社末社 浅間神社、山神社、天王神社、佐口神社
<蜂ケ谷八幡宮の由来>
八幡宮の信仰は九州宇佐八幡宮の始まりで平安時代から皇室の信仰も厚く鎌倉時代には源氏の守護神として武の神を全国各地に広め又八幡菩薩として安産信仰の神佛混合の神でもある。
足利時代(600〜650年)前の豪族は自分の所領を増すため各地に争を起し世相は非常に乱れていた蜂ヶ谷を領地としていた由比彦四郎清光は天下平安を祈り八幡宮の屋根ふき替えを行なった。
「天下安泰国土寧五穀豊饒」と彦四郎自身の福寿を祈願した(541年)前の事である。
修理改築の棟札を保存されている。
「上棟永享(12年)庚申歳2月初5日領主大宅代由比彦四郎清光は政所池谷七左衛門不見禰宜下野孫五郎並刑部尉」当時の駿河守護職は今川で地元の豪族は興津・庵原・狩野・朝比奈・岡部・由比の各代にあった。
平成7年7月吉日 八幡宮氏子総代
[山原]
蜂ケ谷八幡宮のすぐ東隣に関田神社がある。
由緒看板がある。
関田神社
鎮座地 清水市山原343番地
祭神 大山祇命
木花開耶姫命
創建 不詳
祭礼 1月 元旦祭
2月 祈念祭
6月 大祓
10月 大祭
由緒
創建は、はっきりしていませんが、今から千年以上前に建てられたといわれています。
創建当時は、山の上にあり、その後、現在の場所に移され、飯田地区で最も古く、由緒ある神社として、明治8年、村社の上にたつ郷社になりました。
また、付近の山中より、曲玉、土器、刀剣の破片が発掘されたと伝えられています。
境内にある2本の「クスの木」は、樹齢推定550年の老木で、清水市の保存樹木に指定されています。
祭神の大山祇命は、伊邪岐命の子で「山の神・水の神・田の神」として信仰を集め、木花開耶姫命は、大山祇命の娘で「子孫繁栄・実りの神」であり、2神とも狩猟や農耕で生活をいとなむ人々に深く信仰され毎年秋には収穫に感謝する祭礼が行なわれています。
平成10年(1998)10月吉日 関田神社氏子総代
[山原]
関田神社から500m東の山側に臨済宗妙心寺派「錦屏山 長福寺」がある。
階段を上がった所に山門が建っている。
[山原]
長福寺の境内は明るい。
参道の両脇に石造りの観音様が並んでいる。
[山原]
長福寺の本堂。
[庵原町]
東名の清水インターの北側を通って山を回りこんだ所に臨済宗妙心寺派「日光山 円応寺」がある。
質素な寺。檀家が多い豪華な寺より好感が持てる。
住職さんに聞いてみると創建は弘治年間(1555〜1558)とのことだった。
[庵原町]
円応寺の500m北に福泉寺がある。
[庵原町]
臨済宗妙心寺派「碧雲山 福泉寺」の本堂。
[庵原町]
福泉寺の300m東に豊由気神社がある。由緒書を読む。
豊由気神社
郷社 豊由気神社御由緒
祭神 豊受姫命
相殿 村社一ノ宮 祭神 木花開耶姫命 明治8年12月25日村社に列セラル
社格 明治8年12月25日郷社に列セラル
社地 清水市庵原町宮ノ後
社域 426坪
氏子 清水市庵原町
祭日 10月17日
神饌幣帛料 庵原郡供進 明治40年6月21日指定セラル
(由緒)
謹テ篤記ヲ按スルニ今ヨリ凡1863年ノ昔
人皇第12代景行天皇ノ御宇皇子日本武尊御東征ノ砌
蘆原郷ニ豊積神社式は止由気神社トシテ豊受大社ヲ祭ラセ給ヒ
同時ニ安倍郡神倍神社ニ天照大神ヲ祭ラセ給フ
即両宮ヲ蘆原安倍ノ国ニ祭リ給ヒシヲ以ツテ
二ノ宮ト称セリ相殿一ノ宮ハ後ニ至リ勧請セシモノナリ
(境内社)
小里社 伊佐奈岐尊 山本社 御嶽大神
金谷社 金山彦命 新田社 保食命
小路社 保食命 八幡社 誉田別命
小外社 保食命 天神社 菅原道真
山梨社 大山祇命 天王社 素戔鳴命
中村社 保食命 大歳御祖社 御歳神
下川原社 保食命 大門社
昭和48年10月17日
清水市庵原町氏子奉賛会創立記念 会長 大多和由朗 謹書
[庵原町]
豊由気神社の本殿。
境内の脇に保存樹林の説明があった。
<保存樹林>
この樹林は清水市みどり条例により保存樹林として指定されたものです。
にんなで大切に守っていきましょう。
樹種名 けやき・くす(代表木)
指定番号 第30号
指定年月日 昭和60年4月1日 清水市
[庵原町]
豊由気神社から300m東に曹洞宗「庵原山 一乗寺」がある。
[庵原町]
一乗寺の山門脇に由緒看板が立っている。
庵原山一乗寺(曹洞宗)
本尊 釈迦牟尼如来
開山 哉翁宗咄大和尚(天龍円鑑禅師)
開基 朝比奈駿河守信置公
創建 永禄12年(1569)
本寺 焼津市坂本 林叟院
四季折々の花のたよりをつたえる通称花の寺といわれ庵原氏の内庵跡に建てられた。
本堂を中心に羅漢堂一如庵などを擁し、一切経輪蔵(昭和40年4月)中興開山洞獄継宗お手植の蜜柑の古木(昭和53年8月)は共に市の文化財の指定を受けている。
座禅会、ひな、筆供養などが行なわれ、毘沙門堂のお札は開運の御利益で知られている。
境内庭園の一部に庵原氏の古墳がある。
当地はいほはら歴史をたずねる散策の終点の地となっていますのでごゆっくりふる里の昔に思をはせて下さい。
[庵原町]
一乗寺の本堂。
[庵原町]
一乗寺には茅葺きの建物が建っている。
[庵原町]
一乗寺の裏山を登った所に庵原球場がある。
[庵原町]
庵原球場脇に塔作古墳が保存されている。
[庵原町]
塔作古墳の石棺を復元している。
古墳モニュメント(塔作8号墳)
塔作8号墳の移設
丸山の横穴式石室墳が造られていました。
まかでも、この塔作8号墳は、長さ3m程の数少ない古墳時代の終わり(8世紀前半)の古墳で、特に残存状態が良好であったので、移設して保存し後世に伝えることにいたしました。
5.3トンの古墳の保存には石室をウレタンで包み地面から切り離した後、コンクリートで石室の外側を固める工法を用い移設を行いました。
[庵原町]
清水庵原球場の脇のこの辺りに塔作古墳はあったらしいが、目印はなかった。
[伊佐布]
庵原球場から1km余り北へ行ったところに「徳林禅寺」がある。
徳林寺の山号を知りたかったが住職不在のため聞けなかった。通りかかった墓参りの女性に聞いてみたら「高部山」という山号と思うと言っていた。
[伊佐布]
「徳林禅寺」から1km足らず北に「安穏寺」がある。
参道にいわれが書かれた看板があったので読んでみます。
<護国山安穏寺(日蓮宗)>
寛永元年(1624)身延山24世日暹(にっせん)の開山で、小身延といわれた。現在28代。本堂は貞享5年(1688年)6月第3代め日観の時に廃院となった身延山講学院の栂の柱20本を譲り受けて建てた。
現在の建物は、明治29年(1896年)大修繕したものである。
七面堂、身延七面山の一木三体の古像のうち一体を第2代め日富がここに移しておまつりしてある。なおあとの二体は七面と京都にある。秘仏で丁巳の年に大開帳する。山上には梵鐘がありがあり、眺望もすばらしい。
[吉原]
「安穏寺」から北へ向いトンネルを抜けると吉原温泉と集落がある。
県道沿いに吉原地区を案内する看板が建っていた。
[吉原]
吉原地区の案内看板に導かれ「善原寺」へ行く。
仁王門があって、脇に説明看板があったので読んでみます。
<大平山善原寺薬師堂>
慶長14年(1609)までは如来は両河内大平山に在り、その頃駿府御在城の公の萬姫君御眼病のため祈願に吉原まで到着したが暮れとなり公は説外和尚に大願成就を依頼した。
若し大願成就の上は大平山の如来をここに移すと約束し帰城された。その後姫の眼病は全壊したため同15年3月大平薬師を移し奉った。その際御召馬、馬具その他を拝領した。
<仁王像>
霊像にして往古より彩色すべからずとあり明治20年修理の際彫刻年度を見、天文14年(1545)菊月27日大佛師越前麻呂
[吉原]
「善原寺」の本堂。
[吉原]
「善原寺」仁王門からは階段を登ると鐘楼と薬師堂がある。
[原]
庵原球場まで戻り、庵原球場から1km弱東に清水ナショナルトレーニングセンターがある。
[原]
ナショナルトレーニングセンターの直ぐ前に「三池平古墳」がある。
[原]
「三池平古墳」の発掘された石を保存して見せてくれている。
三池平古墳
静岡県指定史跡三池平古墳は標高55mの丘陵上に位置する5世紀初頭の前方後円墳である。
この古墳は昭和31年に発見され、昭和33年に発掘調査が行われた。
墳丘は全長68mを測り、三段築成である。一段目の墳丘は丘陵の斜面が下る南西方向のみに設けられ、その上に2段目・3段目の墳丘が築造されている。主体部は板石を小口積にした竪穴式石室の中央にくり抜き式の割竹形石棺を納めたものである。石室内と石棺の内部には朱が塗られていた。
主な出土遺物としては変形方格規矩四神鏡、四獣文鏡、筒形銅器、
成人男子の骨や装身具類(石釧・小玉・管玉など)が、石棺外側には、鏡()・・武具・農具などがありました。この地方を治めていた有力豪族の墓であることが想像できます。現地では天井石を見ることが出来ます。
出土遺物は静岡市埋蔵文化財センターで保管しており、一部展示しております。
[原]
「三池平古墳」前方部分。
[原]
「三池平古墳」から発掘された天井石だろうか。
[原]
「三池平古墳」前方部分から後円部分を見る。
[原]
三池平古墳を西へ下った所に臨済宗妙心寺派「望海山 久林寺」がある。
[原]
久林寺の本堂。
[原]
久林寺のすぐ南側に砥鹿神社がある。「三池平古墳」を護るように建っている。
ほとんどの古墳に神社がセットのように付いてくる。
[草ケ谷]
砥鹿神社の500mほど西に臨済宗妙心寺派「高部山 大乗禅寺」がある。
[草ケ谷]
大乗禅寺の参道にある看板を読む。
大乗寺遺跡
標高約25mの舌状台地上に営まれた縄文時代の代表的な遺物は、諸磯式北白川下層式と呼ばれる関東関西系の縄文時代前期に属する土器を中心に、中期〜晩期にかけての縄文土器片が断続的に認められる。
また、狩猟、漁撈、植物採集等縄文時代の生業に必要な打製石斧、石鋤、石鍬、石錐等多数の石器も発見されている。
なお、忠霊塔裏の墓地内は大正中頃、我国の女子青年団(処女会)の創設指導に接身した天野藤男先生の墓標がある。
[山切]
大乗禅寺から北へ500m行くと東久佐奈岐神社がある。
[山切]
東久佐奈岐神社。
[山切]
東久佐奈岐神社。
式内久佐奈岐神社
鎮座地 清水市山切字宮平101番地
御祭神 大和武尊
合祀 弟橘媛命 吉備武彦命
大伴武日連命 膳夫七掏胸脛命
<由緒>
庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳郡の立地する丘陵に囲まれたこの平野です。
当社は人皇第12代景行天皇の時代(西暦110年、約1884年前)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本営を設けたとされる旧跡の地にあります。
創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後に其の功績により、廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされ、その後お供として東征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
文献上の記録では風土記に第13代雅足彦(政務天皇)の元年(西暦133年、約1861年前)に官幣を奉るとあり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦859年、約1235年前)久佐奈岐神社従2位を授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則)神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記されており、式内社であります。
昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、あるいは東久佐奈岐大明神等と称えられたこともありましたが、明治6年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
<御神体>
本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜わった貴重なもので開披してはならないとの言伝があります。
平成6年11月吉日
[山切]
東久佐奈岐神社には境内社が多く祀られている。
<境内社>
稲荷社 宇迦之御魂命
白髭社 武内宿弥
天満宮 菅原道真
雨之宮 天之水分神 国之水分神
津島社 須佐之男命 稲田比女命
金比羅社 金山彦命 大国主命
今宮社 素鳴命 稲田比女命
九万八千霊社 東征軍の御供の諸神
事比羅社 金山彦命 大物主命 少彦名命
雨之宮社 志那都比古命 志那都比賣命
[山切]
東久佐奈岐神社の境内社。
[尾羽]
東久佐奈岐神社の500mほど南へ行くと東名のジャンクションが整備されている。
その東脇の若宮八幡神社の裏に臨済宗妙心寺派「龍吟山 松雲寺」がある。
[尾羽]
松雲寺の本堂。
[尾羽]
松雲寺の500mほど東に東山田窯跡と書かれた公園がある。
東山田窯跡公園記念碑
清水市庵原地区は古代「蘆原国(いほはらのくに)の中心でした。
当地より北西約1kmに位置する三池平古墳に見られるように巨大な前方後円墳が存在することからも往時の国力を創造することができます。
特に、ここ尾羽(おばね)地区には県内でも最古級といわれる尾羽廃寺跡があります。同寺は西暦663年白鳳時代の白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて、隣国百済へ遣わされた援軍の将「蘆原の君臣(いおはらのきみおみ)」に深い関わりのある寺であると考えられています。
また、奈良時代には寺院に隣接して、蘆原の「郡衙(ぐんが)」が整えられ、尾羽地区は行政と文化の中心地として繁栄していたようです。
農地基盤整備事業に先立ち、平成10年から11年にかけての発掘調査では、古墳時代の陶器「須恵器(すえき)」を焼いた窯1基、瓦窯4基の計5基が発見され、大量に瓦が出土しました。
なかでも保存状態が良好な3号窯跡については、型取りをして保存しました。これらの瓦を焼いた窯跡が「東山田古墳跡群」です。
このたび関係者の理解と協力により、尾羽土地改良区が施行する農地基盤整備事業用地の一部を提供され、清水市土地開発公社が「FAZ事業用地」として、平成12年度〜平成13年度で造成したものです。
駿河湾と清水港が一望できるこの土地で清水港の国際物流の拠点としてさらなる発展を図り、進出する企業の活躍により、地域の国際化、経済の活性化、文化の交流等、地域の発展がもたらされることを強く期待するものであります。
平成14年3月 清水市長 宮城島 弘正
[広瀬]
東山田窯跡の坂を下りて通りに出た所を北へ向うとすぐにトンネルがあり、4kmほど奥に向うと山の中腹に一渓寺がある。
苔むした質素な寺。落ち着いた静かな寺だ。
[広瀬]
本堂へ通じる道は狭いながら趣向を凝らしている。
[広瀬]
本堂の祭壇。
[広瀬]
住職の奥様に寺の歴史を伺ったところ、約700年前の鰐口が文化財に指定されているとのことなので拝見させていただいた。
寺でいただいた「十一面観音菩薩開扉にあたって」作られた冊子に次のとおり書かれている。
平安時代、波多打川の西岸、横砂の旧井上別荘付近に、浄見長者が栄華を誇り、近くには、長者が捨てた米ぬかによってできたと言う「米糠山」があった。
長者は清見長者とか、横砂長者とも言われ、当時、興津付近の支配者だった興津氏の一族だったのではないかと言われている。
又、一渓寺の由緒書きによると、浄見長者は、濁澤城の領主で(濁澤とは波多打川のこと)、鎌倉時代中期に没落し、その子息、茂畑の山荘に隠れ棲み、長子、行也が、厳松寺(後の一渓寺)に、鰐口を奉納したとある。約700年前、正安4年(1303年)である。
鰐口は県指定文化財となっている。
この厳松寺は天台宗であり、浄見長者の守り本尊であった十一面観音がおかれ、堂を再建し、中本山清見寺第2世、東谷大和尚を開山とし臨済宗となる。
文禄3年(1594年)正月15日、東谷和尚が亡くなり、その位牌は一渓寺に現存している。
山上ながら、観音に祈ると、一夜にして堂の傍らより清水湧き出し、村民は観音水という。以後観音平の水と言われている。
十一面観音菩薩は、種々なる不思議な御霊験多く、除病、減罪、福をもとめる祈念仏とされている。
霊場を巡礼すると、十徳の利益があり、三度巡礼すれば、観世音は影身に添ってその人を守護すると言われている。
爾来33年目毎に本開帳を修行し、本年、正に厳修することになりました。
尚、一渓寺の歴史を知る資料として写真を掲載致しました。まだまだ不明な点が残されておりますが、小さな寺ながら大きな歴史のあることを感謝致し、ここに開帳を修行いたします。
一渓寺住職 大屋宗一 九拝
ここから一気に移動して日本平へ向う。
[村松]
日本平運動公園(アウトソーシングスタジアム日本平)を見下ろしてみる。
[村松]
日本平へ向う旧道を登っていくと清水が見晴せる「金獄台」という石碑が道路脇に立っている。富士山のビューポイント。
[村松]
「金獄台」は富士山のビューポイント。
[草薙]
日本平からは静岡市の中心市街地が見渡せる場所。
テレビ塔が並んでいる。
国指定名勝 日本平 指定年月日 昭和34年6月17日
「日本平」は、有度丘陵頂部一帯の平坦部を指し、四周の壮大な眺望にすぐれていることから、昭和34年に国指定名勝に指定されました。
眼下に清水港、三保松原、清見潟、そして正面に秀麗な富士山を仰ぎ、晴れた日には伊豆半島や御前崎、さらに聖岳をはじめとする南アルプス連峰を遠望することができます。
なお、岳陵南面は徳川家康公を祀る東照宮のある久能山との間に「屏風谷」と呼ばれる深い崖を形式しており、天下の奇観といわれています。
平成16年3月 静岡市教育委員会
[草薙]
日本平。
赤い靴
<童謡 赤い靴をはいていた女の子を訪ねて>
野口雨情の詩になる童謡”赤い靴”をはいていた女の子にはモデルがありました。明治37年7月15日清水市宮加三(旧不二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。
「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。
やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、このときすでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼な子を孤児院に残して旅立ちました。
「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見えることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。
いま、この女の子は、東京六本木にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再び相いあわせようと考えました。
ここに全国数万人に及ぶ人々からの浄財を得て、この像の建立ができましたことに、人間の善意と尊厳に大きな感動と希望をおぼえるものであります。
母と子よ、永遠に安らかなれ
昭和61年3月31日 「赤い靴」の女の子母子像建設委員会
母子像製作 高橋 剛
[草薙]
日本平。
ちゃっきり節民謡碑
「ちゃっきりぶし」 北原白秋
唄はちゃっきりぶし 男は次郎長
花はたちばな 夏はたちばな 茶のかをり
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが啼くんで 雨づらよ
さっさ、行こ行こ 茶山の原に
日本平の 山の平の お茶つみに
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが啼くんで 雨づらよ
[草薙]
日本平の頂上から見た富士山
絶好のビューポイント。
−コメント−
清水には鎌倉以前の名所が多くある。
東海道や北街道沿い以外にも多くの街道があった。
− 駿府城址周辺 −
静岡のお城と言えば、やっぱり駿府城だ。
天守閣はないが堀が当時の隆盛を物語っている。
[江川町から城方面を見る]
旧東海道の江川町の交差点にあるペガサートという再開発ビル前から出発する。
ここから外堀に向かうには地下通路で北街道を渡らなければならない。
東海道を西へ向かうページへはこちらをクリック。
東海道を東へ向かうページへはこちらをクリック。
[外堀]
江川町のペガサートに面した北街道から駿府城外堀が続く。
北街道に沿って外堀は続いていたらしいが今は暗渠になって、その上に商店街が軒を連ねている。
ペガサート前から北街道を進むにはこちらをクリック。
[外堀]
まずは外堀に沿って巡ってみる。
水が満たされて街に潤いを与えている。
[城代橋]
城代橋と書かれた橋がかかっているが謂われは不明。
この橋を渡った所に城代役の屋敷があったらしいが、そこへ向かう橋は古地図には載っていない。最近の橋なのだろう。
[城代橋近くから]
城代橋を越えて今来た道を振り返るとペガサートと新静岡センターが見える。
新静岡センターは建て替えのため平成21年6月から除却された。
[外堀]
堀を挟んで県庁と市役所が立っている。
写真は市役所の本館。ドーム状スペイン風の建築物で戦前に建てられた。
[大手門]
この奥に大手門があった。看板が立っているので読んでみる。
<駿府城大手御門>
駿府城内へ入る正面で入口です。
三ノ丸堀を土橋で渡って、右手に直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。
歩道には渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。
[県庁]
県庁の本館は昭和初期の建物。
市役所と同じような時期に建築された。
[教導石]
静岡中央警察署の前に教導石という石碑が立っている。
石碑の隣に説明看板があるので読んでみる。
<教導石>
教導石は明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」という趣旨に賛同した各界各層の人たちの善意をもって明治19年(1885)7月に建立されました。
正面の教導石の文字は、旧臣山岡鉄太郎(鉄舟)の筆になり、本市の明治時代の数少ない歴史遺産の一つとなっています。
碑の正面上部には、静岡の里程元標(札ノ辻)から県内各地、及び東京の日本橋や京都三条大橋までの距離を刻んであります。
教導石建立の趣旨に従って碑の右側面を「尋ねる方」とし、住民の相談事や何か知りたいこと、また苦情等がある人はその内容を貼り付けておくと、物事を良く知っている人や心ある人が左側面の「教る方」に答えを寄せる、というものでした。
尋ねなどのほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告から遺失物や迷子を捜す広告なども掲示してよいことになっていました。
[四足門]
教導石から200mほど西に中町交差点があり、交差点に面して中町ビルという再開発ビルが建っている。
そのビルには石垣が一部に組まれていて歴史を残そうとしてくれている。
[四足門]
中町ビルの石垣に謂われのの看板が書かれていた。
<駿府城四足門跡>
四足門は大手・横内・草深門とともに駿府城三の丸四門の一つである。中町から外堀を渡って北に進むと突き当りが枡形の石垣で、すぐ左側の南と北に櫓台の石垣を築き、その間に東面して渡櫓の城門を設けてあった。
明治初期に門を壊して払い下げたときの記録からみると大手門に次ぐ規模があったことが推定される。北側の櫓台と升形の石垣は早く取り壊されて南側の櫓台石垣だけが残りこれも中町市街地再開発事業より撤去されたが算木積角石の一部を復元して残すことになった。
四足門の名は今川時代からこの付近の名称となっていたが、その由来は今川館の四脚門があったことによると言われている。
徳川家康が慶長年間に修築した今の駿府城の前身である旧府中城(天正年間造営)の追手門もここであったと考えられる。
[四足門]
中町ビルの石垣の前に「昔のままかな?」と思われる石垣が組まれている。
小さな木の看板が立っている。
[四足門]
駿府城南辺の西寄りの箇所に設けられた出入口で、東側の大手御門と並び、東海道筋から城へ入る重要な出入口の一つです。三ノ丸堀を渡って、左手へ直角に曲がり、渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。
[中堀・古地図]
江戸時代の古地図が碑となっている。
当時のゼンリン地図のようだ。
駿府古絵図附記の「御用旧記」より抄録
静岡市は昔、安倍の市と称した集落旧跡であり、永禄年間(1558年)頃より町としての形をなしたことを明らかであるが、永禄天正年間の兵火で多数の民家が焼失し、住民の多くは離散したが、その後兵火もおさまった慶長の初めころから徐々に民家が建つようになった。
慶長12年(1607年)駿府に移って来た徳川家康は城下町駿府の整備のため彦坂九兵衛光政、畔柳寿学を奉行に任し、町割りをさせた。そしてこの町割には町年寄り友野宗全によるところも大きいと記されている。
[中堀・家康の散歩道]
駿府城の周辺には「家康の散歩道」と称した歩道が整備されている。ここもその一部。
この写真の時は未申櫓の石垣が修復されている。駿府城の説明と修復を説明する看板があったので読む。
<駿府城跡>
徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、隠居場として駿府を定めました。慶長12(1607)年、家康は、輪郭式で石垣を廻られた3重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させました。
家康在城時の駿府の町は、江戸とともにいわば2元政治が行われていたため、政治、経済の中心として大いに繁栄していました。家康の死後、城主となった忠長が改易されると、駿府城は城代の管理となります。
明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となりました。戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され、巽櫓、東御門の復元もされ、一般に公開されています。
<修復を説明する看板は次のフレームへ続く>
[中堀・未申櫓]
修復が終了した未申櫓。
<修復を説明する看板が前のフレームから続く>
<駿府城坤櫓石垣復原>
駿府城は、江戸初期の築城以来、地震や様々な災害により、何度となく改変、修復を行っています。
石垣についても、幾度となく襲った地震や明治以後の改築や埋め立てにより、積みなおしや積み替えを行ってきました。
静岡市では平成18年より、孕み、沈下、崩壊などの変形が著しい坤櫓石垣の復原工事を進めています。
復原に際し解体調査等を行い、石垣の構造や崩落の原因を調べ、復原工事に役立たせています。
[中堀・駿府城址看板]
前2つののフレームに説明の内容を読んで記載している。
わかりやすい説明と城の見取り図は気に入った。
工事が終わったら撤去されてしまうのだろうか。
[中堀・学問所跡]
法務局の前に学問所跡の碑がある。
説明看板を読む。
静岡学問所は、明治維新後駿府に移ってきた徳川家(府中藩)により、藩の人材養成を目的とし駿府城四ツ足御門にあった元定番屋敷内(現静岡地方法務合同庁舎付近)に明治元年「駿府学問所」として創設されました。学問所は、翌2年「駿府」が「静岡」に改名したことにより「静岡学問所」となりましたが、明治5年8月学制の施行とともに閉鎖されました。
この学問所には、向学心に燃えるものが身分を問わず入学が許可され、向山寛村、津田真一郎(真道)、中村正直(啓宇)、外山捨八(正一)など当代一流の学者により国学、漢学とともにイギリス・フランス・オランダ・ドイツの洋学も教授されました。またアメリカ人教授の多くは明治政府に登用され、開成学校(現東京大学の母体)の教授など学界や官界で活躍をしました。
静岡学問所の歴史は短期間でしたが、日本の近代教育の先駆けをなし、明治初期の中等、高等教育の最高水準の学府でありました。
[中堀・城内西尋常小学校碑]
かつてはここに小学校があったのだろう。
[中堀・二の丸御門跡]
駿府城二ノ丸御門の看板が立っている。この看板の対岸の新しく石垣を組んだ所が、かつての二の丸御門だ。
二ノ丸へ入る正面で入口で、大手門ともよばれました。
二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸内へ入る構造になっていました。
門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられました。(現在の駿府公園入口)
[中堀・わさび漬発祥の碑]
中掘沿いを歩いて県庁裏まで来たところに山葵のばけものがある。
<駿府城わさびの碑>
わさびは370年前わが国で始めて安倍川上流有東木で栽培された。
わさび漬は今から200余年前駿府のわさび商人によって初めて考案され幾多の人に受け継がれて改良進歩した。
特に明治以後交通機関の発達により長足の発達を遂げたのである。ここに明治百年を期し先覚者の偉業を偲び感謝の誠を捧げてこの碑を建つ
[城濠用水の碑]
この堀は今でも灌漑用水として利用されているらしい。
<城濠用水土地改良区記念碑>
城濠用水の由来
城濠の誕生は慶長12年(1607年)駿府築城と同時に出来たものでその豊かな湧水は築城と共に付近農地の灌漑用水として自然の内にその水利権を持ちお濠は明治維新と共に国有地となり県令が管理をした。
明治23年5月旧城敷と濠敷は共に地元静岡市に払下げが決定した。
その内城濠の面積は33,289坪110,046.27uである。
翌明治24年5月6日水利権のある豊田村、千代田村、大谷村の3ケ村に静岡市より土地代金3,464円87銭8厘を以って払下げとなった。
明治36年水利組合法制定により豊田村外2ケ村用水普通水利組合が設立認可。
昭和24年8月4日土地改良法の施行により城濠用水土地改良区に組織が変更されることになり、県告示番号第631号同土地改良施行法第9条の規定により認可番号静土改20号の指令が交付され昭和50年3月4日静岡市の正庁で城濠用水理事長と静岡市長及び双方の関係役職員立参のもとで城濠の土地を静岡市へ譲渡する調印式が施行されて、その間84年を経て再び静岡市へ移管となる。
昭和53年5月
[野次・喜多]
東御門の前に野次さん喜多さんと一緒に座れる椅子がある。
東海道中膝栗毛の説明があったので読む。
「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九(1765〜1831)は、ここ駿河の府中(現静岡市)出身で、江戸文学における戯作者の第一人者であり日本最初の本格的な職業作家といえます。
1765年、駿府城奉行同心 重田与八郎の長男として両替町で生まれました。本名は重田貞一、幼名を市九といいます。
1783年大阪へ行き、一時は近松余七の名で浄瑠璃作家としても活躍しましたが、その後士分を捨て、1794年再び庶民文化豊かな江戸に戻って戯作の道に専念し、多くの黄表紙や洒落本などを書きました。
「東海道中膝栗毛」は、1802年に初編(初編は「浮世道中膝栗毛」のち改題)、以降毎年一編ずつ8年にわたって書き続け、1809年全8編を完結しました。この膝栗毛は爆発的人気を呼び、休む暇もなく「続膝栗毛」の執筆にとりかかり、1822年の最終編までに実に21年間に及ぶ長旅の物語として空前の大ロングセラーとなりました。
物語は、江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛と、元役者で江尻出身の喜多八という無邪気でひょうきんな主人公二人が、江戸を出発して東海道を西に向い、伊勢を経て京都・大阪へと滑稽な旅を続ける道中話で、今でも弥次喜多道中と言えば楽しい旅の代名詞になっています。
当地の名物として安倍川餅やとろろ汁も登場。また、府中では、夜は弥勒手前の安倍川町(二丁町といった)の遊郭へ出かけたり、鞠子(現丸子)では、とびこんだ茶屋の夫婦喧嘩に巻き込まれ、名物とろろ汁を食べるどころか早々に退散したといった話が語られています。
十九は1831年没 享年67歳。墓所は東陽院(現東京都中央区勝どき)にあります。
ここ府中は、江戸から44里24町45間(約175km)19番目の宿です。
[甘夏]
甘夏みかんの碑が立っていて、甘夏みかん植栽されてる。
[青葉小学校]
青葉小学校は城内小学校と合併し、今は葵小学校と名前を変えて城内小学校へ併合された。
校址碑があり、校歌が書かれていて青葉小学校の思い出をここに残している。
[葵文庫]
巽櫓の向かいに市立図書館があって、葵文庫がその中にあった。
由来
葵文庫は大正8年静岡に縁の深い徳川家の記念事業として計画され、同14年3月28日徳川家の家紋を館名としてこの地に開館した。
その特色は江戸幕府旧校書の一部である「葵文庫」と3代県令関口隆吉収集にかかる「久能文庫」にあった。以来県立葵文庫は県民の図書館として、また全国的にも貴重書の宝庫として注目されその発展をみた。
昭和44年市内谷田に新館が建設され、静岡県立中央図書館として移転すると葵文庫は新たに静岡市立図書館として再出発した。
しかし、施設の老朽化により昭和59年市内大岩に新築移転したため県民に親しまれた建物は取り壊され60年の歴史を閉じた。
[巽櫓]
巽櫓と東御門は復元されたものだ。東御門を入った巽櫓の裏側のところに説明書きの看板があったので読む。
巽櫓は、駿府城二ノ丸の南東に位置する木造矩折3層2重の建物です。
この巽櫓は、寛永12年(1635)に城下から出た火により焼失し、寛永15年(1638)に新たに建設されたといわれています。
巽とは12支で表した方角で辰と巳の間、すなわち南東の方角をいいます。また櫓とは
1、 武器を納めておくため
2、 四方を展望するために設けた高楼
の役割をしたものです。
巽櫓の復元は、「駿府御城覚書」や「駿府御城総指図」等の資料をもとにしており、三年の歳月をかけ、平成元年三月に完成しました。
[東御門]
巽櫓と東御門の復元には10億円以上の費用をかけたとの話を聞いたような気がする。
東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。
この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる。東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安東帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
東御門は、寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15年(1638)に再建されました。
復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。
[東御門]
右の写真は別の日に夜の東御門を撮影したもの。
門をくぐるとスペースがある。
タイムスリップした気分になる。
[東御門]
門の脇には狭間という穴が空いている。看板を読む。
狭間
城内から弓矢や鉄砲で敵を攻撃するために土塀の壁面に小窓が開いています。
長方形のものが矢狭間、丸い形のものが鉄砲狭間です。
この窓穴を大きくすると敵の攻撃を受けやすいため壁の外側を小さくし、内側を広くして敵をねらいやすいようにしてあります。
[東御門]
梁には太い材木が使われている。
[駿府96ケ町]
東御門の裏側に駿府の町割りの絵図と町名が書かれている。
<駿府城下町>
駿府の城下町は、慶長年間に大御所徳川家康公が駿府城とあわせて完成させた近世初頭の代表的城下町であった。当時、家康公に謁見した諸大名や外国からの親善使節の間でも城と町並みと霊峰富士の織りなす美しい景観は高く評価されている。
ここに家康公往時の町割りを顕彰し、由緒ある「駿府96ケ町」の町名をしるすものである。
[二ノ丸水路]
中堀から内堀への連絡水路。
この水路は、本丸と二ノ丸堀をつなぐ水路で本丸堀からの水を外に出す目的で築かれています。
幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。
本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当時の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。
[紅葉山庭園]
大名庭園を模して整備されている。
紅葉山庭園の北側にかつては馬場先御門があったらしく謂われの看板が立っていた。
<駿府城北御門・馬場先御門跡>
北御門は、二ノ丸へ入る裏手(搦手)側の門で、絵図の中には「不明(あかず)」の門ときされるものがあることからも普段はあまり使われなかったものと思われます。
北御門は門を入ると石垣による桝形風の空間を通り、二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構造による馬場先御門があります。この方面には本丸天守へ至る御天守台下御門があるため、特に厳重な造りになっていたものと思われます。
北御門と馬場先御門とをまとめて一つの門構造とする考え方もあります。
[紅葉山庭園]
ちょっと覗いてみます。
お茶を出してくれるサービスもあって、こんな風に家康が暮らしたのかな?と思わせる雰囲気があるが史実に基づく施設ではないようだ。
[友情の森]
紅葉山庭園の西に、こんもりとした小さな森がある。
[友情の森]
森の中に石碑が立っている。謂れが書かれている。
「友情の森」の由来
静岡県下の国際交流・平和、文化・芸術、農村、労働など、各分野の青年運動の広がりと高揚、連帯の象徴として、静岡市駿府公園内に「友情の森」がつくられた。1960年8月静岡市を訪問したスウェーデンの国際青年団体代表によって最初の1本が植えられ、同年10月6日記念碑の除幕式を行なった。
以後、静岡市を訪れた海外の青年代表、朝鮮民主主義人民共和局帰国する青年が記念の植樹を行い、静岡市駿府会館で毎年開催した「静岡のうたごえ祭典」に集まった青年たちが、県内各地から苗木を持ちより植えてきた。
それから40年が経った。駿府公園の一角につくられたヒマラヤスギを中心にした「友情の森」は長い歳月とともに大きく育ち、記念碑「友情乃森」の周りは鬱蒼とした森になった。
ここにその由来を記し、21世紀への伝言とする。
2000年3月11日
「友情の森」を再建する会・世話人連名(50音)
(氏名省略)
[マロニエ園]
友情の森の西隣にマロニエの林があり、いくつかの銅像が見られる。
<マロニエ園>
この園に植えられたマロニエは、都市緑化のために昭和32年ときの市長山田順策氏がパリー市長レベック氏に依頼し、その好意により寄贈されたものであります。ここにマロニエ園として永く記念します。
昭和40年12月 静岡市長 荻野凖平
[山田順策氏]
マロニエ園には銅像がいくつか建っている。正面にあるのは「山田順策」氏の銅像だ。台座に功績が書かれている。
<山田順策氏顕彰のことば>
銘記 静岡県知事 斎藤寿夫 氏
彫塑 朝倉響子 氏
建設発起人代表静岡新聞社長 大石光之助 氏
氏は明治20年静岡市瀬名に生まる。長じて東京歯科医専に学び大正元年静岡市に開業す。資性豪放進んで政界に入り年端34年にして市議に当選、次で県議、衆議院議員に選ばれ剛直を以って聞ゆ傍ら信用組合、乗合自動車協会を主宰す。
昭和30年静岡市長に当選財政を再建し駿府公園、駿府会館を築造する
長けた実行力に富み市民挙げて敬慕す。
昭和36年6月19日平し、従4位勲3等を授けらる。このたび同志知友相謀り氏の功績を永遠に讃えんがため胸像を駿府公園に建つ。
昭和39年12月19日除幕
[増田茂翁]
山田順策氏の銅像のとなりに「増田茂翁」の銅像がある。
翁は明治24年旧安倍郡長田村大和田に生る天資豊かにして温厚篤実若くして黎明会を創り、青年運動の指導者として郷党に新風を興す後市政県政に参加地方自治に尽瘁す。
特に昭和23年来市長在職8年戦火に焦土と化せる静岡市の復興に献身。今日の近代化と繁栄の基盤を築く多数市民の景仰追慕の至情を此所に表す。
昭和45年11月3日
衆議院議員 西村直己 撰
静岡市長 荻野凖平 書
[宮崎通之助先生]
増田茂翁の銅像のとなりに「宮崎通之助先生」の銅像がある。
宮ア通之助先生は、明治12年8月10日静岡市弥勒に生まれ、明治39年東京帝国大学を卒業、直・・官界に入り、各県部長、愛媛県知事、内務省土木局長等の要職を歴任し、昭和6年3月、招かれて静岡市長に就任された。
先生は市長として幾多の重要施策を果敢に遂行された。特に、上下水道の布設に関して、数多い困難を克服し、これを完成。今日の本市水道事業の基礎を確立された。
ここに上水道30周年を記念し、先生の功績を顕彰の辞とする。
昭和27年11月11日 静岡市長 松永彦雄
[青島平十翁]
奥にデザインされた石碑があって良く見るとレリーフで青島翁の顔が彫られていた。
<柑橘功労者 青島平十翁顕彰の碑>
青島平十翁は明治20年静岡市福田ケ谷に生まれ昭和47年没するまで、その生涯を柑橘の振興に尽くした先達である。
殊に柑橘の品種改良に卓越し、優れた青島温州を発見・育成し、更に共存共栄による柑橘産地の形成を理念として、静岡県をはじめ広く全国の青島温州の普及に貢献した。
この功績により勲6等単光旭日章を受章された。
ここに翁の功績を顕彰し、併せて静岡県柑橘業の発展を記念し、この碑を建立する。
平成9年5月26日 青島平十翁顕彰碑建設委員会
撰文 青島平十翁顕彰碑建設委員会
肖像製作者 横田七郎
モニュメント設計者 深井英正
[青島彦三郎翁]
一番奥は「青島彦三郎翁」の銅像。
揮毫 静岡県知事 斎藤壽夫
製作者 堤 達男
施工者 鈴木和雄
青島彦三郎翁の辞
青島彦三郎翁は、安政4年静岡県安倍郡有度村に生まれ、昭和16年逝去されるまで、その生涯を茶の品種改良に打ち込まれた。その間多くの困難に耐え、「やぶきた」種をはじめ多数の優良品種を育成され、わが国の茶品種改良の先駆をなした。
翁はまた、優良品種の増殖に腐心され、取り木、さし木など栄養繁殖法に新機軸を拓くとともに、優良品種茶の造成に力を注がれた。一方永年に亘り静岡県茶業組合聯合会議議員、茶業組合中央会議議員、県議会議員として活躍された。同翁逝きて20年を迎えた、ここに、その業績の概要を述べ顕彰の辞とする。
昭和37年6月2日
青島彦三郎翁像設立発起人会 秋野三千雄
[本丸堀]
堀の一部を復元している。看板を読む。
本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23〜30mで深さは江戸時代には5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。
角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。
発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。
[駿府公園]
駿府公園は市街地にくつろぎの空間を醸しだしている。
片隅に「柳の由来」という看板が立っていたので読んでみます。
今から400年前の慶長6年5月(1601)徳川家康は伏見に銀座を開設した。その後慶長11年(1606)駿府両替町の地に銀座が2番目として設置されたが、慶長17年(1612)に江戸に移し、新両替町(現銀座2丁目)として運営され、明治2年町名が銀座に改められ現在に至っている。
明治17年、銀座の街路樹は柳に統一されたが、大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲の被害に遭いながらも市民の保存への熱意が実り、立派な並木がよみがえった。しかしながら、高度成長期の昭和42年頃より、銀座の柳が姿を消した。これに心を痛めた地元の有志が保存運動に心血を注ぎ、挿木で苗木を殖し、銀座はもとより全国各地へ寄贈されている。
本市も銀座の取持つ縁により駿府城址の一隅に銀座の柳二世を植え後世に伝えるものである。
[行幸御野立所跡]
かつて、この地で天皇陛下が野立てをしたのだろうか。記念碑が立っていた。
このあたりに駿府城の玄関口があったのだろうか。
<駿府城御玄関前御門跡>
駿府城の中枢である本丸への出入口には、南側の御玄関前御門、東側の御台所御門、北側に御天守台下御門の三ケ所があります。
この中で御玄関前御門は、本丸御殿へ至るための最も重要な門で、本丸の正面玄関とも言えます。
門は、二ノ丸側から木橋を渡って高麗門を通り、石垣に囲まれた桝形内を東に折れて本丸へ入る構造になっていました。また、門に面する二ノ丸の一画は、橋をはさんで東と西が石造りの土手により仕切られ、敵が容易に侵入できない仕組みになっていました。
[駿府城本丸跡]
家康像。
像の横に駿府城の謂われの看板があったので読む。
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。9代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し、浜松城から移りました。しかし、徳川家康は天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として3たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には3重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
[家康お手植えミカン]
家康が植えたとされているミカンの木が家康の銅像の前にある。
徳川家康公が将軍職を退いて駿府に隠居のおり、紀州より献上された鉢植えのミカンを天守閣下の本丸に移植したものと伝えられている。
このミカンは当地の方言でホンミカンといわれており、鎌倉時代に中国から入った紀州ミカン(コミカン)の一種で、香りの強い、種のある小型の実を結ぶ。静岡地方のミカンの起源を知るうえで貴重なものである。
[東照公御遺訓]
家康が残した人生訓の碑。読んでみる。
人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基怒は敵と思え
勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る
己を責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
[本丸跡地]
この辺りに本丸があったそうだ。看板を読む。
<駿府城天守閣跡>
大御所徳川家康の居城にふさわしく、駿府城の本丸には5層7回の壮麗な天守閣が築かれました。
天守閣は、駿府城のシンボルとして、城下町からは富士山と並び立って見えたと伝えられています。
また伝説では余りに天守閣が光り輝くので駿河湾の魚が怯えて漁師が困った、などと云われます。
天守閣は、家康在城時に一度火災に遇い再建されますが、家康没後の寛永12年(1635)に再び火災により焼失し、以後再建されませんでした。わずかに天守の面影を残す石垣造りの天守台も、明治29年に静岡連隊を誘致するにあたって解体され埋められました。
[城の見取り図]
看板に当時の見取り図がある。
[ひとつばたご]
天守閣跡の脇の小さな木の横に看板が立っている。
この木は学名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれており、本州の中部地方、愛知・岐阜両県と対馬にだけ自生する落葉の喬木で、5月の初め頃に白い清楚な花が咲き満開時は雪をかぶったように見えます。
「なんじゃもんじゃ」の名の由来
この不思議な名の由来は通説として、水戸黄門(光圀)が参勤交代のとちゅうに下総神崎(千葉県神崎町)の神崎神社に参拝され、社殿横にある大木(御神木)をご覧になり「この木はなんじゃ」とたずねられた。土地の人は聞きとれず「なんじゃもんじゃ」と問い返した所「なんじゃもんじゃであるか」といわれた。以来この御神木を「なんじゃもんじゃ」と呼んでいる。
ここに植栽した「ひとつばたご」は明治神宮外苑から譲り受けたものであります。
昭和59年11月 静岡市役所公園緑地課
[やすらぎの塔跡]
やすらぎの塔は、学徒動員の男女像があったが今はなくなっている。
像の前に謂れが書かれている。
駿府城頭はるかに富士をのぞみ民族の悲劇に散った動員学徒の像が年経た今人々の心に刻まれた美姿そのままにひたすら霊よやすらかなれと祈りをこめて静かに建立された。
純潔にして凛々しかった君たち若人らは国家と運命を共にして一片の名誉すらなく献身の一字に消えた。
しかしながら人々はすべての悲善愛憎をのりこえて、この前にぬかずきふたたびくりかえすまじきことを誓って新たなる市民の使命を見出さんとしている、
君たち動員学徒の霊が限りなく希っているであろう自由と平和と真理のある国にすべく人々は君たちの像を永遠に仰ぎ見る。
昭和33年11月23日 静岡県知事 斎藤壽夫
[やすらぎの塔跡]
やすらぎの塔のうしろに犠牲になった少年少女の氏名が刻印されている。
[とこしえの塔]
とこしえの塔は、平成になってから建造された。
戦争犠牲者追悼碑
静岡市は太平洋戦争により昭和19年(1944)12月7日から20年8月1日までの間に16回にわたり米軍機による空襲を受けました。
とりわけ昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけてB29爆撃機123機による大空襲を受け市内のほとんどが焦土と化しました。これらの空襲により静岡市民2000余人の尊い人命と貴重な財産が失われました。
またひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ幾多の戦場に散った静岡市出身の軍人軍属塔等7900余人の尊い犠牲も生じました。
私たち静岡市民はこのような悲惨な戦争を拒否し日本憲法の示す精神を体して昭和35年(1960)3月25日静岡市平和都市宣言をして永達の平和を誓いました。
いま終戦50周年(1995)を迎えるに当たり市民の血のにじむような努力により復興した県都静岡の市民憩いの地に戦争のむなしさを永く記憶にとどめ多くの犠牲者を追悼するとともに世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立しました。
平成7年8月15日 静岡市長 小島善吉
[とこしえの塔]
とこしえの塔の前に空襲被害の地図がある。
当時の空襲の激しさがわかる。
[富士見広場]
未申櫓の建設予定地の前からは駿府城公園から富士が見える。
[石垣モデル]
富士見広場には石垣のモデルが設置されている。
<「切込み接ぎ」と「打込み接ぎ」の石垣モデル>
平成21年8月11日に発生した駿河湾で発生した震度6弱の地震により、駿府公園二ノ丸堀(中堀)の石垣が崩落しました。
石垣の復旧の際に用いた積み方と、二ノ丸堀石垣に見られる積み方を、地震で崩れた石材の中で破損のために再利用できなかった石材で積み上げたものです。
<打込み接ぎ(右側)>
石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)をもちいて石垣を築く方法です。石の隙間には間詰め石を詰めています。
<切込み接ぎ(左側)>
切石(加工石)で石垣を築く方法です。
[西門橋]
清水御門跡。
駿府城清水御門跡
二ノ丸へ入る西側の出入口です。
二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた桝形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていました。門の北側には西喰違御門があり、本丸搦手(裏手)側の御天守台下御門方向へは容易に侵入できない仕組みになっていました。
[西門橋]
西門橋から双葉高校方面へ向かい、内堀を進んでみる。
[聖母幼稚園]
聖母幼稚園の敷地内の教会。聖ドミニコ教会と言うらしい。
[聖母幼稚園]
名門聖母幼稚園前に石碑がある。
何の石碑か知りたかったが、何か書かれているが擦れて読めない。
[北御門橋]
北御門橋前に市民体育館と市民文化会館が並んでいる。
[北御門橋]
北御門橋跡。
二ノ丸へ入る北側の出入口です。
二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣に囲まれた桝形風の広場を経て二ノ丸内へ至りました。
二ノ丸へ入るとすぐ西側には馬場先御門がありました。北御門と馬場先御門を合わせて一つの門構造とする考え方もあります。
[市民文化会館前]
文化会館前から東御門方面を臨む。
[横内御門跡]
外堀横内御門跡。
駿府城三ノ丸堀の東辺は、北街道西沿いの商店街の下に埋設しています。
横内御門は駿府城内へ入る北東側の出入口です。三ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた桝形内を経て渡櫓門から三ノ丸へ入る構造になっていました。
[横内御門跡]
外堀横内御門跡の脇に石垣の石のような物が?
「松平伊豆守信輝・・・築之・・・」と彫られている。
石垣の一部の名残りなのか。運ぶ途中に落としてしまったものなのか。
ここで駿府城巡りをゴールすることにする。横内御門跡は北街道の脇にあって、400m戻るとスタート地点の江川町へ戻ることができる。
−コメント−
駿府城を巡って約3kmの距離だが、看板や石碑が多い。
ゆっくり読んでいると時間を費やす。
天守閣を再建する話がなくならないが実現は難しい。
天守閣の無い時代が長く、それが駿府城の姿なのかもしれない。
− 賤機山城址 −
浅間神社の北に賤機山がありそこにかつて山城があった。
建物は残っていないが雰囲気は感じられる。
[浅間神社]
浅間通りからハイキング気分で賤機山城址を目指す。
東海道を西へ向かうページへはこちらをクリック。
東海道を東へ向かうページへはこちらをクリック。
[浅間神社百段]
浅間神社の八千戈神社の脇に賤機山へ登る石造りの階段がある。
大歳御祖神社の脇からゆるやかな坂道を登るルートもある。
[浅間山]
階段を登ってから山道を600mほど登ると開けた山頂に出て、賤機山慰霊碑・戦禍犠牲者平和観音像が建っている。
その隣にはB29の大空襲時にその時墜落したB29の搭乗員の霊を祠る碑が建っている。
慰霊碑の横を抜けて尾根づたいに北上する。
[賤機山城]
尾根伝いの道以外は険しく敵からの攻撃の防御に向いている地形なのだろう。
ところどころに石垣を組んだ場所があったのだろうか。
加工された岩が見られる。
[賤機山城]
空掘のような場所もある。
[賤機山城]
「危険」の看板。
崩れやすい急斜面の地形。
危険な個所が多い。
[賤機山城]
木の根の階段。
崩れやすい場所も多い。
[賤機山城]
ちょっと高台となっていてかつては施設が建てられたのかもしれない場所がある。
小さな平らなスペースがある。
[賤機山城]
もう少し進む。
城があったと思われる高台の脇にハイキングコースが続く。
[賤機山城]
さらに進み城の向こう側を見てみよう。
[賤機山城]
テレビ中継所がある。
中継所を通り過ぎた所から振り返る。
急斜面となっており、こちらからの攻撃もしにくい構造だ。
[賤機山城]
高台へ戻るとスペースがあり、ここが城跡。
この柵内は植物を保護している場所らしい。
ハイカーが休んでいた。
結構広い。
どのような城が建っていたのだろうか。
[賤機山城]
見晴らしは良く、富士が良く見える。
[賤機山城]
結構スペースは広い。
賤機山城のあった場所に石碑がある。
[賤機山城]
説明看板が立っていたので読んでみる。
<賤機山城>
賤機山城は、南北朝の動乱期(14世紀)に、北朝方の今川氏が、安倍西岸の安倍城に本拠を構える南朝方の狩野氏に備えて築き、南北朝期以後は今川館の詰城としての役割を果たしていたと考えられている。
永禄11年(1568)には武田信玄の駿府侵攻によってその支配に降り、さらに天正10年(1582)の徳川家康の駿府入り廃城になった。
城は南北に続く賤機山の主尾根上及びそこから派生する支尾根上に築かれており、その範囲は東西約400m、南北約600m以上にわたる。要所には尾根を横切るかたちで大小の堀切が設けられ、敵の容易な侵入を防いでいる。
城の中心部分は今川氏の歴代の菩提寺である臨済寺をほぼ真下に見下ろす尾根上にあり、三つの主要曲輪から構成されている。この曲輪部分は城の中でも最も標高の高い尾根上にあり(最高約173m)、静岡平野を一望に見渡せる好所にある。
[賤機山城]
空気がクリアでなかったので霞んでいたが富士が良く見える。
−コメント−
浅間神社から山道を1キロ半そこそこで到着。
戦国の世を偲ぶことができる。
浅間神社から往復するとちょっとしたハイキングコースだ。
− 安倍城址 −
安倍城という山城があった。
建物は残っていないが雰囲気は感じられる。
[安倍城]
安倍城へ行ってみよう。
この石碑は頂上の城のあった場所に立っている。
安倍川西岸周辺ページへはこちらをクリック。
[西ケ谷]
西ケ谷の総合運動場と清掃工場の間の道から登ってみる。
途中道が二又になっているが右を進む。
運動場から800mほど行くと突き当たりになる。
「慈悲尾」「羽鳥」「内牧」からの登り口があるが、ここが一番オーソドックスそうだ。
[登り口]
道の突当りの所に「安倍城址」との案内標示があって、そこから山道に入る。
[登山]
畑の間の細道を登る。
かなり急な道だ。まるで登山でも始めるかのようだ。
[みかん畑]
急峻な山肌にしがみつくようにみかんの木が植えてある。
途中で道を直しているハイカーがいた。
毎週のように安倍城に登るという常連さんとのこと。感謝をこめて直しているらしい。
[尾根]
約10分直登するようにつづれ折りの道を登ると尾根に出る。
案内標示の看板が道が間違えていなかったことを教えてくれる。
[尾根]
杉や檜の林に入ると道は緩やかな登りになる。
[案内標示]
4、5分歩くと分岐の標示があった。
ここは3叉路。今来た「西ヶ谷方面」。もう一つの登り口「内牧方面」。そしてこれから行く「安倍城址方面」だ。
[柱石]
登山道に柱石が立っている。
基準点の一つなのだろうか。
[案内]
切り株を削って案内板の柱にしてあった。
案内は手書きだった。有志の作か?
安倍城址がある頂上まで17分と書かれていた。
[空掘]
深くえぐられたような地形があった。
自然のものなのか、人工のものなのかはわからないが溝ができていた。
道と間違えて迷い込まないようにするためなのか、足を踏み入れることができないほど倒木等を積み上げてあった。
[空掘??]
ただ、間引いた木を捨て置いてあるだけなのだろうか。
[空掘??]
人為的な意図を感じる。
[道しるべ]
所々に案内が書かれている。
迷っていないことが確認できるので、ありがたい。
[道標]
こちらは本格的な道標。
今来た道が「内牧 西ケ谷」。「増善寺」は慈悲尾方面からの道だ。そして「安倍城址」。
[安倍城址]
これから進む道。
安倍城址方面へ向かう。
[尾根]
尾根伝いの山道を進む。
斜度は大きくないので疲労が取れてくる。
[尾根]
だんだん辺りが明るくなってきて頂上に近づいたことが感じられる。
[安倍城址]
安倍城址へ到着。
広場になっている山頂には石碑が立っていた。
ここに城があったのだろう。
[石碑]
「安倍城跡」書かれている。
息を切らしてこれを見にやってきたのだ。
時間が少ないことから登り始めから40分足らずと急いで登ったので非常にハードだった。
[石碑]
もう一つの石碑。
文字が擦れて読めない部分があった「芙蓉白雪放霊夫」と読めたが?違うかな?
[安倍城址]
頂上を逆側から撮影しました。
[崖]
回りはかなり急峻な崖になっている所が多い。
[洞慶院側]
洞慶院側の山道方面はこちら。
[洞慶院側]
少し下りてから頂上を見る。
[目印]
洞慶院側の下り口はわかりにくいのだろうか、ところどころに目印があった。
[石組]
所々に城の名残りが見られる。
ここは石を積んで崩れたような場所。
[山道]
道に檜の根がはびこっている。
[富士]
見晴らしは良く富士を見ることができる。
左の写真では分かりにくいのでトリミングしてみました。
[市内]
市内も一望できる。
遠く伊豆まで見晴らせる。
[安倍城]
山頂にあった石碑の裏に城の謂れが書かれていた。
鎌倉幕府滅亡後、全国を二分して争われた南北朝時代に、後醍醐天皇が率いる南朝方に加わった内牧を本拠地とする狩野介貞長一族が北朝方の駿府今川氏と相対していた。
狩野氏は広範囲に出城や砦を配置した城砦群を築いた。その本城が安倍城である。後醍醐天皇の皇子宗良親王をこの地に迎えるなど駿河南朝方の拠点として今川氏との攻防を繰り返してきたが14世紀中頃廃城となった。
平成7年11月 安倍城跡の会
−コメント−
時間が少ない中の登城。
日頃からの運動不足が祟っている。
明日の筋肉痛が恐怖だ。
次回はのんびりと登城したいと思う。
− 丸子城址 −
丸子城という山城があった。
建物は残っていないがかなり良い状態で当時の状態が残っている。
10分余りで頂上まで行ける。
[丸子城址の三角山]
丸子の二軒家からバイパスを越えて大鈩不動尊へ向かう途中の右側に三角山があり、丸子城址はこの山の頂上にあった。
東海道(丸子路)のページへはこちらをクリック。
[丸子城址入口]
誓願寺のすぐ近くに静風苑という煎茶道場の脇に丸子の里自然歩道に通じる小道がある。
ここが丸子城への登り口だ。
[丸子城址入口]
丸子の里自然歩道入口に案内看板がある。
[丸子城址登り口]
登り口は階段になっている。
しばらくは整備されている遊歩道だが、徐々に山道になる。
[出曲輪]
頂上に近くなると城があった頃の遺構が目につくようになる。
[出曲輪]
丸子城址出曲輪を臨む。
[空堀]
敵の攻撃を弱めるための掘の跡が今も残る。
[本丸址]
頂上には本丸が建っていたのだろう。広い空間が広がる。
[馬出曲輪]
本丸の回りには曲輪が点在する。
[空堀]
堀も至るところに掘られている。
[物見曲輪]
この曲輪は見張り小屋があったのだろうか。
[大鈩曲輪]
大鈩曲輪(おおだたらくるわ)と読む。
大鈩方面を守る曲輪。
[空堀]
ここにも掘がある。
[喰い違い虎口]
看板があったが、何の施設か判らない。
[土塁]
土を盛り上げてある。
[土塁]
ここにも土塁がある。
どのような使われ方をしていたのだろう。
[堀]
施設と施設を結ぶ所に堀が築かれている。
[平虎口]
虎口は入り口があった所なのだろうか。。
[本丸址]
周辺をを巡った後に本丸址へもう一度戻る。
[泉ケ谷方面]
本丸から泉ケ谷方面。
急な斜面なのでここから攻められることはないだろう。
[板橋]
いろいろな名称の看板を立ててくれている。
どういう施設か判らない。
[堀切]
本丸二の丸との堀切。
この堀を越えると二の丸。
[武者走りの祠]
武者走りと書かれた道の脇に祠がある。
敵の攻撃があった時の連絡通路なのだろうか。
[丸子城址本丸址]
もう一度本丸へ戻る。
[本丸]
本丸跡と書かれた看板。
どのような建物だったのだろう。
[看板]
説明看板が立っている。
丸子城の概要
丸子城は室町期の初めから、戦国動乱の終わりまで約150年間、今から400〜550年前にかけての中世の山城で、京都と鎌倉を結ぶ東海道の大動脈だったこの地区を押え駿府の西の防衛拠点として要城でした。
別名を宇津ノ谷城、三角山城ともいわれ今川、武田両戦国大名によって標高136mの三角山を中心に尾根沿いに南北約500mにわたって多くの曲輪が階段状に築かれ、今川氏の北城と武田氏の南城を連結して武田流れの山城として完成したもので、天険を巧みに利用したこの城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名で、その保存度は県内中世山城随一で、全国的にも余り例を見ない貴重な山城遺跡であるといえます。
[升形虎口]
ここにも虎口。
[二の曲輪]
山城の場合は二の丸ではなく、二の曲輪と言うのだろうか。
同じ意味なのか、別の場所なのかもよくわからない。
[二の曲輪]
今では檜林になっている。
[三の丸]
二の曲輪の先には三の丸があるので、そちらへ向かう。
[三の丸]
この先が三の丸。
[三の曲輪の堀]
三の曲輪の堀。
[北曲輪]
北曲輪へ向かうにも堀を越える。
[北曲輪]
堀から曲輪を見上げてみる。
回りは植林されている。
[北曲輪]
休憩場が設けられている。
[東曲輪]
ここが最後の東曲輪。
遊歩道はここを越えて泉ケ谷へ続く。
[竪堀]
竪堀と書かれた看板がある。
[竪堀]
竪堀とは?
こんな場所だ。
[堀]
堀へ下りてみる。
[堀切]
ここにも看板がある。堀切と書かれている。
[武者走]
本丸の方へ戻る。
本丸の南側に武者走と書かれた看板がある。
[武者走]
歩きやすい通路。ここから出発地点まで戻ろうと思う。
−コメント−
かなり実戦的な城だったようだ。
看板がたくさんあって名称はわかったが、どのような城だったのかは想像できなかった。
城のことを勉強してから、また訪れてみたい。
− 用宗城址(持舟城) −
持舟城という城があった。
建物は残っていないが雰囲気は感じられる。
日本坂峠越えの進攻の対して防御する重要な城だったようだ。
[浅間神社]
JR用宗駅の裏にある浅間神社脇に用宗城址へ向かう農道がある。
[汐見坂]
農道を登ると汐見坂とかかれた石柱があった。
地元では有名な場所なのだろうか?
[用宗城址]
案内板がある。城へ向かう階段を登る。
[用宗城址]
2、3分で頂上に着く。
広場は整備されていて気持ちがいい。
[用宗城址]
石柱が立っている。
「持舟城址」と彫られていた。
[用宗城址]
回りは急峻な崖になっている。
フェンスがあって、その向こうは藪になっている。
[用宗城址]
城址は高台のようになっている。
[用宗城址]
灯籠が建っている。
[用宗城址]
空堀が掘られている。
[用宗城址]
こちらにも空堀。
[用宗城址]
この城も富士山のビューポイント。
城から望む富士は風情がある。
[用宗城址]
市内が一望できる。
−コメント−
この城も戦国時代を感じることができた。
− 愛宕城址(愛宕神社) −
愛宕城が谷津山の東のはずれにあった。
今は愛宕神社の社があるのみで城は残っていないが雰囲気は感じられる。
[愛宕神社]
谷津山に愛宕神社があり、かつては山城があった。
北街道の「くら寿司」の手前から100mほど入った蔵の脇に登り口がある。
城のあった時には大手口とされていた。
北街道周辺へ向かうページへはこちらをクリック。
[愛宕神社]
神社は頂上にあり、階段が続く。
階段は古い石段も多く、所々に石燈籠が立ち、石垣の跡等も見かけることができる。
[愛宕神社]
別当福寿院跡と思われた場所に別荘風の屋敷が建っている。そこを通り過ぎて間もなく社があって、駿州来宮神社と書かれている。
由緒略誌が書かれていて、御祭神「大巳貴命」「五十猛命」「日本武尊」の説明と 神社誌が書かれている。
<御祭神> 大巳貴命 五十猛命 日本武尊
大巳貴命は素盞鳴命の御子で又の名を大国主命に俗にダイコク様と呼ばれて一般に親しまれる御慈悲心深く国造りの神として日本全国至る所に御足跡がある。和を尚び、ニコニコ笑顔を喜び給う福の神様である。
五十猛命は素盞鳴命の御子であって御父と共に朝鮮に渡り彼の地の樹種を持ち帰り日本国土に播種して土地を開発された神様である。
日本武尊は人皇12代景行天皇の皇子で西に東に賊を平定され住民を労り産業を奨励された神様である。御東征の時、静岡周辺の駿河の賊を討たれるのに非常に御苦心され長き月日を費やされた御様子である。
日本平、日本坂その他静岡周辺に尊ゆかりの地名が沢山あるのはこの様な訳である。古来より来宮神社は禁酒の神として一般に信じられ神に禁酒を約束に御神徳無事禁酒が断行出来、身体も頑強に家業も繁栄し家内も円満になった事を神に御礼と共に報告に参拝するこの様な神徳を戴いた方が非常に大勢居られるのである。
<例大祭>
熱海本社の例大祭夏祭は7月14日、15日、16日に行われるが当社は同日が当地方の孟ち盆会に当る為8月15日に祭を執行する。
<神社誌>
当来宮神社は80余年前愛宕山神職丸尾氏によって勧進せられ当腐朽が甚だしいので敬法会が再建したものである。
[愛宕神社]
しばらく登ると石で出来た鳥居があった。
[愛宕神社]
坂の脇に看板がありましたので読んでみます。
「鬼の鐙(あぶみ)」坂道の別名
修験道では一夜にて石の坂道が出現したという
苦行の坂にふさわしい伝承があるのです。
[愛宕神社]
途中に平らな場所があって、作業小屋のような建物がありました。
ここは参集所とのこと。何をする所かは不明。
[愛宕神社]
この急な階段を登ると愛宕神社の本殿がある。
そこは本城でもある。
[愛宕神社]
「愛宕山城構図」が書かれていた。曲輪や土塁や堀などの遺構の所在地が画かれている。
[愛宕神社]
ここが愛宕神社の拝殿と本殿。説明書きを読む。
御祭神 迦具突智命 木花開耶姫命
例祭日 2月24日 夏季大祭 7月24日(千日詣)
由緒
愛宕山は古来より山岳信仰の神体山として庶民の信仰をあつめ、更には徳川家康が駿府城の鬼門除けとして山城国愛宕山権現から馬に乗った将軍地蔵を勧請し、辰年・巳年の守護神として崇敬が篤い。
2月24日の例祭には早朝より花火を打ち上げ、参道手前には露天商が並び登拝者には社務所で甘酒が振舞われ又、福引の楽しみもある。
男子小学生がお供物係を勤め、女子小学生が浦安の舞を奉納する。
祭典は5年目ごとに輪番奉仕するので小学生は皆初めてであり、心の中に一生の思い出として残るであろう。
[愛宕神社]
神社の回りが石組となっている。
城の台座だったのかもしれない。
[愛宕神社]
三の曲輪。
今は広場になっている。
−コメント−
頂上まで10分足らずの散歩コース。
遺構を訪ねて回れば面白いものも見つかるかもしれない。
この城も戦国時代を感じることができた。
− 久能城址(久能山東照宮)−
東照宮は日光が有名だが久能山がルーツ
久能城は現在久能山東照宮がある場所にあった城。
建物は残っていないが天守台跡や石垣が残っている。
[久能山下]
国道150号の新しい久能街道である海岸道路から久能山を見る。
戦国時代には天然の要衝となっているのがわかる。攻め落とすのは難しかっただろう。
久能屋と富久屋というお土産物屋が並んで観光客を迎えている。
参道は土産物屋が並んでいる。
久能街道(静岡側)へ向かうページへはこちらをクリック。
久能道(清水側)へ向かうページへはこちらをクリック。
[久能山下]
土産物屋が終わる所に鳥居がある。
この鳥居の先から階段が始まる。
[入口]
先ずはゆるい坂が始まる。
[案内板]
鳥居をくぐった所に「久能山東照宮周辺のご案内」の看板。
有度山周辺の地図に本殿や楼門の写真が載っており、「石段、1159段をお登り下さい」と書かれている。
[鳥瞰図]
「久能山東照宮鳥瞰図」
わかりやすい絵図が描かれている。
[説明板]
案内板や鳥瞰図に並んで「久能山東照宮」の説明板がありました。
久能山には、推古天皇のころ(592年〜628年)、久能正仁が建立したと伝えられた久能寺があり、奈良時代の僧行基(ぎょうき)を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は久能寺を清水市(今の鉄舟寺)に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。
徳川家康は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いた語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説いたといわれる。死後、その遺言によりここに葬られ、2代将軍秀忠によって社殿が造営された。日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したといわれている。
権現造り総漆塗り極彩色の社殿は、国の重要文化財に指定されており、彫刻、模様組物等、桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を表している。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。
みどころ 博物館、神廟、勘助井戸、石段等
[坂]
灯籠がある所から階段が始まる。
[徳音院]
家康公ゆかりの寺「久能山徳音院」が参道脇にある。
「元三、慈眼 両大師堂」「本尊薬師瑠璃光如来」とある。
<久能山徳音院縁起>
徳音院は徳川家康をはじめ三代将軍に仕えた南光坊天海(慈眼大師)により開かれたお寺です。
御本尊は徳川家康ゆかりの薬師如来で、そのほか不動明王、財福聖天、厄除開運の両大師をおまつりする駿河の霊場です。
徳川家康は元和2年4月17日に亡くなり遺命により久能山へ納められました。
家康を神様としてお祀りするにあたり、将軍秀忠は天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号をいただき、元和3年4月には天海大僧正により日光に改葬されました。
家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが明治になって山上の寺院は取り壊されて、麓の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました。
[徳音院]
[久能梅林]
久能梅林を記念する碑が立っている。
石垣いちご・章姫の記念碑もある。
[駿河稲荷神社]
階段を登り始めるとすぐに神社がある。
御祭神 稲荷大神
御例祭日 2月8日
当社は元久能山目代(代官)杉江家が伏見稲荷大社より勧請して家敷内に祀っていたものを昭和57年当所に移したものである。
古来より稲荷大社は五穀豊穣商売繁盛の神として信仰されており2月の初午、二の午の日に参拝すると霊験あらたかである。
久能山東照宮社務所
[石段]
石垣積みの参道。
かなり急な坂を登る。
[石段]
つづら折りの階段が延々と続く。
トレーニングと思い頑張る。
[石段]
ここで続いた石段はGOOL。
もうひと踏ん張り。
[駿河湾]
ここまで登ると駿河湾が一望できる。
イチゴハウスがたくさん見える。
[一ノ門]
門をくぐって東照宮に入る。
正面に門衛所が建っている。説明書きを読む。
江戸時代久能山の門を守る与力がいた番所で、ここで登拝者を制限した。
今回老朽化のため復元解体修理を施し保存したもので、この種の建物は全国でも少なく貴重なものである。
[石垣]
石垣が久能城と言われた時を思わせてくれる。
[勘介井戸]
井戸があって、募金箱が設置されている。説明書きを読む。
武田信玄の軍師山本勘介が掘ったと伝えられる。
この井戸は、戦国時代に山本勘介が掘ったといわれ今から約400年前の久能山城を語る貴重な文化財である。
深さ33m石垣積みで今回蓋を作り保存につとめると共に照明装置を施し、内部がよく見られるようにした。
この協賛金は井戸保存費である
[石垣]
要塞のような石垣が昔の空気を残している。脇に「史跡 久能山」の説明が書かれた看板があった。
1.指定年月日 昭和34年6月17日
1.指定理由
久能山はおよそ7世紀の頃に開かれ久能忠仁の建立した久能寺。武田信玄の築城した久能山城。徳川二代将軍秀忠公の創設した東照宮とその時代時代の歴史の変遷の跡を見ることができる。
1.久能寺
久能山縁起によれば七世紀の頃に秦氏の久能忠仁が一寺を建て補陀落山久能寺山を久能山と称したと伝えられる。その後平安時代から鎌倉時代にかけて隆昌を極めたが山麓の失火によりほとんど烏有に帰したが今川時代には相当復興した。
1.久能山城
永禄11年12月(1568)武田信玄は当山が要害の地であることを知って寺院を清水市北矢部に移し城砦を築いて久能山城と称した。天正10年(1582)武田氏が滅亡したので徳川の所有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。
1.東照宮
徳川家康公は生前、久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し且つ風向を愛せられた。元和2年(1616)4月17日家康公が駿府(静岡)に歿するとき遺言により、この地に葬られ2代将軍秀忠公は壮麗な権現作りの社殿を造営された。これが現在の東照宮で13棟が重要文化財に指定されている。
[博物館]
久能山東照宮博物館。脇に「参拝の御案内」が書かれた看板があった。
●御祭神
本殿 徳川家康公
相殿(あいどの) 織田信長公 豊臣秀吉公
●御祭神
江戸時代初期の代表的建造物で2代将軍秀忠公の命により元和2年(1616年)5月着工、同3年12月に落成(400余年前)全国東照宮の根源をなすものであり、権現造総漆塗極彩色で特に彫刻絵画等に優れ結構壮麗を極めている。
御社殿・御廟所外諸建築物(13棟)は国の重要文化財に指定されている。
●御廟所
ご遺言により埋葬された家康公の墓所
●博物館
国内有数の歴史博物館で、家康公愛用の置時計
鉛筆・メガネなどの遺品を始め歴代将軍の武具、甲冑刀剣類等、国宝・重要文化財270余点を含む2千余点が収蔵されています。
[ロープウェイ]
ロープウェイのりばがある。階段を登るのが苦手の人は日本平からこれを使うと楽だ。
日本平へ向かうページへはこちらをクリック。
[二の丸]
ロープウェイのりばは二の丸があった場所だ。「国指定史跡 久能山」の看板がある。
<国指定史跡 久能山>
指定年月日 昭和34年6月17日
<久能山の歴史>
「久能寺」
久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、山の上には多くの僧坊が建てられていた。
久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然自然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面をもつに至った。
「久能山城」
駿府に攻め入った武田信玄公は、永禄11年(1569)要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割をになった。
「久能山東照宮」
元和2年(1616)4月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。2代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創設した。
このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。
[東照宮]
ここから東照宮に本格的に入る。
「久能山東照宮」の説明板を読む。山下の入口にあった看板と同文でした。
久能山には、推古天皇のころ(592年〜628年)、久能正仁が建立したと伝えられた久能寺があり、奈良時代の僧行基(ぎょうき)を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は久能寺を清水市(今の鉄舟寺)に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。
徳川家康は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いた語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説いたといわれる。死後、その遺言によりここに葬られ、2代将軍秀忠によって社殿が造営された。日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したといわれている。
権現造り総漆塗り極彩色の社殿は、国の重要文化財に指定されており、彫刻、模様組物等、桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を表している。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。
みどころ 博物館、神廟、勘助井戸、石段等
[楼門]
「東照大権現」と書かれた楼門。静岡浅間神社にも似た造り。
表には神将。内側には獅子が守っている。
重要文化財
楼門
前面に後水尾天皇の御しん筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。
元和3年の建造である。
西暦1617年
[手形]
楼門の獅子(狛犬?)はきらびやかだ。
[手形]
楼門の前に「家康公御手形」のコピーがあった。
「38歳、身長155cm、体重60kg」
本物は授与所にあるとのことでした。
[久能稲荷神社]
楼門のすぐ奥に稲荷神社と厳島神社がある。稲荷神社前の看板を読む。
久能稲荷神社
祭神 保食神
例祭 4月9日
厳島神社
祭神 市杵島姫命
例祭 6月17日
[鼓楼]
これが鼓楼なのか、説明書きは見当たらないのでわからなかった。
[家康梅]
梅の木が柵で囲まれている。
家康梅
奉納者 丸子梅園 静岡市駿河区丸子
徳川家康公は生前梅をこよなく愛され、中でもこの家康梅は水戸の初代藩主頼房公(家康公第11男)の出産を祝い無事成長を祈り家康公自らの手で植樹された。
当初、浜松城内で栽培されていたが、後に水戸へ移されました。
その後、静岡の丸子梅園にて接木を施し育成したものを由縁深き久能山東照宮に移されたものである。
[五重塔]
ここに五重塔があった。礎石が真中に置かれている。説明板を読む。
3代将軍家光公の建立
高さ30m情奐美を極めたものである。
明治3年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ
中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したものです。
[東照宮]
唐灯籠が並ぶ先に神饌所・神楽殿が左右にある。
この先の正面に見える唐門の先に本殿がある。
[唐門]
唐門への階段は通行止めになっている。
右の日枝神社が通路になっている。
[日枝神社]
日枝神社の前で神官が掃除をしている。
ここには多くの神官が務めている。
[折戸ナス]
日枝神社へ登る手前にナスの苗木が大事そうに植えてあった。
ナスの前に「一富士、二鷹、三なすび 家康公が愛した三保の折戸茄子」と書かれた説明書きがある。
ナスはまだ実を付けていない。
折戸ナスは八百屋に並んでいるナスより小さな実を付ける。
[拝殿]
拝殿。
拝殿の奥に本殿がある。ここに久能城だった時の本丸があった。
[拝殿]
拝殿は彩色、金箔、漆塗りなどを施されている。
。
[拝殿]
拝殿は豪華絢爛でまばゆく煌めいている。
[大蘇鉄]
「樹齢650年幹の太さ2mよく実をつけます。」と書かれている。
[透塀]
塀にも装飾が施されている。
このあたりに「石の間」という施設があるようだがどれがそれか分らなかった。
[廟門]
この先から家康の墓へと通じる。
[燈籠]
道は石畳で整備されている。
両側に灯籠が並んでいる。
[石垣]
東照宮の為の石垣なのか。久能城だった頃からのものなのか美しい石垣が組まれている。
石垣の説明があったので読んでみます。
<久能山東照宮における廟所の「添石垣」について>
重要文化財久能山東照宮廟所の石垣は、元和3年(1617)の久能山東照宮造営時に築かれましたが、年を経て崩落の恐れが生じました。このため、天保4年(1833)、廟所宝壇西側の石垣の一部に「添石垣」を設けて、石垣を二重にし、当所の石垣の崩落を抑えてきました。
この度の重要文化財久能山東照宮社殿等の修復事業にあたっては、廟所の石垣について創建当時の景観に復することとしました。後年築かれた「添石垣」は撤去するものの史跡久能山の歴史を知るうえで貴重な石垣遺構であり、その歴史的価値を後世に伝えるため現在地に移設しました。
平成19年3月 久能山東照宮
[神廟]
家康の墓。
日光の東照宮にもこれに似た墓があった。
久能城だった時代には「愛宕廓」と呼ばれる施設だった。
[神廟]
説明書きを読む。
<重要文化財 神廟>
家康公は元和2年(1616)4月17日に薨去せられ御遺命によってこの地に埋葬し奉った。
廟に高さ6m、西向きになっている。
[金の成る木]
「金の成る木」のいわれが書かれていました。
御祭神徳川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります。
これが左側の杉の大樹がふさわしいかと思われます。この杉は、3代将軍家光公当時に植樹されたものと言われ、約350余年を経ています。
家康公が諸人たちに「金の成る木」を問わせられた。これには誰も知らず、公は自ら筆をとられて3本の木を描き「よろず程のよ木」「志ひふかき(慈悲深き)」「志やうぢ木(正直)」と書かれて、これを常々信用すれば必ず富貴を得られようと仰せられた。
のち細川三斎忠興公がこれに左右の枝にとお添え遊ばしてはとなり「あさお木(朝起き)」「いさぎよ木」「志んぼうつよ木」「ゆだんな木」「ようじょうよ木」「かないむつまじ木」と
左右の枝が繁昌するならば一段と富貴を得られよう、皆々この「金の成る木」を写し取って家内のものに教えるようにと命ぜられたという。
これにちなみ誰とはいわず、このところの杉に願掛けとして硬貨をそなえるようになりました。
ご神縁深き皆様方にも「金の成る木」にあやかれ毎日が心豊かで、すこやかな生活をされますよう祈念申し上げます。
[愛馬の霊]
「家康公愛馬之霊」という家康公の愛馬を埋めた所があった。
[神廟]
きっちり組まれた石垣。
[久能山東照宮]
後日、日本平へ行ったときにロープウエイ乗り場から東照宮を撮影してみました。
一番高いところが家康の墓がある所。裏側は切り立った崖になっているのがわかる。
日本平は「清水」のページへこちらをクリック。
−コメント−
階段を登り始めて、写真を撮りながらセッセと登ると家康公の墓まで30分くらいで到着しました。
ロープウエイで日本平から地獄谷を越えて来ることもできるが運動を兼ねての参拝となった。
1159段の階段を膝をかばいながらまた下りて帰ることにした。
− 蒲原城址 −
蒲原城址と御殿山を巡る。
[蒲原宿本陣]
蒲原宿の本陣から西へ進んですぐの信号を山側に入ると蒲原城址へと行ける。
東海道の蒲原宿へ向かうページへはこちらをクリック。
[蒲原宿]
この磯部家の撮影地点が信号のある交差点。この信号機から、蒲原城址や善福寺へと向かう。
信号から150mほどで東名高速道路をくぐる。城山配水場を大きく回り込みながら坂を登り、真っ直ぐとなる道を進む。
[蒲原城址]
城址の入口を探して真っ直ぐな道を進む。
わからずに通り過ぎてしばらくしてから通り過ぎたことに気が付く。
小さな駐車場がある所が入口だった。だんだん狭くなる道を不安になりながら登ると看板があって蒲原城へつながる道であることが確信できた。
[蒲原城の由来]
。
市指定史跡 蒲原城址
由来
蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期の頃か。
築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。
文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。永享13年(1441)正月における牟禮但馬守範里、天文13年(1544)から同14年にかけての飯尾豊前守、永禄4年(1561)の佐竹又七郎、同雅楽助、永禄12年(1569)1月今川氏の盟友関東北条方の北条新三郎守城の折本郭を大改修したが、同年12月6日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移る。
その後、天正10年(1582)2月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成し、この地を治めたが、天正18年(1590)3月、小田原征伐の折徳川勢の着陣を最後に廃城となった。
現在小字名に残る城関係の地名には的場、狼煙場、橋台、陣出ケ谷、根古屋、柵がある。
[大空掘]
所々に城の名残りが見られ、標示板があったりする。
[八幡宮道]
「山城八幡宮道」と彫られた石碑が苔むしている。
城へ向かう道は八幡宮の参道となっている。
[鳥居]
頂上には八幡宮がある。
鳥居の脇には「史跡 蒲原城址」の石碑や「本郭 南曲輪」の標示板が立っていた。
[八幡宮]
広々した境内。踏み跡がほとんどない境内だ。
人の訪れは少ないのだろう。
城を建てるにはいいスペースだ。
[城山の布橋桜]
お宮の前に桜の説明書きがあった。
裏手にあると言われている桜がどこにあるのか私にはわからなかった。
蒲原城跡裏手の山肌にひっそり佇むこの桜は、幹周が胸高2.5m、樹高15m、推定年齢は200年。
蒲原で最も大きな桜と云われています。
永禄12年(西暦1569)城主、北條新三郎が武田軍の攻撃に遭い落城。その時対岸に掛けた布橋で人々は逃れようとし、谷底の川が地に染まったと語り継がれています。
歴史の変遷の中、風雨に耐えて生きてきたこの桜は、布橋桜と呼ばれるにふさわしい風格をそなえています。
[鳥居]
お宮の前から鳥居を見てみる。
どのような城が建っていたのかな。
[本郭]
本郭の周辺は1段下がった段が取り巻いている。
写真はお宮の西側から南方面を見たもの。
[本郭]
写真はお宮の西側から北方面を見たもの。
[八幡宮]
お宮は一段高い所にある。城が建っていたのがここなのだろうか。
[本殿]
本殿のはるか向こうに富士が見える。
[富士]
この城からも富士の見晴らしがいい。
多くの山城からは富士がよく見える。
[善福寺曲輪]
富士の手前の広場は善福寺曲輪。
のちほど巡ってみよう。
[本郭]
回りには平地部分が多い。
何かの施設が建っていたのか。
[本郭]
お宮の東側。
[本郭]
回りは急傾斜な地形。
転落の防止にトラロープが張ってある。
[本郭]
善福寺曲輪方面へも急傾斜で危険だ。
[本郭]
本郭の東側のあたりの状況。
[八幡宮道]
本郭を後にして善福寺曲輪へと向かうことにした。
八幡宮道の途中から善福寺曲輪へ通じる道。
[善福寺曲輪]
櫓が正面に見える。
[善福寺曲輪]
櫓は最近の建築だが、雰囲気が感じられて楽しい。
[善福寺曲輪]
櫓の下の角には大きな石が転がっていた。
石積みが崩れたものだろうか。
本郭の急斜面と善福寺曲輪を分かつ「堀切」がはっきり残っている。
[善福寺曲輪]
善福寺曲輪も急傾斜面に囲まれている。
[善福寺曲輪]
櫓の近くに説明板があった。
善福寺曲輪について
この場所(曲輪)は、善福寺曲輪と呼ばれ本城(本曲輪)を守るための最後の曲輪として築かれたとされ、戦国時代の永禄12年12月には駿河今川氏の要請でこの城を守るために相模後北条氏より派遣された北条新三郎と駿河侵攻をねらう甲州武田氏の武田勝頼との間ではげしい戦いがあったとされる場所であります。
甲陽軍鑑より。
蒲原町は、この蒲原城址を整備するにあたり昭和63年と平成元年の2年間にわたり発掘調査を行い、その結果より想定される物見台、堀切、逆茂木、木柵など築造し、遠い戦国時代の戦の様子が容易に連想されるように善福寺曲輪を再現しました。
[善福寺曲輪]
善福寺曲輪から本郭を見上げてみる。
こちらから登る気にはならない。
[観音穴]
蒲原城を後にして、通りまで戻り、山側へ250mほど進むと善福寺の集落がある。
民家の玄関に「善福寺禅寺」と書かれているがこの家が善福寺なのだろうか。
そこを右に曲がり狼煙場へ向かう
坂を登って行くと石碑と看板が立っている。
[観音穴]
観音穴の説明看板を読む。
観音穴
観音穴は「カンカン穴」とも呼ばれています。
岩場を切り抜いたトンネルの入り口には寛文5年(1665)建立の「南無阿弥陀佛」という石碑があります。
トンネルの左手には三つの石窟とともに石仏が並んでいます。またトンネルの奥にも、同じように石窟があり、石仏があります。
山の登り口には、「奥の院これより5丁享保12丁未(1727)2月日建立」という道標があり、常楽寺の奥の院と考えられています。
[案内板]
車道と山道の分岐点に蒲原保健休養林案内図が立っていた。
休養林の案内図なのに道の案内ばかりで、どこがその林なのか分からなかった。
[御殿山遊歩道]
東海自然歩道バイパスコース(蒲原コース)
狼煙場の広場のトイレの前に遊歩道の案内看板がある。
[狼煙場]
この広場が狼煙場があった所だ。
説明看板があった。
狼煙場
この地は狼煙場と呼ばれ、昔より蒲原城の東北方面を補強するための物見台、危急を知らせる狼煙台が置かれたとされる伝承の地であります。
保健休養林整備事業の実施にあたり、この地に歴史的な背景を踏まえた物見台を築造しました。
この物見台に立つと蒲原城の全体が眼下に、遠く富士川河口から沼津、伊豆内浦方面、北は富士山麓一帯が展望でき、戦国時代に行われた戦の様子が容易に連想できます。
[物見台]
狼煙場に物見台が立っているので登ってみる。
富士川の河口がよく見える。
[物見台]
林の上から富士も覗いている。
木が育ったら物見台を高くしないとならないかな?
[御殿山広場]
狼煙場から少し下った所に広場がある。
この広場からも富士川の河口がよく見える。
広場から遊歩道がでていて桜の名所になっている。
[八坂神社]
御殿山遊歩道を下りていくと途中にアスレチック、すべり台、桜吊り橋があり、遊歩道は八坂神社へと向かうことができる。
桜の季節には花見客で賑わう。残念ながら訪れた時期は遅れて葉桜になった頃だった。
蒲原宿の八坂神社へ向かうページへはこちらをクリック。
−コメント−
蒲原宿本陣前を出て蒲原城と御殿山を巡り八坂神社まで戻るといった行程。
遊歩道が多いので距離はよくわからないが4kmほどの行程だ。
できたら桜の時期が楽しそうだが、人も多く賑やか過ぎるのかもしれない。。
− 田中城址 −
田中城址を巡る。
戦国時代には難攻不落とうたわれた。今川、武田、徳川の武将にゆかりがあるらしい。
規模は大きくないが江戸時代の重要な城の一つのようだ。
[大手交差点]
国道1号線の大手交差点から焼津方面へ向かう県道30号を入る。
藤枝宿へ向かうページへはこちらをクリック。
[西益津村役場跡]
国道1号線の大手交差点から焼津方面へ向かう県道30号を入ってすぐに西益津公会堂があって、玄関脇に「西益津村役場跡」と彫られた石碑が立っている。
[石碑]
西益津村役場跡を過ぎるとすぐ県道30号は県道224号と分岐する。
分岐点に「田中城跡」と書かれた石碑が立っている。
このあたりから城の一部になるらしい。
30号線は城の外周を迂回して焼津へ至る。
右側の224号線へと進むと城の核心部へと入っていきます。
[石燈籠]
「田中城跡」の石碑から100m進むとJAがあり、その前の交差点の角に石燈籠が立っている。
表示杭と石碑などがあって、城址の雰囲気が増してくる。
[外堀跡]
石燈籠の一角に外堀跡と書かれた標示杭が立っている。杭の横に説明書きがある。
慶長6年(1601)酒井忠利が居城し、三之丸の外側に堀と土塁を造成したので四重の同心円形の城になった。
[松原木戸跡]
同じく石燈籠の一角に松原木戸跡と書かれた標示杭が立っている。杭の横に説明書きがある。
木戸入口には鶴松・亀松と呼ばれた枝振りの見事な大松があった。
[松原木戸番所跡]
石燈籠のちょっと先の建物の脇に標示杭がある。
この城址の区域には、多くの史蹟がある。目立たない表示杭も多く、見逃してしまう。
[三日月堀跡]
また標示杭があった。三日月堀の跡らしい。
[大手一之門跡]
ここには大手門があった。
地名の大手はここに大手門があったことから、ちなんだのだろう。
[大手二之門跡]
間もなく右手に木の橋が建てられている場所があって、田中城の名残りを記念している。
[大手二之堀]
橋は堀を保存している上に建てられていてその脇に説明書きが書かれている。
藤枝市指定史跡 田中城 二之堀
戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。
二之掘は、本丸から二重目の掘で、幅12.7〜21.8m、深さ2.1〜2.9mでした。この付近は、大手二之門の入口にあたり、掘りを渡るために長さ5.4m、幅3.6mの大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました。
藤枝市教育委員会
[藤枝市立西益津小学校]
大手二之門跡の横を入った突当りが西益津小学校。
田中城の本丸があった所だが、不審者と間違われても困るので踏み込まなかった。
[西益津中学校]
「西益津中学校教員専用」と書かれた門がある。
門の脇に「二之堀跡」の標示杭が立っていた。
[藤枝市立西益津小学校]
県道に回ったところに入口がある。
こちらが小学校の正門だろうか。
[田中城本丸跡]
門の脇に田中城本丸跡と書かれた標示杭が立っている。杭の側面に説明があった。
田中城は同心円形に四重の堀と土塁で造られていたが本丸は四角で480坪(1580u)と小さく本丸内には御殿やお亭のみで天守閣のような建物はなかった。
[家老遠藤俊臣屋敷跡]
正門の前の路地を入った動物病院の角に標示杭がある。
家老の屋敷が建っていた場所らしい。
[平島一之門跡]
動物病院のすぐ先にも標示杭がある。
史蹟だらけの田中城。
[三日月堀跡]
すぐ先にも標示杭。
ここの三日月堀跡は御成街道から入る平島門の前に堀設けられたものらしい。この門は不開門とも呼ばれているところをみると橋が設置されていなかったのだろうか。
[亀城神社・稲荷社跡]
三日月堀跡の路地に入る。この道は三之堀に沿って整備されている。
少し行った所の畑の中に標示杭が立っている。このあたりに神社が建っていたのだろう。
[家老馬渕新右衛門屋敷跡]
道は堀の形に沿って大きく曲っている。
県道に出てから、もう一本内側の二之堀に沿った道に入ると左側に広いスペースがあり、標示杭が立っている。
[田中城三の丸土塁]
広いスペースの奥に小山のように盛り上がった土手がある。これが土塁とのことだ。
田中城は円形の城として知られていますが、三の丸は土塁の6カ所が外に向かって突出した亀の甲羅の形をしているので、別名「亀城」もしくは「亀甲城」と呼ばれていました。この場所は三の丸土塁が北東側に突出する部分にあたっています。
江戸時代の記録によれば、この部分の土塁の高さは2間4尺(約4.8m)と記されていますが、現状の高さは北東側の畑から約3.7m、幅(奥行)は約19.6mです。
江戸時代末期から明治時代初期の田中城絵図には平らな部分に「馬渕新右衛門屋敷跡」と記されたものがあります。田中城の侍屋敷は円形の田中城内と、藤枝宿との間の大手地域、南側の新宿と呼ばれる地域にもありましたが、その中でも三の丸は家老クラスの屋敷地となっていました。
※この土地は、市内在住の中村収様から田中城跡の保存と市民への講演・活用のため、20年に寄付されました。
永禄13年(1570)正月、駿河西部の今川方の属城を攻め落とすために侵入した武田信玄は、長谷川紀伊守正長の守る徳之一色城を攻略した。この城の重要性を見て取った信玄は、重臣馬場美濃守信房に命じて徳之一色城を拡張させた。徳之一色城は現在の新宿付近(六間川橋)から下屋敷の辺りである。同年9月に工事は一応の完成をみる。その形は方形の本丸を中心にし、二の丸・三の丸がその周囲を巡る同心円形式である。武田流築城の特徴は馬出し曲輪にあるが、この城の最大の特徴は三の丸であり、これが円状に本丸・二の丸を囲んでいたため、亀城と呼ばれた。完成すると、信玄は山県三郎兵衛尉昌景に在城させた。
[三之堀跡]
県道へ戻り、沢医院の角を南に入ると中学校の裏に堀の跡がある。
[姥ケ池]
堀の少し先に「姥ケ池」への矢印があって、案内に沿って300mほど行くと小さな池がある。
説明書きがあったので読みます。
池の形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれています。現在もきれいな水が湧き出ていますが、江戸時代には田中城の水源となっていました。直径30cmほどの木管をここから田中城まで引き込み、城内や新宿の侍屋敷の上水として利用されました。
このように大切な池だったので、池の周辺には石垣を積み、柵を巡らせ、見張りがいて厳重に守られていました。
[姥ケ池]
池は澄んだ水が満たされていて、整備した町名が書かれていた。
[下屋敷跡]
本丸だった西益津中学校をひと回りした後、下屋敷跡へ訪ねてみました。
道を間違えて裏の駐車場へ着いてしまった。駐車場脇に案内板が立っています。
田中城下屋敷跡は田中城の南東隅にあり、江戸時代後期には城主の別荘がおかれていました。平成4年度から7年度にかけて、かつての庭園を復元整備し、茶室を元の場所に移築しました。また、田中城にゆかりのある本丸櫓、仲間部屋・厩、長楽寺村郷蔵なども移築復元してあります。ここを起点として田中城周辺の史跡を散策してみてはいかがでしょうか。
<松原木戸>
慶長6年(1601)、田中城主となった酒井忠利は四之堀を増設すると共に、東海道から直接田中城に通じる道を作りました。これを藤枝口といい、道の両側に松の木を植えたので、城の入口を松原木戸と呼びました。
<姥ケ池>
きれいな水が今でも湧き出しています。ここから木や竹で作った水道管を城内まで延ばし、飲料水を引き入れていました。
<本丸跡>
田中城の堀は円形に巡らされていましたが、本丸だけは四角形をしていました。現在、西益津小学校が建っている場所がそれです。
<平島木戸>
元来、田中城の正門は平島口でした。しかし、江戸時代初期に大手口が開設されてそれが正門となると、平島口は開かずの御門となりました。
<御成街道>
葉梨川にかかる八幡橋の袂で東海道を東に分かれ、平島木戸に到るまでのおよそ1.7kmの道です。
大手口が開かれるまでは田中城に入る正式な道で、徳川家康がこの道を使っていたことから御成街道と呼ばれるようになったようです。
<馬上の清水>
徳川家康がこの地で鷹狩りを楽しんでいたとき、喉が乾いたのでここの水を家来に汲ませました。そして馬に乗ったまま水を飲んだのでこの名が付いたと言われています。
<土塁と堀跡>
田中城は四重の堀と土塁で囲まれていました。昭和30年代まではよく姿を留めていましたが、現在ではほんの数カ所が残るだけです。
<新宿木戸>
「しんしゅく」と読みます。六間川を境にして北側が城内、南側は下級武士たちの屋敷がある新宿です。
<旭傳院の山門>
田中城内から移された門だといわれています。その規模や構造からみて、城門ではなく城内にあった屋敷の門ではないかと考えられています。
[六間川]
駐車場から右に回ると川に出る。
この川は六間川と言い、城の堀の一部として利用されていたらしい。
[下屋敷跡]
門があったが開いていない。裏門らしいので表に回る。
案内看板が立っている
田中城の歴史は今から500年ほど前、この地の土豪・一色氏がその居館を拡大したのに始まるといわれています。現在、市立西益津小学校の建つ位置がかつての本丸で、城は四重の堀に囲まれた、直径約600mの円形をしていました。江戸時代にはここに田中藩がおかれて、志太郡・益津郡の村々を治めていました。
この下屋敷は、六間川を挟んで田中城の南東端に接した位置にあります。ここは、一色氏やその後裔の古沢氏の居館跡だともいわれていますが、江戸時代後期には城主の別荘(下屋敷)がおかれ、築山、泉水、茶室などを設けて四季の草花を楽しみました。
この下屋敷跡を整備するにあたり、田中城ゆかりの建築物をここに移築、復元しました。田中城にあった建物は、明治4年の廃藩置県によって民間に払い下げられ、住宅や納屋などとして利用されていましたが、永い年月の間に朽ち果て、現存するものはごくわずかです。移築された建物は、いずれも百数十年の星霜に耐えてきた貴重な文化財です。これらの文化財を保護し、後世に伝えるため、夜間は入場できませんのでご協力ください。
[下屋敷跡]
表に回ると白壁で整備されている。
案内看板が立っている。
内容は裏門の案内看板と同じでした。
[下屋敷跡]
入口から門と本丸櫓が目に付く。
[下屋敷跡]
本丸櫓の脇の看板に田中城古図があった。
[下屋敷跡]
この地には古い建築物が移築されていて、その一つの茶室。説明書きがあった。
○市指定有形文化財(平成5年4月26日指定)
○構造 木造平屋瓦葺
○規模 23.1u
○寄贈者 藤枝市藤枝4丁目1番15号 奥野まき
この茶室は、明治38年頃、千歳の村松家にあったものを、藤枝市上伝馬の奥野家が譲り受けて移築したといわれています。もとは田中藩家老の茶室であったと伝えられていますが、下屋敷庭内にあった「茶屋」とみられます。建物はきゃしゃな造りの数寄屋建築で、西側の四畳半の間が茶室、東側には給仕口のついた六畳の待合いが接続しています。
[下屋敷跡]
「泉水跡」の看板が立っている。池の向こう側に「築山跡」の立て看板も立っている。
当時を再現しているのだろうか。
[下屋敷跡]
池を回ったほとりに「亀石」がある。
下屋敷庭園へ41年ぶりに里帰りした亀石
江戸時代後期に田中藩士・本多家の庭園であった下屋敷には、鶴石と亀石が置かれていたと伝えられています。亀が頭をもたげた格好をしたこの亀石は江戸時代から下屋敷庭園に庭石として置かれていたものです。昭和12年頃に城南土地改良事業に伴う六間川水路改修工事の際に下屋敷跡から発見されました。破砕されるところを当時小路に携わっていた焼津市在住の小泉氏が他所へ移動させたことによって、現在まで保存されていました。小泉氏のご好意により、藤枝市教育委員会では平成20年(2008)5月、41年ぶりに亀石を元来置かれていた場所へ戻しました。
地元のの人の話によると、亀石はかつて下屋敷庭園内・中ノ島の西側岸辺に土留めの大石として泉水に浸かって置かれていたようです。亀石には別に盃石や爪石が付属していたようですが、現在では所在不明です。江戸時代の大名庭園である下屋敷が、鶴石・亀石・瓢箪石・丸石などの吉兆の庭石が処々に配された風雅なつくりであったことがしのばれます。
(寸法/全長180cm×最大幅120cm×高さ55cm(最高部)、石材/硬質砂岩、重さ/約1トン)
[下屋敷跡]
「土塁跡」もあった。
[下屋敷跡]
家康のお手植え蜜柑まである。
大きさから家康が本当に植えたものではないのだろう。駿府城にある蜜柑の木の子供なのだろうか?
標示杭に簡単な説明があったがこの蜜柑の謂れまではわからない。
徳川家康が将軍職を退いて、駿府城に隠居された折、紀州家より献上された鉢植え蜜柑を「紅葉山庭園」に家康公自ら移植したものと伝えられる。
[下屋敷跡]
本丸櫓の中に入ってみます。
江戸時代の武家の着物はこのような服だったのか。
[下屋敷跡]
本丸櫓の中には下屋敷跡の写真ギャラリーとなっている。
四季の写真を見ることができる。
[下屋敷跡]
本丸櫓の狭い階段で2階に登ると田中城や田中藩の歴史がわかる資料をたくさん展示していた。
江戸時代の地図や戦前の写真など当時の様子が学習できます。
大名が江戸時代から与えられた領地と、それを治めるしくみを藩といいます。
田中藩では、初代藩主酒井忠利の時には1万石でしたが、江戸時代後期の本多氏の頃には4万石となり、田中城周辺の志太、益津郡をはじめ、駿東郡、下総国葛飾郡、相馬郡の村々を領地としていました。
また、田中城内には家老をはじめ、400人余りの藩士が住んでおり、江戸屋敷や下総の領地の代官などを合せるとおよそ670人の藩士を抱えていました。
[下屋敷跡]
本丸櫓からの景色。
焼津方面を望む。
遠くに瀬戸川の河口近くの虚空蔵山が見える。
[下屋敷跡]
本丸櫓からの景色。
静岡方面を望む。
見える山は高草山だろうか。
[下屋敷跡]
本丸櫓からの景色。
西益津小学校や中学校方面を望む。
かつての本丸があった方面だ。
[下屋敷跡]
いつの頃の航空写真だろうか?
田中城跡の回りは田んぼだらけだ。国道1号線らしきものが見えるのでそれほど古い時代ではないと思われる。
旧東海道周辺は家が密集しているが、その他の場所には人が住んでいなかったのがわかる。
[下屋敷跡]
田中城主の変遷と書かれた年表が掲げられていた。江戸時代の重要な城だったことがわかる。
1601年、徳川家康は酒井忠利を田中城主に任命しました。その後一時城主はおかれませんでしたが、1633年以降は順次城主がにんめいされ、明治元年まで12氏21人の城主が在城しました。
これら城主の中には、入城、転出に際して加封されたり、幕府の要職についた者もいます。
江戸時代の前半はごく短期間で城主が交代しましたが、中頃からは本多氏に定着し、幕末まで7代にわたって世襲されました。
「年代」,「城主(領主)名」,「領高」,「前封地」,「転封先」,「主な事績・できごと」
「15世紀頃」 (一色左衛門尉信茂)○この頃今川氏の命を受けて居館を拡大し、徳一色城または戸久一色城と称したのが田中城のはじまりと伝えられている。
「16世紀前半頃」 由井美作守正信1万8千石(3万8千石)、今川氏の臣(今川氏分限帳による)1560年没
「16世紀中頃」 長谷川次郎右衛門正長○一族21人300余騎で守る。1570年武田信玄に攻略される。
「1570年」 (武田氏)○馬場美濃守信房により城修築、三日月堀を新設。山県三郎兵衛昌景が在番し、200騎で守る。
「1572年」 (武田氏)○孕石主水佐が在番。
「1579年」 (武田氏)○依田右衛門尉信蕃が在番。4回徳川軍に攻められ、1582年大久保忠世に明け渡す。
「1582年」 高力河内守清長1万石、岩槻城、徳川氏の臣
「1590年」 (中村式部少輔一氏領)8千石、豊臣氏の臣中村一氏の家臣、横田内膳正村詮在番。
「1601年」 酒井備後守忠利1万石、川越城、四の曲輪拡張、大手口・侍屋敷の整備、下伝馬駅を開設。
「1609年」 (徳川頼宣領)○1619年、頼宣紀州へ移る。
「1619年」 (幕領)○大久保忠直・忠当、酒井兵七郎正次が在番。
「1624年」 (駿河大納言忠長領)○三枝伊豆守守昌、興津河内守直正が在番。1631年忠長甲斐国に幽閉。
「1631年」 (幕領)○松平大膳亮忠重、北条出羽守氏重が在番。
「1633年」 松平大膳亮忠重3万石、佐貫城 掛川城、田中城在番中に加増される。
「1635年」 水野監物忠善4万5千石、山川城、吉田城、千貫堤を築き大井川の氾濫を防ぐ。
「1642年」 松平伊賀守忠晴2万5千石、土浦城、掛川城
「1644年」 北条出羽守氏重2万5千石、関宿城、掛川城、1648年横須賀城主本多越前守利長田中城在番となる。
「1649年」 西尾丹後守忠照2万5千石、土浦城、卒去
「1654年」 西尾隠岐守忠成2万5千石、世襲、小諸城、2才で遣領をつぐ。
「1679年」 酒井日向守忠能4万石、小諸城、領地没収、1681年領地召上げにより井伊掃部頭御預、本多忠恒在番。
「1682年」 土屋相模守政直4万5千石、土浦城、大坂城代、のち京都所司代、老中を勤める。遠州流の茶人。
「1684年」 太田摂津守資直5万石、浜松城、卒去、若年寄、側用人を勤める。大慶寺に墓所あり。
「1705年」 太田備中守資晴5万石、世襲、棚倉城、11才で遣領をつぐ。のち寺社奉行、若年寄、大阪城代を勤める。
「1705年」 内藤豊前守弌信5万石、棚倉城、大坂城代
「1712年」 土岐伊予守頼殿3万5千石、大坂城代、致仕、老年のため大坂城代を辞し田中に入る。
「1713年」 土岐丹後守頼稔3万5千石、世襲、大坂城代、大井川堤普請、田中城四の堀凌喋、のち老中となる。
「1730年」 本多伯香守正矩4万石、沼田城、卒去、領内に法度書を下す。
「1735年」 本多伯耆守正珍4万石、世襲、致仕、老中を勤めたが郡上一揆で引責、罷免される。
「1773年」 本多紀伊守正供4万石、世襲、卒去
「1777年」 本多伯耆守正温4万石、世襲、致仕、12才で遣領をつぐ。田中騒動で引責隠居。
「1800年」 本多遠江守正意4万石、世襲、卒去、寺社奉行、若年寄を勤める。増田五郎右衛門の事件起こる
「1829年」 本多豊前守正寛4万石、世襲、卒去、1837年藩校日知館を創設。1843年大砲を鋳造。
「1860年」 本多紀伊守正訥4万石、世襲、長尾へ移封、初代聖堂学問所奉行、駿府城代を勤める。
「1868年」 ○大政奉還により田中藩は安房国長尾へ転封され、徳川家達領となる。田中城には仮城代平岩金左衛門や田中奉行高橋伊勢守精一が入る。
−コメント−
国道1号線の大手交差点から出発して約3kmを散策し、下屋敷跡で終了とする。
大手交差点まで戻るとプラス1kmの行程となる。
江戸時代のまま保存されている施設は少ないが、当時の繁栄の断片を見ることができた。