− 手越〜丸子 −
弥勒橋を渡ると急に時代を感じる雰囲気になってくる。
手越をこえて丸子路を行く。旧東海道を約6kmの行程となる。
見どころが多いので寄り道をすると10kmをこえる。
[弥勒橋を渡ると手越]
江戸時代には渡しがあったんだろう。
安倍川橋(弥勒橋)を渡り駿府宿へ向かうページへはこちらをクリック。
[弥勒橋と富士]
橋の方へ振り返ると遠くに富士が見える。
駿府の城下が富士を背負っているように見えるのだ。
[手越]
道も狭まり、旧東海道のたたずまいを感じる。
写真は車が少ない時をねらって撮ったので寂しい道路のようだが交通量の多い道なのだ。
<手越>
平安時代末ごろから宿場として栄えた。向敷地と丸子を越える峠「手児の呼び坂」を由来とする説と安倍川の渡渉点で手ずから川を越えることができたという説がある。
[手越妙音寺]
街道に沿った右側の小さな細長い丘陵が「金山」と言わている。
街道から逸れて安倍川沿いに200mほど入り、金山の北はずれにある妙音寺へ寄ってみました。
檀家からの大きな負担によって立派な本堂を建てる寺が多い中、良心的な好感の持てる寺だ。
この本堂のあたりにかつて古墳があったらしい。
他にもこの金山のどこかに数基の古墳があったらしいが、ほとんど荒れた山で見つけることができなかった。
[手越妙音寺]
金山のお祖師様と書かれた銅像が建てられている。
照永山妙音寺という日蓮宗のお寺なので、日蓮様であろうか。
[手越・心光禅院]
街道まで戻るとすぐに「瑞岩山 心光院」という臨済宗のお寺がある。
開山300年祭を昭和61年11月17日に行なった。
新西国三十二番 千手観世音菩薩
駿河一国百地蔵の4番
[手越・心光禅院]
門の横に像が建てられています。臨済宗なので白隠禅師であろうか。
[手越・少将井神社]
橋から200m程の場所にある心光禅院の隣の金山の麓に少将井神社がある。
入口に看板が立っていて由緒が書かれていた。
当神社の祭神は素盞雄命(すさのおのみこと)で創建は建久4年(1193)、源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年に当り、有名な富士の巻狩曽我兄弟の仇討のあった年である。その後、東海道の要衝安倍川の渡しの宿場町として繁栄した手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経の遊君少将君の名と共に往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られ、当地の名社として今日に至っている。
明治12年(1879)村社に列し、明治22年9月6日手越桜山鎮座の村社神明宮(天照大神)、手越し向山鎮座の山王神社(大山咋神おおやまくいのかみ)、手越水神鎮座の水神社(罔象女命みずはのめのみこと)、の三社を合祀し、同日手越藤木鎮座の左口神社(猿田彦命さるたひこのみこと)を移し境内社とした。後に合祀して祭神は五柱となる。
社殿は明治32年(1899)7月、昭和33年11月氏子の奉仕により改築される。
例祭は古くは9月18日に行われたが、明治43年より10月17日に改められる。例祭には氏子一同服装を改めて参拝するを例とし、平素は出生児の初宮詣りや、病気平癒の祈願詣りなどがあり、神人和合の古い伝統が伝えられている。
[手越・少将井神社]
小さい神社だが奥社もあり、格式を感じる。
この裏山「金山」は江戸時代に入る前には「金山砦」があったらしいが痕跡は見つけられなかった。
この細長い丘陵には数基の古墳があったらしいがこちらも痕跡は見つけられなかった。
[少将井神社・富士]
少将井神社の横から裏山を登ってみると開けた場所から富士が見えた。
かつてはこの場所に神社があったのかな?
[高林寺]
街道へ戻り、程なく寺が現れる。
臨済禅宗高林寺という。ちょっと由緒が書かれたものでもないかと探したが見つからなかった。
山門横の石柱には「官許・元祖手越名灸所・御霊山高林禅寺」と書かれていた。
後で聞いた話では、1652年に由比正雪を自殺に追い込んだ武士がその褒美の金で、供養のために神社と寺をこの地に設立し、明治の神仏分離の時に寺として残したとのこと。
[高林寺]
門をくぐると庭は手入れが行き届いていて気持ちがいい。
背は低いが幹が太い松を背負うように地蔵堂が立っていて、駿河百地蔵第五番霊場、子育地蔵尊 「松根子育地蔵尊」と書かれていた。
[高林寺]
庭の片隅に木馬堂というのがあって、木馬が祀られている。
後で調べたら、浅間神社の木馬と縁があるといったことらしい。
元は浅間神社に有り、火災の時に神社を逃げ出し、1頭は浅間神社に戻ったが、1頭は御穂神社へ逃げ、あと1頭がこの地に逃げた。浅間神社の楼門の脇にある左甚五郎作と書かれた神馬とよく似ている。
[手越の街道]
橋から500mほど西へ進むと道路脇に木がせり出していて旧東海道の雰囲気を感じる。
ここから国道1号線まで1直線で見通せる。
[手越の街道]
道路脇に木がせり出している所を通り過ぎてから写真を撮り忘れたのを思い出し、今来た道を振り返る。
[手越の街道]
旧東海道には良く松並木が見られる。
[手越の街道]
旧東海道はこの先の300mほどで国道1号線に出会う。
[手越の街道]
国道1号線のちょっと手前から今来た道を振り返る。
東海道を西からやってくると手越に向かう道だ。遠くに駿府城下や富士が見えたのかも。
[国道1号線]
手越の街道から国道1号線へ出る。
100mほど国道を歩くと歩道橋があるので中学校側へ渡る。
学校の東側を南に向う道が長田街道。しばらく行ってみる。
[長田平和塔]
長田西中学校を過ぎて100m程南に公園のようなスペースがあって塔が建っている。
塔の脇の看板を読んでみます。
<長田平和塔の由来>
長田地区の平和塔は日清、日露、日独の3戦役に当時長田村、軍人として参戦出征者のうち、戦死及び戦病死並びに遭難者など50名の犠牲に対し村民、相い計り、尽忠報告の士卒の勲功と親遺籍のため、大正14年2月建設の議と称し、帝国軍人会その他有志により協賛規約の上、実行委員会の組織のもとに全村の寄付土地を含み費用の拠出により国に請願、その結果、海軍駆逐艦(25センチ砲)及び砲弾丸、その他、下賜、よって大正15年1月起工同年8月忠魂塔として竣工、正面に、東郷元帥顕塔記「極天護皇基」の5字を彫刻建設となり、忠勇義列と皇基の平住を記された。
その後、満州、支那事変、大東亜戦争など、618名の尊い犠牲者に対し、追悼法要を修行して参りました。
しかしながら、現状維持は経年により強度不足とのことで幾度か専門家を交えて関係者一同その対策に苦慮して参りました結果、砲身台座の保護は期し難く、又、近年東海地震等発生により砲身の傾斜転倒を想定しますと、付近住民の不安は勿論のこと、一般住民の皆様方に被害を及ぼす要因ともなりかねないので、この安全な対策として砲身の切断と台座の補強を行い、転倒防止を計りました。
今日、戦後50周年(1995年)を迎えるに当たり今後戦争のない平和な時代づくりとして残された砲身台座は、長田平和塔と改名、住民一丸となり世界の恒久平和を祈念してこの塔を建立しました。
平成6年9月26日
長田忠霊塔奉賛会 役員・遺族・仏教会
[長田平和塔]
長田平和塔の横には石碑が建っている。
[無量禅寺]
「圓珠山」「無量寺」という曹洞宗の寺が長田平和塔前の鎌田消防署の東にある。
[明光寺]
長田街道を500m南に行った所に「西向山」「明光寺」という曹洞宗の寺がある。
[佐渡の歩道橋]
長田西中学校前の国道1号線へ戻り、佐渡の歩道橋を渡った所の路地を北へ入ると福泉寺がある。
[福泉寺]
福泉寺の山門。
[福泉寺]
「日向山」「福泉寺」という曹洞宗の寺院です。
[西宮神社]
国道1号線へ戻り、左へ行く旧道は後に譲りもう少し寄り道し、50mほど西へ行く。
北側の丘への登り口に西宮神社がある。
[西宮神社]
国道1号線をもう少し西に向った所から西宮神社のある丘を見る。
[西宮神社]
西宮神社
片隅に神社の看板があるので読む。
西宮神社は福を授けてくれる恵比寿さまです。
私達のすることを全て見ております。
神様に恥じることなく清き(清潔に)直き(正直)・まこと(誠実)の心で過ごしたいものです。
平成23年6月吉日 西宮神社総代 氏子一同
[佐渡山古墳群跡]
西宮神社の前の路を50mほど登ると農道に出る。
農道脇に「佐渡山古墳群跡」という石碑があり、説明書きが立っている。
<佐渡山古墳群跡>
西宮神社境内を中心に発掘された当古墳群は、これまでに7基の調査が行われました。
これらの中には賤機山古墳に次ぐ規模の横穴式石室で、組合せ式箱型石棺二基を設け銅鏡、馬具類等が副葬されているものもありました。
この古墳群は、今から約1500年前から100年間以上にわたりこの地を治めた有力者たちの古墳として作られたと考えられます。
現在地から万葉以来東海の歌枕として知られる「手児の呼坂」に至る丘陵には縄文、弥生各時代の遺跡も多く、数千年の昔から古代人の生活の営みを知ることができます。
森林浴に、歴史探訪に、格好のハイキングコースです。
昭和61年2月 静岡市
[丸子佐渡]
佐渡の交差点へ戻って旧道へと入るとますます雰囲気が旧東海道。この佐渡は「さわたり」と読む。
寄り道はこのあたりで終え街道を進む。
[丸子佐渡]
国道から佐渡に入るとすぐに道標があってこの地の謂われが書いてあった。
この道筋は江戸時代の東海道です。府中宿を過ぎて川越人足によって安倍川を渡り、手越村を抜けて続く松並木を西へ進むと佐渡村です。佐渡村からさらに西へ進むと丸子の一里塚があり、丸子宿へ入っていきます。
江戸時代には、この車が行き交う賑やかな通りにも松並木が続き、参勤交代の大名行列や多くの旅人が行き来しました。
[丸子佐渡]
佐渡公民館の敷地に入ると碑が立っているので読んでみる。
除幕式 昭和57年3月28日
建立の趣旨
地名「さわたり(佐渡)」が地図上から消えたことを惜しんで、この碑を建つ。「さわたり」は、わが国最古の歌集「万葉集」巻14東歌(あずまうた)にうたわれた地名であって、この歌は東国農民の愛唱歌謡の一つであった。当地方一帯は、古くから「さわたり」の地名で呼ばれてきた。
万葉集巻第14 あずま歌
さわたりのてごに
い行き逢ひ 赤駒があがきを速み
こと問わず 来ぬ
「佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった。」
この歌は、わが国最古の歌集「万葉集」に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。「佐渡」はその頃からこの辺の地名で、その歴史は誠に古い。昭和52年「丸子1丁目」と改称され「佐渡」という地名が地図の上から、永久に姿を消すこととなった事を惜しみ地元町民とともにこの碑を建てる。
[丸子子授地蔵]
佐渡公民館の向かえに地蔵堂が建っている。
[丸子]
この先の木のある所で東海道は右に大きく曲る。
そのの先を山の方に入って行くと「最古の東海道」とされる道と小野薬師寺がある。
寄り道したかったけど距離があるようなので別の機会に散策してみます。
最古の東海道は別のページを作っています。こちらをクリック。
[小野薬師寺]
別の機会に小野薬師寺へ出かけた時の写真。
人里離れた山の中腹に密かに佇む無住の寺だ。
写真の時期はちょうど桜が満開だったので厳粛な雰囲気に色を添えていた。
[丸子]
旧東海道を西へ向かう。
このあたりは商店が多く丸子の中では賑やかな地区。
<丸子>
東海道五十三次の20番目の宿場町。
手越しの手越長者と呼ばれる住人平太家綱が鎌倉時代の奥州征伐の軍功によって、源頼朝に土地を与えられて設けた新駅の丸子宿が町名の由来。
丸子は麻呂子(まろこ)すなわち男子のこと、手越は貴子(あてこ)すなわち女子のことで、年に一度男女が相手選びをした風習があった。今で言う「合コン」かな?
[一里塚周辺]
長田西小学校の辺りに一里塚がある。探しながら行くと道路は工事中で場所がわからないまま通り過ぎてしまった。
振り返ると工事看板の陰に・・・
[一里塚の石碑]
工事看板の陰に小さな塚があった。
「一りづかあと」と書いてあった。さすが小学校前だ。
[一里塚の石碑]
裏側から。
大正14年7月静岡市と刻まれていた。
結構古い。
[丸子六丁目]
東海道はこの辺りから道幅が狭くなる。
[水神社]
丸子宿の東見附を過ぎてすぐの場所に水神社がある。
[丸子宿]
水神社脇に丸子宿の説明標が立っている。
この道筋は江戸時代の東海道です。ここ丸子(まりこ)は文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継(てごしへいたいえつぐ)という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家(えきけ)を設けたのが起源と言われています。今の元宿といわれる辺りです。
戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長(そうちょう)も「丸子という里、家5、60軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と気しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。
比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度(すけごうせいど)といいます。
東海道図屏風の絵と説明文
江戸時代初期の東海道の様子を描いた屏風の内の丸子宿部分です。軒先で何かを売っています。刀をさした人、旅装の人、右の方には安倍川を渡ろうとしている人も見えます。
[丸子宿]
説明標に丸子宿の略地図が画かれていた。
ここは東の見附を通り丸子宿に入ってきたところです。見附は、宿場の出入口ににあり、往来を監視する機能をもっていました。
現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や、格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。
天保14(1843)年の「東海道宿村大概帳」では、宿内町並東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口795人、と記録されています。
丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を勤める機関もありました。
[水神社]
丸子川の脇に建っている。
過去から水害に悩まされた地域だった。
[丸子川]
丸子川は普段ほとんど水も流れていない小さな川だ。
以前は鮎がこの辺りまで上っていたけど、今はどうかな?
[祠]
小さな祠もあって、いろいろな神頼みが欲しいほど災害が多かったのだろう。
[龍國寺]
水神社のすぐ先の路地を北へ入って、国道を越え300m程行った山すそに寺がある。由緒が書かれていたので読んでみます。
<お寺の由緒>
山号 九淵山
寺名 龍國寺
宗名 曹洞宗
本尊 青頭観世音菩薩
開山 松山宗宿大和尚 開基 創建 天正13年3月 (1585)
<御本尊の由来>
この御本尊は、青頭観音また白衣観音と申して奇なる御像であります。故事によると、この御本尊は昔鎌倉金沢の称名寺(納めるべく、唐より渡来した磁像の観音様で、この船が相模の沖にて難破し宮の島に打ち上げられました。
この時の千体佛の一体で現存する唯一の貴重なる観音様です。この御像を小堀遠州(遠江守、1579〜1647)が懇望され値千両で望まれましたが、当寺住職の曰く「愚僧は一代、寺は末代、予が心一つにて、此の佛を売り申す事、成り難し」と断りました。
また或る時、松平出羽守直政(1601〜1666)が当寺を一見し、庭に本南天の背丈2間程もある一株を望まれて、江戸へ引き取られました。其の翌年の夏、住職に贈り物有り、と記されています。
毎年3月9日を御本尊の縁日として、壇信徒と共に慈悲深い観音様を感謝報恩の心で無病息災を祈願し念じて、参詣者共々厳かに法要し、深く信仰を仰いでいます。
お慈悲の眼あたたかく まどかに智恵は満ちわたる
この世の母のおん姿 南無や大悲の観世音
平成13年3月9日(2001年)建立 当山7世重法代 壇信徒一同
[龍國寺]
寺の脇には時代が経った地蔵さんが並んでいた。。
[天皇休憩所]
街道に戻り進むと旧道を思わせる町並みになってきた。
明治天皇御小休所址と書かれた石碑が民家の片隅に立っている。
東海道を進んでいるとこの石碑がよく見られる。ちょっと休むだけでも大変な騒ぎだったんだろうと思う。
[丸子本陣跡]
明治天皇御小休所址からすぐに本陣跡の石碑が建っている。
石碑の横に謂われが書いてあった。
丸子宿が、東海道伝馬制の制定によって宿場町に定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長6年(1601)です。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は200戸余りでした。
宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の宿の宿泊所で大名宿ともいわれました。建物は書院造りで、門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが明治3年新政府によってこの制度は廃止されました。
[とうふ屋]
軒下にとうふ屋の看板が下げられている。
今でも営業をしているのだろうか?
かつてやっていた名残りなのだろうか?
[かたばみ屋]
今度は「かたばみ屋」と書かれた看板が下げられていた。
商売をしている家には見えない。
かたばみ屋?
何を生業にしているのだろうか?
単なる屋号?
[お七里役所]
この石碑も家の片隅に邪魔そうに立っていた。
江戸時代の初期、寛文年間、紀州、徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、146里に沿って7里間隔の宿場に、独自の連絡機関として23ヶ所に中継ぎ役所を設けた。
県内では≪沼津≫≪由比≫≪金谷≫≪見附≫≪新居≫に設けられ、この役所を「紀州のお七里役所」と呼び5人1組の飛脚を配置した。
これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、登り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て≪七里飛脚≫の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月3日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中8日を要し、特急便は4日足らずで到着した。
幕末の古文書に、入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記されている。
丸子宿におけるお七里役所は、当家のことである。
徳川頼宣は、家康の第10子で家康が亡くなって3年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。
[観光地看板]
観光地の看板が立っている。ここは丁字屋の敷地だ。
市内の観光スポットが紹介されている。丁字屋からの距離も記載されていて観光客には助かる。
[千寿酒造]
丁字屋の向かいに千寿の前の説明看板が立っている。
戦乱の世、源平時代には数々の美しくも悲しい物語が残されています。
私たちの郷土にも「千寿の前」の物語が伝えられています。
千寿は静岡市の手越の長者の娘として生まれ「白拍子」と呼ばれる舞姫でした。
舞姫は麗しい美人が多かったようですが中でも千寿は源頼朝が天下の美女、12人を集めた時、その第一に千寿をあげている程でした。
千寿と平重衡との恋物語は「平家物語」近くは山本富士子、松本幸四郎共演の歌舞伎にて広く知られたわけですが、悲嘆やるかたなき千寿は尼となり「熊野御前」を訪ねて遠江に移り、重衡の菩提を弔い磐田に住んだと伝えられています。(現在の磐田市白拍子部落)
千寿の墓石、風雨にさらされて幾百年、今この千寿に前にあやかりし麗しき美女のさずからむと手向ける娘達の野花に、戦乱の世に咲ける悲恋がしのばれます。
清酒「千寿白拍子」はこの千寿の前にちなんで醸されたものでふくいくとした優雅な香り、新鮮でまろやかな旨味を含んだお酒で「まりこ」のとろゝ汁と共に東海道の名物として長く世人の愛飲を戴いております。
千寿醸造元 敬白
[東海道丸子案内]
この辺りには至るところに歴史の説明看板や道標が立っている。
<歴史の道 東海道の御案内>
この道筋は江戸時代の東海道です。丸子宿の西の見附と高札場がありました。
分岐する道を川沿いに西北へ進むと、諸大名や幕府役人、文人等が東海道の往来の際に立寄った名所、恋歌師宗長ゆかりの吐月峯柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)があります。
道沿いには、明和元(1764)年に建立された道標がありますが、元は別の場所にたてられていたものと考えられます。
[丸子とろろ]
丁子屋は慶長元年創業の老舗。安藤広重の「東海道五十三次」の「丸子」のモデルだったらしい。浮世絵にそっくりだ。
そっくりに作ったんだろうか?
<丁子屋の店の案内>
とろろ汁を商って400年。郷愁を誘うカヤ葺きの屋根。中に入ると黒光りする大黒柱。懐かしい囲炉裏。日本民家の中で味わう麦とろは格別です。古来より自然薯は山薬と云われ滋養強壮の食べ物として珍重されてきました。
と書かれています。
<とろろ汁>
江戸時代の初めからの丸子宿の名物。山芋をすりおろし味嗜汁でのばして、麦飯にかけ、海苔やきざみねぎをかけて食べる。
丁字屋の店の前に芭蕉の句碑がある。「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」
また『東海道中膝栗毛』で有名な戯作者十返舎一九の狂歌碑もある。
[丁子屋]
昼食にとろろを食べてみました。
麦めしにとろろを掛けて腹いっぱい食べました。
[丁子屋]
一般の客はここへ通されるらしい。
天井の回りに東海道五十三次が飾ってある。
[丁子屋]
精算をすませ入口のところに貼り紙がある。
以前に「なんでも鑑定団」に丁子屋の主人が出たことがあった。
五十三次の本物を全部持っていた。その一部を展示しているのだろう。
[丁子屋]
古民具がたくさん展示してあって、さながら小さな民俗資料館のようだった。
[丁子屋]
自慢の骨董が並んでいる。
多分所有している一部を飾っているのだろう。
[丁子屋]
奥にもいくつか部屋が見える。
それぞれ味のある部屋だ。
[丁子屋]
茅葺屋根の下は昔ながらの建築だった。
屋根裏に駕篭などが置いてあった。
[丁子屋]
玄関の脇に「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」がある。
<石に刻まれた詩>
けんくハ(けんか)する夫婦ハ口をとがらして鳶(とんび)とろろにすべりこそすれ
<立て札>
とんびとろろのわらべうた
とんびとろろのお師匠さん
からすはかじやでかねたたき
雀すずやのすずならし
(静岡生まれの一九さんも口ずさんで育ったから狂歌ができたにちがいない)
大空をゆったり気分でピーとろろ
摺粉木回せばねばっこい
美味しいとろろができたのに
冷めないうちにトンテンカン(夫婦げんか)
からすにまかせたまづいとろろ
くわせちゃいかぬとぶんまいた
とんびの先生もすってんころりん
[丁子屋]
辰石と看板が建っている。
徳川家康公は駿府城築城にあたりその石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。
この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、370余年間目前の旧東海道の下で眠っていたが去る丙辰(1976)正月、電話ケーブル埋設事業の際掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇った
丸子の縁起物として辰石と名付けました。 店主
[丁子屋]
石碑がもう一つあったが内容が難しくてよくわからなかった。
[丸子川の碑]
たなばた災害復旧記念 丸子川の碑と書いた碑。
隣の岩には丸子川を詠った幽斎の歌が彫られている。岩の裏に謂われが書かれている。
水源を宇津ノ谷に発する丸子川は、古くから歴史的経済的に沿岸住民のくらしと深く結び付き親しまれてきた。それだけにひとたび「あばれ水」と化したときは、その及ぼす災禍も極めて深刻となり、過去にもその例は多い。
昭和49年7月7日深夜から翌未明にかけ本市を襲った集中豪雨は毎時85ミリという未曽有の記録となり、そのため丸子川は30分に1メートルの以上増水をみせ堤防の決壊、橋梁家屋耕地の流失あいつぎ、被災するもの2650戸、1万人に達する静岡市史に忘れ得ぬ大災害となった。
その後、今日の姿に復するまでには17億5千万円の巨費と4ケ年の日子を費やしたのである。
(文が長いので後略)
[細川幽斉の説明]
看板を読んでみる。
天正3年(1534)から慶長15年(1610)
安土桃山時代の文武両道に卓越した大名歌人で、近世和歌の祖とも称えられ「古今伝授」を授けられた。
関ヶ原合戦の直前居城が石田光成の攻略により落城の危機に際し後陽成天皇は古今伝授の隠滅を憂いて勅命にて幽斎を救出した。
信長秀吉家康にも重臣として処遇され丹後田辺城主となり、明治維新を迎えて現在17代護貞公に至っている。
天正18年(1590)3月8日、秀吉の小田原征伐の先陣として、うつの山路を越え「まりこ川と人のいふをきゝて」を詠んだ歌で、この日丸子川を渡って駿府に入った。
[いざり地蔵の看板]
看板は立っているが地蔵さんはどこにあるのか???
見回してみたが???
[丸子とろろ]
一松園。
とろろ汁は「丁子屋」が有名だが一松園も歴史があるらしい。
こちらを好んで通う人もいる。
[馬頭供養塔]
一松園の前に碑と祠がある。
江戸時代の交通には馬が欠かせなかったんだろう。
[栄屋の碑]
栄屋とだけ読める碑が立っているが謂われは書かれていなかった。。
[丸子橋]
東海道は丸子川を越えて続く。
[丸子高札場]
丸子橋を渡った所に高札場跡があって、いろいろな説明看板が立っていた。
<天和(てんな)の高札>
丸子の文化財
江戸時代の東海道丸子宿に建てられていたと思われる高札が昭和56年頃に丸子戸斗の谷の津島神社から発見されました。
天和2年(西暦1682年)今から320余年前徳川5代将軍綱吉が諸国の高札を建て替えた時のものと推定されています。
実物は縦58cm長さ258cm厚さ82cmの杉材でこれほど大形なものは県下でも珍しく静岡市の文化財の指定されています。この丸子の貴重な文化財をレプリカで紹介し、その昔の丸子宿の面影を残したいと願うものです。
高札3枚(忠孝奨励諸法度・宿駅諸法度・毒薬にせ金禁制)
なお現物は戸斗の谷町内会が保存している。
<定・忠孝奨励御法度>
1.忠義や孝行を奨励し夫婦兄弟諸親類は睦まじく召使の者にも情愛を加える事、若し不忠義不孝する者あらば重罪とする
1.何事にも贅沢をしてはいけない住家・衣服飲食等まで倹約を守る事
1.悪心をもって偽り又は無理な言いがかり又は自分の欲のために人に害になる事はするなすべて家業のために励む事
1.盗賊悪党は奉行所へ訴え出ること、その時ご褒美をくださる事
附 博打は堅く禁止する事
1.喧嘩口論は停止する。自然(万一)喧嘩があってもその場へみだりに出向かず、又手負(けが人)たる者を隠し置かない事
1.死罪の族これ有る時は呼び出される者以外は集まってはいけない。
1.人身売買堅く停止せしむ並びに年季奉公に召使下人を雇うときは男女共に十年とする事その定年数を通れば重罪とする。
附、譜代の家人又はその所に往来する者は他所へ相越し在付、妻子をも所持せしむ、其の上、科なき者を呼び返さない事
右の条々相守るべきこと、若し違反する者には厳しく処分するので申し出るもの也
下知くだんのごとき
天和二年五月 奉行
<定・宿駅諸法度>
1.御朱印、御伝馬人足の員数は御書付の外多く出すべからず事
1.御伝馬並びに駄賃の荷物は1駄について40貫目人足の荷物は1人について5貫目の限事
1.丸子より府中までの駄賃銭は1駄について47文乗懸荷物は人と共に同前、荷物なくて乗るは31文、人足賃は1人にて24文
1.岡部へ47文荷なしに相乗りは51文人足賃は41文ただし夜どおし急ぎ相通る輩は荷物なしに乗るといえども夜の分は1駄を積んだと同じ駄賃銭を取るべき事
以下略
<條々・毒薬にせ金禁制>
1.毒薬並びににせ薬種は堅く禁制なり
若し商売する者には罪科とする
たとへ同類といえども訴え出る物には御褒美をくだされる事
1.にせ金銀の売買は一切停止すべし
自然持ち来るは両替屋において打ちつぶしてその主に返すべきなり
並びに外しに金銀は金座銀座で改めるべき事
附 にせ物すべからざる事
1.寛永の新銭は金子1両につき4貫目もちろん歩には1貫目御料私領共に年貢収納等にも御定の員数たるべき事
以下略
[津島神社]
丸子橋を戻り丸子川に沿って上ると国道1号線に出る。
バイパスとのインターになっているので複雑になった場所の道が左右に分かれる角に小さな社が建っている。
津島神社と書かれた看板が立っているので読んでみます。
[丸子稲荷神社元宮]
津島神社の左側の道を進むとすぐに稲荷神社の元宮がある。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
937年、京都伏見稲荷大社の御分霊を丸子の氏神様として鎮祭した。それから千余年、東海道の名社として領主、諸大名を始め、一般庶民の信仰も篤く、五穀豊穣、厄除け、商売繁盛の神として崇敬されてきた。
1978年、静清バイパス建設のため、現在の地に移転改築された。元の地には元宮があり、更に1987年、奥宮が建立され、三ヶ所に祭られている。
[丸子稲荷神社]
新旧の社が佇んでいた。
[丸子稲荷神社遷宮]
バイパスの下をくぐって匠宿の駐車場脇を抜けると稲荷神社の新しい社がある。
バイパスの建設に併せて稲荷神社が遷された。
[駿府匠宿]
津島神社の右側の道を進むと直ぐに駿府匠宿がある。
伝統工芸の体験や土産物などを売ったりしている公共施設。
静岡は今川や徳川が駿府築造のため職人を集めた歴史があって、伝統工芸が盛んな土地柄なのだ。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
静岡市の伝統産業と歴史をテーマに、「創る、遊ぶ、学ぶ、触れる、観る、味わう」という生活文化を幅広い年齢層が体験できる施設。
各種工芸の創作体験や、250インチの大型スクリーンと38台の小型画面の組み合わせによる参加型体験シアター「たく丸劇場」、遊び心が交流する空間「おもしろ体験館」などがある。
[吐月峰]
駿府匠宿から300mほど行くと吐月峰がある。
「名勝史跡 吐月峰 柴屋寺」 とある。略由来が入口に書かれている。
静岡市丸子泉ケ谷にある柴屋寺は室町時代の中期永正元年(1504)連歌師柴屋軒宗長が草庵を結んで閑居したところであって吐月峰の名によって天下に知られた名称であります。
この泉ケ谷の地は応仁戦乱の頃持舟・宇津山・賤機山などと共に駿府の外城として丸子城があり今川氏親は今川の内訌の難をこの丸子城にさけて十余年を過ごしたのであります。
現在の柴屋寺は当時の丸子城内の一部であり青年恋歌師宗長は氏親ともに暫くこの城内にあって自然の風詠に戦塵を忘れたと伝えられています。
氏親は駿府城に帰って(長享元年・1487年)国主となった後もたびたび柴屋軒をたずね、なお公財を捨てて同宇を建て始めて柴屋寺と称えたのであります。徳川家康はこの寺に朱印地を賜い堂宇の朽ちるを惜しんで懇ろに修復したのであります。
その庭園は宗長が自ら禅味と詩魂を打ち込んで築いたものといはれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧みに取り入れた借景庭園であります。
[吐月峰]
入口に歌碑があるが私には読めない。
看板がいくつもあるのでもう一つ読んでみる。
吐月峰柴屋寺は、今川6代当主義忠と7代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が永正元年(1504)55歳で草庵を結び余生を送ったところである。この頃は、禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしたという。
風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」などの美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は、国の名勝・史跡に指定されている。
庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した「七曜石」や宗長が月が出るのを座って待ったという「月見石」などがある。その月見石の背後に師の宗祗と並んで宗長の墓がある。
当寺は、京都の嵯峨から移植したという竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が今も民芸品として即売されている。
なお、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、屯阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されている。
[吐月峰]
落ち着いた建物。
[吐月峰]
吐月峰 柴屋寺「保存顕彰会」設立記念の碑。
と書いてある。
[吐月峰]
部屋からは日本画のような庭が見通せる。
[吐月峰]
裏庭もきれいに整えられている。
隙はない。
[吐月峰]
私には庭を愛でる素養はないが、落ち着く雰囲気だ。
[吐月峰]
どこをみても絵になる。
[吐月峰]
庭を見せるために設計されている。
この庭から月の登るのを見る。
秋には月見会が毎年開かれる。
誘われるが今の私にはその余裕はない。
老後の楽しみに取っておきたい。
[待月楼]
吐月峰からすこし行ったところにある、とろろを食べさせてくれる旅館だ。
ここの庭も有名らしい。
[待月楼]
ここの庭も有名。
[待月楼]
離れの部屋で昼食をとります。
[待月楼]
離れの部屋から庭が見える。
[待月楼]
このようなコース料理をいただきました。
[歓昌院]
待月楼のすぐ奥に「天柱山歓昌院」という曹洞宗の寺の参道が見える。
[歓昌院]
「歓昌院」の参道を進むと山門があり、その先に急な階段がせまっている。
[歓昌院]
仏教会の会長をやっている和尚さんに話を聞くと鎌倉以前にはこの寺の脇に東西をつなぐ往還道が通っていたとのこと。
[古東海道]
歓昌院の墓地の脇に「牧ケ谷」と書かれた案内が立っている。
[歓昌院]
「牧ケ谷」と書かれた案内のある山道か、右側に向う舗装された農道を登る。途中歓昌院を見下ろす。
[古東海道]
農道を10分ほど登ると峠へ通じる案内看板が出ている。
[古東海道]
かつての街道も人通りも少なく立木が道を横切る場所も見受けられる。
[古東海道]
5分も登ると峠に出る。「丸子元宿」「木枯しの森」「徳願寺」を案内する道標が立っている。
[古東海道]
急な場所には杭と竹で手すりが設置されている。
地元にこの道を整備してくれるきとくな方がいるようだ。
[古東海道]
牧ケ谷の農道へとつながる。
歓昌院へ案内する道標が立っている。左側へ進む道だ。
[古東海道]
丸子へと、もと来た道へ戻る。
案内する看板があって、次のように書かれていた。
「木枯しの街道」
23・5・9達成記念日
(一人で10年間整備)
後世の為に宝を残す整備
この場所からスタート!!
誰か?協力してよお−お願いします
[古東海道]
切り通しに整備されている場所もある。
[千手観音]
丸子側に戻り下っていき歓昌院を過ぎさらに下ると道の西側に歓昌院の末寺慈昌寺がある。
千手観世音菩薩像・薬師如来像の由来。
当初安置の千手観音は尊像背部銘記に後白河天皇守本尊京三十三間住運慶仏師作 建久6年3月17日(1192)とあり昔故あって奥大井笹間より当所に移されたものである。
永正4年(1503)柴屋寺開祖の宗長禅師は「宇津山記」に「奥に歓昌院あり左の岨に観音の霊像云々」と記し歴史の古さをうかがわせる。その頃武田勝頼が下した寺領安堵判物(現存)によれば、この地は歓昌院の管理下にあった。歓昌院8世3室尊秀和尚は寛文年間(1661〜1673)当所に末寺慈昌寺を開祖し本尊として衆生の病苦を救い給う薬師如来像を本堂に観音堂には千手観世音菩薩像、不動明王像、毘沙門天像を安置された。
駿河一国三十三観音巡礼第十三番札所として名声あり正徳4年(1714)の奉納句額(現存)によれば伊豆より美濃まで多くの信者を集めた事が判る。
安政4年(1857)歓昌院19世道霊彦苗和尚により堂宇改築。明治初年慈昌寺は歓昌院に併合、寺地は収公されて官地となった。その払い下げを受けた多田元吉氏は改めて泉ケ谷区に寄進され区民は霊験あらたかな薬師如来の後為に現在地に薬師堂を再建した。昭和26年観音堂の大修理、翌張る盛大な開帳法要厳収、昭和60年薬師堂の修理が施され、ここに面目を新たにすることができた。
延命銀杏堂の由来
当処は、寛永年間から幕末まで天柱山歓昌院の末寺として創建された慈昌寺の旧境内であり、その頃既に樹齢数百年を経た大銀杏樹が聳立していた。銀杏は古来火防の妙力ありとして社寺に多く植えられたが、同樹を長年にわたり観音堂を護り、約300年前、歓昌院本堂再建のおりには主用材としてその使命を荷った。
次代の銀杏も以来300年の間、春の緑、秋の黄葉極めて美しく、その採光と偉容は住民の尊親するところであったが、永い星霜を経て樹勢漸く衰え、昭和57年台風のため倒伏した。
世紀世代を越えて住民が朝夕親愛した銀杏樹を末永く記念するため、泉ケ谷町内会が同樹の基幹部保存を強く運動し、静岡市がこれに応えて平成3年10月堂宇を建立した。
現在地に成長中の銀杏樹は3代目として愛育され、境内の千手観音及び薬師如来の御佛と共に町内安全、無病息災への住民の願いが込められている。
[丸子路]
旧東海道に戻って
丸子川に沿って進む。
[丸子二軒家]
旧東海道は丸子二軒家で国道1号線に出る。
交差点に出る所に庚申さんがある。
この交差点を越えて大鈩不動尊に向かってみよう。
[丸子庚申]
庚申塔と彫られた石碑。
[丸子庚申]
丸子の庚申さんが国道1号線の脇に建っている。
この交差点は「二軒家の交差点」と言う。この後は東海道から一時離れ、交差点を渡り、大鈩地区へ入る。
[誓願寺]
大鈩山 誓願寺。
このあたりは大鈩と呼ばれているがこの寺からきているのだろう。
誓願寺は、建久年間(1190〜99)に、源頼朝両親追善のため建立されたが、天文年間(1532〜55)の丸子城の戦火で類焼した。しかし、永禄11年(1568年)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものである。
この寺はまた、大阪冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところである。慶長19年(1614年)豊臣家重臣で、賤ケ岳七本槍の勇士でもあった片桐且元は、京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について、駿府城の家康に申し開きのため、この寺に滞在していた。有名な方広寺大仏鐘銘事件である。しかし、家康には且元の意がくまれず、遂に大阪冬の陣を起こし、続いて翌元和元年(1615年)5月の大阪夏の陣で、豊臣家は滅びてしまうのである。
境内には子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる。また、本堂右側にある古池には、珍しい産卵法で知られる「モリアオガエル」が生息しており、」五月から七月にかけて、その産卵風景を見ることができる。
[誓願寺]
立派な境内だ。
[誓願寺]
誓願寺には地蔵尊がある。看板が立っていた。
<誓願寺の地蔵尊>
この地蔵尊は天明8年(1788)の建立なり。
誓願寺第13世達源和尚の徒弟禅粛首里は太鼓坊と云われる太鼓打ちの名手。然し病弱で若くしてこの世を去った。
達源和尚は首里を不憫に思い世の人々が三悪趣を離れ百病根を断ち長寿であるようにと願いを込めて首里の故郷の方向に向かって建立せしものなり。
[丸子城入口]
誓願寺のすぐ近くに丸子城への登り口がある。
静風苑という煎茶道場の脇に丸子の里自然歩道に通じる小道があった。
丸子城は別のページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[丸子城]
大鈩不動尊へ行く途中から丸子城がある三角山が見える。
[丸子大鈩十二神社]
三角山を見た後、すぐに鳥居が見える。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
丸子誓願寺の奥で、大鈩不動尊への道の途中に位置し、鳥居をくぐって階段の上に行くと本殿、拝殿がある。
鎮座地の大鈩は、古くより鉄を産出し、製鉄の盛んな土地で、神社の主神も製鉄と関わりの深いイザナミノミコトである。
この地では古墳五基が発見発掘され、神社の創立は相当古い時代と思われる。
[丸子大鈩十二神社]
小じんまりした社屋が建っている。
[丸子大鈩不動尊]
国道から1.5kmほど奥にお不動さんがある。
静岡市から発行された「こども生涯学習体験ガイドマップ」に次のように紹介されている。
誓願寺より先の坂道の奥に、静かな杉林に囲まれた不動明王堂が安座されている。
その下には不動の滝があり、両側には十六羅漢像が安座されている。
滝の岩場でサワガニを見つけたり、夏場は絶好の避暑地として多くの人々が参詣する。
毎月28日の縁日には、各地から参詣や出店に訪れる人々で賑わう。大祭は1月と7月に行われる。
[丸子大鈩不動尊]
不動尊は沢の滝を利用するかのように位置している。
[丸子大鈩不動尊]
狛犬も崖の岩に置かれている。
[丸子大鈩不動尊]
薄暗い滝の脇の参道を行くと明るく開けて不動尊が祀られている。
[丸子大鈩不動尊]
日中でも森が深く薄暗いので電燈が点けられている。
[丸子二軒家]
大鈩から二軒家へ戻って丸子路を行く。
[赤目ケ谷]
丸子路は丸子赤目ケ谷を通る。
このあたりに紅梅が多かったので、「赤梅ヶ谷」と言われたが、いつしか「赤目ヶ谷」という地名になった地域。
[赤目ケ谷]
旧道を進む。
[丸子路]
また国道1号線に出会う。
[丸子裸弁財天]
国道と出会うところに丸子裸弁財天の看板がある。
どこが入口かわからない??
[長源寺]
丸子裸弁財天の看板の脇に丸子観光案内図が立っているので読んでみる。
<長源寺・起木神社>
長源寺は宝台院の末寺として、寛保元年(1741)慈悲と心の安らぎの観音様を祭ったお寺です。
山門左側正面に、平成元年に建立された高さ3mの座像で、観音菩薩が3人の子供を抱き寄せた石仏「小百合水子観音菩薩」の供養塔がある。
境内には、幕末の国学者野沢昌樹の墓がある。昌樹翁は甲斐の人で、明和事件(1767)で尊皇の志士で有名な弟の山県大弐が処刑されたので、駿府丸子長源寺に移り住んだ。時に府中に寓居し、国学、医学の道を教えた人だった。木枯の森の本居宣長撰文の碑も建立された。寛政12年(1800)79歳で没し、縁り深い長源寺に葬られた。
辞世の歌に「心引く ほたしなき身は 梓ゆみ かへらぬ旅の 道にまよわず」
鳥居の奥に、源頼朝公縁の起木天神が祭られている。平安中期に学問の神として知られる菅原道真公を御祭神として鎮祭された。当社は古来神域に紅梅が多く「赤梅ケ谷」と言われ、何時しか「赤目ケ谷」となった。春秋2度の例祭日には「合格祈願」「雷除けの神」として信仰篤く、遠近より参詣者で賑わっている。
[長源寺]
長源寺は少し戻った路地を入るとあった。
[起樹天満宮]
長源寺の少し奥に天神さんの鳥居がある。
[起樹天満宮]
平安中期に建てられた天神さん。
<起木神社>おきぎじんじゃ
鎌倉時代の初め、源頼朝が上洛の折り、この杜の前に梅の大木が倒れて道をふさいだので、道をあけるように命じたところ、その木は一夜のうちに起き上がって枝葉を茂らせたという伝説による命名。
また、赤目ヶ谷の地名は、道真が愛した紅梅にちなみ、もとは赤梅ヶ谷であったという。
[起樹天満宮]
菅原道真の絵が奉納されていた。
[起樹天満宮]
天神さんの脇に「日本近代茶業の先駆者 多田元吉翁の碑」が立っていた。
インドから茶の技術を学び全国に広めた人らしい。丸子に日本の紅茶のルーツがあった。
[起樹天満宮]
丸子赤目ケ谷起木天神碑の文。
漢文なので意味が解らないが解説看板が立っていた。
「風は松声をとどめて静かに、山は跿馬を含んで渕し」
[丸子路]
かつての東海道は国道と丸子川を縫うように進む。
[丸子路]
かつての東海道は国道の整備によってどこを通っていたのかこの辺は良く分からない。
[丸子路]
こちらが東海道かな?。
[丸子路]
国道と平行して進む。
[丸子路]
この先は丸子から宇津ノ谷へと続く。両側から山がせまり国道と旧東海道は1本になる。
ここから宇津ノ谷へ入るにはこちらをクリック。
−コメント−
手越から丸子の行程は市街地から離れていて雰囲気は昔の東海道を感じることができる。
交通量が多い国道沿いは空気が悪いのが難点だけど。
歴史がある史跡が数多く出会えた。