− 一里山〜島田 −

青島の一里山から島田宿へ入る。
 越すに越されぬ大井川までの約7kmの行程。
 寄り道をしながら蓬莱橋まで行くと10kmを越える行程になる。


images/9318itiri.JPG [青島一里山]
 一里塚から間もなく信号があり、旧東海道は国道1号線に合流する。
 「一里山」交差点という。



 藤枝宿方面へ戻るにはこちらをクリック。




images/9610itiri.JPG [一里山]
 国道にも松がみられて旧東海道の雰囲気が残る。
 島田に向かって右側に見える山を一里山と街道で出会った地元の人が言っていた。

images/9612.JPG [島田市]
 一里山交差点を過ぎるとすぐに島田市へと入る。

images/9614.JPG [道悦島]
 大井川町へと向かう県道227号線と出会う。



images/9616.JPG [道悦]
 島田市道悦と書かれた歩道橋に出会う。
 六合の駅へはここを左へ入る。かつてこのあたりは六合村と呼ばれていた。
 右に分岐する道が旧東海道となる。



images/9618.JPG [旧道]
 国道の喧騒から離れて一呼吸入れることができる。



images/9620.JPG [旧道]
 旧道はまたすぐに国道へと合流する。



images/9622.JPG [蔵]
 国道と合流するところの交差点の向こう側にある家には立派な蔵が今では残っている。
 


images/9624.JPG [御仮屋]
 このあたりは国道は御仮屋という地名。
 この先の交差点で国道と旧東海道は分岐する。


images/9624kenmotu.JPG [監物川]
 歩道橋の下に水路があるが、謂れのある水路らしく、看板が立っているので読んでみます。

<監物川と監物橋>
 寛永12(1635)年、島田宿は田中藩の預所となり、田中城主であった水野堅物忠善の支配下に入りました。
 志太郡一帯を支配することになった堅物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れました。
 感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を「堅物川」と呼び、東海道に架けた幅3間、長さ2間の短い土橋を「堅物橋」と呼んだものと思われます。
        島田宿史跡保存会



images/9626.JPG [御仮屋]
 国道が右へと大きく曲るところが御仮屋交差点だ。
 真っ直ぐ細い道へ向かうのが旧東海道。


images/9628.JPG [御仮屋]
 旧道へ入り、島田の商店街である本通方面へ向かう。
 このあたりは平凡な景色が続く。

images/9632.JPG [本通7丁目]
 このあたりは本通の東の始まりで本通7丁目だ。
 島田宿の西の始まりは本通1丁目からとなるが1km余りの間を7町に分けてある。


images/9636hon7.JPG [本通7丁目]
 本通は、本通7丁目交差点で県道34号線を合流してから大きく右に曲がる。
 写真は合流した次の交差点に所から撮ったものです。ここを左に曲り700m南に進むと蓬莱橋に出る。
 今はそちらへ行かずに旧東海道を進む。

images/9640itiri.JPG [一里塚]
 通りが大きく曲るあたりから6丁目になる。右側に一里塚の石柱があって説明板が立っている。

<島田宿一里塚>
 慶長9年(1604年)徳川家康は、東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。
 塚は5間四方(直径約9米)、上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。
 島田宿一里塚は、天和年間(1681〜1684年)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。
 幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅5間2尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています。
      島田宿史跡保存会



images/9644.JPG [島田宿]
 一里塚の石柱の向かいに「江戸時代の島田宿」の説明板が立っている。

一、島田宿の成立
 慶長6年(1601)徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。
 慶長9年(1604)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島田」で仮に庭立てを行った。
 元和元年(1615)元の島田宿に戻り復興した。
一、位置
 江戸へ 52里(約204km)
 藤枝宿へ 2里8町(約8.7km)
 金谷宿へ 1里(約3.9km)
一、宿内往還(道悦島村境より大井川堤まで)の長さ
 34町53間(約3.8km)
 道幅4間(7m24cm 向かいの車道に鋲で表示してあります)
一、宿内家並東西長さ
  9町40間(約1.1km)
一、宿内人口(天保14年・1843年)
  6727人 内 男3400人(当時の静岡県内では、府中に次いで人口が多かった)
          女3327人
一、宿内総家数(天保14年・1843年)
  1461軒
一、宿内施設
  本陣 3軒  上本陣 村松九郎次家  (三丁目)
         中本陣 大久保新右衛門家(三丁目)
         下本陣 置塩藤四郎家  (四丁目)
  脇本陣 なし
  旅籠屋 48軒(大6軒・中7軒・小35軒)
一、問屋場 1ケ所(五丁目)
  宿建て人馬 人足136人・馬100疋
一、高札場 1ケ所(西入口北側・多い神社南鳥居横)
一、郷倉  1ケ所(五丁目南裏)
       「東海道宿村大概帳」より
島田宿・金谷宿史跡保存会



images/9650hon6.JPG [本通6丁目]
 本通6丁目から2丁目までは直線が続く。
 この区間が商店街の核心部になる。

images/9652kanro.JPG [甘露の井戸水]
 このあたりは伏流水は豊富なのか、大井川の河川敷だった時代もあったのだろう。
 自噴しているのか、なにか仕掛けがあるのだろうか?


images/9660tonya.JPG [刀鍛冶]
 刀の先端を形取った石碑が立っていてその脇に説明書きが立っている。

 島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約400年間の歴史をもち、繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒と連ね、鍛冶集団を形成していたという。
 その系譜は、義助・助宗・広助を主流とし、作風は、相州風・備前風などのみえる業物打ちであった。江戸時代になると、貞助系・忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。
 彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。とくに.義助の「お手杵の槍」や、武田信玄所蔵どいう助宗の「おそらく造りの短刀」など、刀剣史上に今なお名をとどめる秀逸な作品も少なくない。
 紀行文や文芸作品・芸能にも島田鍛冶は取り上げられ、往時の繁栄ぶりと名声のほどがうかがわれる。また、室町末期に活躍とした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。
 島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている。
  昭和61年3月吉日  島田市



images/9656tonya.JPG [問屋場跡]
 刀匠の碑と並ぶように問屋場跡の碑が立っている。説明板があるので読んでみます。

 問屋場とは、宿場の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、公務旅行者に人足や伝馬を提供し、継ぎ立てを行う施設でした。
 島田宿問屋場の敷地は、間口8間(幅14.5m)、事務所は間口5間半(10m)で奥行5間(9.1m)の建物でした。そして、ここには長である問屋、その補佐役の年寄、事務担当の帳付(ちょうづけ)、人足や馬方の指揮をする人指(ひとさし)・馬指(うまさし)と呼ばれた宿役人が月交替で詰めていました。
 また常備人足は136人、伝馬は100匹で、このうち人足30人、馬20匹は特別の場合に備え、さらに不足のときは周辺の助郷村から補いました。
 飛脚(御継飛脚)は10人が常駐し、昼夜交替で御状箱(ごじょうばこ)を継ぎ送っていました。    島田宿史跡保存会



images/9664dohyo.JPG [道標]
 旧東海道沿いにある「夢舞台東海道」の道標。
 「藤枝宿境まで1里34町、金谷宿境まで24町」とある。

images/9666annai.JPG [島田宿案内]
 島田宿案内図が絵付きで看板になっていた。説明を読んでみます。

1 東の升形跡(宿東入口)(七丁目)
 島田宿家並みの東端には、土塁で三方を囲み、上には竹矢来を設けた「升形」の見付(見張り所)が設けられていました。
 ここから東は松並木でした。
 広さは5間四方(約18u)ほどでした。最初はここに宿場の番人を置いたともいわれていますがよくわかりません。宿場の境界として、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所でした。

2 一里塚跡(七丁目)
 慶長9(1604)年、江戸日本橋を基点として主な街道に1里(約3.9km)ごとに距離を示す塚がつくられました。
 大きさは直径5間(約9m)で上に榎が植えられていました。島田宿の一里塚は江戸から50里、京都から70里と記録されています。
 旅人の行程の目安であり、夏の日差しをさける休み場所でもありました。なお一里塚は街道の両側に設けられるのが一般的でしたが、島田宿の場合は北側の塚しかありませんでした。

3 庚申堂と牛頭天王社(祇園町)
 江戸の始めころ、旅の修験者(山伏)(1666年没)が、代官長谷川藤兵衛の知遇を得て七丁目天王小路西角に屋敷を構え、背負ってきた青面金剛を祀る庚申堂を建てました。彼はその後、疫病退散を願って、宿北裏の森(お囲い場の東端)に、京都祇園(現八坂神社)の御本体牛頭天王を勧請して天王社を創建しました。
 そのことから彼は「勧進院」と呼ばれたようです。同じころ庚申堂も天王社の隣に遷座したと思われます。
 これ以後七丁目北裏の集落を「天王村」(現祇園町)と呼びました。明治42年に神社名は「須田神社」と改称されました。

4 島田五鍛冶(5・6丁目)
 島田宿には、戦国時代から江戸初期にかけて、多くの刀鍛冶が住んでいました。戦国時代の助宗作「おそらく」造りの短刀や儀助作「お手杵の槍」は名作として天下に知られていました。
 元禄元(1688)年の町並み記録によると、六丁目に広助・儀助、五丁目に助宗・忠広・貞助の屋敷があり、この5人は島田五鍛冶と呼ばれていたようです。

5 問屋場跡(五丁目)
 江戸時代、公用で送られる文書と荷物、および公務での旅人は、宿場ごとに人馬を継ぎ立てることになっていましたので、各宿場には人馬を継ぎ立てる問屋場が設けられていました。
 島田宿の問屋場は宿の中央にあたる五丁目南側にあり、東西8間・奥行き約40間の敷地に、街道に面して間口5間半・奥行5間の建物が建っていました。

6 御陣屋(代官所)跡(四丁目北裏)
 徳川幕府は、交通や軍事上重要な地域を、直接支配し、これを幕領または天領と言っています。
 そこに御陣屋(代官所)を置き、年貢の徴収や、訴訟の取り扱いなどを行いました。島田御陣屋の最初の代官となった地元出身の長谷川藤兵衛長勝は自分の屋敷を代官所とし、その後3代つづきました。
 孫の長谷川藤兵衛勝峯のとき遠州川井代官所に移動となったため、屋敷と建物は幕府所有となり、その後、代官が次々と赴任してきました。なお現存する「御陣屋稲荷神社」は当時は御陣屋の屋敷神として祀られていたものです。

7 本陣跡(三丁目・四丁目)
 本陣とは、大名や身分の高い公家、僧侶などが宿泊したり、休憩したところです。宿場の中でも大きな屋敷を持ち、経済的にも裕福な民家が幕府から指定され、主人は「苗字帯刀」を許されていました。
 島田宿の本陣は、上(西)から上本陣の村松九郎次家、中本陣の大久保新右衛門家、下本陣の置塩藤四郎家の3軒がありましたが、脇本陣は置かれませんでした。

8 塚本如舟屋敷跡(三丁目)
 元禄4(1691)年と元禄7(1694)年の2回、俳諧師松尾芭蕉が旅の途中に客として泊まったことが知られる島田宿組頭の一人、塚本孫兵衛(俳号如舟)の屋敷跡です。芭蕉没後にも、その縁を求めて、芭蕉の友人や弟子たちが数多く立ち寄っています。

9 桑原家跡(一丁目)
 文化・文政期から幕末期にかけて、島田宿随一の素封家(財産家)でした。一丁目で酒造業(稲葉屋)などを営み、間口13間の屋敷を構えて、持高は島田宿村高の6分の1にも及びました。
 一方、代々文芸や書画に秀で、風雅を楽しんだ文化人の家系として駿河・遠江に広く知られていました。
 とくに4代目の伊右衛門宣之(金渓・黙齋)は、画人でもあり、また隠居後、駿河国内を巡歴して地誌「駿河記」を著したことで知られています。

10 大井神社(一丁目)
 元禄のはじめ頃(1689年頃)、下島(御仮屋)から現在の場所に遷座されて以来、島田宿の総鎮守として祀られています。そのときから3年に一度(寅・巳・申・亥年)の大祭が行われてきました。
 この祭は大名行列・御神輿渡御行列・鹿島踊り・屋台踊りなど華やかで彩り豊かな祭として知られていますが、とくに大太刀に丸帯を下げて舞う絢爛豪華な大奴の行列と鹿島踊りは、ともに静岡県指定見慶文化財に指定されています。

11 高札場跡(一丁目)
 幕府は、禁令や法度(法律)を人々に知らせるため板礼に書いて宿場の入口など人通りの多いところに掲示しました。
 その板札を「高札」、立てられた場所を「高札場」といいました。島田宿には宿場の西入口にあたる大井神社南鳥居脇に立てられていました。内容はキリシタン禁制や火事場禁制、毒薬贋金等禁制、伝馬法度、陣場賃銭定などで、いわば公報の掲示板でした。

12 西の升形跡(宿西入口)(一丁目)
 島田宿西の入口に当たる大井神社南鳥居向かい側に、宮川と正覚寺小路の間を土塁で囲った、升形の見付が設けられていました。ここで本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをしました。ここから西は、向島集落まで松並木でした。



images/9670tenno.JPG images/9672tenno.JPG [天皇行幸]
 本通5丁目の交差点を北に曲がると「明治天皇島田行幸座所」との石碑が立つ黒塀の屋敷がある。



images/9673honjin.JPG images/9674honjin.JPG [本陣]
 ホテルの前に本陣跡の小さな石柱が立っている。
 島田宿には3つの本陣があったそうだ。



images/9678karakuri.JPG [からくり時計]
 時計台があり、説明があった。

 このからくり時計塔は、和風街並みエリアのシンボルとして建てられたものです。定時になるとまちが元禄の昔にかえる島田大祭(帯祭り)の風情を、大奴と鹿島踊りの人形が伝えてくれます。この祭りは、江戸時代から受け継がれ、3年に一度艶やかに繰り広げられます。大奴をはじめとする大名行列と鹿島踊りは、県の無形民俗文化財に指定されています。
(大奴)
 大奴は神様が乗ったご神輿を護衛する人で、大名行列の花型です。総勢25人からなり、昔ながらの奴の姿に金襦の廻しを付け、左右に突き出した1間近い木太刀には、見事な丸帯を1本ずつ掛けています。左手には唐傘を持ち右手で全体の調子をとり、大きくゆったりと空を描いて一糸乱れず鷹揚に練って歩きます。
(鹿島踊り)
 鹿島踊りでは、雅楽の音色にのって優雅にして荘厳な舞踊が展開されます。永宝年間、島田に疫病(伝染病)が流行した時、大井神社の境内に春日神社の神霊をお祭りし、疫病退散を祈願したのが始まりです。
 平成11年11月吉日
   施行者 島田市
      指導協力 島田帯まつり保存会
        島田鹿島踊り保存会



images/9675koji.JPG [御陣屋小路]
 きれいに整備されている割に人気のない歩道。時計の前に本陣の説明書きがあった。

島田本陣跡
 この地は江戸時代の参勤交代の折、諸国の大名が宿泊した島田宿の本陣があったところです。
 この奥に島田代官の御陣屋があり現在御陣屋稲荷が祀られています。



images/9680gojinya.JPG [御陣屋稲荷]
 御陣屋小路の突当りに稲荷神社がある。説明書きがあった。

<御陣屋稲荷神社 由緒>
 島田代官所が野田から柳町に移った翌年の、元和3年(1617)に代官の長谷川藤兵衛長親が地域住民の安泰と五穀豊穣を祈るため代官所の屋敷内に稲荷祠を建立した。寛政6年代官所が駿府に統合された後も陣屋が置かれていたので御陣屋稲荷神社と呼ばれている。
 祭神は宇賀魂神(別名倉稲魂神)を奉祀する。当時は住民の多くが農民だったので五穀豊穣を願って信仰が広まったが、現在は商売繁盛の神として信仰されている。
 祭日は当初伏見稲荷神社と同じ2月初午の日であったと思われるが、その後3月初午になり現在では、3月初午の前の日曜日に祭典が行われる。
 風刺人形の起源は明らかでないが、代官所の頃には罪人を庶民の前に晒して見せしめにしたようであるが、出張陣屋になってからは、庶民に勧善懲悪や忠孝貞節の本義を知らしめるため、罪状を記した人形を、自由に参拝できる稲荷祭の添物とし参詣人に見物させたものと思われる。
 この風習が、陣屋が廃止されてからどのような経緯で民間に引継がれてきたのか定かでないが、前年の出来事を人形で風刺した稲荷祭日の風刺人形は、発言の場がない庶民にとっては日頃の鬱憤を晴らす機会として大いに人気があった。



images/9683honjin.JPG [本陣跡]
 呉服屋の脇に本陣跡の石柱があった。二つあったと言われるもう一つの本陣跡なのだろう。


images/9684hon3.JPG [本通3丁目]
 本通3丁目へ入った所の店先にも島田宿の石柱が玄関脇に置いてある。宿場町の誇りがあるのだろう。



images/9686basyo.JPG [静銀芭蕉碑]
 街道の南側に静岡銀行があり、その前の歩道沿いに芭蕉の碑があった。

  やはらかにたけよことしの手作麦  如舟
  田植えとゝもにたびの朝起     はせを



images/9690basyo.JPG [島信芭蕉碑]
 2丁目の交差点にある島田信用金庫の前にも芭蕉の碑がある。
 変体仮名なので所々しか読めないが有名な句なので次のように書いてあるらしい。

「するがの国に入りて するがぢゃはなたち 花もちゃのにほひ」

 この句は・・・・(やっぱり読めませんでした)



images/9692hon2.JPG [本通2丁目]
 2丁目交差点から旧東海道を見る。
 この先で道が曲っている。


images/9695oijinja02.JPG [大井神社]
 旧東海道からの参道。両側に石積みになっている。土手石垣と言うらしく説明看板があった。

<土手石垣>
 江戸時代、大井川の川越稼業の人達が毎日業を終えて帰る際、河原から石一つ選び持ち帰り、それを蓄積してこの土手の石垣を築いたものである。



images/9695oijinja07.JPG [大井神社]
 大井神社の由緒看板を読む。

<御由緒>
 創建 建治2年
 当地御遷座 元禄初年
 大井川鎮護の神として奉齋される
 勅宣正一位宣下  嘉永7年7月
 島田の総氏神
 祭典 日本三奇祭 帯祭
 3年毎秋10月執行
 駿州 島田
    大井神社

<大井社 元禄2年社号標>
 元禄2年(約320年前)この年に大井神社は元社地 現御仮屋お旅所より当地に遷座、島田宿の中心に氏神として鎮座し広く信仰を集め崇敬された



images/9695oijinja08.JPG [大井神社]
 神社の脇、境内の真ん中に大奴の像が立っていてその脇に説明看板があるので読みます。
 

<大奴像 鹿島踊像 建立記念>
 大井神社大祭も元禄時代より300有余年私達の祖先の厚い信仰と尊い努力によって伝統が護持され今日に至りました。
 今は日本三奇祭「島田の帯祭」と讃えられ安産祈願と共に全国にその名を知られております。
 ここにこの尊い大祭行列の代表的な姿である大名行列の大奴と鹿島踊の三番叟2体の勇壮華麗な姿をブロンズ像として建立し、その美しさを後世に伝えるものであります。



images/9698daizenji1.JPG [大善寺]
 街道へ戻り400mほど進んだ交差点の角に大善寺がある。説明看板があったので読む。

■大善寺
  当山の鐘は天明4(1784)年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘明)。
 それ以後、昼夜6時(2時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)とくれ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。
 しかし、この鐘は、昭和19年(1944)年、太平洋戦の際に供出され、現在の鐘は昭和48(1973)年に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています。



images/9698daizenji2.JPG [大善寺]
 寺の庭は良く手入れが行き届いていた。

images/9700mukojima.JPG [向島]
 大善寺から500mほど進むと東海パルプが左に見えた分岐点で、旧東海道は県道から左に別れる。

images/9702bunkan1.JPG images/9702bunkan3.JPG [島田市博物館分館]
 県道から分かれてしばらく進むと映画のセットのような街並みが始まり、島田市博物館分館の看板が目に入る。



images/9704akiba.JPG [秋葉神社]
 旧東海道と縁の深い秋葉神社があった。ちょっと可愛すぎる。

images/9708tatiai.JPG [立合宿]
 同じような造りの建物が続く。ここは立合宿。説明看板を読んでみます。

 「立合人」が詰めたり、川越人足の頭が必要に応じて相談場所として利用したところです。
 「立合人」は、川越しを待っている旅人たちを番宿まで案内することがその役目でふつう番宿から越場にいる川越人足のところまでは「陸取(おかど)り」が案内しましたが、ときには「立会人」が越場まで連れていきました。
 「立合人」は、川会所にも詰めていたといわれています。



images/9708tyugen.JPG [仲間の宿]
 高齢者の人足の溜り場らしい。



images/9706banyado.JPG [番宿]
 働き盛りの人足はこちらで溜まっていたらしい。

 川越し人足がふだん詰めていた溜り場ですが川越制度制定当初から番宿が存在したかどうかは不明です。
 川越し人足は10組に分けられ、各組が一つの番宿に詰めました。
 川越しは各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足もそれぞれの番宿で待機していました。



images/9708fudaba.JPG [札場]
 札場の看板がかかっている店もある。

 川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。
 一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました。



images/9710sekikawa.JPG [関川庵]
 通りの脇に「関川庵」と書かれた木柱が立っている。
 木柱の裏に説明が書かれていた。

八百屋お七の恋人吉三郎の墓
火と燃ゆる恋に心も身も焼きて あわれお七が灼熱の恋



images/9710sekikawa1.JPG [関川庵]
 木柱が立っている路地の奥に「関川庵」という寺がある。
 吉三郎の墓がどこかはわからなかった。


images/9712kawagosi.JPG [島田宿大井川川越遺跡]
 街道に戻り通りを振り返って見る。
 昔の空気を感じる。


images/9720kawakaisyo.JPG [川会所]
 町並みの最後の所に川会所がある。
 中に入ると説明書きがある。

 元禄9年(1696)に川越制度が改定されてから、川役人が川越業務をおこなってきたところです。
 現存する建物は、安政3年(1851)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和45年(1970)に建立当初の位置に近い現在地に復元保存されました。
 なお、金谷宿側にも同様の施設があったと考えられますが、現存はしていません。



images/9720kawakaisyo1.JPG [川会所]
 「川越しの時刻」の説明書きを読む。

 明け六ツ(午前6時頃)から暮れ六ツ(午後6時頃)までで、季節により多少のずれがありました。
 しかし公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立が許されましたが、よほどのことでない限り、暮れ六ツ以後の川越しは許されませんでした。
 開始の時刻は、川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始されました。
 旅人や川越人足たちは、向島の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知りました。
 鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加刎の内より支払われていた。



images/9720kawakaisyo3.JPG [川会所]
 「川札」と「台札」の説明書きを読む。

 川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたといいます。公文書にも「油札」と記したものが多くあります。
 川札1枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。
 この川札は、美濃紙を12行に裁ってつくられています。その上方に、川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書きされていました。全体に油(柿渋)を塗り、その3分の2ほどはこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差し支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛に結ぶのに都合がよかったからでしょう。
 このような「川札」がいつごろから使われ始めたか不明ですが、元禄4年(1691)年、ドイツ人で長崎オランダ商館付きケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記「江戸参府旅行日記」の中に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確立される元禄9年以前から利用されていたと思われます。

 「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければなりませんでした。価格は、川札の2倍に相当した。
 これは、中頭紙を横にして、幅7分ほどに裁ち、川札同様に、川会所または年行事の黒印を押し、端に「台札」と墨書したものです。
 その起源は川札同様に、元禄9(1696)年、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。



images/9720kawakaisyo9.JPG [川会所]
 「川庄屋と年行事」「雲助でなかった川越人足」の説明書きを読む。

<川庄屋と年行事>
 元禄9(1696)年、代官野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになりました。その中心的な役割を担ったのが、川庄屋と年行事です。
 川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務していました。
 その主たる任務は川越賃銭の統制でしたが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなどきわめて多岐にわたっていたことから、当初の2人枠が次第に増員され、享和年間(1801〜1804)には、4人が任命されています。
 年行事は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられましたが、その数は9人〜11人、あるいはそれ以上と一定していません。
 川会所に交替で勤め、川越賃銭の取立て、帳簿の記載、川越人足の区分・配置を行いました。
 また、川越賃銭を決めるための下検分を行い、川の留め明けについても決定的な意見を川庄屋に報告していたとされています。
 「大井川の川越し」(島田市史資料編等編さん委員会編)より

<雲助でなかった川越人足>
 川越人足は、外見上の粗野な風貌と、仕事内容により、ややもすると街道に出没する、いわゆる「雲助」と同一視されることもありましたが、事実は、長年にわたる厳しい修行を経て、高度な渡渉技術を身につけた熟練者の集団でした。
 大井川は現在と違い、当時は水量が豊富こともあって、とても素人に勤まる仕事ではありませんでした。
 川越人足になるには、12、3歳の頃から見習いとして、雑用を行い、15歳頃から「水入」となってさらに訓練をつみ、毎年末に川会所に申し出て、適当と認められると、正月になって川庄屋が本人を川会所に呼び出して川越人足になることを認められました。

<川留めと川明け>
 大井川を川越しする料金は、その日の水深と川幅の広さによって決定されるので、当然毎日、変化しますが、ひとたび大雨にあって水深4尺5寸(約1.4m)以上に増水すれば大井川の川越しは禁止されています。これが「川留め」です。川留めは4〜6月頃に集中し、2、3日から1週間程ですが、慶應4(1866)年に連続し28日間にも及んだことがあり、これが最長記録となっています。
 そして「川明け」になると、旅人たちは大井川の河原に殺到し、またこの4〜6月という時期は、参勤交代のとも重なり、混乱に相手にをかけました。このような日を「大通行」といい、この時期には、川越賃銭は、川会所で川札を求めない(取勝・とりかち)で、川越人足と旅人との一対一のやりとりで(相対越し)越立てをしました。これは、大通行の時期だけみとめていました。



images/9724odutumi.JPG [島田大堤]
 川会所の脇に土手があって説明看板が立っている。

 天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604〜1605年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を堀抜き、宿内に3本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。
 恐らくこの頃(天保元年・1644年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の20倍にも増えています。大堤の規模は高さ2間(約3.6m)で向谷水門から道悦島村境までの長さ3150間(5733m)と記録されています。
 今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。



images/9726inari.JPG [八重枠稲荷]
 街道脇に小さな神社がある。

 昔、ここには大井川の「出し堤防」があり増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています
 宝暦10年(1760年)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも、建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。
 社殿は文化9年(1812年)と明治34年(1901年)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものです。
 川石は硬くて加工に手間がかかりいまでは市内に数カ所残るのみの技法です。



images/9728segi.JPG [せぎ跡]
 「せぎ跡」と書かれた札が立っている。
 説明書きは見つからなかった。



images/9730asagao1.JPG [朝顔の松]
 「せぎ跡」を抜けると広々した公園のようなスペースにでる。この先がもう大井川の土手だ。
 碑が立っていてその先に松とお堂のような建物が建てられている。

<朝顔の松の由来>
 昔、ここに一本の大きな松がありました。
 江戸時代、大井川には橋が掛けられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。
 ここには次のような物語があります。安芸の国(広島県)の娘、深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。
 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。
 しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。
 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎの旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。
 あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
 その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。
          <次のフレームに「朝顔の松の由来」はつづく>



images/9730asagao3.JPG [朝顔の松]
 松とお堂

      <「朝顔の松の由来」のつづき>
 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1m56cm・高さ20m)でしたが惜しくも昭和10年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。
 書かれている題辞は「風松久髣舜歌曲枯髄猶留瞽女魂」で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。
 この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている。松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。
 この物語「朝顔日記は」、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています。



images/9730hakubutukan.JPG [島田市博物館]
 土手に出る手前に立派な博物館が建っていた。
 この日はすでに閉館時間だったので、又の機会に覗いてみたいと思う。


images/9730tokaido.JPG [東海道]
 土手から今来た道を振り返る。



images/9732kanban.JPG images/9734kanban.JPG [川越え]
 旧東海道には橋はなかったので、この土手で街道は途切れる。
 土手脇の看板に当時のイメージ絵が描かれている。
 これで街道は終点となるが、このあと2キロ半ほど下流にある蓬莱橋へ行って本日の終了としたい。

images/9750horai02.JPG [蓬莱橋]
 島田宿大井川川越遺跡から2.5kmほど下流に木造の珍しい橋が掛かっていて、橋の手前に説明書きがある。

<大井川の変遷>
○大井川の昔の流れ
 大井川下流部の流路は、堤防などの治水施設が不完全であった近世以前は何本もの支流が存在し、洪水のたびごとに変化していたが本流はある程度一定していたものと考えられています。又、主な流路は古い時代から現在に向けて東から西へ移動し、そしてこの流れによって運ばれて来た多量の土砂が現在の扇状地を形成したといえます。
○舟型屋敷
 大井川沿いの集落は、自然堤防などの微高地上に発展していて、田畑、家屋敷を水害から守るため、家のまわりを三角形に囲む小規模な水はね用の土手「舟型屋敷」が造られました。そして、三角形の鋭角部が濁流の押し寄せる方向に向いており、濁流をさかのぼろうとしている舟のような姿になります。これを大規模にしたのが舟型集落(御囲い堤)といわれています。
○牛尾の瀬替(志戸呂堤)
 大井川治水歴史の上で最初の大規模な事業は、天正18年(1590)に行われた牛尾の瀬替であり「駿河記」には「牛尾山は、現在の大井川東岸の山と連なっており、川は牛尾山の西側を流れていたが、この牛尾山の東部分を開削し、これに転流させ、旧流路に堤防(志戸呂堤)を築いた」と記録に残されています。そして、金谷の旧河床上に新田が開発されました。
○向谷堤と御囲い堤
 慶長9年(1604)の大水害後、各地で築堤が試みられ、毎年の洪水に対する治水対策として、向谷水神山の山鼻から延長180間(327.6m)を始めとして島田宿の「御囲い堤」などが築堤された。
<既往の水害>
 大井川の水害で記録に残る最も古いものは、宝亀7年(776)に起った大洪水です(続日本記)。また、慶長9年(1604)に大井川が乱流して、上・下青島、瀬戸新屋、南久兵衛、市左衛門、諸新田、前島等の辺を押し流しました(青島町誌)、これも大きな水害として、記録に残されています。
<現在の改修事業>
 大井川は、明治15年(1882)国の直轄河川として改修工事が開始され、明治31年から5年間は内務省と静岡県が連帯で応急改修工事として金谷町から河口に至る築堤を実施し、引続き県単独で未改修部分が施工されました。
 しかし昭和29年の台風14号による破堤寸前に至る出水で災害を受け、これを契機として、同33年から島田市神座から河口に至る区間が直轄に編入され改修工事を実施することになり堤防の新築、改築などの改修事業、またこれらの改造された施設の維持管理、さらには河川利用をはかる高水敷の造成などの環境整備事業が進められています。
<流域概要>
 大井川は、赤石山脈(南アルプス)の間岳(標高3,189m)をはじめ農鳥岳、赤石岳などの3,000m級の山々を源流にもつ流路延長168km、流域面積1,280kmの日本でも有数の急流河川です。これらの山脈にもたされた降雨はいくつものダムや発電所を経て駿河湾に注いでいます。
 国土交通省静岡河川事務所



images/9750horai06.JPG images/9750horai08.JPG [蓬莱橋]
 回りには近代的な施設が見当たらないので歴史映画などの撮影現場によく使われている。
 観光客は絶えない。
 日没間際に関わらず人のいない写真はなかなか撮れなかった。


images/9750horai15.JPG images/9750horai16.JPG [蓬莱橋]
 「越すに越されぬ大井川」水量が減ったとはいえ今でも滔々と流れている。
 1km近い川幅の中で、大水が出る度に自由に川筋を変えている。
 上流側は自然の景色が広がる。
 下流側は遠くに橋が見える。

images/9750horai32.JPG [蓬莱橋]
 橋を渡って島田市街方面を見る。

<蓬莱橋の歴史>の看板を読む。
 1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。
 当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。
 また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のために出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らねばならず、大変危険なことだった。
 そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので、1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。
 現在の蓬莱橋は、全長897m(平成9年12月 ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。



images/9750horai19.JPG [蓬莱橋]
 対岸の土手に下りてみると橋桁の間から遠く富士を望むことができる。



images/9750horai34.JPG [谷口原周遊コース]
 対岸の「谷口原周遊コース」の看板が立っている。

谷口原周遊コース図
@中條金之助景昭之像
 牧之原大茶園開発の緒を陣頭指揮した元幕臣の記念碑です。隣に伊佐新次郎の「龍」の書碑があります。ここからの大井川左岸の眺望は素晴らしい。
A伊佐新次郎の書碑
 学者である伊佐氏は、中條氏を支えた人物。幕末の三舟といわれた高橋泥舟・勝海舟・山岡鉄舟の書の師といわれている。また、下田奉行所組頭の時には、アメリカ初代領事ハリスに「唐人お吉」を奉公させた人物である。
B初倉阪本茶農協
 平成8年操業開始。製造能力製品33.2万kg、茶園面積80haを処理します。作業員4名の完全自動化工場、東洋一の規模といわれています。
 一般見学は工場操業中可能です。
C敬満神社
 延喜式で名神大の位を受けました。
 祭神、天照大神(アマテラスオオミカミ)・速須佐之男尊(スサノオノミコト)外数神が合祀されています。創建は社伝によると垂仁の朝26年(紀元前4年)といわれています。
D法林寺
 曹洞宗、牧之原の開拓士に書道・仏典を教えた伊佐新次郎が葬られています。かつて下田奉行所に出仕中、唐人お吉をハリスの元へ奉公させたことで知られています。
E大楠神社
 鉄明の御代(535年〜)の創建(社伝)。延喜式で神社格式名神の位を授かりました。
 祭神大巳貴命オオナムチノミコト)、仁徳天皇の御代、大井川に流れ着いた大楠で船を造り、その船霊を祀ったといわれています。
F愛宕塚古墳
 この付近には20以上の古墳群がありますが、その中で最大の古墳です。
 長さ21.5m、高さ2.75mの前方後円墳です。
 6世紀後期の家族を葬ったものと思われます。



images/9750horai51.JPG [七福神の由来]
 七福神の看板を読む。

七福神の由来
七福神とはそれぞれのご利益を授けてくれる7体の神(仏)のことで、7体参拝することで7難即滅、7福即生となり福徳を授ける神様です。
室町時代に中国より渡来し四国より淡路島を経て、日本古来の信仰とからみ合い順次全国に広がったものです。
地域により別の神様と入れ替わった所もありますが、全般には恵比寿、大黒、毘沙門弁財、福禄寿、寿老神、布袋の7神です。
江戸時代に入り、徳川幕府が民生安定の方策として、天下泰平、万民富楽、を願い一般庶民の信仰として広めました。
          蓬莱七福神奉賛会



images/9750horai52.JPG [恵比寿尊天]
 恵比寿さんが祀ってあった。。

 海上、漁業、商業、の守護神。
 商売繁盛の神様として広く信仰されている。
 地方によって呼称は異なり「恵比須」「戎」ともいう。
 風折烏帽子をかぶり鯛を抱えた姿で描かれている。
          蓬莱七福神奉賛会



images/9750horai53.JPG [蓬莱吉祥天女]
 吉祥天女の祠があって、説明看板を読む。

 「蓬莱」とは、神仙思想より不死の仙人が住むと云う幻の蓬莱山の略。
○蓬莱山、竜宮城など、生命力が常住不変に存在するところ。即ち、不老不死の地を「常世国」と云う。
 「吉祥」とは、めでたい証しで「寿、祝、賀、慶」の悦楽。
 「天女」とは、女性として現世に生を受け、幸せな一生を過ごし、御霊が「天国に昇る妙代姿」
○七福神の福禄寿と寿老人は、同体異名であるので、吉祥天が福禄寿に替って入っている場合も有り又、吉祥天が加わり、8体になっている所もある。

 奈良薬師寺の国宝(秘仏)吉祥天女にあたり、立像として此地に御姿を現わし薬師寺、松久保秀胤管長の入魂に依り開眼されました
 国宝吉祥天女像は奈良薬師寺にて毎年1月、10月の2回開帳されます
   法林寺 住職 谷口真英



images/9750horai33.JPG [蓬莱橋]
 吉祥天女の祠に「蓬莱」の意味が書かれた看板も立っている。

蓬莱の意味
「蓬莱」の意味
一.仙人が住むと言う幻の蓬莱山のこと。
二.我が国では、徐福が眺めた富士山のこと。
三.中国では、台湾を蓬莱島という。
四.唐の高宗が長安に建てた宮殿大明宮の別名。
五.蓬莱山の絵画のこと。
六.蓬莱山を模してこれに松竹梅・鶴・亀・高砂を州浜台にセットした婚礼、饗応用の飾り台(島台)のこと。

・蓬莱思想とは、愛和長寿。
・詳しい明細書は、橋番小屋及び写真展示場にあります。



images/9750horai35.JPG [蓬莱橋]
 また長い橋を戻って本日のゴールとします。

「太古の大井川」の看板を読む。
 日本列島隆起の過程の中で大井川の主流は約70万年もの長い間に4回の大きな流路移動があり、島田市鵜網から西に流れ(袋井市)、南に流れ(大東町、御前崎町)、更に南東に流れを変えて現在の流路となったら。
 「更新世後期」(13万年〜7万年前)頃の大井川は牧の原台地を流れ、川原であったが、基盤隆起に依り玉石まじりの砂礫層で形成された台地となった。
・「何で山より川原石が・・・」と疑問に思われるが日本列島誕生の経緯を知る事と同時に事実の証明で知る事が出来る。
・階段に積まれた石は此処より掘り出した太古の大井川・川原石である。
・海底隆起の基盤(シルト砂岩層)は蓬莱橋入口、州浜沢(地名・地獄沢)で見ることが出来る。
   参公文書「嶋田宿と大井川」より







−コメント−

青島の一里塚から「越すに越されぬ大井川」まで、蓬莱橋への寄り道を含めると10kmの行程。