− 三保街道 −
羽衣伝説の三保半島は御穂神社を中心として栄えた村落。
駒越から出発して駒越まで戻るr約10km余りの行程になる。
[駒越東町]
久能街道が国道150号線へ出るあたりは駒越地区だ。その地点から三保街道へと向かう。
左側が駒越東町、右側が駒越南町
久能道へ戻るにはこちらをクリック。
[駒越南町]
国道150号線を東進すると150号線バイパスと合流する。
この信号を直進する狭い道が旧三保街道らしい。
まずはここを左折して今の三保街道に向かう。
[駒越東町交差点]
駒越東町交差点で左に折れると清水港。右折すると三保。
[折戸]
三保へ向かう道は大きな工場が多く広々している。
[折戸]
真っ直ぐな道は奥へ進むにつれ徐々に狭くなる。
[折戸]
富士の良く見える時期にもう一度来てみました。街道の正面に富士が見える。
清水銀行が洒落ている。
[三保]
駒越東町交差点から約3kmで「羽衣の松」入口がある。
右へ入ると御穂神社があり、羽衣の松がある。
左へ入ると「塚間の渡し」がある。
[三保]
富士の良く見える時期にもう一度来てみました。街道の正面に富士が見える。
[三保・塚間]
「羽衣の松」入口の信号を、「羽衣の松」の反対の左へ入り「塚間の渡し」へ向ってみます。
[三保・塚間]
500mほど進み信号を過ぎると、かつての繁栄を偲ばせる店や店の跡が目に付く。
[三保・塚間]
民家が減り工場が目に付き始める。
[三保・塚間]
信号からから200mほどのところに右へ分岐する路地があるのでそちらへ向うと「塚間の渡し」。
[三保・塚間]
路地に入って200mほど進むと鳥居が現れる。
御穂神社の一の鳥居だ。
[三保・塚間]
鳥居の脇にベンチがあり、説明看板があったので読んでみます。
<塚間渡し>
古く鎌倉時代(寛元3年西暦1245年)から、御穂神社へ詣でる人々や名勝三保の松原への遊客が興津と塚間を結ぶ渡し船を利用していました。
御穂神社への参道は興津から海路をのぼり塚間から陸路に替え当時約13丁の道程でした。特に塚間からの陸参道は「どう者道」といって当時かなりの賑わいを呈しその名残りを現在もこの石鳥居や常夜灯に見ることができます。
塚間の渡しの途中にある貝島には、かつて徳川家康の「貝島御殿」があり宏大な富士見櫓が建てられ家康の保養の目的と徳川水軍の基地としての目的をになっていたと伝えられます。
鎌倉時代から永い間船司をつとめた三保の領主太田家は御穂神社の宮司と清見ケ関の関守を兼ね慶長年間には徳川家康からも107石(三保54石、折戸17石、駒越35石)のお墨付きが与えられていました。
高山樗牛の「清見潟日記」にも「1月、2月の頃には参宮の道者、興津の駅に下るもの絡駅として絶えず清見寺に詣で三保に渡り」としるされてあります。
[三保・塚間]
鳥居の前にも説明看板があるので読みます。
<御穂神社「一の鳥居」と常夜灯の由来>
この鳥居は江戸時代の末慶応元年(1865)に、御穂神社の「一の鳥居」として、三保村の有志を始め村外の多くの崇敬者達によって寄進建立された。
慶安3年(1650)の古地図には、この場所に鳥居の姿を見ることができる。また元禄16年(1703)駿府目付三島清左衛門の「駿府巡見帖」の一節に「磯ぎわの松原入口に、三保明神への道しるべの抗木が左右に立つ」とある。その姿は時と共に変遷があったが、この石鳥居が慶応年間の建立となれば、打ち続く飢餓と、天保・安政の大地震に加えて、幕末騒擾の中で往時の人々が、いかに日々の平安と世直しを求めて神仏の加護を願い、丈余のこの石鳥居と常夜灯を建立したのであろう。
尚、この鳥居は建立以来140余年の歳月を経ており、この間の風雨震災による摩耗風化が著しく、崩壊の恐れ有りとして平成7年(1995)脚部の一部を残して撤去されました。
平成16年(2004)元清水市長宮城島弘正氏を代表として、御穂神社「一の鳥居」復元委員会が組織され、三保地域全体に対し鳥居復元の呼びかけがなされました。これに対し、地域住民をはじめ地元企業個人篤志家そしてまた遠くアメリカ三保クラブの方々からも賛同の浄財が寄せられました。復元には従来の鳥居の資材を全て再使用し、耐震構造が施されております。
平成17年4月9日 御穂神社「一の鳥居」復元委員会
[三保・塚間]
街道へ戻る途中に分岐点がある。
右が先ほど通って来た御穂神社へ向う道。神社へは帰りに寄ろうと思う。
左へ向う三保の灯台方面へ向う道へ進む。
[三保・塚間]
この道は街道(新)を横切る形で灯台方面へ向うが、まずは新道を進むことにした。
[三保・新道]
新道を進むと正面に「三保造船」が見える。
かつては清水の経済を引っ張る企業の一つだったが、残念ながらここも造船業の不況の波にのまれている。
[三保・新道]
さらに進むと、徐々に静かな街道となってくる。
[三保・新道]
右に大きく曲る。
[三保・新道]
また、すぐに左に曲る。
[三保・新道]
三保マリーナ脇を抜ける。
[三保・新道]
三保は文化地区で東海大学海洋学部ほか、いろいろな文化施設の案内看板が立っている。
「東海大学社会教育センター」「海洋科学博物館」「自然史博物館」「三保黒潮スイミングクラブ」
「清水エスパルス本社・クラブハウス、練習場・三保グラウンド」
[三保・新道]
「水族館」(東海大学海洋科学博物館)と「恐竜の博物館」(東海大学自然史博物館)の入口。
[三保・真崎]
海洋科学博物館の脇を抜け、堤防に上ると正面に富士が出迎えてくれる。
海と富士は良く似合う。
[三保・旧道]
戻って旧三保街道と思われる道へと入る。
車がすれ違えない狭い道だ。
[三保・旧道]
道は住宅の間を通っていく。
道に鉄でできたアーケードの入口のような門が建っている。
昔は看板が掲げてあったのだろうか。
[三保・旧道]
新道から来る道と変則十字路で交差し、直進すると塚間の渡しへと向かう旧道。最初はこちらが旧三保街道と思って向かったが御穂神社方面へは向かわず塚間の渡しへと向う道だった。
この交差点を左に入ったところに源為朝の墓などの史跡があり、100mほど東へ行った交差点を南進する道が旧三保街道らしい。
まずは間違えてしまった道を進んでみます。
[三保・旧道]
塚間の渡しへ向かう旧街道を進む。
[三保・旧道]
住宅の間を進む狭い道。
かつては商店だったと思われる家も所々に残る。
[三保・旧道]
洋館風の家も残る。
[三保・旧道]
蔵のある家もある。
[三保・旧道]
元はスーパーマーケットだったのだろうか。
かつてはメイン街道だったのだろう。
[三保・旧道]
道は若干広くなって、住宅の間を進む。
[三保・旧道]
この左側の路地に入って進むと旧三保街道へと合流する。
[三保・旧道]
まずは直進する。
[三保・旧道]
藤五郎神社。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<藤五郎稲荷>
安政元年(1854)の大地震で三保真崎の土地は大きく陥没、津波が耕地の大部分を砂で埋めた。とくに代官領になっていた新田は全滅の状態となった。
ところが内海の一部に新しい土地が隆起して、農民に一筋の光明となった。この隆起土地を開墾したいと代官に申し入れた。代官は聞き入れずに小前百姓(小規模農家)の代表である藤五郎と兵五郎を投獄した。
しかし、農民の意気は高く、粘り強く訴え続けた。御穂神社の神官太田は驚き、また代官所も大勢の農民を向こうに回すのは不利だと考えはじめた。そこで2人を釈放して、新地の配分を村役人と小前百姓の代表とで合意のうえ取り決めることになった。
こうしているうちに藤五郎は再び捕えられた。その理由はハッキリしない。太田神官は、藤五郎の指導力が大きくなり、ことに土地争いでは小前百姓の人気が集まっている一方、自分の評判は非常に悪いことを知った。そこで「目の上のコブ」の藤五郎を消したいと考えたらしい。
明治の夜明け直前の慶應3年(1867)の春、藤五郎が出獄と決まったが、その前夜、牢の中で何ものかのために毒殺されてしまった。家族はもちろん、村民の嘆きは大きかった。そこで藤五郎の霊を慰めるために祠をつくった。明治2年(1869)のことである。
この祠を「藤五郎稲荷」と呼び、戦時中に現在の地に移ってから社殿を造営、神社として装いも整った。境内の碑に由来が記されている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
道は広くなって進む。
[三保・旧道]
この先で三保街道(新)と出会い信号を渡り進むと塚間の渡しへと向かう。
この道が旧三保街道ではなかったようなので元の間違った交差点へ戻る。
[三保・旧道]
交差点から30mほどの民家の脇に「為朝の墓」と書かれた看板があり、民家の庭に入ってみる。
[三保・旧道]
入るには気がひけたが、誰かいないかと探しながら入ってみる。
[三保・旧道]
家の裏はこのようなところだった。
家に人影が見えたので声をかけさせてもらった。
「散策パンフレット」に次のようの書かれている。
H源為朝の墓
平安末期の武将、源為朝の墓と伝えられるものが川口さん宅の裏にあります。許可を得てから、見ましょう。
(三保の松原散策マップより NPO法人「三保の松原・羽衣村」発刊)
[三保・旧道]
小さな墓があった。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
平安末期の武将で、豪勇、射術の名手 源為朝は、保元の乱(1156)に敗れ、伊豆大島に流される途中、船は大時化に遭い三保の海岸に漂着した。
当時、川口家(源兵衛さん)の裏は海であった。為朝は源兵衛の娘と夫婦になったと云う。
今も裏庭に墓所がある。祠は左右2基、五輪の塔も2基あり、左が為朝、右は家来の墓といわれる。西隣(遠藤家)の裏の家(川口家)にも祠があるが、一方は、3丁つぶての「キヘイジ」の祠といわれる。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
「散策パンフレット」にはさらに源為朝について書かれていた。
<源為朝>
三保本町に「源兵衛」さんという、屋号の家がある。源兵衛の由来は源ノ兵衛(みなもとのひょうえ)で、代々源兵衛を名乗り、家紋は三ツ巴であったが、地頭の太田家に交換されて桔梗の紋になった。系図は柱の上に縛っておいたが太田家より格が上なので家ごと焼かれたといわれ為朝が使用したと伝えられる椀と壺がある。
同家の言い伝えは次のとおりである。保元元年(1156)保元の乱に敗れた為朝が大島へ流される途中、船は大時化に遭い、三保の海岸に漂着、当時源兵衛家の裏は海であったという。
為朝は源兵衛の娘と夫婦になり一子をもうけた。今も裏庭に墓所がある、祠左右2基、五輪塔2基、為朝、五輪塔は家来の墓といわれる。
(三保の松原散策マップより NPO法人「三保の松原・羽衣村」発刊)
[三保・旧道]
「源兵衛」さんの家から東へ200m近く行った所に佐久神社があります。
佐久神社の入口脇にあるのが白縫姫の墓です。
「散策パンフレット」には白縫姫についても書かれている。
白縫姫の墓は、向の川口家(元庄屋)にあったが、今は佐久神社の片隅に置かれている。
[三保・旧道]
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<おしゃもじさん(佐久神社)と白縫姫の墓>
本町1区の「おしゃもじさん」は、検地竿を納めて祭ってあるとか、また「イボ」とりの神様とかの言い伝えが残されている。このような民間信仰の神は、古い時代から様々な信仰が入り交じって伝えられて来ているので、ご神体を明らかにすることは出来ない。
駿河国三穂社記には、簡単に左久神社、三保村杜の中に在り」として雙栗神社、即ち猿田彦大神とある。この神は道祖神とも結び付けられている。
毎年6月15日前後の日曜日に、本町一区自治会主催の祭典を行なっている。
尚、境内には、市みどり条例による保存樹木の指定を受けている「タブ」の樹がある。また、ここより西寄りにあった為朝伝説にまつわる白縫姫の墓とされる五輪の塔と祠が、近年境内東側に移設安置されている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・灯台]
灯台の下に説明看板があるので読みます。
清水灯台は、明治45年3月1日に設置点灯されました。
わが国における最初の鉄筋コンクリート造りの灯台です。
景勝三保の松原の中にあり、視界のよい日には秀麗な富士山によく似合う瀟洒な灯台で、大正4年昭和天皇が皇太子当時に行啓されています。
この灯台は、駿河湾を航行する船舶の安全のために重要な役割を果たしています。
<施設の概要>
位置 北緯35度0分26秒
東経138度32分0秒
塗色及び構造 白色 塔形
灯質 群閃白光 毎20秒に2閃光
光度 67,000カンデラ
光達距離 14海里(約26km)
高さ 地上〜頂部 19.2m
水面〜灯火 21m
管理事務所 清水航路標識事務所
この灯台が、1世紀近い歴史の中で、数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたのであろうことを想うとき、これからも毎夜美しい光を置きゆく船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。
社団法人 燈光会
この周知板は、モーターボート競争公益資金による財団法人船舶振興会の補助金を受けて設置したものです。
[三保・灯台]
灯台のてっぺんに羽衣を着た天女が舞っている。
[三保・予科練]
灯台前に少年兵のブロンズ像が建っている。説明書きを読んでみます。
<「甲飛予科練之像」記念碑案内>
「甲飛予科練之像」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年から、志願により選抜された者たちである。
昭和19年9月1日 清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生14、15、16期生千数百余名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた所であります。
当時、学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、今だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成されました。
思えば、純朴にも祖国のため何の懸念も抱く事なく、身命を捧げんとしたものであります。
愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、わたくしたち甲種練習生の跡であると、そして更に後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願いながら、この碑を建立しました。
平成18年2月11日
[三保・碑]
静岡市長名の石碑がある。「居浜想山」と彫られている。
合併後に建てられたものだろう。三保の自然を賛美したものだろう。
三保の浜は安倍川の奥から流れて来た砂が駿河湾の流れの強い海流に運ばれて堆積したものとのこと。
[三保・飛行場]
三保の灯台を500m北へ行った所に三保飛行場という小さな飛行場の入口がある。
[三保・旧道]
「源兵衛」さんの家と佐久神社の間を南下する道まで戻り、旧三保街道と思われる道を進む。
旧三保街道を進み始めてすぐの路地を入った所に伯良神社がある。
伯良神社は漁夫伯良が住んでいた地を記念して祀られた。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<伯良神社>
羽衣伝説に登場する漁夫の伯良(白竜などとも書く)は三保村の人。
例の天女と漁夫の関係はいろいろな形で伝えられているが、その一つではある日、伯良は松原で羽衣を拾った。
天女がきて「私のものです。お返しください。」といったが、伯良は返さないで、ついには夫婦になった。そしてのちにそろって昇天した。ともいう。
その伯良の屋敷の跡とされている。ここには祠があって伯良神社と呼ばれ、またわきにある古井戸を「伯良井戸」といっている。
尚境内には、市みどり条例による保存樹木の第1号の指定を受けている「くす」の樹がある。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
街道へ戻りまた少し南へ進んだ交差点を東へ入った所に津島神社があった。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
この神社は、素戔鳴尊を祭神として祀ってある。この神は農業・疾病送り、商売繁盛、などにご利益が有るとされている。
その昔村に疾病が発生し、大勢の死者がでたとき村人達は、祠を建て疾病送りの祈願をしたと言い伝えられている。
祭日は6月の第2か第3の日曜日で、本町2区自治会主催でおこなわれる。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[釣江寺]
街道へ戻り、100m近く南へ進むと路地の突当りに釣江寺がある。
今は無人の寺となっている。
[釣江寺]
最近建てなおされたこじんまりした寺だ。
檀家のある寺ではないようだ。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
此のお寺は御穂神社の歴代神主の菩提を葬ったお寺であった。
最も古い墓碑には寛永16年(1639)の仙遊良松大姉の字も読み取れる。
古くは興津清見寺の末寺として現在は上清水梅陰寺の管理地となっている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[釣江寺]
寺のすぐ北には無縁となってしまった江戸時代の墓地が並んでいる。
格式のある墓も見られる。
近所の人は太田家の家臣の墓らしいと言っていた。
[三保・旧道]
街道へ戻り南へ進む。
街道沿いには時代を感じる構えの屋敷がある。
[三保・旧道]
木の板の外壁の建物。
[三保・旧道]
街道の脇に石碑が立っている。
田中孫七はこの三保で海苔の養殖を広めた人
彫ってある文字を読む。
<田中孫七居住地>
東宮殿下御成婚奉祝記念
三保海苔改良者 田中孫七居住地
大正13年1月16日建之 安倍郡
[三保・旧道]
街道は住宅地を進む。
[三保・旧道]
林が見えてくる。
三保第一小学校。
[三保・旧道]
小学校前の空地の奥に石碑が建っている。
入口に看板が立っていて次のように書かれている。
<太田健太郎の墓>
三保ふる里のみちは、これで終了です。ご苦労さまでした。歩いた距離は約5kmです。
小冊子「ふるさと三保」に太田健太郎の墓について次のようの書かれている。
<太田健太郎と駿州赤心隊>
健太郎は、弘化2年(1845)鈴木家に生まれる。嘉永2年(1849)5歳で伯父御穂神社神主太田図書忠澄の養子となる。
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜追討の令が出て、健太郎は、浅間神社・草薙神社の神主らと共に、駿州赤心隊を結成し、官軍に味方した。
しかし慶応4年12月18日の夜、幕府から朱印地を貰ってきたこれまでの恩に対して恨みを買い、旧幕臣に襲われ死亡した。
大正11年(1922)長男希預太郎によって三保小学校前に墓碑が建てられ、裏面に「健太郎の赤心隊員としての功績など、勤皇の状が天聴に達し、大正9年に靖国神社に合祀された。」などと刻まれている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
松原荘ホテルを左手に見るとその先は「御穂神社」だ。
[三保・旧道]
「御穂神社」は参道が四方にあって、ここは北から入る鳥居がある。
「御穂大明神」「神社境内地」と彫られた石柱が立っている。以前は鳥居の台座だったような造りだ。
[三保・旧道]
左へ入ると鳥居があり、由緒看板が立っていたので読みます。
<御穂神社 (三保大明神)由緒>
静岡市清水区三保1073番地鎮座
主祭神 大己貴命(大国主命、三穂津彦命)
三穂津姫命
祭 典
例祭 11月1日 湯立の神事
筒粥祭 2月14日の夜より同15日
由緒略記
創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神、海の神と崇められると共に天から天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である。
中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文8年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後仮宮として建てられたもので、本殿は清水市指定有形文化財に指定されている。
信仰は三保の氏神様・清水・庵原の総氏神として親しまれ文化発祥の地である。祭神の神徳により、お祭や、正月など全国各地より多くの人々が参拝する「御神木羽衣の松」の名社です。
[三保・旧道]
三保街道は三保神社を迂回するように曲っている。
角には境内地を利用して生涯学習交流館(公民館)がある。
[三保・旧道]
生涯学習交流館を回りこむと御穂神社の正面の鳥居が見える。
[御穂神社]
御穂神社(みほじんじゃ)は三保の神社。
鳥居の脇の説明看板を読みます。
御穂神社(三保大明神)由緒
静岡市清水区三保1073番地鎮座
主祭神 大己貴命(大国主命、三穂津彦命)
三穂津姫命
祭 典
例祭 11月1日 湯立の神事
筒粥祭 2月14日の夜より同15日
由緒略記
創建の時は不明であるが、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、駿河国の国魂の神、国土開発の神、海の神と崇められ古くから朝野の崇敬をあつめた。
景行天皇10年(諸神祭式)光仁天皇宝亀年間(類聚国史)等に奉献の事が見え延喜式内社である。
中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進した寛文8年落雷のため焼失し、現在の社殿は仮宮であるが信仰は三保の氏神様、清水の総氏神として親しまれ三保、清水の文化発祥の地であると共に、祭神、お伊勢様「大国様」のご神徳により、お祭や正月など全国から多くの崇敬者が参拝するご神木「羽衣の松」の名社である。
本殿は静岡市の指定有形文化財です。
[御穂神社]
鳥居を入った正面に舞殿のような建物がある。
[御穂神社]
本殿。かつては家康が寄進しただったらしい。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<御穂神社と筒粥祭り>
御穂神社は、延喜式内社で、祭神は大己貴命(別名、大国主命・三穂津彦命)と三穂津姫命の二神。
昔から朝廷を始め、源・今川・武田・豊臣・徳川等の武将に篤く崇敬され、又近郷近在の人々からは「三保の明神さん」と親しまれてきた。
徳川家康は慶長(1600〜1612)の末、本殿以下10数棟を寄進し、美観を極めたが、寛文8年の失火により、ことごとく焼失す。その後仮社殿として現在に至っているが、当時の宮居は現今の20倍余はあったと記されている。
例祭は春・秋に行なわれ、殊に春の「筒粥祭り」は、毎年2月14日から15日の未明にかけて行なわれる粥占いの神事で、海の彼方より常世神(とこよかみ)を迎える神事も併せて行なわれる点で、古式を伝承する特殊な祭りとされている。
また、当社はふるくより桜の名所としても知られ、毎年4月には桜祭りも境内で盛大に行なわれる。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[御穂神社]
境内には子安神社も祀られている。
看板を読む。
<子安神社>
御祭神 須佐之男命 稲田姫命
御穂神社ご祭神である大国主命の父母にあたる神々であり古来より子宝・安産・子育ての神として信仰される。
また昔から安産の祈願やお礼参りとして底を抜いた柄杓を奉納する風習があり、水がつかえず軽く抜ける如くに楽なお産が出来ますようにとの願いが託されている。
[御穂神社]
境内には他に3社が祀られている。
境内三社
神明社 祭神は天照大神
本宗は伊勢神宮です
皇室の御祖先神として尊ばれ
また国民の総氏神様として仰れています
八幡神社 祭神は応神天皇
仲哀天皇の第四皇子、母神は神功皇后です
源氏の氏神としてあがめられています
八雲神社 祭神は須佐之男命
大国主命の父神です
[御穂神社]
馬屋がある。説明看板を読む。
神馬の由緒
元は木の馬であり、左甚五郎の作といわれ安永2年(1773年)駿府大火で、浅間神社の2頭の神馬が、当社に逃げ1頭は残り1頭は戻ったと伝えられている。
明治45年北原白秋来清のとき詠まれたチャッキリ節に「賤や賤機浅間さまの白いお馬よなぜ逃げた」と唄われている。今も浅間さんには黒いお馬さんの馬屋と空屋の馬屋がある。このように由緒ある神馬は古くから信仰され親しまれてきた。
当社の11月の例祭、2月の筒粥祭に、子どものみお馬さんの腹の下をくぐり、お供えのお豆を食べると「かんしずめ」「はぎしり」「寝小便とめ」などの病気がなおると信仰されている。
現在、神馬のご神徳により、おせんげんさまの神馬と共に「なんでも叶う」叶え馬としてお守をうけて絵馬に願事をかき奉納し祈願する。願事が叶い感謝のお礼参りをする人が年々増えている。
[御穂神社]
この神馬はレプリカだ。本物は普段、格納されている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
明神さんの神馬
三保に育った者にとって神社の中で一番なつかしいものは、馬屋に入った神馬だろう。11月と2月のお祭りの時、馬屋の扉が開き、子供たちは馬の腹をくぐる。
お腹をくぐって、お供えのお豆をたべるとおねしょをしなくなると言われている。子供の時には、たいそう大きな馬に見えたものである。
北原白秋のちゃっきりぶしに、「しずや賤機 浅間さまの しろいお馬よ 三保へお馬よ なぜ逃げた ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ」
とうたわれているように、この馬は静岡のお浅間さんから逃げてきたとの伝説がある。安政2年(1855)の駿府の大火で浅間さんの2頭の神馬が御穂神社に逃げ、1頭は残り、1頭は戻ったという。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[神の道]
神社を出て南に向って松の並木道が伸びている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
<神の道>
御穂神社の正面から真南に向って樹齢200年とも云われる老松の並木が約500m続く、この見事な並木路は、海の彼方より御穂神社に来臨する常世神(とこよかみ)がお通りになる道である。
現在も毎年2月14日の深夜、この道を通って神迎えの神事が行なわれている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[羽衣の松]
神の道が終わると観光地によく目にする光景に出会う。
この先の天然の土手を越えた所に羽衣の松がある。
羽衣神社という天女を祀った神社が西平松にある。こちらをクリック。
[羽衣の松]
羽衣の松はかなりの老木。樹勢も衰えてしまっている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
羽衣の松
御穂神社の正面から南に延びる松並木の外れの浜に「羽衣の松」がある。
この老松にまつわる羽衣伝説は観世元清の「羽衣」によってより有名になった。
松の横にある「羽衣天女詞碑」は享和3年(1803)駿河町奉行牧野靭負が建立したものである。
この松は衣掛けの松として有名になっているが、本来は御穂神社の「筒粥行事」の際、海の彼方から来臨する常世神の目印となる「憑り代」としての役目をしているのである。
樹齢650年とも700年ともいわれているこの松も、害虫の被害等により樹勢の衰えが顕著に見られるため、平成10年(1998)この松より数メートル西にはなれた風格見事な松を次世代の「羽衣の松」の候補と定めた。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[羽衣の松]
保護された老木がいくつか見られる。
[羽衣の松]
羽衣の松の近くに小さな祠がある。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれていた。
羽車神社
羽衣の松の際にある石造りの社は、羽車磯田社とも言い、御穂神社の離宮で、「筒粥神事」の際、海の彼方より来臨する常世神(とこよかみ)は、まずこの社に降臨し、松並木の神の道を通って御穂神社に入るとされている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[羽衣の松]
アルファベットで書かれた石碑が立っている。
「散策パンフレット」に次のようの書かれていた。
<エレーヌの碑>
フランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、憧れの三保の松原を見ぬままパリで没しました。この碑の下に彼女の遺髪が埋葬されています。
(三保の松原散策マップより NPO法人「三保の松原・羽衣村」発刊)
碑の前に小さな松があり、説明書きが立っている。
<「羽衣の松」二世の松>
この松は平成9年2月に「羽衣の松」から穂木を採取し、接ぎ木による二世作りに成功したものです。
伝説の松の遺伝子を含め未来へ残す二世の松です。
平成11年3月13日 清水市 羽衣の松保存対策委員会
[羽衣の松]
羽衣の松の前には砂浜が広がっていて、天気の良い日には絶景の富士を愛でることが出来る。
砂浜は昔に比べて浸食されて狭くなってきている。
波打ち際の消波ブロックが景観を損ねている。
[三保の松原]
三保の松原が富士を引きたてている。
小冊子「ふるさと三保」に次のようの書かれている。
三保の松原
日本一の富士山の眺めの美しさで名高い三保の松原は、長さ4kmに及ぶ松林と砂浜が駿河湾に突き出ており、昔から万葉の人々にも歌によまれる程親しまれてきた。
殊に天女の伝説によって美しく語られる羽衣の松附近の渚からの景色は素晴らしく、大正5年には新日本三景の名勝地に選ばれ記念碑が建てられた。
また大正11年には国の名勝にも指定され、史跡名勝天然記念物の碑も松原の中央部鎌ケ崎に建てられている。
(県と三保地区まちづくり推進委員会が発行「ふるさと三保」より)
[三保・旧道]
神社まで戻って旧三保街道を南進する。
区画整理が進んでいるのでどこが旧街道なのかがわかりにくい。
今後、ますますわからなくなるだろう。
[三保・旧道]
以前の景色が想像できない。
通行しやすい道が完成している。
[三保・旧道]
この辺りは歴史を感じさせてくれる景色が全くないが、生活はしやすくなったのだろう。
[三保・旧道]
区画整理の地域を過ぎると旧三保街道の雰囲気が復活する。
[三保・旧道]
この先で広い道と交差する。
[三保・旧道]
東海大学へ向う道が交差する。
突当りが大学のキャンパスになる。
[三保・旧道]
東海大学へ行く道と交差してさらに南へと向う。
[三保・旧道]
街道は住宅街を進む。
[三保・旧道]
裏道のような旧道には所々に商店をみかける。
[三保・旧道]
旧道に商店をみかける。
[三保・旧道]
社叢が見られる。
瀬織戸神社だ。
[三保・旧道]
瀬織戸神社の石鳥居。
[三保・旧道]
鳥居の脇に神社の由緒が書かれていたので読んでみます。
瀬織戸神社
当神社は神護景雲元年(今から1200年前)に建てられたもので、祭神は瀬織津姫(天照大神の第2王女)である。
別名「辨天様」とも呼ばれ、水難・豊漁・招福・修学等を祈願する神であり、又いぼ取りを祈願した人が、成就の際に自分の年だけ奉納した白石がある。
[三保・旧道]
瀬織戸神社。
[三保・旧道]
境内には立派な松が並んでいる。 社の前に苗木があり、横の看板を読む。
植樹
桜苗 ソメイヨシノ
境内に16本
平成22年3月
寄贈 ヒバリヤ
岸山惣憲
[三保・旧道]
神社の向かえにある木造の門扉がある旧家。
現在では入口がここではないようだ。
[三保・旧道]
瀬織戸神社から50mほどの小児科医院の塀のところに瀬織戸の渡しの看板がある。
看板を読む。
<瀬織戸の渡し跡>
室町時代大永年間の頃まで三保半島は島となっており、駒越と浅瀬の海で隔てられていてその浅瀬を渡し船で渡ったいう。
この私は別名(有渡の渡りの早きせに、逢すありとも後にわが妻」(670年頃)と詠んでいる。
[三保・旧道]
病院は坂を下った所にあるが、この坂が渡しへ向かう坂だったのだろう。
今では地形が変わっていて海はかなり離れた所にある。
[三保・旧道]
瀬織戸の渡し跡から100mほど進むと国道150号線へと突当る。
三保街道はここで終了とする。。
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−コメント−
三保街道は全国的にも有数の観光地を貫いている街道。
見どころも多く楽しく散策できる。