− 浅間神社周辺 −
浅間神社。
浅間通りを行き浅間神社へと向かう。
[浅間通り]
静岡駅から800m。井川湖御幸線と本通の交差する中町交差点から浅間通りを見る。
浅間通りは400mほどの神社へ向かう参道で商店街となっていて、入口に鳥居が立っている。
かつては賑わった商店街だが今は人通りが少ない。それでも最近町並みを整備して明るい雰囲気がある。
いまだに古い店も多く、懐かしさを感じる店も多い。
[常夜灯]
浅間通りの入口にある鳥居の脇に大きな石灯籠がある。
かつては何ヵ所かの要所にあって、旅人の道案内になったのだろう。
今では安西橋の手前にある常夜灯とここの2基が古の面影を残している。
[山田長政]
鳥居から200mほど行った所に銅像が立っている。看板を読んでみます。
山田長政は、天正18年(1590)ごろ駿府馬場町の紺屋、津ノ国屋に生まれたという。
慶長12年(1607)家康が大御所として駿府城に在城し、駿府が日本の政治、経済の中心となり活気あふれた頃に少年時代を過ごした長政は、時の貿易奨励策で海外へ進出する商人たちに刺激され、慶長15年(1610)駿府の商人、滝佐左ヱ門、太田次郎右ヱ門らの船に乗り、シャム(タイ)に渡った。
そのころシャムのアユタヤの日本人町には7千人の邦人が住んでいた。長政は、この日本人町の頭領となり、シャムのソンタム王に仕え象にまたがり日の丸を立てた日本兵を率いて勇敢に戦い、次第に重きをなしついに六昆王(リゴール国王)に任ぜられたという。
寛永3年(1626)には故郷駿府の浅間神社に戦艦図を奉納しており、この戦艦図は焼失したがその移しは今も神社に伝えられている。
その後ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれ、寛永7年(1630年)隣国との争いのとき足に受けた傷に毒を塗られて死亡したといわれる。
天保13年(1842年)の馬場町絵図には、ここに津ノ国屋九左ヱ門と記してあり、ここが山田長政の生家跡とみられる。
[祭り]
これは以前に撮った浅間通りの写真。
4月初めに浅間神社は廿日会祭がとりおこなわれる。
400mほどの商店街はてき屋が並びお祭りムードが盛り上がる。
今でも類のないほどの店が並ぶが、昔は隙間が無いほどの盛況ぶりだった。
[浅間神輿会]
これも以前に撮った浅間通りの写真。
9月26日に浅間通りを歩いていると年配の男性が大勢で神輿をかついでいた。
神輿には浅間神輿会と書かれた提灯がかかげてあった。
年配の人も多く若い人は少なかった。かえって迫力があった。
[赤鳥居]
浅間通りはここで終わり、浅間神社になる。
この通りはこのレトロなバスが走っている。
浅間通りの神社寄りは「宮ケ崎町」という町名。浅間神社の門前町として発達した町だからこの名がある。
由井(比)正雪がこの宮ケ崎町の紺屋岡村弥右衛門の二男に生まれたといわれている。(正雪の出生には諸説あり、由比の紺屋に生れたともいわれている。)
正雪は後の慶安4年(1651)幕府を転覆しようと企て全国各地でで一斉に蜂起しようとしたが、事前に発覚して投宿中の駿府の旅館梅屋で自害したという人物だ。
[神門]
赤鳥居をくぐると浅間神社だ。
浅間神社はこの神社全体を指しての総称だ。浅間神社を含む複数の神社が集まっている。
[大歳御祖神]
神門をくぐると大歳御祖神。
神門の脇に由緒が書かれた看板が立っているので読んでみる。
<大歳御祖神社>おおとしみおやじんじゃ
大歳御祖命 別名 神大市比売命 配祀神 雷神
<由緒略記>
「静岡」という地名の由来となる賤機山の南端に南向きに鎮座し、奈吾屋神社、奈吾屋明神とも別稱され、応神天皇4年(273年)の創祀と伝えられる。万葉集巻第三「焼津邊に吾が行きしかば駿河なる安倍の市道に合いし子らはも」にみえる「安倍の市(今の静岡市街)」の守護神で延喜式内社・旧国幣小社である。主祭神は倉稲魂命(稲荷大神)の母神で、農・工・商業の守護神として崇められている。
後水尾天皇の御製に「賤機の山も動かぬ君が代になびく奈古屋の社の松風」と詠まれ、約100m北側に東向きに鎮座する神部神社、浅間神社の両社と共に、古くから朝野の崇敬を集めた。殊に徳川将軍家は天正・寛永・文化の3度に亘り、総漆塗・極彩色の壮麗な社殿を造営寄進した。
大東亜戦争末期に拝殿・楼門等を焼失したが、形式を異にして復興された。本殿(総漆塗・極彩色3間)・中門(総漆塗・極彩色1間1戸平唐門)・透塀(総漆塗・腕木門付)は他の社殿群と共に、国の重要文化財に指定されている。後背丘陵上には6世紀墳と推され、家型石棺と豪華な出土品で有名な国指定史跡「賤機山古墳」がある。
[八千戈神社]
社務所の前にある神社は八千戈神社。
八千戈 (やちほこ) 神社(重要文化財)
例祭日10月15日
本境内社は明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支天を祀ったことから、東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後の神仏分離に際し金印木像は臨済寺に遷され、以後、八千戈命を御祭神とする。
昭和5年5月29日昭和天皇御親拝の折には、神部浅間両社御修理中で当社を假殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行われた。
特に名公の誉れ高い立川和四郎富昌の彫物が中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では、武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
[大拝殿]
ここ「せんげんさん」は「あさまじんじゃ」と「かんべじんじゃ」がメインの場所に並んで鎮座している。
メインの両社は特別に依頼しないと参拝できない。普通はこの大拝殿で参拝する。
看板を読む。
徳川3代家光将軍時代 日光東照宮と共に大造営された社殿はおしくも火災にて焼失した
現社殿は11代家斉将軍時代文化年間幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜最高の技術を駆使して造営されたもので豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されております。殊にこの神部神社浅間神社両社の大拝殿は他に類のない特殊な重層楼閣造りで世に「浅間造」と称され等神社の象徴建造物であります。
高さ81尺(約25m)もあり外観は彩色絢爛、殿社は132畳で、天井には狩野栄信、寛信の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が画かれております。
[大拝殿]
大拝殿の前には舞殿がある。
この建物の彫刻には彩色がなされていない。かえって「しぶい」。
毎年4月5日に稚児舞がとりおこなわれる。
[大拝殿]
きらびやかに彩色された彫刻が豪華だ。
以前は色あせていたが、いつの日にか修復されていた。
今では職人が少ないだろうに・・・
[大拝殿]
2階の彫刻には金網がかけられている。
鳩対策なのだろうか。
[楼門]
浅間神社と神部神社へはこの楼門の奥に鎮座している。門の脇にある看板を読んでみる。
神部神社 大己貴命〔おおなむちのみこと〕(別名大國主命)
淺間神社 木之花咲耶姫命〔このはなさくやひめのみこと)〕
大歳御祖神社 大歳御祖神〔おおとしみおやのかみ〕(神大市比売命)(かむおおいちひめのみこと)
静岡淺間神社
例祭日 4月5日(廿日會祭4月1日〜4月5日稚児舞楽・踟(ねり)行事)
特殊神事 奉射祭(大的式)1月15日・節分祭(2月3日又は4日(鬼やらい)
神衣祭4月2日・9月25日・昇(のぼり)祭・降(くだり)祭4月3日・4日、11月3日・4日
境内社 麓山(はやま)神社 八千戈(やちほこ)神社 少彦名(すくなひこな)神社 玉(たま)鉾(ぼこ)神社
[楼門の看板の続きを読む]
由緒
三社からなる当社は、街道屈指の名社として朝野のあつい崇敬をうけ、殊に、駿府(現静岡市)にゆかり深い徳川家康公の崇敬以来、徳川幕府の宗(そう)廟(ひょう)として崇(あが)められた。
神部神社
崇神天皇7年(紀元前90年)の鎮座と伝え、延喜式内社で倭文機神社(しずはたじんじゃ)・美和明神(みわみょうじん)とも別称され、この地方最古の社。制による国府がここに置かれ駿河国総社と仰がれれた。次の各社と共に夫々が、縣社(明治6年)に列格され、国幣小社(明治24年)に昇格した。
浅間神社
醍醐天皇の勅願(ちょくがん)により延喜元年(901年)、富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国1300余社の分祀のうち最大最古の社。富士山を神体山と仰ぎ冨士新宮と称えられる安産子授けの神。後世、仏説の影響で「せんげん」と音読する。
大歳御祖神社
応神天皇4年(273年)の鎮座と伝え、延喜式内社で奈吾屋社と称したとされるが、奈吾屋社・大歳天神とも別称された。上古からの「安倍の市(現静岡市)」の守護神・地主神として崇められてきた。社名は、大年(おおとし)神・倉(う)稲(かの)魂(みたま)神(稲荷大神)の母(御祖(みおや))の神の意を表している。
この3社は、静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる名は賤機山(賤ケ丘)の最南端、神部・浅間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。古くから朝廷をはじめ、国司・武門・武将が崇敬し、徳川家はもとより、各時代に於いて北条氏(鎌倉幕府)・今川氏・武田氏が社殿の造営、社領の安堵等の赤誠を捧げた。
社殿
「東海の日光」と称揚される社殿群は、全26棟が江戸後期を代表する神社建築として重要文化財に指定されている。舞殿以外は、全て総漆塗・極彩色で、神部・浅間両社の「大拝殿」は、浅間造の特殊建築で棟高21.8mの豪壮な規模を誇り、同「本殿」の彫刻と生彩色の華麗さは、全国に比類を見ない建築装飾の秀作である。特に彫刻類は、立川和四郎富昌をはじめ立川流一門の爛熟した技を凝らしている。
史蹟
国指定史跡「賤機山古墳」
大歳御祖神社後背山上にあり、横穴式石室にこの地方随一の規模を誇る家形石棺を納める。武具・装飾品などの豊富な副葬品を出土し、六鈴鏡・忍冬唐草紋鞘口金具・鳳凰紋円頭柄頭などが発見された六世紀頃の墳墓である。
宝物資料
太刀(銘)備前長船住長光(重文)・狩野探幽36歌仙扁額・山田長政奉納戦艦図その他
[楼門]
門の両側で神社を武士が守っている。
[楼門]
水呑の龍。
パンフレットに浅間神社の7不思議と書かれている。
左甚五郎の作と伝える龍の彫刻は安政の火災の時、池に下りて水を吐いて御殿にかけたと伝えられている。
[神馬]
楼門の前に神厩舎があり、中に神馬(叶馬)がいる。
浅間神社の7不思議には2頭とあるが、3頭いて1頭は駿河区の手越にある高林寺に逃げて今でも同寺に安置されている。
パンフレットに浅間神社の7不思議と書かれている。
左甚五郎の作といわれており、安政の火災のおり、2頭の神馬(木の馬)は三保の明神へ逃げ、1頭はそのまま残り1頭は戻って来たとの話が残されている。
[観阿彌]
観阿彌の碑が楼門横にある。
「52と申し5月19日に死去せしが、その月の4日、するがの国せんげんの御まえにて法楽、仕りその日の申楽ことに花やかにて見物の上下一同にほうびせしなり」
能楽の始祖観阿彌
「花伝書」によると、世阿彌の父観阿彌が最後に演したのは、当神社「せんげんの御前」と記録されており、その15日後に駿河の国で死去した。
これまで顧みられなかった「観阿彌最後の舞台」を想定し「風姿花伝」の一節を刻み、観阿彌の功徳を称えるものである。
碑文は「生駒、宝山寺蔵旧伝本より転写した。
[御神水井戸]
楼門の前に井戸がある。説明書きを読む。
この井戸は、寛文10年(1670)の境内古図に既に記載があり、3代家光公造営の折には現存していたことが明らかであります。
大御所公は幼少人質の折、当神社付近で付近で遊んでおり、また、駿府在城の時には度々当神社へ参拝しておりますので、この井戸にて御手水をされたことが窺い知れます。
又、当時神社のすべての諸祀り儀他にも使用され、更に大神様のご神霊の籠った「御神水」として広く信仰されておりました。
明治以降は空井戸として保存されておりましたが、今度平成御大典記念事業として、崇敬者各位の要望と御奉賛により再興し、上屋を復元したものであります。
この「御神水」は、大神様の疫病退散、延命長寿の御神穂を受けるものとして霊験殊の外あらたかであります。
平成3年9月11日 駿河国総社 富士新宮 静岡浅間神社
[石鳥居と楼門]
浅間通りは大歳御祖神社へ向かう参道だが、長谷通りは浅間神社神部神社へ向かう参道だ。
長谷通りはかつてかなり栄えていて、石鳥居をくぐり楼門に向かい浅間さんを参拝する主要道のひとつだった。
東海道が整備される以前は長谷通りが主要道だった時代もあったようだ。
長谷通り方面は別ページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[少彦名神社]
北のはずれに位置する。駐車場脇にひっそりと建っている。
この神社の北側に昔、静岡鉄道のリフトがあって浅間山の頂上まで歩かずに行けた。
例祭日1月8日
本社は少彦名命を主神とし、他に神部神社末社14社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師社と稱し、薬師12神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され現在は少彦名命をご祭神とする。
社殿は入母屋造銅瓦葺、朱塗で細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来、境内社として病気平癒の信仰すこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある。
[少彦名神社]
欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」の一つ「亥」。
「子」と「丑」は外からは見れない。干支の時に見せてくれるようだと聞いたことがある。
[玉鉾神社]
少彦名神社の奥、山を背にして玉鉾神社が祀られている。
本社の北側に鎮座。社殿は伊勢神宮の御古材にて昭和51年再建された。
例祭 3月29日
祭神は羽倉東麿・岡部真渕・本居宣長・平田篤胤。国学の四大人明治9年県内神官により 官許を得て創祀され、受験・学問の神と仰がれている。
[浅間神社・神部神社]
玉鉾神社の脇から大拝殿の裏側や浅間神社・神部神社を見ることができる。塀に囲まれており立ち入りができない。
以前に団体の来客があった時に依頼して拝観させていただいたことがあったが今でもやってくれるのかな?
[百段]
八千戈神社まで戻った所に石造りの階段がある。百段と言われているけど数えたことはない。
今度数えてみようかな?
[百段]
登ってから振り返ってみる。上から見るとかなり怖い。
[賤機山古墳]
百段の階段を上って左に行くと古墳がある。きれいに整備されていて説明書きがあった。
<賤機山古墳>
賤機山古墳は、静岡平野の中心部に突き出た賤機山の南端に造られています。
葬られた人物は特定できませんが、6世紀後半にこの地方を治めた有力な豪族の墓と考えられます。
古墳の形は、直径約32m・高さ約7mの円墳で、内部には巨大な横穴式石室が造られ、石室内には遺体を納めた家型石棺が置かれています。
[賤機山古墳]
中を覗いてみると石棺があった。
−説明書きの続き−
<横穴式石室>
賤機山古墳の横穴式石室は、巨石を組み上げて造られ、県内最大規模を誇ります。
石室は、遺体を安置する玄室と、玄室への通路である羨道〜前庭とからなり、南に開く羨道の入り口は、遺体を納めた後で人頭大の川原石が積まれ塞がれました。
玄室と羨道の上には、重さ14トンを越える巨大な石を含む7個の天井石が載せられ、天井石の上は雨水の浸透を防ぐために、粘土で覆われています。
石室の石材は、高草山南端の大崩海岸から運ばれたと考えられています。
[賤機山古墳]
古墳の内部模型があった。
−説明書きの続き−
<出土遺物>
石室内は、過去に盗掘に遭い、副葬品の一部は失われました。特に石棺は側面に穴をあけて内部が荒らされ、棺内には、冠帽の破片やガラス玉などがわずかに残されていたのみです。
しかし、石棺外には、遺物が数多く残され、中でも奥壁の前、石棺の西側、羨道からは、それぞれまとまって出土しました。遺物には土器や装身具、武器、武具、馬具、銅鏡、銅椀などがあり、これらの遺物の時代は、6世紀後半から7世紀前半に及んでいます。
また、前庭の入口では、数個の甕が破片の状態で出土しましたが、これは、墓前でのお祭りで使われたものと考えられます。
[麓山神社]
百段の階段を上って右の階段を上ると神社がある。
「はやまじんじゃ」と呼ぶ。
(参拝の栞に説明があったので読んでみる。)
古来、賤機山上に鎮座。「山宮」と称せられた。
本社の別宮。漆塗極彩色。例祭/4月22日
大山祇命(おおやまづみのみこと)を主神とし、日本武尊を配祇する。
主神は本社浅間神社の木之花咲耶姫命の御父神にまします。
当社は宮元八ケ町の氏神でもある。
[麓山神社]
この神社も綺麗に彩色されている。
神社の入口には武家人形が座っている。
[賤機山慰霊碑]
麓山神社の脇の山道を500mほど登ると開けた山頂に出る。
戦禍犠牲者平和観音像が建っている。
救世観世音菩薩縁起
吾が静岡市は昭和19年11月5日南太平洋マリヤナ基地よりB29一機、本市上空に初めて侵入してより昭和20年8月15日終戦に至る迄殆んど連日の如く侵攻し特に本市上空は京浜都市及び中京都市爆撃の経路として空襲警報極めて烈しく其の為市民は心身共に恐怖と疲労に陥り且、戦時体制下に於ける生産活動能力は頗る低下を来たしその間に受けた被害は非常に大なるものがありました。
静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数12回死者1813名重傷者830名全半壊建物148戸焼失建物25239戸罹災者118746名の多きに上り特に昭和20年6月19日夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました。
其の状況はB29百機、零時50分から3時40分に至る約3時間単機乃至数機にて波状的に飛来し大型小型の焼夷弾を無数に投下し密度が高い絨毯爆撃を行った次第であります。
其の被害状況は罹災世帯数24459罹災者110646名死者1669名重傷者800余名其の后重傷者中死亡したもの多数に及びました。なほ本市は去る昭和15年1月15日の大火に罹り全市の大半を焼失しましたが犠牲者は僅か1名の死亡のみに止まりました。
然るに今次の戦禍の如何に凄惨たる事は皆様の知思する処であります。戦災者は永年の家産と貴き人命を一朝に失いその惨状は筆舌に尽すことは出来ません。雨霰の如く落下する焼夷弾の中を老人子供或は病人等何の罪もない非戦闘員が逃げ惑い夫は妻を庇い妻は吾子を護り阿鼻叫喚宛ら地獄絵図其の儘でありました。私は此のような多数の犠牲者に対し真に御気の毒にたえません。
然も一家全滅の憂目をみられ祭祀の出来ない数多くの方がある事を知りまして御慰霊追悼申し上げると同時に人類生存上再度斯のような人災は構成しない様発願致しました。
猶、其他内地外地に非戦闘員が千数百人の多数の戦禍のため犠牲となられても国家社会は年月の去ると同時に忘れられて行く状態は御霊と御遺族の心境に対し真に同情に堪えませんので合祀させて戴き全国民の皆様と倶に永久に四恩報謝の誠意を捧げたいのであります。
時至りまして元市会議員団市連合町内会婦人団体その他諸団体各位の御協力と御援助を蒙りまして静岡市隋一の名勝地賎機山の聖地に安置されて有縁無縁の衆生の菩提を済度し慈眼を以て衆生を視たまい福聚円満なる御姿と観音妙智力の功徳により御霊の冥福と倶に静岡市民の安泰と子孫繁栄、曳ては世界人類の平和と幸福を念願いたすことが目的であります。
昭和44年12月吉日(西暦1969年)建之 謹誌 喜壽福松 書刻 横井石堂
[B29墜落搭乗者慰霊碑]
賤機山慰霊碑の隣にはB29の大空襲時にその時墜落したB29の搭乗員の霊を祠る碑が建っている。
毎年6月に遺族による日米合同慰霊祭が行われている。
[賤機山]
ここは賤機山の南端にあたり、頂上には、かつて浅間神社脇からリフトが設置されていた。
その終着駅から市内が一望できる。
駿府城址の向こうに県庁や市役所をはじめとしたビルが立ち並んでいる。
[賤機山]
富士山の方角を望む。富士のビューポイントだ。
[賤機山]
富士を望んだ目線を下に向けると臨済寺が一望できる。
臨済寺へ進むにはこちらをクリック。
[賤機山城]
浅間山から尾根づたいに1km弱、20分ほどハイキングコースを歩くと賤機山城がある。
賤機山城は別ページを作る。
賤機山城へ進むにはこちらをクリック。
−コメント−
浅間神社は今川から徳川の時代に全国の名匠を駿府に集めて造られた。
日光の東照宮に匹敵する(ちょっと大げさかな?)神社だ。
浅間通りの入口まで戻って約3kmたらずの距離だが見どころが多く、このルートは時間は要する。