− 草薙〜入江の稚児橋 −
ヤマトタケル伝説から名が付いた草薙から次郎長というやくざで有名な清水湊へ向う。
寄り道をせずに旧東海道を行くと4km余りの行程。
[草薙の旧東海道]
清水区に入るが谷田という地名は両区にまたがっている。旧東海道は谷田と中之郷の間をしばらく進み草薙となる。
正面に富士画見える。写真ではよくわからないが見えている。昔は富士を見ながら江戸に向ったんだろう。
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[草薙旧道]
今は旧東海道が裏道となっていることから真っ直ぐに進めないで突き当たったりしている。
[草薙]
ちょっと迂回して直進すると街道は小さな橋を渡る。
[草薙神社鳥居前]
旧道がどこなのか分からなくなるので南幹線へ出る。草薙神社の鳥居前まで来ると東海道の看板が立っている。
このあたりからは南幹線が旧東海道になるらしい。
実際の道は部分的には南側にずれていたのかもしれない。ここだったのでは?と思わせる路地もあるがよくわからない。
[草薙鳥居]
先へ進む前に、南幹線の石鳥居から800mほど奥の草薙神社へ寄ってみる。
ゆるい坂が続く。
[草薙神社]
こんもりとした緑の中の草薙神社。入口の脇に謂れが書いてありました。
式内延喜式
草薙神社由緒
1 御祭神 大和武尊
1 御創建 景行天皇53年
1 例祭日 9月20日
景行天皇第2皇子の日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が起り、長け尊を殺そうとして原野に火を放った。
尊は佩用(はんよう)の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を降り草を薙ぎ払い火を逆賊の方へなびかせ、尊は無事に難をのがれた地を草薙という。
その後、佩用されていた天叢雲(あめのむらくも)の剣を草薙の剣と名称を変更になり草薙神社に神剣として奉られる。今より1860余年前である。
[草薙神社]
日本武尊像。
こんな人だったんだろうか?
[草薙神社]
入口の脇に井戸があったが謂われはよくわからない。
昔はここで清めたのだろうか?
[草薙神社]
御神木。
幹が空洞になってしまっているが、根性で生きている姿が力強い。
いつまでも生きていてほしいと応援したくなる。
樹名 大楠
樹齢 1000余年
樹高 15m余
周囲 20m余
この大楠は樹心は朽ちて外皮を残すのみといえども
今尚枝葉は繁茂し御神木の威厳を保っている。
昭和37年9月17日清水市指定文化財の天然記念物に指定された。
[草薙神社]
神門。
門の裏には古い流星が保存されている。
[草薙神社]
神門には神将が見張っている。
[草薙神社]
本宮。
生垣の脇に錆びた看板がありました。
草薙神社は日本武尊を御祠りしております。今より凡そ1860余年前に第12代景行天皇第2皇子として御生まれになりました。
勇猛果敢の御性格にして天皇の信頼厚く天皇の命により各地の賊を平らげて参りました。
当地に於かれましても賊と戦い、野火によって正に一命も危うくなりました時、尊が帯刀しておりました天叢雲剣を抜いて薙払いついに賊を平らげました。
[草薙神社]
神楽殿
龍勢の竿がくくりつけられている。
[草薙神社]
龍勢の説明ディスプレー。
この建物の中に龍勢の道具が揃っているのでしょうか。
<無形民俗文化財 龍勢(流星)煙火について>
文化財保護法により昭和59年3月16日付
静岡県選択 無形民俗文化財
保護団体 草薙神社龍勢保存会
龍勢(流星)煙火の由来
戦国時代の天文12年(西暦1542年)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。
「昼のろし」(龍勢)は煙や布切れ又は旗などを漂わせて「夜のろし」(流星)は光で合図しあうものであった。駿府城と久能山東照宮の守りとして、この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれてきて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋季例大祭日(9月20日)に打ち上げがおこなわれ現代に伝わっています。
龍勢(流星)煙火の仕組み
この龍勢(流星)は「のろし」に始まったと言われます。約15mもある尾竹竿に、ロケット式火薬噴射竹筒を結びつけ、その上端部に各種の変化花火を仕込んである仕掛け筒を固着した構造です。
発射ヤグラに掛けロケット式火薬噴射筒に点火、火薬の燃焼ガスの大音響とともに、自力により上昇展開する仕組みになっている。龍勢花火の製作・打上げは保存会員より実行される。
草薙神社龍勢保存会。有度まちづくり推進委員会
[首塚稲荷]
草薙神社から街道へ戻る途中から東側の坂を登り、清水有度第2小学校からさらに100mほど登った所に首塚稲荷神社がある。
[首塚稲荷]
看板に由緒が書いてありました。
首塚稲荷神社
所在地・草薙字東山1124番地
祭神・宇迦之御魂 創建・不詳
首塚稲荷神社の由緒に、三ツの言い伝えが有る。
1.草薙神社攝社にて草薙神社略記に。日本武尊東征のみぎり、此の地において地方部族と戦った時の戦死者の首を埋め、塚を作ったと伝えられている。
また北側の谷を流れる小川を血流川と呼ばれている。
2.景山景時が吉川氏に討たれ、大内山にて戦死を遂げた時、乗馬「磨墨(するすみ)」の首を刎ねたところ大内山より飛んでこの地に落ちたという。
名馬を称える伝説がある。
3.今川氏が駿河に栄えた時代の事。
(今川氏親の時代)文明8年(1476)氏親の父7代「義忠」の急死により、世継ぎ問題が起こり氏親(幼名竜王丸)派と小鹿範満(従兄弟)派に分かれて反目した、小鹿氏を支持した有度山東麓の矢部一族は、此の付近にて戦い小鹿氏と共に敗れ去る。後年その時の戦死者の遺骨が散乱し畑地耕作に事欠く始末であったため、村人の手により遺骨を集めて弔った。この付近には、野狐が多く出没したので、稲荷神社を建て祀ったと伝えられている。
[草薙神社参道]
街道へ戻るために坂を下る。
清水有度第2小学校や清水第7中学校を通り過ぎ、街道へ出る直前に看板が立っていて草薙神社参道の事が書かれていた。
此の絵図にある鳥居は石鳥居で2か所有り東は一里山新田と草薙村の境にあり、西は草薙村と谷田村の境の2か所ありました。東の鳥居は寛政7年9月吉日(1795)西の鳥居は寛政5年9月吉日(1793)・神主森主計宗芳の時、近郷、近在の氏子の寄進によって建てられたが、現在は移転して草薙神社境内にあり。
又此の道は、草薙神社への参道で、東参道の両側に杉並木があったので、現在も草薙杉道の字名が残っている。
駿国雑誌に左記の記録あり(東参道鳥居付近)
「お茶小屋と釜の段」有度一里山新田にあり村の西はずれ南側の石鳥居は、式内草薙神社への道筋で「お茶小屋」という所あり寛永年中、将軍家上洛の時、お茶を差し上げた所で、松並木の内に有り。釜の段に茶臼塚という塚有り、この所に釜を据えて、お茶を立てお茶小屋にて将軍家に差し上げたと言われる。(現在は、第7中学の校庭になっている)
「小田村」江戸時代の村で戸数20軒・人口98名・反別12丁歩余(12000平方米)の狭い村で明治以降独立の村として存立する事が難しかったので行政指導により、草薙村と合併の内命を受け、明治10年2月12日静岡県令大迫貞清氏より許可の指令を受け合併した。
[草薙一里塚]
南幹線は4車線の幹線道路。南側の歩道を進むと北側の歩道に東海道を歩く集団がいた。
その前には一里塚の碑が立っている。
[草薙一里塚]
塚に説明書きがあった。
一里塚は徳川幕府より慶長9年(1604)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里(3920m)を36町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた。
東海道は江戸日本橋を起点に京都までの120里(約470km)の道の両側に松並木を植え1里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。
草薙一里塚は江戸より43里(170km)の処で43番目の塚です。道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は5間(9m)四方、高さ1間(1.8m)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・旅人の道しるべ・休憩所等となっていた。
榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府・今の静岡市)2里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠振り分け荷物を肩に旅立つ姿が偲ばれます。
因みに一里山の起源は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれるようになった。
[草薙一里塚]
一里塚の脇にはなぜか狸が立っている。
このあたりは一里塚にちなんで一里山という町名になっている。
[草薙一里山・旧道]
一里塚からほどなく信号があって、そこから新道と旧道に分岐する。
[草薙旧道]
旧道には車の通りが少ない。この先の十七夜山千手寺の看板に伝説が書かれている。
上原鎮守十七夜宮伝説
昔上原に大変信仰の篤い人があった。ある日夢の中に不動明王のお姿が現れ「わたしは浅畑の、滝の不動尊である。お前の信仰心の篤いのに感じ入った。お前のような者の住む上原は、さぞよい所であろう。是非上原に奉って大勢の人々の難儀を救ってやりたいと思う。早く浅畑へ来てわたしを上原へつれて来るように」とのお告げがあった。不思議な夢を見るものだと思っていたが、それから毎晩のように同じ夢を見るのであった。彼は「これは全く、浅畑の不動さまのお告げに相違いない。浅畑の人達には申し訳ないが不動様を上原へ、お連れ申し上げる亊にしよう」と決心した。そこで彼は、わざわざ浅畑まで出掛け、滝の不動尊の扉を押開き、御神体を取り出して持ち帰ろうとした。浅畑の人達は、これを見つけて追いかけて来て、取り戻そうとした。彼は「私は不動様のお告げで、上原へ連れ申すのだが、皆さんがいけないと言われるならばお返しする」といって浅畑の人達に渡して帰り出した。浅畑の人達は御神体を受け取ったが、急に磐石のように重くなり、動かす亊も、持ち上げる亊も出来ない。浅畑の人達は驚き怖れて、急いで彼を呼び戻し、仕方なく、御神体を彼に渡した。浅畑の人達は御神体を持ち捧げて、上原へ帰ってゆく彼の後ろ姿をいつまでも合掌して見送っていたのである。
彼は上原に不動様をお迎えすると、庄屋さんとも相談して、十七夜山千手寺の裏手のお堂に、上原村の鎮守としてお祀りした。これが現在の上原鎮守十七夜宮である。この御神体というのは、45キロほどの漆黒の古木であるという。
(文化年間約180年前の地誌駿河記に所載)昭和63年辰年10月16日建之。
[十七夜山]
黄檗宗「十七夜山 千手寺」。
上原鎮守十七夜宮
旧東海道より約100m十七夜山千手寺本堂南 創建年代不詳
現存する最古の記録、慶安4年辛卯夏1651年
祭神、不動尊、祭日、10月16日
上原鎮守十七夜宮は、昔から、上原産土神として上原の土地を守り、上原に住む人々の万難を除去し、家庭の幸福を守護するとして、村人の信仰を集めて来た。
尚、出生児の無事成長を祈願しての、お詣りも行われている。
鎮守の宮詣
1.初詣 男 32日目 女 33日目
1.喰初詣 男 110日目 女 120日目
1.誕生詣 生後1ケ年
1.七五三詣
其他
1.結婚詣
再建
1.宝暦3年癸酉9月16日 上原村総氏現住4代 隣堂
1.明治14年10月 村落有信子寄捨現住8代 泰岩
1.大正12年10月 上原区一同 無住
1.昭和29年10月17日 上原区一同現住10代
1.昭和58年10月16日 本殿御厨子再建現住11代
[上原延命子安地蔵尊]
十七夜山から200mほどの所に上原延命子安地蔵尊がある。
さほど伝統のある建物には見えないが古木もあって古いのかな?と思わせる。
由緒の看板があるので読んでみます。
上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の、長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めてきた。創建時代は明らかではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。
之に従えば奈良時代となる。然し庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。
上原の古地名は地蔵原ともいわれていたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これ等の事を思い合せれば、創建は鎌倉時代或はそれ以前と考えられる。
永禄11年12月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本体の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。
次いで天正10年2月(1582)徳川家康が、武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。
元和元年大阪夏の陣の直後 秋10月(1615)吉川福聚院の住職明眼和尚の尽力と、付近住民の協力により、荒廃していた地蔵堂も立派な堂宇として再建された。
然しこの堂も明治24年9月(1891)、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は、間口1.2米、奥行1.8米程の仮堂で、41年間を過ごすことになったのである。
昭和7年4月(1932)上原区民の、長い間の悲願であった地蔵堂も、区民40余年に亘り積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。
昭和57年4月(1982)昭和再建50周年を記念し、御本尊を開帳し、盛大な大祭が執行された。
平成3年1月(1991)境内入口にあった消防器具置場も撤去され、周辺の整備が行われ、石の堂標が建立された。
毎年8月15日の祭礼の夜は、地蔵堂裏の広場で、大勢の人々が集り、盆おどりなどが盛大に行われる。
[上原延命子安地蔵尊]
地蔵尊の入り口にまきの木があって看板が立っている
「この樹木は清水市みどり条例により保存樹木として指定されたものです。」とある。静岡市と合併してどうなったのかな?
樹齢 約230年
樹高 10m70cm
枝張り 東西4m
南北7m
周囲 (目通り) 2m20cm
[狐ヶ崎]
東海道は有度山の出っ張りに池があり、迂回する形になっている。
この池のある場所に以前、狐ヶ崎ヤングランドという遊園地があった。
今はイオンのショッピングセンターに姿を変えている。
[狐ヶ崎]
池を迂回する旧道を振り返ってみる。
この有度山の出っ張りになっている尾根が狐の鼻のような形をしていることからこの名が付いたのだろうか?
[国師堂]
イオンの駐車場を通り抜けた南側の南幹線の下をくぐった所に聖一国師堂に通じる階段がある。
階段の途中には雛人形の青島藤次郎翁の碑がある。
<青島藤次郎>
青島藤次郎翁は明治3年4月18日、府中在見瀬村に生れた。進取の気性に富んだ人で、静岡市に出て足袋業を営んだが、そのかたわら静岡漆器の特色を生かした雛道具を造ることに着眼し、雛御殿、小道具などの意匠と形に工夫考案をこらし、また販路を全国に広げて静岡雛具の基礎をつくった。
ついで静岡雛具組合を創立して初代組合長となり、明治、大正、昭和の三代にわたって業界の育成、発展につとめた。一方、翁の足袋業は洋品店に、さらに昭和6年には静岡県下で最初の百貨店田中屋へと発展し、商才と先見の明は静岡商人の名を高めたが、昭和8年11月11日、静岡市呉服町の自宅で惜しまれつつ、この世を去った。年64才であった。
しかし翁の創見によってはじめられた静岡雛具はいまや日本全国に及び、さらに海外まで進出し、産額は全国1位を占め、前途洋々たるものがある。
ここに翁の遺徳に感謝の誠を捧げ、その偉業を顕彰しさらに業界の発展をいのり、ゆかりの地に碑を建てて永く記念するものである。
昭和33年3月3日 発起人一同
[国師堂]
10mほどの高さを登りきると聖一国師堂がある。堂の前に謂れが書かれた看板があった。
<聖一国師と国師堂>
聖一国師(1202〜1280)は、私たちの郷土静岡市栃沢に生れ、静岡茶の始祖として知られています。
国師は日本と中国の著名な寺で修行を積んだのち京都五山の一つ東福寺の開山となり、僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧です。また、1930年(昭和5年)には昭和天皇から「神光」の追号を賜わりました。国師の功績は多大で、中国(当時の宋)から茶の種子や麺類、人形などの技術を持ち帰り我が国に伝えて、日本の産業と文化の進歩のため大いに貢献しました。
今日、お茶の静岡と云われる静岡茶の起源は国師が中国から持ち帰った茶の実を静岡市の足久保に植えたのが始まりです。
1954年(昭和29年)聖一国師が初めて仏門に入った久能寺に近い、ここ狐ケ崎(当時の狐ケ崎遊園地)の御堂にその遺徳を伝えようと国師真像を安置して開眼の儀を行いました。
以来、この御堂を聖一国師堂と呼び毎年春秋の2回供養・法要を行ってその遺徳を偲んでいます。
[久能寺観音道]
旧道まで戻り、イオン入口の信号のある交差点の傍らに久能寺観音道道標というのがある。
ここでいう久能寺は今の東照宮のことではなく鉄舟寺の前身のとのことらしい。
別の機会に「久能寺観音道」を散策してみる。
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[谷津沢川]
久能寺観音道道標の脇を流れる沢は旧東海道の下をくぐり、暗渠となって北上する。その路地を100m程入ると東海道線を歩道橋が渡る。説明看板を読む。
<谷津沢川水路橋>
この橋は、鉄道線路の上を川が流れ、そのまた上に歩道があるという日本でも珍しい橋の一つです。
かつて、この橋の辺りは丘陵地として地続きでしたが、明治19年(1886)頃の東海道本線敷設の際に切り通しの工事が行われ、そこに出来上がったのがこの谷津沢川水路橋です。
東海道本線の開通は国の威信をかけての大事業でしたが、この水路橋は下流域農地の灌漑用水を確保し、当時の主要産業だった農業を守るために必要不可欠な橋だったのです。
その後、昭和5年(1930)に現在の静岡鉄道静岡線の線路敷設のために延長され、昭和43年(1968)に国鉄から清水市に無償譲渡されました。
この橋が現在のように歩道橋としての機能を兼ね備えた橋になったのは、昭和9年(1934)の静岡鉄道狐ケ崎駅の開設や、その後の周辺地域への企業の進出、人口増加などによるもので、地域社会と共に発展し立派になってまいりました。
昭和49年(1974)の集中豪雨(七夕豪雨)の時には、谷津沢川の土手が水路橋の直ぐ手前で決壊し、線路上に大量の土砂が流れ込んで、東海道本線と静岡鉄道静岡線が不通となる大災害になりました。
幸いこの水路橋は無事でしたが、その後も常に危険を抱え、かつ老朽化したこともあって、平成元年(1989)に橋の手前を流路に沿って直線化し、拡幅、強化して、自転車置き場を橋の両端に備えた私達の生活の欠かせない3代目の橋となって生まれ変わりました。
元の橋の基礎部分が現在も東側に残っていますが、線路と直角に最短距離で渡しています。又、列車を通す高さを確保し、谷津沢川を緩やかな勾配で渡すために、流路を変え、嵩上げするなど、鉄橋建造小路を始め当時の土木技術の粋を結集したものでしたが、創造を絶する難工事であったと言われています。
[谷津沢川]
普段は水量の少ない水が歩道の下を流れているのを隙間から見ることができる。
[狐ヶ崎]
狐ヶ崎の久能寺観音道の道標を過ぎると真っ直ぐ清水の江尻へと向かう。
[踏切]
街道をJRが横切る。
ここは静岡鉄道の線路も併走した踏切なので遮断機が下りていることが多い。
[追分]
踏切を越えると追分という地名に向かう。
信号を左に入ると姥ヶ池伝説がある社が建っている。
[姥ヶ池]
信号から100m弱の道路脇に小さな社建っていて傍らに池がある。
看板が立っているので読んでみます。
今から1200年ほど昔、延歴年中、この池のあたりに、金谷長者というお金持ちが住んでいました。
子供がいないので、神仏にお祈りして子を授かりました。ある年にひどい咳が流行して、この子も患いました。乳母はこの池辺の弁財天に祈願して小児の代わりに池に入水して死にました。これより小児の病はよくなりました。
長者は姥の子育てに感謝して池のふちに社を建て霊を祭りますと池の底から泡が出始めました。
この池のほとりに立って、「姥かいな」と呼べば、それに答えるかのように泡が出ては淋しく消えていくようになりました。それからは姥ケ池と呼ばれ、ひどい咳に病む子供たちがこの社にお祈りするとたちまち治ると言い伝えられました。東海道を旅する人々は立寄ってお参りしたそうです。
[金谷橋]
旧東海道へ戻り東へ進むと間もなく小さな橋を渡る。
橋のたもとに謂れが書いてある。
追分と金谷橋の今昔
昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志みづ道」の分岐点であることから「追分」とよばれていた。
周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側に田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。
往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。
古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。
[都田吉兵衛供養塔]
橋を越えてすぐの所に供養塔が建物の陰に隠れるように立っている。
いわれの看板を読む。
春まだ浅き文久元年(1861)正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐れみ里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。
此処を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。
[追分羊羹]
静岡の3大銘菓の一つ追分羊羹はここが本店。
[しみずみち]
この場所は東海道としみず道との追分になる。
石碑が立っている。石碑の裏には南無妙法蓮華経と彫られていた。
このしみず道を100mほど入ると入江小学校のグランド脇へ出る。この小学校は「さくらももこ」の母校らしい。
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[入江公民館前]
追分羊羹から入江へ向かい500mほどで県道を横切ると間もなく入江公民館がある。
旧東海道はまだまだ直進するのだ。今では建物にさえぎられて見えないが、富士を斜めに見ながら旅人は江戸へ向かったのだろう。
[江尻宿木戸]
入江公民館からしばらくすると道路脇に小さな道標が立っている。
江尻の木戸がこのあたりにあったのだろう。
ここから江尻宿に入る。
[入江]
この先の突当りに見えるのは、入江の変則交差点。
ここから南に曲がるとすぐ先が「ちびまるこちゃん」の舞台になった所。
この道は、入江から久能山東照宮へ向かう「久能道」なのだ。府中からも久能街道があるが、もうひとつの久能街道だ。
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[法願寺]
入江の変則交差点の手前に浄土宗「紫雲山 江照院 法願寺」の入口がある。
[朝顔日記]
朝顔日記の深雪の墓がある。説明看板があるので読みます。
当法願寺本堂の左奥に浄瑠璃「朝顔日記」深雪のモデルと云われる人の墓があります。
正廣院殿永安種慶大姉の銘があり、日向国(宮崎県)財部(現在の児湯郡高鍋町)3万石の城主、秋月長門守種長公の娘で4代目清水船手奉行となった旗本1700石山下弥蔵周勝の夫人で寛永18年(1642)4月18日に没し当寺に葬られました。
夫人の青少年期は数奇な運命を辿って居り、この事が物語の筋となったと思われます。
[いちろんさん]
入江の変則交差点に「いちろんさん」と建物に書かれた八百屋がある。
右の入口に「清水名物協会」ののれんが掛かっている。
[いちろんさん]
「清水名物協会」ののれんをくぐると小さな人形がディスプレーされている。
[入江]
入江の変則交差点を通り過ぎて、振り返って写真をとってみる。
[入江]
変則交差点から200mで巴川にかかる橋に出会う。この橋は「稚児橋」と呼ばれている。
[稚児橋]
稚児橋には伝説があって、欄干に「カッパ」が立っている。
[稚児橋]
欄干の「カッパ」の下に稚児橋のいわれが書かれた看板があった。
慶長12年(西暦1607年)徳川家康の命により、東海道53次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることになり、渡り初めの日とはなった。
さて儀式に先駆けて、かねて選ばれていた老父夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り忽然と入江方面へ消え去った。
渡り始めに集まっていた人達は、あまりに当然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。
なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。
清水の名物いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童がいるのはこの伝説による。
[稚児橋]
結構交通量が多い道でした。なかなかシャッターが押せない。
[稚児橋]
やっと車が切れたので橋の全体が撮れました。
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−コメント−
東海道を清水区に入ってからここまで約4km。
出発した草薙では、やっぱり見逃せない草薙神社へ寄ったので約6kmの行程となった。
途中に東海道から分岐する3つの道に出会った。