− 井宮安西 −

賤機山と安倍川に挟まれた地域。
 東海道が整備される以前には、安西のあたりが東西を結ぶ街道だった時代もあった。
 中町から出発して安西橋へ行き浅間通りまで戻り、井宮、昭府までの約6kmの行程。


images/4060dote1.JPG [土手通り]
 中町の近辺は「本通周辺」や「浅間神社」で紹介しているので、本通と並行する土手通りから散策する。
 呉服町通りが本通りを越えると日銀のところから茶町通りとなる。茶町通りを進むと100mほどの金座町の信号で交差する道が土手通り。
 写真は金座町の交差点の手前から土手通りを撮ったもの。横切っている道が茶町通り。

<金座町>
 金座町という町名は昭和初期に上魚町から変更なった。江戸時代に魚や青果問屋が並んでいたことから上魚町と呼ばれていた。
 江戸の初期にこの所で、後藤庄三郎光次が「駿河小判」を造って金座を営んでいた。金座はのちに江戸へ移ったが、それを因んで「金座町」と命名したとのことだ。

  

images/4060dote2.JPG [土手通り]
 金座町の信号から土手通りを西に向かうと50mで研屋町となる。この地区は小さな町名が入り組んでいる。
 信号をもう1つ越えた所から金座町、車町方面を振り返る。

<研屋町と車町>
 研屋町は徳川家康が京都から呼び寄せた研師が住んだことから呼ばれるようになった。
 車町は徳川家康が駿府城築城に際して荷物を引く牛飼いが住んだことから呼ばれるようになった。 

  

images/4060dote3.JPG [顕光院]
 土手通りの自転車屋の角を曲ると突当りに「医王山 顕光院」という曹洞宗の寺がある。
 家康が呼び寄せたという縁の寺らしいが詳細はわからなかった。

  

images/4060dote4.JPG images/4060dote4a.JPG [神明宮]
 顕光院を過ぎてすぐの路地を本通側に曲ると屋形町という町名になり静岡神明宮という神社がある。
 6月に夏祭、9月に「日待祭」が行われている。

<屋形町>
 江戸時代に町奉行や与力などの屋敷があったからこの名がある。

  

images/4060dote5.JPG [土手通り]
 土手通りと国道362号の屋形町交差点。
 交差点を右に曲ると安西方面へ向かう。

  

images/4060kyokai.JPG [静岡一番町教会]
 国道362を安西方面へ200mほど進むと日本基督教団の教会がある。
 一番町にあるから一番町教会という。

<一番町>
 昭和の初期に裏一番町という町名が一番町と住吉町に分割した。
 番町はもともと侍屋敷の町という意味で明治維新後に旧幕臣たちが住んだことからこの町名があった。番町は一番町から八番町まで分かれている。
 住吉町はもちろん住吉神社にちなんでいる。

  

images/4050sumiyo1.JPG [住吉神社]
 ほど安西方面へ向かうと小さな神社がある。
 ここは一番町だが、隣にある町名の住吉町の由来となっている神社。

 祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命で海の神、航海の神。この辺一帯が安倍川、藁科川の間にできた中瀬だったことから水害多発地で、それを鎮めるため勧請したらしい。

  

images/4050sumiyo2.JPG [住吉神社]
 現地には説明書きも何も書かれているものはない。
 石柱が2つ立っていて「神饌幣帛 供進指定 中津神社」「住吉大神宮御寶前」と彫られていた。
 


images/4060itiban.JPG [静岡市市民活動センター]
 住吉神社から100m路地を入ると「静岡市市民活動センター」がある。
 元は一番町小学校があったが、今は三番町小学校と合併して、廃校となって市民活動センターとして利用されている。
 


images/4100houdoji1.JPG [報土寺]
 市民活動センターの西の道を北上する。このあたりは古くから栄えていて、葵町、錦町、茶町、上桶屋町、土太夫町などの小さな町内が並んでいる。
 400m程進んで安倍街道に出たところに報土寺がある。
 「宮崎山 報土寺」は家康によって今の地に移転して来たといわれる浄土宗の名刹。かつては浅間通りから直接続く参道があった。


images/4100houdoji2.JPG images/4100houdoji3.JPG [報土寺]
 戦国時代に活躍した冷泉為和の歌碑がある。為和は応仁の乱の後に駿府に流れてきた公家で、この報土寺で歌会を開いたとされる。
 この寺には、静岡の名士たちの墓が数多くある。

images/4100ohatuka.JPG [安西おはつかさん]
 報土寺の裏100m程の路地を入ると安西1丁目と八千代町の境の辺りに「水月堂」という小さなお堂が住宅にはさまれて建っている。説明看板を読む。

 水月堂(通称おはつかさん)は静岡市安西1丁目南裏に位置し、11面観世音菩薩を安置し、神選府辺観音霊場(新西国)33ケ所巡礼札所中第26番にして本尊は鎌倉初期の名匠運慶の作と伝えられ国宝的存在でありました。しかし戦災(昭和20年6月20日)で焼失してしまいました。
 元亀年間今を去る事400有余年(405年)前、安倍郡籠鼻(今の井宮町西北部)の圓皆寺(現在は廃寺)の住僧宗文のの創建で今川家の臣福島淡路守の夫人然正印智現妙本大姉の開基と伝えられています。
 毎月20日を以て御縁日と定め毎年3月には僧侶を招き特別大法要を続けております。
      水月堂奉賛会

  

images/4192anzai25.JPG [安西通り]
 「水月堂」から20mほどで安西通りに出る。
 安西通りの通っているあたりは東海道が整備される以前は、旧の東海道とも言える道だった。
 旧の東海道は丸子方面から峠を越えて手越や牧ケ谷へ抜け藁科川を渡り、安西郷を通り、安倍川を渡り、長谷通りから北街道へ抜けていく経路だった。

<安西>
 今の安倍川は江戸初期に完成した薩摩土手により藁科川と合流して流れているが、かつては今よりずっと東方の、市の中央部を貫流していた。
 「安西」の地名は南北朝時代の「安西郷」の名残りで、安倍川(あるいは安倍市)の西という語源である。現在は安西通りに沿う町々で、一〜五丁目まである。
 かつて安西は南賤機村の一部だったが、明治42年に静岡市へ編入された。その際、籠上以北の町は、新設された賤機村へ編入された。

  

images/4110zuiko1.JPG [安西瑞光寺]
 安西通りの北側の路地を入ると寺が並んでいる。
 右の寺が「佛日山 瑞光寺」。曹洞宗のお寺だ。武田信玄ゆかりの歴史のある寺らしい。


images/4110zuiko7.JPG [安西瑞光寺]
 寺へ入ると正面に佐久間翕翁の石碑がある。明治の初期に静岡の文化に寄与した人らしい。


images/4110zuiko8.JPG [安西瑞光寺]
 お花塚?と彫ってあるのだろうか。塚があった。
 

images/4120anzai.JPG [安西然正院]
 左の寺が「鳳凰山 然正院」。こちらも曹洞宗のお寺だ。 

images/4150meirin.JPG [北番町・明倫館]
 然正院の裏に古めかしい建物がある。
 明倫館と書かれているが謂われはわからない。

images/4150kitabantyo.JPG [北番町静岡県共祭招魂社]
 静岡厚生病院の北側に自治会館があって、その脇に石碑が立っている。
 「静岡県共祭招魂社」は静岡県縁の戦没軍人、軍属を神様としてお祀りし、昭和14年に静岡県護国神社と改称、昭和17年に柚木に移転した。
 その跡地を記念した石碑。

images/4160sinmei.JPG [神明神社]
 静岡県共祭招魂社跡から300m北の神明町に神社がある。
 この町名の由来となっている神明神社だ。

images/4170yakumo2.JPG [八雲神社]
 厚生病院まで戻り、病院北側の路地を進むと八雲神社がある。


境内に建てられた石碑に刻まれた八雲神社の御由緒

八雲神社御由緒記
鎮座地     静岡市北番町八十四番地
祭神      須佐之男命
祭儀      例祭 六月・九月
創立年月日 口伝によれば寛永三年創立と伝う

 往古は牛頭天王と称し当国総社浅間神社に祀られていたが戦禍に遭い別当職が笈に納め安倍郡大岩村に遷し大岩村の村民の氏神として祭祀を引き継ぎたり、その後寛永の頃駿府城北番所の番士この地に居住し牛頭天王を崇敬し為に寛永三年大岩村よりこの地に勧請し宝永三年真言宗建穂寺末寺別当牛頭山宝積寺中興願成院智寂法印氏神として祭祀を承継す。
 明治三年神仏混淆廃止令により八雲神社と改称し同八年二月村社に列格同四十二年六月十八日神餅?帛料供進指定を受く敗戦により国家の庇護を離れ神社本庁設立に伴い静岡県神社庁所属となりて氏子により祭祀を継承し現在に至る。

 三百五十年を記念して建立    宮司 榊原新一 責任役員 杉山外作・望月新一。

  

images/4170yakumo3.JPG [八雲神社]
 本殿の前に看板がある。

 八雲神社の祭神は須佐之男命です。
 須佐之男命は皇祖天照大御神の弟君で大神の日本立国にその武勇をもって貢献された神様です。
 出雲の国において八俣遠呂智(ヤマタノオロチ・大蛇)を退治した神話は有名です。
 この健康の神様須佐之男命にお参りして、壮健な神様の精神体力にあやかりましょう。

  

images/4180enmei.JPG [安西延命地蔵]
 安西通りは安西5丁目まで行くと安倍川に突当る。
 橋の袂に地蔵堂が建っている。

images/4180jouyato.JPG [安西・常夜灯]
 地蔵堂の前に常夜灯が立っている。
 浅間通りの入口と同型の灯籠であるところをみると、浅間神社への入口に位置付けられているのだろうか。

images/4192anzai29.JPG [安西橋]
 安西の常夜灯前から西を臨むと安西橋がある。
 この先は羽鳥を通って清沢・川根へと続く。国道362号線だ。

images/4190matunoki.JPG [田町・松ノ木神社]
 安西橋から南へ安倍川の土手に沿って150m行くと土手の脇に松ノ木神社がある。


 松ノ木神社のいわれについては、記録はなく伝説としての口づてにて残された事より外にはないと云われます。
 明治の終わり頃、一番町尋常小学校、三番町尋常小学校に通った子供達は田んぼの畦道に何十年か経った大きな松ノ木が有り、其の下に小さな祠が有って、其の中にワラジが沢山つるして有ったのを見ている人は今も何人か、生存しています。
 其の人達が、当時の古老から聞かされていた話によると、出雲大社を信仰し、諸国を遍歴した行者がふとした事から、お祠の附近の土地に住みつき、人々の話し相手となり、足を患った人や、いろいろの病気で悩んで居た人達に薬を教え、治療を施し、病気を治癒させたと云われ、病気の治った多くの人々は、大変喜び行者を尊敬し大事にされ、それが何年か続き終りは多くの人々に見守られて、この地に亡くなられた云われます。
 医者もなく、貧しいくらしの時代のこととて、この行者を慕いお世話になった人々が云い寄って小さな祠を建て、お祀りをしてきたのです。
 病気の時には治して下さるようにと願かけし、治ると、ワラジなどおはたしとして、あげたと云われ、それが幾つかつり下げてあったのです。
 その後耕地整理が行なはれ、畦道もなくなり霊験あらたかとして讃えられていた小さな祠は移転せねばならなくなり、又お祠のシンボルであった、大きな松ノ木は伐る事になったのです。
 誰云うとなく松ノ木さんと稱えられていた事とて、これを惜しみ皆さんが町内の中央に5坪、6坪の土地を選び以前より大きな立派な、お社を建て毎年お祭りが賑やかに行はれて来たのでした。
 昭和27年9月町民の大きな要望により、現在の立派なお社を再築し、昭和27年9月21日午前0時に町内中の灯りを消し、羽織、袴の、正装で提灯の明かりを頼りに町内役員により現在の地に遷座され、シンボルであり、名残りの松もお社の側に他から移植され、大きく育ち、昔を物語ってくれています。  以後お詣りする人は増して、お祭りも賑やかに盛大に毎年秋の彼岸の仲日の前後に行はれます。  松ノ木神社も田町1丁目町内会と共に永久に栄えて行く事と思われます。  「松ノ木神社の神様は人助けの神様です。」      田町1丁目町内会

  

images/4196kouti.JPG [田町・田町公園耕地整理の碑]
 ちょっと足を伸ばして600mほど南にある田町公園の片隅に耕地整理の碑がある。

<田町>
 もと安西外新田と呼ばれた水田地帯。薩摩土手を造ったことにより、開拓された新田で、外新田を耕地整理して設置され、田町と称した。

  

images/4192anzai11.JPG [安西通り]
 安西橋の所まで戻る。
 安西の西端は5丁目。安西通りを東へ向かい、浅間通りまで約1kmほど戻ることにする。
 

<安西五丁目>
 安西通りに沿い一〜五丁目まである。江戸時代から府中に属していた。
 五丁目は薩摩土手の外堤と内堤に囲まれた安西外新田にできた町。

  

images/4192anzai12.JPG [安西通り]
 安西通りは橋から400m程東へ戻るとさつま通りと交差する。
 さつま通りはかつて薩摩土手があった所を取り除き幹線道路に仕立てた通りだ。
 左へ向かい1km程行った所にある川除地蔵から井宮神社の間に土手が残っている。

 井宮神社前の説明看板がこのページの後半にある。そこへ戻るにはクリック。

images/4195satuma4.JPG [さつま通り]
 安西通りの交差点からさつま通りを臨む。
 ここから1km余りさつま通りは続き、本通りへ出る。

 本通り方面のページへ進むにはクリック。

images/4192anzai13.JPG [安西通り]
 安西4丁目。安西通りはここまで国道362号線だ。国道はこの先で右折して旧東海道方面へと進む。


images/4192anzai14.JPG [安西通り]
 このあたりは安西3丁目。左に入った所は北番町。
 北番町には(株)静岡茶市場やJAの茶業センターがあって、昔から製茶業や茶卸が多い。

<北番町>
 番町は侍の住む場所の地名だ。安西通りをはさんで北側が北番町、南側が一〜八番町となっている。
 元は江戸時代の初期に侍屋敷があったらしい。その後侍屋敷は消失したが、明治初め頃に旧幕臣たちがこのあたりに住んだ。

  

images/4192anzai15.JPG [安西通り]
 安西1丁目まで来るとこの先で安倍街道と交差する。安西通りはここまで。
 安西通りは静岡環状線の一部となっている。

images/4192anzai16.JPG [浅間通り]
 安西通りと安倍街道の交差点付近は安倍町。安倍町の交差点から50mで浅間通りと出会う。

<安倍町>
 安倍町の由来は2説ある。
 1つは徳川家康の家臣安倍大蔵少輔元真が住んでいたので呼ばれたという説。
 もう1つは古くこの辺が「安倍郡」の中心で安倍の市と呼ばれた地域だった。

  

images/4204abe.JPG [安倍街道]
 安西通りとの交差点から安倍街道を進む。
 県道井川湖御幸線とも言い安倍川や井川へ通じる主要幹線道路になっている。

images/4207abe.JPG [安倍街道]
 安倍街道を進み浅間神社を右に見ながら北上するとそこは片羽町。

<片羽町>
 もとは浅間神社神社の社領だったことから賤機山側には町屋がなく片側だけの町だったことから片羽と呼ばれた。

  

images/4210tyumasa.JPG [材木町忠正]
 材木町の交差点の所に静岡の地酒「忠正」の醸造元「吉屋酒造」の蔵があったが2009年3月に廃業。
 創業宝暦元年ということで258年の歴史に幕を降ろしました。
 徳川慶喜や山岡鉄舟、勝海舟などにも愛飲された辛口銘酒だった。

<材木町>
 安倍川は浅間神社建立の当時はこの材木町の近くを流れており、普請のための材木を安倍奥から筏で流しこのあたりで水揚げされ、あまった材木を売る材木商が多かった。
 薩摩土手により安倍川の流れが移った後も材木商を続けている者が多かったことから材木町と呼ばれている。

  

images/4230zuiryu1.JPG [井宮・瑞龍寺]
 忠正の裏、賤機山の山裾に「泰雲山 瑞龍寺」がある。
 説明看板があるので読んでみます。

宗派  曹洞宗
寺系  静岡市葵区沓谷長源院末
開創  永禄3年(1560年)室町・戦国時代
本尊  聖観世音菩薩
開山  能屋梵藝大和尚
開基  旭姫(徳川家康公夫人)(豊臣秀吉公の異父妹)
本山  大本山永平寺(福島県吉田郡永平寺町)
    大本山総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)
瑞龍寺由来
 永禄3年長源院第4世梵梅和尚の法嗣能屋梵藝和尚が開山して旧寺址を広めた。
 当時は浅間山の西麓に位置し駿河7ケ寺の一つであった。
 家康公は駿府在城の折度々住職を招集し曹洞の法門を聴聞された、当時も7ケ寺の一つとして家康公と深い縁に結ばれていた。
 天正18年(1590)旭姫没するや、当寺に墓を建て、その時の法名「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」から当時の名前が瑞龍寺となりました。
 この為、豊臣家・徳川家両家より寺領を寄進せられた。
 戦災等で寺を焼失し、後昭和26年再建する。
<寺所有の重宝品>
 旭姫の小袖・秀吉公の朱印状・蝶足膳(桐紋蒔絵膳)
<境内設置>
 旭姫の墓・切支丹燈籠・芭蕉の時雨塚

  

images/4230zuiryu2.JPG [旭姫墓]
 瑞龍寺には徳川家康の正室「旭姫」の墓があるというので探してみました。ひときわ古いお墓でした。


旭姫(朝日姫)墓廟
 豊臣秀吉公の異父妹で尾張の地士佐治日向守の妻
 秀吉が小牧長久手の戦後家康と同盟関係を築く為妹を日向守と離別させ天正14年(1586)5月浜松城の家康の所へ嫁がせた。
 天正16年自分の母、大政所病気見舞いに上洛しそのまま天正18年1月自身も病気で没した(48才)
 秀吉は京都東福寺に埋葬し「南明院殿光室総旭大姉」と諡(おくりな)し悲運な妹への供養を行った。
 家康と共に在った僅か2年、上洛後2年で病没し加えて前夫日向守は秀吉の仕打を憤り切腹し果てる誠に薄幸の身の上である。
 一方家康は旭姫がしばし詣でていた当時に墓を設け「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」と諡し祀った。



images/4230zuiryu3.JPG [キリシタン灯篭]
 瑞龍寺には珍しいものが多い。キリシタン灯篭という物もあった。
 「井宮の名所・旧跡イラストマップ」という大きな看板も立っていた。そこに説明書きがあったので読んでみます。

<しぐれ塚>(芭蕉の句)
 安藤村長安寺から移されたもの、石の右側に(芭蕉桃青居士)左側に芭蕉の命日が刻まれていた。
 「きょうばかり人も年よれ初しぐれ」の句からしぐれ塚という。
<キリシタン灯ろう>
 1605年頃駿府城に、フランシスコ会、イエズス会があって、城内、安倍川の2ヶ所に南蛮寺があったといわれている。灯ろうの中をのぞいてみよう。
<旭姫の墓>
 豊臣秀吉の妹で、徳川家康の正室であった家康と駿府城に住んでいたが、京都に行き48歳でなくなった。家康が東福寺から分骨してここに墓を作った。戒名(瑞龍寺殿)

  

images/4230zuiryu4.JPG [宗李山本翁碑]
 石碑が立っていた。
 かつての名士だったようで、この寺に大きく貢献した人なのだろう。

images/4230zuiryu5.JPG [瑞龍寺時雨塚]
 旧跡イラストマップにも載っていた時雨塚。
 説明書きを読む。

芭蕉翁の「今日ばかり人も年よれ初しぐれ」の句
 芭蕉排青居士 元禄7年10月12日と、もとは彫ってあったという。
 碑は昔、市内安東の長安寺に在ったが廃寺となったので明治12年頃、材木町の大村青渓氏が、この寺に移した。

  

images/4220abetetudo.JPG [安倍鉄道]
 安倍街道へ戻り、材木町交差点から100m程の西の路地を入ったあたりが昔、安倍鉄道の始発駅があった所だ。
 (株)赤石(木材業)の事務所のフェンスに説明書きが掲げてあった。

安倍鉄道
 昔は道路がせまく、乗物も発達していないので交通は人馬に頼っていました。
 明治になってから牛妻以北は舟で物資の輸送が行われるようになり、牛妻以南でも舟が利用された時期がありました。
 明治26年(1893)篭上−牛妻間に道路が開通し貨物輸送は陸上交通が中心となり、馬車、荷馬車、荷車等が利用されました。
●創立
 大正2年(1913)、門屋の白鳥蒔太郎を社長に、資本金10万円で、安倍鉄道株式会社が設立されました。
設立当時の役員
 取締役社長 白鳥蒔太郎 安倍郡賤機村門屋
 取締役    狩野閏八郎 安倍郡玉川村落合
 取締役    海野孝三郎 静岡市西草深町
 取締役    大村利作  安倍郡大河内村平野
 取締役    荻野 初蔵 安倍郡賤機村牛妻
 取締役    池ケ谷浅次郎 安倍郡賤機村与一右エ門新田
 監査役    稲葉利平   安倍郡賤機村下
 監査役    狩野賢作   安倍郡玉川村桂山
 監査役    酒井嘉重   静岡市安西井宮
 大正5年(1916)4月3日と10日に鉄道員監督局の監査を受け、4月13日に運転開始の許可がおり、4月15日から井宮から牛妻に至る10kmの軽便鉄道が開通しました。
 井宮駅は、十分一の跡(現在の(株)赤石附近)にでき、駅や機関庫等で500坪位ありました。
 信号は、井宮と牛妻の2ケ所にあっただけで、その他小さな踏切には「入るべからず」と書いた立札がありました。
 職員は、駅長、機関手、工夫等36名でした。
 運転は、1日14往復で、夏は5時30分、冬は6時始発で、1時間おきに運転、福田ケ谷ですれちがう単線運転で、通常の構成は客車1両、貨物のある時は貨車2両が連結されました。
 所有車は、当初、蒸気機関車3台、客車3台、貨物車5台でスタートし、その後、その数は増えていきました。
●主な輸送品は、井宮から牛妻方面へは魚、塩、米などの生活必需品や郵便物、牛妻から井宮方面へは木材、木炭、茶、みかんなどが多かったようです。
 乗降客は、祭とか行事のない通常の日は、1日、150人位で、大正8年(1919)から9年の1年間の記録によると、人員21万6千人、貨物3千7百トンとなっています。
●静岡の廿日会祭や、軍人社の花火大会などに出た臨時列車、夏の牛妻の不動の滝に夕涼みに出かける納涼列車、土曜日ごとに出た蛍狩り列車などには、客車以外に、貨物用の無蓋車に人が乗り牽引されました。
●駅と料金は次の通りで、子供は半額、自転車は5銭、乳母車は10銭でした。
<井宮より>菖蒲谷5銭、御新田7銭、役場前(松富)8銭、福田谷11銭、下村12銭、大土手14銭、門屋19銭、中沢22銭、牛妻24銭
<牛妻より>中沢2銭、門屋5銭、大土手10銭、下村12銭、福田谷13銭、役場前(松富)16銭、御新田17銭、菖蒲谷19銭、井宮24銭

▲安倍鉄道井宮駅構内写真の説明
 人影もない静かな浅野構内、正面は浅間山、左端の2階の建物が本社、その前がホームになっている。右側の建物は機関庫(写真提供山梨写真館)

大日本軌道株式会社製造の国産品
 重量5tで「らっきょう型」のえんとつが特徴である。

 

images/4225yamaoka.JPG [山岡鉄舟邸址]
 井宮駅が出来る前にこの辺りに山岡鉄舟が住んでいた。
 石碑が立っている。この石碑は2010年に山岡鉄舟会と水道町町内会によって再建されたものだ。
 碑の横側に説明書きがあるので読みます。

   山岡鐡舟
通称 鐡太郎 剣・禅・書の奥義を極めた明治の英傑
戊辰戦争時には東征軍の参謀西郷隆盛と駿府で直談判し江戸城無血開城の合意を成した
明治2年には静岡藩権大参事としてこの地に住まい 藩政に多大な功績を残した
明治21年没 享年53才従3位勲2等子爵
静岡市は鐡舟住居跡の記念碑を建てたが破損して撤去されたままで
あったため「静岡・山岡鐡舟会」の協力を得てこの碑を再建した
        平成22年4月吉日 静岡市葵区水道町

  

[山岡鉄舟邸址]
 先ほどの安倍鉄道の説明書きに「山岡鉄舟邸址」の説明もあったので読みます。
 明治元年(1868)徳川亀之助(のちの家達)が徳川宗家を嗣ぎ、駿河、遠江、三河の内の70万石の一大名となり駿府城に入りました。明治2年(1869)6月17日藩籍を奉還し6月20日府中(駿府)を静岡と改称しました。
 家達は静岡藩知事となり7月20日には城代屋敷から西草深石鳥居近くの元新宮兵部の屋敷に移転しました。(今の児童遊園地)
 8月20日藩の役人達が任命されましたが、その中の権大参事という役人のところに山岡鉄太郎という名があります。
 山岡は鉄舟の号で知られる豪傑で勝海舟(安芳)高橋泥舟(精一郎)と共に幕末三舟といわれた人です。
 天保7年(1836)徳川氏の旗本飛騨郡代小野朝右エ門高福の長男として生まれたが山岡家を嗣ぎました。母は磯という名でした。
 剣道を千葉周作の門で学びのちに無刀流という流儀をあみだし春風館という道場を設けて門人に教えました。又講武所という幕府の旗本達に軍学や武術を教える所の剣道の教師をしました。
 慶應4年(1868)官軍約5千人が江戸を目指して駿府まで進んで来ました。
 大総督有栖川宮は駿府城内の城代屋敷に泊まり、参謀西郷隆盛は伝馬町の松崎という家に泊まっていました。
 江戸では江戸が戦場になっては困るのでおだやかに話をつけたいと思い、山岡鉄舟を使者として駿府へよこしました。
 山岡は伝馬町の松崎方で西郷隆盛と面会して、「江戸城を官軍に引渡すこと」「元将軍の慶喜の命を助けること」「江戸を焼き払って戦場にしないこと」などの相談をまとめ、途中幾度も殺されそうになったがなんとか無事に江戸に帰りました。
 その後も勝海舟らと共に官軍と徳川方の仲介役を務め国を平和な新しい社会にするために力を尽くしました。
 静岡へ役人として来てからは井宮の十分一の役所跡に住みました。今の佐藤電気店、(株)赤石などがある所です。
 静岡で権大参事を務めた後、茨城県参事、九州伊万里県(今の佐賀県内)参事となり、その後明治天皇の侍従、皇后宮亮、宮内小輔などの役も務め、明治19年(1886)子爵を授けられ華族となりました。明治21年(1889)病死しており東京谷中全生庵に葬られています。
 鉄舟は書道も学び人のため額や掛物をたくさん書き、清水次郎長が鉄舟寺を建てる時に書を贈っています。

  

images/4235daioukokusi1.JPG [井宮・大応国志産湯の井]
 安倍街道方向へ向かうとすぐに瓦屋根の小さな建築物が目につく。
 大応国志産湯の井」がある。説明書きがある。



<静岡市指定有形文化財(史跡)大応国師産湯の井>
 円通大応国師(南浦紹明なんぼじょうみょう)は1235年(嘉禎元年)旧駿河国安倍郡井宮村に生れた。
 5歳のとき服織村の建穂寺に入り、浄弁法師のもとで学び、鎌倉の蘭渓道隆禅師のもとでの修行を経て、中国(宋)に渡り臨済禅を修めた。
 帰国後は鎌倉の建長寺や九州大宰府の崇福寺等に住山し、大徳寺を開山した法孫の関山慧玄をはじめ、多くの弟子の育成に務めるなど、臨済宗の普及に功があった。
 この井戸は、国師誕生のとき産湯の水を汲んだものと伝えられている。国師の遺跡として、郷土に残っている唯一のものである。

  

images/4235daioukokusi2.JPG [井宮・大応国志産湯の井]
 「大應応国志誕生湯」と彫られた石碑と井戸を見ることが出来る。

  

images/4250satuma2.JPG [井宮・薩摩土手]
 安倍街道へ出ると土手が目に付き、街道を切り通しになっている。
 お堂と説明看板がある。

<薩摩土手の由来>
 薩摩土手は権現様堤又は一部火屋土手とも呼ばれ、江戸時代の始めに造られました。
 薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、旧静岡市史に掲載の天保13年(西暦1842年)に描かれた地図「駿府独案内」と言われています。
 静岡市史によると、慶長11年(西暦1606年)薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで約4kmにわたって築堤したのが薩摩土手と言われています。
 この堤は、江戸時代以来、市民の生命と財産を守ってきましたが、今日都市化の進展の中で現存しているのはこのあたりだけとなっています。

  

images/4250satuma1.JPG [井宮・薩摩土手]
 土手はここが起点となり4kmほど続いていた。
 いまはここからしばらくは土手が残っているが、新しい土手に役目を譲っている。 

images/4250satuma3.JPG [井宮・薩摩土手]
 石碑が記念して立っている。


images/4280kawayoke.JPG [水道町川除け地蔵]
 土手をしばらく散策。400mほど行きCOOPの先の交差点を渡ると小さなお堂があって説明看板も立っている。

<川除地蔵尊由来>
 水道町の川除地蔵尊は、井宮町にある泰雲山瑞龍寺の所属佛堂でありますが、水道町の「しばきり」即ち、最初から居住者であるといわれる、故小林京作翁から私がきいた川除地蔵尊の由来は次のとおりであります。
 今を去る780余年前のことで、その年の9月9日(初九日)19日(中の九日)29日(弟九日)と3回にわたり、安倍川に大洪水がありました。その時は、いわゆる「イノコナグラ」といわれる激浪がうずまき、堅固であった一番水道の堤防も刻々危険に瀕しました。
 時の水利方役人松岡萬は、地蔵尊の佛体を菰につつんで堤防の上に安置し、治水を祈願しながら衆人を督励して、防水に専念していました。附近の住民はもとより、安倍川流域の殊に一番水道より灌漑用水を取り入れて居る農民たちは非常に心配して地蔵堂に集まり、連日連夜その対策に協議を重ねました。しかしこの度重なる大洪水に対しては施す術もなく、拱手傍観途方にくれて居りました。
 そこへ、一人の老僧(属に六部さん)があらわれ「此の大難儀お察し申す、拙僧も、はや老齢ゆえ、安倍川流域の人々のために人柱となってこの堤防を守り治水永久のご安泰を祈り申そう」と申し出で、念仏をとなえながら従容として堤防の中に埋まりました。
 その老僧が唱える念仏の鐘の音は、それから七日七夜、堤防の中から消えなかったといわれます。
 これに力を得た水利方を始め、衆人一体となっての防水作業が功を奏し、ついに事なきを得ました。
 この地蔵尊は、それまでは厄除地蔵尊として、地方の信仰が厚かったが、それ以来川除地蔵尊として衆人の信仰の的になったと云うことです。
 現在のお地蔵様の尊体には、其の背面に「宝永4年丁亥天2月吉日」と刻まれてあります。
 即ち、今を去る277年前、中御門天皇、の御代に再建されたものです。
     昭和61年8月24日  水道町町内会

  

images/4230inomiya.JPG [井宮神社]
 安倍街道まで戻り、土手の突当り、街道を渡ると山際に鳥居があって、小高い所に井宮神社がある。
 鳥居の脇に社殿の再建のための寄付を呼び掛ける看板が立っていた。

<井宮町>  井宮神社にちなんで命名された。
 井宮神社は、元は「妙見寺」だったが家康が妙見菩薩を勧請し神社となった。
 この地、妙見山は武田信玄が築いた砦があった。妙見山下から取り入れた用水を守るため水神を祀ったことから井の宮と呼ばれた。

  

images/4240inomiya2.JPG [井宮神社]
 社殿は林の中で静かに建っている。
 看板が立っていたので読んでみます。

<井宮神社(妙見山)>
 現在の拝殿は安永5年(1776)に再建されました。
 徳川家康が妙見菩薩(北斗七星のひとつ破軍星)をまつったので、妙見山の名の方が有名である。
 昔から妙見さんと呼ばれている。
 海運の神、又、さつま土手の守護神でもある。
 北斗七星を祭ってあるので8月に七夕まつりをしている。
 230年前に建てられた井宮神社(2010年の写真)

<徳川家康公・跡地 安倍川石合戦見学地>
 臨済寺に人質の頃、山伝えに当社妙見宮に参拝され、石合戦見学地と伝えられている。

  

images/4288abe.JPG [安倍街道]
 安倍街道は井宮神社を過ぎると籠上となる。


<籠上>  井宮がかつて籠の鼻と呼ばれており、その上流に位置することから籠上と称した。

  

images/4289enjoji01.JPG [円成寺]
 薩摩土手の切り通しを過ぎると「美肌湯」という温泉施設がある。その裏に「満徳山 円成寺」がある。
 臨済宗妙心寺派の寺。

images/4289円成寺03.JPG [円成寺]
 円成寺に入ると小さな待合所のような小屋があって、見ると大黒様や恵比寿様がたくさん並んでいました。


images/4295tyoueiji1.JPG [長栄寺]
 円成寺の200m北に長栄寺がある。
 看板があるので読んでみます。

<玉井山 長榮寺>
 宗派 曹洞宗(禅宗)と申します。
 当山は、慶長2年(西暦1597年、400余年前)に開創され、禅宗3派中の曹洞宗に属し、御本山は福井県の永平寺と、横浜市鶴見区の総持寺の両大本山であります。寺名の由来は、開基 甫庵長榮の法名により、長榮寺と称せられました。
 当山、本堂に安置される御本尊は、古来より信仰深く衆生済度の仏様であります聖観世音菩薩でございます。
 境内には本堂、位牌堂、庫裏、山門と、夢のお告げによる井戸の中より出現された千手観音様をまつる観音堂と、その井戸が山すそに有ります。
 また、駿河一国札所のお地蔵様がまつられております。尚、著名人の墓も数基あり、本堂前左側には、めずらし菩提樹の木が有ります。



images/4295tyoueiji2.JPG [長栄寺]
 長栄寺の観音堂。
 今川義元が桶狭間で討ち死にの後、義元の妻が千手観音の像を、敵の手に渡さぬためここの井戸に沈め、のちに通りかかった僧が、夢のお告げに従い拾い上げ、堂を建てて祀った。

images/4290abe.JPG [安倍街道]
 安倍街道は籠上の交差点で美和街道と分岐する。


images/4310abe.JPG [安倍街道]
 昭府へ入る。
 第2東名の開通に合わせて4車線化が進んでいる。この先で国道1号バイパスと交差する。

images/4430syobu1.JPG images/4430syobu2.JPG [菖蒲神社]
 井宮神社から約1km安倍街道を進むと菖蒲神社がある。


<昭府>  昭府町と名を変える前は松富下組で、またそれ以前は、このあたりはかつて菖蒲が茂っていたからか菖蒲ヶ谷(しょうぶがや)といわれていた。
 日本武尊の「勝負」伝説から「菖蒲」になったともいわれている。

  

images/4430syobu.JPG [菖蒲神社]
 鳥居の脇にはお堂が建っている。

 この「井宮安西」巡りはここで一応終了する。


[旧賤機村]
 南賤機村の籠上以北と北賤機村が明治42年に合併し、賤機村が出来た。
 昭府から上流側は江戸時代には駿府宿の中心地である伝馬町の米所として開墾され、伝馬町新田や与一右衛門新田などの穀倉地帯が続いた。
 今では住居表示されて、「新伝馬」「与一」「桜町」「美川町」「秋山町」「伊呂波町」「松富」などの町名に変更になっている。

images/4520sizuhata09.JPG  別の日に賤機山へ登って、麓の「与一」や「松富」を望んでみました。
 安倍川の対岸は写真の左側から「西ケ谷」「内牧」「安倍口」「遠藤新田」などの旧美和村の町内が並び、山際に第2東名が通っている。
 写真の右側が上流側になり、第2東名の先に「門屋」「牛妻」と続いているのが見える。  このあたりは、ほんの30年程前までは農業地域だったが、今では住宅が立ち並んでいて開発が進んでいる。
 第2東名が開通し、ますます市街化が進む地域だ。



−コメント−

今回の「井宮安西周辺」は東海道とは外れている地域だが、古くからの史跡も多かった。
井宮は安倍川の奥との交流起点、安西は藁科川の奥との交流起点になって栄えたことが感じられた。