− 古庄〜谷田 −

旧東海道は古庄でJR東海道線に分断され迂回して駿河区へ入り、清水区の草薙に至る。
 寄り道をせずに歩くと3km弱の行程と短いので有度山周辺の見どころを探索をしながら回ってみます。
 全部回ると8kmくらいある。


images/0950nagan.JPG [国道一号線・古庄]
 国道一号線の真ん中から長沼を振り返ると国道の一部に無駄なスペースがある。旧東海道か?
 ポケットパークにでも出来そうなスペースが未利用のまま残っている。

 伝馬町〜長沼方面へ戻るページへはこちらをクリック。


images/0950koku1.JPG [古庄]
 古庄の旧道に入ったところから国道一号線の信号を振り返ってみる。
 長沼から古庄の旧道へは斜めに国道が横切っている。旧道が国道1号線の下に200mくらい埋もれている。

images/0953usagi5.JPG [兎餅]
 国道から入る所に兎餅の看板が立っている。看板にいわれが書いてある。

「兎餅」跡地
兎餅のいわれ 兎餅・・漉し餡が透けるほど薄い餅皮に包まれた大福餅で 中央に満月の焼印が押されていた。
「耳長ふ聞き伝え来し兎餅 月もよいからあがれ名物 蜀山人」
江戸、文化・文政期の狂歌師、大田蜀山人(1749-1823)の歌に詠まれた東海道名物 兎餅、かつて安倍川餅、追分羊羹とともに駿河3大名物といわれ1700年頃〜1964年迄 この古庄の地(長沼から古庄に入る旧東海道の入口)で商われておりました。
古庄自治会・静岡市観光課・兎餅元祖 吉田屋

 兎餅は鷹匠2丁目の松木屋で今でも伝えられている。そのページへはこちらをクリック。



images/0952furus.JPG [古庄]
 古庄を教える道しるべが立っていた。「府中から3.3q、宿境まで三十町」「江尻から6.1q、宿境まで一里十九町」と書いてあった。  旧東海道沿いにはこれと同じ形の道標がところどころに立っている。

 古い荘園があったから古庄と呼ぶとも言われている。今は東海道線の北側なので旧千代田村に近いように思うが、昔は旧豊田村だったことから東海道線が通るまでは池田との関係が深かったと思われる。
 岡部美濃入道常慶が古庄之池を掘って田にしたと伝えられている。
 東海道の街道沿いにあったうさぎ餅が名物であった。江戸時代の狂歌師太田蜀山人は「耳長う聞き伝えこし兎餅つきもよいからあがれ名物」と詠んだ。大福餅の表面に満月形の焼印が押してあった。今では鷹匠の松木屋が当時を偲んで作っているようです。

 

images/0956oyagawa.JPG [大谷川]
 古庄の旧道は大谷川放水路を跨いで進む。
 大谷川放水路は昭和49年の七夕豪雨後の治水対策で巴川の水が警戒水位を越えたときにバイパスして大谷川へ放水する。
 放水路は国道1号やJRを横切って深い堀が築かれている。

images/0955furus.JPG [古庄の突当り]
 古庄の旧道を行くと間もなくJR東海道線へ突き当る。
 線路の敷設のために旧道が150mほど削除されている。
 線路敷きは柵されていて入れない。

images/0960tikado.JPG [地下道]
 突き当りを線路沿いに200m進むと地下道の入口がある。
 自動車がすれ違えない狭い地下道だが時々車が走っている。
 ちょっと対向車にビビリながらJR東海道線の下をくぐる。

images/0961tikado.JPG [地下道]
 地下道を抜けると栗原へ出る。栗原側出口
 JRはこの辺りは幅が広く100mほどの狭い地下道を抜ける。

 栗原の町名の由来  旧東海道を東へ行くと、長沼の次にあったのが、栗原村であった。
 有度山のふもとに、栗の林が広がっていたことが町名のいわれとの説がある。



images/096tokaido.JPG [旧東海道記念碑]
 石碑が立っているので内容を読んでみる。

東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。これは古来より主要街道の一つであり、府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で弥次郎兵衛、喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。
国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和37年国鉄操車場の建設により栗原の西側が分断され更に静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行われたことから栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。
その昔を偲び、なおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。
尚、この記念碑のみかげ石は静岡市追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので昭和初年の御用邸改修の折、栗原町内会が払下げを受けたものであります。



images/0967tukiatari.JPG [突当り]
 栗原側からJR線への突当りを振り返って見る。
 旧東海道が途切れているのはさみしい気がします。

images/0970undojo.JPG [草薙総合運動場前]
 静岡鉄道の駅。
 きれいに整備されている。



images/0971undojo.JPG [草薙総合運動場前]
 静岡鉄道の駅前を通り過ぎると20mほどで旧東海道は突当りとなる。
 開発されていて旧東海道は痕跡も無くなってしまう。
 つながる先を探してみようと思うが、この古庄から谷田までの行程は3kmもないほど短いので池田方面へ寄り道をしてみてから探す。

images/0971undojo1.JPG [草薙総合運動場]
 運動場への道は整備されていて南幹線を地下道でくぐって渡る。
 地下道を抜けると球場の前に出る。

 《草薙総合運動場》  草薙総合運動場は県立の運動施設で野球場や陸上競技場や体育館やテニスコートやサッカー場などがある施設。
 前身は静岡電気鉄道(現在の静岡鉄道)が昭和5年に完成させた旧野球場
 昭和14年に野球場とその周辺の土地を県に寄付した。
 昭和32年に静岡国体が開催される際、施設を拡充整備して総合運動場になった。

 

images/0971undojo2.JPG [草薙球場]
 地下道を出た正面に野球場が建っている。


images/0971undojo3.JPG images/0971undojo4.JPG [草薙総合運動場]
 運動場の敷地内でどこかの高校の体育大会か何かが開催されていて人が溢れていた。
 八角の体育館もある。

images/0971undojo5.JPG [陸上競技場]
 今は改修中となっていた。


images/7312ikedakaido.JPG [池田街道]
 総合運動場を南側出口から出ると池田街道と呼ばれる道に出る。
 南幹線が出来る前はこの道が静岡の駅南地区(現駿河区)と清水をつなぐ主要道路だった。

images/7320enpuku.JPG [円福寺]
 総合運動場を出て200mほど池田街道を南に向かうと曹洞宗「聖色山 円福寺」がある。
 寺は工事中で邪魔をしないようにそっと覗いた。

images/7322enpuku.JPG [円福寺]
 寺の脇に謂われの看板が立っていた。   

 将軍堂内に屋根間口150cm・奥行130cm・高さ155cm位の逗子があります。その中に高さ40cm程の式服を着た座像が空間一杯に鎮座しています。祭神名は足利尊氏とその子竹若です。また「等持院殿仁山妙義大居士」と書かれた尊氏の戒名の位牌もあります。
 本堂由来は昔(室町時代末期か江戸時代初期か不明)現将軍塚のところに在ったとされる霊光院が廃寺となり円福寺に合祀された時に遡ります。霊光院が廃寺になって境内に在った竹若堂も円福寺境内一隅に移築されたと思われます。しかしその堂も歳月と共に朽ちてきたので中に祀ってあった竹若騎馬像(将軍塚由来に記載)を本堂一隅に移し安置しました。そして時が過ぎ竹若騎馬像も傷みがひどくなったので当時の住僧がこれを憂い束帯を着けた父尊氏の像を作りその胎内に騎馬を取った竹若像を納めました。しかし伝来の遺産をこのままにしておけないと地元の寺尾某氏が発起人となり足利霊廟再建の資金集めを始めました。「足利霊廟建設寄付姓名簿」弘化3年(西暦1846年)6月の古文書が残っております。

 <謂われは次につづく>

images/7326enpuku.JPG [円福寺]

 <謂われのつづき>

 再建は寄付名簿とは年月が空き安政5年(西暦1858年)と廟の棟札に記されています。その間に安政の大地震が起きましたので困難な事情があったと察せられます。藁葺きのお堂は幾度か葺き替えられたと思いますが昭和30年まで存在しました。
 昭和30年、傷みの激しくなってきた建物を一間ほど西に移動し藁葺きを瓦葺きにするなどの大改修をして昭和30年11月2日落慶法要を営み現在に至っております。
 尚、明治維新前は駿府より毎年目付役の巡視があったとのことです。
  御詠歌
 足利の 古し昔の偲ばれて
  御霊をここに いつき祭らん    寺尾昌壽



images/7315ikedakaido.JPG [池田街道]
 円福寺を出て直ぐの池田街道の信号機を左に向かうと日本平へ向かうパークウエイへとつづく。
 そちらへ向かってみる。

images/7310nisimineda.JPG [西峯田公園]
 日本平へ続く道へ入り100m程の所に西峯田緑地と書かれた公園がある。
 ここはかつて水が湧いていて池があった場所だ。次に寄ろうと思う池田神社の境内の一部だった。
 池田という町名の由来なのだろうか。

images/7310ikeda2.JPG [池田神社]
 西峯田公園から100mほどの右手の小さな森が池田神社だ。
 由緒が書かれていたので読む。

主祭神     事代主命
  配 祀     須佐之男命、大己貴命、木花開耶姫命、大山祇命、武内宿弥命
由緒      池田神社は静岡市池田藤六坪1207番地に在って延喜式神名帳には駿河国有度郡池田神社と記されている。
有度郡三座の一にして神階帳には正五位池田天神と記されている。
創立年代は不詳であるが総国風土記に池田神社所祭事代主神也、大泊瀬若鷦鷯天皇(おおはつせのわかささぎ)(25代武烈天皇)乙卯6月祈雨祭之とある、今より1500年前のことである。
往時の神社地は8万平方米を所有せしという

 <由緒はつづく>



images/7310ikeda1.JPG [池田神社]
 池田神社の御神木。

 <由緒のつづき>

この境内に池があって祈雨の祭事を行ったという説があり、その池は現在の西峯田公園となっている。
又神社境内に古井戸あり後桜町天皇の明和年間(1764−1767)4ケ年に亘り当地方に大旱魃があって池田区内の井戸皆干上り飲料水欠乏の大苦難に陥った時があり、この時村民相集り神社境内に井戸を掘ったところ霊水滾々と湧出し村衆の生活を守ったという井戸の記録がある。
この井戸の深さ約3間、直径約4尺周囲石垣積みにして拝殿の北方約20mの所に位置する。昭和41年大慈悲院川の掘削工事に当り、その土砂堆積により現在埋没されている。
明治42年神饌幣帛料供進指定神社となる。
静岡県神社庁神社等級規定第十級社
例祭日     七月十五日 祇園祭
        十月十七日 例祭



images/7310ikeda3.JPG [池田神社]
 池田神社の前に小さなお堂がある。


images/7300hongaku1.JPG [本覚寺]
 池田神社から南へ200mほど行くと本覚寺。
 説明書きを読む。

本覚寺(青龍山本覚寺せいりゅうざんほんがくじ)
 本覚寺は、日蓮聖人の直弟子、日位上人が鎌倉時代の延慶元年(1308)に創立した日蓮宗の寺で、市内でも有数の古刹である。その後、徳川の治世を迎えてからは、代々の将軍から幾たびか朱印状を受け、隆盛を極めるようになった。山内に八箇坊を有したこともあり、坊の名称も身延山の諸坊と同一のものが散見しているところから「駿河の身延」といわれていた。
 広い境内には、鎌倉時代の本堂、金毘羅宮をはじめ、南北朝時代の本仏堂には、釈迦牟尼如来(春日の作)の本尊が祀られているほか、子育鬼子母神、十羅刹女、行学院日朝上人の木像が安置されている。

 <説明書きはつづく>

 

images/7300hongaku2.JPG [本覚寺]
  <説明書きのつづき>

  また、墓地には、高天神城々主岡部丹波(今川氏の武将。桶狭間敗戦時に鳴海城を守って降らず、義元の首を駿府に持ち帰る。のち武田氏に仕えて、高天神城を死守)武者奉行孕石主水(今川氏重臣。のち、氏真の代に主家を去り、武田氏に仕えて、高天神城を死守)、侠客で名高い安東の文吉などの墓がある。
 なお、元首相、石橋湛山は、実父杉田日布上人が明治後半から大正にかけて約30年間当時で住職をしていたため、この寺で青年時代を過ごしている。



images/7300hongaku3.JPG [本覚寺]
 立派な釣鐘堂。


images/7300hongaku4.JPG [本覚寺]
 日蓮大聖人御尊像。看板を読む。

この銅像は、日蓮大上人が初めて南無妙法蓮華経のお題目唱えられた時のお姿で、「立教開宗の日蓮大聖人」です。
時は建長5年(1253)4月28日の早朝でした。場所(ところ)は、千葉県の千光山清澄寺の旭ケ森でした。
太平洋からさし登る朝日に向かって、力強く、南無妙法蓮華経、と声高らかに唱えられ、法華経を広める宣言をされました。
時に大聖人は御年32歳でした。



images/7300hongaku5.JPG [本覚寺]
 本堂。


images/7300hongaku6.JPG [本覚寺]
 お堂が立っている。
 本仏堂は南北朝時代(1336〜92)、金毘羅堂は鎌倉時代(1185〜1333)の建築で、位牌堂は明治4年(1871)に久能山東照宮の護摩堂を移築したものとされているがどれがその建物かがわからなかった。

images/7300hongaku7.JPG [本覚寺]
 蔵?


images/7300hongaku8.JPG images/7300hongaku9.JPG [本覚寺]
 この寺には大樹が多く生えている。一番古い樟に説明書きがある。

樹高     35・00メートル
目通り周囲   7.00メートル
枝張     35・00メートル

このクスノキは、本覚寺創建当時(1308)からあったといわれているもので、クスノキに見る美しい樹形を呈し、巨樹として知られている。
クスノキは暖地に多く自生する常緑樹である。材は堅く、香気があり、建築材・楽器材・彫刻材などに使われており、また材から樟脳が採れる。



images/7292dobutuen.JPG images/7292dobutuen2.JPG [日本平動物園]
 本覚寺を出て、池田神社まで戻り日本平方面に向かい東名高速道路をくぐると直ぐに動物園がある。


images/7290enberson1.JPG [エンバーソン邸]
 動物園の南側の道路を進むと動物園の裏側に旧エンバーソン邸がある。
 ここは、明治37年(1904)にカナダ人宣教師ロバートエンバーソン氏の自邸として、静岡市葵区西草深の静岡英和学院の近くに建てられました。
 その後、静岡市に寄贈され移築保存されたと看板に書かれていました。


images/7290enberson2.JPG [エンバーソン邸]
 看板を読んでみます。

 旧エンバーソン邸は、カナダから来静したキリスト教宣教師ロバート・エンバーソン氏の自邸として、明治37年(1904)に建てられました。かつては静岡市西草深町に位置していましたが、この建物は、エンバーソン師の帰国後も代々の宣教師や牧師の住まいとしてその役目を果たしてきましたが、昭和62年(1987年)に静岡市は当時の所有者であった日本基督教団静岡教会より寄贈を受け、現在の場所に移築・復元しました。
 建物は、木造2階建て・寄棟造瓦葺で、1階にはテラス、2階には玄関に突き出したバルコニーやサンルームが配され、屋根の一部には屋根窓が、また、室内の中央部には暖炉が設けられるなど典型的な明治時代の西洋館様式をなしています。
 創建当時は、洋風フェンスに囲まれた敷地内にテニスコート(一面)やキリスト教学生会寄宿舎などが併設された別棟を伴っていました。
 昭和33年(1958年)には敷地内に教会が建設されることになり、建物が約15m曳家されました。その時の移動に伴い、和室や食器庫などに使用された別棟の解体や食堂の脇部分を中心とした改築がなされましたが、母屋については創設当時の形状をそのまま現在に伝えています。
 明治43年(1910)にロバート・エンバーソン氏が帰国した後も、建物は教会関係者によってその形状を崩すことなく受け継がれ、また、幸いにも戦災による焼失からも逃れることができました。このように、時代の様々な変遷を乗り越えて現在に伝えられた旧エンバーソン邸は、静岡市内に現存する数少ない明治時代の西洋建築物として、また、静岡県内に唯一残る外国人宣教師の住宅として貴重な建築物となっています。
建物の概要
創建当時の所在地  静岡市西草深町15番地の1
用   途     住宅
構   造     木造2階建・寄棟造日本瓦葺
面積 
建築面積  創建時185.26u  復元時142.97u
1階床面積 創建時162.12u  復元時119.83u
2階床面積 創建時125.84u  復元時125.84u
延床面積  創建時287.96u  復元時245.67u



images/7330ikedasengen.JPG [聖一色浅間神社]
 エンバーソン邸を出て池田神社方面へ戻り、東名をくぐり100mくらい下った交差点を北側に曲がり200mほどの西側に木が生い茂った場所が浅間神社だ。
 静岡市には浅間神社が多く10ヶ所以上ある。その一つだ。  

images/7335ikedasengen.JPG [聖一色浅間神社]
 境内には大木があって説明があった。  

浅間神社くろがねもち
目通り   3.86メートル
樹高    28・60メートル
枝張り   東西 17・45メートル
東西 23・70メートル
推定樹齢  約350年
      (寿命400〜500年)
所有者   浅間神社  代表 川口新一



images/7336ikedasengen.JPG [聖一色浅間神社]
 静かな林に囲まれている。 

<聖一色の町名の由来>  荘園時代に年貢などの租税を一種類だけを領主に納め、他は免除される土地を「一色田」と言ったらしいがここが一色だった。
 「聖」は「ヒジリ」と発音する。かつて「樋地祗(ひじし)神社」という神社が謂れなのではないかともいわれているが定かではない。



images/0972hirono2.JPG [広野神社]
 聖一色浅間神社を出て北上すると500mほどで東名高速の側道となり、もうしばらく行った信号を西に曲った所に神社がある。
 広野神社だ。看板の説明看板が立っていた。

神社誌 静岡市国吉田五丁目14−10  神社名 廣野神社  神紋 三つ巴
祭神  本殿  速須佐之男命
    天王社 八幡大神 天下泰平   天王大神 国土安栄
    八幡社 豊受大神 五穀成就   久久能遅命萬民受楽
樟の木 樹齢490年(推定)広野神社境内に室町時代の大永年間中期から村の鎮守の森全体に芳香を放ち何回ともなく落雷を受けた傷跡を残し拝殿を抱くように両側にそびえ立つ二本の樟の木(樟脳のとれる)(いいにおいのする常緑樹)は神社境内を訪れる参拝者の脳裏からきえさる事はないでしょう。
郷土の記念物として、いついつまでも命数を重ねて欲しいと願っています。天照大神の弟の速須佐之男命がこの広野神社の祭神です。
全国の神社八万社の中から代表的神社六千社を選び出した神社名鑑に郷土広野神社が掲載されている。



images/0972hirono3.JPG [広野神社]
 拝殿の両側にそびえ立つ樟の木。
 この神社と桃源寺に関わる伝説がある。
 

昔、この広野神社のそばに「天狗の松」という大きな松ノ木があって天狗が住んでいた。
桃源寺がこの広野神社より高いところにあることをねたんで寺がが山門を造るたびに壊したことから桃源寺には山門が無いのだそうだ。



images/0973togen2.JPG [桃源寺]
 広野神社の伝説にある曹洞宗「吉田山 桃源寺」へ行ってみる。
 東名脇の信号まで戻り、そのまま東名をくぐるように直進。東豊田中学校と桃源台小学校を通り過ぎると桃源寺がある。
 伝説のとおり山門は無い。

images/0973togen3.JPG [桃源寺]
 良く手入れの行き届いた寺だ。
 この後は、先ほど静岡鉄道の「草薙総合運動場前」の先で無くなってしまった旧東海道の続きを探して清水方面へ進んでみる。

images/0974kuniyosida.JPG [国吉田]
 広野神社まで坂を下り、草薙総合運動場から続く道路と交差する信号があるが、開発されて間もない道路のようだ。
 もう少し坂を下ると100mほどで信号があって、開発整備される以前からあったような道路と交差する。ここが旧東海道かな。

 このあたりは府中宿と江尻宿の中間の、「間の宿」だった。
 間の宿は、宿泊は禁じられていて食事をとったりする休憩所だ。
 隣接する中吉田とともに、平沢から流れる吉田川の流域であったことから付いた町名なのだろう。

 

images/0976nakayosida.JPG [谷田]
 東名高速道路の下をくぐると旧東海道だったと思える雰囲気の道になった。
 地名は谷田になる。

 谷田は有度山麓から流れる吉田川の水を利用して、谷に田が開かれていった土地だったんだろうか。
 今ではこの地区には住宅の合間に畑が見られる程度の農地があるだけだ。

images/0977tusima1.JPG [津島神社]
 街道を左に入り100m先の南幹線を越えて直ぐに神社がある。
 社脇に由緒が書かれた石碑があったので読んでみます。

  

images/0977tusima5.JPG [津島神社]
 津島神社の裏口の脇にやぶきた茶のいわれが書かれた石碑があったので読んでみます。

<やぶきた88年の記録誌>

  

images/0981tokoji.JPG [東光寺]
 街道へ戻り東へ進むと、右手に東光寺がある。ここは清水区の谷田。区が変わっても町名は一緒なのだ?
 急いで通ると見逃しそうな寺です。
 説明看板があったので読んでみます。

「葦葉達磨大師像」について

ダルマ様は、今から約1500年前、インドの香至国の王子として生まれました。
60歳で中国に渡り、少林寺で壁に向かって9年間座禅を続け「禅」を中国に広めました。その教えが後に日本に伝わり、曹洞宗・臨済宗・黄檗宗となりました。
従ってこれら禅宗のお寺では、本尊様の左隣に達磨大師様をお祀りしています。
現在、私たちが普段見かける赤くて丸い「だるま」に代表されるように、ダルマ像は、座禅している姿をあらわした座像が一般的です。東光寺にこのたび建立された「葦葉達磨大師像」は、ダルマ像としては大変めずらしい立像です。
酒の入ったヒョウタンを杖の先に引っかけ、片手に鞋(アイ・わらの靴)を持った、人間味あふれるお姿をしています。足元は、ダルマ様が中国の揚子江葦の葉っぱに乗って横切った、という言い伝えをもとに、葦の葉と揚子江の波が表現されています。
ダルマ様の教えとして有名なエピソードを一つ紹介します。

※ エピソードは、次の達磨立像の枠に続く。

  

images/0978tokoji.JPG [東光寺]
 東光寺の門前に達磨の立像があった。
 この寺の座禅会の看板が立っているので読んでみる。

※ 達磨様のエピソード。

ダルマ様が座禅をしている最中、慧可(えか)という人が訪ねてきました。
達磨「あなたは私に一体何を求めているのですか。」
慧可「私の心の不安を取り除いてください。」
達磨「わかりました。ではその不安な心を持ってきなさい。そうしたら心を安らかにしてあげます。」
慧可「どうにかして心を持ってこようとしましたができません!」
達磨「これであなたの心を安らかにすることができました。」
ダルマ様は姿や形がありもしない「心」にこだわってとらわれているから、不安になったり悩んだりするのだ、だからこだわるなと教えたのです。このダルマ様の一言で慧可は悩み続けた心の闇が切り開かれ、ダルマ様の弟子になりました。
禅を中国に伝えた当時のお姿をあらわした「葦葉達磨大師像」に手を合わせ、葦の葉にさわって御利益をお受けください。

 

images/0986kurodono1.JPG [館跡]
 東光寺から2km有度山方面へ上ったところにある平沢寺まで行ってみる。
 旧東海道と思われる道を東光寺から50mほど戻った交差点を有度山方面へ向かって緩やかな坂を登っていく。
 300mほど上ったあたりに、鎌倉時代か戦国時代の地方武士の屋敷があったとのことで遺構でも見つからないかと探してみる。
 このあたりには段差が多くどこを見ても遺構に見えてしまう。



images/0986kurodono2.JPG [館跡]
 このあたりは段状態に農地が整備されている場所が多いので館跡なのか農地整備の跡なのかはわからない。
 地元の農家の人に聞いてみたが「子供の頃、この近くに池のようなものがあった」とのことだが、堀の跡だったのだろうか。 



images/0986yamanokami.JPG [山の神]
 さらに有度山方面へ500mほど上ると道路脇に山の神の看板と鳥居が立っている。

 現在山の神様を祀ってあります山は、大昔から誰ゆうとなく山の神さん、山の神さんと呼んでおりました。
 この山にのぼり、木を伐り土をとった者は必ずといってよいほど1、2年のうちに亡くなってしまいました。
 又ある年は、村中の人達が難病にかかって困ったことがあり、あまり不思議なのでこの山に入り探求したところ、その年この山の松の大木を伐って吉田川のイセギに使用したことがわかりました。
 そこで当時の世話役の人達が生繁った笹藪を切りわけてみますと、その中から2体の石のホコラが出て来たので、早速、ヤライを造って祀ってあげましたところ、その後木を伐っても、土をとっても何のタタリも無くなりました。
 それ以来ささやかなお堂をたてて左記の祭神を合祀し、年に一度の大祭を行っておりますが、今は善男善女のご参詣がたえません。
          谷田山神奉賛会
祭神  大山祇神(おおやますみのかみ)
大祭日 毎年4月吉日



images/0986yamanokami1.JPG [山の神]
 階段を登ると林の中に社が建っている。


images/0986hirasawa1.JPG [平沢寺]
 山の神を過ぎてまた1kmほど行くと真言宗智山派「布袋山 自在院 平沢寺」がある。
 当日は本堂の落成式をやっていたので人や車が溢れていて、普段は人陰少ない場所なのに雰囲気が違っていた。

images/0986hirasawa2.JPG [平沢寺]
 本堂の手前の山門。山門脇に説明書きがあったので読んでみる。

 平沢寺(へいたくじ)は、和銅年間に法相宗の高僧、行基上人が諸国行脚(710〜713)の途中、この地に立寄り、地蔵尊を彫刻して草堂を建て安置したことに始まるという。
 養老2年(718)、元正天皇の18歳になる皇子の病気平癒祈願が行われ、行基上人は再度駿河国を訪れた。行基上人は高さ50m、直径24mのクスの木を伐り、7体の観世音像を刻み、21日間、皇子の病気回復を祈願したところ、不思議なことに皇子の病気は快方に向かい治ったといわれる。行基上人は7体の観世音像のうち最初の一体を当寺に、続いて順次、駿河国安倍郡の6つの寺に一体ずつ安置した。この7体の観世音像の安置されているところが「安倍七観音の霊場」といわれている。
 寿永2年(1183)野火が元で山火事となり観音堂・鐘楼・山門等の七堂伽藍を焼失したが、幸い当寺の本尊である千手観音菩薩と延命地蔵尊はともに無事であった。その後、今川泰範の頃、星明坊良盛という名僧が当寺の住職となってから参詣者も増え隆盛となったといわれている。守護大名今川義元もこの観音を信仰し、参詣の際に休息する仮殿(殿屋敷)を造ったほど信仰が厚かった。
 また、毎年2月の節分と7年に一度(4月中旬)の観音御開帳には、多くの参詣者でにぎわう。



images/0986hirasawa3.JPG images/0986hirasawa31.JPG [平沢寺]
 山門には仁王像がにらみを利かせている。
 阿吽の呼吸で寺を守っている。

images/0986hirasawa4.JPG [平沢寺]
 山門の横に平澤神社が建っていて、脇に地蔵尊のエピソードが書かれている。

 この地の地蔵尊の御由来は、過ぐる昭和60年1月吉日、当山壇信徒御一同の御協力を得て、山内に鐘桜再建計画の際、境内観音堂床下より数個の御仏像片が発見されたことに依るものであります。
 当時、関係者一同これも尊き御佛縁かと、相計り、この御佛片をもって富山県高岡市在住・佛師本江忠司氏の手をわずらわし、一体の地蔵尊を鋳造いたしました。
 その後、完成の地蔵尊を当山に運搬の途次(昭和61年正月)名神高速道路の関ケ原附近路上において交通事故に遭遇、転倒した車は数回転の末、殆ど原形を止めぬ程に大破いたしましたが、車中の地蔵尊は、あたかも運転中の本江氏の背後に庇護するかの如く寄り添いある為、氏はいささかの怪我もなく、事無きを得たのであります。
 これはまさに奇跡ともいうべき事実として現場検証の警官も、ただ感銘するのみであったと申します。
 更にこの地蔵尊は本江氏の要望もあり、氏の宅前に安置されておりましたが、地蔵尊の御温容にうたれた近在の老人が杖にすがりつつ毎朝参拝を続け、永年の持病である中風が僅か3ヶ月余りにして全く快癒したというのであります。
 ここに、かくも当山に御佛縁深く霊験あらたかな「平沢身替り地蔵尊」を勧請安置し、当山御参詣の皆様の御多祥と無病息災を説に記念するものであります。



images/0986hirasawa5.JPG images/0986hirasawa6.JPG [平沢寺]
 地蔵尊はどこにあるのかわからなかった。
 社の中は何の神様かわからないが祀られている。
 神社の向かえには布袋様?恵比寿さま?大黒さま?が祀られている。ここが「布袋山自在院平澤寺」というので布袋さまなのだろうか。

images/0986hirasawa7.JPG images/0986hirasawa8.JPG [平沢寺]
 急な階段を登ると観音堂が建っている。


images/0986hirasawa9.JPG [平沢寺]
 観音堂の隙間から中を覗くと千手観音の写真が見える。
 暗いので何が祀られているのか良くわからない。

images/0986hirasawa.JPG [平沢・観音]
 上のお堂の裏手に最近建てられたとみられる石造りの観音様が立っていた。
 いろいろ知りたいこともあったが大勢の人は皆式典に参列していて、雇われの警備員はこの寺の知識は無い人でした。
 また、旧東海道まで戻る。

images/0982kumano1.JPG images/0982kumano6.JPG [熊野三柱神社]
 平沢から戻って東海道へ戻るちょっと手前の信号の所に熊野三柱神社がある。
 この神社には3方向に鳥居がある。


images/0982kumano2.JPG images/0982kumano3.JPG [熊野三柱神社]
 コンクリート造りの神社と稲荷神社が建っている。



images/0982yadakofun1.JPG [谷田1号墳]
 熊野三柱神社の南側にゲートボール場とこんもりした小山がある。
 このあたりには古墳が多い。看板を読んでみる。

 谷田1号墳は宮ノ後古墳とも、いわれている古墳で6世紀の後半に築造されました。全体では、50基以上にものぼる谷田古墳群の中のひとつです。
 この古墳には横穴式石室と呼ばれる石を積んだ室があり、ここに死者を葬るようになっています。
 横穴式石室からは、直刀、須恵器(坏・堤瓶)土師器などの副葬品が出土しました。



images/0982yadakofun2.JPG images/0982yadakofun52.JPG [谷田1号墳・谷田52号墳]
 このあたりにはここの他にも古墳が多い。周りには文化施設も多く、巡りながら探索してみる。


images/0982yadakofun53.JPG images/0982yadakofun54.JPG [谷田53号墳]
 谷田1号墳の隣にある。


images/0985yada17.JPG images/0985yada18.JPG [谷田17号墳]
 谷田1号墳から200mほど坂を上った林の中に谷田17号墳がある。

 谷田古墳群の1基で、丘陵の端に位置し詳細な調査は実施されていませんが、墳丘(径約3m)を良好にとどめる古墳時代終わり頃の円墳です。



images/0985yabukita.JPG [やぶきた茶の原種]
 静岡県指定天然記念物「茶樹やぶきた母樹」解説。

 この木は、茶の優良品種である「やぶきた」の母樹です。
 「やぶきた」は安政4年7月ここ有度村に生まれた故杉山彦三郎翁が選んだもので、収葉量と製茶品質は最もすぐれ、その名は全国的に有名です。翁はその一生を茶の品種改良に捧げ、全国の茶生産地を踏査して良樹の選定につとめ、幾種もの優良種の選抜に成功しました。
 この母樹は、たまたま竹やぶの北側にあったので「やぶきた」と命名されたものです。現在各地の茶生産地には、この木の分身が植付けられ、わが国茶業の発展に寄与しています。そして、昭和38年4月30日県の天然記念物に指定され、県文化センターの建設にあたり「やぶきた」母樹の所有者である杉山彦三郎翁顕彰会から県に寄贈されました。
 このため「やぶきた」母樹誕生の地と、翁の栄誉を永久にたたえるため、静岡市谷田159番地からこの地に移植しました。



images/0985bunka.JPG images/0985bunka2.JPG [文化センター]
 この辺り一帯は広々した公園状の植栽の中に県の文化施設が立ち並んでいる。
 散歩するには絶好の地域だ。

images/0985tosyokan.JPG [図書館]
 県立図書館がある。
 環境の良い所にあって学習しやすいが、交通の便が悪いのが難点。ついでに寄れるような場所ではない。

images/0985bijutu.JPG [美術館]
 この日は県立美術館は閉館日だった。


images/0985rodan.JPG [ロダン館]
 県立美術館の山側にはロダンの彫刻などを多数展示しているロダン館が建っている。
 美術館と2階でつながっている。

images/0985yada55.JPG [谷田54号墳]
 ロダン館の裏山の遊歩道を登るとすぐに古墳がある。
 最初は見逃して登りすぎた所に県立大学の薬草園があって散歩する老人に古墳の在りかを問うと案内してくれた。

 谷田地区には6世紀代から8世紀初め(約1500〜1300年前)にかけて多数のの古墳が造られました。特に、西側から南側にかけての斜面には、小さな古墳が密集しています。
 谷田54・55・56号墳は、美術館周辺の環境整備事業に伴う調査によって新たに発見されたものです。墳丘はほとんど削り取られていましたが、遺体を埋葬するための石室(横穴式石室)や墳丘を取り囲む周溝が確認され、7世紀後半から8世紀初めに造られた円墳であることがわかりました。律令体制に組み込まれていく地域社会の様子を知る重要な資料であることから、墳丘を復元して古墳の位置を明示することとしました。



images/0985yada58.JPG [谷田55号墳]
 古墳の向こうにロダン館の屋根が見える。
 ロダン館の直ぐ裏でした。


images/0985bunka3.JPG [文化センター脇の碑]
 文化センターの公園と県立大学の間に石碑が建っていた。
 何だかわからないがとりあえず写真を撮ってみました。

images/0983kendai1.JPG images/0983kendai2.JPG [静岡県立大学]
 日本平の景勝地に似あわない学舎が建っているが学生が多く活気がある。
 以前は女子大だったが、静岡薬科大学などと合体して共学になったが、女性が多い。
 同じ有度山の大谷地区にある静岡大学に比べてお洒落な学生が多く思う。

images/0983yadahyotan1.JPG [谷田瓢箪塚古墳]
 県立大学から200mほど下ると公園の中に古墳がある。
 谷田には古墳が数多く残っているがここが一番大きい。

瓢箪塚古墳
遺跡名称 西ノ原一号墳(前方後円墳)
所在地 清水市草薙字西ノ原31番地
大きさ 直径21.8m(円墳)、幅9.0m〜11.5m(方墳)、全長40m
 この古墳の築造年代は、およそ6世紀初頭古墳時代の後期と推定されています。昭和52年調査の結果周溝の存在も確認され全体の保存状態極めて良好な典型的な前方後円墳です。
 この地方は古代盧原国(いをはらのくに)と云われ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土地の人々と戦った事が古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫、意加部彦(おかべひこ)がイオハラ国の国造(くにのみやつこ)となりこの地方を支配したと言われております。
 それよりずっと下って西暦663年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り、唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります。この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。
 なお、この付近には、古墳が点在しておりましたが畑地・宅地の開発が進み現在は道を隔てた北東側に一ケ所を残すのみとなっております。貴重な遺跡の保存に皆様方のご協力を戴ければ幸いです。



images/0983yadahyotan2.JPG images/0983yadahyotan3.JPG [谷田瓢箪塚古墳]
 この古墳から200mほど坂を下ると旧東海道に交差するが、街道から離れた東光寺の旧東海道の所まで600mほど戻って次に進むことにする。


images/0984bijutukan.JPG [美術館通り]
 熊野三柱神社の前は美術館通りと言う。
 並木道になって芸術が好まれる地にふさわしい雰囲気がある。
 この坂を上って行くと先ほど巡って来た美術館や図書館がある。

images/0983yada.JPG [谷田]
 美術館通りを横切る辺りは清水の谷田。
 谷田という町名は静岡と清水に同じ名前の町名があって、東海道はそこを通って行く。

 

images/1001nakanogo.JPG images/1001nakanogo2.JPG [中之郷・谷田]
 中之郷と谷田の間に街道が通っている。
 かつてのメインストリートだったのだろう。正面に富士が見える。
 旧東海道は正面に富士が見えるように意識して通したと思われる場所が所々で見られる。

images/0989kusanagi.JPG [草薙]
 清水区に入ると草薙と町名を変える。
 道は直進できないようになっている。

 草薙〜入江方面へ進むページへはこちらをクリック。






−コメント−

旧東海道はJR東海道線を縫うように通っている。
古庄から草薙までの短い行程でしたが寄り道が多いので。
旧東海道の距離の割に距離が長かった。