− 市役所・青葉通り周辺 −
青葉通りは商店街にゆとりのスペースを提供している。
旧東海道のわき道になっていたかも?
[呉服町から青葉通り]
青葉通りは市役所から常盤公園までの500メートルを公園状のスペースを併設した通りを形成している。
旧東海道の呉服町通りを横切っている。
東海道を西へ向かうページへはこちらをクリック。
[呉服町から市役所]
青葉通りの正面に市役所がそびえる。まるで市役所の庭のようだ。
まずは市役所の周辺を巡ってみる。
呉服町から旧東海道を進むにはこちらをクリック。
[御用邸跡]
かつて市役所のあった場所に御用邸が建設されていた。駅から市役所へ向かう道が「御幸通り」と称する由縁だ。
市役所の新館を御幸町側に出て、低層棟の脇に石碑が2つ建てられている。
この地にあった県民会館の前にあった石碑を庁舎建設に伴い移設されたものだ。
江戸時代に御用邸があったことを知らせる石碑と明治天皇御製の歌碑。
[市役所御用邸跡]
明治天皇が明治38年11月18日に滞在された際、御用邸の富士見窓から富士を望み詠まれた歌が刻まれています。
明治天皇御製
はるかなる
ものと思ひし
不二の根を
のきばにあふぐ
静岡の里
[市役所本館]
市役所は昭和の初期の建築。空襲の大火にも燃え残り昔のたたずまいを残す。
昭和60年頃の新館建築の際に耐震の問題から建て替えの話があったが補強して往年の姿を維持している。
[静岡市の由来の碑]
市役所本館の脇に静岡市の由来の碑が建っている。
内容を読んでみます。
静岡市の由来の碑
明治2年(1869)廃藩置県を前にして、駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された。
重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったん決まったが藩学校(府中学問所)頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘すなわち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決、同年6月20日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた。
以来100有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った。
ここに市制90周年記念を迎え黄村先生の遺徳を敬仰し、ゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす。昭和54年4月1日
[駿府町奉行所跡]
市役所は駿府町奉行所の跡に建っている。静岡市の由来の碑の脇に駿府町奉行所の説明看板が建っている。
内容を読んでみます。
駿府町奉行所の説明看板
駿府町奉行所は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。
寛永9年(1632)に大手組奉行所として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(1868)までに旗本を主に63人が町奉行に任命されました。
町奉行の配下には、与力8人と同心60人がいてその職務にあたっていました。
[市役所本館玄関]
市役所本館の玄関を入る。
昭和初期の雰囲気を感じさせてくれる。
[市役所本館ステンドグラス]
階段を上った中2階から裏庭に抜ける扉にはステンドグラスがあしらわれている。
[市役所本館玄関]
天井の照明や漆喰で仕上げられた天井は格調が高い。
[市役所本館玄関]
壁や階段は大理石が使われており、よく見るとアンモナイトのような化石を見ることができる。
[市役所本館玄関]
後日、議場を見せてもらえるチャンスがあったので写真を撮らせてもらいました。
[市役所本館玄関]
議場の天井からはシャンデリアが下がっていた。
[市役所本館玄関]
傍聴席の窓にも装飾されている。
[市役所本館玄関]
傍聴席にあるステンドグラスが素敵だ。
[市役所本館ドーム]
市役所本館の中庭に出ると本館を裏から見る。
落ち着いたスペースからスペイン風建築のドームを見ることができる。
[夜の市役所本館ドーム]
市役所本館ドームは夜には照明される。以前撮影した写真。
[市役所から駿府城本丸跡]
市役所の17階から駿府城の本丸跡方面を臨む。
県庁の脇から駿府城跡が見下ろせる。
[市役所から駿府城東御門]
市役所の17階から駿府城東御門を臨む。
県庁の脇から駿府城跡が見下ろせる。
[市役所からの富士]
市役所の17階からは運が良ければ富士が駿府城や静岡市街地の向こうに見える。
[市役所から青葉通り]
市役所新館に登り青葉通りを撮影させてもらう。緑の終わりが常磐公園。
これから下に降りて青葉公園を歩いてみます。
[青葉公園]
青葉公園は。
静岡大火の後に防火帯として作られたので道路に挟まった公園を含むと35メートルの幅員のスペースが作られている。昔はここにおでん屋の屋台が並んでいた。
[青葉公園]
青葉公園にある像。
[別雷神社]
青葉公園は国道362を跨ぎ続いている。すこし行くと右に神社がある。
別雷神杜は式内社(967年施行の延喜式による神社)で、祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)と玉依姫命(たまよりひめ)で、古くから安倍の市の守護神として祀られ、今川氏や徳川氏の崇敬も厚かった。
江戸時代に各町の町頭が交代で町方の総代を勤めた「年行事」(今で言う、連合町内会のようなもの)の事務所(惣会所)と書庫とが別雷神杜に置かれていた。
[青葉公園]
常盤公園から呉服町方面を振り返る。突き当りに市役所が見える。
[常盤公園]
常盤公園に突き当たり西北側へ折れ、駿河町通りを進み駒形通りを横切り、約200m新通りへ出る。新通りは旧東海道となる。
この常盤公園は静岡大火や空襲による大火の際に多くの犠牲者を荼毘にふした場所だ。今は綺麗に整備され、晴れた日には将棋の仲間が集まる。
寺町
慶長年間の駿府城下町の整備に際して駿府の防衛戦として寺々を集めた。道路を挟み東側は町家、西側に寺院が並んでいた。
かつて寺町にあった妙音寺は向敷地へ、安立寺は春日町へ、善然寺・感応寺を除く各寺院はすべて沓谷の愛宕霊園に移転し、跡地は常盤公園として整備された。
[駒形一丁目・駿河町通り]
常盤公園から北西へ曲がるとこの道を駿河町通りという。駿河町通りは駒形通りと交差する。この交差点の左が駒形通り、右が七間町通りと名前を変える。道路の舗装が変わっているのがおもしろい。
ここから右へ曲って100メートルほど先に映画館街がある。
今は駒形通りと七間町通りが1本の通りになっているが、昔はここに安立寺という寺があって繋がっていなかったとのこと。
駿河町
旧寺町の寺院が大部分を郊外に移転させた後、戦後の区画整理によって七間町と駒形通りの間に出来た町。
この交差点から200mほど行くと旧東海道の新通りに出る。そちらへ進むにはこちらをクリック。
[宝台院]
駒形一丁目から常磐公園へ戻りそのまま通りぬけ国道一号方面へ300mほど行き国道へ出る50mほど手前を左に曲がると宝台院がある。
江戸時代には現在の常磐公園から南東側一帯が当寺院だったほど大きかったらしい。
年配の人には懐かしいのだが、旧国鉄時代に鉄道を跨ぎ駿河区方面へ行く陸橋の名前を宝台橋と称していた。
[宝台院・西郷局]
《宝台院》
金米山宝台院龍泉寺という。
室町時代の永正四年(1507)鎌倉光明寺八世観誉祐崇上人開山の浄土宗寺院で、天正17年(1589年)家康の側室西郷局(お愛の方)が駿府城で病没し、その菩提所となった。
西郷局は二代将軍秀忠の生母であったから、幕府から御朱印三百石を賜り、住職は10万石の大名同等の待遇を受け、駿河一国の触頭(ふれがしら)として、諸寺院を支配した。
しかし明治維新後は徳川家の援助もなく、加えて昭和15年(1940)の静岡大火及び昭和20年(1945)の戦災により焼失、さらには区画整理により寺域は狭隘となり、ついに昭和63年従来からの隠居寺であった久能海岸安居の照久寺へ別院を建立し、檀家の墓地のすべてを移葬した。
しかし、西郷局の大きな五輪塔は宝台院本堂前に移されて現存する。
もっとも二度の火災によって墓石の表面はかなり剥落している。
[玄南通り]
玄南通りは静岡の歓楽街の中心となる通りだ。
陽が沈むと両替町との交差点周辺は急に活気があふれてくる。
[両替町通り]
両替町通りは玄南通りと交差して静岡の歓楽街の中心となる通りだ。
[浮月楼]
玄南通りから両替町を駅方面へ向かいドンキホーテの交差点を越えて100mほど行くとパルコの裏に浮月楼がある。
《浮月楼》
浮月楼の看板にある説明
この地は、徳川幕府の代官屋敷であった。
明治元年8月前将軍徳川慶喜公は、謹慎の御身を水戸からここ駿府に移され、常磐町の宝台院に暫く閑居の後、翌2年10月この地に手を入れて還居された。
庭園は平安神宮を手がけた小川治兵衛の作庭による池泉回遊式として有数のものである。
慶喜公はここに20年の間住まわれ、自転車、写真撮影、油絵、狩猟などと多彩な趣味を楽しまれたようだ。
明治20年になると、東海道線がこの近くを通ることになり、その喧騒を避けて同21年6月、市内西草深の新邸に転居された。
その後にこの地は戸帳役場の共有となったが、名所保存を条件に市内有力有志により庭も建物もそのままに料亭「浮月亭」として開業、伊藤博文公など元勲方の御愛顧を辱うした。
残念ながら昭和15年の静岡大火等で建物は全焼したが、庭園の佇まいはほぼ元通りに復旧され、「浮月楼」として百年余りの歴史を持つ。
春は桜、夏は青葉、秋の紅葉など、街の只中で野鳥の声を聞き乍ら懐石料理を楽しめる。又、懐石料理での御披露宴にも利用でき、好評を頂いている。県都静岡市の社交場として益々御愛下されたくお願い申し上げます。
[浮月楼の宴会場]
かつては高級料亭の代名詞だった浮月楼も最近はリーズナブルな料金で会議や宴会ができるようになった。
[紺屋町小梳神社]
浮月からパルコの正面玄関へ向かい紺屋町通り(呉服町通り)へ出る。パルコの向かいに小梳神社がある。
このあたりは静岡で一番地価の高いあたりであるが神社があってビルの谷間にゆとりの空間を作っている。
「おけずりの社」ともいった。もとの鎮座地は東川辺(ひがしかわなベ)(駿府城三の丸南方)で元の青葉小学校のところにあった。
[小梳神社]
《小梳神社》
≪境内の看板≫
小梳神杜は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」(おしょうしょうさん)と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)、天照皇大神宮(あまてらすおおみかみ)が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神杜を城内に残したが、寛永年中(1624〜1643)には、城内から移転し、再度延宝3年(1675)現在の所に移された。家康は今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神杜境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。
「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当った城代は、松平左近大夫で、延宝4年6月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の7月27日、この風習は、今なお、氏子の間に引き継がれ、隔年に大神輿が市内を巡行する姿は、夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害にあったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお、境内には、平田篤胤選文による駿府の国学者新庄道雄の碑がある。
旧東海道の江川町〜弥勒のページの紺屋町から呉服町へ進むところへ行くにはこちらをクリック。
−コメント−
旧東海道のすぐ脇に市役所は位置している。
周辺には駿府の主要な施設が多くあった地域だ。
ただ、静岡の大火と空襲による大火によってほとんどの遺構は焼失してしまっていることが残念だ。