− 駿府城址周辺 −
静岡のお城と言えば、やっぱり駿府城だ。
天守閣はないが堀が当時の隆盛を物語っている。
[江川町から城方面を見る]
旧東海道の江川町の交差点にあるペガサートという再開発ビル前から出発する。
ここから外堀に向かうには地下通路で北街道を渡らなければならない。
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[外堀]
江川町のペガサートに面した北街道から駿府城外堀が続く。
北街道に沿って外堀は続いていたらしいが今は暗渠になって、その上に商店街が軒を連ねている。
ペガサート前から北街道を進むにはこちらをクリック。
[外堀]
まずは外堀に沿って巡ってみる。
水が満たされて街に潤いを与えている。
[城代橋]
城代橋と書かれた橋がかかっているが謂われは不明。
この橋を渡った所に城代役の屋敷があったらしいが、そこへ向かう橋は古地図には載っていない。最近の橋なのだろう。
[城代橋近くから]
城代橋を越えて今来た道を振り返るとペガサートと新静岡センターが見える。
新静岡センターは建て替えのため平成21年6月から除却された。
[外堀]
堀を挟んで県庁と市役所が立っている。
写真は市役所の本館。ドーム状スペイン風の建築物で戦前に建てられた。
[大手門]
この奥に大手門があった。看板が立っているので読んでみる。
<駿府城大手御門>
駿府城内へ入る正面で入口です。
三ノ丸堀を土橋で渡って、右手に直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。
歩道には渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。
[県庁]
県庁の本館は昭和初期の建物。
市役所と同じような時期に建築された。
[教導石]
静岡中央警察署の前に教導石という石碑が立っている。
石碑の隣に説明看板があるので読んでみる。
<教導石>
教導石は明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」という趣旨に賛同した各界各層の人たちの善意をもって明治19年(1885)7月に建立されました。
正面の教導石の文字は、旧臣山岡鉄太郎(鉄舟)の筆になり、本市の明治時代の数少ない歴史遺産の一つとなっています。
碑の正面上部には、静岡の里程元標(札ノ辻)から県内各地、及び東京の日本橋や京都三条大橋までの距離を刻んであります。
教導石建立の趣旨に従って碑の右側面を「尋ねる方」とし、住民の相談事や何か知りたいこと、また苦情等がある人はその内容を貼り付けておくと、物事を良く知っている人や心ある人が左側面の「教る方」に答えを寄せる、というものでした。
尋ねなどのほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告から遺失物や迷子を捜す広告なども掲示してよいことになっていました。
[戦災楠]
日赤病院前に戦災の大火を生き残った楠がある。
説明看板が幹に掛かっているので読んでみる。
<楠は見ていた>
1945年(昭和20)年6月20日の真夜中0時51分、静岡市はB29、123機の焼夷弾(しょういだん)空襲(くうしゅう)を受け、街が燃え、人が燃え、焼けたガレキの大地になりました。そしておよそ2000人以上の人が犠牲(ぎせい)になりました。
この楠は、熱風と炎に焼かれ、黒く焼けただれながら、この様子をしっかりと見届けていました。
この木自身も瀕死(ひんし)の重傷におちいりましたが、それから3年後の春に、黒く炭のようになっていた幹から青い芽が吹きはじめ、戦後のきびしい生活に追われていた市民に生きる力をあたえ、戦後のむごさ、平和のとうとさと命の大切さをいまの私たちに伝えつづけています。
2011年6月 静岡平和資料館をつくる会
[四足門]
教導石から200mほど西に中町交差点があり、交差点に面して中町ビルという再開発ビルが建っている。
そのビルには石垣が一部に組まれていて歴史を残そうとしてくれている。
[四足門]
中町ビルの石垣に謂われのの看板が書かれていた。
<駿府城四足門跡>
四足門は大手・横内・草深門とともに駿府城三の丸四門の一つである。中町から外堀を渡って北に進むと突き当りが枡形の石垣で、すぐ左側の南と北に櫓台の石垣を築き、その間に東面して渡櫓の城門を設けてあった。
明治初期に門を壊して払い下げたときの記録からみると大手門に次ぐ規模があったことが推定される。北側の櫓台と升形の石垣は早く取り壊されて南側の櫓台石垣だけが残りこれも中町市街地再開発事業より撤去されたが算木積角石の一部を復元して残すことになった。
四足門の名は今川時代からこの付近の名称となっていたが、その由来は今川館の四脚門があったことによると言われている。
徳川家康が慶長年間に修築した今の駿府城の前身である旧府中城(天正年間造営)の追手門もここであったと考えられる。
[四足門]
中町ビルの石垣の前に「昔のままかな?」と思われる石垣が組まれている。
小さな木の看板が立っている。
[四足門]
駿府城南辺の西寄りの箇所に設けられた出入口で、東側の大手御門と並び、東海道筋から城へ入る重要な出入口の一つです。三ノ丸堀を渡って、左手へ直角に曲がり、渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。
[中堀・古地図]
江戸時代の古地図が碑となっている。
当時のゼンリン地図のようだ。
駿府古絵図附記の「御用旧記」より抄録
静岡市は昔、安倍の市と称した集落旧跡であり、永禄年間(1558年)頃より町としての形をなしたことを明らかであるが、永禄天正年間の兵火で多数の民家が焼失し、住民の多くは離散したが、その後兵火もおさまった慶長の初めころから徐々に民家が建つようになった。
慶長12年(1607年)駿府に移って来た徳川家康は城下町駿府の整備のため彦坂九兵衛光政、畔柳寿学を奉行に任し、町割りをさせた。そしてこの町割には町年寄り友野宗全によるところも大きいと記されている。
[中堀・家康の散歩道]
駿府城の周辺には「家康の散歩道」と称した歩道が整備されている。ここもその一部。
この写真の時は未申櫓の石垣が修復されている。駿府城の説明と修復を説明する看板があったので読む。
<駿府城跡>
徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、隠居場として駿府を定めました。慶長12(1607)年、家康は、輪郭式で石垣を廻られた3重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させました。
家康在城時の駿府の町は、江戸とともにいわば2元政治が行われていたため、政治、経済の中心として大いに繁栄していました。家康の死後、城主となった忠長が改易されると、駿府城は城代の管理となります。
明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となりました。戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され、巽櫓、東御門の復元もされ、一般に公開されています。
<修復を説明する看板は次のフレームへ続く>
[中堀・未申櫓]
修復が終了した未申櫓。
<修復を説明する看板が前のフレームから続く>
<駿府城坤櫓石垣復原>
駿府城は、江戸初期の築城以来、地震や様々な災害により、何度となく改変、修復を行っています。
石垣についても、幾度となく襲った地震や明治以後の改築や埋め立てにより、積みなおしや積み替えを行ってきました。
静岡市では平成18年より、孕み、沈下、崩壊などの変形が著しい坤櫓石垣の復原工事を進めています。
復原に際し解体調査等を行い、石垣の構造や崩落の原因を調べ、復原工事に役立たせています。
[中堀・駿府城址看板]
前2つののフレームに説明の内容を読んで記載している。
わかりやすい説明と城の見取り図は気に入った。
工事が終わったら撤去されてしまうのだろうか。
[中堀・学問所跡]
法務局の前に学問所跡の碑がある。
説明看板を読む。
静岡学問所は、明治維新後駿府に移ってきた徳川家(府中藩)により、藩の人材養成を目的とし駿府城四ツ足御門にあった元定番屋敷内(現静岡地方法務合同庁舎付近)に明治元年「駿府学問所」として創設されました。学問所は、翌2年「駿府」が「静岡」に改名したことにより「静岡学問所」となりましたが、明治5年8月学制の施行とともに閉鎖されました。
この学問所には、向学心に燃えるものが身分を問わず入学が許可され、向山寛村、津田真一郎(真道)、中村正直(啓宇)、外山捨八(正一)など当代一流の学者により国学、漢学とともにイギリス・フランス・オランダ・ドイツの洋学も教授されました。またアメリカ人教授の多くは明治政府に登用され、開成学校(現東京大学の母体)の教授など学界や官界で活躍をしました。
静岡学問所の歴史は短期間でしたが、日本の近代教育の先駆けをなし、明治初期の中等、高等教育の最高水準の学府でありました。
[中堀・城内西尋常小学校碑]
かつてはここに小学校があったのだろう。
[中堀・二の丸御門跡]
駿府城二ノ丸御門の看板が立っている。この看板の対岸の新しく石垣を組んだ所が、かつての二の丸御門だ。
二ノ丸へ入る正面で入口で、大手門ともよばれました。
二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸内へ入る構造になっていました。
門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられました。(現在の駿府公園入口)
[中堀・わさび漬発祥の碑]
中掘沿いを歩いて県庁裏まで来たところに山葵のばけものがある。
<駿府城わさびの碑>
わさびは370年前わが国で始めて安倍川上流有東木で栽培された。
わさび漬は今から200余年前駿府のわさび商人によって初めて考案され幾多の人に受け継がれて改良進歩した。
特に明治以後交通機関の発達により長足の発達を遂げたのである。ここに明治百年を期し先覚者の偉業を偲び感謝の誠を捧げてこの碑を建つ
[城濠用水の碑]
この堀は今でも灌漑用水として利用されているらしい。
<城濠用水土地改良区記念碑>
城濠用水の由来
城濠の誕生は慶長12年(1607年)駿府築城と同時に出来たものでその豊かな湧水は築城と共に付近農地の灌漑用水として自然の内にその水利権を持ちお濠は明治維新と共に国有地となり県令が管理をした。
明治23年5月旧城敷と濠敷は共に地元静岡市に払下げが決定した。
その内城濠の面積は33,289坪110,046.27uである。
翌明治24年5月6日水利権のある豊田村、千代田村、大谷村の3ケ村に静岡市より土地代金3,464円87銭8厘を以って払下げとなった。
明治36年水利組合法制定により豊田村外2ケ村用水普通水利組合が設立認可。
昭和24年8月4日土地改良法の施行により城濠用水土地改良区に組織が変更されることになり、県告示番号第631号同土地改良施行法第9条の規定により認可番号静土改20号の指令が交付され昭和50年3月4日静岡市の正庁で城濠用水理事長と静岡市長及び双方の関係役職員立参のもとで城濠の土地を静岡市へ譲渡する調印式が施行されて、その間84年を経て再び静岡市へ移管となる。
昭和53年5月
[野次・喜多]
東御門の前に野次さん喜多さんと一緒に座れる椅子がある。
東海道中膝栗毛の説明があったので読む。
「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九(1765〜1831)は、ここ駿河の府中(現静岡市)出身で、江戸文学における戯作者の第一人者であり日本最初の本格的な職業作家といえます。
1765年、駿府城奉行同心 重田与八郎の長男として両替町で生まれました。本名は重田貞一、幼名を市九といいます。
1783年大阪へ行き、一時は近松余七の名で浄瑠璃作家としても活躍しましたが、その後士分を捨て、1794年再び庶民文化豊かな江戸に戻って戯作の道に専念し、多くの黄表紙や洒落本などを書きました。
「東海道中膝栗毛」は、1802年に初編(初編は「浮世道中膝栗毛」のち改題)、以降毎年一編ずつ8年にわたって書き続け、1809年全8編を完結しました。この膝栗毛は爆発的人気を呼び、休む暇もなく「続膝栗毛」の執筆にとりかかり、1822年の最終編までに実に21年間に及ぶ長旅の物語として空前の大ロングセラーとなりました。
物語は、江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛と、元役者で江尻出身の喜多八という無邪気でひょうきんな主人公二人が、江戸を出発して東海道を西に向い、伊勢を経て京都・大阪へと滑稽な旅を続ける道中話で、今でも弥次喜多道中と言えば楽しい旅の代名詞になっています。
当地の名物として安倍川餅やとろろ汁も登場。また、府中では、夜は弥勒手前の安倍川町(二丁町といった)の遊郭へ出かけたり、鞠子(現丸子)では、とびこんだ茶屋の夫婦喧嘩に巻き込まれ、名物とろろ汁を食べるどころか早々に退散したといった話が語られています。
十九は1831年没 享年67歳。墓所は東陽院(現東京都中央区勝どき)にあります。
ここ府中は、江戸から44里24町45間(約175km)19番目の宿です。
[甘夏]
甘夏みかんの碑が立っていて、甘夏みかん植栽されてる。
[青葉小学校]
青葉小学校は城内小学校と合併し、今は葵小学校と名前を変えて城内小学校へ併合された。
校址碑があり、校歌が書かれていて青葉小学校の思い出をここに残している。
[葵文庫]
巽櫓の向かいに市立図書館があって、葵文庫がその中にあった。
由来
葵文庫は大正8年静岡に縁の深い徳川家の記念事業として計画され、同14年3月28日徳川家の家紋を館名としてこの地に開館した。
その特色は江戸幕府旧校書の一部である「葵文庫」と3代県令関口隆吉収集にかかる「久能文庫」にあった。以来県立葵文庫は県民の図書館として、また全国的にも貴重書の宝庫として注目されその発展をみた。
昭和44年市内谷田に新館が建設され、静岡県立中央図書館として移転すると葵文庫は新たに静岡市立図書館として再出発した。
しかし、施設の老朽化により昭和59年市内大岩に新築移転したため県民に親しまれた建物は取り壊され60年の歴史を閉じた。
[巽櫓]
巽櫓と東御門は復元されたものだ。東御門を入った巽櫓の裏側のところに説明書きの看板があったので読む。
巽櫓は、駿府城二ノ丸の南東に位置する木造矩折3層2重の建物です。
この巽櫓は、寛永12年(1635)に城下から出た火により焼失し、寛永15年(1638)に新たに建設されたといわれています。
巽とは12支で表した方角で辰と巳の間、すなわち南東の方角をいいます。また櫓とは
1、 武器を納めておくため
2、 四方を展望するために設けた高楼
の役割をしたものです。
巽櫓の復元は、「駿府御城覚書」や「駿府御城総指図」等の資料をもとにしており、三年の歳月をかけ、平成元年三月に完成しました。
[東御門]
巽櫓と東御門の復元には10億円以上の費用をかけたとの話を聞いたような気がする。
東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。
この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる。東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安東帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
東御門は、寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15年(1638)に再建されました。
復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。
[東御門]
右の写真は別の日に夜の東御門を撮影したもの。
門をくぐるとスペースがある。
タイムスリップした気分になる。
[東御門]
門の脇には狭間という穴が空いている。看板を読む。
狭間
城内から弓矢や鉄砲で敵を攻撃するために土塀の壁面に小窓が開いています。
長方形のものが矢狭間、丸い形のものが鉄砲狭間です。
この窓穴を大きくすると敵の攻撃を受けやすいため壁の外側を小さくし、内側を広くして敵をねらいやすいようにしてあります。
[東御門]
梁には太い材木が使われている。
[駿府96ケ町]
東御門の裏側に駿府の町割りの絵図と町名が書かれている。
<駿府城下町>
駿府の城下町は、慶長年間に大御所徳川家康公が駿府城とあわせて完成させた近世初頭の代表的城下町であった。当時、家康公に謁見した諸大名や外国からの親善使節の間でも城と町並みと霊峰富士の織りなす美しい景観は高く評価されている。
ここに家康公往時の町割りを顕彰し、由緒ある「駿府96ケ町」の町名をしるすものである。
[駿府城公園]
「駿府公園」が平成24年4月1日に「駿府城公園」へ名称変更した記念碑が東御門前に立っている。
城があったことを公園名にいれることによって駿府城のイメージを伝えようとしている。
[三四連隊の碑]
東御門から紅葉山庭園に向う途中の芝生の奥に石碑がある。
明治から終戦までの間、この地に駐屯していた34連隊の石碑だ。
脇の石碑には軍神と崇められた橘中佐の歌が刻まれている。
<軍神 橘中佐>
遼陽城頭夜は闌けて
有明月の影凄く
霧立ちこむる高梁の
中なる塹壕声絶えて
目醒め勝ちなる敵兵の
肝驚かす秋の風
敵の陣地の中堅ぞ
先づ首山堡を乗っ取れと
三十日の夜深く
前進命令たちまちに
下る 三十四聨隊
橘大隊一線に
[二ノ丸水路]
中堀から内堀への連絡水路。
この水路は、本丸と二ノ丸堀をつなぐ水路で本丸堀からの水を外に出す目的で築かれています。
幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。
本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当時の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。
[紅葉山庭園]
大名庭園を模して整備されている。
紅葉山庭園の北側にかつては馬場先御門があったらしく謂われの看板が立っていた。
<駿府城北御門・馬場先御門跡>
北御門は、二ノ丸へ入る裏手(搦手)側の門で、絵図の中には「不明(あかず)」の門ときされるものがあることからも普段はあまり使われなかったものと思われます。
北御門は門を入ると石垣による桝形風の空間を通り、二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構造による馬場先御門があります。この方面には本丸天守へ至る御天守台下御門があるため、特に厳重な造りになっていたものと思われます。
北御門と馬場先御門とをまとめて一つの門構造とする考え方もあります。
[紅葉山庭園]
ちょっと覗いてみます。
お茶を出してくれるサービスもあって、こんな風に家康が暮らしたのかな?と思わせる雰囲気があるが史実に基づく施設ではないようだ。
[友情の森]
紅葉山庭園の西に、こんもりとした小さな森がある。
[友情の森]
森の中に石碑が立っている。謂れが書かれている。
「友情の森」の由来
静岡県下の国際交流・平和、文化・芸術、農村、労働など、各分野の青年運動の広がりと高揚、連帯の象徴として、静岡市駿府公園内に「友情の森」がつくられた。1960年8月静岡市を訪問したスウェーデンの国際青年団体代表によって最初の1本が植えられ、同年10月6日記念碑の除幕式を行なった。
以後、静岡市を訪れた海外の青年代表、朝鮮民主主義人民共和局帰国する青年が記念の植樹を行い、静岡市駿府会館で毎年開催した「静岡のうたごえ祭典」に集まった青年たちが、県内各地から苗木を持ちより植えてきた。
それから40年が経った。駿府公園の一角につくられたヒマラヤスギを中心にした「友情の森」は長い歳月とともに大きく育ち、記念碑「友情乃森」の周りは鬱蒼とした森になった。
ここにその由来を記し、21世紀への伝言とする。
2000年3月11日
「友情の森」を再建する会・世話人連名(50音)
(氏名省略)
[マロニエ園]
友情の森の西隣にマロニエの林があり、いくつかの銅像が見られる。
<マロニエ園>
この園に植えられたマロニエは、都市緑化のために昭和32年ときの市長山田順策氏がパリー市長レベック氏に依頼し、その好意により寄贈されたものであります。ここにマロニエ園として永く記念します。
昭和40年12月 静岡市長 荻野凖平
[山田順策氏]
マロニエ園には銅像がいくつか建っている。正面にあるのは「山田順策」氏の銅像だ。台座に功績が書かれている。
<山田順策氏顕彰のことば>
銘記 静岡県知事 斎藤寿夫 氏
彫塑 朝倉響子 氏
建設発起人代表静岡新聞社長 大石光之助 氏
氏は明治20年静岡市瀬名に生まる。長じて東京歯科医専に学び大正元年静岡市に開業す。資性豪放進んで政界に入り年端34年にして市議に当選、次で県議、衆議院議員に選ばれ剛直を以って聞ゆ傍ら信用組合、乗合自動車協会を主宰す。
昭和30年静岡市長に当選財政を再建し駿府公園、駿府会館を築造する
長けた実行力に富み市民挙げて敬慕す。
昭和36年6月19日平し、従4位勲3等を授けらる。このたび同志知友相謀り氏の功績を永遠に讃えんがため胸像を駿府公園に建つ。
昭和39年12月19日除幕
[増田茂翁]
山田順策氏の銅像のとなりに「増田茂翁」の銅像がある。
翁は明治24年旧安倍郡長田村大和田に生る天資豊かにして温厚篤実若くして黎明会を創り、青年運動の指導者として郷党に新風を興す後市政県政に参加地方自治に尽瘁す。
特に昭和23年来市長在職8年戦火に焦土と化せる静岡市の復興に献身。今日の近代化と繁栄の基盤を築く多数市民の景仰追慕の至情を此所に表す。
昭和45年11月3日
衆議院議員 西村直己 撰
静岡市長 荻野凖平 書
[宮崎通之助先生]
増田茂翁の銅像のとなりに「宮崎通之助先生」の銅像がある。
宮ア通之助先生は、明治12年8月10日静岡市弥勒に生まれ、明治39年東京帝国大学を卒業、直・・官界に入り、各県部長、愛媛県知事、内務省土木局長等の要職を歴任し、昭和6年3月、招かれて静岡市長に就任された。
先生は市長として幾多の重要施策を果敢に遂行された。特に、上下水道の布設に関して、数多い困難を克服し、これを完成。今日の本市水道事業の基礎を確立された。
ここに上水道30周年を記念し、先生の功績を顕彰の辞とする。
昭和27年11月11日 静岡市長 松永彦雄
[青島平十翁]
奥にデザインされた石碑があって良く見るとレリーフで青島翁の顔が彫られていた。
<柑橘功労者 青島平十翁顕彰の碑>
青島平十翁は明治20年静岡市福田ケ谷に生まれ昭和47年没するまで、その生涯を柑橘の振興に尽くした先達である。
殊に柑橘の品種改良に卓越し、優れた青島温州を発見・育成し、更に共存共栄による柑橘産地の形成を理念として、静岡県をはじめ広く全国の青島温州の普及に貢献した。
この功績により勲6等単光旭日章を受章された。
ここに翁の功績を顕彰し、併せて静岡県柑橘業の発展を記念し、この碑を建立する。
平成9年5月26日 青島平十翁顕彰碑建設委員会
撰文 青島平十翁顕彰碑建設委員会
肖像製作者 横田七郎
モニュメント設計者 深井英正
[青島彦三郎翁]
一番奥は「青島彦三郎翁」の銅像。
揮毫 静岡県知事 斎藤壽夫
製作者 堤 達男
施工者 鈴木和雄
青島彦三郎翁の辞
青島彦三郎翁は、安政4年静岡県安倍郡有度村に生まれ、昭和16年逝去されるまで、その生涯を茶の品種改良に打ち込まれた。その間多くの困難に耐え、「やぶきた」種をはじめ多数の優良品種を育成され、わが国の茶品種改良の先駆をなした。
翁はまた、優良品種の増殖に腐心され、取り木、さし木など栄養繁殖法に新機軸を拓くとともに、優良品種茶の造成に力を注がれた。一方永年に亘り静岡県茶業組合聯合会議議員、茶業組合中央会議議員、県議会議員として活躍された。同翁逝きて20年を迎えた、ここに、その業績の概要を述べ顕彰の辞とする。
昭和37年6月2日
青島彦三郎翁像設立発起人会 秋野三千雄
[本丸堀]
東御門方向へ戻り堀の一部を復元している場所の近くに看板が立っている。看板を読む。
本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23〜30mで深さは江戸時代には5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。
角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。
発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。
[駿府公園]
駿府公園は市街地にくつろぎの空間を醸しだしている。
片隅に「柳の由来」という看板が立っていたので読んでみます。
今から400年前の慶長6年5月(1601)徳川家康は伏見に銀座を開設した。その後慶長11年(1606)駿府両替町の地に銀座が2番目として設置されたが、慶長17年(1612)に江戸に移し、新両替町(現銀座2丁目)として運営され、明治2年町名が銀座に改められ現在に至っている。
明治17年、銀座の街路樹は柳に統一されたが、大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲の被害に遭いながらも市民の保存への熱意が実り、立派な並木がよみがえった。しかしながら、高度成長期の昭和42年頃より、銀座の柳が姿を消した。これに心を痛めた地元の有志が保存運動に心血を注ぎ、挿木で苗木を殖し、銀座はもとより全国各地へ寄贈されている。
本市も銀座の取持つ縁により駿府城址の一隅に銀座の柳二世を植え後世に伝えるものである。
[行幸御野立所跡]
かつて、この地で天皇陛下が野立てをしたのだろうか。記念碑が立っていた。
このあたりに駿府城の玄関口があったのだろうか。
<駿府城御玄関前御門跡>
駿府城の中枢である本丸への出入口には、南側の御玄関前御門、東側の御台所御門、北側に御天守台下御門の三ケ所があります。
この中で御玄関前御門は、本丸御殿へ至るための最も重要な門で、本丸の正面玄関とも言えます。
門は、二ノ丸側から木橋を渡って高麗門を通り、石垣に囲まれた桝形内を東に折れて本丸へ入る構造になっていました。また、門に面する二ノ丸の一画は、橋をはさんで東と西が新城として生まれ変わりました。城には3重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
[家康お手植えミカン]
家康が植えたとされているミカンの木が家康の銅像の前にある。
徳川家康公が将軍職を退いて駿府に隠居のおり、紀州より献上された鉢植えのミカンを天守閣下の本丸に移植したものと伝えられている。
このミカンは当地の方言でホンミカンといわれており、鎌倉時代に中国から入った紀州ミカン(コミカン)の一種で、香りの強い、種のある小型の実を結ぶ。静岡地方のミカンの起源を知るうえで貴重なものである。
[東照公御遺訓]
家康が残した人生訓の碑。読んでみる。
人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基怒は敵と思え
勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る
己を責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
[本丸跡地]
この辺りに本丸があったそうだ。看板を読む。
<駿府城天守閣跡>
大御所徳川家康の居城にふさわしく、駿府城の本丸には5層7回の壮麗な天守閣が築かれました。
天守閣は、駿府城のシンボルとして、城下町からは富士山と並び立って見えたと伝えられています。
また伝説では余りに天守閣が光り輝くので駿河湾の魚が怯えて漁師が困った、などと云われます。
天守閣は、家康在城時に一度火災に遇い再建されますが、家康没後の寛永12年(1635)に再び火災により焼失し、以後再建されませんでした。わずかに天守の面影を残す石垣造りの天守台も、明治29年に静岡連隊を誘致するにあたって解体され埋められました。
[城の見取り図]
看板に当時の見取り図がある。
[ひとつばたご]
天守閣跡の脇の小さな木の横に看板が立っている。
この木は学名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれており、本州の中部地方、愛知・岐阜両県と対馬にだけ自生する落葉の喬木で、5月の初め頃に白い清楚な花が咲き満開時は雪をかぶったように見えます。
「なんじゃもんじゃ」の名の由来
この不思議な名の由来は通説として、水戸黄門(光圀)が参勤交代のとちゅうに下総神崎(千葉県神崎町)の神崎神社に参拝され、社殿横にある大木(御神木)をご覧になり「この木はなんじゃ」とたずねられた。土地の人は聞きとれず「なんじゃもんじゃ」と問い返した所「なんじゃもんじゃであるか」といわれた。以来この御神木を「なんじゃもんじゃ」と呼んでいる。
ここに植栽した「ひとつばたご」は明治神宮外苑から譲り受けたものであります。
昭和59年11月 静岡市役所公園緑地課
[やすらぎの塔跡]
やすらぎの塔は、学徒動員の男女像があったが今はなくなっている。
像の前に謂れが書かれている。
駿府城頭はるかに富士をのぞみ民族の悲劇に散った動員学徒の像が年経た今人々の心に刻まれた美姿そのままにひたすら霊よやすらかなれと祈りをこめて静かに建立された。
純潔にして凛々しかった君たち若人らは国家と運命を共にして一片の名誉すらなく献身の一字に消えた。
しかしながら人々はすべての悲善愛憎をのりこえて、この前にぬかずきふたたびくりかえすまじきことを誓って新たなる市民の使命を見出さんとしている、
君たち動員学徒の霊が限りなく希っているであろう自由と平和と真理のある国にすべく人々は君たちの像を永遠に仰ぎ見る。
昭和33年11月23日 静岡県知事 斎藤壽夫
[やすらぎの塔跡]
やすらぎの塔のうしろに犠牲になった少年少女の氏名が刻印されている。
[とこしえの塔]
とこしえの塔は、平成になってから建造された。
戦争犠牲者追悼碑
静岡市は太平洋戦争により昭和19年(1944)12月7日から20年8月1日までの間に16回にわたり米軍機による空襲を受けました。
とりわけ昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけてB29爆撃機123機による大空襲を受け市内のほとんどが焦土と化しました。これらの空襲により静岡市民2000余人の尊い人命と貴重な財産が失われました。
またひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ幾多の戦場に散った静岡市出身の軍人軍属塔等7900余人の尊い犠牲も生じました。
私たち静岡市民はこのような悲惨な戦争を拒否し日本憲法の示す精神を体して昭和35年(1960)3月25日静岡市平和都市宣言をして永達の平和を誓いました。
いま終戦50周年(1995)を迎えるに当たり市民の血のにじむような努力により復興した県都静岡の市民憩いの地に戦争のむなしさを永く記憶にとどめ多くの犠牲者を追悼するとともに世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立しました。
平成7年8月15日 静岡市長 小島善吉
[とこしえの塔]
とこしえの塔の前に空襲被害の地図がある。
当時の空襲の激しさがわかる。
[富士見芝生広場]
未申櫓の前からは駿府城公園から富士が見える。
[石垣モデル]
富士見芝生広場には石垣のモデルが設置されている。
<「切込み接ぎ」と「打込み接ぎ」の石垣モデル>
平成21年8月11日に発生した駿河湾で発生した震度6弱の地震により、駿府公園二ノ丸堀(中堀)の石垣が崩落しました。
石垣の復旧の際に用いた積み方と、二ノ丸堀石垣に見られる積み方を、地震で崩れた石材の中で破損のために再利用できなかった石材で積み上げたものです。
<打込み接ぎ(右側)>
石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)をもちいて石垣を築く方法です。石の隙間には間詰め石を詰めています。
<切込み接ぎ(左側)>
切石(加工石)で石垣を築く方法です。
[西門橋]
清水御門跡。
駿府城清水御門跡
二ノ丸へ入る西側の出入口です。
二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた桝形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていました。門の北側には西喰違御門があり、本丸搦手(裏手)側の御天守台下御門方向へは容易に侵入できない仕組みになっていました。
[西門橋]
西門橋から双葉高校方面へ向かい、内堀を進んでみる。
[聖母幼稚園]
聖母幼稚園の敷地内の教会。聖ドミニコ教会と言うらしい。
[聖母幼稚園]
名門聖母幼稚園前に石碑がある。
何の石碑か知りたかったが、何か書かれているが擦れて読めない。
[北御門橋]
北御門橋前に市民体育館と市民文化会館が並んでいる。
[北御門橋]
北御門橋跡。
二ノ丸へ入る北側の出入口です。
二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣に囲まれた桝形風の広場を経て二ノ丸内へ至りました。
二ノ丸へ入るとすぐ西側には馬場先御門がありました。北御門と馬場先御門を合わせて一つの門構造とする考え方もあります。
[市民文化会館前]
文化会館前から東御門方面を臨む。
[横内御門跡]
外堀横内御門跡。
駿府城三ノ丸堀の東辺は、北街道西沿いの商店街の下に埋設しています。
横内御門は駿府城内へ入る北東側の出入口です。三ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた桝形内を経て渡櫓門から三ノ丸へ入る構造になっていました。
[横内御門跡]
外堀横内御門跡の脇に石垣の石のような物が?
「松平伊豆守信輝・・・築之・・・」と彫られている。
石垣の一部の名残りなのか。運ぶ途中に落としてしまったものなのか。
ここで駿府城巡りをゴールすることにする。横内御門跡は北街道の脇にあって、400m戻るとスタート地点の江川町へ戻ることができる。
−コメント−
駿府城を巡って約3kmの距離だが、看板や石碑が多い。
ゆっくり読んでいると時間を費やす。
天守閣を再建する話がなくならないが実現は難しい。
天守閣の無い時代が長く、それが駿府城の姿なのかもしれない。