− 北街道(清水側) −
北街道は東海道が整備される前の古東海道とも言われている。
駿府城から瀬名を抜けて庵原(清水)へと向かい、旧東海道と横砂地区で合流する。
[瀬名]
駿府側の北街道のページは瀬名を到着地点としたので、瀬名を出発点として清水方面へ向かう。
この辺りからしばらく旧道の名残りは見つからないので現在の県道67号(北街道線)を瀬名川の交差点から進んでみます。
北街道(駿府側)へ向かうページへはこちらをクリック。
[鳥坂]
北街道はバイパスをくぐると葵区からさよならして清水区鳥坂に入る。
瀬名も標高が低いが鳥坂はさらに低く10mに満たない低地だ。
[鳥坂]
北街道はバイパスや東名高速と平行して清水方面へ進む。
[鳥坂]
このあたりは郊外型の商店が並んでいる地域。
[鳥坂]
「妙楽庵」と書かれた建物の脇を入ると「大福寺」がある。
とても幸せになる寺の名前だ。
[鳥坂]
路地の突当りの生け垣を越えると「大福寺」。
[鳥坂]
大福寺の立派な山門。
[鳥坂]
大福寺の本堂。
臨済宗妙心寺派「瑞應山 大福禅寺」
[鳥坂]
大福寺には鐘楼もある。
[鳥坂]
街道へ戻り300mほど進み「開運大日如来道」と彫られた石柱を入ると「妙立寺」がある。
[鳥坂]
妙立寺境内の傍らに江戸時代と思われる古い墓石が並んでいる。
[鳥坂]
境内には地蔵や菩薩の石像が見られる。
[鳥坂]
臨済宗妙心寺派「安昌山 妙立寺」。
[鳥坂]
本堂の脇を抜けるとお堂が建っている。
[鳥坂]
大日如来堂。
[鳥坂]
お堂には仏像が鎮座している。
[鳥坂]
妙立寺の裏に梶原山への登山道入口がある。
[鳥坂]
梶原山への登山道はここを登る。
[鳥坂]
妙立寺の裏に土壁の小屋があった。
なんだか懐かしく写真を撮ってみました。
[大内]
街道へ戻り500m進むと「梶原堂」を案内する石柱が立っている。
「鎌倉本体の武士 梶原景時を祀る梶原堂 大内牛未会」と彫られている。
[大内]
街道から100m入ると「梶原堂入口」と彫られた石柱の案内に誘われてみる。
[大内・梶原堂]
小さなお堂が建っている。
<梶原景時の遺跡>
もとは梶原山龍泉院というお寺で梶原平三景時公を本尊として、その一族をまつるために建てられました。
その時期は、景時公一族が鎌倉を脱出し上方に向かう途中、この地で戦い全滅した。正治2年2月20日(1200年)から160年経った延文5年12月28日(1360年)のことです。
この時、景時公の8代の孫、梶原景慶は、駿河に赴任してきました。景慶は、足利尊氏の弟、直義の援助を得て、矢崎山の山腹に龍泉院を建て、法名を龍泉院殿梶勝原公大居士とおくり名し景時公をまつりました。
それから622年経た文政5年(1822年)に龍泉院は火災にかかり全焼しました。
幸い景時公、長男景季公、2男景高公、源頼朝公、源頼家公の5位牌と如意輪観音像(金箔の厨子に安置してある)毘沙門天像等は無事でした。
時の住職は、梶原氏と縁故のある上杉家に寺院の再興を請願し、御堂1棟を贈られました。その後、梶原堂は何回かの復元により、原形を保ってきました。
昭和37年、矢崎山が根元から削り取られるにあたり山腹にあった御堂を現在の場所に境内を造成し移転しました。
鉄筋の御堂は、この時新しく建てられたもので中には、景時公、頼朝公の2位牌と如意輪観音像、毘沙門天像(鎌倉時代の作)しか収められていません。その横の形の崩れた3基の墓は、景時公・景季公・景高公の墓です。
昭和5年頃は墓も刻字もしっかりしていて、延文5年12月28日の刻字がある宝篋印塔でした。丸い石を中にした五輪の塔は、供養塔です。
明治4年の寺社検知で、龍泉院は廃寺となって以来、牛ケ谷区・矢崎区の信徒により梶原○○として、毎年旧暦2月28日に祭典をして来ましたが、昭和38年より新暦の3月3日に祭典を行なっています。
梶原出高(梶原山頂)には梶原親子の碑と鬢水といわれる遺跡があります。
景時公の辞世
もののふの覚悟はかかる時にこそ
人こそしらぬ名こそおしけれ
鎌倉幕府を創設した、頼朝公の重臣景時公は波瀾万丈の一生を其の一族と共にこの地につきぬ恨みを呑んで散りました。
昭和56年 高部まちづくり
[大内]
もう一つの小さなお堂。
[大内]
奥へ進むと桃林寺を案内する道標が立っている。
[大内]
奥へ進むと桃林寺がある。
[大内]
桃林寺の本堂。
曹洞宗「牛谷山 桃林寺」
[大内]
桃林寺。
[大内]
街道が大内に入ると商店も減り農地が目に付くようになる。
[大内]
また500m程進んで山の中腹に「霊山寺」が見えるので向ってみる。
[大内]
大内霊山寺御朱印所と書かれた看板がガードレールに止められている。
[大内]
お堂がある。
[大内]
「霊山寺御朱印所。21番札所」と書かれた看板が民家の前に掲げられている。
[大内]
「霊山寺」の案内石柱を頼りに進む。
[大内]
ここにも浅間神社がある。
[大内]
霊山寺周辺の案内看板が立っている。説明文も書かれていた。
高部・霊山寺
鷲峰山霊山寺は、遠く奈良時代に創建された古刹です。寺は大内山の中腹、標高150m程の山中にあります。麓の登山口から急な33曲りの道を登っていくと、道沿いに桜の木が続きます。ここは桜の名所です。登りきると、目の前に偉容を見せてくれるのが、創建が永正13年(1516)といわれる仁王門です。
<重要文化財の仁王門に感嘆!>
仁王門は、間口3間半、奥行2間の寄棟造りで、茅葺き屋根の雄大な風格を見せています。また柱は法隆寺に見られる上部がやや細くなったエンタシンス調の手法が用いられています。
創建は棟札に永正13年(1516)全福寿庵恵妙寄進とあります。当時この辺は今川氏親の支配下でしたので、その家臣朝比奈氏によって作られたことが分かります。門の両脇には江戸期の作である阿吽2体の仁王像が、寺の守護神として安置されています。
<仁王門から鐘楼、本堂へ>
霊山寺は昔から雨乞観音といわれ、、日照りの時の雨乞祈願に、ご利益があるということで、多くの信者がお参りしました。
仁王門を入り、さらに道を登っていくと右手に鐘楼が見え、その上方正面には、宝暦6年(1756)再建の本堂が姿を見せてくれます。単層入母屋造、回りに回廊があって、ここに上ると清水市街地の大パノラマが一望できます。この景色を見るだけでも疲れがなくなります。(本堂は市指定文化財)
[大内]
霊山寺の本堂は山の中腹にある。 ここから登ります。
案内板を読みます。
霊山寺
Iふるさとの路
霊山寺(登り約15分)
行基の開山で、仁王門は永正13年(1516)に建てられ国の重要文化財で仁王は江戸時代の作。
本堂の鰐口は県文化財。千手観音は行基の作で安置されている。
[大内]
丸子の小野寺と同じように「一丁目」から始まる石柱が登る苦労から参拝者を励ましてくれる。
[大内]
参道脇には観音様が見守ってくれている。
[大内]
菩薩様や仁王様のような石仏もある。
[大内]
やっと「二丁目」。何丁目まで続くのだろう?
[大内]
ところどころに和歌の短冊がぶら下げられている。
[大内]
岩盤を削り階段が作られている。
[大内]
石組みの階段もある。
ここは「三丁目」
[大内]
仁王の力石の説明看板がある。
<仁王の力石>
坂を登って疲れたとき、この足跡を踏むと不思議に足のつかれが直ったものです。力強い仁王様の足跡というのでこれを踏むと足がじょうぶになるといわれています。
仁王の力石は幾星霜の歳月の破損がひどく午未(昭和56年)生まれの大内同級生が還暦を記念してこれを再現した。 平成2年3月
[大内]
「四丁目」
[大内]
ここも岩盤がむき出しになっている。
[大内]
10分ほどがんばって登ると仁王門が見えてきた。
あともう少しだ。
[大内]
「重要文化財 霊山寺仁王門」と彫られた石碑が立っている。
「五丁目」の石柱も立っていた。
[大内]
右の仁王は阿吽の「阿」。
[大内]
左の仁王は阿吽の「吽」。
[大内]
霊山寺仁王門の説明看板を読む。
<国指定重要文化財>。
この仁王門は永正13年(1516)2月に建立されたもので、室町末期のものとして雄大な風格を示し柱は、法隆寺金堂の如く、中央に膨らみを持たせ上部がやや細くしている。
また中央通路上部の蛙股は、日本に3つしかないと言う特異な芸風を示している。
旧国指定 昭和6年1月19日
国重要文化財指定第872号 昭和25年8月29日
3間1戸寄棟造茅葺1棟
昭和25年5月改修
昭和46年茅屋根葺替え
なお、本寺所蔵の鰐口は、天正10年・1582・あり
静岡県有形文化財に指定
鷲峰山霊山寺檀家 平成20年4月
[大内]
句碑が立っている。
[大内]
霊山寺の本堂はもう少し先にある。
[大内]
本堂の手前に鐘楼がある。
[大内]
鐘楼に説明書きがあった。
鐘楼・梵鐘
この鐘楼は明治21年に再建されたもので梵鐘は元禄4年(1691)山麓の鐘鋳場で作られたが、太平洋戦争の際供出されて、現存の梵鐘は昭和54年3月檀家・篤志家により新鋳奉納されたものである。
[大内]
やっと霊山寺の本堂へ到着する。
[大内]
本堂には拝殿のようなスペースが明け広げられていた。説明看板を読む。
霊山寺本堂・天井龍図
鷲峰山霊山寺は、駿河7観音の1寺として往古より信仰されている霊場で天平勝宝元年(749)の開山と伝えられている。
本寺は、幾度か改築再建され現在の建物は、宝暦8年(1756)の再建で、上部の「虹梁」「梁桁」「束柱」等の彫刻に丹碧の彩色の跡も見られて室町様式の名残りをとどめて桃山〜徳川初期の形式がしのばれる。
また、本堂天井には、雄渾な筆致で墨絵の龍が描かれており、文政2年3月吉辰 山梨靖謹画の落款がある。これは柴田泰山、神戸麗山とならんで庵原三山の一人といわれた山梨鶴山39歳の作で、市内に残された鶴山唯一の天井絵としてその文化的価値は非常に高いものである。
昭和9年(1934)7月茅葺屋根を銅板葺に改め、「本尊開帳」宗祖弘法大師1100年遠忌を修した。
「本尊開帳は15年毎」
平成20年4月 鷲峰山・霊山寺檀家
[大内]
本堂の脇に一本松へ案内する看板がありました。
切り株に書かれたものですが半分に割れていました。
[大内]
神社のような雰囲気がある。
[大内]
天井には絵が画かれている。
所せましと札も貼られている。
[大内]
本堂の中を覗いてみます。
観音様?阿修羅様?
霊山寺は駿河7観音の一寺なので本尊は観音様と思う。
[大内]
本堂の中に小さな本堂が建っている。
[大内]
「駿豆両国 駿河一国 三十三所霊場順拝」昭和16年の木札が掛けられていた。
[大内]
本堂の裏に「霊山寺 本坊」があった。
[大内]
本坊は普段閉じられているようだ。
[大内]
「大内観音山里山マップ」という味のある絵地図が貼ってありました。
[大内]
北街道沿いには建物が減ってくる。
[霊山寺]
振り返って山側へ目を向けると山の中腹に建物が見える。大内観音で有名な霊山寺だ。
鳥坂から続く街道の山の麓には寺が多く建っている。
西から「大福寺」「妙立寺」「桃林寺」「霊山寺」「保蟹寺」「牛欄寺」
さらに山から離れたところに「乾徳禅寺」「江月寺」「圓通禅寺」がある。
[大内]
現在の北街道は鎌倉時代にあった往古の東海道だったころの街道と同じ場所だったわけではないようだ。
500年の歳月の間、巴川の氾濫も何度かあっただろう。
今の北街道は自動車社会になった近代に整備された幹線道路。
[大内]
塩田川の橋を越える前に川を下ったあたりが旧街道だったそうなので行ってみる。
まずは川に沿って、東名のガード下をくぐる。
[大内]
東名のガード下をくぐり400mでラブホテルへ突き当たる。そのあたりに街道が通っていた時期があった。
塩田川と巴川の合流点ということもあって周辺は沼地となっていて旧道の位置はわからないし、先へ進む道もない。
塩田川を越えた先からは旧道と言われている道が存在しているらしいので後ほど行ってみる。
[東名ガード]
北街道に戻り塩田川を渡り、街道は東名のガード下をくぐり南側を進む。
[押切]
この先の路地を左折して400mほど行くと「圓通禅寺」「江月寺」「乾徳禅寺」が並んでいる。
ちょっと行ってみます。
[押切]
臨済宗「多福山 圓通禅寺」
[押切]
臨済宗妙心寺派「常照山 江月寺」
[押切]
臨済宗妙心寺派「長福山 乾徳禅寺」
[大内新田]
北街道まで戻り、そのまま信号を渡り300m程南に向いバイパスの手前に旧北街道が東西に通っている。
旧北街道は西へ300mで突き当たりそこから西を望む。
今は沼地になっていて街道の痕跡はない。
[押切]
旧北街道を東へ向かう。
[押切]
古い立派な家があって、ここが旧道だったことが窺われる。
[押切]
旧道は車がすれ違えない道だ。
[押切]
旧北街道は今の北街道に合流する。
[押切]
合流点に旧北街道を案内する看板が立っている。
<ふるさとの路 ここより旧北街道>
この細い道は新田の部落を通り、塩田川を渡り花立、矢崎より鳥坂の深田をさけて瀬名川へと続き、京都に至る鎌倉時代には重要な官道でした。
明治35年〜41年に改良工事が行なわれ、今のような北街道となった。
高部まちづくりの会
[天王]
ここからまた北街道を東へ向かう。すぐに水路を渡る。
この水路から先は天王西という町名になる。
[天王町]
街道は静清バイパスで分断されている。
[天王町]
天王町ICとも複雑に絡んで変則3路線の交差点になっている。
清水駅へ向かう道が今では北街道となっているが以前は東へ向かう道が北街道だった。
今回は昔をしのぶことが目的なので当然東へ向かう旧道を進む。ここからは「旧北街道」と呼ぶことにする。
[天王南]
バイパスの下を変則に越えて「旧北街道」を進む。
[高橋]
山原川を越えると町名は「高橋」となる。
[高橋]
山原川を越えて300mほど進んだ南側に建徳寺がある。
[高橋]
日蓮宗の「高橋山 建徳寺」
[高橋]
建徳寺は広々として落ち着いた寺だ。
[高橋]
[高橋]
建徳寺を過ぎ、信号を越えてすぐの北側に臨済宗妙心寺派の「廣徳山 高源寺」がある。
[高橋]
山門の脇に看板があるので読んでみます。
浩宮徳仁親王殿下お成り記念
昭和56年9月12日
<梶原景時一族の碑>
鎌倉幕府創業の功臣 梶原景時は将軍頼朝の没した翌、正治2年(紀元1200年)2代将軍頼家のため鎌倉を追われた
一族33人は再起を期して西国の所領に赴く途次迎え撃った
この地の豪族たちと戦って敗れ全滅した
碑には、晩唐の詩人杜牧(とぼく)の
不盡乾坤燈外燈龍没(ふじんけんこんとうがいのとうりゅうぼっす)
の一句が刻まれていて梶原一族に寄せる萬斛の思いをうかがうことができる。
[高橋]
山門から高源寺を望む。
[高橋]
高源寺の本堂は久能寺の本堂を移築したものらしい。
本堂脇の看板を読む。
<「静岡市有形指定文化財」高源寺本堂>
高源寺は13世紀、開山に今川氏出身の仏満禅師を請じて鎌倉時代に創建されました。
開基は従5位下左衛門尉高橋孫太郎維之といい、承久の乱の京都攻めに軍功を立て、鎌倉幕府からこの地に領地を賜ったといわれています。
現在の高源寺本堂は、明治5年(1872年)に当地に移築されたもので、今の鉄舟禅寺の前身とされる真言宗久能寺の院主坊の建物とされ、江戸後期頃のものと推測されます。
旧久能寺の宝物類は国宝や重要文化財として現在は鉄舟禅寺にありますが、建築物で現存するものは高源寺の本堂だけであると思われます。
なお本堂の欄間の彫刻は寛永年間(1630年代)、飛天(天女)の彫刻は元禄16年(1693年)のものです。欄間の彫刻は元禄6年(1693年)に修復され、彩色し直してあり、上下間の天井欄間は、享保6年(1720年)に修復されていますので、他の建物から移築されたものでしょう。
このように、久能寺の歴史や江戸時代の貴重な建物として、平成14年10月、旧清水市より有形文化財に指定されました。
廣徳山 高源寺
[高橋]
馬に乗った武者姿のレリーフと供養碑が立っている。
説明看板を読む。
<梶原景時一族の供養碑>
梶原景時一族の供養碑
碑の表面文字は
「不盡乾坤燈外燈龍没」とあり、向って左の側面には「三拾三人是也」としるされています。
これは鎌倉幕府を開いた源頼朝の功臣梶原平三郎景時一族の供養碑で、碑の文言は晩唐の詩人杜牧の詩の一節とといわれ、禅家において「宗門第一の書」と尊重されている「碧巌録」の標題に掲げられているものです。
景時は相州鎌倉の人、石橋山の合戦で頼朝の危難を救いましたが、この縁によって重用され、鎌倉幕府の創業にも大きな役割を果たした名将です。
しかし頼朝の没後、将軍頼家の忌憚にふれて、西国の所領におもむく途次、この高橋や、大内、鳥坂付近などで駿河在地の豪族たち飯田五郎、吉香小二郎、蘆原小二郎等と争って利あらず子の景季、景高、景茂ら一族33人と共に壮絶な最期を遂げました。
時に正治2年正月20日(西暦1200年)のことです。
禅の詩偈を用いさらにその末尾に「龍没」とありますように、この碑には「鎌倉本体の武士」といわれた誉れ高い武門の一族に寄せる限りない追慕の憶いがこめられていると思います。
碑の左右に添えてありますのは
再起を期して、遥かに京を目指したといわれる一族の勇姿を偲んだ彫刻家、下山昇先生の力作であるレリーフと梶原の忠僕が、一族の没後この地を尋ねましたが、主人たちの死を知って悲しみの余り病んで没した跡に、里人が建てたと伝えられる「ウナリ地蔵」を再建したものです。
[高橋]
本堂の祭壇。
[高橋]
本堂脇に観音様が祀られている。
看板を読みます。
<行岩観音さま>
この観音さまは、明治初年のころの高源寺住職だった行岩和尚(森部行岩)のお徳をたたえ、その董育を受けた筆子たちによって建てられました。
行岩和尚は「慈眼視衆生」のお観音さまになって、この郷土に住む私たちの幸せを願いつづけていますが、とくにこどもたちの健やかな成長と学業の成就についてもお祈りして下さっています。
行岩和尚は高源寺に寺小屋を開き、さらに飯田小学校の前身である観水舎においてにおいて子弟の教育にあたりました。
明治34年4月21日遷化 享年74才
[高橋]
顕彰碑があり、説明板を読みます。
<山梨豊太郎顕彰碑>
山梨豊太郎は、文久2年(1862)旧庵原郡高橋村の名主山梨長十の長男として生まれました。
豊太郎の生きた時代は、日本が幕末・維新を経て、国会を開設するに至るまでの、政治経済の大激動期にあたっていました。
周囲から、将来の指導者として期待をされていた豊太郎は、僅か20歳で自由民権運動の先頭に立ち「国会の順序」と題する名演説をして人々に感銘を与えました。
この間、巴川の水を直径10.8mの大水車で揚水して、田畑を潤し、多くの村民から感謝されました。明治21年新たに市町村制がしかれる事になり、飯田郷の高橋村・下野村・石川村・蜂ケ谷村・山原村・西久保新田村は3分裂する危機を迎えました。
この際にも28歳の若さで村民の代表となって、官への反対運動の先頭に立ち、「飯田村」を誕生させる原動力となりました。残念なことに明治21年11月、既に病が重かった豊太郎は、目の前に迫った国会開設も飯田村の発足も見ることなく、28歳の若さでこの世を去りました。
村民達は、あまりにも若くして亡くなった、郷土の恩人の豊太郎の死を惜しみ、その業績をたたえ、後の世に伝えようと考えてこの碑を建てました。
[八坂西町]
「旧北街道」を進むとすぐに新幹線のガードをくぐる。
このあたりから八坂へと入る。
[八坂南町]
新幹線ガードを越えると八坂南町。
すぐに県道54号と交差するの信号がある。
この県道はバイパスが出来るまでは国道1号線だった。
[秋吉町]
県道54号を越えるとこの先は「旧北街道」と言えるのかどうかわからないが東海道が整備される以前の往古の東海道ということで今までどおり「旧北街道」と称します。
このあたりから秋吉町へ入る。
[秋吉町]
県道54号から400mで秋葉山があり、は「旧北街道」と言うのかどうかわからないがは秋葉山へ向かう。
[秋吉町]
東海道が江尻方面に整備される以前はこの周辺から中心的に栄えていたという話もあるが面影は見つからない。
正面にみえる森は矢倉神社の社叢だ。
[西久保]
秋葉山は真言宗醍醐派の秋葉寺(しゅうようじ)を周辺の3寺が輪番で運営している。
一番西に位置するのが「秋葉山本坊 峰本院」
寺の説明書きを読んでみます。
記
秋葉山は元亀2年(1571年)日光法印天野景直の開山により秋葉3尺坊大権現が祀られ、本坊峰本院瑠璃光殿は、先祖天野遼景の戦痕を癒したる薬師如来を本尊とし、12支の守り本尊を祀ることによって左の祈願・祈祷をしております。
命名・お宮参り・七五三祝・子供虫封・厄除祈祷・開運祈祷・地鎮祭・方災消除・家相方位・縁談相性・交通安全・安産祈祷・病気平癒・各種祈願
[西久保]
峰本院と福昌院の間の道が秋葉寺へ向かう参道となる。
[西久保]
秋葉寺の境内。堂か何かが建っていた土台が残っている。
三重塔あたりだったのかも知れない。
由緒書きがあったので読んでみます。
<駿州秋葉山 秋葉寺由来>
【創建】
当山は元亀2年(1571)12月16日天野小四郎景直により開山され火防の守護神として近郷に名高く、古くは宮家、大名家の祈願所として尊宗を得ていた由緒ある寺院であります。
【沿革】
戦国時代武田信玄支配の江尻城、等の軍備施設などに相呼応して清水港を一望し江尻に隣接し又東海道に沿える真土山(まつちやま)に遠州より秋葉三尺坊大権現を遷座し、平素は宗教的行事の職務をとり有事の際は、武田軍と軍事助力せしめるために企画された要塞としての開山であります。
天正4年武門として再起する希望を棄てた景直は出家を遂げ、名を日光と改め第一世の住職となる。明治の神仏分離令により現在は真言宗醍醐派(京都伏見醍醐寺三宝院)末寺にて真言密教並びに修験道の法流を受け継いでおります。
【秋葉三尺坊大権現】
秋葉三尺坊大権現はその縁起によれば、貞実賢固の婦夫が観音に祈誓し一子をもうけ、その子6歳にて出家し十五歳にて阿闍梨(あじゃり)となり、1頭の白狐に乗り飛行自在の神通力をもって悪事災難を救い特に火防の守護神として名高く全国で信仰されてます。
[西久保]
階段を登った所に秋葉寺の本堂が建っている。
階段の脇に看板があったので読んでみます。
<秋葉寺の釜>
この釜は安政年間(1854年)武蔵国川口在(埼玉県東南部現川口市)の住人鋳物師甚兵衛最後の作品で秩父大社に奉納されるべく作られしもその願いはたされず故あって沼津市某工場で湯沸釜として使用されているのを知って秋葉山信徒総代山梨信夫氏がこの釜を誰れにも知られず朽ち果てるのを嘆き同社より譲り受け当山に献納安置したものである。
昭和51年3月 秋葉寺
[西久保]
秋葉3寺の一つ「秋葉山 福昌院」
「開山 元亀2年(1571年) 駿州秋葉山 秋葉寺 大祭毎年12月15日16日」の大きな看板が立っている。
[西久保]
福昌院の横には商店のような店が建っている。
[西久保]
秋葉3寺の一つ「秋葉山 榮松院」
[西久保]
「榮松院」の前の路を北へ向い新幹線のカードをくぐり間もなく「鹿島神社」がある。
[西久保]
「鹿島神社」の境内わきに神木がある。
[西久保]
「鹿島神社」の本殿。
[西久保]
「鹿島神社」の本殿わきにも神木がある。
[西久保]
「鹿島神社」前の道を北へ100m行った三和酒造わきの路地を入ったところに階段があり、「正一位稲荷」と登り口に書かれている。
[西久保]
階段を登ると頂上に「正一位稲荷」がある。
この丘陵地帯は秋葉山古墳が多く見つかっている。ここも古墳だったらしい。
「正一位稲荷」の西側に古墳広場があるがフェンスで直接行くことができない。
一度通りまで戻る。
[西久保]
階段を下りて、すぐ北側に駐車場があって登り口がある。
古墳広場へ向うことが出来る。
[西久保]
ちょっと登った所に踊り場があり説明板があるので読んでみます。
<秋葉山古窯跡調査区配置図>
秋葉山東側斜面からは5基の窯跡(登り窯)が発見されています。
また西側の斜面の北よりでも1基(堤下1号窯)が確認されています。
窯跡は15mから9m前後の規模で、6世紀後半から7世紀後半にかけての約100年間に渡って須恵器(土器)の坏、甕、高坏などを焼いていました。
清水地区の古墳から出土する須恵器は、この秋葉山古窯跡での製品が供給されたものが多いとされています。
[八坂東]
階段を登ると見晴しの良い場所に出る。
清水市街が見渡せる。
[八坂東]
尾根伝いに南へ行くと古墳広場へつながる。
[八坂東]
秋葉山2号墳があって、1号墳が先に見える。
[八坂東]
階段を下りて秋葉山2号墳を見上げる。
[八坂東]
秋葉山1号墳へ行ってみる。
円墳の階段を登る。
[八坂東]
秋葉山1号墳の頂上に説明書きがある。
<秋葉山1号墳>
平成3年度の発掘調査の結果、頂上付近から古墳時代初頭(1700年前)の銅鏃が1点出土し、周囲には同時代の土器を含む溝が確認されました。銅鏃は遺骸とともにおさめられたものと思われ、溝は古墳の周溝と考えられます。
このことから頂上部には古墳時代初頭の墓(古墳)が築かれていたと推定されます。
また、太平洋戦争中丘陵頂上付近に大砲の陣地が構築され、中腹にくりぬかれた穴からは、海を睨む砲身がみえました。
[八坂東]
「三和酒造」まで戻り北へ進むと300mで曹洞宗「瑞祥山 龍雲院」がある。
[西久保]
「旧北街道」の秋葉寺前まで戻り、東へ進む。
[矢倉町]
「旧北街道」を進むと間もなく変則交差点の信号がある。「矢倉の辻」と呼ばれている。
左から庵原方面へ向かう道。
右は「大手」「小柴」「江尻」へと向かう。
正面の右の道は「辻」方面へ向かう。
そして正面左の一方通行が「往古の東海道」
[矢倉町]
矢倉町の中心に矢倉神社がある。
[矢倉町]
神社の入口に「猿田彦大神」の石碑があって説明書きが立っている。
<猿田彦命と天宇受売命>
天照大御神の詔により、ニニギ尊が高天原から日向の高千穂峯に天降られる神話「天孫降臨」の際に、天と地を結ぶ分れ道の辻で御一行を出迎え先導を申し出る異貌の国神が猿田彦命です。
応対した天宇受売命は、これにちなんで猿女の君と名乗ることになり宮廷の神事で、演舞を勤める民族の始祖となりました。
又、猿田彦命は旅行安全、交通安全の神として尊崇されています。
なお猿田彦命と天宇受売命の両神は矢倉神社境内社の八雲神社に御祭神として祀られています。
[矢倉町]
石鳥居が入口に構えている。
説明がある。
<石鳥居の由来>
奉納 慶応4年辰年正月吉日(1868)
伊徳丸 治郎七
世話人 綿屋伊兵衛
江戸時代末、伊徳丸に乗り込んでいた治郎七は、突然の嵐に遭難しました。治郎七は海上から見慣れた矢倉神社の森を遠望し、大神の御加護を祈りながら懸命に船を操り一命を得ました。
事後、矢倉の大明神の御威徳に報わんと石鳥居を奉納しました。
[矢倉町]
矢倉神社の本殿
[矢倉町]
矢倉神社の社務所
[矢倉町]
「表忠碑」説明を読む。
<表忠碑>
日清(明27、8年)、日露(明37、8)戦後第1次世界大戦(大3〜7年)の戦後に郷土からも多くの青年が出征しました。
表忠碑は大正9年戦後兵士の御魂慰霊のため竣工されました。
表忠塔側面には、以後太平洋戦争(〜昭20年)までの戦没兵士氏名が刻まれています。
なお、石碑正面には設立の由来が刻まれていましたが、戦後GHQの弾圧を懸念して削り落されました。
[矢倉町]
矢倉神社の境内にある「新開稲荷社」の説明書きを読む。
<新開稲荷社由来>
かつて矢倉神社東方に榎島と呼ばれた小丘があり、いつの頃か稲荷社が祀られて稲荷山と称されました。
弘化年間(1845年頃)に辻村の人々が海岸近くに新開稲荷社を勧請建立しました。
稲荷山の社は、明治6年に当社境内に奉遷されて祀られていましたところ明治22年東海道本線開設に伴い、新開稲荷社も当社境内に奉遷されることとなり合社されました。
なお、新開稲荷社殿は、矢倉神社々殿改築に伴い矢倉神社本殿を移築しました。
[矢倉町]
矢倉神社の境内に八雲神社がある。
<八雲社御祭神>
須佐之男神(すさのお)厄除
櫛稲田比売神(くしいなだ)夫婦円満
猿田彦神(さるたひこ)旅行安全
天宇受売神(あめのうぶめ)芸能開運
弟橘比売神(おとたちばなひめ)日本武尊の妃
吉備武彦命(きびのたけひこ)日本武尊東征軍の将(庵原の君)
大伴武日連命(おおとものたけひむらじ)日本武尊東征軍の将
[矢倉町]
「本殿」由緒を読む。
<矢倉神社>
清水市矢倉町鎮座
祭神 景行天皇・日本武尊・神武天皇・蛭児神・事代主命 外8柱
例祭 10月17日、神門 五三桐、神事 神輿渡御、氏子 2000戸、崇敬者 400人
由緒沿革
当神社の創建は仲哀天皇の御代、庵原国造意加部彦が日本武尊、景行天皇を始めてお祀り申し上げました。
景行天皇第2皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたのでえ御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給いひ此の地での兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝えられています。
里人その遺徳を慕ってお祀り申し上げました。
村上天皇の天暦2年に藤原許[卿は神武天皇を合祀し奉りました。降って天正18年、豊臣秀吉小田原出兵の砌、太刀、玉石を献じたとも伝えられています。
駿河国諸郡神名帳に従5位上矢倉地祇とあり古社であります。昭和9年神武天皇御東遷2600年祭に当って宮崎県知事より幣帛料の奉納があり、同じく昭和15年紀元2600年祭に当って静岡県知事の幣帛供進使参向がありました。
尚、当社相殿の事代主神は古くより信徒の区域が広く境内社稲荷神社は開運の神として特殊の多くの信仰者があります。
資料 昭和13年 徳富蘇峰氏が神額を奉納 矢倉神社社務所
[矢倉町]
日本武尊の像が立っている。この神社は「日本武尊」と「景行天皇」を祀っているのだ。
[矢倉町]
境内には大木が多く生い茂っているが、このクスノキが異様な雰囲気を持ち際だっている。
[矢倉町]
矢倉の辻まで戻り、一方通行の道を東へ進む。
[矢倉町]
一方通行はすぐ終り対面通行になる。辻からこの道へ進ませないがための一方通行のようだ。
[西久保]
交通量の少ない道を進む。
[西久保]
八幡大神社
老人憩いの家になっている。
「袖師ふるさとの路」「41」「八幡大神社(八幡様)」という札がかかっている。
「41」とあることからいろいろなところにかかっているのだろう。
[西久保]
神社の裏には似つかわしくない洋風な建物が併設されている。
[西久保]
何の建物なのか、不思議な建物。
[袖師町]
この先から袖師に入る。
[袖師]
信号を北へ入ると100mで「真如寺」がある。
[袖師町]
真如寺は保育園が併設されている。
[袖師町]
真如寺には「金比羅宮」が併設されている。
「袖師自治会三区自治会館」の看板もかかっていた。
[袖師町]
地蔵様が祀られている。
[袖師町]
曹洞宗「嶺水山 真如寺」
[袖師町]
信号まで戻り、そのまま通り過ぎて50mほどで袖師小学校がある。
正門の脇に松が「嶺陣屋の松」がある。
武田信玄が駿河進攻の時に本陣が置かれた「嶺陣屋」が神明山付近にあったがその松を移植したとのこと。
[袖師町]
「嶺陣屋の松」の根基に「袖師ふるさとの路」の看板が「2」とかかれている。
[袖師町]
「旧北街道」の信号まで戻り東へ進むと50mで東名静岡インターと港を結ぶ取り付け道路と交差する。
街道は取り付け道路を横切り先へ進む。
街道を東へ進む前に神明山古墳へ寄ってみたいと思う。
[袖師町]
東名方面へ500mほど行った所に神明山古墳がある。自然丘陵を利用した古墳で神明神社が祀られている。
鳥居の脇に説明書き石碑があったので読む。
<神明宮と古墳の由来>
神明山古墳は庵原の三池古墳に匹敵する典型的な前方後円墳で紀元5世紀末の豪族の古墳である。
此の古墳は「いほはら乃国」の主権者の死に当り神明山に壮大な墓を造って葬り円立の表面を丸石で敷きつめた非常に立派なものであったと思はれる。
その後次々と支配者が葬られ、神明東築山古墳、神明神社本殿前古墳、神明神社西古墳となった。
歳月は流れてこの祖先の眠る神聖な場所へ祖先を崇拝するため神明神社が祀られて一族の氏神となったと考えられる。
これは私達の祖先が上嶺一帯の地に住居を営んだことを証すもので浅間山とともにこれら丘陵地帯は袖師文化発祥の地とも言える。
[袖師町]
神明神社が古墳を守るように祀られている。
[袖師町]
神明神社の本殿。
[袖師町]
奉納相撲でもとり行われるのか土俵が本殿脇に造られていた。
[袖師町]
神明神社の裏へ回ると古墳の雰囲気が残る。
[袖師町]
神明山古墳の高い所から見下ろしてみる。
[袖師町]
神明山古墳の石室が保存されている。
[袖師町]
神明山1号墳の注意書きが桜の木に止められている。
古墳の形に沿って赤い色のついた石を並べてあります。勝手に石を動かさないでください。
[袖師町]
古墳の形に沿って赤い色のついた石が並んでいる。
[袖師町]
神明神社から東へ200mほどの交差点を北に入ってすぐの東へ向う路地を入った民家の駐車場の奥に上嶺の陣屋の井戸が遺されている。
この辺りは嶺村と呼ばれていて江戸時代には陣屋があった所。この井戸以外の遺構はほとんど遺っていないようだ。
「袖師ふるさとの路」「26」「陣屋跡」「陣屋井戸」と書かれた看板が掛けられていた。
[袖師町]
陣屋井戸は民家の敷地の中に柵で囲まれて存在する。
事故の無いように頑丈に造られている。
[袖師町]
陣屋井戸の裏側の道路脇に祠があってがお地蔵さんが祀られている。
「袖師ふるさとの路」「27」「子授け地蔵」と書かれた看板が掛けられていた。
[袖師町]
陣屋井戸の100m南の民家の塀にも看板が掛かっている。
「袖師ふるさとの路」「28」「権現井戸跡」と書かれている。
家康ゆかりの鉱泉として最近まで湯屋が営業されていたが今は民家となっている。
[袖師町]
「旧北街道」へ戻り、工業団地の中を進む。
[袖師町]
小さな水路が道路の下を通っているがこれが愛染川ということらしい。
この水路を下っていくと愛染町がある。
かつてはこの川で染物をおこなっていたのだろうか?
[袖師町]
パチンコ屋を右に見ながら進む
[袖師町]
この先から横砂へ入る。
[横砂西町]
旧袖師村と旧横砂村の境に蜆川が流れている。
かつては蜆が多く取れたのだろう。
[横砂西町]
蜆川は街道より北側が暗渠になっていてどこからながれてくるのかわからない。
街道から流れているかのようだ。
[横砂西町]
蜆川はこの先150mで旧東海道をくぐり、400mほどで海へそそぐ。
[横砂西町]
横砂に入ると間もなく路がカーブする。
[横砂西町]
カーブを曲るとすぐに旧東海道が見える。
[横砂西町]
旧東海道へ出た所から「旧北街道」入口を振り返る。
交通量の多い道が旧東海道。2km余りで江尻宿へ向う道だ。
[庵原]
旧東海道は庵原川を渡り江戸方面へと向かう。
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−コメント−
東海道を語るにはこの北街道を外せない。
鎌倉時代の繁栄を思いながら巡ってみました。