− 蒲原 −
蒲原の宿から富士川までの行程。
[由比宿から蒲原へ入る]
由比のページは蒲原神沢地区に入った所でゴールだった。
すぐ先の信号で旧国道1号線(現県道396号)と合流する。先に見える東名高速道路の下を進む。
由比を探索するページへ戻るにはこちらをクリック。
[蒲原]
東名高速道路をくぐる手前を北へ曲った山の麓に海寶寺がある。
[蒲原]
海寶寺の本堂は坂か階段を登った所にある。由緒書きがあったので読む。
<西木戸・茄子屋の辻>
沿革
当寺は、臨済宗(禅宗)京都妙心寺(建武4年西暦1337年)を大本山として、開山無相大師の一流の禅を宗旨として霊雲派太原小波を伝承しています。
寺名は「神澤山海寶寺」と呼称し、開山は天栄澤和尚大禅師で開創年代は不明です。
鎌倉時代の作とされている塔(由比川山奥の石)が当山に保存されています。
室町時代には京都より公家が来山した記録があり、江戸時代に一度全焼し約50年間建物のない時代もあったといわれています。
尚、当寺歴代住職三浦海寶院の読経によって蒲原城主北條新三郎(外700余名の兵士)の霊魂、一眼の亡霊を慰めた(蒲原町教育委員会文化財保存審議会及び富士市善徳寺史跡保存会刊行)とあります。
<文化財>
観世音菩薩 元禄2年2月
庚申像(日月荒神石仏)元禄6年6月
地蔵菩薩 天明3年4月
三界無縁塔(四来流死者菩提供養石) 安永8年4月
累跡 ○公家来山の絵 茶掛 応仁2年5月〜文明9年11月
○和歌 灰田中納言右近衛権少将源重親 茶掛 天文年中
○ねこの絵 狩野探幽作 茶掛(手許不在)
○ごうてん老師 自讃 頂相
大本山妙心寺初代管長で名古屋徳源寺住職 明治時代
○全国往来通行札(往来一札之事=石原家蔵)の押印札 江戸時代
[蒲原]
東名高速道路をくぐるとしばらくは県道を真っ直ぐ進む。
[蒲原駅]
東名高速道路から600mほどで蒲原駅がある。
東海道線のいなか駅。
[蒲原駅前の家?]
蒲原駅前だというのに、このような建物がある。
開発の手が入っていない証拠だ。
[蒲原宿西木戸]
駅前を過ぎて平凡な景色が続く県道を2km近く直進すると道路の左側に西木戸の案内碑がある。
この西木戸の案内碑から西に折れ、旧東海道の趣きある街道になる。
[西木戸の案内板]
蒲原宿案内板の横に立て札のような西木戸についての説明書きがある。
<西木戸・茄子屋の辻>
蒲原宿の西の入り口には木戸があり「西木戸」と呼ばれていました。
もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。
この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列乱闘が始まり、70人近くを倒しました。しかし、追ってに見つかり殺されてしまいました。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
[蒲原宿の案内板]
<蒲原宿について>
蒲原宿は、江戸から37里(148km)品川宿からかぞえて15番目の宿場です。
徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道五十三次の宿場のひとつになりました。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にありましたが、元禄12年(1699年)8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により大きな被害を受け、元禄13年(1700年)に山側(現在地)に移転しました。
天保10年(1839年)の宿場の規模は、宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と旅籠45軒で、富士川の川留めの際などには大変な賑わいを見せました。
[蒲原宿の案内板の続き]
<西木戸跡>
蒲原宿の西の端にあり「西見附」ともいわれました。見附の入口に柵を設けたことから「木戸」ともいわれ、東西木戸の間を「木戸内」と呼びました。
<浦高札場跡>
海に近い蒲原宿は、蒲原の津(港)を経由する海上交通の盛んでした。浦高札は海船、川船など船舶一般の取締りの「おふれ書き」で、これを掲示した所が「浦高札場」です。
<高札場跡>
柵会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は、幅2間5尺(5.1m)奥行4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の大きな規模のもので、ここには幕府の「おふれがき」が掲示されました。
<御殿道>
徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった「蒲原御殿」。御殿の位置は明らかではありませんが、桜の名所「御殿山」宿内に残る「御殿道」にその優美な名前をとどめています。
<本陣跡>
蒲原宿の本陣は、江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家でつとめていましたが宝暦年間(1751年〜1763年)に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣をつとめました。平岡家は明治11年に京都に転居しました。
現在の建物は大正時代のものですが、邸内には今も大名が駕籠を置いたといわれる「御駕篭石」が残っています。
<木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵>
木屋の屋号をもつ渡辺家は、江戸時代末期、蒲原宿の問屋職をつとめていた旧家。
今も残るこの3階建ての土蔵の中には、江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されています。
<問屋場跡>
問屋場(といやば)とは幕府の荷物のとりつぎ、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物のとりつぎをしたところで、各宿内に1ヶ所ずつ設置されていました。
<「蒲原夜之雪」記念碑>
歌川(安藤)広重描く、「東海道53次シリーズ」の中でも「蒲原夜の雪」は最高傑作といわれています。
広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して、碑が建てられました。
<東木戸跡>
蒲原宿の東の端にあり、「東見附」といわれていました。
東木戸跡には、当時の「常夜灯」(文政13年、1831年)が残っています。「宿内安全」と刻まれた「常夜灯」には夕暮れになると、ここから「蒲原宿」にはいるという目印の灯がともされました。また、東木戸のすぐ西側の所で、道路がわずかに「鉤の手」なっています。これは幕府が戦略のひとつとして作ったもので、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう、また、軍勢の流れを阻止するためのものです。
<一里塚跡>
一里塚は慶長9年(1604年)江戸日本橋を起点として36町(1里・4km)ごとに築かれた塚です。この一里塚によって、人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基準に賃金も算定されました。
蒲原の最初の一里塚は、元禄12年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものです。当時のおもかげはなく、今は小さな祠が残っています。
[蒲原宿]
県道から離れて古い町並みへと入る。
ここから蒲原宿の核心部となる。
[五十嵐医院(現在)]
五十嵐医院は内科小児科のようだ。
登録文化財に指定されている旧五十嵐歯科医院の子孫だろうか??
[泉龍寺]
五十嵐医院の手前を左に入り、寄り道をする。
旧町役場の蒲原支所の手前を右に曲がると突当りが曹洞宗「道場山 泉龍寺」だ。
[泉龍寺]
泉龍寺には釣鐘堂がある。大晦日には活躍するのだろう。
[城源寺]
泉龍寺の西隣に臨済宗妙心寺派「萬松山 城源寺」がある。
[城源寺]
城源寺も泉龍寺と同じように参道の奥に佇む。
[和歌宮]
泉龍寺のすぐ東側が和歌宮神社。
県道から参道をたどってみる。
[和歌宮]
神社入口に泉があって鴨の親子が遊んでいた。
[和歌宮]
入口に看板があったので読んでみます。
和歌宮神社の由来
御神体 山部赤人大神 木花開耶姫命
草創 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ
不尽の高嶺に雪は降りける
奈良初期の万葉歌人36歌仙の一。古来、柿本人麻呂と共に歌聖と称された自然歌人。736年、東道に際し、当蒲原宿吹き上げの浜より富士山を望み反歌を詠せらるとの因縁を以てここに一社を建立、和歌の宮と称し、また富士を歌題とせし縁故により富士浅間木花開耶姫命を祭り浅間と奉称した。
<注> 蘆原郡多胡浦浜に黄金を獲てこれを献ず「続日本記」多胡浦浜とは、清水区蒲原海岸全域を指し、特に風光明媚な、吹上げ附近の浜と言い伝えられている。
<略歴> 蒲原城合戦・永禄12年(1569年)12月 甲斐の国武田信玄との三度びの戦いにより蒲原城は落城、城主北条新三郎綱重は討死、この戦いで、社殿及び山部赤人翁の神像、伝記、宝物等焼失した。
寛永11年(1634年)焼失65年後、再建昭和35年(1960年)現在地社殿再建
神事 夏祭り 茅の輪くぐり 湯立て神事
秋祭り 御神輿渡御行列
元旦祭 初詣
[和歌宮]
境内東側には忠霊塔が立ち、西側には忠魂碑が並んでいる。
[長栄寺]
街道へ戻るとすぐに石碑が立っている。
路地に入ってみると真宗の「法流山 長栄寺」。
[長栄寺]
このあたりは寺や神社が並んでいる。
この寺にも釣鐘堂があって、大晦日はどうなるのだろうと心配してしまう。
[妙隆寺]
長栄寺に隣接している寺は日蓮宗の「道場山 妙隆寺」。
蒲原宿は寺と神社が所せましと続いている。
[蒲原宿格子戸]
妙隆寺から街道へ戻った所に「増田家」という格子戸がきれいに磨かれた家が左手にある。
[志田邸]
東海道を彩る建物が多く残る町並み。
「増田家」から100mの右側に「志田邸」があって、看板があったので読んでみる。
<国登録文化財「志田家住宅主屋」>
蔀戸(しとみど)のある家。
志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。
安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側2階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町屋形式の典型です。
蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下2枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部解放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました。
平成13年9月14日に国登録有形文化財に登録されました。
[旧五十嵐邸]
「志田邸」から50mたらずの左側に素敵な洋館が目につく。「旧五十嵐歯科医院」だ。
<国登録文化財「旧五十嵐歯科医院」>
大正時代の洋館
旧五十嵐歯科医院は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物です。当時の洋風建築としては珍しくガラス窓が多く使われ開放的であり、下見板のペンキとあいまってモダンな息吹が感じられます。
大正3年、五十嵐準氏が自宅を3回にわたり洋風に改造し、歯科医院を開業しました。水道がなかった時代、井戸水を2階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、当町在住の元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人でした。
平成12年10月11日に国登録有形文化財に登録されました。
[御殿道跡]
旧五十嵐邸のすぐ前に南から出会う路地が、かつての御殿道だったらしい。住宅の脇に碑と看板が立っていた。
<御殿道跡>
かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。
御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなみに、寛永一一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
[高札場跡]
旧五十嵐邸のすぐ先にある柵区会館の前に看板が立っている。
<高札場跡>
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立て札のことで、辻札ともいわれました。宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。正徳元年(1711)に出された五高札が有名で(1)伝馬に関する定(2)忠孝を奨励する定(3)毒薬や贋銀売買禁止の定(4)切支丹宗門禁制の定(5)火付(放火)重罪の定、が墨書されて掲げられていました。また貨客運搬の駅馬や人足の賃銀も改定のたびに掲げられました。
[若宮神社]
柵区会館の路地は若宮神社の参道となっている。
「和歌宮神社」とは読み方が同じですが別の神社です。
鳥居をくぐると拝殿があるが本殿は急な階段を上った所にある。気をつけないとかなり危険な階段だ。
[楳田医院]
うめだいいんと読むのでしょうか。楳田医院も洋館。蒲原で医院といったら洋館が定番だったのだろう。
[磯部家]
「楳田医院」のすぐ先に「磯部家」がある。
説明書き看板を読む。
<手づくりガラスと総欅の家(磯部家)>
明治42年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、長年磨き込まれた木目がみごとです。
2階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。
日本における板ガラスの生産開始が明治40年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。
[蒲原宿]
磯部家のすぐ先に信号機があって、蒲原城址や善福寺へと向かう道と交差する。
交差点から見える家も謂れはわからないが古い。
蒲原城址と御殿山を探索するページへ行くにはこちらをクリック。
[本町会館]
信号を渡ってすぐの右側に本町会館がある。煉瓦の塀が建っているが、何かの名残なのだろうか?
[和泉屋鈴木家]
本町会館の向かえ側に旅籠だった建物がある。
<旅籠「和泉屋」(鈴木家)>
当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830〜44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。
今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
弘化2年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2軒に仕切られています。
[本陣跡]
「和泉屋」の向かいは本陣跡だ。
黒塀に囲まれ威厳がある。
<本陣跡>
本陣は、大名宿、本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。
主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここより100m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。
本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀をゆるされていました。
[清美軒]
本陣を過ぎると商店が並んでいる。
パン屋の清美軒は、同名のパン屋が清水市街地や駿河区などにあるが系列店なのかな?
[山居沢の橋]
小さな川を跨ぐ小さな橋がある。
記念碑があるというので川を下ってみる。
[記念碑]
川の脇にポケットパークのようなスペースがあって、記念碑が建っている。
<「蒲原夜の雪」記念碑>
「蒲原夜の雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道53次シリーズの中でも最高傑作といわれています。
昭和35年「蒲原夜の雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。
[蒲原河岸]
この川を200mほど下って県道とJRを渡った所に運河の跡がある。
[蒲原河岸]
このあたりに船溜まりがあったのだろうか。
にぎやかだったのだろう。
[問屋場跡]
旧東海道の橋まで戻り東へ進むと左側の民家の前に看板があった。
ここに問屋場があったのだろう。
問屋場(といやば)は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。
ここに問屋職(といやしき)、年寄(としより)、帳付(ちょうづけ)、迎番(むかいばん)、馬指(うまさし)、人足方(にんそくがた)、下働(したばたらき)、継飛脚(つぎひきゃく)、御触状(おふれじょう)、持夫(もちふ)の人々が、毎月15日交代で詰めて経営にあたっていました。
[吉田家]
問屋場跡の向かいになまこ壁で装飾した吉田家がある。
<商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)>
当家は、昭和まで続いた「僊菓堂」(せんかどう)という屋号で和菓子を作る商家でした。
玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。
[久保田家]
吉田屋の隣は久保田家。
土蔵の壁のような造りの家だ。
[なまこ壁の商屋佐藤家]
なまこ壁の商屋佐藤家。
説明書きがあったが読んでこなかった。残念です。
[八坂神社]
佐藤家の脇に鳥居があって、奥へ進むと八坂神社だ。
桜で有名な御殿山を抱える神社。
[渡辺医院]
佐藤家の隣には小じんまりした昭和を思わせる診療所があった。
[蔵]
新蒲原駅方面へ路地を入ると蔵がある。
このあたりには蔵が多い。
[東漸寺]
街道へ戻るとすぐに山側へ入る路地の奥に「護仏山 東漸寺」がある。由緒が書かれているので読んでみます。
<日蓮宗東漸寺(とうぜんじ)沿革>
当山は日蓮聖人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創といわれ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元(1331)年に創立された。
初めは仏護山大法東漸寺といわれ、富士宮市安居山東漸寺、甲州谷村の東漸寺と共に身延未三東漸寺と称せられた。
開創の頃はここより4・500m西方の本町いかりま地先にあったが、徳川三代将軍家光上洛の砌、柵御殿造営のために、4,630坪の寺地を拝領して寛永元年現在地に移った、その後火災、地震、集中豪雨等のためしばしば厄災にあい、特に安政5年6月の豪雨により本堂庫裡その他悉く埋没倒壊した、今ある建物はすべてその後のものである、なお御開山日目上人は当山創立の後、元弘3年、後醍醐天皇の御召により上京の途次関ヶ原近くの垂井の宿外れにて雪中病歿された。
(当山諸堂)日朝堂、七面堂他
[正八幡神社]
東漸寺のすぐ横に八幡神社がある。
[竜雲寺]
正八幡神社のすぐ隣に「岩戸山 竜雲寺」という臨済宗妙心寺派の寺がある。
寺や神社が続く。蒲原の人たちは信心深いのだろう。
[蒲原宿]
まだしばらくは宿場の雰囲気が続く。
この先200mほどで日経金の放水路の導水管が山から下ってきている。
そこを過ぎると宿場の雰囲気は薄くなる。
[東木戸]
日経金の放水路を越えて50mほどのところに東木戸の跡がある。
この木戸で蒲原宿は終わるのだ。
江戸時代の宿場の入口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。
蒲原宿の入口には木戸が設置されており、東の入口を「東木戸」と呼んでいました。
なお木戸と木戸の間のことを「木戸内」といいます。
東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
また、東木戸には「常夜灯」が残されています。常夜灯とは今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。
東木戸にある常夜灯には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入口を照らしていました。
文政13年(1831年)のものと考えられています。
[東木戸]
掲示板もレトロだ。
[諏訪神社]
東木戸の横に階段があって、登ると諏訪神社がある。由緒が書いてありました。
<由来記>
諏訪神社は保元年間、今から820年前吹上の丘六本松附近に建てられた御宮に始まる。
当時五見坂附近は六本松の辺りまでなだらかな丘陵が続き、すぐ東側に富士川の本流が流れ富士川はしばしば氾濫しては、丘陵をけずりては附近の住家や農作物に被害を与えていた。住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して、六本松の池の畔に諏訪明神宮を創建し、水難守護神としてお祀りしたのである。
いつの頃か池は水害で流されたが、土地の人々はこの池を諏訪が池と呼んでいたと云う。
その後も富士川の水害は度重なり、折角造営した御宮も流出の危険に迫られ、元和六年の水害の折り、現在の地に遷座し、本社殿拝殿籠堂玉垣等を造営した。
天明6年惜しくも火災の為め鳥有に帰し、仮宮を建た天保2年渡辺利左衛門氏を始めに、町内の人々の浄財により本社殿拝殿を建立したが、安政の大地震による山崩れの為め押出され現在の場所に転座した。
大正9年遷座300年を記念し、記念碑を建立し大祭を行った。碑文は当時蒲原町に在住していた正2位勲1等伯爵田中光顯閣下の揮毫である。
[諏訪神社]
急な階段を登って社がある。
[北条新三郎の墓]
蒲原城の城主だった北条新三郎の墓がこの奥にある。入口を案内する看板が立っている。
[北条新三郎の墓]
細い道を登るとほどなく鬱蒼とした林の中に北条新三郎の墓があった。説明看板が立っている。
[蒲原宿一里塚]
一里塚があったことを記念して碑と祠が民家の脇に建っている。
一里塚は慶長9年(1604年)江戸日本橋を起点として36町(1里・4km)ごとに築かれた塚です。この一里塚によって、人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基準に賃金も算定されました。
蒲原の最初の一里塚は、元禄12年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものです。当時のおもかげはなく、今は小さな祠が残っています。
[蒲原1丁目]
東木戸のあたりから蒲原1丁目に町名が変わる。
[蒲原旧道]
旧東海道は一里塚から200m足らずで山側に左折する。
直進して県道に出会ったところに義経硯水という史跡があるので、そこへ寄ってから旧道を進んでみる。
このあたりは今の生活に合せて道路整備されているので、旧東海道の場所が正確にはわからない所が多い。
[義経硯水]
県道に出るとすぐ左側に碑と五輪が並んでいる。案内する看板が立っていたので読む。
[光蓮寺]
先ほどの交差点まで戻り、西に曲るとすぐの場所に「佛身山 海前院 光蓮寺」がある。
由緒の看板でも無いかと探したが見つからない。
[旧道の坂]
急な坂を登る。
住宅地に入ったような風景なので間違えたかなと不安になる。
[旧道・東名]
坂を登りきったところで道は東名高速道路の上を橋で渡る。
橋を渡って右に曲がる。
[中之郷]
道は東名沿いに進んだ後、下りながら徐々に離れていく。
このあたりから蒲原から富士市の中之郷へと入る。
道は分岐する。真っ直ぐでも右を選んでもこの先で合流する。右へ進む。
[JR変電所]
この変電所を右に見て進む。
[新幹線]
新幹線のガード下をくぐる。
[中之郷]
道なりに進む。
[宇多利神社入口]
宇多利神社へ続く道と出会う。
石碑と灯籠が神社へと誘っている。
[秋葉燈籠]
宇多利神社の入口の脇に秋葉燈籠が立っている。
[中之郷]
左へ行くと野田山実相院へと向かう。
街道は右側へと進む。
[東名側道]
橋を渡り東名高速道路の側道へと向かう。
東名に沿って100m進むと道は突当り、街道は東名の下をくぐる。
[金鶴神社]
東名の下をくぐる前の突き当たりに階段があり、金鶴神社の立て札が立っている。
[野田山の碑]
金鶴神社の入口の向かいのスペースに野田山の石碑が建てられている。
碑には野田山、不動明王、弘法大師、聖徳太子と書かれている。
隣に薬師如来の小さな石碑も立っている。
[野田山]
東名の下をくぐると「野田山健康緑地公園案内図」という看板が立っている。
野田山の地名は、むかし湿地帯の所「ノダ」とよんでいたところから起こったようです。
古来より霊地としても知られ、大正11年松橋慈照師が歓法修禅中、草庵を結び四恩報謝のため真言密教の法を実修しました。大正15年多くの信者から寄進をうけ、実相院を建て、真言宗寺院としての規模をととのえましたが、昭和28年火災により、ことごとく焼失してしまいました。その後、大師広場に大師堂が建てられています。
[中之郷]
300mほど進むと道は大きく右へ折れる。
[県道188左折]
県道188に出会うので、左へ曲がる。
[秋葉燈籠]
秋葉燈籠が立っていて、街道であることがわかる。
[富士川第一小]
突当りに見える小学校の所で道は右に折れる。
[岩渕]
小学校のあたりから地名は「岩渕」になる。
[一里塚]
道が大きく左に曲がる所に一里塚がある。
江戸時代に築造された東海道の里塚である。
慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
この一里塚は、起点である江戸日本橋から37里目にあたる。
この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。そこで昭和45年3月、二代目を植えたものである。
[一里塚]
ここの一里塚は両側に塚がある。
[民俗資料館]
一里塚の所で出会う路地を入ると市立富士川民俗資料館がある。
[民俗資料館]
茅葺の建物が保存されている。
<稲葉家住宅>
富士市指定有形文化財
稲葉家住宅(富士市立富士川民俗資料館)
・構造 木造平屋建、入母屋造 茅葺
・建築面積 102.82平方メートル
・旧所在地 南松野(桑木野地区くわきのちく)
「桑木野の大家」といわれた稲葉家は、桑木野地区の中心的家柄であった旧家です。
稲葉家住宅の特徴は、右側に土間を設け、左側に各室を田の字型に設ける「整形四間取り」の構成で、この形式の早期の例として、歴史的価値が高いものとされ、また、その小屋組みの技法には、柱が直接梁を支える「折置組」と呼ばれる、古い形式の架構法が用いられています。
構造・技法と同家の沿革から、建築時期は、稲葉家初代源七郎の時代である、18世紀前期と考えられ、富士市に現存する古民家では最古のものとなる可能性が高いと考えられています。
[新豊院]
一里塚から300mほど進んだ左側に寺の入り口がある。
[秋葉燈籠]
新豊院の参道入口の脇に秋葉灯籠が建っている。
旧東海道は、この道でいいようだ。
[岩渕]
新豊院から200mで変形十字路に出会う。
県道188は右に曲がる。
左へ曲がると八坂神社や東名の富士川サービスエリア方面。
直進すると道が狭そうなので県道を選んで進むことにする。
[八坂神社]
変則十字路から八坂神社方面を見る。
常夜灯や鳥居が見える。
[県道188]
直進は住宅街っぽく、袋小路のように見える。
県道を進んでみる。
[県道188]
県道188を進むと200mで左へ曲がり、その後100mで右へ曲ると進行方向への一方通行になって下っていく。
[県道188]
一方通行の細い道を100m下ると富士川橋のたもとへ出る。
橋の前の交差点から県道188の出口を見てみる。
[富士川橋]
振り返って橋を撮影しました。
地元の人に聞いてみたら、さきほどの変則十字路を直進する道が旧東海道とのことなので戻ることにする。
[県道188]
ここからもう一度進む。
[小林本陣常盤邸]
交差点からすぐ先に木の塀の建物がある。
本陣だったようだ。
この道が旧東海道だったということだろう。
[小林本陣常盤邸]
門の隙間から中をのぞいてみる。看板が立っていた。
[歴史国道東海道]
本陣の門の横に東海道の看板がある。
<歴史国道>
東海道は慶長6年(1601)徳川家康によって宿駅・伝馬制度が定められて以来日本の主要な交通路となりました。
県下では東海道岩渕間宿・蒲原宿・由比宿が平成7年6月9日、歴史上重要な幹線道路として歴史国道に選定されました。
<一里塚>
富士川町役場下の県道にある一里塚は、慶長9年、徳川幕府の命により、大久保長安が東海道の一里ごとに築かせた里塚です。
この一里塚は江戸より37里めにあたり、今も往時の面影をしのばせています。
<間宿・小休本陣・脇本陣>
岩渕村は吉原・蒲原両宿の中間で富士川渡船を行いましたので「間宿」として繁栄しました。
しかし幕府は本宿にしか旅人の宿泊を許可しなかったので、岩渕村には渡船の準備のため一時休憩する施設として小休本陣、脇本陣の2軒がありました。
<富士川渡船>
富士川渡船は慶長7年(1602)から岩渕むら請で行いました。渡船場は木島村小山の尼ケ淵下から中之郷村境までで、その日の流路によって決めました。渡船場からの「上り場」は岩渕坂下附近にあり「高札場」「船頭会所」もありました。
富士川渡船は大正13年、国道橋が開通するまで断続的に継続しました。
[清源院]
道は常盤邸の先でクランクしていた。袋小路ではなかったのだ。
クランクから100mの左側に清源院という寺がある。
[右折]
清源院から100mの横断歩道の所から道は右折しながら下って行く。
この先30mで道は一方通行となるという予告道路標識がある。
車では先ほど行った県道188を通ることになるのだろう。
[光栄寺]
右折せずに調進すると「岩正山 光栄寺」がある。
庭からは富士川橋が一望できる。かつては渡船場風景も一望できたのかも知れない。
[岩渕]
車両進入禁止の標識がある。予告標識どおり車両進入禁止となる。
一方通行を逆行して進む道が旧東海道で、富士川の土手沿いの県道へ出る。
その前に左側の道へ入ると船山町の地区があるので、まずはそちらへ行ってみる。
[舟山町]
舟山町へ進むとすぐの左側に石垣がある。
歴史のあるものなのかどうかは不明だが、どのような使い道だったのだろうか想像してみる。
石垣とは似合わない住宅も建っている。
[舟山町]
道は狭く通過交通も少ないのだろう。のんびりと道路に住民が集まっていた。
[舟山町]
住宅は軒を並べて連なっている。
このあたりは富士川の土手から10m以上の高さもあって、洪水の被害を避けて海運の関係者が住んでいたのだろうか。
[舟山町]
道を下ると富士川へ出ることができる。
[舟山町]
斜面を使って建物が建っている。
最近の建物も多いが、古い家も残っていた。
[岩渕]
先ほどの一方通行に戻り、旧東海道を進む。
道の両脇に石垣が組まれていて時代を感じさせてくれる。
[旧東海道]
旧東海道を示す道標もあった。
[旧東海道出口]
道は富士川へと出る。
出口を振り返って見る。
[富士川]
旧東海道はここで富士川の終点。富士川沿いに県道10号が通っている。
[渡船場]
県道を渡り富士川の土手に渡船場跡の記念碑と説明が書かれていた。
<船型の植樹桝>
この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事として完成したものです。
江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸がありました。渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)六艘、高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)十八艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬船(笹船または小廻船とも呼ばれた)300艘(明治時代には800艘)があり、これら多数の船が出入していました。
この「船型」は、定渡船の規模を再現し、それにシラカシの木を帆に身立て、舳先を上流に向けて富士川を溯った高瀬船をもイメージしています。
[渡船場]
もう一つの説明書きを読む。
<渡船「上り場」常夜燈>
慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。
東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。
「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸、岩渕河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。
<角倉了以翁の紀功碑>
角倉了以翁の紀功碑 京都の豪商、角倉了以(1554〜1614)・素庵(1571〜1632)の父子は、慶長12年(1607)同19年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約18里(71キロメートル)で、大変な難工事の末、完成しました。
これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩渕河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。
町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成2年4月に現在地に再移転したものです。
−コメント−
蒲原の宿を越えて駿河の国の東海道も最東端の富士川までやってきた。
富士川町が合併して富士市に編入された。
西は大井川から、ここ富士川までの東海道を巡ってみました。