− 田中城址 −
田中城址を巡る。
戦国時代には難攻不落とうたわれた。今川、武田、徳川の武将にゆかりがあるらしい。
規模は大きくないが江戸時代の重要な城の一つのようだ。
[大手交差点]
国道1号線の大手交差点から焼津方面へ向かう県道30号を入る。
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[西益津村役場跡]
国道1号線の大手交差点から焼津方面へ向かう県道30号を入ってすぐに西益津公会堂があって、玄関脇に「西益津村役場跡」と彫られた石碑が立っている。
[石碑]
西益津村役場跡を過ぎるとすぐ県道30号は県道224号と分岐する。
分岐点に「田中城跡」と書かれた石碑が立っている。
このあたりから城の一部になるらしい。
30号線は城の外周を迂回して焼津へ至る。
右側の224号線へと進むと城の核心部へと入っていきます。
[石燈籠]
「田中城跡」の石碑から100m進むとJAがあり、その前の交差点の角に石燈籠が立っている。
表示杭と石碑などがあって、城址の雰囲気が増してくる。
[外堀跡]
石燈籠の一角に外堀跡と書かれた標示杭が立っている。杭の横に説明書きがある。
慶長6年(1601)酒井忠利が居城し、三之丸の外側に堀と土塁を造成したので四重の同心円形の城になった。
[松原木戸跡]
同じく石燈籠の一角に松原木戸跡と書かれた標示杭が立っている。杭の横に説明書きがある。
木戸入口には鶴松・亀松と呼ばれた枝振りの見事な大松があった。
[松原木戸番所跡]
石燈籠のちょっと先の建物の脇に標示杭がある。
この城址の区域には、多くの史蹟がある。目立たない表示杭も多く、見逃してしまう。
[三日月堀跡]
また標示杭があった。三日月堀の跡らしい。
[大手一之門跡]
ここには大手門があった。
地名の大手はここに大手門があったことから、ちなんだのだろう。
[大手二之門跡]
間もなく右手に木の橋が建てられている場所があって、田中城の名残りを記念している。
[大手二之堀]
橋は堀を保存している上に建てられていてその脇に説明書きが書かれている。
藤枝市指定史跡 田中城 二之堀
戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。
二之掘は、本丸から二重目の掘で、幅12.7〜21.8m、深さ2.1〜2.9mでした。この付近は、大手二之門の入口にあたり、掘りを渡るために長さ5.4m、幅3.6mの大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました。
藤枝市教育委員会
[藤枝市立西益津小学校]
大手二之門跡の横を入った突当りが西益津小学校。
田中城の本丸があった所だが、不審者と間違われても困るので踏み込まなかった。
[西益津中学校]
「西益津中学校教員専用」と書かれた門がある。
門の脇に「二之堀跡」の標示杭が立っていた。
[藤枝市立西益津小学校]
県道に回ったところに入口がある。
こちらが小学校の正門だろうか。
[田中城本丸跡]
門の脇に田中城本丸跡と書かれた標示杭が立っている。杭の側面に説明があった。
田中城は同心円形に四重の堀と土塁で造られていたが本丸は四角で480坪(1580u)と小さく本丸内には御殿やお亭のみで天守閣のような建物はなかった。
[家老遠藤俊臣屋敷跡]
正門の前の路地を入った動物病院の角に標示杭がある。
家老の屋敷が建っていた場所らしい。
[平島一之門跡]
動物病院のすぐ先にも標示杭がある。
史蹟だらけの田中城。
[三日月堀跡]
すぐ先にも標示杭。
ここの三日月堀跡は御成街道から入る平島門の前に堀設けられたものらしい。この門は不開門とも呼ばれているところをみると橋が設置されていなかったのだろうか。
[亀城神社・稲荷社跡]
三日月堀跡の路地に入る。この道は三之堀に沿って整備されている。
少し行った所の畑の中に標示杭が立っている。このあたりに神社が建っていたのだろう。
[家老馬渕新右衛門屋敷跡]
道は堀の形に沿って大きく曲っている。
県道に出てから、もう一本内側の二之堀に沿った道に入ると左側に広いスペースがあり、標示杭が立っている。
[田中城三の丸土塁]
広いスペースの奥に小山のように盛り上がった土手がある。これが土塁とのことだ。
田中城は円形の城として知られていますが、三の丸は土塁の6カ所が外に向かって突出した亀の甲羅の形をしているので、別名「亀城」もしくは「亀甲城」と呼ばれていました。この場所は三の丸土塁が北東側に突出する部分にあたっています。
江戸時代の記録によれば、この部分の土塁の高さは2間4尺(約4.8m)と記されていますが、現状の高さは北東側の畑から約3.7m、幅(奥行)は約19.6mです。
江戸時代末期から明治時代初期の田中城絵図には平らな部分に「馬渕新右衛門屋敷跡」と記されたものがあります。田中城の侍屋敷は円形の田中城内と、藤枝宿との間の大手地域、南側の新宿と呼ばれる地域にもありましたが、その中でも三の丸は家老クラスの屋敷地となっていました。
※この土地は、市内在住の中村収様から田中城跡の保存と市民への講演・活用のため、20年に寄付されました。
永禄13年(1570)正月、駿河西部の今川方の属城を攻め落とすために侵入した武田信玄は、長谷川紀伊守正長の守る徳之一色城を攻略した。この城の重要性を見て取った信玄は、重臣馬場美濃守信房に命じて徳之一色城を拡張させた。徳之一色城は現在の新宿付近(六間川橋)から下屋敷の辺りである。同年9月に工事は一応の完成をみる。その形は方形の本丸を中心にし、二の丸・三の丸がその周囲を巡る同心円形式である。武田流築城の特徴は馬出し曲輪にあるが、この城の最大の特徴は三の丸であり、これが円状に本丸・二の丸を囲んでいたため、亀城と呼ばれた。完成すると、信玄は山県三郎兵衛尉昌景に在城させた。
[三之堀跡]
県道へ戻り、沢医院の角を南に入ると中学校の裏に堀の跡がある。
[姥ケ池]
堀の少し先に「姥ケ池」への矢印があって、案内に沿って300mほど行くと小さな池がある。
説明書きがあったので読みます。
池の形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれています。現在もきれいな水が湧き出ていますが、江戸時代には田中城の水源となっていました。直径30cmほどの木管をここから田中城まで引き込み、城内や新宿の侍屋敷の上水として利用されました。
このように大切な池だったので、池の周辺には石垣を積み、柵を巡らせ、見張りがいて厳重に守られていました。
[姥ケ池]
池は澄んだ水が満たされていて、整備した町名が書かれていた。
[下屋敷跡]
本丸だった西益津中学校をひと回りした後、下屋敷跡へ訪ねてみました。
道を間違えて裏の駐車場へ着いてしまった。駐車場脇に案内板が立っています。
田中城下屋敷跡は田中城の南東隅にあり、江戸時代後期には城主の別荘がおかれていました。平成4年度から7年度にかけて、かつての庭園を復元整備し、茶室を元の場所に移築しました。また、田中城にゆかりのある本丸櫓、仲間部屋・厩、長楽寺村郷蔵なども移築復元してあります。ここを起点として田中城周辺の史跡を散策してみてはいかがでしょうか。
<松原木戸>
慶長6年(1601)、田中城主となった酒井忠利は四之堀を増設すると共に、東海道から直接田中城に通じる道を作りました。これを藤枝口といい、道の両側に松の木を植えたので、城の入口を松原木戸と呼びました。
<姥ケ池>
きれいな水が今でも湧き出しています。ここから木や竹で作った水道管を城内まで延ばし、飲料水を引き入れていました。
<本丸跡>
田中城の堀は円形に巡らされていましたが、本丸だけは四角形をしていました。現在、西益津小学校が建っている場所がそれです。
<平島木戸>
元来、田中城の正門は平島口でした。しかし、江戸時代初期に大手口が開設されてそれが正門となると、平島口は開かずの御門となりました。
<御成街道>
葉梨川にかかる八幡橋の袂で東海道を東に分かれ、平島木戸に到るまでのおよそ1.7kmの道です。
大手口が開かれるまでは田中城に入る正式な道で、徳川家康がこの道を使っていたことから御成街道と呼ばれるようになったようです。
<馬上の清水>
徳川家康がこの地で鷹狩りを楽しんでいたとき、喉が乾いたのでここの水を家来に汲ませました。そして馬に乗ったまま水を飲んだのでこの名が付いたと言われています。
<土塁と堀跡>
田中城は四重の堀と土塁で囲まれていました。昭和30年代まではよく姿を留めていましたが、現在ではほんの数カ所が残るだけです。
<新宿木戸>
「しんしゅく」と読みます。六間川を境にして北側が城内、南側は下級武士たちの屋敷がある新宿です。
<旭傳院の山門>
田中城内から移された門だといわれています。その規模や構造からみて、城門ではなく城内にあった屋敷の門ではないかと考えられています。
[六間川]
駐車場から右に回ると川に出る。
この川は六間川と言い、城の堀の一部として利用されていたらしい。
[下屋敷跡]
門があったが開いていない。裏門らしいので表に回る。
案内看板が立っている
田中城の歴史は今から500年ほど前、この地の土豪・一色氏がその居館を拡大したのに始まるといわれています。現在、市立西益津小学校の建つ位置がかつての本丸で、城は四重の堀に囲まれた、直径約600mの円形をしていました。江戸時代にはここに田中藩がおかれて、志太郡・益津郡の村々を治めていました。
この下屋敷は、六間川を挟んで田中城の南東端に接した位置にあります。ここは、一色氏やその後裔の古沢氏の居館跡だともいわれていますが、江戸時代後期には城主の別荘(下屋敷)がおかれ、築山、泉水、茶室などを設けて四季の草花を楽しみました。
この下屋敷跡を整備するにあたり、田中城ゆかりの建築物をここに移築、復元しました。田中城にあった建物は、明治4年の廃藩置県によって民間に払い下げられ、住宅や納屋などとして利用されていましたが、永い年月の間に朽ち果て、現存するものはごくわずかです。移築された建物は、いずれも百数十年の星霜に耐えてきた貴重な文化財です。これらの文化財を保護し、後世に伝えるため、夜間は入場できませんのでご協力ください。
[下屋敷跡]
表に回ると白壁で整備されている。
案内看板が立っている。
内容は裏門の案内看板と同じでした。
[下屋敷跡]
入口から門と本丸櫓が目に付く。
[下屋敷跡]
本丸櫓の脇の看板に田中城古図があった。
[下屋敷跡]
この地には古い建築物が移築されていて、その一つの茶室。説明書きがあった。
○市指定有形文化財(平成5年4月26日指定)
○構造 木造平屋瓦葺
○規模 23.1u
○寄贈者 藤枝市藤枝4丁目1番15号 奥野まき
この茶室は、明治38年頃、千歳の村松家にあったものを、藤枝市上伝馬の奥野家が譲り受けて移築したといわれています。もとは田中藩家老の茶室であったと伝えられていますが、下屋敷庭内にあった「茶屋」とみられます。建物はきゃしゃな造りの数寄屋建築で、西側の四畳半の間が茶室、東側には給仕口のついた六畳の待合いが接続しています。
[下屋敷跡]
「泉水跡」の看板が立っている。池の向こう側に「築山跡」の立て看板も立っている。
当時を再現しているのだろうか。
[下屋敷跡]
池を回ったほとりに「亀石」がある。
下屋敷庭園へ41年ぶりに里帰りした亀石
江戸時代後期に田中藩士・本多家の庭園であった下屋敷には、鶴石と亀石が置かれていたと伝えられています。亀が頭をもたげた格好をしたこの亀石は江戸時代から下屋敷庭園に庭石として置かれていたものです。昭和12年頃に城南土地改良事業に伴う六間川水路改修工事の際に下屋敷跡から発見されました。破砕されるところを当時小路に携わっていた焼津市在住の小泉氏が他所へ移動させたことによって、現在まで保存されていました。小泉氏のご好意により、藤枝市教育委員会では平成20年(2008)5月、41年ぶりに亀石を元来置かれていた場所へ戻しました。
地元のの人の話によると、亀石はかつて下屋敷庭園内・中ノ島の西側岸辺に土留めの大石として泉水に浸かって置かれていたようです。亀石には別に盃石や爪石が付属していたようですが、現在では所在不明です。江戸時代の大名庭園である下屋敷が、鶴石・亀石・瓢箪石・丸石などの吉兆の庭石が処々に配された風雅なつくりであったことがしのばれます。
(寸法/全長180cm×最大幅120cm×高さ55cm(最高部)、石材/硬質砂岩、重さ/約1トン)
[下屋敷跡]
「土塁跡」もあった。
[下屋敷跡]
家康のお手植え蜜柑まである。
大きさから家康が本当に植えたものではないのだろう。駿府城にある蜜柑の木の子供なのだろうか?
標示杭に簡単な説明があったがこの蜜柑の謂れまではわからない。
徳川家康が将軍職を退いて、駿府城に隠居された折、紀州家より献上された鉢植え蜜柑を「紅葉山庭園」に家康公自ら移植したものと伝えられる。
[下屋敷跡]
本丸櫓の中に入ってみます。
江戸時代の武家の着物はこのような服だったのか。
[下屋敷跡]
本丸櫓の中には下屋敷跡の写真ギャラリーとなっている。
四季の写真を見ることができる。
[下屋敷跡]
本丸櫓の狭い階段で2階に登ると田中城や田中藩の歴史がわかる資料をたくさん展示していた。
江戸時代の地図や戦前の写真など当時の様子が学習できます。
大名が江戸時代から与えられた領地と、それを治めるしくみを藩といいます。
田中藩では、初代藩主酒井忠利の時には1万石でしたが、江戸時代後期の本多氏の頃には4万石となり、田中城周辺の志太、益津郡をはじめ、駿東郡、下総国葛飾郡、相馬郡の村々を領地としていました。
また、田中城内には家老をはじめ、400人余りの藩士が住んでおり、江戸屋敷や下総の領地の代官などを合せるとおよそ670人の藩士を抱えていました。
[下屋敷跡]
本丸櫓からの景色。
焼津方面を望む。
遠くに瀬戸川の河口近くの虚空蔵山が見える。
[下屋敷跡]
本丸櫓からの景色。
静岡方面を望む。
見える山は高草山だろうか。
[下屋敷跡]
本丸櫓からの景色。
西益津小学校や中学校方面を望む。
かつての本丸があった方面だ。
[下屋敷跡]
いつの頃の航空写真だろうか?
田中城跡の回りは田んぼだらけだ。国道1号線らしきものが見えるのでそれほど古い時代ではないと思われる。
旧東海道周辺は家が密集しているが、その他の場所には人が住んでいなかったのがわかる。
[下屋敷跡]
田中城主の変遷と書かれた年表が掲げられていた。江戸時代の重要な城だったことがわかる。
1601年、徳川家康は酒井忠利を田中城主に任命しました。その後一時城主はおかれませんでしたが、1633年以降は順次城主がにんめいされ、明治元年まで12氏21人の城主が在城しました。
これら城主の中には、入城、転出に際して加封されたり、幕府の要職についた者もいます。
江戸時代の前半はごく短期間で城主が交代しましたが、中頃からは本多氏に定着し、幕末まで7代にわたって世襲されました。
「年代」,「城主(領主)名」,「領高」,「前封地」,「転封先」,「主な事績・できごと」
「15世紀頃」 (一色左衛門尉信茂)○この頃今川氏の命を受けて居館を拡大し、徳一色城または戸久一色城と称したのが田中城のはじまりと伝えられている。
「16世紀前半頃」 由井美作守正信1万8千石(3万8千石)、今川氏の臣(今川氏分限帳による)1560年没
「16世紀中頃」 長谷川次郎右衛門正長○一族21人300余騎で守る。1570年武田信玄に攻略される。
「1570年」 (武田氏)○馬場美濃守信房により城修築、三日月堀を新設。山県三郎兵衛昌景が在番し、200騎で守る。
「1572年」 (武田氏)○孕石主水佐が在番。
「1579年」 (武田氏)○依田右衛門尉信蕃が在番。4回徳川軍に攻められ、1582年大久保忠世に明け渡す。
「1582年」 高力河内守清長1万石、岩槻城、徳川氏の臣
「1590年」 (中村式部少輔一氏領)8千石、豊臣氏の臣中村一氏の家臣、横田内膳正村詮在番。
「1601年」 酒井備後守忠利1万石、川越城、四の曲輪拡張、大手口・侍屋敷の整備、下伝馬駅を開設。
「1609年」 (徳川頼宣領)○1619年、頼宣紀州へ移る。
「1619年」 (幕領)○大久保忠直・忠当、酒井兵七郎正次が在番。
「1624年」 (駿河大納言忠長領)○三枝伊豆守守昌、興津河内守直正が在番。1631年忠長甲斐国に幽閉。
「1631年」 (幕領)○松平大膳亮忠重、北条出羽守氏重が在番。
「1633年」 松平大膳亮忠重3万石、佐貫城 掛川城、田中城在番中に加増される。
「1635年」 水野監物忠善4万5千石、山川城、吉田城、千貫堤を築き大井川の氾濫を防ぐ。
「1642年」 松平伊賀守忠晴2万5千石、土浦城、掛川城
「1644年」 北条出羽守氏重2万5千石、関宿城、掛川城、1648年横須賀城主本多越前守利長田中城在番となる。
「1649年」 西尾丹後守忠照2万5千石、土浦城、卒去
「1654年」 西尾隠岐守忠成2万5千石、世襲、小諸城、2才で遣領をつぐ。
「1679年」 酒井日向守忠能4万石、小諸城、領地没収、1681年領地召上げにより井伊掃部頭御預、本多忠恒在番。
「1682年」 土屋相模守政直4万5千石、土浦城、大坂城代、のち京都所司代、老中を勤める。遠州流の茶人。
「1684年」 太田摂津守資直5万石、浜松城、卒去、若年寄、側用人を勤める。大慶寺に墓所あり。
「1705年」 太田備中守資晴5万石、世襲、棚倉城、11才で遣領をつぐ。のち寺社奉行、若年寄、大阪城代を勤める。
「1705年」 内藤豊前守弌信5万石、棚倉城、大坂城代
「1712年」 土岐伊予守頼殿3万5千石、大坂城代、致仕、老年のため大坂城代を辞し田中に入る。
「1713年」 土岐丹後守頼稔3万5千石、世襲、大坂城代、大井川堤普請、田中城四の堀凌喋、のち老中となる。
「1730年」 本多伯香守正矩4万石、沼田城、卒去、領内に法度書を下す。
「1735年」 本多伯耆守正珍4万石、世襲、致仕、老中を勤めたが郡上一揆で引責、罷免される。
「1773年」 本多紀伊守正供4万石、世襲、卒去
「1777年」 本多伯耆守正温4万石、世襲、致仕、12才で遣領をつぐ。田中騒動で引責隠居。
「1800年」 本多遠江守正意4万石、世襲、卒去、寺社奉行、若年寄を勤める。増田五郎右衛門の事件起こる
「1829年」 本多豊前守正寛4万石、世襲、卒去、1837年藩校日知館を創設。1843年大砲を鋳造。
「1860年」 本多紀伊守正訥4万石、世襲、長尾へ移封、初代聖堂学問所奉行、駿府城代を勤める。
「1868年」 ○大政奉還により田中藩は安房国長尾へ転封され、徳川家達領となる。田中城には仮城代平岩金左衛門や田中奉行高橋伊勢守精一が入る。
−コメント−
国道1号線の大手交差点から出発して約3kmを散策し、下屋敷跡で終了とする。
大手交差点まで戻るとプラス1kmの行程となる。
江戸時代のまま保存されている施設は少ないが、当時の繁栄の断片を見ることができた。