− 久能街道 −

伝馬町から久能山東照宮へ向かう街道。
街道だけを歩いて約9kmの距離がある。



images/0074kunokaido.JPG [久能街道]
 旧東海道の伝馬町通りから久能山東照宮へ続く道が久能街道と呼ばれ参勤交代の際に多くの大名の参拝に利用されにぎわった。
 久能街道の正確な起点はわからないが「久能山東照宮道」という石碑が伝馬町通りに立っている。
 「東照宮碑」という大きな碑が駅の南口を出てすぐの西側に建っているが、もとは久能街道の起点だった伝馬町にあったとのこと。
 「東照宮碑」は「駿河区(その他)」のページに説明があります。こちらをクリック。


images/0080-01tutuji1.JPG [つつじ通り]
 伝馬町通りからつつじ通り交差点に入って久能山へ向かう。
 32m道路。静岡環状線の一部を形成している。
 戦後に防火帯として整備された静岡環状線の一部だ。

images/0080-01tutuji2.JPG [つつじ通り]
 つつじ通りは国道1号線の交差点を横切りJRの高架をくぐる。
 JRの高架される前は八幡の踏切という交通の要衝があった所だ。
 高架によって静岡の南北が一体化された。

images/0080-01tutuji3.JPG [つつじ通り]
 つつじ通りはまで続く。
 南幹線は通称カネボウ通りと呼ばれる。昔、カネボウの工場がここから1kmほどの所にあったことからそう呼んだ。

images/0080-02yawata2.JPG [つつじ通り]
 伝馬町通りから800m程でつつじ通りの終点。南幹線(通称カネボウ通り)を横切ると道は狭くなり八幡2丁目から八幡3丁目へ入る。
 ここからは久能街道と言える道となる。

images/0080-03yawatajinja.JPG [八幡神社]
 道が狭くなってから300m程で八幡神社がある。久能街道はこの鳥居の前の自動車の抜けられない道らしい。
 ちょっと参拝してみます。謂われの看板が所々にあるので読む。

<楼門跡>徳川家康公奉納の物で、大東亜戦争の昭和20年(1945)6月の静岡空襲で焼失しました。家康公は慶長18年(1613)10月に本殿以外すべてを翌年の大坂の陣必勝祈願として改築維持したといわれます。富士宮浅間神社楼門随身と同じ 左 甲州住人河内下山 石川清助、 右 山城国上京住人 桜井三蔵と記載され、楼門の物と伝える狛犬が保管されています。江戸城、駿府城、東照宮など徳川家の重要建築物を建築した、初代京都大工頭 中井大和守正清を奉行として建築されました。紀州 徳川頼宣公家老で駿府代官 彦坂九兵衛(光正)も関わったといいます。
<社名碑>現在のものは、昭和58年(1983)に京都府の石清水八幡宮田中文清宮司謹書のもので、以前は木製のものでした。木製の寄進者は、阿部芳三責任役員他31名奉納でした。
<鳥居>八幡部農会により昭和49年(1974)に奉納されました。現在の、農業用水橋との中間にも昭和55年(1980)頃まで木製の鳥居がありました。
<江戸末期維持手水社>当社で最も古い建物で、14代将軍 徳川家茂(1846〜1866)、第121代 孝明天皇(1831〜1867)が亡くなった年である、慶応2年(1866〜7)に維持された手水社です。東西の瓦は材質が異なります。



images/0080-03yawatajinja2.JPG [八幡神社]
 八幡神社の本殿。謂われの看板を読みます。

<本殿>明治22年(1889)当社15代八幡清雄神主が改修した物です。この時代、静岡藩立学校を卒業し、御穂神社の長澤雄楯神主の協力で、安倍・有渡・庵原の20社程が改築された記録がありその一つと推測されます。由比の豊積神社・葵区田代諏訪神社もこの時期に改築されたと云われます。昭和時代中期に銅版泥棒事件がありましたが、住人により取り押さえられました。平成16年大和1丁目永井総代により本殿の扉が奉納されました。平成19年7月17日本殿北東の土砂が崩れました。過去にも確認されますが、直接本殿が傷ついた記録は、室町時代今川氏親が、流星が直撃して永正14年(1517)5月28日改修した以来のことでした。
<八幡山古墳>戦前まで18基あったといわれています。本殿内の物は、横穴式古墳で、この辺りを統治下豪族を埋葬したといわれます。有度部牛麻呂の墓といわれますが、詳細資料はありません。赤い曲玉など装飾品が発掘され、東京の博物館に運ばれました。
 浅間神社や久能山東照宮等の抜け道といわれますが、構造上そのようなことはありません。
<小堀和泉守政延手水鉢>1649〜1694。延宝2年(1675)当社の本殿西南にある手水鉢奉納した人物です。初めて臨時駿府加番任期終了とし、沓谷の愛宕神社にも灯篭を奉納しています。11才の頃、徳川家綱に拝謁した記録があります。近江小室藩3代目藩主で、作庭建築家、茶道遠州流で有名な小堀遠州の孫にあたり、遠州流茶道の継承者でもありました。朝鮮通信使饗応役を元和2年(1682)に務めました。この手水鉢は、小堀家の家紋を形にした物です。



images/0080-03yawatajinja3.JPG [八幡神社]
 相撲の土俵がある。高砂部屋が毎年やってきていた。
 今でも来ているのかな?

images/0080-03yawatajinja5.JPG [八幡神社]
 奥社は木造でした。
 神社は木造がありがたい気がする。

<御神木>御神木はイチョウの木です。この木は境内に10本あります。明治時代初期より御神木とされ、拝殿北東には、最古の物がありましたが、台風により倒壊してしまいました。それぞれ、奉納された物で、イチョウの実銀杏は、七五三などの授与品として古来より授与しています。古い本殿跡に植えられたものは杉本もと氏により奉納。女坂中腹にあるものは、八木延三郎氏奉納とされますが、年代が特定できません。拝殿横のものは阿部元責任役員により奉納されました。
<総代提灯>明治14年(1881)5月に奉納され、女坂下にあり、明治時代の神社総代により農業用水路(参道中間)辺りに建立した物で昭和時代に移設されました。義務教育後に村で行った八幡補修学校校長でもあった井上彦左衛門の他27名の名も刻まれています。明治時代の八幡村世帯数は、約90世帯でその中の名主家の人々と推測されます。
<拝殿>昭和35年(1960)に改築しました。昭和37年伊勢の神宮祭主北白川房子様の参拝や東関部屋の参拝がありました。平成19年大和1丁目田村総代により補修工事が行われました。
<神宮祭主お手植え松>昭和37年(1963)3月7日 伊勢の神宮祭主第122代明治天皇の第7皇女北白川房子様が、神社本庁統理、総長を伴い、御参拝されました。この際、男坂下、秋元灯篭の場所に松を植樹されました。残念ながら枯れてしまいましたが、色紙に八幡の歌などを奉納され当社では、現在も当時の際具を使用しています。



images/0080-03yawatajinja4.JPG [八幡神社]
 神社の裏手からの階段。急な階段で危険なのだろう、立ち入り禁止になっていた。

<男坂、女坂>鎌倉時代よりあるといわれます。男坂は、馬術奉納に使用したといわれます。この階段は、男115段、女130段です。男女の性格や生命の誕生、感じの書き順ともいわれ男坂は例祭のみ使用し、普段は立ち入り禁止です。



images/0080-03yawatajinja6.JPG [八幡神社]
 ゆるい階段は女坂。今はこちらから頂上に向かって登ることができる。

images/0080-03yawatamitumine.JPG [三峰神社]
 いくつかの神社が境内に点在している。

1.三峰神社 御祭神 イザナギノミコト、イザナミノミコト  旧八幡村大坪の氏神様といわれ、アマテラススメオオミカミ、ヒルゴノミコト、ツキヨミノミコト、スサノオノミコト、カグツチノミコト等の親神。 神代七代の神様。日本書紀などの神話に登場し初めての男女の神といわれます。生死、結婚等の神様です。文化9年(1812)5月創建といわれ、秋葉神社といわれていました。社前の灯籠は文化年間に創建されました。旧例祭10月17日  村の南方守護神とされ、例祭時に関係する神具があったといわれ、隣村(石田、中田)の境神と推測されます。 <八幡村灯籠> 三峯神社前にある壊れた灯篭です。文化9年建立、三峯神社に奉納された物といわれます。彫刻が施され、狛犬と朱雀と思われる彫り物が確認できます。



images/0080-03yawatatusima.JPG [津島神社]
 いくつかの神社が境内に点在している。

2.津島神社 祭神 スサノウノミコト 崇道尽敬皇帝(トネリシンゾウ)  夏越大祓い(わくぐりさん)、祇園祭、御霊祭の神様で厄除け、災難除け、祓い、学の神様として崇敬されます。旧八幡村字西高田より明治40年頃の一村一社制度により遷座。素戔鳴尊は本殿、境内社に祀るたタゴリヒメ、イチキシマヒメ、タギツヒメの親神様。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、三種の神器一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を手に入れ、姉のアマテラスオオミカミに献上した神様。怨霊鎮め・冥界の守護神とも崇敬され、御霊社祭神としても祀られ、多くの神話に登場します。  同社祭神 舎人親王(676〜735)は、第40代 天武天皇の皇子で、白峰神宮 祭神 第47代 淳仁天皇(淡路廃帝)の父でもあり、追尊され崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)とされました。日本書紀編纂に総裁として携わり藤原鎌足の孫 藤原4兄弟(静岡県に縁深い藤原一族の祖 南家 武智麻呂・北家 房前・式家 宇合・京家 麻呂)の政権協力なども行っています。子孫には、清少納言(966〜1025)がいます。清水区にも伝説で舎人親王の墓と呼ばれるところがあります。日本書紀は現在でも多くの歴史書などに登場します。  旧境内には、庚申さん、子安観音がありましたが、明治初期の廃仏毀釈で子安観音は、神竜院に、庚申さんは、その辺りにあります。また、伝説も多くあり、「子安地蔵と老婆」「井戸の神」「浅間神社神興渡御」「手水の童歌」などが残ります。手水はこの境内に移され、童謡は木の実をつぶしその色で占いをしました。  江戸時代の駿河新風土記にはこの社より5月5日浅間さんに向かったが、何らかの理由で近くの神社に合祀したとあります。  昭和時代初期の静岡浅間神社の本に、崇道尽敬天皇は、八千戈神社に合祀されていると記載があります。駿河志料には、端午の節句発祥神社で御霊信仰の藤森神社(平成18年全国八幡宮連合にて確認)と同じ御祭神、中座 スサノオノミコト、ワケイカヅチノミコト、日本武尊、応神天皇、神功皇后、武内宿祢、仁徳天皇、東座、舎人親王、天武天皇、西座 早良親王、伊豫親王、井上親王(いがみしんのう)と記され、同社の大将軍社の分社とも推測されました。



images/0080-03yawatajo1.JPG [八幡山城]
 神社のある八幡山は昔、山城があった時期がある。登ってみた。


images/0080-03yawatajo2.JPG images/0080-03yawatajo3.JPG [八幡山城]
 かなり広い天守台。立派な城だったのだろうか。

images/0080-03yawatajo4.JPG [八幡山城]
 城址の碑。

 応永18年(1411)頃、駿府に入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿府防衛の万全を期した。八幡山城もその一つである。  文明8年(1476)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。  八幡山城は、駿府城へ1.5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方安倍川を経て持舟(用宗)城まで5km、それらはすべて指呼の間に一望することができる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護にあたっていた。長享元年(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄12年(1569)武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後廃城となったと思われる。城址は、標高63.7m、南北500mの独立丘陵で、近年公園となり、大きく変貌したが、今なお曲輪や空掘などの遺構を見ることができる。



images/0080-03yawatajo5.JPG [八幡山城]
 天守台周辺は遊歩道として整備されている。


images/0080-03yawatajo6.JPG [八幡山城]
 「少年とチャボ」というブロンズ像がある。
 この広場からは市内が一望できる。
 遠くには富士山が見える。ここも富士のビューポイントだ。

images/0080-03yawatajo7.JPG [八幡山城]
 見晴らしは良く南アルプスも見える。


images/0080-03yawata70.JPG images/0080-03yawata71.JPG [旧の久能街道]
 八幡山の遊歩道は南側へ下る道もあって丸子池田線という都市計画道路に出るが元へ戻って鳥居前から南へ向かう。
 旧の久能街道は今は自動車が通れない。
 突当りになっているような所を通る。

images/0080-03yawata73.JPG [神龍院]
 自動車の通れない細い道を50m程で抜けると直ぐに寺がある。
 かなり立派な臨済宗妙心寺派「栽松山 神龍院」というお寺

images/0080-03yawata75.JPG images/0080-02yawata4.JPG [八幡4丁目]
 神龍院のすぐ先で丸子池田線という都市計画道路に出る。
 直進出来ないので、すぐ西の信号のある交差点を渡る。

images/0080-03yawata76.JPG [旧の久能街道]
 直進の道に戻る。
 この先で車道と合流する。

images/0080-03uto2.JPG [金剛寺]
 道が合流すると曹洞宗「向當山 金剛寺」という寺がある。
 この寺は山の際に立っている。金剛寺には貞永元年(1232)の銘の入った11面観音の鋳物像があるとのこと。
 この山は有東山。周囲300mに満たない独立丘陵。
 まるで大きな円墳のようだ。

images/0080-03uto4.JPG images/0080-03uto6.JPG [星光寺]
 金剛寺の先の路地を入ると「瑞紫山 聖光寺」という黄檗宗の寺がある。
 ここも有東山に張り付くように立っている。

images/0080-03uto7.JPG images/0080-03uto9.JPG [有東神社]
 星光寺と並んで神社が立っている。
 神社脇の階段を登るとすぐに頂上に出る。
 広場として整備されており児童公園となっている。
 ここも昔は城や古墳の最適地に見える。室町時代に今川氏の重臣福島氏の有東砦があったという話もあるが、いわれの書かれたものはなかった。

images/0080-04uto2.JPG images/0080-04uto2-2.JPG [有東2丁目]
 有東山から600mほど南下すると大きく曲って4車線の道路に出る信号のある交差点に出る。
 そして振り返った写真。
 向こうに八幡山が見える。

images/0080-04itisyo.JPG [静岡市立商業高校]
 久能街道はここで静岡市立商業高校へぶつかってどのあたりを通っていたのかわからなくなっている。
 たぶん学校内にルートがあったように思う。



images/7220toro3.JPG [登呂遺跡]
 静岡市立商業高校から南へ700m行くと登呂遺跡がある。
 昔は安倍川がこの辺りを流れていて川のほとりの湿地帯だったらしい。
 ある年の洪水で集落の上に土砂が被さって保存されたのが発掘された。

 登呂遺跡のページへ向かうにはこちらをクリック。


images/7210seribi.JPG [芹沢美術館]
 登呂遺跡に芹沢美術館が併設されている。

 芹沢美術館のページへ向かうにはこちらをクリック。


images/0080-05kunokaido1.JPG [富士見台2丁目]
 静岡市立商業高校を迂回し、久能街道の続きを探す。
 700mほど南東に向かい東名高速道路の手前に久能街道が復活する。


images/0080-05kunokaido2.JPG [富士見台2丁目]
 久能街道は東名をくぐる。




images/0080-05kunokaido3.JPG [高松]
 東名をくぐると急に田園地帯になる。
 農地改良で整備された地域だったので以前は見渡す限り田んぼだったが今は徐々に開発されている。
 

images/0080-05kunokaido4.JPG [高松]
 少し進んだ所から振り返る。
 緑地帯は東名高速道路。

images/0080-05kunokaido6.JPG [高松]
 田園地帯を過ぎて、住宅地に入る。

 古くは高松郷といわれ、江戸時代は高松村、宮竹村、敷地村で高松三か村と呼ばれた。
 広い低湿地に水田が広がっていた。




images/0080-11miyatake.JPG [宮竹神社]
 神社がある。
 宮竹の地名はこの神社が由来なのだろう。看板を読む。

所在地 静岡市高松字宮竹2053番地
祭神   志那都比古命しなつひこのみこと
     志那都比實命しなつひみのみこと
     菅原道真公すがわらみちざねこう
別殿  大名牟遅命おおなむちのみこと
     少名彦命すくなひこのみこと
     素戔鳴尊すさのおのみこと
     船玉神社ふなたまじんじゃ
境内社 稲荷神社(伏見稲荷)


看板は次のフレームへ続く。 

images/0080-12miyatake.JPG [宮竹神社]
 看板の続きを読む。

由緒  創建年月は不詳であるが宝永3年3月再建と記した棟札が現存する。棟札に「奉造営宝永三丙戌年駿河有渡郡宮竹風祭大明神宮 藁科八朗兵衛 天下太平 五穀成就 万民安楽 惣氏子老若男女安全守賜所」「奉勧請風祭大明神 級長津彦命 級長津姫命鎮座所 天保13年壬寅年九月十九日    祭主 龍爪山神主 瀧美濃守正行」とある。
変遷  昭和十一年十月六日 村社天満宮を合祀
    昭和二七年八月、宗教法人登記
    昭和三四年三月 風祭神社の社名を宮竹神社に変更
認証  静岡県神社庁認証 13級
 注  資料は昭和51年発行の静岡市神社名鑑による。



images/0080-05kunokaido7.JPG [高松]
 久能街道は交番の所を左折する。
 このあたりは久能街道の正確な位置はわからない。

images/0080-30oya1.JPG [大谷]
 久能街道の有った所まで戻って通りを探す。
 区画整理中なので周りは中途半端な街路になっている。
 数年後には変貌していることだろう。

 江戸時代は大谷村、片山村、宮川村で三村を成し、久能山東照宮の神領だった。
 古くから自然に恵まれた地域で古墳時代から栄えた。江戸時代までは大谷港があった。



images/0080-30oya4.JPG [大谷]
 旧道のなごり。
 ここもそのうち開発されてなくなってしまうのだろう。

images/0080-30oya5.JPG [大谷]
 今はまだ生活道路として利用されている。
 このまま久能方面に向かう前に大谷周辺を寄り道してみる。

images/0080-26yasaka.JPG [八坂神社]
 まずは50mほどで八坂神社がある。

祭神  須佐之男命(すさのおのみこと厄除けの神)
配祀  大国主命(大黒さま福の神、縁結びの神)   菅原道真(天神さま学問の神、書道の神)
例祭日 10月16日
<境内工作物>
石鳥居 明治29年建造昭和62年再建
石燈籠 元和3年(1617年)建造後再興再修
慶安元年(1648年)建造後再興再修
 手水舎 文化3年(1806年)建造
由緒  創立年月日不詳 寛文12年(1672年)再建
江戸時代まで午頭天王社といわれる
旧村社(明治8年より)
昭和27年宗教法人となる  静岡県神社等級規定11級社
<八坂神社「クスノキ」>
 目通り幹周囲 6.40メートル     樹高     30.00メートル
 樹齢     500余年
 静岡市巨木ランキング12番
 天然記念物指定に準ずる貴重なものです。御神木として保護育成にご協力ください。 環境庁調



images/0080-25oyafudo.JPG [大谷不動]
 八坂神社の手前を階段で登ると公園があり、大谷不動尊の倶利伽羅堂がある。

 不動明王の石像は、正しくは大聖不動明王と呼ばれる。石像の高さは1mに満たない。伝説によれば、戦国時代のはじめ、文明2年(1470)村内の金屋(きんや)さんとよばれる漁師の網にかかって海中から引き上げられたという。海から拾い上げられたということもあって、村人たちはいつしかお不動さんに豊漁の願かけをするようになり、大切に祀られるようになった。
 不動明王は五代明王の中心で、忿怒(ふんぬ)の形相をしているのが特徴である。不動明王に対する信仰は、密教がさかんになった平安時代の初期に始まるが、いかなる仏教宗派にも関係なく信仰できたことから、江戸時代には民衆の中に入り込んでいた。
 不動明王には眷属(けんぞく)として八大童子が付属している。このお堂の中にも今羯羅童子(こんげらどうじ)・制た迦童子(せいたかどうじ)など8体の8大童子が不動明王をお守りするように祀られている。
 不動明王はいつのころからか、大正寺が管理するようになり、「百年に一度」とも「50年に一度」ともいわれる御開帳も大正寺の住職によって執り行われている。祭礼は毎年8月27日・28日の両日で、御開帳は昭和62年8月に行われたのが一番新しいところである。
 不動堂は何度か焼けており、延宝3年(1675)に焼失したとの伝承もある。明治のころ、平沢の観音さんから建物を譲り受け、それをお堂としていたが、それも老朽化したため、昭和59年2月に取り壊し、同年8月、新しいお堂を建立して現在に至っている。
 平成3年1月吉日   東大谷町内会



images/0080-25daisyoji1.JPG [大正寺]
 大谷不動尊のある公園の北側は住宅街となっていて、坂を下って大谷街道に出る手前に曹洞宗「瑞現山 大正寺」の山門がある。



images/0080-25daisyo5.JPG [大正寺]
 山門から200mほど入るとお堂がある。看板を読みます。
<鎮守堂「諏訪大明神」のゆらいについて>
 =沼の婆さんと大正寺=
 1,335(建武2年)後醍醐天皇のとき、足利直義と新田義貞が安倍川で戦って(=手越河原の合戦)いた頃、麻機村にそれはそれは恐ろしい大きな沼(=浅畑沼)がありました。得体の知れない怪物が住んでいて、風もないのに突然波を起こして船を沈めたり、雨が降らないのに急に水を溢れさせ、周辺の作物を水浸しにしたりして、まったく困った沼でした。それどころか、夏になると毎年若い娘が沼にさらわれたり、怪物を見かけた者がいるとか、根も葉もない風説に大変怖れられていたそうです。
 新田義貞の弟、脇屋義助が駿河国の守護として在国中、瀬名村の娘「小菊」と結ばれ「小葭」という女の子が生まれましたが、小菊は産後の肥立ちが悪くこの世を去ってしまいました。それからは、小菊の母である「秋野」がを大切に育てておりましたが心労から秋野が病の床に伏せてしまいました。秋野の回復を願って小葭は浅間神社に百日願いをかけるために、浅畑沼を船で渡っているとき、河童に引きずり込まれて水底に姿を消してしまったのです。
 病の床に伏していた祖母秋野は、かわいい小葭を沼の底に引きずり込んだ憎き河童を退治しようとその浅畑沼に身を投じて「龍」となってしまったのです。
 龍に化身してしまった秋野(=沼のばあさん)の霊をはじめ小葭の霊をなぐさめるために、明応4年(1494)に血脈を授けられ、懇ろにお祀りしたのがこの大正寺(=大祥寺)を開かれた行之正順禅師が信濃国諏訪城主桜井信濃守の子供であったことから寄進建立されたのでです。
 それ故に、沼の婆さんがお祀りされているこの鎮守堂の名前も「諏訪大明神」と名づけられているのです。行之正順禅師から血脈をいただいたとき沼の婆さんが残し去ったといわれている龍身のウロコが大正寺の「寺宝」として今でも大切に保存されております。
 浅畑沼や巴川の氾濫に救いの手「=大谷川放水路」をさしのべてくれました大谷住民の心は、行之正順禅師と沼の婆さんの因果応報のあらわれではないでしょうか。昔から大谷村を守ってくれております沼の婆さん「清龍院法運智泉神女」鎮守堂を大切にいたしましょう。
                           「大谷の里」より



images/0080-25daisyoji7.JPG [大正寺・忠魂碑]
 諏訪大明神と姿みの井戸の間にある石碑。

images/0080-25daisyoji8.JPG [大正寺・姿みの井戸]
 今川義元が、小田信長との戦いで桶狭間の露と消えたあと、駿河国(駿府)は今川氏真によって護られておりました。
 しかし、突然、永禄11年(1568)12月13日の明け方に、三国同盟(今川・武田・北条)の約束を一方的に破り、武田信玄の軍勢が駿河国(駿府)に攻めてきたのです。その軍勢の兵火によって駿府の居城をはじめ浅間神社・臨済寺は焼失してしまいました。
 武田軍乱入の中で、武将「朝比奈弥太郎泰能」は勇敢にも孤軍奮闘をいたし、主君今川氏真公を掛川城に逃れさせ、又、城に居た、か弱き婦女子たちをも、高松海岸から船で脱出させるよう手筈をととのえた上で、これらを守りながらしんがりの任を勤め果たし、一人、ここ駿河国小本山の大正寺(当時大祥寺)に辿り着いたのです。
 しかしその時は、もう全身傷だらけの虫の息であり、この大祥寺の清く澄んだ井戸水で傷ついた身を清め、己の姿をうつし見ながら末期の水を飲みほし、主君の無事安泰を祈り、自害したそうです。以来この井戸を「姿みの井戸」と呼ぶようになりました。
 主君今川氏真公に命を投げ打って仕えた「朝比奈弥太郎泰能」のお墓は、懇ろに大正寺歴代和尚の横に祀られております。
※また、朝比奈弥太郎泰能が最後まで手から離さなかった槍は、遺品として大正寺に大切に保存されております。
※焼け落ちる城から朝比奈弥太郎泰能の手で抜け出すことが出来た婦女子たちは、高松海岸からの船に乗ることもできず、哀れにも入江の淵から身を投げてしまいました。
 この淵こそ今の世でも高松の「上臈ケ淵(じょうろうふち)」と呼ばれている所以です。
※戦国の世の忠君として名を残した朝比奈弥太郎泰能の「姿みの井戸」の隣に、大正寺第31世隆之和尚の計らいで日清・日露・太平洋戦争に尊い命を捧げられた大谷出身者の英霊の「忠魂碑」が移し祀られることになったのも、ご先祖さまの因果応報の顕れですね。
   「大谷の里」より

 

images/0080-25daisyoji2.JPG [大正寺]
 鎮守堂の向いに大正寺の門がある。
 瑞現山大正寺。500年以上前の応仁、文明の頃に今川氏の臣で桜井信濃守の子である行之正順和尚が大正寺を創建した。
 

images/0080-25daisyod.JPG [大正寺]
 大晦日には除夜の鐘が響き渡る。
 

images/0080-20katayama5.JPG [片山廃寺]
 大正寺から大谷街道を1km弱ほど北へ向かうと片山廃寺がある。説明書きがある。

国指定史跡 片山廃寺跡
 片山廃寺跡は、奈良時代後半(8世紀後半)に建てられ、平安時代前半(10世紀前半)まで存続したと考えられる古代の寺院跡です。JR静岡駅から南東3.5qの有渡山西麓に位置し、寺院の敷地は、約160m四方の広大な面積であったと推測されています。
 この寺院を駿河国の国分僧寺とする説もありますが、塔の跡が発見されていないことから、有渡郡の有力豪族の氏寺であるとする説もあります。
<遺跡の発見>
 片山廃寺跡は、古くは江戸時代の地誌である「駿河国新風土記」に「久能寺の坊中にて昔一千坊の廃跡なるべし」と記され、久能寺に結び付けて紹介されていました。1930年(昭和5年)に大谷街道が造られたとき、畑の中から「多くの瓦と整然たる礎石列」が発見され、旧制静岡中学校の大澤和夫教諭と郷土研究部員らによって、奈良時代の古代寺院跡として初めて確認されました。そして、建てられた場所の地名(小字名)から「片山廃寺」と名付けられることになりました。
<発掘調査>
片山廃寺を解明するための本格的な発掘調査は戦後になって始められることになりました。最初の調査は、1948年(昭和23年)に登呂遺跡周辺調査の一環として日本考古学協会によって行われました。ついで、1956年(昭和31年)に第2次発掘調査が、1966年(昭和41年)には東名高速道路の建設工事に伴って第3・4次の発掘調査が静岡市教育委員会によって行われました。調査の結果、金堂、講堂、僧房の基壇(地面から盛り上げた建物の土台)の一部と礎石(建物の土台の上に置き、柱の基礎にした石)の配列が確認され、寺院中心部分の伽藍(寺院の建物)の様子がわかってきました。
1992年(平成4年)から1995年(平成7年)に行った寺院の範囲を確認する調査では、境内西側の境界と考えられる直径25〜40cmの柱の列の跡が発見され、木の柱を支柱にした板塀が寺院の境内をめぐっていたことが判ってきました。
また、第4次調査および1996年(平成8年)の第34次調査では、火災によって金堂・講堂・僧房が焼失し、その後復旧されなかったことも判明しました。
所在地 寺院跡:静岡市大谷字片山.上亀井 瓦窯跡:静岡市大谷宮川
指定年月日 昭和40年9月7日(追加指定 昭和49年5月13日)
<史跡指定>
 片山廃寺跡は、仏教文化が政治の中心である大和から全国に伝わっていく様子を知るうえでも、また、駿河国のの当時の様子を知るうえでも貴重な古代寺院の遺跡であることが認められ、1965年(昭和40年)に国の史跡に指定されました。
 また、片山廃寺跡の南方約500mの山裾には、片山廃寺で使用する屋根瓦を焼いた、宮川瓦窯跡群があります。1971年(昭和46年)に行った清泉寺窪地区の発掘調査で登窯2基と平窯1基が確認され、1974年(昭和46年)に「片山廃寺跡瓦窯跡」として、国史跡の追加指定を受けました。



images/0080-20katayama6.JPG [片山廃寺]
 寺の後が発掘保存されている。

<<史跡の内容>>
<伽藍配置>
伽藍(寺院の建物)はいずれも南向きで、境内のほぼ中央に南側から金堂、講堂、僧房の順で配置されています。
<金堂跡>(寺院の中心的な建物で、本尊を安置する建物)
建物:間口7間・30.9m、奥行4間・17m
基壇:間口37m、奥行23m
<講堂跡>(法要や教典の講義を行う建物)
建物:間口7間・25.5m、奥行4間・15.8m
基壇:間口30.3m、奥行20.6m
須弥壇(仏像を安置する台):間口10.9m、奥行4.2m
<僧房跡>(僧路の住居となった建物)
建物:間口23間・68.2m(推定)、奥行3間・9.1m
基壇:間口70.3 m(推定)m、奥行10.9m
<出土遺物>
瓦類:軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦
土器類:須恵器、土師器、灰釉陶器
鉄製品:コテ、釘
石製品:大理石製の磚(建物の床や壁などに使用された煉瓦状の建築材)

 

images/0080-22hakusan.JPG [白山神社]
 片山廃寺の裏手に白山神社が建っている。

鎮座地 静岡市大谷896番地
御祭神 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
配祀  大山祗命(おおやまつみのみこと)
由来
創建の年月日は詳らかでない。延宝6年(1676年)の棟札には、白山妙理大権現の神名がみえ、もと白山権現といい、浄光院という寺の鎮守であったといわれてきた。神社の近くの沢を権現沢といい、上流には権現谷の地名も残っている。
大正9年に本殿造営、昭和61年に昭和天皇御在位60年奉祝記念事業として、鳥居・玉垣を建造奉納した。神社等級規定13級社である。



images/0080-23sizudai.JPG [静岡大学]
 久能街道へ戻る途中の坂を登った所に静岡大学がある。
 有度山の斜面に大学がある。

images/0080-23sizudai2.JPG [静岡大学]
 静岡大学前の通り。
 この通りには古墳群があるので、昔を思い偲んでみる。

images/0080-23miyagawa7.JPG [宮川7号墳]
 このあたりの右側に宮川7号墳があったらしい。
 住宅の間の空き地がそうなのだろうか?
 その少し先にも6号墳があるらしい。やはり空き地があるが・・・

images/0080-23suwakofun.JPG [諏訪神社古墳]
 静岡大学の通りが大きく曲ったところの山側に諏訪神社古墳がある。
 鳥居の前に看板が立っているので読んでみる。
 古墳と神社はセットになっている所が多く思う。

 静岡市指定史跡 諏訪神社古墳(宮川古墳群4号墳)
 指定年月日:平成9年4月23日 所在地: 静岡市大谷4475−1外
 有度山西側山麓は、なだらかな傾斜が続きその裾部分は大小の谷によりいくつもの小丘陵に分割されています。それぞれの丘陵上から南向き斜面にかけては数多くの古墳が築かれています。
 宮川地区の丘陵上には「宮川古墳群」が形成されています。この中で、既に発掘調査が実施された「丸山古墳(宮川1号墳・方墳・7世紀)」は横穴式石室内に大型の家型石棺や豪華な副葬品が納められており、また、アサオサン古墳(宮川7号墳・方墳・7世紀)は長大な横穴式石室をもつ、などの詳細が確認され、いずれも有力な人物の墓であると推定されています。
 諏訪神社古墳は、発掘調査未実施のため、構造や築かれた時期などの詳細は不明ですが、直径30m、高さ約5mの大規模な円墳で、宮川古墳群の中でも古い時期(5世紀〜6世紀前半か)の有力者の墓であると考えられています。
 元のかたちを良好に残す数少ない古墳のひとつであり、重要な文化財として保存されています。



images/0080-23suwajinja.JPG images/0080-23suwakofun2.JPG [諏訪神社]
 諏訪神社古墳の頂上に神社がある。

 鎮座地 静岡市大谷4475番地
御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)
例祭日 十月十六日
  由緒
 創建の年代は詳らかでないが、故老の言い伝えによれば、信州の行之和尚が大正寺の開基となったとき、(応仁の乱の頃)信州より随行してきた桜井庄太夫が、諏訪大明神を勧請したのが初めであったという。
 元の社地は字宮川にあったが低地のため貞享4年(1687)再建、明治8年2月村社に列し、昭和27年宗教法人となる。神社等級規定13級社である。



images/0080-23miyagawa5.JPG [宮川5号墳]
 諏訪神社から宮川5号墳と思われる空き地を見下ろす。


images/0080-23miyagawa1.JPG [宮川1号墳]
 諏訪神社古墳の前に1号墳があった場所。
 たぶん祠がある場所が跡なのだろう。

images/0080-30oya6.JPG [大谷]
 大谷の区画整理の整備中の久能街道まで戻り、久能へ向かう。
 

images/0080-35oya.JPG [大谷]
 このあたりが東の大谷区画整理のはずれになる。


images/0080-35nisihira.JPG [西平松]
 西平松に入ると旧道の様相を呈してくる。

 古く平松村が別れて西平松、中平松、青沢の3か村となった。
 平松村は塩づくりで栄えた村だった。



images/0080-36taisen.JPG [怡泉寺]
 有度山は海に削られ切り立った形になっていて海岸側からは山へ向かうルートはほとんど無い。
 山から海岸までは300メートルほどしか無い地形が続く。
 街道から山側に入った突当りに寺や神社が点在している。
 西平松に入ってから約1kmほどの曹洞宗の寺が「龍門山 怡泉寺」だ。  

images/0080-37hagoromo1.JPG [羽衣神社]
 怡泉寺から100mの苺温室の路地の突当りに天の羽衣神社がある。
 羽衣伝説を祀った神社だ。

 三保の松原へ向かうページへはこちらをクリック。


images/0080-37hagoromo3.JPG [羽衣神社]
 由緒の看板が立っているので読む。

 祭神名   天女の霊
配祀神   応神天皇 須佐之男命 火産霊神
社伝によると昔、中平松に住む長右エ門という者が清水で塩を商いその帰りに駒越の浜に於いて松の木に羽衣がかかっているのを見つけ家にもちかえった。天女は羽衣を取り戻すためにその夜長右エ門の許に来て仕えることを頼んだ。長右エ門は女が天女であることを知らず家に住まわせる事3年あまり。
ある朝、前の浜に材木が打ち上げられたので長右エ門はじめ村人全員が浜に拾いに出ている隙を伺い天女は羽衣を手に入れ去ろうとした。しかし長く下界に暮らし身が汚れていたので飛翔の術が力尽きてしまい氏神である八幡宮でお祓い(お清め)をして霊力を復活させようとしているとき長右エ門が帰って来た。天女は事情を語り誓って言った。「私を氏神に祀って下されば永く当村の守護神になろう」と言って天に昇っていったのである。長右エ門は村人と図り天女を氏神として祀り中平松天人社と称した。
明治8年2月村社に列格 その后名称を天羽衣神社に改称した。
静岡県神社庁神社等級規定12級社



images/0080-40aosawa.JPG [青沢]
 苺の温室が並ぶ街道を進むと青沢という地名になる。
 

images/0080-40furuyado.JPG [久能山全景]
 青沢は400mほどで通り過ぎ、古宿という地名に変わる。
 このあたりになると久能山の全景を目にすることができる。

images/0080-42keizenji.JPG images/0080-42keizenji2.JPG [継全寺]
 古宿公民館の前の街道から継全寺へ参道がのびる。


images/0080-44sekizoin9.JPG [石蔵院]
 継全寺から1km行った所に曹洞宗「安居山 石蔵院」がある。街道に面して石碑が立っていて謂れが書かれている。

 元和2年(1616)4月17日、将軍職を秀忠に譲った後も、大御所として君臨していた徳川家康が、75年の波乱に富んだ生涯を駿府城で終え、遺言により、その亡きがらが久能山に葬られることになった。4月19日、葬儀の行列が、この石蔵院の前を通り過ぎた後、一人の武士が割腹して果てた。この武士が井出八郎右エ門である。
 井出八郎右エ門は、家康の厩の舎人(乗馬の口取りなどを勤めた役人)であったが、永年の知遇に報いるため、この石蔵院の門前で、家康葬儀を目のあたりに見て割腹殉死したのである。舎人という身分の低い武士ではあったが、家康から受けた永年の恩顧を忘れなかった井出八郎右エ門の忠誠心は、後の世までも人々の語り草となっている。
 久能街道に面した石蔵院所有地の一角には、井出八郎右エ門の墓(右)や地蔵堂(中央)と並んで、彼の忠誠心に心を打たれた多くの人々の手によって、昭和の初期、顕彰碑(左)が建てられたのである。

 

images/0080-44sekizoin3.JPG [石蔵院]
 庭に大きなイチョウがある。

 静岡県指定天然記念物
昭和29年1月30日指定
目通  4.7m  樹高  30m  根廻  6m
枝張  南北22m  東西21m
慶長年間(1596〜1615)に石蔵院の開山良尊禅師の手植と伝えられている。
このイチョウは、雌木で葉の上に結実する現象が見られる。このようなお葉付イチョウは全国にも極めて少なく、植物形態学上の資料として貴重なものである。
昭和59年5月31日



images/0080-44sekizoin4.JPG [石蔵院]
 落ち着いた寺。


images/0080-46ago4.JPG [安居神社]
 街道に面して安居大明神の鳥居があった。


images/0080-46ago2.JPG [安居神社]
 このあたりの地名「安居」の名が付いた神社が木々に埋もれて鎮座している。

鎮座地  静岡市安居288番地
御祭神  武内宿祢命  武烈天皇
配祀神  国常立命   猿田彦命
例祭日  10月18日
境内地  1306.8u
由緒   創立年月日不詳 文化元年(1875年)再建の棟札がある。
明治8年2月村社に列格。
旧来安居神社と称したが、後に白髭神社と改称し、昭和19年3月25日尾勢神社を合祀して、再び安居神社に改めた。
御神穂  延命・開運・開拓・道しるべの神様として霊験あらたかである。
名実共に庶民信仰篤く、安居神社の存在意義は遠々神代に及び今日に至る



images/0080-48hotai1.JPG [宝台院]
 常磐2丁目にある徳川家ゆかりの「金米山 宝台院」の別院。立派に整備されている。

 照久寺は、久能山城の城将榊原照久の菩提寺である。
 天正10年(1582)、武田勢の守る久能山城を攻め落とした徳川家康は、その天険を重要視して、榊原照久を城将としたのである。
 元和2年(1616)4月17日、家康は、その破らんに富んだ75年の生涯を終え、遺言によって久能山に葬られることになった。
 2代将軍秀忠は、直ちに社殿造営に着手、翌元和3年12月に完成し、榊原照久を初代神主とした。
 家康は生前、照久に「久能山は駿府城の本丸だ」と語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説いた。
 照久もまた、その任務の重大さを認識し、家康の死後、身をもって久能山東照宮の警固にあたった。そして自分が死んだら、墓塔を久能山の方向に向けて建てるように」と遺言したといわれる。境内の一番奥の高台には、榊原照久の墓塔が遺言どおり久能山東照宮に向けて建っている。  照久以後の江戸時代、榊原家は、歴代の当主が久能山門番として、その任務を全うした。
 昭和60年に宝台院との合併が成立し、境内地を拡張し、宝台院より墓地移転整備をし、昭和61年11月に本堂落成式を挙行し、宝台院別院となりました。



images/0080-48hotai3.JPG [宝台院]
 常磐2丁目から墓地を改葬されてきている。

<当院に現存する墓>
 榊原家歴代の墓
 照久寺歴代の墓
 宝台院歴代上人の墓
 俳人かしく坊の墓
 戊辰戦争戦没者の墓
 瀧家の墓
 寿徳院歴代上人の墓



images/0080-50kuno1.JPG [久能山下]

 久能山東照宮の参道前を通り過ぎた所から久能街道を振り返る。門前のあたりは「根古屋」という町名。

 山城の麓に建てられた付属の建物を「根小屋」と呼ばれることから因んだと思われる。



images/0080-60kuno1.JPG [久能山下]
 久能山東照宮の参道には土産物屋が並んでいる。
 ここから先は別のページを作っている。

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 久能山東照宮(久能城址)へ向かうページへはこちらをクリック。



−コメント−

久能街道だけで約9kmの行程。
途中で片山廃寺周辺への寄り道(約3km)。
マッケンジー邸への寄り道(約1km)。
全部回ると1日がかりの街道めぐりになる。
東照宮までめぐるとゆっくりしている間は無い。